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道の程、事故もなく関東に着いたならば、やがて御迎えに人を参らすべし。もしまた、我等が道にて討たれたと聞いたならば、如何なる人にも相馴れて、松壽を人となして、心がついたならば僧にして我の後世を問わせ給え、と心細げに言い置いて涙を流して立ち給う。 北の方は越後守の鎧の袖を控え(抑え)て、どうして、そのようなうたてしき(薄情な)言葉で仰るのでしょう。この折節に幼き者などを引き具して知らぬ辺りにやすらう(休息する、立ち止まる)ならば誰が落人のその様方と思わないでしょうか。また日頃から知りたる人の傍らに立ち宿るならば、敵に探し出だされて、わが身の恥を見るだけではなく、幼き者の命さえも失うであろう事の悲しさよ。道にても思いの外の事があれば、そこにてこそ共に兎も角も成り果てましょう。頼む陰の無い木の下(もと)に世を秋風の露の間も捨て置き参らせては、長らえる心地も致しませぬ、と泣き悲しみ給いければ、越後守も心は猛(たけし)と言えども、流石に岩木のみではないので、慕う別れを捨てかねて遥かに時をぞ、移されたのだ。 昔、漢の高祖と楚の項羽と戦う事七十余度であったが、項羽は遂に高祖に囲まれて夜が明けたならば討ち死にしようとした際に、漢の兵が四面にして皆楚歌をするのを聞いて、項羽は即ち帳(垂れ幕)中に入り、その夫人の虞氏(ぐし)に向って別れを慕い悲しみを含み、みずから歌を作っていわく、 力は山を抜き 気は世を蓋う 時に利あらず 馬に隹(すい)は逝かず すい逝かず 如何にすべき 呉氏 呉氏 汝を如何せん と悲歌慷慨して項羽が涙を流したので、呉氏は悲しみに堪えかねて自ら剱の上に伏して、項羽に先だって死んだのだ。 項羽はあくる日の戦いに二十八騎を伴って漢の軍四十萬を懸け破り、自ら漢の将軍三人の頸を取り、討ち遺されたる兵に向って、我遂に漢の高祖の為に滅ばされぬることは軍の罪(戦いが拙い)にはあらず。天が我を亡ぼしたのだ。と、自ら運を計って遂に烏江(をうごう、中国華東区安徽省安慶道和県の東北の町。揚子江に通じる小運河に沿う)の辺にして自害したのだが、かくやと思い知られて涙を流さぬ武士はない。 南の方、左近将監時益(ときます)は行幸の御前を仕り、打ちけるが(馬に乗り進む)、馬に乗りながら北方越後守の中門際まで打ち寄せて、主上、早寮の御馬に召されて候に、などや長々しく打ち立ちなさらぬぞ。と、言い捨てて打ち出でければ、仲時は力なく鎧の袖に取り付いた北の方と幼い者を引き離して、縁側から馬に打ち乗り、北の門を東に打ち出で給えば、捨て置かれ給える人々は泣く泣く左右に分かれて、東の門から遁れ出で給う。 行く行く泣き悲しむ声を遥かに耳に留めて、離れもやらぬ悲しさに、落ち行く先の路暮れて馬に任せて歩ませ行く。 これを限りの別れとは互いに知らぬのが哀れであるよ。十四五町を打ち伸びて跡を顧みれば、早くも両六波羅の舘に火がかけられていて、一片の煙と焼き上げている。 北条時益 の戦死 糟谷七郎が これに殉ずる 五月闇の頃であるから、前後も見えずに暗いのに、苦集滅道(くずめぢ)の辺には野伏らが充満して十方から射る矢で左近将監時益は頸の骨を射られて、馬から逆様に落ちた。そしてその矢を抜けば忽ちに息が止まってしまった。 敵は何処に居るとも知れずに、懸け合わせて敵を討つ様もない。又、忍びて落ちる道もないので、朋輩に知らせて返し合わせるべき事も出来ない。ただ同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重んずるより他のことはないだろうと、思いければ、糟谷は泣く泣く主の頸を取って錦の直垂の袖に包み、道の傍らの田の中に深く隠して、則ち腹掻き切って主人の亡骸の上に重なって、抱きついてぞ伏したりける。 