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http://www.youtube.com/watch?v=s63r-8t2ugAMercan Dedemercan dede - TRT semazen gösterisi今年も12月17日がもうすぐですね。メヴラーナの入滅、神との結婚(合一)の日、とされる17日です。盛大なお祝いと感謝の日です。今年もあわただしく過ぎた人、ただボーぜんと月日を費やした人も、愛する誰かと時をわかちあった人、愛する誰かを失ってみえない道を進もうとする人もMerry X'smas And Wish u Spend Happy Greatful Day.
Dec 12, 2006
スーフィーでは、よく使われる言葉に Remembrance というのがある。 Sufi Remembrance 訳せば、記憶、思い出、記念 と辞書にはあるけれど、 私はこのSufi Remembranceというのは 「想起すること」「思い出す事」 だと思っている。 ただ、私達は忘れてしまっているだけなのだ。 だから、それを思い出せばいい。 赤ん坊のころの、まだ何にも染められていない 純粋無垢なままの、自分自身を思い出すこと。 それは、呼吸法や、マントラ瞑想など、 単純な修行法で、想起を呼び覚ます。 スーフィーで使われるZIKRという呼吸と マントラを使った瞑想法では、ある独特なサウンドと動き、 また、マントラを使うけれども、 ここでも私は禅や仏教の念仏などと、たいへん手法が似ていることがあるなぁ、などと思う事がある。 ただ坐って呼吸を見つめる禅や、念仏、 また、ハラ、腰、足先など、意識を保つ、など。 ちょっと、無理やりかもしれないけれども。w トルコでのデルガーでは、男達はみな正座して円陣を組んで坐る。 音楽と経典の祈りがはじまると、 ハラの中心に向けて呼吸をはじめる。 ハイハイハイ、というサウンド。 イスラムの言語でハイとはLIFE「生命」という意味だ。 「ハイ」というサウンドをハラに打ちつけるように響かせる。 吸う息と吐く息で独特のサウンドが派生し、大きくうねりを響かせる。 片方の手は始終胸に置かれ、 ハラとハートと、そして体の中心部分、尾てい骨から頭頂 それが一本につながるような、激しく太い呼吸だけのサウンドが生まれる。 そののちの静寂。 音楽が鳴り止み、そして沈黙する。 以上が呼吸を使ったZIKRという修行法の簡単なあらましだ。 しかし、その場の雰囲気というのには、まさに圧倒される。 日本のお寺などでも、経典を読みあげるその声が一種独特で 崇高な感じがあるけれども、そのような雰囲気と一部似ているような気もする。 マントラを終始唱えているとある種のトランスに入り込むのだろうか。それはよくわからないが、 人々が集い、呼吸を見つめ、個々それぞれに静寂のスペースに落ちていく時、まるで大海に漂う、一滴のしずくのように、 それは全体に帰し、存在と溶け込む。 禅でも言われることがあるように、 ただ、あるがまんまでなにもない。 まったく自分がなんにもない。 だが、あるがまんまのうまれたてのそのもの。 そのものであったまんまのものをただ差し出せ、と。 (たしかこんな風ないいまわし?)'-'*? なんにもない、まっさらなその無の空間になげだされ、 境界もなく、分節もなく、ただあるがままで息をつく。 呼吸はなんとはぜずとも呼吸であって 心臓はたんに動く、 それすら認識することなく、 ただそれはたえず流れる 思い出すこと 人はもとあるそのものそのまんまを たんに思い出しさえすれば それは変わりなくそこにいつまでもあるのだと すでに知っているのだ。 それが、愛、というものであれ 悟り、というものであれ、 定義など必要もない 愛など知らない、なのではなく、忘れてしまっているだけ 悟りなど知り得ない、ではなく、たくさんのガラクタで埋まれているだけ・・・ 私たちは、分かり得ない、のではなく すでに「知る者」「そうであるもの」なのだと思う。 たんに思い出せばいいのだと、 私はスーフィーの実際(もしくは禅)において、 いつだってそう思うのでした。 思い出す事。 Remembrance PS (((禅を語れるほど精進はいまだしておりませぬが。。。))) 敬具 はい、思い出すために坐ります。じゃあ、またね。
Jun 15, 2006
STOP ROKKASHO六ヶ所村の燃料再処理工場の問題を、 世界的な著名人達が、黙ってられずに作品を通して これだけの行動をして広めようとしています。 これは大きな力ですよね。 [STOP ROKKASHO] http://stop-rokkasho.org/ ↓友人の日記から引用 ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ 坂本龍一です. 本日、みなさんの貴重なお時間を頂戴して訴えたいのは、 青森県六ヶ所村にある核燃料再処理工場による、 甚大な放射能汚染についてです. なんと、この再処理工場からは通常の原発から出る 放射能の一年分が、一日で出るというのです. 美しい縄文の地と恵みをもたらす三陸の海が汚され、 その被害は何百世代先にまで及びます. こんな異常なことがまかりとおっていることが、 にわかには信じられません.しかし、もっと問題なのは ほとんどの人がこの事実を知らないということです. これは大手メディアに責任がありますが、PSE法については あれほどリアクションがあったのに、もっと重大で 命に関わるこの問題については、社会全体が奇妙なほど 静かなのです.そこでぼくはインターネットと音楽をもって 世界にこのことを知らしめようと思いました. ぼくと、若い友人である日本人ラッパー、shing02は今、 音楽を制作中です.ぼくたちはその音楽をwebに載せ、 人々がそれを自由にダウンロードし、リミックスし、 サンプリング、リサイクル、リモデルなどをして、 再処理工場のことが世界に広まるように、クリエイティブ コモンズのライセンスを取得するつもりです. 幸い、友人のクリスチャン・フェネスが賛同し、音を ダビングしてくれましたし、また英国の有名なデザイナー であるジョナサン・バーンブルックはwebサイト (www.stop-rokkasho.org)のデザインを引き受けて くれました.そこでは、人々が音楽を聴き、ダウンロード をし、またビデオを見たり、六ヶ所再処理工場について もっと情報を得ることができます. みなさんにもぼくたちと共に、音楽、写真、動画、 美術作品、詩など、どんなジャンルでもけっこうですので、 寄付していただくことを呼びかけたいのです.そうする ことによって、世界がこの問題を知ることになり、ひいては 危険な再処理工場が止まることを願って.ちなみに、ぼく たちにはどんな財政的な基盤もありません.これは人々に 気づいてもらうことを目的とした、100%ボランタリーな 活動です. みなさんの貴重なお時間をさいて、これを読んでいただき、 またこの問題を考慮していただいたことに感謝して. 坂本龍一拝 stoprokkasho@gmail.com -- +++++++++++++++++++ s a k a m o t o www.sitesakamoto.com/ blog.sitesakamoto.com/ p e a c e この惑星は愛されなければならない。 この惑星は喜ばれなければならない。それは贈りものだ。 この身体にはあまりにも多くの神秘が含まれているから、 ブッダですらこの身体がなければありえない。 この身体はもっとも大きな可能性― ―ブッダフッド、ニルヴァーナの寺院になる。 この身体は愛されなければならない。 この地球は愛されなければならない。 ―Osho ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ また、どうか、GREENPEACE JAPANの活動にもご支援ください。GREENPEACE JAPAN
Jun 3, 2006
長いタイトルの日記になりました。ww昨日買った本達と、いろんなこと、日常のこと、その他多くのことがシンクロしているように感じます。集合意識的なにか、、、連動でもあるんでしょうか?不思議なものですね。苦について、語った柳沢さんのDVDを観たあと、トールの本をめくると、そこにもおなじようなことが書いてありました。「万物は内面で互いにつながっている」トールはいいます。レッテル貼り、それが分裂をおこします。。。とこの新しい本は、「本ではない本」と書かれていました。スーフィーの「白い本」を思い出しますね。なにも書かれていない真っ白のままの本。The Booksトールのこちらの本にはもちろん活字が印刷されてはいますが、注釈したり、説明したりすることは無意味のような気がします。すべてはひとつにつながって、なにひとつわかたれていない、、、という感覚がさらに深く言葉ではない沈黙の言葉を導きだします。うん、うまくいえない。いまや、全世界が、いえ、全宇宙が、、、なにかみえない糸で紡がれる一枚の布そんな感覚。あるがままにただうけとめる、ということ、、、そんなこと。
May 27, 2006
柳沢桂子さんの、新訳 般若心経を読んでいて付属のDVDを観た。参考HP科学者であり、生命学者である筆者と、その闘病生活のうえでみつけた「空」の境地。。。本は美しい絵でちりばめられて、見てるだけでもほっとするDVDを見ていて、すこしうごかされられるものがあった・しかしながら、生命学者的な見解にいささか惑わされたりふしぎな感覚だ。苦も苦のままうけとめる空をしれば、すべてのものはひとつだとわかるそんなこと、つらつらかんがえる。最近のわたしには、富に「境界」というものがあいまいだ。。。これは別に今にはじまったことではなく、いつだって、境界などなく、あいまいだったのだが。。。これでもなく、あれでもなく、それでもなく、、、、というのと、これもそうで、あれもそうで、それもそうだ、、、ということに、わたしのなかではさほどの違いがない。映像のなかで、柳沢さんが、あの雨の激しくふる中で、樹が雨に溶けてひとつになっていたとき、この宇宙はすべて粒子でできていて、ああ、ひとつ、みな同じなのだ、と実感した、と語っていた。そう、そんな感覚、そうなのだ。夕暮れの散歩道、ちいさな黄色い野の花を見る。朝焼けの美しい湖岸のほとりに白くちいさな花を見る。コンクリートジャングルの乾いたアスファルトにピンクの美しい花を見る。その花の名前はなんという?それらはすべて人間がつけた単なる名前だ。もし、その花々に共感共鳴するのなら、名も無く実体もなくわかたれてもいない。それはそのまま私であり、私でないものだと、、、誰が知る知る人もいなければ知られるものもないさらさらとさらさらとながれるもの自我を削るそこにただようあるがままで。
May 26, 2006
