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January 24, 2021
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January 10, 2017
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弟が死んだ。午前4時5分。57年10ヶ月と24日の生涯だった。大腸がんが見つかったのが2015年4月。手術したが同じ場所に再発したのが2015年12月。残された時間はおよそ一年だろうと覚悟したが、ほぼその通りになった。夏からは入退院の繰り返しだった。弟のがんは珍しいタイプで、転移はしないが抗がん剤が全く効かないというもの。抗がん剤は有害なだけだった。人間が死というものを意識するのは何歳くらいだろうか。自分を振り返ってみると、5歳くらいだったような気がする。父と母、そして弟が同時に溺れて、だれかひとりしか助けられないとしたらどうするか。そんなことを考えて泣きそうになったのを覚えている。病気が進行すると、病人はわがままになる。弟も例外ではなかった。しかし一週間ほど前、「今日は本当にありがとう。ネムっていたら軽く起こしてください」という書き置きがあった。それを見たとき、死が近いと直観した。その紙は宝物になった。
December 25, 2016
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「バーンスタイン・レガシー」と題したコンサート。PMF修了生でファゴット奏者のダニエル・マツカワは、近年、PMFでバーンスタインにフォーカスしたコンサートを指揮しているが、今年もバーンスタインゆかりの曲、作曲家などの作品を集めた。ダニエル・マツカワはフィラデルフィア管弦楽団の首席ファゴット奏者をつとめているが、その頃から指揮を学び、カーティス音楽院では実際のコンサートで経験を積んできたらしい。過去のPMFでの指揮は可もなく不可もなくといったところだった。やはり指揮を専門に学んだ人に比べると素人ぽさは否めなかった。しかし、今年はちがった。指揮に開眼したというか、指揮者らしい指揮をするようになった。たぶん経験値が一定のレベル、蓄積を越えたのだろう。オーケストラを手中にする技が飛躍的に向上したのを感じた。デビュー以前から指揮の要諦を会得しているような人もいれば、だんだんと開眼する人もいる。大野和士や小泉和裕はデビュー直後にもう指揮の技術は完成しているように見えた。一方、高関健などは40歳くらいのある時期、突然のようにオーケストラを自在に動かせるようになったのをおぼえている。いままでのマツカワの指揮を見て今回のコンサートはパスしようかと思っていたが、行った甲斐があったというものだ。ブラームスの「大学祝典序曲」はバーンスタインがフリッツ・ライナーの試験を受けたときの曲であり、「悪口学校」序曲のバーバー、「エル・サロン・メヒコ」のコープランドはバーンスタインが高く評価し個人的にも親しかったことから選ばれた曲という。前半はこれらにビゼーの「カルメン第一組曲」。これはマツカワがバーンスタインの録音で親しんだ曲という。バーンスタインの演奏の再現をめざしたようだが、いささかやりすぎの部分もあるバーンスタインのそれに比べると穏健で美しい演奏。後半はすべてバーンスタイン作品で「ウェストサイド物語組曲」、オーケストラのための「ディヴェルティメント」、「オン・ザ・タウン組曲」、アンコールに「キャンディード」序曲。「ディヴェルティメント」はバーンスタイン自身の録音で聞いてはいたが、あまり面白いとは思っていなかった。しかし実演できくと、たしかに名曲とは言えないにしても、バーンスタインの才気がわかって面白い。作曲とは美しいメロディーにハーモニーをつけることだと思っている人が多いが、それは作曲のごく一部でしかない。それらがなくても、創造性のある作品を作ることができるという見本のような曲。しかしこの曲全体の品のないイメージは好悪のわかれるところだろう。クラシックソムリエだという司会者とマツカワのトークをはさみながらの展開。声楽曲を加えるなどGALAコンサートぽさがあったらもっとよかったと思うが、たった1000円(学生は500円)で珍しい作品も楽しめるこのようなコンサートを、無名の指揮者と学生オーケストラだからという理由で忌避するクラシック・ファンはバカ以外のなにものでもない。
July 27, 2016
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前日と全く同じ演奏者とプログラム。しかし、全く別のコンサートと言っていいくらい次元がちがった。特にそう感じたのはほぼアカデミー生だけによる前半。ワーグナー「さまよえるオランダ人」序曲は、どこがどうとは言えないが密度が増した。ドビュッシーの「海」の第二楽章は手探りだった前日とは打って変わって熱演で、思い切りよいクレシェンド、より大きな波がおしてはひいていくようなスケール感ある演奏は思わず拍手を誘ったほど。メーンのマーラー「交響曲第4番」も、生硬さがとれ細部のニュアンスが格段に豊かになった。二日目や三日目の演奏がよくなるのは超一流のオーケストラでも経験することではあるが、若者集団の適応力、柔軟性に舌を巻いた100分。
July 24, 2016
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3つのプログラムで行われるPMFオーケストラコンサート、Aプログラムの初日。まず興味は今年のPMFオーケストラの参加者のレベル。昼のオープンリハーサルを見学した限りでは過去26回の平均といったところか。女性とアジア系の割合が増えてきている。次の興味は指揮者のジョン・アクセルロッド。今年50歳のアメリカ人指揮者で、ハーバード大学出身で前職はカリフォルニアワインのバイヤーという経歴の持ち主。バーンスタインとムーシンに師事したことがあるらしい。前半はワーグナーの楽劇「さまよえるオランダ人」序曲とドビュッシーの交響詩「海」。わかりやすい指揮を見ていて、いちばん最初のリハーサルを見学してみたかったものだと思った。にわか仕立ての学生オーケストラを数日のリハーサルでここまで整え、音楽的な演奏ができるまでに導く手腕そのものに興味を持ったからだ。これまでのPMFに登場した指揮者をつらつら思い返しても、自分の解釈の押しつけではなく、まずオーケストラからバランスよい響きと開放的な音楽を作りだすことのできた人は決して多くない。その点、オーケストラビルダーとしてかなり優れた人ではないかと思うし、オーケストラのメンバーから好かれ信頼されるタイプだろう。二曲とも特に不満のない出来。ディナミークがややフォルテよりで、耳をそばだてるようなピアニシモや神秘的な音空間の創造(特にドビュッシー)はなかったが、明晰なのに温かみのある音作りには好感。後半、マーラー「交響曲第4番」では、ウィーン・フィルの現・元首席奏者が弦の、ベルリン・フィルの現・元首席奏者が管打楽器セクションに加わる。コンサートマスターの席にライナー・キュッヘルが座るだけで格が上がった気がするが、音も明らかに変わる。音に厚みや膨らみが加わり、フレーズが尻切れにならず次の音楽にリレーされていく。曲のせいもあるが、アクセルロッドの音楽からは皮肉や哀愁や怒りや諧謔といったものがきこえてこない。これは世代のせいもあるかもしれないし、アメリカの指揮者にかなり共通の現象かもしれない。暴力的・悪魔的な表現を要求されるような作品でどうなのか。バーンスタイン作品や現代曲も得意としているようだが、陰のある明るさのようなもの、あるいは暗い中に光が差し込んでくるような音楽でどうなのかは未知数だ。すでに録音も多くブラームスの交響曲全集も出ている。Bプログラムのブラームスでその辺のことを確かめられるだろう。マーラーのソリストは今野沙知恵。音程は正確だが声に伸びがなくオーケストラに消されてしまう部分もあった。なおこのコンサートの前に小ホールで無料の室内楽コンサートがあった。例年のことながらこれが出色。シュールホフの「フルート、ヴィオラとコントラバスの小協奏曲」、バックスの「フルート、ヴィオラとハープのための悲歌三重奏曲」などが演奏された。オーケストラメンバーでは大平治世という人のフルート、セバスチャン・ジンカのコントラバスなどが印象に残ったが、安楽真理子のハープ、ミヒャエル・フーデラーといった教授陣の演奏はまた別格。この二人はフランセの「バロック風二重奏曲」とフォーレ「夢のあとに」、サン=サーンス「白鳥」を演奏。めったに聞くことのできない曲と編成、室内楽ならではの臨場感は、もしかするとPMFの全プログラムを通じての白眉かもしれない。
July 23, 2016
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廃校になった小学校が「あけぼのアート&コミュニティセンター」になり、いくつかの団体が入居し拠点として利用している。演劇公社ライトマンはここを稽古場にするだけでなく半年に一回の公演もここで行っている。そのセンターが「あけぼの学校祭」というイベントを開き、その催しの一環として開かれたのがこの公演。17.5回とあるのは、5月に行った第17回公演「鳥を眺めて暮らす」から派生した内容のため。その第17回公演で主演の山ガールを演じた千葉美香の演技がすばらしかったので、また見られるかと思って行った。だが彼女は今回は出演せず残念。ただ会場案内などをやっていて、ライトマンに加入したということなので、次回公演からが非常に楽しみだ。世捨て人のように山小屋で暮らす寛文が主人公。短編が3つで、最初は狩猟好きの青年春充が仕留めたクマのレバ刺しを蕎麦屋の主人しんすけが調理する。二番目は東京から転勤で帯広に来た狩猟好きの青年春充が寛文のところに挨拶に来る。ふたりの会話はかみ合わずちぐはぐに終始する。最後は蕎麦屋の主人しんすけと同じ俳優が寛文の祖父文二を演じ、帯広に移り住んだ経緯、森の女神との出会いなどを物語る。ただこの祖父は妻の没後、悪い女に騙されたらしく、地元の青年健人らは山狩りで逃げた男女を追う。基本は会話劇で、その会話のやりとりが虚実の皮膜の上を行ったり来たりしているようで面白い。三つの話に関連性はないが、「鳥を眺めて暮らす」を見たことのある客には、いくつかクスリと笑わせるしかけもある。初日と最終日を見たが、やはり最終日が間のとり方、セリフの明瞭度などが段違いだった。「あけぼの学校祭」の出し物は全部見たが、弦巻楽団新人リーディング公演「子どものように話したい」も楽しめた。ほぼ演技なしの朗読だけで行われたが、キャスティングが的確で、死んだ男を演じた役者など、女性なのに男に見えてきたほどだ。
July 8, 2016
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元札響チェロ奏者の文屋治実が主宰するピアノ・トリオ。ほかのメンバーはバイオリンの岡部亜希子とピアノの新堀聡子。3度目のコンサートだがきくのははじめて。一発屋というか、一曲だけが飛び抜けて有名という作曲家がいる。リムスキー=コルサコフなどはその典型で、「シェヘラザード」かせいぜい「スペイン奇想曲」が知られるくらい。コルサコフにはオペラや交響曲もあってときおり演奏されるが、演奏頻度から言うと99%が「シェエラザード」(と熊ん蜂の飛行)だろう。その昔、隠れた名曲がないかと思って探したことがあったが不発だった。そのとき室内楽までは調べなかったので、この曲(ピアノ三重奏曲)めあてで行ったのがこのコンサート。コルサコフが円熟期に書いたこの作品、作曲者本人は失敗作と考えたらしい。弟子が加筆したものが出版されたという。4楽章形式の大作だが、チャイコフスキーのトリオのようなおぼえやすいフレーズもなく、失敗作ではないがせいぜい佳作というところ。最近、作曲家の全集が廉価で発売されることが多いが、もしコルサコフの全集でもあれば、その中と一作としてきくのであればまた発見があるのかもしれない。3人の熱演を持ってしても作品の弱さは補えないという印象。前半はメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第一番。ピアノ三重奏曲としては突出して多く演奏される作品。メンデルスゾーン特有の感傷性が美しい作品だが、どちらかというとスケール豊かに演奏されていた。しかしこうして並べてきいてみて思うのは、やはりピアノという楽器と他の楽器の相性の悪さ。弦楽器だけでなく、管楽器や声楽でもピアノが加わるとそれらの持つ個性的な音色や高次の倍音を消してしまうようなところがある。マリンバなどのような鍵盤打楽器にもそう感じることがあるが、ピアノは同時に10個(あるいはそれ以上)の音を出せるから始末が悪い。たいていの曲が弦楽器付きピアノソナタのようになってしまう。だからピアノパートが弦楽器が同時に出せる音(4つ)よりも少ない音しか同時に出さないようなピアノ三重奏曲が書かれるべきなのではないだろうか、などと思った。他の楽器の相性の悪さといったことから逃れられているピアニストというと、グレン・グールドとアンドレア・バケッティくらいしか思い浮かばないが、菅野潤なんかはいいかもしれない。
June 27, 2016
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ラヴェルの「スペイン狂詩曲」が始まった瞬間、「これほど美しい弦楽器の響きを聞いたことがあっただろうか」と、過去の音楽体験を参照させられるハメになった。チューリヒ・トーンハレの弦も美しかった。しかしほんの少し力強さが混じっていた。いや、そういう言い方は間違っている。注意深く力を入れてピアニシモを演奏している、そんな要素が若干だがあった。しかしこのオーケストラはどうだろう。まるで息を吸い、吐くように自然にピアニシモを美音で演奏している。この瞬間に勝負は決まった。これがフランスのオーケストラをきく喜びであり、フランスのオーケストラをきく喜びのほぼすべてだと言っていい。この音は、アメリカやイギリスやロシアのオーケストラは肉薄可能だが、日本のそれは千年かかっても不可能だ。美意識、美学、哲学その他がちがいすぎる。あとは、指揮者がウケねらいの個性的な表現をせずにこのオーケストラの持ち味を引き出すだけでいいだろう。フランスのオーケストラにアメリカの指揮者はミスマッチかもと思っていたし、そう思う人が多かったのか客席も閑散としていたが、オーケストラビルダーとして知られるスラットキンは適任。この人、大指揮者だとは思わないが、音楽をそこそこのエンタテイメントとして聞かせる才能を持っている。良し悪しは別にして、こういう人はいまの音楽界では重宝されることだろう。オーケストラ全体として見たときには超一流とは言えない。フランスのオーケストラといえば管だが、とびぬけたスタープレーヤーはいないようだ。だが、全員が室内楽の精神で他のパートをよくきいて演奏しているのがわかる。落ちぶれたとはいえ、これがヨーロッパ、これがフランスだ。指揮者のエゴを最小限に抑えてオーケストラの美点を最大限に引き出そうというスラットキンの姿勢は、この「スペイン狂詩曲」と追加発表された次の「感傷的で高雅なワルツ」で最も効果をあげていた。ただ前半のラスト「ダフニスとクロエ第2組曲」は、おかれた位置にもよるのか、こぢんまりとおとなしく演奏された。スイス時計のようと評されたラヴェルの精密かつ緻密なオーケストレーションは堪能できたが、曲が曲なのだから大見得を切るようなところや一期一会の白熱もほしかった。ただ、随所の管楽器のソロはいずれも見事で、フォルテでも決して吼えないホルンなど金管楽器、どこまでも繊細なトランペットなど、音の万華鏡を見ているようではあった。後半は「展覧会の絵」。通例よくきくバージョンとはずいぶん細部にちがいがあると思ったら、スラットキンがラヴェルの編曲に手を加えたもののよう。ただ、この改変、ムソルグスキーの原曲の土俗性を強調しようとしたのだろうが、それにしては中途半端。冒頭のトランペットは指揮なしで始まった。しかも奏者はラッパを下に向けている。音は小さく細いが、こういう開始のこの曲の演奏をきくのははじめてだ。この開始、この音色からして、オーケストラはこの曲をフランス音楽ととらえているのではないだろうか。寂寥感、邪悪さ、白熱、ドラマ・・・そうした、この曲に不可欠と思われるものをこのオーケストラからきくことはできない。そんなものは映画にでもまかせておけ、というところか。ひたすら美しい音が、音同士が会話し手を取り合って踊る。そんな演奏は「音をきく」楽しみ、音楽の原点を思い出させてくれるものだった。音楽は音の楽しみと書く。音の美しさを味わうのが音楽の入口。食事もそう。栄養をとるためではなく、舌を楽しませるため。これが文化であり、生活とは次元を異にする。世界屈指の美食の街リヨン。このオーケストラの音をきいてリヨン移住をちらっとでも考えない人間がいたら、なにか人生に対する根本的な態度が間違っている。というわけで、ちょっとリヨン行ってくる。アンコールにはオッフェンバック「ホフマン物語」から舟歌と、スラットキンの「ツイスト・カンカン」。2年ぶりの日本ツァー初日(6月23日、札幌コンサートホール)
June 23, 2016
