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◎東京エレクトロン、営業益8割り増し ◎象印、最高益、訪日客効果、純利六十五%増 ービッグカメラ、コジマ不振で営業減益ー ー不二越、中国減速で車部品不振 ー荒れる相場、枯れる商い 山新 〒636-0341 奈良県磯城郡田原本町薬王寺36-15 メール:??????@mvb.biglobe.ne.jp ??????@docomo.ne.jp 電話:xxx-xxx-xxxxx, xxx-xxx-xxxxx
October 2, 2015
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私は早起きが大の苦手だった。22歳から約40年間というもの、毎朝6時半にがばっと布団から抜け出して、歯磨き・洗面・調髪・朝食を手早く済ませて服装を整え、電車の駅まで走って7時20分の急行列車に乗る生活を続けたと言うのは簡単だが、そんな簡単なものではなくて地獄みたいなものだった。 歯磨きに1分、洗面は30秒、調髪は10秒、朝食はパンを一口かじってコーヒーをすするだけで、カッターシャツにネクタイを締めてスーツを着るのに数分といった調子だが、他に妻も働きに出るし、子供2人も学校へ通うし、といった中でだから毎朝戦場のような状態だった。 私の年頃のサラリーマンの定年は最初は55歳だったが、現在と同じく次第に延びていって59歳になってやっと年金が満額もらえるようになっていた。心理的なものだろうが、55歳を過ぎると精神的にも肉体的にもよたよたするような感じがしていた。それで私は59歳になったら仕事をすっぱりと止めてしまおうと早くから決心していた。 その頃私の勤務先では60歳で定年になり、65歳までは専任講師、その後非常勤講師で70歳まで勤続する人もいた。もちろん定年を過ぎると給料もボーナスも半額以下になってしまうが、年金がもらえるようになるので、年金だけで暮らす人よりも生活が楽だからだ。 しかし私は金銭的に楽な生活より、貧しくても気楽な生活の方を選びたかった。実際、毎朝6時半に起きるところを2時間遅い8時半に起きてもいいのは、何ものにも代え難い喜びだった。なにも8時半でなくて、9時まで寝ていても誰も叱る者はいなかったが、私が自分の生活にけじめを付けるために起床を8時半にするよう自己規制しただけである。 三食を食べる以外にすることと言えば、ちょっとした家庭菜園づくり、テレビやDVDを見ること、CDの音楽を聴くこと、読書、それに散歩ぐらいなものである。はじめは地獄から極楽に生まれかわったような幸福な気分だったが、三ヶ月も経つとそんな生活に飽きてしまった。昼寝もしたから夜寝付きが悪くなった。寝付きが悪くなって朝寝の癖が付くと、起きても一日頭がぼうっとするようになった。 私はこれではいけない、なんとかしないといけないと思うようになってきた。ちょっとした仕事とか、打ち込める趣味とかがあればいいなとは思ったが、楽しんでやれるものでなければいやだった。 いろいろ模索している中に一つ、大学院へ入学してみるという選択肢があった。当時まだ数少ない大学院だったが、社会人入学という手があって、TOEFULという英語の試験である程度の点数を取れば、後は提出論文と面接試験とで入学できた。博士課程前期課程で2年で卒業できるところ、私はいろんなことをやりすぎて4年かかって卒業した。 大学院に入学したばかりの春、「国際経済論」という講義で担当の教授が米ドルを五百万円ばかり買ったばかりだと口をすべらせたので、私も翌日シティバンクの支店へ行き約三百万円分米ドルを買った。その教授は以前世界銀行に勤めた経験もあり、子息がアメリカの大手の保険会社のサンフランシスコ支店に勤務しているとのことだったから、私は安心して買って円安になるのを待つことにした。ところがその頃から毎日円高ドル安になっていった。
November 23, 2010
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私は以前に書いたように子供の時からたくましい母親のおかげで生活の苦労というものはしたことはないが、さりとて贅沢で豪華な生活をしたこともないし、豪勢な家に住んだこともない、まあ「中流の下」といった一生だな。 会社員だった独身時代には給料だけで暮らしていけなくて月末になると毎月のように質屋に通ったし、取引先の接待に経費がかかりすぎて自費でまかなったり、神武景気とかで世の中浮かれに浮かれた頃には、自分も浮かれてしまって遊興費で首がまわらなくなった時もあった。 それでも結婚して、間もなく子供が一人、二人と出来てきたし、信用取引で神経を使いすぎて老母や妻に恥ずかしい姿をさらしてからは、えらく慎重になっていたように思う。 趣味の話をしているわけではないので省略するが、私にはさまざまな趣味があって毎日単調な教員生活だけをしていたわけではなかったから、株式投資をやらなくてもべつに寂しいということもなかった。 ボーナスの額を妻にごまかして新しいカメラをこっそり買ったり、郵便局の定額貯金をこっそり下ろして海外旅行費用に流用したりと、時々は妻に悪いことをしたと未だに忸怩たる思いをしているのだが、子供二人を教育し、持ち家のための貯蓄もせねばならない時だったから、贅沢なことは妻の手前私なりに手控えていた鬱憤払いだった。当時銀行の預金利子もけっこう高くて、あえて株式投資をする必要もなかったのであった。 そこへかのバブル経済というやつがやってきた。バブルといえば最初は、不動産バブルがやってきた1985年(昭和60年)前後じゃないかと思う。私の勤めていた学校では1学期と2学期末に、「3者懇談」と言って、生徒・保護者・担任教員の3者が15分ほど次々と会ってその学期の成績や生活指導をしていた。教員は時々担任を外れる年があって、そんな教員は駐車場の整理などの雑用にあたることがあった。そんな年、駐車場を回ってみて驚いたことがあった。駐車している車の殆どが外車で、大型のベンツが特に多かった。一緒に見回っていた同僚は、「うちの学校の生徒の親はみな不動産屋か土建屋かいな」と言ったことを憶えている。 その後で株式バブルが発生し、1990年(平成2年)あたりからちょとずつバブルがはじけていったみたいだ。その頃のことだった。あれから5年しか経っていなかったのに、たまたま学期末の3者懇談の折駐車場見回りにあたっていた私が校庭を歩いていると、ベンツが一台として見あたらなくなっていた。ベンツが日本経済の景況をものの見事に当てているのはむしろ感動的でさえあった。 バブルの時期、証券会社の営業マンは何回も学校へやってきて株を買うように勧めた。勤め帰りによく立ち寄る喫茶店にはいつもその証券会社の課長がたむろしていて、彼もやはりこれからますます株価が上昇するからと購入を勧めた。 共稼ぎの妻が爪に火を点すようにして貯めてくれたおかげで余裕資金が少しはできていたので、私は証券会社の言いなりに少しずつ低位株を買い始めていた。ところが私の持ち株はあまり上がらなかった。 