全6820件 (6820件中 51-100件目)
【2021年4月16日(木)】 今日は終日事務所出頭でした。忙しかったです。 昨日は終日在宅で、この日を利用して、一日がかりで、新しい給湯システムを大阪ガス関連の工事会社に設置してもらいました。 今の家を建てて住み始めたのが2008年夏。給湯器システムは大阪ガスのエコウィルでした。10年で保証が切れた後も使い続けていたのですが、先日、エコウィル側ではなく、給湯器が雨水浸入で故障し13年の天寿を全うして、買い替えることになりました。初期投資も含めて、光熱費が得になるかどうかは不明ですが、停電時に0.7Kwであれば自家発電をしてくれるという特長もあるので、エネファームを設置してもらうことにしました。 昨日、その工事をしてもらいました。「エネファーム」(発電機)側には、大阪ガスとアイシン精機の社名が入っています。アイシン以外にパナソニック、京セラなどが生産しているようです。給湯機側は「エコジョーズ」ですが、大阪ガスの名前しか入っていません。調べてみると、ノーリツ、リンナイ、パロマ、パーパス、長府製作所などが生産しているようです。銘板を見ると、「NR」と書かれていたので、恐らくノーリツ製ではないかと思います。発電機エネファーム給湯機エコジョーズ リモコンには、写真のような画面が出て、今、どれだけの電気を消費していて、そのうち送電線からいくらの電気を引き入れて、発電でどれだけ賄っているかが分かるようになっています。発電は常時0.7KWするので、それ以下の電気消費であれば、余った分は売電することになり、表示版の送電線への電気の流れが逆になります。リモコン親機画面 ただし、この売電は年間で1万円程度で、大きいのは、ガスで発電して、送電線からの電気を最小限に食い止めることです。ガス代は高くなりますが、ガスでの発電のほうが電気を引き入れるより安価なので、そこで光熱費を下げることができるという仕組みです。 停電時の電気供給用のコンセントも工事をしてもらって設置してもらいました。停電時でも700Wまでの電気が使えます。お風呂のリモコンも新しくなって、お風呂からは呼び出しのチャイムだけだったものが、親機と会話ができるようになりました。停電時用コンセント(下側) 機器の設置工事は終わって、新しい給湯機が使えるようになりましたが、エネファームの稼働は関西電力への手続きが済んでからになるので、10月になってからになります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/16
コメント(0)
【2021年9月15日(水)】 今日はもともとフリーの日でしたが、それを利用して、大阪ガスのサービス会社に来ていただいて、旧湯器エコジョーズと発電機エネファームの設置でした。コロナで東南アジアの工場が閉鎖になって、給湯器の部品が生産できなくなり、給湯器の供給に支障が出ているようで、今日できるかどうか危うかったそうですが、何とかなったようです。 雨があがってよかったです。終日かけて設置していただきました。発電機のエネファームの稼働は関電への手続きが済んで10月になります。キッチンでお風呂の操作ができたり、お風呂と通話できたり、リモコンも以前より便利になりました。 「寂雄と応挙」の第46回。付録の2つめ若冲の年譜の「その2(31際~50歳まで)」です。 伊藤若冲年譜(31歳~50歳)西暦(和暦)年齢 ◆:若冲の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1755(宝暦5)40歳 ◆次弟(宗巌)に桝屋の家督を譲る-町中沽券状。通称を茂右衛門と改めて、家業から解放 され、作画三昧の生活に入る。2月、「月梅図」(バーク・コレクション)制作。 4月、「旭日鳳凰図」制作。同月、朝鮮画の「猛虎図」(正伝寺蔵)を模写し、 「虎図」(プライス・コレクション)制作。 ☆8月3日、京都出身の画家望月玉蟾(ぎょくせん)没(63歳)。 9月、売茶翁、高齢のため売茶の生活をやめる。 12月4日、近江出身の画家高田敬輔(けいほ)没(83歳)。1756(宝暦6)41歳 ☆6月、江戸出身の南蘋派の画家黒川亀玉没(25歳)。1757(宝暦7)42歳 ◆「売茶翁像」制作-売茶翁自賛。☆9月、蕪村、丹後より京へ帰る。"1758(宝歴8)43歳 ◆「動植綵絵」30幅の連作に着手する(あるいは前年からか)。 春、最も早い年記のある「梅花小禽図」制作。 ☆9月5日、大和郡山藩重臣で南画家の柳沢淇園没(55歳)。 曾我蕭白、翌年にかけて伊勢地方を巡る。1759(宝暦9)44歳 ◆2月、「雪中鴛鴦図」(動植綵絵)制作。 8月、「秋塘群雀図」「向日葵雄鶏図」(いずれも動植綵絵)制作。 秋、「紫陽花双鶏図」(動植綵絵)制作。 10月、鹿苑寺大書院5室に水墨障壁画50面(「葡萄図」「松に鶴図」 「月夜芭蕉図・芭蕉に叭々鳥図」「竹図」)を制作。 この年、「大鶏雌雄図」(動植綵絵)制作。 ☆2月12日、大典、慈雲庵住持の隠退願を出し、郊外に閑居。1760(宝暦9)45歳 ◆大典を通して、黄檗僧高遊外(売茶翁)を知る。 この年か翌年頃、大典・池大雅らと京郊外で観梅-小雲棲稿。 8月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」制作。冬至、「動植綵絵」を見た売茶翁から 「丹青活手妙通神」の一行書(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を贈られる。 版画「髑髏図」この年か-売茶翁賛。 この頃、大典、「藤景和が画の記」を記す-動植綵絵款記。 *9月2日、徳川家治が江戸幕府十代将軍に就任。1761(宝暦11)46歳 ◆春、「芦鷲図」(動植綵絵)制作。 5月、「寒山拾得図」(ギター・コレクション)制作-無染浄善賛。 この年までに、「芍薬群蝶図」「梅花皓月図」「芙蓉双鶏図」「老松白鶏図」 「老松鸚鵡図」(いずれも動植綵絵)を制作。 ☆秋、大典、『咋非集』刊行。1763(宝暦13)48歳 ◆「売茶翁偈語」に「売茶翁像」を描く。-「売茶翁偈語」 ☆6月19日、大岡春卜没(84歳)。 7月16日、売茶翁没(89歳)、同月、『売茶翁偈語』刊行。 この頃、与謝蕪村が屏風講により屏風を多数制作し頒布。1764(明和1)49歳 ◆金刀比羅宮奥書院上段の間に「花卉図」、二の間に「山水図」、三の間に「杜若図」、 広間に「垂柳図」制作-奥書院障子装飾之記。1765(明和2)50歳 ◆9月19日、末弟の宗寂没-参暇寮日記。 9月29日、相国寺に「釈迦三尊像」3幅、「動植綵絵」24幅を寺の「荘厳具として」 寄進-動植綵絵寄進状。 10月7日、相国寺、寄進の返礼に菓子松風二斤を持参-役者寮日記。 11月11日、宝蔵寺に宗寂の墓を建立-銘。 12月28日、若冲没後に屋敷一か所(高倉通四条上ル帯屋町)を町内に譲渡し、 毎年忌日に青銅三貫文を相国寺常住へ納める旨(永代供養)の証文に対し、 相国寺、請書の案を町内へ持参-参暇寮日記。 ☆5月、円山応挙、「淀川両岸図巻」(アルカンシェール美術財団蔵)制作。 鈴木春信らが多色刷の錦絵を創始。売茶翁(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/15
コメント(0)
【2021年9月14日(火)】 今日はもともとは会のフィールドワーク研修で、方広寺近辺を歩く予定でしたが、緊急事態宣言延長で中止になり在宅でした。 会の諸事の1つで、ここ1ヵ月くらい根を詰めてやってきたことがあり、今日で成果物を提出しました。これが出来上がってきたら、また忙しくなると思いますが、とりあえずひと段落しました。 「若冲と応挙」の第45回。付録の2つめ、若冲の年譜「その1(30際まで)」です。伊藤若冲年譜(1歳~30歳まで) 西暦(和暦)年齢 ◆:若冲の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1716(正徳6)1歳 ◆2月8日、京都錦街に生まれる。母は近江の武藤氏出身-碣銘。父(宗清)は 青物問屋「桝屋」の三代目-過去帳。家は錦小路通中魚屋町南側-町中沽券状。 幼名は不詳。 ☆6月2日、尾形光琳没(59歳)。与謝蕪村生まれる。 *8月13日、徳川吉宗、江戸幕府八代将軍に就任。"1719(享保4)4歳 ☆5月9日、大典、近江国伊庭の儒医の家に誕生(権大納言園基勝から里子に出されたか)。1723(享保8)8歳 ☆5月4日、池大雅、京都西陣に誕生。1729(享保14)14歳 ☆3月、大典顕常、相国寺塔頭慈雲庵にて得度。1730(享保15)15歳 ◆この頃から絵を学び始める。 ☆7月26日、中国清の画家伊海(孚九)(ふきゅう)再来日し、8月29日帰国。 曾我蕭白、京都に誕生。 *6月、京都大火(西陣焼け)。1731(享保16)16歳 ☆12月3日、中国清の画家沈銓(南蘋)(しんせん、なんぴん)来日。1733(享保18)18歳 ☆5月1日、円山応挙、丹波国穴太(あなお)村に誕生。9月18日、沈銓(南蘋)が帰国。1734(享保19)19歳 ☆大岡春卜(しゅんぼく)、『欄間図式』刊行。1735(享保20)20歳 ☆この頃、売茶翁、鴨川の水辺に茶店を開く。1736(元文1)21歳 ☆11月28日、木村蒹葭堂(けんかどう)大坂に誕生。1738(元文3)23歳 ◆9月29日、父宗清没(42歳)-過去帳。家督を相続し、四代枡屋源左衛門となる。1740(元文4)25歳 ☆大岡春ト、『画巧潜覧』刊行。1744(延享1)29歳 ☆2月、池大雅「渭城柳色図」(敦賀美術館蔵)制作。冬、大雅、「箕山海布図」制作。 売茶翁、相国寺内の林光院にこれ以後10年間住む。この頃、浮世絵の紅摺絵始まる。1745(延享2)30歳 ☆大典が相国寺慈雲庵の住持となる。 *11月2日、徳川家重、江戸幕府九代将軍に就任。大典顕常(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/14
コメント(0)
【2021年9月13日(月)】 今日はもともとからフリー日。在宅で会の諸事でしたが、今日は時間の余裕が少しあったので、久しぶりに夕食を作りました。「パエリア」に挑戦しました。 買い物でレシピに書いてあったサフランを買おうとして香辛料売場に行きました。瓶を見つけて、底からなかを覗いてみましたが、何も入っていません。隣のターメリックの瓶は、ちゃんと粉で満たされています。思わず、店の人を呼びそうになりました。でも、どのサフランの瓶も同じ空なのに気付き、1個の瓶だけなら何か瓶詰め不良ということも考えられるのですが、全部ということはあり得ないと思い、よくよく見ると、ビニール袋に少しだけ、紫色の小さな細い棒状のものが、入っているのが見えました。そんなわずかんおサフランの入った1瓶が約400円。このとき、初めてとてつもない高価な香辛料であるのに気付きました。 そんば具合で、おっかなびっくりで準備して料理開始。奮闘1時間15分。見てくれはイマイチでしたが、おいしいパエリアができました。「若冲と応挙」の第44回です。付録の1、若冲や応挙の作品に出合うことができる施設の紹介「その2」です。付録1 作品に出会える施設 その1●東海地方徳川美術館名古屋市東区徳川町1017 TEL:052-935-6262 https://www.tokugawa-art-museum.jp/応挙「華洛四季遊戯図巻」「鯉亀図風炉先屏風」静岡県立美術館静岡市駿河区谷田53-2 TEL054-263-5755 http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/若冲「樹花鳥獣図屏風」ゴールデンウィークに特別展示。その他作品は企画展などで展示。応挙「木賊兎図」企画展などで展示。●東京都宮内庁三の丸尚蔵館東京都千代田区千代田1-1(皇居東御苑内)TEL:03-3213-1111https://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/sannomaru.html若冲「動植綵絵」全30幅、「旭日鳳凰図」応挙「江州日日野村落図屏風」「牡丹孔雀図」「群獣図屏風」三井記念美術館東京都中央区日本橋室町2丁目1−1 三井本館 7階 TEL:03-5777-8600http://www.mitsui-museum.jp/応挙「雪松図屏風」「山水図屏風」「梅花双鶴図小襖」「郭子儀祝賀図」「水仙図」「破墨山水図」「雲龍図」「富士図」「山水図」三井記念美術館東京国立博物館東京都台東区上野公園13-9 TEL: 03-3822-1111 https://www.tnm.jp/応挙「写生帖」、旧明眼院障壁画「老松図壁貼付」「老梅図襖」及び「朝顔狗子図杉戸」、植松家旧蔵「双鶴図」及び「郭子儀携小童図」、「青松白鶴図」、金剛寺障壁画「山水図」及び「波濤図」、「拡元先生像・端淑孺人像」、「雪中老松図」サントリー美術館東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3階 TEL:03-3479-8600https://www.suntory.co.jp/sma/応挙「青楓瀑布図」静嘉堂文庫美術館東京都世田谷区岡本2-23-1 TEL:03-3700-0007 https://www.suntory.co.jp/sma/応挙「江口君図」東京藝術大学大学美術館東京都台東区上野公園12-8 TEL:050-5525-2200 https://www.geidai.ac.jp/museum/若冲「鯉図」応挙「花卉鳥獣人物図」「竹鶏図」「若芽南天」など多数。平木浮世絵美術館東京都江東区豊洲2-4-9アーバンドックららぽーと豊洲ISLABDS 1F TEL:03-6273-1250http://www.ukiyoe-tokyo.or.jp/ 若冲「花鳥版画」根津美術館東京都港区南青山6-5-1 TEL:03-3400-2536 http://www.nezu-muse.or.jp/応挙「藤花図屏風」●関東地方(東京都以外)千葉市美術館千葉市中央区3-10-8 TEL:043-221-2311 https://www.ccma-net.jp/若冲「鸚鵡図」「寿老神・孔雀・菊図」「雷神図」徳川ミュージアム茨城県水戸市見川 1-1215-1 TEL:029-241-2721 https://www.tokugawa.gr.jp/応挙「百蝶図」佐野市立吉澤記念美術館栃木県佐野市葛生1-14-30 TEL:0283-86-2008 https://www.city.sano.lg.jp/sp/yoshizawakinembijutsukan/index.html若冲「菜蟲譜」企画展時展示。常時は複製展示群馬県立近代美術館群馬県高崎市綿貫町992-1 TEL:027-346-5560 http://mmag.pref.gunma.jp/応挙「青鸚哥図」ハラミュージアム アーク群馬県渋川市金井 2885-1 TEL:0279-24-6585 https://www.haramuseum.or.jp/jp/arc/ 応挙「淀川両岸図巻」岡田美術館神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷493-1 TEL:0460-87-3931 https://www.okada-museum.com/若冲「梅花小禽図」「孔雀鳳凰図」「花卉雄鶏図」「月に叭々鳥図」「三十六歌仙図屏風」岡田美術館次回は付録2「若冲年譜」です。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/13
コメント(0)
【2021年9月12日(日)】 終日、PCに向かって会の諸事でしたが、直近に締めきりがあるものがないので、時間は自由設計できています。正直なところ、色々キャンセルが入ったので、何とか時間がマネージできていますが、キャンセルになっていなかったらパニックに陥っているかもしれません。 「若冲と応挙」は前回で本編は最終回でした。あと参考資料を投稿していきます。今日は若冲や応挙の作品に出合うことができる施設の紹介「その1」です。付録1 作品に出会える施設 その1 ほとんどの作品が特別展や企画展など期間限定での公開です。期間限定の時期が毎年固定したいる場合や、常時観覧できる場合のみ、その旨記載しました。作品を観覧される場合は、該当施設のホームページや電話で確認してから、訪問してください。●京都府京都国立博物館京都市東山区茶屋町527 TEL:075-523-2427 https://www.kyohaku.go.jp/jp/若冲「乗興舟」「果蔬涅槃図」「石峯寺図」「石灯籠図屏風」「海宝寺旧蔵群鶏図障壁画」「墨竹図」など。応挙「魚籃観音図」「水草に鷺図」「琵琶湖宇治川写生図巻」「双鹿図屏風」「龍門図」「人物描写図法」など。相国寺承天閣美術館(塔頭寺院所蔵含む)京都市上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町 TEL:075-241-0423https://www.shokoku-ji.jp/museum/若冲「鹿苑寺大書院障壁画 葡萄小禽図」「同 月夜芭蕉図」常設展示。「同 松鶴図襖」「同 菊に鶏図襖」「同 芭蕉叭々鳥図襖」「同 竹図襖」、「釈迦三尊像」「牡丹・百合図」など。応挙「牡丹孔雀図」「七難七福図」「大瀑布図」「雲中山水図屏風」細見美術館京都市左京区岡崎最勝寺町6-3 TEL:075-752-5555 https://www.emuseum.or.jp/若冲「雪中雄鶏図」「糸瓜群虫図」「瓢箪・牡丹図」「菊花図押絵貼屏風」「群鶏図押絵貼屏風」「伏見人形図」「仔犬に箒図」「鶴亀図」「海老図」「虻に双鶏図」福田美術館京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町3-16 TEL:075-863-0606 https://fukuda-art-museum.jp/若冲「柳に鶏図」「群鶏図押絵貼屏風」応挙「黄蜀葵鵞鳥小禽図」「巌頭飛雁図」「陶淵明図屏風」泉屋博古館京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町24 TEL:075-771-6411 https://www.sen-oku.or.jp/若冲「海棠目白図」石峰寺京都市伏見区深草石峰寺山町26 TEL:075-641-0792 https://www.sekihoji.com/若冲「石峰寺石像群」常時拝観可能。若冲忌9月10日の時期に寺宝の墨画掛軸「虎図」など特別展示。宝蔵寺京都市中京区裏寺町通蛸薬師上ル裏寺町587番地 TEL:075-221-2076 http://www.houzou-ji.jp/若冲「竹に雄鶏図」「髑髏図」、他に弟子作品。2月8日、若冲誕生会で公開両足院京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591 TEL.075-561-3216 https://ryosokuin.com/若冲「雪梅雄鶏図」圓光寺京都市左京区一乗寺小谷町13 TEL:075-781-8025 https://www.enkouji.jp/応挙「雨竹風竹図屏風」(複製は常設展示)金剛寺京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内43 TEL:0771-22-2871 https://www.kongouji.net/応挙「波濤図」の内12襖と「群仙図」の内2襖を復元し常時公開。「群仙図」原図は収蔵庫に保管、11 月 3 日「文化の日」に一般公開。金剛寺(京都府亀岡市)●関西・西日本西福寺大阪府豊中市小曽根1-6-38 TEL:06-6332-^9669若冲「仙人掌群鶏図」「蓮池図」「山水図」「野晒図」。本堂は11月3日公開(雨天中止)MIHO MUSEUM滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300 TEL:0748-82-3411 http://www.miho.or.jp/若冲「象と鯨図屏風」「双鶏・霊亀図」「松鶴図」応挙「孔雀図」「虹図」「京名所図屏風」「京名所図屏風」「王義之書扇図」「蟹蛙図」「遊亀図」大乗寺兵庫県美方郡香美町香住区森860 TEL:0796-36-0602 http://www.daijyoji.or.jp/main/応挙「松孔雀図襖」「郭子儀図襖」「山水図襖・壁貼付」他、及び応挙一門障壁画(複製常時公開、原図特別公開時)。他に「王儀之龍虎図」「鍾馗図」「柳下狗子図」「波上白骨坐禅図」「野分図」大乗寺(兵庫県美方郡香美町)金刀比羅宮香川県仲多度郡琴平町892-1 TEL:0877-75-2121 http://www.konpira.or.jp/応挙 表書院「遊鶴図襖」「遊虎図襖」「竹林七検賢図襖」「山水図」「瀑布図」常時公開。若冲 裏書院「花丸図」特別公開時。無量寺和歌山県東牟婁郡串本町串本833 TEL:0735-62-0468 https://muryoji.jp/index.html応挙「出山釈迦図」「豊干寒拾図・花鳥図」「豊干寒拾図・花鳥図」「波上群仙図」「群鶴図」(小襖絵)「山水図」「雪中山水図」。その他長沢芦雪作品。(複製・原図常時展示)草堂寺和歌山県西牟婁郡白浜町富田1220-1 TEL: 0739-45-0004若冲「隠元豆・玉蜀黍(とうもろこし」図」「鸚鵡図」(和歌山県立博物館寄託)応挙「雪梅図襖・壁貼付・床貼付」(和歌山県立博物館寄託)(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/12