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「査問」で興味を持ったので、この著者の本をできるだけ読んでみることにした。日本共産党とその下部組織である民青は、大学や労働組合では物取りと賃上げしかやらず、1955年の六全協後は選挙運動と機関紙拡大、歌って踊っての演芸会ばかりやっている連中と思っていた。暴力的になるのは彼らがトロツキストと呼ぶ勢力の運動を妨害するときだけだと誤解していた。本書は著者がミサイル基地建設を実力阻止するために新島に行き、機動隊に逮捕される場面(1961年)から始まる。短期間の留置場暮らしの記述もある。予想もしていなかった逮捕=検挙とその後のいきさつは著者を筋金入りの活動家に鍛え上げていったのだろうが、このころはまだ非暴力とはいえ実力闘争を行っていたのだ。しかし本書はそれが主題ではない。1933年の「教員赤化事件」での被弾圧者たちとその軌跡を3年かけて取材したもの。公安警察が共産党系教員労働組合のメンバーを「治安維持法違反」容疑で検挙し追放した事件であり、彼の父もこのとき警察に検挙され職を失っている。「あと10年早く始めていればと何度悔やまれたことだろう」とあとがきに記しているように、すでに故人となっていた人も多いが、いくつかの偶然や幸運に助けられたようだ。すでに中国侵略を開始していた軍国主義下の日本で、それも長野県の郡部に天皇主義イデオロギーから解き放たれた一群の人々がいて活動を行っていたというその事実に、まず救われる思いがする。そういうことは歴史的には知ってはいても、当事者の実子が書いたものを読むとリアリティがちがうのだ。そしてわたしが生まれた年より四半世紀も前ではない「ごく最近の」事件として感じられてくる。もちろんそれは筆者の優れた取材力と思考力、文章力もあってのことだが、やはり神は細部に宿るのだ。最近は「アカ」という言葉を聞かなくなった。1980年代までは、それが何を意味するかも知らずに一種の差別語として使っている人間は珍しくなかった。若い女性がある共産党員のことを「アカ」だから、と言ったことがあった。ヘルメットの色から、いや共産党はアカではなく黄色だと混ぜっかえしたことがあるが、「アカ」が死語となった程度には世の中は進歩したということか。アカには「垢」に通じる汚らしいもの、という語感があった。こうした本が書かれるのはきわめて稀なことだ。なぜなら、一般に活動家は過去よりも未来に目を向けているものだからだ。印象的なのは被検挙者たちの誠実さである。自分自身の「転向」をゆるすことのできかった人々は、戦後、決して教壇に戻ることはなかったという。戦前は天皇主義者、戦後はマルクス主義者と服を着替えるように思想を取り替えていった人間しか日本にはいなかったとばかり思っていたが、決してそうではなかった。著者自身の体験や思考と参照しながら書き進められているので、読み物としても一級のおもしろさがある。ただ、イタリアなどとちがって、日本では反ファシズム勢力は一掃されてしまい、侵略戦争を防ぐことはできなかった。芽のうちに摘まれたという見方もできようが、帝国主義戦争に対しては内乱をもって対峙すべきとするレーニンの思想はまだ伝わってなかったのだろうか。いや、決してそんなことはないはずで、日本共産党の路線そのものに誤りがあったのではないかと思わずにいられない。1933年といえば小林多喜二が虐殺された年である。こうした優れて人間的に誠実な人たちが殺されたり失業したり不利な戦地に送られたりしたというのに、虐殺し弾圧した側は戦後も生きのびた。「戦後政治の総決算」はナチソネこと中曽根康弘のスローガンだが、民衆の側からは「戦前の総決算」、つまりこうした人々の名誉回復と賠償、加害者の処断が行われなければならない。というか、それを怠ったからこそアベや石破が表通りを歩ける世の中になってしまったのだ。1933年はつい最近のことであり、階級犯罪に時効も恩赦もない。
June 9, 2016
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「サパティスタと叛乱する先住民族の伝承」の副題がある。著者のマルコス副司令はサパティスタ民族解放軍(EZLN)のスポークスマン。メキシコ・チアパス州先住民族主体のEZLNにあって数少ない非先住民のメンバーで、哲学の元大学教授だという説がある。副司令と名乗っているのは真の司令官は人民だという信念に基づくという。「文章を書いていないと発砲してしまうから」というマルコス副司令。その彼が1984年に密林で出会ったのが老アントニオで、老アントニオが亡くなる1994年まで両者は交流したらしい。その老アントニオからきいた先住民族の伝承、神話のような寓話のような話を彼は子どもたちや恋人に、そして市民集会などで語った。コミュニケとして発表されたものもある。それらを集めたのが本書ということになる。都市のマルクス=毛沢東主義者が密林で先住民の老人と出会う。ふつうなら組織化の対象としかみなさないだろう。しかしマルコス副司令はちがった。先住民の持っている神話的世界観、伝承からくみとることのできる文明世界とはまったく異質な知恵に何かを見いだしたのだろう。老アントニオから話をきき、質問し、その中で近代主義的な思想と発想、論理の言葉が切り捨ててしまう大事なものの存在に気づいたにちがいない。この本を読んですとんと理解できる人間はほとんどいないだろう。先年亡くなったポルトガルの映画監督、オリヴィエラが映画で紡ぐ言葉のように、われわれがふだん使う同じ言葉がまったくちがう意味、ちがうイメージを喚起していく。ごくわずか、われわれにも理解できそうな部分がある。「すべての言葉、すべての言語に先行する最初の三つの言葉は、民主主義、自由、正義である」(88ページ)から始まる一節である。そこでは民主主義についてはこう語られている。・・・「民主主義」は複数の考えからうまく合意を作りだすことである。全員が同じ意見をもつことではない。すべての考え、あるいは大多数の考えから、少数の考えを排除するのではない。大多数の人にとってよいと思われる合意をいっしょに探し、そこへ到達することである・・・・多数決民主主義がいかに非人間的なものであるかをこれほど平易な言葉で表した文章には出会ったことがない。これが、何の教育も受けたことのない狩猟名人の先住民の老人の伝承であり知恵なのだ。1994年、まさに老アントニオの死の年に反政府・反グローバリズムを掲げて武装蜂起したEZLNが強大な政府と政府軍に対して勝利といってもいい成果を勝ち取ったのは、本書の扉にあるように、都市世界のマルクス主義者と先住民世界が老アントニオを媒介として融合をとげたからにちがいない。詩と政治に架橋する精神とはどのようなものか、ほんの少しだけわかった気がするが、詩的でない政治的言語と政治的なものをはらまない詩的言語の両方に対する警戒心、あるいはそういったものの不毛さを見抜く何かはもらえたような気がする。
June 3, 2016
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マスコミばかりでなく左派メディアでさえ報じないことのひとつに、アナーキスト勢力の増大がある。経済危機下のギリシャやイタリア、スペインではすでに公然とした政治勢力として登場している。とりわけギリシャでは政権を掌握した急進左翼が帝国主義とシオニストの手先化する中で急速に拡大している。フランスでは反資本主義新党の中心メンバーにアナーキストが散見されるし、アナーキズム週刊誌の刊行が維持されている。また、いわゆる先進国における反グローバリズム運動、ニューヨークの占拠運動などの中心にいるのも、名乗ってはいないがアナーキストたちである。環境保護運動や女性解放運動の活動家は自覚せざるアナーキストであるケースが多い。サパティスタ民族解放軍の理念や行動様式もアナーキズムに近似している。日本の大学でも主要大学にはすでにアナーキズム研究会が生まれている。今のところサロン的サークルの域を出ないが、セクトが退場したあとの主役になる可能性がある。すで40年以上、旬刊発行されている大阪の「人民新聞」にはリバータリアン(無政府資本主義者)の主張が掲載されることもあり、左右のアナーキズムに対して親和的だ。日本共産党の武装襲撃と対決した東大全共闘が「ここは1930年代のスペインではない」と檄を発したことはよく知られている。アナーキストが権力を掌握したスペインで、ファシスト軍と戦うアナーキストをスターリン主義共産党が背後から襲撃しファシズムに道を開いた史実を参照したエピソードだが、いわゆる社会主義革命に成功した国でも、実際の革命の主力はアナーキストであり何よりも大衆自身であったことが明らかになりつつある。あのフランス革命でさえ、主力はプルードン主義者だったのだ。アナーキスト(やサンディカリスト)が準備し成功の基礎を築いた革命を、あとからやってきた共産主義者が簒奪し、あたかも自分たちのやったことであるかのように叙述したのが、すべてではないが多くの国における「革命」の実態だったのではないだろうか。こういう問題意識を持ってもう何十年にもなる。だから、いつか最低でもロシアと中国、そしてスペインの革命におけるアナーキストの活動とその敗北の原因を探求しなくてはと考えていた。20世紀においてアナーキストが主役に躍り出たのは、ロシア革命後のクロンシュタット水兵の反乱(これを鎮圧したのがトロツキーだった)、ウクライナにおけるマフノ運動、そして人民政府を樹立したスペイン人民戦線の三つである。このうちクロンシュタットとスペイン人民戦線については優れた報告や研究がある。しかし、マフノ運動についてはほとんどなかった。ヴォーリンの「知られざる革命―クロンシュタット反乱とマフノ運動」(現代思潮社1966年)くらいで、しかもずっと絶版になっている。ネストル・マフノ。1888年にウクライナで生まれ1934年にパリで世を去ったこの農民運動の指導者、無政府主義革命家は、マゼランを殺したラプラプ、台湾で抗日蜂起を行ったモーナ・ルダオ、ヤマト支配に頑強な抵抗を続けたアテルイ、松前藩に対して武装蜂起したシャクシャイン、カスター大隊を全滅させたクレイジー・ホースといった人類史的英雄のひとりである。しかしマフノが特異なのは、侵略者に対して戦っただけでなく、ロシアを解放したと称するボルシェビキ(ロシア共産党)の赤軍とも戦ったことにある。著者のアルシノフは1887年生まれの工場労働者で、元々はボリシェビキだったが、1905年革命の敗北の原因を政治党派のミニマリズムにあると総括し無政府主義者となったという。警察署を爆破したり、労働者を弾圧する工場長を射殺して死刑判決を受けたこともある。マフノと知り合ったのは監獄の中で、1917年のロシア二月革命で解放され、アルシノフはモスクワで、マフノはウクライナで活動を行った。その後アルシノフもウクライナに向かい、1921年に運動が壊滅させられるまで赤軍と戦った。マフノ運動を記録し叙述するのに最もふさわしい人物といえる。二大首都で権力を掌握したボリシェビキはウクライナでは少数派だった。ウクライナにおける農民と労働者の社会主義をめざす活動は彼ら自身、そしてマフノのまわりに結集した無政府主義者たちの果敢な闘争によって成し遂げられていった。その細部にわたる軍事的・政治的エピソードのひとつひとつには感嘆を禁じ得ない。神出鬼没の軍事指導者、みずから銃と爆弾で戦う軍人であると同時にきわめて成熟した政治運動家であったことがわかる。特に印象的なのは政治的に変質を重ねる元帝政軍士官グリゴーリエフを反乱兵士大会で、その反革命としての本質を暴いた上で処刑したことである。革命と反革命が入り乱れるとき、革命的な大衆が指導者の反革命的本質を見抜けないことがある。それをマフノは大会の議場で、大衆の面前で暴露し処刑したのだからすごい。大会はこの行動を承認しグリゴーリエフ指揮下にあったパルチザン部隊はマフノ反乱軍に編入されたという。革命のダイナミズムとはこういうものなのだ。著者はボリシェビキ独裁に対するマフノ反乱の敗北を軍事的な戦略の失敗と見ている。それは正しいかもしれないし、そうではないかもしれない。仮に正しいとするなら、その軍事的な戦略の失敗が何に起因するのかが究明されなければならない。巻末の資料のひとつに、1918年6月にクレムリンを訪れレーニンらと会見したマフノの回想記が収められている。レーニンの人となりがわかって興味深い。マフノも悪い印象は持たなかったようだが、最終的には興味を失ったようだ。職業革命家による中央集権的党組織とその手足としての赤衛軍、赤軍による上からの支配を「社会主義」としその社会主義を電化したものを「共産主義」と考えるレーニンとは、めざす社会のあり方は同じでもその道すじや主体についての考えが、言葉で議論できるほど近くはなかったということだろう。1918年から21年にかけてのウクライナにおけるボリシェビキの犯罪を見るとき、レーニンとトロツキーとスターリンの間に砂粒ほどの差異さえ見つけることはできない。公平なことに、マフノ軍とマフノの欠点や欠陥についての記録も収集され収められていることが本書の価値をいっそう高めている。マフノは酒癖が悪く、個人的な気分で赤軍捕虜を処刑したりしたこともあったが、村人ではドイツやオーストリア兵と通じる者しか殺さなかったという同じ個人による矛盾するような証言があったりする。マフノはボリシェビキの残虐さ狡猾さを過小評価していたきらいがある。その点がのちの軍事的敗北の根本原因だったのだと思う。ウクライナはボリシェビキにとっては食料庫だった。肥沃なウクライナの大地ゆえ、ボリシェビキの集中した関心を呼び「ウクライナの悲劇」を招いたのだとすれば皮肉だ。ロシア革命からたかだか100年しかたっていない。マフノやアルシノフは、1950年代生まれの人の祖父母の世代にあたる。もしかしたらマフノやアルシノフはわたしの祖父だったかもしれないのだ。わたしの最大の関心はいまの時代にマフノがいたら、どう考えどう行動するかである。無人機と遠隔操作、レーザー兵器と部分的核兵器を主体としたハイテク戦争の時代、農業国から工業国、さらにいえば第三次産業が多くを占めるようになった現代で、解放の主体をどう確立し微分化した権力とどう戦うのか。平凡な農夫になりたかっただけの男マフノ。しかし平凡な農夫になるだけのことでさえ、あらゆる武器を手にとって支配権力と戦わなければ勝ち取ることができない。そういう時代は、かつてのようにはっきりとは見えなくなっているとはいえ、本質的にはいまも1921年のウクライナと同じように続いている。
June 2, 2016
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長い人生といえどもコントラバスのリサイタルに遭遇することは稀だ。しかも弦楽オーケストラを従えてのコンチェルトの夕べともなれば最初で最後の経験となる可能性が高い。こう考え、「コンサート・ドロップアウト」の基本方針を曲げて行ったコンサート。行って正解だった。ソリストは札響のコントラバス奏者だった鈴木祐治氏の実娘。留学とドイツでの歌劇場オーケストラ奏者を経て2014年に帰国し、フリー奏者として活動しながら作曲や編曲も行っている。単純に足し算していくと30代前半といったところか。ドイツで8年半過ごし、オーケストラでは主要ポストに就いていたらしいが、その経歴に納得できた。というのは、技術的な完成もさることながら、ドイツ人の言い方を借りるならすべての演奏、その細部に「音楽がある」のである。楽譜という記号から音楽を取り出してくる、その手つきや呼吸がすばらしい。超一流の音楽家と言っていい。それは、持って生まれた才能だけでなく、作曲や編曲を行うことで音楽を立体的に把握できるせいもあるにちがいない。そもそも演奏だけではなく作曲も志す、そのこと自体が「才能」ではあるが。たいていの演奏家はこの才能を欠く。作曲をしない超一流の演奏家がいかに少ないか、その作品の質はともかく、その理由を考えたことのある人はほとんどいないにちがいない。プログラムは前半がヴァンハルのコントラバス協奏曲とボッテジーニのヴァイオリンとコントラバスのための「グラン・デュオ・コンチェルタンテ」で、後者の共演ソリストは札幌出身で仙台フィルコンサートマスターの西本幸弘。どちらも深い内容を欠くサロン的、サーカス的音楽だが、それだけに演奏者の音楽性が裸になる。凡庸なパッセージが実に魅力的にきこえる。楽しめた、と書いてしまえばそれまでだが、超絶技巧に耳を奪われないようにするのが労力といえるほどのこうした曲に「音楽」を充満させることができるのはほとんどマジックを見ているようだった。後半は彼女の作品「弦楽のためのラプソディ」(初演)とクーセヴィツキーのコントラバス協奏曲。「弦楽のためのラプソディ」の語法は後期ロマン派的。最近、「新作初演」にはこうした語法の作品が多くなった。何もすべて前衛的であるべきとは思わないが、戦争を防ぐことのできなかった反省から、それ以前の音楽の否定から出発した戦後の作曲家たちの実験や冒険の精神はどこにどのように受け継がれているのかと思わないでもない。ただ、閃きのある楽想は散見されたので、もう一度きいてみたいと思った。指揮者として名前の知られるクーセヴィツキーは元々コントラバス奏者だった。コントラバス協奏曲を作ったのはそのせいだったのだろうか。単独楽器の協奏曲としても屈指の名曲といっていいという発見のあった演奏でありコンサートだった。なおヴァンハルとこの曲の弦楽合奏版への編曲は演奏者じしんによるもので、弦楽合奏は元札響メンバーと地元のフリー奏者による12人編成。指揮者なしの演奏だったためか少しオーケストラが前に出すぎでソロを消してしまう場面があったのが唯一残念。ルーテルホールはほぼ満席の盛況だった。
May 28, 2016
