Rock's cafe

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ある恋愛についての小説~DOC'S STORY



 Doc’s storyはぼくが今までこのゼミで読んだものの中で、一番好きな小説である。それはDoc’s story が恋愛小説として、そして黒人小説としてDocがメインの話ではない。もちろん黒人問題を提起するような深刻な話でもない。Doc’s storyは、純粋な、100%のラブストーリーに他ならないとぼくは考える。タイトルと半分以上の文字を使って表現されたDoc’s storyは、実は全て末尾のIf a blind man could play basketball, surely we・・・の一言のための、壮大な前フリに過ぎない。これは、「ムダ」といって差し支えないように思う。しかし、素晴らしい、ぼくの大好きなタイプの「ムダ」である。かくも過剰な思い込みを産む人の恋愛に対する姿勢がいとおしく思え、そして共感するのである。

 かつて「アニーホール」という映画があった。ウディ・アレン扮するコンプレクスだらけのさえない男とダイアナ・キートンとのとりとめのない恋愛に関する話である。ぼくはこの人によって激しく評価が分かれるらしい映画が大好きで、特にウディ・アレンの自意識過剰な思い込みの激しさはたまらないものがある。あまりにも有名なセリフの数々としては「ぼくは自分を会員にしてくれるクラブには入会したくないね」や、「人生って老人ホームの食事のグチと似たようなものさ、量が少ない上にまずい」、「結局人生は悲惨か恐ろしいのどっちかだ。よかった、悲惨な方で」といったものがあるが、個人的に特に気に入っているのは、エンディング近くてアレンがたまたま別れたキートンが新しい恋人と映画を見ている場面に遭遇した後の、「彼らが見た映画が『苦痛と悲惨』だったから、多分ぼくの勝ちだ」というつぶやきである。自嘲がこもった、この偉大なる開き直り!しかし、開き直らずに恋愛に立ち向かえますか!?

思うにこのアニーホールの開き直りとDoc’s storyの都合の良い仮定は同じところに根付いている。つまり人が勝ち目の無い恋愛と対峙した時に、いかにして自己を傷つかないように守るかという問題である。もちろん人生には様々な挫折があって、時にはそれらをしっかりと受け止め前進を続けなければならない。しかしこと恋愛に関して言えば、「努力」とか「不屈」といった言葉がかくもむなしく響くのは何故だろう。恋愛は自己の不努力・怠惰や悪意によって失敗するわけではなく、ひとりではどうにもならない、理屈に還元しえないものであるからだ。ぼくたちは「理不尽」に自分の失恋を受け止めるしかない。その時はせめて「あの時もし~だったら」とリアルな空想を広げて、現実で満たされなかった自己を慰めるのだ。

Doc’s storyにはもちろん黒人小説としての側面がある。しかし、仰々しく黒人問題を提起しようとする作者の意図が前面に出されているわけではない。ぼくはその点にとても好感を持てた。古今東西のマイノリティー小説(日本ならば在日・部落)は、(少なくともぼくが読む限りは)避けがたく観念化された内容を持つものが多く、考えてみればそれは当然の帰結とも思える。まず、差別という問題に関して言えば、ほとんど加害者か被害者しか存在しないわけで、そこに客観とか中立という概念はそもそも適さないように思える。例えば日本人が黒人を扱った小説を書けばそうなるかもしれないが、当人達からは「おまえに何が分かる!」と一蹴されてしまうだろう。そして、現存する差別問題を紙上に著すのは、複雑な問題を単純化してしまいがちだ。この小説に対してこの小説の良いところは、その複雑さを忠実に書くことで、読者の単純な判断を防ごうとしている点にあると思っている。小説の中で男性主人公(恐らく黒人)と恋人が別れた原因をとってみると、主人公が黒人だからという原因は確実に存在しているだろう。しかしそれは例えばよくあるような「親や世間に反対され」とか「やっぱり私黒人とは付き合えない」というような分かりやすい形をとらない(この場合、「黒人」という名のもとで全ての黒人は個性を失う)「黒人」という要素は、ここでは恋愛に際して誰もが持つ特徴であり、コンプレクス(これは単純に「劣等感」というより「気にしていること」の方が正しいだろう)の一つとなっている。冒頭の訳文は、明確に二人が人格の相違によって惹かれあい、そして別れることを述べているが、「黒人」というのはその人格を形成する一因というレベルに落とされ、事実としてそれ以上でも以下でもない。それに対して、例えば近年日本で話題になった在日朝鮮青年を描いた小説「GO」は、依然として古い構図を脱しきれていないように思われる。この作品の中で在日朝鮮人の青年の恋人は、彼が在日朝鮮人であることを知ると、「お父さんやお母さんが、朝鮮人は血が汚れてるって言ってたわ」というあからさまな拒絶反応をする。もちろんそのあとなんだかんだで持ち直すが、ぼくはこの展開に強く疑問を覚える。自身が在日朝鮮系でもないし、在日朝鮮系の人々が今まで受けてきた仕打ちについても上辺の知識ばかりで実態を知らないことを認めながらも、今のこの時代に恋人が在日朝鮮人だと知ってそのような反応をするというのは、公式化・観念化された概念で現実離れしているように思う。逆に他に「あまりにも普通である」ことを強調しようとしすぎて「う~ん」となる小説もあるが、こういった問題は作者の資質よりも、単純にマイノリティー小説がいかに難しいかということの現われであろう。


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