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謡の発表会を見にいらしてくださった方からいただいたメールに、こんなふうに書いてありました。――見てて何となく扇がほしくなりました。 興味を持っていただけることはほんとうにうれしいことです。謡も仕舞もたのしいんだということがわかっていただけるなら、みんなで盛大な自己満足の会(?)を、持出しでやった意味もあろうというものです。ただ、そこで葛藤……。 おもしろそうでしょ、と相槌を打つところまでは気兼ねなく口にできるのですが、じゃあごいっしょにちょっといかがですか、ということはなかなか言いにくいのがこの世界。そう、謡にしても、仕舞にしても、とほうもなくお金がかかる。湯水のように出てゆく。 お月謝はそれこそピンからキリまででしょうが、すくなくとも玄人が相手だと一科目一万円以上、五十代以上の人なら二三万が相場です(仕舞と謡両方だと×2。ただしたいがいの場合、謡ならともかく、仕舞だけというのは受付てもらえないことが多い)。このほか盆暮れの付届けが月謝一箇月乃至二箇月分(取らない人もいる)。温習会の出演料が五万円から十万円。新年会、忘年会などなどの飲食、先生の出る会の切符購入、習物の免状代、着物や扇の誂え……。掛けようと思えばいくらでも掛かるようになっているんです。 これではなかなか気軽にお稽古をはじめるというわけにはゆかない。気軽なお稽古というからには、せめてすべての経費が主婦のお小遣の範囲におさまる程度であってほしいのですが、これでは独身貴族か有閑マダムかリタイヤ組でないと実質的に謡や仕舞を習うことは不可能でしょう。もちろん、お月謝や必要経費以外の「もろもろ」を切捨てて単純明朗なお稽古のシステムにしている先生もいます。しかしそれはやはり少数派であるといわざるをえないし、先生がそういうつもりでもお稽古場の雰囲気がそうならない場合だってあります。 もうずいぶん長いあいだ、能を身近なものにしようとする能楽師の取組みがつづいていて、しかしそれがあまり成果を収めているとはいえない状態があります。しかもその一方で、謡や仕舞のお弟子は次第に減りつづけているらしい。能の特色のひとつは、歌舞伎と違って、それ自身をお稽古できることです。歌舞伎は習えないけど(日本舞踊は歌舞伎のごく一部)、能は習うことができる。この特色を生かしてゆけばもっと独自で効果的な普及活動ができるはずなのですが、どうもそこがうまくいっていない。うまくいっていないどころか、何だかそれ以前に比べてもあきらかに退化している。 なぜ謡や仕舞のお稽古はこんなにお金がかかるのか(それ以外にもたくさん問題はあるけれど、当面の、そして最大の問題として――)。それは、もともと玄人に謡や仕舞を習うということが、お稽古ではなくてパトロン活動として位置づけられていたからなんだと思います。今だって、純粋に能の公演だけで生活してゆける能楽師はほんの一握りしかいません。全体の一割に満たないと思う。彼らは主としてお弟子さんのお稽古によって生活しているわけで、つまりお社中(同じ先生のところでお稽古している人のことをこういう)はお稽古仲間でありつつ、ファン・クラブでもあり、パトロンの集合でもあるわけなのです。だから、盆暮れの付届けがあり、切符の捌きがある。 もちろん、能楽師の側の事情はよくわかります。現在の状況としては、どうしても生活の資はお稽古に求めざるをえない。ですが、結果としてそれは能界全体の状況をさらに悪化させ、最終的には縮小再生産的な過当競争(減ってゆくお弟子さんを能楽師どうしが奪いあい、結果としてさらに生活の資を得ることがむずかしくなる)に立ちいたらざるをえないだろうし、よりひろく能に親しんでもらうためにも逆効果なのではないでしょうか。 能の観客には三重の層があります。いちばん外側にあるのが、たまには能も見てみようかという比較的無関心な人びと。