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朝8時に家を出て三ヶ根慰霊苑清掃奉仕に出かける。途中友人宅により新年のあいさつと現況報告。三ヶ根は穏やかな天気で実に快適な清掃と参拝ができた。これだけ温かい気候は珍しい。終了後に皆さんと座談会。実に楽しく話ができた。皆さん各所にてご活躍の方ばかり。私は2月5日の北方領土返還要求愛知県民会議県民の集いの案内(1時より4時ウインク愛知5階小ホール)や各市町村での建国の案内などをお知らせした。予定はすべて話せられなかったので以下に記しておきます。一月で忘れてはならない事 一日 宮中四方拝。旅順開場二日 一般参賀・王政復古の大号令三日 元始祭 五日 水師営の会見 七日 昭和天皇崩御八日 平成改元 十一日 成人式十四日 尖閣諸島沖縄編入閣議決定十六日 白瀬中尉南極到達十七日 阪神淡路大震災十八日 対華21か条要求・孝明天皇崩御二三日 八甲田山遭難二七日 国旗制定記念日二八日 加藤高明死去 九〇年二九日 明治天皇践祚三十日 孝明天皇祭《 愛知の教育を考える会 》●豊橋学習会一月 三日(日)一時~(場所)豊橋陸軍墓地清掃及び近隣にて学習会●岡崎学習会一月十日(日)夜六時二月七日(日)夜六時(場所)岡崎竜美丘会館●牛喘会学習会(日進)一月十七日(日)牛喘荘●西尾張学習会一月二四日(日)(予定)2時より4時半甚目寺市民会館《 関係団体など 》■安城草莽の会一月三十一日(日)九時より ■名古屋三蔵塾【名古屋三蔵塾八月例会】一月十六日(土)午前7時~9時 (会場) 名古屋クラウンホテル 8階『伏見の間』052・211・6633内 容 早朝講演&朝食会■ 三 ヶ 根 清 掃九日(土)午前九時 清掃奉仕■一月三十一日ゆうとぴあ関係者靖国神社にて東條由布子女史三年歳 午前十一時半 靖国神社にて バスでご一緒に行かれる方は当日朝6時三ヶ根ゆうとぴあ発午前6時その他■ 二月五日 午後1時より4時 北方領土返還要求愛知県民会議県民の集い ウインク愛知平成二十八年建国記念の日(紀元節)奉祝祭(愛知)の予定二月十一日(木・祝)実施岡崎市奉祝祭 時 午前九時三十分開始場所 岡崎せきれいホール〔朝日町〕内容 第一部 アトラクション 雅楽演奏 「越殿楽」 矢作北小学校 第二部 式典 第三部 講演 総理大臣令夫人安倍昭恵先生 主催 建国記念の日岡崎奉祝会 会長 神尾明幸事務局 三井政昭 31‐2177蒲郡市奉祝祭 時 午前九時三十分開場 十時開会場所 蒲郡市市民センター内容 第一部 式典 第二部 記念講演 演題 「建邦の神と日本文化」講師 有働智奘先生入場費(資料代) 一000円主催 建国記念の日蒲郡奉祝会実委委員長 喚田孝博事務局 加藤悦康0906090‐4189碧南市奉祝祭 時 午前九時半開場 十時開会場所 碧南市文化会館 〒447-0872 碧南市源氏神明町4番地 TEL:(0566)42-3511 FAX:(0566)42-9981内容 第一部 式典 第二部 記念講演演題 「戦後日本が忘れた『日本人』の姿~~いま、三島由紀夫の提言を考える」講師 宮本雅史先生 産経新聞社 資料代 1000円主催 建国記念の日碧南奉祝祭実委 事務局 源氏町一丁目十四番地 永坂直義 090‐2614‐2070知立市奉祝祭 時 午後二時より四時場所 知立市中央公民館 2F講堂 知立市広見三丁目一番地(市役所隣)内容 第一部 アトラクション第二部 式典 第三部 記念講演演題 「戦後日本が忘れた『日本人』の姿~~いま、三島由紀夫の提言を考える」講師 宮本雅史先生 産経新聞社 主催 建国記念の日知立奉祝祭実委 事務局 石原 悟 090ー3564―9254愛西市奉祝祭 時 午前九時三十分開場 十時開始場所 愛西市八開総合福祉センター 江西町宮西38 37‐3311内容 第一部 式典 第二部 記念講演 (案)演題 「最近の自衛隊について」講師 仙田 国雄 先生 主催 愛西市郷友会 愛知県紀元節奉祝式典 ■日時 十一日 13時半より16時■場所 日進市 白山宮■内容第一部 13時半より 紀元祭第二部 14時より16時まで記念講演 日置沙耶香先生■ 参加費 1000円■主催 紀元節実行委員会 豊橋市建国祭 ■日時 二月十一日 午前九時開始■場所 豊橋公園神武天皇像前■内容 神事清興 奉祝式典奉祝歌謡大会(公会堂)二月十三日(土)実施豊田市奉祝祭 時 2月13日(土) (12時開場)1時半より4時半場所 豊田市福祉センター豊田市錦町1丁目1番地1 電 話 0565 34-1131 FAX 32-6011内容 第一部 式典 第二部 記念講演演題 「古事記と日本天皇」(仮題)講師 中曽根 語良先生 主催 建国記念の日奉祝祭実行委員会 実行委員長 梅村憲夫 共催(財)昭和聖徳記念財団三河支部・事務局園部 090‐8073‐2078安城市奉祝祭 時 2月13日(土) (1時半開場)二時より4時場所 安城市市民会館二階講座室 安城市桜町18番28号 電 話 0566‐75‐1151内容 第一部 式典 第二部 記念講演演題 「建国の日を寿ぎて」〔仮題〕講師 三宅 博 前衆議院議員資料代 1000円主催 建国記念の日安城奉祝祭 実行委員会 事務局 林大二郎 名古屋市では日本会議さん主催の式典講演会も毎年は午後開催です。建国記念の日制定五十年豊橋記念講演会開催のお知らせ日時二月九日(火)午前十時開場、十二時閉会。場所 穂の国とよはし芸術劇場プラットアートスペース豊橋駅前です講師 皇學館大學教授 岡田 登先生演題「ええじゃないか発祥の地 豊橋と御蔭参り事務局は0532-31-7968 羽田八幡宮です国家の無き民はいかに苦難な道を歩むかは先のアジアアフリカ植民地時代を振り返れば明々白々。チャイナに支配されてしまった満州や南モンゴル、ウイグル、チベットの悲惨をかいま見るだけでも十分でありましょう。しかし主権があり領土国民があればよしとするものではない。気品ある道義国家にならねばならない。 高貴ある国を築き守るにはやはり原点回帰。わが国が如何なる国づくりを目指し営々と文化を築いてきたか、振り返らねば成らない。 我が国の国家理想とは何か、国家の誕生の時を振り返り今を見直すことは極めて大切なことであります。 愛知県では紀元節復活運動時には県下10市町村で式典が為されていましたが後、2・3市町村に。これではならぬと数年前から開催を増やそうと頑張ってきた。結果、来年の開催は11箇所。私共がかかわるところが10会場以上になります。長い道のりでしたがやっと成果が出始めたかなと思います。座談会終了後ゆうとぴあに走り東條由布子女史の3年祭の件の打ち合わせ。印刷ミスが見つかり訂正をしてもらう東條由布子女史三年祭・開勇元憲兵兵長七年祭催行のご案内明治・大正・昭和を代表する偉大な詩人与謝野晶子女史が大東亜開戦の朝詠んだ二首水軍の 大尉となりて 吾四郎 御戦に行く 雄く戦え日の本の 大宰相も 病む吾も 同じ涙す 大詔与謝野晶子女史をして大宰相と言わしめた東條英機総理の長男の長女(孫)として昭和十四年五月京城に生を受ける。敗戦となり幼少期には筆舌につくし難きご辛苦を体験された。しかし、持ち前の明朗闊達さ、さらに、大宰相の血流を受け、正義感にあふれた生活をなされたので有ります。努力と勤勉さを持し、学業にそして社会人として社会に貢献された。結婚育児を経て、遺骨の御収体こそが日本の急務であるとし、私財を投じ、全身全霊をもって英霊の顕彰、さらに歴史伝統文化の正統を正し戦後日本の復興のために尽力をする。将に第一生命山口元副社長の言われた「たいして裕福でもない家庭でありながら良くあれだけの活動が出来たものである」の言葉どおり。平成十三年、NPO法人環境保全機構設立。当時パラオのみ遺骨の御収体の許可があったのに着目するや、意を決し、不発弾散乱するペリリュー島に上陸、旧米軍海兵隊及び陸上自衛隊元三佐、丸山成生氏等、民間より江田一成氏等々と協力、御遺骨御収体。内地に於いては元憲兵兵長、開(ひらき)勇氏他、稲村孝司東京憲兵司令・元陸自一等陸佐・中山侑義氏、元米陸軍報道官・羽鳥庄次氏と靖国神社顕彰、三ヶ根山殉国七士廟および八十七基の慰霊碑護持のために、ゆうとぴあ三ヶ根を設立、英霊顕彰運動に尽力す。顧みまするに、太陽の如き暖かく、神様の如く優しく、そして鉄の意志を持って世の為人のために生涯を捧げた人であります。泉下の客となられてはや三年。今日に及ぶも東條さん東條さんと慕われ、そして、余りにも早い逝去を惜しむ声声声。誰が言われたか不明なるも、皆の意を決し、三年祭をしたら、三年祭を以てNPO理事長東條由布子様に最後のお別れをしたらとの声が上がり、来る平成二十八年、一月三十一日十一時、靖国神社内靖国会館にて東條由布子女史三年祭及び開勇元憲兵隊長の七年祭を催行いたすことになりました。発起人代表には桜井よしこ様、ウイル編集長花田紀凱様等々、現代を代表する偉大な愛国の士がその任に就いてくださいまして、生前の東條由布子女史を顕彰してくださいます。最後のお別れ会にご参集給わりますよう伏してお願い申し上げます。日時 平成二十八年一月三十一日 十一時集合十一時半 拝殿にて正式参拝十二時 靖国会館二階にて直会(小講演あり)十五時散会会費 八千円・記念品として「大東亜戦争の真実」場所 靖国神社内 靖国会館呼びかけ諸団体 名簿(順不同・敬称略)発起人会 桜井よしこ 黄 文 雄 山口 宗敏 山口 隆 井上 和彦 恒川 幸三 若狭 和朋 新島 邦行 杉浦 明俊 高岡 照海 中曽根語良 栗林 白岳 赤池 誠章山下 直子 花田 紀凱盟友会前島敏子 前島正子台湾盟友会黄 敬 煕 蔡 焜 燦 中川法宏小川智男 三宅教子パラオ盟友会クニオ・ナカムラ 菊池正雄 江田一成森田健 丸山成生 所美栄子 尾崎真澄高梨貴美男友人会磯部和郎 及川英治 加藤孝彦 河辺 勇田中忠治 重田典子 松岡裕子 本間尚代堤さゆり 高橋安治 篠田謙二 中村暢晃加藤浩康 牧 笛甫 山口周行 土田雄三江崎忠男 犬塚敦統 深沢義廣 朝雲学人森永アサエ 大竹理一郎 ラリタ・サキ台湾陳 堅 強 陳 亮 谷 郭 秋 絹鍾 節 美 林 鈵 修 今西英樹黄 福 来寅々会中山侑義 稲村孝司 羽鳥庄次佐々木清和中央世話人会相田 勲 浅田佳博 荒川 寛 椎木真夏唐沢康弘 黒木悠香子世話人会他地区田形 勝 伊藤宏司 田形文子 川崎 巌黒崎忠彦 山田登由 夏山義之 粂 坂人北村友彦 池田 潤 林 英樹 辻 哲郎 服部千里 高森 茂 神谷佳典 北村孝吉 大村孝之 鎌倉真理 前田昌宏 奥田洋弘青山阿樹良 坂本百合美三ヶ根の仲間達伊藤 弘 坂田 稔 神谷義国 森 靖雄 伊藤政一 石川 薫 高辻哲洋 岩原一馬 堀 真司 杉田謙一 加藤えり子伊藤恵美子 事務局 〒444―0701愛知県西尾市東幡豆大境18―8ゆうとぴあ三ヶ根 0563(62)3228伊藤 弘 080―5104―2500 杉田謙一 090―8554―0817 伊藤政一 090―1292―3669◎御芳名は現時点までに確認いただけた方。発起人、世話人の方、本会の御賛同誠に有難うございます。お名前の記載漏れがございましたら、大変申し訳ありません。本会の当日に改めて正式書面をお渡しする予定でありますのでなにとぞ宜しく御願いいたします。◎ 献花無用に願いますまだ、通信ができず。急ぎます
2016.01.09
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朝一番で三ヶ根殉国七士廟花壇に行く。昨日の激烈な雨で土の流出や草花がどうなっているか心配であったため。境界をペットボトルで作っておいたが無残ね飛ばされている。何とかすっくと立っていたひまわりは無残にもほとんどが倒れている。山肌に土だから、乾燥時には少々の水かけをしても保湿力が弱く、草花も根を深くに伸ばさないからあの風で倒れてしまうのだ。雨水は土部分をへこませてしまうので結果茎や根が浮き上がっている状態になり倒れてしまうもっていった竹を差し込み、茎を起こして竹に縛ってみたが、果たして安定するであろうか。さらにペットボトルは撤去し、孟宗竹を短く切ってもっていき試しにレンガが替わりに花畑の柵とする。なかなか見栄えもよく、花壇らしくなった。しかし数が圧倒的に足りない。昼まで作業をなして孟宗竹の確保に走る。幸田の義兄の藪に生える孟宗を10本ほどいただき軽トラに乗せてじたくに持ち帰る。30センチほどに切りそろえ始めた。予定では1000個ほど切り出すつもりでありますが、何しろ体力不足。50個ほどを作ったところでダウン。5時ころ遅い昼食をとる。 この雨でも三ヶ根山は大賑わい。殉国7士墓の説明をさせていただいた方に松井姓のかたがおみえであった、元は名古屋のご出身で松井大将の遠縁かもしれないとおっしゃってみえる。きっかけは何であろうがこの地にお越しくださったことはうれしい限り。中学生らしき息子さんも熱心に話を聞いてくださっていた。三ヶ根資料を差し上げる。 比島観音の茶屋は土日の実営業。(ゆうとぴあさんは水曜休みでしたか、あとは開店)参拝を済ませて立ち寄ると、西尾の建国祭にご参加くださった方から声を掛けられる。西尾のお仲間さんらで西尾を美しくする会だったかを結成され活躍なされていると伺う。様々に輪が広がるのがうれしい。 今日も仕事終了はよる10時。何とかそれから竹の切り出しを仕上げたい。