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このプラスチックシーラー(アスクワークスFR200A)は買って4年ほど。ちゃちな機械なので耐久性があるとは思えなかったがトラブルなく使えている。キッチン家電として使っているので使用頻度が少ないせいかもしれない。電池式のシーラーは100均にも売っている。しかし、たとえばかつお節の袋のように幅が広いものにはかえって使いづらいと思ったし、卓上式だと両手が使える。それほど高いものでもないし(送料込2000円程度)手に入れてみたところ優れものだった。もともと想定していた用途は焙煎した珈琲豆のパッキングのため。しかし、ビニールやナイロンやプラスチックの袋なら何でもシーリングできるので、大袋で買った食品の保存にも大活躍している。開けた袋菓子などはつい全部食べてしまう人も多いだろう。残しても湿気のせいでまずくなる、と理由をつけて完食しがちだ。しかしシーラーがあればその心配はないし、保存も楽。この手のものはヒーター線が断線しがち。しかし墨田区にあるこの会社からは、こうした消耗品も手に入れられるし交換も自分でできるようなので長く使っていけそうだ。20センチと30センチの製品があるようだが、20センチでほとんど不便を感じない。ペットフードの大袋なども工夫すればシーリングできるし、小さめの袋(ジップロックなど)に入れ直せばいいだけだからだ。キッチン家電は買って失敗したと思うものが多い。ただでさえ狭いキッチンがさらに狭くなったり、洗うのが手間だったり。パスタマシンもホームベーカリーも結局一度も使わず処分してしまった。電動スライサーはすぐ切れなくなったし洗うのが手間なブレンダーはやめた。しかしこの卓上シーラーは、早く手に入れなかったことを後悔するくらいで、使いかけの食品が美しく保存できるのには生活の質が上がったような錯覚さえ感じる。
May 22, 2016
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著者は2015年はじめに亡くなっている。1940年生まれだから74歳だった。全学連(日本共産党系)委員長(62年~64年)のあと72年までは民青(日共の青年組織)中央の常任委員だった人物で、91年に離党するまで共産党に留まっている。本人もその一味もしくは首謀者として査問された1972年のいわゆる「新日和見主義」事件について、離党後に執筆したのが本書。日本共産党(いわゆる代々木派)は、天皇制擁護、原子力の平和利用推進(原発賛成)、日本の再軍備大賛成の極右政党である。原発事故以降は原発廃止を唱えているが、福島現地その他でやっているのは原発反対運動の妨害であり推進派以上に推進派の役割を果たしている。しかし日共はある日突然こうした極右政党になったわけではない。1952年のいわゆる「血のメーデー事件」までは日本におけるほとんど唯一の革命勢力であったことに異論のある人はいないだろう。本書を読むと少なくとも学生部分は主観的には1970年前後までは革命的であろうとしていたし、そのつもりだったというのがわかる。党組織と官僚機構の維持を最優先して大衆運動を軽視もしくは敵視するのはほとんどの左翼・新左翼党派に共通する現象だが、日共の場合は図抜けている。著者のような優れた活動家を「危険人物」視し、ありもしないグループを組織したという「冤罪」で査問したというのだから。70年代の見かけの党勢拡大にも関わらず見る影もなく凋落したのは、こうした体質、上意下達の作風がその根本原因であり、民主集中制なる組織原理こそが問題にされなければならない。60年安保を前に全学連の主要人物は共産主義者同盟に以降した。70年安保ではそういうことは起きなかったが、ベトナム反戦・沖縄・全国学園闘争(全共闘運動)の高揚に影響を受け、党中央の統制を一定離れて大衆運動を志向したグループがあったのかもしれない。リンチ殺人の宮本顕治らがそれを芽のうちに摘んだのが「新日和見主義」事件だった可能性が高い。明白な分派ではなくても、大衆運動のリーダー的素質のある人物やそうした人物に近い人間を排除していったのだと思われる。70年代なかば、わたしの大学には数百人の民青とそのシンパがいたが、見どころのある人間は数人で、あとは自治会三役を筆頭にバカの巣窟、見本市だった。一瞬でもこうした政党に幻想と期待を持った自分自身に失望したほどだが、川上氏のような優れた人物を除名しないまでも登用しない組織であればバカしか集まらなくてあたりまえだ。しかしやはり疑問なのは、氏が「事件」後も党内に留まったことである。内省的な文章から感じられる人間的誠実さと高い知性は疑うべくもないが、たとえば早稲田解放戦争における日共の裏切りをどう総括するのか。きちんと総括したなら日共に留まるといった選択枝はありえないと思う。むしろ「査問」をきっかけに日本共産党(川上派)を結成すべきだったのではないだろうか。その後、中野徹三ら哲学者に影響を受けた学生らが集団脱党する事件、県委員会丸ごとの脱党(福井県など)もあった。こうした事件の背後には著者らが「新日和見主義」と見なされたのと同じような動きがあったのかもしれない。同じようなことはこれからも繰り返し起きていくにちがいないし、現に起きている。
May 15, 2016
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何十年も前に、それもほんの短時間しか会っていないのに、印象と記憶に残る人というのはいる。なぜかあるとき、ふとその人の名前を思い出したりする。この本の著者もそんなひとりだ。同じ大学の150キロほど離れた分校の無党派活動家だったM君と一緒に彼女は現れた。どんな用件だったかは思い出せない。卒業間近だったような気がするから、何かを一緒にやろうという話ではなかった。共通の関心はといえば、卒業後(というか中退後)の身の処し方や運動の展望のようなものだったから、そんなことでも話しただろうか。M君はその後自治体労働者になった。彼女が新日本文学賞の賞をとった(1983年)とき、小説家をめざしているのだろう、文学少女だったのかと誤解したし、この本を読むまで誤解したままだった。1991年から93年までの二年間、コロンビアとボリビアで海外青年協力隊隊員として活動したときのことを書いたこの本は、限りなく小説に近い自伝の趣きがある。「南米最大の麻薬都市メデジンでの日々を深い祈りとともに描くハイ・スピード・ノンフィクション」とあるが、まあ何と軽薄な要約であることか。二年間もの滞在では無数の出来事があったと思うが、その中で重要なことを的確に選び出し、簡潔かつ詩的な、ときに哲学的といえるほど内省的な文章で綴っている。凡百の旅行記や見聞記とは決定的に異なっている。個人的な体験を軸に書かれているが、これほど優れた「ドキュメンタリー文学」に出会うことはそうない。現代という時代に対する深い問題意識と社会矛盾に対する先鋭な視点がなければ書くことのできない本だ。本書から彼女のその後を推測するなら、卒業後彼女は高校教師になり、教師生活と平行して旭川で劇団を主宰、シナリオも手がけていた。巻末の略歴によれば彼女が25歳から31歳にかけてのこと。そしてその間にはヨガとスペイン語を学んだ。とすると、彼女の大学での専攻、高校で教えた学科は何だったのかと興味がわく。秀でた文章力からすると国語科だろうか。あるいは外国に関心があったとすれば英語科だろうか。本書ではインドでの話も出てくるが、それはヨガの本場への興味からだったのか、インド旅行がきっかけでヨガに興味を持ったのか。あるいは体育科の出身で身体への関心からヨガを学んだのか。ボリビアで出会った人権活動家と結婚したらしいが、本書の叙述は帰国したところで終わる。たぶん、海外青年協力隊の任期を終え、その活動からも離脱したのだろう。そのための帰国だとすると、すぐにまた夫の待つボリビアに戻ったのだろうか。そのときから数えても20年以上の歳月が過ぎている。消息を調べたがわからなかった。ただし2005年には碧天社から「チャクラを開いて」という本を出しているのでそれを読めば少しはわかるかもしれない。それにしてもほぼ同世代の彼女が一日平均24件の殺人事件が起こるコロンビア(メデジン)、援助が政治の腐敗を助長するボリビアで苦闘しているその同じ時期に、こちらはヨーロッパでコンサートだグルメだとお気楽な人生を送っていたのだから自己嫌悪にかられる。そもそも人間のできがちがうのだと開きなおってしまえばそれまでだが、使命感ではなく、自己発見のためでもなく、本書の随所に記述される日本社会への違和感から遡行していく魂の震動のようなものには強く共感せずにいられない。そんなことを語りあってみたいと痛切に思いながら「チャクラを開いて」を発注したところだ。
May 14, 2016
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先を急ごう。ミュンヘンからヴェネツィアまでは550キロある。6時間から8時間はかかったはずだ。朝ミュンヘンを出ても、ヴェローナで昼食をとったりしたからヴェネツィア到着は夕方だったはずだ。翌日は午前の列車で出発した記憶があるから、24時間どころか、ヴェネツィアには18時間程度の滞在だったと思われる。このときの写真が何枚か残っている。それを見ると、リアルト橋近くの中央市場に行ったりしている。朝食のあと明るくなったヴェネツィアを歩いたのだろう。フェリーから撮った写真も残っているので、フェリーに乗って終点まで往復する、というようなこともやったのだろう。ミュンヘンへ帰る彼女とヴェローナで別れたあと、ミラノへ向かった。有名なドゥオモだけ見た。ミラノはイタリア経済の中心地だが近代的な都市であり、見どころは少ない。ドゥオモはたしかに壮麗で圧倒されたが、5分も見ればもういい。ドゥオモから徒歩圏にあるレストランで夕食をとった。「ヨーロッパ2000円の宿」に紹介されていたレストランを探して行った。歩いていると、入口が小さいが何か由緒ありげな建物があった。近づいてみるとスカラ座だった。入った店はイタリアでは標準的なレベルだったように思う。何か野菜料理とパスタを食べようと思ってそれらしきものを注文した。運ばれてきたのはほうれん草の炒め物とアサリのパスタ、いわゆるボンゴレ・ビアンコだった。食べた瞬間にアタマの中が真っ白になり、気がついたときには目の前に空の皿だけがあった。そういう経験はその後何度かしたが、このときが初めてだ。いや、6~7歳のまだ食が細いころ、月に一度か二度、母が作ってくれたカレーはそういうものだった。味噌と塩と醤油、ダシといえば煮干し、マヨネーズやケチャップでさえまだ珍しかった時代、カレーだけはお代わりをして食べたものだ。一皿目は、食べ始めた瞬間に記憶がなくなるほどおいしいと感じ、やっと二皿目でゆっくり味わって食べた、そんな記憶がある。だからこのときも、ほんとうはもう一皿追加すべきだったのかもしれない。ドイツではあまりおいしいものにあたらなかったせいもあって舌が飢えていたのかもしれない。しかしそれにしても、ゆでたパスタにアサリを和えただけのものがこれほどおいしいとは、人生観が変わる思いだった。いままで食べていたのはいったい何だったのだ。だまされていた、という思いとともに痛感し後悔したのは、自分自身の好奇心の不足である。高いカネさえ出せばおいしいものを食べられる、というか高いカネを払わなければおいしいものを食べられないという思いこみがあった。だから、食べることに対する興味を自ら閉ざしている部分があったと思う。しかしごく庶民的な店でおいしいものが食べられるイタリアに来てみると、そういう思いこみが木っ端みじんに粉砕されるのを感じた。高いカネを払わないとおいしいものが食べられない日本社会の構造は、資本主義の罠だったのだ。サイゼリヤの創業者が世界中を旅して、低価格でおいしいものを食べているイタリア人の生活に注目しその再現をめざして開業したことはよく知られている。サイゼリヤとさほど変わらない値段でサイゼリアよりはるかにおいしいものを食べているのがイタリア人の日常なら、日本人やドイツ人やアメリカ人の日常は何なのだ。おいしいものが食べられないからあくせく働くか戦争をするか人種差別をするしか能のない人間になるのだろう。ムッソリーニが作ったアーケードで有名なミラノ中央駅に戻るため、地下鉄に乗ろうと思った。ドゥオモまで来るのにも地下鉄を使ったので、来たのと反対側のホームに行けばいいと考えた。しかしおかしなことにそのホームには人がいない。向かいの、反対方向に行くと思われるホームには人がたむろしている。ロックコンサートでもあったのか、パンクの服装をした若者たちが大勢いた。人のいないホームにいてもしかたがないと思ったのでそちらに行った。念のためパンク少年に聞いてみたら、夜遅い時間帯はこちら側の線路しか使わないのだという。にわかには信じがたかったが、同じ線路を正反対方向に電車が行き交うというのはどういう仕組みになっているのだろう。地下鉄だから、待避するような仕組みにするのはコストがかかりすぎるはずだ。本数の少なくなった時間帯は同じ電車が飛行機のように同じ路線を往復するのだろうか。そうだとすると、何だか笑えた。行き先も書いていない電車が入ってきた。パンク少年は「THIS、THIS」と教えてくれた。金髪にピアスにケバイ化粧の、ちょっとやばそうな見かけだったが親切でいいヤツだった。背も低かった。
May 12, 2016
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天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言ったのは度し難い差別主義者であった福沢諭吉である。福沢にとってアジア人は人間のうちに入っていないからぬけぬけとこういうことが言えたのだろう。たしかに天は王制や天皇制のような身分制度を作らなかった。それを作ったのは人間だ。しかし人間を作ったのは天だから、天は人の上に人を作り、人の下に人を作るように人を作ったといえる。生まれながらの人間に身分はない。いずれ死すべき生物としてこの世に現れる。いつどこでどのような環境で生まれるかを自分では決めることができない。ついでに言えば、どんな遺伝子を持って生まれるかも決められない。それを決めるのは運であり運命だ。そしてそれは決して平等ではなく、人生のほとんどを決めると言っても過言ではない。ナイジェリアで生まれたアルビノと戦後日本で生まれた人間を比べてみればよい。そこまで極端でなくても、同じ日本でも、オホーツクの漁村と京都の祇園で生まれ育った子供の間に何か共通理解項が存在するとは思えない。ニースやカプリ島を訪れたときと同じことをヴェネツィアでも思った。沢木耕太郎はコートダジュールの海岸を走るバスの中で「コレハヒドイジャナイデスカ」と思ったというが、その感じに近い。最初は無邪気にその美しさすばらしさに興奮し感動する。しかし、自分の生まれ育った環境とのあまりの落差に嫉妬や怒りのような感情が起こってくるのをどうしようもない。ヴェネツィアのすべての路地を歩き、すべての水路をいくにはいったいどれほどの時間がかかるだろうか。ここで暮らすということは壮麗な芸術作品の中で日々を送るということにほかならないが、それはどんなことだろうか。だが最もうらやましく感じたのは、ヴェネツィアで生まれ育った人間は、故郷がいつまでも変わらない姿であることだ。戦後日本は大きく変わった。終戦直後との比較の話ではない。たった20年ほどであらかたの風景は大きく変わってしまっている。わたしが生まれ育ったのは人口5万人ほどの小都市だが、あまり変わっていないのは神社のような場所だけで、当時の記憶を呼び起こすようなものはほとんど残っていない。ノスタルジーを感じるより先に自分の幼年~少年期が消されてしまったかのような無念さを感じることの方が多い。あるイタリア人の女性は、亡くなった両親と会うとき墓には行かないのだという。丘の上に続く道は、昔と全く変わることがない。だからそこへ行くと両親に会えるのだという。そういう場所を日本人は失った。故郷は山田洋次の映画の中でしか再会できない場所になった。それはどういうことかというと、人間としてのアイデンティティの重要な一部を失ったということだ。ヴェネツィアのようなところで生まれ育った人を心底うらやましいと思った。街を出て、どこかで傷ついたとしても、故郷に変わらない風景があるなら挫折しないですむ。母のような存在としての故郷や風景を持っているかどうかは、ひとりの人間にとって非常に重要だ。1992年11月23日のヴェネツィアに観光客は少なかった。あとで知ったが、このころのイタリアはポンド危機に端を発する経済危機のまっただ中だったのだ。今でもおぼえているが、この年の1万リラは日本円で100円ほどだった。それが93年には75円になり、94年には50円になった。これだけ短期間に通貨の価値が半減するのは異常事態だ。いや、むしろ為替の変動が経済危機のバッファの役割を果たすのだから、リラ暴落はむしろイタリアにとってプラスだっただろう。外国人は旅行しやすくなるし輸出には有利だ。ただでさえイタリアの物価は北ヨーロッパの国より安い。通貨統合は弱い通貨の国にとってマイナスの方が大きいということがわかる。ヴェネツィアは大観光地なので物価は決して安くない。それでも、フランスやドイツに比べれば何割か安かったし、宿代や外食費は半値ほどに感じられた。それはだいたい、日本の半分くらいということを意味する。自分がふだんなじんでいる環境よりも物価が安いということが精神衛生にどれほどいいかを知った初めての体験だった。パリからフランクフルトまでの寝台運賃も安かった。水とビール2本とサンドイッチ2つ、それと寝台運賃が同じだったのだから。しかし、概して物価それ自体は日本より安いものの、外食のような、人間の手間のかかったものは高かったし座るとテーブルチャージのようなものもかかる。おまけにチップもいる。だからトータルするとそれほど変わらないという印象だった。ところがイタリアではほとんどすべてのものが(通貨安のせいもあって)安く感じられた。ワインが水より安いというのはほんとうだった。現地の人にとってはそれがあたりまえだろうし、安いと感じて生活してはいないのだろうから、そういうこと全体が不思議な気がした。人情があって、陽気で、しかも物価が安い。イタリア、ブラヴォーだ。しかしヴェネツィアは観光地ゆえの問題も多い。おいしいレストランが少なく、便利な場所にあるそれはほとんど不法な料金を請求してくる。特にイタリア語以外のメニューのある店などは気をつけた方がいい。このときは夕食と翌日の朝食をとっただけだが、彼女があとで伝票をチェックしたところ、やはりぼられていたらしい。日本円にすると数百円のことだが、リラにすると数万リラで、ものすごい金額をぼられたような気になってしまう。思い起こしてみると、たしかにどちらの店主もどこかずるそうなやつだった。それ以来、店主の顔をよく観察してから入るようになった。最悪だったのはホテルだ。翌日のことを考えて国鉄駅からさほど遠くないところに泊まったのだが、ベッドが縦に二つ並んでいる細長い部屋だった。外国でホテルに泊まるのはこのときが初めてだったので、何の交渉もしなかった。日本的常識なら、同じ料金ならそのとき空いている最もいい部屋から案内するし、無料でアップグレードしてくれることも多い。そんな感覚でいたので、通された部屋に何の疑問も持たなかったのだ。いやしくもカップルである。カップルで泊まりに来ているのに、ふつうこれはないだろう。しかし疲れてもいたし、どうでもよくなった。宮殿の一室のような部屋に泊まりたかったわけではない。ごくふつうの、ベッドが二つ横に並んだツインの部屋に泊まりたかっただけなのに、そんな希望さえ言葉にして主張しなければならない現実にげんなりした。ここもヨーロッパなのだ。自己主張しないと存在しないもの、意志がないものとして扱われる。彼女との最後の夜なのだ。念入りなセックスで有終の美を飾らなくてはならない。しかし、歩き回った疲れが出たのか、それともヴェネツィアの毒のある魅力にやられたのか、彼女にじゅうぶんな快感を与えるまえに終わってしまった。長い人生にはいくつもの後悔があるが、あのときの不本意なセックスを思い出すと冷や汗が出そうになる。