愛する人はだれですかというある詩の紹介がまわってきました。とてもいいお話しなのでこちらにもリンクを貼って見ました。こういうバトンなら、いいですね。心を伝える事や、想いを表現することって、案外うまくできないものです。でも、ただ一言でもいい。想いを伝える事、大事なことだな、と思います。友人や、家族や、恩師、その他、ただの通りすがりの見知らぬ人であっても、伝えたい気持ち、素直な気持ちは伝えていきたいものだなぁ、と思います。愛する人はだれですか、大切な人はだれでしょう。なんだか大切なことを教えてもらったようなきがします。どうもありがとぅ。 *・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。. .。.:*・゜゚・**・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。ある詩通りをへだてた、すぐそこに友達が居るこの果てしなく広い大都会では、一日はあっという間で、毎週は駆け足で通り過ぎ、気が付けば一年が過ぎ去っている。すぐそばに居る、昔の友と合うことのないうちに、人生はこのひどい競争社会のなかで飛ぶように過ぎ行く彼は、私がよく電話していた頃と変わらず、彼のことを気にかけていることを知っているだろう私たちがまだ若かった頃、彼も私によく電話をしてきたものだそして今、私たちは忙しく、疲れきった、ただの男だおろかなゲームを続けるのには疲れたよ名声を得ることにもうんざりだ 僕は言う“明日!そうだ!ジムに、僕が彼のことを気にかけていると伝えるために電話しよう!”しかし、明日が来て、明日が去りそして、僕たちの距離はどんどん開いていくばかり彼は角を曲がればすぐそこにいるけれど、実際は何マイルも離れているようだ “電報ですよ”“ジムさんは今日お亡くなりになりました” そして、それが私たちが最後に直面する結果なのだすぐそこの街角に居たはずの友達は、今はもう消えてしまった・・・ いつも、あなたの心にあることを伝えてくださいもし、あなたが誰かを愛しているのなら、その人に伝えてください自分の想いを伝えることに臆病にならないで手を伸ばして、あなたの大切な人に、あなたにとって彼らがどれほど大切か伝えてくださいなぜなら、あなたがそうしようと決心したときには、もう遅すぎるかもしれないから 一日が終わるときに、後悔のないようにそして一番大切なことは、家族や友達を大切にして、彼らの日常に関わってください彼らこそが、あなたが今のあなたになるために、存在して貢献してくれた人達なのだから
May 25, 2006
ラビア・アル・アダビアは言う。愛するものと愛されるものには一切の隔たりはなく・・・・わが師(メブラーナ)ジェラールッディンルーミーは言う、それは、すべて私だ。キリスト教徒、無神論者、偶像崇拝者、学問の徒すべての善と悪と、天と地と、それらが抱くすべてのもの、それは、私だ、と。観るものと観られるものにも一切の隔たりはなく、そこにはなんの違いもないのだろう。スーフィーはすべてを包括し、なおかつ超越する。そこに一切の我が入り込む余地などなく、瞬時にそれと同化し、消滅する。と、同時にそれを認めるもの、識別するもの、観察者が同席し、そしてその観察者も入り込む余地などないほどに、一瞬にして、その対象物から消滅する。まさに、真我のみがそこに存在し、我の入り込む余地など認めないのであろう。あなたは白い薔薇を見て、我を忘れるほどに見つめたことはないだろうか、そのたぐい稀なあまりの美しさに一瞬我を忘れ、白薔薇と共にあり、白薔薇そのものになる、そこに一切の隔たりはなく、なおかつ、我欲を越えている、白薔薇は自分そのものであり、自分は白薔薇そのものである、まさに、観るものは観られるものである、とでもいうように。だが、スーフィーはその特異の修練によって、通常の意識を毎瞬一定のレベルに導くように習慣付けられる、そうした時に初めて、すべてのものが同一であり、また超越し、消滅する、という境地を体得するのである。それもこれも、否、そして私である、と。(それもこれも私である、そして否、を同時に含む)すべての愛するもの、それはスーフィーである。*・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。. .。.:*・゜゚・**・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。今や、探求者は、霊的な体験のわかりにくさを垣間見ている。もし、彼が、創造的な活動家ならば、彼は時折不意にインスピレーションが心に浮かんでくるような段階に入っている。もし、恍惚的体験への傾向がある人ならば、意味に満ち、喜びに溢れた完全感が、間欠的に起こり、またそれを自分では制御できないことに、自ら気づくだろう。秘密は自己防衛するのである。つまり、「あなたの想いのままに霊性に注意を集中しなさい。もし、あなたがそれに値しない者ならば、、霊性はあなたを避けるでしょう。それについて書きなさい。それを自慢しなさい。それについて注釈しなさい。そうすれば霊性は、あなたに利益をもたらすことを拒絶するでしょう。それはたちまち消えてなくなるでしょう。しかし、もし霊性があなたの集中力に眼を止めるならば、それは、よく馴れた鳥のように、あなたの手元にやってくるかもしれません。孔雀と同じように、それは価値のない場所には止まろうとはしないものです。」こうした発展段階を経て始めて、スーフィーは道についての何がしかを他者に向かって伝達できるようになる。もし、それ以前に行おうとすれば、「それはたちまち消えてなくなる」だろう。ここでもまた極端なものの間の絶妙なバランスは、必要不可欠である。さもないと、すべての努力は、水泡に帰してしまうかもしれない。あなたの心というネットは、極めて傷つきやすい、とルーミーは言う。それは、その獲物を上手に捕らえるように調整されていなければならない。もし、不幸があれば、そのネットは破れる。もし、ネットが破れていれば、それは役に立たないであろう。あまりに大きな愛は、激しい対立と同じように、ネットを傷つけてしまう。「そのどちらも行ってはならない」ルーミーは言う。「もし、ある人が、隅々まで智恵に満たされていて、無知なところが全くないならば、彼はそれによって破壊されてしまうだろう。したがって無知は、賞賛に値する。というのもそれは、存続を意味しているからである。夜と昼が互いに補完し合っているように、この交替という意味で、無知は智恵の協力者である。」*The Sufis 著 イドリスシャーより一部を抜粋*・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。. .。.:*・゜゚・**・゜゚・*:.。..。.:*・*:゚・*:.。すべての二元的対立は、それによって得られうる恩恵のためにある。対立するものは、同時に補完するものであって、敵ではないのであろう。スーフィー的に言うのなら、それはすべて我が内に内包されるものである、と。ただ一度でも、なにかに魅せられ没頭したことがあるなら、あなたはスーフィーである。ただ一度でも、だれかを深く愛したことがあるならば、あなたはスーフィーである。しかし、スーフィーがスーフィーたるためには、研ぎ澄まされた修練の賜ものである、知覚の扉を叩かなければならない。知覚の扉は研ぎ澄まされ、徐々に神秘の階梯を進む。その時、観るものは観られるものであり、観られるものは観るものだと知るだろう。ああ、そして朝がやってくる。その朝は、いままでのどんな朝とも違う、まったく新しい朝だ。
Apr 16, 2006
Osho講話を聴いていた。その中で、このワンフレーズが耳にとまった。「Jesas says , Come and Follow me,,,but buddha says, Come and see...」[ジーザスは言った、おいで、そして私についてきなさい。だが、ブッダはこう言った、おいで、そして 観なさい。」ああ、そうだな。その二つは、明らかに、ちがう。ブッダの言った言葉のほうが、もっと実際的だ。突き放した感はあるが、 "来て、そして 観ろ、"と、ただそれだけの言葉には力がある。もし、これが、スーフィーだったら、一体なんと言ったのだろう、とふとその時、思った。私なりに、思い出したのは、、、間違っているかもしれないが、もしかしたら、Come, and be かな、、、それとも、、、?? と、思っていた。いろいろ思い浮かんだけど、やはり、真っ先におもうのは、Come and be.おいで、そして、在れ、もしくは、為れ。スーフィは皆一様に、それと同化しそして一瞬にして消滅する。アラビックでいえば、KUN だ。(BE)同化といっても、ありきたりの同化とはわけが違う。なににも隔たれていない、分かたれていない、という意味での同化だ。汝まさに鏡のごとし、というわけである。クン(Be)、というマントラの強烈さは、体験してみると実感できるだろう、と思う。一晩中、クン、クン、クン、クン、、、クン、、、と唱える。すぐさま、消滅さながら、なにかに消え行く感覚がやってくるだろう。そして、それとともに力強い、Willness, 選択することの自由を知るだろう。スーフィーは分かたれていない。すべてがそのひとつに、含まれるのだ。なんでもかんでも、それもそれ、これもこれ、とひとつに統合する。ん、ん、、、うまくいえないけど。そんなことを思いおこしていると、おなかが鳴った。ああ、そういえば、なにも食べていない。断食していた時の記憶がやってきた。病気をわずらっていたとき、断食を10日間したことがある。とは、いっても、重湯とお茶と梅干を取っていた。半断食法である。あの時に感じた、あのすばらしい感覚は、いままでのどんな修練ともちがう、特異な感覚だった。お酒を飲んでハイ!になっている時とも、何かに撞かれて感情がハイ!になってる時の、どんな感覚ともちがう。お酒やダンスに酔いしれてるときの、熱狂的な感覚では、それはまるで内側のなにかが一杯で溢れだし、乱舞したくなるようなエナジーだけれども、断食の時の感じは、ちがうのだ、そう、まるで、何かがTOPからひっぱりだされるように、限りなくクリアーで、そして広大な感覚。まるで、ほとんど宇宙と交信できそうなほどだ。研ぎ澄まされていて、ツン、としている。鮮明で、かぎりなく透明な、ふしぎな感覚だった。スーフィーの修行僧は、月に何度か、本格的な断食をする。独房に入って、マントラを日がな一日中唱えて、そして、祈る。そして、旋回する。回り続けるその姿には恍惚とした、笑みがたずさわるのは、そのあまりの美しさにあらがうことができないからだ。Come, And be...そんな単語がやはりぴたりと、くるような、なんだか、やっぱり、そんな風におもう。Be という単語も、西洋的解釈で理解すれば、たちまち、堕落するものなんだけれども。あるがまま。ひとつ、ただ、在る。どんな風に言葉にすることが、できるものだろうか。人は、ゆっくり、ゆっくりと、知覚の扉を研ぎ澄ましていく。。。カラスはかぁ、かぁ、雀はちう、ちう。それはそうなのだ、と知るのだろう。寓話『文法学者とダービッシュ』ある夜のこと、ダービッシュが道を歩いていると、井戸の中から助けを求める声が聞えてきた。「どうしたんだ?」とダービッシュは井戸の底に向かって叫んだ。「私は文法学者なのですが、このあたりの道をよく知らなかったので、不運にもこの深い井戸の中に落ちてしまい、まったく身動きができないのです」「はしごと縄を取ってくるから、’それ’に掴むんだ」とダービッシュは言った。「ちょっと待ってくれ!」と文法学者は言った。「あなたの言葉使いは間違っている。もう一度、正確に喋ってくれ」「言葉使いが命よりも大切なら、俺が正確に話せるようになるまで、そこに居続けるがいい」そう言って、ダービッシュは去って行った。
Mar 28, 2006
内側の世界「内側の世界はいつもすばらしく平安で、どんな外側の世界より美しい」と、言った。あの当時は、そんな彼にいぢわるばかりしてたのを思い出した。wそんなわけない、内側は雑念と欲望ばかりが渦巻いてるんじゃないのっっと、ジャマばかりしてた。wそんな外側の一部でもあった私のような、こうるさい存在がいてもかわりなく、美しい、静かなる平安、沈黙が、保たれるのなら、それは、なんと、すごいことだ。残念ながら、今の私はそういった、雑多な外側の世界が、人より多少、少ない。なので、いったって平安なのであるが、それでも、訪れる波のような感情の起伏は、いまだあるもの。で、こんな小春日和、とりたてて、雑多な外側とは一線を画してあれるスペースがあることが、なにより、である。内側のスペースは、いつでも、なんてうつくしい。ああ、今頃そんなこというなんて、ほんとごめんね。そういいながら、となりの壁から声がする。「なんだって、そんなに世界はいろいろなものに分かたれたんだろー?」ってさ。宗派、分派について考える。でも、鳥は たんに 鳴いてるだけ。木蓮も満開で いまにもこぼれそうだ。
Mar 27, 2006
動画でみる、もし世界が100人の村だったらお友達の日記でみました。絵本もいいけど、動画でもいいです。ぜひ、皆さんにもみてもらったらいいな、と思いマス。じゃあ、またね。