2020.06.13
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今日の三ヶ根作業には開門を待って朝一番に入る。実にすがすがしき中慰霊を済ませ掲揚塔に国旗を掲げ草取り作業に入る。今日はプロのドローン撮影が入る予定であり草取りを急ぐ。11時過ぎだったかお二人がお見えになったので軽く打ち合わせ。しかし今日はチューリップなどの花壇内部の動画撮影をメイン、まだ芝桜の花が3・4割しか咲いていないので1週間程度後にドローン撮影をしていただくこととなった。ありがたい。富士山のデコレ―ションもあと一日は掛かる。傷んだ草花やメインの芝桜の枯れた部分の入れ替えもしておきたいので都合がよい。この作業も相当の労力がかかるので14日日曜朝9時半からの清掃奉仕の皆さんの力をお借りできそうであります。11時半ごろに花の買い付けに西尾の堀田農園に走る。15ケースを購入。乗用車に何とか詰め込む。1時西尾の岩瀬文庫に集合し、食事を兼ねて友らと関口長太郎顕彰会の今後の活動についての提案を出し合ってみた。① 慰霊顕彰祭(十一月)・講演会の開催⓶広報誌「関口長太郎」通信の発行。③六名の先生ご出身地や台湾への「研修旅行」 ④DVDや紙芝居などを使って授業展開や民間教育推進 ⑤台湾の都市と西尾市との姉妹提携推進 ⑥地域の歴史や文化を学ぶ会の実施及び協賛 ⑦日台友好に向けた諸活動 (今回の台湾東部地震への支援金募金活動) ⑧芝山巌教育開始百三十年記念式典ないし芝山巌事件慰霊祭の来年開催 むろんどれをとっても大がかりすぎて今日の段階ではプランの羅列に過ぎないが。十五日の関口長太郎物語漫画本作成委員会の総括会に提示していただけるようにしたいものだと思う。 14日の岡崎学習会(今回は安城東部地区市民館にて夕方5時より7時半)においても議題にしたい。 終えて三ヶ根に帰る。花植え作業をしていると元自衛官の方とご子息の3名の方がお越しになった。大いに語る。ご出身は広島県だそうな。息子さんはしっかりとしたスーツ姿。愛知にお勤めだそうだ。碑をご案内しながら大いに語る。こうした真摯な方と語り合うのは実にありがたい。 何とか7・8ケースの花200本ほどを植える。あす中にのこりの半分ほどを植え、あとは14日の植え込み用に残しておこうと思う。 今日の案内でも語ったが松井石根閣下が冤罪で処刑されたいわゆる「南京事件。この始まりは共産党が関東軍と国民党軍の双方に発砲して起越された盧溝橋事件。そして悪逆非道な通州事件であるといえよう・通州事件とは何か 通州事件とは何か。シナがこれを起こすことによって戦端が開かれたような重大事件。ぜひ知っておくべきです。平成十六年正論11月号より抜粋引用 盧溝橋事件から僅か三週間のち、即ち昭和12(1937)年7月29日に「通州事件」は起きた。通州は明朝時代に城壁が築かれ、天津から集荷の拠点として栄えた。交通の要衝、運河の街でもある。北京の郊外、東へおよそ18キロ。事件直前まで日本人にとっては「治安の良い」場所とされた。なぜなら親日派の「冀東防共自治政府」が通州、天津などを治めており、日本人を妻とする「殷汝耕」が長官だったからだ。 この自治政府は付近から雑兵を掻き集めて、一応、9千人の「保安隊」を組織していた。お人好し日本は自治政府が親日であることを信じて疑わず、保安隊の軍事訓練まで施していた。たまたま事件前夜まで、南宛に向かう萱島連隊が通州を兵站基地をして、盧溝橋事件十日後から駐屯していた。だから居留日本人は二重に安心していたのだ。 しかし通州には反日派の頭目張慶餘が率いる第一総隊と張硯田が率いる第二教導総隊、合計で三千の軍が野砲で武装して駐屯していた。ひとつは城内に、もう一つの部隊は城外(といっても南門のすぐ脇)に。しかも張らは親日政府=冀東防共自治政府保安隊のなかに密かに潜り込ませた反日分子と接触を絶やさず、また親日派のはずの保安隊のなかに共産党の細胞まであった。彼らは反日では団結する。反日分子たちは日本軍が通州で空になる機会をじっと窺っていた。 一方、南京の国民党政府は通州に「冀察政務委員会」を設置していた。事実上の影の政府だが、委員長は中国第二十九軍の宋哲元だった。冀は河北省、察はチチハルを意味する。かれらは極秘裏に居留日本人の住所、家族構成を調べ上げ、リストを作成していた。 絶好のチャンスがきた。盧溝橋事件から二十日後の7月27日、無敵を誇る萱島連隊は作戦のため多数のトラックに弾薬を積んで出発した。ただし萱島連隊は南門城外に不気味に居座った第二十九部隊が武装解除、撤退に応じないため、先に攻撃してからの通州出発だったが。残留の日本軍守備隊は自動車中隊、憲兵などを含め僅か百十人だった。駐屯するはずの藤尾小隊は大部分が天津に出張中だった。 二十九日午前三時、冀東防共自治政府の保安隊は突如、日本軍を襲撃した。不意をつかれた日本兵は獅子奮迅の防戦をするも、死者三十人あまり。この戦闘の最中に保安隊は自分達のボスだった殷汝耕を拘束し、同時に日本人民間人の虐殺を開始した。居留日本人四百人のうち、二百六十人あまりが惨殺されるのだ。 大局的戦況はといえば、日本軍が蒋介石軍を大破し、南宛を占領した。「北京を死守する」と豪語していた宋哲元は遥か南方の保定まで逃げ込んだ。それを知らない張慶餘と張硯田ら中国軍と保安隊は日本人の非武装民間人を虐殺し続け、夕方に萱島部隊がもどったと聞いて逃亡、北京へ向かった。ところが北京付近で翌三十日に日本軍と遭遇、忽ち粉砕された。 同時刻、惨状を聞いた日本軍の第二連隊はおっとり刀で通州の現場に到着、あまりのむごたらしい惨殺死体に驚嘆、愕然、唖然となった。 こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺された。日本軍守備隊に運良く逃げ込むことができた百二十人だけが助かった。 引用以上この通州事件での日本人虐殺は日本にとっては看過などできるものではなかった。 蒋介石率いる国民党軍はドイツの武器援助を得て上海で日本軍と対決。敗戦して南京城に退却、追い込む日本軍に蒋介石は主都南京を放棄し重慶に向かう。南京を守ると豪語し後を託されたのが唐生智。しかしその敵将唐生智は部下を置き去りにして逃げ出す。司令官が敗戦処理もせずに逃げだしたチャイナ軍は大混乱し、脱走する大量の自軍兵士をチャイナ兵が狙い殺す事件が起きた、これが南京戦。日本は見事な勝利をなして南京城に入場したのだった。 悔しかったのであろう。彼らは日本敗戦となった際に日本軍による虐殺を初めて言い出し、その数は今や40万人。よくぞまあ。あの国だから。しかし日本人が「南京虐殺」を払しょくできないのは以上過ぎまいか。
2024.04.13
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愛知県西尾市幡豆町の三ヶ根山(標高三百二十六メートル)になぜにフィリピンの英霊52万人をお祭りする比島観音やさまざまな慰霊碑があるのか。ここの山には山頂をはさんで東西2か所に分かれて慰霊碑群が集中して存在している。地名も西幡豆と東幡豆に分かれているが。西幡豆のほうには東條閣下はじめ殉国七士の墓を中央にしてその西斜面を開いて戦争慰霊碑十六基そのほか軍馬の碑やお町さんの碑、三河湾から引き揚げたB29のエンジン(別説あり)など、四十九基があり、東幡豆の三ヶ根観音境内には慰霊碑が三十ほどか、その入り口の外苑には立派な部隊碑などが五十ほど。建立されている。先に建立されたのは六十年安保の年に殉国七士墓が、比島観音のほうは、七〇年安保の翌年の昭和四六年に観音様が建立されました。 この地に建立されたのは昭和十六年十二月日本軍がフィリピン上陸地、リンガエン湾がここから見える三河湾にそっくりだということと、全国のご遺族が集まるには地理的に日本の中心である愛知三河が好ましいこと、などがあげられるようです。東京裁判にて七士の弁護をされていた弁護士がこの地で起きていた競艇場の利益分配係争裁判にかかわってみえ、祖国のためにあたら惜しき命を投げ出された英霊鎮魂の場にと仲介されたとも言われます。比島観音((聖観世音菩薩像)は、像躯にはルソン島サラクサク峠戦闘の戦没者の鉄かぶとを鋳込め、瓔珞には比島11の島々が彫ってあります。そして観音様の乳房をはだけているのは若くして往った少年兵らに母の慈愛を忘れずにいてほしいとの願いを込めたものとも聞いています。納骨堂には戦没者の英霊簿と遺品が納められているそうです。 フィリピンはそもそもマゼランの世界一周の時からスペインの植民地。スペイン王子フィーリップの隷属民として植民地支配を受けたことに由来すると聞いた覚えがある。以来ずっと支配下にあり、スペインを倒せば独立をさせるとの約束で米西戦争時には米国側に立って戦った。しかし今度は米国の支配下に。英語が母国語とされもした。大東亜の戦にあっては日本とともに大東亜共栄圏を目指したが、戦況不利になるや、米国側に立ち、よって日本とは激しい戦いを繰り広げること任あった。 n本当に悲劇をこうむった国であり、いかに戦争とはいえ、親兄弟が日本兵とたたかい、亡くなった方は日本兵の倍近く見える。米国は日本兵の残虐さを強調、バターン死の行進の名をつけて非難をなし、この地を真っ先に逃げ出したマッカーサーは、自らの戦歴に敗戦の汚名を記すことになった敵将、本間雅晴中将をでっちあげで処刑したのであった。本間中将の処刑は昭和二一年二月一一日紀元節に判決四月三日神武天皇祭の当日に死刑執行。この日この時は本間中将が四年前第十四軍司令官として総攻撃命令を出したのと同じ日同じ時間だったという。辞世の句は次のとおりであった。戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよ志」甦る 皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ」栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」予てより 捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく」恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ」これも良しと従容として死を受け入れる中将の思いをいかに聞くべきか妻である富士子さんは戦犯裁判に証人として出廷した際、「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」と陳述、その毅然とした姿に本人はもちろん、裁判官や検事も感動の涙を流したと資料にある。畏れ多くも陛下は歌会始に御製をこうお読みになられた。戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふフィリピンの人々の中には平時とはいえ相当のわだかまりを持たれる方も多いことでありましょう。しかし昨年のぺりりゅーといい、今回のフィリピンといい陛下は昭和天皇の御心をお注ぎになり両国国民の慰霊を責務とされ、根源的な両国国民に神前にお勤め下されるのです。昭和天皇御製にも終戦時だけでは決してなく、昭和四十六年伊勢神宮にてお読みになられた御製に戦ひを とどめえざりし くちをしき ななそぢになる 今もなほおもふ とあり、昭和34年、靖国神社九十年祭にてはここのそぢ へたる宮居の 神々の国に捧げし いさををぞおもふと、祖国のために亡くなられた軍人を顕彰くださっているのです。そのお姿を先例とされ金城陛下も常に祖国に準じられた英霊をおまつり下さり、敵兵への祈りをささげられ続けるのであります。まことにありがたきことであります。 いかに総理が各国に行って友好を語ろうが、なかなか心底からの連帯は望みえない。しかし陛下のお姿がどれほど両国の真の和睦につながるか、諸英霊の慰霊になるか、本来国民の務めであることながらで消えていない状況の中陛下にお出ましいただくのはもうしわけなきことかぎりないことです。私どもは三ヶ根に毎月第一土曜日午前九時に集いこの比島観音の参拝と清掃に参加させていただいている。この主催者は故東條由布子女史と親交の深かった杉浦明俊さん。名大の先輩であります。今月三一日靖国神社にて開催される東條由布子女史三年祭の中央呼びかけ人のおひとりです。なおこの日のことなどは本日五時でしたか、桜井よしこ先生のテレビ放映に、三ヶ根山ゆうとぴあ支配人の伊藤弘氏も出られて放映される予定です。桜井様も三年祭の中央呼びかけ人としてご参加くださいます。(ちなみに私は三〇日夜行バスにて上京。慰霊祭に参加して三一日夜行バスにて帰宅予定。)陛下のご無事なフィリピン行幸啓がなされますよう心からお祈りいたします。
