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2024年07月19日
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テーマ: 日本の歴史(1071)
カテゴリ: 日本史
清が1911年に崩壊し、孫文が翌年、中華民国臨時政府の臨時大統領に就任しますが、早くも袁世凱に臨時大統領職を乗っ取られます。
袁世凱は帝政を目指すも失脚し、段祺瑞が新しく実権を握るなど、中華民国は早くもぐちゃぐちゃの状態でした。(というか国と呼べないバラバラの状態なので、当時から中国地域を示す’支那’と呼ばれていました。)
当然、清の版図をまとめられるわけもなく、各地域の豪族が跋扈し、戦国時代の様相を呈していました。

そんな中、 孫文の右腕として頭角を現したのが「蒋介石」でした。
彼の軍事力もあり、孫文は1921年に中華民国非常大総統に返り咲きます。
孫文は復権していく最中、ソ連の共産思想が浸透し(赤化)、1924年には孫文の国民党と連携:第一国共合作をはかります。(中国共産党は1921年に結党)
翌1925年に孫文が死去すると、蔣介石は共産党への警戒感を強めます。
それもそのはず、
1925年には農民協会員は20万人、労働組合員が45万人だったのが、
1926年にはそれぞれ、300万人、120万人。
1927年には980万人、280万人にも膨れ上がります。

支那に急速に共産主義が蔓延し、勢力が大きくなっていったからです。

そして、 1926年7月、蔣介石は支那の統一に向け、北伐を開始します。
増えてきた共産主義者が、北伐の途中で引き起こした事件が、1927年に起きた「南京事件」「漢口事件」です。
当時、南京・漢口には日本人含め外国人が居留しており、共産党の影響が入った国民党軍が略奪・凌辱の限りを尽くしました。
これを受け、蒋介石は共産主義を排除します(上海クーデター)。
しかし、翌1928年には済南で同じような「済南事件」が起こります。
もはや ​国民党軍の中に、赤化が浸透していたのです。​

日本による山東出兵は、これら漢口事件・済南事件を受けて、居留民を保護するために行ったものです。
混乱している支那の領土をかすめ取るものではなく、あくまで自国民保護のための出兵なのです。
この時、共産党員はもちろん、そうでない支那人も、日本国旗侮辱・反日ビラ・邦人店の不買運動どころか破壊や略奪などもされています。
いつの時代ですか!今でもこういうのニュースで見たりしますよね。
国は変われど、昔も今も変わらないですよね。

そして出兵をして現地で色々と交渉するも、その時の協定は守られず、相変わらずデカい声で、「日本人が先に手を出した!」「日本が虐殺をした!」と言うのです。
列強はどこも信じていませんでしたが。この辺も変わらないですよね。

笑ってしまうのが、反日暴動が起きたようですが、山東の人たちは治安が良くなるので大歓迎だったそうです。
このことが当時の支那の状況をよく表していると思います。


【北伐の中で起きた張作霖爆殺事件】
​​ 辛亥革命の後、満州地域は満州馬賊の出身:張作霖が奉天軍閥を作り、実質支配します。 ​​
1922年には、満州の東三州(奉天・吉林・黒竜江)の独立を宣言 し、中華民国とは別の国であることを示します。
1926年には北京政府の実権を握るまで勢力が拡大していきますが、1928年に蒋介石による北伐で敗北します。
そして満州に戻る最中、乗車していた列車が突如爆発して亡くなります。
張作霖爆殺事件です。

この事件は、当初、満州に権益を持っていた日本が、張作霖を傀儡政権として操っていたが、次第に言うことを聞かなくなり、挙句の果てに蒋介石に敗れたので、用済みとなり日本軍に殺害されたと云われています。
第124代昭和天皇はこれを憂い、当時の田中義一首相に事件解明を求めますが、結局有耶無耶となってしまい、内閣総辞職にまで発展しました。

