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ひこ・田中「お引っ越し」(福武書店) 先日、「違国日記」という映画を見ながら、登場人物の高校生が日記を書くというシーンにひっかかってしまって、何となく思い出したのが、新しいところでは乗代雄介という作家の「最高の任務」(講談社)とかの、阿佐美景子シリーズなのですが、そういえば、と思い出したのがこの作品でした。 で、絵本とかの本棚から引っ張り出してきて、244ページの作品を、なんと、半日で読み終えるという快挙達成でした。面白いのです。この本, ひこ・田中「お引っ越し」(福武書店・講談社文庫)です。 1990年8月初版の作品で、一応、児童文学ということになっていますが、かなり評判になったらしく相米慎二が、1993年に映画化しています。キネ旬のベスト2とかで評判だったようですが、ストーリーは原作を離れてたようです。 原作は、小学校5年生の三学期に両親が離婚した漆場漣子(うるしばれんこ)ちゃんが、さまざまな「お引っ越し」体験を記録し続けて、中学校1年の新学期まで書いた日記です。水曜日今日とうさんがお引っ越しをした。荷物は大きな仕事机と小さなタンスとテーブルと服、ナドナド。(P4) お父さんが出て行った、この日からの日記が、小説として描かれていますが、基本、レンコちゃんの一人称です。 この日記には、あの映画の感想で書いた「あんた誰?」 という、自問は出てきませんが、読み続けていると、あの映画で印象に残った主人公の態度を代弁するかの記述が出てきます。 今日ガッコに来るの、緊張した。とうさんがいなくなって初めてのガッコ。別にだれも知らないから、関係ないけど、私は知っているから、緊張した。 もしかしたらガッコが全然違って見えるかもしれないって思ったから。 門まで来て、 ガッカリした。 ガッコは同じだった。ホントににくたらしくなるくらい同じだった。 ガッカリして、気づいた。私は緊張してたのじゃなくて、今日からガッコが違って見えるのを期待してたのやとわかった。(P81) 映画の朝ちゃんは両親の死で、日記のレンコちゃんは離婚、一方は中学3年生で、こっちは小6、違いはありますが、それぞれ、他の人とは違う「私」がいるんです。いなければ、生き延びていくことができませんでしょ。 でも、ガッコの先生って、「私」が大事とか、口では言うのですが、一緒にしちゃうんです。センセは私の頭に手を置いて、ゆすった。ワタシ。ムチウチニナルヨ。「先生は、ウルシバさん信じてるの。元気出してね」センセが、相原加奈子みたいな顔で笑った。私、センセがキョーシツを出るのを待ってた。でも。センセが私を追い出した。「お手伝いがあるでしょ」って。上ばきをぬいで、バッシュをはいて、少しムカムカしました。どうして、女の子は、お家の手伝いがカルイカルイなのやろうか。ミノルタッタラ、オモイオモイなのやろか。センセの言ったことだから私はどうでもいいけど。 でも、センセが話してる時、自分がマンガの主人公みたく思えて、ホントに涙が出そうやった。泣いたらもっと盛りあがったかなって、あとで少しザンネンだったの。(P118) 「日記」を書くっていうことが、どういう意味を持つのか。「あんた誰?」 という問いが、「私」を2人称化したうえで、3人称として捉えて「書く」という軽やかさ によって、がんじがらめの関係の網を飛び越える自由を手に入れることができるんじゃないでしょうか。 映画では、朝ちゃんが、ノートにイラストを描いていましたが、丸と線だけの自画像こそが、「あんた誰?」と自問していた朝ちゃん自身であり、軽々と飛び越えていく「私」の発見だったんじゃないか、まあ、そんなことを「お引っ越し」を読みながら考えたわけです。 「違国日記」という映画を見てない人にはもちろんですが、見た人にも、まあ、わけのわらないことを書いていますね(笑)。ただ、この「お引っ越し」ですが、なかなかな作品だと思いますよ。「今頃なに読んでるの?私の本よ!映画も見たわよ。」 チッチキ夫人も、ああ、これは相米慎二の、映画の「お引っ越し」の方ですが、小説も映画もおススメのようですよ。 まあ、わけわかんないことを、あれこれってますね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.07.06
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五味太郎「そういうことなんだ。」(青春出版社) 市民図書館の棚を眺めながらウロウロすることが時々あります。で、著者の名前に惹かれて手に取ったのがこの本です。 五味太郎「そういうことなんだ。」(青春出版社) 1997年の新刊らしいですから、まあ、古い絵本です。50問だか、51問だかの問いに五味太郎さんが絵と言葉でお答えになっている仕組みです。 ちょっと、まあ、経験者としては見逃せないのがこのページ。結婚(けっこん)するということ 二人の固(かた)い約束(やくそく)というやつにいまひとつ確信(かくしん)がもてないので、ここはひとつ法的(ほうてき)な確実(かくじつ)さをもってその確信を、確(かく)たるものにしようではないか、ということです。で、その実際の内容については(註)法律といえどもほとんど規定(きてい)していませんので、あとは強いほうがいかにも内なる法律という気合(きあい)でとりしきることになります。五分五分(ごぶごぶ)の場合(ばあい)でも、いちおうルールは決めておこうね、なんてことになり、いずれにしても「法の下(もと)」にあります。(註)靴下はどちらが洗うか、とか○○の場合どちらがうえになるかなどといったこと。(○○は引用者伏字) まあ、こんな感じです。ジージは喜びそうな絵本ですが、まあ、難しそうな漢字には全部ルビがふってはあるのですが、オチビさんたちに「はいどうぞ!」 というべきどうか、ちょっと悩みます(笑)。 ついでなので、もう一つ。こちらは、人間性の根源を見据えた話。嘘をつくということ人間(にんげん)、真実(しんじつ)を述(の)べることが普通(ふつう)だ、と思っている頭(あたま)の悪(わる)さは問題(もんだい)です。君(きみ)は世界一(せかいいち)美(うつく)しい、わけねーだろ。君を一生(いっしょう)愛(あい)し続(つづ)ける、保証(ほしょう)はねーだろ。妻(つま)と別(わか)れて君と暮(く)らす、かどーかわかるわけねーだろ。ちょっと考(かんが)える頭があれば、すぐにわかることです。で、そんなもんだと気楽(きらく)にやっていると、たまにとんでもない真実というのに襲(おそ)われてビックリし、うろたえることがあるわけです。 ウーン、たまに襲いかかってくる真実って、どういうのをいうのでしょうかね。まあ、それにしても、オチビさんたちへの「はい、どうぞ!」 は、やっぱりムリですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.07.04
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ロバート・ウェストール「水深五尋」(金原瑞人・野沢佳織訳 宮崎駿絵・岩波書店) 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)という、週刊文春に連載していた「私の読書日記」を2003年から2019年までの16年間分集めた書評・ブックレビュー集があります。700ページほどの分厚さで、誰がこんな本を読むのか!? と訝しく思われるような見かけの本ですが、まあ、物好きなゴジラ老人は、最初、図書館で借りていたのですが、結局、買い込んでパラパラやっています。ハイ、ヒマなんですね(笑)。 で、その中で見つけたのが、岩波書店の児童書、まあ、児童書といっても、主人公たちも16歳だし、所謂、ヤング・アダルト、高校生くらい向けかなというのが読み終えた印象ですが、ロバート・ウェストールという、イギリスの作家の「水深五尋」でした。 第二次大戦末期のイギリスの北部の港町を舞台にしたお話です。ナチスのUボートに襲われる貨物船とか、主人公たちが住んでいる港町にもぐりこんだスパイをめぐって、男女、それぞれ二人づつの4人の中学生、16歳が活躍する戦争ものの冒険小説です。で、題名がちょっと意味わかんないという感じなのですが、実は、本文ではお話の終わりころになって出てきて、こんな訳になっている「詩」の一節です。水深五尋の海底にそなたの父は横たわる白い骨は珊瑚になったふたつの目は真珠になった体はすべてそのままで、海に姿を変えられて、美しく珍しいものになる ゴジラ老人には、読んでいて、この詩が出てきても、やっぱり、なんだこれは? だったのですが、シェイクスピアのテンペストという戯曲にあるらしい詩の一節だということが、主人公によって語られます。で、イギリスの中学生は、これを、学校で暗唱させられるらしいのですね。だから、誰でも、みんな知っているらしいのです。だから、イギリスでこの作品を手に取るであろう中学生たちには、なんだこれは?じゃないのですね(笑)。 悔しいので、ちょっと調べました。で、松岡和子の翻訳のシェイクスピア「テンペスト」(ちくま文庫)ではエリアルという妖精が歌う歌、その詩句で、こんな訳です。水底深く父は眠る。その骨は今は珊瑚両の目は今は真珠その身はどこも消え果てず海の力に変えられて今は貴い宝物。(「テンペスト」ちくま文庫P43~P44) まあ、くらべてみて、何かがわかるという知恵もないのですが、向こうの児童文学というのは、題のつけ方からしてシャレてますね(笑) で、上記の書評ですが、池澤夏樹は、小説のあらすじをあらかた語った上(笑)で、最後にこうまとめています。 これはイギリス式の小説の書きかたのとてもよくできた例である。まず読者の共感を誘う主人公がいて、軸となるストーリーがあり、謎につぐ謎があり、ち密で具体的な生き生きとした細部があり、作者の倫理観・人間観という大きな枠がある。(P251) 絶賛ですね(笑)。で、トドメがこうです。 訳はいいし、宮崎駿の絵もいい。それ以上に、一見とっつきにくいタイトルを直訳した訳者たちの判断を高く買いたい。本屋の店頭ではそそらないかもしれないが、読み終わったら絶対に忘れない。出展がシェイクスピアだけに、短くて印象的。 ね、読まないわけにいかないでしょう(笑)。ボクは宮崎駿が、この作品にほれ込んだという話を、どこか別のところで聴いたことがあるような気がしましたが、上の表紙で分からるように、装丁も彼の絵なのですよ。 まあ、池澤の絶賛ほどの読み応えかどうかは、人によるでしょうが、子供向けだとなめてかかると、少々手間取るかもしれませんね。もちろん、読後感は悪くないですよ(笑)。
2023.12.17
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工藤直子「工藤直子全詩集」(理論社)(その1) 市民図書館の新入荷の棚で、やたらデカい顔をしてのさばっていたので手に取りました。2023年7月初版です。ふんぞり返っていたのは「工藤直子全詩集」(理論社)です。700ページを越えるブットイ本です。重いので躊躇しましたが、借りてきました。 なつかしい! それが、まあ、第一印象というか借りてきた理由です。食卓テーブルでパラパラやっていて、いろいろ思いだしました。ボクにとっては、何と言っても「てつがくのライオン」の詩人で、松本大洋というマンガ家のおかあさんです。1935年に台湾で生まれた方で、日本最初の女性コピー・ライターです。 そんなことを考えながら、最初のページに戻って、ぎょっとしました。 死黙って生きてゆきましょうよ食べてー 眠ってーそして死ぬんですどうも私はかけまわっているようだ“帰っておくれ!”とみんなが笑っているようだが恐ろしくないのでしょうか?・・・・・・・・・・・・・・・やはり黙って生きてゆきましょう 一九五〇・一・二五(P8・1950) この詩集には、私家版だったようですが、工藤直子の初期詩篇が収められているのが、全詩集の所以の一つです。絵本の語り手(?)になる以前の工藤直子です。その最初の最初の詩がこれです。25歳の工藤直子です。何にたじろいだのか、うまくいえません。しかし、この感じは他人ごとじゃないですね。「帰っておくれ!」って、本当にそういわれて、真っ暗闇の道を歩いた記憶があるような気がします。 まあ、そういう、昔の思い出はともかくとして、60年、黙らずに生きて来てどうなりましたか? というわけで、当然、最後のページですね。 85歳の工藤直子です。うまくいえませんが、最初のページから60年の歳月があって、この詩です。読んでいるボクは68歳です。なんだか、元気づけられた気持ちになったのですが、それは。ボクの年齢のせいでしょうかね。 このところ工藤さんは俳句を作っていらっしゃるようですので、もう一つ紹介しますね。 けんきち・はいく こいぬけんきちゆきふわりしっぽにっこり ぱたぱたたはいくのきもちああ ぼくの だいすきな ゆきがふわ ふわ ふってきたうれしくて しっぽが わらいたくなりぱたぱた ぱたぱた しちゃったよ(P668・2016) それから、まあ、工藤直子といえば、なんといっても「てつがくのライオン」なのですが、長くなるのでその2に続きますね。じゃあこれで、バイバイ。そのうち書きますから、その2ものぞいてね(笑)
2023.08.04
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伊藤比呂美訳・下田昌克画「今日」(福音館書店) 谷川俊太郎が詩を書いている「ハダカだから」という絵本の挿絵で気に入った下田昌克という画家を探していて、この本に行き当たりました。 普段はそういうことをあまりしないのですが、市民図書館で予約して借りてきました。その本を手にしたチッチキ夫人がいいました。「わたし、やっぱり、この本買うわ。」「ああ、伊藤比呂美やしなあ。」「うん、まあ、それもあるけど。」 伊藤比呂美訳・下田昌克画「今日」(福音館書店)です。全部で55ページ、新書版の小さな詩集・絵本です。 下田昌克の絵をお見せしたくて、そのままにした腰巻のせいで見えませんが、淡い水色の布装の表紙に「Today」と少し大きめの題と詩の全部が金色で印字されています。 TodayToday I left. some dishes dirty,The bed got made about two-thirty.The nappies soaked a little longer,The odour got a little stronger.The crumbs I spilt the day beforeWere staring at me from the floor.The art streaks on those window panesWill still be there next time it rains.“For shame,oh lazy one,” you say,And "just what did you do today?"I nursed a baby while she slept,I held a toddler while he wept.I played a game of hide'n'seek,I squeezed a toy so it would squeak.I pushed a swing,I sang a song,I taught a child what's right and wrong.What did I do this whole day though?Not much that shows,I guess it's true.Unless you think that what I've doneMight be important to someoneWith bright blue eyes-soft blond hair.If that is true,I've done my share. ページを開くと ニュージーランドの子育て支援施設に伝わる詩より と記されています。壁に貼ってあって、誰の詩だかわからないらしいのですが、それを伊藤比呂美さんが、10分ほどで、さらさらと訳してネットで公開すると評判になったので、本にしたそうです。 ボクは子育てお任せ亭主で、エラそうなことは言えないのですがが、「わたしはちゃんとやったわけだ。」 という最後の行の日本語訳まで読んで、涙が出ました。 7ページ、最初の見開きの右のページから、日本語に翻訳された詩が始まります。 今日、 で、その次のページがこれです。わたしはお皿を洗わなかった 右側に下田昌克の挿絵があります。 訳者の伊藤比呂美さんは「おなか ほっぺ おしり」(中公文庫)の詩人です。ぼくたちと同世代で、チッチキ夫人のお気に入りです。その伊藤比呂美さんが「訳者あとがき」でこんなことをおっしゃっています。 むかし、わたしが子育てをはじめた頃に、あんまり性格がきまじめの几帳面だったものですから、考えつめすぎてぜったいつまづくだろうと思って作り出した呪文があります。「ずぼら、がさつ、ぐうたら」というのです。 すぼら、がさつ、ぐうたら ずぼら、がさつ、ぐうたら口に出して唱えておりましたら、あんなにきまじめで几帳面だったわたしが、ほんとに、ずぼらで、がさつで、ぐうたらな女になってしまいまして、効き目におどろいております。(P51) ずぼらでがさつでぐうたらでいいんだよ! 教育パパかもしれないのあなた、そんなふうに、あなたの隣で赤ちゃんにおっぱいをあげている女性に言えますか?この詩集・絵本をお読みになれば、あなたがその女性にとってどんな存在なのかお気づきになるような気がしますよ。69歳になって、4人の子供たちがみんな出て行ってしまった家で気づいても、まあ、もう遅いのです。 巻末には、同じく伊藤さんの訳された「虹の橋」という詩が添えられています。そのうち、載せたいと思います。
2023.07.23
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神沢利子作・G・D・パヴリーシン絵「鹿よ おれの兄弟よ」(福音館書店) 4人のゆかいな仲間と暮らしていたのが、もう、20年以上昔のことになりました。「ジージの絵本」で案内する絵本も、古い思い出の絵本ばかりです。何か、別の本を読んでいて、ふと思い出して、ああ、あの絵本! まあ、そんな思いつきです。 今日は神沢利子さんの名作「鹿よ おれの兄弟よ」(福音館書店)です。極致を冒険して知る角幡唯介という人の「裸の大地・第1部・第2部」(集英社)というノンフィクション、冒険談を読んでいて思い出しました。 角幡さんの本はグリーンランドでの話ですが、こちらはシベリアが舞台のお話で、直接の関係はありません。角幡さんが犬橇の犬たちのことや、狩りで出合うアザラシやオオカミのことを書いていらっしゃるのを読みながらフト!浮かびました(笑) 絵本は、鹿を狩ってして暮らしている、シベリアの青年のお話です。ページを繰ると4ページ目にこんな絵があります。 で、こんな詩が綴られています。鹿よ おれの 兄弟よ うつくしい枝角を もつ 兄弟よおまえに あうために おれは 川を のぼってゆく前方に そびえたつ シホテ・アリニ山脈の あいだから川は ながれ ながれ タイガを ながれくる小舟を こぎ おれは 川を のぼるプサル プサル プサル 水面に はねる ちいさな魚プツィルド プツィルド おおきな魚が はねる 川をさかのぼる青年の前に広がる世界を描いた詩といえばいいのでしょうか、人間が生きることを美しく歌った詩で、物語はシベリアの自然を描いていきます。裏表紙は川を下る青年のこんな絵です。 2004年ですから、20年ほど前に出た絵本です。家のどこかで見た気がしたので探しましたが見つかりませんでした。しようがないので、市民図書館でお借りしました。絵を描いているのはばパヴリーシンというロシアの画家です。作者の神沢利子さんは1924年のお生まれで、今年100歳です。ご健在であることを祈りたくなる絵本です。二人の紹介を貼っておきます。神沢利子[カンザワトシコ] 1924年1月29日、福岡県に生まれる。北海道、樺太(サハリン)で幼少期を過ごす。文化学院文学部を卒業。詩、童謡、童話の創作に長年活躍し、巌谷小波文芸賞、路傍の石文学賞、モービル児童文化賞、日本児童文学者協会賞、産経児童出版文化賞大賞、日本童謡賞など、数々の賞を受賞している。東京都在住パヴリーシン,G.D.1938年8月27日旧ソ連のハバロフスク市に生まれる。極東美術専門学校を経て、ウラジヴォストーク総合大学歴史学部で学ぶ。「ロシア人民美術家」「ハバロフスク市名誉市民」の称号をもつ。ソ連国家賞、民族友好勲章、レーニン賞、ライプツィヒ図書博覧会金賞、世界絵本原画展(BIB)金のリンゴ賞など、国内外で数々の賞を受賞している。ハバロフスク市在住
2023.06.19
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オスカー・ブルニフィエ・西宮かおり訳・クレマン・ドゥヴォ―・絵「よいこととわるいことって、なに?」(朝日出版社) 子ども向けの哲学書(?)らしいです。哲学書と呼ばれる本というのは、まあ、わけがわからんという感想に終着するのが常なのですが、絵本で「てつがく」を名乗るて評判になったのは、工藤直子さんの「てつがくのライオン」ですね。ボクが知っているのは佐野洋子さんの絵でしたが、長新太さんのバージョンもあるようです。 「てつがく」するには、どんな風な顔つきや、座り方でないといけないかという、ある意味、とても難しい「てつがく」だったと思うのですが、子どもたちにはとても喜ばれた絵本でしたね。 それから、子どもと哲学といえば、今年(2023年)の春先、元町映画館でやっていた「ぼくたちの哲学教室」というアイルランドのドキュメンタリーに、とてもカンドーしますた。考えこむ子供の表情を撮っているのがすばらしかったですね。 ヨーロッパにはこういう哲学教育の伝統があるんじゃないかと、その時、考えましたが、ちょうど、市民図書館の棚でこの絵本、「よいこととわるいことって、なに?」を見つけていたこともあったからですね。朝日出版社が「こども哲学」というシリーズで出している1冊です。 「問い」に対して「答え」がないところがいいですね。「正直はいいことか?」 という「問い」に「ううん、だって、本当のことをいったらけんかになることだってあるでしょ」 いかがでしょうか、この答え? 真面目な話、普通に社会人をなさっている立派な大人の方たちって、「正直」が「いいこと」か?「わるいこと」か? お考えになったことがおありでしょうか? この絵本は、多分、一人で本を読むようになった小学生くらいが対象だと思うのですが、寝る前にオチビさんに読んであげることになっている、お母さんとか、お父さんとか、声に出して読みながら、しっかり悩んでほしい気がしますね。ボクは69歳ですが、ようやくわかったような気がします。答えは、永遠にないのかもしれないのです(笑)。 こっちのページは、もう、のけぞるというか、うれしくて唸りましたね。「おなかがへったらどろぼうしてもいいとおもう?」 高校の国語の教科書に、芥川龍之介の「羅生門」という小説教材があります。高校の国語の先生になりたい大学生に授業をしてもらうことがあって、主人公の下人の行動について、まあ、彼は「腹が減ったから泥棒になる」わけですからね、訊きました。「下人の行動をどう思うの」「悪です。」「どうして?」「法律にふれるからです。」「それ、授業でいうの?」 さて、この絵本では、お腹が減った場合の泥棒について、どう「てつがく」するのでしょう。少なくとも、法にふれるから悪だと断定することはないでしょうね。 著者のオスカー・ブルニフィエという人はフランスあたりの哲学博士のようです。訳者の西宮かおりさんは、フランスあたりの現代哲学を翻訳なさっている方ですね。絵はクレマン・ドゥヴォ―という人ですが、上の写真をご覧になってとお分かりでしょうが、これまた、フランスあたりのマンガのイメージです。 学校の先生とかを志望する人は、子どもにあれこれキマリを押し付ける「センセーはね」という、わけのわからない自称口調を練習する前に、子どもに帰って、「なんだかよくわかんない?!」 ことについて、くよ、くよ、イヤ、あれ、これ、考える練習をしましょうね(笑)。そういう時にはこの「こども哲学」シリーズは絶好の教科書になると思いますよ(笑)。
