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飛色第23号 濃緑褐色(カモフラージュ用)
2012.01.27
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飛色第22号 濃緑色(カモフラージュ用)
2012.01.19
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モ式水上機到着 5月9日、予定より1日遅れて、待ちに待って飛行機が到着した。機種に機関銃を備え付け、発動機はベンツ式100馬力を搭載したモーリス・ファルマン式水上機、イの53号機と58号機である。 前夜、渥美湾に停泊中の母艦若宮丸に搭載されていたもので、早朝の発進が53号の故障で遅れ、母艦も足山沖15哩へ移動、修理を終えて、10時05分同時に発進、2機雁行して新居弁天南方上空まで来たところで、53号機にまたも故障が起こり、外海の海岸に不時着水した。一方の58号機は僚機の無事を確認の後、10時40分大正浜に到着した。故障の53号機は、漁船に曳航されていったが、東海道線の鉄橋に遮られたため、新居弁天の海岸に引き揚げられ、修理の後、同夜8時飛行して無事大正浜に到着できた。 海軍では、今回の陸軍主体のフランス航空団による欧州大戦の戦訓を生かした教育体系の一大改革に、当初から積極的に参加した。1月31日付の静岡新報にはすでに、浜名湖岸に着水場を設け、海軍飛行機による練習参加予定と12名の飛行将校の名前が紹介されている。また空中からの射撃訓練には、広大な水平面を必要とするところから、射撃場と近接した飛行場(着水場)を得られる水上機は、正に好都合だったに違いない。 海軍では最初、使用中のモーリスファルマン水上機のうち、ルノー70馬力搭載のものを小型水上機、ルノー100馬力またはベンツ100馬力搭載のものを大型水上機と呼んでいた。この他にルノー90馬力カー地ス90馬力を搭載したものもあったようだが、詳細は不明である。 大正4年後半に入って、練習機はイ号、偵察機はロ号等と呼ばれるようになった。イ号はルノー70馬力型、ロ号はルノーまたはベンツ100馬力型である。その後新鋭機が導入されるにしたがい、ルノー70馬力は使用が中止され、大正8年当時には、100馬力型が練習機に代わって使用されていたため、イ号と称されていたようである。一般的には、機体番号と重複するためイの何号機と呼ばれていた。また、海軍では、モーリス・ファルマン式水上機のことを、縮めて、「フ」式と称していたが、陸軍では、モーリス・ファルマン式陸上機およびその国産改造型を「モ」式と称していた。射撃班での使用機も、新聞発表等では、陸軍式に全て「モ」式何号機と称されていた。 本文では、使用される飛行機の名称を最初に正式名で示し、その後は当時そう呼ばれていたように全て略称で書くこととする。 また海軍では、すでにぜんねんの大正7年1月28日、フ式100馬力、ロの第7号機(当時はまだロ号であった。)に軽機関銃を据え付け、空中における飛行凧への射撃実験を行っている。 5月13日、いよいよ射撃訓練飛行が開始された。午前7時、市丸中尉を先頭に、坂尾兵曹、加藤、大柴両中尉、森軍曹が交互に、モ式イの53号機で浜名湖を縦横無尽に飛びまった。 訓練期間を通じて、日曜・祭日・雨天および特別の事情の時を除いて毎日飛行したが、概ねまず、海軍の飛行責任者たる市丸中尉が湖上の天候偵察、特に気流の状態を調べるために飛んでいる。その後、各専修員が練習にはいる訳である。飛行は、ほとんど午前中に行われた。これは、この地方が1年を通じて風の強いところであるが、午前中はそれが比較的穏やかなためである。 前述の加藤久次郎は回想する。「飛行は必ずといってもいい程、まず水上滑走で北上していました。新所鼻の神社のところに大きな松があって、それが目印でした。そこで反転して、南へ向かって離水するのです。必ず南へ向かって離水するのは、何でも気流の関係だということを聞いたことがあります。 また私達は、この水上機のことを『カッポン下駄』と呼んでいました。カッポン下駄とは、女の子のはく下駄のことで、歩くといつもカッポン、カッポンと音がしたので、この地方ではそう呼ばれていたのです。その下駄の形が水上機のフロートによく似ていたので、『カッポン下駄』と呼んだ訳ですよ。」 水上機は後々までも「下駄ばき」と呼ばれたが、その起源はあるいは、この辺のところにあったのかもしれない。因みに「カッポン」下駄とは、一般に言う「ぽっくり」下駄のことである。
2012.01.16
