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「三日で出所(笑)!」 徘徊日記 2024年5月30日(木)舞子あたり 虫垂炎の除去手術で、入院でしたが、実に物分かりのいい主治医さんで、「どうせ寝ているだけなら帰りたい!」 というと「じゃあ、帰りますか。ホントに寝てるんですよ!」 というわけで、三泊四日で出所! 病院前のバス停で黄色い花が咲いていてしみじみのぞき込みました。 出て来たばっかりの建物を振り返りながら、なにをしてるんだ?! ですが、肺活量、94歳程度! と診断されてドキドキしたことを、もう忘れていますね。 四日目の朝、5月30日の明石大橋。やっぱり絶景でしたが、さようなら(笑)ですね。通院はしばらく続くようですが、無事退院の報告でした。 皆さん、色々心配していただいてありがとうございました。追記 2024・06・02 上の黄色い花の名前ですが、同居人に尋ねると「金糸梅(きんしばい)」、ブログを読んでくれた年上のおばさんは「ビヨウヤナギ」、年下なのにボクを弟扱いして50年来のオネ~さんは「弟切草(オトギリソウ)」、みんな違うことをおっしゃるので調べたら、みなさん正解!(笑) みなさん、よくご存知ですね(笑)。にほんブログ村
2024.05.31
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吉本隆明「ちひさな群への挨拶」「吉本隆明代表詩選」(思潮社)より 三泊した病室で天井をボンヤリ見ながら、周りから聞こえてくるうめき声やしわぶき、ときどき響き渡るモニターの発信音を聞きながら、何故か、50年ほど昔の下宿暮らしの頃に、天井に貼っていた詩の文句が浮かんできて、スマホを取り出してググってみると、結構、出てくるもので、しばらく、自分が今いる境遇を忘れて読みふけっていると時間もいつの間にかたっていて、少しうとうとできるという体験をしました。 自宅に帰ってきて、もう一度、今度はそれぞれの詩集とかで読み直しながら、2024年の5月の月末の備忘録のような気持ちで、思い出した詩を写しておくことにします。 とりあえず、一つ目は吉本隆明の「ちひさな群への挨拶」です。 ちひさな群への挨拶 吉本隆明あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ冬は背中からぼくをこごえさせるから冬の真むかうへでてゆくためにぼくはちひさな微温をたちきるをはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれるぼくが街路へほうりだされたために地球の脳髄は弛緩してしまふぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために冬は女たちを遠ざけるぼくは何処までゆかうとも第四級の風てん病院をでられないちひさなやさしい群よ昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげるそうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにするこわれやすい神経をもつたぼくの仲間よフロストの皮膜のしたで睡れそのあひだにぼくは立去ろうぼくたちの味方は破れ戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだからちひさなやさしい群よ苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるときぼくは何をしたらうぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れてゐるから記憶という記憶はうつちやらなくてはいけないみんなのやさしさといっしょにぼくはでてゆく冬の圧力の真むかうへひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だからひとりつきりで抗争できないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だからぼくはでてゆくすべての時刻がむかうかわに加担してもぼくたちがしはらつたものをずつと以前のぶんまでとりかへすためにすでにいらなくなつたものはそれを思いしらせるためにちひさなやさしい群よみんなは思い出のひとつひとつだぼくはでてゆく嫌悪のひとつひとつに出遇ふためにぼくはでてゆく無数の敵のどまん中へぼくは疲れてゐるがぼくの瞋りは無尽蔵だぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられるぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられるぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれるもたれあうことをきらった反抗がたふれるぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐるぼくがたふれたら収奪者は勢いをもりかえすだから ちひさなやさしい群よみんなのひとつひとつの貌よさやうなら 今回、書き写すために参照したのは思潮社の「吉本隆明代表詩選」というアンソロジー詩集ですが、その中に、10年ほど前に亡くなった詩人、辻井喬さん、実業家としての名は堤清二で、西武百貨店の重役だった人ですが、彼のこんな言葉がのっています。 吉本隆明の作品を考える場合、「詩」という言葉でどこまで含めたらいいかという問題にぶつかります。というのは、たとえば「マチウ書試論」は感性に訴える思想の運動を記した詩作品だと思うからです。しかし、不本意ながら慣習に従うなら「転位のための十篇」のなかの「ちひさな群への挨拶」でしょう。辻井喬 ボクが記憶していたのはひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから という2行でしたが、1974年に二十歳だった青年は何を考えていたのでしょうね。でも、まあ、そういう時代が50年前にあったことは事実で、そういう感受性というのは、どこかに眠っているのかもしれませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.02
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岡田暁生 「西洋音楽史」(中公新書) 15年ほど前の「読書案内」の記事です。相手は高校生でしたが、今となっては話題が少々古いですね。2005年出版の本なので、《2004年書物の旅》に入れるのにも、少々抵抗がありました。というわけで、そのまま載せます。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ だいたい休みの日に何をしているのかと聞かれて返答に困る。何にもしていない。趣味と呼べるようなことは何もない。たいていゴロゴロして本を読んでいるが、本を読むことを趣味だと思ったことはない。ある種の中毒のようなものだろう。 ほかに何をしているかというとヘッド・ホンで音楽を聴いている。ジャンルは問わない。タダ、最近のポピュラー音楽はあまり聴かない。うるさいと感じてしまうからだ。 年のせいか、単なる好みかわからないが「あゆ」にも「モー・ムス」にもついていけない。紅白とかミュージックナンチャラとかもダメ。もっとも、「モンゴル何とか」とか「ガガガ」とかはついていけるから、年ではなくて好みだろう。 今はEL&P=エマーソン、レイク&パーマーの「展覧会の絵」を聞きながらワープロを打っている。原曲はロシアの十九世紀の作曲家ムソルグスキーのピアノ組曲。チヤイコフスキーと同じ時代のクラシックの名曲だが、この演奏はイギリスのロック・バンドによるもので、結構有名な作品。 クラシックとかロックとか、ジャズとか歌謡曲とかジャンルを分けてそれぞれ別の音楽のことのようにいうが、ぼくには何が違っているのか、本当はよくわからない。結局同じなんじゃないかと思うこともある。別に音楽を訊きながら昼寝するたびに悩んでいるわけじゃないが、「それって、よく分からないよな。」的にずっと気になっていたことだ。 ためしに岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)を読んでみると、これが意外に面白かった。 西洋芸術音楽は1000年以上の歴史を持つが、私たちが普段慣れ親しんでいるクラシックは、十八世紀(バロック後期)から二〇世紀初頭までのたかだか二〇〇年の音楽にすぎない。 西洋音楽の歴史を川の流れに喩えるなら、クラシック音楽はせいぜいその河口付近にすぎない。確かにクラシックの二〇〇年は、西洋音楽史という川が最も美しく壮大な風景を繰り広げてくれた時代、川幅がもっとも大きくなり、最も威容に満ちた時代ではある。だがこの川はいったいどこからやってきたのか。そしてどこへ流れていくのか。―中略― しかし今日、西洋音楽はもはや川ではない。私たちが今いるのは「現代」という混沌とした海だ。そこでは、全く異なる地域的・社会的・歴史的な出自を持つ世界中のありとあらゆる音楽が、互いに混ざり合ってさまざまな海流をなし、これらの海流はめまぐるしくその方向と力学関係を変化させつつ、今に至っている。この『世界音楽』という海に大量の水を供給してきたのが、西洋音楽という大河であることはまちがいないにしろ、川としての西洋音楽の輪郭は、かつてのような明瞭な形ではもはや見定め難くなっている…。 こういうまえがきで始まるのだが、たとえば、誰でも知っているモーツアルトが登場するのは230ページ余りある本書の100ページを越えてからだ。そこまではどっちかというとヨーロッパ史における音楽の役割の講義という意味で面白いのがこの本の特徴だ。 音楽は社会と切り離せないんだそうだ。たとえば十六世紀の画家ティツィアーノの「田園の演奏」なんていう絵は全裸の女性が笛を吹いているピクニックの様子を描いているんだけど、それってどんな理由からなのかとか。それは、バロックと呼ばれる新しい音楽の誕生と関係があるらしいんだよね。 宗教改革がヨーロッパに広がり、グレゴリオ聖歌のようなカトリック教会の音楽に対してプロテスタント教会の音楽、誰もが口ずさめるコラールという音楽形式が生まれてきて、民衆に受け入れられていった結果なんだそうだ。 やがて、そこからバッハが生まれてくるという。世界史の先生でこんな講義をする人はきっといない。 ところでぼくが感じていた疑問にはどう答えているのかというと、答の一つは引用したまえがきにもあるとおり現代は『世界音楽』の時代に入っているということで、いろんな川の流れの混沌とした化合物になっているって言うことだ。 そして、もう一つの答として、著者は現代音楽の保守性について言及したあとで、こういっている。 ポピュラー音楽の多くもまた、見かけほど現代的ではないと私には思える。アドルノはポピュラー音楽を皮肉を込めて『常緑樹(エヴァーグリーン)』と呼んだが(常に新しく見えるが、常に同じものだという意味だろう)、実際それは今なお『ドミソ』といった伝統的和声で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエスプレシーヴォ(表情豊かに)で歌い、人々の感動を消費し尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ『感動させる音楽』としてロマン派の二十世紀における忠実な継承者である。 くわえて、現代を「神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水」の時代だと喝破することで本書を終えている。 ぼくなりにまとめれば、ジャンルにはそれぞれの水脈があるわけだから、確かに違う音楽だといえる。しかし、たとえば流行するポピュラー音楽が共通の感受性、「感動したい」「癒されたい」に支えられ、形式的に新しさなんて何もないのに大衆的な消費の対象となってロマン派を継いでいるように、十九世紀にはじまった商品としての音楽はショパンであろうが流行歌であろうが、訳のわからない現代音楽であろうが共通の社会現象、感動を追い求める同じ形式のヴァリエーションとして見ることができるということだ。 みんなが聴いている音楽って、好みは違うかもしれないけど、案外似たものかもしれないということだね。なんだか話が難しそうになってしまったが、素人にも分かる西洋音楽史で、お薦めだと思いましたよ。 何せクラシック音楽史だから今度テレビ化される二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社コミックス)で予習してから読むといいかもしれない。あの漫画はCDブックも 出ているそうだからね。(S)2006・10・03 追記2020・02・11 最近ではすっかりユーチューブとかのお世話になることが多い。サンデー毎日な日々なわけで、何となく同じ曲をBGMで聞くことが多い。この本を読んで、著者が気に入っていろいろ読んだ、案内したい本も多い、でも、読みなおす気力にかけていて…。困ったもんだ。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉 中公新書/岡田暁生【著】
2020.02.11
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佐藤真「阿賀に生きる」元町映画館 元町映画館が企画に参加している「現代アートハウス入門」というシリーズの第6夜の上映に出かけました。 この企画の面白いところは、いつもは「老人にやさしい映画館」が、この企画にかぎって厳しいことです。30歳未満の人たちは1200円で、超えると1800円という料金設定なのです。おそらく20代の人たちを映画館に呼びたいという気持ちの表れなのでしょう。 別に文句を言いたいわけではありません。ぼく自身が、30代の後半から映画を見なくなった大きな理由は料金でしたから、学生割引のことはよくわかりませんが、今でも、20代から40代の普通のサラリーマンにとって「映画」は結構、経済的に負担のかかる娯楽というか趣味だという気がします。 だから、「オッ、安いな!」 と思って20代の方が映画館に来て、今回ライン・アップされているよう映画を初めてごらんになる。すると、上映されているのは、全員が、とは言いませんが、必ず心に残る方がいる感じの映画ですよね。そういう経験が新しい映画ファンを生み出していくというのは、なんだか、楽しいですよね。 ぼくは、今回の企画では、見ていないはずの映画を選んで来ていますが、今日の映画などは、本当に見てよかった作品でした。佐藤真「阿賀に生きる」です。 題名は知っていましたが、見る機会がありませんでした。チッチキ夫人が「七芸でやってたよ。」 と言っていましたが、今回、初めてみました。 映画は、水浸しの「田んぼ」で稲刈りをしている老夫婦のシーンから始まりました。 ぼくは田舎者なので、稲を刈る時期には「田んぼ」は干し上げるものだということも、いくら干しても水が引かない、ぼくの田舎では「じゅる田」と呼んでいた田んぼがあることを知っています。 子ども心に、そういう田んぼに入るのは嫌でした。長靴を履いていても、膝近くまで沈んでしまい、靴の中まで、水や泥が入ってきて、その上、一歩一歩が難しいので、尻もちをついてしまったりするからです。 映画の中の二人が足元に難渋しながら、曲がった腰つきで稲を刈り、ようやくのことで田んぼから這いだすのを見ながら、胸を突かれる思いでした。 映画をおしまいまで見終えて、つくづく思いました。ぼくにとって、この最初の十数分のシーンにこの映画を見た「甲斐」のようなものが詰まっていたなあ、と。 野良仕事を、日々続けて、今や90歳を超えようかというこの老人に、町に嫁いだ娘さんからでしょうか、電話がかかってきます。もう、田んぼを作るのはやめたらどうかという、娘さんなりの気遣いの電話らしいのですが、老人は困惑と、かすかな怒りを感じさせる口調で返事をしています。そして、最後に「ほいでも、わしのたのしみじゃでな。」 という言葉で電話は切られます。 あの田んぼの収益は、一年間に、一斗どころか、五升にもならないでしょう。