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江戸川乱歩全集・・恐怖奇形人間・・・多少きわどい映像です、自由意志でお願いしますいまなら、差別用語としてタブ-かもしれないがこんな映画があったんだ~You Tube より恐怖奇形人間・・・昔の全盛期の東映映画、1969年作概要は江戸川乱歩原作の「パノラマ島奇談」他数篇の作品を「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」の石井輝男と掛札昌裕が脚色し、石井が監督した猟奇もの。撮影は、「必殺 博奕打ち」の赤塚滋が担当した。 あらすじなど、いかにもと言う感じですかね・・・妙に興味があります、変わっているのかな私は・・クズビデオ49日さんより 映画史上「○○人間」と名付けられたキャラクターは枚挙に暇がない。「液体人間」「ガス人間」「電送人間」「透明人間」「蒸気人間」「軟体人間」「狂鬼人間」…このうち、「奇形人間」「軟体人間」「狂鬼人間」の3つは、その公開に極めて強い制限を受けている。 確かにいずれも内容的にスレスレの素材を扱ったという点での共通項はあるものの、例えば『怪奇大作戦/死神の子守歌』あたりが全然問題にされないという点を考えれば、「○○人間」という呼び方からくる、明らかに一線を引いた感覚が、そうした内容の鋭さを、受け止める側に極度に肥大化させてしまったという部分は無視できないだろう。 つまり、わざわざ「人間」と呼ぶことで、「人間ではない何か」「人間という領域から逸脱した」ような感じが強調されてしまったのである(ただし、これは邦画に限った話であって、例えば原爆を扱った作品であっても、アメリカ映画であれば被爆者が巨大化して気が狂おうが、三つ目の怪物になって雨に打たれて死のうがノー・プロブレムである)。 予告編だけですが、結構マニアックな時代かも知れません、私はこの頃は小学生時代、街の角にはまだ怪しい看板とかが残っていて、何か怖いような映画の看板もあったような気がします、不思議とそういった看板があったところはいまでもそういった看板が残っています、不思議ダア~
2007.01.31
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建築の仕事をしていて、他の業種も同じかと思いますが、全ての表現は全ての自分の行いに通じるような気がします(一事が万事)、マアある日突然全然違った考え、思想はナカナカ出てこないし(デモたまにあり、これが楽しい)案外自分のパタ-ンを持っていて、朝起きることも毎日異なるようですが、キットその奥深いところでは、自身が持っている強力な動き、やり方が秘められているかも。 モシそのやり方を、別の角度から見、考え、行動するならば、「パッ!」と世の中は変わるでしょうか、少なくとも目線が変われば違う世界が見えるのは間違いです。 いつも、歩いている道を少し変える?ウンコの時間を変える?寝る時間を変える?左右変える?・・・いくらでもありますが・・・ 頭が固くならないうちに、多くの引き出しを得て、ソノ中から最適な選択肢を得られるならば、アル意味人生楽しい一つかも・・逆にお役所のように、時間がたてばどのような難しい仕事も終わる世界も少し羨ましい・・ 建築に携わる方は設計において、すべてはじめての物件です、もちろん経験があるのもそうですが、その場、その時間にできるのはやはり、特異は機会かと。 だからこそ、ひろ~く、浅く~、穏やかに各分野を知り、たまには深く掘り下げることも本当に大切かなと、日々想いますし、そういったことが全て自分の表現に現れてくるのでしょう。 新たな仕事の開拓もまた他とのコラボもそうでないと、出来ないことかもしれません。 性格、ポリシ-、などに関係してくるのでしょうね。
2007.01.31
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の日本の妖怪の一覧を見るのが一番早いが・・でも本当の出所、最初を知りたい、他に誰かご存知ならお教え願いたい。もののけが集うホ-ムペ-ジもありました鳥山石燕 画図百鬼夜行 国書刊行会 より前編 陽終新婦(ジョロウグモ):終新婦は俗に女郎蜘蛛と称し班の色が美しいが、かえって醜く、毒が甚だしい。二十歳頃の子供を抱いた女が青年武士の前に現れて、お前の子だと突きつけ、男は妖怪と知って切りつけ、女は天井に上がった。一夜明けて、天井を見れば、人の死骸の中に二尺ばかりの上ロウ蜘蛛が死んでいた。と言う。「和漢三才図会」巻三十九より鼬(テン):鼬は眼が輝き、耳は小さく、鼠に似るが、身体は長く、尾は大きいとある。夜中に火柱が立ち、消えて倒れるところには火災が起きるが、それは群れ鼬が妖を為すからだとも、「和漢三才図会」巻三十九より業原火(ソウゲンビ):「新御伽婢子」(シンオトギボウコ)巻三「業原火」都四条の北大宮の西、淳和天皇の離宮を西殿といったが、この南に壬生寺があり、地蔵堂の悪僧、宗玄が散財や灯明の油などを盗み売っていた。その罪障で悶死、地獄で苦しんでいる宗玄の火の玉が現れた。 朱雀の宗源火釣瓶火(ツルベビ):道の怪、つるべおとし、つるべおろし、とも言う。通行人の頭上に道端の古木の梢から大きな釣瓶をおろして引き上げ、食い殺すという。火の玉になって現れるのは「百物語評判」巻1「西岡の釣瓶おろし扞陰火陽火の事」の話。雨の夜、京都西院のほとりを帰宅を急いで通りかかると、藪きわの大木から鞠のような火の玉が上り下りしてきた。ふらり火:空をふらりふらりと浮遊する怪火だが、「化物づくし」に羽と二本足持ち犬のような顔をした妖怪が出る。まわりに火を揺らめかせながら、大きな蚊が飛んでいるようでもある。姥が火(ウバガヒ):河内国平岡明神の御神灯の油を盗んだ老婆に神罰が下って、死後火の玉となって飛び歩く。「河内鑑名所記」巻五にしるされている。「西国諸国ばなし」巻五「身捨て油壷」は十八までに馴れ親しんだ十一人すべての男が死んでしまったので、自然に独り者となり、八十八まで生き延びた老婆の話。火車(カシャ):「新御伽婢子」(シンオトギボウコ)巻「火車の桜」は亡き母が地獄の獄卒に引かれた火車に乗せられて責めさいなまれている夢を見た子供の話。これは罪人を地獄に送る、いわゆる「火の車」それが転じて、葬送の時、にわかに暴風雨となり、棺の蓋をとって、死者を奪う妖怪だと「化物づくし」の化物のひとつ。鳴屋(ヤナリ):騒ぐ霊、ポルタ-ガイスト。理由もないのに家屋が激しく揺れるのは、小鬼の仕業だとのこと、屋敷の怪は平田篤胤「稲毛物怪録」に書かれた姑獲鳥(ウブメ):産後死んだ婦人の霊が化したものという。血に染まった腰巻をまとい、子供を抱いて、連れだって行く人を追いかけるという。海座頭(ウミザトウ):海和尚、海坊主とは別の妖怪か?石燕の画は琵琶を持った座頭の亡霊である。海坊主なら「和漢三才図会」巻四十六などに出る。「斎諧俗談」によると、人面、身体はすっぽん、頭に毛髪がない野寺坊(ノデラボウ):未詳、荒野の廃寺に現れる妖怪高女(タカジョ):未詳、見越し入道のように、急に背丈が伸びる妖怪手の目(テノメ):荒れた草むらなどに、のっぺらぼうで、両手に目がある化物「諸国百物語」巻三「ばけ物に骨をぬかれし人の事」は京都七条河原の墓所に化物が出ると聞いた男が、肝試しの賭け事をして、杭をうち紙を付けて帰ろうとすると、眼は手にひとつあり、八十程の老人に、前歯を牙のように剥きだして追いかけられた、という話。鉄鼠(テッソ):頼豪は三井寺の僧、白川院のために皇子誕生を祈り効験があった。ところが院は延暦寺を恐れ、約束した戒壇建立の勅許を下さらなかったので頼豪は怒り、皇子を道ずれに魔道に行くと呪って、干死にした。霊魂は鉄鼠となって比叡山の経堂に入り、経典を食い破ったので、麓に鼠の祠を建てて祀った。延慶本「平家物語」巻三など、「本朝語園」には、その数八万四千匹と記す。黒塚(クロツカ):「みちのくの安達原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか 平兼盛」と読まれた安達原の黒塚(福島県、埼玉県にあり)鬼女伝説に基づく。謡曲「安達原」では熊野の山伏祐慶が一夜を借りた宿で、老婆の部屋を見るとしたいが散乱していた、驚いて外へ逃げ、老婆に食い殺されそうになるが、やがて祐慶は調伏する。飛頭蛮(ロクロクビ):「飛頭蛮」と書くのは「和漢三才図画」巻十四目に瞳がなく、その頭が飛ぶ人のこと、うなじに赤い痕があり、夜になると耳が翼をして飛び去り、虫を食い、明け方戻って元のように収まるという。「百物語評判」巻一「絶岸和尚肥後にて轆轤首見給ふ事」逆柱(サカハシラ):柱の上下を逆さに立てたものを逆柱という。屋鳴りがし災厄があるという。京都六角堂の前の家は昔から逆柱の怪異があり、毎夜梁が崩れるような大きな音がするので、引っ越した夫婦の話げある。反枕(マクラガエシ):寝ている者の枕を逆にするいたずら。座敷童のしわざといわれてきた。枕は「別な世界に移動するための夢を見る玩具」であり、人の魂の置き所である。肉体と魂が分離するのを恐れた、死んでも枕を返すなと遺言したのに、普通の葬儀をしたので、蘇らなかったのは勝原伊尹の息子義孝(「大鏡」巻三)雪女:雪の精霊で大雪の年に現れるという。二十歳ばかりの若い女で背は一丈ばかり、肌は透き通るように白く、絹の白い単衣の着物を着て、竹藪の端に立っている。(竹藪が?です)生霊:葵の上をとり殺したのは、六条御息所の生霊。よりましにとり憑いて、その口を借りて怨念を語る。死霊:下総国羽生村で、奇怪な事件が起こった、夫与衛門に、醜いという理由で殺された累(カサネ)が、その子の菊にとりつき、怨念を口走る、それは村全体にかかわる因果話である、この死霊を解脱させるエクソシストが増上寺の祐天上人であった。この事件は「死霊解脱物語 聞書」は江戸を通じてロングセラ-であった。幽霊:柳田国男の「妖怪談義」をはじめとして、妖怪研究の先駆者で、彼は幽霊をお化けと区別し、幽霊は決まった相手に現れ、お化けは特定の場所に現れるとした。女の幽霊でベストスリ-は、累(カサネ)、皿屋敷のお菊、四谷怪談のお岩であろう。いずれも男性から非道な扱いを受けて幽霊になった。 興味からはじめたものですが、百鬼夜行に幽霊とか死霊が含まれているのは驚きました、デモ民俗学者の柳田国男氏はよく当時妖怪の研究をされたと想います、今でこそそういったことが論じられていますが、あと漢字が今の使い方と本当に異なります、私は漂泊の民”サンカ”の研究にも興味があります。 それに不思議と妖怪を検索していくと、廻りの方が色々な妖怪に当てはまるのが、失礼だが楽しい・・・自己満足 難しい文字はブログで使えない文字がたくさんあります(ブログに反映されないもの)
2007.01.31
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柳沢厚労大臣の発言が揉めていますが、ソノママ 「女性は産む機械」ではなく たとえ話で上げたものだと想います、それでソノ部分だけを上げ怒るのはつまらないように想います。特にマスコミは、もっと本当の幹の部分を突かないと本来の問題になっていかないかなと・・・本来の問題とは、それを何故簡単に発言してしまうのか?柳沢厚労大臣だけでなく・・・しかしこういった発言するには全て悪とは言いませんが、話の例え話にしてはチョット思考が無さ過ぎると想います、我が家はTVがなく実際の状況は映像ではわかりませんが、また男性、女性で捉え方が違ってくるでしょう。本当に不用意な発言でジョ-クとしても国の厚生労働大臣とは思えないような、低俗は言葉かなと思います、アル意味正直かも。「言霊」というのがあるように、講演会とか公の場で発言する機会が多い政治家の方は特にそういった、大切な場で言葉を選び選び、清い言葉までとはいきませんが、説得力のある、その場にあった言葉を選ぶ必要があるのでは?・・・俳句とかで答弁を国会でしては・・・ しかし、その場が低俗であったなら仕方ない。(これは発言の状況を私があまり知りませんので)いい面は、マスコミの野党のツッコミ所を与えたという事くらいです。言葉は怖いものです、こんな配慮のない言葉を選び話を聞く身はつらい、男はもとより女性ならばなおさらです・・・・辞任、留任は結局本人と内閣などが決めていくものでしょうが、一事は万事がよくわかるように、特に多くの大臣には大切な方向、命を預かっている方ですから、適切な判断をして欲しいです。もう、謝罪とかのシ-ンは見たくないし(写真ですが)マスコミの予測できそうな質問も聞きたくない、見たいのは国民に模範になるような正しく仕事をするシ-ンですネ という私もあまり模範になれませんが。
2007.01.31
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鳥山石燕 画図百鬼夜行 国書刊行会 より 古代の世界観としてのアニミズムには、自然の善意を信じる方向と、自然の悪意を信じる方向との二つのオリエンテ-ションがあったと思われる。 前者は寓話と結びつき、後者は幽霊や妖怪や悪鬼の物語と結びついた、その超自然の法則を受け入れれば、すべては安定した、等質の世界になってしまう。 百鬼というのは中国の言葉で「漢書」の注では「百神」と同義であった、しかしわが国では忌まれるカミの民俗もあり、仏教思想の広がりの中で、多くの妖怪という意が一般化した、平安朝の公家日記などでは「百鬼」といえばもっぱらこうした意味で用いられる。 夜の闇黒、まがまがしさや魔性を想化した思想、人々の周辺にいながらも、特定の夜にのみ現れる一種の魑魅魍魎をさした。 前編 陰1、木魅(こだま):百年の木には神ありてかたちをあらわすという2、天狗:ご存知の通り3、幽谷響(ヤマヒコ):山谷堂塔などで人の声に応じて響くもの、百物語の会では夜、人が集まって怪談を語り、一話ごとに灯心を消していく、百話に至ったときに、暗闇から妖怪が出るといわれた。4、山童(ヤマワラハ):童顔、全身細毛に覆われ、足は長く、人語を話す、また人に危害は加えない5、山姥(ヤマウバ):深山に住む鬼女、里のものを食うと言われた。坂田金時は足柄山で山姥に育てられたといわれている、不思議な霊力で子供を愛育するとも言われている。6、犬神、白児(シラチゴ):犬神明神の由来を示す、不知河(イサヤカワ)のほとりの大樹の下で野宿した猟師は、猟犬小白丸が激しく吠えるので首を切ったところ、その首は樹の上の大蛇に食いついて、主人の一命を救った、猟師は祀って犬神明神とした。7、猫また:年を経た猫は、尾が二つに分かれ、化けて主人を欺くという「徒然草」に「奥山に、猫またといふものありて」とはじまる。8、河童:越谷吾山(コシガヤゴザン)「物類称呼」に川童東国にかっぱと云。其かたち四、五歳ばかりの童のごとくかしらの毛赤うして、頂に凹(カナクボ)なるさら有り。水をたくわる時力はなはだ強し。性相撲を好み、人をして水中に引き入れ、或いは怪しみをなして婦女を姦淫す。その災いをさけるには猿を飼うこととのこと。9、獺(カワウソ):小さい狗のようで四足は短く、毛の色は薄青、よく魚を取る。変化するときは美童、美女に化ける10、垢嘗(アカナメ):古い風呂屋、荒屋敷に住むという11、狸:古くは狸はネコと読まれた、12、窮奇(カマイタチ):ケイ山(ケイザン)に住み、はりねずみの毛を持ち、牛のような人を食う怪獣の名。その名げ旋風を起し、人に剃刀で切るような傷を与える「鎌鼬」(カマイタチ)に与えられた13、網剪(アミキリ):「妖怪図鑑」に蟹のはさみのような手で、長い女の髪を切り落している「かみきり」という妖怪が出る。14、狐火:狐が火を灯す、いわゆる狐火の俗信は、各地に伝えられる。江戸の王子では大晦日のよる、関八州の狐が集まるため、無数の狐火が舞い、里人はその火を見て、農作の豊凶を占う。マダマダ沢山妖怪はいますが、人が作り出すものはすごいと改めて想います、キット今も妖怪は増えてきているのかも。 妖怪が増える例として、”近代になっての話、内田百間が「くだん」という妖怪の話をしたとたん、聞き手が「くだん」という妖怪が本当にいると思いこんだ、人の面をしながら、牛の姿をしているという、この妖怪は近世文献と岡山県地方の民話によって、件という字が人編と旁は牛であることから思いついた、内田百間の冗談だったのが、彼の「件」という小説を読んで、しばらく本当に「くだん」という妖怪がいると信じた動物学者がいたという、冗談からコマではなく、冗談からくだんが出た。” 妖怪のデ-タベ-スもありました、でも私は私の妖怪を探します。妖怪で探せば本当にたくさんのHPなど情報がありますヨ
2007.01.30
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中国という国は本当に、少し前のソ連のとようにゆっくりと戦略に向かってしかも確実に向かっていっているように感じます。 情報操作もそうです、最近では南京事件の映画化(これは真実を知る必要があります)、新幹線の問題(資料)もそです、スポ-ツにおいてもサッカ-の問題でも明らかになりました、ネットの管理も・・・数え上げれば沢山あります、自由な国に真実な情報があると言いますが、それが当てはまるし・・・日本の最近の状況をみるとまた米国をみるとそうともいえません。 マア逆に日本はと言えば、少し幼稚で戦略のないある意味、やさしい自由な国かもしれません。 こんな事を書けば、チョット偏った考えと言われるかもしれません、私のような人間が今の情報を見ていても感じることですから、それに真に関わっている方はもっと感じているかもしれませんし、「そんなことはないよ」といわれるかも知れません。 結局情報は仕事の情報もそうですが、自分で知り自分の自由な意志で判断していくものだと想います。 またこのような記事もありました。 以下・・・桜井よしこ氏のHPより 中国が目指すのは超大国の地位と力である。毛沢東らが具体的に考えたのは、恐らく、清朝最盛期の康煕、雍正、乾隆らの皇帝が築いた中華大帝国の版図の復活である。そのために彼らは強力な軍事国家を目指した。中華人民共和国は50年代初頭に核大国となることを至高の国家目標と定めた。限られた国家資源を軍事力の充実に優先して充てた。70年代から80年代にかけて、海洋と宇宙に目を向け始めた。未来の大国となるには、制海権と高々度の制空権が重要だと考え、その実現に邁進してきた。その野望はいま叶いつつある。彼らは03年に有人宇宙船「神舟5号」を打ち上げ、南シナ海に続いて東シナ海を事実上中国の海にしつつある。05年には北朝鮮の日本海側の港、羅津を租借し、史上初めて日本海への出口を得た。06年には米国の誇る空母キティホークの8キロ以内に、気づかれずに接近した。世界秩序を支える米国の軍事的な柱、空母機動部隊を至近距離から攻撃出来る力を、中国が得たことになる。さらに世界が驚いたのは、中国海軍が07年にも空母の配備に着手すると発表したことだ。中国は着実に超大国への道を歩みつつある。が、その前に地域大国として盤石の基盤を固めなければならない。その際の唯一最大の障害が日本の存在である。 と書かれています、風水にとっても日本は羨ましい国らしいし・・・(関係ないが・・) 余談ですが中国は膨大な人間を輸出することによって、アフリカをまた米国の力の及ばないところにしっかりと地を据えようとしています。 情報と人間の力とはナント大きいのでしょうか? 最近は物量と技術もかなりなものになって、来ているのでしょう。 人はある一方が多くなればなんだカンダと被害妄想になり考えるかもしれません、だからこそこのい狭くなってきた地球上においてのデザイン・・バランスが必要になってくるのかも。 私は中国の考え戦略がイヤとかでなく、自分にとって本当の事を知りたいだけです、ただでさえ考えることが多いのに、このような事を考える戦略は実はあまりありません。 ただ、最近情報について・・いかに自分の情報ソ-スを持っていて的確に判断できるか?・・・との事、しかし活用するのが「チッチェ-(小さい)」からどうしようもありませんが。