その頃、三洋証券という証券会社の支店が喫茶店のすぐそばにあって、新任の所長が大学の後輩であると紹介された。私にはそれがいいのか悪いのか分からなかったが未公開株を一株分けてくれた。その未公開株はその後じきに上場されて確か20万円ぐらいは儲かったような気がする。私は持ち株はそのままに、三洋証券で二つか三つの銘柄の株を買ったり、投資信託も買ったので喜んでくれた。 ところがである。その三洋証券は突然倒産した。 「あんたもよくよく面白い人やね。倒産しそうになくて完全に倒産してしまうような証券会社と選りに選って取引するなんて」、と家内はけたけたと笑った。しかし私は必死だった。少ない持ち金すべてを預けてあったのだから。倒産した後も社員は誠実に対処してくれ、おかげで損失は少しも発生しなかった。 ちょうどそんな頃、長男がN経済新聞に入社して入社式があった。社長の訓辞によると、同新聞社の社員が株式を購入することは厳禁だが、親にもなるべく株取引を控えてもらいたいとのことであった。それはインサイダー取引を恐れてのことだと理解して、私は即刻持ち株を売却した。証券会社の営業マンはもうちょっとだけ待ったら必ず上がると言ったが、私は承知しなかった。 長男は東京で一人暮らしをしており、たまに私が上京して彼の住まいを訪ねても、彼の帰宅はいつも真夜中か午前様でろくに話もできず、正月に帰省しても一日友人たちと飲みに行くだけで後は寝てばかりでは、インサイダーもなにもあったものではなかった。 とは言え、N経済新聞とN産業新聞で長男の署名記事を探し出して読んだり、他に講読している2紙と記事を読み比べたりするだけで十分忙しかったし、経済動向や企業の現況や株価の見通しなどを深読みすることなく読めるのは実に楽しかった。
November 19, 2010
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私は10倍にもスプレッドを効かす信用取引が精神的に悪影響を及ぼすことを身にしみて分かったので、その後は少額での現物買いを細々やっていた。 私の妻には一風変わったところがあった。私が株を買ってもなぜか文句を言わなかったし、どの銘柄を買ったのか尋ねもしなかったし、その上買うのにかかった金額を尋ねはするものの家計簿には株価プラス手数料をカメラや食料品などと一緒に経費として記入した。つまり私の買った株は買った時から消費物品の一つとして貯金から差し引かれていたわけで、株価が上がっても下がっても売ってしまわない限り家計簿に影響がないわけだった。その株を売って現金を手にした場合、得をしても損をしてもその金額は特別収入として家計簿に記入された。妻が最初から0円として計算しているわけだから、金額の多寡に関わらず喜ばしいことであった。今なおどう考えてもおかしな家計簿の付け方だったが、そのようにして私たち共稼ぎの二人は退職するまでは家計を一本にしていた。 一度妻に代わって私が家計簿を付けたいと申し出て、2、3ヶ月委せてもらったが、どういうわけかはっきりしないのだが毎月大赤字になって妻にその仕事を返上して笑われた。何かマジックがあったはずなのだが、詮索する暇がないうちに今に至っている。 紙くずになった株を買ったことも一回か二回はあったが、ゼロになる前に売っていたから妻が思っているほどのことはなかった。とは言え、私の買った株で儲かった実感があったことは一度もなかったから、妻の思いはなるほどとうなずけることであったし私もその方が気が楽だった。 今つくずく思うに、妻がそのような家計簿をつけたことが、私が必死になって株式の勉強をして儲ける努力を怠った原因ではないだろうか。 私は勤務を終えて最寄りの駅まで歩いたりバスを利用したりして電車に乗り、乗換駅の自動販売機で夕刊紙を買い、一番に証券欄でその日の前場の終値を見るのが習慣だった。朝の通勤電車の中で大学時代から愛読しているN経済新聞の朝刊も読んでいるし、帰宅したらその夕刊も読んでいるし、私なりによくよく考えて注文するのだが、買った株がそのままぐんぐん上昇することはめったになかった。 そのうち勤務先の学校へ、取引している証券会社の営業マンが売り込みにくるようになった。彼らは学校の受付では一様に自分の会社名を言わないで、個人名を言ってやってきた。それが教員に会うときの常識だと聞いて私は笑った。私の勤務していた学校は私立学校だったし、私自身は証券会社であろうとサラ金であろうと別に気にしてはいなかったのだが。 公立学校では今でも同じ状態だろうと教員たちに同情する。日本では株式投資は投機や賭博のように思っている人がいまだにたくさんいるのではなかろうか。 私は1989年にドイツの公立高校を訪問した際、ちょうど日本ではバブル経済華やかなりし時だったが、ドイツ人教員たちは私たち日本人教員を見ると男性教員の何人かがそわそわして、一人ずつ英語をなんとかしゃべれる私を廊下の隅に連れてきて、学校教育なんかそっちのけで日本企業の名前を挙げて将来性はどうかとか、日本株の見通しはどうかとか訊いてきた。私は毎日読んでいるN経済新聞の記事で憶えていることをたどたどしい英語で話すと、みんな大いに喜んでくれたのにはびっくりした。その日から2週間とたたないうちにベルリンの壁が崩れたのだが、彼らドイツ人教員にはドイツにある西も東も関係なく株価の上昇にだけ関心を寄せているように思えたぐらいだ。世界バブル経済終わりの始まり
November 11, 2010
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奈良盆地の真ん中あたりから京都市北部の大学まで毎日通うのはたいへんだった。近鉄橿原線で西大寺駅まで20分ほど、西大寺駅から奈良電鉄(現在は近鉄になっている)で京都駅まで約50分、京都駅から市電か市バスで30分、と徒歩や乗り継ぎの時間も合わせると合計2時間はかかった。現在でも所用時間はそんなに変わっていない。ただ奈良電鉄は経営不振で、近鉄に買収されるまでは、車内における夏の冷房はもちろんのこと冬の暖房さえなく、1月や2月に一限の講義や試験のある早朝の通学は地獄だった。 下宿したこともあるが、当時は京都市内も奈良の田舎とおなじくらい買い物に不便であり、夏むし暑く、冬は極端に寒かった。奈良は底冷えで有名だが、京都は比叡下ろしという風で寒かった。それで私は早々に京都から退散した。 当時は映画作りの全盛期で、アルバイトと云えば映画のエキストラと思い浮かぶほど募集が次々あったが、私は講義を真面目に受けて書き留めたノートを前期と後期の試験前にプリント屋に売るアルバイトは楽だし儲けも大きかったので、主としてそれをやった。娯楽と言えば一に映画、次にパチンコと麻雀ときまっていたものである。遊郭も昭和33年3月末に売春禁止法が発効するまで祇園乙部の他にも数カ所あって、小遣いを工面して通っている学生もいた。 私が大学に入学する前年まで、京都でも学生運動がなかなか盛んだったらしいが、入学してからは何も起こらなくて面白くなく、あるマルクス系の有名教授は、「おまえらノンポリを教えていてもくそ面白くもない。