2016.01.21
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昨日、姪の家の土蔵のかたずけに行く。おそらく貴重な資料があるであろうが壊す期日が迫り処分は急がねばならない、戦前・戦中の新聞等も出てきたり長持ちの数も10個ほどある。さすがに寛政年代の名前入りの長持は一つだけ残しておくようにはしたが。業者が来てくれて今日の蔵の解体予定を待ってれたので姪の家族に荷出し作業を任せ私は三ヶ根に走る。三ヶ根ゆうとぴあでは門松6個を作成してれていた。夜中の12時ほどまでかかって完成してくれた。殉国七士廟・わらべ工房・ゆうとぴあの3つの場所に設置、大きな3セットの手作り門松を立てるのはおそらく初めての事。素晴らしき新社長神谷さん思いのすばらしさに感銘うける。また三ヶ根慰霊碑群の世話を10数年にわたり行ってくださっている杉浦さんと久しぶりに長く話すことができありがたかった。殉国七士廟にいき飾りつけなどを行い帰宅、家では子や孫らが集いなぜか四日遅れのクリスマスケーキを食べながら語らう。国旗を掲げに行こうとするが体力気力が続かず暖を取りしばし書を読もうと部屋にドルがいつのまにか寝てしまった。今7時、今日の大晦日葉実に多忙。もう必死に国旗掲揚作業に行かねば。皆さん良きん末の一日、そして最高の新年を迎えましょう。
2024.12.31
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今日は開戦記念日。 三ヶ根にて心静かに参拝に参ります 朝日等は開戦時には大絶賛していたではないか。それが、敗戦後占領時からはなんだ。こうした意見は実によくわかる。それがなぜいけない。開戦は29年以来の大恐慌の結果。米国がモンロー宣言に立ち返りk南北アメリカにアジアから。アジアからの移民は許さない。英仏は植民地ブロック政策。ABCD包囲網にあった日本は生存ができない現状。その国際悪をなした米英を凝らしめるのは日本の生存権。開戦、これを喜び戦争目的たるアジア解放と日本の自存自衛を目指す戦争に協力いや推進に向かうことのどこが悪い。米国にはめられた戦争であろうと勝たねば国家国民が滅亡するしかない。座して死をまつのは個人の自由かもしれないが、家族を見殺しなどするは人道に反し日本人の道に反するではないか。マスコミが開戦を報じたときほとんどすべての国民は歓喜し戦勝を祈った。マスコミも同様。祖国の勝利をねがった。そのどこが悪いのか。敗戦後、反戦を唱えていただの政府に騙されただの、戦争賛美の詩人や文学者を糾弾するなどの主張を扇動して自社の免罪を図るマスコミの姿勢/占領軍迎合姿勢こそ見苦しいと思うのは私のみであろうか。対米戦や対ソ連戦がいかに立派で正義が日本にあることは多くの日本人が感じるところであろう。4年間の大東亜戦で疲弊していた日本が終戦に向けた調停を頼んでいた相手はソ連。不可侵条約の締結もぅしこみを受けてソ連の対欧州戦を考慮して締結したいわば武士の情けでの締結。そのソ連が手のひらを返してヤルタ密約を結びなんと原爆投下の直後の昭和20年の8月9日に対日参戦。満州・樺太に侵攻。終戦の15日を過ぎてから千島や北海道の一部北方4島に侵攻奪取したのでありその後の80万近くの拉致抑留や20万近くの日本人殺戮、いわゆるシベリア抑留。日本人の目の前で起きた非道さは万人の知るところであり、マスコミも自虐意識を日本人に与えることは不可能。しいて挙げれば被害者数をシベリア抑留者のデータを減らして60万抑留6万死亡説を流すこと、北方領土名称を北方4島に限定し、千島や樺太をいれないことなど。共産ソ連を擁護したくても国民の記憶は消しきれない。日本人の感性がいかに慈愛に満ちたものであっても道義心は損なわれていない。非道さを許しはしないのだろう。対米戦は真珠湾奇襲の負い目は当初あったが米国の情報公開が進むにつれて受けとりを拒絶した米国大統領の方針やハワイ部隊を見殺しにした犯罪が暴露され、政府は謝罪と補償をなした事実などさらにチャイナに正規軍を民間人として世界戦前に軍事行動を仕掛けていたじじつ、原爆投下が人体実験でありその実験実施まではポツダム宣言受諾を阻止して日本人の虐殺をなしたことなど戦前戦中占領時の米国の行為は日本人の脳裏から消えることはない。「安らかにお眠りください。あやまちは二度とくりかえしませんから」の原爆記念館の文字は米軍や大統領の言葉でなく、日本人の意思表明だとされる。ならばすくなくとも「くりかえさせませんから」と正さねばならないだろう。これほど米国\の主張に迎合する姿勢こそ問題にすべきではないか。しかし対中戦はなぜに理不尽な歴史観からのがれられず、自虐意識一色になるのか。全体主義国家では言論の統制が徹底しており学問の自由がなく政府方針が貫徹される。情報の統制管理が徹底しており国外にいても全て発言がチェックされて帰国時には待ち構えた官憲により拘束を受ける、これでは研究者は政府見解からのがfれることはできず亡命するしかない。いまだこれほど中国人を大切にし、国際法を順守された松井石根大将が処刑されていまだ名誉回復がなされていないのもチャイナ人の研究者に期待などできない。日本人が堂々と事実を確認し政府のや文科省の公認を得られるなど公的な形で主張していくしかなかろう。その意味では南京事件にかかわる学会が阿羅先生や東中野先生他賢明な研究者をそろえて出された成果を文科省が公認していくべきであり、少なくとも自由社などの教科書が検定不合格を受けるなどの愚かさなど起こしてはならないのは当然。文部科学省の検定不合格事件は現政権が再検証して一刻も早くその是正を図るべきであろう。日本が日本の立場で冷静な歴史解釈をなさねばチャイナの政治判断で寝t具増が歴史とされてしまうのだ。八十六年前の12月は日中の対峙が最も熾烈を極めた時期である。1937年の7月には盧溝橋事件でついに日中は武力対決となる。北京郊外にて関東軍とチャイナ国民党軍が橋を隔てた場所で夜間演習をしていた時にとつぜん発砲事件が起こされた。現地ではチャイナの非道に関東軍は抗議したが、シナ軍にとってもそうした発砲事件を起こしたものなど見つからず、日・チャイナは局地的な対決として片づける合意ができた。しかし、そのたびに共産党が両軍に発砲、日中の離反を目指す。これを共産軍の仕業とは気づかぬ両軍はついに戦闘状態に突入することになったのだ。チャイナ共産党が日中戦争の引き金を引いたことを広く知らしめるべきである蒋介石は三十万兵力をもって上海に迫り、わが軍を殲滅する作戦に出た。わが軍は必死に防戦。援軍を得て南京に迫る。12月10日、ついに南京総攻撃に。その際、12月9日に中国軍に対し無血開城を勧告した。しかし中国軍が開城勧告に応じなかったために、日本軍は12月10日に総攻撃をかけることとなった。南京防衛司令官の唐生智は12月12日には現地脱出。よって残された軍は指揮者を失い敗走。壊滅状態となる。解放間もなく、安定した南京に続々南京市民は集まってきている。平和裏に開城が進んだのは明白。それを三十万虐殺などの無礼な言いがかりをつけ来るチャイナ、話になりません。綱紀粛正を常に部隊にかたられた松井石根閣下が戦犯として処刑されるなど理不尽極まりありません。名古屋駅西、徒歩五分ほどの地にある椿神明社。ここには大将の碑もあります。リニア駅にかかったためここ数年はこの地での慰霊祭が出来なかった。今年も4月29日に蒲郡の形原ホテルでさらに先月は岡崎の上和田公民館にて松井石根閣下の人徳や顕彰の講演会を開催。来年こそは12月10日前後に名古屋の椿神社にて慰霊顕彰祭を再開したい。今日開戦記念日に遺骨(遺灰)の安置されている殉国七士の墓に詣でて感謝の思いを申し述べてきたい。12月10日から16日は拉致被害者救済週間ウィキの記載より 「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」は、北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに、国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、その抑止を図ることを目的とし、国及び地方公共団体に国民世論の啓発を図る責務があることを定め、国民の間に広く拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題についての関心と認識を深めるため、毎年12月10日から同月16日までの1週間を「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」とし、国及び地方公共団体はその趣旨にふさわしい事業が実施されるよう努めるものとしています。 引用以上「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」。国と地方自治体は、この週間の趣旨に適うように、様々な事業を実施する義務が定められている。県は各市町村役所等にDVD視聴施設の常設や学校現場での視聴の徹底をはからせねばならない。これは決定事項。しかるに近年はほとんどの学校で配布CDを流さなかった、議会でも是非宣言をあげるべきである。全市を上げて確実にやらせねばなりません。また世界記憶遺産に全資料を整理して登録できるまで努めるべきで在りましょう、特例でも何でもよいが、国会において武力奪還への行動計画を立てるぐらいの決意を示すべきでしょう。このままでは時間ばかりがいたずらに過ぎ去るのみではないか。昨日は朝5時半に息子を駅に送りながら三ヶ根に走る。まずは石柱近くの竹林の入り口部分の整備と下道つくりをなす。ここは最終的には七士廟の入り口にふさわしい花壇にしたいが今は廃棄された枯木や古竹の集積場所でもあり雑木が放置されている状態。まずは雑木を選定し廃棄竹の撤去をなし、明るくして置いた。隣地の笹藪も切り広げて広場にしたので先日の慰霊祭にいらっしゃった皆さんの駐車場としても初めて使用。10台ほどが使っていただけた。ササを取り去った直後は腐葉土のつもる柔らかい地面で雨が降ればぬかるみ、車がスリップしてはまり込んでしまっていたが、今は車が土を固めてくれて十分駐車が可能となってきている。新たにみつかった石垣部分も草取りを進めてきたので立派になり、その上も芝桜を植えて見栄えよくしたので春には花が咲くでしょうしハイキングや慰霊に訪れてくださる方には心地よき場所になることでしょう。 次いでさつき園の下方に歩道を作る作業。遊歩道とまではいかないが、さつきの下方に植えてあるアジサイ林が鑑賞できるように、また下草狩り作業がしやすいようにするための道作り。最下部のコンクリート板の塀を下端として幅50センチほどの道を作り固める作業と、斜面部中腹の通路。作業中に友が差し入れを持って手伝いに来てくれた。本当にありがたい。ひと段落して花壇を見回る。花壇入り口の赤いベンチ近くにはNさんがさしいれてれた丸太のベンチを置いて」休憩場所にしたが、そこから眺めると見事な紅葉が目に入る。ああ、絶景。三ヶ根はアジサイがよく似合うが、この季節には素晴らしき紅葉があるのに気付いた。そう4月には芝桜。チューリップ。パンジーなどが花をつける。いつ来ても情緒あふれる色やにおい。 十数年前までは軍歴のあるかたやそのご遺族の方や関係者の方が多くお見えになっていたが、年とともに訪れる方の層が異なり、ネットなどにより国民意識の変化が進み、冷静に戦争原因をとらえたりする若者が増えてきた。三ヶ根山殉国七士廟の存在が広く日本中に広まり、東京軍事裁判がいかに非道な復讐劇であったか、原爆投下殺戮実験が終わるまで終戦をさせまいとする米国の意図によっていた不幸な戦後が始まり、挙句に南樺太や千島列島、北海道の一部北方4島までロシアに奪われる悲劇を味わったことなどを国民が知ることになり、三ヶ根に眠る英霊の皆さんに手を合わせに見える方々が多くなってきた。こうした方々に、地元三河人としておもてなしをなさねばならない。以前から殉国七士廟は奉賛会の皆さんの手によって真摯に感謝の念をもって整備され続けてきていた。しかしその周辺部は自然に任せていた。放置に近かった林野を花壇にし始めたのは10年ほど前だったろうか。5年ほど前から本格的に整備をしようとの友の声を受け応援のもと三ヶ根を安らぎの聖地として花壇整備を本格化して、2年前からは観光的にも活性化のおt月台をすることになり会を立ち上げた。まだまだ資金不足で植える花すら購入する資金がなく大変ではあるが何とかボランテイア仲間を募ってここまで来られた。今日は9時ころ三ヶ根に行く今日の風の吹き方がうらめしい。間断なく吹き荒れてせっかくの紅葉が風によりどんどんとばされ続けてしまうのだ。これを一人で見ねばならぬとは。実にもったいいことだ。三ヶ根さつき園下側通路を完成。大変な土木工事であるが上のさつき園から見るとほとんど見えないのが残念だ。中途の道も一本完成。これで斜面の下草祓いも安全にできそうである。NTTスペースの花壇化もチャレンジ。ここにバラを数本うえてみたい。まずは花壇らしくしておきたい。作業中にメールを見ると建国がらみの作業が。中途であったが帰宅して対応。