2007.01.30
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先日東京に国立新美術館が会館しました。建築家 黒川紀章氏です 以下、ケン・プラッツから引用しました東京大学の六本木地区移転跡地の一部に、文部科学省が約350億円をかけて建設した国内5番目の国立美術館で、地下1階・地上4階建て、延べ面積は約4万8000m2だ。 収蔵品を持たずに、美術団体などが開催する展覧会の展示スペースを提供することで収入を得ていく。展示室は、2000m2の部屋を2室、1000m2の部屋を10室用意しており、最多で12の企画展を同時開催できる。また、アートライブラリー(約30席)や研修室(3室、合計60m2)を備える。 建築デザインの見せ場は南面のユニークな外観とエントラスロビーだ。ガラス張りのファサードが大きく波打ち、4層吹き抜けのエントランスロビーには、巨大な逆円すい形の構造体がそそり立つ。 設計を手がけた建築家の黒川紀章氏(73)は、「見た目だけにとらわれず、目には見えない私の思想や哲学をこの美術館からつかみ取ってほしい」と話している。省エネルギー・省資源対策にも力を入れており、雨水の再利用や地下自然換気システムなどを導入した。 規模の大きさとともに話題を集めているのは、各フロアに計4店舗あるレストランとカフェだ。高級レストランを展開する「ひらまつ」がプロデュースする店で、なかでも3階にある「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」は、三ツ星レストランのシェフ、ポール・ボキューズ氏の料理を提供する。 <施設概要>国立新美術館所在地=東京都港区六本木7-22-2開業日=2007年1月21日発注者=文部科学省設計者=黒川紀章・日本設計JV施工者=鹿島・大成・松村JV、清水・大林・三井JV敷地面積=約3万m2 建築面積=約1万2500m2 延べ面積=約4万8000m2構造・階数=鉄骨造・一部鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階・地上4階完成時期=2006年5月総工費=約350億円開館時間=企画展:10:00~18:00休館日=火曜日(祝日または休日に当たる場合は開館し、翌日休館)、年末年始(12月29日~1月3日)利用案内=東京メトロ千代田線乃木坂駅(美術館直結)、東京メトロ日比谷線六本木駅・都営地下鉄大江戸線六本木駅から徒歩約5分問い合わせ=03-5777-8600 国立新美術館HP ここまでの規模ですと、中には重文関係もあり、整理、修復、収蔵、展示とまた将来へ向けてのスペ-スなど多岐にわたる要素があり、まとめるまでかなりの時間がかかったことでしょう、一度観にいきたいです・・・東京へ昨年このようなデザインもありましたWATERWORLD - 中国 2006年12月27日水曜日アットキンのArchitecture Groupは、最近この衝撃的なエントリとの国際的なコンペで優秀賞を獲得しました。Songjiang(中国)で素晴らしい水域と採石場をセットし、400ベッドのリゾートホテルは、採石場のそのままの範囲内で、ユニークに計画されています。また水中のエリアと客室はユニークさをデザインしています、しかも喫茶店、レストランとスポーツの施設までも併設しています。 最も低いレベルでは、レジャ-(例えば採石場の上に片持ちにされて、水から特別なリフトでアクセスされるロッククライミングとバンジージャンプ)のために豪華なプールとスポーツセンターを収容することによって、滝の水辺のテーマで連続しています。このように衝撃的なプレゼンテーションで、このプロジェクトが優秀章を取った事は驚きではありません。その自然環境の間に共存している非常に現代的な地形を生かしたすばらしい計画です。何となく良く似たデザインの流れなので並べてみました、時代というのは時代を過ごす人にとって、何かリンクするのかもしれません。
2007.01.29
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ルイ・アームストロング・・・・ 「サッチモ(ルイ・ア-ムストロング)はアメリカ音楽の始まりであり、終焉である」――と語ったのはビング・クロスビーだが、何と的を得た言葉なのだろう! ルイ・アームストロングは、20世紀のポピュラー音楽において最も重要なミュージシャンでしょう、幼い頃から音楽の街で音楽と共にすごした彼は、少年院でもコルネットを学び、楽器を習ぶ事から20世紀が生んだ最も偉大な音楽家の一人としての地位というか彼の存在を築いたのでは。 その素晴らしいインプロヴィゼーション(=即興演奏)。そして彼のフレージングが直接的にも間接的にも、耳に入ったあらゆる分野を問わずアーティストに影響を与えたことでしょう。彼の音楽に感じられる絶妙のニュアンス、そして如実に反映された豊かな人柄……。それらは、どんなミュージシャンも絶対にかなわない魅力を放つ。サッチモの音楽を聴いて歓喜と幸福に満たされることがない人なんて、そういないだろう。1901年生まれ、1971年逝去。 多くの音楽に影響を与えた方の一人でしょう、私は彼の“この素晴らしき世界”をよく聞いていてさらにファンになりました。 特に時代が変わっても歌い手が変わっても色あせない歴史的名曲の一つに”この素晴らしき世界”かなと感じます。 その歌詞・・・資料 What A Wonderful World By Louis ArmstrongI see trees of green, red roses tooI see them [bloom], for me and youAnd I think to myself, what a wonderful worldI see skies of blue, and clouds of whiteThe bright [blessed] day, dark [sacred] nightAnd I think to myself, what a wonderful worldThe colors of the rainbow, so pretty in the skyAre also on the faces, of people going byI see friends shaking hands, sayin' "how do you do?"They're really sayin' "I love you"I hear babies cryin', I watch them growThey'll learn much more, than I'll ever knowAnd I think to myself, what a wonderful worldYes I think to myself, what a wonderful worldOh yeah日本語訳詞深緑の木々、赤いバラ美しく輝いている、僕と君の為にそれで思うんだ、なんて素晴らしい世界なんだろうって青い空に、白い雲眩い程に清らかな日、侵される事のない闇の夜それで思うんだ、なんて素晴らしい世界なんだろうって虹の色、空で輝いて行き交う人々の顔にも広がって友人たちは握手を交わして、「やぁ、最近どう?」と言い合う「愛してる」って言い合っているんだ赤んぼが泣いてる、育って行くのを見守ろう僕が知っているよりずっと多くの事を、これから学んでいくんだそれで思うんだ、なんて素晴らしい世界なんだろうってそう思うんだ、なんて素晴らしい世界なんだろうってああ、そうさなんともフンワカした世界みんながこのような世界を目指すならば、スグ今出来そうな気がするのですが・・・・・・・・・多くのジャンルを問わず音楽は世界をある意味救うかもしれません。イイ音楽をもっと聴きたい。
2007.01.28
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予言する妖怪に”アマビコ”なるものが居てます・・・予言獣(資料)信じる、信じないとかを書いているのではありません、それは別の論争で願います。ただ興味があったから・・まだ会ったこともありません、会ってたとしても気がつかなかったかも・アマビコはアマビコ=天日子=尼彦=天彦=アリエ=アマビエ=大神社姫=尼彦入道=山童=亀女=豊年亀・・色々呼び方はありますが、海洋型と山型(これは私が分けただけ)がいてるようで、海洋型は人魚のようで長い髪で体には鱗があり、三本足で波間から現れていると、山型も長い髪で足は三つあるそうで、山と海を行き来しているのか?わからんが・・・江戸時代には瓦版、明冶になってからは新聞記事に掲載されたようです。豊作や疫病を予言したようです。突然このような妖怪を書いたのは、タマタマ図書館でその特集していてアマリにも気になりメモしたところ・・・予言・・・と言うところに惹かれました・・・調べました。妖怪と言えば「ゲゲゲの鬼太郎」とくれば”水木しげる”となります、今度実写版が公開されるそうで・・・チョット鬼太郎がイイ男?すぎる、目玉オヤジは誰がするのか?鬼太郎はやはり・・・妖怪図鑑参照写真もあります・・・いまの世の中もそうですが、多くの都市には暗がりあり魔が宿ります。時間と場所によって魔に形は変わっても、そのことは、いつでもどこでも変わりません(ここで魔は人に厄災をもたらす霊威、すなわち悪霊のこと。)日本では、ミヤコが出来てから、とりわけ都の周縁の薄暗がりに、もののけが出没してきたようです。時刻は昼から夜に移りゆく、たそがれ時が怪しいように、城壁で空間を区切る習慣を持たなかった都人には、その外の世界と切り替わり行く境界が怪しく騒いだのでしょう。よく朝方なんかは妖怪が帰宅するから、朝方も危ないとかも幼い頃聞きました。夢枕獏氏の「陰陽師」を読めばたくさん出てきます。現代も妖怪がウヨウヨしています、見える妖怪、見えない妖怪いろいろです以前・・島根県の美保神社へ行ったときに、その裏山へは今でも、水木しげる氏が妖怪に逢うために裏山へ入るらしいと・・・嫁の友人が言ってました。いまの時代は妖怪はやはり夕暮れ時に出現するのでしょうか? 今まで、聖なるものは奉じられ、畏怖されるものは封じられた、封じこめても、彼らが暮らす、この世界に立ち現れる霊威を人々は「妖怪」と呼んで、魔と恐れた、それらのことは、この世に災いをもたらし、陰陽師らが正当とする霊威で退散させるべきものだが、それがかなわなけらば「祀りたてる」、すなわち奉じて、封ずるという手だてとなる。都に厄災をもたらした菅原道真の霊が典型かも。と言うことは現代の魔物も祀るか封じるかどちらかかも・・・以上、日本妖怪学大全- 小松和彦氏 小学館 を参照にしました。
2007.01.27
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嫁の産婦人科の検診で、3Dとか4Dなどがあると、とある妊婦雑誌でみました3Dは三次元・・・4Dは四次元・・・四次元とはそれは未知の世界?ある意味そんな感じですが「通常の超音波検査では2D、断層を見ます。3Dはそれを積み重ね立体的に、三次元でみれます」しかしそれにも増して四次元の世界はと言うと「3D超音波を動画で見るもので、お腹の中で動く赤ちゃんの様子をソノママの映像で見れる」・・・・・これは単に覗き見かな、赤ちゃんにとってチョッピリ恥ずかしい瞬間だし「ハイ、チ-ズ」なんてやってられないから、母体から声をかけてもらうしかないのでは?今は4Dがどうもはやりで各主だった(お金のある)産婦人科では導入しているらしい、それも・・・・「撮影した動画は、VHSビデオテープ、DVD-RAM,DVD-RW,MO,各種USBストレージなどに取り込み持ち帰り可能です。」という産婦人科も出てきています。超音波検査について「ちばレデイ-スクリニック」・・・・映像もありましたちなみにこの病院とは全く関係なく3D・4Dのためにアップしました。どうも読んでいくと、かなり優れもののようですそのうち性格までまたソノ子の運勢まで見えるのかな?イイヤ並んで記念写真?しかしこれが本当に必要な方も中にはいらっしゃることでしょう、上記のHPにかかれていましたが、お腹の中を事前に察知し、検査結果をより確実にでき、妊婦さんを家族を安心させることが一番のメリットかなと感じました。勿論それには”\”が必要ですが・・・・最近出生率(資料)が日本も他の国も減ってきているとニュ-スでみます、日本は1.26人、多い米国で2.05人らしい日本では1989年に合計特殊出生率が急落した「1.57ショック」をきっかけに政府は少子化対策に取り組んできた、とのことでさらに・・・2004年の合計特殊出生率は1.29とかろうじて前年度と同じであった。長らく日本を下回っていたイタリアの同年値は1.33とついに日本と逆転するに至っている。となればもう、競争だ・・・(捉え方ですが)こうなれば3Dも4Dもみんなに頑張ってもらうしかない(冗談ですが)これから生まれてくる子の時代はどのような時代でしょうか当たり前ですが、毎年、毎日、毎時・・・新しい生命が誕生し・・・未来を託していく・・・それはすごく神聖で大切なことなのに、もっとも尊いものなのに・・・もう一度見直したいです。世の中には、いろんな家庭が、夫婦があり一概に子育ては必ず必要だ!という考えはありませんが、社会がこれから誕生する命を大切にする雰囲気が大切ですとフト思いました。
2007.01.27
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分譲マンションの価値と問題 日本の現代建築の設計・施工は世界でもトップレベルと思いますが、分譲マンションについてはそれには当てはまらない・・・しかしそれも分譲マンションだけでなく他も危うい・・・ 昨今の不祥事のニュ-スをみれば一目瞭然です、地価は下がってますが高値のママ、販売価格を押し上げるためデベロッパ-は建築費を圧縮せざるをえない状況を自ら生み出したのではないでしょうか? 最近の京都でのニュ-ス(構造計算書偽造) それによって住戸スペ-スをギリギリの計画をし、外観は中の平面プランを表したものとなり、個々の居住性がそこなわれたようです。 それでも分譲マンションの価値観はどこか需要者の要求と離れ一人歩きしているような、建築として本来あるべき姿を見失っているのでは? 住宅白書では戸数はほぼ充足され、戸数主義より質の高い住宅が求められている時代になってきていますが。 それも高齢化社会に向け単にバリアフリ-だけでなく社会的財産としての建築を考え直すべきではないでしょうか? ヨ-ロッパなんかでしたら100年以上たつ集合住宅、米国でさえ50年以上前の建物も輝きを失っていません。 NY集合住宅の入口大概、黒人の守衛というか、優しそうで、強そうな人がドアマンをしています・・・ 日本は勿論気候風土(高温多湿、台風、地震など)が他とは比較できませんが、新築にあるにも関らず価値感が希薄な感じです、本来は年数と供に社会的財産として価値を上げていくのに、急速に価値を下げるものがほとんどです。 限られた空間に(建蔽率、容積率)組み込み、将来の長期修繕計画もま苦しいのが多い。逆に言えば、デベロッパ-から歓迎されない計画が本来の建物の価値を高めるのかとも思います。 多少建築費がアップしても十分に購買者からまた今後そこに住み続けることを考え計画することも大切かと思います。 トニカク、マンションはマ-ケテイングや土地取得、近隣折衝、許認可申請の前段階からの販売という局面まで膨大な労苦をするから、設計に費やせる時間エネルギ-にはおのずと無理があるかもしれない。 だからデベロッパ-が設計に対しセ-ブし効率化をはかるのも理解できる、だからといってマンションの設計の緩さを招き、結果として社会的財産としての価値の低いマンションを多く生み出すことにつながることが・・・大きな問題となっていま現れているような気がします。 以上、ディテ-ル171号から記事を頂き、多少私なりに書きました。 ・・・マンション管理新時代・・・・(参考)
2007.01.27
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先ほどの「オ-ロラ」のコメントの中で、ぴかりんさんが「サンピラ-」について書いてくださったので調べてみました。 まず、このようにネットで調べるのでなく、スグッ!行きたいが行けないから・・・ネットで 「サンピラ-」とは、細氷=ダイヤモンドダストに光が反射・屈折して見られる様々な現象を総称して「細氷現象」といわれるそうです。 サン :SUN :太陽 ピラ-:PILLAR:柱 六角板型氷晶(鉛筆を輪切りにした形)に太陽の光が反射して、光の柱が現れ太陽が串刺しになったようとのことらいい・・・・ その現象は、気温が氷点下20度以下になると、大気中の水分が凍結して氷晶と呼ばれる細かな氷の粒になります。この大気に漂う氷の粒が、太陽の光を反射するときにキラキラと輝くので、別名『ダイヤモンドダスト』と言われています。 ダイヤモンドダストはそのままでは、ただキラキラと輝いているだけですが、ある条件が揃うと太陽の光を規則正しく反射するため、まるで光の塔のような輝きが空中に現れます。これがサンピラー現象です。 だから、北海道の名寄には天塩川と名寄川があるから川霧が発生し、サンピラ-が見えるそうです とのウンチクではその写真とか動画は「なよろ観光まちづくり協会」にありました。(フォトム-ビ-にあります)・・・少し時間がかかります。 夜間照明の「ライトピラ-」月光の「ム-ンピラ-」もあるようです 映像を観ると本当に幻想的でだれかが、そこに居ているような錯覚になるかもしれません。 写真も
2007.01.26