せめてメーデーなどのデモには大学を休んででも参加しろ」と怒っていた。大学生活4年間なんてあっという間に過ぎた。 経済学は確かに純粋な学問としては面白かったが、実際に世の中に出たらどのような効果を発揮するのかまったく見当がつかない学問だったことは在学中から分かっていた。あまりにも現実離れした理論と歴史の学問だったからである。就職すればまた一から出直しであることは覚悟していた。 当時は神武景気前でまだ就職難だったが、また母がコネを探してきた。遠縁に近鉄の局長がいて、母は日参して頼み込み、私もその人にひきあわされた。彼は京大工学部を出たエリートで大金持ちの家付き娘に婿入りした男だった。私はその人の紹介で近鉄の役員に会った時、その役員は入社試験の問題を一つ教えてくれた。母はこれだけでは不安と思ったのか、県会議員にも重ねて頼んでおいたらしかった。しかし結果は不合格だった。筆記試験の成績が悪かったうえに、県会議員が近鉄の社長に頼むのを忘れていたということだった。遠縁の局長も私のことをすっかり忘れていたようだったので、母がそのことをなじったらしい。本社の入社試験が終わっても、いっぱいある子会社の試験は始まったばかりなので、本社全額出資の旅行代理店の試験には即座に合格した。 私の配属された営業所はなんと大阪証券取引所から百メートルと離れていない貸しビルにあったが、証券取引所のクラシックな建物を毎日目にしていても私は株式に何の興味もなかった。毎晩残業に追われ、やっと仕事から解放された夜の8時や9時頃、証券取引所の前にあるT字路のど真ん中に立って、堺筋本町から向かってくる市電のライトを浴びながら線路上に小便をひっかけるのが新入社員のせめてもの腹いせになっていた。今思うに、当時はそんな馬鹿な遊びをしておられるくらい通過する自動車の数も少なかったのだった。たった五十年前だが、それでも古き良き時代だった。 私は株の話をするはずなのに、なぜ自分の恥ずかしい人生をさらけ出しているのか忸怩たる思いをしながらも書き続けているのは、いろんな失敗のうちでも株の失敗は特に大きな失敗の一つであり、しかも晩年になってからの失敗だったから、それまで私自身どのように育ちどのような経験をしてきたかを辿りながら自己検証していることをご理解いただきたい。 私は未だに会社員を尊敬している。会社員とはもちろん民間会社で働く人たちのことである。国家・地方公務員、公私を問わず学校教員、特に大学教員、医師や弁護士や税理士、会計士など、どんなに有名な人で嫌いである。彼らはそれぞれそれなりに苦労してそれらの職業に就くようになったのだろうが、それ相応に十分報いられていると私は思っている。一般の会社員は仕事がきついわりには報いられることが最も少ないのだ。 政治家は別だ。衆参両院議員はもちろん、地方議会の議員でも私は尊敬する。あれほど清水の舞台から飛び降りる決心と覚悟の要る仕事で、誰とでも話をせねばならず、何事にも耐えねばならない職業はないからだ。 とにかく私はその後、つらい会社の仕事に見切りを付けた。そして幸運にもコネで私立中学・高校の英語教員に転職した。教員の仕事が会社の仕事に比べてあんなにも楽なものだとは予想していたかったのだ。教員たちには面白い人間はいなかったが一般的に性格は温厚で私が一番柄が悪かったぐらいだし、生徒の中に扱いにくい奴らがいてもまだ子供で、会社の時の取引相手に比べるとかわいいものだった。そのうえ夏休み、冬休み、春休みがあったし、ごくつまらぬことで延々と続く職員会議を除くと、極楽に来た気持がした。 私はそのうち人生に多くを望まぬようになり、人並みに見合いをして結婚した。健康な妻は男性並みに仕事をしていたのだが、結婚したらじき妊娠して数日病院に入った。 「小人閑居して不善をなす」 私は高校の時から漢文を読むのが大好きで未だについつい出てしまう。それにしても人生の節目節目に適切な人生訓が漢文にちりばめられているのは不思議なくらいだ。 今もあるのかどうか知らないが、大阪屋証券という証券会社に大学のゼミの同級生M君がいた。久しぶりに会って喫茶店で話していると証券会社に勤めていて、ちょうど今「山陽特殊鋼」という会社の業績が急速に悪化しているから、「空売り」をしたら儲かると株取引を勧めた。私は昔母が「カラはこわいでぇ」と言ってたことを思い出して、私は金がないし、信用での売り買いは皆目わからないし、母がこわいと言ってたと断ろうとすると、彼は証券マンの自分が日がな一日値動きを監視しているのだから絶対大丈夫、10万円ぐらいはあるだろうからそれで十分だ、その10倍でも20倍でも取引できると真剣に説明したが、分かったようで分かっていなかった。 私は彼に押し切られるように貯金を下ろし、大阪屋証券に10万円を入れた。M君がすべて手続きをしてくれて、約100万円で山陽特殊鋼の株を信用売りした。 私は毎朝、日経新聞の株式欄を見るようになり、三日にあげず証券会社のM君に電話した。毎日2万、3万と儲けが増えているらしかったが、「信用売り」というシステムがはっきり分かっていない自分には実感が伴わなかった。 株式というものは、下がり続けている株でも数日上がり続ける日もある。私は短波放送を受信できるラジオを買って、授業を終えて職員室の椅子に座る度にイアホンで株価をチェックするようになった。周囲の教員がどう思っているかもほとんど気にならなかったぐらい集中していた。 そのうち妻が退院して子供を保育園に預けて働く準備をし始めた。私には株価が気になってそれどころでなかった。 証券会社で株取引を開始して一ヶ月目には確か20万円ぐらい利益が出ていたと思う。ところがその頃から夜寝付けなくなった。不眠である。確かに株式市場が開いている週日の時間だけは株価が気になっているのは自覚できるが、市場が閉じた後や土日には、持ち株が儲かっているのだから気に懸けることはめったになかったはずである。それなのに眠れなくなったのである。 妻が母に電話して私の不眠を打ち明けたのだった。母はすぐ飛んできた。母も支店は違っていても同じ大阪屋証券で取引をしていたらしい。私から取引店の電話番号を聞き出してM君を呼び出し、即刻信用売りの買い戻しを命じた。私が電話を代わった。 「もうちょっと辛抱したら、かならずもっともっと儲かるて」、とM君は残念そうに言った。母は私の受話器を引ったくって、「この子にはぜったいカラ売りはさせんといとくなはれや」と言い、その支店との取引も止めさせると宣言した。母は念には念を入れるため、その後私の手を引っ張ってM君の支店に乗り込み、所長に面会して私の株取引停止を認めさせた。私はいい年をして母に子供扱いされ、恥ずかしくてそれ以後M君と会うことはなかった。 信用取引完全ガイド
May 21, 2010
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私の通っていた高校は、もとは農業学校だったが新制高校制度で普通科と農業科を併設した県立高等学校になり、特に普通科は学区制のため志願倍率の高い難関高校になっていた。この学校はその後も、また農業高校になったり、今また名前を変えて農業科や園芸科や食物科を併設する高校になっている。 前回述べたように、私は県庁所在地の私立中学に通っていて、その後併設の高校へ入学したのだが、他の高校へ行く者はまれで、中学3年間一緒だったほとんどの生徒も担任の教員も持ち上がりだった。3年同じ教室で顔を突き合わせていると互いのいやな面もよく分かってくるし、特に大好きだった上田妙子という魅力的な女生徒が国立女子大付属高校の入試に通ってしまっていなくなったから、私は高校1年で早くも人生に絶望を感じてしまった。今西久男くんという中一以来の友人とはいまだに親しくしていたが、彼も色気づいて友情よりも劣情を催して苦悶しているように思えて面白くなかった。 しかし1学期も終わりに近く間もなく期末試験が始まる時期で、他の高校へ転校するのは無理だった。そこで私は数日考えた結果、はたと思い当たった。「おれには強い味方があったのだ」と、母に説明しかけた。全部話し終える前に母は、「まかしとき。今は学区制になってるさかいもう農学校と違うでぇ。どの教科も県一番のええ先生を集めてあるて云うてはったで」、といつも商売で世話になってる国会議員の名前を挙げた。 こういう困難な事態が発生した時ほど母が生き生きすることはない。彼女はその晩すぐに近所の医者に駆け付けて、私を「肺門リンパ腺炎」という病気にして診断書を書かせて帰った。後で分かったことなんだが、この病名は仮病の診断書に書く典型的な病気だったらしい。翌朝、母は私に3日ほど学校を休んで外出しないように言いつけ、始業時間のちょっと前になると取り付けてもらったばかりの電話の受話器を嬉しそうに取り上げて欠席届を伝えた。私の県には当時、郵政大臣だった老練な政治家がいたせいで、電話機の普及率が日本一高かったらしい。 3日たって4日目に、母は私を連れて職員室に乗り込み、担任教員に伴われて校長室に入って行った。担任だった女性教諭も校長も母の差し出した病気の診断書に、てっきり療養のため休学を願いに来たのだろうと思ったようだが、もう一通「転校願」を見て驚いた。この程度の病気ならたいしたことはないのだから、なにも退学をしなくてもゆっくり休学して病気が治ってから復学すればいいではないか、と担任も校長も繰り返し云った。 「いいえ、先生方、なにとぞ転校させてやってください」、と母は立ち上がって深々と頭を下げた。 「なにか、本校を辞めたい理由が他にあるのですか。どうかなんでもおっしゃってください。この子は中学卒業式で優等賞をもらっていただいた本校の宝ですから、私たちといたしましても、どうしてもうちの高等学校を卒業してもらいたいのですよ」 理事長も兼ねている校長も、母に負けじと同じ事を繰り返して云い、最後まで許可してくれなかった。長い時間の交渉だったが、母は何をきっかけに決心したのか、「今日はこれまで」とばかりに馬鹿丁寧にお辞儀をしてさっさと校長室を出た。 それ以後母と学校の間に何があったのか、私はまったく知らない。おそらく母は国会議員を通して私の通っていた私立高校の校長に転校を許可させ、今度は学区内の県立高校の校長に2学期からの編入をむりやり許可させたのだろう。夏休みの直前に県立高校から編入試験の呼び出しがあり、英語、数学、国語の3教科の簡単な試験を受け、答案を提出し終わってから1時間と経たないうちに、「本校の生徒にかなう成績だったので、入学を許可する」と元旧制中学校長だったという県立高校の校長から直接言い渡された。なんだかだまされたような気がしたが、母ならこんなことぐらいはしても不思議でないかなと思ったりした。 元農業学校が急に新制高校になって普通科の中に進学コースまで作ったのだから、最初はあまり期待していなかったのだが、確かに先生たちの質はどの教科でも高かった。私は理系の科目は不得手であまり分からなかったが、国語、漢文、古典、英語、世界史、日本史などを一生を通じて好きになれたのは田舎のここの高校の授業に負うところが大きい。 ただ一つ苦情を言えることは、校舎がすべて木造だったことで、れんが造りもコンクリートのビルにも免疫がなかったことである。と言うのも、大学受験の年の1月に最初に願書を提出しに行った京都の私立大学のれんが造りの建物群の美しさに魅了されて、願書を出したばかりなのに自分の行く大学はここしかないのだと思ってしまったからである。赤れんがにつたが絡まって絶妙な美観を保っている建物を含む5棟が重要文化財になっていることを知ったのは、入学してかなり経ってからであったが、重要文化財は移転ができないのかしにくいのか、キャンパスの景観が卒業して50年以上年月が経過しても当時とあまり変わっていない。 当時は神武景気直前だったそうで、そのせいか経済学部は一番の人気学部だった。私はいつも兄の風下にいてその通りにしておれば大過なく過ごせたから、影であらゆる反抗はしたものの、表面上は体制順応型で経済学部を選んだ。法学部は六法全書と首っ引きで暗記するところだと云われたし、文学部は女性かひよわい男の行くところだったし、医学部や工学部は医者や技術者という職人養成学校と思っている人も多く、特に医学部は現在のように成績抜群の生徒の行くところではなかった。 最初の講義が始まって教授の第一声は、「経済学は貴族の学問である」であった。経済学は不純で不潔で貧困にあえいで生きている人間どもの生活から発生しながら、それらをアウフヘベン(「止揚」と訳すらしいが)したものであり、純粋無垢な理論に結実した学問だかららしかった。理由ははっきり分からなかったが、「貴族の学問」という言葉はうっとりするほ魅力的だった。 私の大学では、マルクス経済学と近代経済学のどちらも教えていて、私は双方の科目を均等に履修し、マルクスもケインズもちょっとずつかじった。私は経済学説史とか日本経済史、景気循環論とかいった、主として経済の歴史の学問が好きだった。「歴史に学べ」という言葉があるが、社会の現実を知らない者が歴史書をいくら読んでも役に立つはずがないと分かったのは大学を卒業してかなりたってからである。学者どもが、「経済学は貴族の学問である」と象牙の塔で学問を楽しんでいてはいけないのだ。 景気循環論で、景気変動にはジュグラー波、キチン波、およびコンドラチエフ波があると憶えて期末試験の答案に憶えたことを書いてもなんの役にも立たなかった。それが実際にどういう波動で歴史的にいつどこで起こったことがあるのかを改めて調べたのは、退職後かなりたって株で損した後であった。 景気循環論入門
May 19, 2010