2023.12.08
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外国人犯罪の増加から分かること元警視庁通訳捜査官、坂東忠信の公式ブログです。ここに毛沢東が認めた南京虐殺の犯人 と題して重要な記載がありましたので転載いたします。みなさん、こんにちは。 最近中国政府が南京問題に関してはとても大人しいことに気がついていますか? これは胡錦涛の「調和政策」によるものですが、共産党の抗日運動は、中華人民共和国成立にどうしても欠かせない神話です。 残忍凶悪な日本軍を蹴散らし、国民党との抗争に打ち勝って国を建てた功績を示さないと、格好がつかないのです。 こういう「歴史」を、感情的に刷り込みますから、国民の歴史学習効果はバッチリ。 受験のためだけに自虐的な歴史を年号だけで覚える日本人とは、理解や思い込みの度が違うのです。 さて、1949年に毛沢東が南京市の雨花台に立てた「雨花台烈士稜園」には、南京虐殺の記念碑があります。 これには、毛沢東の揮毫で、「死難烈士万歳(死せる烈士万歳)」の文字とともに、「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」と書かれているのです。 これは翻訳すると、 「国民党政府は雨花台において、かつて30万人の共産党烈士を虐殺した」 という意味です。 南京虐殺はとんでもない歴史の捏造です。 人類史上これほどでかいウソはそうざらにはありません。 しかしそんな行き当たりばったりのウソにだまされる私たちも、人類史上未曾有の大間抜け民族。 チャンネル桜のスタッフの話では、以前日本からこの石碑を探しに行った先生方がいたが、見つからなかった、との事です。 (中国で石碑に関するブログを探すと、きちんと存在することが確認できました。) すでに石碑が撤去保管されたか、先生方が見つけられない場所にあったか、北京語を読めなかった(?)という可能性もありますね。 転載以上 中国のでっち上げは習い性になっているので、蒋介石も捏造だと怒っていることでしょう。毛沢東革命によりどれだけの無辜の中国人が殺されたかと。 いつか、中国が熱狂の時代を終え、言論統制や党密告制度がなくなるときには冷静な学者が出てくるのかもしれないですが。しかし、司馬遷ほどの人物を出した国が、これほど下劣な独裁国家のままいつまで続くのか。 歴史を改ざんするのはお手の物の中国。今は蒋介石を評価し始めている。あれだけ批判してきたのに。台湾支配に本腰を入れた証左でしょう。 日本懐柔には汪兆銘を復権しなくてはできませんよ。念のために。でもやるかもしれない国だから恐ろしい。 しかしなぜ共産中国が日本に化学兵器の撤去費用だの過去の清算だのをいう資格があるのか。日本は中華民国との戦闘行為はあった。敗戦に伴いすべての武器を各統治部隊が摂取した。それを利用し蒋介石を倒し、残りを埋めておいたのでしょう。武器を受け取った以上、その管理と権限は摂取したものにある。日本に責務などはない。
2010.07.30
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昭和天皇の偉大さは言い尽くせないほど多い。陛下の御発言やお姿にどれほど涙したことか。終戦時のご判断しかり全国御巡幸や政治的には沖縄の日本復帰の道を定められたダレスへの御提言など。陛下なしに日本は存在しないといっても過言ではない。 私が特に申し上げたいのはご結婚時のこと。大正10年、陛下の皇后となられる良子女王殿下に対しての宮中某重大事件に際して。皇后の母系である島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適格の論が巻き起こった。その際のこと。最終的には宮内庁から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし。」の発表が行われて事件は決着した(のでしたが、その決定は。裕仁親王の「良子でよい」というご意向があったから。本人のご努力や人柄には無関係な要素でご結婚が止められるやもしれないときのへお言葉。民間人でも本音では大問題として考慮されるのが現状。その中での「良子でいい」のお言葉。これを知ったときには涙をこらえることが出来なかった。 陛下をお支えなされて皇后として最長の責務を果たされた皇后は香淳皇后と追号申し上げることとなった。私どもは1月7日に八王子の武蔵野御陵にて感謝の参拝に詣でていますが、ご命日は6月16日であります。 午前中の雨のため、ひたすら家にて孟宗竹の切断に時間を費やす。昼過ぎには雨が上がるとの天気予報がありそれまでにとりあえず三ヶ根殉国7士廟花壇の土抑えのための竹が必要なのだ。30cmほどの長さに切り揃えた竹を300個ほど作成して、あとは現地で加工する予定で5メートルほどに切った竹を軽トラに乗せて走る。日曜であるから多くの方がアジサイ目当てに三ヶ根に来てくださっていた。むろん参拝に来てくださった方も多い。静岡県からお見えの公務員の方と親しくお話ができた。地域おこしのために郷土の先人の業績の整理や、学校教育での道徳や祝日の指導、拉致問題の取り組みなどにもっと関心を持たれるようにアドバイスもさせていただく。熱心に話を聞いてくださり大いに期待感が高まる。 円形の花壇の周に竹の土留めをめぐらす作業とやはり倒れたままのひまわりのつり上げ、さらに家の花壇から運んだ芝桜の植え替えなどをしているとあっという間に時間が過ぎ去る。竹筒の本数も圧倒的に足らず、あと1000本ほどが必要と判明。今所有する孟宗竹をすべて筒状に切断しても200がやっと。またどなたかに提供を求めなければ。とりあえず今晩中に今所有する竹は切りそろえておくつもり。日曜に仕事を入れないことにしてもう2年。活動資金にしわ寄せが相当きているが、精神的には日曜休みは快適であります。 町内初の美化運動の提言を総代氏が市に持ち込んでくださったとの連絡あり。市も乗り気の様子だそうな。しかし民間からの運動開始実績がないと市としては動きづらいとのことだそうだ。納得。町の役員会で討議できればありがたい。議案の提出準備に入りたい。
2020.06.14
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前法相で衆院議員の河井克行、妻で参院議員の案里両容疑者=いずれも自民党離党=が18日、東京地検特捜部に公職選挙法違反(買収)の容疑で逮捕何たる傲慢。法務大臣がかかる違法行為をなすなど狂気の沙汰である。それにしてもこれから県議や市議が逮捕されるであろうから大混乱は必定。令和の御代になってまだこうした議員が存在するなど信じがたき事。どうしてもらった誰も現金配布時に問題にしなかったのか。関与者は潔く罪を詫び、職を辞すべきである。 午前は晴れるとの予報であったので三ヶ根資料を印刷製本を終えてすぐに三ヶ根に走る。8時半着。やり残しの整地をつづける。9時に奉賛会事務局の方が3名で草刈りに来てくださった。お願いしていた三ヶ根書籍20冊を購入。 一段目二段目の草刈りをなしていただき誠にありがたい。 今年はアジサイ祭がなくなったのでここにお越しくださる観光客も少ないが来年から何とか奉賛会の有志で日曜ごとに建物倉庫を開けて案内や展示、書籍販売などだできないかを提言。一度奉賛会役員で検討くださることをお願いした。簡単には決めることが出来ないでしょうがやる価値はあり決まれば協力したい。 花壇の境界を孟宗竹を短く切ってならべて作っているがとても相変な作業。孟宗竹をもらいに行くのもなかなか大変であるので七士廟内に生える竹をいただけないかとお願いすると許可をいただいた。勇んで雨中に切り倒したが3本を切ったところでのこぎりが折れてしまい断念。何とか軽トラックに積める大きさにして持ち帰る。それにしてもよくもまあ工具を壊すものだと自分でも情けなくなる。
2020.06.18
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海軍特別攻撃隊 草薙隊慰霊祭開催のお知らせ祖国の求めに応じて南冥に散華なされた英霊の皆様に感謝のまことをささげるべく下記のごとく本日草薙隊慰霊祭を開催いたします 公私ともにお忙しき中とは思いますがなにとぞ御臨席賜りますようご案内案内申し上げます記日時 令和六年四月七日(日)午前十一時 (10時より清掃作業) 慰霊祭終了後 花見兼昼食座談会場所 豊田市浄水町原山70番地 区民会館北側 開豊神社隣 草薙の碑 主催 草薙隊慰霊祭実行委員会 委員長 伊藤幸男 名経大名誉教授なお本日歌手DUOゴジュー~(から)さんによる草薙隊慰霊の心を揺さぶる新曲の披露もあります。昨日名古屋駅のウインク愛知にて関口長太郎先生をテーマに講演をしてきました。駅前を通ると日台交流のグループの皆さんが台湾の震災復興を訴えて募金活動をされていました。素晴らしいなあと少額ながらカンパをさせていただきました。呼びかけてくださったのは20年来の知人加藤秀彦さんでしたのでうれしくなりました。さすがです。私も講演後に皆さんにお諮りしたところ、賛同を受けたのでさっそく会としても募金をしようと決めてくださりました。今日の慰霊祭の参加者の皆さんにもお計らいして募金を呼び掛けてみたいと思います。今年の建国祭や昨年の関口長太郎先生漫画本作成などを通じ、台湾ご出身のリージョー先生とご縁を深くさせていたり台湾から今日の慰霊祭に駆けつけてくださる台湾在住の大西氏(かつての関口先生顕彰講演会講師も務めてくださった方)にもはかってより良き支援先を決めたいと思います。むろん有志の、貧者の一燈ですので気持ちだけですが。終えてのちは三ヶ根と豊橋陸軍墓地に行く予定であります
2024.04.07
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建国一〇会場や天長節奉祝等二月の大きな行事が終りやっと本来の三ヶ根清掃伊比の活動作業に入る。昨日はパンジー30ケース(900本)を植え切り本日もまた30ケースを購入。三ヶ根においてきた。斜面の芝ざくらをうえた場所も土が雨で流され思うように根を張っていないため土砂流出をと止めるため1メートルほどの縦割りの竹を横ならべして段々畑状態にして土砂流出をと止める計画をして作業に取り掛かる。明日花を植え切ってのち本格的に作業 に入りたい 活動予定 案 3月10日 陸軍記念日・東京大空襲 三ヶ根七士廟 参拝一〇時実施 20日 春分の日(春季皇霊祭)450本国旗掲揚 四月 六日 戦艦大和慰霊祭開催 護国神社にて10時半開催 五〇名予定 四月一三日 豊田開豊神社にて 草薙慰霊祭 午後1時より 四月二九日 昭和の日 三ヶ根殉国七士廟前にて墓前祭 2時より 四月二九日 昭和の日講演会 ゆうとぴあにて 3時半より 講師 久野 潤 先生戻る
2025.03.15