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オ-ロラ、光のカ-テン、地球のエネルギ-、など色々言われていますが、なんと言ってもオ-ロラ無条件にオ-ロラ写真は他のHPからですが、スゴイこんな映像が簡単に見れるなんて、7年程前アンカレッジ経由でのこと飛行機の窓から遠くのオ-ロラを見たのが最初でした、勿論それは揺らめいてはかなげそうでしたが・・・飛行機内はみんな寝静まっており、私と先輩が「オイ!オ-ロラやぞ!」と小声で大きく言って?ました。オ-ロラの高さは下で100km~105kmらしく限りなく真空に近いところで発光しているらしく、オーロラカーテンは,数百kmの高さをもち,幅は地磁気極を取り囲むように東西方向に数千kmもあり,厚さは500mから1kmと極端に薄いことも解っているらしい。オ-ロラ活動が活発になると,カーテンには波打ったような襞が現れるようになり(図2,c),さらに活発になると,襞が激しく変動し,反物を巻きこむようにさえ見えてくるのです(図2,d)。オーロラカーテンは1枚のときもあるし,数枚,時には10枚も現われることがあることも確かめられています。 オーロラカーテンに見られた細い筋状構造は,1本1本の磁力線に対応していて,オーロラは磁力線の発光現象とあります。静かな1枚のカ-テンの様に見えるのは,経度方向に広がる同じ緯度面の磁力線に沿って光っているオーロラであり,波打ったり,反物を巻き込んだようにと変化するのは,経度方向に同じ緯度面からずれた磁力線に添って発光することに対応しているし,オ-ロラカーテンが激しく変動するのは,発光する磁力線面が激しく移動していることに対応しているのです。と「オ-ロラの招待」からオ-ロラの写真集そしてオ-ロラの動画 また「オ-ロラ」はウイルヘルム・ライヒ氏が研究したオルゴンエネルギ-とも聞いたことがあります、ブル-がオルゴン特有の色、(細胞の原型質、空や海、湖の色、山や森、ホタル、セント・エルモの火、オ-ロラなどすべて青いのはオルゴンエネルギ-が充電したためともいわれている。
2007.01.26
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三百年持たせるための工夫とは・・・住宅を持たせる工夫についてかかれていましたその本は完全リサイクル型住宅 尾島俊雄監修早稲田大学理工総研シリ-ズ13未来開拓学術研究推進事業として(木造編)早稲田大学出版部ですそこで三百年持たせるための工夫とは●地盤のつき固めは“よいとまけ”を行う 地盤を一万回地つきする、地固めには貝殻を用いる●地盤から三尺上がった場所に地固めした基壇を作り周りを石で固める●基礎に自然石を用い、基礎の上に柱を垂直に立てる 基礎は礎石とし、コンクリ-トは使用しない●高床にすることで床下からの木材腐食等を防ぐ 高床束立て工法を用いて、貫により剛性を高める●真壁構造とし、構造体は外気にふれるようにする。●貫を用いて筋交いは使わない●大黒柱は六寸角以上とし 他の柱もすべて樹齢50年~60年で五寸以上とする 箇所によっては丸太を用いる 躯体は特に、ヒノキ等の腐食しにくい材を用いる●防腐剤として、天然材であるカキシブ、ベンガラを用いる●接合部に金物は使用せず 楔(くさび)・栓(せん)で接合部を締め上げる、仕口・継ぎ手とする。●万一金物を用いる場合も和釘を用い、既成の金物・釘は使わない●屋根は瓦葺きとする●軒を深くとることにより、建物への水かかりを少なくする。●板金は、銅版を使いリサイクルする。●壁は漆喰・土壁とし、内部はパネル化し取り外し可能なようにする。●内外部ともリサイクル可能な木製建具を使う”よいとまけ”とは建築現場などで、地固めのために大勢で重い槌(つち)を滑車で上下すること、また、その作業に従事する人・・・ちなみにヨイトマケの唄と言って美輪明宏さんが創った唄があります。(差別語らしい) 和釘とは、現在、洋釘の需要が圧倒的ですが、神社仏閣・城郭などの古建築物の修理復元には無くてはならない物が和釘です。和釘は用途により頭の形状は様々ですが、軸の形状は全体が四角になっています。(稀に丸い軸のものもあります) 一本一本手打ちで仕上げる和釘の場合は、軸全体に微妙な凹凸が付き、鉄を真っ赤に焼き鍛えられた事で、木材に打ち込まれた後でも洋釘に比べ格段に腐食に強くなります。又、和釘は同じ太さの洋釘に比べ、表面積が広いという事も食い付きが良い理由のひとつです。100年前の和釘上記に書いてあるように、全て自然素材を使っています、中には場所によっては問題もあるかなと思いますが、実際に1997年から2001年まで建設しデ-タをとったようです。 今のサステナブル建築(持続できる建築)に繋がります やはり何事も純粋なのがよさそうです、ハイブリッドが今はやっているようですが・・血統は大切なようです、いろんなコラボもいいのですが、改修時、撤去時などの処分の方法を考えると気の遠くなる作業かなと思います。 ある意味スケルトン的な建築が構造体をチエックしやすいのでしょう・・・写真は日本木造建築在来工法より引用しています貫部分 貫と楔栓部分 登り棟真壁と貫と竹小舞 基本の基本の木造の建て方をされているように思います、いろんな意見があると思いますが一つのプロトタイプかと思います、何を選択するのかは、各自の自由な意志です。
2007.01.26
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経済とかのニュ-スでよく使う言葉で「老舗」(シニセ)がありますとか、 「お宅の店は老舗デンナ~」ハタマタ「うちが老舗ダンネン」・・・イメ-ジ的には、呉服屋でダンハンが帳場で伝票を繰っている姿?手をニギニギしている?和菓子、ちりめん問屋?・・果たしてその実態のシニセ「老舗」とは手元の電子辞書では:何代も同じ商売を続けてきた、格式と信用のある店、ロウホとも読むらしい 「仕似す(家業を受け継いで信用を得る)」の連用形から?ンン? 仕似す・・先代の仕事を守って仕事を似せる、「仕似せ」を大切にする店が 老舗になる、代々の仕事を受け継いで、客を大切にすることが 他の辞書では:〔動詞「しにす(仕似)」の連用形から〕 (1)代々同じ商売を続けている店。由緒正しい古い店。 (2)長年商売をして得た店の信用。 「商人は只―が大事ぞかし/浮世草子・永代蔵 5」 (3)先祖代々の家業を継ぐこと。 「かみは正直、商売は所がらなり―なり/浄瑠璃・天の網島(中)」 英語では :an old‐[a long‐]established store [shop] a store of long standing. 帝国デ-タバンクでは30年以上続いているのを老舗と定義しているようです。ちなみに日本最古の企業は金剛組の578年創業らしい・・・ギネスブック「東都のれん会」さんです全国老舗サイトさんです加賀しにせ物語さんです 他にも老舗が集まった組合などがあります、そこにはどちらさんモ「三代、100年同業で継続し、現在も盛業」との条件が書いてありました。ほかには、イレギュラ-で70年というのもありました、長崎しにせ会モットモ業種が異なればこのような予備校でも老舗とも使っています(参考) 老舗の使い方ははっきり言ってキチンとした定義がないようです、新聞社が一番いいかげんかも しかしこのまま推移しさらに100年経てば、増えるのかなと思うがその三代、100年継続、同業、現在も盛業となれば、やはり大変=信用につながるのでしょうネ建築設計業界も老舗と言えば、知っている範囲ですが 1903年(明冶36年) 横河建築設計事務所 1921年(大正10年) レ-モンド設計事務所 1924年(大正13年) 安井建築設計事務所 1928年(昭和03年) 山下設計 1932年(昭和07年) 東畑設計事務所 1946年(昭和21年) 日本工営 1950年(昭和25年) 日建設計 他創業年です、組織事務所はポリシ-は残っていきますが、個人のアトリエ的な事務所はなかなか存続伝承が難しいかも・・・でも偉大な建築家の名前で残っている事務所もあります。 最近その老舗が多くの分野で揺れ動いている気がします、別に上記の事務所とは関係ありません。中国でも老舗が経済発展についていけずに倒産も多いらしいです(参考)何が原因で揺れ動くのかそれは、私の分析では 1、廻りの状況についていけない、又は無理をする 2、正直な仕事ではない・・・誤魔化す、踏み倒す、消す 3、スグトップが辞職しトップが代わる 4、弱いものイジメ 5、忘れていましたと言う 6、一番大切な創業当時の考えが変わっていく 7、他参考に老舗企業の倒産増加の要因ニュ-スもあります、昨年のニュ-スより老舗であまり大きく展開することは並大抵のエネルギ-ではないでしょう・・・いまのベンチャ-企業がこの先「三代、100年同業継続、今盛業」コレをクリヤできるでしょうか?勿論残るところもあるでしょうが、やはり当たり前のことですが、衣食住の三つの事に携わる仕事が残っていくものでしょう。仕事の技術のあるべき姿の形のない誰にも盗まれない「老舗」を増やす方を考えた方がこれからいいのかもしれません。鉛筆一本で生きる・・パソコンいいやノ-トパソコンで生きる・・携帯で生きる・・・チョット異なってきましたが・・・ぼやかしておきます。
2007.01.25
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概要・・・紹介 理想的な風水モデルは四神相応で 北に気を穴に流し込む龍脈、高い山々があり 南には北から来る気を蓄える平野と池が広がり 東西に四つの方位を順に青龍、白虎、朱雀(赤いフェニックス)、玄武(蛇が巻きつ いた亀)の四神獣が守る 三方位を山で囲まれた土地でもある。 中国の崑崙山は世界中に龍脈を流す、すごい山で龍脈を流れてきた「気」はある場所でわだかまり「龍穴」「穴」「穴場」といわれる場所がそこ、鍼灸で言われるところがこれ、必ず吉穴は砂、水によって守られている。 その崑崙山に発した龍脈が、朝鮮半島の白頭山をキイ-にして智異山から海にもぐり、若狭に吹き出すそして白山を基地に富士山から日本全国に吹き出しているという・・・ 京都は北に比叡山、東に鴨川、南に大きな池、西に山と都市としては完璧なものだと聞いています、ちなみに東京は南東が海に開けているため、守れず・・・黒船の開国になったとも言われています・・・やがて京都に天皇が帰ってくる?(こんなわけのわからない事を書いてます) それとモウ一つ、北海道の札幌は裏京都説、札幌の古地図を見れば、宮城の位置に庁舎が位置し、その前面には賀茂川(鴨川)に似た創生川が流れている、それだけではなく京都の鬼門(東北)にあたる比叡山、これに対する円山は、反対の裏鬼門に位置する。そして平安神宮が東に対し札幌神社は西側により、賀茂川の流れと創生川の流れは南北逆・・・ これは北海道をロシアという異界に対する防御の基地として中間領域にするため裏京都という都市呪術を施した、札幌が裏京都だからこそ西洋風の町を出現させた なんとも壮大でウサンクサイと言われそうな話になりそうですが・・・ しかし、このあたりが、街づくり・・・建築に通じるものがあります こういえば、風水とは人を心から健康にし、癒しの空間を作るための環境手段で、建築とは、大地に打つハリなのでは?と思えてきます。 以上・・・「風水伝奇ガイア・インタ-ネット」毛綱毅曠(モズナ キコウ)氏より一部引用 ただ単に街を創る、建築を創るのではなく・・・「その場」の奥にある、大切なものを感じつつプランニングしないと「その場」のエネルギ-を使えないし、得ることができない。 以前そういった波動について弁理士に相談したが「個人的に興味があるが、科学的に証明できないと、私らでは対応できません」と・・・当然の答えですが、それを真に受けると新たな仕事の展開ができないような・・・それに何か見えないものを感じそれを形にすることが大切な部分だとも思います、但しキッチリとした根拠は必要なのは言うまでもありません。 風水とは、説得とかでなく、後で納得するものかもしれませんし、忘れていた大切なものかと思います。 しかしなおざりにできないところもあり、建築家がよく吟味しプランが自然とそういったプランになる事もあります。 例えば、建築家磯崎新氏の東京都庁のコンペ案なんかそうです、他の案は高層でしたが、磯崎氏の案は横に伸びるプランでした、横型の台形は五行の木(モク)、ピラミッド型は火、球形は金・・・木・火・金が水に関係の深い土地に立ち上がる(新宿に貯水場があった)とのこと・・・ このあたりは上記の本からの引用ですが・・・ 私も設計をしていて、良いプランを考えていると・・不思議とそういった家相にも合致するときもあります・・不思議です。 ヒョットしてそういった能力は自然に各々に備わっていて、誰でも持っていて隠れているかもしれません。 そのあたりをこれから多くの例を上げ、自分なりの根拠づくりをしていきたいです。 参考、風水研究家 今井雅晴(一級建築士) 今井氏のHP あなたの夢を実現させる 魔法の風水学
2007.01.25
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コンナ写真を見つけました・・・・http://ueba.net/の中から・・・Dusty Windshields Art です・・こちらにはたくさん描かれています 埃をあえてつけて創るのかな?またガラスが曇れば作家が出現なんてことになりそうです・・・ 瞬間芸の一つ?
2007.01.24
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建築家 毛綱毅曠(モズナ キコウ)氏 私は十何年か前に夜中に建築の紹介で見ただけです、その時「おかまっぽい?かな」(失礼)と考えましたが、大変面白そうな方で活躍をいつも見ていましたし、コンナ建築ン?と疑問だらけで本をよんでも中々理解できず・・・しかし最近になり理解でなく納得し感じるかなと思い、毛綱毅曠氏の建築を読んできました、ココニ全然足らないものですが、ブログに書かさせていただきます。 読んだ本は「建築の無限」と「風水伝奇ガイア・インタ-ネット」どちらも何じゃコリャ?でした 「建築の無限」はこんなフレ-ズがあります ・・・建築の動線は旋毛(ツムジ)まがり 空に竜巻起これば、海に渦潮あり、釈迦が螺髪なら、人の百会(トウチョウ)にも旋毛あって、その大海腹には臍のギリあり 視界の及ばざるところ例えば、宇宙の彼方に渦巻星雲あれば、魔羅(ヘノコ)の此方の螺旋菌なるものが寄生するらしい。 疣猪(イボイノシシ)の魔羅について知ってるかって。そいつはすり棒のようになっているそうな。「抱擁時、性器の中心において男根(ファルス)と陰門(ヴァギナ)は二重の螺旋形をつくる。それは我々の銀河のパタ-ンである」・・・・・・エリオット・エリクソン「エロスと精神性」 創造主はさながらサマラの塔とロクロの壷の一対を泥の手ひねりで造り、それに螺旋の息を吹きかけたのに違いない、するとその螺旋から飛び出した精子たちは、他方の螺旋空洞の壁襞を無限に登攀しながら、ついには宇宙卵にたどり着く。 「風水伝奇ガイア・インタ-ネット」はこんなフレ-ズ 風水の原則 減天機地理 勢 :地形からパワ-を判断・・・・山地の勢いが龍が駆けているように雄大ならば吉 形 :端正、厳粛な形を尊ぶこと・・・冠、燕の巣、酒樽を倒した形を吉 方位:地磁気との関係をもとに、建物が河川、道路、山地、ビルに対しどんな位置に あるか 場所が悪ければ土地改良し空間が悪ければ建築やデザインで手を加える。 方位が悪ければ位置を変える 昨今の近代建築化への反省の中で風水は建築と大地をつなげる方法のひとつを示したのでは?風水とは人が元気になる、癒しの空間を作るための環境術で、建築とは、大地に打つハリなのでは? 他香港での風水バトルのこともかかれていました・・・ 実際の建物は能登半島の石川県能登島ガラス美術館しかしりません、一昨年行きました感想は?「ン~ん・・・息を呑みます・・・プランとかじゃない何かの力を感じました」勿論平面プランとか、立面がどうたらこうたらでなく、氏の建築家としての思いだけでなく・・・いいもの・・と1991年 石川県能登島ガラス美術館 それらが風水を考えて理解するなら「ンン~と」なりそうです氏の最初の作品 1972年 反住器・・・釧路市「反住器」は、毛綱さんの「母の家」です。たまたま、私が行った時に、「反住器」とは、住むための器(うつわ)ではない、と言う事です。約8m・4m・2mの立方体の箱3つが「入れ子」で、3番目の箱が、氏のお母さんの寝室です。1980年 陰陽の間1982年 アイヌ民俗資料館1984年 釧路市立博物館・・・対外上は丹頂鶴のイメ-ジと聞きますが、本当は女性の一部とも言われています(失礼)・・・・1985年に建築学会賞受賞1984年 釧路湿原展望資料館1986年 釧路市立東中学校1987年 釧路キャッスルホテル1989年 釧路フィッシャ-マンズワ-フ1993年 にしわき経緯度地球科学館1997年 北海道釧路湖陵高校同窓会館1999年 丸亀市立城乾小学校(香川県)2000年 コンサ-トのある病院(釧路)2002年 白糖町茶路小中学校・・・・遺作 同じ建築をするものとして一体どのような図面を書き、竣工までのアプロ-チをしていたのか、本当に気になる方の一人です。
2007.01.24
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KEN-PLATZより【元泥棒の回顧録6】防犯カメラの死角から侵入――“体験談”から探る防犯対策2005/11/18 一見するとガードが堅そうな家でも、どこかしらすきがあるものだ。ガードの堅い家というと、神奈川県のみかん農家が住んでいた、大きな屋敷のことを思い出す。 正面の門扉と玄関扉には1台ずつ防犯カメラが設置され、真っ黒の番犬が見張っていた。この程度なら珍しくないが、塀を見て仰天した。複雑に折り曲げたバラ線を張り巡らせた高さ2メートル半ぐらいのブロック塀が、敷地を囲っていたのだ。バラ線の高さだけでも50センチはあっただろう。 通用門がいくつかあったが、下見のときはあえて防犯カメラが設置されている正面の門扉から侵入した。真下と裏が防犯カメラの死角になるので、真下をはうようにして通り抜けた。防犯カメラは見せたほうが威嚇になるとよく聞くが、むしろ隠してしまい、防犯カメラ作動中とでも表示しておくほうが私はいいと思う。カメラがむき出しだと、プロならどこが死角かわかるからだ。 番犬を手なづけるのはお手の物だ。「よしよし」と頭をなでて、竹輪やソーセージを食べさせ、私のにおいを嗅がせるだけ。2、3回やれば、私を見るなり尻尾を振るようになる。 下見中にちょうどいい足場を見つけた。ブロック塀の脇の物置だ。かなり高さがあるが、隣の家の雨どいから飛び移れそうだ。下見のルートより隣の家からのほうが人目に付きにくいぞ。ねずみ小僧顔負けの侵入手口 当日は、盗みに入る家の家族が出払う10時少し前に犯行を開始した。下見で決めたとおり、まずは隣の家の敷地に側道側から侵入した。敷地の正面には塀があったが、側道側には塀はなく植栽がうっそうとしていた。 侵入手口はねずみ小僧顔負けだ。隣の家の雨どいを上り、雨どいから、例のバラ線をまたいで物置に飛び移った。さらに、物置の脇に通っていた雨どいを伝って、2階の高窓から懸垂のような姿勢で部屋に着地した。入ったとたん、室内犬と出くわした。人懐っこい犬だったので気にせず犯行を続けた。下見で見つけた物置と隣の家の雨どいを足場にした 最初に札束を見つけたのは、2階の若夫婦の寝室だ。枕元にあったポーチのなかに、財布と封筒が入っていた。財布に5万~6万円、封筒に20万円。幸先のよいスタートだ。老夫婦は農作業中なので、普段使いの財布が家にあるはずだ。1階の茶の間を探したところ、婦人用と紳士用の財布が、コタツのなかと座布団の下からそれぞれ見つかった。あわせて10万円以上入っていた。床の間に置かれていた100キログラム以上ありそうな大型金庫の中身はあきらめた。大バールのような道具で壊さないと開かないからだ。そんなものを持っていると怪しまれるので、普通は所持していなかった。 帰りも行きと同じルートをたどった。1階から帰ったほうが楽ではあるが、カギを閉めて帰れないため、犯行に気づかれやすくなる。