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昭和6年生まれの兄は誇り高い男である。私はいつも「埃(ほこり)高い男」と茶化しているのだが。「産めよ増やせよ」の時代に、田舎とは言え八つもの集落を持つかなり大きな村から選ばれたたった3名の旧制中学の伝統校に入り、担任の教員はこれまた母の贈答品のおかげをこうむっていただろうが、毎年学校長から級長の辞令をもらっていた兄はよく学び、寡婦を助けてよく働いたのは、不肖の弟の私も認めるところである。「くそまじめ」という言葉がこれほどぴったりあてはまる人間もいないだろうと今なお思えるが、融通のきかないところはこういった人間の特徴であろう。昔からこういうたぐいの人間はだいたいが保守的で権威に弱く、上から命令されれば脇目もふらず従うものである。 戦争中には旧制中学に「軍事教練」という科目があって、担当者の現役士官の教官から陸軍幼年学校か「予科練」(海軍飛行予科練習生)へ行くことを薦められた兄は一番に飛びついた。しかし子供に甘い母もこれには強硬に反対した。父もいないのに母も家業も放っておいて志願するとはなんたる親不孝者かというのである。ついに村長を何度も自宅に呼んで説得してもらい、自分も学校へ足を運んで教練の教官に抗議した。母から「天子さまもお許しになるはず」、と言われては教練の士官も「ひるに塩」だったらしかった。 兄もとうとう断念した頃に終戦となった。世間では大っぴらには言えなかったが、家の中では母は日本が戦争に負けた喜びを声高に語り、めったに座ったことにない仏壇の前で手を合わせて線香の煙にむせながら亡き夫に感謝の言葉を述べ、店の神棚には灯明を10本も点して柏手を何回も打って頭を下げた。私は悔しくてたまらなくて、いつかこの仕返しをしてやろうと決心したくらいだったのに。 私たち年少者でさえ、昭和20年8月15日の正午を境にして、学校教育や日常生活でさえ外観も内容も180度転換してしまったのを肌で感じて、「こ~んなおいらにだあれがしたぁ~」という態度で登校するようになったのだから、兄の年代あたりの日本人はみんな、軍人はもちろんのこと天皇にも大臣にも校長にも教員にもめちゃくちゃに反抗するものと思っていた。 しかしそうではなかったのだ。衣食住に事欠いてそれどころではなかったのかもしれないと今では思えるのだが、幸運にも生き残った若い奴らがもう何も失うものがない状態なのに、占領軍の命令を遵守したし、戦前と逆のことを教える教員の教えに従順だった。兄は時代の変化に身も心も瞬時に適応していく人間に思えた。それはずるい人間を意味するのではなく、命令には従わねばならないと長く教育された人間の習い性なのだと分かったのはずっと後年のことだった。 最後まで中国のトラブルを解決できず、英米との大勝負に打って出るなんてことは、だいたいが融通のきかない「くそまじめ」人間のすることである。そしてこてんぱんにやられて、日本の歴史上初めての無条件降伏という段になると、今度はあらゆる誇りも夢も捨てて卑屈そのものになるのもこういったたぐいの人種なのである。だから兄は典型的な日本人だということになる。 兄は最後の一年間だけ新制高校に通って卒業し、家業の酒・醤油販売の仕事を継いだ。母は思い描いていたようになって大喜びだったろう。しかし兄には不満だった。同級生のほとんどが有名大学へ進学しているのに、抜群の成績だった自分が田舎で調味料の配達に回っているのは涙の出るほど残念だったようだ。「おれはこんなはしたない商いをする人間でない」、というのが口癖になっていた。 彼の国家・国民としての誇りは終戦とともに消滅したが、高校卒業とともに個人としての誇りががぜん目覚めたらしいのである。雇い人も増え、自動車も増え、店舗も大きくし、儲けも多くなったはずであるが、気持は晴れなかったようだ。同級生は都会の大会社で出世したり、家業の会社を継いで社長になったり、医師になったりしていったからである。 その頃から兄は金春流の謡曲に凝り出した。本家の先生に付いて習い、毎日の長風呂で大声で謡い続けるので迷惑したが、おかげで数曲私まで憶えてしまった。大阪のバー通いが頻繁になったこともあった。夜中に大阪から奈良まで歩いて帰ったことがあったらしく、いまだに自慢することがる。そのたび、「タクシーで帰ったらよかったのに」と云いたくなるが、私はまだ云ったことがない。 私は長男とはどうもうまが合わない。だいたいが長男は無口である。私の兄も悩んでいたにちがいないが、私には一切打ち明けなかった。おそらく友人にも話していなかっただろう。話したってどうってこともないたわいない冗談でさえ云わない。探ってみようとして話しかけると、「うるさい。だまっていろ」と云うから、もう金輪際尋ねてやるものかと私も心を閉ざしてしまう。 そんなある日、私が勤めから帰りに近鉄駅前の書店に入った時、兄が雑誌を買ってレジに置いたところであった。それはたしかに株式の専門誌であった。兄は恥ずかしげに私の顔を見て、「ここの本屋は、いつも新聞広告の一日後や」と、いまいましげに云った。「そうか」、と私は無関心を装った。 ある日私は兄嫁に、「兄ちゃん、株やり始めてるみたいやなぁ」と云ったら、彼女は「そうやねん。損ばっかりしてるみたいやでぇ」、と声をひそめて答えた。それにしても株の雑誌はどこかに隠しているらしく、一冊も見あたらなかった。母はまだ健在だったので、同じ事を尋ねてみると、「あかん、あかん。あれは株をやる性分やない」と言下にけなした。私は兄に、「株、儲かってるか」なんて訊きたかったが止めた。彼が黙殺するか、腹を立てるかどちらかだとよく分かっていたからである。 楽天証券でしっかり儲ける実践ネット株
May 16, 2010
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私も中学校へ入学する年になっていた。戦後の学制の変革で旧制中学は高等学校となり、6年制の小学校(戦時中は国民学校)を卒業すると3年制の中学校へ進学してその合計9年間が義務教育制になった。新しくできた中学校は新制中学または略して「新中」とみんな呼んだが、どこの市町村にも急いでむりやり作らされたので、施設も教職員も教材も整わず、特に母が皮肉と嘲笑を込めて呼んだ呼び名が「新中」だった。「あこへはおまえをやれへんで」、と母は何度も私に言ったものだ。終戦後間もない昭和23年春のことだった。 いつ手続きしたのか知らないうちに、私は国立の女子大付属中学校の入学試験を受けさせられた。兄が旧制中学を受験する1年ぐらい前から、小学校の教頭が毎日のようにやってきて座敷で兄ともう一人の学童に受験勉強をさせていたが、私は何もさせられなかった。しかしどういうわけか私も母も入学試験に落ちるとは夢にも思っていなかったのである。「おまえのようにいつも一番を取る者がなんで試験に落ちるものか」、と母がいつも言っていたからである。 しかし、試験時間に配られたどの教科の問題を読んでみても、どれひとつ解答できるものがなく、特に音楽の試験問題に出ている楽譜は生まれて初めて見る符号だった。 やがて発表の日がやってきた。掲示板に張り出されている紙を何度見返しても、私の名前はなかった。私は試験の時のことを忘れてしまっていて、「お母ちゃん、何かの間違いやで。事務所へ訊きに行ってきて」と云った。なんと母は恥ずかしさも忘れて、事務室のほうへ走って行った。 「やっぱりあかんかった。こんなガッコ入れてもらわんでもよろし」。母は合格を喜んでいる生徒や親を冷たい目でにらみながら堂々として校門を出た。近鉄の駅に向かう道々、通りの商店街のスピーカーから曲名は忘れたが、「・・・プラットホームの別れのベルよ~。