May 11, 2016
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納戸を整理していたら一枚のメモが見つかった。パスポートのコピーの裏に書かれた、この旅のときのものだ。旅の前半は一日につき数行書いているが、後半は一行だけ。どこからどこへ移動した程度のことしか書いていない。それでも、それを読んであらためて思い出したこと、あるいは完全に忘れてしまったこと、いくつかの記憶がちがっていたことなどがわかった。記憶ちがいは大したことがないのでそのままにしておこう。むしろ、ただ記憶だけで20年も前のことをよく書けたものだと、30代の自分の記憶力に感嘆させられてしまった。まるで少年の日の記憶のようだ。そのことからわかるのは、旅は少年の日に戻ることだということだ。ブログを書いたり読んだりするヒマがあるなら、旅に出ることだ。そのメモによると、パリからミュンヘンへフランクフルト経由で行ったぼくは、ミュンヘンで3泊したあとベルリンへ行き、2泊したあとミュンヘンへ戻った。次の日夜行でウィーンに行き夕方ミュンヘンに戻った。前回書いたのはここまでだ。こう書くと身も蓋もないが、何とせわしない旅をしていることか。ついでに書くと、翌日にはヴィネツィアに行き一泊。ベローナまで戻ってミラノ、ニース、マルセイユを通ってバルセロナへ。バルセロナで1泊したあとパリへ。2泊して帰国。数えてみると17泊18日で、ホテルに泊まったのはベルリン2泊、ヴェネツィアとバルセロナで1泊、パリで2泊の合計6泊。彼女の部屋に泊まったのが5泊だから、夜行列車で6泊していることになる。何とハードな旅だったことか。思い返してみると、肉体的な疲労は大したことがなかった。疲労を好奇心が上回っていたと言うべきかもしれない。休むより移動していた方が新しい刺激で疲労を忘れることができた。ただ、あんな旅をあと何日も続けていたら、間違いなく体調を崩していただろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最新の電車なのに、坂が続くためかゆっくりだ。登る一方の長い峠の頂上あたりをすぎたと思ったとたん、空気が変わったのを感じた。温度ではなく、大気そのものが明るく暖かく感じられる。何かほっとするような柔らかい空気感を感じた。電車は停車し、コンパートメントに中年の女性が入ってきた。それまではぼくと彼女の二人きりで、彼女はしくしく泣いていた。別れを宣告したからだ。気まずい雰囲気が流れたが、どうしようもない。泣いてどうなるものでもあるまいに、ほんとに女はバカだと苦々しい思いがするばかりだった。別れたくなければ、論理的に説得すればよいではないか。もし愛する女性から一方的に別れを宣告されたらどうするか。幸運なことにそういう経験は今までにないが、できるだけ感情を抑え、理性的な説得を試みるだろう。恋愛感情の不条理さについて注意を喚起し、自分ではなく他の男を選ぶ、あるいはぼくから去るその決断がいかに幼稚で不見識で絶望的に悲惨なことかを淡々と説くだろう。男にもときどきいるが、この泣けばなんとかなると思う日本の女に特有の「甘えの精神」については稿をあらためて論ずるべきかもしれない。ともかく、このときは腹立たしいばかりだった。コンパートメントに入ってきて向かいに座った中年女性のことは忘れられない。ぼくたちの異様な雰囲気を察して、すぐに同情するような表情になった。ぼくはつとめて明るく振る舞ったから、深刻な問題ではないということだけは伝わったはずだ。すると、その女性は持っていた袋の中からリンゴをくれた。何があったか知らないどさ、リンゴでも食べなさい。食べて気持ちを落ち着かせてから話をしなさい。そう言われたような気がした。その親切というか人情に、さっきまでとはちがう国に来たのだと直観した。長い坂はブレンナー峠で、国境を超えてイタリアに入ったのだ。これがイタリアとの出会いであり、明るく暖かく柔らかい空気感と人情味あるイタリア女性が忘れられない印象として残った。第一印象のイタリア、ブラヴォーだ。このブラヴォーは、わずか30時間たらずのイタリア滞在で何度叫んだかわからない。列車はミラノ行きだったのでヴェローナで乗り換えた。若者の集団がいる。ちょうど登下校の時間だったのだろうか。出発する電車の窓からこちらに手を振る若者がいる。大声でチャオという若者もいる。フランスでもドイツでもオーストリアでも遭遇しなかった陽性の好奇心、歓迎の気持ちを感じた。やあ、イタリアへようこそ、いいところだろ、と語りかけられたような気がした。彼らの「チャオ」には何とも心が弾んだ。見ず知らずの、しかも人種の異なる人間に何の「壁」も感じさせない彼らに、ささいなちがいで人を差別し排除する日本人との落差を思ったし、ヨーロッパの他の国とのちがいも強い印象となって残った。ヴェローナには夏のオペラで有名な円形闘技場(アレーナ)がある。というか、アレーナのまわりに街ができている。昼食をとろうと思い、近くにいた老人に「いいレストランはないか」と聞いた。そうしたら、イタリア語ができるとかんちがいしたのか、質問をはさみながら延々と話す。一言も理解できなかったが、たぶんこういうことだ。「きみが食べたいものは何か。もしヴェローナの名物料理を食べたいなら、この道をまっすぐ行って3本目を左に曲がると右側にある××という店の○○という料理がおすすめだ。肉料理でフィレンツェ風ビーフステーキならアレーナの反対側の広場に面してある××、コッパパルマなど前菜がおいしいのは2キロほど離れた××で、歩いていくと営業に間に合わないからタクシーで行きなさい。わたしのおすすめは魚料理だが、グリルがいいかねフライがいいかね。グリルなら××、フライなら××・・・・」といった感じで、話が止まらない。何とか一言でもヒントがつかめればと思ったが、止まらないのでさえぎって礼を言い、そそくさといちばん近いレストランに向かった。イタリア人にとっての食の重要さ、人生に占める大きさを知ったのはこのときだ。日本人によくいる、高級レストランでの食事体験を「消費」するグルマンとは全く異なっているし「食通」タイプともちがう。空腹を満たし栄養を摂取する機械的かつ機会的な食事ではなく、人生を豊かにするために行う「食べる」という行為。人生を楽しむ、その重要な一部として食を自然に位置づけている。ほかに楽しみがないからおいしいものでも食べて、というのとは全く逆だ。入ったのはセルフレストランだった。おいしいものは期待できないが、これはこれで好きなものが食べられて好都合だった。現金なことに彼女の機嫌も直っている。ピーナツ味の野菜があって感動した。ルコラというのだとレジの人が教えてくれた。ヴェネツィアは人工的に作られた島の上にできた都市である。「本土」からの線路は海の上を走っていく。ヴェネツィアは数々の映画の舞台になっている。しかしそういう映画を全く見たことはなかったし、テレビや雑誌でも見たことがなかった。だから予備知識はほとんどなかった。それは何とも幸運なことだった。晩秋のパリで初めての海外旅行をひとりで始めたのと同じくらい、いやそれ以上の幸運だったかもしれない。予備知識なしに訪れたヴェネツィア、それは都市というより壮大な美術作品だった。その華麗なたたずまいに呆然とした。しかし自失してはいられない。24時間程度しか滞在の時間はないのだ。もう薄暗くなっていたヴィネツィアのサンマルコ広場めざして、ひたすら歩いた。地図もなにもない。矢印のついた看板だけが頼りだ。自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかわからないのには不安もあったが、歩き続ければどこかへ出るし、いずれ着く。そんな根拠のない確信だけを頼りにひたすら歩いた緊張と興奮の数時間。それを表すのに幸福という言葉以外を思いつくことはできない。
May 10, 2016
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著者の小西誠は1969年に治安出動訓練を拒否して逮捕・起訴された元自衛官。当時、自衛隊内部から反戦兵士が登場したというので大きなニュースになったのをおぼえている。著書では「自衛隊の兵士運動」や「マルクス主義軍事論入門」などを読んだことがある。この本は2000年の刊。極貧の少年時代についてはこれまでの本でも読んでいたが、この本でもあらためて触れられている。ランドセルもなく給食費も払えなかった小西少年にとって、自衛官になることは貧困と差別からの脱出の道であり、自衛隊は貧しさの中での労働に耐えてきた彼にとって「天国だった」という。そんな彼が自衛隊を退職して自衛隊の外部で反戦運動をやるのではなく、自衛隊の内部で闘うことを選んだのは、全共闘運動の自己否定思想の影響だったという。その彼は「統一戦線」を志向する立場から中核派と共闘し関係を深めていく。わたしはこうした彼の動きを「中核派にオルグされたもの」と考えていたが、本書によればちがっていたようだ。中核派との共闘は彼らの「官僚主義的体質」を変えていくことをひとつの課題としていたという。しかしそうした彼の努力は実を結ばず、「袂を分かつ」こととなっていく。個別の問題での細かないきさつが豊富に述べられている。野島三郎や松尾眞(おそらく)といった人たちに対しても率直な批判が語られている。その当否はともかく、党内民主主義の復活とそのもとでの大衆運動の発展を志向する彼の熱意は非常によくわかる。権威や権力などにとらわれない自由で自立した精神があるし、こうした人物を最大限に生かすことのできない官僚主義的組織には他人ごとながらもどかしさを感じる。ただ、こうした官僚主義の原因はレーニンの組織論にあるのはまちがいない。レーニン主義に基づく党組織の官僚主義を、レーニン組織論のドグマ化の結果だという批判は妥当だが、そもそもレーニン組織論そのものにそうした要素があるとしたら中途半端だ。というか自己矛盾に陥る。氏が引用するレーニンの言葉は含蓄と卓見に満ちていて、あたかも中核派がレーニンから逸脱もしくはレーニン主義をドグマ化しているかのように読めるが、それはちがうだろう。オーウェルが「動物農場」で描いたように、権力はそれを持つものを常に独裁者に変えてしまうものであり、そうならないための装置が理論的にも現実的にも必要でありレーニン主義はそれを欠いているのが致命的なのだ。最後の章で彼は「改憲阻止の左翼大統一戦線」を提起している。その統一戦線にはあの日本共産党や社民勢力も含まれなければならないし、その形成に失敗すればわれわれは滅びるしかない、とまで言い切っている。大左翼統一戦線で思い出すのは故陶山健一氏である。彼もまた、単なる権謀術数ではなく、革命の現実性を展望する観点とファシズムを阻止する立場から、恩讐を超えイデオロギーを超えた団結を提起していた。フランスでは解党した第4インターナショナルなどを軸に「反資本主義新党」が結成され他の左翼勢力とも共闘して5%近い得票率を得るまでになっている。テロ事件後の戒厳令下にもかかわらず今年3月には120万人が参加したゼネスト、数百の高校・大学におけるバリケードストライキなどが治安警察と対決する中で打ち抜かれているが、こうした勢力が大きな役割を果たしているものと思われる。レーニン式「民主集中制」を排した組織原理などには刮目させられるものがある。カルトではない全国政治組織は日本では中核派だけになってしまったのだから、中核派にはフランスの第4インターナショナルが反資本主義新党形成に果たしたような役割を期待したいものだ。1980年代以降の日本の新左翼運動の流れを知りたいと思って読んだが、対革マル戦争を勝利的に終結させた中核派は(本書によれば)混迷を深めているようだ。
May 9, 2016
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法政大学には浅からぬ縁というか因縁がある。クラスメートや友人の何人かが進学しただけでなく、社会のあちこちで興味深い人物に出会ったところ法大出身者だったというケースが多いし最近もあった。学生が自主管理している24時間開放の学館もあった。法大学館は、西の京大西部講堂と並ぶアンダーグラウンド文化→サブカルチャー文化の東の拠点だった。オールナイトコンサートなどに何度か足を運んだ記憶がある。わたしが知るのは1985年ごろまでだが、その頃は学生運動が健在で、自治会やサークルを中心に千人規模の集会やデモ、ストライキが打ち抜かれていた。部外者に政治地図まではわからなかったが、中核派と黒ヘルノンセクトが競いつつ共存しているように見えた。政治的なサークルではなくても意識は高く、合唱団のようなサークルでもほかの大学とは全くちがっていた。その後の学生運動の現場は知らない。法大はその頃でも特殊で「ガラパゴス」と呼ばれていたが自治会、学生寮、サークル会館を拠点とする運動は当局の拠点つぶしによってそのころすでに衰退していたとはいえ、主な大学には社会科学系だけでなく映画、演劇、軽音楽系のサークルのメンバーが中心となった学生運動は小なりといえ健在だった。たしかその頃の警察白書には、新左翼運動の高原状態は続いていて積極的な参加人員は5万人とあったような記憶がある。三里塚闘争でも、1000人程度だった中核派の部隊が徐々に増えて4000人くらいの動員に成功していたし反核運動は50万人を集めていた。先細りしてはいくだろうが、社会の矛盾に敏感な若者はいつの時代にも一定いる。1980年代の学生運動で最も印象的なのは、全共闘運動の敗北に乗じて権勢を誇った日本共産党系学生自治会の無惨な凋落であり、党派全学連自治会の形骸化だが、むしろそうした党派運動の衰退は無党派学生運動にとってプラスではないかと楽観する部分もあった。現在でもいくつかの大学では自治会や学生寮を拠点とした学生運動は存在するが、85年から今までの学生運動はどうだったかの知識を得たいと思って読んだのがこの本。著者のメールマガジンは以前から購読していたし、ツイッターで近況も知っていたが、あらためてこの本を読んで「そんなことがあったのか」と驚かされた。中川文人は、現在では陰謀論者に変質してしまってはいるが、1987年の法大第一文学部自治会委員長だった人物。現在は著作業で何冊かベストセラーを出している。実兄は本書で知ったがクラシック音楽の出版社を経営している。中核派と黒ヘルノンセクトは競争的に共存していると思っていたが、本書によればそうではなく、黒ヘルは中核派の下請け機関と化していたという。その状況を変えようと事態が大きく動いたのが1988年で黒ヘルは中核から自立し時には対決していく。破防法被告でこの時期法大に常駐していた松尾眞(元京都精華大准教授)のエピソードなどは党派幹部の思考法や行動形態がわかって興味深い。中川氏のソ連留学、復帰と学館をめぐるかけひきなどを通して、とうとう氏は中核派の殺害対象とされる。これが1994年。バブルとその崩壊という大きな社会現象の中で学生運動がほとんど壊滅していた時期である。対革マル戦争の勝利的終結を経て中核派が全国大学での支配を強めようとしていた時期に、それに果敢に抵抗した「武装し戦う黒ヘル」があったという事実は重く受け止めなければならないし、党派の組織指導のいい加減さ、詳細は明らかにされていないが「戦争」の内幕、固有名詞は控えられているが優秀なノンセクト活動家群像には感嘆と感銘を禁じ得ない。本書はファシストとして知られる外山恒一のインタビューで構成されている。このインタビューがなかなか優れていて、活動家でなければ聞き出せないポイントを突いていくし答えが当意即妙というかアタマの冴えを感じさせる。直接会ったことはないが、80年代以降のノンセクト活動家の中でも群をぬいて優れた存在だっただろうと思わせるだけの人物だ。中核派は他党派とちがって無党派の存在には寛容だったという印象があるが、権謀術数の一種でしかなかったのかもしれない。中川の最後の一言が泣かせる。「本気で学生運動をやるとボロボロになり」「精神病院に入ったり社会の最底辺で厳しい生活を余儀なくされている奴もいる」し「自分もいつそうなるかわからない」。だが「学生運動をやったことを後悔したことは一度もなく、仲間もみんなボロボロになったけど、誰ひとり後悔していない」それが学生運動だ、と言うのだ。100%同意する。学生運動のない時代に生まれた人間、学生運動があったのに参加しなかった人間たちは、100回、この言葉を音読するがいい。きみに残された人生の貧しさにがく然とすることだろう。中川が引退し中退したのと同じ年にかの松本哉(法政大学の貧乏くささを守る会)が法大に入学してくる。次に読むべきは松本哉「貧乏人の逆襲」なのだろう。なお、外山恒一による「前書き」は、1985年から2010年ごろにかけての学生運動の簡潔ながら闊達な要約となっていて、あちこちで知った名前が結びつく。だめ連、カラカラ派、フリーター全般労組といった「新しい左派」の出自を知ることができ非常に有意義だった。
