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「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。」聖体拝領直前の信仰告白です。ミサ中に使う祈りはラテン語の祈りが基になっていて、各国ではそれをその国の言葉に翻訳しているのですが、80年代ごろに日本の教会では元の祈りが日本語的でないという理由で、教皇座の許可を得て、現在の祈りにしたそうです。ラテン語だと“Domine, non sum gignus ut intres sub tectum meum; sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea”、マタイ8.8の言葉『主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎え出来るような者ではありません。ただ一言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕は癒されます』から取られたもので、「僕」を「心」に変えて使っています。英語だと“Lord,I am not worthy to receive you, but only say the word and I shall be healed.”(英語にはこのanima meaが訳されておらず、I shall be healedとなっています)現在の日本の祈りは、ルカ9.20の中の聖ペトロの言葉やその他の個所から言葉を選んで組み合わせたものですから、日本以外では使わないそうです。荘厳司教ミサのミサレットの中でこの部分だけわざわざ太字で書かれているので不思議に思い、カテキスタの方に尋ねたことがあります。こそっと両方唱えたくなってしまいます。堅い話題になってしまいました。10月23日にはラテン語荘厳司教ミサ、今年は「聖霊の光りを願って」のミサがあります。案内ハガキが届きました。それでミサの言葉の違いを思い出しました。10月2日には「南無アッバのミサ」もあり、色々なミサにあずかれるのが楽しみです。日記でどちらも詳しく紹介する予定です。
2004.09.16
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H師、社会人生涯学習講座より 写真は講座後ミサがあげられる聖堂です。 イエスは「まことの幸せへの道」ということについて、ガリラヤの風薫る丘の上での説教の中で話しています。 マタイ福音書5章の「真福八端」という短い言葉です。 この真福八端について、「カトリック教会の教え」というカテキズムを解説する本の中に「イエスによる至福の告知」という項目があります。 この真福八端は、イエスご自身の姿を描いているといわれています。 「心の貧しい人々は幸いです 天の国はその人たちのものです。」 神の前に自分の闇、貧しさを認めて素直に,ある意味呆然と立つ、その人は幸いですということです。「心の貧しい」という聖書の表現の本当に意味は何なのか。心豊かな人という日本語の表現をはるかにこえた豊かな人です。この貧しさの全ては神によって補われるからです。父の胸に身を委ねたぼろぼろの放蕩息子が最も豊かな人間の姿だということです。息子といわれる資格もないと思って帰って来たのに父によって全てを満たされている状態です。イエスが求めている心の姿勢は一人一人が自らの限界を知って神様と神の恵みに信頼して生きる、大切なのは私達が自分の貧しさを知る、自分は闇なのだということがわかるということです。 「悲しむ人々は幸いです、その人達は慰められます」 お釈迦様は生老病死の苦しみを引き受けて人は生まれてくると悟りました。そういうことを前提としてイエスは何とおっしゃっているか。そういう苦しみを背負って生きることは私達の人生を無意味にするものではありません。そして究極的には罪による痛みから来る悲しみにも目を向けさせます。その罪ある人生を悲しむ者に慈悲の目をもって、まなざしを注ぐ主イエスに必ず出会うでしょう。そしてその道を歩んで私達の命の根源たる父なる神に出会うでしょう。 「柔和な人々は幸いです。その人達は地を受け継ぎます。」 イスラエルの人が待っていた救い主は馬に乗って凱旋する王ではなく、人々の生活を支えるろばに乗ってやってきます。その王は飼い葉桶の中に身を横たえるという形で人生を始められた。これはろばに乗ってということの言い換えです。人生の最初も最後もそうだったと聖書はいいたいのです。自分の身を飼い葉桶に横たえ、ロバに乗ってエルサレムに入城した。柔和で平和な王、だから王に従う人も柔和、思いやり、優しさを身につけるように招かれています。そのような人にこそ「約束の地を受け継ぐ」、現代的ないい方だと救いを与えられるのです。 「義に飢えかわく人は幸いです。その人達は満たされます。」 飢えかわく、これは日ごとの糧、パンに私達は事欠いてはならないし、事欠いている人がいるならできるだけのことをするのが人類共同体として連帯する姿ですね。自分一人で生きている人は誰もいない、互いに生かし会っていきなければ生きられない世界に生きる自覚があるならば、日ごとのパンについても心を砕くべきですがもう一つ大切なのは「義に飢えかわく」ということです。神の前に義を実現しようと、この地上の生活の中で努力すること。義とは神の計画です。それを私の正しさと、教会の中でもまちがってしまったりも。神様の計画を実現しようとする積極的な自立的姿勢が大切。単に受動的に、はいはいというのではなく、ある時は正義において闘いながらも神の計画を実現しようとする生き方です。この自分の意志を実現して満足する人は社会に大勢いますが、愛である神様の前に正しいことを実現しようとする努力をし続ける人、その人は神の恵みに寄って満たされていくのです。 「あわれみ深い人は幸いです」 慈悲深い心情がわいてくることに満足していてはいけません。実際に具体的なあわれみ深い行為をしていくことです。あわれみを基調としながら何かを決断し、発言し自分の態度を決めていく。自分自身も神様からあわれみを受けて活かされていることを自覚しながらあわれみを必要としてる人に積極的に能動的に関わる人は幸いです。