さようなら~、さようなら~、君いつ帰る~・・・」という歌詞の流行歌が流れていたことだけはなぜかはっきりと憶えている。 その日から母は急に忙しくなった。私を他の私立中学校へ無理矢理入学させる工作を始めたからである。といっても県内にたった2校しかなかったから、母も必死みたいだったのが子供心にも分かった。母はつてを辿ってそのうちの1校の実力者と目されている英語の先生に渡りを付け、そのつど米などの食料品や毛布など当時の貴重品を私にも持たせて、何度も自宅を訪問して入試の合格をお願いしに行った。その先生はそのつど面接試験の受け方などいろいろ教えてくれた。 私立中学の入試に行ってみると、2校とも私同様国立女子大付属の入試に落ちた生徒でいっぱいで、私はまた危ないなと緊張した。幸いなことに試験は作文と面接だけだったので、もしかしたら合格の可能性もなきにしもあらずと少しは安心した。特に母が渡りを付けて何度も付け届けをしてあった先生が面接試験の試験官になっている学校では、その先生が一人質問し、おうちを訪ねた際に教えてもらった通りの質問に、これまた教えてもらった回答をしてすんなり終了した。もちろん合格だった。私は村の同級生10名のうちたった一人だけ地元の「新中」へ行かない生徒になって、他のみんながまだ寝ている時間に私一人だけ近鉄電車の駅に急がねばならなくなった。 私が70歳を過ぎた頃には、当時の大字内の男子生徒10名中6名がすでに事故や病気で亡くなっていて、4名しか生き残っていなかった。亡くなった者たちも生き残った私以外の3名も生まれ育った田舎の村に居付いて高校へも行かず、経験というものが生き甲斐の一つと考えれば、母は私に早くから人生の経験価値というものを与えようと考えていてくれたのかもしれないと思う。 というのも、小さな県であっても県庁所在地にある学校に毎日通うだけで、面白いことがいっぱいあったからだ。放課後町に出れば、大通りを進駐しているGIと呼ばれていた米兵がジープや徒歩でうろうろしていて、その日学校で習ったばかりの英語を実際に試してみて彼らからチューインガムをせしめたり、毎土曜日には友人と連れだって封切りの映画を観ることができたし、なにしろ全国からやってきている観光客が珍しかった。当時寺社や仏像の美しさとか価値なんか分かるはずもない年頃の子供には、なぜ遠路はるばるとこんな奈良の田舎へ観光に来る人の気持ちが理解できなかったのである。 その頃の母は、忙しさを苦にもせず、若々しく生き生きして子供心にも美しいと思った。統制経済はまだ続いていたし、インフレが昂進していたから、よほど儲かっていたにちがいない。また夜になると母はたびたび桐ダンスの引き出しを開けるようになった。目的は二つあるように思えた。一つは新調した着物を広げてうっとりと眺めることだった。「これ、ええやろ」、と母は柄のことは何も分からない私を相手に説明した。儲けたお金で高価な着物を買ったに違いなかった。もう一つの目的は、タンスの上のほうに三つ付いていた小引き出しから分厚い洋紙に色鮮やかに印刷された証書(株式証券)のようなものをたびたび取り出して、より分けたり数えたりするようになった。あれは1949年(昭和24年)5月16日の東京証券取引所の再開日前後のことだったろう。 電話が付いたのはもっとずっと後のことだから、相手は来訪した証券会社の外務員だと思うが、会話の中に時々出てくる「すみきん」とか「おおさかやしょうけん」が、会社名の「住友金属」や証券会社の「大阪屋証券」のことだと分かったのは大人になってからである。
May 15, 2010
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兄は母を助けてよく働き、よく勉強する真面目人間だった。戦中・戦後の旧制中学時代には学校長から級長の指名を受けて母を喜ばせ、戦中は軍事教練や飛行場建設の学生隊長として、戦後は食糧増産隊長としてがんばっていた。飛行機の滑走路作りの際には、何度もアメリカのグラマン戦闘機の機銃掃射を受けてそのつど辛くも助かって、母と私をはらはらさせた。今では跡形も残っていないが、大戦末期に現在の奈良県天理市南部に軍用飛行場が急造されたのである。 一方、弟の私はガキ大将だった。いつも同級の子分10人ほどを従え、「太子道」(古代、聖徳太子が明日香の橘寺から斑鳩の法隆寺に赴かれるために造られたと言われる筋違道〔すじかいみち〕)と今も呼ばれている村の大通りを我が物顔に支配していた。当時としてはかなり広い道だったが、自動車はめったに通らず、自転車やリヤカーの他には牛車と荷車ぐらいしか通らない道を、私たち悪がきどもの一団が通ると、上級生も道を譲った。 教員達が私に頭が上がらないのだから、一部の乱暴な上級生を除くと学校で私が一番いばっていた。特に昭和20年8月15日の敗戦の日からは、教員たちの一人として全く生徒を叱ることがなくなって、4年生全員は私の指図に従うようになった。ある日なんか、担任の教員が欠勤していて昼まで待っても教室へ出てこないので、私は独断で「今日は午後は下校とする」、とみんなに言い渡して自分のクラスの生徒を下校させた。 それだけだとなんてこともなかったのだが、下校途中、私が子分たちを連れて梨畑に入り、まだ熟れていない梨をごっそりもいで投げ合って遊んだものだから、梨畑の所有者から学校へ苦情が持ち込まれてばれてしまった。それで「一応ご報告しておきます」、と校長が私の家を訪れて母にたいして丁重に苦情を述べた。母は、「ああ、そうでっか。子供のことやさかい、そんなことぐらいしまっしゃろ。普段からの教育が肝心でんなあ」と大きな胸を張って答えると、校長は目の置きどころがなくなって、「すんませんでした」と帰って行った。たしかに母は子供の私から見てもまあ美人のほうで、胸も大きく柔らかそうにふくらんでいて、触ってもみもみしてみたくなるくらいであった。私の想像するのに、母は商売をするにもその「女の武器」を十二分に活用したのではないだろうか。 私たち仲間には戦争も敗戦も関係なかったが、戦争が終わった2学期から授業が欠けることがなくなったのがつらかった。戦争中は「警戒警報」と云って、アメリカの爆撃機が三重県や和歌山県に接近していることを知らせるサイレンが一回鳴ると、学校側が生徒全員を帰宅させた。そのうち爆撃機が見え出すと、今度はサイレンが何度も鳴って「空襲警報」を発し、人はどこにいても近くの「防空壕」と呼んでいた、地面を掘り下げて作った穴に避難しなければならなかった。爆撃機が見えなくなると再び「警戒警報」が鳴るが、爆撃を終えた敵機が見え出すとまた「空襲警報」が鳴り、敵機が去ると今度はもう一度サイレンが鳴って「警戒警報解除」とくる。 その時刻がまだ授業時間を過ぎていない場合は、生徒たちは再び登校しないといけないのであるが、ほとんどの生徒は行かなかった。だいたい先生達にしても、元気な男性教員達はみな出征してしまっていて、残っているのは病気持ちの男性か、それとも代用教員と呼ばれていた中等女学校出のおばちゃんたちしかいなかったから、生徒に出てこられて授業再開するのもおっくうだったろう、と今になったらよく分かる。 授業が増えるだけならまだましだった。