コメント(0)
【2021年9月11日(土)】 一昨日、昨日と連続で終日事務所出頭でした。色々とてんてこ舞いでした。今日も終日PCに向かって、会の諸事ですが、直近の締めきりのおのはないので、少々気は楽です。 「若冲と応挙」いよいよ本編の最終回です。「絵の比較」を終えましたので、「生涯の比較」をしてみましょう。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-2 生涯を比べてみる 若冲、応挙、二人の画風の大きな違いはどこから来るのでしょう。もちろん、天賦の才能の違いの影響が大きいでしょう。しかし、彼らの生まれた環境、あるいは育った環境も、かなりの部分影響をしているのではないかと私は考えています。そういった点を箇条書きで簡単に比較してみましょう。生きた時代若冲:1716年(正徳6)2月8日-1800年(寛政12)9月10日 85歳没応挙:1733年(享保18)5月1日-1795年( 寛政7)7月17日 53歳没共通:江戸時代中期の画家。応挙の生きた時代は、若冲のそれに完全に含まれる。生まれた環境若冲:現京都市内、錦小路の裕福な青物問屋の長男。応挙:現京都府亀岡市。貧しい農家の次男。共通:現京都市内あるいは京都市近郊育った環境若冲:裕福なので青物問屋主人になっても絵を描き続けることができた。好きな画題、得意な画題を描いていればよかった。⇒動植物の絵がほとんど。動植綵絵は寺院の荘厳。売り物ではない。応挙:幼くして僧になるべく近くの金剛寺に預けられ、やがて京都に出て、玩具商・尾張屋に奉公し、眼鏡絵を描く。絵を描くのは生活のためでもあったので、依頼主の要求に応えなければならなかった。⇒遠近法、オールラウンダー共通:盛年時期は京都中心部に居住。両人住居は至近距離。天明の大火で焼け出される。絵を学ぶ若冲:狩野派の技をなすもの大岡春卜に学んだ? 狩野探幽、鶴亭などに影響を受ける。応挙:狩野派系石田幽汀に学ぶ。沈南蘋、狩野探幽、渡辺始興、日本古典画などに影響を受ける。共通:中国画に学び、影響を受ける。交流のあった人々若冲:大典顕常、伯珣照浩、売茶翁⇒禅の教え。生き方を学ぶ。絵の模写のツテ。池大雅⇒文化的交流応挙:円満院祐常、三井高美、妙法院門跡真仁法親王⇒絵の注文主、絵の模写のツテ。与謝蕪村⇒文化的交流共通:皆川淇園、木村蒹葭堂⇒文化的交流弟子と没後の展開若冲:限られた弟子の数。師を超える弟子は現れず。師が余りにも個性的過ぎた。若冲の代でほぼ途絶える。応挙:多くの弟子を育てた。師は偉大だったが、発展、展開の余地があった。森派、四条派など派生流派も形成された。竹内栖鳳など近代画壇にも繋がる。人々の認知若冲:没後明治時代までは衆目に知られ人気。その後日の目を見なかったが、最近になって若冲ブーム勃発。発刊されている関連本は応挙に比べて圧倒的に多い。応挙:没後も一定の認知と人気だが、若冲に比べると静かな人気。共通:両人、生前は「平安人物志」番付で1位、2位を常に争う。でも応挙が常に上。伊藤若冲肖像画 久保田米僊筆 円山応挙肖像画 山跡鶴礼筆 応挙が長男として生まれてきたら、いやでも農家を継がなければならず、画家応挙は生まれなかったかもしれません。応挙が若冲の家に生まれてきたら、尾張屋奉公の経験は得られず、後世に名を残すような偉大な画家にはなっていなかったかもしれません。若冲が応挙の家に生まれてきたらどうでしょう。若冲の個性は尾張屋奉公では伸びなかったかもしれません。二人が京都から遠くに生まれていたら、ただ絵を描くのが得意な青年で終わっていたかもしれません。偶然に偶然が重なって天賦の才能が開花し、この二人の素晴らしい作品群を今私たちは目にすることができます。 副題を「奇想の画家たちの生涯と生きた時代」としました。第1回で、応挙を奇想の画家に含めるのに違和感を覚える人も多いのではと述べました。この連載を読んでいただいてどうだったでしょうか。「精選版 日本国語大辞典」には「奇想」=「普通では思いつかない考え。奇抜な思いつき。」とあります。応挙の例えば「人物を描くとき、骨格を描いて、それに服を着せる」という着想は「普通では思いつかない考え」という意味で「奇想」と呼んでもいいのではないでしょうか。ということで、私は応挙をあえて「奇想の画家」と呼ばせていただいた次第です。 今回の研究にあたって参考にした主な文献を挙げておきます。【主な参考文献】「新版 奇想の系譜」 辻惟雄著 小学館 2019年「若冲百図」 小林忠監修 別冊太陽 平凡社 2015年「もっと知りたい伊藤若冲」 佐藤康宏著 東京美術 2011年改訂版「若冲」 狩野博幸著 角川ソフィア文庫 2016年「若冲」 渋澤龍彦他著 河出文庫 2016年「若冲」 澤田瞳子著(小説) 文藝春秋 2015年「円山応挙」 金子信久監修 別冊太陽 平凡社 2013年「もっと知りたい円山応挙」 樋口一貴著 東京美術 2013年「応挙・呉春・蘆雪」 山川武著 古田亮編 東京藝術大学出版会 2010年 これで本編は終了ですが、次回から何回かにわたって参考資料を投稿する予定です。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/11
コメント(0)
【2021年9月8日(水)】 昨日午前中は年イチの健康診断で、隣のニュータウン内のエミナースに二人で行きました。二人とも、毎年オプションで付けている、標準腫瘍マーカーの検査もしていただきました。結果は約1ヵ月後に郵送されてきます。 昨日の午後と、今日は、在宅で会の諸事を進めました。締めきりの明確な内容は、一昨日までに済ませたので、プレッシャーをあまり感じることなく進めることができました。 「若冲と応挙」の第41回、「絵を比べてみる」の最終回です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 最後に風景画。若冲の風景画となると、人物画よりさらに少なくなります。その一つが以前にも紹介した点描を使った図1「石灯籠図屏風」です。近景と遠景を明確に描き分け、間には雲海を置いて、山は暈したうえで小さく描いて遠近感を表現しています。図2応挙「江州日野村落図屏風」。応挙らしい作品です。両方とも六曲一双の屏風(ここでは片隻のみ表示)で若冲は金泥引を、応挙は金砂子を使っています。若冲の絵は寛政年間(1789-1800)の作、応挙の絵は安永5年(1776)の作です。若冲の絵のほうが後です。若冲が「俺だって風景が描けるんだ。」と、応挙と同じように金を使って六曲一双の屏風で描き上げたとも考えられます。ただ同じ技法では面白くないので、点描画という斬新な技法を取り入れたのかもしれません。図1 若冲「石灯籠図屏風」紙本墨画金泥引 六曲一双の右隻 京都国立博物館蔵(再掲)図2 応挙「江州日野村落図屏風」紙本墨画金砂子 六曲一双の左隻 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 もう一つだけ、風景画のジャンルに入る絵を比較しておきます。図3は以前紹介した若冲「乗興舟(じょうきょうしゅう)」。図4はやはり以前紹介した応挙「淀川両岸図巻」です。若冲も応挙も伏見から大坂まで淀川を船旅して描いたようです。若冲作品は木版正面摺で、中国の風景かと思わせるような描き方です。応挙作品は、絹本着色の標準的なスタイルですが、左岸の建物が上下逆に描かれた部分があり、俯瞰図ながら船上の旅人の視線で描いているのが特徴です。同じ対象ながら、全く異なった作品に仕上がっています。若冲作品は明和4年(1767)作、応挙作品は明和2年(1765)作で、応挙作品のほうが少しだけ早く描かれています。若冲は応挙の作品を意識したうえ、正面摺の中国風墨画という応挙絵にはない技法で対抗したのかもしれません。当時、伏見から大坂への船旅が盛んだったことも、この2つの絵から窺い知ることができます。図3 若冲「乗興舟」紙本木版正面摺(部分) 京都国立博物館蔵(再掲)図4 応挙「淀川両岸図巻」絹本着色(部分) (公財)アルカンシエール美術財団(再掲) 若冲、応挙二人の絵を、よく似た画題を取り扱った絵を中心に比較してきました。美術書には、この絵は応挙が若冲を意識したかもしれないとか、若冲が応挙に対するライバル意識丸出しで描いた絵かもしれないなんていうことはあまり書いてありません。たまたま両人の絵を同時に研究することになった私の個人的な見解でしかありません。見当違いかもしれませんが、その場合はこの浅学の身をお許しください。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/08
コメント(2)
【2021年9月6日(月)】 今日はもともとフリー日。今日がタイムリミットの会の作業に時間を費やしました。 「若冲と応挙」の台40回。「絵を比べてみる」の「その4」です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 若冲と応挙の絵の比較の続きです。 多くの動物を描いた「群獣図」です。図1若冲「樹花鳥獣図屏風」。以前の回で「升目描き」によるモノクロ調の「白象群獣図」を紹介しましたが、こちらはフルカラーです。右隻には白象を中心に23種類の動物が描かれ、左隻には鳳凰を中心に31種類の鳥が描かれています。モノクロ調の「白象群獣図」に比べると稚拙な技巧が見られるため、若冲の下絵による、弟子たちの彩色ではないかともいわれています。図2応挙「群獣図屏風」。19種類53体の動物が描かれています。多くの動物がつがいで登場し、大小様々な動物たちが争うことなくくつろいでいます。若冲作品も、応挙作品も、動物たちのパラダイスを描いてはいますが、ずいぶん雰囲気の違うパラダイスになっています。図1 若冲「樹花鳥獣図屏風」静岡県立美術館蔵 上:右隻 下:左隻図2 応挙「群獣図屏風」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 上:右隻 下:左隻 図3若冲「蒲庵浄英像」 図4応挙「江口君図」 京都・萬福寺蔵 静嘉堂文化美術館蔵 今までは全部動植物の絵の比較でした。応挙は動植物以外に、風景画や人物画も多く描いたのに対し、若冲はほとんど風景画や人物画を描かなかったので、比較する絵が動植物の絵にならざるを得ないためです。若冲の絵への向き合い方が大典顕常筆「寿蔵碣銘」に記されていることを以前の回で紹介しました。「では何を描くか。雲の上を飛ぶ麒麟や中国故事人物は実存しない。月代頭(さかやきあたま)の日本人を描くのは嫌である。日本の山水も描くほどのものはない。」風景や人物は端から描く対象として考えていなかったのです。とはいうものの若冲は辛うじて、肖像画の形で人物画を遺しています。図3若冲「蒲庵浄英像」。黄檗僧・蒲庵浄英の肖像画です。対して図4応挙「江口君図」。出来栄えという点では応挙の方が数段上回っていると言っても過言ではないでしょう。もともと若冲は人物画が好きではなっかたし、得意でもなかったのでしょうが、お世話になった知己の肖像画だけは描かざるを得なかったのでしょう。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/06
コメント(0)
【2021年9月6日(日)】 昨日は、会の臨時の集まりと、その後の作業で事務所でした。 今日は、午前中床屋に行ってさっぱりしましたが、ここしばらく忙しくてできなかったプライベートのことに時間を割きました。そのため会のことはあまりできませんでした。明日また次の締めきりのものがあるので、ネジを巻き直しです。 8月は全国で豪雨の被害が出ました。幸い京都は大きな被害はなかったようです。でも、雨の日が多かったし、雨もきつかったのは間違いないです。特に中旬が酷かったですね。8月中旬の京都の降水量を調べてみました。平年の何と8倍近いです。ここ20年で段トツの量です。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/05
コメント(0)
【2021年9月3日(金)】 9月になりました。1日はもともと予定無しでしたが、2日は「京の夏の旅」六道珍皇寺、3日は就学旅行ガイドの予定でした。しかし、両方ともコロナでキャンセル。1日、2日とも在宅ながら、会のやらねばならないことに追われていました。期限が既に過ぎているので、焦っって落ち着かない2日間でした。 以前投稿したように、エコウィルの給湯器が壊れたため(こちら)、1日にはガスサービス会社に来てもらって、エネファームの見積りを出してもらって、説明を受けました。もともとエコウィルがダメになったら、エネファームに替える予定でしたので即決しました。エコウィルがダメになった場合、単純な給湯器に替える方も多いようですが、高額にはなりますが、総合的に判断してエネファームにしました。今日、再び来ていただいて契約しました。 その契約を終えて、二人+孫で京都鉄道博物館に行きました。私は2回目。2、3年前、会の仲間がペアで株主優待で入場券をもらったというので、いっしょに行ったのが1回目でした。夏休みも過ぎた平日で雨も降っていたのでガラガラで密の心配はありませんでした。当然、孫は楽しんでいましたが、我々も楽しみました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/03
コメント(2)
【2021年8月30日(月)】 会の所用で事務所で寄って、その後、コロナで影響を受けての名古屋往復でした。 ですので、事務所には車で行きました。ウォーキングもしたいので、京都御苑の北に停めて歩きました。 京都御苑の間ノ町口(あいのまちぐち)の百日紅が満開でした。京都御苑の間ノ町口(あいのまちぐち)の満開の百日紅よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/30
コメント(0)
【2021年8月29日(日)】 昨日、会の26日の月イチの集まりの記録は仕上げたので、今日は、会の出来ていなかったことを少しずつ進めました。散歩も行く余裕なく、終日PCに向かってました。 「若冲と応挙」の第39回です。二人の絵の比較の3回目です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き)図1 若冲「百犬図」個人蔵(右は部分拡大) 図2 応挙「狗子図」敦賀市立博物館 「子犬」。図1若冲。毛の模様はそれぞれ違うし、色んな方向を向いていますが、目だけは同じ形をしています。可愛いいですが、どことなく不気味です。一匹だけ前を向いて立って、オチンチンを見せている犬がいます。分かりますか?左端の中央少し下です。 図2応挙。本当に可愛らしく、思わず抱き寄せたくなります。これも写生で様々な姿態を描き止め、子犬「らしさ」を全面に打ち出した結果でしょう。子犬の愛らしさをここまで魅力的に表現した画家はそれまでいませんでした。 「魚」。図3、図4若冲。水の中の視点で描いています。魚たちは同じ方向に泳いでいます。図4は以前の回でも紹介しましたが、蓮の花が水中に咲いていて、現実にはあり得ない世界が表現されています。図5応挙。水面の上から鯉を見ています。自然な泳ぎをしています。応挙の魚の絵は、水中からの視点のものは見たことがありません。日常の生活では、水面の上からしか魚を見ることがないためでしょう。左:図3 若冲「群魚図(鯛)」動植綵絵右:図4 若冲「蓮池遊魚図」動植綵絵(再掲) 図5 応挙「鯉魚図」 いずれも宮内庁尚蔵館 双幅の左幅 個人蔵 「雪」。図6若冲。若冲の描く雪は、以前の回で述べたように、かき氷にかける練乳のようなネットリ感が特徴です。胡粉が用いられ、「裏彩色」も使って、質感を出しています。図7応挙は、生地を塗り残すことで雪を表現しています。ですので、胡粉のように物理的な盛り上がりはないのですが、松の葉の描き入れの密度や、幹や枝の墨の濃淡で、ふわふわした雪の質感・立体感を見事に表現しています。図6 若冲「雪中錦鶏図」動植綵絵(再掲) 図7 若冲「雪松図屏風」国宝(再掲) 部分 宮内庁三の丸尚蔵館 部分 三井記念美術館 次回も「絵を比べてみる」を続けます。その後、二人の生涯を比較した後、二人の作品を観覧できるところを紹介して、終わりにしたいと思います。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/29
コメント(2)
【2021年8月28日(土)】 外出が少ないのと、忙しいのとで、8月の歩行歩数一日平均が8000歩を切ってしまいました。挽回すべく、朝に8000歩強の散歩をしました。終日で1万歩くらいになるでしょう。お盆前は、9時頃にはもう暑くて散歩どころではなかったですが、今は、昼間はともかくとして、9時頃でも散歩ができるような季節になりました。 今日は、在宅で、一昨日の会の役の集まりのフォローアップなどでした。 写真は、24日に三条河原町の京都市観光局を訪問するときに、久しぶりに鴨川縁を歩いたときのものです。南側から三条大橋を望んでいます。雨が多ぁったあとで、水流が強かったですが、澄んだ流れでした。コロナ禍下で歩く人も少なく、のんびりとした風情でした。賑やかになるのも嫌だし、コロナで静かなのも嫌だし、勝手なものです。鴨川と三条大橋よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/28
コメント(0)
【2021年8月27日(金)】 昨日は、月イチの会の役の集まりでしたが、緊急事態宣言下なのでリモートでした。往復の時間が不要なので楽ですが、運動不足になります。今日は、それのフォロー。 リモート集まりが終わった夕刻、困ったことに。我が家はエコウィルを使っていますが、エラーメッセージが出てお湯が出なくなりました。もう13年使用していて保証期間が過ぎており、この前の点検でも、「痛みが来ていて、時期は何ともいえないですが、近いうちにトラブルが発生するかもしれません。」と言われました。壊れないうちに、エネファームに替えようと思ったのですが、問題なく使えていたので、忙しさにかまけて放ったらかしにしていました。「ついに来たか。」という感じです。 夕刻でいつものサービス会社には電話が繋がりません。大阪ガスのサービスセンターに電話したら、今日、サービスをお望みでしたら、出張費や工事費が3割アップしますとのこと。夏場だし、夜バタバタするのも嫌なので、明日の午前中に来てもらうことにしました。 そうこうしていたら、大阪ガスからいつものサービス会社に連絡が入ったのか、その夜、サービス会社から電話があり、「今から行きます」と。それならということで来てもらって見てもらったら、エコウィルの部分ではなく、給湯器やその回路部分が水に濡れて、やられていることが分かりました。大よその修理費用を教えてもらいましたが高額でした。「それなら前から考えていたことだし、エネファームにしますので、すぐ見積りお願いします。」と即決。工事までは、お湯無しをガマンする覚悟でした。 そうしたら後刻「今の給油機の外に臨時で給油機を取り付けて、お湯だけは使えるようにします。そうしたうえで、エネファームの契約、設置をさせていただきます。」との話しがあり、今日、臨時の給湯器を設置してもらいました。多分、次の契約に繋がるので、今回の費用はサービスなんでしょう。水シャワーは1日だけですみました。向こうがエコウィル部分、手前が給湯器部分。外に出っ張っているのが臨時の給湯器よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/27
コメント(0)