次に、能は割と好きでよく見し、公演だけでなくてワーク・ショップなどにもよく参加するけれど、お稽古まではしないという人びと。そして、能を見るだけでなく、お稽古までしている人びと。これまでは、第二と第三の層のあいだに厚い壁があって、能楽師が能の普及ということをいう場合、第一の層をいかに第二の層へ導いてゆくかということだけが問題になっていました。 しかし、それだけではかならずしも充分ではないと思う。第一の層を増やすこと、第一の層を第二の層に導くことと並んで、第二の層を第三の層へとなだらかに誘導すること、もしくは第二の層の人びとが能を習いたいと思いたったとき無理なくそれが実現できるような状況を整えることは、前二者の普及活動と並んで重要になるのではないでしょうか。これまでのように第三の層だけが中心になる能の需要はたしかにいびつなかたちでありましたが、だからといって第二の層ばかり増やせばいいというものではない。健全なる能の普及を考えるならば、第一、第二、第三のそれぞれの層が厚みをもって存在し、それぞれの層に属する観客がもうひとつ上のところに進んでみたいと思ったときに、それがかんたんに実行できる状況をつくりだすことが大事なのです。特に、第二の層から第三の層へという過程は、これまでなおざりにされてきただけに重要です。 そしてそのためには、やはりこれまでのお稽古の制度を見直す必要があると、ぼくは思う。 改めるべき点は二つあると思います。ひとつは玄人の能楽師が素人を教える場合。このとき、前提としてお社中とファン・クラブを等号でつなぐことは、もうやめるべきなのではないでしょうか。お社中はお稽古をするためのものであるという考えかたに立って、お月謝と必要経費以外は徴収しない。温習会に無理にさそうこともしないし、新年会や忘年会は割勘定でゆく。そのうえで、さらに先生を応援しようというお弟子さんがいるならば、その人たちだけでファン・クラブを結成して(ここにはお稽古はしないけれど先生に協力したいという人を加えてもいい)、切符の捌きや何かを行えばいいのです。お社中のなかの組織として、別にファン・クラブを独立させること。 もうひとつは、玄人の能楽師以外――日本舞踊や音曲の所謂名取と呼ばれる人たちに相当する――によるお稽古の制度です。能の場合、こうした仕舞や謡のお稽古で身を立てている素人の人というのはほとんどいません。多くはほかになにかの本業があって、趣味的にこういう活動をしています。お稽古が本業になっているのはむしろ玄人の能楽師です。このところを、ぼくは、もうすこし利用すべきではないかと思います。つまりボランティア的にお稽古をしている人たちがたくさんいることをもっと宣伝して、手ごろな月謝で謡や仕舞を習えるということをいろんな人に知ってもらうべきだと思う。もちろんそのためには教える側でもたくさんの努力が必要だとは思いますが、現状ではどうしても玄人によるお稽古ばかり宣伝されて、こうしたボランティア的なお稽古の活動があまり知られていない傾向があります(一般のメディアにおいても、流儀としての広報においても)。たとえば能楽堂に、必要経費だけで習える近所の先生一覧というようなチラシを置くくらいのことはしてもいいのではありますまいか。 謡や仕舞は、本来決してそれほど高級な(値段の面においても、敷居の面においても)お稽古ごとではありません。それなのに気軽にはじめて気軽につづけられる人が少ないのは、やはりどこかに制度的な無理があるからなのでしょう。能のお稽古文化は江戸時代にその原型ができて、大正ごろの好景気によって現在のようなかたちが成立したといわれていますが、どうやらもうそろそろその制度自体に反省を加えてもいいころあいのように思います。 ぼくができるのは、主に二つめの点についての努力ですが……。
2006年06月09日