May 8, 2016
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タイトルに極私的とあるので、ノスタルジックな60年代記かと思って軽い気持ちで読み始めた。ところが、二日間、寝食を忘れて読むことになった。250ページほどの本なのでふつうなら半日あれば読めただろう。しかし、言及されている人物や書物を調べたり、特に後者はまだ入手できるかどうかを調べながらだったので時間がかかった。この本は優れた読書ガイドの趣きがある。社会運動に関して全く同じ問題意識を持っている人がいたのかという驚きで興奮させられた。興奮が収まるまで前に進めないというのは久しぶりの体験。著者の名前を知ったのは1980年代のはじめ、「第一の敵」をはじめとするウカマウ集団の映画上映会のとき。雑誌や書評紙で評論を読んだ記憶もある。そのころ読んだ中では、菅孝行と天野恵一、そしてこの人が情況に対する最も洞察に満ちた発言をしていると感じたが、著作を追いかけることはしなかった。数年前、反天皇制連絡会の集会とデモのあとの打ち上げで、両隣に物静かで品のある紳士が座った。右側にいたのが太田昌国氏で左隣だったのが天野恵一氏。東京ではこんな偶然が珍しくないのかと驚いたが、著作の知識がないので表面的な話しかできなかったのをずっと後悔していた。そこで最近の著書から読んでみようと思い選んだのが2014年刊のこの本。若干、自伝の要素がある。まとまった叙述はないが、テーマや人物に沿って自分との、自分の問題意識との関わりを解きほぐしていくというスタイルのため、この人がいつどこでどのように育ち、どんな人と交わってどんな人生を送ってきたかが概略わかる。その中には太田龍こと栗原登一のような人物もいておやと思わせる。著者の思考の最大の長所は善悪や敵味方といった二元論を回避して出発する点にある。社会運動上のどのような英雄も絶対視せず批判と吟味の俎上にのせる。そうすることで逆にその敵対者や反対者の矮小さが際立ってくるし、またそうした人たちの視点の中にも見るべきものがあるときはくみ取っていくので、実にフェアだという印象も受けるし思考が豊富化していく。さらに、自分にとって答えの出ていないことはそのままそう書く。わからないことをわからないと言えない知識人が多い中、この態度は誠実そのものと感じられる。多くの新しい知見も教えられる。ナチス被害者への損害賠償をドイツ政府に命じるイタリア最高裁の判決や、1952年から60年にかけて弾圧したケニアの独立運動マウマウに対する謝罪と賠償をイギリス政府が決定したことなどである。13章すべて著者の誠実な思考に精神が沐浴したような気にさせられるが、最も重要なのは第6章「権力を求めない社会革命」であろう。ボルシェビズムとアナーキズムの簡略だか濃密な検討から、確信的なアナキストにならなかった理由をこう述べる。「小集団の中でなら可能な平和で水平的な関係性が世界の随所で形成され」「それらが相互に連なりあって民主主義的な世界空間の形成にいたる」と考えるとするなら、アナキズムは「小集団という地域性が人類全体を包括する世界性に到達する媒介項は何か」という理論装置を欠いている。氏はこの「欠如」を克服できる道筋を見いだすことできなかったので、確信をもったアナキストとして生きる道を選ばなかった、という。これこそ核心的だ。優れたノンセクトラディカルの多くがこの問題に直面し、やはり組織が必要だとボルシェビズム組織に吸収されていった。あるいは、日常領域の「変革」の総和が社会変革の実体だと脱あるいは没政治化していった。アナキズムの致命的な弱点をどう克服するかに、大げさに言えば原住民の復権を嚆矢とする人類の未来がかかっている。こう考える人間にとって、では太田氏はどう考えるのか、固唾をのんで次のページをめくらずにいられなかった。もちろん結論はないが、氏はメキシコのサパティスタ運動にその可能性を見ている。思わず快哉を叫んだ。というのは、イタリアのアウトノミア運動敗北後の日本と世界の運動を見ていて、可能性を感じたのは日本では松本哉らの「素人の乱」とメキシコのサパティスタ運動だったからだ。「若い男を特権化する」革命の小集団から武装した地域共同体へ。サパティスタ民族解放軍が歩みめざすこの方向こそ、マルクス・レーニン主義的な共産主義とアナキズムの欠点と矛盾を同時止揚するものだという直観に確信を与えてくれた一章である。この本の基調にあるのは「60年代」を60年代たらしめた重要な発言や行動、あるいは現代思潮社のような出版社の仕事というかその仕事をもたらした「精神」についての報告であり観察であり単線的ではない称揚であり、複眼的な批判である。経験の継承や人脈的連続性を超えて重要なのが、本書の副題でもある「精神のリレー」であり、これが「60年代」の意義を未来につなぎ生かすことなのだ。こうした思想的営為をほかの誰がやっているだろうか?ただ、60年安保世代とそれに続く世代の人たちと話していて、その楽天性というか、あえていえばお人好しなところに疑問を感じたことは少なくない。性善説を強く信じる人が多いと感じる。しかしイスラエルの子どもやクメールルージュの少年兵は、その年代ですでにシオニストになり虐殺共産主義の主体的な担い手になっている。つまり人間は生まれたときは白紙の状態であり生まれながらに善なのではない。スターリン主義者やカルト左翼には、そうした後天的な刷り込みばかりでなく、生まれつきの、遺伝子的な欠陥があるとしか思えない人間がいる。生まれつき悪魔のような人間というのはいるし、それが社会運動に紛れ込むことも決して稀ではない。オウムのようにそうした人物を教祖に戴く組織もある。こうした観察からはもう少しちがった見方もありうるし、いわゆる「内ゲバ」に対する考察にはほぼ100%同意するにしてもいささかの観念性というか「お人好し」ぶりに懸念を感じる。「内ゲバ」が最も隆盛をきわめた1970年代後半、党派間ゲバルトが運動空間の自由を保障する面があった。ざっくり言えば、中核派と解放派が革マルを殺していたがゆえに無党派学生運動が存在できた大学も少なくない。その意味で、党派間ゲバルトのマイナス面だけを指摘してプラス面にまったく触れないのは公正ではない。もちろん、そうした思考法こそ氏が最も嫌うだろうということを承知で、あえて言いたくなる。アナキズムが常に敗北してきたのはアナキスト諸氏とその理論が「お人好し」だったからではないだろうか。ロシア革命や中国革命ばかりでなく、スペイン革命におけるアナキストの栄光と悲惨を思うとき、ファシストとスターリン主義者を同一物とみなし、権力奪取のその瞬間に権力機構を粉砕する「悪辣さ」「ずるがしこさ」「徹底した執念」が必要だったという痛切な想いを禁じ得ない。繰り返し読むことになるだろうし、言及されている多くの書物にも目を通したい。そしてさらに思考を深め広げたい。そう思える書物に、ほんとうに久しぶりに出会った。
May 6, 2016
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1980年代のはじめ、労働運動関係の本を読み漁った時期がある。当時はまだ労働組合の組織率も高く、それなりに力を持っていた。反基地や反軍事演習の現地闘争でも官公労をはじめとした組織労働者の参加は多かったし、中小企業の労働組合も70年代に大学を卒業した人々が内部で組合権力を握り始めていて活気があった。労働組合の書記になった知人もいたりして、学生運動、住民運動と並ぶ柱のひとつである労働運動をきちんと勉強しておきたいと思ったのである。そんな中、当時はほとんど理解できなかったが最も印象に残り、いつかはきちんと読みこなせるようにならなくてはと思っていた本が本書。絶版になっているが、上下巻にわかれた新版が再版されているようだ。名著だ。1969年5月に刊行されているが、日本における労働運動の基本原則と戦術・戦略が完全に叙述されているという印象を持った。著者の陶山健一は共産主義者同盟から「革共同をのっとる」という志をもって分裂前の革命的共産主義者同盟に参加した人で、分裂後は中核派の最高幹部のひとりとなった。1997年に61歳で逝去しているが、およそ新左翼の活動家・指導者でこの人ほど党派と潮流を超えて敬愛されている人をほかに知らない。共産主義者同盟の島成郎や生田浩二よりは5歳ほど若く、北小路敏や唐牛健太郎とほぼ同じ世代だが、本書発表時は33歳に過ぎない。その年齢で、日本の労働運動全体を見わたし長所と弱点をえぐり出し、進むべき道を示しているのだからすごいというほかない。当の中核派は革命軍戦略による対革マル戦争と迫撃砲などによるゲリラ・パルチザン戦争に傾斜していくことになるが、もしこの人が本多書記長暗殺のあと中核派の書記長になっていたら、その後はかなり変わっていたのではないかと思わせる。この人の実弟は革マル派の最高幹部のひとりであり、革マル派に対しても影響力を行使できた可能性があるからだ。印象的なのは、街頭政治闘争の意義についての部分。ふつう、職場闘争と街頭闘争は対立的なものとしてとらえられることが多いが、街頭政治闘争を労働者の経験的教育の場としてとらえ、その重みを評価している点。これは、街頭闘争に一度でも参加したことのある人間ならたちどころに理解できる。街頭で機動隊と直接に向き合い、その暴虐を目の当たりにしたとき、100回の学習会よりも階級的意識を高めるものだからだ。わたし自身、野次馬的に参加した闘争で機動隊の暴力を受け「一瞬にして」国家の本質を知った。あれこれの国家の政策に対するおしゃべりや賛否の見解の披露ではなく、いわんや「投票」などではなく、国家そのものといえる警察権力の解体・打倒がいっさいの核心であることはこうした闘争を通じてのみ理解される。革命は、職場の労働者をどれだけ街頭闘争に連れ出すことができ、警察権力と軍隊を圧倒できるかで決まるし、それ以外のものを革命とはいえない。保守的・右翼的な労働組合であった動労千葉が、三里塚闘争への参加を経て最も強力な労働組合に生まれ変わっていったのは偶然ではない。観念的空語がひとつもなく、実践のための問題意識に貫かれて書かれている。具体的かつ徹底的だ。こうした著者の態度こそ誠実さの見本であり、見習うべきはそうした思想的態度である。
May 1, 2016
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長年、書店や図書館に通って思うのは、本というもののほとんどがいわゆる「トンデモ本」であるということだ。料理本やアウトドアガイドのようなマニュアル本でさえトンデモ本であることが珍しくないが、特に社会科学系の「トンデモ本率」は高い。ただややこしいのは、そうしたトンデモ本も、全部がトンデモ本というわけではないケースが多いことだ。トンデモな部分を読み飛ばすというか瞬時に見分ける能力が要求される。こうした能力を持つ人はめったにいない。わたしが知る限りでは、わたしのほかにはいないほど少ない。そういうわたしが「トンデモ本中のトンデモ本」と即断するのがこの本である。編著者の玉川信明は自称アナーキストのジャーナリスト(故人)だが革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル)創設者の黒田寛一(故人)とは若いころ「心友」だったらしくその縁か革マル派機関紙「解放」のダイジェストと言っていい本書を編纂することになったのだろう。上下巻合わせて1000ページ(価格は税込み1万円)を超える大著だが、読む価値があるのは巻末の玉川信明による黒田寛一インタビュー部分数十ページだけというしろもの。それ以外の部分は、1974年6月以降の革共同(中核派)と社会党(社青同解放派)による革マル派への襲撃を警備公安警察による「謀略」であるとする革マル派の機関紙誌の記事をほぼ時間順に並べただけ。革マル派は他党派による自派への襲撃だけでなく、国家権力に対する武装闘争をも謀略もしくは「官許の武闘」などと罵倒し中傷することで自分たちが国家権力と闘わない言い訳にしてきた。武装闘争は跳ね上がりであり組織温存が第一、実際に革命を行おうとするのは時期尚早であり「革命主義反対」をかかげ、権力と闘うすべての個人・団体・運動に敵対し妨害を加えてきた。その中には、破防法弁護団のような救援組織も含まれる。要するに、武装闘争・実力闘争で他党派が大衆の人気と注目を集め勢力を拡大していくことに嫉妬し、その嫉妬を理論で粉飾してきただけだ。闘わないことを路線化した彼らが国鉄・分割民営化においては当局の尖兵として「現代のレッドパージ」に加担するという大罪を犯したのは記憶にあたらしい。100人以上の死者を出した3党派による「内ゲバ戦争」だけでなく、完全勝利した芝浦工大全共闘による革マル撃退、日共民青を含めてほぼ全学が革マル追放に立ち上がった1973年の早稲田解放戦争、北大五派連合による革マル解体戦、80年代中央大黒ヘルノンセクトによる偽装革マルノンセクト撃滅の闘いなどを挙げるまでもなく、蛇蝎のように嫌われ放逐されていったのが革マルだった。その敗勢を覆い隠し、同盟員の動揺を抑えるために(たぶん)黒田寛一ら最高幹部によって決定されたのが「謀略論」による「敗戦隠し」路線だったのだろう。他党派には「世界に冠たる革マル派」を襲撃する能力はない。国家権力が直接にわが派つぶしに乗り出してきている。だからやられてもしかたがない。こういう論理だが、こうした論理はメンバーでさえ信じる者は少なく、脱落者の増加に拍車をかけることになった。実際にそうした人物を知っている。国家権力が直接に活動家を殺したり印刷所を襲撃したり、わざと警備に穴をあけて管制塔占拠を可能にさせる、などということはありえない。軍国主義の日本でも、関東大震災時にアナーキスト大杉栄らを虐殺した甘粕大尉は軍法会議にかけられているし、三里塚空港の開港延期で日本政府は大きなダメージを受けた。警察の大失点だったのだ。警備公安警察の基本戦略は1928年と29年の二度の大弾圧=一斉検挙で共産党を壊滅させた手法であろう。組織の情報収集を積み重ね、内部に潜入させたスパイの手引きによる一斉検挙というのが、たとえば共産主義者同盟赤軍派を壊滅させたのと同じ公安の伝統的手法である。しかし巻末の対談を読むと、黒田寛一じしんがこの「謀略論」を信じこんでいるように思える。盲目の一サロン哲学者にすぎない黒田に「謀略論」を吹き込んだ人物がいるのかもしれない。しかしそれにしても不思議なのは、もし革マル派の言い分をほんの少しでも認めるなら、2000年以降、こうした襲撃が行われなくなったことである。権力にとって活動家個人を暗殺しなければならないほど革マル派が革命的で危険な組織なら「謀略」は続いているはずではないか。現在のアルカイダやIS、ネオコンやシオニストはモハメッドやキリストの末裔であり、モハメッドやキリストの思想にその原因と責任の一端がある。それと同じように、マルクスやレーニンの思想のどこかに、革マルや連合赤軍、フィリピン新人民軍、ペルーのセンデロ・ルミノソやカンボジアのクメール・ルージュ、スターリン主義共産党を生み出すことになる陥穽と欠陥があるにちがいない。
April 27, 2016
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元札響チェロ奏者の文屋治実がピアニスト浅井智子を招いて年に1回開き続けているコンサートの25回目。25回のうち半分ほどはきいただろうか。しかし、今回が最も印象に残った。それは、今までにない集中と密度を演奏に感じたから。どの曲も細部まで完全に自分のものになっている。コンサート後半につれだんだん調子を上げていくというのはよくあったが、最初の曲からすでにエンジンが温まって快調。札響を退団したことで曲にじっくり取り組む時間ができたせいなのかもしれないし、20世紀のロシア~ソビエトの作曲家の音楽への適性や思い入れが大きいのかもしれない。グリエール「12の小品」(1910)からの8曲は、どれも佳曲で、第9番「カンタービレ」などはアンコールピースにもよさそう。グリエールの作品は1970年前後にハープ協奏曲を、1989年に交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)をそれぞれ札響定期できいたことがあるだけだが、1956年まで生きたこの作曲家の全体を知りたいと思った。カバレフスキーのソナタ(1962)は作曲者の創意をおもしろく感じた。不協和音ではないが、協和音にわざとぶつかる音を入れてその音を目立たせたり(前2楽章の最後の音もそうだった)、ストラヴィンスキーが「春の祭典」で使った「調性を保ちながら破壊しているように見せかける」手法に似た要素が感じられる。カバレフスキーというと親しみやすい、子どものためのピアノ作品をきいたことがあるだけだが、「社会主義リアリズム」の枠から逃れ出ようという創作家魂は生き続けていたのだ。休憩後、シチェドリンのソナタ(1997)は、作曲年代からわかるようにソヴィエト連邦崩壊後の作品。シチェドリンというと「カルメン」の編曲だけが突出して知られる不幸な作曲家だが、このソナタをきくと新しい境地を開いているのがわかる。今年84歳になるこの作曲家の、ソヴィエト崩壊後の作品には名作が少なくないと思わせた。そう思わせる練達の作曲技法と清新さを感じさせる力作だった。アンコールは極貧のうちに死んだソ連の作曲家ウラジミール・ヴァヴィロフの「カッチーニのアヴェ・マリア」。ルーテルホールの入場者は70名ほど。そのうち2名は演奏が始まろうというのに私語をやめない女。東京で最近増えている、50人とか100人規模の小ホールがほしいところ。すべての作品がまったく未知というコンサートは、現代音楽以外には珍しい。こうしたコンサートに次に巡り合うのは何十年後か?