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知覧特攻平和会館鹿児島県川辺郡知覧町郡17881897-0302 0993-83-2525http://town.chiran.kagoshima.jp 昭和55年(1980年)6月12日、鹿児島県甑島下甑村手打港の沖合い約200m、水深35mの海底に沈んでいたものが、引き揚げられた。発見者は、揖宿郡喜入町のプロダイバー鳥越 林さん。すでに前年12月に、その存在を確認していたもので、大蔵省から払い下げを受け、この日の引き揚げ作業となったものである。引き揚げ時にすでに、機体の程度は非常に悪かったが、それでも知覧に展示されることとなり、現在に至っている。製造番号から、昭和20年3月18日に製造されたものと推定されるが、偶然にも、撃墜マークで有名な谷水機中島第32374号(5-3-23)と製造時期が、近接している。
2012.01.16
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飛色第21号 緑色(カモフラージュ用)
2012.01.12
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二六五空の移動の時期に、必ずと言っていいほどに悲劇的な事故に見舞われている。その1 錬成をしていた鹿児島県笠野原基地から、台湾情勢が緊迫をきわめてきたため、新竹基地へ移動することとなった。その移動を援助するため、七六一空の一式陸攻が新竹着陸の際、墜落した。(昭和十九年一月十三日1220) 二六五空だけでも、便乗者6名志望、2名の重傷者を出した。その2 三四一空(獅部隊)のマリアナ方面展開が、その装備機種「紫電」の不具合等で不可能になったため、急遽二六五空にマリアナ進出が決定された。昭和十九年四月中旬新竹(台湾)~笠野原~香取と移動することとなったが、その支援のため、一○二一空(鳩部隊)の十三試大攻「深山改」が使用されていた。鹿屋基地着陸予定が、前方の一式陸攻に邪魔をされ、失速状態となり墜落。機体は5つに分離、基準翼付近が炎上し、便乗者を含む23名中、13名が即死という大事故となってしまった。その3 昭和十九年五月、戦局は急を告げていた。米軍の侵攻方向は、マリアナ方面かビアク方面か判断がつきかねた。海軍は、マリアナ諸島西方海上を決戦海上と決め、「あ」号作戦を発動した。しかしながら、マリアナ方面の主力は、ビアク方面作戦(渾作戦)にシフトしていた為、マリアナ方面の充実が急がれた。そんな中、二六五空もサイパンに向けて第3次の進出部隊を、急ぎ編成していた。すでに梅雨の時期に入っていたため、進出日時が制限される。昭和十九年五月三十一日(推定)、いざ、サイパン(硫黄島経由)へ進出するため、香取基地で列線を組んで、いざ発進というところへ、五二一空(鵬部隊)の新鋭機「銀河」が、つっこんできた。これにより、数機の零戦五二型と搭乗員2名が戦死することとなった。
2012.01.12
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ペラン中尉着任 4月に入ると、準備はいよいよ本格化した。まず4月6日から豊橋の陸軍第15師団の工兵隊下士官および兵卒20名、所沢航空隊雇員3名、また横須賀海軍航空隊からは、やはり下士官、兵卒60名が続々と到着した。 4月7日、三方ヶ原爆撃班と新居大正浜射撃班のフランス人教官となるビュアラン、ペラン両中尉らの一行が浜松に到着した。 4月12日午後2時06分新居町駅着の列車で射撃班教官となるペラン中尉が着任した。太田町長、青木在郷軍人会長、鈴木警察分署長、川合尋常、高等小学校らの歓迎を受け、町長令嬢よし、杉浦医師令嬢芳枝から、花輪、生花を受けた中尉は喜色満面で答礼を行った。そのまま一行は、全町各戸に日仏国旗が掲揚されている中を、大正浜へ腕車(人力車)で向かった。沿道には、あふれんばかりの人々が万歳を歓呼し、また尋常小学校5,6年生および高等小学校1,2年生が覚えたてのフランス国歌を歌ってペラン中尉を大歓迎した。 大正8年2月24日付の静岡新報では、『仏国歌を高唱し』と見出しをつけ、つぎのように伝えている。 「2月上旬以来毎日数回宛上級生徒に教授、殆ど暗誦し、独唱も差支えなき程となる。校外で遊ぶ時もこれを歌っている。」 記念碑の除幕式当日、地元の老人クラブの面々が歌ったフランス国歌は、実にこの時に習ったものである。新居町浜名に住む明治39年生まれという加藤九治郎は自慢する。「今から20年以上前のことですが、同窓会の時に1人でこのフランス国歌を歌ってみたら、よく覚えていたもので最後までまちがいなく歌えたのです。だからその後も、みんなで集まるようなときには、全員で歌うようになっていったのです。