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将軍にむかって「いよう、征夷大将軍」と声をかけた男がいた、というおはなし、ご存じですか。将軍というのは十四代徳川家茂、男というのは高杉晋作のことで、幕末に家茂が上洛したおりに行列にむかって沿道の高杉がこう言った、らしい。幕府の権威も地におちたり、という感じの挿話ですが、司馬遼太郎の『世に棲む日々』そのほかの作品で何度か取りあげられているので、ご存じの方も多いでしょう。 ちなみに、この高杉の行為がいかにすごいことであったかをちょっと解説してみましょうか。まず、大名行列の通行にあたってむやみとこれを妨害したりからかったりするようなことは厳に禁じられています。え? 禁じるって、要するにやっちゃったやつは無礼打ちにするぞ、ってことなんですが(でも、実際には無礼打ちというのはそんなに多くない。江戸時代の人はみんな行儀がよかった)。いちばん重いのは供先切りといって、行列の先頭を横切ることで、これはもうバッサリとやられることまちがいなし。もちろん途中を横切るのもダメ。ただしお医者さんと産婆さんは特例で許されていたそうで、これなんかは江戸時代の救急車みたいなもんですかね。――しかし、それほど権威のある大名行列でさえ、江戸の街中に入ると「下に、下に」というかけ声をかけることができなくなります。江戸は将軍の直領ですから、例え町人相手でも、勝手に諸国の大名が命令することはできない。もちろん土下座を要求することもできません。せいぜい道のはじっこによけるぐらいで、ひどいやつになると「あ、行列がくる? じゃ小便でもするか」なんてのがいたとか。なにしろ江戸観光の定番として大名行列見学というのがあったくらいで(江戸城に大名がご機嫌うかがいに行くのを沿道で見る。桜田門外の変のときに井伊を襲った浪士がちっとも怪しまれなかったのは、みんな行列見物に来てる田舎の侍だと思っていたから)、尊敬されないことおびただしい。江戸市内で「下に、下に」のかけ声と土下座がゆるされていたのは、将軍家と御三家だけだそうで、これはおそらく天領だった京都でも事情は似たようなもの(もっとも諸大名が理由なく京都に立ち寄ることは禁止されていたので、幕末を除けば京都市中を大名行列が通ったのは数えるくらいしかないはずですが)。さすが風雲児高杉晋作の面目躍如といったところですね。 と、言ったあとでこんなことを言うのはなんなんですが……、じつはこの高杉の行為、そんなに大したことでもないんじゃないか、という気がしなくもないんですね。というのは、江戸時代に庶民が将軍にかけ声をかける機会というのが案外あったんです。 これを説明するにはまず能のはなしをしなくちゃならない。まあ、つきあってください。 江戸時代、能役者は幕府か諸大名のお抱えでした。従って、フリーの能役者というのは基本的にいないし(もちろん例外はあります)、能の舞台というのはすべてお抱えの将軍や大名のための私的なものであった。ちょうどバッハの時代の音楽を考えていただければいいでしょう。演奏会というものがなかったんですね(そのせいかいまだに能は興行がヘタ)。したがって、庶民が能を見る機会というのはありませんでした。あ、もちろん武士は別ですよ。彼らは素養として謡を習いますし(謡が共通語の発達をうながしたという節もあります。全国共通の文章を謡うわけだから)、お殿様のお相伴でお能を拝見することもあります。能の主な観客は彼らだった。したがって、能は武士の芸能、音楽としてのステイタスを確立してゆきます。式楽というんですが、例えば現代でも宮中の国賓晩餐会やなんかの公式な席ではクラシックの曲がながれているでしょう(たいがい弦楽四重奏とかの室内楽。まちがってもモーツアルトの嬉遊曲とかはかからない)。ちょうどあれといっしょで、歌舞伎や三味線音楽より能はいちだん高く、格があって、上品で、逆から言えばおもしろくなくて退屈なものだった。 