【2021年8月25日(水)】 昨日は、京都市産業観光局に立ち寄り、事務所出頭、夕刻から会の月イチの集まりでした。今日は、計画在宅で会の諸事です。そろそろ夏の梅雨が明けて、暑くなりそうです。 「若冲と応挙」の第38回。「絵を比べてみる」の2回目です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 図1 若冲「老松孔雀図」動植綵絵 宮内庁三の丸尚蔵館(再掲)「松」の表現も比較しましょう。図1若冲(前回も紹介)の松は葉が密で、そのうえ中心部の背景に濃い緑色が加えられ、まるでイガクリのように見えます。動植綵絵で登場する松はすべてこのような表現になっています。それらの前景には必ず白い鳥が描かれており、松の緑を濃くしているのは、鳥の白さを強調するためだと思われます。一方、図2応挙の松の絵は、葉が疎らで、根元まで葉が一本一本認識できます。葉が一本一本見えたほうが、より松らしく見えるという考えから、意識的に葉を疎らに描いたのではないでしょうか。例のそのまま「写す」のではなく、「らしく見せる」の「写す」です。図3応挙は、遠景として描かれた松部分の拡大です。遠景では葉の一群が小さくなるので、葉を一本一本描こうとすると、さらに疎らにせざるを得ません。すると緑色が弱まり松らしく見えなくなるので、よく見ると葉の後ろに薄く緑色を置いているのが分かります。図2 応挙「松に孔雀図」部分(再掲)大乗寺 図3 応挙「保津川図屏風」重文 部分拡大 千總 松のついでに「梅」です。図4若冲のほうは、あり得ない奇妙な枝ぶりが多く描かれ、満月の夜の静けさの中に緊張感が漂います。図5応挙のほうは、梅らしい枝ぶりで、紅梅はピンク色、紅色が混ざり、春に向かうのどかな日を感じさせます。図4 若冲「月夜白梅図」個人蔵 図5 応挙「梅花双鶴図小襖」三井記念美術館 図7 応挙「黄蜀葵鵞鳥小禽図」 図6 若冲「芦鵞図」動植綵絵 とろろあおいがちょうしょうきんず 宮内庁三の丸尚蔵館 部分 個人蔵 続いて「鵞鳥」です。図6若冲。ガチョウの羽や体は真っ白なはずですが、「裏彩色」による錯視的な金色が加えられているようです。動植綵絵の他の白い鳥の絵も、すべてこの錯視金色が加わっています。ガチョウの体型はもっとずんぐりしているはずですが、三角形状にスタイリッシュにデフォルメされています。図7応挙。オデコの出っ張りといい体型といい、こちらの方が実際に近いでしょう。しかし、体や羽に金色が配されています。絹本ですので、若冲と同じように「裏彩色」を用いているかもしれません。これも「動植綵絵」を見た、あるいは評判を聞いた応挙が「俺だって、裏彩色で金色を出せるんだぞ」とライバル意識むき出しで描いたのかもしれません。「色」の面では、応挙らしからぬ表現かなと思います。 図8 若冲「雪中鴛鴦図」 図9 応挙「芙蓉飛雁・寒菊水禽」 せっちゅうえんおうず 双幅の内左幅「寒菊水禽図」 動植綵絵 宮内庁三の丸尚蔵館 個人蔵 「鳥」です。図8若冲。真横を向いた石上の鴛鴦(おしどり)。もう一羽は水中に顔を入れています。番(つがい)でしょうか。でも石上の鳥は、水上の鳥を見ているわけではありません。「おしどり夫婦」という言葉もありますが、反対に冬の景色と相まって孤独感を感じます。若冲の絵はこのように一枚の絵に複数の動物・鳥・昆虫が描いてあっても、何か孤独感を感じさせる絵が多いように思います。対して図9応挙。仲のよさそうな鴨や鴛鴦の群れです。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/25
コメント(2)
【2021年8月23日(月)】 昨日も今日も計画的在宅日として、26日の会のことで忙しくしています。今日も、雨が降ったりしています。梅雨以上の長雨のように感じます。長い間お日様を長時間見ていません。 「若冲と応挙」の第37回。前回まで若冲と応挙の生涯と作品をシリーズで紹介してきましたが、今回から、この2人の巨匠の比較にトライアルしたいと思います。まず、絵を比べてみます。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる4-1 絵を比べてみる 前回で応挙の章が完了しました。「若冲と応挙」というタイトルで書いてきましたので、最後にこの2人の画家の比較をしてみたいと思います。まず、同じ画題を扱った絵を並べてみましょう。同時代に生きた画家とはいえ、大きく画風の違う2人の絵を比較することなど無意味かもしれませんが、案外と似ているところもあるのです。 最初は「鶴」です。図1若冲と図2応挙はよく似た構図です。余白のとり方もよく似ています。両方とも鶴を描いた中国画を土台にしているのかもしれません。ただ図1若冲は「裏彩色」を使って羽を金色に輝かせる技法を使っている(筆者の推定)ところ、背景の梅の木の枝ぶりなどに若冲らしさが見えます。図3若冲の動植綵絵のバージョンでは余白が少なくなり、鶴も真横向きか、真正面向きになり、若冲らしいインパクトの強い絵になっています。 図1若冲「竹梅双鶴図」 図2応挙「双鶴図」 図3若冲「梅花群鶴図」動植綵絵 プライス・コレクション 島根・八雲本陣記念財団 宮内庁三の丸尚蔵館 次に「蝶」です。図5応挙はもちろんですが、図4若冲も珍しく遠い蝶ほど小さく書いて遠近感を表現しています。ただ若冲の方は飛んでいる蝶はすべて翅を180度開いているのに対し、応挙の方は色んな翅の開き角度の蝶を描いています。ある一瞬を捉えれば、現実は応挙の絵です。こういう瞬間が見えるわけではないので、応挙は蝶の死骸の翅を色んな開き角で広げて写生をしたのかも知れません。若冲は意識的に全部180度開いた蝶を描いて、色彩豊かな大輪の芍薬(しゃくやく)とともに華やかさを演出したかったのではないでしょうか。 図4若冲「芍薬群蝶図」動植綵絵 図5応挙「百蝶図」 宮内庁三の丸尚蔵館 徳川ミュージアム 次に「孔雀」です。図6若冲のは白孔雀です。白孔雀は実際にいるようです。「裏彩色」を使って錯視的な金色を加えています。また、白孔雀の場合、羽のハート形に描かれた部分は通常は白色のはずですが、背景の松と同じ緑色を置いています。意識的に煌びやかさを加えたのでしょう。図7応挙のは写実的で、頭から胴にかけての光沢のあるグラデーションを使った質感表現が見事です。この2つの絵の孔雀の格好が同じです。若冲の動植綵絵の人気が出て、「細密さでは、負けないぞ」というライバル意識をもって応挙は描いたのかも知れませんし、同じ中国画を参考にしたのかもしれません。図6若冲「老松孔雀図」動植綵絵 図7応挙「牡丹孔雀図」(再掲)宮内庁三の丸尚蔵館 宮内庁三の丸尚蔵館 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/23
コメント(2)
【2021年8月21日(土)】 「京の夏の旅」六道珍皇寺の4日目でした。 京都に9月20日から9月12日までの緊急事態宣言が発出されました。それに伴い、「京の夏の旅」も最低限9月12日まで休止となりました。ただ、明日までは経過措置として公開が継続され、私も行かせていただきました。もともとの開催期間は、9月30日までですので、緊急事態宣言が解除されて、再開されることを祈るばかりです。 公開では、書院からお庭に下りていただいて、小野篁が冥界の閻魔庁に通ったという「冥途通いの井戸」がご覧いただけます。 また、篁がこの世に戻ってくるために通った別の井戸があったと伝わっていたのですが、平成23年に隣接地で、その伝承の井戸が発見されました。「黄泉(よみ)帰りの井戸」と呼ばれており、その井戸もご覧いただくことができます。 ただし、今回は、写真撮影はお堂から庭を向いてのみとなっていますので、写真で紹介できるのは、書院廊下から見える「冥途通いの井戸」のみです。小野篁「冥途通いの井戸」よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/21
コメント(4)
【2021年8月16日(月)】 今日は京都では「五山の送り火」ですが、昨年に続いて、部分点火でした。去年は、来年は絶対大丈夫だと思っていたのに、2年連続となりました。「来年こそは」と思いたいですが、あまり期待しないことにします。会の20日の集まりの準備をしました。 「若冲と応挙」第36回、円山派についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 円山派 応挙はたくさんの弟子を受け入れて育て、「円山派」を形成しました。応挙の画風を受け継いだ呉春も多くの門人を育て「四条派」を形成しました。両派合わせて「円山四条派」と呼ばれています。図1に系図を示します(字が小さくなるので、半分に分割しています)。図1 円山派とその派生流派の系図 すでに紹介した宗家の円山応瑞、応震、応立が右端に書かれています。左下には明治時代から昭和前期に活躍した竹内栖鳳の名もあります。応挙と同時代に活躍した若冲や曾我蕭白は、多くの弟子を持たず、ほとんど本人の代で終わっているのに、狩野派のような伝統を持たない応挙がこれほど多くの門人を持ち、かつその画派が長く続いたのは何故でしょう。 まず、応挙の生きた時代が背景として考えられるでしょう。文化にかかわる層が町人へと拡大しました。平常の暮らしの中で、掛軸、襖絵などで美を求める人が増えたわけです。技の秀逸さと、部屋を飾るに相応しい分かりやすく、かつ新しい画風に注目が集まり、注文が増えます。若冲・蕭白とも「平安人物志」の人気ランキングに登場しますが、実際の需要は応挙のほうが格段に大きかったと思います。その需要に応えるには、弟子をたくさん受け入れ、育てなければなりません。弟子を多く持つと、手取り足取り教えるのでは賄えなくなります。明確な絵画理論を弟子に伝え、写生帖を有効活用するなどもして、弟子を育てたのだと思います。そして、既に述べましたが、大規模障壁画の仕事などをするにはチームワークが大切です。そのようなマネジメント能力も応挙は持ち合わせていたのでしょう。そして、弟子たちの個性も大切にしたのではないでしょうか。長沢蘆雪は「奇想の画家」の一人に数えられるほど個性的な絵を描いたし、呉春は四条派を形成し、森徹山らは森派を形成するなど一味違った画風を追求しました。応挙の画風は、秀逸だけれども、発展性があり、応用展開できる余地があったので、弟子たちは師とは異なった高みを目指し、円山四条派は後世に長く引き継がれることになったのではないかと思います。図2 長沢蘆雪「虎図」串本・無量寺 図3 呉春「池辺雪景図」 個人蔵 図2に長沢蘆雪「虎図」、図3に呉春「池辺雪景図」を示します。「池辺雪景図」は雪を白く塗り残す技法や構図が以前の回で紹介した応挙の「雪松図屏風」に似ていますが、応挙の絵にはない洒脱さが加わっています。 これで応挙の章を終えます。次回から若冲と応挙の比較をしていきます。 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/16
コメント(2)
【2021年8月15日(日)】 雨が続きます。雨の被害が相次いでいますが、幸い私の地域は今のところ避難指示は出ていません。修学旅行ガイドでよく通る清水寺参道の茶わん坂での崖崩れは驚きました。 もう一つ気になるのが甲子園。「天候不良のため、本日8月15日第1試合の開始を午前8時から遅らせます。天候の回復を待って、試合を行う予定です」とのことですが、果たして・・・。 3連続在宅日の中日。会の集まりの準備に追われています。京都駅往復もします。 「若冲と応挙」の第35回。応挙のその他の作品の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 その他の作品(続き) 図1「氷屏風図」。やはり天明期の作です。左上へ、右上へ、水面の氷のひびが入っています。現代絵画と見まごう構図です。図1「氷図屏風」天明年間(1781~1788)大英博物館蔵 図2「海上竜巻図」天明7年(1787)個人蔵 図2「海上竜巻図」。応挙55歳の作品です。竜巻の恐怖感を水墨画で見事に表現しています。天に昇る龍も描かれています。当時は竜巻は龍が起こすと信じられていました。 図3「富士図」。応挙60歳の作です。富士山は、生地色のまま塗り残し、外側を墨でぼかす「外隈」の技法が使われています。「外隈」は狩野探幽が得意とする技法でした。円満院祐常は「萬誌」で「探幽は遠山、ことに外隈が美しい。この隈は一回の刷毛では施すことができない。最初に水でほどよく隈をとり、その湿ったところへ淡墨や濃墨を入れると”ほっこり”としてよい」と書いています。応挙はこの絵で探幽風の外隈を意識したのかもしれません。図3「富士図」寛政4年(1792)三井記念美術館蔵 図4「龍門図」寛政5年(1793)京都国立博物館蔵 図4「龍門図」。応挙61歳の作です。中幅は滝の中を昇る鯉が砲弾のような形で描かれています。これは応挙独特の鯉の描き方です。中幅の寸法を左右より長くして、鯉の上昇が強調されるよう工夫されています。 最後に制作年代はよく分かりませんが、軽妙な作品を2点紹介します。 図5「狗子図画賛」。「己が身の闇より吼て夜半の秋」の句を蕪村が添えています。「秋の闇夜で吠える黒い犬は、自分の色のように黒い心の闇から吠えるのだろうか」という意味です。句の意味と可愛い黒犬の対照が面白い絵です。 図6「猫も杓子も図画賛」。「ぢいもばばも猫も杓子もおどりかな」の句を蕪村が添えていますが、「猫は応挙が戯れに描き、杓子は蕪村が酔って描いた」と右側に書かれており、絵は蕪村との共同作品であることが分かります。応挙らしくない猫の描写が面白いです。左:図5「狗子図画賛」賛は蕪村 個人蔵 右:図6「猫も杓子も図画賛」応挙・蕪村筆 海の見える杜美術館蔵 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/15
コメント(0)
【2021年3月14日(土)】 12日は雨の中を二人でお墓参り。その足で名古屋に寄って帰ってきました。お墓参りのとき雨が激しく、閉口しましたが、レインコートを持っていっていたので助かりました。雨とコロナで渋滞がなかったことも助かりました。 昨日13日は、終日事務所。 今日から3日連続在宅ですが、今日は夜にオーイ会のZoom飲み会があります。 近くに避難指示が出ています。私の住む所にも出るかもしれません。 「若冲と応挙」の第34回です。応挙の代表的な作品以外を観察していきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 その他の作品 ここ3回は晩期の応挙、雅号の由来、ゆかりの地、肖像画について紹介してきました。 今回は、生涯についての解説の流れの中で紹介しきれなかった作品について、一風変わった作品を中心に紹介したいと思います。年代順にみていきます。 図1「鬼の念仏図」。「円山主水」の署名のある20歳代の作品ですが、水墨画でひょうきんさを描き出す余裕さえ感じさせます。僧・可円の「見るや人角のはえたる鬼さへも かねをたゝいて南無阿弥陀仏」の歌が添えられています。 図2「山水図」。応挙33歳の作品で「仙嶺」の雅号を用いています。画面奥から手前にかけて、墨の色を次第に濃くすることによって遠近感を出しています。淡墨でだいたいの図をつくり、これが乾かないうちに勢いよく濃墨を溌ぐ溌墨(はつぼく)という技法で描かれています。右下の、叩きつ付けるような激しい濃墨は現代書道のような筆遣いです。図1「鬼の念仏図」18世紀 個人蔵 図2「山水図」明和2年(1765) 三井記念美術館蔵 図3「夕涼み図」安永元年(1772) 個人蔵図3「夕涼み図」。応挙40歳頃の作品です。描かれているのは、三井総領家の4代目三井高美(たかよし)と伝わります。高美は応挙のパトロンだったわけですが、この無防備にくつろぐ姿からは、高美にとって応挙は心許せる存在でもあったことを窺い知ることができます。絵の右端には高美作・書と思われる「さつぱりと はらひはてたる まるはたか さそやすゝしく世をわたるらむ」の歌が入っています。 図4「幽霊図」安永年間(1772~1780) 個人蔵 カリフォルニア大学バークレー美術館寄託 応挙の絵の中でよく知られているのが、「足のない」幽霊の絵です。図4に「幽霊図」の代表作の一つを示します。応挙40歳代の作です。江戸時代の国学者・藤井高尚(1764-1840)は、その著書の中で次のように記述しています。 「今人幽霊といへるものは、足なきもののやうに思へり。しかるに100年以前(享保以前)描くところのえん魂にはことごとく足あり。さてこの足なき幽霊はいつ頃より出来しといへるに、こはいと近く円山応挙よりおこりしなり」 足のない幽霊を描きだしたのは応挙だとしています。以前の回で紹介した「七難七福図巻」の凄惨な場面を描いた応挙にとっては、恨みの形相をもった見るからに恐ろしげな幽霊を描くことはたやすかったでしょうが、応挙は足が消えかかり、伏し目がちのはかない表情を持つ幽玄な幽霊を描きました。こういった幽霊図のモデルとなったのは若くして亡くなった最初の妻・雪で、夜中に髪が乱れたまトイレに立った姿を写したと伝わります。 図5「元旦図」18世紀 個人蔵 図5「元旦図」。作年代は不詳です。正装した男性が初日の出を拝しています。元旦の静粛な雰囲気が伝わります。回りの景色も日に照らされて明るいはずですが、描かれていません。日の出で太陽が顔を出した瞬間は眩しくて、それまで見えていた回りの景色が一瞬見えなくなるという経験はないでしょうか。応挙は、人の眼に感じる日の出を描いたのかも知れません。 図6「波上白骨座禅図」天明期 香住・大乗寺蔵 図6「波上白骨座禅図」。天明期の作ですから、50代前半の作と考えられます。波の上で白骨の人体が座禅するという特異な画題です。仏教的な寓意が何かあるかも知れませんが、人物を描く場合、裸体に服を着せるという考え方で描いた応挙ですので、さらに突き詰めて、骨格を描くというところまで入り込んだのかもしれません。「解体新書」が刊行されたのが、応挙が42歳のとき。応挙は解剖学も学んだといわれています。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/14
コメント(0)
【2021年8月11日(水)】 昨日は、午前中、事務所で関係の組織の方々の打ち合わせ。午後からは外に出てお世話になる組織へのご挨拶でした。それが終わって、事務所で諸事。終日外出していました。今日は、終日在宅で、会の諸事です。 「若冲と応挙」の第33回。生涯のお話しを前回で終え、今回は、雅号の由来、肖像画、ゆかりの地についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 雅号の由来、肖像画、ゆかりの地 応挙という雅号の由来について触れておきます。 以前の回で、応挙が私淑した一人が、宋から元にかけての中国の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)であると書きました。応挙はその精密な描写力を高く評価し、彼を目標とし、彼に近づこうと努力を重ねたといわれています。それだけではなく、写実を追い求めた円満院祐常も銭舜挙を高く評価していたようです。パトロンとなった祐常が銭舜挙の画力に近づこうとする応挙を見て、「銭舜挙の筆意に応ぜむ」という意味で与えたのが「応挙」という雅号であったといわれています。銭舜挙は銭選とも呼ばれます。応挙は「仲選」という落款印も多く押しています。「仲選」は「銭選に伯仲せむ」という意味だといわれています。図1「雪松図屏風」の落款上の印:応挙之印 下の印:仲選 落款のことについてさらに付け加えると、応挙の作品には「応挙冩」(冩=写)の款記を記したものが多くあります。一般的には「――筆」「――画」「――之図」が使われますが、応挙の作品では圧倒的にこの「写」が書かれたものが多くなっています。「写」には「えがく」という意味もあるので、応挙は「筆」という意味で「写」を使ったとも考えられますが、いわゆる「うつす」という意味で「写」を使ったと考えたいところです。ただ、応挙の「写」は、実物をそのまま写すという意味の「写」ではなく、対象を対象らしく描くという意味の「写」であることは、今まで述べてきたことで推し量ることができます。図1に「雪松図屏風」(以前の回で紹介)の落款を示します。「応挙之印」、「仲選」の落款印と「応挙冩」の款記を見ることができます。 図2 応挙肖像画 山跡鶴礼筆 さて、若冲の肖像画については、生前時に描かれたものは存在しないことを書きました。応挙はどうでしょう。実存します。応挙の弟子の一人である山跡鶴嶺(やまあとかくれい)が晩年の応挙を描いたものです。図2に示します。生前の肖像画なので、こんな風貌だったのでしょう。まじめな人柄のように見えます。 応挙ゆかりの地は、ポイントポイントで説明してきましたが、地図を使って説明したのは、誕生・幼少期の亀岡のみでしたので、ここで現京都市中心部のゆかりの地をプロットした地図を図3に示します。図3 京都市中心部の応挙ゆかりの地(若冲生家、若冲親族菩提寺・宝蔵寺を含む)図4 円山応挙宅跡碑 四条堺町西入ル南側 その中に若冲の生家や親族の菩提寺「宝蔵寺」もプロットしました。若冲生家は錦小路高倉、応挙の自邸はその目と鼻の先にありました(1782年以降は四条堺町。図4の碑が建つ)。応挙のアトリエは浄土宗寺院大雲院にありました。大雲院は現在東山の高台寺に近い「ねねの道」沿いにありますが、当時は今の京都高島屋の場所にありました(図5の碑が残る)。昭和48年、高島屋の拡張で現在地に移転したのです。図5 大雲院跡地碑 四条寺町下ル東側(高島屋裏側) 右端は現・大雲院 東山高台寺近く 「ねねの道」沿い 若冲のアトリエの場所ははっきり分かっていませんが、生家に近い場所だったとすると、応挙と若冲は、1キロも離れていないところで絵を描いていたことになります。ただ、文献上では、応挙と若冲が会ったという記録は残っていません。以前の若冲のところで述べたように、若冲、応挙両名と交流のあった著名人の一人儒学者皆川淇園(みながわきえん)(応挙の絵の弟子でもありました)が、天明8年(1788)に応挙、呉春らとともに石峰寺の石像群を観覧しましたが、そのとき若冲は石峰寺にいなかったと、自ら著した「淇園文集」に書いています。しかし、別の機会に二人が顔を合わせ、言葉を交わした可能性は大きいと筆者は思っています。仮に会わないまでも、互いの絵を目にする機会は多かったと思います。「平安人物志」でも、常に上位を争ってきた2人ですので、互いにリスぺクトし、互いに影響を受けたものと思います。それを窺わせる作品もありますので後述します。 応挙の弟子でもあり、四条派の始祖である呉春の自邸跡が、錦小路東洞院上ル西側にあり、碑が建っています。その碑の建つ場所には、低層マンションがあり、何と「Shamaison 呉春」という名が付いています(図6)。呉春やその弟子たちの多くが四条通付近に住んだので「四条派」と呼ばれます。図6 呉春宅址 次回は、円山派、応挙の一風変わった絵などを紹介します。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/11