2023.05.26
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トーン・テレヘン「おじいさんに聞いた話」(訳:長山さき・新潮クレストブック) 市民図書館の新刊の棚にあったのですが、新潮クレストブックのシリーズで出版されたのは2017年のようです。著者のトーン・テレヘン(Toon Tellegen)は作家で、詩人で、お医者さんのようです。で、この名前は、どこかで聞いたことがある気がしましたが、読むのは初めてです。手にとってページを開いてみると、1941年生まれで、オランダの人のようです。本業はお医者さんらしいですが、動物を主人公にしたお話や絵本を子供たちに書いている人だったと思いだしました。 もっとも、この本は字ばかりです。もともとの題は「パブロフスクとオーストフォールネ行きの列車」というらしいのですが、日本での出版にあたって「おじいさんに聞いた話」としたようです。祖父と母とぼく、三人で列車に乗っている。世界が揺れ、金と赤の線の入った黒い制服の車掌が姿を現す。「どちらまで?」と車掌が訊ねる。「パブロフスクまで」と祖父が「オーストフォールネまで」とぼくが答える。母は黙っている。「三人いっしょです。」とぼくたちは言って、切符を見せる。車掌は制帽をトントンと叩き切符を切って言う。「定刻に着くかもしれないし、少し遅れるかもしれません」 ページを開くと、最初のページに、こんなふうに始まる「パブロフスクとオーストフォールネ行きの列車」という長い詩が載っていました。 調べてみると、題名になっているハバロフスクはロシアの、オーストフォールネはオランダの、それぞれ地名のようです。祖父と母とぼくが、三人一緒に二つの目的地に向かう列車に乗っているシーンから詩は始まりますが、どこに着くのでしょうね。 詩のあとには、「おじいさんに聞いた話」が40篇ほどのっています。お家にオジーちゃんがいらっしゃって、うだうだ話 をお孫さんが聞いて書きつけていると小説集になるなんて言うのは、なんかうらやましい限りですが、よく考えてみると、ぼく自身が立派にオジーちゃんなわけで、お孫さんであるところの、チビラくんたちの誰かに話を聞かれて話すことなんてあるかなと思うと、実に心もとないわけで、ひょっとして、そんな日もあるかもと、ちょっと、夢見る心地になって、まあ、その時の参考にとかなんとか考えて読みはじめました。 で、どんな、うだうだ話かというと、要するに、なんだか行く先のあやふやな列車の中のおはなしのような、そうでないような、これがなかなか手が込んでいて、一筋縄ではとても「ご案内」出来そうもありません。そのうち、何とかしたとは思いますが(笑) 今回は追記として、最初の詩を全部載せておきます。なかなか意味深なのですが、面白ければ、本作の方へどうぞ(笑)。追記2023・01.18パブロフスクとオーストフォールネ行きの列車祖父と母とぼく、三人で列車に乗っている。世界が揺れ、金と赤の線の入った黒い制服の車掌が姿を現す。「どちらまで?」と車掌が訊ねる。「パブロフスクまで」と祖父が「オーストフォールネ迄」とぼくが答える。母は黙っている。「三人いっしょです。」とぼくたちは言って、切符を見せる。車掌は制帽をトントンと叩き切符を切って言う。「定刻に着くかもしれないし、少し遅れるかもしれません」祖父はパイをもってきていた。スイカとクワスも。ヒマワリの種が祖父のポケットから落ちる。ぼくはチーズとチョコレートチップのサンドイッチ、オレンジジュース、クッキー、グミ、をもってきていた。母はなにももってきていなかった。おなかもすかないし、のども渇かないのだそうだ。祖父はイヴァン・クルイロフの「寓話」からクマとカラスの話をしてくれる。ぼくはハン・G・フークストラのしっぽのないネコについての詩を朗読する。窓の外を見ている母が聴いているのか、ぼくにはわからなかった。地平線が夕日に染まっている。母はぼくたち―自分の父親と息子を混同しているのかもしれない。祖父は復活祭の夜と大火事の話をする。ぼくはブリーレの仮装行列と四月一日の解放記念日、塁壁の話をする。祖父はロシアの祭りマーステニツァ、ネヴァ河の氷の道、街のにぎわいについて。ぼくはトゥルフカーデ通りの移動遊園地とロッテルダムの巨人について。ぼくは座席に立って「こんなに大きいんだよ」と手で示す。祖父はそれよりもっと大きな巨人を見たことがあったしもっと小さな人も見たことがあった。祖父のカバンのなかには飲み物のビンが三、四本はいっている。飲み物は水のように見えた。グラスもいくつかもってきており、ぼくに注いでくれた。ぼくにははじめての味だ。祖父は皇帝の暗殺について聞いたことがあった。日曜日の公園で撃ち殺されたのだ。ぼくはクリストファー・コロンブスと白雪姫、皇帝ネロを観たことがあった。ロッテルダムの映画館で。祖父はラドガ湖を蒸気船で渡って修道院に行った。ぼくはカヌーで港が終わるところまで行った。祖父がホームに立つチェーホフを見つける。曲がった背、メガネ、ハンカチで口をふさぐ姿―あれはアントン・パーヴロヴィッチにちがいない!ぼくには旅行カバンを手にしたヨープ・ストッフェレンに見える。アヤックスとナショナルチームのミッドフィルダーだ。母がぼくたち二人を見つめる。まるでなにかを予感しているか、じっと考えているようなまなざしで。どう説明すればいいのだろう―「ペスブリダニスタだな」「持参金なしの花嫁」母は顔を赤らめる。ぼくもだ。愛おしくて、母の頬にキスしたくなるが、ぼくはしない。「もうとっくに着いているはずだ!」突然、祖父が大きな声で言った。乗ってから何時間も経っていた。奇妙な名前の奇妙な村をいくつも通過した。「車掌さん!この列車はどこに向かってるんですか?」いったいなにが起こっているのか?兵士たちと暴走する馬たちが見える。遠くで大砲のヒューッ、ドーンという音がする。カラスがあたり一面を埋めつくしている。何千羽ものカラスがカーカー鳴き、羽ばたき死んでいる。車掌が片目から血を流して車両の連結部で倒れている。まだ息をしていると思ったらつぎの瞬間には息絶えていた。祖父とぼくは車掌を見つけ、また座席にもどる。ため息をついて祖父は髭をかきむしる。ぼくはむせび泣き、爪をかむ。日が暮れかけていた。「大変なことになるぞ。」と祖父が言う。「わたしが言ったとおりだ!もう二度と元にはもどらん。もうどこにもたどり着かんのだ」母がかすかに首をふり、髪の毛を後ろに撫でつける。「明日着くわよ」と母は言った。「明日の朝早く」祖父とぼくはうなずく。ぼくたちは母の言うことだけを信じ、ほかの考えを押しのける。月がのぼる。大地のざわめきは静まり、霧におおわれてゆく。農民は薄暗がりのなか、シャベルにもたれるか疲れきって柵にもたれるかしている。母がとても小さな声で子守唄を歌う。「レールモントフのだね」と祖父が言う。「ぼくのだよ」ぼくは言った。「これはぼくのうたなんだ」「戦に備えるなら、母のことを思え・・・・・」母はぼくの手を撫で足に毛布をかける。そんなふうにぼくたちは夜汽車に乗っている―祖父、母、そしてぼくは、小声で話をする。ほとんど知らないことについて、恐れるべきこととけっして恐れるべきではないことについて。これからのこと、昔のことと古い本の匂い、夏のことと遠くのこと、やわらかなカバノキとゴツゴツしたカバノキのちがいについて、波の打ち寄せる音と自分たちのまわりの土地について、ぼくたちは話す。車輪の音しか聞こえなくなるまでパブロフスクトオーストフォールネ行の列車の車輪。 ねっ、長いでしょ。追記2024・05・18 詩のあとには「おじいさんに聞いた話」が続きますが、その、さわりを載せてみます。 散歩 祖父は散歩が好きだった。高齢になっても毎日曜、雪でも雨でも休むことなく散歩をした。まだ歩けるようになったばかりのころから、子守の女性に手をひかれてサンクトペテルブルクの公園や森林公園を散策したそうだ。 一八八一年のある日曜日の朝、散歩中に爆弾の音が聞え、人びとが走って逃げるのを目にした。馬車は飛ぶように祖父の目の前を駆け抜けた。祖父がいたところから百メートルと離れていない場所でアレクサンドル二世が暗殺されたのだ。 中略 一九〇五年のある日曜には皇帝が祖父のいたほうにやって来た。遠くの方からすでにその姿が見えていたそうだ。皇帝は白馬に乗り、二人の騎手が先導して道をあけた。旗手たちは長い鞭を手にしていた。 祖父は小路を離れて木の下に立っていた。 道のすぐそばに男の姿が見えた(「偶然にもロシア人だった」と祖父は言っていた)。男は本に夢中で、皇帝が近づいていることに全く気付いていなかった。「どけ!」と旗手たちが叫んだ。男は顔をあげたが、自分がどこにいるのかわからないように見えた。「もしかしたら頭の中ではヤルタの大通りにいたのかもしれない」と祖父は言った。「あるいはどこかの老婦人の家のペンキのはげた階段に立っていたのかも」先頭の騎手が男を鞭ではたいた。 男はうしろに倒れた。 皇帝は砂ぼこりの中を駆け抜けた。皇帝の名のもとになにがおこなわれたのか、気にとめることもなく。 祖父は男を助けおこし、体を支えた。「大丈夫です」と男は言い、本を拾ってほこりをはたき、つぶやいた。「どこを読んでたっけ?」 男の頬から右の首まで、太く真っ赤なミミズ腫れができ、ところどころ血がにじんでいた。 祖父になにも言わず、男はきびすを返して、ページをめくりながら立ち去った。「なにを読んでいたのか見えなかったのが残念だ」と祖父は言った。散歩を再開し、自分が遭遇したことを思い返すと、こんな言葉が浮かんできた。「またしても一歩、終わりが近づいた。」「だが、それがなんの終わりなのか、そのときおじいちゃんにはまだわからなかった」五十年近くたって。祖父はぼくにそう言った。ため息をつき、左手で髭をなでながら。まあ、こんな感じです。
2023.01.18
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トミ・ウンゲラー「どうして、わたしはわたしなの?」(アトランさやか訳・現代書館) トミー・ウンゲラーという名前は「すてきな三にんぐみ」(偕成社)という絵本でご存知の方もいらっしゃると思います。フランスの絵本作家で、2019年、87歳で亡くなられた方です。 市民図書館の新刊の棚で「どうして、わたしはわたしなの?」(アトランさやか訳・現代書館)という、二羽のペンギンが向き合っている表紙に出会って手にとりました。 フランス哲学雑誌『フィロゾフィー・マガジン』の人気連載の書籍化だそうですが、もちろん大人向けの雑誌だと思います。その雑誌上で80歳を超えた老絵本作家が、まだ10歳になるかならないかの子どもたち相手に「人生相談」しているコーナーがあったようで、その記事の書籍化でした。 スゴイです。あれこれ言っても始まらないので、一つ例を引用します。戦争に勝ったら何がもらえるの?エリック 7歳 争いに勝つことはできても、戦争に勝つことはできない。戦争というものは、どちらの国にとっても、ひどい損失だ。ものが壊れるだけではなくて、いたましくも無実の命が奪われてしまう。 戦争がおこると、勝ったほうはごうまんになり、負けたほうは復讐の念を抱くことになる。そして、終わったとたんに、すでに次の戦争が予告されている。「門出の歌」で誇らしげに謳いあげられている勝利だけど、現実はそんないいものじゃない。 ドイツとフランスのあいだで動きが取れなくなっていたアルザスの人間として、ぼくは2度敗北を経験した。奇妙な戦争のあと、1940年にはドイツがアルザス地方を支配し、ぼくたちにフランス語を話すのを禁じた。そして、1945年にフランスはアルザスを取り戻し、それ以後ドイツ語やアルザス語で話すのを一切禁じたんだ。フランスの軍服をまとわされ、次はドイツ、そしてまたフランスと、強制的に兵役につかされたアルザス人の、なんと多かったこと! でも、ぼくたちは奇跡を体験したんだ。何世代にもわたって殺し合いをつづけてきたにもかかわらず、フランス人とドイツ人のあいだでほどすみやかに和解が訪れたことは、世界の歴史上なかった。その例は、ああ、なんとも残念なことに繰り返される気配はないけれど。これは、ひどい戦争を経験した2国の人たちが和解できた珍しいケースだ。ぼくはといえば、憎しみを憎んでいる。(P14~15) どうでしょうか。ぼくは感心しました。質問しているのは7歳のエリック君です。小学校一年生になるかならないかの年齢です。答えているジーさんは、なんの遠慮もしていません。「わかりやすい病」が蔓延している、ニッポンの児童書では考えられない、堂々たる態度です。とにかく、そこのところに、感心しました。 もっとも、フランスでも、この記事が子供たちに受けたのかどうか、そこは定かではありません。しかし、大人が子供に対する態度として、歴史事実に基づき、自分の経験を正直に語り、意見を主張するという、オーソドックスな態度が、全く、崩されていません。子供相手という、舐めた態度や、年齢や理解力への「上から目線」の忖度、自分の立場に合わせたご都合主義など欠片もありません。 話題になっているアルザス地方の歴史は、ぼくたちの世代であれば、教科書に載っていた「最後の授業」というドーデ―の小説の舞台として思い浮かぶ方もあると思いますが、フランス語、ドイツ語、アルザス語をめぐるウンゲラー自身の経験から出てきた言葉が、現代の子供たちに語られる姿に驚かないわけにはいきません。 例えばの話ですが、朝鮮併合以来、1945年に至るまで、朝鮮半島での日本語政策について、小学校一年生くらいの子どもに、こんなふうに語ることができる「日本人」は果たしているでしょうか。 現代書館から出ているこの本も、子ども向けの装幀と挿絵で作られていますが、子どもたちが、このおじいさんといつ出会って、おじいさんの言っていることに興味を感じたり、わかったりするには時間が必要でしょうね。「生きる」という時間の経験の中で、出会い直す絵本とでもいえばいいでしょうか。 そう言えば、松本に住んでいる、まだ5歳のユナチャン姫にこの本を送ったのですが、サキチャンママから「文字には興味がるのですが、まだ、むずかしいようです。私が読んでいます。」と返事がありました。期待通りのうれしい返事でした(笑)追記2022・09・09著者と訳者のプロフィールを追記します。トミ・ウンゲラー Tomi Ungerer 1931年11月28日 、ストラスブール生まれ。絵本作家、グラフィック・デザイナー、イラストレーター、おもちゃ発明家、コレクター、広告デザイナー。代表作に『すてきな三にんぐみ』(1961年、日本語版は偕成社より1969年刊)、『ゼラルダと人喰い鬼』(1967年、日本語版は評論社より1977年刊)、『キスなんてだいきらい』(1973年、日本語版は文化出版局より1974年刊)、『オットー : 戦火をくぐったテディベア』(1999年、日本語版は評論社より2004年刊)などがある。 1998年、「小さなノーベル賞」と称される国際アンデルセン賞画家賞。 2019年2月9日、アイルランドで死去。アトランさやか Sayaka Atlan 1976年生まれ。青山学院大学文学部フランス文学科卒業。2001年に渡仏、著書に『薔薇をめぐるパリの旅』(毎日新聞社)、『パリのアパルトマンから』(大和書房)、『ジョルジュ・サンド 愛の食卓:19世紀ロマン派作家の軌跡』(現代書館)、共著に『10人のパリジェンヌ』(毎日新聞社)がある。
2022.09.10
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100days100bookcovers no81(81日目)フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(高杉一郎訳・岩波書店) ステイホームの中での楽しめる暇つぶし、ということで始まったブックリレーですが、ふと気づいたら81回目、足かけ3年になりました。最近は映画ばかりであまり本を読まなくなっているのですが、このリレーで紹介されて興味を持った本を読んだり、書くために再読したりすることで、いろいろな出会いや発見がありました。 前回YAMAMOTOさんが紹介して下さった宮本常一の『辺境を歩いた人々』も、とても面白く読みました。もともと「辺境」に興味があったので、「辺境に興味を持って歩く人」に対しても大いなる興味や共感が生まれました。本書の中で紹介されていた松浦武四郎という人が、江戸時代末期に北海道からその北方の国後方面までを歩いたという項を読んで、北方領土の現在の姿を知りたくなったところ、ちょうど渋谷で『クナシリ』というドキュメンタリー映画がかかっていたので、それも観に行きました。この映画については別に書こうかと思っていますが、旧ソ連出身のフランス人監督の目から見たクナシリの現状が描かれていて、なかなか興味深い映画でした。 さて、次の本は、「冒険」というキーワードで繋ぎたいと思います。 『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作、高杉一郎訳、岩波書店)。 この本を初めて読んだのは小学校5年生のときです。奥付は1967年。初版です。盲腸で1週間ほど入院したとき、ご近所のお宅のおばさん(たぶんまだ30歳前後だったと思いますが、結婚してお子さんもおられたのでおねえさんとは言いがたく、私から見たらおばさんでした)が、お見舞いに持って来て下さいました。今になってみると、よくぞ、と思います。なぜなら、自分の嗜好をはっきりと自覚させてくれ、それ以後の読書人生を左右するほど影響を受けた作品になったからです。この本は、今に至るまでずっと手元に持ち続けています。 作者のフィリパ・ピアスは1920年生まれ。イギリスのケンブリッジ近郊で生まれ育った児童文学作家です。この物語は私が生まれた年、1958年に書かれています。 主人公のトムは、弟のピーターが麻疹にかかったために、せっかくの夏休みを親戚の叔父さん、叔母さんの家で過ごすことになってしまいます。そのアパートは街中のごちゃごちゃしたところにあって、遊ぶところも友だちもなく、顔をつきあわすのは叔父さんと叔母さんだけというつまらない毎日に、トムはすっかり気落ちしていました。 なかなか寝付けないある夜、トムはアパートのホールにある大時計が13回鳴ったのを聞きます。「13時ということは1時間余っていて、その1時間を自分は自由に使うことができるんだよね」という、子どもらしい無邪気な論理に導かれたトムは、部屋を出てアパートの裏玄関を開きました。するとそこには、昼間とは全く違う、みごとな庭園が広がっていたのです。 「タイムリープ」ものが好きな読者なら、これだけでほぼ想像できると思います。のちのち分かってきますが、ここは60年ほど前、19世紀末にこの場所に実在していた庭でした。トムはここで3人の少年たちや怒ってばかりの怖い女主人、純朴な庭師や召使いの人たちと何度もすれ違うのですが、彼の姿はこの世界の人々の目には見えません。ただひとり、ハティという少女だけにはトムが見えていました。年頃が近いふたりは友だちになり、広い庭園やその外にある果樹園で、いろいろな冒険を重ねながら親しくなっていきます。建物に戻って玄関を閉めると、たちまち今の時代に戻ってしまうことを発見したトムは、人々の服装やそのころイギリスを治めていたのが女王だったという情報などを手がかりに、ハティの生きている時代を調べ始めるのでした。 トムは好奇心の強い子どもで、自分の身に起こっていることを子どもなりに分析してゆくのですが、このトムの造型に、私は、フィリパ・ピアスのひとつの「思い」を感じます。つまり、子どもに言い聞かせたり教えたりするのではなくて、子どもと同じ地平に立ち、「この不思議な話に興味を持って、理解してくれる読者(=子ども)は必ずいる」と思う信頼感です。 物語の進め方は平坦ではなく、緻密に構成されています。庭園の時間がトムを置き去りにしてどんどん過ぎてゆくさまも不自然ではなく、ディテールも丁寧に描かれています。そしてもうひとつ、この物語は決して現実を否定しません。トムはハティとの冒険を弟のピーターにたびたび手紙で報告し、秘密を共有します。そして、みごとなラストシーンがあるのですが、そこでトムの体験をまるごと肯定するのは、人生経験を重ねてきた現実世界のひとりの大人なのです。現実と非現実、大人と子ども、といったような二項対立ではなく、それらはいつも地続きで、ひとりの人間の中に両方が存在してもいいんだということ、それは豊かなことなのだということをごく自然に書き記してあるこの物語に、小学生だった私は、心の底から勇気づけられたのだと思います。 ディテールや風景の描写はとてもリアルで、月並みな言い方ですが、トムと一緒に冒険をしている気分になります。作者が経験したことのないはずのこと、例えば、閉まっている扉を通り抜けるシーンなど、「ああ、こういう感じなんだ」と納得しそうになりますし、イギリスを大寒波が襲った19世紀末のある年、すっかり凍ってしまったキャム川を、スケート靴を履いて、ハティと一緒に出先から滑って帰宅する場面も、白い息が見えるほどリアルに目の前に浮かびます。スーザン・アインツィヒによる挿絵も、想像をかき立ててくれます。 この物語が今でも日本で出版されているかどうかふと心配になり、検索してみましたら、岩波少年文庫の1冊として版を重ねていることが分かりました。タイムトラベルものが巷に溢れている時代に生まれ、幼い頃からゲームに慣れ親しんだ現代の子どもたちが、この古典的な物語にどのくらい興味を覚えてくれるか、わたしには予想もできませんが、書店や図書館で出会い、もしかしたら人生の1冊になるかもしれないひとりの子どものために、この本が、いつでも、いつまでも、すぐに読むことのできる場所に存在していて欲しいと願います。 KOBAYASIさん、長くお待たせしました。次をよろしくお願い致します。(K・SODEOKA・2022・02・10)追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.09.07
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エドワード・ゴーリー「優雅に叱責する自転車」柴田元幸訳(河出書房新社) エドワード・ゴーリーの「シュリークラムのちびっ子たち」柴田元幸訳(河出書房新社)を読んでなんですかこれは? ってなって、紹介したのですが、2冊目です。注文したのは忘れていましたが届きました。 原題は「The Epipletic Bicycle」です。ぼくには、もちろんチンプンカンプンの単語ですが、これを翻訳すると、どうして「優雅に叱責する自転車」になるのかについて、訳者の柴田元幸さんが「訳者あとがき」にあれこれ書いていらっしゃいます。でも、今日は暑くて写す元気がないので、適当にまとめて、まあ、ぼくなりに理解したことですが、「エピプレクティック」なんていう単語を知っている日本人はほぼいないだろうが、英語圏の人間だって、たぶん、たいていの人は知らないだろう。訳者という立場上(そんなこと書いてはいらっしゃいませんが、、まあ、ぼくが思うには(笑))「オックスフォード英語辞典」まで引いて調べてみると、1678年の定義! があって、「修辞学で、優雅な叱責によって説得しようとする言い方」と出てくるそうで、あれこれ適当に考えていた邦訳の題名を「優雅に叱責する自転車」に決めたということだそうです。 で、みなさん、「優雅に叱責する」ってどうすることかわかります? ページを開くとこんな感じです。見開きの左に英語があって、右に翻訳と絵です。この絵の二人はエンブリーとユーバートの兄弟(姉弟?)で、彼らが一台の自転車の座席とハンドルに二人乗りして旅する絵本です。 上に載せた表紙にはワニが自転車に乗っている絵が載っていますが、ワニは自転車には乗りません。 で、読み終えて「優雅に叱責する」ってどういうことなのか、もちろんわかりません。でも、70ページに満たない、短いお話ですが、二人は案外遠くまで出かけていたことに驚きます。 「ギャシュリークラムのちびっ子たち」のような、まあ、言ってしまえば残酷な笑いはありませんが、時間を巡る残酷さとでもいうかアイロニーというかをフト感じました。まあ、年のせいかもしれません(笑) これが裏表紙です。カラスがとまっているのは方尖塔(オベリスク)です。ヨーロッパの広場なんかにあるモニュメントらしいです。カラスもオベリスクもお話の中に出てきます。この絵ではオベリスクが歩いているように見えますが、お話の中では歩きません。 それにしても、エドワード・ゴーリーって、やっぱり変な人ですね(笑)。
2022.06.17
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100days100bookcovers no65(65日目)エーリヒ・ケストナー「飛ぶ教室」(新潮文庫) 長らくお待たせしています。いいわけですが、毎日が、あっという間に過ぎ去る日々なのです。忙しいわけではないのです。ちょっと出かけると、もうそれだけで終わってしまうし。家にいても、落ち着かないまま夜なかになっています。 ブックカバー・チャレンジは萩尾望都「ポーの一族」、ちばてつや「あしたのジョー」ときて、DEGUTIさんが紹介されたのが「アウシュビッツを志願した男」でした。「うーん、どうしよう。あっそうだ、あれにしよう。」 結構すぐに決まっていたのです。でも、棚をさがしても出てこないので、結局、注文して、到着して、読み直して、と、ぼくらしくもなく律義にやっていて、今日になりました。 思い付きの経緯は「少年や少女たちの物語」で、DEGUTIさんの本の舞台はポーランドなので少しずれますが、「舞台がドイツ」だから、まあ、許容範囲かなということですが、まあ、個人的には小学生の頃に、「二人のロッテ」という「少女の物語」で出会った(ここははっきり覚えています)、この作家の、この「少年たちの物語」は、どこかで読んだはずなのに、内容の記憶が、全くないのは何故だろうという疑問を解きたいという、勝手な理由もあって、65日目として紹介することにしたのはこの本です。 エーリヒ・ケストナー「飛ぶ教室」(池内紀訳:新潮文庫) 父親の書棚で見つけた古めかしい岩波少年文庫の作家として出会ったケストナーですが、実は、「飛ぶ教室」が岩波少年文庫に登場したのは、「点子ちゃんとアントン」、「エミールと探偵たち」、「二人のロッテ」なんかの名作といっしょに、TAMAMOTOさんが以前紹介された「夜と霧」(みすず書房)の訳者でもある池田香代子さんの新訳でラインアップされた2006年のことのようです。 「飛ぶ教室」という作品の訳者というのは、今世紀に入って光文社の古典新訳文庫版の丘静也さん、岩波少年文庫版の池田香代子さん、いちばん最近では、今回紹介している新潮文庫版の池内紀さんなのですが、それ以前のドイツ文学は高橋健二という方の十八番で、ぼくたちの世代はケストナーもヘルマン・ヘッセもこの人の訳で読んだはずです。新潮文庫の「車輪の下」とかの訳者名とかで覚えていませんか? で、じゃあ、どこで読んだのか?そもそも読んだことがあるのか?書棚にもないじゃないか。というわけで、再(?)購入、再講読と進みました。 今度こそ、正真正銘のクリスマス物語を描く。本来なら二年前、とっくにできていたはずなのだ。遅くとも昨年の内に書き終えていた。だが、世の常のことだが、いつも何かしら邪魔が入る。とうとうおふくろに言われた。「今年も書かないようなら、クリスマスプレゼントはあきらめてもらいます」 これできまった。私は大いそぎで荷造りにかかった。テニスのラケット、水着、緑の鉛筆、山のような原稿用紙、それをトランクに詰め、母ともども大汗をかいて、息もたえだえに駅に来て、ハタと考えた。「さて、どこへ行く?」 おわかりだろうが、夏の真っ盛りにクリスマス物語を書くのは、至難のワザなのだ。いったいどこに腰を据えて書けばいい? 「身を切るように寒かった、雪が降りしきっていた。窓から外をながめたとき、ドクター・アイゼンマイアー氏の両の耳たぼが凍りついた」果たしてこんなことを、人々が焼肉状にプールのほとりに寝そべり、熱射病寸前といったなかで、たとえペンに集中しようとも、書けるものかどうか。書けようはずがない!そうだろうが。 女性はとかく現実的である。母は奥の手を心得ていた。つかつかとキップ売り場へ行くなり、駅員にやさしくうなずきかけた。「おたずねします、どこへ行けば八月に雪がありましょうか?」「北極に行くんだね。」 駅員はつい言いそうになったが、私の母だと気が付いて、からかい口調は飲みこみ、丁寧に答えた。「ツークシュピッツェの峰でしょうね、ケストナーさん」 ハイ、これが、「第一の前書き」の冒頭です。「うーん、これは、読んだことがないんじゃないか」ここら、最終章まで、一気ですね。ちょっと蛇足ですが、第二の前書きでケストナーはこんなこともつぶやいていました。 立派なおとなが自分の幼いころのことを、こんなにもきれいさっぱり忘れられるものだろうか?子供がおりおり、いかに深い悲しみと不幸を味わっているものか、ある日を境に忘れはてる。(だからこの機会に、きみたちに心の底からおねがいしたい。幼いころのことを、けっして忘れないこと!約束してくれるかな?ほんとだね?) ね、エーリッヒ・ケストナー(Erich Kästner、 1899年~1974年)という作家の「ユーモアと誠実」、信用できそうでしょ。ちなみに「飛ぶ教室」が書かれたのは1933年、ヒトラーが独裁を始めたその年です。彼の作品は大衆的に支持されていましたが、ヒトラー政権下では発禁処分になりました。ただ、当時の社会主義的な反ナチ陣営からも「プチブル的」という批判を浴びたそうです。 今、読み返して、なるほど「プチブル的」!。 作品が具体的な社会状況や、「政治思想」の外にあることは、そのとおりだと思うのですが、あの時代に「反ナチス」、「反全体主義」を貫き通した思想性の確かさは、現代に通じる「普遍性」をもっているのではないでしょうか。 ちなみに「飛ぶ教室」という題名は、ギムナジウム(中学校)の寄宿生である少年たちが、クリスマスの夜に演じる創作劇の題目にちなんでいます。 どうも、読んだことがあるのか、ないのかは釈然としませんが、今回、妙に懐かしく読んだことは間違いありません。傑作だと思います。 では、復活のYAMAMOTOさん、よろしくお願いしますね。(T・SIMAKUMA)追記2024・04・05 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.01.28
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週刊 読書案内 クラウス・コルドン「ベルリン1919(下)」(岩波少年文庫) クラウス・コルドン「ベルリン1919(上・下)」(岩波少年文庫)の下巻をようやく読み終えました。 上巻の案内でも書きましたが、1919年、ドイツの11月革命の敗北の過程が13歳の少年ヘルムート・ゲープハルト、通称ヘレ君とその家族や友達の日常の姿を通して描かれています。 読んでいて胸がふたがるというか、「ああ、そうなってしまうんだよな。」という気持ちを励ますことが難しい「歴史事実」のなかの民衆の日常が活写されている作品でした。 文字通り動乱のベルリンの町に生きている少年や少女、そして彼らの家族や年長の友人たちの、読んでいてハラハラしっぱなしというか、まさに命がけの日常が描かれていますが、その行動を通して、ヘレ君やその友達たちの成長してゆく姿が、2021年の「日本」という社会で「岩波少年文庫」にかじりついて「歴史の夢」を見ている67歳の老人を励ますのでした。 作家クラウス・コルドンは虐殺されたローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトの葬列の中でヘレの父にこんなこと場を語らせます。「ふたりはまだ死んでいない。だれも殺せやしない。彼らは百年後も生きているだろう。エーベルトやシャイデマンやノスケのことをだれも話題にしなくなっても、人々はカールとローザのことを思い出すだろう。」(「どんなにすばらしい言葉よりも雄弁」P361) まあ、思い入れ過剰と笑われるのかもしれませんが、作家が「希望」を描こうとしていることに胸を打たれた読書でした。 三部作の第二部は「ベルリン1933」、第三部は「ベルリン1945」で、それぞれ新たな悲劇の始まりの年が取り上げられていますが、もう一つ、「11月9日」というドイツ現代史にとって忘れられない「日付」について「あとがき」でこんなふうに紹介してありました。 十一月九日は、ドイツにとっていろいろな意味で記念すべき日付です。一九一八年十一月九日、第一次世界大戦終結の鐘が鳴らされました。 二十年後一九三八年十一月九日、ナチス党がユダヤ人に対してはじめて大規模なテロをおこないました。七千五百軒におよぶユダヤ系の商店やデパートが破壊され、百九十のユダヤ教会堂が放火され、二万五千人をこすユダヤ人が逮捕され、暴行されたり殺害されたりしたのです。 それから五十一年後の十一月九日、ベルリンの壁が崩壊しました。ベルリンの壁は二十八年間にわたるドイツ分断の象徴であり、旧東ドイツの千七百万の人びとにとって二十八年間越えることのできない死の壁だったものです。(「あとがき」P388) なんとも激動の100年です。しかし、この100年を現代の少年・少女たちに書き残そうとする作家の意欲には、やはり脱帽ですね。 作家を支えているのは、ローザ・ルクセンブルグのこんな言葉ではないでしょうか。「自由とは常に異なる考えを持つ自由です」 若い人たちが「自由」という言葉について考えたり、大切にしたりする社会になることを祈りますね。
2021.11.04
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クラウス・コルドン「ベルリン1919(上)」(酒寄進一訳・岩波少年文庫) ドイツの作家クラウス・コルドンという人の「ベルリン1919(上・下)」(岩波少年文庫)を読んでいます。 「ドイツ・11月革命」といって、その顛末が浮かぶ人はほとんどいないと思いますが、1918年「キール軍港」の蜂起に始まり、ドイツ帝国を倒した革命が、半年ほどの間に、映画でいえば「アンチ・クライマックス」な、しかし、歴史的に振り返れば、ドイツの共産主義者やドイツの労働者にとって「悲劇」であることは間違いない結末を迎えたことに、憤りを感じる「青春時代」を過ごしたシマクマ君は、子供向けの叢書のシリーズという気安さも手伝って、読み始めたのでした。 訳者は酒寄進一という方ですが、「あとがき」でこんなふうに解説しています。 本書はクラウス・コルドンの「転換期三部作」の第一作にあたります。原題は「赤い水兵 あるいはある忘れられた冬」です。邦題からわかるとおり、1918年から1919年にかけての冬のベルリンが舞台になります。 第一次世界大戦の末期である1917年11月、敗色の濃かったドイツ帝国で、水兵が戦争を終わらせるために蜂起し、それがきっかけでドイツ革命がおこり、帝政が倒れることになります。しかし革命は成功と同時に歯車が狂いはじめ、ベルリン市街戦へと発展します。そうした目まぐるしい時代のうねりに翻弄される人々の姿が、ベルリンの貧民街に住むゲープハルト一家を通して克明に描かれます。 これが、本書「ベルリン1919」の大まかなあらすじですが、もう少し捕捉すると、主人公は「ヘレ」という愛称で呼ばれる中学生で、ドイツの中学校といえば「ギムナジウム(中高等学校)」を思い浮かべる人もいらっしゃるかと思いますが、彼は庶民の子供たちが通う市立中学校の13歳の男の子です。 本名はヘルムート・ゲープハルトで家族は工場で働く母親、上巻の途中で、片腕を失った「傷病兵」として復員した父親、6歳になる妹のマルタ、まだオムツがとれないハンス坊やの5人です。ヘレには、もう一人弟がいましたが2年前にインフルエンザで亡くなっています。 その中学生ヘレ君が、第1次世界大戦下の貧困と飢餓にあえぎ「革命」と「反革命」がせめぎあう動乱のベルリンの街で暮らしている様子が克明に描かれていました。 妹マルタや乳飲み子ハンス坊やの世話をしながら、薪を拾いジャガイモを盗む生活の中で、復員した父や貧民街で生きる労働者の革命運動の世界に潜り込み、やがて、「真の革命」に目覚めていくというストーリーですが、社会に対して真っすぐな疑問を持つ中学生というヘレ君の設定は、65歳を超えた老人をワクワクさせるに十分の展開で、上巻を読み終わりました。 シマクマ君にとって、この作品のクライマックスは、上巻も終わりに近づいた「友と敵」の章の半ば、あのローザ・ルクセンブルグが登場するこのシーンでした。 人だかりのなかにとても小柄な女性が立っていて、近くにやって来た水兵たちに親しげにほほえみかけた。その女性は、壁にはられた一枚のポスターの前に立っていた。そのポスターにはこう書かれていた。 労働者諸君!市民諸君!祖国は崩壊の危機にある。みんなで救おう!敵は外にははいない。内側にいる。スパルタクス団だ。スパルクス団のリーダーを殺せ!リープクネヒトを殺せ!そうすれば、へと羽とパンを手にすることが出来るだろう。 その下には「前線兵士一同」と署名されていた。「反革命がついに本性をあらわしました」小柄な女性が大きな声でいった。「殺人をあからさまに煽るとは、なんという人たちでしょう。(略)」「あれはローザ・ルクセンブルグだ」ハイナーがアルノにささやいた。 ローザルクセンブルグ? ヘレは小柄な女性を見つめた。青白い顔、白髪まじりの髪、大きな帽子。その名はカール・リープクネヒトとともに語られることが多い。父さんもよくその名を口にする。ローザ・ルクセンブルクは、リープクネヒトとおなじように長いあいだ投獄されていた。そしてベルリンで革命がおこる一日前、ブレスラウの労働者たちによって監獄から解放されたのだ。 もしも、この作品を読む中学生がいたとしても、このくだりを繰り返して読む中学生はいないでしょうね。 この記事を読んでくださる読者の方の大半も、こうして引用して、喜んでいるシマクマ君の興奮はご理解いただけないでしょうが、70年代に「ドイツ革命」や「ロシア革命」がおもしろくて仕方がなかった「青春」を過ごした人間にとってローザ・ルクセンブルグはあこがれのスターなのです。 なぜ、彼女がスターなのか。それは1918年、12月のベルリンの街に登場したローザ・ルクセンブルグの彗星のような生涯に、その原因があります。まあ、そのあたりについては、下巻の「怒り」の章で明らかになるはずです。 上巻を読み終えて感じたことが二つあります。 一つは、はたして、今、現在、わたしたちの国の中学生や高校生が、この「歴史小説」をワクワクしながら読み切れるのだろうかということです。ご都合主義の歴史解釈が大手を振ってまかり通る時代の深刻な犠牲者は、10代の子供たちだと思います。若い人たちは、自分たちの社会の歴史に対してさえ、興味を失っていないでしょうか。100年も昔の出来事ですが、1918年のベルリンの街で、実に生き生きと「革命」を生きていた、同世代の少年の姿は、2020年の10代の人たちの心に届くのでしょうか?なんだか心もとないなあというのが、さびしい実感でした。 で、二つ目です。「下巻」を読み始めることがなかなか出来ません。いや、読むんですが、ここから起こる悲劇が、どんな風に描かれるのか、ドイツ革命の悲劇をヘレ君はどう生きるのか、どうにも書き換えようのない歴史的事実を、あらかじめ知っているというのはつらいものですね。 読み終えたら、また報告しますが、なんとなく手間取りそうですね。
2021.07.12
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ティリー(絵)アンナ・クレイボーン(作)「シェイクスピアはどこ」(東京美術) 市民図書館の英国文学の棚の前でフラフラしていて、目にとまった大判の本がこの本です。ティリーという人の絵で、アンナ・クレイボンという人が文を書いていて、翻訳は川村まゆみという方です。「シェイクスピアはどこ?」(東京美術)という絵本でした。 我が家の愉快な仲間がおチビさんだったころ、もう20年以上も前ですが、「ウォーリーを探せ」という絵本が大ヒットして、我が家にもあったはずですが、あのウォーリーのシェイクスピア版ですね。 表紙をご覧になるとおわかりになると思いますが、あのグローブ座を取り巻いている人の中にシェイクスピアがいますね。おわかりですか? イギリスの子供向けの絵本で、シェイクスピアの代表作が10作、絵入りの名場面解説と「シェイクスピアはどこ?」の大画面の組み合わせで、恰好のシェイクスピア入門書になっています。 ライン・アップは「お気に召すまま」・「ジュリアス・シーザー」・「マクベス」・「テンペスト」・「から騒ぎ」・アントニーとクレオパトラ」・「夏の夜の夢」・「ロミオとジュリエット」、そして最後が「ハムレット」です。 たとえばハムレットの名場面のページはこんな感じです。 「To be, or not to be? That is the question.」という有名なセリフの場面は、ハムレットが学友のローゼンクロイツとギルデンスターンと会話していた場面だったような気がしますから、たぶん左のページの左下の場面です。でもね、そのセリフの話は解説のあらすじには出てきません。このセリフにこだわっているのは日本人だけってことはないですよね。でも、そうかもしれませんね。 まあ、もう一つ有名なオフィーリアの水死の場面は右ページの右上です。で、このお芝居に登場した人たちなんですが、ページの上に並んでいます。で、ページを繰ると、ページ全部が戯曲ハムレットの舞台であるデンマークの「エルシノア城あたり」の絵なんです。 それで、この絵の群衆の中にシェークスピアはもちろんのこと、先程の登場人物たちが、ハムレットも、オフィーリアも、父王の亡霊も、みんないるのですよというわけです。 見つけたときには、この絵本が、なんで「英文学コーナー」にあるのだと思ったのですが「これは、シェークスピア好きの大人の楽しみですな」といえないこともないくらい、まあ、手が込んでいるというか、丁寧な絵本なのでした。 まあ、こういう本で遊びながらシェイクスピアに親しむイギリスの子供が少しうらやましいですね。今「忠臣蔵だよ!」でこれをやっても、なんかそぐわないですが、イギリスで「シェークスピアだ!」というと、はまりそうですからね。お芝居ができたのは、同じくらいの時代だと思うのですが、どうしてそうなんでしょうね。「忠臣蔵」なんて、登場人物も名場面も多いうえに、「上野介を探せ!」でぴったりはまりそうなんですがね。(笑)
2021.06.30
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ジュディス・カー「ウサギとぼくのこまった毎日」(こだまともこ訳・徳間書店) 「ヒトラーに盗られたウサギ」という映画を、偶然見ることがあってジュディス・カーという人の名前を思い出しました。1923年6月14日、ワイマール共和国のベルリンに生まれ、家族とともにイギリスに亡命し、のちに、絵本作家として名を知られている人です。 映画は1933年、ヒトラーが政権を取った年、10歳だったジュディスが生まれて暮らしていたベルリンから、兄と両親の4人で、スイス、フランスを経由してイギリスに逃げていく話なのですが、一緒に連れて逃げることのできなかった、大切だったぬいぐるみのウサギが、ナチスによるユダヤ人迫害の現場に取り残された、あどけない「子どもの心」のシンボルのように描かれていました。 今日紹介する「ウサギとぼくのこまった毎日」(徳間書店)という童話は、そのジュディス・カーが2019年、95歳で亡くなったそうですが、その時、彼女によって書き残された最後の作品だそうです。 お話を聞かせてくれている「トミーくん」は、小学校の上級生のようで、「ウサギ・ダンス」が得意な妹の「アンジーちゃん」は2年生。お父さんは、売れない俳優さんらしくて、お母さんは学校のセンセイになるための勉強中という4人家族です。 その、トミー君の家にいたずらウサギの「ユッキー」がやってきて、てんやわんやの大騒ぎ、とどのつまりはアンジーちゃんは熱を出して寝込んでしまうわ、「ユッキー」は遊ばせていた庭から姿を消し、行方不明になってしまうわ、「ああ、トミー君、どうしたらいいんでしょ!?」 というわけで、お話は読んでいただくとして、この本には、こんな献辞が表紙の裏にありました。孫のアレクサンダーとタチアナへ愛を込めて―ジュディス・カー 95歳のオバーチャンの、思い出の「ウサギ」に込められた「20世紀を生きた言葉」ですね。10歳だったジュディス・カーの「心のウサギ」が、最後の本にも帰ってきて、それをお孫さんたちをはじめ、世界中の子供に届けたいという気持ちを感じますね。 彼女の作品を読む子供が、世界中にどんどんふえたら、ほんとにいいですね。追記2022・07・08「映画館で出会った本」のカテゴリーだった、映画の原作絵本なのですが、子供たちへのカテゴリーに変更しました。子供たちがいろんな絵本から、やがて、映画を見るようになったらいいなと思っています。
2021.06.22
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なかのひろたか「ぞうくんのあめふりさんぽ」(福音館) チッチキ夫人が、お仕事から帰ってきてテーブルに、ひょいと置いて、いいました。「こんなのあったから、買ってきたよ。」「あれ、これって『ぞうくんのさんぽ』やな。」「そうそう、きょうはいいてんき、ぞうくんはごきげん、でしょ。」「どれどれ、さんぽにでかけよう」「うわーっ、ばっしゃーん!暗唱できるやんね。そのへんにあるんちゃう?」「こっちは、雨ふりの散歩か。きょうはあめふり ぞうくんはごきげんやって。」「一番上にぞうくんが乗ってるやん。」「なるほどな、今度はかめくんが一番下やで。ああ、よう出来てるは。」「終わりは、やっぱり、ばっしゃーんなん?」 おはなしの結末は、どこかで手に取っていただきたいですね。雨降りでもゾウくんがごきげんなのがいいなあと思いました。 懐かしい絵本ですね、それにしても、家にはチビラくんたちはいないのですが、この絵本どうするつもりなんでしょうね。 あっ、こんなのもあるようです。 なんか、集めちゃいそうですね。困ったもんです。
2021.05.31
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金子都美絵「一字一絵」(太郎次郎社エディタス)後ろから乗りかかるように抱きつき・・・ 漢字一文字に一景の挿絵が描かれています。たとえば第七場のこのページでは、こう書かれていて、篆刻というのでしょうか、隷書以前と思われる字体が判で押してあるようです。 上品なピンク色の挿絵で、男と女が、簾ごしに見る影のように描かれています。 ページを繰れば、こんな字形があります。 漢字は「色」です。 「篆書」(?)の形がシンプルに描かれていて、解説が添えられていますが、文言は白川静の「字統」のもののようです。 隣のページに著者の言葉があります。〈人〉と〈卩〉(せつ)からなる字。ひざまずく人(卩)の後ろに人がいて、乗りかかるように抱いている形の字。 つまり、人が人と交わることをあらわしている。 「字統」には「顔色などという字ではなく、男女のことをいう字。飲食男女は、ひとの大欲の存するところ」とある。 同じように人が後ろから乗りかかる形でも、獣の上に人が乗る形に作られている字は〈犯〉だ。 もちろん、面白がってこのページを紹介したのは、シマクマ君の趣味というか、品性のなせる業なのですが、面白がった理由は「色」から「犯」への連想のながれでした。 ところで、今回、この本にたどりついたのには訳があります。話すと長くなりますから端折りますが、コロナ騒動二年目に突入する春の関心が「論語」、「春秋戦国時代」、「白川静」という、ぼくなりには一連なりの興味が湧いてきて、とりあえず、絵本で確認という感じです。 大人向けの「絵本」というか、金子都美絵さんがフェイスブックに「漢字の物語《一字一絵》」と題して投稿していらっしゃる記事の書籍化のようです。見くらべてみて、ぼくはこっちの方が気に入りましたが、リンクを貼っておきますからどうぞ。 金子都美絵さんは「絵で読む漢字のなりたち」(太郎次郎社エディタス)が10年ほど前に評判になった方ですが、白川静が読み解いた、漢字の、もっとも初期の「字形」の紹介者で、子供向けの「漢字かるた」とかのデザインもなさっているようです。 本書にのっているのは二十八場、二十八文字ですが、のんびりページをめくっていて篆書の象形の形が、だんだんと自分の頭の中にうかび始めてくる経験が、なかなかスリリングです。「常用字解」や「字統」などのような辞書だけ見ていても、こんな感じにはならない気がします。 最後に、二十八文字の「絵」の中で、「うーん、そうか!そうだったのか!?」とうなったのがこの絵です。 この絵を見て「漢字」はわかりますか? 答えは、ご覧のように「究」です。 真ん中の「九」は竜が身を屈めている形だそうです。穴の中で身をかがめる竜は何をしているのでしょうね。 やがて「究める」と使われた漢字です。そこにあるイメージは著者によれば上の絵ですが、どうも、それだけには収まりきらない気もしますね。 時々、こういう場所に戻ってくるのも悪くないですね。いかがでしょう。
2021.05.10
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エドワード・ゴーリー「ギャシュリークラムのちびっ子たち」(柴田元幸訳・河出書房新社) どうして、この絵本に行き当たったのか、いくら考えても思い出せません。アマゾンの本屋をのぞいていて、「何だこれは?」と思ったのかもしれませんが、なんだかえらいものを拾ってしまったようです。 1ページ目をめくるとこんな英文が書かれています。A is for AMY who fell down the atairs で隣のページがこれです。 柴田元幸さんの訳は「Aはエイミー かいだんおちた」 です。 次のページはBです。C、D、と続いて行って、最後のページはZです。 Z is for Zillah who drank too much gin 絵はこうなっています。 同じく訳は「Zはジラー ジンをふかざけ」 要するにAからZまで、一行づつ「詩」のような文句があって、その「ことば」の場面が版画の挿絵になっています。いわゆる「ABCえほん」です。ちがうのは、26人、すべて、登場人物は子供で、例外なく「不幸」になるというところです。裏表紙はこうです。 表紙で、子供たちの後ろにいたのは「死神」でしょうか。裏表紙のこれは、なんなんでしょうね。多分のお墓ですね。 チビラ君たちに見せたらなんというでしょうね。ちょっと興味がありますね。どんな感想を持とうが、まあ、見せたらいいとは思うのですが、それでも、ちょっとためらいますね。 巻末で、訳者の柴田元幸さんが解説しています。 ゴーリーの世界では、たとえ人々が居間で和やかににお茶を飲んでいても、あるいは春の花畑をそぞろ歩いていても、暴力と悲惨の影が常にすぐそこに見えている(もっとも、なぜか猫だけはたいてい明るい顔をしているし、さほどひどい目にもあわない。僕もゴーリーの作品は何十と読んだが、猫については、一度だけ首を斬られるのが記憶に残っている程度)。 とはいえ、これが本当に不思議なのだけれど、そこにはいつも、ひどく場違いなことに、滑稽さ、ユーモアがみなぎっている。 さすが、柴田元幸さんですね。うまいことおっしゃいます。そうなのです。じっと見入っていると、みょうに「可笑しい」んです。イヤだからと言って、「チビラくん」たちに「な、可笑しいやろ!?」といって手渡すのも、少し気が引けるわけで、どうしたらいいんでしょうね。 初めて手にしたエドワード・ゴーリーなのですが、ちょっとほっておけないことになりそうです。追記2022・06・19「ジージの絵本」の、新しい「案内」記事を書こうと思ってこの絵本を取り出して、いろいろ考えこんで、過去の記事を調べたりしていて、すでに「案内」を書いて投稿していることに気づきました。ちょっと「ヤバイ!」と自分で思いました。これから、こういうことが増えるのでしょうか?
2021.03.03
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山口まさよし「きょうりゅう あっちむいてホイ!」(講談社MOOK) わが家で大きくなった「ゆかいな仲間」たちが、実際、読んだのか読まなかったのかわからないのですが、今でもたくさんの絵本が書棚にあります。 たいていはチッチキ夫人が買ってきた絵本で、中には、けっこう過激な、まあ、今となっては「名作絵本」もありますが、「ゆかいな仲間」たちが出ていってしまった頃から新しくふえることはなくなりました。 ところが、「コユちゃん姫」を筆頭に、新しい「ゆかいな仲間」の「チビラ君たち」が誕生したころから、今まであんまり絵本なんて読まなかったシマクマ君が絵本を見るようになって、ブログに案内したりし始めました。 ジージになったシマクマ君がチビラ君たちのゴキゲンをとりたいというセコイ動機なのですが、「おしりたんてい」や「うんこドリル」にはついていけません。 まあ、そのあたりは、頭の固い老人にはいかんともしがたいわけで、どうしても大人が喜びそうなながれに身をまかせているこの頃なのですが、昨晩、チッチキ夫人が寝てしまった夜中の食卓テーブルの上でこの絵本を発見して「カンドー!」しました。 山口まさよし「きょうりゅう あっちむいてホイ!」(講談社MOOK) コッチが裏表紙ですが、6種類の「きょうりゅう」くんが登場する「しかけ絵本」です。表紙と裏表紙を飾っているのはティラノサウルスくんですが、絵本の中でも「とり」を取っているのは彼でした。 題をお読みになればおわかりのとおり、「きょうりゅう」くんたちと「あっちむいてホイ!」をするだけのシンプルなしかけで、たった17ページの絵本です。 絵柄が、ちょっと愛嬌があって、おもしろいこともありますが、ページを繰るごとに、登場する「きょうりゅう」くんが変わっていくだけでなく、セリフも少しづつ変化していて、最後は「きたな!ティラノサウルス!」とクライマックスになります。 66歳の老人が、夜中の食卓で、繰り返しページを繰り直して読んでよろこんでいるのが「絵本」というのは、少しヤバい気もしますがおもしろいのです。 スキャンして写真を撮ってしかけを説明するのは、ちょっとヤボなのでやめますね。 翌朝、チッチキ夫人が言うには 「なかなかいけるでしょ!ユナチャン姫用かな?」 だそうです。 ユナチャン姫は三歳ですね。ぼくは、小学生でも十分通用すると思ったことは黙っていましたが、「ジジ・ババ対抗ゴキゲン取りレース」には、やっぱり負けてしまいそうです。 とてもいい出来の「絵本」だと思いました。大人の方も、書店で手に取って見てください。笑えますよ。
2021.02.27
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安野光雅「天動説の絵本」(福音館書店) 画家の安野光雅さんが亡くなったそうです。1926年、大正15年の生まれで、島根県津和野の人です。戦争が終わって師範学校に行き直して、いったんは小学校の先生になったようですが、そのときの教え子に松田哲夫という筑摩書房の編集者だった人がいます。 松田哲夫は「編集狂時代」(新潮文庫)という著書の中で小学校の先生だった安野光雅の思い出を書いています。筑摩書房が、松田哲夫の企画・編集で「文学の森」というシリーズを1980年代に出したことがありますが、そういう関係での仕事だったようです。そのあたりのことも、その文庫に書かれていました。 話しが前後しますが、安野光雅の「絵本作家」としてのデビュー作は「ふしぎなえ」(福音館書店)という絵本で、1968年のことです。 エッシャーというオランダの画家の「ふしぎ絵」の、安野光雅版とでもいう絵本でした。学生時代に初めて見ましたが、それまで知っていた「絵本」と、どこか、楽しさ、面白さの質のようなものがちがっていると思いました。 彼の作品は、絵本に限らず本の装幀や挿絵でもよく出会いましたが、今日「案内」しようと、書棚を探してみるのですが、なかなか見つかりません。ようやく見つかったのが、この「天動説の絵本」でした。まごう方なき安野光雅の絵本です。 彼の絵本は、絵がうつくしいし、面白いのですが、読む絵本なのですね。この「天動説の絵本」も、小学校の高学年の子供たちが読むように作らていますが、どっちかというと「大人の絵本」かもしれません。 このページは、「地球が動いていること」を実験で証明した「フーコーの振り子」のシーンなのですが、文章はこんな感じです。わたしたちは、どんなに目を皿のようにしても、地球の動くのをみることはできません。ところが、長い長い糸の先に、とても重いおもりをつけた大きなフリコをつくった学者がいたのです。このフリコ、大きくゆらしみました。するとどうでしょう。そのフリコは、目にみえないほど少しずつむきをかえました。そして、夜があけたらずいぶん方向をかえ、長い時間がかりましたが、とうとう一まわりしてもとどおりになりました。つまりこのフリコは、だれもさわらないのに一回まわったことになるではありませんか。これはふしぎです。やはり地めんが動いていることにはならないのでしょうか。 どうでしょう、読み終わって、「ふしぎ」が頭に残ってしまいますね。すると、誰かの解説が欲しくなりませんか?安野光雅は、おそらく、その「ふしぎ」が書きたかったのでしょうね。 ぼくにとっては、何というか、一つの時代が終わりつつあることを感じる画家の死の便りでした。彼には素晴らしい絵本がたくさんあります。一度、手に取って見てほしいものです。追記2022・05・16 棚にある絵本を、何とか紹介してやろうと思っています。子供たちがいなくなって、絵本を手にとるのは老人二人です。思い出を振り返る棚になっています。忘れてしまっているのが多いのですが、書店で手にとったときのこととか、四人のおチビたちの誰のお気に入りだったかとか、思い出が事実かどうかよくわかりませんが、思い起こしていると時がたちます。それはそれで、不思議な時間ですが、地球は地球で回っているんですね(笑) わが家が子供たちの声でにぎやかだったころと安野光雅さんが人気だったころが重なります。我が家では、もっぱら、親二人が嬉しかった絵本でした(笑)。懐かしいことです。
2021.01.18
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カレル・チャペック「お医者さんのながいながい話」(フェリシモ出版) カレル・チャペックは、なかなかな「童話」の書き手でもあります。いちばん有名なのがこれです。「お医者さんのながいながい話」。岩波のジュニア新書にラインアップされていますが、「絵本」としても数通りあると思います。探してみると、まだ手に入る「新しい」絵本の一つが見つかりました。ぼくが読んだのは関沢明子さんの訳で、関美穂子さんが絵を描いているフェリシモ出版というところが出している本です。 ページを繰るとこんな感じです。 次から次へとやってくる「お医者さんのながい話」を聞く羽目になる主人公がこの人です。ヘイショヴィナという山の中に住んでいる魔法使いのマギアーシさんですね。 で、彼のところにやってくるお医者さんがこの方です。 フロノツの医者と呼ばれていますが、名前はどうでしたかね?お医者さんの前を走っているそばかすの少年が、魔法使いの弟子でヴィンツェク君です。 マギアーシさんのもとに駆け付けたフロノツの医者は、一人では処置しきれないと、他のお医者さんも呼ぶことをすすめます。 やって来たのがこの方々ですね。三人やって来ましたが、このお医者さんたちは治療にかかる前に、なぜだか「お話」をしたがるんですね。 マギアーシさんはこの3人がやってくるまでに、フロノツのお医者さんから「なが―いお話」を聞かされているのですが、この3人も、題名の通り、それぞれ「なが―いお話」をしないでは気が済まないようです。 というわけで、「アンズの種」をのどに詰まらせただけのマギアーシさんは息をするのが苦しくってたまらないにもかかわらず、次から次へとお話を聞く羽目にになるんです。 えっ?マギアーシさんの病気は「アンズの種」を詰まらせただけなのかって?。そうですよ。背中をドンとでも押せば解決しそうな出来事ですよ。にもかかわらず、お医者さんのお話を聞いた魔法使いは、「人生」について深く考え込んでしまうことになるんです。 それで、のどに詰まった種はどうなったかって?そういうことは、この絵本を読んでいただくより仕方がないですね。 いやはや、それにしても、なかなかシャレた工夫のこらされたお話でしたよ。ぼくは、愉快な仲間のチビラちゃんたちにプレゼントしてしまいましたね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.10.21
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はいじま のぶひこ「きこえる?」(福音館書店) 福音館書店の「日本傑作絵本シリーズ」の一冊です。文字通り「傑作絵本」でした。読み終わって、とりあえず、じっと目を目をつむりました。 淡い「くりーむいろ」の表紙には「ウサギ」でしょうか、影が映っています。この影は正面でしょうか、後ろ姿でしょうか。そんなことを考え込んでいます。 表紙を開くと「くろい」ぺーじです。多分、星空です。星座を探しましたが、ぼくの知識では見つかりません。でも、最後のページまでこの絵本を繰った人は、きっと、星空だと確信すると思います。 次のページを開くと、見開き2ページが淡い「みずいろ」と「みどりいろ」の中間色で、表紙の「ウサギ」の影よりも、もっと淡い「きいろ」の丸い「つき」が浮かんでいます。 次のぺーじは、すこし「きいろ」がかった「くりーむいろ」で「きこえる?」とだけ書かれていて、見開きの反対側のページには、「たけいろ」の地に、表紙とは少し違いますが、やはり「ウサギ」の影が見えます。 さて、そこからどうなるのでしょう。いつものようにスキャナーでページを写してここに貼るのはやめます。いろいろ、講釈を垂れるのもやめます。 ぼく自身が、ここから数ページを読みながら、「広く」て「静かな」ところに連れていかれたからです。 最後のページの見開きには表紙と同じ「ウサギ」がいて、となりのすこし「みどり」がかった「くりーむいろ」のページに「きこえる?」があります。 ぼくは、図書館のおなじテーブルに座って、この絵本を手にしながら、ボンヤリと中空を見つめている少年を想像します。 向かい合って座っていたテーブルから、できるだけ静かに立ち上がって、そっと、後ずさりしながら、話しかけたいのを我慢して、できるだけ小さな声でつぶやくでしょう。「きこえる?」追記2022・05・20 シマクマ君が「絵本」と出会う場所は三とおりあります。毎晩、寝る時に布団に転がると右手の棚は絵本の棚です。棚というと聞こえがいいですが、カラーボックスと段ボール箱を積み上げただけです。ほとんど手にとることはありませんが、細い背表紙を見ながらいろいろ思い出したりします。 もう一つは図書館です。特に、時々行く女子大の図書館は新しい絵本が飾ってあるので便利です。寝床の棚に、新しい絵本が増えるということは、もう10年以上ありませんから、新しい絵本を見ると、新しく生まれてきたチビラ君たちに買ってあげたくなります。 三っつめが古本屋さんの棚です。このところ気に入って、時々のぞいているのが、元町4丁目の「ハニカムブックス」という絵本のお店です。お店の中を撮る勇気はないので、看板と外観の写真を貼ってみます。 下の写真のドアから入って階段を上がって右手です。 JRの高架沿いの西向きの一方通行の道の歩道から見上げると二階の窓が見えます。中には店番のおねーさんがいらっしゃって、時々話し相手をしてくださることもあります。本はどれもきれいに拭いてあります。 大きなカバンとか持っていると、棚にぶつけないように注意が必要です。でも、しゃがみこんで中を覗き込んで読めるくらいのスペースはあります。そうやって、子どもみたいに読んでいても叱られたりしません。どちらかというと、まあ、古本屋さんだから当たり前ですが、懐かしい絵本が多いです。気になっていた本と出合えるのが楽しいです。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.05
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絵・横尾忠則 文・穂村弘「えほん・どうぶつ図鑑」(芸術新聞社) あの横尾忠則さんが「絵」を描いています。文字でそれぞれのページに印刷されている「文」を書いているのは、あの、穂村弘さんです。現代短歌の、あの、穂村さんです。 あのー、だからといって、あわてて買ったりしてはいけません。 お買いになる前に穂村弘さんが、ページごとに書いている「詩」のようなもの、いやいや「詩」のようなものというのは、彼の本業の短歌じゃないからそういっているだけで、ヤッパリ、「詩」です。それをバラしますね。愛し合う夢を見ました。愛し合う夢を見ました。目がさめると、窓の外は夕方でした。私にはだあれもいませんでした。それなのに、誰かの眼が、私をじっと見つめています。鏡に向かうときも。ごはんを食べるときも。私はどんな姿をしているんだろう。故郷の夢を見ました。故郷の夢を見ました。目が覚めると、いつもの部屋の中でした。私にはだあれもいませんでした。それなのに、誰かの眼が、私をじっと見つめています。鏡に向かうときも。ごはんを食べるときも。私はどんな姿をしているんだろう。故郷を抜け出して、こんなに遠くまで来た。故郷には、今も私の形の空白が残っている。私はどんな姿をしているんだろう。愛し合う夢を見ました。愛し合う夢を見ました。そこはどこですか?あなたは誰ですか?ここを抜け出して、私はそこへゆきたい。あなたに出逢うために。そして、本当の私の姿を知るために。私を切り抜いて下さい。あなたのは鋏で。 ね、やっぱり「詩」ですよね。で、この「絵本」は動物たちの「切り抜き絵本」なんです。でもね、「絵」を書いているのは横尾忠則なんです。油断して、あなたの可愛い「坊や」や「お嬢ちゃん」のために買ってあげようなんて考えない方がいいと思いますよ。 まあ、横尾忠則のイラストが好きな「あなた」が自分のためになら、思わず買ってしまったりしても、さほど後悔はしないかもしれません。お子さんの中には、鋏を持ち出して「私」を切り抜くのを手伝ってくれる子だっているかもしれませんからね。 それにしても図書館の棚で、一度ご覧になってからの方が、やはり、無難だとは思うのですがね。 アイデアはよくできているんです。穂村弘の詩を読みながら、この絵本の仕掛けがわかった人がいらっしゃれば、拍手!ですが、それは、なかなか難しいと思いますね。追記2022・06・05 今日は68歳の誕生日でした。いろんな方から「おめでとう。」という言葉をいただいて、ちょっと感激しています。後、何回くらい「誕生日」を経験するのかよく分かりませんが、最近、よく忘れます。日々の暮らしの細部でも「忘れている」ことに、繰り返しで会うので慣れっこになりつつありますが、読み終えた本とか読みかけの本をどこに置いたのかわからなくなるのには閉口しています。 内容だって同じように忘れていて、複数の本を同時に読むというのが若い頃からの習慣なのですが、その本のそこまでに何が書いてあったのか忘れる上に、覚えている内容が今手にしている本の内容なのかどうか怪しいこともあります。考えてみれば、そんな本の読み方をやめれば、とりあえずの問題の一つくらいは解決するはずなのですが、それがやめられません。 この絵本なんて、どんな絵が、どんなふうに構成されていたのかほとんど忘れていて、自分が書いたことが絵本のどんな様子をお伝えしようとしているのかがよく分かりません。そんな文章を読んでいただくのは、実に恐縮なのですが、まあ、いいわけだけでもと思って、こうやって書いています。 今からの書く「案内」は、せめて本人にはわかるように書こうと思っています。ああ、それから、来年の誕生日までには喫煙という悪習も何とかしたいと思っています。うまくいくのでしょうか(笑)。にほんブログ村にほんブログ村
2020.09.27
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山下賢二作 中田いくみ絵「やましたくんはしゃべらない」(岩崎書店) やましたくんは保育園に通うようになったころから、ともだちのまえではひとこともしゃべりませんでした。そのやましたくんの小学校の一年生になった日から卒業する日までの学校でのくらしを描いたのがこの絵本「やましたくんはしゃべらない」です。 やましたくんがしゃべらなかったということは、ともだちはだれもやましたくんの声を知らなかったということです。ともだちはやましたくんがどんな声をしているのか、どうして、ひとこともしゃべらないのか、気になってしかたがありません。 絵を描いているのは中田いくみさんという絵描きさんですが、表紙の絵でわかるやましたくんだけでなくて、ともだちたちの表情も髪の毛の一本一本まで丁寧にえがかれています。 絵を見るかぎり、やましたくんはおこったりいじをはったりしているわけではなさそうです。やましたくんがなぜしゃべらないのかは、結局、わかりません。でも、ともだちたちがやましたくんをどう思っているのかとか、やましたくんの声を聞きたがっていることはとてもよくわかります。 卒業式の日に、名前をよばれたやましたくんは、はじめて、小さな声で「はい。」と返事をしたようです。でも、校長先生には聞こえなかったようです。そのあと、やましたくんがいつからしゃべるようになったのかは、やっぱりわかりません。 今は大人の山下賢二という人になっていて、「ガケ書房」という本屋さんを営んだあと、「ホホホ座」というブックカフェ(?)とかで本を作る仕事をしているようです。 なんだか、大人の絵本のようですが、やっぱりこれは、子供たちに読んでほしいと思いました。追記2022・05・26 最近、「C'mon C'monカモン カモン」という映画を観ました。大人の質問に上手に答える子供たちと困った顔をして黙って大人をみている子供が出てきました。 「ことば」を上手に使うことが、必ずしも上手に「ほんとうのこと」にたどり着けているとは限らないということをつくづく感じました。 で、こんな絵本もあったことを思い出しました。何十年も「ことば」について教室でおしゃべりしてきましたが、自分の中に「やましたくん」がいることに気づいたのは仕事を辞めてからです。恥かしいような、せつないような気持で、こうして書いています。 今更なのかもしれませんが、それでも「ことば」にこだわりたいと思っているようです。なにを言っているのか自分でもよく分かりませいい(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.09.13
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ロバート・クラウス文 ホセ・アルエゴ絵 「おそざきのレオ」今村葦子訳(あすなろ書房) ロバート・クラウスとホセ・アルエゴのコンビの案内の二冊目です。ホセ・アルエゴの絵本としては、案内するのは三冊目です。 今回の主人公はレオ君です。表紙をご覧ください。 まあ、なんというか、こういう顔です。トラのおチビさんのようですが、ゾウさんとかヘビくんとか、いろんなお友達と比べて、何をやってもへたくそです。 この顏を、じっと見ていると「そうなんだろうな。」と納得がいきますが、お父さんもお母さんも、同じような顔なので、顔が「おそざき」の原因というわけでないようです。 そうはいっても、お花畑で蝶々が飛んでいるのを眠そうに見ながら、お昼寝しているレオ君のことがお父さんもお母さんも心配です。 ご心配なく、おそざきのレオ君も花開くときが、きっと来るのです。まあ、そういうもんです(笑)。 ホセ・アルエゴという人の絵がいいと思うんです。そこはかとなく笑えます。どこがどう?と尋ねられれば困りますが、この顔イイじゃないですか、ねえ。 二人の絵本を図書館で探していますが、もう、古いんでしょうか、なかなか見つかりません。見つけたらまた紹介しますからね。じゃあ、また。追記2020・09・12 この二人のコンビの「でておいで、ねずみくん!」の感想はここをクリックしてください。ホセ・アルエゴの絵の「ランパンパン」の感想はこちらからどうぞ。追記2022・06・25 市民図書館で、子供用の絵本の棚を徘徊している老人のことを、若いママさんたちや子供たちはどう思って見ているのだろうと思うことがあります。やっぱり絵本の棚と老人はちょっとなあという気分です。手にとって、中を眺めながら、面白いからと言って新しく買うなんてことにはなかなかなりません。というわけで、ボンヤリ佇んでしまう老人なわけですが、まあ、その様子だけでも、そばでじっと見ている子供がいたりする、ちょっとヤバいかなとか考えている、今日この頃です。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.09.12
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「100days100bookcovers no22」(22日目) 本橋英正 『注文の多い料理店』(源流社) 五味太郎さんの『ときどきの少年』読みたいなぁ~。Simakumaさんがいう「謎」が気になっていますが、本を読んで確認することにします。もしかしたらその前にDegutiさんが解明してくれるかも? 面白いことに21冊目がアップされた夜(「蟲文庫」に行った日)、泊った妹の家の玄関に、3箱の段ボールの荷物がありました。私が持って帰るべく積んでいたのですが、そこから五味太郎さんの絵本を引っ張り出し、懐かしく目を通しました。 東加古川に絵本専門店「子どもの本 ジオジオ」がオープンした1985年以来、店主の江草さん夫婦と親しくさせていただき、プレゼントやお年玉、お祝いやお見舞いと、子どもたちにも大人にもよく絵本を買いました。 お話しながら選ぶのが楽しかったんです。一番最初にその店を訪問したときに、壁にこんな張り紙がありました。「本を立ち読みしてはいけません。椅子に座ってゆっくり読んでください。」 一瞬でジオジオさんが好きになったのは言うまでもありません。最近はブッククラブという絵本選書を中心に営業をしているようでしたが、今でも頑張って店を開けています。 また、兵庫県にはもう1軒、JR本山駅前で40年以上愛された小さな児童書専門店「ひつじ書房」がありましたが、2017年の年末に惜しまれながら閉店しました。大型店舗では絵本や児童書を買う気になれないのは、そんな専門店を知っているからなのなのかもしれません。 実は大人になってからの絵本との出会いは、大学の男子寮に遊びに行った時。同じ国文学の後輩の部屋に絵本が飾ってあったのに衝撃を受けました。(もしかして、その時Simakumaさんいましたか?) さて、五味さんについては最近の新聞記事も紹介したいです。4月14日の朝日新聞に「ガキどもへ チャンスだぞ」というメッセージが載りました。「急に学校が閉められて先の見通しも立たず、大人も子どもも心が不安定になっていると感じます。」 との記者の問いかけに、次のように答えます。 それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた? 居心地はよかった? 普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。 こういう時、いつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい。 おれはもともと、今の学校や社会は、子どもに失礼だと思ってる。 私自身が大人の常識という陥穽に嵌まっていたことに気づいたものです。五味太郎さん、一味か七味のようにピリッと効かせていますね! そんな箱の中のたくさんの本の中で、一冊の絵本に目が止まりました。『注文の多い料理店』、宮沢賢治が生前発行した唯一の童話集のタイトルでもあります。 現在、この絵本はいくつかの出版社から発行されているようですが、私が「ジオジオ」さんで買って姪たちにプレゼントしたものは、作:宮沢賢治 画・描き文字:本橋英正 発行所:源流社のもの。改めて表紙カバーと一体になった帯にある「限定一部超豪華版 定価1,000,000,000,000円」 にビックリ!! これって0がいくつあるん?何円? と、その場にいた妹や姪たちと大騒ぎ。さていくらでしょう? 正解は1兆円です。 最近のアベ政権の税金無駄遣いにもう慣れっこになった高額のお金ですが、マスクや幽霊会社への委託よりはこの絵本のほうがよほど値打ちがあるのではないかしら? 五味さんのガキどもへのメッセージではないですが、大人から子どもへの教訓だとか、社会風刺という視点はどっかにふっとんで、(そもそもそんな意図で書いていないと思うのですが…)改めてじっくりことばを味わい、絵を楽しみました。 オノマトペ(『風の又三郎』も風の音の表現が印象的でしたね。)や言葉の繰り返しで、いとも簡単に現実から非現実の世界へ超えさせてくれます。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。おまけにかぎ穴からはきよろきよろ二つの青い眼玉(めだま)がこつちをのぞいてゐます。「うわあ。」がたがたがたがた。「うわあ。」がたがたがたがた。ふたりは泣き出しました。その扉の向こうのまっくらやみのなかでにゃあおくわあごろごろという声がして、それからがさがさ鳴りました。そして再び、二人の漁師が寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っているのを確認したあと,もう一度「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。 と、日常に引き戻されます。 もっとも、そんな解説は子どもたちには一切不要なのでしょう。この絵本を読んだ時、3人の姪っ子たちはとっても怖かったそうです。 白熊のような2匹の犬は山の中で泡をはいて死んでしまうし(実は最後に助けに来るのですが)、扉絵の山猫の目や牙もおどろおどろしいし…。視覚や聴覚だけでなく、風の触覚、酢や油の香りや味覚にまで訴える「西洋料理店 山猫軒」―。 玄関のガラスの開き戸には金文字で、水色のペンキ塗りの扉には黄いろな字、次の扉には赤い字で、次は黒い扉、次の扉の前のガラスの壺、次の戸の前には金ピカの香水の瓶。その扉を開いて中に入るとりっぱな青い瀬戸の塩壺が…。 いよいよ最後の扉には大きなかぎ穴が二つ、中からきょろきょろ二つの青い目玉がこちらをのぞいています。そんな7枚の扉を開けて長い廊下を進む猟師たち(こどもたち)にとって、それはそれは恐ろしかったことでしょう。 今コロナウイルスや政治や経済のあり得ない出来事が現実の世界で起こり、世界の底が抜けてしまったような気がします。『注文の多い料理店』のような世界は、空想ではなく私たちが生きている世界そのものなのかもしれません。五味太郎さんに「これはチャンスだ」 とハッパをかけられたと、前に向かいたいものです。 ずいぶん昔、東北本線の鈍行で北に向かった時に、花巻農業高校の賢治の家(羅須地人協会)と宮沢賢治記念館を訪問し、『銀河鉄道』をイメージしながら遠野までローカル線で足を延ばしました。懐かしい思い出です。 それよりもっと北、当時の日本の最北端だった樺太にも賢治が訪れたというのはつい最近知りました。 最愛の妹トシの魂が行った場所と考え、亡くなった翌年訪れます。浜を夜通し歩き、朝の風景を『オホーツク挽歌』で「海面は朝の炭酸のためにすっかり銹びた」と詠ったそう。また、今朝の「天声人語」にも賢治が登場していたのには笑ってしまいました。 みなさんと違って気の利いたことが書けないのですが、お許しください。家に持ち帰った絵本は「寺子屋」で、こどもたちや大人たちに楽しんでもらえるといいな~。 では、SODEOKAさん、バトンを渡します。よろしくお願いします。(2020・06・22N.YAMAMOTO) 追記2024・02・01 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.09.04
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インドみんわ・さいわ マギー・ダフ え ホセ・アルエゴ アリアンヌ・ドウィ「ランパンパン」(評論社) 「でておいで、ねずみくん」の絵を描いていたホセ・アルエゴの描いた絵本です。原作はインドの民話(みんわ)らしいのですが、「女房(にょうぼう)」を王様にさらわれた「くろどり」くんが、王様から女房を取り返すお話しです。 表紙をご覧いただくとおわかりでしょうが、鳥かごに入れられているのが「くろどり」くんの「にょうぼう」です。 王様相手に、たたかう「くろどり」くんの装束(しょうぞく)はこんな感じです。 抱えているのが、進軍の太鼓で、「ランパンパン」は太鼓の音です。頭にかぶっているのが胡桃の殻で出来た兜(かぶと)です。ホセ・アルエゴという人の絵です。 この絵本の面白さは、彼の絵の面白さですね。「くろどり」くんの、この眼付とか、王様の兵隊とかニワトリとかゾウとか、いろいろ、たくさん出てくるシーンですね。 ああ、そうだ、もう一つは、闘う「くろどり」くんの仲間のユニークさですね。ここの所「ねこ」の絵本に偶然出会っていますが、今回の猫はこんな感じです。 中々な顔をしていますでしょ。ぼくは気に入っているのですが、いかがでしょうか。 もっとも、このシーン、実は一匹の猫なのですが、なぜ、こんな絵になっているのでしょうね。絵だけの「仕掛け絵本」というおもむきですが、興味のある方は図書館にでも行って探してみてください。 1989年に出版された絵本で、新しく購入することはできないようですね。ご覧になるとしたら、やはり図書館でしょうね。追記2022・07・04 考えてみれば40年以上も昔に出版された絵本です。わけのわからなさがおおらかで楽しい絵本です。大人の感想ですが、とても優れた編集者がいたことを感じさせてくれる本です。最近の絵本についてよく知っているわけではありませんからいい加減な発言ですが、子どもたちが「なんだこれ?」と思って出会う世界も少しづつ変わってきているのでしょうね。なんだか、すぐにわかったり、何かの役に立ちそうな本がふえたような気もします。 子供の世界を大人の尺度でわかったつもりになりたがる時代、子どもを大人の世界の物差しに従わせたい時代、そんな雰囲気を感じます。それって、正しいのでしょうか? そう言えば「質の悪い子ども」とかいう言葉がネット上に踊っていますが、ものすごいことをいう人が現われましたね。国政選挙の演説の発言だそうです。アゼンとして、言葉をうしないましたが、口にした人は子どものことなんて、ホントは興味ないんでしょうね。何とも言えない時代になったことを実感しました。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.31
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ぶん ロバート・クラウス え ホセ・アルエゴとアリアンヌ・デューイ「でておいで、ねずみくん」(アリス館) これが表紙。 で、これが裏表紙。 表紙と、裏表紙を見開きにすると、こうなります。ああ、べつに、「仕掛け絵本」とかの解説をしているのではありません。ただ、この登場ネコの方の全身姿に「惚れた」だけなのです。それだけなのです。 ネコのキャラだけで、なんだか楽しい。それだけ。おはなしはヒ、ミ、ツ!「え」を描いているのはホセ・アルエゴというフィリピン生まれの画家ですが、2012年、「かいじゅう たち の いる ところ」のモーリス・センダックが亡くなった、同じ年に亡くなっています。 「おはなし」を書いているロバート・クラウスという人も、もう亡くなっていて、この「でておいで、ねずみくん」という絵本も、2005年に出版されたようですが、今では図書館でしか手に入りません。 この「ねこ」の姿に惚れた人は、図書館で探してください。まあ、表紙の絵で、予想がつきそうなものですが、ぼくは途中までダマされていて、結果、とても笑いました。 チビラ君に贈りたいのですが、手に入らないのが残念です。追記2022・06・24 「絵本」は楽しいですね。ぼんやり眺めながら寝てしまっても問題ありません。とりあえず谷川俊太郎が関わったものを紹介しようかなと思っていますが、いろいろ不思議なものもあって、ずっと寄り道で、結局お昼寝です。マア、そのうち何とかなるでしょう(笑)。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.27
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「100days100bookcovers no21」五味太郎 「ときどきの少年」(新潮文庫) フェイスブックの画面にあるロバート・ウェストールという人の『海辺の王国』という本の写真を見て何の覚えもありませんでした。 記事を読み始めて、はてな?なんか知ってるという気分が湧きあがってきました。「でも、まあ、イギリス人というのはよっぽど腹に据えかねているのか、ドイツ軍の空襲の話とか多いしなあ。」「いや待てよ、でも、犬と少年の話やろ・・・。」 というわけで、我が家の「愉快な仲間たち」の残していった棚の前に座り込んで、子供の本が並んでいるのを見ているとありました。 で、その「海辺の王国」の近所の棚に住んでいらっしゃったのがこの本です。表紙をご覧ください。「犬」と「少年」です。ジャストミートとはこのことではないでしょうか。 五味太郎「ときどきの少年」(新潮文庫)です。 12歳のハリー君が愛犬ドンと歩いている海辺は、アイルランドとは反対側、北海に面した、だからドイツの空襲がリアルなわけですが、いろんな意味で荒涼とした海岸を少年と犬が「北」に向かって進みながら「ビルドゥングス」していくところが、なんともいえずいいわけで、なんてことを漸く思い出しながら五味太郎の本を手に取ってみると、これがなかなかやめられません。 五味太郎といえば「仕掛け絵本」や「なぞなぞ絵本」で子どもたちの王国を作り上げた人で、表紙の絵の「バス」とか「植木鉢」とかホントに懐かしいのですが、これは大人向けの「自伝エッセイ」と銘打たれた本です。 五味太郎君と思しき10代の少年が、ハリー君の「冒険譚」の、ほぼ10年後、1960年代の東京の西の郊外の町で暮らしています。 少年は自転車に乗って氷を買いに行った帰りに、麻袋に包んでいた「三貫目」の氷を、荷台から滑り落してしまったり、合唱コンクールの練習で「うまく歌おうとしてはいけない」という意味不明の言葉を髪振り乱して絶叫する女教師に恐怖していたりする、実に、貧しく平和な世界でノンビリ生きています。 似た時代を生きた世代の人には、どなたにも「あったかもしれない」話 が描かれているのですが、並みの思い出話とは一味、いや二味、三味ちがうところが、五味太郎の味わいです。 なにせ、あの絵本の王国の王様の手管なわけですから「ユーモア」に不足はありません。しかし、もう一つの味の決め手は、記憶の中にある「謎」を描いているところです。 「水色の高射砲」というエッセイはその最たるものと言っていいでしょう。背より高く育ったトウモロコシ畑の中で広口ビンにアリを集めていた少年がいます。少年は頭上に来襲したB29の編隊と遭遇し、キラキラと雪のような爆弾を落とす光景を目撃します。不安になって振り返ると、畑の中には青空に向かって黄色い光を放つ高射砲があります。高射砲をあやつるのは、前掛けをした「提灯屋」の主人と白衣を着た二人の男たちです。 こんな引用の仕方をすると意味不明なのですが、ともかく、1945年8月20日生まれの太郎少年がそんなシーンを見たはずはありません。この記憶のシーンは「謎」ですね。 大人になり、やがて、老人になったかつての「少年」の記憶の中に、今考えてみると、どうしてもわからない「謎」がない人はいないのではないでしょうか。 お読みいただければ、「なぞ」が「なぞ」としてお分かりいただけると思うのですが、そこに、五味太郎の創作の秘密の一端が語られているのではないかというのがぼくの感想です。なにせ「なぞなぞ絵本」は彼の十八番ですからね。 ちょっとスリリングな、「エッセイ集」というより、限りなく「短編連作小説集」とでもいうべき作品集だと思います。 それでは、次回はYAMAMOTOさん、よろしくお願いします。(2020・06・20・SIMAKUMA) 追記2024・01・20 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.18