さて、ブルジョワジーが勃興してくると、いちだん格上の貴族階級の文化を真似たがる、というのはどこの歴史でもあることですが、江戸時代の中期ごろにも能においてこれがあった。お金のできた町人たちが、今ならピアノでも習うところを、謡をうなったり、能をたしなんだりするようになったのです。彼らだって能が見たい。しかしなかなか見る機会がない。唯一の方法は、鼻薬を効かせて、能役者の稽古能をこっそり見にいくことですが、これだってなかなかむつかしい。人々は能に飢えていたわけです。 そういう社会の動きを見越したのかどうなのか、ある時期から江戸城で町入能というのが行われるようになりました。これは、江戸城の能舞台を解放して、一日だけ町人が能を見ることのできる日を設ける、という実に粋な政策で、年一度、将軍老中以下の閣老列席のもとで君臣一如となって能を楽しんでいたのであります(おもわず戦前の口調ですな)。ちょうど今の宮中園遊会みたいなものだ。ちなみに招待制で、対象は江戸市中の町名主等が主でした。江戸幕府の公式見解としては正規の「町人」というのは、市内に地所を持っていてそこに住んでいる人のことで、つまり裏長屋の借家に暮す熊さん八っつぁんは「町人みたいなもの」という扱いでした。彼らは身分でいうと借家人などと呼ばれ、地所を持っている人、具体的に言えば表通りに店を構えて商売している人や作業場を持っている職人の親方などより一段下であると考えられ、町内自治に参加する資格(町名主を選挙する資格)も持っていませんでした。お上から呼び出しがかかっても一人では奉行所にゆくことができず、かならず「町人」の付添が必要だったのです。 まあ、そういう身分のある人々だから江戸城で能を見るのにもふさわしい品格のようなものがあると思ったんでしょうね、幕府のほうでも。で、呼び出しがかかりますと、みなさん紋付きに羽織袴で参上します。ちなみにここから、気張った恰好、ことに紋付き袴のことを「お能拝見みてえな恰好だ」というようになりました。むかしの落語にはよく出てきましたよ、この言いまわし。で、この恰好でずっと城中に案内して頂きますと、拝見の前に折詰め、お酒と傘が一本頂戴できます。傘というのは、当時能舞台は屋外にありまして、将軍や老中は能舞台が正面から見えるあたりに建物があってそこから見物するから(というかほんとうは逆で、家の中から見えやすいところに能舞台を建ててあるんですが)かまわないのですが、お能拝見のみなさんは屋根もなにもない白州で見物です。雨が降ったらひとたまりもない。実際、降ってきたことがあるらしく、そのとき気をきかせたお上のほうで一本ずつ傘を配った。これが慣例になって、雨だろうが晴れだろうが傘を一本賜るということになったんだそうです。 で、このお能拝見。最初はよかったんですな。みんな能が見たくて行った。第一将軍から招待されるなんて光栄なことですから、多少能が好きでないやつでもはりきって出かけた。――でも、そのうちにみんな気づきはじめるんですね。「能ってあんまりおもしろくねえな」と。なにしろ当時の能は一日がかりです。能五番、狂言五番、これに翁と付祝言という演目が加わって、日のあるうちいっぱいはやっている。なにしろ今の我々が(決して嫌いではない)、半日能三番狂言一番を見てきてもくたくたになるくらいですから、これはしんどかったと思う。当時の能は今よりずっとサクサク舞っていたと言いますけれども、それでも五番はしんどい。なかば我慢大会である。 そこで不心得なやつが出てくるわけですね。「おい熊公、今度のお能拝見、代りにいかねえか」。こういう連中が多くなった。お城のほうでもいちいち参加者をチェックするわけでもないから黙認しているうちに、ついに大半の町名主が代役を立てるようになって、実際お能拝見のときに集まってくるのはほとんどが長屋の熊さん八っつぁんになるようになった。これはもう礼儀もなにもあったもんじゃない。折詰めのお酒なんか真っ先にあけてしまって、一杯機嫌で「ようよう」なんて声をかける。