Mar 17, 2006
非常に重たい夢だった。ほんとうに、実際、足がうごかなかった。起きた時、手足がしびれて、ふらふらしていた。(W車に飛びのる私、うしろの席に2人も成人男性、立派な体つきの青年がいるのに、なぜか私が運転席に飛びのる。カーレースのはじまりだ。ぬかるみの道を突っ走る。でも、私はレースの経験などない。みるみるうちに、スピードが落ち、車はとまってしまう。ボートをこぐ時に使うような、棒を使って、車を押しすすめる。そのうち、車は消え、歩く、けれども足がまったく動かない。まるで身体障害者の人のように、足を交互に両手で支えながら右、左、と前へ前進させる。ゆっくり、ゆっくり、重たい身体をひきづって、すすむ。あぁ、もうすぐ。さ、もう一歩。。。「あぁ、おつかれさん。たいへんだったね」後ろから、前から、、誰かに声をかけられる。「あぁ、よかった。ここがゴールだよ。おつかれさん」・・・・・そこで目覚めると、ほんとに体中がしびれてた。(笑)その、誰か、は、どこかで見た事あるひと、ないひと、いろいろだ。おはよぅ。重たい朝。頭はまだ、まどろむ、けど、とりあえず、朝は毎日やってくる。(それはもうお昼なんだけどね、、)[Phot by sufiorder us]孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。byバルザック・孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の”間”にある。by三木清最高のものを求める人は、つねにわが道を行く。人間は最高のものを決して共存しない。幸福になろうとする人はまず孤独であれ。byハーマーリングそれじゃ、だいじょうぶ。またね。
Mar 3, 2006
前の日記で書いていた崖からおちる、というビジョンそれは、ほんとうに鮮明に、起きている状態の私の眼の奥に映し出された映像だった。眼は開いているのに、はっきりと、色付きで、その映像が見えたのだ。こういうのも、白昼夢というものの、一種なんだろうか。。。その崖っぷちでの、下界の様子もいまでも思い出せるほどあざやかで、それは、とても美しいのだ。はっときづくと、後ろから何者かに付き飛ばされる。落ちていくその様子にはスピード感は感じられず、ただ、黒いマントをうつくしくなびかせた、その”存在”の姿が遠のいていく。その”存在”の顔はうすい光のベールに閉ざされてみえない。そのすぐ次の瞬間には、私は、それは美しい森のなかの木漏れ日にあらわれながら、鳥の声や、木々のざわめきを聞いているのだ。けして、おそろしい夢では、なかった。あれは、、あの”存在”は、いったい、何者であったのか、、、そればかりが気になっていた。そして、深く、美しい森の中で独り、さみしさをかかえながらも、美しいと思ってあたりを見回す。軽い、後悔の念と、孤独の重み、そして、もと来た道にまたもどっているのではないか、という不安。そんな感情にありながらも、その森の美しさには、かわりがなかった。主人と客人達の寓話を読みながら、私は、それでも、その家具と、部屋の様子を楽しんでいるのではないか、と、思いもするが、、、それさえも、今はまだ、判断するのは、やめておこうと思う。鳥は今はしずかに寝静まる頃。わたしも、今は、ただ、静かにしていること、それだけ。Stillness, and silence.あぁ、ちょっと疲れたね。おやすみね
Mar 2, 2006
なんか、 いつでも どこに行っても 孤独ってかんじる From Lonlyness To Alonesse って講話、なんども聞いたけど やっぱときたま、すごく孤独に悩まされる 人はやっぱり ひとりでも生きていけると、おもう、からだ 全く、孤独を、さみしさを感じなくなったら、 悟った時だ、と おもふ 究極の孤独は、砂漠のなか ・・・・・独りあるとき、 偉大なる自然に向かいあったとき それは、一人ではなくて独り だけど、人混みの雑踏のなかでは いつも一人とかんじるもの ひとり山道を必死でかけあがって たどりついたと思ったら だれかに崖っぷちから突き落とされた。 堕ちていくそのスローモーションの中で見た、 ベールに包まれた、その者は 他ならぬ自分自身であったのか それとも、親愛なるマスター あなたであったのか・・・ 崖からおちてもかすり傷ひとつ負うことなく 今またもと来た森の中を彷徨う旅人 旅の途上では 独りある事が、自由であること ひとたび何かに属したら そこには孤独のわながある スーフィーでは 「スーフィーを学ぶ際には制約がもうけられる ひとりで学んではならないし、また、書かれたものを通じて学ぶ場合には、順序だてて学ぶ必要がある」という。 けしてひとりで学んできたと思っているわけではない けれど、ひとりであるという気がしてならない。 寓話を学ぶ際に、わたしはもしかして間違って解釈しているのかもしれないし、また、 わかったような気持ちになって奢り高ぶり、大切な何かを見過ごしてきつづけたのかもかもしれない、と、思った。 目の前に何度も扉が開いているのに、 見過ごしつづけたある聖者の話を何度も読み返しては、 わが身を振り返る。 不可視の真理を読み解くのに、彼はその生涯をついやした。 私のもっとも好きな寓話「売りに出された知恵」である。 彼が生涯もっとも大切に持ち運んでいたものは、 彼にとっての障害となった。 その大切なものとは、”永遠に自覚できない偏見” すなわち、自我と思弁であった。 その時、マスターはきっと我々を崖の上から突き落とすのだろう。 私にとっての、崖っぷちは、 そんな風にしてやってくるのだ。 そう、おもうことにしよぅ・・・。 別の寓話をご紹介。 二ザーム・ウッディン・アウリヤーの教え。 ☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:* 「主人と客人たち」 師とは家の主人のようなものであり、道を学ぼうとするものは客である。 一度も家にはいったことがないために、家というものについて曖昧な考え方しか持っていないものもいる。 しかし、それにもかかわらず家は存在する。 初めて入った客は、座る場所を目にして、 「これは何でしょうか?」とたずねる。 「座るところです」と教えられ、彼等はそこに座るが、 その機能に関しては漠然とした意識しかもっていない。 主人は一生懸命接待するが、客達は質問をし続ける。 なかには的外れな質問をする者もいる。 優れた主人はけして客を非難したりはしない。 たとえば、客は、いつ、どこで、食事をするのだろうか、ということを知りたがる。 自分は孤立しているのではなく、この瞬間にも料理を調理してくれている人々がいるということを、さらには、みんなで座って食事をする別の部屋があるということを彼等は知らない。 食事や食事の準備をしているところを目にしたことがないために、彼等は混乱し、ときには疑いを持ち、ときには居心地が悪くなる。 優れた主人は、客達が直面している問題についてよく知っているので、食事が運ばれてきた時に彼等が楽しめるように、客の気持ちを落ち着かせようとする。 彼等は最初、とても食事のとれるような状態ではない。 客の中には、他の客よりも早く家のことを理解し、家を構成するさまざまな要素の結びつきに気づくものもいる。 このような人達は理解の遅い友人達に、そのことについて説明することができる。 そしてその間も主人は、客の一人ひとりに、家の機能や統一性などに対する彼等の理解の度合いに応じて、語り続けるのである。 家が存在し、客を迎える準備がなされ、主人がその場にいるだけでは、十分ではない。 誰かが主人の役割を積極的に引き受け、客や、あるいは主人がもてなすべき責任のある人物を、その家に慣れさせなければならない。 はじめのうちは多くの人々が、自分が客であることに気づかなかったり、客であることにどんな意味があり、客の立場からいかなる貢献を行うことができ、何を得ることができるのか、よくわからないからである。 家やもてなしについて学び、経験を重ねていくうちに、客は客であることに慣れ、そこでの暮らしのさまざまな局面を理解できるようになる。 しかし、家を理解したり、礼儀作法を覚えることにこだわりつづけるなら、それらの事柄に執着して、家具の機能や、価値や美しさを観賞できなくなる。 ☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;;:**:;;;:*そこには、もてなされた客人、それをもてなす主人、そして不可視の人々、また別の部屋にて調理するもの、個であり、共に招かれた人々とともに、それぞれの状態によって、何を見、聞くのだろうと思わせる。居心地わるさ、疑い、不安、疑問、そして見知らぬ人々と、見知らぬ部屋のなか、、、わたしはいま、いったい、どのような状態でこの家に招かれた客人なのだろうか。そして、また、いつのひか、主人になってだれか客人をもてなすなぞということが、あるのだろうか。
Mar 2, 2006
Lover's conversation っていう、インドのClassical Insutrumental がある。 これはカセットをインド、プーナで仕入れたもの。 この曲には想い入れが深くって、、、 この曲でワーリングをすると、、、ほんとに。。。 なつかしさと、なんか、、、あぁ、という感じ。 これは、検索かけたけど、どこにも見つからない。 COMPOSER : ARJAN DASWANI SANTOOR : PT.TARUN BHATTACHARYA FLUTE : RONU MAJUMDAR SARANGI : USTAD LIYAQAT KHAN カセットだけでしか扱っていないのかもしれないし、、このCOMPOSERで検索かければ多少は見つかるんだろうかー?この曲の想い出は、12年前に初めて行ったインド、プーナのアシュラムで旋回する美しい人々をみたときからだ、あんな、高等な技術?と思っていた、私の目にはものすごいことのように感じていた。何十分も倒れることなく旋回する人々。。。片隅で気分が悪そうに横たわる人、坐って瞑想する人、よろけながらも旋回にチャレンジする人その中でひときわ、美しく崇高に、一点を外すことなく旋回する女性がいた。ホールの真ん中で、ひときわ輝いていて目を奪われたもの、、、それがザイーラだった。その翌年になって、彼に半ば無理やり薦められ、旋回に挑戦するまでは、絶対自分にはできないと思ってた。始めた当初は、ぎこちなく、身体がこわばり、足の筋肉や筋をちがえたりして、おぼつかなかった。何度やっても、ふらつき、緊張が身体にのこる。。。一年のインドでの滞在と、他人より、比較的長くインドに滞在していた私は、毎朝の練習と、週1回のワーリング瞑想には欠かさず出席していた。一年もそろそろの頃、帰国もまじか、恋愛のことや関係性でも悩んでいたあの時期に昼のワーリング瞑想の時間に、リーダーがかけてくれたのがこの Lover's conversation という音楽だった。この ONLY LOVE がかかって、もっとも高揚するフレーズのサントゥールの音を聞いた瞬間に、、足の裏からものすごい、強烈に、電気が走るような、なんだか、このまま昇天してしまうんではないか、というくらいのものすごいエネルギーの渦、今おもえば、螺旋の渦のようなエナジーが全身を駆け上り頭頂へ走りぬけた。。。なんていえばいいんだろう、涙が溢れて、この身体は旋回しながらぼろぼろに、粉々になるような、そんな気がした。愛はあまりにも広大すぎて、この身体を粉々にうちくだく、、、そんな感覚と、身体が浮き上がるような、重力のなくなったかのような、、、そんな浮遊感と、至福の波に圧倒された瞬間だった。ああ、なんて、あまりにも広大なんだ、、、おどろきとともに、曲が終わると私は地面に倒れこむようにうなだれて起き上がることが難しいくらいだった長い時間をそこで伏せたまま、、なにが起こったのかすぐには理解できなかったし、そして、たぶん、今でも理解できていない。。。あの感覚をもう一度、という思いで、それからもっとワーリング熱はエスカレートしていった。ほとんどワーリング中毒のはじまりである(笑)その後も調子のいい時は、そのような感覚が頻繁にやってきた。でも、最初に起こったこの日のことが今でも一番強烈に残っている。この ONLY LOVE を聞くたびに、あの頃の、この出来事のことを思い出してそして、その瞬間の私は、ココにはいないのだ、ココはここでももっと、それは高みにちかい、マスターの臨在のある、そのような場所。愛のある場所とは、他でもない、ココ なんだろう。