コメント(0)
【2021年8月9日(月・祝)】 今日は在宅。会の諸事なかなか思うようにはかどらず気持ちが落ち着きません。お天気も台風接近で朝から雨で、朝の散歩は無しです。気温は高くないようですが、蒸し蒸ししています。 「若冲と応挙」第32回。応挙の晩期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期(続き) 図1 悟真寺 応挙は大乗寺の「松に孔雀図」を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・悟真寺に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました(図1)。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています(図2)。墓地の向こう側に見える建物は東映太秦映画村です。 図2 応挙とその子孫の墓@悟真寺(左から応誠、応震、応挙、応瑞、応立) 右の写真は応挙の墓の拡大 墓碑は妙法院真仁法親王揮毫 中央が応挙の墓で、墓碑は応挙のパトロンの一人であった妙法院宮真仁(まさひと)法親王(光格天皇の兄)揮毫です。応挙の墓の向かって右が円山派2代応瑞、応挙の向かって左が3代応震、一番右が4代応立(おうりゅう)、一番左が5代応誠です。 図3 円山応挙家系図(再掲) もう一度、応挙の家系図を図3に示します。応挙の次男・応受も画家になりましたが、母方の祖父木下萱斎の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工寺井久次郎の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹(国井家に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子国井(円山)応陽(6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・国井(円山)応祥が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる駒池(円山)慶祥氏(本名駒池慶子)が8代として活躍されています。近年、悟真寺の天井画や襖絵を、慶祥氏の弟子(恐らくご子息)円山真祥氏(本名駒池真)といっしょに描いています。 図4「応挙誕生地」碑 図5「応挙誕生地」碑 @太秦・悟真寺 @亀岡・穴太寺近く (「もっと知りたい円山応挙」から) さて、この悟真寺で「応挙誕生地」と書いた大きな石碑を見つけました(図4)。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの「応挙誕生地」の碑を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑(図5・再掲)と悟真寺の碑(図4)を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/09
コメント(0)
【2021年8月8日(日)】 暑い日が続きます。昨日は、「京の夏の旅」大覚寺の見学で外出しましたが、今日、明日は、在宅で会の諸事などです。 今晩はオリンピックの閉会式。日本選手の活躍はすごくて、感動しましたが、やはりどこか物足りなさが残るオリンピックでした。何かなぁと思ったら、無観客とかではなく、競技場外の触れ合いがないからでしょうね。普通なら、ホストタウンと選手たちの触れ合い、外国からの観客が日本を楽しむ様子、そんなニュースが、選手の活躍の後に流れるのですが、それがないのです。世界中から選手以外も集まるお祭だったはず。残念です。「若冲と応挙」第33回目です。応挙の晩期へと入っていきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期 前回、前々回は、応挙工房をあげて多くの障壁画大作を遺した、45歳から56歳までの円熟期を中心に述べました。今回は、応挙の生涯最後の時期、57歳から63歳の晩期を中心に紹介します。年代でいえば、寛政元年(1789)から寛政7年(1795)です。 天明8年(1788)1月30日、若冲もそうであったように、応挙は京都市中の大部分を焼き尽くした天明の大火に遭遇します。応挙は、この大火前から、襖絵などの大作を描くにあたって、大雲院という浄土宗寺院の方丈をアトリエとして使わせてもらっていました。場所は寺町四条の現・京都高島屋の裏手です。自宅は当時四条堺町にありましたので、そこからは数百メートルのところです。ところが、この天明の大火で、応挙はアトリエも自宅も同時に失うことになります。 焼け出された応挙は、幼少の頃、僧になるべく預けられた亀岡の金剛寺(以前の回でで紹介しました)に一時身を寄せ、そのときに、金剛寺のために、障壁画「波濤図」「山水図」「群仙図」を描いたと云われています。応挙の場合、障壁画はアトリエで描いたうえ、弟子たちに現場に運ばせるのが常だったので、これらの襖絵は応挙がその場で描いた唯一の障壁画群ということになります。図1に「波濤図」の一部を示します。図1「波濤図」重文(部分) 亀岡市・金剛寺蔵(東京国立博物館に寄託) 金剛寺ではデジタル複製画常時展示 「波濤図」は3室30襖と一間の壁紙に描かれたものですが、応挙が生涯をとおして同一テーマで描いた作品としては最大のものです。また、3室を分割する襖を外したり開いたりした場合でも絵がうまく繋がるように、緻密な配慮のもとに描かれています。図示の部分は、仏間に面しており、本尊釈迦如来像を正面に見て左側の部分です。画面左から右に向かって、すなわち本尊に向かって波がせり上っていくように描かれており、宗教的な高揚感を演出しています。「波濤図」「山水図」「群仙図」とも重要文化財に指定されており、「波濤図」「山水図」は軸装されたうえ、東京国立博物館に寄託されています。金剛寺では、「波濤図」のデジタル複製8面が常時観覧でき、「群仙図」原画が11月3日に公開されます。 天明の大火では御所も焼失することになりましたが、2年後の寛政2年(1790)には寛政度御所造営が竣工し、その障壁画制作にあたっては応挙にも声がかかり、一門で参加しました。御所の障壁画を担当するということは、最高権威によって認められたということであり、絵師として最も名誉なことです。応挙本人の評価だけでなく、応挙工房が、応挙の統率のもと多くの質の高い障壁画を描いていたことも評価されたのでしょう。「平安人物志」で市中人の人気でトップであったことは既に述べましたが、朝廷・幕府からも認められたということです。この障壁画には、円山派だけではなく、狩野派、土佐派のそうそうたる絵師も参加しましたが、残念ながら1854年の火災で焼失してしまいました。 奥文鳴「仙斎円山先生伝」によると、応挙は61歳の頃から病で歩行困難となり、井以前の回でも述べましたが、眼病も患い絵画制作に支障をきたすようになっていました。しかし、まだどうしてもやり遂げないといけない仕事が残っていました。天明の大火で中断していた障壁画制作です。いまや立派に成長した弟子たちにも支えられて、寛政6年(1794)には讃岐・金刀比羅宮表書院の中断分「瀑布・山水図」を完成させ、寛政7年(1795)には、香住・大乗寺の中断分「松に孔雀図」を完成させました。「松に孔雀図」は以前の回で紹介しましたので、ここでは金刀比羅宮表書院(図2)の「山水図」の一部を紹介します。図3に金刀比羅宮表書院の障壁画配置図を示します。図2 金刀比羅宮表書院 図3 金刀比羅宮表書院 障壁画配置図 「富士一の間」「富士二の間」は明治時代の画家である邨田丹陵筆ですが、それ以外は全て応挙筆で、重要文化財に指定されています。応挙が筆を執るにあたって、三井家総領家5代三井高清が資金を出したという記録が残っています。今回の研究に際し、筆者もここを観覧しましたが、何よりも原画がオリジナルの位置で鑑賞できることが最大の魅力です。ただ、廊下からのガラス越しの鑑賞のため、天気が良いとガラスへの外光反射で見にくくなってしまうのが難点です。四国八十八ヶ所巡礼をされている方がいらっしゃったら是非お立ち寄りください。以前の回で紹介した張り子の虎のような虎の絵も、「虎の間」の「遊虎図」の一部です。そして図4が天明の大火後の晩年の作品「山水図」です。図4 金刀比羅宮表書院「山水図」(部分) この部分は、貴人が着座する一段高い上段の間から、左方向を見下ろす部分です。岩山が直角に折れ曲がった部屋の角に描かれていますが、それが左右面で自然に繋がり、その後ろの山々が、途中で直角に折れ曲がっているにも関わらず、右の面から左の面にわたって、真っすぐ遠くまで連なっているように見えます。上段に座った客人は、室内に居ながら広大なパノラマ風景を楽しむことができるのです。応挙イリュージョンです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/08
コメント(0)
【2021年8月7日(土)】 今日から3連続在宅日の予定でしたが、今日は外出しました。「京の夏の旅」が開催中で、会期は9月末なのですが、大覚寺の霊宝館は8月9日で終了してしまいます。それに気付いたので、今日行ってきました。 バスと阪急で、阪急嵐山駅まで行って、そこから歩きましたが、3キロメートルあるので、45分くらいかかりました。朝から蒸し暑くて、途中清凉寺で休憩を入れて、かなりバテバテで大覚寺に到着しました。「京の夏の旅」の案内 大覚寺は何度か拝観したことがありますが、霊宝館に入るのは初めてだと思います。我が会のメンバーが担当しています。表門臥龍の松と式台玄関村雨(むらさめ)の廊下宸殿の蔀戸心経前殿から石舞台と勅使門を望む勅封心経殿 霊宝館は通常、春・秋の「名宝展」で公開されいますが、今回の「京の夏の旅」に合わせて特別に公開されています。北野天満宮とタイアップして、「伝説を纏う髭切と膝丸」と題して、名刀が展示されています。北野天満宮が髭切(鬼切丸)、大覚寺が膝丸(薄緑)です。 両刀とも平安時代、清和源氏の流れをくむ源満仲により天下守護のため鍛えられた刀ですが、その後、それぞれの刀は、時代とともに持ち主が替わり、今は北野天満宮と大覚寺に所蔵されているとのこと。膝丸は源頼光の「土蜘蛛」の話、髭切は渡辺綱の一条戻り橋での「鬼切り」の話でも有名です。両刀とも重要文化財に指定されています。 その他霊宝館では、多くの寺宝が展示されていましたが、重要文化財では、狩野探幽「竹鶴図」、木像彩色「不動明王坐像」「軍荼利明王坐像」「大威徳明王坐像」(室町時代)、平安時代明円作の木像彩色「五大明王像」を観覧することができました。五大堂から勅使門を望む大沢池と能舞台 大覚寺をあとにし、帰りは久しぶりに「竹林の小径」に立ち寄ってみました。コロナの影響で観光客が少なかったです。竹林の小径渡月橋よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/07
コメント(2)
【2021年8月4日(水)】 5連続在宅日の最終日です。今日は、朝から良い天気で午前中から暑いです。もうじきエアコンオンしようかと思います。 在宅が多いので、またご近所散歩を復活させていますが、暑いので朝散歩しています。「お通じ」が何か調子いいです。朝散歩の効果かもしれません。 「若冲と応挙」第30回。応挙の円熟期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-5 円熟期(続き) 大乗寺の次の襖絵は、応挙が最晩年に描いた、「松に孔雀図」(図1-1)です。金地墨画で、色調のわずかに違った2種類の墨が用いられ、青みがかった墨で松の葉が表され、それ以外の部分はやや赤みのある墨で描かれています。その違いは僅かなのですが、金地に描かれた効果も相まってか、松は青々と茂っているように見えます。図1-1 大乗寺客殿「松に孔雀図」(部分) この絵が、襖がL字型に配置されることを利用して、巧みに立体表現をしていることは、一目瞭然です。右側襖には手前に伸びる枝、奥の襖には左に伸びる枝が描かれています。そして、よく見ると2本の松の右側の幹から、こちらに向かって伸びる枝を発見することができます。八方に枝が拡がる松をその場で見ているような錯覚にとらわれます。そして、奥の2本の松の幹の根元に地面が見えます。ところが、決して盛り上がっているのでなく、畳から連続に平坦に地面が繋がっているように見えるのです。観察者は襖の向こうに広大な空間を見ているような感覚にとらわれます。 図2-2「松に孔雀図」(部分)仏間を開けたとき さらに、もう一つマジック。右側奥の欄間に彫刻がある4枚の襖の向こうは仏間になっています。仏間は襖が開けられたままになる場合も多くあります。図1-2が開けた状態です。松の幹は1本になってしまいますが、松の枝が見事に繋がっています。 大乗寺は常時、客殿の内拝が可能です。内拝料は大人800円。詳しくは次のホームページをご覧ください。http://www.daijyoji.or.jp/main/index.html この円熟期の代表作の筆頭は、図2-1「雪松図屏風」でしょう。応挙生涯の代表作の筆頭といってもいいかもしれません。若冲・応挙の絵のなかで、唯一国宝に指定された絵です。この絵はいわゆる「金地屏風」です。それまでの画家の金地屏風の金地は、モチーフを引き立たせるためのものでした。ところが、応挙は、風景画においては、そのような効果に加え、金地で透明な大気を表わそうと意図しました。さきほどの図1-1「松に孔雀図」もそうですが、本作品にはその意図がより顕著に表れているといえるでしょう。図2-1 「雪松図屏風」上:右隻 下:左隻(国宝)三井記念美術館蔵 構図に目を向けてみましょう。右隻の松は直線的で力強い老松で、左隻の松は曲線的で柔らかい若木です。右隻の松の幹は大胆に上下をカットされ、狩野永徳の大画面巨樹表現を思い起こさせます。やや下から松を見上げ、鑑賞者に迫りくるようです。右から左に伸びる大枝は、画面奥から手前に張り出してきています。一方、左隻の松はかなり下から見上げています。枝は手前から奥へ向かう方向性をもっています。右隻の松葉の一かたまりと左隻右の松の松葉の一かたまりの大きさを比べると、右隻の松の方が手前にあって、左隻の松の方が後方にあることが分かります。屏風一双を並べたとき中央に余白ができますが、その余白が左隻、右隻の奥行き差を強調しているようにも見えます. 次に細部を見てみましょう。図2-2に右隻の部分拡大を示します。雪の部分は、遠くから見ると白色の絵具を使っているように見ますが、そうではなく、紙の地の色を残しているだけなのです。雪を描かずして、雪を描いているのです。雪の部分には一筋の筆も入っていません。それを遠くから眺めると「あら不思議」、幹や枝を柔らかく覆った雪に見えるのです。以前の回でお話しした「遠見の絵」です。樹皮は墨を何度も重ねて、ごつごつとした質感を出しています。これも近くで見ると筆が連続しておらず、粗い感じですが、遠くから見ると自然なゴツゴツ感になります。幹や枝は輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で描かれ、特に横に伸びる枝には、付立(つけたて)の技法が使われていることが分かります。一本の筆全体に薄墨を含ませ、さらに先の部分に濃墨を含ませ、筆を横に倒して引くと、一筆の中で濃淡を表現できます。これが付立です。今風にいうと「グラデーション筆」です。近くで見ると粗い印象ですが、襖を鑑賞する位置から見ると、この枝が丸い立体となって見えるのです。これも応挙の「遠見の絵」理論を実践したものです。図2-2 「雪松図屏風」右隻の部分拡大 そして、以前の回で紹介した「雲龍図屏風」同様、屏風が折り曲げられた状態で見ると、さらに臨場感、奥行き感が増すのです。屏風の折り曲げも考慮したうえでの、立体表現が図られているからです。 「雪松図屏風」は東京日本橋にある「三井記念美術館」所蔵です。「三井記念美術館」は常時観覧できますが、「雪松図屏風」がいつも観覧できるわけではありません。1年に一度くらい、期間を限って観覧できます。私も今回の研究で、2019年の「雪松図屏風」公開の折り、三井記念美術館を訪問しました。最も感動したのはやはり「雪松図屏風」でした。近寄って見ると粗いのですが、屏風を観賞する距離から見ると、同じ絵とは思えないほどの存在感が醸し出され、圧倒されました。 興味のある方は、次のホームページで展示予定など確認ください。「雪松図屏風」以外にも多くの名品を所蔵しており、本稿でもすでにいくつか紹介してきました。 http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html 図3 左:三井記念美術館入口(東京日本橋) 右:筆者観覧の美術展パンフレット 次回以降は、応挙の晩年、応挙ゆかりの地、応挙の名の由来などについて、述べていきたいと思います。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/04
コメント(0)
【2021年8月3日(火)】 今日は在宅日。会の諸事を進めました。久しぶりに朝から雨で、朝のウォーキングができなかったので、夕刻、雨が上がってからウォーキングをしました。雨が降った後で、日差しもなかったので、暑さはそれほどではありませんでした。ただ湿度の高い一日でした。 今日の読売朝刊から。緊急事態宣言が発出された大阪ですが、吉村知事、松井市長は8月の府立・市立学校の修学旅行は、実施の方針とのこと。 果たして、このニュースが、他県にどれくらい影響するでしょうか。京都への修学旅行の実施決断に影響するかもしれません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/03
コメント(0)
【2021年8月2日(月)】 今日も早朝に散歩。勤務がほとんどないので、意識的にウォーキングをしなければなりません。8時にはもう暑いので、7時半には終えることができるよう、6時半には歩き始めたいところです。会のお役目の月イチの集まりの記録は昨日出せたので、今日は自分のペースで会の諸事をそjました。 「若冲と応挙」の第29回。応挙の「円熟期」に入っていきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-5 円熟期 前回は、三井家の庇護を受けた「黄金期」について述べました。 これに続く時代は、応挙45歳から56歳までの時代で、美術書では「円熟期」とも呼ばれる時代です。以前の回でも述べたように、円満院時代の安永4年版「平安人物志」(図1)では応挙の弟子である島田元直や源琦(げんき)がランクインしています。円満院時代には、既に応挙工房が形成されつつあったものと考えられます。三井家の庇護を受けた黄金期には、応挙工房ががさらにしっかりとしたものになり、労力を要する寺社の障壁画制作などの仕事が入ってくるようになったと考えられます。そして、続く天明期(1780年代)には、大規模な障壁画を数多く制作することになります。これが「円熟期」です。図1 「平安人物志」安永4(1775)版 画家の項(再掲)(応挙、島田元直、源琦の名が見られる) 何面にも及ぶ障壁画を描くためには、頭領絵師が中心となって一貫した構想を立て、これに沿って門人たちの能力を考慮しなながら、仕事を分担して仕上げていく統率力が必要となります。若冲も障壁画の大作を遺してはいますが、その枚数からいうと応挙が圧倒しています。応挙は自身の絵の力に加え、頭領絵師としても非常に長けたものを持ち合わせていたということです。 この時代に制作した障壁画を年代順に列挙していきます。安永9年(1780)応挙48歳、本願寺山科別院「春景海浜図」、天明4年(1784)52歳、愛知・明眼院(みょうげんいん)「老梅図」「芦雁図」「老松図」「朝顔狗子図」。その後は、ほぼ毎年障壁画制作に携わっています。天明5年(1785)53歳、和歌山白浜・草堂寺「雪梅図」、天明6年(1786)54歳、和歌山串本・無量寺「波上群仙図」「山水図」、天明7年(1787)55歳、京都・南禅寺帰雲院「海辺老松図」、香川・金刀比羅宮「遊鶴図」「遊虎図」、兵庫香住・大乗寺「山水図」、翌年同寺「郭子儀図」。和歌山・草堂寺と無量寺は、臨済宗東福寺派の禅宗寺院です。当時の両寺のそれぞれの住職は京都の本山に居た頃から応挙と旧知の間柄で、本堂が普請された際に、応挙に障壁画制作を依頼したのです。明眼院は、その寺名からも窺い知れますが、中世から眼病で知られる寺院です。奥文鳴の「仙斎円山先生伝」に、応挙は最晩年眼病に悩まされたと書かれており、この時代すでに眼病が持病になっていて、この寺院で治療を受け、そのお礼に障壁画を描いたのではないかといわれています。 このように非常に多くの障壁画を一時期に遺していて、すべてを紹介しきれませんので、ここでは一部を紹介します。 代表作の一つが兵庫県・香住 大乗寺の客殿の障壁画群です。山陰海岸にある香住は冬場の蟹で有名ですが、この大乗寺は応挙寺とも呼ばれ、知る人ぞ知る観光スポットになっています(図2)。和歌山の2寺と違って、どのような経緯で大乗寺が応挙に障壁画制作を依頼したのかはよく分かっていません。図2 兵庫・香住 大乗寺 山門・応挙碑・応挙像 障壁画の面数はなんと165面で、すべて重要文化財に指定されています。応挙一門総がかりで制作しています。応挙に加え呉春、奥文鳴、円山応瑞(応挙の子)、山本守礼、秀雪亭、亀岡規礼、源琦、長沢蘆雪が筆を執っています。そして多くの絵が、天明7年(1787)から翌年にかけて描かれているのに対し、孔雀の間の絵だけは、時期が数年空いてます。寛政7年(1795)、応挙は63歳で他界しますが、その3ヶ月前に自らが描いたものです。なぜ時期が空いてしまったかというと、完成直前だった孔雀の間の絵が天明の大火(天明8年・1788)で灰燼に帰してしまったからです。痛手から立ち直った応挙が、眼病に悩まされながらも、弟子たちに支えられて、最後の力を振り絞って描いた作品なのです。 図3に大乗寺客殿襖絵の配置図を示します。薄く色付けしたところが、応挙本人の筆による絵が入った部屋です。筆者は去年(2019年)に大乗寺を訪れましたが、原画をデジタル複製と置き換えるプロジェクトを進めているところで、既に大部分がデジタル複製と置き換わっていたと記憶しています。置き換えられた原画は収蔵庫に収納されており、気候の安定した春・秋に期間限定で公開されているようです。普段訪れると多くはデジタル複製での観覧となるわけですが、応挙やその門人たちが納めたままの位置で、しかも間近で眼にすることができるところが大きな魅力です。図3 大乗寺客殿 襖絵配置図 応挙本人が揮毫したのは3室で、山水の間の「山水図」、郭子儀の間の「郭子儀図」、孔雀の間の「松に孔雀図」です。ここでは「山水図」と「松に孔雀図」(こちらは黄金期ではなく晩年の作ですが)を紹介します。 山水の間は、床・棚・付書院を備えた本格的なつくりの部屋で、貴賓が訪れたときの座所とする間です。一段高い上段の間に座って、左手側の「山水図」を眺めると、奥の方へと水面が延びてゆくのが見えます(図4-1)。反対に下段の間の下座から上座を見上げると、広がる水平線が次第に陸地へと収斂してゆくのが見えます(図4-2)。この2つの写真は非常に表情が異なっており、なかなか同じ絵からの写真とは信じられないくらいです。しかもどちらから鑑賞しても遠近法に破綻がありません。複数の鑑賞者の位置を想定して構想を練って描いた応挙ならではの作品です。図4-1 大乗寺客殿「山水図」(部分) 図4-2 大乗寺客殿「山水図」(部分) 上段の間から見る 下段の間から見る この山水図の付書院の床の間の上の絵(図5)を見てみましょう。水辺に小さな崖があり、その上に家が建ち、松が水面の上に伸びているという景色に見えます。この絵の下は艶のある板間になっており、崖や松が水面に映っているような効果が見てとれます。板間を水面と見たて、絵の一部として利用しているのです。応挙はこの襖絵を描くにあたって大乗寺を訪れていないとのことなので、部屋の構造・間取りなどの情報を弟子たちから得て、アトリエでこの構図を練り、絵を描いたのだと思います。これも応挙ならではの構想力といえるでしょう。図5 大乗寺客殿「山水図」(部分) 床の間に絵が映っている(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/02