品だの格だのはお構いなしなんですが、そこは江戸時代ってのは鷹揚なもので、もともとお能拝見というのが無礼講の行事ということになっておりましたから、たいがいのことはとがめだてをしなかった。 そのうち、おもしろい風習ができたんですね。招待客が白州に入ってから、将軍が席につく。もちろん老中そのほかの連中もいっしょです。身分の軽い者から出てくる。このとき、熊さん八っつぁんが、まるで歌舞伎役者に声をかけるみたいに、いかめしいお役人にかけ声をひとつかける、という習慣がいつのまにか生れてきたんです。くわしいことはわからないけれど、たぶん「ご老中」とか、「おとっつぁん」とか、かけたんでしょうね。たぶん「越中守」とか「掃部頭」とかではないと思う。老中はみんな大名だから、領地の名前で「喜連川」とか「姫路」なんていうのはあったかもしれない。――で、もちろんこれは将軍も例外ではない。「いよっ、あんたが大将」とか「大統領!」とかはまさか江戸時代だからなかったと思うけれど、「親方ぁ」「親玉ぁ」というのはあったらしい。なるほど、そりゃそうだ。全国の武士の大元締めだもんね、征夷大将軍ってのは。 で、もとの話に戻るんですが、高杉というのは江戸に遊学したことがある。え? いや、剣術の修行とか学問の研鑽とか、そういう結構なはなしではありません。遊里で遊びまくってた。しかし、それだけに下情にはよく通じていたんじゃないかと思うんですね。お能拝見の話も知っていたのではないか。そこで、この「親玉ぁ」を参考に「征夷大将軍!」をやらかしたのではなかろうか、と考えるのですが、この仮説はどんなもんでしょうか。 ちなみに、お能拝見では、出てくるお役人お役人にみんな声をかけるのですが、南北の町奉行が出てくるときだけ水をうったように静かになったそうです。「おれたちのお奉行さま」という親近感から、町奉行だけは特別扱いで敬意を表したらしい。ちょっといい話ですねえ。
2004年05月21日
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人を育てるにはコツがあって、相手を信用してひととおりのことを任せてやらなければならない。むろん仕事の能率は落ちるし、失敗も増える。しかしそれを承知でやらせるのである。育てる側は、必要なときに手を貸し、進路を示し、取返し不可能な大きな失敗が起らないように適切な時点で軌道修正させる。ただしすべての場合において相手が主体的に取りくむことを妨げてはいけない。一見冷たく見えるほどの放任がいい。過保護にすると育つものも育たなくなる。ただし相手の見えないところで進捗状況を細かに確認し、瑕瑾を微修正し、船が難破しないようにさり気なく導くのである。すべて任せきりで船ごと沈没するのもバカだが、新船長を追出して自分で舵を握るのも阿呆である。 人間を成長させるのは(人格的にどうなのかは知らないが、すくなくとも仕事のできる人間に成長するうえで)、第一に信用であり、第二に信用に基く委任である。ある程度の自由裁量とそれにともなう責任を実感するとき、人は時として器量以上の仕事ができる。むろんそれには時期が大切であって、多少無理でも背伸びをすればできなくはないという仕事を与えられたときに人は発憤しやすい。言いかえれば器量と仕事の微妙な不等号を見誤って仕事をおっつけると、相手は途中でへこたれてしまうわけである。 器量をやや仕事が上回るという微妙な関係さえうまくいっていれば、あとは放任していい。ただし進捗状況の把握だけは必要で、これによって船が氷山にぶつかることを回避する必要がある。よく腹の大きいところを見せようとして何でもかんでも「君に一任」したがる人がいるが、あれはすくなくとも人を育てるという意味ではあまりおもしろくないのであって、表向き「君に一任」しつつ、裏側で細かい気遣いができなければ人を育てたことにはならない。 注意を与えるときはかならず相手にだけ伝えるようにすること。