形跡をできるだけ残さないのが私の美学だ。【元泥棒の回顧録7】留守だと思って侵入したら、引きこもりの男を発見――“体験談”から探る防犯対策2005/12/19 住宅侵入盗の8割弱が、住人の不在中に侵入する空き巣だという。住人が居なくなる時間を綿密に下調べして実行するのだが、実は留守ではなかった、という経験もなくはない。印象に残っているのは、いまでいう“引きこもり”の若い男を発見したときのことだ。 狙いをつけたのは、母親と娘と祖父母の4人暮らしだと勘違いしていた、京都市街の2階建て住宅だ。高い生垣と竹薮に囲まれた、雰囲気のある古い数奇屋づくりのたたずまいだった。膝をついて室内を移動 隣家の庭にまず入り、ブロック塀を足場にして生け垣を飛び越えるという方法で、敷地内に入り込んだ。生け垣をかき分けなかったのは、侵入の形跡が残ることを極力避けるようにしていたためだ。衣類についた葉っぱを家の中に落とすリスクも犯したくなかった。 家のなかには、カギがかかっていなかった母と娘の寝室の欄間から、慎重な動作で侵入した。背中を向けて周囲を見渡し、人目がないことを確認してひょいと欄間に飛びかかり、懸垂で身体を持ち上げる。開口部には、頭ではなく足から少しずつ入っていくのが鉄則だ。室内では靴の上から靴下を履き、膝をついていざるように移動する。視線が低いほうが、万が一住人がいても気づかれにくいうえ、お宝やセンサーなども見つけやすい。女性はベッド下によく隠す お宝の隠し場所は、年齢や性別による傾向がある。たとえば、女性はベッドの下、男性は枕の下、高齢者は普段座っている場所の近くに置いていることが多い。この家も概ねそのパターンだった。最初に見つけたのは、母親のベッドの下だ。1万円札が5~6枚、布製の買い物袋のなかの財布に入っていた。 1階の祖父母の部屋には、敷きっ放しの布団と座布団、ちゃぶ台、茶だんすなどが置かれていた。早速、座布団の脇に置かれた黒いハンドバックのなかから財布が出てきたが、中身は小銭だけだった。「残念、はずれだ」 続いて、コートを着る季節でもないのに、鴨居にハンガーで吊り下げられた高級な男性用のハーフコートに目をつけた。大事そうに上から風呂敷を掛けている。これは怪しいと思いコートの内ポケットを探ったところ、使い古しの封筒に20万円ほど入っていた。ドライバーでつっかえ棒を倒して戸を開ける 2階は中廊下の両側と突き当たりに部屋があった。手前から順に部屋のなかをチェックし、突き当たりの部屋が最後に残った。入り口の引き戸を見ると、「勝手に入るな」とマジックで大きく書かれた画用紙が張ってある。そういわれると逆に入りたくなるのは、泥棒も同じ。ちょっとだけのぞくつもりで、戸に手をかけた。 戸はつっかえ棒で固定されていて、動かなかった。ますます見たい思いにかられ、持っていたドライバーを戸のすき間に突っ込み、つっかえ棒を倒した。「何やってるのー」と、とっさに声まで出してしまった。 戸は開いた。さっと物陰に隠れてのぞき込むと、若い男が入り口に背を向けて床に座っていた。男は振り返ることなく、鼻歌を歌いながらはさみで新聞紙を細かく切り刻み続けている。床には新聞紙の破片が山のように積み重なり、足の踏み場もない。窓はすべてダンボールでふさがれていた。 「なんだこれは……」 住人がいたことより、目の前の光景が恐ろしくなった。一目散に逃げ去った。【元泥棒の回顧録8】見張りに安心して逃げ遅れ、相棒との別れを決断――“体験談”から探る防犯対策2006/01/25 刑務所に初めて入ったのは20歳か21歳のときだ。その前に少年院行きの前科が3回あったので、1年半の実刑判決を受け、罪の重い犯罪者を収容するB級の府中刑務所に送られた。このとき一緒に捕まった相棒は、軽犯罪者用のA級で、通称「名刑」と呼ばれる名古屋刑務所に1年2カ月服役した。私の刑のほうが重いのは、主犯であるうえ、親が身元引き受け人を断ったからだ。見張りは歩き回りながら 狙ったのは小田急沿線の住宅地に建つ、大きな2階建て住宅だ。家主が出勤してだれも居なくなった10時半ごろ私が侵入し、相棒が見張り役を務めた。 見張り役は、近所の人に怪しまれないように振る舞う必要がある。相棒はカツラとちょび髭とだて眼鏡で変装し、一カ所に留まらず歩き回りながら監視した。訪問先を探しているように見せかけるため、近所のどこにだれが住んでいるかもきちんと下調べしていた。 私は得意の雨どいを足場にして、2階から侵入した。1階の寝室の床の間にカバーをかぶせて置かれている手提げ金庫を見つけ、1万円札が数枚入った封筒と小銭をいただいた。単独での犯行ならこれで退散した。しかし、このときは見張りがいて、下調べで家主は夕方まで帰ってこないと確信していたため、欲を出してさらに探し続けることにした。電車への乗り換えが失敗に そろそろ引き上げようとしていたとき、相棒が玄関からあわてて飛び込んできた。「親父が帰ってきたぜ」と言いに来たのだ。相棒とは、ガラスに石をぶつけて「逃げろ」という合図を送らせる約束をしていたが、それでは間に合わないほどの緊急事態だった。相棒の言いなりに玄関から出たところで、バイクに乗って戻ってきた家主と鉢合わせになった。「おい、何しに来たんだ。どろぼ~!」という家主の声が、近所に響きわたった。 二人で全速力で走った。途中でタクシーに飛び乗り、2駅先の駅で降りて電車を待った。タバコを吸いながらホームのベンチに座って電車を待っていると、駅の横にパトカーが2台停まっていることに気づいた。私服警官がこちらを見ている。さっきまでホームに居た人たちの姿が見えなくなっていた。 「逃げよう」と言う相棒に、「面が割れてしまった。もう観念しようぜ」と私は答えた。私服警察がつかつかと近づいて来て、取り押さえられた。酒と女好きの相棒に愛想をつかす いま思うと、なんとお粗末な状況判断だったかと悔やまれる。経験が浅かった。警察から聞いた話では、家主は忘れ物を取りに戻って来たという。どおりで行動が早いわけだ。玄関から逃げたり、電車に乗り換えたりしたのが失敗だった。見張りがいるという安心感も、警戒を緩める原因になった。 相棒とは、これをきっかけに手を切った。12歳で盗人の道に入り、支え合ってきたかけがえのない親友だったが、「このまま一緒に続けてもまた捕まる」と悟った。自分と違って酒好きで、飲むと時間にルーズになることや、付き合っていた女にすぐ会いに行きたがる点なども、気になり出していた。 判決後、相棒と別れる前に警察官が二人で話す時間を少しだけくれた。私は「今度、塀の中から出てきたら、お前はまじめな仕事に就いたほうがいいぜ。俺は一人でやっていくから、出て来てもお前を探さないよ」と宣言した。相棒は「そんなこと言うなよ。またやろうぜ」と誘ってきたが、それ以降、二度と二人で組むことはなかった。相棒はその後6~7回、刑務所に入っている。どのようにこの回顧録を読んでも明るくならない・・・防犯の勉強にはなるが・・・こうなったら最後まで紹介します。
2007.01.23
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世界最大240メートルの自走車両「バケットホイールエクスカベータ」世界最大の露天掘り用巨大掘削機で、現役でまだ稼働しています。1980年に建造が開始され、完成したのは5年後。総工費130億円、全長240メートル(イデオンの2倍以上の大きさ)。コメントは・・・GIGAZINEさんところより・・・1人では操縦できず、5人の操縦士が必要で、24時間フル稼働中。なので、中にトイレや台所まで完備。移動速度は分速10メートル。http://americatopten.blogspot.com/2006/11/largest-earth-mover-in-world.html・・・にありました
2007.01.23
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建築家 前川国男氏(1905~1986)は戦前・戦後を通じ近代建築の歴史に大きな足跡を残されました。前川国男氏生誕100年より 概略前川國男は新潟市生まれ。1928年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、パリへ渡り、巨匠ル・コルビュジエのアトリエで2年間モダニズム建築の理念を学びました。帰国後、前川はコルビュジエの著書『今日の装飾芸術』を訳出。同年夏には、来日したアメリカの建築家アントニン・レーモンドの日本事務所に入り、建築の基礎や技術などを学びます。そのかたわら、1932年、自身の処女作となる「木村産業研究所」(青森・弘前市に現存)を手がけました。前川国男氏生誕100年より 前川は、二人の重要な建築家から学んだ理念を、日本の気候・風土の中で実践し、日本文化の中に定着させることを理想として、1935年、仲間とともに独立し事務所を構えます。独立後の初仕事は、小さなバラックビルを改造した「森永キャンデーストアー銀座売店」(現存せず)でした。戦前は、様々なコンペ案に挑みながら、木造によるモダニズム建築にも挑戦し、1942年に建てた自邸(東京・小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存)には、前川の原点ともいえる空間表現が残されています。 一方で、建築技術の近代化、建物の耐震性、高温多湿な自然環境への適応性など、当時の日本の建築界が抱える多くの問題に徹底して取り組み、日本独自の近代建築とは何かというテーマを生涯にわたって追求しました。前川建築の大きな特徴は、建物全体を象徴的に統合する大きな庇(ひさし)のデザイン(東京・上野の「東京文化会館」など)、日本の伝統的な焼き物を用いた独自の構法である「打込みタイル」の開発(東京・丸の内の「東京海上ビル」など)、壁に囲まれた空間の単位を組み合わせて流れるような平面プランを洗練させるなど、欧米の建築にはなかった方法論を次々に生み出したことにあります。そして、それらが時間の流れに耐えて豊かに成熟し、環境に溶け込みながら風景を形づくることのできる建築のあり方を模索したのです。1961年東京文化会館 1960年京都会館1964年弘前市民会館1964年紀伊国屋ビル1966年埼玉会館1976年ケルン市立東洋美術館(ドイツ)1977年熊本県立美術館1981年宮崎県立美術館1985年東京都美術館前川国男氏の談「文化にしろ、建築にしろ、あるいは建築家の職能にしろ、アフォードするものでなきゃダメだ」というようなことを言われ、アフォード?」とは「『財布に見合う』とでもいうのかな」らしい ジェームス・J・ギブソンの『生態学的視覚論』のキーワードとしてアフォーダンスという言葉が注目され、今日では、景観論や街づくりの分野でも使われている。要するに、環境とか事物とかは、人間や動物の方からただ視られるものではなく、環境の方から動物に提供(アフォード)する情報を意味するというのである。 満月の満ち潮時の大量のカニの産卵のことを思い起こせばそのことはよく判る。人間も環境の中に住んでいるのであるが、その環境は単なる自然環境ではなく、自然と人間との相互作用、相互交通態(文化)の中に住んでいるのである。 環境の中での人間のそのような「住み方」を、前川国男氏は、「財布に見合う」という比喩で言われたのではなかったのか。 「財布」の中には、環境の方から提供された計量することのできない「価値」も入っているはずである、その「財布」のことを忘れて都市を造り、建築を建て、職能のことを論ずる空しさを語ろうとされたのではなかったのか。 外壁の打ち込みタイルの改良にあれほど熱中されたのも、「…人間に至る20数億年の進化の中で勝ち得た『価値観』を尺度として、ある技術の善し悪しを判断する」とまで言われた前川の執念からきたものであったといえよう以上「追想 JIAの建築家達」より
2007.01.23
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KEN-PLATZより・・・いつも夜中に元泥棒の回顧録なんか書くのは変といわれつつ書いてます。【元泥棒の回顧録5】塀の中で教わったホームセキュリティー狙いの外国人窃盗団の手口とは――“体験談”から探る防犯対策2005/10/19 警備会社のステッカーを張っている家には何度か侵入したが、警備員につかまったことはない。金持ちをアピールしているようなものなので、避ける気持ちより、やる気をそそられた。当時、よく目にしたのは、監視カメラや赤外線センサーだ。どこを監視しているかは見ればわかるし、裏手や2階には設置していないことが多かったので、避けて入ることは容易だった。 第3回で紹介した屋根から侵入した家にも、実は警備会社のステッカーが張ってあった。そのため、押入から寝室に入るときはセンサーやカメラがないことを確認しながらゆっくり動いた。1階の居間にも金目の品が飾ってあったが、私は現金しか狙わないし、防犯カメラが設置されていたこともあり、そこには近づかなかった。この家に限らず、お宝を飾っている部屋に監視カメラやセンサーを取り付けている家が昔は多かった。 私はセンサーに触れて警報を鳴らしてしまったときは、盗みをやめて一目散に逃げ出すことにしている。だが、警報が鳴っても気にせず作業を続ける泥棒もなかにはいた。塀の中で知り合った、外国人窃盗団のボスのKがそのタイプだった。ホームセキュリティーが入っている家ばかりを狙い、機器はすべて壊してから逃げるなど、いろいろな手口をこのとき聞いた。警備員が来る前に犯行を終えて立ち去る Kは「ホームセキュリティーを入れている家のほうが、入れていない家より安心して犯行できる」と話していた。警備会社に通報が届いてから警備員が駆けつけてくるまでの所要時間を、ほぼ予測できるからだ。事前の下調べでわざと警報を鳴らし、何分で到着するかを確かめていた。 Kたちは4人グループでいつも行動していた。1人は見張りとして車で待機し、3人が侵入する。センサーや防犯カメラにひっかかりにくくするため腰をかがめてゆっくり動き、機器を見つけたら壊すか持ち去る。電話線は切断する。ゴミ箱から機器を発見したこともあったという。 「機器を壊したら、警備会社が異常に気づいてすぐにやって来るのではないか」とKに尋ねたことがある。「到着するまでにどんなに早くても5分以上はかかるので、来る前に立ち去る」と教えてくれた。近隣住民に見つかってつかまる Kは金目のものは何でも盗んでいった。建物の壁をバールで壊して100kgぐらいある巨大な金庫を運び出したこともあるという。ひととおり探して金目のものが見当たらないときは、畳の下に現金が隠れている場合があることも、Kから聞いて初めて知った。 Kは手口こそ乱暴だったが、絶対に人は傷つけなかった。刑がずっと重くなるからだ。人を容易に殺傷する最近の外国人窃盗団とは、そこが大きく違っていた。 犯行現場の近隣住民からの通報で、Kたちはつかまった。犯行に使っていた車が狭い路地からなかなか抜け出せず、パトカーに包囲されてしまったそうだ。Kはその前に2回以上つかまっているので、恐らく、母国に強制送還されてしまっただろう。刑務所で知り合った外国人窃盗団のボスから聞いた手口は、セキュリティー機器をすべて壊して証拠をなくすものだった こうした情報はもう古いかもしれません・・・ 建物でよくセキュリテイを導入する施設も増え、大体は1階の窓・出入口くらい多くて上階へ伝って侵入可能な部分のみセンサ-をつけます、しかしココにも書いてある通り、警備会社の方は基本的には警察ではないので争って戦うことはしないと聞いていますし、犯人が去ってから確認らしいです・・・このへんはメ-カ-の営業の方から聞いた話ですが、実際は犯人と遭遇し大変な目にあう方もいらっしゃると思います。 結局は人の視線と道徳観に任せるしかないのでしょうか?物理的にやることはできますが・・・監視カメラ、出入口センサ-、窓センサ-、動体センサ-、ナドナド 特に文化財関係はサラニです、壁面の振動センサ-も設置します。 これは内緒ですが・・・時候?・・・大ぶん以前ですが・・・コレ系の建物を設計したときは「怖かった~」??窓・出入口のは重量シャッタ-、監視カメラなどものものしく・・・緊迫感がありました、幸い口封じには会いませんでしたが・・・ 余談ですが・・・でも法的に満足の行く建物でしたヨ記事とあまり関係ないですが・・・網走番外地 決斗零下30度本当は1974年の「ザ・ヤクザ」という高倉健の映画が好きですが・・・写真がなかったのでコレです、スミマセン
2007.01.23
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正直に言えばこのようなシステムではないが、10年程前に自転車を収納するのによくマンションとかでスペ-スの確保又は駅前なんかでこういった建築を考えました。 そのときは大量に、パ-キングシステムに吊り収納し登録番号を指示すれば出庫、入庫が自由にと考えた・・・大体自転車の収納は設計では50cm×200cmとして計算します。 もし吊れば大幅にスペ-スの削減かな?と考えていましたが・・・このような本当にキノコのような「バイクツリ-」を映像ですが観ると「シマッタ~!」とやはり実現しんないと絵に描いたモチになっちゃいます。 実際の使い勝手は、高齢者には難しいかも・・・それに事故対策ナンテ言ってますが、本音は悔しいからそんな事を言ってます。 そのバイクツリ- 使い方は動画を見ていただければ解りますが 入庫時 1、カ-ドを確認させる 2、装置が下がってくる 2、前のタイヤを少し上げ、柱の部分の装置に引っ掛ける?(ココが難しいかも) 3、自転車が上がっていく・・・ 出庫時 1、カ-ドを確認させる 2、自転車がツリ-から下りてくる 3、装置から自転車の前のタイヤを外す 4、さわやかに去る http://www.biketree.com/ 「about」をクリックしVideo Library の適応するModemをクリックすれば見れます。 これもGIGAZINEさんから探しました。
2007.01.22
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パソコンの画面の色で節電可能とは、マア微々たるものですが、しかしこれもチリも積もれば何とかで・・・ 背景が白いウェブページを表示する際の消費電力が74Wの場合、黒いウェブページであれば59Wで済むそうです。 この記事はGIGAGINEさんから引っ張って、まるで私の記事のようにしていますが、GIGAGINEさんです、私は仲介?でも面白いから引っ張りました、記事を Googleが一日2億ページビューであり、一回の検索につき10秒表示されると考えると、背景が白の時と比べて、黒では1年あたり3000メガワットの消費電力が削減できるそうです。そして1キロワットあたりの電力料金を10セント(12円)と考えると、年間30万ドル(3600万円相当)の消費電力の節約に結びつくとのこと。なお、白いウェブページを表示した時の消費電力を74Wとした場合、黄色は69W、青は65W、赤は65W、紫は61Wで、黒が59Wになるそうです。ちなみにその元デ-タ・・・http://www.microtech.doe.gov/EnergyStar/info.htm#display でも現実厳しいナア、知っていても何もできない、何か工夫はないのかな・・・? ちなみに私のCADの画面は黒ダ!