にもかかわらず、ただでさえ動かない足を引きずり、野良仕事が無理になった老妻を家に残して、泥にまみれて田を掻き、苗を植え、草を刈り、やがて、稲を刈って稲木に干すのです。 それが生きている「楽しみ」であることを困った顔で訴える、90年の人生がそこに映っていました。 彼をはじめとして、この映画に登場する人達は、男たちも女たちも、まっすぐに開かない手や、やけどをしても気付かない末梢神経の麻痺を、老いた自分の体として、笑って見せあいながら生きています。 手が動かないことが我慢ならず船大工を黙って辞めて、人にも教えようとしない偏屈者もいます。 いったん座ると、立つことが難儀で、どうしても動きたくないおばあさんもいます。 重そうな杵を持って臼に向かった途端、大刀を振り下ろすかのように、見事に腰が据わる餅屋さんもいます。 この映画は、阿賀野川流域で起こった、所謂、「新潟水俣病」の未認定患者たちを撮った映画です。しかし、彼らは「被害者」として生きているのではありません。ただの「人間」として生きているのです。この映画のすごさは、そこを撮ることができたことだと、ぼくは思いました。 立ち上がるのが難しいおばあさんの膝はどうなっているのか、船大工が鉋を持つことができなくなった原因は、ホントに老化だけなのか、見ているぼくは、そこに「告発」すべき「悪」があることに、当然、気付きました。この映画は、確かに「告発」の映画なのです。 しかし、映像は、そこから「人間として生きるとはどうことなのか?」 と問いかけてくるのです。「じゅる田」があれば「じゅる田」を耕し、そこから「楽しみ」を収穫して生きてきた人間を描き通していると、ぼくは感じました。 こんな映画にはそうそう出会えるものではないのではないでしょうか。 今夜のトークは震災後の陸前高田に暮らしながら映画を撮っていらっしゃるという小森はるか(映像作家)さんと、「里山社」という出版社を一人で経営している清田麻衣子(里山社代表)さんのお二人でした。「里山社」という出版社の名前は聞いたことがありましたが、小森さんには、すでに「空に聞く」とか「息の後」という劇場公開作品がおありだということは、初めて知りました。 ぼくから見ると、とても若い人たちで、映画の感想も、カメラマンや監督の「撮り方」・「つくり方」にフォーカスした話でしたが、若い監督が人間が生きている姿を映像化したいと志している様子に、好感を持ちました。 小森さんの作品については、えらそうで、申しわけないのですが「この人の映画なら、見てみなきゃあな」 と思わせる雰囲気が印象に残りました。 お二人のトークは、こちら「現代アートハウス入門」でご覧ください。監督 佐藤真撮影 小林茂録音 鈴木彰二編集 佐藤真音楽 経麻朗整音 久保田幸雄助監督 熊倉克久ナレーター 鈴木彰二1992年・115分・日本配給:太秦日本初公開:1992年9月26日2021・02・05・元町映画館no73
2021.02.08
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吉本隆明「廃人の歌」(「吉本隆明全詩集」思潮社) 病院のベッドで、まあ、眠れない夜を過ごしながら思いだしたのは吉本隆明の詩でした。で、帰宅して、こんな本があることを思い出して、久しぶりに開きました。 「吉本隆明全詩集」(思潮社)です。箱装で、写真は箱の表紙です。2003年の出版で、その時に購入した詩集です。全部で1811ページ、価格は25000円です。1冊の本としては、ボクの購入した最高値です。なんで、そんな高い本を買ったのか。 まあ、そう問われてもうまく答えることができません。ただ、2003年にまだ存命だった詩人が「現在集められる限りの詩作品を一冊にまとめて全詩集とした。」 と、この詩集のあとがきで述べていますが、彼の書いた詩を一生のうちにすべて読み切りたい。 という、人にいってもわからないないだろうと思い込んでいる願望のようなものが40代の終わりのボクにはあったということですね。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」 という詩句と十代の終わりに出逢ったことで始まった、この詩人に対する信頼と憧れがその願望を培ってきたことは紛れもない事実ですね。 病室の天井を眺めながら、この詩人の詩句を思い浮かべている自分に気付いたときに「えっ?」 という驚きを感じたのですが、スマホの画面で、いくつかの詩を読み返していくにしたがって、50年、溜まりに溜まった、なんだかわけのわからない妄想にも似た、忘れていたはずの記憶が、次々と湧いてきて、まだ、やり残していることの一つが見つかったような気がしたのでした。 というわけで、今回は1953年の「転位のための十篇」に収められている「廃人の歌」です。 廃人の歌 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおはる ぼくはそれを考えてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつている たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる 「転位のための十篇」(1953)(「全詩集」P75~P76) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.01
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フリーヌル・パルマソン「ゴッドランド GODLAND」シネリーブル神戸 見終えて、1カ月ほどたちました。覚えているのは「氷原」、「溶岩の流れ出す火口」、「馬」、「十字架」、「人々の無表情な顔」、そして「カメラ機材を担ぐ牧師」です。 舞台がアイスランドということで関心が湧きました。文字通り、地の果て、海の果ての世界です。サーガという言葉がありますが、北欧神話に出てくる女神の島です。なんとなく、そういう所を期待して見ましたが、ハズレのような、アタリのような印象を持ちました。 映画が始まって、まず、勘違いしていたことをなんとなく感じました。18世紀、カメラが実用化され始めた時代に、おそらく北欧カトリックだったこの島に、新しいプロテスタントの信仰を広めようとカメラを担いで渡って来た牧師 の話に神話なんてありえないということです。 カメラを担いだ若者が撮りたかったのはエキゾチックな風景と支配に従う人々のポートレイトでした。要するに能天気なのです。 彼には新たなる信仰の伝道とでもいうのでしょうか、敬虔な信仰があるとはとても見えません。宗主国の使いという、そこで暮らす人間には、エラそうなだけの存在であることには気づくことのできない、ただのカメラ小僧の好奇心があるだけのように見えました。 映画を見ていて、彼が、辺境の海岸から十字架を馬に担がせ、自らはカメラを担いで旅をして目的地の集落に到着したあたりで、実は島の中心地の目的地近くに港があることがわかります。 で、彼は、にもかかわらず、この「試練の旅」の旅程を選んでいたとわかったあたりから、おそらく、世界の辺境の地で、たとえば、極東の島国にオランダのプロテスタントがやって来たのは15世紀ころだったわけですが、そのころから幾度も繰り返されたにちがいない宗教的伝道者たちの試練の旅をなぞろうとしている人物なのではないかと予感のような思いが浮かびました。だから、カメラなのです。 18世紀末、カメラにうながされるように始まった、どうもインチキ臭い試練の旅の記録が数葉の古びた写真で残されていて。それを見た21世紀の映画監督は、おそらく、世界最初のカメラ小僧の一人だった、この若い牧師が「行って、見て、帰ってくる」はずの旅の中で、被写体に対する、ただの好奇心で撮って、偶然、残されたにすぎない数葉の写真の足跡を追えばが、本人が気付いていたかどうかはともかくも、サーガの地の「神話的世界」とそこでを生きる人間が浮かび上がってくる、そんなモチーフだったのではないでしょうか。 この映画の面白さは、多分そこからでした。カメラのレンズに神の威信を託した愚かな若い牧師は、哀しいことに現像液の消費とともに神の威力を失い、野ざらしの白骨となって朽ちて消えてゆきます。残された数葉写真が語る出来事はアイスランドの自然、あるいは「神話的世界」の歴史の小さなエピソードとして21世紀のカメラ小僧であるフリーヌル・パルマソン監督によって復元されますが、彼が映し出したのは開拓者として渡って来た人間たちや、彼らが持ち込んだ新来の宗教を越えたアイスランドそのもの! だったのではないでしょうか。 主人公の若い牧師が、おろかな現代人にしか見えなかったというのが、この作品の印象でした。新奇な科学技術や思想や宗教を寄せ付けない厳然たる世界がある! ということを感じた作品でした。監督・脚本 フリーヌル・パルマソン撮影 マリア・フォン・ハウスボルフ美術 フロスティ・フリズリクソン衣装 ニーナ・グロンランド編集 ユリウス・クレブス・ダムスボ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャストエリオット・クロセット・ホーブ(ルーカス)イングバール・E・シーグルズソン(ラグナル)ビクトリア・カルメン・ゾンネ(アンナ)ヤコブ・ローマン(カール)イーダ・メッキン・フリンスドッティル(イーダ)ワーゲ・サンド(ヴィンセント)ヒルマル・グズヨウンソン(通訳)2022年・143分・G・デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作原題「Vanskabte Land」2024・04・15・no059・シネリーブル神戸no238・SCCno21追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.23
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「銀杏並木が、今、見頃ですよ!」 徘徊日記 2023年11月21日(火) 朝霧あたり 季節が季節なので、黄葉の話ばっかりです(笑)。とりあえず、黄色くなった葉っぱの話が続きます。ここはJR朝霧駅の山手、北向きに行くと神陵台から伊川谷に向かう道路のイチョウ並木です。 右が神戸市垂水区狩口台、左が明石市松ヶ丘です。 神戸市の垂水あたりの、まあ、舞子あたりのともいえますが、山手、地下鉄の学園都市という駅とJRの垂水駅、舞子駅の中間に住んでいますから、明石の図書館とかに行くときには通る道の一つです。素晴らしい黄葉並木ですね。 こうやって、写真を撮っても、誰も人が写らないのが、まあ、何というか、このあたりの町の特徴です。50年ほど前には明舞団地の東の一角で、名を知られていた街ですが、今はお年寄りの町です。 今日は、お天気が良いので並木が、余計に美しいですね。まだ、緑が残っている木もありますが、おおむね黄葉しています。一本、一本、とても風情があるので、一本、一本写真を撮ればいいのですが、実は原付、スーパー・カブ号で明石に行った帰り道なので、所々ということになります(笑)。 狩口台の団地です。多分、植えられたころから、並木の世話が丁寧だったんでしょうね。 いかがでしょうかね、イチョウの並木は、兵庫区とか、長田区、まあ、あちらこちらにありますが、これだけ樹木の高さが揃っていて、葉っぱが茂っている並木には、なかなか出会えませんね。 見上げると、やはり見事なものです。お暇な方は、一度、歩かれたらいいんじゃないかなあ、という気持ちです。まあ、他には何もありませんが、南に下ると朝霧駅あたりから明石の海と明石大橋を眺めることはできますよ(笑)。ボタン押してね!
2023.11.24
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「目覚めたら、目の前に明石大橋!」 徘徊日記 2024年5月29日(水)舞子あたり 2024年の5月29日(水)の朝、まあ、生まれて初めての手術とかの体験から目覚めて、とはいっても、手術といっても何も覚えていないし、その後も、ほとんど起きているのか寝ているのかわからない一晩でしたが、何故かおしっこだけはくりかえししたくなって、これまた、生まれて初めて、看護師さんにおしっこをとっていただくという不思議な体験を繰り返しして、で、夜が明けて、三度目のおしっこで、もう、歩いて自分で行ってもいいの?はい、がんばって!とか、はげまされて、フラフラ、おしっこに行って、窓から見える快晴の明石大橋を見てホッとしました。 まあ、虫垂炎ごときで、なにを大げさなとお笑いでしょうが、70歳を目前にした初体験、なかなかな体験でした。 それにしても、この風景、なかなか、絶景でしたね。にほんブログ村
2024.05.29
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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「あの塔はなんでしょう?」徘徊日記 2021年10月18日 大開通あたり 数日前に東山商店街の北を会下山まで歩いた帰り道に見かけた「塔」です。今日はJR兵庫駅で降りて、新開地に向かっていますが、見えてきました。塚本通りを東に歩いて、兵庫カトリック教会のあたりです。 もう少し近づいてみましょう。 このアングルがよさそうです。手前の看板には「神は愛です!」と断言してあります。ちょっと、新手の新興宗教みたいでいいですね。 まあ、謎ときというわけではありませんが、NTT大開ビルの屋上にそびえている電波塔(?)、テレビ塔(?)です。神戸から西に向かって歩くときには、目印にするランドマークですね。 まあ、それにしても、こういう塔の、たぶん、修繕工事もネットをかけるのですね。すると「謎の五輪塔」に変身するというわけです。 ネタが割れると、さほどのこともないで、もう一枚写真を載せますね。 新開地本通りのアーケードです。ルビンの壺みたいですが、錯視のたくらみはなさそうです。チャップリンですね。ぼくは「淀川長治さんかな」とずっと思っていましたが、そんなわけないですよね。映画の町新開地の一番南の入り口です。 今日は、このすぐ北側、KAVC、神戸アートヴィレジ・センターで「戦火の馬」です。 じゃあ、またよろしく。追記2021・11・12 兵庫区の大開通り、NTTビルの電波塔の修繕工事の様子ですが、せっかくなので真下に行ってみました。 ビルの北側から見上げたら、こんな感じでした。天気が悪くて、暗いので写真写りが悪いのが残念です。大通りを北に渡って撮るとこんな感じでした。 少し離れたので、ビルの屋上に塔が立っているのがよく分かりますが、この塔の土台というか、基礎の部分がどうなっているのか、ちょっとビルのなかを見てみたいですね。 かなりでかいのですが、基礎部分はビルのなかを貫通しているのでしょうか。まあ、元町から帰りにここまで歩いて見物しているぼくも、ヒマですねえ。
2021.11.05
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「辛夷の並木道」 徘徊日記 2023年3月16日(木) 本多聞あたり 住んでいる団地の少し南、学が丘1丁目のバス停から、本多聞5丁目の方へ行く道が辛夷の街路樹になっているんです。 実は、垂水駅から星陵台にのぼる商大筋という道も、街路樹が辛夷なのですが、両方とも、ここのところの好天気で満開です。 で、今日は本多聞5丁目の辛夷の道です。 写真の右は一戸建ての住宅地、左が北ですが、公団住宅があって、お花畑になっています。辛夷の花を撮りながら、その花畑を覗くと、おや、おや、こういう方たちが集っていらっしゃいましたよ(笑)。 お花畑でお昼寝中のネコくんです。この季節だからの風景ですね。 こちらは金網の下で様子をうかがっているクロくんですが、さほど警戒する空気感はありません。「あんたダレや?」「この人、さっきから写真撮ってはんねん。そんなわるい人とは違うみたいやで。」 見上げている先は、真っ白い辛夷の花と青空です。それにしても、この方、ひょっとしたらお知り合いじゃないかという気もしますが、あいにくネコ語がわからないもので、確かめようがありませんね。 なんか、ええとこ見つけましたね。辛夷はもうすぐ終わりますが、お花畑の住人たちは、この辺りでお暮しのようで、世話をしているおじさんもいらっしゃるようです。 時々寄せてもらいますね(笑)。ボタン押してね!