April 26, 2016
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かつてこの連載でこう書いた。「たいていの日本人は20代のどこかで人間的成長を放棄する。成長を放棄して20年から30年たつと、治らないバカ、つまり完成したバカになる。早ければ40歳、遅くても60歳にはめでたくバカになる」最近、老人ホームを集中して訪問する機会があった。積雪期だけ駐車場を貸してもらっている老婆が老人ホームに入りたいというので後学のためと考え案内を引き受けたからだ。老人と知り合うと、その周辺の老人とも知り合うことになる。ほとんどは夫をなくした80歳以上の女性で、90代の人もいる。それぞれ抱えている持病は一つではないようだが、自立して生活できているのだから大したものだ。親しくなってくると同時に共通の現象に気がついた。行くとたいていテレビがつけっ放し。韓国人や中国人とも共通する日本的習慣だ。話題はというと病気か死んだ夫の自慢もしくは悪口、子どもや孫の自慢もしくは悪口の順だ。その次にくるのが時事的な話題。ちょうど北朝鮮のミサイルが騒がれている時期だったので、「北朝鮮は悪い国」という意見のオンパレード。そこでちょっといたずら心が出て、「北朝鮮はすばらしい国」と反論してみることにした。すばらしい国というのはもちろん比較の問題で、挑発的なジョークである。中国大陸で民間人を2000万人殺した日本や、ヴェトナムをはじめ全世界で2000万人殺したアメリカに比べれば「外国を侵略したことがない、すばらしい国」というだけの話。人類全体を10回殺してまだ余る核兵器を持っている国が「核開発疑惑」などと騒ぐのも笑止千万だ。さすが老人である。短期記憶力の劣化はすさまじい。わたしがこう持論を述べると100%同意する。おまけに、例外なく他の人にそのままわたしの持論を展開するではないか。年寄りは頑固だとうイメージは吹き飛ばされた。なんと柔軟な人々か。数日して家へ行く。そうするとまったく同じことが繰り返される。要するに自分の意見というものがないので、マスコミや他人の意見がすぐ自分の意見にすりかわるのである。老人たちは短期記憶力の劣化のせいで洗脳されることがない。支配階級がマスコミを使って流す悪宣伝も彼ら彼女らのアタマには定着しないのだ。ひるがえって短期記憶力の劣化のない日本人はどうか。善良な人間ほど正義漢になりたがる。だったら全財産を寄付するとか、北朝鮮に潜入して反政府ゲリラでも敢行すればいいものを、ブルジョワ・ジャーナリズムの喧伝に同調するだけで自分が正義の側に身を置いていると錯覚し満足する姿は醜悪そのものだ。もちろん商業ジャーナリズムがすべて虚偽の報道を行っていると言いたいのではない。だが巨万人民が参加したデモがまったくニュースにならないように、取捨選択の時点ですでにフィルターとバイアスがかかっているのがジャーナリズムの常だし、近くはイラク戦争、少し前だと国鉄問題のように、あとで振り返ってみるとまったくウソだったケースも少なくない。アメリカやフランスやイギリスが中東で行っている、行ってきたことを不問にしてISを批判する人間。ISとクルド労働者党のテロを同一視する人間。ISがイスラエルやアメリカの対シリア政策=パレスチナ人民皆殺し政策から直接・間接に生まれたものであることを理解できない人間。何よりも、北朝鮮が歴史的に一度も外国を侵略したことがない「すばらしい国」であることに異論をとなえる人間。こいつらはみな立派なバカである。自分のアタマで考えることを放棄した人形であって人間とはいえない。こうした、短期記憶障害が始まっている認知症初期の老人とは比較にならないほどのとてつもないバカが、きょうも紙と電波とインターネットで量産されていく。
April 12, 2016
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16時開演、15分ずつ2度の休憩をはさんで終演は19時15分。正味は2時間45分ということになる。これだけの時間、集中を持続するのは聴く方にとっても楽ではないが、演奏者のそれは想像の外にある。コンチェルトやソナタなら休む時間もあるが、弾きっぱなしなのだから。しかも全曲暗譜で通した。コンサートに行くのは原則としてやめた。いちばんの理由は時間。ホールのすぐ近くにでも住んでいればいいが、10キロも距離がある。コンサートに出かける往復の時間がもったいない。だいたい8割のコンサートは不満が残るものだが、そうするとストレス解消のために飲酒したくなる。夕方以降の時間がすべて奪われる。もう一つの理由は未知の曲がないからだ。指揮者のハンヌ・リントゥによると、フィンランドでは現代曲や珍しい曲をやらないと客が入らないという。泰西名曲以外は客が入らない日本とは正反対だが、こういう愚鈍な聴衆を前提とした日本のコンサートの多くは音楽を愛する人間とは無縁のしろものになっている。この傾向は21世紀になってから強まっている。たとえば、今年は武満徹の没後20周年だが特集するオーケストラもない。よく知る曲の凡演を愚鈍な聴衆と聞くくらいなら、家で未知の曲、未知の演奏家のCDでもきいていた方がいい。もし生まれ変わって演奏家になるなら、どの楽器がいいかと夢想することがある。作品でいえば、ピアノとバイオリン、ギターに尽きるだろう。毎年異なるプログラムで世界を巡業しても10年分くらいのレパートリーがある。しかし、ピアノは持ち運べないし、場所に制約がある。ピアノのないところでは手も足も出ない。ギターは、あまりに音が小さい。PAなしではほぼ不可能だ。旅する音楽家としては荷物が増えすぎる。バイオリンは持ち運べるし、無伴奏のレパートリーも多いのでいい。が、演奏家としての寿命は短い。ピアノなら100歳でも大丈夫だが、バイオリンは60代になると厳しくなってくる。寿命が短いのは歌手も同様。金管はレパートリーが少ない上にさらに演奏家寿命は短い。木管楽器は持ち運びにはいいが、フルート以外は無伴奏のレパートリーが少ないので伴奏楽器もいる。フルート奏者の演奏家寿命もさほど長くない。こうして考えていくと、最終的に残るのはただひとつ、チェロだ。もし今度生まれ変わることがあるなら、バッハの無伴奏チェロ組曲全6曲だけを毎日100人程度の聴衆の前で演奏し続けるチェロ奏者になりたいと思っている。60年間演奏活動でき、年に100回演奏するとして、60万人の聴衆にこの人類史上最高の音楽遺産のひとつを届けることができる。ひとりあたり5ドルのギャラをもらうとして、生涯に300万ドルの収入であり、100万ドルの楽器を買ったとしても生活できる。こういうチェリストが100万人ほどいれば、半世紀ほどの間に地球上のすべての人間が一度はこの音楽に生で接することができる。わたしにとってチェロとはそういう楽器であり、バッハの無伴奏チェロ組曲全曲は人類の命運をかけた音楽のひとつであるとさえ考えている。だから原則を曲げて行ったのがこのコンサート。招待券をもらったのでたまたま無料だったが、5ドルどころか50ドル以上の価値があった。バッハのこの曲は、LP時代もCDになってからも、番号順に収められた録音はほとんどない。というのは、番号が増えるほど演奏時間が長くなるからで、後半3曲は一枚のCDに(ふつうは)収まらない。バッハの無伴奏チェロ組曲全6曲を番号順にきく機会はかなり限られたものなのだ。バロックチェロ用の弓を使い、第6番ではバッハが指定した5弦チェロを使った津留崎氏の演奏は、現代楽器でなじんだスタイルの、どこか瞑想的な演奏に比べてテンポも速く、生命力と推進力に富んだもの。かといってオリジナル楽器の「語りかけるような」スタイルとも異なる。両者の折衷というわけでもない。津留崎氏が2004年に新十津川町で行ったコンサートのライブ録音はCDになっているが、そのときの演奏と基本的には変わらない。韜晦で重々しい表現はひとつもなく、かといって某超有名チェリストのように流麗に流れすぎることもない。どちらというと旧世代のペダンチックな演奏になじんでいるので最初は違和感もあったが、次第にバッハのこの曲はこういう演奏がベストなのではないかと思えてきた。いま生まれていま輝いていま消えていく、その連続としての音楽。6曲を通してきいて初めてわかったのは、前半3曲がよく響く外交的な音楽であるのに対し、後半の2曲は内省的で行間の豊かな音楽であること、最後の6番がその二つを高度な次元で統一した人類の金字塔とでもいうべき音楽であることだ。第6番がすごい音楽であることはこの2月にきいたペレーニのリサイタルでも感じたことではあったが、通してきいての発見は次元がちがう。高みを目指す人間の精神には限界がないのだということをこの音楽は教えている。ベルリン・フィルを100回きいたところで、このような精神の高みに触れられることはない。シリーズ全曲をコンサートできいてみたい、コンサートでなければ発見できないと思われる音楽のひとつをこうして体験できた。残るのは、バッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティータ、バルトークの弦楽四重奏曲6曲、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全15曲・・・。バッハはともかくこれらは機会がないから、どこか外国の音楽祭にでも出かけなくてはならないと観念している。津留崎氏の演奏をはじめてきいたのはアマチュアオーケストラの定期演奏会で、たしかラロの協奏曲だった。2011年に東京で開いた連続リサイタルの評判をきいたので出かけたが、それ以来、氏のブログとともに活動には注目している。作曲や編曲にも傾注しているらしいが、音楽の表面だけをなぞるような演奏家ばかりになってきた現在、世界的に見ても聴き続けるべき数少ない音楽家のひとりだ。
April 2, 2016
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全く知らない演奏家ふたり、しかもかなりの経歴の持ち主。キャリアからはピークの入り口にあると思われたし、新作初演もある。札幌駅前にオープンした「ふきのとうホール」にも興味があったので足を運んだ。まず、全く期待していなかったピアニスト居福健太郎に感心した。無機的に響く音がひとつもないのだ。ただの音階、ただの和音が実に音楽的に豊かに響く。音楽が彼の身体に宿っているというか、音楽が背広を着て歩いているといった趣。「デュオ・リサイタル」のタイトルに納得がいった。圧巻だったのは最後のR・シュトラウス「ヴァイオリン・ソナタ」。音楽以外の要素をいっさい感じさせない純度の高い演奏で、白熱しても音楽が小さくならず、スケール感のある息の長いフレーズで高揚していく。若書きのこの作品がこれほどみずみずしく演奏されたのをきいたことがない。その前に演奏された平井真美子「オオカミと霧」(委嘱作品・世界初演)は、まあ佳曲といったところか。映画やCMの音楽で活躍している作曲家の純音楽作品というと、逆に複雑だったり奇怪だったりすることが多いが、彼女のメーンフィールドからそう遠くない、しかしぎりぎり芸術作品としての密度を保った作品。前半、ベートーヴェンの「春」とグリーグの「ヴァイオリン・ソナタ第3番」は、シリアスな表現に好感するものの、遊びとかもう少しボキャブラリーがほしい。狂気とか哄笑といった言葉はこのヴァイオリニストの辞書にはないようだが、ソリスト、特にヴァイオリニストに必要なのは逸脱だと考える。エレベーターで会場に向かう、というのは東京でしか経験がなかったが、札幌にも初めて音楽専用でそういうホールができた。一階には六花亭が、下の階にはヤマハが入っているので便利な人には便利だろう。音響は、ルーテルホールほどピアノが響きすぎずバランスがいい。外部からの音の侵入もない。ただ音楽の前後の余韻というか非日常性のようなものを味わえるロケーションと内装ではない。
March 13, 2016
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公共図書館の棚というのは本を愛する人間から見ると「死んでいる」。では書店の棚はというと劣化がひどい。ジュンク堂のような巨大書店はともかく、知性の墓場にさまよいこんだ気がする。その点では文系のいい学部のある大学の図書館の棚には生命力がある。探さなくても、読むべき本がこちらに向けて光を発している。しかしこの本は公共図書館で見つけた。図書館の分類法というのはもう時代遅れになっていて類書をその付近で見つけられなかったりするが、人気のない本が集まっている棚のあたりはいつも同じ本が同じように並んでいるので、ときどき稀少かつ重要な本を見つけることができる。大同生命国際文化基金が発行したこの「現代カンボジア短編集」(2001年)は、たぶん一般発売はされず寄贈されたものと思われるので、図書館でしか見つけることのできない本だろう。このように図書館に定期的に通う習慣を持たない人間は無教養になっていくが、この基金は「アジアの現代文芸シリーズ」数十冊をはじめアジア関連書籍をかなり出版しているようなので、ビルマやインドネシア、フィリピンなどの文学に親しんでみたいと思う。1966年生まれの岡田知子という人が編者であり訳者。80年代なかばに日本在住のカンボジア難民と関わったのをきっかけにカンボジア研究を始め、カンボジアに留学したという経歴の持ち主。あちこちの雑誌や新聞に発表された小説を読み集め、選択し、著者やその遺族に連絡をして翻訳と出版の許可を得るというのは大変な作業だったと思われる。そうした見えない煩瑣な作業に費やされた膨大な労力の前に、読む前から背筋を正されるような気がする。5人の作家の13編の小説が収められている。二人はポル・ポト以前、三人がポスト・ジェノサイド世代で1950年代後半以降に生まれている。最も若いソティアリーは1977年生まれ。1943年生まれのソット・ポーリンはカンボジア・ジャーナリズムの父と言われている人らしい。ポル・ポト革命時にはヨーロッパにいたため粛清を免れたが、ポル・ポト以前のカンボジアに今の時代にも通じる「実存的・退廃的」小説が書かれていたことに驚く。われわれになじみのある「文学」の身ぶりを持つ唯一の作家かもしれない。クメール・ルージュに参加し粛清されたクン・スルン、ジェノサイド以降の3人の作家の作品からは、「文学の誕生」の瞬間に立ち会うような清新な気分を味わえる。作品としては完結していなかったり、素材が生のままといった弱点は、むしろそのまま長所のように思えてくる。文学への懐疑、文学がなすべきことへの逡巡や韜晦はここにはない。文学が何のためにあり、何を目指すべきかが、戦後という「ゼロ」の地点からの出発であるだけに鮮明なのだ。ソファーの「退屈な日曜日」は、貧しい母子から毛布を盗まれそうになった主人公が、その毛布を分けあたえなかったことを後悔するという話。これが「戦後」のカンボジアの日常なのだろうし、日本でも同様のことはあった。しかし日本にはこうした小説を書いた人間はいない。文学の高みから庶民を「描いた」作家はいたかもしれないが、同じ庶民同士の体験としてこういう小説を書いた人間はいない。つまり、カンボジアはゼロからやり直すことに成功するだろうが、日本はそれに失敗したということだ。文学もまた社会の鏡なのだ。毛布を盗まれそうになった人間が、取り返したことを後悔して盗もうとした貧しい母子を必死で探しまわる。文学は良心を呼びさますことが第一義的な使命であるという基本を、殴りつけられながら教えられたような衝撃とともに読み終えた。
March 7, 2016
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フィンランドの映画作家、アキ・カウリスマキの本を見つけたので読んでみた。1957年生まれの彼の2002年までの作品の紹介が中心となっている。ところどころにカウリスマキへの6本のインタビューをおき、巻末には鈴木治行による論考、フィルモグラフィ、関連日本語文献などを収めるといった構成。カウリスマキの映画は「ル・アーブルの靴みがき」(2011年)を見ただけだが、現存する最も重要な映画監督のひとりという印象を持った。全作品を見てみたいと思う数少ない監督のひとりであり、発言が気になるひとりでもある。ブニュエルとフラハティの映画を見て、それまで見ていた映画は「商業的クズ」だったことに気づき、自分の映画はクソみたいなものだが「悪くない」、イランの映画監督の入国を認めなかったアメリカに抗議して映画祭への出席を辞退し、「フィンランドでキノコ狩りでもして気を鎮めたらどうか」とアメリカ国防長官に声明を発する。ブッシュとプーチンには会いたくない。会うと殺してしまいそうだから、とシニカルに語る、こんな映画監督がほかにいるだろうか?レイアウトがアート的で活字も小さく、雑誌ぽい作りおしゃれな作りで読みにくい本であることを除けば、カウリスマキの人と作品にかなり肉薄できる。これまでの作品を見てからもう一度読むとさらなる発見があると思われる。稀代の映画フィルでもあるカウリスマキが高く評価する映画の記事を読んだことがあったが、そうした映画を特集して見るのもおもしろい体験になるかもしれない。
March 1, 2016