2007.01.22
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KEN-PLATZより【元泥棒の回顧録4】立ち話の最中に連続4件の侵入に成功――“体験談”から探る防犯対策2005/09/22 今回紹介するのは、一度に4軒の住宅に侵入したときのことだ。4軒中の3軒は平屋の社宅だったので、勝手口のドアの錠破りという同じ手口で侵入した。4軒にかかった時間はわずか15分足らず。盗んだ金額の合計は30万円を超えた。 最初は下見で狙いをつけた、共働きの年配夫婦らが住む端の1軒だけに入るつもりだった。慎重な私らしくないが、その場の状況判断で方針を変えた。 犯行時間は午前10時ごろ。狙いをつけていた家の勝手口から入って札束を探していると、隣の家から車のエンジンがかかる音が聞こえてきた。住民の夫婦が車で買い物に出かけるらしい。あいにく1軒目では2万円だけしか見つからなかったこともあり、2軒目にもお邪魔することにした。 2軒目はテレビ台の引き出しに6万円が隠されていた。この額なら引き上げてもよかったのだが、外で4~5人の女が立ち話をしていることに気づいた。かなり盛り上がっている様子だ。「このすきに侵入できるかもしれないぞ!」 隣の家は玄関前に掃除用具が出ていて、引き戸が開いたままだ。女たちはその隣の家の玄関先でペチャクチャやっている。この2軒を次のターゲットに決めた。マイナスドライバーで円筒錠をこじ破り 3軒目に侵入したのは、2軒目の隣にある、玄関の引き戸が開いていた家だ。引き戸は戸を動かすとガラガラ音を立てそうだったので、先の2軒と同様に勝手口のドアの錠を破って侵入した。玄関より勝手口のほうが通りから奥まっており、姿も隠しやすかった。 勝手口の木製ドアには円筒錠が付いていた。円筒錠はマイナスドライバーが1本あれば、ほとんど傷つけることなく、2分足らずでかんぬきをはずすことができる。ドライバーをドアと枠のすき間に差し込み、ちょっと力を入れる。空き家や捨てられたドアでさんざん練習した。3軒目は、仏壇の引き出しから現金20万円を頂戴した。 4軒目は比較的新しい2階建ての持ち家だ。勝手口のドアは前の3軒より頑丈そうだが、2階は侵入してくださいと言わんばかりの状態だった。窓は開けっ放し。バルコニーには足場となる縦樋や、身を隠すための洗濯物がちょうどいい具合にセットされていた。4軒目では、現金4万5000円をベッドの上のバックから見つけだした。 帰りは勝手口から出た。来たルートを引き返し、下見に使っていた公園にたどり着くと、立ち話の声がまだ聞こえてくる。 いつもならいの一番に姿を消すが、この日は煙草を一服ふかしてから立ち去った。同じタイプの家が立ち並ぶ密集住宅地は、連続して侵入される恐れがある ニュ-ヨ-クの自転車泥棒の映像・・・大胆!・・ http://www.gothamist.com/archives/2006/07/14/video_of_the_da_27.php・・・You tube より
2007.01.22
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村野藤吾氏は大阪心斎橋のそごうの近くに村野・森事務所があったのは覚えています、時々仕事の行き帰りに前を通る?だけでした・・・ 新歌舞伎、都ホテル東京、梅田換気塔、宝塚市役所などなど私は仕事で宝塚市の仕事で村野藤吾氏の流れを汲みデザインくださいと市の担当者からよく打ち合わせで話がでました。 実際はステンドグラス、屋根形状などあり楽しく仕事させて頂きました。 話は逸れますがそういった、一人の建築家が同じコンセプトで一つの街を創ることは大切なことかもしれません、但しチエック機能が必要でしょうが・・・ さて村野藤吾氏の作品を紹介します(よく建物を作品などと言うな!とありますが、アル意味作品なので使わせて頂きます)1953年 世界平和記念聖堂(日本建築学会賞・重要文化財)そのスケッチ1940年 橿原神宮駅(奈良県)・・・コレは本当に当時のママか調べていません1958年 大阪新歌舞伎座(大阪府)1960年 輸出繊維会館(大阪府)1963年 日生劇場(東京都)1963年 梅田換気塔(大阪府)1966年 宝塚カトリック教会(兵庫県) 形容しがたい独特の形状には、海外雑誌の広告で目にしたハイヒールのシルエットにヒントを得たという説があり、この教会の外観を連想させるスケッチも残されています。 1974年 みずほコ-ポレ-ト銀行(旧興銀)1975年 西山記念会館(兵庫県)1985年 都ホテル大阪(大阪府)1986年 宝ヶ池プリンスホテル(京都)
2007.01.22
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KEN-PLATZより【元泥棒の回顧録3】番犬がいたため、屋根瓦をはずして侵入――“体験談”から探る防犯対策2005/08/19 番犬を飼っている家はたくさんあるが、それで侵入をあきらめることは滅多になかった。下見の段階で餌を何度か与えれば、たいがいの犬がなついてほえなくなるからだ。あきらめたのは、キャンキャンよくほえる犬が室内で飼われていたとき。前もって手なづけられないので、室内犬は苦手だ。 犬を飼っていた家で忘れられないのは、屋根瓦をはずして侵入した名古屋での空き巣だ。屋根からの侵入は、これが最初で最後。 当初の計画では2階のバルコニーに面する窓から入るつもりだった。ところが、その近くにつながれていた犬にすごく気に入られ、姿を見せると喜んでほえるようになってしまったため、やむを得ず変更した。バルコニーや足場のある窓がほかになかったので、犬に気づかれない裏側の屋根からに決めた。 1階に窓がたくさんあったのに、上からの侵入にこだわったのは、1階だと人目につきやすいからだ。上からのほうがまわりの様子がよく見えるし、一般的にカギをかけていない窓が多い。私の場合は、9割以上が上の階の窓からだった。雨どいを足場にして屋根に上がる 屋根には、縦どいを足場にして上がった。これも私の得意の手口だ。具合がいいことに、といは地面から壁に沿ってまっすぐ立ち上がっており、左側には木も植えられて。そこで、右手でといを、左手で木をつかみ、するするっと登って行った。屋根に上がるまでの所要時間は1分足らず。3階建てでも、2分あれば十分だ。 といの材質は問わないが、しっかり壁に固定されていないと危ないので、必ず事前に揺らして確認した。屋根やバルコニーを貫通させたり、途中で曲げたりすると登りにくくなる。といをつくるときは、こうするといい。瓦を手でめくる 決行の日時は、月曜日の午後1時過ぎと、下調べの段階で決めていた。その家には70歳代の隠居と、めかけのような、身なりの派手な40歳代の女が暮らしており、日中は手伝いが通って来ていた。毎週月曜日は、女が運転する車に乗って隠居が午前9時半ごろ病院に行き、午後4時ごろまで帰ってこない。昼の1時から2時までは、手伝いが買い物に出かけるので、家にはだれも居なくなる。犯行に使える時間はたっぷりある。 屋根に登ると、まず全体を見渡した。現金が見つかる可能性の高い寝室の位置の目星をつけ、瓦を1枚ずつ、合計4枚手でめくった。瓦は針金で固定されており、その下にホチキス留めされたベニヤ板が敷かれていた。マイナスドライバーでそれらをはずし、手で持ち上げたベニヤ板をつっかえ棒で固定し、出来たすき間から天井裏にゆっくり降り立った。 小屋裏は真っ暗だったのでライターで照らすと、ほどなく点検口が見つかった。開けると枕と布団が積み重なっている。すき間から日の光が漏れていた。足で枕と布団をけってふすまを開けると、布団が敷きっ放しの寝室に出た。瓦を留めている針金をドライバーではずし、滑りにくい場所を選んで瓦を置いた。下地のベニヤ板を持ち上げてつっかえ棒で支え、足から侵入した 押し入れで手提げ金庫を発見 寝室はかなり散らかっていたため、ほかの部屋から物色を始めた。ベランダに面した書斎には絵画やかけ軸など金目の物がたくさんあったが、私は現金しか狙わない主義なので、素通りした。 再び寝室に戻ってひととおり探したが、小銭しか見つからない。最後に押入に残っていた布団をすべて取り出すと、風呂敷包みが出てきた。包みをほどくと手提げ金庫が現れた。 手提げ金庫ならお手のものだ。その場でカギ穴付近をマイナスドライバーでこじった。2分程度で開いた。 なかには茶封筒が4、5束入っており、合計100万円以上あった。これまでの最高額だ。ズボンのポケットに収まりきらない分は、胴の辺りに押し込んだ。 手伝いが戻ってくるまで、まだ時間が残っていた。1階も見に行ったが、大した物は見つからなかった。窓のカギはかかっていなかったが、1階から逃げるのはやはり不安なので、面倒でも侵入したルートから引き上げた。 布団と瓦は元に戻したが、枕だけは全部片づけられなかった。住民はいつ、侵入に気づいただろうか。泥棒の回顧録なんて「暗い」「いたたまれない」があえて紹介していきます・・・正直読めば読むほど腹が立つし、盗みに入った家のこと、盗みに入る人の気持ちを考えると・・・
2007.01.21
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ミース・ファン・デル・ローエ氏 1886年ドイツ、ア-ヘン生~1965年8月7日没ロ-エ氏の言葉に「God is in details」(神は細部に宿る)ロ-エ氏は大戦終了から直線による抽象的なスタイルを持つ独創的な仕事が展開する1923年までの間に、「表現主義」的段階を通過した。1921年:フリ-ドリヒ街摩天楼設計競技案-ガラスのスカイスクレーパー骨組みを高く組み上げた建物を本質的構造にまで露にしてしまう試みとして、「合理主義的」用語によって解釈されがちだが、鋭い形、ロマンチックなシルエット、光の反射と透過性のある外壁との豊かな戯れは、オフィス・ビルどころかガラスの教会さえ思い起こさせる、ユートピア的情感を持っている(タウトのガラスのビジョンに通じている?)。 ・ミ-スはこのテーマを更に発展させ、平面をコアから放射線状にのびる曲面形に変え、このガラスと透過性の実験について以下のように述べている。「ちょっと見ると、プランの曲がりくねった輪郭は、勝手な線のように見える。けれどもこの曲線は室内の十分な採光、街路から見た建物の組み合わせの効果、そして最後に反射の面白さ、という三つの条件から決定された。」1922年に計画したコンクリートのオフィスビルでは、少し雰囲気や形が変化している。空間を水平に置くことと浮遊する板のような表現を強調。建物全体は柱からの持ち送りに支えられた片持ちスラブで形成。平面は構造柱のグリッドから成り、その間に間仕切りが挿入されている。・古典的アプローチ (対称性、中心軸の強調、最上部の「浮かぶ」ようなコーニスの水平板)*このオフィスビルは、壮大なガラスの摩天楼よりは、その時代の技術で実現可能なものへ近づいている。 ・1923年:「G(ゲー)」グループを創立(ベルリン)・「形態至上主義」反対を宣言。・形態に関する理論的後ろ楯は、実用性と施工とに密接に関係。「労働の、組織の、明解さの、経済の、建築である。 明るく広々とした作業空間、妨げられない明瞭な空間。 最小の手段による最大の効果。素材はコンクリート、鉄、ガラス。」 ・明らかにこの夢想家は、地に足をつけたといえる1923年:煉瓦造田園住宅 彼の根本と成る概念が最初に明らかにされたと思われる作品。 ミ-ス・ファン・デル・ロ-エ煉瓦造田園住宅案1923年透視図及び平面図 平面は板が広げられたような壁から成り、その幾つかは周囲に伸びていっている。その間の空間は重なり合の原則によって、主軸に則ることなく規定されている。彼の着想は、装飾を剥ぎ取った古典主義の持つ価値、ライトの風車のような平面形の特色、そしてモンドリアンやファン・ドゥースブルフの抽象絵画との融合のように見える。ここでもやはり、絵画における抽象が建築へ実り豊かに転換されている。・しかしこの場合、ボリュームは完全に大地に結び付けられている・このような空間についての着想を三次元の建物として生き生きと表現する方法を、ミースが見い出すには更に数年がかかった。後の職歴を通じて、対照的で軸性を有し古典性を内に秘めた平面と、力動的回転と遠心的に広がる板に基づく平面配置との間を彼は絶えず揺れ動くことになる。 デッサウに移ったグロピウスは、建築における規格化という課題へいよいよ注意を向けるようになった。バウハウスに集合住宅研究が設けられ、それは、合理化された集合住宅のブロックは位置、空間、採光、換気、眺望への解放で最高点に達した。 1928年、グロピウスはベルリン郊外の社員住宅のためにジ-メンスに雇われる。フランクフルトやシュトゥットガルトは、すでにブル-ノ・タウト(彼は表現主義の日々から正気に返っていた)やエルンスト・マイを大規模な低価格集合住宅設計のために雇っていた。 ・開発された様々な標準モデル住宅は単純な箱のような形をしていた。 ・・「反ドイツ的感性」、「反自然」、「非人間的」、「機械的」、といった批判・厳粛さと統御された繰り返しという意図された美的効果には、退屈で生気ないものと誤解される危険が常にあった・建築家の規範と大衆のそれとの間の軋轢。 集合住宅の形態についての論争は、ドイツ近代建築内の様々な立場を明らかにした。機能主義及び合理主義の理想を主張し続けていた、「G」構成員幾人かの融通のきかない態度から、形態の詩学を建築にとって本質的なものとする、グロピウスやメンデルゾーンのような人々の「精神的」な情熱まで多様であった。実際は前者より後者に近かったミースでさえも、厳しい客観的態度についてくり返し述べていた。「我々は一切の美的省察、一切の教養、一切の形式主義を斥ける。我々はフォルムの問題を認めることを拒む。我々はただ建築の問題のみを認める。フォルムは我々の作品の目的ではなく、単なる結果である。フォルムはそれ自身としては存在しない。目的としてのフォルムというのは形式主義であり、それを我々は斥ける。」1927年:ドイツ工作連盟「ヴァイセンホ-フ・ジ-ドルンク住宅展」参加者:ミース(展覧会の設計及び、一区画の共同住宅)、グロピウス、タウト、シャロウン、J・J・P・アウト、ル・コルビュジェなど)展示は主に集合住宅のモデル・コルビュジェは二つの計画を設計・「シトロアン」住宅をより強調したもの・ピロティを効果的に引き立たせたより大規模な住宅。・シャロウンの設計は、湾曲した形のバルコニー、そして完全に異なる空間の性質とを持ち、近代運動における個性的で多様な解決策を思い起こさせる。 ・それでもなお圧倒的な印象は、全体としての表現が一致していることであった。その純粋な立方体というボリューム、装飾のない平滑な形、開放的な平面、機械時代のディテール。 ・ドイツの極右は即座に、国際的な共産主義の陰謀のさらなる証拠であると告発 ・近代建築の支持者達にとってこの展覧会は、後の1932年、アルフレッド・バーにおよって「インターナショナル・スタイル」と名付けられることになるものの特質を直接的に示したという点で、集合住宅に関する魅力的な教訓以上のものだった。1927年は、新建築にとって国際的なレベルで自己実現を果した決定的な年であった。 グロピウスは1928年にバウハウスを去り、その手綱をハンネス・マイヤーに委ね、更に、1933年までの数年をミースが指揮し、バウハウスは閉校した。しかし、バウハウスの理念が息絶えてしまったわけではなかった。グロピウス、ミース、モホリ=ナギ、ブロイアー、アルベルスが1937年に合衆国に移住するとき、彼らはその理念もともに携えて行ったのである。 以上、W.カーティス著、沢村明他訳「近代建築の系譜-1900年以降 上巻」、鹿島出版会、1990年 より ミースは、鉄とガラスを主な素材としたミース氏は、住宅よりも公共のスペースの方が似合っているように思ます。 初期の作品は数こそ少ないが、その後の様式をすでにしめしている。模型で鉄骨とガラス壁をつかった摩天楼をいくつかこころみている。バルセロナ万国博ドイツ館(1929)とチェコ共和国ブルノのトゥゲントハット邸(1930)が、初期の代表作である。これらの建築で、ミースはガラス張りにした横長の建物を考案し、大理石や木製の仕切り壁をできるだけ少なくして、内部をひと続きの空間としてあつかった。ミースの建築は、簡素で洗練された外観に特徴がある。「少なければ少ないほど豊かである」という彼の言葉は、20世紀半ばの建築の基本理念を明解にいいあらわしている。ミースは直線的で単純な形態で設計した。彼の建築は、巧妙な均整、優美な素材、細部の明確さの効果によるところが大きい。素材には大理石や縞(しま)メノウ(→ メノウ)、クロム合金(→ クロム)、石灰華などもつかっている。 1937年アメリカに移住し(ナチスが原因)、38~58年はイリノイ工科大学の建築学科長の職につき、後進の指導にあたった。アメリカでは高層ビル、美術館、学校、邸宅など数多くの建築を手がけた。アメリカの建築家フィリップ・ジョンソンと共同で設計したニューヨーク市のシーグラム・ビル(1958)は、ブロンズとガラスでおおわれた37階建てで、ガラス張りの摩天楼の傑作とされている。またイリノイ州のファーンズワース邸(1950)もガラス張りの建築で、邸宅建築の代表作である。NYのシ-グラムビル・・・日本では大正末期 今まで、敷地のグリッド一杯(いわゆる建蔽率100%)でセットバックされた摩天楼(超高層ビル)とは異なり、(上が細くなっていく形)道路から引っ込んで、前面にオープンスペースを用意し、四角い美しいファサードでガラス貼りのビルが建てられました。当事、これは大きな成功となり、ニューヨーク市はこのオープンスペースを奨励し、この空間を用意するのであれば、斜線規制を解除するという法改正がなされたのでした。ファンズワ-ス邸 1951年 イリノイ工科大学の建築学部長を勤めていた45年、エディ・ファンズワース女史(シカゴの著名な医師)から予算4万5000ドルで建築の依頼を受けた。しかし、完成した時は7万3000ドルかかっていた。当時、予算オーバーはよくあったというが、両者の間で金を払わない、払えと互いに訴訟問題になり、ミースが勝って、ファンズワース女史は全額払った。 ファンズワース邸は白く塗った鉄骨に四面ガラス張りの平屋建て。62エーカー(62×1200坪)もの広大な敷地の中に、周囲を林に囲まれて建てられている。週末、静かに思索にふけるための別荘として造られたが、ミースは住む人のことはあまり考慮しなかったようだ。例えば、完成した時、クローゼットはなかった。ファンズワース女史の要請で設置したが、ミースは設置を嫌った。洗濯する場所もない。開閉できる窓は1カ所だけ。夏は暑くて過ごしにくかったようだ。ただし、空気を入れる設備は2つあったという(今はエアコンが入っている)。暖房は温水式床暖房を採用(当時)しているが、暖炉は形だけの小さなものだけ。
2007.01.21
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世間に「置き薬」は知っていたが・・・「置き菓子」;「オフィスグリコ」をご存知でしょうか? 私は最近会社勤めではないので知らなかったのですが・・・ グリコが「オフィスグリコ」なるものを考えていまいした、最近職場で社員がお菓子を食べるらしい、私も時々定時が過ぎれば近くの店で夜食なるものを購入したりしていましたが・・・こんなもの・・・キット最初は楽しいかな?イヤ女子社員には歓迎かな?一つどれでも¥100-らしいです。 一週間に1回差し替えにまたメンテに来てくれるらしいです、しかしサ-ビスエリアは首都圏ぐらい? コピ-は・・・ オフィスのみんなのやる気を引き出すリフレッシュボックス 横190mm×奥行き265mm×高さ400mm (B5サイズのスペースでO.K.) 必要を感じたその時、職場で選べるコンパクトなお菓子箱、 それがオフィスグリコの「リフレッシュボックス」。 オフィスの様々な場面できっとお役にたちます。 仕事がひと段落したときに、リフレッシュ! 今日はなんだか疲れ気味。。。お菓子で効率アップ! 残業に向け、ちょっとお腹に入れて、もうひとガンバリ! コンパクトなB5サイズ! マア中味はリクエストもあるらしいので詳しくは解りませんが・・・惹かれました、中身は10種類程度、全部で24個らしい。 「オフィスグリコ」は、菓子の専用ボックス(「リフレッシュボックス」)や、アイスクリームの専用冷凍庫(「アイスリフレッシュボックス」)、アイスクリーム・飲料の冷凍冷蔵庫(「三温度タイプ」)を設置して職場に対し、グリコのサービススタッフが直接訪問して商品補充や代金の回収を行うサービスのようです。 我が家にも欲しい、1週間でいいから、モニタ-でお願い・・・グリコさん・・・しかし法人が条件なのかな。 我が家では多分、一日で消滅します・・・ 私は宣伝マンではありません、面白いから紹介しただけですので、ご了承を・・・ こんなので 「オフィスラ-メン」 「オフィスマクド」 「オフィス美女」 「オフィスド-ナッツ」 「オフィス・・・」 色々競合?しそう・・・・・ モット、変化して・・・「オフィスサプリ」?