2023.03.19
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ユン・ジョンピン「工作・黒金星と呼ばれた男」 真夏の元町映画館を連日満席にしている映画があります。この作品です。韓国軍事政権暴露第三弾「工作」。おそるおそる見ましたが、拍手喝采の気分で見終えました。 1980年、全斗煥(チョン・ドゥファン)のクーデターから光州事件へと続く動乱の現場と市民の闘いを描いた「タクシー運転手」。軍事政権下、民主化弾圧政策のなかで起こったソウル大学の学生の拷問死の真相を描いた「1987、ある闘いの真実」。それぞれ全斗煥による民主化弾圧政策の始まりと終わりを見事に暴いて見せた韓国映画ですが、今度は北朝鮮の核開発をめぐる、南北のスパイ戦を、1997年、金大中政権誕生に至る韓国軍事政権の秘話の暴露映画として描く快作を登場させたのです。 一連の韓国社会派映画の特徴は、登場人物の印象的で個性的な描き方だったのですが、この映画も、主役である二人の俳優の演技の味わいが、まず、申し分ないと思いました。 陸軍情報少佐の身分を隠し、工作員「黒金星(ブラック・ヴィーナス)」ことパク・ソギョン(ファン・ジョンミン)の、軽薄と冷静を演じ分ける二重人格ぶり。 対するのは、北京に駐留し、「金王朝」のために外貨を稼ぐ、朝鮮民主主義人民共和国対外経済委員会「リ所長」(イ・ソンミン)でした。工作員パクに対して、疑いから信頼へと変化する真情を、あたかも「目の輝き」で演じてでもいるかのような、イ・ソンミンの動かない表情の存在感。この二人の「演技戦」がこの映画の一つ目の面白さでした。 二つ目は、なんといっても平壌の風景ですね。韓国映画が北の国内をロケできるはずはないわけですから、セット撮影であることは間違いないでしょうが、知らないとはいえ、そのリアルさにはポカンとしました。ついでと言っては失礼ですが、金正日という実在だった人物のメイキャップも、なかなかでした。 さて、この映画には、もう一つ見逃してはならない面白さがあると思いました。 映画は、金大中による政権獲得という韓国現代史の重要な転換点に実在した、旧勢力の陰謀の暴露という、以前の二つと同じ構造の歴史ドラマということができます。しかし、それだけだったでしょうか。 この映画で主人公にあたる工作者二人には、それぞれの国家の権力当事者にとって、自分たちが使い捨ての駒であることは自明の前提でした。彼らの決死の演技合戦は「駒」として生き延びるために必然でした。ところが、その二人が、互いの演技の裏に、それぞれが信じていて、且つ、共通する「義」が存在することを発見するのです。 映画の結末は、それによって大きく動きます。しかし、ぼくはそこに、この映画の結末を越えた監督ユン・ジョンビンの夢を感じました。 韓国国内の民主化を支えようという意志を強く感じさせてきたのが、前記二つの作品だったとしたら、この映画は未来への夢を、静かに暗示したところに新しさと面白さがあるのではないでしょうか。監督 ユン・ジョンビン脚本 ユン・ジョンビン クォン・ソンフィ撮影 チェ・チャンミン音楽 チョ・ヨンウクキャスト ファン・ジョンミン(工作員パク・ソギョン) イ・ソンミン(リ所長) チョ・ジヌン(韓国国家安全企画部室長チェ・ハクソン) チュ・ジフン(北朝鮮国家安全保衛部チョン・ムテク)原題2018年 韓国 137分 2019・08・07元町映画館no16追記2022・09・20 映画スターファン・ジョンミン誘拐という設定の「人質」という映画を見ていて、主役の映画スターは、この「工作」という映画の工作員を好演していたファン・ジョンミンのことで、なおかつ当人が主役を演じていることに、欠片も気づきませんでした。この感想では手放しでほめている、当の俳優に、全く気付かないというのは、イヤ、ホント、ひどい話ですね。 数年前から、退職徘徊老人のヒマつぶしで映画館通いをしていますが、哀しいのは、こういうことがふえたことですね。 二十代に映画にかぶれていたころから、スクリーンに登場する映画スターに肩入れしてみる方ではありませんでしたが、ここ数年は、全く覚えられません。今回の「人質」も、主役ファン・ジョンミンの表情や物腰がストーリーを引っ張る作品で、それにどっぷりつかって面白かっただけに、彼を以前見たことがあることに期近なかったのは不覚でした。にほんブログ村
2019.08.14
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魚豊「チ。 第8集」(スピリッツCOMICS) 2022年、7月のマンガ便で届きました。魚豊「チ。 第8集」(スピリッツCOMICS)、最終巻です。ヤサイクンも辛抱がいいですね。シマクマ君も、第1巻の、あまりにグロテスクな絵に、まあ、へきえきという感じだったのですが。結局、最終巻の第8巻まで読み終えました(笑)。 コペ転という言葉がありますね。コペルニクス的転回の省略形ですが、モノの見方が180度変わることをいうのですが、この言葉は哲学者のカントが作った言葉だそうです。まあ、どうでもいいことですが。ご存知だったでしょうか? で、コペ転という言葉の主はニコラウス・コペルニクスですね。「天球の回転について」という本で「地動説」を唱えて、当時の西洋キリスト教世界を「コペ転」させた、1473年2月19日生まれで、1543年5月24日、70歳で亡くなったポーランドの人です。 「天球の回転について」という本は、彼の死んだ日に完成したのだそうで、彼自身は「コペ転」した世界の騒ぎ(まあ、それがあったとして)は知らないままあの世に行ったわけですが、実は彼はカトリック教会の司祭だったってご存知でしょうか。ちなみに、イマヌエル・カントは18世紀後半のドイツの哲学者です。 なんだか、つまらないことをうだうだ書いていますが、魚豊の、このマンガ「チ。」の舞台は、コペルニクスが登場する100年ほど前のヨーロッパ世界だったようで、最後の最後までたくさんの人が殺されるマンガでしたが、教会によるとんでもない異端狩り、魔女狩りの時代を描いていたのですね。 地動説という異端学説を巡っての人殺し漫画だったのですが、最後の、この8巻で死んだのは、殺すだけ殺してきた異端審問官ノヴァクと、暗記している「地動説」を本にして一儲けしようと夢を見るドゥラカという、若い女性でした。 この最終巻の前半では、二人の死のシーンが、懇切丁寧に描かれていて、コペルニクスからガリレオにかけて正統化され、正史の道を歩むことになる「地動説」の前史ともいうべき、あれこれ掛けられていて大変だった、「チ」の物語はドゥラカの命とともに終わりました。これが、彼女の最後のシーンです。 で、学説保持者と異端狩りの双方が、マンガの舞台から立ち去り、マンガの最後の舞台には、後にコペルニクスの師匠になるアルベルト・ブルゼフスキという学者の卵が登場し「地球の運動」の正史が始まるところで終わります。 というわけで、魚豊君が描きたかったのが、すべてを頭の中に記憶しながら、その学説を、もう一度紙に戻し、出版して、一儲けしようと夢見ながら、かなわないまま死んでしまったドゥラカの脳の中に消えてしまった「チ」まみれの「チ」の歴史だったことに、ようやく得心したシマクマ君なのですが、なにせ細かいト書きで語られるお話に、目がついていかなくて難渋しまくったのですが、まあ、なんとか最終巻にたどり着いてメデタシ、メデタシでした(笑)。
2022.07.12
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バス・ドゥボス「ゴースト・トロピック」元町映画館 ベルギーの若い監督、1983年生まれだそうですから、我が家の愉快な仲間たちと同じ世代ですが、バス・ドゥボスという人の「ゴースト・トロピック」という作品を見ました。 チラシの写真の女性が主人公で、お名前はハディージャ。彼女はブリュッセルでビルの掃除婦をしていらっしゃるのですが、こうしてご覧になってお判りでしょうが、ヒジャブというのでしょうか、イスラム教のネッカチーフのような衣装を身に着けておられるようで、だから、多分、もっと南の国から、この街にやってこられて暮らしていらっしゃる方だと思うのですが、映画を見終えても、そういうことが具体的にわかるわけではありません。 彼女が、仕事帰りに、電車の中で眠り込んでしまって、気付いたは終着駅で、そこから、まあ、見ていて、さあ、どうするんや? という一晩の、彼女の行動が映し出されていく映画で、他には、ほぼ、何も映っていません。 バスの乗務員、ビルの警備員、路上で寝込んでいるホームレスの老人と彼の犬、空き家に忍び込んで暮らしている男、通りすがりの老人、救急車でやって来た救急隊員、救急病院の職員、コンビニの女性店員、夜遊びする高校生、警察官、まあ、こうやって数え上げていくと、結構、たくさんの人と出会っているもんだと感心するのですが、出会った人たちの誰かが、何か事件を、だから映画的なドラマをおこすのかといえば、実はそうではなくて、その人たちも普通ですが、彼女自身も普通の応対で、だから、何も起こらないまま家にたどりついて、まあ、一晩歩いていたわけですから、ほとんど寝ないまま、翌日の朝になって、彼女は仕事に出かけていくという映画でした。 で、どうだったのか。「ボクこの映画スキ!」 の一言ですね(笑)。 深夜の街を、疲れ果てて歩き始めた、仕事帰りの、中年の女性の、財布の中にタクシー代さえ持ち合わせていない「暮らし向き」は言うに及ばず、「家族との暮らし方」、「職場での働き方」、「他人との接し方」、だから、まとめてどういえばいいのかわからないのですが、彼女が、今、ここで、「生きていること」 が、見ているボクのこころに穏やかに刻まれていくのです。 若くして亡くした夫をなつかしく思い、高校生の娘の生活を気にかけ、路上で倒れている老人を放っておけない女性の後ろ姿に、「そうだよね、それでいいんだよね、そうしていくしかないよね。」 とうなづくのは、必ずしも、ボクが老人だからではないでしょうね。 この作品の監督は、「人が生きていることを肯定する」 方法として映画を撮っているにちがいないということだと思いましたね。拍手! 元町映画館では、この映画は2019年の作品ですが、この監督が2023年に撮ったらしい「Here」という作品も、日替わりで上映していますが、もちろん見ますよ! まあ、この作品の「ゴースト・トロピック」という題名がどういう意味で、ラストシーンが何をあらわしているのかということついては、実は、よくわかっていません(笑)。でも、イイんです。なんとなくで(笑)。 監督・脚本・編集 バス・ドゥボス撮影 グリム・バンデケルクホフ音楽 ブレヒト・アミールキャストサーディア・ベンタイブマイケ・ネービレノーラ・ダリシュテファン・ゴタセドリック・ルブエゾ2019年・84分・PG12・ベルギー原題「Ghost Tropic」2024・03・24・no048・元町映画館no234追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.30
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社) 快調に幕末史を駆け抜けるように描いている鈴ノ木ユウの「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社)がトラキチクンの2024年5月、二度目のマンガ便に入っていました。 土佐に帰った竜馬の苦闘が描かれている巻でしたが年代を整理すると、第8巻の巻頭の71話からの事件が、後に「井口村刃傷事件」と呼ばれている土佐藩の郷士、上士がぶつかり合う血みどろの幕開けの事件で、1861年3月、続く事件が「土佐勤王党」の結党で、同年8月、で、この巻では、まだわからない龍馬脱藩が1862年3月です。 7巻で江戸から帰国した竜馬が土佐で巻き込まれたのは、関ケ原以前の領主、長曾我部の家臣と、以後の山之内の家臣を「郷士」、「上士」と分けて、身分的上下関係で統治してきた幕末土佐藩の宿痾! ともいうべき現実で、78話あたりから登場した参政吉田東洋の暗殺、まだ姿を現さない山之内容堂の復権、武市半平太の処刑と続く、幕末史の中でも、とりわけ殺伐とした藩内闘争のはじまりのシーンなのですね。 坂本龍馬が幕末の志士と呼ばれている人たちの中で、独特のスタンスに立った理由の一つは、まあ、素人考えですが、土佐藩の、この内情をその目で見たということが関係していると思いますね。 で、8巻の名場面はこれです。 江戸の長州藩の藩邸で開かれた草莽決起の集会 に登場した高杉晋作ですね。まあ、それにしても、独特な顔で描きましたね。ちょっと笑ってしまいましたが、竜馬、晋作と登場して、まだ、当分、出てきそうもありませんが、西郷隆盛はどんな顔で描かれるのか、チョット楽しみですね。 8巻の、もう一人の新顔は乾退助ですね。彼は上士であるにもかかわらず、やがて勤王党に参加するはずですが、8巻ではまだ吉田東洋の周辺人物です。ハイ、自由民権のあの人、板垣退助として100円札だったかで有名になる人です。 まあ、とにかく、次号はどうなるのかな、脱藩まで行くのかな?そういう感じですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.17
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「40年ぶり!自動車学校!」 徘徊日記 2024年4月27日(土)青山台あたり 躑躅がいっぱい咲いていて、うれしい風景ですが、ツツジの名所というわけではありません。ここには、何故か、線路はないのに踏切りがあって遮断機とかあったりするんです。 そうそう、自動車学校の初心者教習コースです。 今日、2024年の4月27日(土)にやって来たのはジェームス山自動車学校です。40年ぶりの自動車学校です。「高齢者講習!」 だそうです。 他人ごとみたいに言っていますが、実は、結構、緊張してやって来ました。乗らない普通免許を返納して、原付免許に書き換えてもらうための講習です。 動体視力とか、夜間視力や視界の確認とか、しっかり高齢者を自覚させられましたが、なんだか楽しい教習体験でした。 あいにく、お天気が悪かったのですが、久しぶりの教習所の風景です。オートバイの免許をとろうかなあと考えた時期もありましたが、結局、原付バイクのほかは乗ったことのない普通免許も今年で終わりです。コースに置かれている大型バイクを見ながら、しみじみしました(笑)。 無事、高齢者講習終了でした。ホッとしました(笑)。じゃあ、またね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)にほんブログ村
2024.04.30
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松本大洋「日本の兄弟」(マガジンハウス) 松本大洋の「Sunny」を5巻まで読んだのですが第6巻が手に入りません。で、こちらの漫画が手に入って読みました。「日本の兄弟」(マガジンハウス)です。短編集でしたが、収録作品の目次はこんな感じです。「m」「何も始まらなかった一日の終わりに[チャリの巻]」「何も始まらなかった一日の終わりに[ハルオの巻]」「何も始まらなかった一日の終わりに[祭りの巻]」「LOVE? MONKEY SHOW」「闘」「ダイナマイツGON GON」「日本の友人」「日本の兄弟」「日本の家族」「べんち(単行本初収録)」 2010年にマガジンハウス社から出版されている本ですが執筆されたのは1990年代のようで、「何も始まらなかった一日の終わりに」のシリーズから「LOVE? MONKEY SHOW」、「日本の~」のシリーズ(?)まで、まあ、だいたい1995年前後に雑誌とかに掲載された作品のようで、最初のページを飾っているフルカラーの「m」だけが、2000年以後の作品のようです。だから、まあ、全体として、初期というか、中期というか、「鉄コン筋クリート」くらいのころの短編作品集ですね。 絵のタッチというか、雰囲気はずっと松本大洋です。そこがお好きな方もいらっしゃるでしょうね。ボクが松本作品に引き付けられるのは、一つ一つのマンガの時間の描き方と、その方法で描きこまれていく、なんというか、重層化した内面描写ですね。 マンガは「絵」によって描かれるわけですから、世界の輪郭が多層に重ねられていることは目に見えますが、セリフやト書きによって異なった時間を書き込んでいくことによって、といえばいいのでしょうか、「物語」の輪郭の奥にある世界の描きかたが面白いのですね。 この作品集の中の「何も始まらなかった一日の終わりに[祭りの巻]」にあるページです。老人が大きな穴が開いている橅(ぶな)の木の根っこのところに座って、過去が周囲に広がります。「ここから見る景色も随分と変わった」「変わらんね君は・・・」君にもらった懐中時計ススキで切った僕の膝「ふふ・・・そうか・・」秒針も・・・赤い血も・・・「そうか・・・」「痩せたか 少し・・・」 時間は、たぶん、何層かに重層化していて、老人は、おそらく「死」と向かい合っているとボクは読んでしまうのですが、マンガの中で老人を見ているのは、通りすがりの猫の眼です。 海の見える高台のベンチとかに、思わず座り込んで過去に浸りながら一休みすることは、徘徊老人にとっては日常的な体験なのですが、そういう老人が、思わず自分を重ねながら眺めてしまう、マンガの中の、この老人を、1995年ですから、まだ20代だったはずの、1967年生まれの松本大洋が描いていることへの驚きというのがこのマンガに対する感想です。ボクは、その年齢の時に「海の見える高台からの風景」のことなど思いもよりませんでした。 まあ、本当に重要なのは、次のページに登場する猫の方なのかなとも思いますが、まあ、そのあたりの真偽は本作をお読みいただくほかありません。 まあ、それにしても、絵も面白いのですが、この漫画家の持ち味はそれだけではないことは確かです。当分、おっかけは続きそうですね(笑)。
2023.05.16
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坂月さかな「星旅少年(2)」(PIE) トラキチクンの2023年12月のマンガ便に、1巻と一緒に入っていたのが坂月さかなくんの「星旅少年(2)」(PIE)です。第1巻と同じく青い表紙のマンガです。 ご覧の裏表紙に描かれている、小道具が「Moon gate mug」とか「II-Yume pillow」とか、横文字で書かれている雰囲気や、主人公の少年は「文化保存局特別派遣員・星旅人・登録ナンバー303」くんなのですが、ほかの登場人物にはある呼び名がないとかいうことに、場違いな老人読者にはそれは、なぜ? まあ、そういう、浮かべなくてもいい疑問が浮かんでしまうわけですが、その疑問が解けるにしたがって、このマンガの世界のサミシイ広がりや奥行きもわかってきます。 坂月さかなくんという、おそらく若いマンガ家に、この作品を書かせている、その青い世界のさみしさを、場違いな老人読者にもジンワリと感じさせるところが、このマンガのよさだと思います。 宇宙の果てのような舞台をしつらえながら、まあ、そうしつらえたからこそでしょうが、かなりリアルな「さみしさ」にたどりつくほかないのが現代という時代なのでしょうね。 しかし、「青い宇宙」の果てに「さみ さ」にたどりつくであっても、「さみしさ」という自意識の底に「青い宇宙」を見つけるであっても、その感じ方は、ある意味ありきたりですよね。 で、ありきたりを知っているマンガ家が、様々な、ちょっと、おもしろい「イイネ!」アイテムが考えだしていて、それはそれで、フムフムなのですが、そういうのって、昔はナルシズムと呼ばれて笑いの対象だったと思うのですが、今では、おしゃれなSFファンタジーとして読まれちゃうんですかね?まあ、おしゃれだと思いますけど(笑)。 まあ、そうは言いながら、本巻、最終ページですが、トビアスの木の下で座りこんでいる303君の前にあらわれたトビアスって誰?で、この二人はなに話すの? というわけで第3巻を待ってしまうのですからしようがありません(笑)。 で、急に話が飛びますが、筒井功という方の「縄文語へ道」(河出書房新社)という著書によれば「青木」とか「青山」、「青谷」という地名に出てくる「青」というのは、縄文時代には「色」ではなくて「葬送の地」をあらわす言葉だったと述べられています。このマンガは、おそらく、宇宙のイメージによっての「青」を背景して描かれていると思いますが、実は、「青」とは「墓場」をあらわす「原日本語」だったかもしれないとなれば、坂月さかなさんが描こうとしているらしい物語世界へ直結するわけで、ちょっと、おもしろいと思うのですが、いかがでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.02
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ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン「シド・バレット 独りぼっちの狂気」シネリーブル神戸 多分というか、おそらくというか、まあ、思い込みだけですがというか、1970年に高校1年生だった、ボクくらいの年齢の人で、1974年に大学生になって、初めて自分の小遣いで買ったロックのLPレコードがピンクフロイドの「おせっかい」で、その次に買ったのが「原子心母」だったというような始まりがあって、6畳一間の学生アパートでヘッドホンで繰り返し聞きながら田舎ものから脱皮しようとあがいたような20歳だったような人というのはそんなにいないんじゃないでしょうかね。 だって、ポスト・ビートルズのあの時代 に、同じロックというなら、すでに伝説だったジミ・ヘンや、ジャニス・ジョップリン、やたらにかっこよかったクリームや、ツェッペリン、ジム・モリソンが亡くなって伝説化しつつあったドアーズならまだしも、「エコーズって知ってる?」 とか、あんまり一般的じゃなかった気がしますね(笑)。大学とかの同級生とかにも、まあ、そんな話をした覚えもありませんし。 その後、音楽に対する好みがどう変わっていったかなんていう話は、まあ、今日はどうでもよくて、あの、半年ほどの音の記憶にはピンクフロイドがどっかと座り込んでいて、こう書きながら、久しぶりにヘッドフォンから「原子心母」の出だしの砲声、オートバイの爆音、そして、あのメロディーが流れてくるのを聞いていると、チョット、いても立ってもいられないような気分になりますね。 シネリーブルでは、同時に坂本龍一とかジョン・レノンの映画もやっていたのですが、ボクは、やっぱり、ピンクフロイドの伝説の人、シド・バレット からですね。 で、見たのは「シド・バレット 独りぼっちの狂気」、シド・バレットの映っている古いフィルムを集めて、その頃のみんなが語っているというドキュメンタリーでした。さて、感想は、というわけですが、実は、上に書いた「おせっかい」や「原子心母」の頃には彼はもう、バンドにはいませんからね。だから、よく知らなかったんですよね。でも、映画の中で、彼のことを語っているのが、その頃のメンバーなのです。なんか、ちっともエラそうじゃないおじいさんになっているロジャー・ウォーターズやデビッド・ギルモアを見ていて、シミジミしちゃいましたね。もう、それで十分でした。 まあ、それにしても、神戸が都会なのか田舎なのか、ここで50年暮らしてきましたが、田舎者脱皮作戦はうまくいったわけではなさそうですね(笑)。監督ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン音楽 シド・バレット ピンク・フロイドナレーション ジェイソン・アイザックスキャストロジャー・ウォーターズデビッド・ギルモアニック・メイスンピート・タウンゼントグレアム・コクソンミック・ロックダギー・フィールズノエル・フィールディングトム・ストッパードアンドリュー・バンウィンガーデン2023年・94分・PG12・イギリス原題「Have You Got It Yet? The Story of Syd Barrett and Pink Floyd」2024・05・24・no071・シネリーブル神戸no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.27
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谷川俊太郎・瀬川康夫「ことばあそびうた」(福音館書店) 北海道のお友達の家にアカゲラがやってきて、ログハウスのドアから柱から、コツコツやるので困っているというお話しを聞きました。 経験も実害もないぼくはうれしくなって思いだしました。もちろん、うれしくなったりしてはいけません。お友達のお家が三日月になってしまうなんて想像するのは、もっといけません。 うそつききつつき 谷川俊太郎うそつききつつききはつかないうそをつきつきつきつつくうそつききつつきつつきにつつくみかづきつくろとつきつつく 詩人の谷川俊太郎と画家の瀬川康夫が1973年につくった絵本です。「ことばあそびうた」(福音館書店)、ちょっと信じられないことに定価は500円です。 これもまたチッチキ夫人の棚から拝借しました。むかし、ゆかいな仲間たちに大声で読んでやったような、やらなかっったやうな。 一つだけというのも、もったいないからもう一つ。実に有名な詩だけど、この辺りでは見かけません。北海道にならこいつも、まだいるかもしれないですね。 かっぱ 谷川俊太郎かっぱかっぱらったかっぱらっぱかっぱらったとってちってたかっぱなっぱかったかっぱなっぱいっぱかったかってきてくった で、これが裏表紙です。なんか、とてもシャレてますね。登場人物(?)たちの肖像が、みんな描いてあるようです。瀬川康夫の絵が、妙に懐かしいのですね。「日本昔話」でも出会ったかもしれませんね。 ああ、それから、この絵本には続きがあります。それはまたいつかね。追記2020・05・31 続きはこちらです。「ことばあそびうた また」の感想書きました。題名をクリックしてみてください。追記2022・05・29 2年前の投稿を修繕しました。コロナ騒ぎが始まったころでしたが、騒ぎはまだ続いています。どこまで続くのでしょう。ふと、ネットを見ていると「かっぱ かっぱらった」ってどういう意味かという質問があって驚きました。意味とか効果とかにとらわれる時代なのですね。 何の目的もないのにテクテク歩いて、歩き疲れて、鼻歌も出てこないし、そういえば口笛の吹き方もいつの間にか忘れそうな徘徊老人は、できるだけ意味とか効果から逃げ出したい一心なのですが・・・・。 そういえば、つい最近も、摩耶埠頭の倉庫だらけの広大な敷地をヨタヨタ歩いていて、作業服姿の青年から「道に迷われたのですか?」と親切に声をかけられしました。 「そうか、イヨイヨ、ぼくも、迷って徘徊している老人に見えるんだ!」 まあ、自慢してもしようがないのですが、シマクマ君の徘徊も、ちょっとホンモノになってきたようで、うれしいような、情けないような気がしましたが、実際、歩き疲れてヘロヘロだったことも事実なわけで、トホホな体験でした(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.29