人前でこれを行うのは相手の心を無用に傷つけて、注意そのものよりも、注意されたこと自体に頭がはたらきがちであり、結局は意味がない。特に成長過程の者をあえて使っている場合には萎縮してしまう。もっとも何度注意されてもわからない相手にあえて人前で注意するというのはたしかに有効ではあるが、原則としてあまり多用しないほうがいいし、初手からこれを行うのは禁物である。それから、相手がもうわかっていることについては深く注意しない。時間のムダであるし、叱るほうも叱られるほうも単なるルーティン・ワークになって、注意することの真面目さが失われる。注意するときには、具体的にどこがどうよくないかを理由を添えて言うこと。「慣行」というのは理由ではなく状況である。慣行にも、必要な慣行と、合理的な理由のない不必要な慣行があるのだから、慣行という言葉を前にして思考停止しているようではどうしようもない。 褒めるときは褒める。これは基本。 相手を立てる。これも基本。新人と指導係で引継的な仕事をしていると、どうしても指導するほうが外部に対しては優位に見える。しかしいったん仕事を任せた以上は、任された人間を立ててやらねばならない。これはちょっとした心がけで可能なこと。教える側は常に影の役目にすぎないことを肝に銘じておかなくてはならない。 高校野球は教育の一環であるということになっている。あんなもので人格が涵養されるとは到底思えないが、ともかくも建前はそうなっている。 それならば、といつも思うのだが……。四番バッターにバントをさせるのはいい加減やめるべきではないのか。勝抜き方式だから一勝にこだわる気持はわからなくもないが、あれでは四番が四番に坐っている意味がない。 四番バッターというのは一々例を引くまでもなくチームの代表であり、看板である。ふつうは野手のなかでもっとも打撃の才能があり、ホームラン型のバッティングをする選手が選ばれる。先発のエース・ピッチャーとともに一種の象徴的存在にほかならない。逆にいうならば、名実ともにそれだけチームの信用を得ている選手でなければ四番になることはできないのである。四番は重圧であり、名誉である。選手は成長したからこそ四番に坐り、四番に坐ることでさらに否応なく成長させられる。 むろんそれでもバントをさせたい場面はあるだろう。それはわかる。しかしそこでバントをさせれば、せっかくその選手を四番に選び、チームとしての信用を与えた意味はなくなる。彼に科せられた負荷は急に軽くなり、その職掌は背伸びしなくても届く身の丈以下のものに堕落する。そこに、おそらく成長はありえないだろう。 教育とはやせ我慢のことである。四番にバントをさせたいという欲をぐっと我慢することで、四番の選手は多少なりとも成長する。チャンスにバントに逃げられないというのは四番バッターにとってもつらいだろう。しかしそのつらさのなかでバットを振り、ホームランを打ったり、併殺に倒れて責任を痛感したりすることで、彼は幾分か成長するのである。人として、は無理にしろ、野球選手として。我慢して得られる果実はあやふやで迂遠なものでしかないが、あやふやで迂遠なものこそは教育である。確実な何かが欲しいと思うなら、教育なんかより博打でも打ったほうがまだましだ。 一度信用して四番に据えた以上は、何があってもそれを立ててやらなければならない。信用して、まかせてやらなくてはならない。監督と呼ばれる人ができるのはそれだけだ。それ以上のことは本人に判断させ、本人にやらせる。たとえそれが間違っていると思っても、選手の判断を聞く前にバントのサインを送るのは教育ではない。それでは人は育たない。
2005年08月06日
