我ただ足るを知る!

我ただ足るを知る!

PR

プロフィール

感謝道まさかげ

感謝道まさかげ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

コメント新着

神はからい@ Re:神はからい(07/22) 神はからいの知りたいことは、0896244450…
新しい判断@ Re:判断が間違っていたら、 それを修正する方法は どうなのかって考える。(09/15) 新しい判断の知りたいことは、0896244450…

カレンダー

2008年07月27日
XML
カテゴリ: 戦国&戦争ネタ
愛知・岐阜出張第2段!

明智光秀は、1582年『本能寺の変』で織田信長を討った謀反人で知られておりますが、
その後、秀吉との合戦で敗色濃くなったおり、退却中に農民に討たれた事になっておりますが、

徳川家康の軍師として、天海大僧正となって生き延びた説も聞いております。


しかし!!
こんな伝説も残っているのを初めて知りました!!!
写真の看板に書かれていた内容です。
戦国ロマンですね~~~




~~~~~~~~~~~~~~~~
明智光秀公の墓(解説板)

 この地中洞古屋敷白山神社の一角にある高さ一〇六センチの石塔と高さ一一二センチ五輪の塔はまさしく明智光秀公の墓である。
 天正十年(一五八二)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、
光秀の影武者荒木山城守行信である。

 光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、
この事実を子孫に伝えんと
荒木の「荒」と恩義を深く感じての「深」で
自らを荒深小五郎と名乗り
西洞寺の林間に隠宅を建てて、乙寿丸と共に住んでいた。

 その後光秀は雲水の姿となって諸国遍歴にでたのであるが、
十八年後の慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の時、
東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に押し流されおぼれ死んだ為、
死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬したのである。

以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回の供養祭を行っている

~~~~~~~~~~~~~
光秀墓案内
MITUHIDE 伝説
光秀の墓



つづく





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年07月27日 14時19分11秒
コメント(4) | コメントを書く
[戦国&戦争ネタ] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: