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『正法眼蔵』原文〕
この生 ショウ しりがたし。
生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。
四見すでにおなじからず、諸類の見 ケン おなじからず。
ただ志気 シイキ を専修 センジュ にして、辨道功夫すべきなり。
辨道に生死 ショウジ をみるに相似せりと参学すべし、
生死に辨道するにはあらず。
いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、
辨道をさしおかんとするは至愚 シグ なり。
生来 ショウライ たとひいくばくの年月と覚知すとも、
これはしばらく 人間の精魂 ショウコン の活計 カッケイ なり。学道の消息にあらず。
壮齢 ソウレイ 耄及 モウギュウ をかへりみることなかれ、
学道究辨 キュウベン を一志 イッシ すべし。
脇尊者に斉肩 セイケン なるべきなり。
塚間 チョケン の一堆 イッタイ の塵土 ヂンド 、あながちにをしむことなかれ、
あながちにかへりみることなかれ。
一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。
無主の形骸、いたづらに徧野 ヘンヤ せんとき、
眼睛をつくるがごとく正観 ショウカン すべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
この生は知ることができない。
(この生しりがたし。)
〔脇尊者の処胎六十年は、〕生か、生でないか。
〔脇尊者の百四十年は、〕老か、老でないか。
(生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。)
〔水を、〕人が見るのと、魚が見るのと、天人が見るのと、
餓鬼が見るのとでは全く異なり、それぞれ見方が違うのである。
(四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。)
だから、ただ誓願の志を専らにして、修行精進すべきである。
(ただ志気を専修にして、辨道功夫すべきなり。)
修行精進する中で生死を見るように学ぶべきである。
生死の中で修行精進するのではないのである。
(辨道に生死をみるに相似せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。)
今の人が、あるいは五十歳、六十歳になり、あるいは七十歳、
八十歳になって、〔もう年齢をとったからと言って、〕
修行精進をやめようとするのは愚の骨頂である。
(いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、
辨道をさしおかんとするは至愚なり。)
生まれてから、たとえどれほど多くの年月が経ったとしても、
それはただ人間の意識の営みであり、仏道を学ぶ様子ではない。
(生来たとひいくばくの年月と覚知すとも、
これはしばらく人間の精魂の活計なり。学道の消息にあらず。)
若いとか老いているとか顧みてはならない。
仏道を学び究めることを第一に志すべきである。
(壮齢耄及をかへりみることなかれ、学道究辨を一志すべし。)
脇尊者と肩を並べるほどに精進すべきである。
(脇尊者に斉肩なるべきなり。)
終には墓場の一塊の土になるこの身を、
むやみに惜しんではならない、むやみに顧みてはならない。
(塚間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。)
志を立てて自らを済度しなければ、
一体誰が汝を哀れんでくれようか。
(一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。)
主のいない亡骸が、空しく野一面に広がっているとき、
それを眼を付けるように正観すべきである。
(無主の形骸、いたづらに徧野せんとき、眼睛をつくるがごとく正観すべし。
合掌
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