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2024.05.25
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カテゴリ: カテゴリ未分類

白山城へは、武田八幡宮を目指せばよい。甲州から信州に向かう道は釜無川沿いにある。韮崎市の武田橋を渡たり、西南方向にある 山を進むと山麓に武田八幡宮につく。武田八幡宮は源氏武田氏のゆかりの神社で、佐伯泰英の小説にも出てくる。その神社の脇の 野原から山道にはいる。訪問した時は、とにかく山の頂上近くにあるはずと谷道をまっすぐにどんどん登っていくと、道がなくなり 斜面を這い上っていったが、城跡らしい地形がないので、引き返した。すると、通ってきた道の脇に小さな標識を見つけた。山道
を途中で分かれて、尾根に登っていったところに空堀、郭跡などの城の遺構が林の中にあった。
<地図>
白山城という名前は、実は中世はおろか近世の古文書のなかにも登場しない。この名前が一般的になったのは昭和53年(1978)に 「韮崎市誌」が刊行されてからでらる。それまでは、鍋山の砦、為朝の城跡、城山、菱岩城と呼ばれていた。「寛永諸家系図伝」など では武川衆の青木信種が守備した「鍋山の砦」と伝えられ、「裏見寒話」では源為朝の伝承とともに「為朝の城跡」と紹介され、 「甲斐国志」では武田信義の要害として「城山ハ八幡ノ南ナル山ヲ云要害城ト見タリ」と記されている。近年では地名などの検討から 武川衆の山寺氏が管理した可能性も指摘されている。検討された各時期により城主をはじめとする城郭の位置付けが異なることも 白山城の特徴の一つである。 
<遺構>
当城は小規模ながらメリハリのある縄張りをもつ白山城を中心にして、ムク台と北烽火台という南北二つの烽火台とセットで 構成されている。本城は、地元で鍋山や城山と呼ばれる標高570m余りの山頂に20x30m程の方形の主郭がありその周りにL字形に 腰郭がつくられている。この腰郭の一段下にも腰郭がめぐり、放射状竪掘が施されている。主郭の北には土橋でつながる馬出郭 があり、掘り込み式枡形虎口を設けている。主郭の南側には不整形の郭が二段あり、西につづく尾根との境には20mの幅を持つ 堀切があり、さらにつづく尾根上に幅8mの堀切を設けて、背後からの侵入路を断ち切っている。本城の主郭への登城口としては、 白山神社の社殿の隣から主郭の南側の郭に向かう九十九折りの道があり、主郭に近づくにつれ、狭小な平坦部が設けられている。 また、北側から馬出郭へ向かう道もある。この二つのルートについては現在も遊歩道として使われている。この他に地籍図上で確認 されている大慈寺の裏手から馬出郭へ至るルートがある。北烽火台は、本城の北にある武田八幡宮背後の標高602mの山の尾根上に 立地している。主郭は東西10m、南北50mの規模を持ち三段構造で、中央付近に直径2mの窪地がある。主郭から西に伸びる尾根には 空堀があり背後からの侵入に備えている。また主郭の東には10数段の平坦地が連続している。なお、主郭にいたる尾根は極めて狭く、 危険を伴う。ムク台は、本城から約1.4キロ南側の東に向かって突き出した尾根上に立地する。標高695mにあつ主郭は三角形で 東西30m、南北35mの規模を持つ。主郭北東部には直径2mの窪地がある。主郭の西に伸びる尾根に堀切があり、東の尾根には 三本の堀切はある。 
<歴史>
武川衆として知られる山寺氏の一門に山寺甚左衛門がおり、その屋敷は「甲斐国志」には鍋山村の殿小路にもともとあったと 記されている。「寛政重修諸家譜」にも「甲斐国鍋山郷百聞分の本領」とあり、山手氏の本領が鍋山にあったことは疑いなく、 そこに居を構えていたのは事実であろう。白山城東山麓には実際に古山寺という地名も残っており、そこには方形区画の存在を 確かめることができる。前述した大慈寺から馬出郭への道と古山寺の地区は他の登城ルートと比較すれば有機的なつながりがある ものと考えられる。また、この山寺氏の初代は「鍋山の砦」を守備したという青木信明であり、戦国期には山寺氏が白山城を守備 していた時期もあったことを想定できる。 当城と武田氏との関連性の深さをうかがわせる文化財として、武田信義が元服したと伝えられる武田八幡宮がある。白山城北烽火台 の東側山裾に位置し、三間社流造の本殿は武田信玄の時代に再建されたものである。さらに、織田信長の武田領国侵攻にさいして 天正10年(1582)の2月には武田勝頼の夫人が祈祷文を当宮に奉納しており願文も現存している。「甲斐国志」で白山城が武田信義 と要害と位置付けられた背景には、武田八幡宮の持つ歴史や立地条件などが大きく影響したのであろう。当城は、武田氏の築城技術 を特徴的に反映した縄張りを持つとされているが、その築城時期や変遷は未解明な部分が多い。 
<関連部将>武田信義、青木信種等</関連部将>
<出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>





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最終更新日  2024.05.25 04:46:06
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