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昨日朝西尾市に三ヶ根殉国七士廟隣の土地使用の申告に行く。今年2025年は普通選挙法100周年の年です尾張出身の加藤高明総理の銅像を再建して言論の尊さを名古屋市民愛知県民に再確認してもらおうと動いてはきたのでしたが。活動業務過多のため今日にまで至ってしまいました。鶴舞公園にある立派な台座に主人がいない状態が70年以上。戦時供出後、再建がなされないまま。愛知名古屋がかかわるこれらを何とかしなければ。 おくればせながら。今年中に何らかの動きができないかと思案しています。同時にこの年、治安維持法が制定されました。悪法として批判対象とされる法で、その時の総理が加藤高明氏であるとの理由で氏への顕彰がなかなかすすま進まないでいる。最高刑が死刑になったのは加藤高明総理とは無関係でありますが、治安維持法の悪いイメージが自由民権運動や普通選挙法制定という画期的な大成果をかき消している現状があるのも顕彰活動が進まない現実の一因でありましょう。しかし治安維持法違反の原因のみで死刑になった例は無いことも重要な意義深い事実。これはもっと明示されねばならないことだと私には思われる。研究者の冷静な研究成果を待ちたいものです。ぜひ100周年を機に、銅像再建を目指したいものです。さらに今年は昭和100年。日露戦争勝利120年、大東亜戦争終結8オ年のたいせつな年でもあります。その年の初めに今上陛下お誕生日にパレードができたことに続きなすべき記念の作業に本格的に取り組みたいものです新元号「令和」は、万葉集にある「初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮(はい)後の香を薫す」という文章にもとづいて制定された由。この文章は、七三〇(天平二)年に、太宰府の大伴旅人(たびと)邸に山上憶良らが集まって詠んだ、三二首の梅の歌の序文の一部です。 澄んだ空気は心地よく、風はやわらかです。梅はおしろいのように白く咲き誇り、藤袴の若葉が伸びて、緑が薫るようです。序文は、白い梅花と緑の若葉が対照的な初春の庭園をこのようにさわやかに描いています。さらに識者は「令和」を聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の精神通じるものと解してもみえます。令和新時代にふさわしい諸価値を創り出していくのは私どもの責務ともいえましょう。 せっかくこの文章から元号が制定されたのですから、その文意をしっかり理解しておきたいと思います。さて昨日も三ヶ根花壇づくり。30本入りのケース50数個を購入およそ1500本のパンジーやビオラを三ヶ根に運ぶ。そのうち17ケースおよそ500本ほどを植え切る。およそ30ケースを残して帰宅し4時からの志賀重昴先生没後100年の行事打ち合わせを行う。世界に著名な地理学者であり教育者、政治家でもある。お誕生日は9月15日(1863年10月27日)没年は昭和2年4月6日。あとおよそ一年。何とか漫画本の作成を目指すことを決するが厳しそうではある。本年も有志により慰霊顕彰祭を予定。戦艦大和慰霊祭の同時刻。私は大和に行かねばならないため。他者に託さねば。 夜7時に蒲郡にて会合。4月にお見えになるとある先生ら4名の方への歓迎会と西尾岡崎などの案内と関口長太郎顕彰会の皆さんとの交流を図る集いの企画。 すべてに忙しく私に務まる仕事なのか、日々が時間不足で皆さんにご迷惑をかけないようにしなくてはと思うが。
2025.03.19
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今日四月十二日は第三十八回神風特別攻撃隊慰霊祭。四月の第二日曜日に毎年開催される。 十二時半からの式典開始。私も末席を汚させていただいた。 豊田市浄水町は新興の町、ものすごいいきおいで宅地化されてきている。豊田市立浄水小学校あたりの伊保原地区。この地に神風特別攻撃隊草薙隊の基地があり、五六名もの若き隊員が飛び立ち、南冥の地に旅立たれた。戦後この地に開豊神社を立て、草薙隊之碑を建立、この地から旅立たれたご英霊の御霊を慰霊していらっしゃる。会でのご挨拶には八十名といわれたので、碑文以上の方が逝かれたのかとも思いますが詳細はよくはしらない。 この碑文にはこうある。神風特別攻撃隊 草薙隊之碑 此ノ地ハ昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散セル名古屋海軍航空隊ノ址ナリ昭和二十年春当地ニ於テ神風特別攻撃隊草薙隊編成サレ四月五日十二日の両日各二十機ノ九九式艦上爆撃機ハ鹿児島県国分基地ニ進出菊水一号二号四号作戦ニ参加 同月六日十二日の三次ニワタリ沖縄本島西方泊地ノ米艦船ニ突入ス 未帰還二十八機戦死五十六名彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝ヘントスルモノ也 昭和四十七年四月吉日 豊田海友会 開会の言葉は豊田海友会会長、原田氏。以下軍艦旗掲揚、黙祷と遺書朗読、保存会会長豊田市長鈴木公平氏式辞、玉串奉奠,来賓挨拶と続く。衆議院議員土井真樹氏倉知俊彦県議など。献歌詩吟剣舞など実に心のこもった式典であった。 遺族代表のご挨拶にはほんとに涙がでそうであった。「靖国にて、国と天皇陛下が未来永劫お祭りくださると信じ、;;」ことばにつまられた。無念の思いが参加者にもひしひしと伝わったご挨拶でありました。「死を覚悟して飛び立ったときの思いは、強い決意で戦地に飛び散った兄たちの思いは;;」 どうして靖国に首相すら参拝くださらないのか、未来永劫国民が祭ってくれる、そんな確信を持って逝かれたに違いない。日本の存立と恒久平和のために旅立った兄たちの期待にどう日本国家はこたえるのか、そんな祈りにも似たご挨拶であった。 近隣の皆様が心を込めて毎年お祭りくださることに深く感謝したい。何年かぶりに愛知県郷友連盟、青山先生にもお会いした。(次回三ヶ根山の29日の殉国七士慰霊祭のご案内と五月六日、刈谷での田母神先生ご講演会のご案内もした。) 地域で立派に慰霊祭をしてくださることに対し、心から感謝したい。
2009.04.12
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午前3時ころに国旗掲揚を終える。仮眠をとって朝7時資源ごみ回収。ペットボトル・紙・プラスチックの3分別。副のスタッフが来てくださったので交代。急ぎ作業着や作業道具を車に乗せて三ヶ根山に向かう。午前10時からの百八観音慰霊祭に参加。今回は武漢コロナのため、毎回参加の少人数で開催となり僧侶のお二人を含めて10人余りの皆さんで実施。会長もご参加になれずメッセージの代読となる。40年前には部隊関係者で100名を超す慰霊祭がなされていたそうですが体験者やご遺族のご参加も次第に減りゆき去年は30名弱。しかし今年は少人数で実施との案内となったものの、さすがにこの人数ともなると寂寥の思いがある。その後は三々五々殉国7士の墓の参拝に向かう。11時過ぎに集まって見えた方がたでゆうとぴあの伊藤弘さんが音頭をおとりになり合同で参拝をされていた。その後私も参拝させていただく。今回は奉賛会の主催での慰霊祭は中止となったが、思いのある皆さんは遠方からもお越しくださっていた。多くの顔みしりのかたがたとも久しぶりにお会いできた。奉賛会の皆さんが今日のために作ってくださった石のベンチに座って近況などを伺っていると様々な情報が入り愉快である。西尾からお見えになった初対面のSさんに関口長太郎初代西尾祥校長と台湾芝山巌教育のこと、毎年の慰霊祭のことなどをお話しすると驚いて見えた。ご出身小学校だそうで郷土の偉人のことに感銘をされていた。岐阜から一人でお越しになった方とは下呂市の回天祭のことをお話しする中で後輩市議の話題にもなる。実に多彩な皆さんとお会いでき、触発されることばかりであった。 僕らの建国祭開催仲間の知立のIさんも来てくださり西尾張のOさんも2か月ぶりに会えたりした。僕らが整地してかな畑作成中の場所も見ていただく。数年前に来たことのあるといわれるK先生は以前の雑木の生い茂る風景を覚えてみえて様変わりに手入れされている様子に驚いて見えた。地元愛知の皆さんが心を込めて霊地を守り抜こうとしてくださっていることに築いていただけるのはありがたき事。大方の皆さんがお帰りになったので一人花畑作成に入る。しばらくするとまた一団が。見ればゆうとぴあの伊藤さんら。高価な菊の花の束をお持ちになり必要ならば使ってと皆さんにおっしゃる。ここの慰霊碑の菊はすべて昨日入れ替えたばかり。5月3日の豊橋陸軍墓地清掃日に墓地に持参して供花したいがと聞くとならば是非と100本以上の花をくださった。通常一本が150円ほどする大輪の菊。まことに申し訳ないこと。陸軍墓地が豊橋にあるのですかと知人の声。ええ、毎週第一日曜1時より清掃奉仕があると語るとぜひ行きたいと。ならばぜひと話が決まり来ていただくことに。むろん屋外で広い場所を手分けして清掃するので三密の危険なく心を清めることが出来る。近くの東田神社隣の大東塾大孝道場・御嶽社の参拝。清掃も誘うとこれもぜひと。志の高い人は実に素直であります。 自衛隊那覇基地の張り紙より性格は顔に出る生活は体に出る本音は仕草にでる感情は声に出るセンスは服に出る美意識は爪に出る清潔感は髪に出る落ち着きのなさは足に出る というのがあるそうですが、彼はまさにすべてに最上。弁もたち、国思う思いも深い。ほれ込むほどの人物。数年前には下呂の楠公回天祭にも来てくれたり、我が家にも。楽しみです。今から国旗降納に出かけます
2020.04.29
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北朝鮮の焦りは相当なものなのだろう。政権の維持のためには外に敵を作り、国民をまとめるのは常とう手段だが、多く、国の内部の危機があるときにかかる行動をとる。脱北者のビラが相当の影響を北の国内に与えていることの裏返しでもあろう。 共同連絡事務所爆破 米国、北朝鮮に自制求める P 【ワシントン=黒瀬悦成】米国務省報道官は16日、北朝鮮が開城(ケソン)にある韓国との共同連絡事務所を爆破したことに関し「米国は南北関係に関する韓国の取り組みを全面的に支持する」との声明を発表し、南北協力の推進を図る韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権を支持する立場を示した。 声明はまた「北朝鮮にこれ以上の非生産的な行動をとらないよう促す」とし、北朝鮮に自制を求めた。 産経引用以上 韓国文大統領の何をトランプ氏は支持しているのかはよくわからない。 あくまで和平路線を求めるというならまだしも、北朝鮮に迎合して脱北者の団体を処罰することを支持するのなら何をか言わん。北への備えを外し米国の駐留を拒絶する姿勢を崩さぬならば自由主義国家の一員から抜けることを意味しているのだろう。 米国から北への関心を引き出そうとする行為なのだろうが、トランプ氏がなすべきは信義破りの武力行使をなした以上、さらに核の廃棄なく拉致被害者の返還を無視する国家には、経済制裁強化あるのみ。 我が国にも北の国籍のまま居住する多くの外国国民がいるここに、来たの政権からより多くの献上金の要請があるのでしょうが、監視を強めより厳しい金銭の持ち出し禁止の法令順守を進めねばならぬ。 拉致の犯罪をなし続けるのみならず核兵器の増強を推進する北に対して抑止力を高めるべきイージスアショア政策を合意なく中止する大臣は稚拙すぎまいか。基地を持つが故の攻撃対象地論を語る市民団体の責任者。今は北の核増強を止めるために日本は一丸とならねばならぬ時。基地内への落下がなせないとの技術的理由が原因と伝えられるが、配備後に研究すればよいのではと思う。どこに落ちるかの今の段階でのシュミレーションをしめし、安全確保までは迎撃しないことを示さねばならぬが。 防御態勢構築は喫緊の課題であろうに。 mixiニューストップより 宮内庁参与に五百旗頭氏ら3人 渡辺元侍従長らと交代 宮内庁は17日、皇室の重要事項について天皇陛下の相談役となる同庁参与に、兵庫県立大理事長の五百旗頭(いおきべ)真(76)▽元同庁長官の風岡典之(73)▽前最高裁長官の寺田逸郎(72)――の3氏が18日付で就任すると発表した。これまで参与を務めた元侍従長の渡辺允(まこと)氏(84)ら4人全員が退任する。 五百旗頭氏は日本政治外交史が専門で、東日本大震災に伴う政府の復興構想会議議長などを歴任した。上皇さまをはじめとした皇室と親交があり、皇太子時代の陛下に「進講」をしたこともある。風岡氏は元国土交通事務次官で、宮内庁次長、長官を2016年9月まで計約11年半務めた。寺田氏は19年に政府が意見を聞いた「元号に関する懇談会」のメンバーだった。同庁幹部によると、天皇代替わりに伴って参与の見直しを検討し、専門性や経験などを考慮して人選した。引用以上 五百旗頭氏ですか。防大学長時代の発言はあれほど批難を受けていたのに大丈夫なのでしょうか。 朝資源ごみ回収。今日の担当は副のかた。よって応援の立場。 町内の地蔵係の会長と話す。先日の賽銭泥棒逮捕の報告と地蔵堂修復の件。 三ヶ根花壇作成に今日もいく。メインは階段を下りたはなのスペース拡大と花壇への入り口の最初の区画。階上の場所から花壇全体をみると整備されている状態が美しく見ることが出来る。 殉国七士奉賛会事務局の方がおこしになり、お褒めの言葉をいただけた。明日は朝九時から草取りに入ってくださるとのことで私も同時刻に行くこととする。 今日も作業中心で説明案内が手薄となったが5・6のグループの方としたしくお話しできた。今は確かにアジサイの季節であり観光の人出も多いが慰霊碑に手を合わせてめぐってくださる方は志もしっかり持てる方だとわかる。 武豊の方には缶コーヒーをいただくなど思い開けない対応をいただき恐縮。つかれたが、気持ち良き日を過ごした。
2020.06.17