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「日本人には二種類いる」を読んだので、類書をもう一冊くらいと思って見つけた本。著者は1957年大阪生まれの文筆家とある。古本に関する著作が多いらしい。昭和三十年代ブームは、明らかに映画「ALWAYS三丁目の夕日」からだろう。しかし、数本の映画で何かがブームになるというのは今の時代にはありえない。そもそも昭和三十年代がブームになるような土壌があったということだ。それが何かを考えるきっかけにしたいというのもこの本を読もうと思った動機のひとつだが、「日本人は二種類いる」と同じで、そうそうそんなものもあったしそんなこともあった、という「世代の備忘録」の域を出ない。かくいうわたしは著者と同年だ。昭和30年代の後半ははっきりと記憶にあるし、昭和30年代的なもののどれがその後も残り、どれがあっさり消えていったかも見てきている。同窓会と同じで、忘れていたことを思い出したり、あの時代にタイムスリップしたりという楽しみは味あうことができたが、もっと下の世代、いまの20代がこの本を読んで持つ感想を知りたいものだ。「日本人は二種類いる」では食生活や家族の変化が多く取り上げられていたが、この本ではそれらと同じくらいの重さでアニメやオーディオ、土管と空き地、家電と下水道について語られる。それもある種の「熱さ」をもって。その「熱さ」には共感するが、やはり大阪という大都市で育った人の本という印象にとどまる。アニメやプラモデルや空き地での缶けりにもたしかに夢中になったが、畏怖すべき自然はまだ周囲に健在で、まだ人類が月に行ったことのない時代に宇宙は神秘そのものだった。遊びは発明するものだったし、つまり子どもの世界とおとなの世界ははっきり断絶していた。親の権威、年長者への尊敬はまだ保たれていた。こうしたことへの言及があればこの本の価値は高まったと思うが、岩村本と同じで、風俗の羅列にとどまってしまっている。岩村本では雑誌などの資料からの引用が多かったのに比べると実体験の割合が多い分、体感的に共振するし細部の記憶はさすがだ。しかし、やはり人間の小さい「都会っ子」が書いた害のないトリビアリズムという域を出ない。冒頭、1969年1月に何歳だったかでその人が決まるという黒沢進の説が紹介されている。社会人1年生だった人間は「永遠の若手サラリーマン」、大学生だった団塊世代は「永遠の大学生」だというわけだ。この本の著者もわたしもそのときは小学6年生だったから、われわれは「永遠の小学6年生」なのかもしれない。そう思うことにしておこう。そうであるならば、永遠の小学6年生として、中学生以上の「老人」たちを嘲笑し弾劾し踏み越えていこうではないか。
February 27, 2016
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著者の名前が何となく記憶にあると思って手にとった本。「親の顔が見てみたい!調査」「変わる家族変わる食卓」などの著者があるので、どれか立ち読みしたことがあったのだろう。「1960年の断層」という副題がついている。1953年生まれの著者は、戦後日本の大きな変化をリアルタイムで経験した世代。この本の主旨である、1960年生まれの人たちの成長と共に日本社会が大きく変わったという時代の変化を、すでに自我を形成した人間の立場と経験から見つめることのできた世代に属する。この時代の変化は、はっきりとおぼえているものもあるし、うっすらとしか記憶にないものもある。それに大都市と地方ではタイムラグもあり、一気に変わったわけではないから首肯しない、できない部分も散見される。しかし、親が戦後教育世代、自宅ではなく産院で生まれ、粉ミルクと離乳食と育児書で父親不在の母子中心家庭で育ち、休日には家族でレジャーに出かけ、生まれたときからテレビとインスタント食品があり、というふうに列挙されていくと、1960年生まれの前と後では断絶といえるほどの変化があったことは納得できる。日本社会は数としては圧倒的に多い団塊世代に合わせて変化したように思っていたが、そうではなく60年生まれの成長と共に変化していったのだという事実に瞠目させられる。そしてその後の変化は、この世代が初めて体験していった諸々の事象の変化に比べれば小さいというか、そのバリエーションや延長でしかないということに気づかされる。ただ、食生活など日常世界の変化(というか便利さや快適さを追求する商品やサービス)に焦点が絞られているので、読みやすい反面、それだけがこの世代から下の世代の変化を説明できる理由のすべてだろうかという疑問、それもかなり根本的な疑問を感じる。たとえば、為替の変動相場制への移行、1970年代なかばの不動産バブルの崩壊、二度にわたる石油ショックなどはこの世代の精神形成、保守化と内向化に大きく影響したが、そうしたことにはまったく触れられない。アニメソングしか共通の「歌」のない、冷凍食品とインスタント食品で育ったオカルト宗教に免疫のないこの世代の特徴は、高度経済成長の闇の部分である「公害」や1972年からの強烈なインフレとも無縁ではない。結局、あまり政治や社会に興味のない、しかし少しばかり知的なアンテナの広がっていた女性が、自分の見聞を補強する事象をデータとして収集し整理し分析しただけという印象。その手際がよくムダが少ないので納得させられるような気がするのだろう。交通機関で移動している最中とか、集中力を要求される読書ができないような時にはいいが、そうでないときにまで時間をさいて読む価値はない。まあ、ゲームをするよりはマシな時間の使い方だろう。世代論に興味を持ったのは会田雄次の「アーロン収容所」を読んで以来だ。人間を根底のところで規定するのは何なのか、DNAなのか環境なのか「下部構造」なのか。そのいずれでもあり、そのいずれでもないのだろう。この本はそれを「環境」に一元的に求め説明しようとする点で、著者の善良な意図にも関わらず悪書である。
February 26, 2016
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このところアタマが悪くなった気がする。加齢のせいにしてはひどい。理由はわかっている。10月に行った山形でおいしい日本酒にあたり、日本酒を飲むようになったせいだ。コッパなどの生ハムに合う酒をいろいろ試して、結局日本酒にいきついて飲む機会が増えた。ワインを飲むときよりも量は控えめにしている。しかしふだん使っているような言葉が出てこなくなったり、モノの置き忘れという症状は日本酒のせいだろう。それは飲んだ次の朝に料理をするとわかる。日本酒を飲んだときは手際よくできない。同時進行ができないのだ。日本酒はやめるにしても、アタマのさびつきを防ぐのに最も効果的なのは読書だろう。多くの人はネット検索で自分の意見を補強してくれる記事を読んで慢心するようになっている。日本ではインターネットは反権力のツールであるよりはファシズムのエンジンとして機能している。そこでインターネットの利用は必要最小限にして、アナログな本に帰ろうと思ったのだ。この「若き日々」は1966年に新潮社から刊行されている。「チャップリン自伝」の3分の1ほどの分量だそうで、極貧の幼少期からアメリカで成功して一躍有名人になるまでの部分。無類におもしろい読み物だった。極貧と一言に言うがチャップリンのそれは壮絶だ。驚くのはチャップリンの記憶力である。中には記憶ちがいのこともあるのだろうが、極貧生活の細部にわたる記述には圧倒される。それが単なる事実としてではなく、そのときの感情と一緒に記述されるので強く印象に残る。どん底の生活、貧民院での理不尽な刑罰、発狂した母との別れと再会の繰り返しといった一連の出来事を知ると、大男や金持ちや偽善者に対する反感、親子や家族の情愛を何よりも尊ぶチャップリン映画の特徴の源泉がわかった気がする。6、7歳の子どもにとって母とも異父兄とも別れなければならない寂しさは想像を絶するものがあるが、このくだりを読んで号泣しない人間の体には血ではなく不凍液が流れているにちがいない。中野好夫の訳もいいが、チャップリンの文章力にも感嘆させられる。無惨な失恋に終わった最初の恋人とのデートやその後のいきさつなどは、まるで一編の映画を見ているような気にさせられる。そして早世してしまったというこの彼女が、チャップリンの実人生にも映画にも大きく影響したことに思い至る。印象的なのはチャップリンの批評眼である。映画の黎明期、ドタバタ劇に終始していた喜劇に対する批判から芸術的な価値のある喜劇を生み出していくのだが、その批評がこの上なく的確なのだ。学校にも行っていず読み書きも怪しかった少年がなぜそのような批評眼をもつことができるようになったのかは真剣に考える価値のあるテーマだ。チャップリン自伝は絶版になっている。続きを読むために図書館に取り寄せの予約をしたところだ。
February 22, 2016
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coming soon
February 17, 2016
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沖浦和光(1927~2015)日本人はどこから来たのか。異民族の間ばかりでなく同じ民族の間にさえなぜ差別が生まれるのか。芸能と芸術のちがいは何か・・・こうしたことを一度でも考えたことのある人なら、この人の名前を「かずみつ」ではなく「かずてる」と正しく読むことができるはずだ。この人の名を知ったのは1979年、小田実らが大手出版社から発行していた「使者」という雑誌。対談か何かだったと思うが、日本共産党員だった過去を振り返り「初心忘るべからずだな」と結んでいたのが記憶に残った。こういう人が大学の学長をやっている関西の知的風土にも羨望をおぼえたが、比較文化論に興味を持つと同時に、「六全協」以前の共産党員でその後共産党を離れた人たちに興味を持った。沖浦氏はそのひとりであり、当時はたくさんの「オキウラ」がいて、思いがけないところでそういう人に出会ったものだった。「この人はモノがわかっている」と思った大学教授などと親しくなると「実は朝鮮戦争時に所感派だった」という告白をきくことが稀ではなかったのだ。当時は知識がなかったので、そのことの意味や教訓について訊ねることもなかったが、いま思えば惜しいことをしたものだ。1948年に結成された全日本学生自治会総連合の中央執行委員のひとりが沖浦和光である。委員長は武井昭夫で他の中執には安東仁兵衛、力石定一らがいた、というより彼らによって作られたのが当時22万人を擁した全学連である。武井の「層としての学生運動論」によって全学連は共産党の独善的指導から自立。共産党の迷走や分裂や敵対を乗り越えて発展し、反イールズ闘争、ポポロ事件、砂川基地反対闘争などで勝利していった。そうした薫風かおる戦後革命期の反戦運動の中心人物が逝去したというのに悼辞を掲載する「全学連」はなく政党もない。沖浦氏がなぜいつどのように共産党を袂をわかったのか、日共にかわる革命政党の創設はかんがえなかったのか、膨大な著作をすべて読めばどこかに書いてあるのかもしれないが、彼の近くにいた誰かが訊ねたことはなかっただろうか。青木昌彦(1938~2015)共産主義者同盟(通称第一次ブント)の指導者・理論家であり、60年安保闘争時の全学連の中央執行委員のひとりだった。のち近代経済学に転じ、ノーベル経済学賞候補になったこともあるが、唐牛健太郎、島成郎、生田浩二といった同時代の煌星のような人々との交流などは「わたしの履歴書~人生越境ゲーム」に詳しい。姫岡玲治名で書いた「国家独占資本主義段階における改良主義批判」を読んだのは1980年ごろ。「同時代音楽」という雑誌になぜか安保ブントの基本文献が復刻され、山口一理「十月革命とわれわれの道」と共に印象に残ったのがこの論文だった。作曲家・ピアニストとの高橋悠治とは10代のころからの親友だったらしく、彼のコンサートで「姫岡玲治こと青木昌彦かも」と思う人を何度も見かけることがあった。2015年4月の京都のコンサートでも見かけたが、話しかける勇気がなかった。第一次ブントの人たちが持っている(その後のイデオロギー的転向を問わず)楽天性というか懐が広くて深い人間性の由来に興味があったし、ブントが依拠したマルクス=レーニン主義のどこに「収容所国家」を結果する隘路があったのか個人的な意見をきいてみたいと思っていたが、見ず知らずの人間がいきなりそんなことを訊ねるわけにもいかなかった。助川敏弥(1930~2015)札幌出身の作曲家。作品を知ったのは「終わりのない朝」という被爆ピアノとオーケストラのための曲を放送できいたのが初めてで、あれは初演時のものだと思うから1983年のこと。どういういきさつだったか忘れたが彼が「バイオシック環境音楽研究所」を始めた1987年ごろに知己になり数回会った。その研究所の案内には「招待状をもらった批評家とごく一部のマニア」しか来ない現代音楽の世界にはうんざりした、もっと広い音楽の場を得たいと思って始めたという手紙が添えられてあった。現代作曲家が環境音楽(当時はまだそういう言葉はなかったが)を提供したからといってそういう問題の本質的な解決にはならないと思ったが、気持ちはわかるという感じだった。芸術音楽が少数のきき手にしか届かないのは当然で、創作の論理は「聴衆に受け入れられるかどうか」ということとは関係がない、というか関係があってはならない。もちろん、職人として社会から求められる音楽を提供することがあっていいし、それは創作自体にも決してマイナスではない。こんなあたりまえのことがわからない「自分より年長者」には興味を失った。時間がたちホームページができた。いまでも一部は閲覧できるが、戦後まもなくの日本社会を活写した部分など非常に興味深い一方、現代音楽の否定や反共主義丸出しの政治思想には落胆した。芸術における保守主義者がすべて政治における保守主義者ではないだろうが、芸術について深く考えない人間は政治においても深く考えないということを「教わった」。ホームページはすべて削除されてしまったようだ。「札幌の思い出」などは貴重な歴史資料だったのに残念だ。関係者は故人の名誉にならないと思ったのだろうか。
January 10, 2016
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2012年だったか、イトウワカナの「ことほぐ」という芝居を見て感心したことがあった。それで少し芝居を見てみようかという気になった。演劇が政治に従属していた時代からアンダーグランド演劇や小劇場運動の時代を経て、お座敷芸でなければ小市民的エンターテイメントに変質してしまったという基本的な認識に変わりはない。変わりはないが、諸芸術の中でも最も反体制・価値逆転的傾向をもつのが演劇という表現形式なのだから、何か面白いものが不断に生まれてくる可能性はある。2014年の「札幌劇場祭」で大賞を受賞したプロジェクト・アイランドという韓国の演劇ユニットによる「アイランド-監獄島」は、その期待を満たすにじゅうぶんであり、現実からの逃避ではなく演劇ならではのやり方で現実へ肉薄するひとつの見本を示したという点で新しい時代の新しい演劇の誕生を告げ知らせるものだ。物語は南アフリカの政治犯収容所が舞台。二人の囚人はよくわからないがとにかく反体制の罪で収監されている。この二人が刑務所の中でアンティゴネーを上演するまでの二人のいざこざややりとりが中心となっている。アンティゴネーはいわずとしれたギリシャ悲劇のヒロインである。反逆者である兄を埋葬したカドで反逆者とされ死刑を宣告される。女性であるアンティゴネーを男性が演じようとするこっけいさを散りばめながらも、体制に毅然として抵抗するアンティゴネーとこのアンティゴネーを演ずるジョンが二重写しになるように作られている。とにかく俳優二人のパワーがすごい。韓国人と日本人はもともと同じ民族といってよく、ジョン役のチェ・ムインもウィストン役のナム・ドンジンも、黙っていれば日本人(や極東アジア人の多く)と見分けがつかない。しかしながら、彼らの迫力ある演技を見ていると、流れている血はまったくちがうように感じられてくる。韓国では民主労総によるゼネストが何度も戦取され、日本でも国会前や辺野古で階級対階級の激突が始まっている。このような時代に芸術家は単なる美の世界に自閉していていいのだろうかと常々感じていたが、このプロジェクトはその疑問にひとつの解答を与えてくれた。韓国語による上演だが日本語字幕が映写され言葉の問題はまったくなかった。
December 2, 2015
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放送でも録音でも、いまひとつ興味を持てない音楽家がいる。世界的名声を持つ「大物」ではアシュケナージはそのひとりだった。1970年にピアニストとしてベートーヴェンのピアノ協奏曲を札響と共演したときも、その直前に買ったベートーヴェンの「ハンマークラヴィア」やショパンのLPでの演奏が好きになれず行かなかった。指揮者としての活動が主となってからも、2001年と2004年の来札公演(前者はチェコ・フィル、後者はイタリア・パドヴァ管)はコンサートかよいどころではない事情があったせいもあって行けなかった。その後もときおり出るCDをきいてはいたが、平均点以上の何かを感じることはできなかったので、今回のコンサートも曲目がショスタコーヴィチの交響曲第10番でなければ行かなかったと思う。というのは、2011年のPMFでクシシュトフ・ウルバンスキの名演をきいてこの曲の真価を知り、また今年のPMFでゲルギエフの指揮で同じ曲をきいたばかりだったからだ。それらと比較してどうか、という興味と前半のソリスト(河村尚子)への関心がなかったら今回もまたパスするところだった。1曲目、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲冒頭をきいて、素人指揮者というアシュケナージへの偏見と無関心をあらためる必要を痛感させられた。緻密で強靱なベートーヴェンらしい音とオッフェンバック的ではない推進力のある立派なベートーヴェンが繰り広げられているではないか。続くモーツァルトの協奏曲は、昔であればアシュケナージの弾き振りでやったところだろうがサポートに徹している。その姿勢には好感するが、協奏曲をやる場合の指揮としては甘い。河村尚子の演奏は即興性と生命力に富んだすばらしいもので、彼女の演奏に批判的な人がいるとすれば日本的なストイックな音楽趣味に侵されている。2000人収容の大ホールで室内楽のようなモーツァルトをやってもしかたがないのだから。彼女のモーツァルトは大仰にならないギリギリの音量で、オーケストラをときにリードし挑発し、ときによりそい慰める、といった室内楽と協奏曲の両方の面を生かしきったもの。このやり方が他のモーツァルトの協奏曲でいつも成功するとは限らないだろうが、この曲では正鵠を射ていた。鳴りやまない拍手に弾いたアンコールはバッハの「羊は安らかに草をはみ」。このピアニストには大器の素質を感じる。若いころはよくても40歳すぎると平凡になってしまう演奏家は多いが、彼女の音楽には何かそういう壁の存在を感じさせないものがある。こうした前半の興奮がさめないうちにショスタコーヴィチが始まる。細部を整えて緻密に構築していく指揮者は多い。しかしアシュケナージはそういうタイプではないようで、オーケストラビルダーとしてはダメな指揮者のひとりだろう。実際、振りまちがいなのか練習不足なのか、あまり経験しないタイプのミスや乱れが散見された。しかしそんなことが気にならないこの演奏の白熱と躍動感はどうだ。指揮はたしかに素人っぽいが、彼がどんな音楽を欲しているかが指揮姿からはっきりわかり、それが120%的確なのだ。「背中に音楽が乗っている」のが見える指揮者の筆頭といえば小澤征爾だが、近年、めっきりそういうタイプの指揮者は減った。それを大指揮者の要件とするなら、アシュケナージを大指揮者の列に加えることに異論はない。唯一の不満はティンパニ奏者に対してのもの。読響に移った前首席の積極的な演奏に比べて平板。ライブなのだから思い切りのよい音がほしかった。