2007.01.21
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GiGAZINEさんところで不思議なバス停・・・ソノママですロシアのバス停シリ-ズ?羽ばたけ?合掌?かまくら?何かの暗号?灯台?馬小屋?異次元への口?滑り台?カエル?なかなか洒落た部屋? これらを見られてどのように感じられますか? 私は・・・ア~バス停だ~とは解らないが・・バスが止まってはじめて解るのかな? しかし、面白い・・・どんな考えで創ったのかな? ロシアとか関わらず社会が異なればまた生活が違えば様々な捕らえ方の建造物があります、世界中には、また宇宙には・・・
2007.01.20
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KEN-PlATZより 【元泥棒の回顧録2】なかなか見抜けなかったラジオを使った在宅装い――“体験談”から探る防犯対策2005/07/21 私が推薦する留守中の泥棒よけは、窓にレースのカーテンを引き、かすかに外に音が漏れるくらいにボリュームを絞ったラジオを、外から見えない場所に置いておくことだ。名古屋市内の戸建て住宅を狙ったときに学んだ。 私は行き当たりばったりで実行せず、何度も下見する慎重な泥棒だった。その家にも幾度も通い、夫婦共働きで、二人とも朝出勤することをつかんでいた。そこで昼間行ってみると、いつも人の声がぼそぼそっと聞こえてくる。不思議に思いながら、侵入をためらう日々が続いた。 あるとき、それが人の声ではなくラジオから聞こえてくる音だと気づいた。だが、本当に人がいないか、まだ確信が持てなかった。 留守かどうかをインターホンで確かめる泥棒がいると聞くが、私はインターホンを信用しない。インターホンを押しても、居留守を装う人が多いからだ。 私がよく確認に使った方法は、窓に小石を投げることと、葉がついた小枝で窓をたたくこと。人がいると、大概、様子を見に来る。この家でも実行して、反応がなかったので、安心して1階の窓から侵入した。ガラスを割らずにクレセントをはずす 最近は窓ガラスを割って侵入する泥棒が増えているようだが、私はほとんどしなかった。わざわざガラスを割らなくても、錠を閉め忘れている窓が大抵どこかにあるからだ。だが、ここの家主はラジオをつけておくほど用心深い人なので、窓の錠はきちんとかけていた。 そうした場合によく使うのは、サッシのめしあわせにマイナスドライバーを差し込み、こじる手口だ。はずれ止めがついていない古いサッシだと、サッシが浮いてクレセントがはずれていく。クレセントが1カ所なら、作業時間は2分もかからない。ちなみに、クレセントが中途半端にかかっている場合は、ガラスをゆらすだけではずすことができる。 家に入るとすぐにラジオを見つけ、ボリュームを低く絞った。そのままだと周りの物音が聞こえにくくなり、警戒しづらいからだ。侵入した部屋は寝室だったので、枕の下を探ると、案の定、札束が見つかった。枕の下はよくある隠し場所だ。 札束はかなり厚かったので、それ以上物色せず、入った場所から帰って行った。侵入の痕跡はできるだけ残さないように心がけているので、ベッドはもちろん、ラジオも元のボリュームに戻しておいた。おい茂る木に身を隠す 侵入した1階の寝室は、通りに面する部屋だった。にもかかわらず白昼堂々と実行できたのは、敷地内の木がおい茂り、見通しがきかなくなっていたからだ。この通りから隣の家との間の路地に入り込み、枝を使いながらブロック塀によじ登って、敷地内に降り立った。留守だとわかるまでしばらく時間がかかったが、木があったので、安心して身を潜めることができた。全然関係ないけれど、ヘップバ-ンの映画よかった・・・本物の泥棒ではないが・・・
2007.01.20
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建築家 ウィリアム・メレル・ヴォ-リズム氏(1880年~1964年) ヴォ-リズ氏を理解したいなら。「近江八幡市へ行け」というほど周辺に建物が多いです ヴォ-リズ氏のHP彼は最初氏は英語教師として働いており、伝道の傍ら?アマチュア建築家として活動されていました(フリ-ペ-ジ参照)最後は日本の近江八幡で生涯を終えました)本来は教会建築が好きというか、伝道にもかなり力をいれていたようです。 それに建築設計と製薬で得た資金で社会貢献されてました、例えば「ツッカ-ハウスの話」 近年ヴォ-リズ氏の建物の保護するか否かで揉めてましたが・・・(滋賀県豊郷町立豊郷小学校)こういった建物の解体か保存はいつも揉めます、その時代の社会が要求しなければ建物は存在しないのでしょうか?このあたりはワカラン・・・がヴォ-リズ氏の残した精神性は残したいと思いました。 ヴォ-リズ氏はやがて日本国籍を取り、近江八幡市を中心に活動され、近江八幡市の名誉市民第一号のとなりました。 ヴォ-リズ氏の建築作品はHPを確認くださいhttp://www.omi8.com/vories/sakuhinlist.html その中でも少し気を引く建物大阪 大丸百貨店心斎橋1933年(昭和8年)4期に分けて建設 外観内部いままで学校とか教会だと思ってますが、このようなデザインに同じ建築家とは驚きました。近江兄弟社学園 1921年(昭和6年)大阪教会 1922年(大正11年) 外部と内部大正期の建築を代表する赤煉瓦、ロマネスク様式。阪神大震災で液状化にみまわれ、約10センチ沈下、高さ26メートルの塔には亀裂が走り、会堂正面と後部の壁が傾き、解体しかないという声が出ていました。しかし、日本建築学会が十数年前に調査し、詳細な学術報告にまとめていたため、早い応急処置と修復工事が可能となりました。’95年10月には、修復が終わり、倒壊寸前だった塔は、震災時に避難所に使えるほど強度を強めかつての姿を取り戻しました。総工費は1億3千万円。以前から行われていた会堂修復募金ではまかないきれないため、パイプオルガンによるチャリティーコンサートが行われました。('95.02.05 木野) 参考文献:1995年11月18日、読売新聞、三木健二 ヴォーリズ精神は永遠に ヴォーリズが満喜子夫人、両親と共に眠るのは恒春園です。ここには彼等だけでなく、近江兄弟社の社員、社友と呼ばれる人たちも一緒に眠っています。ここにヴォーリズが理想とした共同社会の一端を垣間見ることが出来ます。 ヴォーリズは、自分が創業した企業を"兄弟社"と名付け、社員には兄弟のように接していましたが、大正7年の事件はヴォーリズに大きな心の傷を与えました。 社員数名が規則を破り、飲酒、喫煙、遊郭通いをしていたことが発覚したのです。ヴォーリズは、これは自分達が自分達の主義主張の生きた手本とならなかったためだと考え、この際全社員が一旦総辞職し、その後、再献身の約束を立て、改めて復帰を望む者は定められた部屋へ来て署名するようにしたのですが、事件を起こした5名の者は帰ってきませんでした。 一人は詫びの手紙を残して去り、一人は帰って来ましたが二度目の失敗をし、しばらくよそで働いた後自殺したとの知らせが来ました。ヴォーリズはこの時去った5名に対する悲しみは深かったと『失敗者の自叙伝』に記しています。 恒春園は、現在の厚生年金休暇センター西側の山裾にひっそりと佇んでいます。恒春園の近江兄弟社納骨堂の前に立つと、眼前に大中の干拓地が見えますが、ここは戦前までは琵琶湖の内湖でした。 ヴォーリズが神の啓示を受けてやってきた淡海の地を眺めるには絶好の場所で、ヴォーリズと彼の主義主張を支えた兄弟たちにふさわしい終焉の地とも言えます。 [恒春園『ヴォーリズ建築事務所作品集』より] [提供:(財)近江兄弟社] 平成10年に発行された「写真集メレル・ヴォーリズ」の中に、エッセイスト阿川佐和子女史が次のように寄稿されています。教会だろうと個人住宅であろうと、ヴォーリズの建築には、慣れ親しんだなつかしい匂いがする。同じ空気が流れている。その空気を肌で感じたとき、私は、ヴォーリズという人間に少しだけ近づいた思いがした。そしてその精神こそ、私たち日本人が長らく忘れかけている大事な宝なのではないかという気がする。
2007.01.20
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「小屋の力」文中で気になった言葉「野の人」となりたくてフィ-ルドへ向かう。けれど未知の荒野へ足を踏み出した時代を過ぎて。「野の人」はもはや一人にはなりきれない。相手がたとえ機械や動物であっても全くの孤立はありえない。その時から小屋は「野の人」であることをつかの間、実感させてくれる夢の容れ物になった。あり得べからざる個を求めるなかで、小屋は力を放射する幻想の小屋さえ実現させ、閉じた空間に夢をはらむコク-ニングに向かう先に見えてくる小屋のかたちは拡散に向かうのか、あるいは収縮するのか。時代が加速度的に複雑化の度合いを深めればそれだけ都市対自然の対立は先鋭化に向かい小屋のかたちは夢の装置として動き続けるそれはラジカルなかたちを志向し紐帯のようにわれわれと夢を結びつけてくれるだろうだから小屋は力を失わない世界のどこでもわれわれを守り、生きろとせかしている。チョット大そう?かも知れないが、ややこしくて好きですタダノ小屋をそこまで・・・とはやはり目の付けどころ、視点でしょうか?マダマダ小屋の行方 塚原由晴氏日本の都市風景と言うのは、異なった社会性が重なりあってできているそんな中で設計の仕事に求められるのは、多くの場合そのうちの特定の社会性を確認しうるものを作ることである。本質的な想像力を欠いても体裁だけは整え本末転倒が起こる、地方自治体の建物、作家性ばかりの建物、と建築家もある種の社会に閉じ込められている。だから多重性のある風景の中にいるのだから、その間を縦横無尽に横断し、関係を巧みに操作できてこそ自由ではないか、そのような戦略で建築デザインを考えると一般には建築とみなされないボロボロの小屋も立派な建築である。超高層ビルから小屋とすれば小屋が最下層ではなく上が社会性があるという考えは間違い。それぞれの建築で社会性があり、建築をデザインすることは、この様々あって入り組んだ社会性を解きほぐし、ぴったりのところに照準をあわせること。そして、建築家 黒川紀章氏は本の中で・・小屋とカプセルを繋げて・・・以下「カプセル建築のコンセプト」1、 建築の解体・・・・建物を生命に近いものとするとカプセルが基本だった2、 個人主義の確立・・自我意識を持ったことのない国民が危ないのは集合すれば怖 くないいう事3、 日本の伝統・・・無常つまり常に変化すること黒川氏の考えるカプセルはニュ-ギニア奥地の人々が使うペニスケ-ス、一番近いところだけを守り他は自然と一体になる。カプセルショップ:江戸時代には約500があったと、塩物、乾物、初鰹、白魚、剥き身、シジミ、鯉、豆腐、海苔、油、なべ釜修理、瀬戸物焼き接ぎ、紙屑買い、などなどつまり自分の生活の外にコアがあった以降シェルタ-は補強され生活のコアが家に入り込み間取られていった。黒川氏は「カプセルホテル」を最初に設計されました、下の写真は1972年に建設された「中銀カプセルタワ-」でも昨年保存されずに撤去が決まったようです、現在のサステナビリテイ(持続可能な)につながるようでもあります・・・考えが・・・建築の新陳代謝を目指していたようです、構造体に各カプセルをボルトで繋いでいるようです。読めば読むほど面白い本です「小屋の力」他にも海外の小屋のレポ-トなども書かれてました。
2007.01.20
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少し物騒な話ですが・・・・ 建築の防犯が言われはじめて久しいですが、最近の元泥棒さんの解雇録を紹介します。 私も以前設計で例えば団地なんかでは、暗がりを設けない、視線がある建物、隠れるスペ-スを避ける、などなど考慮しますが・・・イザ設計が始まると路地が欲しいとか、子供が隠れる、遊べる場所が欲しいなどと・・・食い違い?などが発生してきます、このあたりを上手にプレゼンしアプロ-チしていくこともあります、時々相手の言い分に引き込まれそうになりますが、最初の考えを貫いたり、方向を修正しながら設計するのは楽しいがエネルギ-がいります、この防犯上の考慮も同じです。関係ありませんが・・・山本周五郎氏の「泥棒と殿様」の写真ken-platz より・・・【元泥棒の回顧録1】真夜中の浴室で入浴中の女性と鉢合わせ――“体験談”から探る防犯対策2005/07/21 「私は12歳で盗っ人の道に入り、30歳代半ばまで“稼業”としていた。その間3回つかまり、延べ10年以上にわたって服役した。足を洗って30年たつが、当時のことはいまでも鮮明に覚えている。 ひょんなことから数年前、警視庁のある警視に防犯活動への協力を要請された。以来少しずつ自分の経験を話すようになってきた。日経ホームビルダーにも2005年1月号の特集で協力している。過去の体験を書きつづったことはこれまでなかったが、どうしてもと頼まれたので、印象に残るいくつかを告白することにした。 面格子をはずして住宅に侵入したことは何度もある。そのなかで、いまでも脳裏にこびり付いているのは、石川県羽咋市の戸建て住宅に、深夜0時ごろ決行した忍び込みだ。うかつにも、若い女性が入浴している最中の浴室に侵入してしまったのだ。 浴室や寝室の電気が消えてしばらくたったので家の人が寝静まったと思い、浴室の面格子をはずして窓をゆっくり開けた。浴室に右足を踏み込んだとたん、「キャー!」という叫び声とともに、浴槽から人影が飛び上がった。私はあわてて顔を隠し、一目散に立ち去ったので、つかまらずに済んだ。相手が男だったらと想像すると、いまでも震えが走る。ドライバーで面格子のビスを緩めて手で引っ張る この家で浴室に侵入口の狙いを定めたのは、一番人目に付かない場所にあり、窓が開いたままだったからだ。面格子は付いていたが、事前の下調べで簡単に取りはずせるタイプであることを確認していた。お勝手にも面格子付きの窓があり、やはり開いたままだったが、小さな電球が点灯していたので避けることにした。 面格子は縦組みで、上下6カ所をビスで留められていた。そのうちの2~3カ所をマイナスドライバーで緩めた後、手で引っぱって取りはずした。かかったのは1~2分だ。このときはマイナスドライバーを使ったが、細長い棒状の金ノコや金やすりで格子を切ることもあった。 面格子はビスを数カ所はずせば、手で曲げたり引き抜いたりできるものが多かった。壊すのは容易だと考えていた。音が立たない点も都合がよかった。私は細身の体型だったので、格子を1本はずしただけで侵入できたこともある。」 以上元泥棒さんの話ですが・・・建物は入ろうと思えばいろんな方法がありますが、ソフトとハ-ドを組み合わせることが大切ですね。 意外と簡単な仕組みも多いと思います、建築家がこれでいいと思っても習慣になっているかも知れず違った目線からのチエックが大切でしょう。
2007.01.19
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「小屋の力」これは、マイクロ・アーキテクチャMicro Architecture ワールド・ムック310から出版されています。480頁定価3,800円(税込)オンラインでも特集されています・・・「小屋の力」●小屋は建築の原点命をつなぐシェルターに原点を持つ小屋。そこを出発店に土地と風土に育てられ、文化に彩られてきた小屋を幅広い分野の写真家と執筆者により多面的にとらえる。そこに浮かび上がる知恵のかたち。執筆陣:島崎誠、西尾忠久、西原理恵子、織田憲嗣、片岡義男、海野弘、岡田斗司夫、玉井一匡 他 ●黒川紀章インタビュー40年前に「カプセル建築」を考案した黒川氏に、21世紀に出現する小屋について聞いた。そこで語られた「共生の思想の中にあるカプセル」はまさに次世代の「小屋」を予感させる。●アーティストと小屋創作をうながす小屋を探る:バーナード・ショウの執筆小屋。思想家ヘンリーD.ソローのウォールデン池畔小屋。トレーシー・エミンの小屋。佐伯裕三のアトリエ。レイモンド・ローウイの宇宙カプセル。母袋俊也の「絵画のための見晴らし小屋」。唐十郎の「紅テント」他 ●小屋の光と影移民の国、アメリカにおける小屋のかたち。新大陸に渡った人びとの暮らしを励ましてきた家のかたちと、背後に見え隠れするネイティブ・アメリカンの知恵の住まいとの関わりを追った。 ●世界各国に見る小屋のかたち日本 丹後半島の伊根町“舟屋”/春日大社の降臨の小屋/どんど焼きの小屋/博多の屋台ドイツ 大都市の“別荘”クラインガルテン アフリカ マリ共和国の泥の小屋アメリカ 牧場に建つ雄々しきバーン 南米 チチカカ湖の葦の家インド 色彩踊る屋台 インド 100円で借りるインド洋の小屋フランス プロヴァンス地方の小屋スケッチ デンマーク エーロ島の小屋 ・・・・以上書評より・・・ 小屋は建築の原点・・・身近にある何気ない建物 田へ水を引く 「モ-タ-小屋」 車を入れる 「車庫」 駐車場の 「管理小屋」 バスの 「停留所の小屋」 農機具を入れる 「小屋」 畑の片隅の 「作業小屋」 源泉の 「温泉小屋」 漬物を作る 「小屋」 船を入れる 「船小屋」 見世物 「サ-カス小屋」「芝居小屋」「お化け屋敷」 山頂の 「山小屋」 海辺の近くの 「漁師小屋」 工事現場の 「現場小屋」(マア事務所といいますが) 茶を楽しむ 「茶室」 寅さんの 「屋台」 ・・・・・・・・・・・・一杯あります その辺に目をつけ写真集を出すなんて、鋭い・・・視線が・・ また小屋がそこにあるから入りたくなる、そして小屋があるだけでその空間には何か得体の知れぬ次元があるような・・・ 話は変わりますが、昔建築を学ぶ苦学生?の頃、ある学生が偉い教授に問いました「教授いまある、トタン葺きの建物は将来文化財になりますか?」とか何とか聞いたと思います・・・・ 教授は「・・・君それはわからん、その時の社会が決めることだ」とか何とか言いました。 この「小屋の力」という写真を見ていると本当にそうです、人が社会がその時要求されて発生する・・・まさに究極の自然発生的な、「そこにいりますケンなあ~」と何の深い考えもなく、必要だから建てる、使うから建てる、ウンコをするから小屋を建てる・・・そこに建築の大そうな思想とか難しい構造とかナイ・・・ 原点・原風景・・・ダ・・・そこには耐震偽造なんか入る余地もナイ、管理がどうたらもナイ、コストが~もナイ、断熱が~もナイ・・・・ 必要で建て、必要なくなれば壊し、見捨てられたらソノママ・・・・ 結局建物は人間がかかわるから、ズット係わらないといけなくなる、ということは、係わらなければいいのだが・・・建てて壊すこの連鎖を簡単に単純にできれば、できるほど、地球に環境に優れたものでしょうと感じます。 これからの建物に求められる一つの条件かもしれません。建築家の藤森照信氏は、書評でこういうコメントを発している。「人はそれを前にすると詩人になる」オオ~すごい・・・小屋で詩人になっちゃた~ 庄内拓明氏のHPより 建築学的にみれば、「小屋」 というのは、ベルサイユ宮殿やエンパイアステートビルなどに代表されるメジャー建築の対極にあるものなのだろう。"ラグジャリー" とか "ステイタス" とかいうコンセプトからは最も縁遠いもので、それだけに 「身の丈」 に馴染むものがある。 "ラグジャリー" といえば、ニューヨークでは、かの9月11日の同時多発テロ以降、ルイ・ヴィトン、グッチ、プラダ、シャネル、フェンディといったラグジャリーブランドのショップがガラガラになってしまったという。 ニューヨーカーがこうした高級ショップで買い物をしなくなった理由として挙げられるのは、「ショッピングを楽しむ気分になれない」 とか 「この先どうなるかわからないから、高いものを買うより貯金しておきたい」 ということよりも、「ブランドにこだわる必要を感じなくなってしまった」 というのが上位に来るらしい。 これまで高級ファッションを購入していた女性が、9月11日を境に、「どうして自分がそんなものに大金をはたこうとしていたのか、わからなくなった」 と答えたというニュースがあった。 あの事件を契機に、世界の構造は確かに変わってしまった。星条旗を打ち振るだけでは取り返せない何かが失われてしまった。それは失われたというよりは、「確固とした存在と信じていたものが、実は幻想といえるほど脆弱だったと露呈した」 という方が正確だろう。 あの威風堂々としたワールドトレードセンターのツウィンビルが、あれほどヴァルネラブル(脆弱、攻撃誘発的)なものとは、崩れ落ちるまで誰も気付かなかったのである。 ここからは、別の視点で語ろう。「偶像崇拝」 を禁じるイスラム原理主義者たちは、実は 「アメリカ的なるもの」 や 「資本主義的なるもの」 を現す 「偶像」 を憎悪していただけのように思える。「偶像崇拝」 が害毒であると同様に、「偶像憎悪」 も真実を見誤らせる。アッラーが教えたのは、言葉を変えて言えば、「偶像を相手にするな」 ということなのではなかったか。偶像憎悪は単に 「裏返しの偶像崇拝」 だったということに、彼らは気付かなければならない。 「カタチ」 あるものは、すなわち 「幻想」 である。贅沢さで精神的満足を得ようという時代は、確実に終わりつつあるが、その贅沢さを目の敵にする時代も終わらなければならない。 我々は無一物ではいられないかもしれないが、粗末な 「小屋」 にいて瞑想し、イマジネーションを拡大することなら、できるのである。 以上HPより、一部変更しました。参考写真(小屋maniaさんHPより)自分の資料が少ないので「小屋mania」さん」より拝借しました、全て私的に利用しています。
2007.01.19