コメント(2)
【2021年8月1日(日)】 昨日は、30日の会のお役目月イチの集まりの文書作成で終日費やし、今日は、その最終化でした。それ以外に、車の1年目の定期点検でディーラーを往復しました。オリンピックの熱戦とともに、暑い日が続きます。 「若冲と応挙」の第28回目、「黄金期へ」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-4 黄金期へ(続き) さて、そろそろ「黄金期」のお話しに入っていきましょう。「黄金期」は三井家の庇護を受けた時期でもあると書きました。三井家のことについて触れておきます。 三井家の初代三井高利(1622~94)は、三重・松坂(現松阪市)で生まれました。高利は延宝元年(1673)、江戸に呉服店・越後屋を開き、京都に西陣織などを仕入れる仕入れ店を置き、そこを商いの本拠とし、やがて高利も京都に移り住みました。高利は「現金正価販売」「薄利多売」という当時としては画期的な商法で越後屋を発展させるとともに、両替商も営み、一代で三井家の業容を大きく発展させました。代々の三井家の人々は、江戸時代の間は、多くの分家も含め、ほとんどが京都に住まいました。現在の三井グループは東京が本拠となっていますが、江戸時代は京都が本拠だったのです。この11月3日、超豪華ホテル「ホテルザ三井京都」が二条城前に開業しましたが、その地は、もと三井の総領家(本家)があった場所なのです。 図1「郭子儀祝賀図」一幅 三井記念美術館 財力をつけた三井家は、18世紀になると、茶道具など美術工芸品の収集を盛んに行い、芸術に対する関心を高めていきました。しかし新興商人であった三井家の芸術に対するアプローチはかつての商人たちのようにはいきません。古いタイプの商人は、伝統に基づいた貴族的な美を追求しました。以前の回で書いたように、江戸時代前期に活躍した尾形光琳の絵は商人たちに人気がありましたが、宮廷生活など伝統的な約束事の知識をもっていないと、真に観賞できないものでした。京都の伝統という基盤を持たない新興商人の三井家にとっては、近寄りがたいものでした。しかし、応挙の写実的な絵は、前提知識を必要とせず、平明で分かりやすく、かつ美しく心に訴えるものだったため、三井家は応挙の絵を所望するようになります。こうして応挙40歳、安永元年(1772)頃、応挙と三井家の関係が始まりました。東京日本橋の三井記念美術館に応挙の作品が多く所蔵されているのはこのような経緯によるものです。 特に応挙と親しかったのが、三井家四代の三井高美(たかはる)です。図1は高美が実弟の高彌の還暦祝いに送った「郭子儀(かくしぎ)祝賀図」です。郭子儀は唐の人で、多くの武功に輝く名将で、子宝に恵まれ、長寿を誇ったといわれ、吉祥画題としてよく採り上げられます。この絵では郭子儀は高彌の肖像画で描かれています。高美の一周忌に応挙は図2の「水仙図」を供えています。図2「水仙図」一幅 三井記念美術館蔵 黄金期の応挙は多くの傑作を遺しており、前回の「雲龍図屏風」は黄金期初期のものです。もう一つ黄金期の傑作を紹介します。図3「藤花(ふじばな)図屏風」です。純金地にフジのみを描いています。フジは他の植物や物体に絡まって育つ植物ですが、あえてフジのみをピックアップし、複雑に絡み合う樹形に興味を集中させています。幹や蔓(ツル)は、輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で、付立(つけたて)(2種類の濃淡がある墨や絵具を大きめの筆含ませ一気に描き上げる技法)の画技をもって、刷毛で一気に描かれています。それに対して、花や葉は没骨法ではあるものの極めて精緻に描かれています。応挙の大画面作品のなかでも、極めて装飾性が高い作品で、以前の回で述べた写生理論、「気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」=「生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加える。」を実践した作品といえるのではないでしょうか。図3「藤花図屏風」六曲一双の右隻 根津美術館蔵(下の図は部分拡大) 若冲のところで述べたように、「平安人物志」には応挙も常連として登場します。繰り返しになりますが、「平安人物志」は、江戸時代中期から後期にかけて刊行された京都の市井の各方面の文化人を人気番付のようなかたちで紹介した書物です。円満院時代の初期、明和5年(1768)版の画家部門で、応挙は大西酔月に続き2番目にランキングされています。このとき若冲3位です。さらに黄金期の安永4年(1775)版では、応挙は1位にランキングされ、若冲は2位です。後の時代の天明2年(1782)版でも応挙1位、若冲2位です。特筆すべきは、明和5年版にはランキングに応挙の弟子の嶋田内蔵助(島田元直)が既に入っており、安永4年版には、円山派から派生した四条派の祖である松村文蔵(呉春)、応挙の弟子である駒井幸之助(源琦)らがさらに加わっていることです。天明2年版(1782)にはやはり応挙の弟子である山本主水(山本守礼)、長沢蘆雪も加わっています。若冲がランキングで孤軍奮闘していたのに対して、応挙の門人たちは、応挙が画風を確立し始めた頃に既に活躍を始めていたということです。 次回は円熟期へと入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/01
コメント(0)
【2021年7月30日(金)】 今日は午後から会のお役目の月イチの集まりでしたが、その前にK病院に寄りました。 後腹膜悪性腫瘍治療後の経過観察CT撮影で、肺に小さな結節が発見されたため(こちら)、少し時間をおいてCT検査をするためです。 ネットで調べて、多くは良性の場合が多いとのことでしたが、やはり心配でした。朝9時頃CT撮影(今回は胸部だけ)して、呼吸器科での診察は10時半頃でした。 最初に「体調の変化はありませんか?」と聞かれたので、一瞬ドキッとしましたが、「5月のCT画像にあった肺の丸い4ミリ大の影は、今回の画像では消えかかっています。がんの心配はありません。何かを吸い込んで一時的に炎症を起こしたのではないでしょうか?これ以上呼吸器科として経過観察する必要はありませんから、あとは今やっている泌尿器科の半年に一度の経過観察を続けていただいたら結構です。」とのこと。 あまり心配していなかったとはいえ、ほっとしました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/30
コメント(2)
【2021年7月29日(木)】 明日の会に必要なものは昨日作成し終わって送り済みなので、今日は少し気持ちに余裕をもって、PCに向かって会のことを進めることができました。今日も朝の涼しいうちに散歩しました。 「若冲と応挙」#27です。応挙の円満院時代の次は黄金期と呼ばれる時期ですが、黄金期のお話しに入る前に、応挙の絵画理論を続けます。 ◆第3章 円山応挙(続き)3-4 黄金期へ ここしばらく円満院祐常をパトロンとした34歳から41歳までの、所謂「円満院時代」の応挙について述べてきました。この時代は、写生法を極め、絵画理論を追求した画風確立期であったともいえるでしょう。円満院祐常の「萬誌」中の「秘聞録」に書かれた写生に関する応挙理論も紹介しました。 もちろん「秘聞録」には、写生だけでなく、正式な作品を描く場合の理論も記述されています。それが、円満院時代の後に続く時代の大作の数々に繋がっていきます。円満院祐常は安永2年(1773)、51歳のときに亡くなります。応挙は41歳でした。その少し前から、応挙は現在の三井グループに繋がる三井家の庇護を受けるようになり、祐常亡き後は、三井家をパトロンとして活躍し、多くの傑作を残しました。この安永2年から安永5年(応挙41歳~44歳)に至る時代は「黄金期」と呼んでもいいでしょう。。 ここで祐常の「秘聞録」に書かれた絵画理論の続きを述べておきます。応挙は立体のとらえ方について、石の描き方を例に次のように説いています。「石見二三面一事、上一面、左右二面、合三面」。=「石は三面を見せること。上面と左右、全部で三面である。」円満院時代の作品ではありますが、その理論を実践したのが、図1の「雪中山水図屏風」です。中央の岩は、上面、左面、右面の三面を見せています。図1「雪中山水図屏風」二曲一双 相国寺蔵(右は中央部分拡大) 「三遠の法」も説きました。「三遠之法、平遠深遠高遠此三、人物花鳥山水万物三遠ヲ可レ意、々不レ掛ハ図不二出来一云々、クルシンデ学ブベシ・・・」=「三遠の法とは、平遠・深遠・高遠の三つである。人物も花鳥も山水など何においても、それを意識しなかれば出来の良い絵は描けない。」 高遠とは仰視、平遠とは水平視、深遠とは俯瞰視のことです。その理論は先ほどの図1「雪中山水図屏風」に見ることもできますが、もっと端的に表れているのが、これも円満院時代の作ですが、図2「湖山烟靄(あい)図」です。川や草庵を俯瞰し、川の上流の岸を水平視し、遠くの山を仰視しています。図2 「湖山烟靄(あい)図」一幅 個人蔵 応挙の絵の卓越したところは、掛け軸にしても、襖にしても、屏風にしても、それがどのように置かれ、観察者がどの位置で見るかを熟考して描かれているところです。襖絵なら、その襖が部屋のどの場所に入れられるのか、主人や客人がどこに座るのかを熟考して、その状態で観賞してベストな絵を描こうとしているし、屏風であれば、平面の状態でなく、折れ曲がった状態で置かれたとき、どう見えるかに思いを馳せて描いているのです。 図3「大瀑布図」一幅(重文) 相国寺蔵 図3「大瀑布図」は、円満院祐常が、同院の庭園に滝がないのを惜しんで描かせたものだと伝わります。滝の上部は仰視、中央は水平視で描かれています。俯瞰視はどうでしょう。この絵は縦3.6メートルもあり、円満院の書院に掛けると畳面でL字型に折れ曲がり、下部は水平に置かれることになります。滝壺や川の流れの俯瞰視は、それを念頭に置いて描かれているのです。バーチャル3次元絵画ではなく、リアル3次元絵画と呼びたいところです。 もう二つ「秘聞録」からの絵画理論を挙げておきます。一つは「遠見の絵」「近見の絵」です。「春台話円山談云画可有其意得或懸物屏風間之絵等其間ヲ置テ見テ宜様二可画近クヨリテハ筆ハナレアリ草木惣而何モツヽカザル所モアレトモ遠見如真ミユル様可心得近ク見之画者細密一毫之所モ真ニセマル様細筆彩色モ可有其意得是其大意也云々甚深妙之理也云々」=「春台という人物が、円山応挙が次のように語ったと言った。掛軸・屏風・襖絵などは、距離を置いて観たときに、よく見えるように描かなければならない。近くで見たときに、筆が連続していなくて、草木が続いてないところがあってもかまわない。遠見で真の如く見えるように描くこと。逆に近見の絵は、細かな部分も真に迫るように、筆遣いや色彩を意識しなければならない。」遠くから見る絵と、近くで見る絵で、意識すべき点が異なるというわけです。「遠見の絵」の例は、後の回で紹介するとして、ここでは「近見の絵」として、図4の「華洛四季遊戯図巻」を紹介します。二巻の巻物に京都の四季景物を描いたもので、老若男女あらゆる階層の人々の営みを描いたものです。巻物は近くで見るものなので、細密に描いています。しかも遠近法はあえて使っていません。近くで見る場合は、遠近法に無理矢理こだわる必要もないし、遠近法を使うと、遠景の人物は小さくなり、描き切れなくなってしまうためです。臨機応変な応挙です。図4「華洛四季遊戯図巻」二巻の内上巻部分 徳川美術館 もう一つの理論は、写生のところで紹介すべきだったかもしれませんが、次の文言です。「・・・難不レ見生ハ可レ依二画本一、不レ見物モ生物数品写内自然ト図モ可二出来一・・・」=「実物を見るのが難しい場合は、画本を写しなさい。存在しないものは、他の生物をいくつか写すと、自然と描けるようになる。」 空想上の動物は見ることができないが、画本を参考にしたり、色んな生物を写したりするうちに自然と描けるようになるという訳です。その理論が結実したのが、図5の「雲龍図屏風」ではないでしょうか。龍は空想上の生き物です。中国のある古い書物には、龍の姿は「頭は駱駝、角は鹿、目は鬼、耳は牛、項(うなじ)は蛇、腹は蜃(みずち)、鱗は鯛、爪は鷹、掌は虎に似る」と書かれています。この絵の龍は、様々な生物、様々な中国画を写生した応挙ならでは龍といえるでしょう。また、図5は平面に拡げた図ですが、屏風は折り曲げられた状態で観賞するものです。応挙は屏風が折り曲げられたときの凹凸に配慮しながら、前後の方向性まで加えており、三次元空間で躍動する龍の圧倒的な立体感が表現されています。さらに、「たらし込み」や「滲み(にじみ)」、「暈し(ぼかし)」など、多彩な画技を駆使して、渦巻く雲や、しぶきをあげる波を表現しています。このような迫真性に富む大気表現はそれまでにはなかったものです。龍の絵は古今を問わず、多くの絵師、画家が描いてきましたが、その中の最高傑作の一つであるのは疑いの余地がありません。図5「雲龍図屏風」(重文)六曲一双の左隻 個人蔵(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/29
コメント(0)
【2021年7月28日(水)】 オリンピックの熱戦が続きますが、暑い天気も続きます。そしてコロナ感染者数も、うなぎ上りで心配です。歩き不足になっているので、朝の涼しいうちに散歩しました。あとは、30日の会に向けて、一日PCに向かっていました。 「若冲と応挙」#26です。写生の技術を極めた円満院時代のお話が続きます。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) さらに「秘聞録」には次のような意も書かれています。「・・・動物難レ写人物鳥獣等、宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ・・・」。「動物は写すの難しいので、人物鳥獣等はよくできた細工の人形を画本に用いるとよい。」という意味です。尾張屋に奉公し、身の回りに人形がたくさんあった応挙だからこその理論かも知れません。図1の「人物描写図法」は応挙原図に基づく版本で、裸体に着衣を重ねた人物図や相書(人物画)から抜書きした顔や手足の部分図が描かれています。その中の「眉目図」は人物の写生だけでなく、人形や絵図など人工的なものからの写生も有効であることを示した一例です。図1 「人物描写図法」の内 京都国立博物館 左:眉目図、中:貴女二十余図(貴人二十代女性 右:貴徧中年図(貴人中年男性) 図2の「大石良雄図」は、人形浄瑠璃や歌舞伎で人気を博した忠臣蔵物に取材したと思われる作品です。薄物の着物の下にはうっすらと身体の輪郭線が見え、実在の人間が感じられますが、女性の顔や手足はまるで人形のようです。応挙の人物画はに、このように本物の人間の現実感と作りものの人形の美をミックスしたようなものが多くあります。応挙がそのような人物画を目指したのかもしれませんが、「人形を手本に」という絵画理論の結果かもしれません。図2 「大石良雄図」 武井報效会百耕資料館 (右は部分拡大。足が透けて見える) 図3「遊虎図襖」重文 金刀比羅宮(表書院虎の間) 図3の「遊虎図襖」も、張子の虎をそのまま描いたように見えます。 そして「秘聞録」には「猿ハ多人ニテ書不レ宜、犬ニテ可レ書、左ナケレハ耳サカリ首近過云々」「鹿ハ馬ニテ画故不レ宜、羊ニテ可レ画云々」と記されています。「従来、猿の頭部は人に、鹿の体躯は馬に似せて描いていたが、それは間違いである。むしろ猿は犬、鹿は羊(ここでは山羊)を念頭に置いて描きなさい。」という意味です。応挙は、描こうとするものの表面的な類似や先入観に惑わされることなく、構造的に把握しなさいと説いているわけです。その現われが、 図4の「虎皮写生図」です。、実際に生きている状態を目にすることができない虎を、毛皮の状態で写生し、寸法まで測定し書き入れています。理論的な応挙の片鱗が表れています。さきほどの張子の虎とは、また違ったアプローチです。図4「虎皮写生図」本間美術館(右は部分拡大。寸法が書き入れられている。) 写生に真摯にかつ理論的に向き合ったことが結実した作品の一つが、図5の「牡丹孔雀図」です。装飾性と写実性とが見事に融合した、円満院時代を代表する傑作です。応挙の弟子の一人長沢蘆雪がほぼ同じ図様の孔雀を描くなど、円山派画家たちの手本となった作品でもあります。この作品は明和8年(1771)に描かれています。若冲の「動植綵絵」が相国寺の閣懴法に毎年掛かるようになって、衆人が目にするようになったのは、明和6年(1769)ですから、応挙もきっと目にしたでしょう。「細密さでは俺も負けないぞ」というライバル意識むき出しで応挙は描いたのではないかと筆者は勝手に想像しています。図5「牡丹孔雀図」重文・相国寺蔵(右は部分拡大) 番外.「皇室の名宝展」 ちょっとここで横道にそれます。2020年10月25日)に京都国立博物館「皇室の名宝」を観に行ってきました。東京の「宮内庁三の丸尚蔵館」所蔵のかつては皇室が所持していた名品を中心とした美術展です。「三の丸尚蔵館」といえば、すでにご紹介した伊藤若冲の「動植綵絵」を所蔵しているところです。今回の展示にも「動植綵絵」が下記8幅来ています。・前期(10/10~10/31):「雪中鴛鴦図」「群鶏図」「薔薇小禽図」「老松白鳳図」・後期(11/3~11/23):「大鶏雌雄図」「南天雄鶏図」「牡丹小禽図」「菊花流水図」後期には若冲の「旭日鳳凰図」も展示されます。本稿で現在とりあげている円山応挙については、次の作品が来ています。・前期:「牡丹孔雀図」「群獣図屏風」 (「牡丹孔雀図」は図11と同図様の作品ですが、少し後代の作品です。)・後期:「源氏四季図屏風」その他、近世の画家では下記作品が観覧できます。・前期・後期共通:岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」、尾形光琳「西行物語絵巻」・前期:伝狩野永徳「四季草花図屏風」、海北友松「浜松図屏風」、狩野探幽「源氏物語図屏風」、狩野常信「糸桜図簾屏風」、渡辺始興「四季図屏風」・後期:伝狩野永徳「源氏物語図屏風」、海北友松「網干図屏風」、狩野探幽「井出玉川・大井川図屏風」、住吉廣行「四季絵屏風(俊成卿九十賀屏風)」 その他、中国画、巻物、書、掛軸など見応え満載です。 コロナ禍で予約制になっており、普通なら押し合い圧し合いでなといと観れない「動植綵絵」も、かぶりつきで、ゆっくりと観ることができました。 次回は、応挙の絵画理論を続けたうえで、三井家の庇護を受けた黄金期に入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/28
