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いつも思うことだけど、ボイド中ってそれまでの心積もりや計画を変えたりしないほうがいいっていうし、新しいことも思いついても的外れっていうし、やったことが無駄になったり、調べたり聞いたりしても意味を取り違えて理解したり、と、とにかくろくなことにならなさそうなことが言われているので、まるでおみくじの凶が出た日みたいに警戒心と虚無感でいっぱいになってしまう。ヤル気の無さが、さらに倍、みたいな。でも、だったら、普段は使ってばかりいる頭を休めて、何かいい過ごし方のアイディアがあるんじゃないかと思って、ちょっと考えてみた。こんなことを考えること自体が無駄になるのだろうけど・・・意外といいのは、こういう感じで、意味のない自己分析とかをすることだ。計画とか、夢の実現方法とかはNG。具体的なことはいまひとつで、抽象的なほうがいい。また、日記書くのは害がないからいいけど、手紙書くのは、相手がいるのでNG。それから、紅茶を飲んでリラックス~とか、お風呂に入ってのんびり体磨きとか、頭の中空っぽにして洗濯物をたたむとかはいい感じ。でも、よし今日からお風呂ダイエット開始!とか、洗濯ついでに要らない衣服を処分してゴミ袋に・・・とかは、判断や計画、目的が入るから、向いていないかも。多分普通に毎日やってるお風呂ダイエットを今日もするっていうなら、それを「やっぱ休もう」って変更することは、しないほうが吉かもしれないけれど。でもたまに思うのは、ボイドがサインの中で次のコンタクトの予定があるかないかというよりも、次のコンタクトがまだ全然遠いと、ボイドみたいなことが起きてる気がする。なんというか、月ってホント、「アナタあっての私」みたいなところがあるから、自分ひとりじゃダメなのね。(まぁ衛星だし)しかし考えてみると、月が依存しているのは我らが地球であって、よその衛星たちではないのでは?とも思ったりする。まぁ太陽だけは、依存している地球が依存している先だから、影響はいっしょに受けるとしても。そもそも月が形を変えるから心が変わりやすいとか移ろいやすい言うのも、男性的というか、陽尊陰卑って感じよね。だって、月はいつだってこっちを向いているじゃない!同じ顔で。いつもおなじ面を見せて、変わらぬ顔をしているじゃない。目もそむけずに、ずぅっとわたしたち地球を見つめているのに。それが、変化して見えるのは、月のせいではなくて太陽の光のせいで、どうして太陽の光が当たる角度が変わってしまうのかって言うと、それは何を隠そう、地球が動いていくからそれについて一生懸命に付いてきてくれているせいなのにね。地球の周りを回っても、いっつも地球から同じ顔を見せるようにしているその姿は、お化粧を絶やさない、大人の女のよう。怒りや悲しみを心に秘めて、笑顔を絶やさない、そんな女性を見るようです。そして、ダンナや子供たちや町内・グループから頼まれたり乞われたりしたスケジュールに急にぽっかり空白ができると、あれだけ欲しかった自分の時間なのに、とっさに何をしていいかわからなくて、結構無意味なこととかして終わってしまう・・・そんなかわいい時間がボイドタイムなのかと思えば、まぁ多少のトラブルがあっても許すとするか。私はもうちょっと、月と仲良くしないとなぁと思う。大人の女性になるためにも、母になるためにも。
2006.01.24
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雑巾を除湿兼ねて乾かそうと思い、ストーブの前の洗濯物ハンガーに。かけるときは無心。でも気づくと、まだシルクのタンクトップと木綿のブラウスがかかっている。乾いてる。ウゲッ、くっついたらどうしよう・・・そう思った時、はたと間違いに気づいた。汚い?汚らわしい?世の中にそんなものってあるのかしら?元はと言えば、綺麗にするために拭く布が雑巾。だから、なくちゃ困る。大切な存在。必要なもの。なのに、その言い方、その感じ方ってある?汚い、と思ったのは、くっつくことで、「それ」が、その「水」が、その「乾いていく時に出る蒸気」が、乾いて綺麗になった服に「付くのが」汚いと思ったので、本当は、雑巾でも布巾でもないのかもしれない・・・自分が、それとこれは違う、全然違う、別にしたい、触れさせたくない、というグループがあるのだ。それが相性というものなのかどうかは判らない。しかし、とにかく、そういう「グループ」が、他のものに接触されたり、混ぜこぜにされたりしないでいれば、それらの状態はそれでいい。そしてさらに、それが形整えられたり、色分け、素材わけされたり、綺麗に並べられたりして行けばもっと美しい。本当はこの世に汚いものなんてない・・・だけど、汚いと感じるのは、それが、「そこにあるべきものじゃない」からだ。「これと一緒にあるべきではない」「この場所と雰囲気にそぐわない」とき、つまり居場所・置き場所・並び順・といったもので、自分がその時により重きを置きたい方に対し、そうでないほうが「汚い」ということになる。今、かかっている雑巾は可愛い。だけれども、となりに顔を洗ったフェイスタオルがかかっているのを見ると、何かがうごめく。「うっ・・・ちょっと・な・・・」人は感性の動物だ。知らぬが仏、よその人が、その布の利用目的を知らなければ、どの布も一緒、善意でいっしょくたに取り込み畳み重ねるかもしれない。知っているのは自分だけ・・・汚いと吐き気を催すのも自分だけ・・・ならばそれらは本当に汚いのか?否。それが目で見て、触って、あるいは匂いで、汚いと感じない限りは、汚くはないのだ。雑巾が汚いのも、本来一様に白であって欲しい布地の繊維に灰茶色の何かが付いているから。それが綺麗な赤や青でも、望まぬものなら「汚れた」「汚い」。だけど、それが狙って染められたマーブルであれば、「素敵」「美しい」「お洒落」。シワでさえも今はウォッシャブル加工などと言って「いい感じ」「カワイイ」と言われている。和服の絞りみたいなものだ。結局、そうあってほしい一様さの中に、たとえ単独で貴重であったり美しいものであっても、そこにあってほしくない場所や状況に紛れ込んでしまったものは【汚い】のであり「汚らわしい」から「出て行って!」ほしいと思い、「ああ汚かった。」「清められて良かった」「浄化された」と思われる・・・ちょっと民族の特徴などを思い出す。純潔の美しさ、賭け合わせの美しさ、調和さえ取れていれば、それがいいとされるのに、狙っていないのにちょっとだけのズレがあることは不調和とされて忌み嫌われる。出るくいは打たれ、出すぎた杭は打たれない。
2006.01.24
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年末からお正月にかけて留守にしていたら、シクラメンがすっかりダレてしまった・・・ 水不足?
2006.01.10
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