光巌天皇 六波羅を出御 流れ矢が 左の肱に 当たる 龍駕(天皇の乗り物)遥かに四宮河原を過ぎさせ給う所に、落人が通るぞ、打ちとどめて物の具を剥げ、と呼ばわる声が前後に聞こえて、矢を射る事雨が降るが如し。 かくては行く末とても如何あるべきとて、東宮を始め奉りて供奉の卿相雲客は方々に落ち散りなされていたので、今は僅かに日野大納言資名(すけな)・勧修寺中納言経顯(つねあき)・綾小路中納言重資(しげすけ)・禅林寺宰相有光ばかりが龍駕の前後には供奉(ぐぶ)されていた。 都を一片の暁の雲に隔てられて、思いを万里の東の道に傾けさせ給えば、剱閣(唐の玄宗皇帝が天宝十五年・756に安禄山の乱によって長安の都を出て蜀との境にある剱閣と言う険難な地を通り蜀に逃れたこと)の遠い昔に思し召し合わせられて、寿永の乱れたる世もかくてこそと叡襟を悩ましめ賜い、主上・上皇も御涙をさらにせきあえず。 五月の短夜が明けきらずに、逢坂の関のこちら側も暗いので杉の木陰に駒を留めて、暫くやすらい給う所に、何処から射たとも知れない流れ矢が主上の左の御肱に立ったのだ。 陶山備中守急いで馬から飛び降りて、矢を抜いて御肱を吸うが、流れる血が雪の肌に沁みて、見参らするに目も当たられず。 忝くも万乗の主、卑しき匹夫の矢先に傷をつけられて、神龍が忽ちに釣者の網にかかれる事は浅ましかりける世の中であるよ。 さる程に東雲漸くに明け初めて朝霧が僅かに残っているのに、北の山を見渡せば野伏共と覚えて、五六百人が程が楯を突き、鏃を支えて待ち懸けたのだ。 是を見て、面々は度を失って呆れたのだ。 中吉弥八 奇計を以て 野伏の襲来を退ける ここに備前国に住人で中吉(なかぎりの)弥八は行幸の御前に候けるが、敵近くに馬を駆け寄せて、忝くも一天の君、関東への臨幸がなるところに、何者であるからか斯様の狼藉をば仕るぞ。心有る者ならば、弓を伏せ、甲を脱いで通し奉りべきを、礼儀を知らぬ奴ばらなれば一々に召し取って頸を切り懸けて通るべしと、言った所、野伏共はからからと笑って、如何なる一天の君に渡らせ給え御運は既に尽きて、落ちさせ給わんずるを、通し参らせんとは申すまい。容易く通りたいと思召すならば、御伴の武士の馬・物の具を皆捨てさせて、御心安く落ちさせ給え。と、言いも果てぬのに同音に鬨をどっと作った。
2026年05月12日
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長宗の鎧の菱縫い、兜の吹き返しに立ったる矢は少々折り懸けて、高櫓の下につと走り入り、両金剛(密迹金剛と那羅延金剛と。仁王。如来の一切の秘密事迹を知り、五百の夜叉神を使役して仏法を守護する二神、共に全身を裸出して腰部だけに衣装を纏い、勇猛の相をなす。この二神の象を寺門の左右に置く。前者は口を開き、後者は口を閉じて、阿吽(あうん)の相を表す)の前に太刀を逆さまに突き、上口に且(うわくい、歯を食いしばり、下唇で上唇を食いしばる事)して立っているのは、何れを仁王、いずれを孫三郎とも分け兼ねた。 東寺・西八条・針・唐橋に控えている六波羅の兵一万余騎は木戸口の合戦は強いと騒いで、みなが一手になり当時の東門の脇から湿雲の雨を帯びて暮山から出たる様にまっしくらに打ち出でたる。 妻鹿も武部もすはや討たれてしまったと見えたので、佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・同五郎左衛門らが相掛かりにかかって面も振らずに戦ったのだ。 あれ、討たすな殿ばら、とて赤松入道圓心、嫡子信濃守範資(のりすけ)・次男筑前守貞範・三男律師則祐・眞島・上月(こうづき)・菅家・衣笠の兵三千余騎が抜き連れてぞ懸ったのだ。 六波羅の勢一万余騎は七縦八横に(縦横無尽に)破られて、七條河原に追い出されてしまった。 六波羅勢 城に逃げ籠る 寄せたがこれを囲む 意気阻喪して 城を落ちる者が 多い 一陣が破れて、全党まったからざれば六波羅の勢は竹田の合戦にも打ち負けて、木幡(きはた)・伏見の戦にも負けて、落ちて行く兵は散りじりに六波羅の城に逃げ籠る。 