Feb 3, 2006
イブンアラビーの文献は、なぞなぞか、早口言葉みたいで、、、正直、わけがわかりません。ようするに、二つの相反するものは、ひとつの物事にふくまれ、それらは、二つあってこそひとつのもの、、、、相反する二つの物事をこえたある”地点”で物事を神を排除しないで見る、ということなしに、観る、は達成されえない、一、すなわち、全二、すなわち、一存在一性論って、そうゆうことかな~と思ったり。以下、永遠に続きそうな、単語をならべられたかのような、、冊子の、ほんのわずかを抜粋、、、しました。Whose knoweth hmself knoweth his Lord.He did not say,Whosomaketh himself to cease to be,knoweth his Lord,for he (upon him be peace)understood and saw thatthere is nothing beside him.Thereupon he pointed out that the knowledge of the soul was theknowledge of GOD (whose name be exalted).That is, "know that thy existence is not thy existence nor other thanthy existence.For thou art not existent nor non-existent,nor other than existent nor other than non-existent.Thy existence and thy non-existence are His existence,and yet without there being any existence or non-existence,because thy existence and thy non-existence are actuallyHis existence."So if thou seest things(without seeing another thing along with GOD) to be Him,thou knowest thyself ; and, varily, to know thyself after this fashion is to know GOD,without wavering and without doubt,and without compounding anything of what is of recent originwith what is original, in anyway...... IBN-ARABI
Jan 23, 2006
こうして、人々が寝静まって、ふかーい闇のしずけさ。。。。きっと、世界のどこかで泣いてる人ケンカしてる人愛を分かち合ってる人独りしずかに在る人世界の裏側で働いてる人食事をしてる人なまけてる人そして独り在る人、集う人・・・祈る人こんなちいさな寒い、自分の部屋でふとんをかぶってもぐりこんで本を読んでいると自分はなんて平和で静かで、穏やかなんだと思う眼を閉じたら、闇夜はおもーく、そしてあまりにも静かだ夜中の真夜中3時頃ってなんて静かなんだろうー。こんな深夜にマターリまったり一杯のお茶を飲みながら過ごせるひと時はなんて平和で至福に満ち溢れてることかー。マターリほんぽしずかだよでも、もうねなきゃ。かな。。。
Jan 8, 2006
我が、東海地方は寒さにほんに弱いんじゃないかと思われる。壁が薄いのか、、、、、狭い部屋なので、ストーブをつければすぐ暑くなり、いったん消す。すると、たちまち気温はさがり、寒い。キーボードを打つ手がかじかむほどの寒さ。なんと。壁がうすいのかなぁ。ヨーロッパなどの寒い地方では石作りの家で、壁にはうように備えつけられた温水をつかった暖房器具はいつもほんのり部屋を暖めるので、冬でもぽかぽかしてるよね。やはり日本の家屋は木造の家。。。寒さに弱いのかな。(o>ω
Jan 8, 2006
初ユメじゃないけど、今日みた夢とかその他もろもろのことについて書き込んで見ちゃおう、な気分。今、ちょっと、眼をとじて、なんの気はなしに瞑想(妄想かも)をしてみる。したら、今朝見た夢のワンシーンがよみがえる。今日の見た夢はほんとーーーにイイ夢だったーなんかね、欲しい物がすべてそこには描かれていたのさ ウキ住み心地のいいお家と、キッチンとだれかさん。そんでなぜか、亀が泳いでいたのだ。。。。カメだぜーかめっ!!!その他もろもろ、いろいろな画があったのだけど、詳細はおきているうちに忘れてしまうよね、(哀んで、そのカメ。今また明確に目の裏に映し出されてギョーテン。さっそく夢辞典で調べるが、、、、”長寿”や”健康”だと。くしくしくし、、、んなもんいらんわい。いえ、健康は欲しいんですが。。。長寿じゃなくてもイイ。普通、夢って見た内容と正反対のことを暗示すると言われるが、どうやら、カメはそのまんまの意味らしい。ただし、健康でのびやかに泳いでいれば吉、傷ついていると凶ということなんだってー(ほんまかいな、? ま、お遊びということで)それはさておき、夢の中に今ルーの欲しいものがすべて凝縮されたかのように描かれていたために、今朝はいつものように(爆)なかなか起き出すのがためらわれた程だった。。。うしし。願望が忠実に現れたものなんでしょうかねぇ。。。。でも、さしたる困難な望みというのではけしてなく、通常の働く人間にはあーーーーーっといぅマニ可能な事柄。(じゃあ、さっさとかなえろよ、かなえて見せろ)ま、ようするに、自分好みの部屋にすみ、適度な仕事と友人に囲まれ最愛の誰かさんが共にあり、瞑想的な暮らしなのであった。そこになんのへんてつもないカメっ(しつこい?)すばらしいぃ。しかし、それにつけても健康でなければ、仕事もはかどらないよね。眼のことひとつで、もう働くのがつらくなる、なんて微妙な世界なんだ。眼がこうして今もちゃんと機能して、ものを見ていられるということがなんてすごいことなんだ、と改めて思う昨今。(ただいま、コンタクト外して暮らしてるがゆえ、おもうこと)はやく、裸眼でものを見られるようになりたいものだ、なるのか、ならざるのか、それが、、、、未知。とりあえず、はやく検査にだけでも行きたいなぁー、しかれど、この大雪。。。。なんだか、大雪騒動、てーへんだ。積もって交通障害じゃないといいけど。この我が家、さむさに耐えうる構造じゃないのか、かなり寒い。そしてストーブをつける、暑すぎる。そしてストーブを消す、寒すぎる。・・・の繰り返し。。。なんとかしてくれーー。な、今宵のひととき。
Jan 7, 2006
ある時、蚊の一群がいた。風が吹いた。そして、シャイフの家の窓が開いていたので、全部の蚊が風と一緒に窓から入ってきた。部屋の反対側にはもうひとつ窓が開いていて、一方の窓から入って来た蚊は、一匹を残して、全部もう一方の窓から吹き出されていった。残った一匹はシャイフの妻の膝の上に止まった。シャイフはそれを見てにっこりして、手をあげると、その蚊を殺した。死んだ蚊はダービッシュになった。昔、二匹の蝶々がいた。一匹はロンドンに、一匹はイスタンブールにいた。二匹は愛ゆえに、互いに相手の方へと飛んで行った。そして二匹が出会った時、一方は死んだ。木が存在する理由は、果実のためであり、根のためではない。なぜならば、木は果実を得るために植えられるのであって、根を得るためではないからだ。愛の中に宇宙が生まれた理由は人なのだ。”完全なる人間”の自我は完全に消え去り、あるのはただ神の永遠の存在だけだからだ。『この世界に誇り高く立て。しかし、次の世にはこうべをたれよ』 ― コーラン ―
Jan 2, 2006
最近のヒット、シロフクロウわらった顔がめちゃかわいい。あはははは`,、( ´∀`)'`,、 みればみるほどかわいい。だから笑う門には福来たるんだってばてば。ァ '`,、'`,、'`,、'`,、ヽ(´▽`)ノ '`,、'`,、'`,、'`,、'`,、映画ハリポタにもでてたよね。しろふくろう。めっちゃかわいい。飼いたい。一家に一羽、しろふくろうー。
Dec 30, 2005
もうすぐ、おおみそか。とは言っても我が家はほんとに年行事には無縁の家族です。大掃除もしない、ようだし、(いえ、ルーは自分の部屋だけしました)他もしてあげればいいじゃん、とは言われるかもだけど、うちはそれぞれテリトリー分けされてるので、、、、といいわけ。年末年始の買い物にも特にでかけません。あまり、食べ物に執着もない家族ですし、おいしいお刺身さえ食卓にあればそれでいいのです。おせち、?ソレって何?というくらい、興味もありません。お餅も年中冷凍庫に眠っているので、もうこれ以上必要ない、かも。そんなことでいいのか、大晦日&正月。。。。まーいいか。(*´Д`)いちおう、玄関にかざる、あれ、なんてゆうんだっけ?しめ縄みたいなのはあるみたい。なんのへんてつもない、年を越し、あたりまえの正月をいつもとかわりなく向かえます。あははー。気分はそれは少しはかわるけど、ほんとになんにも特にするでもない我が家がちょっとおかしいのかなー。と、毎年おもいます。でも、年の変わりの、はじまりの日、少しは身も心もあらたかに、と、行きたいところ。。。今日、明日の新月によせて、お部屋に眠っていたクリスタルやジュエリー達をきれいにしました。新月なのでまっくら、月明かりはないけど、浄化のお水にいれてすこし、外にだしてみました。そんなかんじでまったく、マターリな年の瀬ですわ。みなさんは、いろいろ行事やらなにやらいそがしんだろねぇ。うちは治外法権か、、、、。 動物写真館、壁紙ギャラリーはこちら笑う門には福きたるぅ。
Dec 30, 2005
彷徨い、探し、ここまできたでも、ここはもといた場所だったのかまだ、とおくその一瞬さきさえまた見失うTERRIAそんな日もあるよね。31日の昼は山羊座の新月です。--- 新月が 山羊座にあるときに実現する 願いごとキーワード: 老後の安定、責任、目標達成、 成功、処理能力、権威者、 伝統、他人を操作しない、 In a dream my lover cameseaching through my bodyfor the state of love.When he could not find ithe drew his dagger and stabbed my heart.=RUMI=
Dec 29, 2005
高2のころの写真がふとでてきた。今日はここにはかけない気分でも、かきとめたいという矛盾。年の行事のあるときはきらいだ。はやく、なにもかもすぎればいい。なにもかもが黒。そういう瞬間もある。
Dec 29, 2005
なんであれ汝にみるものはすべて我の内にあるものである
Dec 27, 2005
今日は一日、CDの編集をしようと試みてはみたものの根気がつづかないの。SUFIミュージックを45分内で編集し、瞑想用(旋回用)CDを作成したいのだけど、時間がうまくまとまらなかったり、入れたい曲を選曲するのが、なかなか根気のいる作業なのねー。1枚は簡単にいったのだけど、なかなか後がつづかない。そういえば、コミューン内でよくかかっていた”あの”大好きな歌は一体どこかな、、、パキスタン系スーフィーの男性Vo.のとてもハートの深い声の人だった。Belovedなじいさま、Dr.SONIこと、アキール・アナンダ爺に聞いたらたしか、サンガムというタイトルの曲だった。検索したけど、ネット内では発見できず。。。爺さまがいなくなっちゃったら、この曲とはもう二度と出会えないのか。。。そう思ったら、いまのうちに,も一回インドに行ってちゃんと聞いておかないと。アマゾンで検索かけても、ヒットしない、名曲ってまだまだあるのよね。みたら、今もってるSUFI SONGの大方は在庫切れだ。気に入った音楽は、常にその時々で,ためらわずに購入するのが得策かも。とゆわけで、あしたも作業はつづく、、、のか、それが問題だ。