時々は、放送局からも聞かせてくれと来るのですよ。」 4月18日からは、倉片陸軍大尉の指揮のもと、湖上危険区域の杭打ち、浮標の設置、機関銃据え付け用土塁築造、地上目標の建設など、また大崎海軍大尉の指揮のもと、2ヶ所の滑走台(東と南)、大正浜中央道路の西南方には、水上飛行機3機の繋留場(格納庫)2棟も建てられた。これは、屋根及び周囲を防水布で被覆されたバラック式のもので、一方には水上機2機が、他方には1機を入れることができた。 そして、いよいよ5月1日から学科、5月5日からは射撃演習が開始されることに決定した。第一期専修員来班 5月1日、第一期専修員10数名が来班した。射撃班の編成は、射撃班長が爆撃班長兼任の赤羽祐之陸軍少佐、主任は倉片深陸軍大尉と大崎教信海軍大尉であった。第一期専修員として陸軍側は、操縦:加藤 義中尉、大柴栄中尉、森作蔵軍曹、射手:溝口護命中尉、池田慶次郎中尉、手島恒久中尉、樋口正治少尉、海軍側は、操縦:市丸利之助中尉、坂尾照喜三等兵曹、坂尾兵曹負傷後は、前島一等水兵、上野強次郎一等兵曹等であった。このうち操縦者は、時々射手としても訓練した。 教育予定およびその内容は、5月、6月を機関銃射撃手専門の射撃教育、7月を下志津で偵察、観測教育を終了した偵察員のための射撃教育、8月は各務ヶ原で駆逐飛行機(戦闘機)による高等操縦術修了者のための射撃教育と3期に分けられ、射撃教育の順序は、(1)地上より固定目標の射撃 (2)空中より湖上固定目標の射撃 (3)空中より地上固定目標の射撃 (4)空中射撃の4種類に分けられていた。地上における目標射撃は5月3日の機関銃および騎銃試写から開始された。 射撃班で使用された機関銃は、ビュカース式、ルイス式、それに日本独自のもの、照準器は、速度に応じた風力によって、敵味方の移動量を的確に修正測定することのできるジュリエット式とノルマンサイト式であった。 かつての大正浜中央道路沿いに釣具店を営んでいる太田好一は、道路の北側に築かれた土堤上から盛んに機関銃が発射されていたのを今でも鮮明に記憶している。 築かれた土塁には、機関銃と銃架を据え付けた木製の台座が数カ所に置かれ、ここから目標を射撃する訳である。
2012.01.10
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海上自衛隊鹿屋航空基地史料館鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2893-0064 0994-42-0233http://www.synaspse.ne.jp/~msdf-ks/ 南九州の海底から引き揚げられた2機の零戦を元に、復元された機体である。1機は、垂水市まさかり海岸沖の零式艦戦二一型(中島第22383号、推定製造年月日:4-1-11)。 もう1機は、加世田市吹上浜沖の零式艦戦五二型(丙型と思われる)である。 せっかく復元するのであれば、五二型甲型仕様ではなく、主翼が原型をとどめていたという丙型に復元して欲しかった。引き揚げ時の写真を見ると、この機体も製造番号が、絶対に確認できたはずであるから、惜しいことである。 展示機は、海自・鹿屋工作所と三菱重工の技術者によって、平成5年7月7日に完成した。残念なことに、同館は写真撮影禁止なので、こちらをご覧頂きたい。http://www.ne.jp/asahi/eiji/home/kanoya/ray02jpg
2012.01.09
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飛色第14号 黄色
2012.01.04
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飛色第13号 青色
2012.01.04
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新居大正浜へ 大正7年春、陸軍は第一次大戦(欧州大戦)の戦況およびシベリア出兵をひかえ、航空兵力の充実のため、パリの駐在武官を通じて、フランスより各種飛行機100台およびそれに伴う材料、制作機械等の購入を命じた。当時フランスはドイツを相手に戦争中であり、これらの注文には応じてくれないのではないかという日本側の危惧に反して、快くこれに応じてくれた。 また飛行機ばかりあっても、それを操縦・運用するには総合的な教育体系が必要であり、欧州大戦で非常に進歩したこれら教育方法を有力な連合国一員である日本に伝授するための教官を派遣する話まで、好意的に提案してくれた。