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クリストファー・ノーラン「オッペンハイマー」109ハット 今日は2024年3月30日、土曜日です。その上、春休みです。普段は出かけません(笑)。 しかし、しかし、ですよひょっとしたら、今、一番騒がれている映画じゃないか? が封切られているのです。180分の大作ですが、2024年のアカデミー賞、作品賞、監督賞(クリストファー・ノーラン)、主演男優賞(キリアン・マーフィ)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、編集賞、撮影賞、作曲賞と、7部門、まあ、総舐めという作品で、おっちょこちょいの徘徊老人としてあっこならすいているんじゃないか? とやって来た109ハットでしたが、やっぱり空いていました(笑) 見たのは、もちろん、クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」です。 実は、評判になり始めてひっかかっていたことがあります。なんで、今、オッペンハイマーやねん? で、見終えました。若い人はご存知ないかもしれませんが、1940年代、第二次大戦中ですが、マンハッタン計画という、アメリカの原爆開発プロジェクトの科学技術的な責任者であったJ・ロバート・オッペンハイマーJulius Robert Oppenheimerの、いわば伝記映画でした。 いかにも、ノーラン監督らしい映像的工夫に満ちた作品でしたが、果たして、効果的だったのかどうか、ボクには、少々めんどくさかったですね(笑)。 面白かったのは、まず、登場するアインシュタインが、ボクが思い浮かべるイメージの姿と、実に、ピッタリ同じというか、そっくりで笑えました。ついでにいえば、見ながら気付いたわけではありませんが、オッペンハイマーもそっくりです。似た人というのはいるのですねえ(笑)。 で、その、オッペンハイマーとアインシュタインが出会うシーンが一回だけあるのですが、そこで何が語り合われたのかが、おそらく、この映画の底に流れている大事なポイントだと思いました。古典力学が描いた世界を根底から刷新したアインシュタインですが、彼がたどり着いたのは量子力学という新しい未知の発見、ひょっとしたら、「絶望」の発見だったわけで、そこから未知の世界へ足を踏み入れて、世界を滅ぼす可能性のある殺戮兵器の道を歩もうとしているオッペンハイマーの「不安」が出会ったシーンとして、まあ、この映画の鍵となるシーンだったと思うのですが、ボクには印象深かったのですね。 ただ、この二人とか、ハイゼンベルグとか、ボーアとか、無茶苦茶なつかしい名前でしたが、彼らには見えているらしい「量子的世界」について、実は、ボクレベルの科学的世界認識では歯が立たないのですね(笑)。 映画の制作者は、おそらく、そこのところを何とかしようとお考えになったんでしょうね、数式の抽象化なのか自然現象の描写なのか、まあ、ちょっとハッタリ的な映像が繰り返されて、「なんや、あんたもわかってへんのやろ」 という感じで、笑えました。 で、映画は「原爆を作ってしまった科学者」オッペンハイマーの伝記的事実をなぞろうとしているようですから、原爆開発と、その軍事的使用に対して、罪というべきなのかどうかはわかりませんが、彼自身の、一人の人間としての「存在論的な苦悩」 が、本線として、まず、あるわけですね。 で、映画は、そこを主軸としながら、戦後、水爆開発に反対したことが理由でしょう、1950年代の、所謂、「赤狩り」のターゲットにされて公聴会で尋問されるという、反共を煽るアメリカという国における、国民としての資格の剥奪の脅しに対する「怒りと戸惑い」 加えて、彼の性的、精神的な志向によるのでしょうね、いわば、内面に渦巻く欲動の自己矛盾に対する怯え を抱えている人間という、重層的な存在のありさまを、多分、三通りの、時制ではなくて、映像の主体、だから、誰が見ているシーンかという映像的な差異によって、錯綜させて描くという、ノーラン監督の得意技が駆使されていて、面白い人には面白いのでしょうが、ボクにはかなりややこしい という印象でしたが、とどのつまりに、妻の口から発せられた「公聴会で許されたからといって、あなたがやったことが許されたとは限らない」 という(はっきり覚えていませんが)セリフの、「あなたがやったこと」 が実に多義的で、かつ、静かではあるのですが、激しい否定のセリフには、やはり、ギョッとするというか、印象に残ったのですが、なんだか、消化不良な感じも残りましたね(笑)。 まあ、なんとなく、不満を書き連ねていますが、ボク自身にとっては、かなり衝撃的な体験 をさせられた映画でもありました。 上に貼ったのは映画ではなくて、公式記録の写真らしいですが、映画の前半、最後の山場は、この写真が写している最初の原爆の実験の現場を描いた映像でした。ボクは普通の映画館で見ましたから、椅子が揺れたりしたわけではありませんが、最初に光と火炎の塊がスクリーンに広がり、しばらくの沈黙の後、強烈な爆音が響き、まさに「ピカドン」 が映しだされたのですが、その映像を見ながら、椅子にすくみこむような気分に落ち込みながら、涙がとまらなくなってしまったのでした。不思議な経験でしたね。なんだったのしょうね、あの、身体反応は? ここ数年、何本か見たことのある監督ですが、ややこしさはいつものことですが、あのシーンは衝撃でしたね。拍手! 余談ですが、始まりは、アインシュタインの「物理学はいかに創られたか上・下」 (岩波新書)、そこから、ハイゼンベルグの『部分と全体』(みすず書房)とかシュレーディンガーの『生命とは何か』(岩波文庫)とかに、それぞれ、まったくワカラナイにもかかわらず、熱中したことがあったのですが、懐かしく思い出しました。映画を見ながら懐かしい名前といったのは、この映画にも登場する物理学者たちの多くが、10代の終わりころのボクには、あこがれのスターだったんですよね。あの頃から50年、本だけでも、と思って、何度も、あれこれチャレンジしましたが、結局、諦めましたね。面白がれたのはファインマンさんの冗談だけでしたね(笑)。 ああ、それから、なぜ、今、オッペンハイマーなのか? は、結局、わかりませんでしたね。ついでにいえば、この映画が大騒ぎになっている理由もよくわからなかったですね。嫌いじゃないし、面白かったのですが・・・(笑)。監督・脚本 クリストファー・ノーラン原作 カイ・バード マーティン・J・シャーウィン撮影 ホイテ・バン・ホイテマ美術 ルース・デ・ヨンク衣装 エレン・マイロニック編集 ジェニファー・レイム音楽 ルドウィグ・ゴランソン視覚効果監修 アンドリュー・ジャクソンキャストキリアン・マーフィ(J・ロバート・オッペンハイマー)エミリー・ブラント(キャサリン(キティ)・オッペンハイマー)マット・デイモン(レスリー・グローヴス)ロバート・ダウニー・Jr.(ルイス・ストローズ)フローレンス・ピュー(ジーン・タトロック)ジョシュ・ハートネット(アーネスト・ローレンス)ケイシー・アフレック(ボリス・パッシュ)ラミ・マレック(デヴィッド・L・ヒル)ケネス・ブラナー(ニールス・ボーア)ケネス・ブラナーディラン・アーノルド(フランク・オッペンハイマー)デビッド・クラムホルツ(イジドール・ラビ)マシュー・モディーン(ヴァネヴァー・ブッシュ)ジェファーソン・ホール(ハーコン・シュヴァリエ)ベニー・サフディ(エドワード・テラーデ)デビッド・ダストマルチャン(ウィリアム・ボーデン)トム・コンティ(アルベルト・アインシュタイン)グスタフ・スカルスガルド(ハンス・ベーテグス)マイケル・アンガラノデイン・デハーンオールデン・エアエンライク2023年・180分・R15+・アメリカ原題「Oppenheimer」2024・03・30・no052・109ハットno43追記2024・04・02 「オッペンハイマー」というこの映画の感想を書くのに、ちょっと苦労して、なんとか書き終えて、寝ていて、「うん???」 と思い浮かんだことがありました。2023年に見た「アステロイド・シティ」という、アニメのようでアニメでない、という雰囲気のけったいな映画のことです。「あれって、ロスアラモスか?」 という、なんというか、ひらめきというか、思いつきでした。 そういえば、あの映画は少年科学者大会とかいっていたと思いますが、マンハッタン計画は全米の秀才高校生まで動員した、国民的行事だったですよね。ボクは、あの映画の舞台がネバダということもあって、広瀬隆の「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」(文春文庫)とかを思い出して、なんとなく「原爆実験かあ・・・」 とか思っていたのですが、ひょっとしたら、この映画と同じ関心で、あの映画は作られていたのではないかという思い付きですね。 そうだとすれば、才能とセンスの塊のようなウェス・アンダーソンとクリストファー・ノーランという二人のアメリカの監督が同じように、今、「ロスアラモス」を振り返ろうとしているんじゃないか。それは、何故かなのか?ですね。 日本の戦後でいえば、「夏の花」、「黒い雨」から「父と暮らせば」や「祭りの場」、近いところでは「爆心」まで、他にもいっぱいありますが、繰り返し描かれ、映画化もされた原爆ですが、作って、使ったアメリカではどうだったのか。なぜ、今、オッペンハイマーなのか? なんだか、いよいよ、引っかかってきましたね(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.02
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濱口竜介「悪は存在しない」元町映画館 濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」を見ました。 つくづく、この監督の作品との相性の悪さを実感して見終えました。なんだかわけがわからない気分で座り込んでいると、ちょうど、一席空けた隣の席に座っていらっしゃった長髪でおひげを蓄えていらっしゃった、まあ、20代の後半か30代くらいのの男性が他のお客たちが出て行かれるのを待つような様子で座っておられたので、思わず声をかけました。「おもしろかったですか?」「はい。」「この監督の作品は、よくご覧になるのですか?」「はい、ドライブマイカーとか見ました。」 まあ、それだけの会話だったのですが、ちょっと、ホッとしました。 ボクには、始まりから最後まで、なんだかわからない落ち着かなさしかなくて、とどのつまりのラストは、ただ、ただ、ポカーンでした。 もう、それ以上、あれこれ言うことはないのですが、少し、言い訳を書くと、実は、この監督の作品は神戸を舞台にした長編に始まって、短編のオムニバス、何とか賞だかで騒がれた、隣の男性がご覧になったらしい作品まで、みんな見ているのですが、どの作品も、作品の方からスーッと離れていく感覚なのですね。 今回は、「おかワサビ」の話、「水を汲む」シーン、「薪を割る」シーンなんかが、スーッと、映画がボクから離れていった記憶として残ったのですが、どれも、ボクの生活の記憶に少しずれているというか、なんかウソやなと感じたからですね。 たとえば、一つ上げれば、ワサビは畑でも、まあ、田舎の家なら裏庭の日陰でも育ちます。葉っぱは、水気が少ないだけで、水辺のワサビと同じです。信州での、そばの薬味としての扱われ方は知りませんが、「そうなの?何を大げさな。」 という感じ浮かんできました。 映画が、そのシーンで背景化しようとしているのは「文化」や「自然」の歴史性というようなものかなとか思いながらも、たとえば「自然」に対する、この「話題」の作り手の作為というか、思いつきのようなものを感じてしまっているのかもしれませんが、そのあたりから、主人公らしき男性、そして、親子の「自然さ」に対する、ほんの幽かな疑い、まあ、白々しさの感覚から離れらなくなってしまうのですね。 その結果でしょうか、あたかも静かに錯綜するかの自然な会話が、異様に劇的というか、思わせぶりな意味を漂わせ始めて、まあ、それはそれで面白いのですが、やっぱり、「なんだかなあ???」 が浮かんできてしまうのです。 で、あのラストで、題名が「悪は存在しない」ですからね。「観る者誰もが無関係でいられない、心を揺さぶる物語」 なのだそうですが、今度は「よし!よし!」かなと期待して見たのですが、ボクには、やはり、「無関係」でした(笑)。 この人の映画、「青年団」という劇団の役者さんたちが出てくるのが楽しみの一つなのですが、今回も、少し老けられた山村崇子さんとかの姿を見つけたりしてなつかしかったですね。監督・脚本 濱口竜介撮影 北川喜雄編集 濱口竜介 山崎梓音楽 石橋英子キャスト大美賀均(巧)西川玲(花)小坂竜士(高橋)渋谷采郁(黛)菊池葉月三浦博之鳥井雄人山村崇子長尾卓磨宮田佳典田村泰二郎2023年・106分・G・日本2024・05・07・no065・元町映画館no245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.18
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村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。 さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にしてこれを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。一度、お読みになって見ませんか。同時代の作家と出会えるかもしれませんよ(笑)。(S)2017・12・20 こんな、今、自分で読み返しても論旨が分からないような作文を高校生に向かって書いていたことがあることが懐かしくて載せました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.20
