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ヘネラル・アナヤ駅にて下車、武力干渉博物館(Museo de Intervencion)の前を抜け、劇場のまえに達すると人だかり、青少年向きの公演でもあるために、いたしかたない、切符は売り切れ。
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ヒコテンカル通りをまっすぐにすすむと、トロツキー博物館の表示あり。
モグリ、といわれてしまうにちがいないが、メキシコにン十年住んでいながら、じつはトロツキー博物館に入ったことがない。
チュルブスコ通りを車で走りながら、ああ、あそこだな、と何回も眺めたし。
しかしわたしがメキシコに住みはじめてしばらくのあいだは、一般公開はされていなかった(はず)。
もともとこのトロツキーの家、ニホンで紹介されたのはあまり古いことではない。
たかだか三十年ぐらいまえに、高畠通敏先生が朝日の文化欄に訪問記を載せたことがあった。
とにかく、わたしにとってはここを訪れていないことは、ながいあいだコンプレックスを形作ってきていた。
しかし、きっかけはとるにたらない。
人気のない道へと折れ、何ブロックかすすむと、よく見なれた防塞屋敷が眼に入る。
まずは入り口がわかりにくかったが、チュルブスコ通りだと見出す。
訪れているひとはまばら、しかも大半は外国人。
すくなかぬ写真の展示のあと、中庭に出て、トロツキーの生活スペースに足を踏み入れる。
トロツキーは二回、テロをこうむっていて、はじめのものは、シケイロス一派によるもので、口径の大きいものもふくめ、相当派手な銃撃戦であったらしい。
トロツキーの身辺には護衛がついているが、その護衛たちもなんの反撃のいとまもなかったというほど、すさまじいもの。
執筆室の壁には、いまでもその銃弾跡がいくつもいくつも残されていて、その烈しさを実感できる。
キッチンや食堂も簡素ながら、整った美でまとめられている。
コーヒーではなく、紅茶を飲んでいたらしい(トワイニング)。
しかし何といっても薄暗い。
光と色にみちた、開かれたフリーダの美術館とはなんと対照的なのだろう。
それは防御の理由で窓が塗りこめられていることによる。
壁も厚く、陰気でもあり、さぞ冬は寒かったことだろうと思われるが、そんななかでも執筆などをつづけ、原初的なテープレコーダーのようなものも並んでいる。
もともとはメキシコに亡命後は、フリーダ・カロの「青い家」にお世話になっていたものだが、ディエゴ・リベラやらフリーダ自身のコミュニズム・イデオロギーの変化(スターリンへの傾倒)によって、「青い家」を出て、その近くであるここに住まいをかまえたわけである。
フリーダについての二度目の映画(サルマ・ハエック版)では、フリーダとトロツキーのロマンスが取り沙汰され、トロツキーの奥さんがジェラシーを燃やす場面が描かれている。
じっさいにあったか、なかったか、恋多きおんなのフリーダであったからあながち否定できないだろうが、フリーダ側がどれだけロマンス的ニュアンスをこめていたかは疑問である。
わたしは、奥さん役の女優をお芝居で何度か見ていて気にいっていたので、お歳はめしたようだが、そんな役をやってほしくはなかった、個人的な思いいれだが。
トロツキー宅の中庭、および部屋を周ることで、当時の(こんにちでもの)コミュニズムの意味について考えさせられる。
月並みだがスターリンではなく、トロツキーが台頭していたら、とか、レーニンがより将来の方向性を定めていたら、とか。
メキシコの現状とコミンテルンの関係をどう考えていたかとか。
とにかくメキシコ近代史(あるいは美術史といってもいいかもしれない)とのかかわりをもっと突き詰めてみないと。
わたしにとってのトロツキーの勉強は、まだ始まったばかりだといえる。