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超高層ビルといえばどのようなイメージでしょうか 超高層、英語ではSkyscraper(スカイスクレイパー、「空(sky)を削る(scrape)」の意味)、またはSpire(スパイア)などと言われ、建物に命名する時は『塔』を意味するTower(タワー)を用いる事もあるようです。日本語ではSkyscraperの訳語で摩天楼と呼んでいます。また、建物の縦横比において、縦の数値が大きければ大きい程美しいと言われています、日本の超高層ビルでは、縦横比が1:3前後の建物が多いようです。 私のイメ-ジはNYのマンハッタンのように見上げるばかりのコンクリートの山々が連なり頂上は雲の上・・・それに夜景が優れている・・・沢山の人々が働いている・・・それにキングコング・・・9・11のイメージ等・・・マア、チョモランマには比べものになりません。 でも分野が異なれば超高層もとらえ方が異なるもので、アル気象学者が超高層と聞くと「アア~建築もそんなところまで」と関心したらしく・・それもそのはず捕らえ方が気象学者では成層圏ぐらいの受け取り方をしていたようです。 しかし日進月歩で現在1Kmを超えるような超々高層ビルも計画されています・・・どうなるのでしょうかEVは?通勤時間は?トイレは?鳥は?飛行機は?・・・ 高層ビルは、その辺の町の人口と同じ位働いています、概略ですが15万m2で約1万人の方がいます、日本の横浜ランドマークタワーでも約40万m2あるから約3万5千人の方が働いている勘定でしょう多分・・・もうこうなりゃ本当に一つの街です。一番興味がある高さは世界の高層ビルを比較したHPがあったのでそれを見れば一目瞭然です 世界超高層ビルランキング 他同じHPで超高層ビル情報を見れば詳細は書かれています また別の比較表・・・・http://www.skyscraperpage.com/diagrams/?1241105 第二の高さのペトロナスタワ-(クワラルンプ-ル)の一つは日本が施工し片側が韓国が施工し施工の精度か韓国側は傾いているそうです・・・現地では問題だとネットで見ました「報知新聞過去の記事から現在、高層ビルとしては世界一の高さを誇りマレーシアの象徴とも言われて いる同国石油会社所有のペトロナスタワーが完成当初より約0.8cm傾いている ことが国立マレーシア大学建築研究チームの調べで一日わかった。ペトロナス タワーは二棟で構成されているツインビルだが、その施工には日本と韓国の 建設会社が片方ずつ携わっており今回傾いていると指摘されたのは、どうやら 韓国側らしい。同研究チームの責任者の話によると0.8cm傾いているからと いってこのまま進むと倒れるということはないが、最大で4.5cmまで傾くの ではないかと予想している。韓国側施工棟は完成当初からテナントの入居が 少なく今回の調査の判明により更に拍車がかかるとみている。 」 でも韓国に関わらずこれだけ大規模になれば致命的なミス以外はミスはあると言う頭でミスをなくさないとだめでしょうね。面白いHPで「超高層ビルとパソコンの歴史」と言うのがありました。日本の超高層ビル・・日本においては、法律上高さ60m以上の高さのビルが該当し、一般的には100m以上の高さのビルの事を指す場合が多いようです。そして摩天楼(まてんろう)という別称があります。横浜みなとみらい21のビル群です 超高層ビルの設計手法はまたフリ-ペ-ジ等で掲示したいです、今日は三面記事のようになっちゃいました。
2007.01.18
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アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel,)1832年12月15日 - 1923年12月27日フランスの技師、建設業者 エッフェルはフランスのみならず全世界を股にかけて鉄橋や橋を架け続けてゆきます。都市のシンボルとしてエッフェル塔に並ぶ、マンハッタンの自由の女神。エッフェルはこの巨大な女神像の鉄骨の設計を手掛けました。 あのエッフェル塔を創った方です、当時デザインに論争があったらしいです、新しい?ものを創るときはエネルギ-がいったのだと、それに周囲はわからぬ何か社会体制が要求するものがあったのでは・・・ 最近でも景観論争はあの「ポンピド-センタ-」も1977年に出ましたが、あの配管丸出しのデザインに市民はなじめず反対していたそうですが、今ではいい建物だという判断の部類ということです。設計者はレンゾ・ピアノ氏とリチャ-ド・ロジャ-スです、レンゾ・ピアノ氏はあの関西新空港を設計された方です。そのポンピド-センタ- 私は以前、当時の建築家が自分が設計した建物には自分の部屋を創るという、何処で聞いたのかそういうことをしたくてこの業界に入ったのだが・・・一度もそういった恩恵にあずかることなく今に至ってます、エッフェル氏もそいったことがあったようなことを読んだことが・・・ だからあまり知りません・・・とりあえず写真をまずエッフェル塔・・・エッフェル塔は、フランス革命100周年を記念し1889年開催されたパリ万国博覧会のために、建築家でもなく芸術家でもない高架橋技師によって建てられました。 他うんちく 「鉄の魔術師」と呼ばれた彼が54歳の時に挑んだのが、世界一の建造物、エッフェル塔でした。フランス革命100周年を記念し1889年開催されたパリ万国博覧会のために、建築家でもなく芸術家でもない高架橋技師によって建てられました。当時301mだった高さは、テレビアンテナが設置された1957年には321mと更新されました。エッフェル塔は3つのテラスからなる3層構造。エレベーターは最も古い形式で、第1テラスまでは鉄塔の傾斜に沿って上昇していきます。第2テラスの名物は、パリを一望できる1つ星レストラン「ジュール・ベルヌ」。最上階の第3テラスからは、パリのパノラマを楽しむことができます。そんなエッフェル塔誕生のきっかけとなったのは、じつは暗い出来事でした。 1871年、フランスはプロシアとの戦いに敗れ、アルザス・ロレーヌ地方を奪われてしまいます。敗戦の屈辱から立ち上がるため、フランスは産業の増強に力を入れ、世界一の工業国を目指しました。その力を誇示するために計画されたのが、フランス革命100周年記念の万国博覧会。時の首相デ・フレシネは、そのシンボルに「前代未聞の壮大な構想(グランド・イデー)が必要だ」と宣言しました。公募による計画案は107にも上り、最終的に2つの案に絞られました。その1つが首相の友人で著名な建築家ジュール・ブルデの「太陽の塔」で、今でもオルセー美術館に収められています。高さ366mの太陽の塔はパリの街全体を照らし、最上階には病院を作るという計画だったといいます。結果的にエッフェルの案が採用され、1887年、工事が開始されました。しかし、それは20年で取り壊されることを前提に始まった史上最大の塔の建設でした。最初の作業は4本の脚を支える台座の建設。深さ25mの型枠にコンクリートを流し込み、石積みの台座を作り上げていきます。そこから延びる脚の角度は34度35分26秒。これは完璧な安全を確保するためにエッフェルが割り出した数値です。台座の上に鉄骨が組まれ始めると、エッフェル塔は徐々にその姿を現しました。やがてそれは猛烈な拒絶反応となってエッフェルに押し寄せました。急先鋒となったのはパリの文化人たち。中にはアレクサンドル・デュマやモーパッサンなどの著名な作家たちも含まれ、芸術家たちによってエッフェル塔建設の反対請願書が出されました。景観論争がヒートアップする中、誰よりも早くから虜となった芸術家がいました。複製版画の彫り師として生計を立てながら、画家を夢見ていたアンリ・リヴィエール。彼の人生を劇的に変えたのは、北斎の浮世絵でした。北斎に衝撃を受けたリヴィエールは木版を彫り、浮世絵を作り始めます。テーマはエッフェル塔。工事現場を歩き、塔の構造をつぶさに観察し、パリ中を歩き回りながらエッフェル塔のある風景を版画の中に刻んでいきました。そしてリヴィエールは1本の塔がパリの風景を優雅に統合し、豊かな調和を作り出すことを発見します。その美の力に気づいた時、パリという街は静かに、確実に変貌を遂げていきます。1889年3月31日、世界最大の鉄の塔はついに完成しました。エッフェル塔をシンボルにしたパリ万国博覧会は華々しく開催され、「エッフェル塔に登ろう」が人々の合言葉となりました。前代未聞の人気に、批判や非難の声は消え失せ、会期中200万人もの人々が押し寄せました。万博が終わるとその人気も一気に冷めましたが、1900年のパリ万博が近づくと、20年の保証という協定があったにもかかわらず、エッフェル塔の再建計画が持ち上がります。しかし、この計画に猛反対したのがエッフェル自身でした。大激論の末に出た結論は、「塔がそこにあるから残す」という消極的なものでした。しかし、エッフェル塔は新しい時代の精神と芸術を生み出していきます。点描画のスーラは印象派と呼ばれた画家たちの中で、エッフェル塔を描いた画家。精緻な色彩の理論と深い叙情で世界を見つめようとしていた彼が、エッフェル塔に出会ったのは亡くなる2年前。スーラは光と色彩の喜びを描きました。ロベール・ドローネーは、あらゆる角度から見たエッフェル塔の姿を1枚のキャンバスに描きました。今すべてが同時に存在しているという感動を、色彩で語ろうとしたのです。20世紀初頭、花の都と呼ばれたパリは、世界中から多くの芸術家たちを集めました。23歳のロシア人青年マルク・シャガールもその一人。1910年、シャガールは恋人を祖国に残してパリにやって来て、モンパルナスのアトリエで絵の制作に没頭します。初期の代表作『7本指の自画像』は、キュビズムというパリの新しい風を受けながら、祖国ロシアの風景を描く、画家自身の姿を描いています。頭上には故郷の街の風景、窓の外にはエッフェル塔。これはパリに捧げたシャガールの讃歌とも言えました。エッフェル塔の長い歴史の中で、エレベーターが停止していた時代があります。1939年の第2次世界大戦時、ドイツに宣戦布告したフランスは、その1年後に降伏を余儀なくされ、パリはドイツ軍に占領されます。しかし、それに抵抗したのはエッフェル塔自身。突然エレベーターが動かなくなり、それは占領下の4年間にわたって続きました。 4年後、連合軍の総攻撃によってドイツ軍の敗戦が濃厚になっていくと、ヒトラーはパリの歴史的建造物やセーヌ川の橋を爆破して、街を廃墟にするように命じました。エッフェル塔にも橋脚の部分に大量の爆弾が仕掛けられたましたが、爆破が実行されることなく、1944年8月25日、パリの街とエッフェル塔は救われました。エッフェル塔の第3層の最上階に、エッフェルが使っていた研究室があります。時に友人である発明王のトーマス・エジソンと語らいながら、彼は91歳の生涯を終えるまでこの部屋で研究を続けました。高さという勲章が失われ、いくつもの時代を経ても失われない輝きを放つエッフェル塔。天と地に橋を架け続けた男、ギュスターブ・エッフェルの最高傑作。エッフェル塔と東京タワ-の違いはデザインもさることながらこの足元の見えかかりが大きいのではないでしょうか?東京タワ-はビルがありエッフェル塔はこのようにスッキリと・・・カラビ橋 1884年リヨン駅・・・あのTGVの発着駅・・・そして映画の舞台ボン・マルシェ百貨店はシャルル・ガルニエとの共作・・・HPを見て下さい自由の女神
2007.01.18
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阪神大震災 ・・私がブログで書くものでもありませんが・・・1995年1月17日午前5時46分にマグネチュ-ド7.2、約6500人の方が亡くなられ、避難住民が30万人以上 もう12年も経ちます、奈良に住んでいて直接の被災は免れました、当時仕事が大阪で電車が走らずまた身近には親戚へも連絡がとれず心配したものです。 電車で約1時間半もあればいける距離で連絡がとれない、音信不通・・・入ってくる情報は空からの絶望的な映像、9・11も同じでしたが映像というのは正直に写すが、そこにいる人間の心まで思い消息まではわからなく推測のみでした。 もう何も手につかない、自宅付近も震度4でしたが、それでも飛びおきました、家はまだ新築で二世帯住居もクロスが切れる程度でした。 多くの自治体から救援隊が組織されて行きますが中々到達できず、行っても被災地の住民との要望とは異なるばかり。 私も建築士会の建物判定に西宮から神戸まで歩いた覚えがあります、当時建物判定はマダマダ確立されておらず個人の技量に負うところが多かったように感じました、それでも被害にあった方にとっては、話を言う、聞いてもらう、何かに訴えるとか理解していただくことで何か安心するのでしょうか?それでも杓子定規に「ココは危険ですから退去願います」といっても、「私ら何処も行くとこないんやで」といわれれば何も返す言葉がなく、各建物へカ-ド(赤:危険、黄色:注意、青:安全)といった札を事務的に貼る空しさと何も出来ない自分を覚えています、何かをしようというのがおこがましいですが。 やがて来るといわれている、南海地震、東海地震と・・・言われていますが、本当に備えと確かな情報が被害を受けた方々またその家族関係者にとって何より大切だと感じます。 そういう意味で各種メデイアの存在は大きいです 私の義兄が地震時、5:46電車に乗っていて転覆し、怪我を負い真っ暗な中を線路沿いに歩いて帰宅し、被害が多かった東灘区の住んでいた社宅が残っていて、廻りはマダ火事の中、家族と会い泣いたと言ってました。 いつもこの話を聞く度に被害にあった家族のことを思うといたたまれません、幸い親戚はみんな無事で少しの怪我で終わりました。 私も仕事で神戸で仕事をしていて図面を保管していた建物が壊れ、控えの図面を請求されたことがありました、私の身の回りでもある事ですから、多くの分野ではかなりの影響だったでしょう。 コレだけ本当に多くの方々に関係した自然災害はもう言うまでもなく記録を見れば一目瞭然です。 それだけに今後に経験を自分の廻りへも生かしていきたいと思っています。 人のことを思うことの大切さでしょうか・・・ でも12年は早いような長いような・・・・ 時代が変わっていく中でキッチリ忘れてはいけない事の一つだと・・・・・ それに色々ありますが、前向きにもの考えることですね つたない阪神大震災の事を書き失礼しました上記の写真は「阪神大震災の傷跡」からです
2007.01.17
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クリストファ-・アレグサンダ-氏は建築家?か否か迷うところですが実際に1985年に盈進学園東野高校のキャンパスをパタンランゲ-ジを使い建設されているから、建築家でしょうしかし当時雑誌を読んでいて現場は混乱されたらしい・・・突然ここに池を掘るとか施工を無視した指示とかもあったらしいが実際は立ち会ってないから記事の内容だけですが・・・クリストファ-・アレグサンダ-氏(パタンランゲ-ジ)のHP以下 hack/docsyより クリストファー・アレグサンダー。多分ソフトウェア業界で最も有名な建築家の1人であり、いわずと知れたパターン言語の父である。今回はアレグザンダーのパターン以外のアイデア(『クリストファー・アレグザンダー 建築の新しいパラダイムを求めて』、スティーブン・グラボー、工作舎、1989)について見てみようと思う。アレグザンダーは、パターン・ランゲージを実際の建築のデザインに使ってみて多くの欠点があることに気付く。つまり、《素晴らしく、美しいパターンを多く身につけてはいても、落ち着いた感じはなく、満足のいくものではありませんでした》(『クリストファー・アレグザンダー 建築の新しいパラダイムを求めて』p. 268より抜粋)と。これは私たちのソフトウェアについても同じような羽目に陥る場合が多い。多くのパターンを知っていて、それをちりばめたソフトウェアを作っても必ずしも全体のアーキテクチャが美しくは見えないというようなことはないだろうか?アレグザンダーはそれに対して重要な2つの性質、「一体性(one-ness)」と「幾何学的特性」を見いだす。つまりアーキテクチャとは単に雑多なパターンをつなぎ合わせたものではない。良いアーキテクチャには、例えば良いトルコ絨毯(じゅうたん)のテクスチャが持つような全体的構造があるはずだ、というのである(アレグザンダーはトルコ絨毯のコレクターでもあるのだそうだ!)。いきなりトルコ絨毯といわれてもよく分からないが、アレグザンダーは12の幾何学的特性(「まとまりのある空間的フィールドを創造するために相互に作用する特性群」)を提示している。以下、コンパクトにまとめたものを紹介する。スケールの段階性:あらゆる部分がより小さい部分を持つ良い形状:あらゆる部分ははっきりした形状を持つ力強い境界:あらゆるものに境界が存在する両義性:境界の力強さは地と図の反転をもたらす繰り返し:同じものが繰り返される構造は特別な秩序をもたらす交代反復:単純な繰り返しよりもメリハリのある繰り返しの方が良いポジとネガ:あらゆる実体にはそれに隣接したほかの実体がある相互結合:2つの部分は強く結び付いているコントラスト:コントラストは区別を与える中心:関係の焦点微妙な不規則性内部の穏やかさ、バランス確かに建築は幾何学的な側面を持つ。しかしもっと抽象的なソフトウェアにとってこの「幾何学的特性」とは何を意味しているのだろうか? UMLモデルか? 確かにソフトウェアのアーキテクチャを何らかのダイヤグラムに表したときの幾何学的特性が意味を持つかもしれない。ただしUML程度の抽象化の度合いではそこまでいけないようにも思える。一方では例えばアーキテクチャを頭の中に思い浮かべるときには、何かの「形」をイメージしていないだろうか?アレグザンダーはさらにこのような幾何学的特性を創出するためのプロセスも考えている。それは「センタリング・プロセス」と呼ばれている。つまりアーキテクチャの中心やまとまりを作り出すプロセスだ。例えばエクストリーム・プログラミングでは、メタファとリファクタリングによってアド・ホックにセンタリング・プロセスを実現しているのかもしれない。しかしもう少し明確な「ソフトウェアのセンタリング・プロセス」は存在しないのだろうか?読んでいて何度も繰り返したがどうも理解できなかった、もう一度「パタンランゲ-ジ」を読んでみてまた報告します。 盈進学園、東野高校の写真 また「山を歩いて美術館へ」のHPより(HPの建築家INDEXよりクリストファ-・アレグサンダ-をクリックすればいけます。)東野高校に関わったクリストファー・アレグザンダーはアメリカの建築家。 1977年に発表した「A Pattern Language」は、建築の世界だけでなく、コンピュータのソフトウエア開発や、哲学の領域にまで影響を及ぼしている。アレグザンダーは東洋の絨毯研究もしていて、美術館でコレクションが展示されたこともある。「パターンどおりに」という言い方があるように、パターンを使った建築というと、できあがったパターンを機械的にあてはめて建築するかのようだが、アレグザンダーのパタンランゲージは、そういうものではない。まず建築の設計には、建築の諸要素ごとのパターンを言葉にすることが必要であるという。 生きている花をつくろうとすれば、ピンセットで細胞を一つ一つ物理的に組み立てるのではなく、種から育てるであろう。そして、花の部分の全一性に遺伝情報が必要なように、建物や町にもそれが必要である。結局、それは言語(ランゲージ)のような形で存在することがわかる。(時を超えた建設の道 平田翰那訳 鹿島出版会 1993)「A Pattern Language」には、それらがまとめられているのだが、個々の建築にあたっては、それを単純にあてはめるのではなく、またその建築ごとに言葉を生み出していく。そこに住む人、生活する人、利用する人が、その建築に望むもの、心地よいと感じるものを、対話を重ねて引き出し、言葉にしていく。それができれば、具体的な建築は簡単にできるという。実際の建築にその考え方がどう実現していくのかは理解しにくいのだが、さいわい、日本では、「A Pattern Language」の翻訳、「パタン・ランゲージ-環境設計の手引」があり、盈進(えいしん)学園東野(ひがしの)高等学校の実例がある。盈進学園パタンランゲージ 盈進学園は、都内から埼玉県入間市に学校を移転するのにあたって、教職員と生徒が暮らすのによい環境を作るために、アレグザンダーに設計を依頼した。東野高等学校の建築にあたってまとめられたパタンランゲージは次のようなものであった。少し長くなるが、外部から中に入って盈進学園博物館のあたりに至るまでと、最後の数項目を引用する。 盈進学園パタンランゲージ 第3次原案より11-1 建物外部の特徴 石の土台塀、木の柱、白い壁、2,3個所特別な所に漆の朱色に似たペンキで塗られた部材、深々とひさしをのばす屋根、濃い地味な屋根の色、地面の石や草が建物や敷地を特徴づけている。1-2 外塀 まず敷地を囲む外塀がある。1-3 内塀 外塀の内側に全数地の約1/5にあたる小さな面積を囲む内塀がある。1-4 内境界区域 内塀の内側の領域を「内境内」と呼ぶ。ここは高校や大学の主要な建物がたつ密度の高い領域である。1-5 外境界区域 内塀と外塀の間は「外境内」であり.、庭園や運動場、そして、種々の独立して建つ、外建築がある。22-1 正面玄関 内境内への入口は、外境界で始まる。外境界の重要なポイントに正門がある。2-2 正門 この正門は、それ自体で建築物である。2-3 玄関道 正門より内境内に向けて「玄関道」がある。玄関道の両側には壁か樹木が並び、非常に静かである。2-4 第二の門 「玄関道」が内境内と出会うところに第二の門がある。 2-5 中央広場 第二の門の内側には、中央広場がある。この広場は大講堂と共に構成され、その講堂の正面は庭に向かっている。2-6 大切な中心 中央広場の先に、そして、第三の門を通り抜けると高校と大学の最も大切な中心がある。この大切な中心は、前にも述べてきたように幾重もの層を通り抜けて到達できる場である。そして、それ自体にもさらに重なり合いがあり、それ以上の静かさがそこにある。(中略)2-9 田の字センター この大切な中心は、心臓部であり、高校と大学の交差するところである。 そこは二つの道が交差する十字形に近い形となる。漢字の”田”の字に似ているので、そこで、それを我々は”田の字センター”と名づける。2-10 中枢部(繁華地区) ”田の字センター”を形成する通りと小径の交差点は辻である。この辻は、田の字センターのにぎやかな中心である。(中略)2-12 ホーム・ルーム通り 又、田の字センターより直接に枝分かれしている、もう一方の通りは、ホームルーム通りである。ホームルーム通りは、高枚数室建物群によって構成されている広くて活気のある陽の当る通りである。2-13 芝生地帯 田の字センターのもう一方の門を通り抜けた所に芝生がある。この芝生は、特に大学生に使用されるが、大学の建物に囲まれており、湖にも行ける。2-14 雨水の湖 湖は、平和な憩の場所である。33-1 大講堂 中央広場の主要な建物は大講堂である。講堂は細長く、600人着席でき、小部屋と廊下で囲まれているので、重要な集会のために1200名全員着席できる。3-2 盈進学園博物館 中央広場にある第二の建物は盈進学園博物館である。小さな建物で、学校と教育方針を訪問者に説明している。この広場を取り囲む小さい建物が他にもある。(中略)3-7 ホームルームの建物群 ホームルーム通りを形づくる建物は個々のホームルーム教室建物群である。この建物の各々は、二階建てで各階に一教室づつあり、二階の教室からは直接地面にでられるように階段がついている。 (中略)5-20 ベンチ・木・池 どこかにベンチと木と池のある静かな場所がある。この静かな場所は、大学の芝生の離れに置かれているのが自然だろう。それは芝生を横切ってくる人々の目的地ともなるからである。5-24 自然のままの庭 どこかに自然のままの庭がある。5-25 庭師の小屋 庭を壮語する人々が使用する道具や備品をしまうための小屋がある。5-26 敷地の廻りをめぐる小道 外境内の全周囲を通る小径が外塀の近くにある。その径を歩くと、外境内の外周を歩き廻ることになって、気持ちの良い散歩を可能にしてくれる。 これらの言葉は、盈進学園の教職員や生徒たちと対話を続けて、アレグザンダーが言葉にしたものである。(実施段階ではこのとおり実現しなかったこともあって、大学や博物館は今のところ作られていないし、細部の相違もある。)アレグザンダーの著作の翻訳に関わり、また東野高校建設にあたって協力した中埜博・難波和彦氏の関連図書パタン・ランゲージによる住まいづくり 中埜博 井上書院 1988 クリストファー・アレグザンダーと現代建築 イングリッド・F・キング著 難波和彦訳 エー・アンド・ユー 1995