Dec 27, 2005
あれから一年たったなんて、いまだ思えないね。まだついこのあいだの出来事のように感じる。ご冥福をお祈りいたします。ほんとうに痛いできごとしたね。一年ってとてもはやいな。追悼一周年、ニュースでちょっとだけみた。。。花々や灯のあかりが、思いおこさせる、いろいろな哀しいできごといろいろあった一年。これからもまた一瞬一瞬、たいせつにしないとね。また、そうして年月がすぎていくね。先日、友人宅から帰るとき、友人達がこういって大きな声でわらった。「こんどまたいつあえるかなんてほんまわからんように、これからどんどんなってゆくんだからな、だいじにせいや~。」だって。その後に続く「…せやから今のうちにおっぱいさわらせとけや~」は聞えないふりして、ほおっておいて(笑)ほんまに、一期一会じゃないけど、今出会えてる人達が、いつもかならず、いつの日も出会えるとは限らない、生とはそういうものだよね。だから一瞬一瞬を大切にしていこうと思うの。と、いいつつ、時たま眠りこけたりもしますが、、、それでもまた、気がついて、、ひとつひとつ、たいせつに、ちゃんとあじわっていこう。そゆわけなのでした。愛について愛があなたをさし招いたなら、愛に従いなさい。たとえ、その道がどんなに厳しく険しくても。愛の翼があなたを包んだなら、愛に身をゆだねなさい。たとえ、その翼に潜む刃が、あなたがたを傷つけても。愛があなたがたに語りかけたなら、愛を信じなさい。たとえ、その声が、庭を荒らす北風のように、あなたがたの夢を打ち砕いても。なぜなら、愛はあなたがたに栄冠を与えると同様に、あなたがたを十字架につけるのです。愛はあなたがたを育て、また刈り込みます。愛はあなたがたの梢にのぼって、陽射しにゆれる小枝を愛撫し、また忽ち足下に降って、土におろした根を揺るがすのです。愛はあなたがたを、麦の束のように刈り取り、あなたがたを打って、裸にし、ふるって、殻を取り、ひいて、白く粉にし、練って、しなやかにする。そしてさらに愛はあなたがたを愛の神聖な火で焼きます。神の神聖な祭りの神聖なパンとするために。愛はこれだけのことを、あなたがたのうちに、あなたがたのためにするのです。あなたがたが自分の心の奥の謎をさとり、このさとりのうちに生命の心の一片(ひとひら)となるために。愛は愛自身のほか何も与えることなく、愛自らしか受けることがない。愛は所有せず、また所有させない。愛には愛だけで充分なのだから。愛しているとき、神が私の心の中に、と言わないように。むしろ、私が神のなかに、と。思ってもならない。あなたが愛の歩みを導けるなどと。なぜなら、愛こそがあなたがたの歩みを導く。もし、あなたがたにその価値があるとみれば。愛の望みはただひとつ。愛自身を満たすことです。しかし、もしあなたがたが、愛していて、どうしてもなお望みがあるというのなら、その望みはこのようなものであるように。融けて、夜の間も自分の歌を歌っているせせらぎのようになること。愛のあまりの優しさに、苦しむのを知ること。愛を自分で解釈して傷つくこと。そして、自由な、喜びに溢れた心で血を流すこと。夜明けに目覚め、飛び立つ思いで、愛の新しい一日のために感謝をささげること。昼下がりには静かに休らい、愛の恍惚を思いだして味わうこと。夕暮れには、感謝に満ちて家路をたどること。そして、心では愛する人のために祈り、唇では賛美の歌を歌いながら眠りにつくこと。カリール・ジブラン「預言者」より。~愛について~すべての愛するひとたちと、すべての傷ついたひとたちへ。。。じゃあ、おやすみね。
Dec 26, 2005
13 Holding on執着とは過去の欲求を現在の状況の中で満たそうとする試み。しがみつきとは一種のかんしゃく。前に進まないよ、といってかんしゃくをおこしている状態。相手への思いやりというよりも自分の欲求を満たすことを重視しているということ。執着を手放すことで次の一歩が踏み出せる。ただし、手放すことと遠ざけることは区別することが大切である。リーダーシップの法則が助けになる。「私がここでこうして苦しんでいるということは、私以上に大きな助けを必要としている人がいるはずです。その人は誰なのでしょう」32 Leadership癒しの原則「あなたが何かで止まっているときに、周りには常にあなたを必要としている人がいるということを意味する」「この問題や自己攻撃や、自意識よりも、あなた方をもっと大切にします。この問題があっても、あなたが助けを求めているのを見逃しません。二人とも自由になれるように、私の心をあなたにあげます」 5 Expectation期待は要求。自分は十分ではない、何をしてもうまくできない、という感覚。期待するときはあなたの方からは何もあたえていないということ。恋人がもっとあなたを愛してくれることを期待している時、あなたは自分自身や恋人をあまり愛していないということ。空想。空想するとあなたの意識はどこか遠くへいってしまう、そして距離ができる。つながることによって成功し、満足と愛がうまれる。31 Joiningどんな問題にもつながっていない、分離状態があるということ。引きこもるとは恨みと痛みのせいで人生から退いているということ。一歩退くということは犠牲を払っているということ。つまり与えているのに自分は何も受け取っていない。許すこと受け取ること信頼すること。15 Power struggle44 Vision16 Roles48 Holiness21 Dark story38 Giftness3 Guilt46 Child of God
Dec 26, 2005
これが、配慮と苦痛から解放される道だ。考える時には、あたかも考えることすべてが炎で空に刻み込まれ、ありとあらゆる物に注視されているかのように考えなさい。というのも真実はそのとおりなのだから。語るときには、あたかも全世界が一心にあなたの語ることを聴こうとしている一つの耳であるかのように語りなさい。そして真実はそのとおりである。行う時には、あたかもすべての行いが自分自身に振りかかってくるかのように行いなさい。そして真実はそのとおりである。願うときは、あたかもあなた自身が願いであるかのように願いなさい。そして真実はそのとおりなのだから。生きる時は、あたかも神自身が生きるためにあなたを必要としているかのように生きなさい。そして真実はそのとおりである。」カリール・ジブラン来年のカレンダーにこんなのはいかがですか?世界の精神家、神秘家のカレンダーです。RUMIカレンダーほしい。。。もう年の瀬もすぐそこですねー。うちはクリスマスとは無縁ですが、このごろになると番組内容も変わるし動きがスローモードになります。今日はひさしぶりに、昔の本をひっぱりだしてぱらぱらみてみた。和尚 私が愛した本 の中に出てくる著作をどれだけ持ってるかな、と思い、いろいろ本棚をみてて、、、、改めてみるのも新鮮。こんなこと、言ってたのかー、なんておもって再発見があったり。こうしてまた年を重ねていくうちに、前よりもっといろいろ観たり聞いたり 読んだり、調べたりして。。少し前よりは理解がすすんだのかも、とたまには自分をほめてみる。それ以外にも今日はクリスマス特集のいろんな番組がなかなかたのしめた。大島渚監督の波乱万丈Vなんかも見てて感動。いろいろあるけど、たいへんなこと乗り越えて生きてきたすべての人達に良きことがたくさんおこりますように。(だけど、今そんな大変な状態だったってしらなかったなぁ。奥さんの支えってすてきだー、ちゃんと愛ってあるじゃんね。などと思った、ルーって単純ね。)クリスマスだから多少美化したり誇張したり脚色とかあるんかもしれないけど、でも、ちゃんとあるんだよ。ほんとなんだってば。(と、一番信じてないのは他ならぬ自分なのかもなのでした。)と、そのような走馬灯のように早い、波の合間を華麗にサーフしつつ今日はこれでおやすみなさい。明日は名古屋、いくのか?いかないのか、それが問題だ。じゃあ、おやすみね。+。:.゚.:。+(人-ω-。) いい夢を
Dec 23, 2005
人間とは、ほんとうに、わがままで好き勝手に生きる生き物だとおもいます。。。いつだって、結局は自分のことばかり考えて自己中心的に物事をとらえているものです。今、友人は、最も死にちかい病気と闘っています。そんな彼女のことを思い出す度、今、この瞬間を大切に生きてない自分を恥ずかしく思ったりします。でも、すぐにそんなことは忘れてしまって、退屈な時間や、嫌な事に思いをはわせて、落ち込んだり、生まれてきたくなんかなかったんだ、なんて思ったりします。もし、あなたが、後1年しか生きられないとか、半年です、と宣告されたら、いったい、どうしますか?実際、彼女がそのような宣告を受けたとは聞いていませんが、最近、とみによく思いだしては、そんなことを考えてしまいます。もし、私自身が、もっとも死に近い重い病に冒されたらいったい、どんなふうにこの世界は目にうつるんだろうか。。。今、この一瞬を大切にいきることさえおろそかにしてしまうような、そんな状態ではもったいなさすぎるよね。一瞬を生きるということ。死を目前にしたとき、人はどのように生きはじめるんだろう。それを思いおこさせてくれた友人に感謝したいな、と思います。奮い立たなくては、じぶん。。。とは、いいつつ、何からはじめたらいいのかな。ハイアーセルフに聞いてみて見る。( 」´0`)」おねがーいーーおせーてーー!地球上にいっぱいの愛を祈ります。
Dec 21, 2005
いつも、自分の手にはさみをもちこんでいないか、と、確認していたいと思っています。批判や判断を常々自分の癖にして今まで過ごしすぎてきてしまいました。なんであれ、批判や判断をしているときは、自らの手にはさみがあるとき。はさみはもちろん、あっても有用なものです。でも、はさみを持つ手の反対側にも、針と糸を持っていなければ、意味がありません。はさみだけでは、自らをも全体から切り離してしまうもの。はさみを持っているな、と気づいたら、すすんで針を手にもちたいと、そう思っています。以下、OSHO International のメインホームページより、人気のタロットのページから引用しました。あなたは、はさみを持って世間に挑んでいませんか? Copylight OSHO International自分が全一であるかどうか、内側を見てみましょう。はさみはマインドに似ています。はさみは切ります、分けます。針は愛に似ています。ものごとをひとつにまとめます。引き裂かれたものを癒してくれます。あなたのハートを愛に向けて開きましょう。そうすれば、愛があなたを全一にしてくれます。 偉大なスーフィー神秘家、ファリッドの生涯で、ある王が彼に会いに来たと伝えられている。王は彼に贈り物をもってきた――非常に高価で、めったにない、どこかユニークなところのあるすばらしい一丁のはさみ。彼はこのはさみをファリッドに贈るためにもってきた。彼はファリッドの足に触れて、はさみを差し出した。 ファリッドは受け取り、それを見て、王に返して言った。「殿下、おもちくださった贈り物、ほんとうにありがとうございます。すばらしいものですが、私にはまったくなんの役にも立ちません。針がいただければ、その方が私にはよいでしょう。私ははさみはいりません、針でよいのです」 王は言った。「私にはわからない。針が必要なら、はさみもいるであろう」。ファリッドは言った。「私にははさみはいりません。はさみはものを切り分けるからです。針なら私には必要です。針はものをひとつにまとめるからです。私は愛を教えます。私の教え全体は愛に基づいています――ものごとをひとつにまとめながら、人びとにコミュニオンを教えています。人びとをまとめられるように、私には針が必要なのです。はさみは役に立ちません。それは切ります、外します。この次にいらっしゃるときは、普通の針で充分です」Osho UNIO MYSTICA, Vol.2, pp217-218