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「100days100bookcovers no20」(20日目)『海辺の王国』ロバート・ウェストール作 坂崎麻子訳 徳間書店 SODEOKAさんが選んだ小泉八雲の『骨董・怪談』から、KOBAYASIさんはどこに飛ぶのかしら?八雲が蚊に転生して、虚子を食った松江?明治の東京?ギリシア?アイルランド?カリブ海?全然見当をつけられず、準備するのは諦めていました。 KOBAYASIさんが選んだのはアイルランドだったのですね。素敵な紹介文ですね。大人の哀愁を感じる藤原新也の写真の紹介といい、アイルランドは文学の宝庫ですもの、一昨日から盛り上がっていますね。 映画の話題も掘れば掘るほどザクザク出てきますし。クリント・イーストウッドも『ミリオンダラー・ベイビー』で孤独で気骨のあるボクシングトレーナーの役を、アイルランド系として演じていますね。 アイルランドに離れがたいものを皆さん感じてらっしゃるようですが、私は残念ながら、アイルランド文学も、アイリッシュパブも、アイリッシュダンスも無縁で生きてきました。ギネスってビールは好きですが。 仕方がないので今日は、『風のフリュート』が吹くアイルランドの西海岸『ディングルの入江』からスコットランドの東海岸ノーサンバーランドへ出かけたいと思います。 もうお読みの方も多いと思いますが、ロバート・ウェストールの児童文学『海辺の王国』を選びました。(もう2週間前から想像がついてたって?) 彼はイギリスの児童文学のために設けられたカーネギー賞やガーディアン賞などをいくつもとっていて、今でも子どもにも大変人気があるそうです。私も好きな作家で、『かかし』『クリスマスの幽霊』『弟の戦争』『ブラッカムの爆撃機』『青春のオフサイド』とか読んでますね。読みやすいから。 こどもの時に第二次世界大戦を経験し、大人になってからは美術の先生をしていたそうです。自分の一人息子に戦争中の体験を話したことがきっかけで小説家になったということですが、この息子さんは18歳のときにバイクの事故で亡くなったそうです。『海辺の王国』には、子どもを失くした人物が出てきますが、作者自身を投影しているように感じました。 では、この小説を紹介します。第二次世界大戦中のノーサンバーランドの町に、ハリーという名前の十二歳の少年がいました。ドイツ軍の空襲に遭い、いつものように防空壕に逃げ込んで気づいたら、自分ひとり、家もこわれ、家族はみんな死んだと知らされます。 一人ぼっちでとにかく雨露をしのげるところをもとめてさまよいます。人目につかない海辺で壊れた木製の船をみつけ、そのボートを裏返しにしてもぐって夜を過ごします。寂しさと真っ暗な夜がばけもののようで怖くて涙が止まりません。 すると痩せた汚れた犬がやってきます。おそらくこの犬も飼い主が空襲に遭ったのだろうと思い、一緒に夜を過ごしてからドンと名付け、相棒としてさまざまな経験を重ねてゆきます。 警察だと名乗るチンピラに襲われたり、勝手に農家の納屋に忍び込んで寝ていたら見つかり、あやうくその農夫を殺しそうになったり。今でいえばホームレスの男のそばで、海に流れ着くものを拾い命をつないだり。あわやレイプ。もう死ぬ。ということもあったりしながら、少年は自分で生きる力や人を見る眼を身につけていきます。 マーガトロイドという興味深い人物が登場します。彼は動物と共に生き、まるで人間を相手にしているように会話します。けれど、人間相手だと硬くなってどうかすると言葉も交わせなくなる狂人の風情さえあります。彼は子どもを失くしていたのです。 村人は彼を気の毒だがもはや変人としてしか見ませんし、本人もそれを望んでいるようでしたが、ハリーと出会い、ともに暮らすことで柔らかい心を取り戻します。大人に助けられていた少年が傷ついた大人を癒すところも心が温かくなります。 そして、なんと、死んだと知らされていた家族はみんな生きていました。再会できたのです。が、全然、よくないのです。 家族は「胸がわるくなるような」家にいて、「みすぼらしい」「怒り狂った」「居丈高」で「自分たちだけが苦労してきたんだと、自分をあわれむばかりの……せまい、せまい世界」の住人だという現実に直面する羽目に逢います。 今まで読んできた児童文学と真逆です。最も会いたかった家族が実はこんなつまらない人だったとは‼︎彼は「これからさき、どんなに長いあいだ、本心を見せずにすごさなければならないか……」 と考えて暗澹としますが、けれど、いつか、かならず「広々した空気があって、陽があたり、ドンがいる、ノーサンバーランドの海辺」「自分で見つけた、いや、自分で作ったハリーの王国」「海辺の王国にかえりつこう」 と思うのです。 実は子育て中にこの本を読んで私自身はこの皮肉な終わり方にショックを受けました。 混乱していましたが、その後、「友情とか家族とかふるさととかは、なにより守るべきもので、誰もが最後に戻りたいところだ」というのはステロタイプだったということに気がつきました。家族って狭いところに子どもを閉じ込めておく装置でもあるのですね。 親は、子どもだけが自由で大きな権利を持つことに嫉妬してしまうかもしれない。それぞれの人間が偶然、親になったり子どもになったりして、相性が合えばいいけれど、そうでないことも当然あるはず。 自由と寂しさ、不自由と愛情は切り離せないことを受け止めるしかないという、諦めというより勇気に近いものが自分の中にもあることに気がつきました。さまざまなものに皮肉な目を持つ勇気、家族があろうとなかろうと孤独であることや、世間が不条理という以上に自分自身が不条理な生き物だということに直面するしかない。それでも生き延びようとすることが正しいことで、そうするしかないと思いました。 最後にスタジオジブリの宮崎駿は引退会見した時にウェストールについて触れた言葉を借りて挙げておきます。 僕が好きなイギリスの作家にロバート・ウェストールがいて、作品の中に自分のかんがえなければいけないことが充満しています。この世はひどいものである。その中で『君はこの世で生きていくには気立てが良すぎる』というセリフがあります。これは少しも誉め言葉ではないんです。それでは生きていけないぞと言っているのです。それに胸を打たれました。 と言っています。 日本でも湾岸戦争の後で『弟の戦争』が翻訳されて、中高生の読書感想文対象として話題にもなりました。原題は“Gulf”で、「湾、入江」です。KOBAYASIさんからなんとか繋げられたとはおもうのですが、SIMAKUMAさんはそう来るだろうと予想されていたのでは?どうぞ、お次をよろしくお願いいたします。(E・DEGUTI2020・06・18) 追記2024・01・20 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。にほんブログ村にほんブログ村
2020.08.16
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大道あや「ねこのごんごん」(福音館書店) 帰る家がわからなくて、おなかがすいて、さまよっているチビのノラが、ごちそうのにおいにつられて迷い込んだ家に、大きな老猫とアホ犬と、たくさんのニワトリが住んでいました。「わしは ちょん、というんだ。にんげんでいえば九十八さいぐらいのとしよりだ」「おれはのん、というんだ。おまえのなまえはなんだ」「わかりません。ぼくはなまえがあったかなかったかおぼえていません」「そうかなまえがないのか。ななしのごんべえか。わんー」「おまえはきっとすてられたねこだ。よし、ななしのごんべえなら、ごんごんというなまえにするとよい」 というわけで、この家で暮らすようになった「ごんごん」の人生の、イヤ、猫生の先生は「ちょん」という老猫です。毎日の暮らしの中でいろんなことが起こります。 この下のページに描かれいるのもいろんなことの一つです。 ごんごんは いっぱい さかながいるのを みるのが すきでした。 あるひ さかなを つかまえようとして てを のばしたとたん あしがすべって いけに おちてしまいました。 ごんごんの なきごえを ききつけて、ちょんが すぐに たすけに きてくれました。 ずぶぬれの ごんごんをみて のんは わらいました。 ちょんは ごんごんの ぬれた からだを なめながら いいました。「ごんごん、この さかなに てをだすんじゃない。 おばさんがだいじにしている さかなだ。よく おぼえて おくんだぞ」 これが裏表紙です。今日もニワトリたちが元気です。「ごんごん」は縁側で昼寝でもしながらその様子を眺めているのでしょう。 でも、もう頭をなめてくれる「ちょん」はここにはいません。裏庭のお地蔵さんの下の土のなかです。 そうなんです。生きているものも、死んでゆくものも描く、この世界の描き方が、ぼくはとても好きです。 大道あやは1909年に広島で生まれた画家です。60歳の年から絵を描き始めました。「ねこのごんごん」は1975年、66歳のときに彼女がはじめて描いた絵本です。 「原爆の図」や「水俣の図」で有名な丸木位里は実兄で、兄の配偶者丸木俊は義理の姉です。丸木夫妻の原爆の絵を見て彼女が言った言葉が伝えられています。「兄さんたちは見ていないから描ける。」 芸術と現実を考える時に、心に響く批判だと思います。どちらが間違っているという問題ではありません。しかし、現実を体験するとはどういうことなのかという本質的な問題を捉えていることは間違いないと思います。 言葉通り、爆心2キロの地点で被爆し、「実際に見た」彼女は、90歳になって、初めて「ヒロシマに原爆がおとされたとき」を描きます。 2002年に出版された、この「絵本」の中には、彼女が描こうとしてどうしても描けない世界がぐちゃぐちゃの落書きのように残されています。 それ以後、彼女は2010年に101歳で亡くなるまで、二度と絵筆を持たなかったそうです。 「ねこのごんごん」には彼女が描きたくてたまらなかったに違いない「生きている」ことの「楽しさ」や「美しさ」が夢のように描かれています。 それぞれ、おチビさんたちや、若いお母さん、お父さんたちに是非手に取ってほしい絵本です。追記2020・08・07丸木俊「ひろしまのピカ」の感想は書名をクリックしてみてください。追記2022・06・07 家にある絵本をいじっていると、次々に案内したくなる作品が出てきます。今回は、大道あやの「広島に原爆がおとされたとき」(ポプラ社)を見つけて、とりあえず、以前の投稿に写真だけ追加しました。そのうち内容を「案内」したいと思っていますが、いつになることやらですね(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.07
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丸木俊「ひろしまのピカ」(小峰書店) 最近気にかかっている地元垂水の「流泉書房」という本屋さんが、毎日「今日は何の日」という小さな記事を、お店の前の小黒板に書いて掲げていらっしゃいます。 ちなみに、昨日の8月5日は、かの岩波茂雄が神田神保町に「岩波書店」という「古本屋さん」を開いた日だと載っていました。 あの岩波書店が古本屋さんから始まったというのは、夏目漱石の周辺にオタク的関心のある人なら、知られた事実ですが、街を通りかかる、普通の本好きの人が初めて目にすると、やっぱり、ちょっと面白いとおもうです。 そんなことを考えながら、「流泉書房」のフェイスブックの記事をシェアとかしたりするのが、最近の楽しみなのですが、今日は8月6日で、ボクが思いついたのがこの絵本でした。丸木俊「ひろしまのピカ」(小峰書店) こっちが裏表紙です。女の子が抱えているのは「灯篭」ですね。 で、本文の最後のページは8月6日、広島で行われる「灯篭流し」のこの絵です。まいとし8月6日がくると、ひろしまの7つの川は、とうろうであふれます。ちよちゃん、とみちゃん、おにいちゃん、おかあさん、おとうさん・・・・・。それぞれ、ピカでしんだひとの名まえをとうろうにかくのです。川は、ぱあっとあかるくなります。ひろしまの7つの川は、火の川のながれとなります。ゆらり、ゆらりと、海へゆくのです。ピカのとき、ながれていったひとのようにいまは、とうろうがながされてゆくのです。みいちゃんは、とうさんとかきました。もうひとつのとうろうには、つばめさんとかいてながしました。もうかみが白くなったおかあさんはいいます。7つのままのみいちゃんの頭をなでながらいいます。「ピカは、ひとがおとさにゃ、おちてこん」 丸木俊は北海道生まれの人です。2000年に亡くなって20年経ちます。夫の丸木位里(まるきいり)とともに「原爆の図」を描いた人です。 1981年に出版された、黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」という本の挿絵で、1974年に亡くなっているにもかかわらず、ますますファンが増えたいわさきひちろの先生です。「ねこのごんごん」(福音館書店)という傑作絵本の書き手、大道あやは義理の妹です。「ねこのごんごん」は、また、そのうち案内します。 「ひと」のしたことに「ひと」が苦しむということを描いているのは、石牟礼道子との共作「みなまた海のこえ」(小峰書店)でも同じですね。 戦争も公害も「ひと」のすることです。原子力発電所の事故も、地震という自然災害のせいのようにいいつのりますが、もとはといえば「ひと」のしたことの結果です。「ひと」のしたことに「ひと」が苦しむということは、「ひと」のちからでなくすくとができるはずです。ジージはそう思います(笑)。追記2020・08・07「ねこのごんごん」の感想を書きました。題名をクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.06
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「100days100bookcovers no16」ルイージ・マレルバ 「スーパーでかぶた」(松籟社) イタリアの、ほとんど無名の作家の童話集です。1985年に出版されたこの本は、今では図書館でも見つけることは難しいかもしれません。 我が家の童話の棚の隅にあった本を取り出して読み返しながら、最近の出来事を思い出して笑ってしまったお話がありました、少し長いですが、ここに載せてみますね。 「よごれた空」 ジェット機がすごいスピードで飛びさり、青い空に、白いジェット雲がのこりました。セラフィーノくんは、ときどきそれを見て泣きだし、あいつらなぜ空をよごすんだと、悲しがるのでした。「もし、ぼくが塀に一本線をひいたら、みんな、ぼくのことをおこるのに、空に線をひくものがいても、だれもなんにもいわないなんて。」 おとうさんは、空にかかれた線は、ちょっとのあいだに、ひとりでに消えてしまうのだからと、セラフィーノくんに説明しました。「でも。はくぼくでかいた線だって、そのうち消えてしまうよ。」 おとうさんは、飛行機は交通のだいじな手段なんだから、がまんしなくちゃいけないのだと説明しました。人びとは。旅行することがひつようだし、また、うんと遠くの国へ手紙を送るときも、航空便がひつようだ。つまり、飛行機で旅行する手紙のことだがな、などともいいました。 でも、セラフィーノくんはなっとくしようとはしませんでした。セラフィーノくんはいいました。空に線をかくのは、おもに戦闘機などの軍用機だし、あんなのは、ガソリンのむだ使いをして、空を飛びまわるより、じっとしてたほうがましだろう、といったのです。おとうさんは、そういわれると、どうやってもこたえを見つけることができなくなりました。息子のいうことはもっともなことなのです。でもセラフィーノくんをなっとくさせるために、軍用機だって、戦争のときにはひつようだろうといいました。セラフィーノくんは、いまは戦争もないし軍用機なんて、いちばんのよごし屋だ、空にいちばん太い線をかき、いちばんうるさい音をだしていると、いいかえしました。 ある日曜日、セラフィーノくんは、いなかに住んでいるおばあちゃんの家へつれていってほしいと、いいました。おとうさんは、ガソリンが高くつくから、だめだといいました、セラフィーノくんは泣きだし、飛行機がガソリンをみんな使っちゃうから、いけないんだと、わあわあいいました。そこで、おとうさんは汽車でおばあちゃんの家へ行くことにしました。 セラフィーノくんは、おばあちゃんと、長いあいだ、おしゃべりをしました。まだ飛行機がはつめいされていなかった、うんとむかしの時代のことも話しました。 帰りの汽車のなかで、セラフィーノくんは、ずうっとむかしには、空を飛んでいたのは、天使だけだったと、おとうさんにいいました。それから、天使たちは、空に線をかいて、空をよごすこともなかったし、いるさい音をださず、ガソリンのむだ使いもしなかったんだから、ジェット機の不行使より。ずっとしつけがよかったんだ、ともいいました。おばあちゃんがそういったのですから、まちがいのないことなのです。 おまえのいっていることは、ほんとうだと、おとうさんはいいました。たしかに、天使たちは空もとごさないし、うるさい音もたてないし、ガソリンのむだつかいもしない。だがな、と、おとうさんはつけくわえていいました。「天使たちのなかには、下を歩いている人間の頭に、おしっこをひっかけたやつもいるんだぞ。うんとしつけの悪いやつは、うんちまで落っことしたんだからな。」 その日から、セラフィーノくんは、もう天使のことも、飛行機のことも話さなくなったということです。 まあ、さほど面白いとも言えないお話しだったかもしれません。こんな風なショート。ショートが30話ほど入っています。 作者のルイージ・マレルバという人は、映画の世界の人だったようです。ビットリオ・デ・シーカの脚本を書いていたチェーザレ・ザヴァッティーニなんかと仲が良かったらしいのですが、自分でも映画を撮っていた人です。童話や小説も書いています。日本では、当時も、今も、さほど知られていません。 そのマレルバという作家を探し出してきたのは翻訳者である「福井あおい」という女性です。 彼女はエルマンノ・オルミ監督の「木靴の樹」をこよなく愛し、デ・シーカからフェリーニに至る、イタリアの「ネオ・リアリズモ」に強い関心を抱く若き研究者でしたが、「マレルバ童話集1」という、たった一冊の本を残してこの世を去りました。35年前のことです。 版元の松籟社はイタリア文学の老舗ともいうべき出版社ですが、その後「マレルバ童話集2」が出版されることはありませんでした。 彼女は神戸の丘の上の学校の読書室で、文学や映画のおしゃべりに夢中だったぼくたちの仲間の一人でした。 みんながおしゃべりをしたり、お弁当を開いたりしていた部屋がありました。その部屋とは本棚で区切られた向うの小部屋で「経哲草稿」や「ドイツイデオロギー」なんていう、国文学とは畑違いの本と格闘しながら、「パヴェーゼがいいよ。」と、のちにERIKOさんの配偶者になったIRRIGATEくんが言ったことばや、「ポリーニの新しいベート―ヴェンのLP聞いた?ハンマー・クラヴィア。ステキなのよ。足は短いけど。」なんてことしゃべっていたあおいちゃんのことばが、ぼくの「イタリア文学」入門でした。 もう40年も昔のことなのですが、そういえば、78歳になったポリーニはまだ現役でピアノを弾いているようです。 ERIKOさんから須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」を差しだされて、すぐに思い浮かんだのがこの本でした。どこか、きっぱりとした須賀敦子の文章の爽やかさにはとても惹かれました。夢中になって読んだ記憶があります。しかし、いつも夢の途中で去った福井さんが一乗寺下がり松町の交差点で、買い物袋を下げ、12個入りの卵のパックを抱えて立っている姿を、ふと思い浮かべてしまう読書でもあったように思います。 思い出を語ってしまいました。これもありかなって、お許しください。それでは。YAMAMOTOさん、初登場ですよ。ちょっと引き継ぎにくい展開かもで、申し訳ありませんね。よろしくお願いします。(2020・06・05 SIMAKUMA)追記2023・02・01 つい先日のことです。1月30日の月曜日、人と会う用があって京都まで行きました。JR京都駅の階上、11階だかのレストランで出会いの用を済ませて、フト、思いついて四条河原町まで歩きました。町屋の間の路地のような道をウロウロ北に向かって歩きながら、40数年前に、上で紹介した「福井あおい」さんと四条大橋のたもとにあった音楽喫茶で会ったことを思い出しました。 どんなことを話したのか、それからどうしたのか、全く覚えてはいないのですが、確かに会ったことは事実です。 そんな記憶に促されて、四条大橋の西のたもとまで歩きましたが、件の音楽喫茶は見つけられませんでした。40年たって、記憶の引き金のようなものだけが頭の中にあることが不思議ですが、二十代の半ばで不慮の事故死を遂げた彼女の顔立ちさえ思い出せないまま、ボンヤリ立ち尽くしました。 「行く川の流れはたえずして…」といった人がいましたが、彼が見たのも、この川だったのでしょうか。 追記2024・01・20 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。にほんブログ村にほんブログ村
2020.07.21
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ジル・バシュレ「わたしのネコがちいさかったころ」(平凡社) 市民図書館の新入荷の棚で見つけました。ネコの話だと思いました。まったく人をくった「ネコ」のお話しでした。 ジル・バシュレというフランスの絵本作家の方のお家には、イタズラばかりして手に負えない「ネコ」がいます。ちょっと大きくて、ネコ君のただのいたずらがただでは済まない生活になってしまっています。実は、ちょっとではなくてあまりに大きいことにバシュレさんようやく気付いて困惑している毎日のようです。 表紙は、ジル・バシュレさんが、新しく生まれた「ネコ」と出合いに行ったお家の暖炉の前の風景です。バシュレさんは、ここで生まれたばかりの「ネコ」をもらって連れて帰ったのですが、大きくなっちゃったんですよね。でも、大きくなっちゃうんですよね、きっと。 裏表紙に写っているのが、バシュレさんが用意したおもちゃや道具に困惑している「ネコ」の様子です。 これ以上あれこれ言ってもしようがないので、ジル・バシュレさんの気持ちを一言書き添えます。もちろん、この言葉はシマクマ君がバシュレさんの気持ちを忖度して、想像を記すものです。「わたしのネコ」は途方もなく大きくなりましが、やはり「ネコ」は「ネコ」であって、わたしにはいなくてはならない大切な生き物なのです。 というわけで、「ネコ」がお好きな方には、必読(?)の絵本でした。ちなみに、この絵本はシリーズ化されているようで、結構人気があるらしいですね。ぼくは好きですが。追記2020・04・20 この絵本の翻訳をしている「いせひでこ」さんの絵本「ルリュールおじさん」の感想はここをクリックしてください。追記2022・05・23まあ、ネコに限らないのでしょうが、大きくなってしまうわけで、画家の横尾忠則さんは死んじゃったのに大きいままの愛猫について、追悼本、いや、追悼画集まで出していらっしゃいます。「タマ、帰っておいで」(講談社)を最近読みましたが、感想も書きました。よろしければそちらもどうぞ。ボタン押してね!ボタン押してね!世界一ばかなネコの初恋 [ ジル・バシュレ ]