勝ちに乗って逃げるのを追う四方の寄せ手の五万余騎は、皆が一所に寄せて五条の橋詰めから七条河原まで六波羅を包囲したのは幾千萬とも数を知らず。けれども東の一方を態と開いておいた。これは敵の心を一つにしないで、たやすく攻め落とす為の謀である。 千種頭中将忠顯朝臣、士卒に向って下知なされことには、この城は尋常の思いをなして延び延びに攻めれば千葉屋(千劒破城)を責めている北條勢が後攻めとしてここを責めると思われる。諸卒は心を一にして一時の間に攻め落すべし。と、下知なされたので、出雲・伯耆の兵共は雑車(ざつくるま、雑用に使う車)を二三百両取り集めて、轅(ながえ)と轅とを結い合わせて、その上に家を壊して山の如くに積み上げて、櫓の下に差し寄せて、一方の木戸を焼き破ったのだ。 ここに梶井の宮(尊胤法親王)の御門徒上林房・勝行房の同宿共は混甲(ひたかぶと)にて三百余人が地蔵堂の北門から、五条の橋詰めに打ち出でたので、坊門少将は殿の法印の兵共三千余騎は僅かの勢にまくり立てられて、河原三町を追い越される。 されども山徒はさすがに小勢であるから長追いしては悪かりなんとて、又もや城の中にぞ引きこもりたる。 六波羅に籠ったる軍勢は少ないけれどもその数は五万余騎に及んでいる。 この時にもし、志を一つにして同時に懸け出だすならば、引き立てたる寄せ手共は足を留めまいと思えたが、武家が滅ぶべき運の極めであろうか、日頃名を現わしていた剛の者と言えども勇まずに、無双強弓精兵と言われる者も弓を引かずして、ただ呆れているだけで、これかれにむら立って落ち支度の外は儀勢(見せかけの勇気。意気込み)もない。 名を惜しみ、家を重んずる武士共だにもかくの如しである。なんぞ況や主上・上皇を始め参らせて女院(皇室に属する女性で、上皇に準じた御待遇をお受けになる方々)・皇后・北政所(摂政・関白の夫人)・月卿(公家)・雲客(殿上人)・児(ちご)・女童(めのわらわ)女房達に至るまで軍と言う事は未だに目にも見給わぬ事であるから、鬨の声、矢叫びの音に懼れおののかせ給いて、こは、如何にすべしと消え入るばかりの御気色なれば、げにも理也と御痛ましいご様子を見せ参らするにつけても、両六波羅はいよいよ気を失って、惘然(ぼうぜん)の體なり。 今までは二心ない者と見えた兵であるが、このように城中が色めきたる様を見て、叶わないとや思ったのか夜に入りければ、木戸を開き逆茂木を越えて、我先にと落ちて行ったのだ。 義を知り、命を軽んじて、残り留まる兵は僅かに千騎にも足らずと見えたのだ。 主上・上皇 御沈落(ちんらく)の 事 糟谷宗秋 関東に 下ることを 両六波羅に勧める 六波羅 同意する ここに糟谷三郎宗秋が六波羅殿の前に来て申しけるは、味方の御勢は次第に落ちて今は千騎に足らぬ程になって候、この御勢にて大敵を防ぐことは叶うまいとこそ覚え候。 関東一方をば嫡はいまだ取り廻し候わねば、主上・上皇を取り奉りて、関東に御下り候て後に重ねて大軍を以て京都を攻められ候えかし。 佐々木判官時信が勢多の橋を警護して候を召し具されるならば、御勢も不足候まじ。時信が御伴候程ならば、近江の国においては手差す者は候まじ。 美濃・尾張・三河・遠江の国には御敵が有るとも承り候わねば、定めて無為にぞ候わんずらん。鎌倉に御着き候ならば、逆徒の退治は踝を廻らすべからず。先ずは思し召し立たれ候えかし。これ程に浅間(奥深くない、露わな事、感嘆粗略)な平城(ひらじろ)に主上・上皇を籠め参らせては名将が匹夫の切っ先に名を失い給わん事は口惜しく存知候ことにて候、と再三強いて申しければ両六波羅はげにもとや思召されけん、さらば先ず女院・皇后・北政所を始め参らせて面々の女性少なき人々を忍びやかに落して後に、心静かに一方を打ち破って落ちるべきでありましょう。