Dec 21, 2005
まだまだぜんぜん読めてないけど、さわりの部分だけでも感じ入るところあり。生命は音楽を奏でるということについて。。。そんなに深く考えたことなどなかった。。。すべてのものに”音”があり、音楽を奏でる。特に自然界の音。。。それに耳を傾けるとき、そんなに深遠な深みがあったとは、知っていたような感覚もあるけど、改めてこの著書をよむと、「ああ・・・・」とおもう。どんなものにも音楽と調和がある。いかに、自分の奏でる旋律を調和とともに表現できるか、、、人も無意識に旋律を奏でている。無意識でイライラしてる人は不調和音を、豊かでやさしい人は柔らかな美旋律を奏でているらしい。。あぁ、そうかー。美しい旋律を奏でられるような人物になろう、、、とあらためておもふ。。それじゃぁ、おやすみね。。
Dec 19, 2005
SUFI ORDER今日、何気なく、出かけたついでに、できたばかりの大きな本屋に立ち寄って見た。したら、目に飛び込んできたハズラットイナヤットカーンの本を思わず衝動買いしてしまった。この平河出版のMIND BOOKSシリーズ、いろいろもってるけど、これがあるのは知らなかった。みたら初版が1995年だった。そうかー、比較的新らし目だったのでチェックしてなかったんだ。インドでも著名な ハズラットイナヤットカーンはスーフィーのネイチャーメディテーションをあみだしたとされる人で日本でもほんのすこし紹介されたりもしていた。その昔、まだ私がこちらの精神ものに傾倒するずっと以前によく行っていた自然食品の八百屋さんの上の小さなホールでそのネイチャーメディテーションなるものを開催していた。それに参加したのは、かれこれ何年も昔のこと。最近になって、その創始者でもある人物の本を読む気になったのは不思議なものだ。ほんのさわりの部分を読んでいてもうひとつ、はっとする記述があった。それは、ハズラットは元が音楽家の出で、ずっと音楽だけをしてたのだけれど、あるとき彼はスーフィー教団の師に出会い深く傾倒しスーフィを学びました。そのスーフィーの師というのがインドのアジメールというところに廟があるチシュティー教団を創始した、ムヒィッディン・チシュティーのことでした。実は前回、約2年ほど前に、インドを離れる前にどうしても行っておきたい地域は全部訪ねておこう、と思ったことがありました。。それが、バウル(吟遊詩人)や多くのスーフィーがいたであろうと思われるグジャラート地方の旅と、アーグラーのタージマハールとカジュラーホー。また、世界遺産でもあるアジャンター、エローラの旅でした。もともと予定にはアジメールに行く計画はありませんでした。でも、いきなりアーグラーに行くのは距離的にしんどいな、というのもありなぜか、思い立ってアジメールに寄ることに急遽予定を変更したのでした。ムンバイから、アジメール、ジョードプル、ジャイサルメールそして再び戻ってジャイプル、アーグラー、カジュラーホーという旅になりました。アジーメールにはなぜあの時、突然尋ねることにしたのか、今、おもえばこれも不思議な縁です。というのも、小さな街なんですが、なかでもイスラーム色のとても濃いところでした。それ以外にはなんのへんてつもない、目だった観光名所もガイドブックには記載されてませんでした。(最近の歩き方からはアジメールはカットされてるし)アジメールについて、最初に、なんだかその街を散策していて、はっとしたのは、いうまでもなく、チシュティーの廟でした。そのとき、なぜだかすごい衝撃を感じて、思わずバスの中にいたサラリーマン風エリートな男性に、「あれはなんですか?」とたずねていました。そのとき名前を聞いてはいたんですが、なかなか覚えられなくて、あれからずーっと気になっていました。真っ白で大きな、洗練された球形のドーム、イスラーム特有のモスクです。それがあまりに白く美しかったのが忘れられませんでした。あの時は時間がなくて、中まで入ることはできませんでしたが、今、この本を読んでいたら、あのモスクがこのチシュティー教団の聖地だったのだな、と納得しました。そうかーーー。なんか、しみじみ。気がついたら、実はそこに行ったのはなにがしかの縁があってこそだったのだな、と今では思えます。おかしいね。あのとき、もう一度じっくりたずねてみたい、という衝動があったのを今でも覚えています。ハズラットの著書は、OSHOのそれとは違って、やわらかく芸術的な繊細さのある静かなつづりでおさめられてます。ちょっと読み進めるうちに、とても繊細なやさしさがにじんでいる本です。OSHOの本はどれもパワフルでユーモアに満ちていて、ジョークや風刺も満載で楽しいけれど、それとはまた全くちがった、ハズラットの文面にもなにか感じられるものがあります。悟った人かどうかはわかんないけど、なにがしかのエッセンスを凝縮したこの本は、しばらくたのしめそうです。あ、ちなみに、晩年のハズラットはそれはそれはダンディーな容姿でその息子さん?ひ孫さんにあたる方もそれはそれはイケメンです♪(ああ、余談がすぎるってば)こちらが写真そんな今宵の夕べのひととき。
Dec 19, 2005
『21世紀版 スピリチュアル・マネー』スチュワート・ワイルド (著), 中山 宥 (翻訳) 出版社/著者からの内容紹介いままで正反対と思われてきた「お金」と「スピリチュアリティ」は実は密接な関係にある。つまり「スピリチュアルな人ほど成功しやすく、お金持ちになる確率も高い」。また「感情」から「人生の使命」に至るまで、お金への道のりに必要なリソースも、実にメタフィジカル(精神世界)なものだった。ワイルドの伝説的マネーバイブル!という内容の広告がアマゾンJPから流れてきましたー。http://www.amazon.co.jp/アマゾンリンクは貼れないのでコピーしてみてみてね。えええええ。スピリチュアルな人ほどお金持ちになれるんだったら、ルーぅはそうとうスピリチュアリテイに欠けるんだなぁー。くすん(TwT。)そういえば、我がマッスターオッソーはなんとロールスロイスを100台?だっけ、持ってたものねー。ここのアマゾンのHPの案内の下の方にもそれと似たようなことかいてある。おもしろいねーー。ふぅーーーん。気が向いたら読んで見るよ。読んで見ルッたらさ。その前に、オソーアメリカへの道も全く読む気がしないんだがどうしたもんかのぅ。ええ、ええ、読むサ、そのうち読むサ。
Dec 19, 2005
こころとはげにもこゝろはなきものをさとりはなにのさとりなるらん師が弟子に尋ねた。「一日中どこへ行っていたのだ?」彼は言った。「馬上球技の試合があったのです。熱戦が繰り広げられていたので興味を引かれ、観戦していたのです」師は尋ねた。「競技者達は疲れていたかね?」彼は言った。「ええ。試合が終了する頃には疲れはてていました。」「馬は疲れていたかね?」弟子は言った。「ええ馬も疲れていました。」師は言った。「では、柱は?柱は疲れていたかね?」弟子は途方に暮れた・・・。柱が疲れるはずがないではないか?彼は言った。「少し、考える時間をいただけますでしょうか?」そして彼は一晩中それに瞑想した。朝、太陽が昇る頃、ようやく彼は要点をつかんだ。彼は師の部屋に駆け込むとこう言った。「そのとおりです、師よ――。柱は疲れていました。」師は言った。「そうか、要点を見抜いたね。」・・・・・・・・・・・・・・すべてはひとつだ。だから、競技者が疲れていたら、馬が疲れていたら、柱も疲れていたにちがいない。すべてはひとつだ。何も分かたれていない。私達は孤島ではない。石もそうだし、星もそうだ。あらゆるものが結び合わされている。。。そしてすべてのものがこの瞬間に結び合わされている。この瞬間に参加している。あなたがまさにこの瞬間になったら、すべてが成就されている。それ以外にエンライトメントはない。OSHO [TAKE IT EASY] 邦題「一休道歌」P,Sこれからは、たぶん、個人的日常の雑多なへつらごと日記は別ブログで書くことにすると思います。どうでもいいことやつぶやきはなるべくこちらにはのせないつもり。いや、たまにはのせるかもだが。。。。いくつかブログを使いわけようと思います。そちらの、へつらい日記ブログは気が向かないかぎり、こちらとリンクすることはありませーん。と、ゆうわけなのよら。
Dec 19, 2005
友人からのメールが届いて、少しおもう。。。相変わらずの淡々とした簡潔な書き方で、元気そうにはしてるけど、、、でもやっぱりちょっと心配。今はたくさんの友人達がインドを訪れている頃なので、入れ替わり立ち変わり尋ねてきてくれてるそう。なので、そのことについてはひと安心だね。でも乾季がくるころ、たくさん人が帰って行く頃に、また手術をするらしい。その頃、都合をつけてなんとかインドに行けるといいんだけど、と、ちょっと考えてます。やっぱ、お友達がへっちゃうと心細いだろうしねぇ。でも、どうやってお金をつくろうかーーー。最近はルーは稼ぎがわるいからなぁ。そんなこんなをちょっと考えて見る。絶対あいたいよ。ねぇ。天にお願いしてみる。。。( 」´0`)」おねがーい
Dec 17, 2005
雨がはらとふるよ 木の葉が車のフロントガラスをすべってはらと落ちたし。 雪、かな。 どこかの山では きっと雪だねぇ。 雪じゃなくて こっちは雨みたい ああぁ、さぶい。 メブラーナDAY おめでとう。 今日は合一には 最適の日。 じゃあまたね
Dec 17, 2005
来なさいあなたが誰でもいいから来るのですたとえあなたが拝火教徒でも 無神論者でもたとえ1000回懺悔を繰り返したとしても来なさいあなたが誰でもいいから来るのですこれは絶望への扉ではない来るのです あなたが誰であっても HZ.MEVLANASEMA-ZEN 今頃はメブラーナフェスの真っ最中なので、今日はコンヤの街もおおにぎわいなんだろうなーー、となつかしく思います。今日はなんだっけ、んーーー、と思ってたらそうです、今日はメブラーナフェスの最終日にあたる大事な日でした。ぼけぼけして忘れるとこだった。と、ゆうのも、まだこの最大のお祭りごとに参加したことないんだもの。長年、ずーっと、この14日から始まる旋回舞踊の盛大なお祭りに行くのを夢みてはいたのだけど、なんか前回もタイミングをはずしてしまったし。今回も絶対行くね、といいながら、金策にも励めず挫折。おもえば、今年は一年間、ほんとうにこもってしまいました。トルコに行ってしまったら、またぐずぐずして帰れなくなりそうなのは目にみえているので、まだGOサインがでてないのかも。もう少し、日本でやらなきゃいけないことがあるのかもですね。前回のトルコより帰還後は、なんだか、ほんとうにもとの生活の中に入っていくのに苦労した。一年たっても、まだ、なんか、ねぇ。。。ようやく日本になじんだ、という感もあります。思えば、過去のはるか昔をさかのぼってみても、小学校の頃からキリストがどーの、とか、高校もカトリックだったし、宗教チックなものがすきでした。だけど、キリストの教会のボランティアなどに参加もよくしてたんだけどなぜかなじめなかった、というより逆に反発を感じてたりしてた。そのかいもあって?か、高校もみごと中退してしまってるし、ね。それでも何かせきたてられるように、今度はインドに行こうとおもいたったあの日から、インドに足を踏み入れた瞬間に起こった不思議な感覚やら、なにやら。そういえば、路頭に迷って困り果ててた時に目の前に広がった景色にデ・ジャブ?というような感覚が来たことや、(あ、ここなんで知ってるの?と思ったのね)インドの街から流れるイスラームの祈りのウタ、アザーンを聞いた時に感じた懐かしい感覚とか、すべてがつながってるような気がするな。キリスト教とイスラーム教は兄弟宗教といわれてるものだし、日本ではなじみがうすかったイスラームにはであえなかったのもいまとなってはうなずける気もする。ルーミーのテンプルのあるKONYAという街には私にとっての特別ななにかのある場所です。遠くて、、、そして最も近い、自分がかつていたであろう場所。そんな記憶の断片、、、。 神との合一を祝う日。今日がその日です。サラームレイクン。
