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2012.06.24
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富永 快左衛門が暗殺される二週間と少し前元治元年(1864年8月19日)。藩主、大村 純熈氏が幕府の命により長崎奉行をしていた。幕府の長州征伐の一環として長州藩の長崎出張所を収公
した時。藩士の振る舞いが悪かったとして、昇等は『言路胴開』の名のもとに建白し、浅田 弥次右衛門(家老)ら三人を失脚に追い込んだ。

その後、針尾 九左衛門、松林 飯山等の運動により、藩主の健康を理由に長崎奉行職を辞退した。 浅田 九左衛門とは暗殺された富永 快左衛門の実兄である。

これを機会に徐々に勤王色をを増していったが、まだまだ思うように藩政を動かすには至らない。

長井 兵庫の免職。
大村藩の剣術の流儀は、家老の江頭 官太夫の指導のもと神道無念流(練兵館、斉藤弥九郎) となり、安政元年7月3日(1854)練兵館帰りの江頭 官太夫の二男、荘 新右衛門が無念流取立役。長井 兵庫を副取立役(長井も江戸練兵館道場で剣術修行をしていた。)、指南役として、練兵館、斉藤 弥九郎の二男(歓の之助)を藩の指南役に採用した。

後、荘 新右衛門が用人に昇格した後に長井が取立役に任命された。この制度が元治元年(1864)まで続いていた。その間、長井は渡辺 昇、渋江 運八郎、隈 央 等を武芸者に育てていった。が。元治元年渡辺 昇が江戸より帰国し、『言路洞開』の名のもとに改革され長井は免職となった。










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最終更新日  2012.06.29 09:15:56
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