話はトントン拍子に進んで、最終的には、時のフランス首相クレマンソー(陸軍大臣も兼任)の裁断のもと、フランス側の派遣者の往復旅費および滞在中の給与は全てフランス政府が負担するという破格の扱いで、フランス航空団の日本派遣が実現することとなった 日本側では、その団長として、大戦前からフランス航空部隊の組織編制の功労者であったフォール砲兵大佐を希望し、それが受け入れられ、大佐自らがその幅広い見識のもと派遣教官の人選に着手した。当初13名が予定されていた派遣員は、29名に、そして最終的には61名ものたすうにふえたが、その第一次49名は11月21日フランスのマルセーユを出港、上海経由で、大正8年1月12日に長崎に寄港、ついで1月14日に神戸に来着した。一行は直ちに東京に向かった。 フランス航空団の教育課目は(1)飛行機操縦および空中戦闘法 (2)偵察写真、無線通信術 (3)空中射撃術 (4)爆撃術 (5)機関工術 (6)気球に関する教育 (7)機体製作術 (8)発動機製作術と多岐にわたった。それぞれの教習場所は、各務原(操縦)、下志津(空中偵察、観測)、新居町(空中射撃)、三方ヶ原(爆撃)、東京砲兵工敞(材料検査)、所沢(飛行機製作等)、熱田陸軍機器製造所(発動機製作)、追浜(飛行艇組立、操縦)などであった。 各教習地は事前に協議されていたようで、フランス航空団の来日後すぐに予定地の視察に入っている。フォール大佐はじめ、井上少将、草刈中佐以下の一行18名は、1月22日早朝浜松駅に到着、まず浜名郡富塚村の陸軍演習場を実地踏査した。その後、舘山寺より軍用艇で弁天島に南下、浜名湖の視察、翌日には、各務ヶ原を実地踏査する。2日後の1月24日には、ルフェーブル少佐他4名が、同様に浜名湖および三方ヶ原を実地踏査し、即日帰京している。2月5日から8日にかけて、やはりフォール大佐以下5名は、高師ヶ原、富塚練兵場、熱田工廠、名古屋練兵場、各務ヶ原と練習場選定を精力的に急いだ。 2月13日、赤羽少佐、倉片大尉、長尾中尉、およびペラン中尉、ビュアラン中尉の5名は、飛行根拠地となる富塚(新)練兵場再踏査を実施、翌日の弁天島付近および今切湾沖の視察は天候不良のために中止され、高師ヶ原の視察に赴いた。その後15日に鷲津駅に下車、浜名湖方面を彩度実査している。これにより、爆撃班は三方ヶ原(富塚)、射撃班は大正浜を選定することにほぼ決定したが、富塚練兵場は交通不便の地であり、浜名湖付近はまた気流がおもわしくないことが予想され、船の航行および漁業への影響も心配されていた。 大正浜とは、もともと養魚場だったところであるが、大正時代に入って埋められたために、こう呼ばれていた。夏には、絶好の海水浴場であった。 練習候補地が決まると、地元との借り受け交渉が開始され、3月に入って正式契約がかわされた。期間は4月1日から8月30日まで、これはその後に、演習の都合によって9月20日まで延長されることになる。 自動車が通行可能なように道路を改修、事務および講義に用いられる建物の完成を急ぎ、格納庫の地ならし、軍用電話および警察電話の仮設・延長、また飛行訓練を見学の観客にに対応するため、大正浜には役場の出張所、新居警察分署の分遣所、また臨時駅前巡査派出所の設置、観客のために旅館は改修を急ぎ、出張店も構えられ、新居町はしだいに活況を呈していった。
2012.01.01
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飛色第12号 白色
2012.01.01
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三菱重工 史料室愛知県西春日井郡豊山町大字豊場1480-0293 0568-28-1112 製造番号の三菱第4708号からすると、この機体は零戦五二型(乙型)に該当するが、担当者に聞いてみても、この事実については、定かではない。もともとこの機体は、ヤップ島から運ばれてきたものだが、同島に今でも残る残骸の中にも、あきらかに五二乙型と認識されるものがある。 復元にあたっては、一応五二甲型として復元された。三菱重工では、後継者の育成をかねたこのプログラムで、自社の過去の栄光の機体を復元・保存することに尽力している。
2012.01.01
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飛色第11号 黒色
2012.01.01
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飛色第10号 赤色(日章用)
2012.01.01
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