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先申しましたとほり『鉢木』といふ能は、シテの佐野源左衛門が旅の僧に暖をとらせるために秘蔵の鉢の木(盆栽)梅、桜、松を薪にするのが見せ場でございます。クセといふ節のおもしろくついた、一曲の聞かせどころ、『鉢木』はここを俗に薪之段と申しまして、型は鉢の木を手折つて火にくべるさまを見せ、文句は梅、桜、松の由緒由来を和漢の故事を引いてなかなかの名文になつてをります。――その、松のくだり。 シテ「さて松はさしもげに。 地 「枝を撓め葉をすかして。かかりあれと植ゑおきし。そのかひ今は嵐吹く。 松はもとより煙にて。薪となるもことはりや。切りくべて今ぞ御垣守。衛士の 焚く火は御為なり。よく寄りてあたり給へや。なんでございますな、手前などはこの盆栽の道は一向不案内でございまして、通りいつぺんのことしか存じあげませんが、やはりお好きなかたは花木よりも槇、杉、檜といつた常盤木だとおつしやいまして、ことに松と申しますのは盆栽の代表みないたものでございます。花がないだけ枝振り、葉のしげり具合なぞがいつそう大事なのだとうかがひますが、その手をかけることも鎌倉室町の昔から変らなんだものでございますな、「枝を撓(た)め葉をすかして」といふのは今とちつとも変ることのない丹誠の様子でございます。これを切つて「焚く火は御為なり。よく寄りてあたり給へや」と客僧をもてなす源左衛門の志、さぞや時頼もうれしく思うたことでございませう。 何しろ梅や桜はいくら秘蔵の鉢の木と申しましても生木のことでございますからな、さぞくすぶつて燃えにくかつたらうと存じます。やはり燃やすとなれば松でございまして、今のお若いかたはご存知ないかもしらんが、あれは松脂といふものがございますから多少くすぶりはしますが生木でもよう燃えます。松明といふのは字を見てもわかるとほり松を切つて使ふものですが、あれは雨のなかでも松脂があるから消えにくいのださうで、ちとほかの木では代りにならぬものださうでございます。「松はもとより煙にて。薪となるもことはりや」といふのは、つまりさういふこと。 ところが、これが江戸時代には禁句でしたさうで。能といふのは幕府や各地の御大名から御扶持を頂戴してをつたものでございますから、主家に不都合な曲や文句は遠慮いたします。徳川家は家康より前の代は松平を苗字といたしまして、江戸期に入りましても将軍家、御三家、御三卿以外の御親藩、御連枝は松平をお用ゐでございました。これは奥三河に松平郷といふのがございまして、もともと徳川家はここから出て三河に勢力を張つた地侍だつたとかうかがひますが、それはともかく、畏れおほくも将軍家の御苗字を「切りくべて」といふのはまことにおだやかではございません。そこで江戸時代いつぱいはここのところを「松はもとより常盤にて。薪となるは梅桜。切りくべて……」と文句を替へて謡つたのださうでございます。 かういふふうに、舞台の型や話の筋は同じままで、不都合な文句だけを手直しするのを「文句をさす」と申しまして、今でも、さすがに舞台ではございませんが、さまざまな儀式での祝言謡ではよくございます。たとへば結婚式でおなじみの『高砂』ならば、 高砂や。この浦舟に帆をあげて。この浦舟に帆をあげて。月もろともに出 潮の。波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖すぎて。はや住江につきにけり。 はや住江につきにけり。とございますのを、御婚礼に「出る」「遠い」は禁句と、それぞれ「満つ潮の」「遙か鳴尾の」とさしまして、さらに二度繰りかへすのも縁起がよくないと「この浦舟……」「はや住江……」の文句もそれぞれ一遍だけにちぢめるやうにいたします。 『鉢木』のさしかへの文句を、当時の権力者に対する卑屈なへつらひであるとする方もございます。何しろ梅、桜、松を焚くから後で源左衛門は梅田、桜田、松井田の領地をもらへるわけで、これを松だけ執行猶予にしてやつては後段の話の筋とうまくつながらない。主人の機嫌をとりむすぶためだけの、その場しのぎの、非藝術的で、程度の低い弥縫策である……。たしかにそれはさうでして、反論の余地はございません。