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谷川俊太郎「夜のミッキー・マウス」(新潮文庫) 百三歳になったアトム 谷川俊太郎人里離れた湖の岸辺でアトムは夕日を見ている百三歳になったが顔は生れたときのままだ鴉の群れがねぐらへ帰って行くもう何度自分に問いかけたことだろうぼくには魂ってものがあるんだろうか人並み以上の知性があるとしても寅さんにだって負けないくらいの情があるとしてもいつだったかピーターパンに会ったとき言われたきみおちんちんないんだって?それって魂みたいなもの?と問い返したらピーターは大笑いしたっけどこからかあの懐かしい主題歌が響いてくる夕日ってきれいだなあとアトムは思うだが気持ちはそれ以上どこへも行かないちょっとしたプログラムのバグなんだ多分そう考えてアトムは両足のロケットを噴射して夕日のかなたへと飛び立って行く「夜のミッキー・マウス」(新潮文庫) 友達との間で、矢作俊彦の「ららら科学の子」(文春文庫)の話が出て、丁度その頃、尾崎真理子が谷川俊太郎にインタビューした『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)を読んでいたものだから、この詩集を引っ張り出してきました。 平成18年(2006年)の7月に発行されたと奥付にありますが、単行本の詩集は平成15年(2003年)、9月の発行です。 表題作は「夜のミッキー・マウス」ですが、今回は、まあ、話題に沿ってということで「百三歳になったアトム」を引用しました。 谷川俊太郎といえば「スヌーピー」の全訳の人なのですが、「アトム」は主題歌の作詞者ですね。空を越えて ラララ 星のかなたゆくぞ アトム ジェットの限り 60代より御年の方は必ず歌える(?)歌じゃないでしょうか。 で、「百三歳になったアトム」のことなんですが、アトムの生まれたのは1951年「アトム大使」だとすると、103歳というのは2054年くらいですね。そのことが、今日一日、なんだか不思議でした。 この詩のなかの「アトム」は、ぼくなんかもいなくなった世界のアトムなんですね。多分、アトムに自分を重ねてこの詩を読むのは、やはり1960年代に小学生だった人じゃないかと思うのです。この詩はそういう詩だと思うのですが。うまくいえませんね。 まあ、今、もしも高校生と一緒にこの詩を読むとして、どういったらいいのかわからないなあという感じですね。 文庫本の解説のなかでしりあがり寿さんがこんなことをおっしゃっています 電車の中、ぼくの手の作品集にはしっこを折ったページが増えてゆく。 はしっこを折った詩は誰かに読ませたい詩だ。妻によませたい詩。娘に読ませたい詩。あてはないけど誰かに読ませたい詩。詩があったらからと言って橋や道路のようになにかが便利になるわけじゃ。どっかの占い師のように悩める心に答えをくれるわけじゃない。コレステロールや血糖値を下げて長生きできるわけでもない。でもそれがあるだけで確実に何かが変わる。 妻は「ママ」という詩を読んで苦笑して「私はちがう。」というだろう。 小学生の娘は「よげん」という詩を読んで、世界のちょっとヤバイところを感じてとまどうだろう。 「ああ」を読まされた女性スタッフは、なんのつもりでこれを読まされかいぶかしく思うだろう。(谷川俊太郎の詩になりたい P109) キリがないのでこれくらいでやめますが、「ああ」とかどんな詩なのか、きっと気になる方もいると思いますので、ちょっとここで引用して話を終えたいと思います。 ああ 谷川俊太郎あああああああああ声が出ちゃう私じゃないでも声が出ちゃうどこから出てくるのかわからない私からだじゅう笛みたいになってるあつうぬぼれないであんたじゃないよ声出させてるのはあんたは私の道具よわるいけどこんなことやめたいあんたとビール飲んでるほうがいいバカ話してるほうがいいでもいいこれいいボランティアはいいことだよねだから私たち学校休んでこんな所まで来てるんだよねでもこのほうがずっといいどうして苦しいよ私嬉しいけどつらいよあ何がいいんだなんてきかないで意味なんてないよあんたに言ってるんじゃない返事なんかしないで声はからっぽだよこの星空みたいにもういやだああねえあれつけて未来なんて考えられない考えたくない私ひとりっきりなんだもの今泣くなっていわれても泣いちゃうあああああいい「夜のミッキー・マウス」(新潮文庫) さすが、谷川俊太郎、やるもんですね。もちろんこの詩を「女性スタッフ」にすすめたり授業で取り上げる「勇気」はぼくにはありません。でも、悪くないと思うのですがいかがでしょう。(笑)
2021.09.07
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「本日の終着地点は兵庫御旅所」 徘徊日記2023年3月10日(金) 大開通あたり お昼過ぎに電車に乗ってました。元町駅で降りて、シネ・リーブルという映画館で、まあ、いつものように映画を観るつもりだったんです。で、東口の改札を出て右に行かずに左にフラフラ歩き出して、県庁あたりから四宮神社を通り抜けて、相楽園の壁沿いを北に歩いて、諏訪山公園を横に見て、五宮町で神社とお寺にお参りをして、祇園さんの階段をヘイコラ上って、有馬街道を西にわたりました。雪の御所とかいうシャレた地名の町に住んでいる知人の家の呼び鈴を押しましたが留守のようで、東山市場でよっぽどラーメンか何か食べようかと逡巡しながら湊川公園で碁を打っているおじさんをのぞき込んで、今日はもう新開地駅から山陽電車で帰ろうと思ったのですが、気がついたらこの梅の木の写真を撮っていました。なーんちゃって(笑)。 まあ、成り行き任せで歩いてきたことは事実で、たどり着いたのが生田神社、兵庫御旅所というらしいです。 本殿はこちらです。最近、新開地が縁遠くなっていて、やって来たのは久しぶりです。「梅など咲いていませんか?」 と、まあ、季節には少々遅れ気味の徘徊なのですが境内の梅を捜しました。 はい、ちゃんとありました。歩いたかいがありましたね。まあ、満開を過ぎてしまっているのはしようがありません。どうせピンボケですから、とにかく写真を撮りましょう。 ああ、それから、こちらも忘れるわけにはいきませんね。こちらの神社の狛犬さんは今までにも何度か取らせていただいているのですが、今日お出会いした記録ですからね。 こちらが「阿」さんです。なんだか、顔がでかいですね。 で、こちらが「吽」さんです。 というわけで、今日の終着地は兵庫の御旅所でした。途中でセーターを脱ぎましたが汗だくでした。おなかもペコペコですが、まあ、このまま兵庫駅から電車に乗って帰りました。少しはやせたでしょうか?ボタン押してね!
2023.03.11
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谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」(青土社) 1975年、ぼくは大学1年生だったか、2年生だったか?大学生協の書籍部の棚にこの詩集が並んでいたことを覚えています。 価格の900円が高かったですね。書籍部の書棚の前に立って、棚から抜き出して立ち読みしました。 芝生そして私はいつかどこかから来て不意にこの芝生の上に立っていたなすべきことはすべて私の細胞が記憶していただから私は人間の形をし幸せについて語りさえしたのだ 巻頭の、この詩を読んで、自分から、なんだか限りなく遠い人が立っているような気がしたのを覚えています。 それから45年たちました。先日、同居人の書棚にある詩集を見つけ出して、そのまま書棚の前に座り込んで初めて読む詩のように読み始めました。 2 武満徹に飲んでいるんだろうね今夜もどこかで氷がグラスにあたる音が聞こえるきみはよく喋り時にふっと黙り込むんだろぼくらの苦しみのわけはひとつなのにそれをまぎらわす方法は別々だなきみは女房をなぐるかい? 4 谷川知子にきみが怒るのも無理はないさぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言ってるしかもしらふでにっちもさっちもいかないんだよぼくにもきっとエディプスみたいなカタルシスが必要なんだそのあとうまく生き残れさえすればねめくらにもならずに合唱隊は何て歌ってくれるだろうかきっとエディプスコンプレックスだなんて声をそろえてわめくんだろうなそれも一理あるさ解釈ってのはいつも一手おくれてるけどぼくがほんとに欲しいのは実は不合理きわまる神託のほうなんだ 谷川俊太郎も若かったんだなあ。というのがまず第一番目の感想ですね。「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」と題された詩篇は、全部で14あります。二つ目に「小田実に」とあるのが、なんだか不思議な感じがしましたが、どの詩も、印象は、少し陰気です。 14 金関寿夫にぼくは自分にとてもデリケートな手術しなきゃなんないって歌ったのはベリマンでしたっけ自殺したうろ覚えですが他の何もかもと同じようにさらけ出そうとするんですがさらけ出した瞬間に別物になってしまいますたいようにさらされた吸血鬼といったところ魂の中の言葉は空気にふれた言葉とは似ても似つかぬもののようですおぼえがありませんか絶句したときの身の充実できればのべつ絶句していたいでなければ単に啞然としているだけでもいい指にきれいな指環なんかはめて我を忘れて1972年五月某夜、半ば即興的に鉛筆書き、同六月二六日、パルコパロールにて音読。同八月、活字による記録お呼び大量頒布に同意。 気にとまった作品を書きあげてみましたが、あくまでも気にとまったということです。それぞれに、刺さって来る一行があるのですね。 四歳年下の同居人が、大学生になってすぐに購入していることに、今更ながらですが、驚いています。この詩人の作品を愛していた彼女に、ぼくとの生活について問い直すことは、やはり、今でも、少し怖ろしいですね。
2020.12.20
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松本大洋「ルーヴルの猫(上・下)」(小学館) いわずもながですが、こちらが上巻の表紙です。で、下が下巻です。 2022年の4月の終わりのマンガ便に上・下二巻で入っていました。松本大洋「ルーヴルの猫」(小学館)です。舞台は題名の通り、フランスのルーヴル美術館です。 「ルーヴルの猫」というぐらいですから、主人公は上巻・下巻の表紙に登場するネコです。上巻も下巻も、最初の見開きを飾っているのは「アモルの葬列」というルーブル美術館所蔵のこの絵です。 フランスのルネッサンス後期のアントワーヌ・カロン(1521-1599)という人の作品らしいです。フォンテーヌブロー派と呼ばれている流儀の絵ですが、天使たちが葬儀の行列をしている作品です。 ちょっと見るだけでも、いろんなことが描き込まれていて、最近はやりの「西洋絵画・謎解き解説」の格好の標的という感じです。 まあ、絵の講釈はともかく、問題はこの絵とこのマンガの関係です。マンガは現代のルーブル美術館に住みついている猫たちが主人公です。 上巻の始まりのページがこれですが、要するに彼らがルーブル美術館の主(ぬし)ということでしょうか。 片目、片耳のデカイ顔が「アオヒゲ」。目つきの悪い黒猫が「ノコギリ」。のんびり屋で食いしんぼが「フトッチョ」。毛のないやせぎすが「棒切れ」、そして、いつも絵を見ている白い子猫が、表紙にも登場した「ゆきんこ」です。 まあ、これくらいで、ネコ好きの皆さんは「ちょっとこのマンガ探してみようかな」となると思うのですが、美術館好きの人を惹きつける登場人物ももちろん登場します。 画面は引用しませんが、ルーヴル美術館で生まれ育ったといってもいい生い立ちで、ネコたちを守っている守衛のムッシュ・マルセル。「アモルの葬列」の修復を手掛けている世界一の修復士シャルル・ド・モンヴェロン。そして、その二人と猫たちの世界の秘密に立ち会うのがモンヴェロンの教え子で、今はルーヴル美術館のガイド、セシル・グリーンというわけです。メガネをかけた知的で、ナイーヴ、美しい女性です。 夜のルーヴル美術館で繰り広げられる時を超え、人と猫の境界を越えた世界を描くファンタジーでした。「あんたは絵の声を聴いたことがあるかね」(上巻・P22) ムッシュ・マルセルのそんな言葉で謎の世界が始まります。というわけで、あとは探し出してお楽しみください。 日本での評判は知りませんが、アメリカのウィル・アイズナー漫画業界賞を受賞しているそうです。ああ、それからオール・カラーの豪華版が出ているそうです。できればその本を見てみたいのですが、少々高いですね(笑)図書館をお探しになるのでしたら、そちらがいいと思います。なんといっても絵が松本大洋ですからね。 こちらがオールカラー上・下です。追記2023・02・04 松本大洋の「東京ヒゴロ」(小学館)という作品にハマっています。ここで案内した「ルーヴルの猫」とは、かなり趣が違いますが、なかなかな作品だと思います。「ああ、こういうマンガを描くマンガ家も、まだ、いるのだなあ。」 そういう感慨が浮かんでくる作品です。とてもいい小説の味わいなのですが、間違いなくマンガなのです。そこをうまく言えないのが残念です。
2022.05.02