November 28, 2015
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ポーランドのフリジェシュの短編を斎藤歩が脚色したもの。原作は知らないがかなり拡大されているらしい。それでも上演時間は1時間未満。登場人物はみな男。亀だと思いこんでいる患者、医師、看護士、学生の4人。ネタを明かしてしまえば、みな精神病院の入院患者でこの4人のひまつぶしの芝居にわれわれ観客がだまされる、というもの。原作者がやりたかったこと、というかこの作品の意図は明らかだ。要するに反演劇としての演劇の創造であり、虚構の虚構化を通じて観客の知性を覚醒させることだ。しかもそれにユーモアがからむのだから演劇としての理想的な条件をほとんど備えている。優れた戯曲であり、優れた脚色である。そして演技も見事で特にキャスティングがはまっていた。上演場所は彼らが根拠地としているあけぼのアート&コミュニティセンター。学校だった建物の元教室を簡素な小屋にしている。非日常性を感じさせるこういう場所での上演はこの作品にはひときわふさわしい。しかもこうした芝居がたった800円で見られるのだからすばらしい。この劇団の次回公演は春らしい。上映期間も1週間程度なのでぜひ行きたいと思う。
November 24, 2015
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オーケストラは「指揮者の楽器」であると共に「民族楽器」でもある。たしか小澤征爾だったと思うが、空港の雰囲気とその国のオーケストラには違いがない、というようなことを書いていたはずだ。だから、「北方領土」返還運動をはじめとして反ソ連の極右活動が盛んだった時期にも旧ソ連のオーケストラの音をきいてかの国の国民に流れる温かい人間的感情の存在を確信できたし、アメリカのオーケストラの音をきいてかの国が侵略戦争万歳の軍国主義者とアメリカンドリームに端的な拝金主義者の巣窟ではないと確信することができた。そういった経験の中でも、フィンランドのオーケストラからはいつも人間にとって最も大切なのが何であるかを教えられる。1982年のヘルシンキ・フィルの初来日公演、何年か前のラハティ交響楽団の来日公演はいずれもそういうものであった。アルト・ノラスやエルッキ・ラウティオのようなフィンランドのチェリストの演奏からも同じ何かがきこえてくる。シベリウス生誕150年と銘打った今回のコンサートも注目点はそこだ。純粋だが排他的ではなく、真摯だが抑圧的ではない響きをきくことができるかどうか、不安と期待は半ばする。「フィンランディア」と「バイオリン協奏曲」はLA席(指揮者から見て左手)だったので明確ではなかったが、素朴な響きは変わらない。低弦や木管楽器の響きは木質だし、金管やバイオリンも華美にならず落ち着いた響き。素朴で自然な響きから連想するのは有機農法野菜や果物が持つ作物本来の味のようなもの。神尾真由子のソロはもちろん達者。最近この曲はオーケストラに寄りそうような独奏のものが多い。この日もそうした最近はやりのスタイル。デビューしたてのころよりも力がぬけて自然体なのはいいし、これが時代の美意識なのだろうが、クレーメルのような演奏でこの曲の真価を知った人間には微温的にきこえる。全席完売のはずが百席近く空席があり、後半はCB席へ。やはりオーケストラ全体の響きをきくには指揮者のうしろ15メートルくらいのところがよい。カムは椅子に座って指揮。青年指揮者時代の彼(1982年にヘルシンキ・フィルと来たときはまだその面影があった)を知る者としては隔世の感があるが、音楽的には衰えていない。晩年のマゼールのような悪い意味での老練化もしていない。ベートーヴェンやブラームスをやるときはまたちがうのだろうが、指揮者とオーケストラがお互いの信頼の下に共同作業として作り上げている音楽という感じで、細かいバランスにとらわれたりしない大らかさがいい方向に出ている。クライマックスの高揚も作為的なところがまったくなく、やや呆気なく感じられるほどだが、一時の興奮で「圧倒的な体験を消費する」といった世界とは逆。総勢60人と小ぶりなオーケストラだが、特に低弦が深い響きを出しているせいか、全体として緻密で強靱な音がする。心が洗われ、素直に感動できる40分だった。アンコールは3曲、「悲しきワルツ」「ミュゼット」「鶴のいる風景」。神尾真由子のアンコールはエルンストの「魔王」。このオーケストラの持ち味は3番以降の作品の方が生きると思うので、「放射線管理」区域だからといって東京で行われたツィクルスに行かなかったのは取り返しのつかない「惨事」だったかもしれない。
November 23, 2015
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一日限りのシアターキノ主催「アジア映画祭」で上映された一本。数々の映画賞を受賞した2014年作品。アレクサンドル・コットというロシアの新進映画監督が脚本も兼ねている。映画の新しい世界を拓いた画期的な作品であり、監督の名は映画史に特筆されることになるだろう。オペラにしろ映画にしろミュージカルにしろ、言葉の問題というか言葉の壁の問題がある。吹き替えや字幕でなかば解決可能だが、文字を読めない8億人にはこうした芸術は届かない。それでも他愛ないお話ならバレエで表現できるだろうが、たいていそうはいかない。この映画にはセリフがない。セリフのない映画はほかにもあるが、そうした映画でも文字を読む必要、字幕が必要なケースがほとんどのはずだ。しかし、この映画は言葉なしですべてを表現しているし、そのために衝撃度がさらに高まる。この映画はいったい何を言いたいのだろうと「言語脳」で映画を見ている自分の鑑賞姿勢そのものを破壊されるような衝撃があるのだ。最初はモンゴル映画かと思っていた。父と二人で暮らす少女の、その父の風貌がいかにもモンゴル人のそれだからだ。少女をめぐって二人の男があらそう。ひとりの風貌が白人のそれなので、その次には旧ソ連の中央アジアの国の映画かと思いながら見た。予備知識なしに見た人は同じように感じるのではないかと思う。しかしラストでロシア映画だということがわかる。いや、あまりにも世情にうとい人はわからないかもしれない。でも、わからなくてもかまわない。この「実験」が何の実験であるか、少女の父がなぜ病気で死んだのかを推測できることができれば、どんな国のどんな民族でもこの映画を100%理解できるし、国家と権力の反人間性のすさまじさに衝撃を受けるはずだ。一度見て絶対に忘れられない映画は、実は決して多くない。この映画は「戦艦ポチョムキン」「独裁者」「ローマの休日」などと並ぶ、その数少ない一本である。
November 22, 2015
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2010年から毎年開かれているリサイタルの6回目。タイミングが合わずこの人のソロを聴くのは数年ぶり。結論から書くと、後半に演奏されたショパンの「24の前奏曲」は優れた演奏。内向性と外向性のバランスがよく、ニュアンスも豊か。とはいえ繊細すぎず、細部への耽溺もない。各曲の性格を見事に描きわけつつ、全体としての統一感が保たれた演奏には、演奏者のこの作曲家への愛情と適性の両方を感じた。前半の2曲、バッハ「フランス組曲第6番」とモーツァルト「ピアノ・ソナタ第8番」には疑問を感じた。特に後者。端的に言って、音量が大きすぎるのだ。大ホールならこの音量でいいのかもしれないが、収容人数200人ほどの、しかもよく響くホール(ザ・ルーテルホール)ではうるさく感じてしまう。演奏それ自体は、モーツァルトの短調のシンフォニー、たとえば「交響曲第25番」のようなパッションを感じさせるもので、決して悪くはない。しかし、このホールではあと二段階くらい音量を控えてもよかったくらいだ。ピアノでバッハを弾く。そのこと自体が現在ではチャレンジであり、見識というか音楽観が問われる。音楽観の提出が問われると言いかえてもいい。しかしこの日の演奏は、独自の音楽観の提出を感じさせるものではなかった。アンコールは前奏曲集から「雨だれ」。
November 11, 2015
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新星日響との合併以来日本最大のオーケストラである東京フィルをきくのはオペラなどを除くと3度目。過去2回は大野和士と尾高忠明による地方公演で、定期公演をきくのははじめて。渡邊一正という指揮者もはじめて。放送などで見知っていて、なかなかよい指揮者ではないかと思っていたので一度きいておきたかった。たまたまキャンセルチケットが格安で入手できたので行くことにした。モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」(独奏は牛田智大)とマーラーの交響曲第1番「巨人」。同じニ長調の曲を集めたプログラム。「戴冠式」は、ほどよい軽さと流麗さで奏でられていく牛田智大のピアノが心地よい。ケレンのない素直な演奏は、青年になりかけの今しかもしかしたら不可能なのかもしれない。彼にとってはまだ世界のすべてが新鮮なのだ。さて、自分のハイティーン時代はどうだっただろうかと思っているうちに演奏は終わった。指揮のサポートにも好感。後半の「巨人」はダメだった。ステージの上にはさすが日本最大のオーケストラという感じでたくさんのメンバーが乗っている。ありがちな金管楽器のミスも少ない。指揮も上手でアンサンブルの難所も危なげなしにこなしていく。一見、いい音で快調に進む。いささか没個性的ではあるが、妙な癖のない指揮者の音楽作りにも好感する。才能のある指揮者だと思う。しかし、印象に残ったのはそれだけなのだ。訴えかける「一音」「一フレーズ」がない。弦の前列の方のプルトなどは情熱的に演奏しているのだが、それが音楽的な迫力となっていない。N響の地方公演をきくと「この曲はこんな感じ」といった最大公約数的な演奏のことがほとんどだ。それに比べると定期のせいか気合いが入っている気はする。N響の地方公演と比べてもしかたがないが、比べたくなってしまうほどだということの方が問題だろう。ビジネスライクだとか、そういうことを言いたいのではない。すべてが予定調和的なのだ。美は乱調にあるのだとすれば、乱調がない。つまり美がない。半分は指揮者の責任なのだろうが、東京のようなところでスケジュールに追われて音楽をやっているとみなこのオーケストラのようになってしまうのかもしれない。よほどの指揮者や演目のとき以外、日本のオーケストラをきく興味を失った。
October 30, 2015
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久石譲が指揮者としての活動を始めたのはいつだろう。ミニマル・ミュージックから映画音楽に行き、そのあとジャズに行った人だとばかり思っていたが、FM放送でベートーヴェンの交響曲をきいて驚いたのを昨日のことのようにおぼえている。宮本文昭が指揮活動から引退するというニュースをきいてしまったと思った。というのは、一度は実演をきいてみたいと思っていたからだ。久石氏はそんなことはないだろうが、演目がオルフの「カルミナ・ブラーナ」でもあるし、一度きいておこうと思って出かけた。入手したのは東京芸術劇場の1階、前列から10番目ほどと視覚的には良席。前半は日本テレビ委嘱作である「コントラバス協奏曲」の世界初演(ソロは読響の石川滋)。30分近い大作。久石氏は現代音楽畑出身の人だが、「あの世界では終わりたくない」ということを若いころから言っていた。ジブリアニメでブレークする以前の話である。聴衆との接点との回復、それが映画音楽や商業音楽ならつまらない、というか本質的な解決ではない。芸術を成立せしめる共同体の崩壊と喪失がその原因なのだから、聴衆をたくさん獲得できればそれでいいというのであればうたかたの大衆流行音楽と同じだ。サロネンのように自分の曲を演奏するのが動機で指揮をおぼえて指揮者になった例もあるが、まさか久石氏はそうではないだろう。そんなことを考えながら「コントラバス協奏曲」を聴き、指揮を見る。あえて分類すれば「あの世界では終わりたくない」と言っていた現代音楽に属する。彼の出自であるミニマル・ミュージックふうの楽想を散りばめたオーケストラをバックに、超絶技巧を要すると思われるコントラバスのソロがさえずり、時に苦吟するような音型も奏でていく。というのが印象と記憶のすべてで、繰り返しの多さに退屈したし、オーケストレーションの練達さに感心するものの音楽的内実は希薄に思われた。現代音楽にもおもしろい曲はたくさんあるが、この曲は中途半端さがいなめない。「カルミナ・ブラーナ」は3人のソリストがすばらしかった。ソプラノの森谷真理の、極上のシルクのような声の美しさと繊細な表現にはひさしぶりに「時間が止まってほしい」と思ったし、この曲をやらせたら世界一と思われるテノールの高橋淳は、これまでよりさらにバージョンアップした演技となりきった歌唱で場を圧倒する。バリトンの宮本益光も機敏かつ的確な歌唱。とくに発音が明瞭でこれまでに接したこの曲のバリトンとしてはベスト。久石氏の指揮は安全運転に終始したように思われる。とにかく事故なしに無事に終わることに眼目がおかれていたように思うのは放送収録のためか、それとも練習時間の問題か。かなうなら、この日のソリストで高関健の指揮で、さらに言わせてもらえば前札響首席の武藤氏のティンパニでこの曲をきいてみたいと思いながら池袋の雑踏をあとにしたことである。
October 29, 2015
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村上智美は札幌出身のチェリストで、ピアノの春成素子とは留学したあと滞在していたストラスブールで知り合ったらしい。ブラームスとプーランクのソナタの前後にヴィラ=ロボス「黒鳥の歌」とピアソラ「グランタンゴ」を配したプログラム。こういっては何だが春成素子のピアノがとんだ拾いものだった。どこか日本人離れ、いや日本の音楽大学出身者とはちがうものを持っていると思ったら、国立音大を出たあとフランス文学研究者を目指し早稲田からストラスブール大学に進んだという人。ジャン・コクトーに興味を持ちシアターミュージックカンパニーを設立したりという活動をしているらしい。どの曲もほとんど非のうちどころのない演奏で、すっかり決して悪いわけではない村上のチェロを食ってしまった感があった(ただし会場のルーテルホールの響きがそういう傾向を助長した面はある)。演奏をきいたあと話してみたいと思う演奏家はめったにいないが、彼女はそういうタイプだった。コクトーと親しかったオネゲルやミヨーといった人たちの作品にはひときわ興味と愛着があったので、終演後に話してみたが、演奏そのままのまっすぐな気質の人だった。さっそく顔本で友だち登録をしてもらった。
October 27, 2015
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メーン曲であるラフマニノフ「ピアノソナタ第2番」が終わったとき、近くの席の少女が「すごーい」と感嘆の声をあげた。わたしの感想も同じだ。3つの楽章が休みなく演奏されるこの曲が最後の壮大なコーダまで一瞬の弛緩もなく演奏されたのには驚いた。忙しく世界を巡業しているピアニストではこうはいかない。毎日のように全力投球するわけにはいかないからだ。得意な、あるいは好きな曲に集中できるからこそこうした演奏が可能なのだろう。ピアノリサイタルには原則として行かないことにしているが、こういうことがあるから油断できない。ドビュッシー「塔」「喜びの島」、ショパン「3つのマズルカ」「幻想ポロネーズ」が演奏された前半は、やや硬さが残った。次第に調子をあげたが、緊張したのかミスも散見された。後半、ラフマニノフの前におかれたアルベニスの3曲(実はこの3曲がめあてで行った)「ティエラの門」「入り江のざわめき」「パバーナ・カプリーチョ」は前半の硬さがとれ、やや生真面目なもののスペイン情緒に不足はなく、アルペジオなどの思い切りもよく爽快。ただ、ギター音楽の愛好家の立場から言わせてもらえば、もっと音色に暗さがほしい。陽と陰の、明と暗の極端な対比がスペイン音楽の身上。それには一般にテンポも速すぎると感じることが多いものだが、この日も例外ではなかった。演奏者自身のプログラムノートによれば、就職や育児を経て演奏活動を再開し、大学を出て30年の節目の年に「念願の」音楽専用ホールでの初リサイタルとのこと。コンサートタイトル「夢を追い求めて」はそのことをさす。大学を出て30年というと50代前半だが、たいていの人間は夢も野心もなくしてただ惰性で生きている年代。それを思うと、このピアニストが自分の夢を持続できた理由を知りたいと思った。音楽大学を出て留学までして、帰国記念デビューリサイタルが事実上の引退公演、といった音楽家(特にピアニスト)を多く見てきた。そういう人間から見ると、彼女のようなピアニストは音楽家以前に人間として別格に思える。客席をうめた聴衆も同じように感じたのではないだろうか。
October 23, 2015
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October 20, 2015
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October 15, 2015
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October 13, 2015
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October 12, 2015
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October 11, 2015
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