手前もそのやうに存じます。むろん御公儀といふものがなくなりましてからは、能も何遠慮するところがございませんから、『鉢木』の文句はどの流儀も「松はもとより煙」に戻つてをります。 しかしこれを単なるべんちやらとだけとらへる見方には、手前ちと賛成いたしかねます。ここにはどうも能といふもの、あるいは日本の藝術といふものの、根本的な特色が隠れてゐるやうでございます。 場に合ふ、と申せばいいのでございませうか、当意即妙といひかへてもようございますし、一休さんでいへば頓知でございます。ともかくも、あらかじめ持つてゐるものを、その場の趣向に応じて当座のうちに器用に手直しして、「場に合ふ」ものを披露するといふことを、昔の日本人はたいへん大切にいたしました。茶ノ湯に申します一期一会でございますとか、季節のゆかりを重んじるといふのもこれでございますし、俗にくづれては咄家の大喜利や三題咄、あるいは一休、曾呂利の頓知話もこの類でございませう。また歌道に当意即妙の名歌を詠んで雨乞ひをしたところ天地神明その才に感応して一天かきくもり沛然と雨下つたりといふ小野小町の逸話や、御存知『枕草子』の「香炉峰の雪はいかに」といふくだりも同様と存じます。あれは清少納言の教養もさることながら、当意即妙であるのが珍重されたのであらうと手前などは考へてをります。平安末ごろの説話集にはこの型の話がたいへんに多ございます。かういふ頓知のやうな、当意即妙の、場に合ふ機転のききかたを、「やまとごころ」と申して、「漢才(からざえ)」と対比させたのでございますな。基本となる教養が漢才でございまして、それを場に合ふやうにちよいちよい手直しする機転をやまとごころと申すわけでございます。 それからいふと、『鉢木』のさしの文句は、大切な正客をおもてなしするうへで缺くことのできない気づかひを見せた、場に合ひ折に合うた作法とも考へることができます。たとへばお目の不自由なお方の前で「めくら」といふ言葉を避けるやうなものでございますな。盲人といふ意味ではもちろん、「盲判」とか「盲縞」とか「あき盲」といつたことばも避けて、相手に不愉快をさせないやうにする。御婚礼で「切る」「ふたたび」が禁句で、葬礼では「くりかへす」が忌みことばで、御新築なら「焼ける」「崩れる」は避ける、これと同じことでございます。あるいは戌年ならば「今年はワンダフルな年に」と御挨拶するといふことがあります。おもしろくない洒落でございませうが、元日であればたいていの方はごきげんよく頓知を褒めてくださいませう。折に合ひ場に合うてをるからです。 むろん権力に無用にこびへつらふといふことはいいことではございません。しかし『鉢木』のさしの文句はそれだけではとらへきれないものであることも事実でございまして、これは大事なお客さまを立てた、もてなしの作法としての面もございますわけで、その気持のほうは、これはゆめおろそかにするべきではなかろうと、手前は存じます。せつかく御婚礼で謡をさせていただくのですから、御夫婦の幾久しいお幸をお祈りして、「出潮」「遠く」は遠慮する。「松はもとより常盤にて」もそれと同じ志でございます。 ■ 菅原道真公の亡霊が、藤原時平に讒され、無実の罪によつて太宰府に流されたことを憾んで、祟りをなさんと怒りを見せる『雷電』といふ能がございますが、これは五流のうち宝生流だけ『来殿』といたしまして、筋も祟りをなさんといふところを省いて菅公の亡霊成仏得脱するやうに作りなほしてございます。これは宝生流を特にお好みでございました加賀の前田家が、もとは菅原氏より発するといふことで、御先祖のことを悪霊にしてしまつては申しわけないと曲そのものを大幅に手直ししたものださうでございます。『鉢木』のさしをうんと大がかりにすると、かうなるんでせうな。
2005年12月09日
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