あわれみ深い人は幸いという話をすると、どんなときにも自己主張してはいけないと思っている人がいます。そうではなく、「真福八端」の中で何をいおうとしてるかというと、神の前で正しいことをして生きなさい、神が望んでいることをしなさいということです。抗議すべきことは抗議、おかしなことはおかしいと声をあげなければいけないということです。自分自身の判断基準で他の人を厳しく裁く事をやめて、相手と同じ立場で物事を考えて、一緒に神を仰ぎ見てみるということ。そこに自分自身をいつも置いてみることです。私の論理からすると、あわれみなんてかけられないという相手、相手の状況に身を置いてみてそこから神を仰ぎ見ると、私のあわれみと神様のあわれみが一つになる、それをイエスは望まれたんです。 「心の清い人は幸いです、その人達は神を見ます。」 旧約聖書の中で約束されている救いです。神の前に正しい良心を持って行動し、悪意を抱かないで生きる人は幸いです。別のいい方だとむなしいことに魂を奪われない、イエスは「杯に内側をきれいにしなさい、そうすれば外側もきれいになる。」とファリサイ人に言いました、イエスが大切にしたのは、私達の中です。中にあるものが外にあふれる。人間の清い意志はその人の外的行動を決めていく、だからまず自分の内側をきれいにしなさい、心の清い人は幸いですといっているのです。内側と外側の一致が保たれないで生きていくのは私達に撮って苦しいことです。「神をみる」というのは最終的救いにあずかるという意味です。 「平和を実現する人々は幸いです。その人達は神の子と呼ばれます」 全ての人が待ち望んでいる日常の小さな平和です、一緒にごはんを食べられる、朝行ってらっしゃいと言って出かけた人が夕方ちゃんと帰ってきてくれる、そういう日常の平和とその日常の平和を支える社会的な平和の促進を願いながら、そのために働く人たちは幸いです。平和とはヘブライ語でシャローム。平和、平安という意味だけでなく、救いという意味もあるそうです。 私達は神との間に親しい交わりがあれば、それで平和になれるのでしょうか? 神との間で平和が保たれていれば、それだけで平和だとという人は、どこかで何かを誤魔化している人だろうと思います。周りにいる兄弟姉妹、一緒に生きている人との間で和解、仲直りが行われていかないならば私達の中に平和も救いもやってきにくいということです。平和を実現しようとする人は「神の子」と呼ばれると約束してくださる。「神の子」とは、聖書でただ一人、イエスキリストだけです。あなたもイエスキリストと呼ばれるでしょうといっているのです。喜びの源となることができるのです。平和を実現していこうとする人を本当の息子や娘として神様は迎えてくださる、という新しい親子関係をイエスは約束しました。神の子イエスと同じ立場、身分をいただく、父なる神から主イエスと全く同じ扱いを受ける者として父はあなたを見ますということです。怖ろしいほどの約束故に、イエスキリストは十字架に付けられた。イエスキリストの命をかけて保証されている言葉だということを忘れないでください。イエスキリストが神だということが信じられないという方も、一人の人間が自分の命をかけてこの言葉を前言撤回しなかったという重みだけは受け止めていただけたら嬉しいです。 「義のために迫害される人々は幸いです。」 イエスに従う人には何らかの形で必ず迫害があるということを預言しています。イエスが受け入れられなかったように、イエスを基調に生きていこうとすると必ず世と摩擦を起こす部分がでてくる、必ずあなたは受け入れられない部分がでてくる、それに耐えてくださいとイエスは励ましています。私も耐えますからあなたも耐えてくださいと励ましている。国の政策によってキリスト教が弾圧されるということもあるでしょう。もっと日常的なレベルの中で福音的価値観で行動したとき、迫害を受ける、何でそんな馬鹿なやり方をするのと怒られることはいっぱいでてくるでしょう。 真福八端のこれら一連のメッセージを間違って受け取ってはいけません。ある時教会自身も間違った形で人々に受け取られるようないい方をしたり、間違った形で人を慰めたり、説教したりしました。 弱い立場、弱者に忍従を強いるためにイエスはこの言葉を語ったのではないということです。苦しみがこの世界にあっても神様がちゃんと受け入れてくださるのだからそんな苦しみくらい、地上の人生はあっという間だから耐えなさい。という意味でこの言葉を語っているのではないと言うことです。間違った解釈ならば、いじめはなくなりません。どんなにいじめられたって、必ず神の裁きがあるから今日も学校へ行っていじめられていなさい、これは全然福音的世界ではありません(笑) どんな人も、自分の生き方を総点検してくださいということなのです。 12月の講座全体の話は別にまとめます。
2006.12.11
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共同祈願といっても何それ?という方が多いでしょう。日曜日(場所によっては土曜夕方や夜)の主日ミサの時唱える祈りで,毎週違う内容です。共同祈願はカトリック教会日本全国共通です。「聖書と典礼」(聖書の朗読箇所や解説などが書かれた毎週もらうリーフレット)に載っている例文を参考に同じ意向の祈りを唱えます。例文通りのことが多いです。29日、年間第22主日の共同祈願です。「弱い人や貧しい人と共に歩まれた主イエスにわたしたちも自分を低くして従い、神の国への招きにこたえることができますように」「相手を思いやり、助け合う心を現代の人々におあたえ下さい。互いに弱さを補い、ともに生きていく社会を実現できますように。」「子供たちや青年達が、夏の間に体験した様々な出会いを心の糧とし、豊かな実りをはぐくんでいくことができますように」日記の更新…サボリ癖がついてしまいました(-_-)゚zzz・・・おまけ☆今日から息子は学校の夏期講習なのに忘れてました(#^ ^#)ゞ8時から授業なのに家を出たのが8時。1時間の遅刻。始業式じゃなくて良かったね~娘は文化祭の準備で学校に。集合時間を1時間勘違いして遅刻。親子とも夏休みぼけです。
2004.08.29
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