コメント(0)
【2021年7月27日(火)】 体調は完全に快復したようです。昨日は月イチの事務所の集まりでした。 月間サイクルで今一番忙しい時期。今日はやはり月イチの集まりが京都市内であり予定でしたが、キャンセルになり助かりました。この頃歩いてないので、ご近所ウォーキングをしましたが、それ以外は、日ながパソコンに向かっていました。体が快復したので、エアコン無しでもいけましたが、無理してはいけないと思い、暑さのピーク時にはONしました。 「若冲と応挙」の続きです。円満院時代のお話がまだ続きます。応挙の代名詞でもある「写生」の技術がこの時代に極められていったので、応挙を語ろうとすると、どうしても円満院時代部分のボリュームが大きくなってしまいます。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) 写生のお話しの続きから入ります。 図1 「写生雑録帖 野駒・黄鶲・尉鶲図」 個人蔵 赤の四角は筆者付加。右は部分拡大 図1に「写生雑録帖 野駒・黄鶲・尉鶲図」(のごま・きびたき・じょうびたきず)を示します。「此図肩高也」と肩の高さの訂正が必要であることなどが記されています。 図2は「写生雑録帖 虎杖・蕨図」(いたどりわらびず)ですが、それとよく似た図3「写生図巻 虎杖・蕨図」が存在します。「写生雑録帖」は墨のみで速写された一次写生図で、絵の対象が重なりあったりして未整理の状態です。応挙が持ち歩いて、写生をしたものでしょう。それに対して「写生図巻」は、対象はほぼ同じながら、整然と配置され、着色で浄書された二次写生図です。この「写生図巻」には「曽祖父応挙真蹟円山応立識蔵」「明治壬申三月」の墨書があり、円山派4代目の円山応立が明治時代に所持していたことが分かります。このように、応挙の写生は応挙本人の絵画制作に活用されただけではなく、応挙一門に引き継がれ、彼らの絵画制作の糧とされました。図2「写生雑録帖 虎杖・蕨図」個人蔵 図3「写生図巻甲巻 虎杖・蕨図」千總蔵 以前の回で応挙のことを記述した資料として奥文鳴の「仙斎円山先生伝」と、岡村鳳水の「円山応挙伝」をあげましたが、もう一つ有力な資料があります。円満院祐常は記録魔であり、応挙と知り合う前の宝暦11年(1761)から亡くなる安永2年(1773)まで、「萬誌(ばんし)」という日記のような書物を残しました。その中の「秘聞録」には、食料、医療、園芸など多岐にわたる聞き書きが記されると同時に、応挙から絵の指導を受けた際に、応挙から聞き取った画材の知識や絵画技法、絵画制作上の理念が記されています。図4に「萬誌」「秘聞録」(部分)を示します。図4 円満院祐常「萬誌 秘聞録」 そこには応挙の言葉として、「画学物ニ目ヲ付ル意ナクハ不レ成レ画・・・真ヲトクト覚ヘ人物鳥獣其真ヲ写、気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」と書かれています。対象を注意深く観察して写生し、生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加えることが大切だと説いています。正確に写すのが第一義ではなく、生命感を写し、対象の原理を学び、作者の意図を加えることが大切だというのです。写生に関してのシステマティックな絵画理論といえるでしょう。 また「図出来ルホドナラハ生物ニテ可二写学一、依レ之予亦日記ノ小冊ヲ以日々図二得之一、山川草木禽獣虫魚人物、何二てモ見レ生可二図写置一・・・」とも書かれています。「絵を描かけるならば、まず生物を写生することを学んで、その後、日記のような小冊子を得て、景色や動植物・人物何であっても実物を見てを写生を残しなさい。」というような意味が書かれているのでしょう。それを実践したのが、さきほどの「写生雑録帖」なのです。 より具体的な写生の理論として次のような言葉もあります。「人物ヲ画ニ先骨法(人体の骨組)ヲ定、次ニ衣装ヲ付ヘシ・・・初心ニハ先裸躰ニ老幼男女画レ之、是ニ衣装ヲ付ヘシ、図出来ハ如レ此スレハ如何様ニモ図出来る云々」。人物を描くにときは、まず人体を描き、その上から着衣を重ねる「裸形着衣法」と呼ばれる技法が良いと説いています。それを実践したのが、図5の「琵琶湖宇治川写生図巻」です。人物の着衣に透けて裸形が見えており、着衣は赤色で描かれていることが分かります。図5 「琵琶湖宇治写生図巻」一巻の内 京都国立博物館蔵 赤の四角は筆者付加。 右の絵は赤の四角の拡大図 しかし人物の裸形は頻繁に写生できるものではありません。そこで応挙は人物の裸体画手本図を制作しています。図6に「人物正写惣本」を示します。第一・二巻には色んな年代の男女のほぼ等身大の全身裸像が描かれています。その余白には貴賤・男女・年代によって異なる肌や毛の色を描き分けるように細かな彩色の指示が書かれています。第三巻に は身体の部分図が写されています。「秘聞録」には、「・・・人物手足鏡ニウツシ、我手足ヲモ可レ写レ以レ鏡、写以ニ遠眼鏡一可レ写レ之云々」とあり、鏡に自分の手足を写して写生したり、遠眼鏡で身体の部分を見て写生したりすることを説いています。図6はその実践といえるでしょう。図6の大きな方の円の中の手足は、ひょっとすると応挙自身のものかもしれません。図6 「人物正写本」の内 天理大学付属天理図書館 上:第一巻、第ニ巻(文字は筆者付加) 下:第三巻補図(手、足、口) さらに「秘聞録」には次のような意も書かれています。「・・・動物難レ写人物鳥獣等、宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ・・・」。「動物は写すの難しいので、人物鳥獣等はよくできた細工の人形を画本に用いるとよい。」という意味です。尾張屋に奉公し、身の回りに人形がたくさんあった応挙だからこその理論かも知れません。図7の「人物描写図法」は応挙原図に基づく版本で、裸体に着衣を重ねた人物図や相書(人物画)から抜書きした顔や手足の部分図が描かれています。その中の「眉目図」は人物の写生だけでなく、人形や絵図など人工的なものからの写生も有効であることを示した一例です。図7「人物描写図法」の内 京都国立博物館 左:眉目図、中:貴女二十余図(貴人二十代女性 右:貴徧中年図(貴人中年男性)(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/27
コメント(0)
【2021年7月24日(土)】 「京の夏の旅」六道珍皇寺3日目でした。快復はしましたが、ここしばらく軽い熱中症と思われる症状に悩まされましたので、熱中症対策に万全を尽くして臨みました。19日からは定期観光バスも始まり、4連休の一日ということもあり、多くの皆様に訪問いただきました。 六道珍皇寺の案内の続きです。 「京の夏の旅」の期間中、拝観料を払っていただかなくても、本堂の前の境内は自由に参拝いただけ、薬師堂の旧御本尊・薬師如来座像(重要文化財)や、閻魔堂(篁堂)(えんまどう:たかむらどう)の閻魔大王像と小野篁(おののたかむら)像も参拝いただけます。小野篁像の脇には「冥官」(めいかん・みょうかん)、「獄卒」の像が安置されています。「迎え鐘」も撞いていただくことができます。 本堂入り口で受付をしていただくと、本堂・書院・庭園を巡って、小野篁卿「冥土通いの井戸」や寺宝の数々をご覧いただけますす。ご朱印の授与を受けることもできます。直書きのご朱印もありますし、お書き置きのご朱印もあります。色んなご朱印があり、「どれにしようか」と悩まれるお客様も多くいらっしゃいます。 本堂にはご本尊の「薬師如来坐像」がお祀りされています。このお像は、昭和53年(1976年)に、著名な京仏師・中西祥雲(なかにししょうん)氏によって彫られたものです。向かって右には日光(じっこう/にっこう)菩薩、左には月光(がっこう)菩薩が安置され、薬師三尊のかたちになっています。檜の寄木造です。当初の「薬師如来」は、重要文化財となり、先に紹介した境内の「薬師堂」に安置されており、そちらも参拝いただくことができます。 この本堂は、江戸時代の再建で、正面の欄間には天女が彫られており、左右の欄間には、欄間仏として「地蔵菩薩」が「地蔵来迎」の形で並んでいます。このような形式をお寺の本道であまり見かけることはなく、珍しい形式といえるでしょう。 その小さな地蔵菩薩像は、6体一組になっています。六地蔵です。仏教で、六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを、6体の地蔵菩薩(ぼさつ)が救ってくださるという教えがあります。「六地蔵」です。地獄道の檀陀(だんだ)、餓鬼道の宝珠(ほうじゅ)、畜生道の宝印、修羅道の持地(じじ)、人間道の除蓋障(じょがいしょう)、天道の日光の各地蔵菩薩としますが、異説もあるそうです。仁和寺の観音堂の案内のときに、六道それぞれ担当の六観音がいらっしゃるという教えを知りました。それとよく似た考え方なのでしょう。 本堂では、「京の夏の旅」特別拝観期間中、以下のような寺宝をご覧いただけます。・中世の「六道まいり」の様子を表した「珍皇寺参詣曼荼羅図」(京都府指定文化財・ 安土桃山時代)・「風の画家」として知られる中島潔画伯の「地獄心音図 (じごくこころねず)」(2015年)・熊野比丘尼(びくに)と呼ばれる職種の女性宗教者たちが鎌倉時代末頃から江戸時代にかけて、 全国を絵解きをしながら仏教の教えを広める際に使われた地獄絵 「熊野(くまの)勧進(かんしん)十界図(じっかいず)」・岩手県常安寺(曹洞宗の寺院)所蔵の佐々木藍田(ささきらんでん)筆 「大地獄絵図」(複製・江戸時代後期)・「祇園八坂神社垂迹曼荼羅図」(江戸時代前期)・「小野篁像」(掛軸)これらの寺宝は写真撮影禁止ですので、写真を使っての解説ができないのが残念です。本堂のあとは書院に進んでいただきます。(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/24
コメント(2)
【2021年7月23日(金・祝)】 ここしばらく体調不良でした。13日のゴルフ練習のあと、37.5度の熱が出て、すぐ平熱に戻ったものの、その後も体調がすぐれず、この4日間ほど風邪の症状がないのに、37度前後の体温が続きました。3日前、掛かり付けの医者にいったとき、「症状からコロナではありません。37度は熱があるとはいえません。軽い熱中症でしょう。」と言われました。25日のゴルフラウンドもキャンセルし、三味線レッスンも欠席して静養しましたが、なかなか平熱には戻りませんでした。2回目の「がん」になったとき、微熱が続いたので、「がん」再発も心配しました。 ところが、昨晩、寝ているとき汗をかき、今朝体温が平熱に戻るとともに、しんどさもなくなって、ケロッと体調回復しました。やはり軽い熱中症だったのでしょうか?忙しくて体力が落ちているところに、暑さがやってきて、暑さに慣れていないうちに、暑い場所に長時間いたり、急な運動をしたりして、身体の体温調整機能がおかしくなって熱がこもったのでしょうか。もう若くないのだから、無理をせず、かつ水分補給怠らないようにしなければなりません。とりあえず平熱に戻ってほっとしました。 「若冲と応挙」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) 応挙は裕常の様々な注文に応えていきます。祐常が最初に応挙に命じたのが「七難七福図巻」(重文)です。祐常は「仁王経」に説かれる七難と七福を、想像上の地獄極楽ではなく、この世の現実で絵画化して、人々を教化したいと考えていました。しかし、この要求に応えることができる絵師がなかなか見いだせず、ついに応挙に出会って、徹底した取材を通じて、3年間をかけて完成させたというものです。図1に「七難七福図」の一部を示します。上・中2巻では、武士や庶民の苦難を描き、下巻では宮廷の貴人の理想生活を描いています。下巻の船遊びの場面では、水中の魚と水面に映った児童を同時に描くなど、現実の視覚を取り入れている点が応挙ならではの表現と注目されます。図1 「七難七福図」(部分)重文・京都 相国寺蔵(右下の絵は、2段目右の絵中央部分の拡大) また、この絵を描くにあたって、応挙は日本の古典研究にも力を入れました。図2に「七難七福図巻」の下巻の部分と「信貴山縁起絵巻」(国宝)の「延喜加持(えんぎかじ)の巻」の部分を示します。応挙の古典研究の現われです。図2 左:「七難七福図巻」(重文)部分 右:「信貴山縁起絵巻」(国宝) 京都・相国寺蔵 「延喜加持の巻」(部分) 平安時代 朝護孫子寺蔵図3 左:応挙「写生帖」 右:渡辺始興「鳥類真写図巻」 東京国立博物館蔵 三井記念美術館蔵 応挙は「写生の画家」とも呼ばれます。写生に力を注いだのもこの円満院時代です。奥文鳴の「仙斎円山先生伝」によると、応挙は円満院祐常の命で「昆虫草木一百幀」を描いたといいます。若冲のところで述べたように、大典顕常は寿蔵碣銘に「数十羽の鶏を窓から見える庭で放し飼いにし、その姿かたちを観察しきったうえで、初めてそれを写し取った。それが数年に及んだ。」と刻みました。若冲も写生しているはずなのですが、スケッチや写生の類は皆無といっていいほど残っていません。そういったものは散逸あるいは焼失してしまったのかもしれませんし、写生を挟むのでなく、観察して直接作品にしたのかもしれません。それに対して、応挙の写生はたくさん残っています。 応挙が学んだ画家の一人が渡辺始興であると述べました。渡辺始興は応挙より50年早く生まれ、琳派に分類されている画家です。始興は摂政や関白を歴任した近衛家煕(いえひろ)に仕えました。家煕の娘・近衛尚子(新中和門院)は中御門天皇の女御となり、二人の間に生まれたのが桜町天皇です。蓮池院尼公が桜町天皇に仕えていたことは既に述べましたが、中御門天皇にも仕えました。応挙は蓮池院尼公の知遇を得ており、ここに応挙と始興の接点ができたものと考えられます。渡辺始興は近衛家熈の指導もあって写生画にも先鞭をつけ、写生図を残しています。この接点を通じて、始興の作品を知ることになった応挙は始興の写生画を写生しています。写生の写生です。図3と図4に始興の「鳥類真写図巻」と応挙の「写生帖」の一部を示します。ここで応挙は始興の絵を忠実に写しているわけですが、図4の鴨の絵では、始興の鴨は間延びして平面的になっているのに対し、応挙の絵は短縮法で描かれ背中の丸みがあって立体的に見えます。手本を超えてしまっているのです。図3 左:応挙「写生帖」鷹図部分 右:渡辺始興「鳥類真写図巻」鷹部分 東京国立博物館蔵 三井記念美術館蔵 白井華陽(しらいかよう)は「画乗要略」で、応挙は常に始興を「能手」だと賞賛したと書いています。応挙は、後の回で紹介するように、かわいい子犬の絵を多く残していますが、始興も「芭蕉竹に仔犬図屏風」で子犬を描いています。そして応挙の「芭蕉童子図」と始興の「芭蕉に仔犬図屏風」「芭蕉童子図屏風」の芭蕉は、表現方法が類似しています。さら始興は琳派の絵師たちが得意とした「たらし込み」を使っていますが、応挙もこの技法を効果的に使っています。このように渡辺始興は応挙が尊敬し大きな影響を受けた画家の一人といえます。 図5に「写生図巻」に描かれた兎を示します。様々な角度から見て描いているのが分かります。こうして描き溜めた写生図は、後の作品に素材としてそのまま使われたりもしました。図6の正面から見た兎の顔は、そのまま図7の「木賊(とくさ)兎図」に活かされています。ところでこの「木賊兎図」は京友禅の老舗「千總(ちそう)」所蔵です。こういうお宝を持っているのが京の老舗の驚くべきところです。図5「写生図巻 甲巻」 図6「木賊兎図」 千總蔵 静岡県立博物館蔵 図7に「昆虫・筍図 写生図巻」を示します。蛍や蜘蛛を色んな角度、色んな姿態で描いています。これも「千總」所蔵です。図7「昆虫・筍図 写生図巻(乙巻)」千總蔵 右は部分拡大 次回は写生の話を続け、その後、応挙の絵画理論へと入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/23
コメント(2)
【2021年7月22日(木・祝)】 今日はもともとから在宅のみの予定で、静養の為、散歩も出かけずです。 「若冲と応挙」の第23回、応挙の円満院時代と呼ばれる時期です。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代 前回で玩具商尾張屋への奉公がその後の応挙に大きな影響を与えたことを述べました。その一つが「眼鏡絵」を描くことで、西洋の遠近法や細密に描く画技を会得したこということでした。もう一つが円満院祐常の知遇を得たことです。この円満院祐常というパトロンを得て活躍した応挙34歳から41歳にかけての時期は「円満院時代」と呼ばれています。その円満院時代のお話しの前に、応挙が石田幽汀に学ぶ以外にどのように絵を学んでいったかについて述べます。 まず渡辺始興(しこう)の絵を学んだことがあげられますが、円満院時代との関わりが深いので、そのときに述べます。 渡辺始興以外では、沈南蘋(しんなんぴん)があげられます。江戸時代の絵画史のところで、沈南蘋が清から招かれて3年間日本に滞在し、江戸、大坂、京都の三都の画家に大きな衝撃と影響を与え、上方では応挙、蕪村、若冲らが、その影響を受けたと述べました。南蘋の花鳥画には、当時の日本絵画にはなかった独特の写実性があったためです。そのときにも示した南蘋の「枇杷寿帯」をもう一度図1に示します。応挙が南蘋の画法をどこで学んだかはよく分かっていませんが、明和7年(1770)、応挙38歳の頃に描かれた「青鸚哥図(あおいんこず)」(図2)の桐箱の底には、大徳寺孤蓬庵(こほうあん)にあった南蘋の絵を模写したものだと記されています。その他にも南蘋の影響を受けたと思われる作品が多くあります。 図1 沈南蘋「枇杷寿帯」 図2 「青鸚哥図」群馬県立近代美術館 三井記念美術館蔵 戸方庵井上コレクション 図3「花鳥図」 (二幅中の左福) 大英博物館蔵 清より前の宋~元時代の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)の絵にも学んだといわれています。応挙は若い頃ある人の依頼で銭舜挙の花鳥画を模写したところ、本物と見まがうほど精巧な絵を描いて、それがきっかけで彼の名が世に知れるようになったとも伝わります。その片鱗をうかがわせるのが図3の「花鳥図」です。なお応挙という雅号は、この銭舜挙が由来だといわれています。これについては後の回で述べます。 そして応挙は円満院時代へと繋がる1765年(明和2年)、33歳の頃、最初の大作といわれる「淀川両岸図巻」を描いています。図4にその一部を示します。原作は長さ17メートルにもぶ巻物で、京の伏見の舟着き場から大坂城辺りまでの淀川の両岸の景色を流れに沿って描いたものです。途中には雨の降っている場面もあり、大坂城付近では夜の帳(とばり)が下りる頃が表されています。四次元絵画ともいえる作品なのです。そしてよく見ると、巻頭から少し進んだところから、左岸の風景が上下反転しており、図4では左岸の淀城が逆立ちしているのがわかります。上下反転の絵は淀川を舟旅する人の視点で描いたためです。「眼鏡絵」は観察者をあたかもその場にいるような錯覚に陥らせます。この作品は細密な描写も含め「眼鏡絵」の経験が生み出した作品といえるでしょう。これぞ応挙という作品です。図4「淀川両岸図巻」(部分)アルカンシエール美術財団蔵(下は部分拡大) では「円満院時代」のお話しに入っていきましょう。応挙は宝暦13年(1763)31歳のときに、尾張屋に出入りしていた京都宝鏡寺の蓮池院尼公(れんちいんにこう)の知遇を得ます。宝鏡寺は皇女や王女が入寺した尼門跡寺院で、蓮池院尼公は入寺した皇女や王女のための人形など玩具の買い入れのために尾張屋に出入りしていたものと思われます。宝鏡寺には、そういった人形などが今も残されていて「人形の寺」とも呼ばれ、毎年春と秋には特別公開が行われています。 この蓮池院尼公は桜町天皇とその皇后・青綺門院(せいきもんいん)に仕えました。この青綺門院の弟が円満院祐常です。この姉弟の父は、関白を務めた二条吉忠で、祖父が二条綱平です。綱平も関白を務め、尾形光琳、乾山のパトロンでもありました。図5に、これらの人々の関係を示します(後に登場する渡辺始興との関係も含めています)。このような環境に育った祐常は12歳のときに得度して、門跡寺院(皇族・公家出身者が住職を務める寺院)である円満院に入寺しました。円満院は今も滋賀県大津市園城寺町に天台宗系の単立寺院として残っています。祐常は当時流行した本草学(薬用に重点をおいて、植物やその他の自然物を研究した、中国古来の学問)を学び、動植物の写生を行うことで、写実の重要性を身をもって知ることになります。そこに写実を得意とする応挙という画家が尾張屋にいるという情報が、蓮池院尼公、青綺門院のルートで祐常にもたらされたのでしょう。応挙は明和2年(1765)に10歳年上のこの祐常の知遇を得ることになり、祐常は安永2年(1773)に51歳で他界するまで10年近くパトロンとして応挙を支えました。この時代を「円満院時代」と呼んでいます。 図5 応挙と円満院祐常の関係 次回は円満院時代の続きです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/22