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ふしぎでならないのは安倍総理を殺戮した犯人を精神鑑定にかけたこと。精神異常者だったとした診断があったとしたら起訴をしないという意味なのだろうか。あるいは検察は精神に異常がなかったことを担保して裁判になった際にも人権は弁護士の使う、精神に弊害があったが故の犯行とする論拠をあらかじめ除外するために一応の診断をとる構えなのか。総理の政治信条に対する批判ではないと犯人が逮捕時言明していたと報じられていたが彼のバックに彼をたきつけるような思想的支援者や団体、また、ヒロイズムをくすぐるような協力者や支援者がいたのか否かをネットの情報提供者を含めて徹底調査を成してほしいと多くの国民は願っている。 今日三ヶ根で作業していると参拝にお越しの方と真剣に語ることができた。名古屋自民党本部での献花もいってみえ、いてもたってもいられず英霊参拝に来なくてはと思いはるばる名古屋からおこしになったといおわれる。日本がどうなってしまうのか心配でならず、英霊のご加護をお願いにこられたとおっしゃる。多くの国民も思いは同じなのであろう。 命を懸けて国の在り方を定めなおす憲法改正が安倍総理なくしてなしうるだろうか。英霊が必死に守ろうとされた日本の独立と安全を求められた心を受け継ぎ自主自立憲法の制定に政治家は愛国者は立ち上がってくれるのか。 連絡を取っていきましょうとお話ししてお別れした。 世が動くとき悲しくも人柱が。ここ一か月の間に本当の同憂の友が二人もめされてしまい、総理までも。くやしくてたまらない。 第59回 楠公回天祭の案内がきた。9月4日(日)午前10時開始。岐阜県下呂市信貴山山王坊。回天楠公社にて。私は当日午前6時ころに車に手出発予定。9時半ごろに到着よてい。 式典開始に先駆けて海軍旗の掲揚。 式典は宮司一拝から始まり、祝詞奏上、玉串奉奠と続く。献歌披露もみな深き思いを読み込まれた秀歌ばかり。終了後に今年はアニメ「僕たちの回天」の試写会があるそうです。次いで講演会演題は「海軍少佐黒木博司遺文に学ぶ」講師は 横山泰氏。 愛すべき家族や郷土国を守ることの大切さや気高き精神を受け継ぐべきと思われる皆さん、ぜひご参加ください。ご一緒くださる方は09085540817までお知らせくだされば幸いです。
2022.07.26
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今日は憲法記念日。ハーグ陸戦条約を無視して占領期間中に占領基本法として占領軍が方針を出し、ほぼその翻訳で作られた基本法が日本国憲法という名の占領基本法。日本の占領統治の終了時に破棄されるべきものであった。しかし形式的には明治憲法の改定として提示され、帝国議会で議論の末に承認されたのである、憲法として認めるならば正確には明治憲法改定憲法というべきもの。共産党野坂参三は軍保有が出来ない改定明治憲法の制定に反対の姿勢を示した。 むろん占領基本法破棄、明治憲法復元改正の筋論が正しいわけだがこれだけ現憲法下に生まれた国民が多くなっており、憲法秩序が出来ている以上私は明治憲法第2次改訂憲法とすべきかとおもっている。昭和天皇の名において改定されている憲法を破棄することには抵抗があるのだ。むろん革命憲法論などは論外である。国際的には立憲君主制。現憲法を立憲君主制憲法として認めない文部科学省などの主張は即刻是正してもらわねばならない。ちなみに君主制度と認めぬ憲法学者は引退をしてもらいたいものだ。また、11月3日も5月3日も憲法施行と制定の日として2度も意義つけるのはおかしい。改訂憲法が成立したその日を憲法記念日にするか、または11月3日ないしは2月11日を改憲日としていくのがよいのではないか。5月3日には持ってくるべきではない。11月3日明治天皇天長節の半年後の施行としたまでのことで占領の残滓を残すべきではないと思うからである。ついでに国号は御璽通りに「大日本国」とすべきだと私は思うがいかに。昭和天皇のご決意でもあるからだ。さてではいかに改憲を成功させるか。9条に「国の防衛のため及び国際秩序の安定のため自衛隊を置く」の文面の追加をなす。これが現実的な改正原案でよいのではと思う、知る権利環境権遵法義務などをいれる手もあるが、今回は緊急生が高いので国防力増強を目指すことだけに抑えるべきであろう。 気が重かったが国旗掲揚をなしてきた、恣意的に掲揚するのではなく国法に従わねばと思い、。終えて三ヶ根にて作業。 草取りと遊歩道のレベルアップ。名古屋の方豊橋からの方など多くの方の7士ご案内をした。トイレ掃除を奉賛会の方から頼まれた女性と話す。シルバーさんとして月4回清掃に見えることになったそうだ。しかし今日はその日ではなくボランテイアでおこしになり草年をなさって見えた。花壇を見ていただくと10年前と比べて驚くほどきれいとお褒めの言葉をいただく。本音を伺うとシルバーさんらの間で三ヶ根は暗くてィ仕事をしに行きたくないとの皆さんの声といわれる。こんなにきれいになっているとはと本音で喜んでくださっていたようだ。5年以上前、7士廟に来た時にはその方も怖かったとおっしゃる。喜んでいただきありがたき限りであった、神渡良平先生のご逝去に接し、申し訳なき思いでいっぱいになる。畏敬の思いで下劣なおのれが先生と食事までさせていただけた申し訳なさを大いに恥じいった昨年11月。これほどの方とご一緒させていただけたこと、生涯の奇蹟であった。ご冥福を心からお祈りいたします。
2023.05.03
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早いもので教育を考える会を立ち上げて今年が16年目になる。会発足は平成二十年十一月。発足の契機は田母神閣下の解任事件でした。時の政府は麻生内閣。当時陛下の御即位二十年奉祝活動の最中であり、愛知では全国に先駆けて平成二十年の十一月に今上陛下御即位二十年奉祝行事が組まれ、奉祝県民大会や提灯大パレードがなされました。翌年になり全国的に奉祝のうねりが起こるその先駆けとなったのでした。そのパレード終了後、直ちに有志が集まり、田母神閣下の講演会を名古屋桜華会館にて開催。その後、なんとしても全国講演会開催をと必死に取り組み、多くの皆さんのご協力で全都道府県での開催にいたったのでした。しかし、間もなく自民は下野。なんと民主党政権が誕生、日本列島は日本人だけのものではないとの表明がなされた。世は外国人参政権を付与すべきとの主張が政権側から出されるにいたる。これは危険な国体破壊につながる暴論と認識して愛知の保守の結束の中、外国人地方参政権反対運動をはじめ、各自治体での地方参政権反対決議運動を展開。地方での愛国者の結集が図られていくことになる。最中に名古屋城近くの名城住宅跡地のチャイナ政府への払い下げ計画・中国領事館問題が勃発。この阻止活動に奔走。ついにこれを阻止するに至る。他にも教科書採択問題や朝鮮総連非課税問題、東日本震災・熊本募金などへの取り組み、陸軍墓地清掃や三ヶ根清掃などにも参加させていただくなど日本再生に向け為すべき重要課題に向け全力疾走。台湾交流にも微力ながらも参加。台湾芝山巌教育に殉職された西尾小初代校長関口長太郎先生の慰霊顕彰祭のお手伝いや潮音寺慰霊の協力などもなしてきました。 更に建国式典への協力も。 当時、愛知県下での建国の祝賀会は、岡崎と豊橋。日本会議さんも名古屋にて開催を始めた段階。これではならぬと、各地にての奉祝実行委員会設立に参加し、今年の開催市は14会場となる。岡崎は岡崎市の後援を得るに至りました。令和也今上陛下お誕生日奉祝式典・講演会の開催をし今年はパレードの開催予定にまでこぎつけた。国旗掲揚に関しても祝日国旗ストリートを県内各市町村に設置し千本ほどの国旗を掲揚できるに至りました。議場での掲揚や官庁での掲揚を進めてもいます。郵便局本局も岡崎西尾などで国旗が揚がるようになりました。愛国心を育てるべしと教育基本法改正がなり、皇室感謝の活動も進め、豊橋公園に陛下御即位25周年や30年には奉祝桜植樹を実施。令和の御代にその縁の記念植樹が出来ればと思ってもいます。岡崎の大正天皇即位時の悠紀斎田100周年時には7千本の小旗をお配りして秋篠宮両殿下のお迎えをしたりと皇族の奉迎活動なども積極的に取り組む自治体造りに取り組んできました。さて今年は令和6年。平成では三十六年。陛下御即位六年の良き年を迎えました。しかし元旦から石川震災。悲しみの出発となってしまいました。支援の海上保安隊機炎上など尊き犠牲も起きてしまい悲しみに包まれてしまいました。無念でなりません。7日には愛知から八王子の御陵に30名ほどバスで。私どもは乗り切れず乗用車で往復。皇恩に感謝させていただきました。さて国家の進路について岸田政権は改憲と皇室防衛を掲げてなった政権、憲法改正は必須、更には皇室の安泰・皇位継承安定のための皇室典範改正を為すとして成立した。自虐意識を正すためにも国際社会で名誉ある地位を得るためにも日本自らの意思で国防を担うべしと。今を逃して改憲は不可能に近いにかかわらず9条改正がストップされれば自衛隊は永遠に憲法の承認を受けない自衛力。これでは国防の危機はたかまるばかり。9条2項の芦田修正は「前項の目的のため」の文面ですが、これのかかる文は「国の交戦権はこれを認めない」のみとされる。しかしこの一文に限定せず次文「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」の2文にかかると解すれば何とか行けるのでは。文外に「前項の目的以外のためには陸海空軍その他の戦力は当然持ちうるし国の交戦権も自然法や国際連合加盟条件としても当然認められている」と語っていると解釈されるでしょう。それが命がけで挿入した芦田均氏の修正意図であり。占領軍も同意するもの。傲慢だった米国が、責任を取って果たすべき責務です。そのうえで自衛隊の存在を第3項目にうたえばよい。自衛隊を国防を担う軍として3項にうたえばよい。いつまでも自衛隊員を合憲違憲のはざまにおいてはいけない。 嘗て僕らは愛知で外国人参政権否認の決議を大多数の市町村で勝ち取りました。そのほとんどが外国人参政権容認決議が通っていた市町村でした。外国人地方参政権付与決議は自民と公明が推進していたもの。それをひっくり返して反対決議に変えた。これにはテクニックがいりました。さらに名古屋中国大使館払い下げ阻止。これも何とか成功しました。 今回同様に9条信仰をひっくり返す大逆転をなさねば改憲は勝ち取れない。そのための言論発信の地域拠点がどうしてもいるのでしょう。その地道な意見集約の拠点づくりを急がねばなりません。日本の国際平和に向けた防衛力の強化は国際的責務チャイナの支配を受けた満州人や南モンゴルの民、チベット民族もウイグルの民もみなチャイナに祖国領土を奪われ、民族と文化は失われて、常に弾圧の対象として存在しているのです。日本が知らぬ顔をして済まされるものではない。 特に台湾。この13日は総統選。「中華民国」という日本領土沖縄を占領統治した「中華民国占領軍」が蒋介石中華民国総統支配下の亡命政権の引き受けを成しているのが台湾の法的地位。その総統を決めるのです。中華人民共和国からの独立ではなく台湾の蒋介石中華民国からの伊湾人の独立運動。大陸の中華人民共和国の出番はない。その意味での独立を志向するかしいなかが問われているのです。台湾とチャイナとは既にというか初めから別の国家。占領軍トップの米国が日本(台湾)の占領終了を宣言すれば日本領土たる台湾は領土及び施政権を日本に帰した上で日本主導で返還がなされ、台湾にすむ台湾人の多数決で台湾国の樹立宣言をすればよい。力関係があるから樹立宣言だけでは無理でしょうが、まずは占領の任を解くのが最初の一手でしょう。つまり独立とは中華民国支配からの独立ではなく日本からの独立なのです。チャイナはその意味で勘違いしている。中華民国の一部だから中華民国の継承国家のチャイナは台湾統治権も継承しているとの論は崩せる。習近平の軍事脅迫は根拠なき侵略行為なのです。その意味でも日本は台湾に責任を持たねばならない。日本の力及ばずアジアの混乱を招くことがあってはならないのです。更に皇室安泰について僕らが今命ある存在としてここにあるのは、決してたまたまではありません。日本の幾多の先人のおかげであり、その大本は民を慈しみくださる陛下初め皇室の御存在のおかげであります。大戦の敗北という危機の中で必死に苦難と立ち向かわれた先人のおかげであります。流浪の民とならずに済んだのは国家が存在しているから日本人が本来の姿に取り高貴な国民たるにはおおいなる歴史と文化に立ち返らねばならない。その目標こそが皇室のご存在なのです。しかし、総理のその言やむなしく、政権への支持はもはや回復不能な局面となってしまった、実に前途多難な新年の始まりとなってしまったが国民の努力で国難を理越えていくしかありません。このため県民の総力を挙げて建国記念日奉祝活動を展開中。2月23日には天長節、天皇誕生日の奉祝第講演会を岡崎にて開催準備中です。さらに国旗掲揚や小旗つくりも実施中。国論喚起の段階ですがこれをやりぬいたところに皇室の安定は必ずなしえると確信しつつ活動しています。岡崎では今回の建国祭から岡崎市の後援をいただき市政だよりにも行事案内がなされることになりました、。一歩一歩ではありますか確実に進んでいます。啓蒙活動は市民のたゆまぬ努力により確実にすすんでいるのです、その拠点は国を愛する一人一人です。その終結の場が必要なのです。同憂の友が集う拠点づくりを急がねばなりません。先日成人の日の国旗降納。馬鹿なことに革靴で作業してしまい転倒。道路を横切る際に車が猛スピードで走ってきたので脚立を持ったまま止まったが車道が凍り付いていて滑って転倒。引かれずに済んだが痛みでしばらく動けなくなった。情けないがこんなところに気を抜いたばちが来るとは。情けない。気を抜いたら痛い目に合うんだなあと大いに反省しているところですが。激変の年がやってきた。今年は、保守側の切磋琢磨により国の根幹をさだめる年。憲法教育防衛経済、あらゆる面で保守の踏ん張りが求められる年になることは間違いありません、まずは二月一一日の建国記念日に勝利できるか否かです。心して取り組みたいさて今日は1月11日。朝8時に西尾の関口長太郎先生のお墓清掃と参拝。4名で。11時より岡崎上和田公民館にて家康を守って亡くなられた土屋長吉公の慰霊祭。ここには9名が来てくださいました。夜6時半より西尾で関口先生漫画贈呈式の会合。私は仕事を早めに切り上げて遅刻しますが参加予定。三ヶ根行きは今日は中止。やや体調が戻らないため寒空の作業は控えました、明日は三ヶ根行きを最優先にしたい。
