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バルセローナ。
スベイン北東、カタルーニャ地方の都会。ピカソが育ち、天才建築家ガウディが育んだ街。新しい思想と芸術、植民地戦争の敗北、政治の激動、20世紀末のこの都市は、興奮と絶望の泡立つような混沌の中、スペインを代表する芸術家達を深く豊かに熟成させていった。
「ほら…」
「大丈夫です」
差し出した手を見向きもせず、周一郎は左手で松葉杖を操って、巧みに車から降りた。右手はまだ首から吊っていて、ちょっとしたことでバランスを崩し、羽織った背広と共に体をふらつかせる。
「無理すんなよ」
「無理なんかしていません」
慌てて差し出した手で支えると、周一郎は憎まれ口をきいて手を振り払い、先に立って歩き始めた。影のように高野が付き添い、俺を振り返りもしない。
(ちぇっ)
差し出して放り出された手のやり場に困って、胸の中で舌打ちする。
ったく。ちょっと元気になるとこれだ。あれがちょっと前までベッドで大人しくしていた人間の台詞かよ。
数日前のことが思い浮かぶ。
「おい…何してるんだ?」
一応ICPOに報告だけはしておくわ。
そう言って、『ランティエ』と一緒に病院を出て行ったお由宇を見送って病室に戻った俺は、周一郎が不自由そうにベッドの上に体を起こそうとしているのに呆気にとられた。
「滝さん…」
なぜかほっとしたような優しい声で応じてこちらを見返し、再び周一郎は横になった。
「何だ? 何か用があったのか?」
問い掛ける俺を奇妙に透明な目で凝視する。
「仕事ならさせんからな。高野もしばらく見合わせるように連絡したって言ってたし……何か欲しい物があるのか? 水か? 果物か? 飯か? パンか?」
くす、と周一郎は唇をほころばせた。
「…いえ…」
「本か? テレビか? ラジオか?」
「もう…いいんです」
「? …んじゃ、何をしようとしてたんだ?」
「別に…」
答えて、周一郎はわずかに赤くなった。
「? …トイレか?!」
「違いますっ!」
喚いてますます赤くなる。
そりゃ、こいつの『突発性赤面症』には結構慣れてはきたが、今回はどうも原因がわからない。
「わからんなー」
「もういいんです」
いつものように、どこか怒った声音で唸って、周一郎はベッドに潜り込んだ。拍子にどこかぶつけたのだろう、あっ、と小さく呟き、微かに眉を顰めた。
「だから動くなってってだろ? 欲しい物があったら、持ってきてやるから」
俺はぶつぶつ言いながら、掛け布団を引っ張り上げてやった。大腿骨中央部にひびが入り、打撲、裂傷4ヶ所、右肩裂傷3ヶ所、左の額からこめかみにかけて裂傷2ヶ所、そのほか細かな傷や打撲は数え切れず、全身疲労困憊、イレーネの逃避行がうまく進んでいれば、もう数日で限界に達していただろう体力ぎりぎりのところ、と聞いて、坊っちゃま思いの高野は半狂乱になり、医師の言う絶対安静期間を、独断と偏見で更に5日延ばす事を命じていた。背こうものなら『切腹』でもしかねない勢いに押され、さすがの周一郎も今度ばかりは大人しく言いつけに従っていた。
「ったく、よく生きてたな」
「人間、そうすぐには死にませんよ」
「お前がよくても、高野が先に狂い死にする」
「そうですね」
高野の剣幕を思い出したのだろう、周一郎はくすくすと小さく笑った。
「笑い事じゃない」
いささかむっとする。
「だいたい1人で何もかも背負い込んじまうから、こう言う事になるんだろうが。アランフェスでだって、1人にならなきゃ、拐われるこた…」
「知ってたんです」
物憂げに周一郎は吐いた。深く沈んだ瞳の色を隠そうとするかのように目を伏せ、淡々と続ける。