コメント(0)
【2021年7月21日(水)】 一昨日19日は、午後少しだけ事務所に出頭。ここ1週間、37度以下ですが、微熱が続いているので、昨日20日は月イチの高血圧・高尿酸の薬をもらうついでに、掛かり付け医に相談。「症状からコロナではありません。37度の熱なんか微熱にも入らない。軽い熱中症では?」とのことでした。7年前のちょうど今頃、風邪の症状がなく、微熱が続いた(そのときは37.5度前後)ことがあり、結局「がん」による熱だったので、ちょっと心配です。もう少し様子をみます。大事をとって三味線レッスンも休みました。「若冲と応挙」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-2 若年期の応挙 十代前半で京都に上ったた応挙ですが、明治期の日本画家久保田米僊(べいせん)によると、最初、四条新町の岩城という呉服店に奉公し、その後、四条富小路西入町の尾張屋勘兵衛という店に仕えます。この尾張屋は有名な店だったようで、延享2(1745)年刊行の京の案内書(今でいう観光ガイドブックのようなもの)「京羽二重大全(きょうはぶたえたいぜん)」に「びいどろ道具」の店として掲載されています。尾張屋は人形や玩具も扱っており、このことが応挙に色々な意味で大きな影響を与えることになります。尾張屋には30歳を過ぎる頃まで勤めたと考えられています。 応挙は尾張屋時代と呼ばれるこの時期に、石田幽汀(ゆうてい)という京の町絵師に絵を学んだといわれています。幽汀は狩野派の流れを汲む鶴沢派の画家です。応挙が本格的な絵を描き始めたのがいつかは明確ではありませんが、前述の資料には、応挙筆の「雪景山水図」があり、そこには寛延2(1749)年の年記があったこと書かれており、17歳の頃には本格的に絵を描くようになり、この頃、幽汀から絵を学んでいたと考えられています。ただ、画家になろうと思って幽汀に学んだとはいいきれないという見方もあります、玩具などを扱う尾張屋での仕事では、絵筆の使い方や絵の具や画材の知識が必要なので、必要に迫られて絵を学んだという見方です。 さきほど尾張屋で扱う商品が色々な意味で応挙に大きな影響を与えたと書きましたが、その1つが「眼鏡絵」です。尾張屋の看板商品である「びいどろ道具」の中に「のぞき眼鏡」がありました。これはヨーロッパ発祥の玩具で、レンズの付いた覗き穴を通して、箱の中に入った風景画を拡大して見るものです。風景に奥行きのある写真を片目だけで見つめていると、何となく立体感が出てきます。「のぞき眼鏡」では、視野全体にその風景が拡がることになり、さらに立体的に見えます。そして、あたかもその世界に入り込んだような感覚に陥ることになります。当時の日本の人々にとっては異次元の体験で、非常に人気が出たのもうなずけます。「のぞき眼鏡」の中に入れる絵を「眼鏡絵」と呼んでいました。 最初は舶来の外国の風景を描いた絵を見て楽しんでいましたが、当然の流れとして、日本の風景の絵が求められるようになります。舶来の絵には、遠近法が使われていました。今では当たり前の技法ですが、当時としてはほとんどの日本人が初めて目にする技法でした。日本の風景の「眼鏡絵」を描くためには、この遠近法をマスターしなければなりませんでした。それからレンズで拡大しても臨場感が損なわれないようにするため、写実的であること、細密であることが求められました。尾張屋はこの「のぞき眼鏡」と「眼鏡絵」を販売し、そこに勤めていた応挙は「眼鏡絵」を描くことになったわけです。この「眼鏡絵」制作に携わることで、応挙は合理的な遠近表現を獲得し、かつ臨場感を絵に持たせるすべを体得していったのではないかと考えられます。 図1に「のぞき眼鏡」と「眼鏡絵」を示します。図2に応挙筆と思われる(玩具の位置づけなので落款はない)「眼鏡絵」をいくつか示します。図3の従来の寺社の描き方と比べてみてください。いかに西洋の遠近法がそれまでの表現方法と比べて異次元のものであったかが分かります。図1 覗き眼鏡と眼鏡絵 図2 応挙筆 眼鏡絵 応挙筆「三十三間堂通し矢図」 上:賀茂競馬図 下:円山座敷 図3 「神社仏閣京都一覧」(『都名所手引案内』京都府立総合資料館蔵)(当時の普通の立体表現) 応挙が尾張屋時代に描いた絵をいくつか紹介します。応挙が「応挙」の雅号を名乗ったのは34歳以降で、それまでは別の雅号を使っていました。そして、この時代は水墨画作品が主になっています。図4に「魚籃(ぎょらん)観音図」を示します。現在、存在が知られている作品の中では20代前半と、最も早い時期に描かれた作品の1つです。魚籃観音は中世から水墨画に多く描かれてきた画題ですが、応挙のこの絵は、若年ながら根を詰めて描いたのでなく、さらりと描いたようにみえ、それがかえって応挙の天才ぶりを示しているようにも思います。ここには、「円一蕭(えんいっしょう)」という署名をしています。図4 「魚籃観音図」 京都国立博物館蔵 図5に同じく「円一蕭」の署名のあるやはり20代前半の作品「白鷹図」を示します。江戸時代の画家は中世の水墨画の流れを汲む狩野派の技術を学ぶことが多く、応挙も前述のように石田幽汀に学ぶなどしました。ただ、この絵では、鷹の画題は狩野派風ですが、中間調を加えて立体感を表わすなど狩野派にはない表現を試み、背後の空間を単なる余白にせずに滲ませて深みをつけるなど応挙独自のチャレンジ精神があふれています。図5 「白鷹図」京都・大雲院 図6に「円夏雲」の署名がある20代後半の作品「水草に鷺図」を示します。伝統的な狩野派の図様や水墨表現の持ち味を生かした作品ですが、筆づかいはとても自由で、遊び心もみてとれて、狩野派とは一味違った作品に仕上がっています。鷺の部分は、輪郭は書かず、周囲に薄い墨を塗る「外隈」(若冲の動植綵絵でも説明しました)の技法で白さを表現しています。賛は丹波国亀山家老 松平敏によります。応挙の出身の縁でしょうか。 図7にやはり「円夏雲」の署名のある20代後半の作品、「猛虎図」を示します。虎は応挙が後の時代にも好んで描いた画題の一つです。この虎は狩野派にもない非常な繊細さで描かれていますが、岩は逆に狩野派にもない大胆さで描かれています。図6 「水草に鷺図」 京都国立博物館蔵 図7 「猛虎図」個人蔵 この4作品を観るだけでも、応挙が若いときからいかに、画題、画風、画技が多才であったかが分かります。本稿に貼り付けた絵では分かりにくいと思いますので、美術書などでご覧ください。なお、応挙は若い時代「円一蕭」、「円夏雲」以外に、「円山主水(もんど)」という署名も用い、33歳の頃には「仙嶺(せんれい)」を短期間だけ用いました。 次回の円満院時代に続きます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/21
コメント(0)
【2021年7月18日(日)】 「京の夏の旅」六道珍皇寺2日目でした。16日~18日の「閻魔詣」の最終日でした。今日は「だるま商店」のご朱印直書きはありませんでしたが、特別なご朱印はありますので、昨日ほどはないにしても、多くお参りいただきました。 六道珍皇寺の山号は「大椿山」。臨済宗建仁寺派に属します。しかし、もとは真言宗の寺院です。今から約1200年前の平安時代初期に、弘法大師空海の師である、慶俊(きょうしゅん)僧都によって開かれました。南北朝時代に建仁寺の僧である良聡(りょうそう)禅師によって再興され、臨済宗に改宗されました。 六道珍皇寺の「六道」とは、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」の6つの世界のことです。人はこの世の罪業により、この6つの世界を輪廻するという仏教の教えから来ています。 お寺の門の前には「六道の辻」の石碑が建っています。それは、ここが六道への分岐点と信じられてきたからです。この世とあの世の境(接点)の辻ということです。この地はが平安京の東の葬送の地であった鳥辺野への道筋にあたり、「野辺の送り」がされたところです。すなわち「六道」に通じるところとして「六道の辻」と呼ばれるわけです。 そして霊を見送ると同時に、お盆のときには、霊を迎える場所でもありました。それで、毎年8月7日~10日には「六道まいり」が催され、「迎え鐘」が撞かれます。この期間には、約10万人の方が参拝されるといわれています。本堂迎え鐘よろしかったらぽちっといお願いします。にほんブログ村
2021/07/18
コメント(0)
【2021年7月17日(土)】 「京の夏の旅」六道珍皇寺の第1日でした。7月10日(土)から始まっていますが、私の初日ということです。コロナ禍下ですので、拝観者数は多くないと思っていたのですが、特別な催しがあって賑わいました。 7月16日は「閻魔さまの大斎日」で、16日~18日は「閻魔詣特別寺宝展」が開催されます。その中日の今日は、さらに特別で、お盆ゑんま朱印「三界唯心」とだるま商店直書「お盆閻魔姿絵朱印をいただけいます。これを目当てに来られるお客様がたくさんいらっしゃって、午前中は受付に列ができるほどでした。 「だるま商店」は、アートディレクターの島直也氏と、絵師の安西智氏からなる絵描きユニットで、京都では知られた存在です。CGも使った極彩色の絵が特徴で、京都の多くの寺社に襖絵や屏風を奉納されています。 この六道珍皇寺にも「篁卿六道遊行絵図屏風」が奉納されています。今日は、その「だるま商店」のお二人が来られてご朱印を書かれたわけです。今までこの屏風絵は他の展示絵画同様、写真撮影禁止だったのですが、「だるま商店」のお二人が「自由に撮っていただいて結構」ですと、おっしゃってくださって、今日から、写真撮影OKになりました。私も早速撮らせていただきました。 暑い一日でしたが、賑わいの中、楽しく過ごさせていただきました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/17
コメント(0)
【2021年7月16日(金)】 今日はもともとは今年初のゴルフラウンドの予定でしたが、3日前のゴルフ練習後、微熱が出て、すぐ平熱に戻ったものの、何か体が火照った感じや疲れもあって、大事をとってキャンセルしました。キャンセルは正解でした。行っていたら雨の中のゴルフになっていました。そして、やらねばならぬことがたくさんあって、行っていたらパニくっていたかもしれません。そして、今日ようやく体調が完全に回復したように思います。よかったです。 7月13日の読売新聞朝刊の京都版からです。 京都市の去年の宿泊者数が、一昨年に比べ激減したというニュース。そのなかに、修学旅行生の統計もありました。一昨年に比べて8割減とのこと。しかし、去年は修学旅行のガイドは皆無に近かったので、私は9割5分くらい減ったのではないかという感覚をもっていました。思いのほか来ていてということです。とうことは、公共の交通機関を避け、タクシーや観光バス利用に流れたものが結構あったということだと思います。コロナが収まっても、この傾向が残ることが危惧されます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/16
コメント(2)
【2021年7月15日(木)】・12日(月) 事務所午前中出頭。17日からの六道珍皇寺勤務に備え、午後下見に行こうと しましたが、雨が降ってきたので延期。・13日(火) 15日のラウンドに備え、今年2回目のゴルフ練習。 膝を柔らかくして打ってみたら、相変わらず飛距離は出ないものの安定しました。 帰ってから体が熱っぽいので計ってみたら、37.5度。ワクチンは2回打って、 1ヵ月経過しているので、コロナではないと思い様子見。・14日(水) 平熱に戻り事務所出頭。微熱は疲れているところへ、寝冷え?軽い熱中症? 昼から六道珍皇寺下見の予定だったが、終日事務所にいたので、またもや下見は 延期。平熱に戻ったが、疲れはあり、大事をとって15日のゴルフはキャンセル。 「京の夏の旅」は10日(土)に始まりました。私は六道珍皇寺担当で、今日ようやく下見に行くことができました。朝のミーティングから参加して準備の内容を確認し、お客様が来られた際には、仲間の案内も聞かせてもらいました。私の初日は明後日17日(土)です。準備します。境内のお地蔵様群 8月7日~10日の「六道まいり」では、水塔婆があげられます。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/15
コメント(0)
【2021年7月11日(日)】 昨日7月10日は、泉会のゴルフラウンドの予定でしたが、悪天候が予測され、事前キャンセルでフリー部になりました。約2ヵ月に一度の散髪屋に行き、他は会のこと在宅でしました。 両足院第7日でした。私の担当も最後ですが、今回の特別公開の最後の日でもありました。半夏生の花房も大きくなり、白くなった葉も緑色に戻りつつあります。最後に夕立が来ましたが、短時間だけで、帰る頃にはあがっていて、濡れずに済みました。全部で7日間の担当でしたが、楽しく過ごさせていただき、無事終えることができました。半夏生(はんげしょう) 花房が大きくなり、白い部分が緑色に戻りはじめています。 両足院の案内も最後です。 両足院の冠木門をくぐって左側に小堂があります。受付の手前で特別拝観でなくても、ご覧になれる場所です。毘沙門堂です。この小堂のご本尊が毘沙門天なので、毘沙門堂と呼ばれます。毘沙門堂 ご本尊の毘沙門天像は、もとは鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏でした。比叡山が織田信長に焼き打ちされた際、鞍馬の僧が、毘沙門天像の安全を危惧し、⽐喜多養清(室町将軍の茶家)のところへ、疎開させました。⽐喜多家は、筑前⿊⽥家京都御⽤達であったため、この毘沙門天像は黒田官兵衛(黒田孝高・よしたか、如水)の念持仏となり、子の黒田長政が関ヶ原の合戦で、この毘沙門天像を内兜に収めて戦い、勝利したといわれています。 明治10年(1877年)に黒田家から両足院に贈られ、この毘沙門堂にお祀りされています。勝利の神として、商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就にご利益があると信仰を集めています。 秘仏なので、お前立を備え、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ)を脇侍とした、毘沙門天三尊の形式でお祀りされています。 毘沙門天をお守りするのは、「狛犬」ならぬ「狛寅」です。お堂の前、両側に2体の寅の石像が置かれ、お堂正面には、寅が浮き彫りされた香炉が置かれています。何故、毘沙門天のお使いが虎かというのは諸説あります。鑑真和上の高弟・鑑禎上人が霊夢で白馬に導かれてれて鞍馬山に登り、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられたのが寅の月、寅の日、寅の刻であったというのが1つの説です。このようなことから毘沙門天は寅年生まれの人の守り本尊でもあります。 また、戦前は祇園の芸妓、舞妓がよくお参りする場所でもありました。「いい旦那様がみつかるように」ということで「祇園の縁結び」としても知られています。今でも偶然、舞妓さんに出会うこともあるうようです。 賓頭盧(びんずる)尊者も普通ならお堂の前に安置されているのですが、コロナ感染防止のため、今は残念ながら堂内に安置されています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/11
コメント(0)
【2021年7月10日(土)】 梅雨空が続きます。早く始まった梅雨なので、早く明けるかと思ったのですが、例年通りの梅雨明けになりそうです。そして雨がよく降った梅雨でもありました。しかも、各地に甚大な被害をもたらしました。昔の梅雨とは明らかに様相が異なってきているようです。これも地球温暖化の影響でしょうか。 7日は予定になかったですが事務所行き、8日も事務所行き。9日は午前中会の月イチの集まり。終わった後、仲間で昼食会+ちょい呑みでした。今年初の会食・リアルちょい呑みでした。ワクチン接種も終わったので参加しました。食事以外のときは、マスクを着けるなど気は付けました。このまま、こういうことが気がねなくできるようになっていって欲しいものです。 今日は、フリー日で、床屋に行ったり、会の雑務をしたりでした。 6月4日を最後に(こちら)、「若冲と応挙」の投稿が途絶えていました。久しぶりの投稿です。そして、応挙パートのスタートです。今日は「応挙生誕」です。◆第3章 円山応挙3-1 応挙生誕 前回で若冲の章を終え、今回からいよいよ円山応挙登場です。応挙も若冲同様京都で生まれ、京都で活躍した画家です。若冲が生きたのは1716年(正徳6)~ 1800年(寛政12)、応挙が生きたのは1733年(享保18)~1795年(寛政7)ですので、若冲と応挙は全く同時代の画家といえるでしょう。また、応挙の生きた期間は、若冲の生きた期間に完全に含まれています。すなわち応挙のほうが後に生まれて、先に亡くなったということです。とはいえ、応挙が亡くなったのは63歳ですので、当時としては、特に短命であったわけではありません。ちなみに若冲が亡くなったのは84歳ですので、応挙に比べると随分長命です。 応挙も京都生まれと書きましたが、若冲が今の京都市内の地の生まれであるのに対し、応挙はそうではありません。今の亀岡市の生まれです。享保18年(1733)5月1日、丹波国桑田郡穴太村(あのおむら)(現亀岡市曽我部町穴太)に父丸山藤左衛門の次男として生まれました。若冲が青物問屋の裕福な家に生まれたのに対し、応挙は貧しい農家に生まれました。ここが若冲と大きく異なるところで、若冲と応挙の画風の違いの大きな一要因になっています。ただ、母は篠山藩士上田氏の長女といわれており、藤左衛門の家はある程度の家格であったと思われます。穴太は西国三十三所第二十一番札所穴太寺(図1)でよく知られていますが、応挙が現にそこで生まれたというわけではないのでしょうが、穴太寺の近くには「円山応挙生誕地」の碑が建てられ、数年前発刊の美術書にもそう紹介されています(図2)。ところが、今回の研究で昨年(2019年)現地を訪れたところ、この碑が見当たらず、穴太寺の方に尋ねると、「最近どこか別の場所に移築されたようです。」とのことでした。どこにいってしまったのか、その謎は後日解けました。後の回に述べたいと思います。図1 穴太寺(撮影2011年11月) 図2「円山応挙生誕地」の碑 「もっと知りたい円山応挙」から (今はこの地にはない) さて、若冲の生い立ちが、大典顕常の書いた「藤景和画記」や「若冲居士寿蔵碣銘」を見ることで分かるように、応挙にもその類の資料が存在します。1つは応挙の弟子で応挙十哲にも数えられる奥文鳴によって書かれた「仙斎円山先生伝」であり、もう1つが、同じく応挙の弟子であった岡村鳳水が書いた「円山応挙伝」です。前述の生誕の状況もこれら資料から読み取れるものです。 応挙の家系図を図3に示します。若冲は生涯独身で子がなかったため、以前#7(こちら)で紹介した家系図にあるように直系の家系は若冲で途切れています。これに対して、応挙は結婚し、子供もいて、子供も画家となったため、画家の家系として続きます。この点も若冲と応挙で異なるところです。図3 丸山家家系図 前述の史料によると、応挙には兄藤兵衛と妹ヲ井ヨがいました。応挙の幼名は岩次郎(岩次良)といい、応挙は幼い頃から絵を描くのが好きで、農作業は好きではありませんでした。父母は近くの金剛寺(図4)に預けて僧侶となる修行をさせました。しかし、これも長続きせず、京都の街中の町家に奉公することになりました。応挙10代前半の頃ではないかと考えられています。図4 金剛寺(撮影2019年4月) 金剛寺の近くの小幡神社(図5)には、応挙筆の「神馬図」絵馬(図6)が奉納されています。なお、余談ですが、歴史学者として有名な上田正昭氏は、中学時代に小幡神社の社家の養子となり、大学時代からこの神社の宮司を務めていました。 図6 「神馬図」絵馬の写真図5 小幡神社(撮影2019年4月) 小幡神社内(撮影2019年4月) (黒い影は手前の防護ネット) 図7の地図に金剛寺、小幡神社、穴太寺の所在を示します。近くの方は、是非訪れてみてください。金剛寺には、後の回で述べるように応挙が襖絵を残しており、別名「応挙寺」とも呼ばれています。レプリカですが、その襖絵を常時観ることができます。ただし、事前に連絡が必要です(電話:0771-22-2871)。私が訪れたときは、ご住職がご不在で、奥様が懇切丁寧に案内してくださいました。そのとき裏話として、以前のデジタル複製画は1ショットで複製可能なサイズが小さかったので、襖絵を分割して複製する必要があり、昔作った複製画はよく見ると継ぎ目があるが、技術が進んで、最近作ったものは、襖1枚をそのまま、しかも昔に比べると安価で複製できたとおっしゃってました。金剛寺の収蔵庫には応挙直筆の「群仙図」が保管されており、毎年11月3 日に一般公開をしています。しかし、今年はコロナ禍で止むなく中止となったようです。(金剛寺ホームページ https://www.kongouji.net/ クリックしても開かない場合はこのアドレスを検索窓に貼り付けてください)。図7 亀岡市内の応挙ゆかりの地とランドマーク 応挙は京都へ出ます。続きます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/10