2024.01.11
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実に久しぶりのぶろぐ記載です。突然とらわれの 身になりベッドの上に横たわり腕はベッド側面に縛りつけられている。動くことができず。どこにいるのかもわからない。相当抵抗したがうごくこともできず、頭の中はおかしなことばかり考えている、うろ覚えな夢の記憶であるが、ひっしに金をかき集めて必死に神社を作る夢を見ていたようだ、ああ今も思い出したが大切な遺骨を奪い秘密裏に豊橋市内のどこかに埋めその周辺を手に入れて神社とする夢を何度も見た。遺骨を神社の祭神とするなどありえない話だが異常な狂気の中にあった自分にはそのおかしさすらわからない。 6月22日には狂った頭で看護婦さんに必死に愛願。妻にも何度も電話してすぐに迎えに来るように言い続けたようだ。亡き父の10年祭当日。仏教では13回忌だったかで法要をするようで10年はなさないだの月命日の法要は日を変えてもらったから大丈夫だの反論。翌6月23日はなんとしても三ヶ根に行かせよと看護婦とさんと大バトル。沖縄の日に三ヶ根にある沖縄慰霊碑に手を合わさないなどがあってたまるかとそれはそれは手がつけられぬほどの様子だったと後に看護婦さんに聞く。 いつの間にか手術も終わっていた。2週間で厄介者が退院して看護婦さんらも相当喜んで見えた。退院の日の直前に私は初めて脳に溜まった血液の抜き取り手術をしてくださった女医の先生のお顔をまともな意識になって拝することができた。 以来ゆっくりと日常に戻りあと一日、10月初旬に検診を受けて脳内出血が止まっていれば前回となる。本当に皆さんにご迷惑をかけてしまったことを情けなく恥ずかしく思います。多くの方から見舞いをいただき恐縮至極です。 退院後、なしたことは7月大きな英語の会の実施。7月には秋篠宮皇嗣電化知立奉迎、7月31日8月1日には秋篠宮皇嗣殿下岐阜市奉迎8月4日には金沢市護国神社での大東亜戦争聖戦祭4名での参加。8月15日は岡崎龍城神社にて慰霊祭主催・三ヶ根にて合同慰霊祭参加。18日には三ヶ根にて士魂の碑前にて慰霊祭主催。27日には岡崎にて14烈士慰霊・影山庄平先生慰霊祭参加。9月8日には下呂にて黒木少佐慰霊祭参加。9月12日母の死を迎え13と14日で通夜葬儀を執り行い、16日23日には岡崎市中心街に450本の国旗を掲げ祝う。25日には作成した小旗2万本を岐阜県町に届ける。なおこの日朝6時より頼まれて朝6時から蒲郡市三谷町蒲郡ホテルにて講演をさせていただく。今日も三ヶ根花壇清掃と町内慰霊碑清掃と巨木となった木々の枝払いと剪定作業。来客多数。
2024.09.26
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朝6時半、町内の皆さんとともに氏神清掃にいく。お集まりの皆さんに私の使っているブラシ兼ほうきの道具を紹介。好評を受けた。皆さんに三ヶ根の現状を報告しながら花壇植え込み用のパンジーをお見せした、殉国花壇に大いに興味を持っていただけたようであります。8時前に三ヶ根山に到着。参拝、掃き掃除を終えてすぐに花壇へのパンジー植え込みをなす。トータル900本ほどの気になりて植え切ろうと張り切っていたが通路や花壇内の草や大量の小石が気になり取り去りながらすすめていたので時間が掛かる。むろんご参拝に来てくださった皆さんとお話したり説明をしながらの作業。連続8時間の作業であったがその時点で耐えきれないほどの雨となってしまった。やみそうもなくついに下山。結果14ケースおよそ400本ほどしか植え込みできなかった。明日には植え込み完了としたいものだ、明日は町内の住民総会。昼からですので午前中には三ヶ根花壇を仕上げねばならない。
2025.03.15
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靖国神社の編集なされた「英霊の言乃葉」に載っている青年の日記です。沖縄出撃に際して 海軍中尉 宮内 栄父上様、母上様、栄はこれから出撃します。我儘な私を立派に成育してくださいまして、而も帝国海軍航空隊員となり、今回栄ある神風特攻隊第三次草薙隊として出撃できる様になりましたのも、皆父上、母上の御陰と、栄は有難涙を流して居ります。必ず御期待にそむかず、敵を撃滅して日本の国を護ります。近くの山に咲く櫻花は栄の立派な生まれ変わった姿です。幼くして出郷する時、母上から受けた教訓は立派に実行してきました。酒と女でしたね。今まで酒は少しやりましたが女は全然知りませんでした。今となっては何も思ひ残すことはありません。只日本の必勝のみであります。箕輪様や久保様やまた親戚の方々にもいろいろお世話になりました。厚く御礼申し上げます。折がありましたら靖国神社で待っておりますから面会に来てください、土産物はいりません。沖縄が私の最後の場所です。昨晩最後の夢を挙母町のきらく亭で見ましたが、やはり父上様と母上様の夢でした。くだらないことを書いて全く女々しい様ですがお許しください。では皆々様の御健康を祈って出撃します。昭和二十年四月十三日 栄より父上様母上様 御膝下宮本中尉 神風特別攻撃隊第三草薙隊・昭和二十年四月二十八日、沖縄近海にて戦死。中央大学。海軍第一期飛行科予備生徒。茨城県行方郡大和村出身。二十㈢歳。明朝出撃 海軍中尉 鹿野 茂四月十一日 朝 明朝出撃と決定俺の名前も出た何をする間もない心残りは、面会せず休暇もなくして出撃すること家の人は おそらくこれ以上であらう然し これが戦の姿である 父上、母上、兄上 ここまで書くと涙が出る 姉上、妹、弟 皆元気でやれ。 あとでトランク、荷物が届くと思ふ 今、それを作っている 鹿野中尉 神風特別攻撃隊第三草薙隊・昭和二十年四月二十八日、沖縄方面にて戦死・中央大学。海軍第一期飛行科予備生徒。茨城県出身。二十二歳靖国に眠られる英霊の遺書を読み、この方々の尊い思いを決して無にしてはならない。これは日本に生まれたことを感謝するすべての国民の思いでありましょう。このお二人は草薙隊で出撃なされた方。挙母町とあるのは今の愛知県豊田市のこと。ご遺族・戦友はじめ、豊田市長、議員、校長や教員など心ある方々が毎年四月第2日曜日昼に集まられ盛大に慰霊祭を行ってきました。隣接の岡崎市に住む私も末端会員として参列させていただいてきましたが、昨年、終戦70年を機に慰霊祭の終了が決まったのでした。しかし何とか継続をとお願いしてきて今日最終結果を伺いましたが、「昨年にて終了」との結論伝達をいただきました。昨年までは豊田市浄水町原山70浄水町区事務所が区長さん中心に全力で慰霊祭をしてくださったのでした。本当にありがたく感謝致します。 公的側面が失われるのは誠に残念ではありますが致し方ありません。 海友会の会長さんは昨年「一人になっても動ける限り戦友の慰霊を行う」とおっしゃっていましたので、ことしから会長のご指示のもと、有志による慰霊祭の実施となります。細案は打ち合わせしながらすすめます。今日より準備に入りますが。一応今までの踏襲日の4月第2日曜、昼12時に慰霊祭となろうかと思います。 こうした慰霊祭はご遺族の意向が最優先ですので、あくまで正規な慰霊祭は終了とせざるを得ないのでしょうが、たとえつつましやかであろうと慰霊活動はたやですすことはできません。 概要が決まり次第ブログにて掲載する予定。 ご協力くださる方がお見えでしたらご連絡いただきたいとおもいます。
2016.03.19
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家、家にあらず。継ぐをもて家とす 世阿弥の言葉です。 家というものは、ただ続いているだけでは、家を継いだとはいえない。その家の芸をきちんと継承してこそ、家が続くといえるのだ、という意味のことばです。 血筋が継承されていれば芸術の道では当主としての扱いをされるのかもしれませんが、世阿弥は芸の秘伝はたとえ自分の子であっても才能がなければ教えてはいけない。その奥義を受け継ぐ覚悟と努力がなければ「家の芸」を継がせるわけにはいかない。芸の厳しさを語った言葉だといえましょう。 親の七光とよく言われますが、安易な二世であっては困りもの。 日本人とて同様。親の国籍が日本人なら子供もその道を踏むことが許される。しかし世阿弥の「家」を「日本人」に置き換えてみればどうでしょう。 日本人、日本人にあらず。継ぐをもて日本人とす。 親の七光で、日本人としての尊崇を受けてはいるが、その実態はどうなのか。海外に行けば日本人のパスポートを持っているだけで優遇される。こうした待遇に甘えているのではないか。日本のことを知らず先人がいかなる思いで必死になって祖国の安寧を祈り、玉砕の道をも是とされた。 三ヶ根にて部隊の歴史が刻まれた碑文を読むと申しわけなさに心が揺さぶられるのです。 遠き異国の地にて祖国の永遠を願って敵兵に切り込みをかけて散華なさった多くの部隊。戦術の是非はともかく、家族のために死をもいとわない多くの将兵の皆さん。 今の三ヶ根のご奉仕は私にとっては傲慢な人生の懺悔にも似たもの。少なくとも英霊の皆さんに必ずや日本を立派な国にしてご安心していただこうとの思いを固めるものだと感じています。 日本人の本姿を学ばせていただいているのだと痛烈に思う。 三ヶ根殉国7士廟花壇作成に急ぐ。昨晩と今朝の時間を使って竹の輪切りをなしておいたので今日は埋め込み作業である。 斜面をここまで平地にして見栄えよくできるとは我ながら驚きである。 倒れていたひまわりも昨日支えの竹の棒をつけておいたものは何とかしおれずにいた。しかし棒がなくて立てられなかったものはまだ3・40本はあったので今日大方支えをしておいたが、葉が土に埋もれていて光合成も蒸散もできていない状態。一枚づつ泥を払っておいたがさて生き返るか。 三ヶ根の案内資料を追加印刷。明日も時間をとって三ヶ根奉仕に行く予定。 まずは花壇の整備がひと段落しなければ次の運動が展望できないのです
2020.06.15
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午前6時半過ぎから資源ごみ回収。8時まで皆さんが持ち込まれるビンカンのチェックをなし、その後に燃えるゴミのチェックに走り、2つの神社の清掃に走る。羽根の神社は武漢コロナのため数か月、組長を集めての清掃がなかったのでやや時間がかかる。途中町内総代さんと、公民館の利用の拡大や資料整備、町内会費の値上げなしに収益を上げる戦略や、町の歴史の町民共有の方針、地蔵堂の修復主体の選定と、費用捻出の手段などにつき提言。9時には終了して朝食。すると手術を終えた孫娘を妻が連れてきてくれていたので久しぶりに遊ぶ。もう走り回ることを覚え休ませてくれない。なんと楽しきことか。急ぎ不足している孟宗竹のもらい受けのお願いをしに行くが不在。そのまま三ヶ根殉国7士花壇に走る。気にかかっていた階段下のスペースの通路の配置の変更に取り掛かる。上から見ると花壇への入り口が狭く、木々のスペースが広くて暗い。草がすぐに生い茂るため、眺望も悪い。よって花壇部分を扇形に作り替え、草をとりやすい形にしようと思い立った。まだ未完成のまま時間が来てしまったので草取りや富士桜の移植などが途中となってしまったが、配置の景観はぐんと良くなった。 今日の人出はウイークデイながら多く、真摯に参拝くださる方のみに説明、資料は5部だけお渡しした。国思う人たちとの出会いは実にたのしい。皆さん、殉国7士の墓がこれほどしっかり大切にされているのを目のあたりにされて、日本の立場に立った戦争論をお持ちの方でも、あくまで観念的なとらえ方であったと述懐される。石に刻まれた、具体的な戦地での様子、慰霊碑として大切にまもりつづけている現実をご覧になり、先人の祖国愛を深く心に刻まれて行かれるのである。トリエンナーレで間抜けな日本人の墓などの中傷作品が芸術などとしてうたわれていたが、まさにそれこそが軽薄な観念のもてあそびゲーム。芸術作品として胸を張れるという作者がいるなら一度三ヶ根慰霊碑を心をむなしくしてご覧になるがよい。 あなたの作品が、命を懸けて後世の日本に残されたこの慰霊碑の一つでさえも超える作品となっているかをご覧になるがよい。この英霊となられた名もなきお一人の叫びを真摯に聞けますか。その感性があなたにあるのでしょうか。 お町さんの碑があります。朝鮮にてソ連軍に病院を摂取され、日本に近いところまで行ってそこで自決するとの覚悟でさまよって見えた傷病兵を見つけ、決して死なせはしません。必ず日本にお返ししますと勇気づけ、帰国の費用などの世話のすべてをなし、自らはスパイ行為とされて銃殺されたお町さん。 忘れることなどできないと彼女への感謝の思いを碑に残された傷病兵の方々の思いはあなたに届きませんか。トリエンナーレの反日展示が芸術だ。作品展示の費用を国税県税名古屋市民税から「芸術家」に出せなど、本気でおっしゃっているのですか。 此の慰霊碑はみな、個人がなけなしの資金を投じて残されたまさに一大芸術。 下らぬ作品に税金を出せなど語るやわな欺瞞の塊などとは全く異なる国家の礎。これに勝る芸術なし。そんな思いを抱きながら、今日も奉仕作業につかせていただいた。