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大江健三郎「頭のいい『雨の木』」(「自選短編」岩波文庫) 大江健三郎の「自選短編」(岩波文庫)という、分厚い文庫本を図書館から借りてきたのは、「飼育」という作品を読み直す必要があってのことで、とりあえず、その作品についての、まあ、今のところの感想を綴り終えて「皆さんもどうですか」なんて調子のいいことを書いたのですが、「飼育」の次あたりに所収されている「セヴンティーン」や「空の怪物アグイー」という題名を目にして、へこたれました。 説明のつかないうんざり感が浮かんで、「もういいかな、今さら・・・」という気分で放りだしたのでした。 にもかかわらず、深夜の台所のテーブルに、放りだされた文庫本が、ちょこんとしているのを見て、思わず手を伸ばし、中期短編と標題されているあたりを読み始めてしまうと、困ったことに、これが、止まらなくなってしまい、夜は更けたのでした。 「雨に木を聴く女たち」という作品集は、単行本や文庫化されたときには「頭のいい『雨の木』」、「『雨の木』を聴く女たち」、「『雨の木』の首吊り男」、「さかさまに立つ『雨の木』」、「泳ぐ男――水の中の『雨の木』」の五つの作品が収められていたはずですが、この自選短編には、理由は判りませんが、「首吊り男」と「泳ぐ男」は入っていません。 で、「頭のいい『雨の木』」です。ハワイ大学で催されている文化セミナーに参加している、英語力がままならないことを、まあ、大げさに嘆く作家である「僕」の一人称で語られている小説です。1983年に発表されて、読売文学賞を受賞した「雨の木を聴く女たち」の連作の最初の作品です。 この連作、少なくともこの自選短編に所収されていた三つの作品の特徴の一つは、書かれた作品をめぐって起こるエピソードが、次の作品を構成してゆくというところです。この前の作品をめぐる、作品の外のエピソードから、次の作品が語りはじめられるということですね。 それは私小説の手法だと思うのですが、それぞれの作品は「事実」に基づいているわけではなさそうです。日常生活という、あたかも事実であるかのイメージを額縁にした画面に、作家の想像力の中で起こっている出来事が描きくわえられているといえばいいのでしょうか。そういう意味で、これらの作品は、いわゆる私小説ではありません。 想像力の世界の描写として共通して三作に共通して描かれているのは、繰り返し、暗喩=メタファーだと強調される「雨の木レイン・ツリー」と、二人の女性の登場人物でした。 下に引用したのは、その一人目の人物であるアガーテの登場が描かれることで始まる、「頭のいい『雨の木』」の冒頭場面です。― あなたは人間よりも樹木が見たいのでしょう?とドイツ系のアメリカ人女性がいって、パーティーの人びとで埋まっている客間をつれ出し、広い渡り廊下からポーチを突っきって、広大な闇の前にみちびいた。笑い声とざわめきを背なかにまといつかせて、僕は水の匂いの暗闇を見つめていた。その暗闇の大半が、巨きい樹木ひとつで埋められていること、それは暗闇の裾に、これはわずかながら光を反映するかたちとして、幾重にもかさなった放射状の板根がこちらへ拡がっていることで了解される。その黒い板囲いのようなものが、灰青色の艶をかすかにあらわしてくるのをも、しだいに僕は見てとった。 板根のよく発達した樹齢幾百年もの樹木が、その暗闇に、空と斜面のはるか下方の海をとざして立っているのだ。ニュー・イングランド風の大きい木造建築の、われわれの立っているポーチの庇から、昼間でもこの樹木は、人間でいえばおよそ脛のあたりまでしか眺めることはできぬだろう。建物の古風さ、むしろ古さそれ自体にふさわしく、いかにもひそやかに限られた照明のみのこの家で、庭の樹木はまったく黒い壁だ。― あなたが知りたいといった、この土地なりの呼び方で、この樹木は「雨の木(レイン・ツリー)」、それも私たちのこの木は、とくに頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」。 そのようにこのアメリカ人女性は、われわれがサーネームのことははっきり意識せぬまま、アガーテと呼んでいた中年女性はいった。(P333~P334) セミナーの開催されている期間中、毎晩のように開かれるパーティーの場面ですが、これは、この夜、地元の精神病者のための施設で開かれたパーティーの場面で、主催者の一人であるアガーテというドイツ系だとわざわざ断って描写されている女性が「僕」に、施設の庭にある「雨の木」を見せるシーンです。 『雨の木』というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。(P340) アガーテによる「雨の木」の紹介です。実は、この作品は、発表されると、ほぼ同時に、武満徹という作曲家によって「雨の木」という楽曲に作曲されていて、ユー・チューブでも聞くことができますが、その冒頭でこのセリフがナレーションされていて、まあ、今では、知る人ぞ知るというか、それなりにというか、まあ、有名な一節です。 「雨の木」をめぐる、この連作小説の主題は「grief」、訳せば悲嘆でしょうが、作品中では「AWARE」とローマ字で表記されています。英語の単語を持ち出して、ローマ字表記で「あはれ」という音を響かせようとするところが、良くも悪くも大江健三郎だとぼくは感じるのですが、この「頭のいい『雨の木』」という作品で、「grief」がどんな風に描かれているのかは、まあ、説明不可能で、お読みいただくほかありませんが、人間という存在の哀しみの中に座り込んでいる「僕」がいることだけは、間違いなく実感できるのではないでしょうか。 ついでに言えば、武満徹の「雨の木」という曲も、10分足らずの短い曲ですが、お聴きになられるといいと思います。 二作目の「雨の木を聴く女たち」は、その曲をめぐる作家の思いの表白から始められて、小説の構成としても、なかなか興味深いと思いますよ。
2022.12.03
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長谷川櫂「俳句と人間」(岩波新書) とりわけ、俳句に興味があるというわけではありません。いつも行く図書館の新刊の棚にありました。今回の案内は長谷川櫂「俳句と人間」(岩波新書)です。 長谷川櫂という名は知っていました。エッセイとか、ひょっとしたら句集とかも読んだ気がします。大岡信とか丸谷才一と歌仙とかやっていらっしゃった本もあって、才気あふれる若手の俳人だと思っていたら、同い年でした。 岩波書店の「図書」というPR誌に連載されていたエッセイの様なのですが、開巻早々、「はじめに」の書き始めが、こんな感じです。 いったん人間に生まれてしまったからには必ず死ななければならない。これがいつの時代も変わらない人間の定めである。しかし若いうちは命の歓びに目がくらんで目の前の鉄則が見えない。うららかな春の日が永遠に続くと思い込んでいる。 しかしあるとき人間は自分の命もやがて終わることに気づくのだ。これまで生きてきた人々と同じように自分もいつかは死ぬということに。2018年、皮膚がんが見つかったのは私にとって、その「あるとき」だった。 笑い事ではないのですが、笑ってしまいました。どこか、喧嘩ごしですね。 で、第1章が「癌になって考えたこと」で、中には、こんな文章が綴られています。 この年の夏は記録的な猛暑だった。梅雨明けとともに炎天が続き、街に出るとたちまち炎のような熱風に包まれる。 切除手術からひと月たった七月下旬、精密検査の結果を聞きに家内と病院に行った。まだ午前中というのに信濃町駅から慶応病院へ渡る横断歩道の、そして神宮外苑の森を超えて建設中のオリンピック・スタジアムへ続く青空のなんとまぶしく輝いていたことか。 私は診察室に入るまで、不覚にも「異常なし」といわれるものと思いこんでいた。ところが大内先生の口から出たのは想像もしない言葉だった。「皮膚癌でした。・・・・・もう一度、患部のまわりをきれいに切除しましょう。その前にPET検査を受けてください。転移が見つかれば、化学治療や放射線治療をすることになります。」 ガーン・・・、だったのでしょうね。先に引用した「はじめに」の冒頭の雰囲気が、まあ、ボクがそう思うだけなのかもしれませんが「喧嘩ごし」だった理由がわかります。 で、目次を引用するとこうなっています。 目次第1章 癌になって考えたこと第2章 挫折した高等遊民第3章 誰も自分の死を知らない第4章 地獄は何のためにあるか第5章 魂の消滅について第6章 自滅する民主主義第7章 理想なき現代第8章 安らかな死 突然、向こうからやってきた「死」をめぐる考察というわけですね。というわけで、第1章は、まあ、ご本人の発病というか、病気発見のいきさつがあれこれ書き綴られているのですが、そこで思い浮かべられたのが正岡子規でした。 さもありなんです。ちなみに、第2章で話題になるのは「挫折した高等遊民」という題で予想がつくと思いますが漱石です。というわけで、近代以降の俳句の歴史をたどるのかと思いきや、違いました。 もっと向うにいると思っていた「死」とリアルに出会ってしまった俳人長谷川櫂の頭や心に思い浮かんでくるあれやこれやが、「待ったなし」のテンポで書き綴られているというのがボクの印象でした。 日々の生活エッセイと考えれば、ある意味、本道ですね。その、話題の飛び方というか、選び方というかが、さすが俳人長谷川櫂!というところです。たとえば、2010年代後半の現実社会に対する、歯に衣着せぬ、まっすぐなご発言には、「なるほど、そういうふうにお腹立ちなのですね。」というか、「俳句の本なのか辛口時評なのかわかりませんね。」というか、「言え、言え、もっと言え!」というか、なかなか胸のすくところもありますが、興味深く読んだのは、矢張り「俳句」をめぐる「ことば」であり「文章」なのでした。 で、「案内」としてまとめていえばと考えると、結局、俳句そのものが残ります。巻頭から最終章まで、記憶に残った俳句、まあ、中には短歌もありますが、それらを一人につき一つづつ抜き出して振り返って案内してみようと思います。しんかんとわが身に一つ蟻地獄 櫂 自らの病を知った長谷川櫂です。で、彼の心に浮かぶのはのは正岡子規でした。病床の我に露ちる思いあり 子規 子規とくれば漱石です。冷やかな脉(みゃく)を護りぬ夜明け方 漱石 で、二人を見つめながら、思い浮かんでくるのは明治という社会の行く末で、そこに見えてくるのは沖縄です。死と向き合っている長谷川櫂が沖縄に目をやること自体に、ハッとさせられました。捕虜になるよりも死ねとぞ教えたるわれは生きゐて児らは死にたり 桃原邑子「沖縄」 戦後の社会を切なさとともに生き延びてきた人がいることから目を背けていないか。そんな自問が病との出会いと重なります。爽やかに主治医一言切りませう 山田洋 目を背けない医師は冷静ですが、診察室に響く声の音に、耳を澄ませ、息を詰まらせて座ってる人の孤独は他人ごとではありません。手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子 何とか息を吐こうをするのはあがきでしょうか。で、俳人が思い浮かべたのは死を覚悟した芭蕉の境地でした。秋深き隣りは何をする人ぞ 芭蕉 ベッドに横になり、目をつむって周囲を伺えば、蛍に化身してさまよい出て行った魂が帰ってきます。蛍来よ吾のこころのまんなかに 長井亜紀「夏へ」 蛍の淡い光の中にうかんでくるのは誰もいなくなった福島の雪の中で死んでいった生き物たちの姿です。牛の骨雪より白し雪の中 永瀬十悟「三日月湖」 海に消えた魂たちに声を届けたい。ひとりまたひとり加はる卒業歌 照井翠「龍宮」 思い浮かぶのは、遠き日の友人の笑顔と諧謔です。生きたしと一瞬おもふ春燈下 玩亭・丸谷才一 遠き日々、そして今日の日没、あの蕪村が立っていた場所。遅き日のつもりて遠きむかし哉 蕪村しかし、今日、長谷川櫂が立ち尽くして仰ぐ空は青いのでした。大空はきのふの虹を記憶せず 櫂 何とか書き続けようと自らを鼓舞するかのような文章に、こんな世の中で生きていることのいら立ちや鬱陶しさが伝染してくるようなイやな感じにとらわれながらも、「それでどうするの?」と問いかけたくなるような近しさをも感じながら読み終えました。同じ年に生まれた人だという、本来の意味の同情を呼び起こされたのでしょうか。 本書に引用されていた桃原邑子歌集「沖縄」、照井翠句集「龍宮」という歌集と句集は新しい発見でした。お二人のお名前と、それぞれの書名は記憶にあったのですが、今回、きちんと読み直すことを古い友人に促されたような気分で本書を読み終えました。
2023.05.07
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(4)」(集英社) さて、第4巻です。表紙の人物は「大日本帝国陸軍・第七師団」所属する情報将校、鶴見篤四郎(つるみ とくしろう)陸軍中尉です。 容貌魁偉というのはこういうのでしょうかね。仮面のような額当てをしていますが、日露戦争の戦場で頭を吹き飛ばされても生き残った男で、今でも目の周囲の皮膚は剥がれていますし、吹き飛ばされた頭蓋骨にホーロー製のカバーを当てているのですが、時々脳漿のがにじみ出てくるという、恐るべき状態なのです。とはいいながら、その活躍ぶりは、なかなか、どうして、半病人などではありません。 土方歳三の刀のことを言いましたので、彼が手にしている拳銃についてちょっと。この銃はボーチャード・ピストルというそうです。ドイツで開発された、最初の軍用自動ピストルです。戦争映画などでナチスの将校が手にしている軍用拳銃ルガーP08というピストルの原型だそうです。 さて、この男が、アイヌの埋蔵金を狙う「三つ巴」の一角を担う、いわば、副主人公なのです。そして、彼の周りには狙撃の名手・尾形上等兵、マタギの末裔・谷垣一等兵、死神鶴見中尉の右腕・月島軍曹といった、後々、大活躍の人物が勢揃いしているのですが、それぞれの人物がクローズアップされる「巻」が待っています。紹介はその「巻」で、ということで。いやー先は長いんですよ、話の展開も一筋縄ではいかないようですし。 というわけで、「きょうの料理・アイヌ編 第4巻」ですね。 「鹿肉の鍋」です。「ユㇰオハウ」というそうです。プクサキナ(ニリンソウ)とプクサ(行者ニンニク)が入っているそうですが、なんと、アシリパちゃんが「味噌」をねだるようになっています。 「鮭のルイペ」。生肉や魚を立木にぶら下げて凍らせたものを「ルイペ」というそうで、とけた食べ物という意味だそうです。「鮭」は「カムイチェプ」というそうです。 さて、今回のカンドーは「大鷲」です。「カパチㇼカムイ」と呼ぶのだそうです。 見開き2ページを使った姿です。翼を広げると2メートルを超えるそうです。羽が矢羽根に使われます。モチロン肉は煮て食べます(笑)。 脚を齧っています。残念ながら「鍋」のシーンはありません。この後、おバカの白石くんは鷲の羽根を売りに行って、事件に巻き込まれます。 そのあたりは読んでいただくとして、次号では「クジラ」と、北海道といえば「ニシン」が出てきそうです。お楽しみに。追記2020・02・11「ゴールデンカムイ」(一巻)・(二巻)・(三巻)・(五巻)の感想はこちらをクリックしてみてください。先は長いですね。にほんブログ村にほんブログ村ゴールデンカムイ 杉元が持っている 食べていい オソマ (味噌) 140g(株)北都 企画販売 ダイアモンドヘッド