2020.04.23
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いせひでこ「ルリュールおじさん」(理論社) いせひでこさんという絵本作家、いや、絵描きさんとお呼びする方がいいかもしれませんね。その方の「ルリュールおじさん」(理論社)という絵本を図書館で見つけました。 ジル・バシュレというフランスの人が書いた「わたしのネコが小さかったころ」(平凡社)という、全く、人をくった、愉快な絵本の訳者の名前として知ったのですが、御本人の絵本もなかなかなものでした。 絵本の舞台はパリです。表紙はアカシアの木陰を走る少女ですね。登場人物は、大好きな植物図鑑が壊れてしまった少女ソフィーとその本を直してくれるルリュールおじさんの二人です。 お読みになればすぐにわかりますが、ルリュールというのは人の名前ではなくて、仕事の名前でした。オジサンのお父さんもルリュールという仕事の職人さんだったそうです。 印刷した紙の冊子を革装の表紙をつけて製本したり、読み込んで傷んだ本を修復修理したりするお仕事ですね。 日本語には訳すことができない仕事です。製本屋さんという訳だと少し違う気がします。多分、聖書に始まるヨーロッパの本の文化を支えてきた伝統的な仕事でしょうね。 その製本の仕事をそばで見ているソフィーと、機械を操作しているおじさんの姿のページです。もうオジーさんですね。 オジサンは、自分のお父さんの仕事を見て、この仕事の職人になりたいと思ったそうです。そのころの思い出のシーン。 セピア色の思い出が、オジサンの心の中にあります。お父さんの手元を覗き込んでいた少年も、今では背筋も曲がり、頭も白くなった老人です。 次の絵は、ようやく修理がすんで、新しい本になった図鑑を覗き込んだり、抱きしめたりしているソフィーの姿です。 床に置いた図鑑に覆いかぶさっている様子を描いている絵が、ぼくは好きです。 この本の中には壊れた本がどういうふうに修復されていくのか、順番に描かれています。ノリが乾く時間、おじさんとソフィーがパリの街を散歩したりもします。 なんと言うんでしょうね、上品な絵のタッチとお話しのテンポがゆったりしていて、とても贅沢な印象の絵本です。大げさなドラマは何もありません。でも、本の好きな人にはうれしい絵本だと思います。 ぼくは、ルリュールおじさんの仕事がどんな子供を育ててきたのか、フランスや、ヨーロッパの、今も息づく歴史と文化の厚みにあこがれを感じました。 そんなフランスでも、新しいルリュールおじさんはもう生まれないのかもしれませんね。 日本人は「書物」を文化として受け取る知性を、近代150年かかっても育てることができませんでした。今、書店の棚に並ぶ本の内容の品のなさ、浅薄さ、毎週廃品回収に捨てられている本の山を見てそう思います。 すぐに答えを教えてくれて、すぐに役に立つ本は、やがて捨てられます。本を捨てる社会は「歴史」も「文化」も育てる事が出来ないような気がします。 100年以上も前に漱石が小説「三四郎」の登場人物、広田先生に言わせたことば、「滅びるね」が、もう一度リアルに響き始めているのではないでしょうか。 伊勢秀子さんはノンフィクション・ライターの柳田邦男さんの配偶者だそうです。この絵本は2007年の講談社出版文化賞だったようです。 公立の図書館ならどこにでもある絵本でしょうね。でも、今はどこも閉まっていますね。またいつか、どこかで読んでみてください。追記2022・05・21 神戸に「子どもの本の森」という図書館(?)がオープンしています。本を陳列して、本を読むイベントをする施設らしいのですが、貸し出しはないということです。大きな書店で、椅子とかベンチに座って棚の本を読めるというところもあります。「ブック・カフェ」とかいうコンセプトの喫茶店もあるようです。喫茶店の書棚に、読んだことのない本がならんでいて、毎日通って読むのでしょうか。 何故そうなのか、自分でもわかりませんが、図書館とか教室とかでは読むことに集中できないシマクマ君には、「貸し出しのない図書館」、「新刊の試し読み」、「大きな書棚の喫茶店」、みんな無縁ですが、ついていけない、そういう時代というのが始まっている印象です。「本」なんてものは、親兄弟の目を盗んで、友だちとかを出し抜くために、こっそり読むものだと思うのですが、どうも、そういう時代は終わってしまったようです。棚に飾ってある本が好きな人は増えても、読んでいる人があんまり増えていないようですし、読んだ本は断捨離という不思議な時代ですね。 やっぱり、ついて行けそうもないですね(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!『2点で送料無料』『箱あり』マスク 使い捨てマスク 三層構造 花粉対策 風邪感染防止対策 大人用 家庭用 男女兼用 ウイルス対策 50枚 大きめサイズ 箱包装 プリーツマスク 不織布 花粉 ワイヤー入り 立体プリーツ ウィルス飛沫 インフルエンザ対策 ウイルス対策 162582
2020.04.18
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。 追記2024・08・04アニメの「風が吹くとき」を見ました。1986年に作られたアニメの日本語版でした。絵本よりもきついです。感想をブログに載せました。上の題名をクリックしてくださいね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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エランベルジェ原作・中井久夫文・絵「いろいろずきん」(みすず書房) 精神科のお医者んの中井久夫さんが、フランスのお医者さんのエランベルジェさんの童話に、自分で挿絵を描いた絵本があります。「いろいろずきん」(みすず書房)という題です。絵本の最初のページで、原作者のエランベルジェさんがこの童話を書いた動機をこんなふうに話しています。かわいいまごたちへきみたちに赤ずきんの話をしたら「赤ずきんしかいないの?青ずきんがいないのはおかしい、もっといろいろな色のずきんががあるはずだ」と言ったね。そりゃそうだ。どうして気がつかなかったのだろう。そこで、いろいろな色のずきんの話をさがした。どこかにあったかって?それよりも、まず、読んでくれたまえ。 この絵本には「黄色」・「白」・「バラ色」・「青」・「緑」のずきん、帽子ですね、を着た少年や少女が登場します。その子供たちが、いろんな夢を見たり冒険したりする五つの物語が入っています。 ちょっと「青ずきん」の冒険のシーンを紹介しますね。 青ずきんは、ボートをじぶんで動かしてみたくなりました。杭から綱をほどいて、海にうかべました。オールを動かし見ますと、ちゃんとボートは動きます。「わたしだって、できる」と青ずきんは、ボートをこいで、岸からはなれてゆきました。 はっと、気がつくと、沖に出ていました。岸は小さく小さく見えます。ボートの向きを変えようと思いましたが、どうしたらよいかわかりません。吹く風も、海の水の流れも、ボートをどんどん岸とは反対の方向に流します。そのうち波が出てきて、ボートはおもちゃのようにふりまわされました。 特別に大きな波がやってきて、もうだめだ、と目をつむったとき、海が急におだやかになりました。イルカが歓迎するようにまわりを飛びはねました。 さあ、「青ずきん」にはここから、どんな冒険が待っているのでしょう。それは、この絵本を手に取って確かめてください。 絵本の最後には、翻訳して絵を描いた中井久夫さんの丁寧な解説がついています。「五人のずきんたち」について、精神科のお医者さんらしい優しく丁寧な解説です。ぼくはその最後に中井さんがこう書いているの惹かれました。 どのずきんも、話の終わりには「いい子」になったようにみえますが、精神的には一まわり大きくなり、自立し、成長しています。 また、「いろいろずきん」は。子どもの目にうつる大人のすがたが成長につれて変わる物語でもあります。アリエスは、大人による「子どもの発見」という本を書きましたが、これは、子どもによる「大人の発見」の本です。大人が読む意味もあるでしょう。 人と人との関係には「向こう側」と「こっち側」があるということを穏やかに語っている、このニュアンスがぼくは好きなんです。ちなみに、文中のアリエスというのは、「子供の誕生」(みすず書房)を書いた歴史家フィリップ・アリエスのことですが、いづれまた「案内」したいと思っている人ですね。 最後に原作者エランベルジェについては、中井久夫さんのこの解説をお読みください。 原作者アンリ・フレデリック・エランベルジェ(1905-1993)は精神医学者で精神医学史家です。南アフリカのザンベジ川上流に、スイス系フランス人宣教師の子供として生まれ、豊かな自然の動植物と共に幼年時代を過ごしました。九歳の時、突然、ヨーロッパに送られて教育を受けますが、第一次世界大戦によって親との連絡が立ち切れたまま、中学を終え、教養課程で歴史を学んでから、パリ大学医学部を出て精神科医となります。ロシアから亡命してきた夫人と結婚したエランベルジェは生活のため西フランスの小さな町で開業し、その土地の風俗や迷信がアフリカと変わらないのに気づきます。そういう経験が、全部、この童話の栄養になっているでしょう。 なお、彼は、1979年に日本に来て、多くの人と親交を結びました。わたしもその末席に連なっていました。 挿絵は、主に主人公の目から見たように書こうとしました。精神科医が相手の身になろうとつとめるのと同じでしょうか。 余談ですが、我が家のこの本はチッチキ夫人の宝物です。あだやおろそかに扱うことは許されません。表紙の裏には著者直筆のメッセージとサインがあるのですから。追記2022・05・28 最近「カモンカモン」という映画を観ていて思い出しました。子供らしさや素直な子供、成長や発達、保護したり教育したりという子供理解も大切かもしれませんが、同じ社会の中で大人と同じ人間として生きている子供を忘れているのではないかという問いかけを感じたからです。 アリエスの「子どもの誕生」(みすず書房)の案内を、とか言っていましたが、読み直すことさえできていません。普通の人間の普通の生活の中の感情や死生観を歴史として書いたアリエスが最後に残したのは「死の歴史」(みすず書房)ですが、もう一度、その2冊を読み直したいと思っています。追記2023・01・19 中井久夫さんのお仕事の中で、ご本人の医者としての論文や、エッセイはすぐに手に取ることができるわけですが、難儀なのが翻訳です。サリバンやエランベルジェなどの海外の精神科医の仕事の翻訳、カバフィスはじめとするギリシアの詩や、ヴェレリーの詩の翻訳なんかは、著作集を確認したわけではありませんが、意識して探さないと気付けないかもしれません。中井久夫という人の大きさというか深さというかがが翻訳の仕事にはあるような気もします。ここで案内しているのは子供向けの絵本で、エランベルジェの翻訳ですが、内容は中井久夫さんのオリジナルなんじゃないかという気もします。マア、一度、探して手に取ってみてください。ボタン押してね!にほんブログ村「伝える」ことと「伝わる」こと (ちくま学芸文庫) [ 中井久夫 ]
2020.01.30
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池澤夏樹「熊になった少年」(スイッチ・パブリッシング) 「ゴールデン・カムイ」という漫画を読んでいると、アイヌの人たちにとっての「熊」の存在が、かなり詳しく描かれていて、そのあたりがこの漫画の面白さのひとつです。エゾオオカミとかヒグマとかは、山の神、カムイなんですね。 宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」の最後のシーンは熊たちが熊撃ちを仕事にしている小十郎の死を悼み祈るという、ちょっと不思議な光景の描写で胸をうたれます。 最近では川上弘美がデビュー作「神様」という作品で「くま」の隣人を登場させ、主人公と一緒に散歩させるという不思議な味わいの短編を書いていました。 「そのうえ」というべきか、「ところが」というべきか、東北地方を襲った「あのこと」の後「神様 2011」という題で書き直した作品では、放射能に汚染された田んぼ道を防御服も着ないで、やっぱり、「くま」と二人で散歩する話をこんなふうに書いています。「防御服を着てないから、よけていくのかな」「でも、今年は前半の被曝量はがんばっておさえたから累積被曝量貯金の残高はあるし、おまけに今日のSPEEDⅠの予想ではこの辺りには風は来ないはずだし」 なんて、まあ、ヤッパリ、ちょっとポカーンとする世界なんですが、だいたい、この作品の「くま」ってなんなんだろう?って思っちゃいます。 そういえば多和田葉子の「雪の練習生」という作品では「白クマ」が主人公でした。たしか、あの「白クマ」は飛行機に乗ってカナダかどっかへ出かけていったはずでしたが。「小十郎の葬儀」の話が気にかかって、ネットをウロウロしていると、奥野克己という方の「空き地」(ここをクリック)というブログ(https://www.akishobo.com/akichi/okuno2/v9)に全部まとめた話が出ていて、そこで出会ったのが、池澤夏樹「熊になった少年」(スイッチ・パブリッシング)でした。 このブログでは、奥野さんは「アニミズム」について論じていらっしゃっていて、とても興味深いわけですが、ここでは「熊」がでてくるお話として案内しますね。 池澤夏樹さんには「静かな大地」という北海道を舞台にした長編小説があります。幕府の瓦解を機に、淡路島から北海道の静内というところに移住した、作家自身の母方のルーツを描いた作品です。その中にでてくる、山の神を祭らないトゥムンチの一族の少年の悲劇を描いたのが「熊になった少年」です。「静かな大地」は半分はアイヌの話で、本文の中にアイヌの民話や神話をいくつか象嵌した。それは古老の語るのを聞き書きしたものを和訳した、神聖な民話・神話だった。しかし最後に沿える話は捏造することにした。自分の中で木が熟していたのか、まことしやかな民話がすらすらと出てきた。 これが、この作品についての作家のことばです。表紙の北海道の森と熊の姿が印象的で、ここからおしまいのページまで、美しい本です。「今は、わたしたちの嘆きの歌がこだまするばかり。」 島フクロウのこんな嘆きのことばで物語は終わります。お話は読んでいただくとして、坂川英二さんという北海道出身のアーティストが描いた「熊」や「鮭」の挿絵が何ともいえずいいとおもいました。追記2020・01・27「ゴールデン・カムイ」(一巻)・(二巻)の感想はここをクリックしてください。追記2023・03・04 「ゴールデン・カムイ」(集英社)は2022年に全31巻で完結しましたが、物語としては、ちょっとトンボ切れだったんじゃあないかという感想でした。もっとも、感想、ご案内もトンボ切れで、いつになったら完結させられるのかわかりません(笑)。 そういえば、池澤夏樹さんの「静かな大地」(朝日文庫)も、いつの間にか文庫になっていましたが、ご案内できないままです。単行本は古本市場で200円くらいですがが、文庫本は版元品切れで1700円とかになっていて、何が何やら分かりません。作品は読みでのあるいい小説ですよ。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.01.27
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町田尚子「ねことねこ」こぐま社 「バカ猫百態」と題したアホ・ブログの主人公、「ゆかいな仲間たち」のヤサイクン家の黒と白の猫くんたち、ジジ君とキキちゃんの絵本が出来ました。 というのは、もちろん、マッカなウソですが、チッチキ夫人が、どこからか見つけてきた「ねことねこ」(こぐま社)という絵本の表紙は、二人の、いや二匹の肖像画そのものでした。(笑) 中のページを紹介するのはやめます。みんなネコの絵です。二人、いや、二匹並んだネコくんやネコちゃんが、ちょっとづつちがっていて面白いです。本屋さんで探してみてください。 ところで、ジジ君とキキちゃんには、こんな写真があります。 作者の町田尚子さんはどこで、このシーンをご覧になったのでしょうね。ええ、ご覧ください。この絵本の裏表紙はこうなっているんですね。 ねっ!この絵本は、やっぱり、ジジ君とキキちゃんにプレゼントすべきだと思いませんか? そろそろクリスマスもやってくるようですし。最近、バカ犬、カルちゃんの登場で、すっかり落ち着きを失っているお二人に、いや、お二匹に、癒しのプレゼントになるんじゃあないでしょうか。 不思議ですね、「二匹」という言葉の頭に「お」をつけると、何だかバカにしているように聞こえますね。モチロン、バカになんかしていませんよ。 「バカ猫百態 その12」、「カルちゃん」登場はこちらをクリックしてください。追記2022・06・03 そういえば、最近ジジ・キキお二匹の写真が届きません。ジージのシマクマ君の家には猫も犬もいませんから、送られてくる写真だけの猫好き生活なのですが、お二匹とワンちゃんのカル君、元気に暮らしているのでしょうか。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.12.09
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ますむらひろし「ゴッホ型猫の目時計」(小学館) 偉大なる「ヒデヨシ」様の生みの親、マンガ家ますむらひろしの「ゴッホ」です。棚を片付けていたら出てきました。これは案内しないわけにはいきません。「跳ね橋」アタゴオル版寂しさは、どこからくるのだろう。それは、たったひとりで居るからだ.アタゴオルの跳ね橋を渡る荷象車のなかにはスミレ博士の声がタラフクつまっている。「ひとりぼっちより ふたりぼっちが いいぞお」 裏表紙は「糸杉」とあそぶヒデヨシとテンプラ。夜ごと「ゴッホの手紙」を読み、何度も作品を眺めていると、百年もたったのにゴッホの絵具たちが、画布の上でまだうごめいているのに気づく。あの絵具たちはいまだに乾いていないのだ。なぜ乾かないのか。それはたぶん、世界がいつも乾いていることに歯軋りしているからなんだ。 あとがきに、こう記しているますむらひろしはゴッホをなぞりながら、その世界にヒデヨシやテンプラを遊ばせる。宮沢賢治の世界や、葛飾北斎の世界のときもそうだったように、アタゴオルの世界がここにも広がっていく。それが楽しい。追記2019・11・11「ますむらひろし北斎画集 ATAGOAL×HOKUSAI」(風呂猫)という画集もあります。また案内しますが。追記2022・04・23 ますむらひろしさんのアタゴールの世界は忘れてほしくない傑作だと思うのですが、案内しきれていません。ボタン押してね!にほんブログ村銀河鉄道の夜 最終形・初期形「ブルカニロ博士篇」 (ますむら版宮沢賢治童話集) [ ますむらひろし ]
2019.11.21
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堀江敏幸「象の草子」ー現代語訳絵本「御伽草子」ー(講談社) 今や、押しも押されぬ大作家(?)。早稲田で教えていらっしゃるそうで、二十代で直木賞を取った朝井リョウ君のセンセイだそうですね。お書きになる作品は、どれもこれも、中年からん老年にさしかかる女性陣の絶大なる支持を得ていると、まあ、やっかみ半分、思いこんでいるだけかもしれというませんが、堀江敏幸さんという方はご存知でしょうか。 今日はその堀江敏幸さんの、これまた、女性陣がお喜びになるにちがいない「お戯れ?」、現代語訳絵本「御伽草子」と銘打ったシリーズの絵本「象の草子」(講談社)のご案内です。 このシリーズには、今は亡き橋本治さんの「はまぐりの草子」とか、奇才町田康さんの「付喪神」とか、ちょっと気になる書名も目に付くのですが、今日は堀江敏幸さんとMARUUさんのコンビの、この絵本を手に取りました。 「御伽草子」と聞きましても、かの太宰治の「カチカチ山」くらいしか思いうかんでこないという浅学ぶりで、「現代語訳」なのか、「翻案」なのかを見破る眼力があるわけではありません。 気にかかる方は絵本の末尾に原文が載せられています。それをお読みになれば確かめられますが・・・・・。 これが絵本の裏表紙です。何やら「猫」と「鼠」がにらみ合っておりますね。さて、いつ頃のことでありましたか、都で起こった「猫」族と「鼠」族の大げんかを、「象」さんが仲裁というか、解決というか、とにもかくにも、頑張った象さんのお手柄を記録したお話というわけでございます。 きびしい修行をつんで法師となった像だけが、それらのおもい文字をきざんで文書とし、のちの世にのこすことがゆるされる。ごぞんじのとおり、文書のさいごに押された印を印像といい、印像をうけるというときは、にんげんひとりひとりのなかに、わたしのことばがとくべつな転写によってはりつけられてあかしなのであります。 慌ててお間違いなさらないでくださいね。「印像」であって「印象」ではありません。普通は署名のハンコのことですが、もともとは、自然と浮かび上がってくるものであったようで、それだけでも霊験あらたかというもであったようですね。 えらく端折るようで申しわけありませんが、その後のいきさつはお読みいただくとして、堀江さんのお戯れが筆を擱くにあたって炸裂しているところをご紹介いたしましょう。 いまに伝わる猫の草子の、これがまことのすがたです。和歌をよくする公家門跡にまがりしていた、ふうがねずみが詠んだとされる腰折れのうたがあそこに引かれていたのをご記憶でしょうか。 ねずみとる猫のうしろに犬のいゐてねらふものこそねらはれにけり じつはこれも、話がうまくおさまらなったため師の許可をえてわたしが戯れてこしらえたものなのです。 よのなかにたえてねずみのなかりせば猫のこころはのどけからまし といった、それこそあんもらるなうたよりはよかろうとの判断でした。 あらざらん此のよのなかのおもひでにいまひとたびは猫なくもがな とはさすがにおわらいぐさ、じつのところは、 あらざらんくものうへなるあんもらかいまひとかけといまひとかけと猫なくもがな これが手びかえにのこされた一首であります。 これらの和歌などが、原話にあるのかないのか、定かではありませんが、ちょっとバカバカしくていいのではないでしょうか。歌中の「あんもらる」は「アンモラル」とカタカナにすればおわかりですね。ならば「あんもらか」とはなんぞやと、お気づきの方は、どうぞ本書をお手にしていただきたいと思います。 さて、ここからは、どうも純粋にお遊びというこでしょうか。 師を亡くし、自身の死期も近づいたいまとなっては、いのちありかぎりさまざまな記憶を、わかい大像たちにつたえようと思っています。しかし彼らに文字だけではつうじないようで、あのすとりいとげいじゅつぬずみの蛮久志にならった刷り絵の冊子を、ゆいごんがわりに用意しているところです。 とまあ、こんな感じで一巻のおわりとなるのでございます。空飛ぶゾウの絵など、なかなか楽しい絵本でございました。 ここまで、こんなふうに書いてきまして、いうのもなんなんでございますが、この絵本、目に困難を感じ始めた老人にはかなりな難物でございました。「絵本」としては文字が、少々、小さめ、且つ、多めなのは辛抱いたしましたが、ページ全体まっ赤な色刷りで、文字が白抜きとか、別の色抜きというパターンは、デザインの奇はよしとしましたが、ちょっと、ムカついたのでございます。「なんで、絵本読むのに、これだけ目ェ―チカチカさせて、肩まで凝らなあかんねん!」 御本をお作りになられている方々は、まだ老眼鏡などと御縁のない方々なのでございましょうか? ヤレヤレ・・・とほほ。 ちなみに、引用文中にある「蛮久志」はこちらをクリックしてみてください。「バンクシー」と読みます。追記2022・05・17 学校の図書館の司書室に座っていたころ、新しく出た面白そうな本を、まあ、仕事の都合もあって、あれこれ見つけるのが楽しくて、ネットとかパンフレットとか、あれこれ探し回っていて出会った「絵本」でした。自分のためだけに「本」を探すようになってみて、新しい本に出合わなくなったことに気づきます。 自分だけの世界って、いつの間にか狭く狭くなっていくのですね。もう一度壁の向こうの広い世界を見晴らすにはどうしたらいいのでしょう。それが、最近の課題です(笑) ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.05
