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私:
戦後、日本人はマッカーサーを「 天皇
」のごとく思っていたが、実は、「 天皇・マッカーサー第1回会見
」の頃、 マッカーサーの地位も不安定
であった。
まず、 マッカーサーとトルーマン大統領
の関係だね。
これは、マッカーサーが ワシントンの指示
に従わないで 勝手な行動
をとることが多いということから来ているね。
トルーマンの帰国命令
に対しても従わない。
A氏 : マッカーサー が 朝鮮戦争 で、 原爆攻撃 を言い出して、 解任 されるが、それ以前から両者の確執があったわけだね。
私
:国際的には、 占領後の各国の政治体制
は、 連合国の協議
によることになっていたが、 占領地に共産主義体制を拡大しようとするソ連
と 米英との間には対立
が始まる。
日本占領
も、 極東委員会
ができて、 占領終了後の日本の治体制に介入
しようとしだす。
天皇制廃止論
も出ていた。
これをマッカーサーは嫌い、 極東委員会
が動き出す前に 既成事実
を作り出すね。
A氏
: 天皇象徴制の日本の新憲法が緊急で作られた背景
だね。
私:
それは マッカーサーの「権限」
と 天皇の「権威
」の 一体化政策
だね。
新憲法は押し付けというよりも、 天皇制維持は、マッカーサーも安定した占領政策上、必要
だったわけだね。
A氏 :その意味からすると 第9条より天皇制の維持が重要 だったわけか。
私:
新憲法は、 1947年5月3日に施行
された。
天皇・マッカーサー会見
の 第4回会見
は、 その3日後の5月6日
に行われる。
この会見の内容も、当時、極秘であったが、 1978年になって、児島氏が公表した通訳の奥村氏の「手記」で明らかになっているね。
この会見では、新憲法で「 象徴天皇
」になったはずの 天皇
が、 マッカーサーと冒頭から、新憲法の9条問題に集中して会話
する。
この頃は、 天皇には 東京裁判の行方に脅えていた
ころの気配は微塵もない。
A氏 : 9条問題とは非武装のこと だね。
私
:天皇は安全保障上、軍隊がないと、 国連に頼らないといけないが、その国連があてにできない。
アメリカによる安全保障が好ましいという論を提起
するが、マッカーサーは、国連も強化されるし、 非武装の日本を侵略する国家はないと反論
する。
実は、この会見の 奥村手記
は、ここで終わり、 後半が廃棄
されているという。
奥村は
、会見後、 オフレコ
を条件に記者クラブに会見の内容を説明したという。
ところが、何故か、 翌7日のAP電
で「 マッカーサー
は、天皇との会見で、 日本防衛への広範囲な保証を与えた
」と報じた。
それが「 カリフォルニア州を守るように日本を守る
」と天皇に言ったという噂をよぶ。
マッカーサー
は、 翌7日に直ちに否定の声明を発表
する。
このせいか、 奥村氏は、通訳をクビになる。
奥村氏のオフレコ
は、むしろ、 日本の安全保障問題をクローズアップしたいための意
図
があったのではないかという。
A氏 :しかし、この会見では新憲法が施行されたのに「 象徴天皇 」は、政府や外務省の「 頭越し 」に明らかに マッカーサーと政治的活動 をしているね。
私:
天皇の発言は、この第4回会見後、 沖縄における米軍の占領
が「 25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション
」もとで 継続
を望むという、有名な「 沖縄メッセージ
」として、 マッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられている。
この メッセージ
が 天皇自身の意思
で出されたことは、「 入江相政日記
」で明らかであるという。
A氏 :しかし、 マッカーサー は 国連主義 だったのかね。
私
:「 日本は極東のスイスたれ
」という主張だったようだ。
1950年の第10回会見以降
、 天皇が安全保障をめぐり、具体的な外交に動き出す。
この年の6月
に来日した ダレス
に対し、 天皇は
口頭及び文書で基地提供を日本が自主的にオファする旨を伝える。
基地問題で消極的な姿勢であった 吉田首相に対する不信任
だね。
天皇には、 無防備の場合、共産勢力による天皇制の崩壊という強い危機感
があった。
A氏
:あいまいな マッカーサーと吉田をバイパス
してしまったんだね。
天皇とダレス側近との間の直接の外交チャンネル
が生まれる。
私 :明日は、その チャンネル を使った 安保条約 をめぐる 天皇の活動 に移ろう。
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