2007.01.17
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建築家 アントニオ・ガウデイ氏悪魔か、天才か バルセロナ南西の商業都市レウスに銅板機具職の子として生まれたアントニ・ガウディ(1852-1926)は、 16歳の時、バルセロナ県立建築専門学校予科に入学する。当時、バルセロナは繊維などの新興産業によって大きく発展している最中であった。 同時に多くのアナーキスト達が、スペインからの独立運動を繰り広げていた。 アルバイトをしながら苦労して学校を卒業したガウディは、内装や装飾の仕事を手掛け始める。 そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会う。 パリ万国博に出品された手袋店のショーケースを見てガウディの才能を見て取ったグエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛ける。 グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、ガウディの建築にはいくつもグエルの名前が冠してある。 1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア聖堂の主任建築家に任命される。以後、彼はこの建築の設計に壮年から晩年に掛けての40年以上を費やし、しかも1917年からは他のいっさいの仕事を断ってこれに専念している。 サグラダ・ファミリアの主任建築家として名声を得たガウディは、バルセロナとその近郊の多くの重要な建築物の設計を手掛ける。特に途中で建築が中止されてしまったが、コロニア・グエル教会地下聖堂は彼の最高傑作と言われている。 一時、精神的に困難な時期を迎えたガウディは、自殺も考えるようになる。なんとか危機を乗り切った彼はしだいにサグラダ・ファミリアの設計に没頭するようになり、自ら閉居し些事に一切構わなくなる。 1926年6月7日夕刻、ガウディはバルセロナ市内で路面電車にはねられる。学生時代はダンディなことで有名だった彼も、まるで浮浪者のような格好だったために病院に収容されるのが遅れたという。そして10日午後5時、市内サンタ・クルース病院で死去する。 遺体はサグラダ・ファミリア聖堂に埋葬される。 「悪魔か、天才か」。ガウディの卒業設計を見たビリャール教授はこうつぶやいたという。 サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪聖堂)(1883-)人々の現世の罪を購うために、聖家族に捧げられた大聖堂である。 ビリャールが無償で設計を請負い、1882年に着工したが意見の対立から辞任、翌83年よりガウディが引き継ぐ。 現在、生誕(東面)と受難(西面)の二つのファサードと、それぞれの四本の鐘楼、それに後陣が姿を現しつつある。 しかし人々の浄財のみで建築されているために工事はしばしば中断し、完成するまでにあと100年かかるのか、200年かかるのか、誰にも分らない。 計画では、今ある生誕と受難の二つのファサードに加え、南面に栄光のファサードが作られ、ラテン十字平面を持つ聖堂の中央には、高さ150メートルの尖塔がそびえ立つグエル公園(1900-14)グエルが計画した分譲地の一部として作られた公園である。 バルセロナの北方外れの丘の中腹に位置し、地形をうまく活かした設計になっている。 市場の上を覆った人工地盤には、砕いたタイルで装飾した、 座るのがもったいないような美しいベンチが設けてある。 最下層に位置し、公道との境界にある門番小屋の屋根は白いタイルで装飾され、まるで砂糖菓子のようである。カサ・バトリョ(1904-06)1877年に建てられた五階建ての建物をほば全面的に増改築したものである。とくに増築された屋根裏階は「竜の背」と呼ばれ、ひときわ目を引く。またタイル、色ガラスの破片、鋳鉄などの素材の使い方は見事としか言いようがない。 カサ・ミラ(1906-10)ミラの家と呼ばれる六階建ての集合住宅である。一階と中二階が店舗と事務所になっている。宇宙人の顔のように見える屋上の換気塔がおもしろい。バルコニーの手すりやエントランスの門に見られる細工に、銅板機具職の家系に生まれたガウディのアイデンティティを見るようである。 シウダデ-ラ公園(1875年~1882年)レアル広場の外灯など(1878年)グエル邸(1886年~1889年)テレサ学院(1888年~1890年) テレサ学院を合理主義ネオ・ムデハル様式による建造物として完成させた。ネオ・ムデハル様式とは新しいムデハル様式という意味。ムデハル様式とは、キリスト教徒たちがイスラム建築を自分たちの生活空間として利用するために改造した建築様式。キリスト教建築をイスラムの材料や技術で実現した様式ともいえる。ネオ・ムデハル様式の特徴は、外壁は野石積み、土壁、レンガ造りの組み合わせ。手すり壁の部分はレンガの透かし積みに色タイルの組み合わせ。グエル酒蔵(1895年~1901年)コロニア・グエル教会地下聖堂(1898年~1916年)上記は下記のHPを参照 ガウデイの遺産 Antoni Gaudiサグラダ・ファミリアはよく写真とかTVなんかでも紹介されていますが、スペインにはガウデイ氏が設計した沢山の建造物があるのでしょう、私は行ったことがなく自分の目で見たことも感じた事もないですが、ネットの写真だけでこれだけ心を動かされるのですから、やはり直接見たい。なお写真がぼやけていて申し訳ありません。
2007.01.17
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よく行くGIGAZINEさんところで見かけましたので、紹介します、これだけの映像が毎日々あれば楽しいでしょうが、しかしチエックしきれないヤ・・・ 全てYou tube からですからクリックすると勝手に映像が始まります。HONDAのCMで人間の声だけで表現しています、エンジン音、ブレ-キ・ワイパ-・雨などhttp://www.youtube.com/watch?v=s22N8ZLPEaYこれはパロデイ・・・・笑います・・・マリオ二人?でやってます。http://www.youtube.com/watch?v=hOEX10Hgzfc次は保険会社のCMらしいです、固まりが次から次へと色々なものを巻き込んでいく~・・最初は一人の人間のチョットしたつまずきが・・・・http://www.youtube.com/watch?v=dx7sxiQEO9Qシュ-ルなマクドナルドCM・・・急に大人が動かなくなり・・・そして・・・子供らが・・・http://www.youtube.com/watch?v=0slsOWySdyA一度仕事の合間に暇つぶしに見れば気分が変わりますよ・・・仕事はサボってはいけませんが・・・
2007.01.16
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今日は週明けであまりにも天気が良く嫁に仕事先へ付き合ってもらい奈良公園まで散歩行き、若草山のその後を見に行きました。 写真下、こげ山の真中に見える大きな屋根は東大寺の南大門です ナンテことはない・・・ただの焦げた山ですが・・・ド~ンとすわってました 奈良は今年も相変わらずの行事です 万灯篭(春日大社) お水とり(東大寺) ・・・・・ 奈良の行事の紹介HP http://www.eonet.ne.jp/~mha-tani/page042.html 古いだけがとりえで、近くにいると解らないが、接すると良くわかります。 食べずきらいかも知れないし・・・自身が出身地がよそだと何故かココは自分のお祭りをする所ではナイなどと考えてしまう。 身近なものをもっと大切にしないと思いツツ その後嫁と奈良の鹿の尻さわりへ・・・ 嫁は鹿の尻を触り、尻尾がピクッ!ピクッ!とするのがたまらないらしい・・・セクハラだ~
2007.01.16
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日本風力発電協会なるものがありました。 秋田県東通村大字岩屋字蕨平の事故のニュ-ス 読売新聞 1/15付 河北新報 1/12付 河北新報 1/13付 読売新聞 1/11付 他の飛び火ニュ-ス(確認のため) 毎日新聞 1/13付 まだ、詳細の報告書はまだのようですが・・・・色々なところが調査しているようです、全く第三者的な立場の方の調査がないのでしょうかネ?国土交通省は列車とか航空機は事故委員会を設置するのですが・・・こういった被害があまりない場合は設置しないのかな?ニュ-スでは経済産業省、原子力安全保安院 事業会社 新エネルギ-・産業技術総合開発機構(NEDO) などが事故調査するようです。 経済産業省からメ-カ-への指示内容
2007.01.15
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リチャード・マイヤー(Richard Meier, 1934年10月12日 - )は、アメリカ合衆国の建築家。ニュージャージー州ニューアーク生まれ。白色の使用がトレードマークであり、ル・コルビュジエの作風に最も近い建築家の一人とされる。世界的に見ても、槇文彦・谷口吉生などと並び、純粋なモダニズム建築家として知られる。バルセロナ美術館 1995年ハイ美術館 アトランタ 1983年ゲッテイセンタ- 1997年Den Haag stadhuis april 2004年
2007.01.15
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最近ファンタジ-映画ばかり見ています・・・我が家の穏やかさ?ナニ-・マクフィ-魔法のステッキ"NANNY MCPHEE" 監督・・・カーク・ジョーンズ原作・・・クリスティアナ・ブランド『ふしぎなマチルダばあや』 出演・・・エマ・トンプソン、コリン・ファース、ケリー・マクドナルド、セリア・イムリー、デレク・ジャコビ、パトリック・バーロウ、イメルダ・スタウントン、トーマス・サングスター、アンジェラ・ランズベリー、他。 ・物語序盤・葬儀社に勤めるブラウン氏には、七人の子供達が居た。先年、母親が他界して以来、子供達と父親との間には微妙な溝が空いていた。父親は経済援助をしてくれる貴族の伯母から、再婚する事を迫られていたのである。そして子供達はそんな父親に反抗するかのように、雇われるナニーを悉く追い出してしまう。既に派遣してくれるナニーも見付からず、途方に暮れるブラウン氏の前に、「貴方に必要なのはナニー・マクフィー」というお告げのような言葉が…。果たして家に現れたのは、一風変わった容姿のナニーだった。彼女は魔法の杖で、手の付けられない子供達に、一つずつ大切な事を教えてゆく。 イギリスを舞台にマクフィ-と子供達が巻き起こすファンタジ-映画です詳しくはHPを見られると、それぞれのイメ-ジができるのでは? 魔法といえば「魔法使いサリ-」「コメットさん」など日本では子供らが楽しむという定番のようですが、家族で楽しめれる映画が本当に少ないような気がします、やたらと・・・セクシ-さやら、過激なことやら・・・モットモットの症候群が映像の世界特にTV」に感じます、それらにとらわれないような心を常日頃もっていたいが・・・誘惑には負けるときもありますが・・・映画もTVも多くの不特定多数の人々が接しますから情報の選択は大切にしたいです。
2007.01.15
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先日あるHP上で環境建築時代について討論していましたかなり省略しています。「環境配慮の提案力を設計者の選定時に優先する。「環境配慮契約法」と仮に呼ぶアイデアを、環境派の議員が温めている。国が率先し、地方自治体や民間に広げ、地球温暖化対策を推進する。政策や経済とかみ合って動いていけば、環境配慮の取り組みが建築や街の魅力を上げる。そのソフト(知恵)にこそ"買い手"のつく時代が来る。」 という前書きですが・・・ 「従来のように価格優先ではなく、設計案が「どの程度、環境に配慮したものなのか」を重視することになるでしょう。すでに多くの設計者が、環境に配慮した設計ノウハウを培っています」 しかし今の入札制度があり安い価格へたなびいているのが現実です、ノウハウを各事務所が蓄積しようにも生かす場面があまりなく、ひどくなれば自分の家での実験になりかねません。環境への配慮が重要なことは理解できます。しかし、環境を主たるテーマにしていない一般の設計者の現実は厳しいものです。明日の仕事を得るのに必死だったり、日々の業務に忙殺されたりしていて、「頭では理解しているけれど、実際の設計に環境問題を反映させる余裕はない」というのが本音ではないでしょうか。 「同様に、地方自治体にも余裕はありません。多くの地方都市は、少子高齢化や厳しい財政事情のなかで、行政運営の転換を迫られています。設計者と同様に、環境問題を認識しつつも、目先の行政運営で精いっぱいなのが実情です。」 建築分野で排出される二酸化炭素(CO2)が、なかなか減らない状況があります。京都議定書で、日本にもCO2排出削減目標(29ページ別項)が定められましたが、成果を上げる業界がある一方で、大きな課題を残しているのが建築業界です。 「部門別に見ると、工場などの「産業部門」のCO2排出量は減っていますが、オフィスなどの「業務その他部門」と、住宅などの「家庭部門」は増え続けています。1990年度と2004年度を比べると、業務部門は約38%、家庭部門は31%強の増加です。2005年4月に政府が打ち出した「京都議定書目標達成計画」は、それら両部門のCO2排出削減が重要だと指摘しています。」 「国は、2010年までに太陽光発電について約500万kWの普及を目指していますが、現状は130万kWにとどまります。風力発電も約300万kWの目標に対して現状は100万kWです。あと4年しかありませんから、相当の努力が必要です。」 以前はソ-ラ-も意識を植えるために公共施設に導入していましたが、今やペイできないが先にたち導入が減っているように感じ、逆に一般民間建物が一生懸命のような感覚すらあります。 知り合いの建築家が、コジェネレーションシステムや屋上緑化などを取り入れた集合住宅を設計しました。一般の集合住宅と比べたコストアップは1戸当たり40万円だったそうです。ユーザーにとっては十分に許容範囲で、事業も成立しますよね。 「そうした取り組みが、マーケットに乗ってしまえば、環境に配慮した建築が当たり前のように設計される時代が来るでしょう。 ハイブリッドカーのような低公害車が良い例です。まず国が率先して導入し、市町村などでも取り入れるようになって価格がこなれてくると、一般にも浸透が始まりました。」 「建築や住宅は、設計者が有効な手法を提案しても、使う側がうまく活用しないと十分な成果を得られません。建築分野だけで解決できるものではないので、使う側の環境教育も同時に進めていくべきです。 」「環境配慮契約法(案)」は、国が庁舎を新築・改修する際に、環境負荷の低減効果の高い設計案を採用することが趣旨。設計者選定では価格競争のみでなく、環境配慮の提案を併せて評価するプロポーザル方式などを導入する。発注者が作成する仕様書で、温室効果ガスなどの削減目標を明示。施工から運用、廃棄に至るまでのライフサイクルを通じて、環境負荷を低減する設計案を募る。実際の評価では、単に仕様書に従うだけでなく、それ以上の環境性能に関する提案も柔軟に受け入れる仕組みをつくる。 増え続けるCO2京都議定書に従って、2012年度までに日本は、1990年度よりも6%の温室効果ガスを削減しなければならないが、02年度の時点では8%も増加。建築分野の取り組みは遅れており、特にオフィスと住宅の改善が急務だ。06年4月に改正省エネ法が施行され、これまでは対象外だった延べ面積2000m2以上の住宅(主に集合住宅)でも新築・大規模修繕時の「省エネ措置の届出」を義務付けるなど、法制度による誘導が始まっている。 上記の数値を見ていると普段日常我々ができることが小さく見えるが、真剣に京都議定書を遂行へシフトしていかないと・・・子孫へ大きな負債を残すことは解っているのに・・・目に見えて迫ってきているのに・・・・・
2007.01.15
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昨晩 山焼き(若草山)を平城宮跡(朱雀門)から見ました、かなり寒く、今日はイイゾと思いツツ期待を込め・・・ しかし、学生時代には近くで見てオオ~!と炎が眼前まで迫る感じがあったのだが今日は何故かそういった感じがしなく、チョットショックでした・・・うんちく山焼きの由来 一般に信じられているのは、春日・興福寺と東大寺の領地争いがもとだといわれています。詳細にいうと、現在奈良公園の中を流れている吉城川を境として、南側が春日・興福寺、北側が東大寺の領地であり、その吉城川の上流が水谷川で、この川は春日山と若草山の谷間を作っています。若草山の西南の麓には東大寺の作った石荒神があり、二重目の谷間には春日末社の石地蔵(南無春日大明神とかかれており、明治時代に一重目春日末社野上神社に移されました、さらに三重目頂上にある鶯塚には東大寺の立てた石碑が残り、両社寺の境界が若草山一帯では相当複雑であったことを物語っています。 若草山焼の起源の一説は、双方の境界関係が表面化した宝暦10年(1760年)、奈良奉行がこの事件を5万日預かると仲裁し、関係者立会いで山を焼いたのが始まりと言われています。 また、一説には、この若草山にひそむ猪を追い払うためとか、あるいは害虫を焼き払うためとか、さらには春の芽生えを良くするための原始的な野焼きの遺風を伝えたものとかの起源との考もあるようです。いずれにしても勝手気ままに焼くと付近の堂塔伽藍に延焼する恐れもあるので、毎年日を決めて焼くことになったものでしょう。 明治以降をみると、明治11年2月23日に行われ、現在のように夜間行事となったのは同33年2月17日です。(春日日記)戦前は、2月11日に行われ、昭和25年からは、成人の日であった1月15日に行われていました。 平成12年からは、祝日三連休化を目的とした祝日法の改正により、曜日指定となった「成人の日(1月の第二月曜日)」の前日の日曜日に行われています。 以上若草山焼きガイドの豆知識から・・・・ 昨夜のネオン一杯の山焼き昨夜のイイ写真(ニュ-スから借用)
2007.01.14
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建築家 磯崎新氏 1931年生日本の建築家で、ポストモダンの代表的な建築家。活発な評論活動でも知られ、海外の建築界から最も信頼されている日本人建築家のひとり。国内外を通じて幅広く活躍している代表的なアトリエ建築家である。大分県大分市出身。妻は彫刻家の宮脇愛子。大分県医師会館 1960年 大分市岩田学園 1964年福岡シテイ銀行本店 1971年 北九州市立美術館 1974年富山県利賀芸術公園野外劇場 1982年 西脇市岡之山美術館 1984年ロサンゼルス現代美術館 1986年 ハラミュ-ジアムア-ク(群馬県渋川市) 1988年つくばセンタ-ビル 1983年水戸芸術館全体 1990年水戸芸術館塔 1990年東京都庁コンペ案 1990年 当選はあの故丹下健三氏、磯崎新氏のプランは後でだが、風水にかなったプランであったらしい、磯崎新氏はあまりそのあたりを知っていたかどうかは不明ですが・・・JR由布院駅 1990年 富山立山美術館 1991年北九州国際会議場 1990年 兵庫県立先端科学技術支援センタ- 1993年なら100年会館 2000年
2007.01.14
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GIGAZINEさんところに店内全て氷で出来た酒場がありました。 ロシアのペテルスブルグにある酒場だそうです。冬ならではだと思いますが、どう見ても寒そう。しかし店内の内装はとても神秘的。しっかり服を着込んでからなら行ってみたいかもしれません。 そうかロシアはウォッカだから熱いんだ!!! 日本でも出来そうです、イヤもうあるかも 氷を使って、また寒さを使いいまイベントが沢山出てきました、詳しくは上部のGIGAZINEさん所で見てください。
2007.01.13
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建築家 ル・コルビジェ氏1887年 10月6日-1965年 8月27日スイス生まれ、南フランスで水泳中に死去20世紀の偉大な建築家の一人で、建築だけでなく家具、絵画や彫刻、都市計画など幅広い分野において 活躍されましたが、元々は時計職人の学校へ行ってました。現在も世界中の建築家に影響を与え続けている。 1925年、「近代建築の五原則(自由な平面、屋上庭園、ピロティ、自由なファサード、ドミノシステム)」をとなえ、の世界中の建築家を魅了し、CIAM(近代建築国際会議でも活躍した。 日本では国立西洋美術館の設計者である。(前川国男氏が1979年に改修) またモデュロ-ルも有名である、日本のグリッド、畳とかと比較されますが、彼も実践で現場に型板をおき確認しながら寸法を決めていった。国立西洋美術館 1959年・・・・1979年(改修)サヴォア邸 1931年ユニテ・ダビタシオン 1952年ロンシャン教会 1955年ラ・トウ-レット修道院 1956年l'église Saint-Pierre
2007.01.13
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