と、評定があって、小串五郎兵衛尉を以てこの由を院・内(だい)に申されたりければ、国母(天皇の御母)・皇后・女院・北政所・内侍・女童・上臈女房達に至るまでが城中に籠っているのが恐ろしいので、思わぬ別れの悲しさも、後に如何になり行くのかも知らずに、徒歩裸足にて我先にと迷い出でなされた。 ただ金谷園裡(きんこくえんり、昔、晋の石崇がその別荘、金谷園で観花の宴を開き、詩を賦し、詩の出来ない者には罰として酒三杯を飲ましめた故事による)の春の花、一朝の嵐に誘われたて四方の霞に散り行きし、昔の夢に異ならないのだ。 北条仲時 と 北かとの別離 越後守仲時北の方(夫人、奥方)に向って申しけるは、日頃の間は、たとえ思いの外に都を去ることがあっても、いずくまでも伴い行かんと思いつれども、敵は東西に充ちて道を塞いだと聞いたので、心易く関東まで落ち延びるとも思えない。御事(おこと)は女性故に苦しくはない。松壽(しょうじゅ)は幼稚であるから、譬え敵が見つけてもだれの子とも恐らくは知られないだろう。 ただ今の程に、夜に紛れていずかたへなりとも忍び出で給い、片邊土の方にでも身を隠して、暫く世の静まるまで待ち給え。
2026年05月11日
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さては当家が尊崇の霊神にて御坐(おわし)ましけり。機感(こんき、凡夫の根機、よく神仏を感動すること)最も相応している。宜しきに従いて(よい機会であるから)一紙の願書を奉らばや。とければ、疋壇妙玄が鎧の引き合わせから矢立の硯を取り出して、筆を控えてこれを書いた。 その詞に曰く、敬白(うやまってもうす)、祈願の事、それおもんみるに八幡大菩薩は、聖代前列の宗廟、源家中興の霊神である。本地(ほんち、仏・菩薩が衆生済度の為に仮の姿をとって現れのに対してその真実身たる仏・菩薩を言う)内證(他の教示を待たずに自己の心証のよって宗教的な真理を体得する事)の月が十万億土(極楽)の天に高く懸って、垂迹(すいじゃく、本地の仏が衆生済度の為に神祇となって身を表す事)外融(げゆう、仏・菩薩が衆生済度の為に神通を現わして教え導く事)の光、明らかに七千余座(座は祭神の数。照り輝いて、七千余の祭神を覆う)の上に冠たり。縁に触れて化を分かつと言えども(仏縁によって徳化を区別するが)ついにいまだ非礼の奠(まつり)享け給わず。慈(あわれみ)を垂れて生を利すると言えども、偏に正直の頭に宿ることを期(ご)し賜う。 偉(おおい)なるかなその徳たること、世をこぞって誠を尽くすゆえんであるよ。ここに承久以来當棘(とうきょく、当家)累祖(るいそ、祖先代々)の家臣、平氏末裔の辺鄙をほしいままに四海の権柄を執りて、横(よこ)しまに九代の猛威を振るう。 あまつさえ今、聖主を西海の浪に遷して、貫頂(延暦寺の長、即ち大塔の宮)を南山(比叡山を北山と言うのに対して高野山を言う。ここは高野山を目指して十津川を放浪された事)の雲に苦しましめて悪逆の甚だしき事は前代未聞。これは朝敵の最たるもの。臣たる道に命を致さざらんや。又神敵の先であるよ。天たるの道は誅を下さないであろうか。 尊氏はいやしくも彼の積悪を見て、いまだ匪躬(ひきゅう、私一身の遺恨)を顧みる遑なく、まさに魚肉の薄いのを(尊氏自らを卑下している言葉)以て偏に刀俎の利(とき)に当てる(貧弱な身を以て威力有る北条氏と戦う)。義卒力を合わせ旅(たむろ、軍旅)を西南にはる。 上将(上将軍、前軍の首将)は鳩の峰(石清水八幡宮のある男山)に軍立ちをして下臣(尊氏自身の卑称)は篠村に軍する。共に瑞籬(みずかき)の影に在って同じく擁護(おうご)の懐に出る。函蓋(かんがい、箱と蓋・ふた)相應ず(彼と是が相会して同一体に帰する事)。 誅戮をどうして疑う必要があろうか。仰ぐ所は百王鎮護(百代の帝王をお守りくださる天照大御神の御約束)の神約である。勇んで石馬(石で刻んだ馬。社頭の高麗犬の類)の汗に懸ける。