代用教員たちには毎日午前も午後も授業を続けるには能力不足だったらしく、午後はほとんど毎日運動場で野球をやらされるか、それとも校庭や荒れた畑を耕してさつまいもを植えさせられた。事情は日本国中同じようなものだったに違いない。そのせいで私たちの世代には、国語や算数、理科、社会といった学問の基礎知識が不足しているかわり、男性は野球を実際にプレイしたり観戦するのが好きだし、男も女も家庭菜園作りが好きなのだ。 子供も大人と同じように、平和で暇だとろくなことをしないものだ。戦争があっても終わっても、「戦争ごっこ」は男の子の間で一番人気があったが、めんこ(私らは「ベッタン」と呼んだ)遊びも大流行した。次に男女を問わず楽しんだのは、女の子を人目につかない納屋にかき集めておこなう隠微な遊び「お医者ごっこ」だった。女の子の中にはなかなかにませている子もいた。あの頃の少女の幾人かが結婚後に浮気を楽しむようになった素地を、私たちが作ってやったような気がしないでもない。 当時は現在のように学校に図書館とか読書室なんてなかったし、どこの家庭にもだいたい本というものがないのが普通だった。私は幸運にも時々親戚の伯母が童話を買ってきてくれたり、担任の教員がよく本を貸してくれたりした。母は女性小説家の林芙美子のファンで、毎朝彼女が書いている新聞小説を読む終えるまでは返事もしなかったぐらいだが、子供向けの本は苦手だと買ってくれなかったかわりに、流行歌のレコードだけは新曲が出る度に買ってきてくれた。面白い本もあったものの読書には忍耐力が必須であったが、レコードは一曲3分ぐらいで終わってしまうから何回も蓄音機(レコードプレヤー)にかけて楽しめた。 そのうち私は家中の引き出しを開けて中身を見るという楽しみを見つけた。兄は旧制中学校(その後、高等学校になった)へ登校しているし、母は仕事で忙しいし、家の中にいる時間が一番多いのは私だったから留守中は誰にも見つからず好き放題にやれた。 タンスの中に母の着物がいっぱいあったが何の興味もなく、戸袋や小引き出しを開けてみても私の興味を引きつけるものはなかったのであきらめていたが、ある日偶然タンスの引き出しの奧に本物の日本刀を発見した。鞘から抜いてみると、刃渡り50センチぐらいの小刀で、所々錆びていたがずっしりと重くて振り回すと我が身のほうが振り回された。戦争中政府の命令で、貴金属ばかりでなくつまらぬ鉄製品までもが「供出」という名で強制的に回収させられたのだが、母はなんらかの理由で隠しておいたものに違いなかった。 私は毎日座敷でその刀を振り回しているうち、なんとかその重さに耐えられるようになっていった。そしていつの間にか、それをタンスの中から秘密裡に取り出したことを忘れて、錆を落とすため庭に持ち出して砥石で研ぐことにした。少しずつ錆が取れて光沢が増すにつれて刀はしだいに黒光りしていき、子供心にも魅入られるようなって、振り回すよりうっとりと見とれている時が多くなった。 「刀、触ったらあかんで、もうあらへんさかいな」と母が言ったので、私は強く抗議したが聞き入れられなかった。それ以後どこを探しても見つからなかった。他方、母の方でも変わった動きがあった。それまで着物を出し入れする以外に開けたことのないタンスの前で、座っていることが多くなり、主として戸袋や小引き出しの中もしばしば開け閉めするようになった。 今で云えばA4版かB5版の大きさの分厚い洋紙に色鮮やかに印刷された証書のようなものをより分けたり、数えたりしていた母の姿が目に浮かぶのである。それはお金の札でもなく表彰状でもなかったが、大事なものであることは母のしぐさを見ていて分かった。株券だと分かったのはずっと後年になってからであった。夫を亡くして以来商売のことばかり考えていたが、私が日本刀を取り出したことがきっかけでタンスにしまっていた株券のことを思い出し、証券市場の再開時期について思いをめぐらしたのだと思う。戦後日本経済史
April 2, 2010
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私の父はえらく真面目な人柄だったらしい、と言うのも、私がまだもの心の付いていないたった3歳の時亡くなっていたから、母から聞いたり推測したりするほかないからだ。男は早死にすべきだ、と私は常々思っていた。若死にした男は、老いぼれて見る影もなくなってから死ぬ男よりも、妻にとっては好ましい面影がいつまでも残り、それも年ふる毎にだんだん美化されるようである。 父は太平洋戦争勃発の数年前に召集されて、京都市内の伏見連隊で訓練を受けていたが、インフルエンザにかかった親戚の見舞いに行って病気をうつされて帰ったらしい。高熱なのに、連隊診療所で療養することを拒絶して、雨の中の演習に参加したということである。「くそまじめ」の典型であろう。てきめん肺炎になってしまい、陸軍病院へ入院するか自宅で療養するか選択することになって、父は自宅療養を選んだ。これが失敗だった。田舎医者に診てもらっているうち病気がおもくなって亡くなったうえに、陸軍病院で死ねば戦病死になって母は恩給がもらえたのに、自宅で死んだのでは何ももらえなかったのである。そのため母はとたんの苦労をなめさせられることになった。 「母は強し」という言葉があるが、私の母は特に強かった。そして時代も母に味方した。ちょうどその頃から日本の統制経済政策は強化され、酒、塩、味噌・醤油、食用油など家業で扱っている品物がほとんど統制品になっていて、配給でしか売買できなくなっていた。いつの時代でも、こういう時に統制品を扱う者があくどく儲けるのである。 自分の亡き母親の侵した法律的・道徳的違反を今更明るみに出すことは、息子の私にも耐えられないので、細かいことは省かせていただいて、一般的なことだけを述べることにする。 統制経済では配給する物資は住民全部に行き渡らなければならない。日本人のようなおとなしい民族には暴動などはめったにないが、それでも不満が極限に高まれば、かつては一揆とか米騒動なんかの例もある。だからどんな配給品も多い目に小売業者に運び込まれるのである。なにしろ物資不足の時代だから、ちょっとでも余ったものはすべて高値で売れた。さらに、個人個人に配給する数量を目に見えない程度に減らせば、数百人もいればかなりの余得が出た。それも高値で売れたのであった。 母はまた有力者に取り入ってかなり大量の統制品をどこかで入手し、さやを取ってどこかへ転売したこともあった。そのつど大儲けをしたはずである。当時は経済警察とかいう統制経済体制下特有の制度があって、捕まった時もあったはずだが、「子供をかかえた未亡人を殺すつもりか。演習で病気になった主人が自宅で死んで、お国から軍人恩給も貰ってないのやで」と役人に食ってかかったり、有力者に泣きついたりして、そのたびに釈放されていそいそと帰宅してきた。その脅しと泣き落としの技術は、子供心にも舌を巻くほど上手だった。 母はまた今で云う「教育ママ」だった。校長以下教員達全員に贈答攻勢をかけ、私の成績が上がるように画策したのである。兄はもともと成績が抜群で、放っておいてもいつも順位一番だったが、私にはげたをはかさねばなかなか一番になれなかったからである。 