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文アーサー・ビナード 絵ベン・シャーン「ここが家だ」(集英社) 和合亮一の「詩の礫 起承転転」の中で、「『米美術館、福島だけ貸し出し拒否ベン・シャーン巡回展』によせて」という詩に出会いました。おそらく、2012年の三月にツイートされた150行ほどある全体の、前半60行ほどを、ここに書き写します。「『米美術館、福島だけ貸し出し拒否ベン・シャーン巡回展』によせて」ベン・シャーンよあなたは何を想うあなたの手がけた絵が福島に届けられないのだ私は悔しいベン・シャーンよあなたは何を想うのかあまりにも悔しいではないか「米美術館 原発の状況考慮」米国の美術館七館が所蔵作品六十九点を福島へ出品停止あまりに悔しくて指が震えてキーが打てないベン・シャーンよあなたの精神はこのようにもあなたの精神の外に置かれている人間とはかくも恐ろしい芸術すら殺していく私は今年の七月に福島県立美術館の展示室であなたの絵に再開するのをずっと心待ちにしていたのだ昨年の十二月に葉山の美術館で会った全てのあなたの真顔と横顔に会うことをあなたの作品の一つ一つと約束してきたのだそのはずだったろうあなたが裏切ったのかあなたの絵が裏切ったのかあなたの未来が私たちを裏切ったのかひどいじゃないかベン・シャーンよいやベン・シャーンには何の罪もないならば問うなぜベン・シャーンの全ての絵が福島には来ないのか(以下略) ちょっと、中途半端な引用で申し訳ありません。福島での開催が予定されていたベン・シャーンの巡回展覧会が、放射能汚染を理由に中止されたことが話題になったことを、ボンヤリ覚えていました。ベン・シャーンという画家についても、そんなに詳しく知っているわけではありません。我が家の愉快な仲間たちが読んだ「ここが家だ」という絵本を知っていただけです。 和合亮一のこの詩に出会って、棚から取り出しました。第5福竜丸といっても、もう知らない人の方が多いかもしれません。1954年、太平洋の果て、ビキニ環礁付近でマグロ漁をしていた日本の漁船の名前です。 1954年3月1日、漁の最中に、アメリカの水爆実験に遭遇し、23人の船員たちは、全員が死の灰を浴びたそうです。被ばくした船員たちは、全員、放射能病を発症し3月14日に焼津に帰ってきます。 船員たちの最年長、無線長の久保山愛吉さん(40歳)が、9月22日に亡くなります。アメリカの画家ベン・シャーンが、この事件の始まりから終わりまでを絵として描き、アーサー・ビナードという詩人が文を書いたのがこの絵本です。焼津の 家には おくさんとかわいい むすめが 3人かれを まっていた。9月22日 久保山さんの 心臓は とまった「原水爆の 被害者はわたしを最後にしてしてほしい」といってかれはなくなった。 1954年というのは、今年65歳の、ぼくが生まれた年です。映画「ゴジラ」が生まれた年でもあります。日付を読んでいて、そういえば3月14日はアインシュタインの誕生日だったことも思い出しました。 この絵本を読み返していると、和合さんの「怒り」と「哀しみ」が、よくわかるような気がしました。少し難しいです。でも、小さな子供たちに、読んであげてほしいと思います。(S)追記2019・12・08和合亮一の「詩の礫 起承転転」へはここをクリックしてください。追記2022・05・16「核兵器」について、「戦争」について、安易というか、ご都合主義というか、1954年にうまれて、「戦後民主主義」・「高度経済成長」の時代を生きてきて、その時その時に、「それはないやろ!」と、のんびり考えてきた「ことば」が、リアルだとか、現実主義だとかいう枕詞をつけて飛び交う世の中になりました。「徴兵」とか「愛国」とかいう「ことば」も、遠慮なく流通しているようです。「ほんとにいいんですか?」頭に浮かぶのは、その一言ですが、「ホント、大丈夫ですか?みなさん!」ボタン押してね!にほんブログ村ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸 [ ベン・シャーン ]まだ売っているようですね。日本の名詩、英語でおどる [ アーサー・ビナード ]
2019.09.02
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佐野洋子「ぼくの鳥あげる」(幻戯書房) 佐野洋子さんの懐かしい絵本が幻戯書房という本屋さんから復刊されました。 小さい男の子はお母さんのお腹から出てきたとき、ひたいにぺったりと切手をはりつけていました。時々は、首にへその緒を巻き付けた赤ん坊が生まれることはありましたが、ひたいに切手をはりつけて生まれてきた赤ん坊は初めてでした。 こんなふうに、一枚のうつくしい「切手」の長い旅が始まります。なにせ切手ですから、旅しちゃうわけです。 天才的泥棒の一家、戦場の兵士、仲の良い夫婦、酒場の酔っぱらい、貧しい絵描き、図書館の貸し出し係、知らない国を旅する船乗り、伯爵夫人。 さて、波乱万丈の旅はこんなふうに終わります。 女の子は、若者のひたいにそっとキスをしました。 何だか要領を得ない案内ですが、お話なのでオチがわからないようにと思ってのことです。気にかかった人はお読みいただくほかありませんね。つまらなかったらごめんなさい。 我が家では佐野洋子さんは特別な人です。お出会いしたことも、もちろん、お話したこともありません。亡くなって、ドキュメンタリー映画『 100万回生きたねこ』を見ましたが、映画の出来は、少し残念だと思いました。「おれはねこだぜ」とか「100万回いきたねこ」以来、彼女が描く世界に惹かれてきましたが、今回復刊されたこの童話も、コユちゃん姫をはじめ我が家のチビラ君たちに手渡したいお話でした。挿絵を新しく広瀬弦、佐野洋子が「私の息子はサルだった」と書いた、あの少年が書いているのもうれしいですね。それではまたね。追記2022・06・02 下世話な連想で申し訳ありませんが、我が家では谷川俊太郎と佐野洋子はセットなのです。で、谷川俊太郎の絵本や詩を案内したいと思うと、佐野洋子のエッセイや絵本もいろいろ思い出されてきて、どうしようかなと思いながら、それぞれ少しづつ読み直しているところです。まあ、何とか「案内」にこぎつけたいとは思っているのですが(笑)ボタン押してね!にほんブログ村100万回生きたねこ [ 佐野洋子 ]はい、傑作です。私の息子はサルだった (新潮文庫) [ 佐野 洋子 ]ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ
2019.08.08
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高木仁三郎・片山健「ぼくからみると」(のら書房)高木仁三郎さんが「ぶん」を書き、彼のアイデアを片山健さんが「絵」にした絵本があります。「ぼくからみると」(のら書房)ですね。「かがくのとも」という福音館の子供向け科学雑誌の80年代の一冊がリニューアルされて、一冊の絵本になったのが、今から5年ほど前だそうです。夏休みのある昼下がり。ひょうたん池で釣りをしているよしくん。向うから、自転車に乗ってやってくるしゃうちゃん。池の向こうを泳いでいるカイツブリの家族。池の中の鯉。竿の先にとまったトンボ。空から舞い降りてくるのはトンビ。日陰を作ってくれている立木の枝にとまっているのはモズ?こっそりバケツの獲物をうかがうノラ猫。アザミの花に群がる蜜蜂。花から花へ飛び交うのはアオスジアゲハ。池之端に座り込むアマガエル。しょうちゃんが隣にすわって、青空を見上げている。夏の午後だ。「入道雲が出てきた。あれは何になるところなんだろう。」 絵本をみている「ぼくからみると」そんな感じ。 池の周りの、いろんな生き物が、一匹、一匹「ぼくからみている」。 それが世界だなのですね。 一ページ、一ページが、見開きで一つの世界です。 池の鯉の視点、トンビやモズの目、みんな素晴らしい。なかなか豪華な絵本です。 高木仁三郎さんが2000年に亡くなって、20年近くの年月が経とうとしています。彼が反対し続けた原子力発電所は、大きな地震があって、彼の予言通りの事故を起こしました。彼が主張したのは、それぞれの立場の人間が、ともに生きる人間に対する責任を自覚した、科学的な客観主義、相対主義だったと思います。 様々な視点を子供たちにも呼びかけた彼が生きていたら、責任も、客観的正当性もないでたらめな社会が、実際に出現したのをを見てなんといったのでしょう。新しい時代を生きる子供たちに読んでほしい一冊です。追記2021・08・07 人間をはじめとした生き物の「いのち」をないがしろにすることが平気な時代が始まっているような気がする今日この頃です。 「空」から見おろしたり、「草むら」から覗いたり、「池の中」から見上げたり、いろんなところから世界を見る面白さと大切さを大事にしたいと思います。 子供たちは夏休みですね。いろんなところに行って、いろんな風景と出会ってほしいですね。追記2022・05・18 ベランダに蝶がやってきて卵をおいていくようになりました。トンボが飛び始めるのももうすぐです。トンボから見たり、葉っぱの上をはっている青虫から見たりする世界を思い浮かべるのは楽しいですね。 おっと、ヒヨドリがベランダの手すりにとまりました。アブナイ、アブナイ。ボタン押してネ!にほんブログ村【中古】 市民科学者として生きる 岩波新書/高木仁三郎(著者) 【中古】afb名著!原発事故ー日本では? (岩波ブックレット) [ 高木仁三郎 ]完全に予言していた彼は偉い。宮澤賢治をめぐる冒険新装版 水や光や風のエコロジー [ 高木仁三郎 ]宮沢賢治が好きだったんですよ。高木さんは。市民の科学 (講談社学術文庫) [ 高木 仁三郎 ]科学者であろうが、法律家であろうが、ただの市民。忘れてはいけない原則。
2019.06.09
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サマド・ベへランギー(さく)・ファルシード・メスガーリ(え)「ちいさな黒いさかな」(ほるぷ出版) 「お前、気でもちがったのかい?世界!・・・・・世界って何なの?世界は私たちがいる、ここのことだし、人生っていうのも、私たちが生きている、これのことなんだよ。」 サマド・ベヘランギーという人の「おはなし」に、ファルシード・メスガーリというイランの絵描きさんが「絵」を描いた童話「ちいさな黒いさかな」。今から50年前に「アンデルセン童話賞」をもらった作品です。「みんな、また会おうね。ぼくのことわすれないでくれ。」「さっきから聞いてりゃ、子どもたちに、うそっぱちばかり教えて、わたしゃ、だてに長生きしてるんじゃないんだから、世界がこの池のことだっていうことぐらい知ってるんだ。うちの子どもたちによけいなことしないで、さっさと行っちまいな。」「わっはっはっはっ、こりゃっちぽけなさかなよ、おまえたちをのみこんでも腹のたしにはならんな・・・」 ちいさなさかなは、あおさぎの長いくちばしの間でもがきましたが、にげることはできませんでした。「おちびさん!しっかりして、助かる方法を考えるんだ。お母さんをよんだって、どうなるっていうんだい?」 谷間の小川を出発した「ちいさな黒いさかな」クンの運命やいかに? 最近、絵本にはまっているゴジラ老人ですが、結末は図書館にでも行かないと読めないかもしれませんね。頑張ってください。追記2022・05・25 案内したい絵本はたくさんあります。絵本は世界が広くて深くて美しいことを小さな子供たちに教えてくれますが、わかりやすいわけでも、役に立つわけでもありません。 子供たちも、大人がわかりやすいと思ったり美しいと思う世界に惹かれるわけではなくて、「どうしてそんなに気に入ったの?」と思うような楽しみ方をしてくれます。まあ、そこのところが好きなのです。腰を据えて1冊づつ案内できればいいなと思っています。ボタン押してネ!にほんブログ村かいじゅうたちのいるところ [ モーリス・センダック ]価格:1512円(税込、送料無料) (2019/6/1時点)アンデルセン童話賞。ロージーちゃんのひみつ改訂版 [ モーリス・センダック ]価格:1512円(税込、送料無料) (2019/6/1時点)アンデルセン童話賞。わいわいきのこのおいわいかい きのこ解説つき ロシアのお話 [ タチヤーナ・マーヴリナ ]価格:1620円(税込、送料無料) (2019/6/1時点)アンデルセン童話賞。【中古】 かえるの王女 ロシアのむかしばなし /タチアナ・A.マーヴリナ(著者),松谷さやか(著者) 【中古】afb価格:348円(税込、送料別) (2019/6/1時点)アンデルセン童話賞。
2019.06.01
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妖怪文化研究会 「ゆる妖怪カタログ 」 (河出書房新社) 図書館に通い始めると、当然ながらのぞいてまわる棚がふえますね。ピーチ姫と隣町の図書館をのぞいていて、新着図書の棚に見つけて借り出しました。2015年に出された本だから、そんなに新しいというわけではありません。 こたつに入って、パラパラやっていて、すっかりはまってしまいました。世間には、きっと大好き!という人が、結構たくさんいらっしゃるにちがいないのでしょうね。ネットで検索してみると、あるわ、あるわ。早速、「図説日本の妖怪」(河出書房新社)を予約して借り出すという次第でした。 二冊並べて覗いてみると、「妖怪」というものが無数にいるわけではないことがわかります。登場する妖怪たちはほぼ同じなのですが、出典というか、絵が少しずつ違います。民俗学とかの、まじめな研究対象だったりするので、「日本の妖怪」のほうは、妖怪研究の大家(?)小松和彦とかが解説していたりもしているのですが、「ゆる妖怪カタログ」のほうは解説も絵も、なんというか、ユルイのが気楽で、ぼくには面白かったという次第です。 気に入った三大妖怪は、まずは、「化け猫」 写真を見ていただくと分かると思いますが、まあ、でかいのはでかいのですが、愛嬌があって可愛いですね。猫を飼うに際して「三年は飼ってやるからな。」と念を押さないと、こういうことになるらしいですね。特に、しっぽの先が二つに割れている猫を「猫また」といって、人間様がいい加減な付きあい方をしているとこうなってしまいやすいので、要注意なんだそうです。 化ける修業というのも当然あって、阿蘇山にある根子岳が本場らしいですね。修業して帰ってくると、地域の猫の頭領として暮らすのだということで、ベランダでごろごろして、あてがい扶持のキャットフードに喉を鳴らしているようでは、とても化けたりできないようです。もっとも、十年を超えている場合は、ちょっと様子に注意したほうがいいかもしれないですよ。 二つめが「寝肥」 「ねぶとり」と読むらしいのですが、なんでそうなるのかはわかりませんが、「女性に特化」した妖怪らしくて「寝惚堕」とも書くらしいですね。「大いびき」というのもその特徴らしいのですが、まあ、いびきはともかく、どこにでもいるんじゃないかと思うのですが、やはり「妖怪」は妖怪、「太った女性」は太った女性、すぐにまぜこぜにしてはいけませんね。マア、「太っていて、いびきをかいて寝る男性」では「妖怪」にはなれないようで、そのあたりはどうなっているのでしょうね。 ただ、間違って太めの女性にむかって「妖怪」などという言葉を口にすると、セクハラ地獄が待っていることになるわけで、注意が必要ですね。 現代では、こういう妖怪の絵本を見て、おもしろがって案内したり、ひょっとしたら、こっそり笑うことすら危険を伴うかもしれませんから心しておく必要がありそうですね。 三つめが「ろくろ首」 これは、まあ、誰でも知っている妖怪の定番ですね。やっぱり女性の妖怪で、寝ているときに首だけ動き回るのだそうです。 昔、仙台藩のお侍が、夜遅く帰ってくると、屋敷の塀の上で、瓦を枕に寝ている妻の頭があった。そこで、そっと杖で触ると消えた。寝所に入ると、妻が寝ていて「今、あなたの夢を見ておりました。」といったそうだ。侍は「首を長くして、恋しい人を待つ」という言い回しがあることを思い出して納得したそうです。ちょっと怖いですが、まあ笑って済ませるのがいいのでしょうね。ははは。 もっとも、この妖怪は世界中に生息しているらしく、呼び名もさまざまで「抜け首」、「糸首」、「飛頭蛮」、北アメリカでは「尸頭蛮(しとうばん)」というそうです。なんで英語じゃないのか不思議ですが、だが、夜になると活躍するのは、同じらしいですね。 他にも、口が二つあって大食いの「二口」とか、星空にあらわれる、劇場型妖怪「大首」とか、笑える妖怪が色々いるのですが、今回はここまでということで。 ほら、あなたのすぐそばに首を伸ばし始めている‥‥。ワアー!!(S)2018/12/08追記2022・05・21 あのー、「化け猫」を見ていて思ったのですけど、甲子園あたりに生息している「だめトラ」も、一応ネコ科だと思うのですが、春から一向に化けないんですよね。フト思ったのですが、飼い主が今年限りで、なんてことを口にしたものですから、化ける気にならないんでしょうかね。 まあ、何はともあれ、一日も早く「化けトラ」になっていただきたいのですが、秋まで「だめトラ」のままなのでしょうか(笑)。追記2024・01・08 だめトラが「日本一」とかになっちゃったんですが、2024年はどうなるのかというと、まあ、だめトラはだめトラなわけで、それが平和だったりするというのが、トラキチクンたちの生活信条なわけで、万が一、アレンパとか起こったら、また、奇跡か悪夢化とうろたえることでしょう。 ええから、はよ、練習しようね、だめトラ君たち!とうふこぞう (京極夏彦の妖怪えほん) [ 京極夏彦 ]価格:1620円(税込、送料無料) (2019/5/23時点)京極さんて、好きなんですよね。水木しげるの妖怪えほん [ 水木 しげる ]価格:1512円(税込、送料無料) (2019/5/23時点)この方は、特別ですね。妖怪絵本セット(全6冊セット)(2017) [ 広瀬克也 ]価格:8424円(税込、送料無料) (2019/5/23時点)こういうのが無邪気でいいかなボタン押してね!ボタン押してね!
2019.05.22
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南伸坊「ねこはい」・「ねこはいに」青林工藝社 ねこのはいくえほんである。はいかいではなくてはいくである。2さつセットである。 はいくのえほんであるから、いちおうしき、きせつね、をめぐるのである。 もちろん、めせんはねこである。 いちめんの ねこじゃらしなり われひとり せみなくな くちがこそばい やかましいめいくである。まよってしまうほうなのかかんしんするほうなのかむずかしいのである。 せみをくわえるのは、このかたくらいのものである。ざんねんなことに、すぐよめてしまうのである。 おもしろがってへやにかざるのがいいかもしれないのである。ついでにもう一句。 はつゆめは かつぶしぜんぶ ふくろごと ほんともう おくさんほんと おかまいなく ああ、二句になっちゃったのである。ところで、このお二人も、はいくくらいはひねるのであろうか?なのである。追記2019・10・25 このお二人もさいきん「はいく」なんどにきょうみをおもちであるらしい。あきふかし ふたりですわる ねこまんまカリカリに せめてサンマの においでも 秋を感じているお二人でした。追記2022・05・22 あれから3年たちましたが、お二人はお元気なのであります。さつきばれおうちぐらしのきみとぼくなあ、ちょっとほーほけきょってきこえたね あいかわらずのおうち暮らしであります。とはいうものの、お二人にもきせつはめぐるのであります。ねこはいに [ 南伸坊 ]価格:1080円(税込、送料無料) (2019/5/21時点)ねこはいじん (単行本コミックス) [ たかしまてつを ]価格:1296円(税込、送料無料) (2019/5/21時点)これもちょっと気になる。ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.05.21
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