Dec 17, 2005
いかん、。つい、アツクなってやっつけてしまいましたー。(反省)うちのNTT専用、固定電話、最近かかってくるのは勧誘の電話ばかり。うるさいいったらありゃしないでしょ。ルーぅに用事の電話は大体全部携帯にかかってくるから、固定電話が鳴るとすぐわかる。今日は立て続けに2本もかかってきた。それも間髪なく、切ったとおもったらまたリンリン♪うぅ、とおもい、チョー不機嫌にでてやったら、さきほどの勧誘主ではなく女性の声。。。。RUU「もすィもしィー。。。」女性「あ、もしもしー、どなたかー大人の方はーいらっしゃるかしらぁ?」RUU (不機嫌な声で)「わ・た・し・が大人です!!」女性(動揺したように)「あら、ごめんなさい、声が若々しかったもので。。。」うむ。ナイスフォローだよ。勧誘職員。ま、最初に普通なら「ハイ。○○です」と自分の名前をつげるものだからね、子供と思われてもしかたないっちゅやー仕方ない。。。しかし、安易に名前を名乗るのはイヤなのだ。。。最近へんな電話が多いしさ、誰かわかんないうえに、大抵下手な勧誘ものと決まってるのに、名前なんぞ名乗るものかー、というのがありますです・・・。でも、そんなこんなで重要な電話だったら困るよね。たとえば、うちの父ちゃんの上のねいさん、とか。。怖いんだ、この人。(ふぅーよかった、親戚からの電話じゃなくて)んで、勧誘のおねいさん(いや、中年層のおねいさんではあるが)の話をひとしきり沈黙して聞いててあげてみる。なんか、「自家発電のススメ」的勧誘。それはすばらしいーね。やすけりゃ買うよ、そりゃー買うさ。ひとしきりながながと説明を聞いた後、、、RUUついにあつくほとばしる、、、、そして彼女をヤジさんキタさん並にいぢめてしまったのでしたー。いかん、いかん。。。悪気はないんだろーけど、まわりくどい説明にぶちぎれた。つい、理論正論まくしたてて撃退してしまいました。。。後で思うも、そんなに熱くならんと、さっさと”やんわり”お断りすればいいのにね。なんか、かわいそうなことをしてしまいました。。。(*´Д`)とほほ。勧誘するほうも必死なのにねーー。思えば、むかしっからケンカ好きというか闘論好きで、街頭の勧誘人ともよくバトルしてました。その名残はまだなおらず・・・。先日も友人宅でマターリな日々を過ごしていたときも、つい、反論とかしてしまいます。でも、○○じゃない?とか、だけどそれは○○ってこともあるじゃない?とか、なんでも物事をナナメにみちゃう癖はなおりません。そこばかり強調すると、敵ばっかりふえちゃうよね。。「そうだよねーうん。うん。」ってやっぱ練習しないとなかなか口癖になんないね。毒を吐くのはほんとうにもうやめよーう、と思いはするも・・・。抑圧がそこにあったら、何かの拍子にヒョイと顔を出す。昨日もずっと聞き続けていたOSHOの講話にもたくさん出てくる話なんだけど、まだまだ何かがたくさん閉じ込められてるのかもね。OSHOの講話の中のひとつに、ある若者はお酒を飲んで酔っ払うと必ず自分の妹を犯してしまいそうになるので、その若者はお酒を追放する運動に熱中するようになった、という話がある。でもそれはお酒が悪いのではなく、お酒のせいにしても仕方がない、問題はセクシュアルなことに対しての抑圧だ、とOSHOは言っていた。そのように、人々は何かにつけ外側の物に罪を擦り付けるけれど、問題は自己の内側に潜んでいる抑圧をしらないからだ、と言うようなこと。最近おもうのは、一人でこもってるときづかないことっていっぱいあるなーとゆうこと。いろいろな人間関係のなかでもまれてようやくきづかされることってたくさんあるよね。ヒマラヤの頂点で一人座って至福に満ちていても、ひとたび世間に出たら怒り爆発しつづけた聖者の話を確かOSHOがしてたけど、(あれ、ひとりさんだっけか?ごっちゃになってますー)その話とかも思いだしたりして。ルーぅもたまにお友達と長い時間をすごすと、自分の中の否定的マインドや嫉妬や僻み、コンプレックスなどいろいろなものが見え隠れします。一人でいて問題なくても、大勢でいたらどろどろしちゃう(または見える)んじゃ、まだまだだよね。やっぱりお友達は神様だー。とゆうか、人間関係いろいろってなかなかのいい修行になるものね。ふぅー。じゃなかった、今はやりのフォー♪\(⌒▽⌒)/ ね。追伸、やっぱ、忘年会は HGの「フォー」が一番多いとおもわれ。昨日も見ちまったよぅー。(-c_-*)ハードゲイ(芸)もどき。
Dec 16, 2005
オソー(改めOSHOですー)の講話第2弾。今日はカセットのやつ聞いてーねますぅ。。。INTELLIGENCE Speaks on Themed of our times より。"Intelligence is trust in your own being Intelligence is adventure, thrill, joy, Intelligence is to live in this moment, not to hanker for the future, Intelligence is to make the utmost use of this present moment."OSHOOSHOの語り口はどこのだれよりも熱ーく、私達に向けて語ってくれます。そんでもって、間の取り方が絶妙。。。この”間”、分析したひとがいうには、なんか、ふしぎなパターンをもってるんだって。ここで"間”をとるだろうな、とおもってても、通常の人が認識するようなありきたりの”間”とちがって、予測不可能な間の取り方なんだって、と、、、そういう話を聞いた事があります。つい、OSHOの声は気持ちよくッて、眠気もさそわれたりします、、、長年の講話録を聞きつづけてきたけど、自分にとって、ツボにはまるような内容の講話に限って、眠りこけちゃう、ということもよくありました。。。聞きたくない様な耳の痛い内容の講話の時は、スペースアウトしたりして聞けなくなったりしちゃったりします。毎日、インドで行われている、OSHOの講話(ディスコース)の時間ですが、ルーぅはほぼ毎日通っていました。I LOVE OSHOディスコース。で、なんか、おさぼりモードになって、遅刻して参加しそびれた日に限って、今の自分に必要な内容の講話を流してたりします。なので、OSHOの講話って、ほんとに必要なときには、必要な内容のものがやってきたりしてるんです。でも、ぼけぼけしてると、聞き逃したり、聞きあやまったり、なんてしてしまいます。改めて、また同じ講話でも聞きなおすと、めちゃめちゃ新鮮。ぅぅ。我がマスターは相変わらず顕在じゃ。そこかしこに、、、。ね。オオーソー♪\(⌒▽⌒)/ わーい。
Dec 15, 2005
なんか、時間に追われてー。って言っても、MIXIみて遊んでて、すっかり支度するのを忘れてただけ。もう、いかんのぅ。時間を自分の好きに、いいように使ってると、すっかりマイペースすぎるらしい。顔にクリーム塗らないとかっぴかぴの、がっさがさじゃーん。でも、時間がないのでもう超テキトウ。でも、しっかり、お昼は豆乳ミニ鍋をつくって食べたけど、おなかがいっぱいで、食べすぎのもよぅ。いかーん。冬は仕事モードになるのも時間がかかるらしい。いやぁだなぁ。世間のみなさんはエライなぁ。ちゃんと働いて、時間を有効に使えて、遊びにも忘年会にも、きっちりやってるんだろうなぁ。子供の世話とか、だんなの世話とか、家事ひとしきりやってる主婦も、えらいなぁーー。ルーお気軽人せいまっとう中です。とゆわけで、いってくるべし、べし、べし。世間は忘年会。の、お世話。。じゃあね。
Dec 15, 2005
オソーの講話を何回もかけて見る。This very body the buddha vol.10 やっぱ、我がマスターの声って聴いてるだけでくつろぐね。マイミクB氏からどうゆーわけか、おこぼれをいただけたので、なんだかうれしくって何回もきいちゃう。我がマスター、オソーはなんとも声がパワフル。まだ元気いっぱいの頃の講話かな。。。自由とは選択することができるということトータルに在れ、ということについてエンライトメント(悟り)は得ようとしても掴めないということFOOL と Foolishly についてなどなど、質疑応答集です♪(*′・`)ノ~OSHO~。もっとDVD CD化がすすんでくれたらなぁ。OSHO ディスコースCD化アーカイブプロジェクトが進んでくれたらいいのにィ。ね。OSHO.COM
Dec 14, 2005
今日のチャックセンセの言葉。パラパラと開いたところにちょうどあったのがコレ。143日嫉妬は自分自身への復習「嫉妬」というものは自分の幸福を誰か他の人の行動によって決定づけてしまうことです。そこではたしかに痛みが起こるのも当然です。嫉妬はもっとも不快な感情のひとつです。嫉妬はまた情緒的な脅迫でもあります。相手が自分の気持ちに気づいていようがいまいが、嫉妬という自分の不快な感情を使って人を思いどうりにコントロールしようとするのです。でも嫉妬が起こるのは誰かをめぐる競争で自分の「負け」を感じたときだけです。事実、すべての競争は「負け」前提に成り立っています。こうした嫉妬から自分自身を解き放つには、他の人の行動を基準にして、自分自身の価値をはかるのをやめる事です。144日嫉妬しているほど、実は自分の事を信用していない。私達は嫉妬しているとき、「自分がそういう状況におかれたら、きっとこうなってしまうだろう」と思うことをパートナーに投影して、相手もきっとそうにちがいないと思いこむのです。これは嫉妬に関してもっとも深く隠されている事のひとつです。以下、略。続きは、チャックスペザーノ博士の「傷つくならばそれは愛ではない」を読んでね。
Dec 14, 2005
ヒンディームービーをみたー。ゆうにおおよそ3時間半もの長編大作~(*´Д`)とはいっても、インド映画はほとんどが3時間、ながいシャールク・カーンの映画、KAL HO NA HOもすばらしかったけど、今度の新作もなかなか♪うぅぅ。かっくいい。KAL HO NA HO 「明日はなくとも」という映画もお涙頂戴で、涙なしには見れません。歌がまたイイ(・∀・)♪ところで、今日見た新作 SWADES ですが、はっきりいってほとんど内容がわかりませーん。ALL ヒンディーのみのシリアス系社会派ドラマ仕立てなので細かいとこはわかんなかったけど、「うぅーやっぱり、インドっていい国だなぁ」涙と思わせるいい映画でした。英語のサブタイトル付がリリースされたらもっといいけど、たぶん、どこかにはあるでしょう。シャールクはムスリム出身で、奥さんは確かヒンディー教、なので彼なりの宗教感と、平和主義的な考えの持ち主なので彼いわく、「自分が納得するいい映画にしか出演はしない」んだそうです。自分の子供がみても、感動できて、人々に愛と平和を感じさせられるものにしか興味はないんだ、とも言ってました。なので、アクション映画に出る事はあっても、ただ撃ち合い殺しあうような悲惨なものには絶対でないんだって。今回の新作も、貧しいビレッジ(村)の貧困層の中に入って開拓の手伝いをする、というようなエリート(しかもNASAの人)の役。アメリカに仕事をもつ主人公(シャールク)がインドのハートフルなビレッジの暮らしに溶け込むほのぼのムービーでした。言葉はほとんどわかんないのに、なんで泣けるんでしょうねぇぇぇぇ。不思議。インドはすばらしい。ルーぅもいつか、またインドにかえりたいよぅー。(インド好きはなぜか、インドに帰りたい、と訳の分からぬ事をつぶやいたりします、そこのあなたは、つぶやいたりしてませんかー?ねー。)あ、あと、シャールク満載のDVDがでてます。こちらもおすすめ。THE INNER/OUTER WORLD OFSHAH RUKH KHAN
Dec 14, 2005