「アルベーロが動き始めたことも、滝さんの大学に汀暢子がいることも、イレーネ・レオニが行方不明になった後、RETA(ロッホ・エタ)に接近したらしいことも。だから、佐野さんの警告があった時に全てが読めた……もっとも、佐野さんがあのリストのことで、ぼくと話したがっているとは知らなかったけど」
「なら、尚更だろ」
俺は噛み付いた。
「わかってたんなら、どうしてわざわざアランフェスまで行ったんだよ。あのカードのことだって、高野まで騙して…」
「あのカードがどうして日本にあるのかはわからなかったんです。……イレーネが、アルベーロを通じて暢子に渡させたと話すまで」
頭の中を上尾の声が通り抜けていく。
暢子はアルベーロに殺意を抱いてはいたが、当面の敵は朝倉周一郎、アルベーロがこれで周一郎をおびき出せると教えたときには、自分を殺そうとしているのも知らないでバカな男と嗤いながら、表面上はおとなしやかにカードを受け取ったのだと上尾に話したそうだ。 だがその実、暢子もイレーネの指先に操られていたのだったが。
「だけど、お前のことだ」
湧いてくる疑問になおも言い募る。
「カードのことがわからないにせよ、罠だってことぐらいはわかってたんだろ? 何も、好んでそこに飛び込むこたないじゃないか」
「……知っていた、と言ったでしょう」
周一郎は気怠げに唇を動かした。
「イレーネが何を望んでいるか、イレーネがぼくをどう思っているか、10年前から知っていたんです。だから、あの計画を動かした時、いつか、必ずイレーネはぼくを追ってくると思っていた………そして、たとえ大悟が生きていたとしても、『その時』ぼくを助けてはくれないことも」
アランフェスでの高野の話が蘇ってくる。高く澄んだ青紫の空、荒涼たる大地の狭間、豊かに緑たたえる沃野、その中に1人佇みながら、僅か9歳の少年はそんなことを考えていたのだ。自分の計画と相棒、未来にかけられた代償の鎖、救いのない道の果て、暗闇の中を歩いていて、唐突にぶつかる死の匂い……。
『周一郎は、ローラに嫉妬したのかも知れないわね』
周一郎が病室に軟禁状態になっている間、訪れたお由宇は不思議に甘い笑みを浮かべた。
『計画の相棒などと言う条件なしで、つまりは「無条件」で、大悟に受け入れられたローラ・レオニと自分を比べて。まだ9歳の少年だったのよ、肉親にも等しい人の愛を探し求めても不思議はないでしょう? 「だから」周一郎は、より熱を持って計画を進めたのかも知れないわ。大悟を自分に惹きつけようとして、そしておそらくは、その反面、大悟が計画に反対することを願って、ね。………彼にとって、大悟がローラを裏切らないと言うことは、他でもない、周一郎をも裏切らないと言う、ほんの小さな、けれど何よりも欲しい、保証のように思えたのかも知れない』
けれど大悟は計画を進め、ローラ・レオニは死に、周一郎は大悟の片腕としての高い評価を受け……そして、周一郎『自身』は、大悟という出口を永遠に見失った。
「いつか、必ず、イレーネはぼくを狙ってくる…」
皮肉な笑みが周一郎の唇に広がった。大人びた口調で、
「イレーネだけじゃない、僕も待っていたんです、10年間」
風が吹き寄せてくる。異国の乾いた風が、窓から入り込み、枕に乗せた周一郎の髪を嬲り頬に乱れさせる。左手で不器用にそれを掻き上げながら、周一郎は低く話し続けた。
「アランフェスでレオニの配下に囲まれて、それからイレーネと再会して………僕らは同じ種類の人間なんです。光が明るければ明るいほど、強ければ強いほど、できる影がより濃く、より深くなるように、僕らは光を追えば追うほど、自分の中にある影に目を向けずにいられない。それに取り憑かれて、いつもいつも身動きできなくなっていくのをじっと見ているだけなんだ」
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