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閏四月二十一日、奥羽十五藩の家老が白石に会合して奥羽列藩同盟が成立した。その盟約書は次の通りであったが、五月になって成文化した。
今度奥羽列藩会議於仙台告鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室
下撫恤人民維持皇国而安宸禁仍条例如左
一、以仲大義于天下為目的不可拘泥小節細行事
一、如同舟渉海可以信居以義動事
一、若有不虞急要之事此隣各藩速援急可報告総督府事
一、勿負強凌弱勿計私営利勿泄機事離間同盟
一、築造城堡運搬糧食雖不得止勿謾令百姓労役不勝愁苦
一、大事件列藩集議可帰公平之旨微細則可随其宣事
一、通謀他国或出兵隣境可報同盟
一、勿殺戮無辜勿掠奪金穀凡事不義者可加厳刑事
一、右之條々於有違背者則列藩集議可加厳刑事
慶応四年五月
この内容には朝廷に敵対する文言の一字もなく、実に穏当なものであったから、三春藩は朝廷に奏上した勤皇の所信を同盟に声高に主張せぬままこれに加わることに、特に異を感じないでいた。しかし会津藩救解嘆願のため、そして戦争を避けるために結成された筈の奥羽列藩同盟が、この会合を機に変質をはじめていた。間もなくそのことに三春藩は気付いたが、調印後であっては遅すぎた。しかしもし分かっていたとしても、反対を表明すれば奥羽内での孤立を招き、周辺の同盟側各藩から攻撃されることが心配された。そのためこの同盟に参加したのは三春藩の本意からではないという事実を朝廷に報告するため、使者を派遺することにした。その任には、藩校・明徳堂の学長山地純之祐及び長沼流教授の熊田嘉膳の二人が充てられた。
閏四月二十五日、奥羽での最初の戦いが白坂(いまの福島・栃木県境)ではじまり、会津勢が勝った。そしてそのような情勢の五月一日、新政府から三春藩の京都留守居役に『徴兵可能の人数を京都守護屋敷に出願し、七月中には新政府軍に人数を差し出すように』との指示があった。しかしながら三春藩は、変質したとはいえ列藩同盟に加わっている関係上、この指示に従うことが出来ないという難しい立場に追い込まれていくことになる。
この日同盟軍は、攻めて来た新政府軍に白河城攻防戦で敗れた。このため同盟軍は、三春藩に対して棚倉防衛のための出兵を命じた。この時に追加派兵を要請された仙台藩がこれを拒否した。そして三春藩もまた、ようやくの思いで棚倉出兵を断った。
五月三日、秋田、秋田新田、弘前、黒石、本庄、矢島、亀田、新庄、天童などが同盟を離脱した。もともと一枚岩ではなかった同盟内部の亀裂が、大きくなっていた。遂に六日に新たに越後の六藩が加盟、奥羽越列藩同盟が成立した。三春藩は朝廷に奏上していた自らの所信が足枷になり、同盟とはいよいよ微妙な関係を執らざるを得なくなっていた。
このようなとき横浜に商用で行っていた三春の絹商人の中野屋巳之吉が『三春藩は敵方である』との理由で新政府軍に捕らえられ、持っていた資金その他の全部を取り上げられ身柄を拘束される事件が発生した。三春藩江戸家老である小野寺市大夫は多くの藩士が引き上げて手薄の中、これの釈放の依願にも走り回っていた。
五月三十日、京都への使者の熊田嘉膳らと秋田廣記は参議穴戸五位に面接して具申し、副総裁岩倉具視に会見して藩の本旨を明らかにした。岩倉具視が三春のような小藩と会見に応じたのは、会津藩の近くに、是非とも勤王藩を確保しておきたかったからだと考えられている。それもあってか、岩倉具視は三春藩の苦衷を了解し、勤皇の大義を固守するのを歎賞したのである。
六月三日、三春藩は次の『叡感勅書』を賜った。
秋田万之助
奥羽諸藩順逆を不弁、賊徒へ相通じ、官軍に抗衡候者も不少趣に
候処、其方小藩を以て敵中に孤立、大義を重じ、方向を定、従来
勤王之志、君臣一意徹底致し居候段、神妙の至に候、百折不撓大
節を全可致候。不日官軍諸道より進撃救援可有之に付、此旨相心
得可申候條、御沙汰候事。
六月
ところが六月十二日、三春藩が同盟軍の要求でやむなく白河方面に出兵したことが知られ、新政府軍に反旗を翻したと疑われて在京の秋田廣記らは御所の非蔵人口へ呼び出され、禁足の沙汰を下されてしまった。
六月十六日、江戸留守居役の吉見連蔵は江戸からの最後の引き揚げ者とともに新政府軍軍艦に便乗して平潟(茨城県北茨城市)に上陸、三春へ戻った。これにより三春藩江戸屋敷には、市大夫を含めて少数の留守居役のみが残されることになった。
三春藩では朝廷より相次いで来る『叡感勅書』や『禁足の沙汰』に混乱していた。舎人には、もはや虎雄の問題に係わりあっている余裕は全くなくなっていた。
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50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。