自らの実存の真実を知らないかぎり生の大いなる祝福を感じることはできない自分が存在するという単純な事実に喜びあふれることはけっしてできない真実を体験できなければこの広大無辺な宇宙とつながることはできない― それはあなたの家だ ―宇宙はあなたに生を授けあなたが意識の頂点に成長することを大いに期待しているなぜなら、存在はあなたを通して目覚めることができるからだそれ以外に方法はないとゆわけで、朝からオソーの講話をひさびさ、何年ぶりに聞いて、後は、オソーのご本も読まないとだし、インドの超イケメン俳優、ナナツ星トップスターのシャールック・カーン様のDVD と新作映画を見ないとだし、いっそがしーーなーーー。でも、一日、カウチポテトするなら、やっぱ、おいしいコーふぃーと、ポテトがいるにゃ。ちょっと、なんか買ってこよぅーっと。(また太るよぅーと思うでしょ?だけど、最近ミスドのどかぐいしたのに2キロも体重が減ってるの。るぅ、やばい、まぢ けばい?!)でもとりあえず、いたって健康(ルーぅ基準範囲内良好)なのでやっぱ、カウチでポテトな日々はつづくのでしたー。アマゾンで購入したご本はいまだ届かず。。。ほんとに読みおせるのか、こんな分厚い本。(:゜д゜:)ハアハア
Dec 14, 2005
昨日、名古屋の東名阪でも、雪注意のライトが点いてた。今日も寒いね。。。。うちの方はそれでも雪ってなーに?というくらいのいいお天気で、雲もお空もきれいな夕日色。。。でも、南鹿児島でも雪なんだってね。ふぇーー、すごいね。大寒波。。。。そっちも ゆき ? ふってるのかなー?そういえば、昨日その前に名古屋鶴舞駅前で、ちょっとおかしい系のいっちゃってるお兄さんが、ひとりでぶつぶつつぶやいてたの。。。「いや、たいへんだ、沖縄で大雪、大雪だ、沖縄で大雪、大雪・・」ぶつぶつ・・・。ちょっと、頭がおかしいひとだったのかな。つぶやきのおにいさん。でも、まさか、沖縄じゃないけど、鹿児島でも大雪なんてすごいね。。みなさん、おきをつけてね。寒いから。囲炉裏ばたでまったりしてるかな。。。だれかさん。こっちは、雪には無縁の国ですよ。それと、もうひとつ、今日おもったこと。寒いので今日は近場の温泉でまったりしてきて、その帰り道。いつもの交差点を左折したら、ちょうど歩行者が横断歩道をわたるとこ、それで、歩道の手前で車を停車させてまってると、大抵、歩行者の方が、車にきづいて駆け足になって横断歩道を渡ろうとするよね。車が待ってるし、後続車もあるから、歩行者も気を使って急ぎ足になる。なんか、いっつもその姿をみると、「ほんま、すんませんな~、おおきに」な気分になっちゃいます。それで、今日も寒い中、駆け足で私の車に気づいた歩行者が駆け足でわたってくるのをみて、しみじみ、、いやーすんませんなぁ。とつぶやいちゃった。そんな自分を客観的に観てて、ああなんて日本人なんだ我々は。とおもったよ。歩行者優先なのに、気をつかって急ぐ日本人と、それを見て、いや、悪いなー、と思う運転手の日本人。外国なら、(特にインド)歩行者も車もバイクも牛もお猿もみんな我が物がおで闊歩してるもんね。日本って国はおもしろいな。スイスに行った友人が、歩行者専用の信号機の押しボタンを、ジャンピングキックで押して渡る若者を見た、と言っていたのを思いだした。赤でも渡るのが普通、とも聞いたし、日本人て礼儀ただしいうえに、謙遜、な人達だよ、まったく。(いや、私はちがうが。。。)最近は、工事現場の誘導警備員のおっちゃん達にもついつい頭がさがっちゃう。寒いのにねー。どもありがとう。それじゃ、みんなあったかくしててね。
Dec 13, 2005
あぁぁ。。。楽しかったぁぁ。。。最近の名古屋(&大阪)FRIENDS達とのお祝いの集いではほんとーにたのしい。な。昨日の深夜遅く(それも2時30だったよ)にようやく帰宅しましたー。ついつい時間をわすれて遊んでしまったよ。。MUSIC CEREBRATION とおいしいご飯でなつかしい友人達とついつい長居はるばる大阪からたくさんお友達も来てくれて、たのしいあつまりでした。沖縄の古い友人にも再会できたし、うれしいな。子供たちもたくさんきてくれて、大人も子供も一緒になってよぅあそんだね。ふぅーたのしかったぁー(⌒∇⌒*)♪友人の一人が広いきれいなアパートに住んでるので遊びに行ってました。名古屋も郊外のほうは静かな田園風景でイイ♪みんなでご飯を作ってたべました。いろいろお土産ももらったし、どうもありがとう。あのシンギング・グループまたやりたいなぁーー。今度は関西でね。ビバ、セレブレーショーーン♪
Dec 13, 2005
それではITに行って気マース。じゃ、みんな、あとでね。This is it っていい名前だな。あ、これギャラリーのお店?の名前ね。あと、Jast like this とかAh This とかいい単語のくみあわせだなー、とおもう。あ、じゃぁ、あとでね。いま、いく。いま。あ。
Dec 11, 2005
おーまいがーーっ、、、、とおたけんで帰ってきたよ。RED MOON がめちゃめちゃきれい。今日はキレイな半月で、まっふたつに切り裂いたような半月がこの時間、夜もふけると沈みがかってあかーく光ってた。OH My goodness とため息がでるほどきれい。徐々にキレイな黄色から赤ーく染まっていくようすが見れた。今日は一日なんてきれいな空の風景がみれただろう。出勤前の、夕暮れにそまる頃にも、白くっておおきなくじら雲が、反対側に沈んでいく赤々とした夕日に照らされてペールピンク、コーラル、ペールブルー、パープルのグラデーションにため息。。。。世界はなんて美しいんだろーね。今日はおそい仕事で、帰りも遅くなった。明日の婚礼の支度で忙しくて、もうこんな時間だ、、、。婚礼のテーブルセットは結構楽しい。。ナイフ、フォーク、一式と、テーブルの飾りつけ。。。明日はお日柄もよろしく?なのかな、婚礼だらけみたい。みなさん、お幸せにね。。。あは。RED MOON も沈んだ頃あい、ではおやすみなさーい。It's a Beautiful day
Dec 9, 2005
今日みた夢は、なんだか、すごかった。ふぅ。最近は日記を書くことから少し遠ざかりたい気分で、どうでもいい日常の雑多な思考記録には、関わりたくないでいたんだけど、今日はなんだか、つい書いてみた。最近、友人の一人が重病で病院ぐらしをしている。遠くにいるので会いにはいけないのだけれど、心のどこかに引っかかっていたんだろうかー。死に対面する人間の壮絶な夢をみた。それが自分なのか、友人なのか、あいまいで、夢の中ではわかんなかった、そして瞑想ホールで友人達と集っている、という夢だった。スーフィーでも死に関しては主要で重要な事柄としてそれにまつわる瞑想法もあるけれど、そういうことを夢の中で実体験したような感覚。起きた時、ふぅー、てな感じで、目覚めた。なんか、ここでは描写が不可能なくらいのすごい映像で、なので、ちょっとかけないけど、なんか、ずっし、と来るような夢。実際、私の友人は先日の誕生日もそのほかの友人達とたのしく過ごしたようで、元気にしていると連絡が入ったので、ほっとしているところなんだけど、最近、また、死生感について考える。。。なわけ。あ、それほど深刻に、真剣に、ってわけじゃ、ないけど。でも、友人の今の心境や、心の中は今、一体どうなんだろう、と、毎日思うの。でした。良い友人達に囲まれて、どうか、順調に楽しく、しあわせに暮らしてくれてるといいなぁ。良きことがなだれのごとくおこりますように。。。それと、最近、私も自分の体のことでひとつ重大な決意を、、、自分の目は、弱視に近い強度の近視で、最近コンタクトによるアレルギーがひどくなっちゃってて大変悩んでいるのであーる。眼鏡ではかなりの分厚さのレンズになってしまうし、コンタクトでは赤目がひどくなって、もし角膜裂傷などの症状に進行したら失明の可能性が高くなるんだって。なので、最近ちょっと真剣にレーシックしようかなー、と考え中。手術が可能な人と、不可能な人がいるらしく、もしかして、規定にそぐわない可能性も大、なので、まだわからないけど、検査に行くつもりにしてるとこ。体のことに関しては、たくさん困ったことがあって、一体自分の境遇はー、、、なんて悩むこともしばし。これも自分で選んだ因果の法則?もしくは試練の一環として、昔から受け入れてきたつもりだけど、実際、現実問題、お金もかかるし、仕事にも支障がでるし、ことさらまいったものであるぅ。。。。ま、しょーないか。これもまたそれ。すべてプロセスはうまくいっています、とアファメーションしてみる。
Dec 9, 2005
イブン・アラビーの存在一性論の中から「創造の方法」について。創造の「方法」は「三性」として考えられる。一という数は完全であり、あらゆる表現を超越している。この数はあらゆる数の起源であり原理である。それゆえ最初の奇数は一ではなくて三である。三は単一性のレベルとして考えられる。単一性とは「知識をもった」絶対的存在である。「知識を持っている」とは、必然的に知る者、知る事、知られるもの(知の行為者、行為、知の対象)の三つを含有する。創造は絶対的一者が単一性をもった瞬間にはじまる。この単一性はもうひとつの三性をもち、この三相が創造のプロセスに参与する。第一に、絶対的一者が顕現の方向に動くにつれ、その中に自己知識が生じてくる。このとき、アーケタイプ、すなわち神名と属性が神の意識の中にあらわれる。自己意識(知る者、知る事、知られるもの)意志、神命の三性は行為者にかかわるだけであり、これだけでは何の効果も生み出さない。行為者が効果を得るためには、受容者(知られるようになるもの)の側にもそれに対応する三性の認識がなければならない。創造は、能動的、及び受動的な二つの三性が一致するときにのみ現実態となる。イブンアラビーはこれを以下のように表現する。粘土(知られるもの)からものを作っている職人(知る者)を見る人は、職人の手の中にある粘土が単に受身であり、何の動作ももたないという表面的な観察を行うかもしれない。つまり、実際には粘土が、積極的に自分の側から職人の動作を決定しているのであるという事実を見のがしている。確かに職人はさまざまなものを作り出すことが出来る。しかし、何を作るにしても、粘土そのものの本性によって制限された限界を超える事はできない。いいかえれば、粘土の本性自体によって、現実態となることが可能な形体というものが決定されるのである。抜粋 スーフィ・イスラムの神秘階梯[平凡社] 世界の全体は、ひとつの鏡であると知れ。その粒子のひとつひとつの中に、百の輝ける太陽がある。もしも、汝が一滴の水の「心」を切り裂いたならば、百のまじりけのない大海が外に流れ出るであろう。もしも、汝が砂の一粒、一粒をよく眺めるならば、その中に何千もの人間を見ることだろう。彼らにとっては、蚊は象のような大きさであるし、一滴の水は、ナイル川のごとくである。その中では、一粒の麦は百回の収穫にも等しい。一粒、一粒のきびの「心」の中にも世界全体が宿っている。一匹の蚊のうちにも生の大海が宿っている。目の瞳の中にも天がある。「心」の一粒が、どんなに小さくとも、そこは両世界の主が在す場所である。非存在は鏡であり、世界は鏡の中の像である。人間は、その像の目であり、その中に身体は隠れている。汝は像の目であり、神は目の光である。誰が万物を見る目を見た事があろうか。世界は人間となり、人間は世界となった。これより明らかな説明はない。汝、もし行為の根元を見るならば、神は見るものであり、見られるものであり、見る行為そのものである。聖なるハディースは、このことを宣言した。そして、見ることなしに、また聞くことなしに、それを明らかにした。マフムード・シャビスタリー「玄秘の花園」Mahmud Shabistari (1320-21没)イランの神秘詩人イブン・アラビーの「存在一性論」思想を詩にあらわした。抜粋 スーフィ・イスラムの神秘階梯[平凡社] 汝、道に迷った粒子たちよ、来たれ。汝の中心に近づけ。汝が見た「永遠の鏡」となれ。広大な暗黒にさまよっていた輝きよ。汝の太陽に帰りきたれ。アッタール「鳥の言葉」
Dec 9, 2005
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