コメント(0)
【2021年7月5日(月)】 今日は、もともと何もない日でした。昨年の10月以来のゴルフラウンドが、この10日に予定されているので、久しぶりにアルバゴルフ練習場に練習に行きました。早朝は以前は、1球8円だったと記憶していますが、9円(税込9.9円)に値上がりしていました。 ドライバーもアイアンも全く不調で、100球を打って、すごすごと帰ってきました。本番は120越えを覚悟しておかなければなりません。こんな運動をしたのは久しぶりで、蒸し暑くもあって疲れました。 それでも少し元気は残っていて、雨が降っていなかったので、庭のアベリア、マンサク、グリーングーバルのトリミングをしました。ゴルフはすっきりしませんでしたが、お庭はすっきりしました。 コロナで活動を休止中ですが、一昨年後半、会の仲間で、コラボバンドを結成し、集まりで演奏したり、練習したりしています。そのとき、私の三味線の音程が微妙にずれていると言われることがありました。私は調弦は、調子笛を使っていて、三味線の合奏のときは、微妙なズレはあまり気になりません。むしろ音に厚みを与えるポジティブな側面があるようにも思います。ところが、他の洋楽器やヴォーカルとの合奏となると、微妙なズレが気になってくるようです。 以前から、マイクで音を拾って、周波数のズレを測定する調弦器があるのを知っていたので、それをいつもの「和楽器市場」のサイトで買い求めました。税込約3300円でした。 よく知られた「KORG」製です。三味線専用になっていますが、音を拾って、解析して、表示する部分は、例えばギター用なんかと同じだと思います。違うのは、「本調子」「二上り」など、三味線の色んな調弦に対応していることです。例えば、よく使う「二上り」」は、ドレミでいうと、一の糸が低いド、二の糸がソ、三の糸が高いドです。ある程度「二上り」で調弦できている状態で、「自動」に設定すると、一の糸を弾いたときは、自動で一の糸の周波数を基準に測定が行われ、針表示で高過ぎる、低すぎるが表示されます。それに基づいて、弦を張ったり、緩めたりして調節し、針が真ん中に来て、緑のランプが点灯すると、正確に調弦されたということになります。次に二の糸、三の糸と調弦していきますが、自動で周波数を検知して、二の糸のモード、三の糸のモードになるので、弦ごとにスイッチで切り替える必要はありません。調弦器を三味線の近くに置きます。マイクが音を拾います。KORG社製「三味線用」となっています。音のズレを針表示で示してくれます。この場合、やや低いので針が左に振れ、赤いランプが点灯しています。調弦が合うと、針が真ん中に来て、ランプが緑に点灯します。自動でどの弦か検知するので、弦ごとにスイッチで切り替える必要はありません。 これを使えばバンド仲間に迷惑をかけることもなくなります。正確な調弦されての演奏は自分でもいい音だな思います。恐らく、正確に調弦された音は耳にも心地よいし、弦も共鳴しやすいからだからかなと思います。 ちょっと高い買い物でしたが、買ってよかったと思います。三味線専用ですが、すべての音階に対応しているので、他の楽器にも使えて、バンド仲間にも喜んでもらえるかもと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/05
コメント(2)
【2021年7月4日(日)】6月25日に「京の夏の旅」六道珍皇子の見学をしました(こちら)。その後は、26日(日) 二人で三重へお墓参りと名古屋27日(日) 元々は修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセル。 30日の会の集まりに向けて準備。28日(月) 30日の会の集まりに向けての準備完了29日(火) 7/1、7/2の事務所年イチ作業に向け準備30日(水) 会の月イチ集まり7月1日(木) 事務所年イチの作業第一日と6/30集まり記録作成2日(金) 同第2日と6/30集まり記録完成と配信3日(土) 午後、車で京都へ会のガイド作業説明を受ける。 帰途になかなから行けなかった酒屋さんに寄って買い込む。 てな忙しい日々を経て、今日4日(日)を迎えました。両足院の第6日でした。 日曜日でしたが、平日と思いこんでバス乗り場に向かってしまいました。幸い平日も土日も同じバス時間だったので、事なきを得、遅れることはありませんでした。未だにこんなポカをやっています。 幸い雨は朝だけで、多くの拝観者でした。半夏生は花が大きくなりましたが、まだ見ごろです。蒸しさに閉口しました。 両足院の案内の続きです。 書院からは、半夏生の庭が一望できます。コロナの前は、拝観者数が多く、お庭をゆっくり見ることはなかなか難しかったのですが、コロナ禍下での開催で、拝観者数が少ないので、平日の午後はお庭の眺めを一人占めできることもあります。 半夏生の解説は、季節の話から入っていきます。 中国には二十四節気(にじゅうしせっき)という季節の区分がありました。太陰暦の一年を太陽の黄経に従って二四等分し、各区分点の日にその季節を表す呼称をつけたもので、例えば、「立春」「春分」「大寒」などがそうです。24等分するので、1節気は約15日となります。それをさらに三等分したのが七十二候です。1つの候は、約5日となるわけです。「気候」という言葉はこの「節気」の「気」と「候」に由来しています。 節気の1つが「夏至」で、その中の候の最後3つ目が「半夏生」です。ですから、半夏生は夏至から数えて11日目となります。7月2日頃にあたります。半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃なので、「半夏生」という呼称になりました。 同じ頃、この「ハンゲゲショウ」が半分化粧したように白くなるので、この植物も半夏生と呼ばれるようになったとのことです。ハンゲショウはドクダミ科の多年草で、薬用にもなります。遠くから見ると、白い花が咲いたように見えますが、この白いのは葉っぱです。花は、先のほうに房状に付いているものです。この花は葉が白くなり初めは小さくて目だたないのですが、次第に大きくなり、ピークを過ぎると花も目立つようになります。葉が白くなるのは、花が目立たないため、花が咲いたように見せかけて虫を誘って受粉をさせるためだと言われています。ですので、上の3枚、しかも片面しか白くなりません。それで「カタシログサ」とか「三白草(サンバクソウ)」とも呼ばれます。そして、驚くなかれ、花が終わると緑に戻るのです。受粉してしまうと、あとは葉緑素で光合成をする必要があるからでしょうか?不思議ですね。 半夏生は農家にとっては大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、この日から5日間は休みとする地方もあります。この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりもしました。関西では、半夏生の日にはタコを食べる風習があります。 「稲の根が、タコの足のように四方八方にしっかり根付きますように」とか「稲穂がタコの足(吸盤)のように豊かに実りますように」との願いが込められているようです。 七類堂天谿画伯筆のカワイイ観音様のお軸が方丈に掛かっています。ハンゲショウ観音ですが、「汎下生」と書きます。汎下生は、あまねく現世衆生を救済するために現れるという意味です。両足院の半夏生(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/04
コメント(0)
【2021年6月25日(金)】 6月21日の新選組ゆかりの地を巡る(こちら)以降、・22日 両足院を交替していただいて事務所用事・23日 会のお役目出頭の必要がなくなって在宅 月イチの近所の医者通院・24日 事務所とその後の集まり そして今日は、7月10日から始まる「京の夏の旅」の見学でした。去年の「夏の旅」はコロナ禍で中止になりましたが、今年は今のところ行われます。私は「六道珍皇寺」です。その事前見学があったので参加しました。ご住職のお話を拝聴した後、お堂の内外の案内をしていただきました。私の初日は7月17日です。始まった後、もう一度見学に行って備えたいと思います。六道珍皇寺(2016年8月9日の「六道まいり」のときのもの)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/25
コメント(0)
【2021年6月21日(月)】 会の研修で、「新選組ゆかりの地」を巡りました。 もともとは15日で計画され、その日であれば事務所出頭だったので、参加できなかったのですが、緊急事態宣言延長で、今日に延期になったので、参加することができました。 昨日、両足院に忘れ物をしたので、まずそれをピックアップしてから京都駅へ。ホテル瑞鳳閣まで歩き、そこからスタートでした。あるガイドのために決められたコースで、それを約3時間で廻るというものです。ホテル瑞鳳閣(不動堂村屯所跡)⇒本光寺⇒島原(角屋・大門・輪違屋・島原歌舞練場跡・朱雀大路発掘碑)⇒(バス)⇒壬生寺⇒八木邸⇒(バス)⇒四条~三条のゆかりの地(古高俊太郎邸跡・中岡慎太郎寓居跡・近江屋跡・池田屋跡・三条大橋)と回りました。八木邸通常なら、30分に一度の切れ目ないガイドですが、コロナ禍で1時間に一度のガイドです。色々新たに知ることもありました。・不動堂村屯所跡碑は瑞鳳閣に中村武生氏文のものがあり、リーガロイヤルホテルに霊山歴史館長木村幸比古氏文のものがある。どちらが正しいか?ここで書くのは控えます。・「角屋」は大きな建物で、太平洋戦争中、空襲で狙われ、そばを走る国鉄山陰線が打撃を受ける可能性があったため、取り壊しの予定になっていた。しかし、明治維新の元勲、西郷隆盛らも利用した遺構であると説明して、取り壊しは一時延期になり、やがて敗戦を迎えて、角屋は残った。・吉原は遊女が放火して逃げるので出入り口は1箇所しかなかったが、島原は条件がよくてその心配がなかったので、2つの門があった。・島原大門に大田垣蓮月の歌碑があるのは、桜木太夫と歌友であったから。・高台寺の茶室遺芳庵は、灰屋紹益が愛した吉野太夫が先だったあと、彼女を偲ぶために作られた茶室。10月6日の北政所茶会では太夫道中が行われ、太夫は勅使門から入る。お茶席は15,000円。・島原歌舞練場跡のエノキは樹齢200年。歌舞練場を見守ってきた。・古高俊太郎は梅田雲浜に師事。最後は六角獄舎に収容され、円町処刑場で斬首された。古高を含む37名の志士の遺骨が明治維新後掘り出され、上京区の竹林寺に葬られている。・池田屋事件では旅館・小川亭のなじみの志士が犠牲になり、女主人テイは犠牲者の身元の確認をし、葬られた三縁寺で供養した。三縁寺は岩倉に移転している。・瑞泉寺の前に「岩瀬忠震(ただなり)宿所跡」「橋本佐内訪問之地」の碑が建つ。岩瀬は幕末三俊」の一人に数えられる。老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて目付に就任した。安政5年(1858)の5か国修好通商条約締結に携わった。安政5年2月に当時の老中主座・堀田正睦(まさよし)とともに上洛し、瑞泉寺を宿所として、堀田らとともに条約勅許を願ったが、勅許は下りなかった。堀田は本能寺を宿所とした。橋本左内(1834~59)は,越前福井藩士。瑞泉寺に滞在する岩瀬を訪ねて意見を交わし、一橋慶喜の擁立で見解が一致。この後,二人はともに一橋派として行動し,そのため岩瀬は左遷され,橋本は刑死する。 暑い中を、久しぶりに長距離歩いたので、かなり疲れましたが、町歩きによる疲れは心地よいです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/21
コメント(2)
【2021年6月20日(日)】 一昨日は事務所。昨日は修学旅行ガイドがコロナで中止で、替わりに会の小さな集まりがありました。 そして今日は両足院の第5日。日曜日でお天気もよかったし、新聞に記事が掲載されたこともあって、今期間の中で最も多くの方にお越しいただきました。 両足院の案内の続きです。 方丈では、道釈画家七類堂天谿氏の描いた現代仏画襖16面を特別公開することがありますが、今回は、この襖絵は展示されていません。しかし、氏の筆による、汎下生(半夏生)観音のお軸が方丈にあり、書院にも氏のお軸が1つ掛かかっています。 方丈の濡れ縁を通って書院に向かいます。方丈の東庭は、書院前の庭に続き、一体で「鶴亀の庭」となっています。方丈東庭の石組のある築山が「亀」の部分です。 方丈東庭の亀の形をした築山 方丈北川から半夏生の庭と2つのお茶室を望みます東側(右側)のお茶室は「臨池亭」です。昭和元年に白木屋店主(大村彦太郎)が寄進しました。大村彦太郎の茶人名を「梅軒」といい、「梅軒好みの六帖席」となっています。西側(左側)のお茶室は「水月亭」です。建仁寺塔頭の正伝院は、織田信長の末弟織田有楽斎(長益)によって再建され、有楽斎は「如庵(じょあん)」というお茶室も造りました。明治6年(1873年)に正伝院は永源庵跡地に移転し、正伝永源庵と称し、そのとき「如庵」は祇園町の有志に払い下げられました。明治42年(1909年)に東京の三井本邸に移築され、昭和11年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に指定されました。その後、昭和13年(1938年)に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築され、昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地、愛知県犬山市の有楽苑に移築されました。昭和26年(1951年)に文化財保護法による国宝に指定されています。如庵という名称は、一説によれば織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたといいます。明治42年に東京に移築される際に写しとして建てられたのがこの「水月亭」です。二畳半台目席で、腰張り古い暦が貼られていることから「暦の席」とも呼ばれています。余談ですが、東京の「有楽町」は有楽斎の屋敷があったため名付けられたものです。有楽町は「ゆうらくちょう」ですが、有楽斎は「うらくさいい」です。 書院に入ります。入った床の間には、「かなアーティスト」赤川薫さんの「蜘蛛の糸」の掛け軸が掛かっています。芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」の小説そのものが、丸ごと絵の中に平仮名で書き込まれ、蜘蛛が糸でぶら下がる様子も表わされています。写真撮影禁止ですので、写真掲載できないのが残念です。(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/20
コメント(0)
【2021年6月17日(木)】 今日は昨日に続いて両足院でした。4日目です。 両足院の案内の続きです。 お庭を回った後、方丈に上がります。両足院の歴史と方丈の今の建物の歴史はすでに述べましたが、少し書き加えます。 両足院は当初は「知足院」と称していました。「知足」とは、「老子」33章の「足るを知る者は富む」から、みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと、分相応のところで満足することという意味もありますが、「知足天」を「知足」とも呼ぶので、そちらのほうかもしれません。 知足はtuṣita (兜率)の訳の 仏語で、知足天は欲界六天の第四天で彌勒菩薩が住んでいるといいます。兜率天(とそつてん)ともいいいます。 そして、室町時代になって「両足院」と改められました。この「両足」は両足尊に因みます。両足尊は仏の尊称の一つで、すべての生類を多足,無足,両足に分け,そのなかで両足のもの (神々や人間) が最も尊いとし,さらに両足のもののなかで最も尊い人という意味です。両足院では慈悲と知恵の二徳兼備のお釈迦様のことだとしています。 方丈の中心の部屋は「室中の間」で、他の部屋が単純な格天井であるのに対し、この部屋だけさらに格式の高い小組格天井となっており、「室中の間」が方丈の部屋(通常6部屋)のなかで、最も重要な部屋であることを表しています。欄間は筬(おさ)欄間と呼ばれる形式です。「筬」とは、織物の縦糸をそろえ横糸を押し詰めて織り目を整えるための、織機の付属具のことで、金属または竹の細い板をくしの歯のように並べて、長方形のわくに入れたものです。この形に似ているので、筬欄間と呼ばれます。 天井のすぐ下の壁は「蟻壁」という造りになっています。柱や束が壁で隠されています。高くなった天井によって、間延びした感じになるのを抑えてくれます。また天井の造形が柱の位置から解放され、竿縁や格天井の割り込みが楽になるという効果もあります。この蟻壁も格式の高い建築様式です。 仏間にはご本尊の阿弥陀如来立像が祀られています。 方丈前庭は桃山時代の作庭といわれています。苔の広がりで水の流れを表しています。方丈前庭(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/17
コメント(0)
【2021年6月16日(水)】 昨日は事務所に一日出頭。終わってから月イチの三味線レッスンへ。レッスン会場は、事務所からは、歩いて1、2分の距離ですが、運悪く事務所を出るとき、雷を伴ったバケツをひっくり返したような大雨に遭遇。雨宿りしていたら間に合わないので、三味線ケースにレインカバーをかぶせて走りました。以前、大型リュック用のレインカバーを買って備えていたので助かりました。 もう一人の小学生の女の子は欠席で、個人レッスンとなり、マンツーマンでのレッスンでした。今まで習ってきた曲を一通りおさらいしました。そして、途中まで楽譜を書いていただいていた、2つめの「津軽曲弾き」を全編完成いただき、指導いただきました。 今日は両足院3日目でした。団体さんが2グループ来られ、1つのグループは案内の要請があったので、両足院のこと、半夏生のことを案内させていただきました。コロナ禍で案内は最小限にということになっているので、常駐案内でこうやってまとまって案内するのは、去年の3月以来です。 両足院の案内の続きです。 唐門前庭園を右に見て、左に折れ、方丈前庭園の南端を進みます。庭園の南東角で、左手に方丈を見ることができます。方丈 両足院は、室町時代初期の1358年に、建仁寺の第三十五世・龍山徳見(りゅうざんとくけん)により創建されました。方丈は何度か火災に遭遇し、現在の方丈は、幕末嘉永年間に再建されました。再建に際しては、大檀那である、白木屋の創業家大村家の多大なる援助がありました。 続いてお庭の東端を進みます。東山の裾野に位置するため、境内は東に行くに従って高くなっています。お庭もそのゆるやかな傾斜の中にあるため、東端の遊歩道は庭園より高い位置にあり、庭園を見下ろすことができます。 やがて書院東庭が見え、半夏生の群生を俯瞰することができます。庭園の東端遊歩道からの書院東庭の眺め(書院の左側が方丈) 池は、羽を広げる鶴の形になっています。方丈東庭には亀の形をした築山があり、合わせて「鶴亀の庭」と呼ばれます。 池の右手には、2つのお茶室が見えます。手前が臨池亭、向こうが水月亭です。別の機会に説明します。右:臨池亭、左:水月亭 庭の東南角からは、書院と方丈、両方を眺めることができます。左:方丈、右:書院 2つのお茶室の前を通って、書院の前に出ます。半夏生を真近で眺めることができます。半夏生 小さな門をくぐって方丈東庭に戻ります。小さな門を潜って方丈東庭に戻る 方丈南側を歩いて、お庭に下りたところに戻り、方丈に上がります。 続きます。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/16
コメント(2)
【2021年6月14日(月)】 建仁寺塔頭両足院の2日目でした。 初日の7日(こちら)に比べ、半夏生は白くなりました。平日ですが、多くの方にお越しいただきました。とはいうものの、コロナ前に比べたらやはり来訪者は少なく、ゆったりと過ごさせていただきました。 両足院は本坊庫裡の少し南の左手(東側)に位置します。看板の案内に沿って、簡素な冠木(かぶき)門を潜って入ります。両足院には立派な勅使門もあり、この門はいわば通用門のようなものでしょう。初夏特別拝観の案内冠木門 受付を済ませ、まず方丈に進みますが、上がり口に、小さな中庭があり、手水石が置かれていて、水滴の落ちる音と、白砂の波紋が訪問者を迎えてくれます。上がり口の手水石 廊下に沿って進むと方丈の西庭に出ます。「閼伽井の庭」と呼ばれる坪庭です。両足院のご本尊が阿弥陀如来であることに因んで、阿弥陀三尊石(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)が配され、後ろの植栽は光背を表しています。中根金作氏の子、中根史郎氏作庭による、平成のお庭です。閼伽井の庭 さらに進むと、方丈の南西角に来ます。ここからお庭に下ります。少し南に進むと、右手に唐門前庭園を見ることができます。白砂と松の緑が美しい庭園です。唐門前庭園後日に続きます。帰途に予約してあった歯医者通いでした。左上親知らずの根の治療が終わりました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/14
コメント(0)
全6820件 (6820件中 51-100件目)