2020.06.16
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4日、三ヶ根通信が製本されてきた。500部。作成に全力を尽くしてくれた友らに感謝したい。今回から三ヶ根を美しくする会の機関誌との位置づけとなる。会員を募っての活性化プロジェクトが諸般の都合で終了したため全面的に花壇整備を主になしてきた私らに三ヶ根にかかわる諸団体全体のご努力や御活動などを紹介する責務を三ヶ根通信が担うことになった。守備範囲が広まり結果12ページカラー版となる。無論収入資金はゼロ。全てカンパにてなさねばならず、郵送はほぼ不可能。和える方にのみお渡しすることになろうか。早急に手を打たねばならない。第一日曜である6日の豊橋陸軍墓地清掃にいけないので事前に清掃と花壇作成に行く。5日、朝5時より豊田の大先輩のご自宅に通信や昭和の日の案内チラシをお持ちする。順に南下し岡崎の知人宅などに配布しながら岡崎に戻る。金山駅前ANAホテル一階にて開催されていたウイグル支援展示会に参加。のち豊国平成塾に参加。6日朝8時半に金山のウイグル展示二日目に協力参加。豊橋からの友も来てくださった、いつも陸軍墓地での作業にご参加くださっている方が「あの置いてある花は杉田さんではないか」と問うたのでなぜ知って見えるか不思議に思い尋ねるとほぼ毎朝参拝くださっているのだと知る。その尊崇の思いに敬服した。 朝10時半護国神社での戦艦大和慰霊顕彰祭に参加。ご参加は50名弱か。ご遺族も5名ほどご参加。実に貴き顕彰祭であった。講演会講師の久野潤先生のお話に感銘しきり。終えて豊橋陸軍墓地清掃に走るが終了の3時に間に合わず皆さんに会えなかった。よって一人で花植え作業を行う。やっと豊橋清掃の責任者に電話が取れたのが夕刻7時ころ。おおよそ花を植えたので遅刻の詫びを伝え帰宅。この日k氏に岡崎での志賀重昴先生慰霊祭に参加していただいたので状況の電話連絡をいただく。7日は朝9時半より壁内にて教育をよくする会に参加。活動報告や今後の運動につき語る。12時終了。三ヶ根に走り花壇つくりに奔走。8日朝4月29日三ヶ根講演会・食事会用の湯飲みやコーヒーカップやお椀。コップなど各50個ずつをそれぞれ新聞紙に包み三ヶ根ゆーとぴあに持ち込む。8時に三ヶ根作業に出かける。まだ芝ざくらなパンジーなど60ケースほどが植え残してあるので急いで植え込み作業を成す。5ケースおよそ1500本ほどを植えた段階で再度西尾の花つくり農園に行き購入済みのパンジー80ケースほどのうち20ケースを積み込みとりあえず自宅に。急ぎ蒲郡の商工会議所にて開催された倫理法人会主催の講演会に出かける。またもや遅刻。情けない。夜8時半から昭和の日講演会の準備会議に参加する。5名参加。終了9時半。10時帰宅。宿題多し。 もう9日になってしまっている。まもなく三ヶ根に走る。6時には作業に入らねば。およそ80ケースほどの花を今日中に運び込みたいのだが。
2025.04.09
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義兄が突然の死を迎え葬儀も無事終了。72才の若さ。子供が3名で孫が5名。10名で嫁いだ私の姉も他界して12年。義父母も教育畑を生き抜いた一家。義兄は校長時には学校の花壇作りで全国一の表彰をされ陛下から植樹祭時にお言葉をいただく栄誉を得た幸せ者。残された5人の孫の将来に幸あれと祈るばかりである。つい先日も竹の子をいただきおいしく食べさせていただいた。三ヶ根花壇を作り始めた際に土留め用に孟宗竹をとらせていただき大変助かったことをおもいだす。三ヶ根山の樹木整備などこれから世話になろうとしていた矢先のこと。私の娘や息子らも通夜や葬儀に参加させていただき久しぶりに親族で顔を合わせることができた。しかし家族葬を選択されたのでまだ逝去の知らせをしていない親戚ばかり。落ち着いたら皆に知らせねば。 3日前には我が家の本家のおばさんもなくなり、家族葬で葬送。私がいたのも卯木が済んでから。残念な時代になったものだ。今日から三ヶ根作業も再開。がんばらねば、
2024.06.01
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氷雪の門のアレンジ版を見る霧の火ー樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たちー』日テレ開局55周年記念特別ドラマ。あの「氷雪の門」のドラマ化である。 市原悦子さんの演技や語り方に感動してしまった。少女時代を演じた俳優さんも誠に名演技。顔かたちは私の友人の娘さんにそっくりで本当に驚いた。以下見なかった人のためにあらすじを。 終戦の夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。しかし、聖なる職務を自任する交換手の20人は命令に従わず、交換手として最後まで踏みとどまる。ドラマではなぜか希望を受けた形でとどまったと表現されていた。 8月15日。玉音放送によって終戦が告げられた。しかし、ほっとするのもつかの間、その後もソ連の進攻は止まらず、8月20日には真岡町沿岸にソ連の艦隊が現われ、艦砲射撃を開始。真岡逓信局も圧倒的なソ連軍の攻撃の前に銃弾の餌食とされる。ここに至っても交換手たちはこの非常時における電話通信の重要性のため職場にとどまって仕事を続けていたが、遂にソ連軍が間近に迫ると青酸カリにより自決を選んだ。その一人が主人公。率先して敵兵の辱めを受けぬと青酸カリを飲もうとするのだが、砲撃の衝撃で気を失い自決できなかった。「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が最後の言となる。 義理の父は反軍の共産主義者。少女の軽蔑の的となる。ロシアを解放軍と認めて近寄るも命乞いは通じず銃殺。恋人で正義心ある青年に、生き延びよと言われ、命を棄てずに生きる事を選択。生き延びた交換手たちと顔をあわせることなく廃人の如く戦後を生きる。一子をもうけるが結婚を求められてもあの青年の帰還を夢見て籍をいれずにいたが、遂に再会のときを迎えた。神とも思っていた彼はしかし全く形相も変わり、朝鮮戦争で成金になって戦後の価値にどっぷり使った人物としてあらわれた。 絶望。彼だけは立派な気高い心でいてくれると思っていたのに。絶縁し、世のすべてに絶望。心の病に係り実の子をも棄ててしまった。その後孫娘がいる事を知り、彼女に人生を語って後死別するとの話である。 あのきらびやかな青春と自己犠牲の尊さ、命の尊さを語った恋人が、戦後魂を悪魔に売ってしまった醜い人間として登場した場面は市原さんの語りでしか表現されていないが、見事な語りでジンと胸に来た。 さもあろう。戦後の日本人の、「日本」への裏切りである。それもいとも簡単に。それが出来ない乙女は友を裏切って命ながらえた自己を侮蔑しつづけて生きるしか許されない。 おそらく軍隊体験をお持ちに方はすべからくそうだろうと思う。そして成金に成り下がった青年のうちにもその自己処罰の思いは消えなかったろう。 ひたすら日本の軍を批判する元軍人のかたすら、僕らが頭で考える「東京裁判史観に毒されている」との批判を聞けば「お前に何が分かる」と激怒されるであろう。その思いは生ある限りつづくのかもしれない。 三ヶ根に参拝に見える方々も「政治はしない。慰霊だけで」と深い心をお出しににならない方も多い。事実である。生きた後にあの自決に対する思いは様々に揺れ動いたであろう。生きて申し訳ないとわびる心も実に尊い。国の行く末を命がけで求め、死をもって日本人の心を守った方も余りに尊い。 自分がもっとしっかりせねば、この国を守ってくださった皆様に申しわけが立たない。これだけはいえる。
2008.08.26
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開戦70年の当日 石川護国神社で割腹自決の青年について 金沢大学4年生の学生の自決について、わかった範囲において記載する。青年の名は杉田智(さとし)氏。平成元年4月5日生まれ。北海道釧路出身。金沢大学人間社会学域法学類にて学ぶ。 安全保障問題のゼミにおいては、日本の安全保障について力説されていたとの事。12月8日九時四十五分ころ発見・収容される。場所は金沢市石引きの石川護国神社の境内。清水澄先生碑の前。服装は黒いスーツに白いワイシャツ。腹部を切り、首を切られたもよう。隣にはバッグ。その中に身分証明書をいれ、その上に、雨にぬれないようにして日章旗が置かれていたと聞く。 清水澄博士 は大日本帝国憲法に殉死された愛国者。明治元年金沢市に生まれ、東京帝國大学法科を卒業後、 学習院大学教授となり、明治三十八年法学博士。枢密院議長の要職をになわれ,帝国憲法の否定に抗議され入水自殺された方。この石川護国神社には大東亜戦争聖戦大碑が国思う有志にて設立されている。作法といい、場所、日にちといい、現下日本に対して憂国の思いにて自決された事は疑いようもない。血が飛び散り域内が穢れないようにブルーシートを敷くなどの心配りもあったという。 名を聞き、驚いた。わたしと同じ姓をもたれる方とは。昨日までに、清水先生の碑の移転問題がありそれに対する抗議かと推測される方もいたが、遺書はあると言うものの発表されていないために主張内容は不明のままであります。警察は単なる自殺として処置しようとしているとしか思えない。こうした青年の魂からの叫びを世に問わないで葬ることがどうして出来ようか。お名前の公表はどうすべきか、友と議論しましたが、行為の事実が闇から闇へと消えさせられるのは、自決せる杉田智氏の本意ではなかろうと判断しました。遺書はもし知りえてもプライベートになることであり、ご遺族の同意無き段階では慎むべきと判断します。改めて心より哀悼の意を表し、御霊の靖からん事をいのります。
2011.12.12
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午前7時に資源ごみ回収の様子を見に行く。午前10時講演会運営会議。11時半、名古屋港水族館に向けて出発。1時半より秋篠宮殿下の御成りに感謝し国旗を持参して皆さんにお配りする。風が強く紙の小旗がすぐにしわになるほど。遠足に来ていた中学生がだれだれ君は殿下と話をしたと興奮気味に語ってくれた。この国旗が欲しかったのと走って取りに来てくださる若き女性などお配りするのがこれほど喜ばれるのをみて改めて国旗を作ってよかったなあと痛感。やはり奉迎には小旗が不可欠であります。たまたま水族館にいらっしゃった方に殿下の御成りを告げると見る見るうちに人々が奉迎線の場所に駆けつけてくださる。このにこやかな皆さんのお顔がみられるのが一番楽しい。3時のおかえり時にもあっという間に人だかりができた。これが日本人だと無条件にうれしくなる。しかし国旗をもって参列できたのは私一人であった。名古屋の皆さんの結集が欲しかった。土曜日には陛下があま市に行幸啓くださる。1時に友ら14名と奉迎の国旗配り、さらに日曜の2時半には待望の岡崎御巡幸がなされる。2時にはスタッフと国旗配りに入る予定。令和初年の今年に、初の御巡幸地としてこうして皇嗣殿下や天皇陛下の初の御行幸啓をいただける愛知は本当に幸運な地であります。明後日はいよいよ岡崎にて御即位奉祝祭が開催となります。陛下の祈りに感謝できる最初の栄誉を噛み締め最高の式典と講演会にしたい。皆様のご参加を心よりお願いいたします。
2019.05.29
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