戦時中のある時期から、昼食の弁当に白米は禁止された。農村だったから、たとえ供出米を出したとしても余分の米はどこの農家にもあったはずだが、一人残らず教員の言いつけに従って麦飯の弁当を持ってきていた。しかし私の母だけは、白米の弁当の上に、別の小鍋で炊いた麦飯をぱらぱらと振りかけて麦飯弁当に見せかけて持って行かせた。当分それでばれなかったが、私の弁当を盗んで食べた学童たちの口からもれて、それが教員の耳に入った。実際弁当を持ってこられない学童が数多くいて、私の弁当はたびたび盗まれ、昼に食べようとふたを開けると空になっていたが私は届け出たことがなかったのである。 ある昼休み、教室で弁当を使っていると、担任の男の教員が私の箸を取って弁当箱の中を掘り起こした。当然中から白米のごはんが出てきた。その教員は即座に弁当の中身を窓から捨て、私の頬を思い切り叩いた。私は目から火が出るほど痛くて泣き叫び、走って家に帰った。母は私から事情を聞き取るやいなや、学校へ走って行った。後で聞いた話だが、母は校長室に入るなり、担任の教員を呼び出させ、おまえ呼ばわりしながら、「わが子に白米を食べさせて何が悪いのか。これはわしの甲斐性でやってるんじゃ。アメリカみたいなけっこうな国とあほな戦争をして、小っちゃな子供にさえひもじい思いをさせるような国にしたのは、天皇陛下以下おまえら大人の責任とちがうのか。子供がかわいそうやと思わんのか、子供に土下座して謝れ」などとどなりわめいたらしい。「あほな戦争」とか「天皇の責任」なんて言葉が母の口から無造作に出てきたのには、そこに居合わせた校長・教頭や教員がびっくり仰天してしまって、みんな校長室から逃げ出したらしかった。 最近は「弁当箱」という言葉は「ランチボックス」に代わっている。工房アイザワ UTILE角長ランチボックス スリム用パッキン 翌日から私は堂々と白米の弁当を持参し、毎日のように交代で欠食者に半分たべさせたから、大いに面目を施したというわけである。担任教員は毎日昼食時、机間巡視をして指導達の弁当の中味を見て回ったが、私のだけは見て見ぬふりをした。それ以来生涯私は、先生というものは強い者にはまかれ、弱い者だけをいじめるものなんだという先入観を振り払うことができなかった。
March 31, 2010
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私の母は若い頃(未婚の時)、奈良の片田舎の女性にしては珍しく、いわゆる株屋(証券会社のこと)に勤めていたらしい。母は亡くなっているので今更確かめようがないが、確か「岡三証券」で当時「鈴木証券」と云っていたように思う。 私が小学校(当時は国民学校と称した)4年の春頃から、つまり先の大戦で日本が無条件降伏した数ヶ月前、「大阪大空襲」と呼ばれているアメリカ空軍による大阪市内への無差別爆撃が激しくなった。奈良盆地の上空は今もそうだが、当時も航空路だったらしい。毎日のように「B29」(ボーイング航空会社製29番型の意味)という爆撃機が上空を飛んで、爆撃のために大阪市へ向かっていったが、帰りも同じ経路を取っていて、時々落とし忘れたのか余ったのか何発か爆弾を小さな集落に投下したり、護衛の戦闘機が暇つぶしのためであろう、ちょっと目立った建物めがけて機銃掃射したりして住民を驚かせた。2、3回日の丸をつけた小さな戦闘機が迎撃したことがあったが、みなB29の銃座からの返り討ちにあって火を噴きながら三輪山の方へ墜落して見上げている住民を落胆させた。村人みんな期待していた高射砲による反撃は一発も無かった。 ある日の爆撃はえらく激しかったのであろう、夜になってから西の空が真っ赤になっていて、家を出てそれを眺めた私も子供心に「にっくきアメリカの野郎」と歯がみする思いだった。母が「社長さん、だいじょうぶだろうか」、とおろおろしていたのを覚えている。勤めていた証券会社を辞めてから10年以上も経っていたのに、母は鈴木社長の恩義を忘れていなかったのである。 その翌日か何日か経ってからかは分からないが、電車が通じるようになってからであろうが、母は弟の私だけを連れて田舎の駅から近鉄電車に乗って大阪市天王寺区にある上本町駅へ行った。 上本町駅で下りて西へ上がると上町台地という丘がある。そこから見えた光景は今でも目に浮かぶ。残骸のようなビルがいくつか見えるだけで、あとはすべてが焼け跡でそれがはるかかなたの海まで続いていたのである。子供だったせいか、母親がいたせいか、恐怖というものは感じなかったが、たいそうな田舎に来たように感じたのを覚えている。「社長」のおうちは台地を少し下りた大通りに面していて、高い石垣の上にあるようだったが、子供の私には見えなかった。母は私に、「ここで待ってて。動いたらあかんで」と言い残して、石の階段を上って行ったが、5分と経たないうちに戻ってきて、「やっぱり焼け残ってなかった」と涙を流しながら云った。証券会社のことは、このようにして母と空襲直後の大阪へ、社長さんのお見舞に行ったことから始まるから、昨日や今日店頭やパソコンで株取引を始めた人たちよりずっと古いことが分かってもらえるだろう。 なぜか「東京大空襲」の方が有名で、大阪大空襲の本がほとんどないので残念だが。東京大空襲
March 29, 2010
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私も2005年{平成17年)前後の大相場の時、自分の資産にしては大損をして何日も眠れず、うつ状態になったことがある。家庭医はえらく心配してくれて、うつ病の薬をくれてちょっとずつ飲んだが、あの薬は私にはあまり効き過ぎて死にそうになったので1週間ほどでやめて当分ぼんやり日々を送っていた。今度は家庭医に頼んで紹介状を書いてもらい、精神科医のところで診てもらったら、「うつ」ではなくて「躁」状態だという返答が家庭医のところへ返ってきたらしい。私がうつ状態を隠蔽して、無理に明るくふるまったので、精神科医もだまされたらしく私は喜ぶより却って悲しくなったことを覚えている。 「時は慰む」とは云うものの、あれから5年前後たっても、いまだに心の傷は時々うずいてくる。しかし私はもうじき75歳という人生の残り短い年齢のことを思えば、損したことなどきれいさっぱり忘れて新しい、楽しいことに挑んでいかねばと自分を奮い立たせるようにしているが、心というものはそう単純なものではない。 一昨年末から去年にかけて、損をされた投資家もたくさんおられると思うので、自分の失敗経験から学んだ株取引の教訓とか、心の持ち方、さらには生き方に至るまで、命の限り伝えていきたいと思っている次第です。乞うご期待。 株取引をやったことのない方は待ってください。慌てないで、まず勉強しましょう。これはちょっと難しすぎるかもしれませんが、分かるところだけでも読むのがいいでしょう。日経新聞の数字がわかる本
March 20, 2010
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