憑無所は累代帰依の家運である。奇を金鼠の嚙むに寄せる(唐の玄宗の時に、天竺の不空三蔵を尊崇して国師としたが、天宝中、西蕃が西涼府を囲んだ時に不空が示した奇瑞で、敵陣に金色の鼠があらわれて弓弩の弦を嚙み切ったこと)。 神は正に義戦にくみして霊威を輝かし、徳風(とくふう、君子が徳を以て小人を靡かせること)が風に加えて、敵を千里の外になびかし、神光は劒に代わって勝つことを一戦の中に得しめ給え。丹精(たんせい、赤心、真心)は誠に有り。玄鑒(げんかん、神仏の照覧)誤ることなかれ。 敬白(うやまいてもうす) 元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白 とぞ、読み上げたのだ。 文章は玉を綴りて詞は明きらかに、理は濃やかであるので神も定めて受納し御坐(おわし)ますらんと聞く人は皆信を凝らし、士卒は悉く頼みを懸け奉った。 足利殿が自ら筆を執って判を据え賜う。上差しの鏑一筋を副えて宝殿に納められければ、舎弟の直義(ただよし)朝臣を始めとして、吉良・石塔・仁木(にっき)・細川・今河・荒川・高(こう)・上杉、以下相従う人々、我も我もと上矢を一つづつ獻りける間、その箭が社壇に充ち満ちて、塚の如くに積みあがったのだ。 奇瑞があり 尊氏の軍勢 強大となる 夜が既に明けてしまったので、前陣は進んで後を待った。 大将は大江山の峠を打ち越え給いける際に、山鳩が一番(つがい)飛び来りて白旗の上に扁に羽翻(へんぼん、ひらひら)とした。 これは八幡大菩薩が立ち翔けって守らせ給う験(しるし)である。この鳩が飛んで行く通りに向うべし、と下知せられたので、旗差し(大将の旗を持つ騎馬兵)が馬を速めて鳩の跡を付いて行く程に、この鳩は閑に飛んで、大内(だいだい、大内裏、皇居)の旧跡、神祇官(じんぎかん、大宝令で定められた官庁。太政官の上に位し神祇の祭祀を掌り、諸国の官社を総管した)の前にある樗(おうち)の木に止まったのだ。 官軍はこの奇瑞に勇んで、内野(京都市上京区の西部。大内裏の跡)を指して馳せ向かう道すがら敵が五騎、十騎と旗を捲き甲を脱いで降参した。 足利殿は篠村をい出給いし時には、僅かに二万余騎有ったのが、右近馬場を過ぎた時にはその勢五万余騎に及んでいた。 六波羅攻め の事 六波羅勢は 三手に分かれて 官軍を責める さるほどに六波羅では、六万余騎を三手に分け、一手をば神祇官の前に控えさせて、足利殿を防がせられた。 一手をば東寺に差し向けられ、赤松(次郎入道圓心)を防がせられた。 一手をば伏見の上に向けて、千種(頭中将忠顯)殿が寄せられる竹田・伏見を支えられた。 巳の刻(午前十時)の始めから大手搦手同時に軍が始まって、馬煙が南北に靡いて、鬨の声が天地を響かせた。 内野方面 の 合戦 設樂五郎左衛門 と 斎藤玄基 との 一騎打ち 大高重成 河野通遠 を討つ 内野には陶山と河野とに宗徒の勇士二万騎を副えて向わされければ、官軍も左右(そう)なく駆け入らず敵も容易くは懸け出でずに両軍が互いに支えて、ただ矢軍にぞ時を移したのだ。 ここに官軍の中から、櫨匂い(はぜが紅葉した色。匂とは袖や草摺の上の方を濃くし、だんだん薄くなるように縅・おどし・鎧の札・さねを紐や革で結びつける事 たもの)の鎧に薄紫の母衣(ほろ、矢を防ぐために背負う具、布帛で作った嚢状のもの)を懸けた武者がただ一騎で敵の前に馬を駆け据えて、高声に名乗ったのは、その身は人の数ではないので名を知る人もいないであろう。是は足利殿の御内で設楽(しだら)五郎左衛門と申す者である。六波羅殿の御内に我と思わん人が有るならば懸け合わせて手柄の程を御覧ぜよ、と言うままに三尺五寸の太刀を抜いて、兜の真向に差しかざし、誠に矢所も少なく馬を控えたのだった。
2026年05月05日
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