​<日本軍の仕業なのか?>​
張作霖の奉天軍閥支配下では、満州鉄道平行線を作るなど、日本への妨害工作が横行していました。
つまり、第一次世界大戦中の二十一か条の要求など、まったく無視され続けてきたのです。
日清、日露で得た権益を、清が崩壊したため、清時代の約束を守ってね と多くを妥協して再度約束したにも関わらず、このような約束破りが横行していたのです。
蒋介石らの北京政府と別の政府とはいえ、前王朝の条約の履行義務があるのは、先進国としては当たり前のことでした。(この意味でも当時の支那は先進国でもなく、暗黒大陸だったといえるでしょう)
​徳川幕府時代の不平等条約改定に躍起になった日本とは大きな違いです。 ​​

この数々の約束破りが、日本軍の中の一部(特に満州に滞在していた関東軍)で不満があったことは事実でしょう。
今回、日本軍が関与しなかったにせよ、いずれ不満が爆発したと思われます。(実際、1931年に石原莞爾が満州事変を起こした理由の一つにこれがあります。)


<日本政府・日本国としての仕業か?>
ただ、日本政府としてはどうでしょうか?
前年の1927年に、田中義一首相が開催した東方会議の内容がこちらです。

ここから言えることは、 日本政府としては、満州を乗っ取るなどと考えておらず、まして張作霖の片棒を担いではいないのです。約束を守ってくれる政権と満州の安定を望んでいるだけです。
そのことが日本にとっての一番の国益なのですから。
(日本が満州国を運営するとなると、膨大なお金や労力がかかります。それは朝鮮を併合して実感していたと思います。)
日本国として、 蒋介石に負けて用済みだから捨てる というのは考えにくいです。


<共産党員の仕業か?>
張作霖爆殺事件が起きた1927年には、先程示した通り、随分と共産勢力が浸透してきていました。
(先程の南京事件、漢口事件は1927年、済南事件は1928年です)
よって、この暗殺劇にも共産党員の関与は否定できません。
実際にスターリンの指示によるソ連特務機関犯行説などもあるようです。
ただ、済南事件にみたように、国民党軍にも赤化が浸透しており、支那の混乱ぶりからすると、支那側の仕業というのも大いにあり得ると思います。
後年の支那事変は、支那側の度重なる挑発の帰結です。


【満州権益の行方 ~日支懸案3000件!~】
​事件後、満州は張作霖の息子:張学良が後を継ぎますが、1928年12月、蒋介石の国民党軍に降伏します​(​易 幟:えきし​ ​) ​​​​​ ​。
ただし、蒋介石は満州の独立を承認しており、張学良を満州の支配者として認めていましたが、赤化が満州を覆っていたのです。そして、更に排日運動が激化してくるのです。
代表的なものに
1929年の土地盗売厳禁条例(日本人に土地を売ると処刑)があり、その他60余りの禁令を出します。
しかも、過去にさかのぼって適応するという無茶苦茶ぶりです。
そして当時、朝鮮人は日本人でしたから、朝鮮人が満州で土地を買っていくと、これらの条例に触れることとなり、トラブルが頻発していました。

​それらの帰結が、日支懸案3000件とも言われる程の問題山積、そして満州事変なのです。​




そして、
●この懸案に対して、 ​日本政府が強気の対応が出来ず、満州現地の軍部(関東軍)の一部で不満が溜まったこと​
●元々 満州は清帝国発祥の地で、国民党軍はおろか、張学良政権すら歓迎されておらず独立機運があった(中華民国とは違う国だし、満州の馬賊出身の実力者もただの成り上がりにすぎません。)
満州の権益が侵され、それに対して何も有効策が打てない日本政府への不満により、現地の関東軍の一部が満州国建国に走ることになるのです。

実際に、 ​​​​満州事変後、満州の各地域で独立宣言が出されましたが、日本軍が清朝皇帝の溥儀を擁立し、満州国を建国すると、各地域の軍閥は従ったのです。​​

このため満州事変は、ただの関東軍の暴走とは言い切れないのです。
これはリットン調査団の報告でも明らかなのです。しかし、第一次世界大戦同様、ここでも日本は​​​​その後の外交で失敗をするのです。。。





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最終更新日  2024年08月14日 21時27分48秒
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