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【執筆ノート】
『正宗敦夫文集1 ふぐらにこもりて』
三田評論 ONLINE より 転載
小川 剛生(編注) (おがわ たけお)
慶應義塾大学文学部教授
正宗敦夫(まさむねあつお)(1881~1958)は岡山県出身の歌人・国文学者。中央文壇で活躍した長兄白鳥(はくちょう)と対照的に、半農半漁の小村で静かな生涯を送った。晩年乞われて大学の教壇に立つが、姿は村夫子(そんぷうし)そのものであったという。
しかし、打ち立てた学績は実に大きい。万葉集を表記でも訓でも検索可能にした『万葉集総索引』の編纂、広く読書人に向けた「日本古典全集」266冊の刊行、そして貴重な資料を散逸から防いだ正宗文庫(まさむねぶんこ)の設立。これらの偉業がほぼ独力で、かつ交通不便な地方で成し遂げられたのは驚かされる。
とはいえ、敦夫は功を誇らない。「私の足跡は後から来る人の道しるべに成ればそれでよい」と語り、生前に1冊の論文集も出さなかった。ただ、正宗文庫は長く地域の文化の光源となることを願った。遺族が守ってきた文庫調査に助力した者として、遅きに失したが、敦夫の遺稿をまとめて世に出すことにしたのである(「ふぐら」とは文庫のこと)。
もちろん、その文章は埋もれさせるには惜しい価値がある。内容は和漢の古典籍につき創見に満ちたもの、文体は素朴で何とも言えないユーモアと温かみがある。
敦夫には理解者もいた。森鷗外、井上通泰(みちやす)・柳田國男兄弟、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻、山田孝雄(よしお)、齋藤茂吉と、錚錚たる人物である(彼らとの交流を綴った文章も収めた)。
実は、そこに塾員も貢献していた。敦夫の講義ノートを『金葉和歌集講義(きんようわかしゅうこうぎ)』と題して刊行した斯道文庫教授の故平澤五郎(ひらさわごろう)氏がいる。『万葉集総索引』の数十万枚の語彙カードを原稿用紙に清書した川野道明(かわのみちあき)氏も文学部の学生で、与謝野寛の推薦で正宗家に住み込んだ。敦夫とは何の縁もないのに、我が事のごとく協力したのである。
正宗敦夫の仕事を、慶應義塾の人間が世に出したことは一佳話にとどまらない。このような地盤が築かれたからこそ、万葉集に限らず、その後の古典研究の裾野は広がり、高みに達したと言える。真の学問の受益者は後世にしかいない。基礎学を荒廃するに任せ、学問は金銭に余裕ある者に許されると言わんばかりの風潮は憤怒に堪えない。
『正宗敦夫文集1 ふぐらにこもりて』
小川 剛生東洋文庫(平凡社)
320頁、4,400円(税込)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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