2020.02.12
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アミール・ナデリ Amir Naderi 「山 Monte」 元町映画館 no2 元町映画館が結構好きなのです。やってるプログラムが、ちょっとシブイんです。見るか見ないか決断を迫られるタイプが多いのです。この映画「山」も、どうしようかなと考えて、映画館の受付の人の顔を思い出して、行くことにしました。 今日は、昔からの知り合いの人はいなかったのですが、受付の人とちょっとおしゃべりできて、うれしかったのです。 自宅から垂水駅まで歩いて汗ばんだせいですね。映画館の椅子に座っても寒かったので、ジャンパーを脱ぐのはやめてサンドイッチをかじりながらコーヒーで一息入れていると始まりました。 山のふもとの丘の上のようです。白い布で覆われた小さな遺体を埋葬しているのですね。 風?山鳴り?鳥の声?様々な、うなりのような低い音がずっと流れていて、無言で動いている人間たちが、いかにも貧しいのです。怒りに満ちている、いや、哀しみにくれているのか、けわしく硬い表情と石を集めてきて積み上げていく手の動き。映像が伝えてくるのは、その場を吹き抜けていく透きとおった冷たい空気の流れでした。 山の音がずっと聞こえています。 夜のとばりが下りてきます。美しい男と女がいます。男が汚れた手に櫛を持ち女の髪を梳かしています。 野良犬がやってきて墓地を掘り返しています。仲間が去って行きます。男(アゴスティーノ )と妻(ニーナ )と息子(ジョヴァンニ)が山の小屋で貧しい暮らしを続けています。 美しいのです。しかし、何とも言えない悲しみに満ちた映像が少しづつ物語りつづけています。山の音が聞こえ続けているのですが、人が語る「ことば」はありません。荒涼とした畑には何も育っていません。見ているぼくは、ただ、呆然と画面にくぎ付けにされています。 「なにがおこるんだろう?」 男が木車を曳いて村に出かけていきます。彼は不可触選民のように指さされ、人々のささやき声が、ただ、さざめく音だけですが聞こえてきます。 「なにがおこるんだろう?」 ・・・・・・・・・・・・・ なにも盗んでいない男が盗みの罪で追われはじめます。男が逃げ込んだ部屋には聖母子像と磔刑のキリストが祀られています。男は祈りの灯がともった大きなローソクを一本手にすると逆さに立て直します。何かを決意した様子で男は部屋を出て行きます。画面には、たくさんの燃え続ける灯火のなかに一つだけ火の消えたローソクが立っているシーンが映っています。 すべてを失った男が山に帰ってきました。山の音が鳴り続けている中に、男の叫びが響き渡ります。 「ニーナ―!ニーナー!」 妻と息子は逃げてしまった男の罪で、刑吏と修道女に連れ去らたあとでした。見ているぼくは知っているのですが、男は知りません。 「男は怒っているのだろうか。絶望しているのだろうか。」 男の表情から何かが失われたように見えます。 「何を始めるのだろう。」 男は大きな鎚を持ち出し、岩壁を叩きはじめました。ずっと聞こえている山の音に、鎚をふるう「カーン」という甲高い音が混ざって聞こえてきます。男は叩き続けます。 やがて妻が帰ってきますが、男は槌を振るいつづけ、岩盤を叩き続けます。山の木霊と槌の音が響き合う不思議な音の世界が広がっていきます。 「何をやっているんだろう?」 ぼくの中には、不可解と諦めの渦のようなものが心に拡がっていきはじめた、その時、ベートーヴェン―だったでしょうか、場面とそぐわないシンフォニーの出だしの音が聞こえてきてギョッとします。三つ向うの席の女性が、慌ててケータイを取り出し、音が止まりました。画面からは山の音とハンマーの響きが聞こえ続けていて、山がそこに聳えています。 何年たったのでしょう、髭が生え始めている息子が帰ってきます。母親と抱擁し、父親のそばで鎚をふるい始めるではありませんか。やはり、ことばはありません。山の音の中に新しいハンマーの音が響くだけです。 時が流れているのです。おそらく何十年も。「参ったなあ。何がしたいねん。うーん、どうなんねんな。」 延々とつづく山のシーン。繰り返し響いてくるハンマーの音。くたびれ果てて、そっとコーヒーを取り出した。水筒の蓋を開ける手が止まった。突如、結末がやってきた。やっぱり、画面にくぎ付けにされてしまった。 岩壁の頂にまっ赤な太陽が輝き、画面が赤く染められてゆきました。映画が終わったのです。 こういうのを脱力感というのでしょうか。ぼくは、座席にもう一度、ぐったりと座り込んでしまいました。 「いや、いや、参りました。」 映画館の出口でチラシを見直しました。「これは、黒澤明の精神から生まれた映画だ」 ナデリ監督のコメントが書いてあって、妙に納得しました。「クロサワか。映像と音響かな。最後の太陽は夕陽かな?朝日かな?うーん、それにしても、ここまでやるか。」 垂水で約束していたお友達と出会って、久しぶりにビールで乾杯。「何、観てはったんですか?」「山、モンテっていうやつ。」「面白いんですか?」「うん、傑作やね。ずっと山たたくねん。ものすごい絶壁があって、岩壁やねんけど、それを叩くの、ハンマーで。見てて、どうなってんねんて思う。」「それで?」「いや、それだけやで。一応、結末は黙っとくけど。」「かわいそうとか?」「うん、観てる客がかわいそうみたいな。」「何ですか、それ?」「うん、見なわからん。ある意味、ホンマの映画かもね。見に行ってき。結果は保証できんけど。かわいそうな、ええ、経験することは保証できるな。ホンマ、結構かわいそうやで、見てる人。」「エーッ、やめときます。」「まあ、そういわんと。いっといで。怖ないし、エグないから。ああ、メチャ綺麗やし。ホントはね、あれこそが映画かもしれへんで。」 久しぶりに深酒してしまって、帰ってみると時計は次の日になっていて、同居人も寝てしまっていた。「残念!しゃべる相手がいない。」 監督 アミール・ナデリ 製作 カルロ・ヒンターマン ジェラルド・パニチ リノ・シアレッタ エリック・ニアリ 脚本 アミール・ナデリ 撮影 ロベルト・チマッティ 美術 ダニエレ・フラベッティ 衣装 モニカ・トラッポリーニ 編集 アミール・ナデリ キャスト アンドレア・サルトレッティ(アゴスティーノ ) クラウディア・ポテンツァ(ニーナ ) ザッカーリア・ザンゲッリーニ(ジョヴァンニ 少年期) セバスティアン・エイサス(ジョヴァンニ 青年期) アンナ・ボナイウート 原題「Monte」2016年 伊・米・仏合作 107分 2019-03-26・元町映画館no2追記 繰り返し男と女の手のシーンを思い出してしまうのは何故なのだろう。ハンマーを握る手。傷の手当てをする手。神をなでる手。「手」がクローズアップされて、印象に残っている。 何十年も岩壁を撃ち続ける毎日。そっと触れてくる手の感触。墓場で石を集めていた手がこの映画の描く「人が生きる」ということの姿だったのだろうか。追記2 2019・08・01 今年の春に見た映画だけれど、印象が持続している。やはり「手」の表情とでもいうのだろうか。これくらいセリフのない映画もめづらしいのではないかと思うが、記憶の中で「手」が語り続けている。 黒澤明の映画が、登場人物の立ち姿や、ブランコの揺れ具合で記憶に残っているのと、そこがよく似ているのかもしれない。追記2022・12・14久しぶりに修繕するために読み直して、意味不明だったので修繕しました。3年以上も前に見たのですが、案外よく覚えていると感じるのは錯覚でしょうか。にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.13
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ペール・フライ「バグダッド・スキャンダル」元町映画館no6 神戸の元町映画館は毎週金曜日がプログラムの最終日です。で、今週、この映画館で見たいと思っていた映画が三本ありました。 「審判」、「まぼろしの市街戦」、そして、この「バグドスキャンダル」です。 「まぼろしの市街戦」は木曜日の夜の19:20分開始を、頑張って見ました。さあ、最終の金曜日です。朝からの二本立ては、やっぱり、挫折!シマクマ君的「イラク侵攻」ペテンシリーズ第三弾「バグダッドスキャンダル」12:50開始。これで決まりです。 スクリーンにビルが立ち並んでいます。うーん、これはニューヨークなのでしょうね。高層ビルの入り口に一人の青年がいて、ガラス張りの建物の中に入ってゆきます。 「初めて見る顔ですが、男前ですなあ。」 彼は転職を希望しているらしく、夢は国連外交官のようです。5歳の時に死に別れた父親の仕事を追いかけているらしく、いわゆる「ビルドゥングス ロマン」の始まりのようです。「マイケル・サリバン(テオ・ジェームズ)の修業時代」の始まりというわけです。 マイケルを国連に引き入れるのが、父の同僚だった事務次長ベン・キングズレー演じるコスタ・パサリスという人物です。「うーん、どこかで見たことがあるなあ。」 調べてみると映画「ガンジー」の、ガンジーでした。下の写真の人ですね。いやはや、本当に同じ俳優ですかね?(笑) 彼はサダム・フセインのイラクがクウェートに侵攻したことい対する経済制裁下での、国連による人道支援を取り仕切っている男という役柄です。で、200億ドルという大金が動く、そのプロジェクトの特別補佐官としてイラクへ向かうのが、マイケルの初仕事でした。 そこで出会うのが現地事務所のやりて女性所長デュプレ。このプロジェクトを批判していたパサリスの政敵です。 写真をよーくご覧ください。この方がなんと、あのジャクリーン・ビセットだとおわかりでしょうか。もちろん現在の74歳のお顔です。ボクとか、学生時代でした。映画館に通っていたあの頃、だから1970年代ですが、そのころにはセクシー・アイドル女優だった、あの人です。スティーブ・マックイーンの主演した「ブリット」のヒロインだったあの人です。下の写真の方ですね。まあ、ぼく自身は格別あこがれたわけではないのですが、人気があったことは事実です。うーん、今の人は知らんか? で、映画に戻ります。マイケルが出会う、もう一人の女性がナシームという現地通訳です。実はクルド人の反フセイン闘争のスパイです。ベルシム・ビルギンという女優だそうですが、この人は知りませんでした。 結果的にいうと、国連外交官というマイケルの夢は成就しません。原題が「Backstabbing for Beginners」とあるのですが、「初心者をだます奴」とでもいう意味のようですね。マイケルをだましたのは「ガンジー」か、「ジャクリーン・ビセット」か、はたまた「クルド人の女スパイ」か。 そのあたりのサスペンスが、なかなか面白いし、筋運びもオーソドックスです。錯綜した現実の中、成長途上の青年のピュアな失恋も悪くなかったです。にもかかわらず、スクリーンが暗くなって明かりが点灯したときに、思わずため息が出た。「あーあっ、国連も金まみれかよ。チェイニーが宝の山を見つける前哨戦を見せられてもなあ。」 「インチキなイラク侵攻」シリーズ第三弾でした。結果、アメリカも国連も、尻馬に乗ったどこかの国も、どいつもこいつもカスという結論でした。金に群がった百何十社の中にどこかの国の企業も名を連ねているに違いないし、気分が悪くなるような話がもっとあるのでしょうね。 何となく元気が出ないまま、商店街に出て、見上げると「令和」の大きな垂れ幕です。ますます気分が載らないので南に出て、西に向かって歩き出す。「センセー!」 ママチャリに乗った、ちょっと見はおばちゃんふうの女性が手を振っています。こんなところで、誰かに手を振ってもらうなんてめったにないことです。ちょっとたじろいで、ジーっと様子をうかがっていて、ようやく思い出しました。神戸の地震の前の年に高校を卒業して、東京に進学した女性です。「おー、シッカリ者のゆみこさん。こんなとこで何してんねん?」「トーキョー行って、ホラ、マキユウスケ、気流の鳴る音、センセーが教えてくれた。んで、文化人類学が面白そうで、オキナワ、ホントは、イシガキやけど、行って、今は、そこの小さな出版社。クトウテンっていうとこにおるの。」 路上で小一時間、ウダウダ、ウダウダ、立ち話でした。今買ってきたばかりという「スイミー牛乳店」のヨーグルトまでいただいて、またね! を約束して別れました。 「今日は映画みてよかった。元号イヤで、道かえてよかった。こういう日もある。捨てたもんやない。」 監督 ペール・フライ Per Fly 製作 ラース・クヌードセン ニコライ・ビーベ・ミケルセン ダニエル・ベーカーマン マリーヌ・ブレンコフ 原作 マイケル・スーサン 脚本 ダニエル・パイン ペール・フライ 撮影 ブレンダン・ステイシー 美術 ニールス・セイエ 衣装 ルース・セコード 音楽 トドール・カバコフ キャスト テオ・ジェームズ(マイケル・サリバン) ベン・キングズレー(コスタ・パサリス) ベルシム・ビルギン(ナシーム・フセイニ) ジャクリーン・ビセット(クリスティーナ・デュプレ) ロッシフ・サザーランド レイチェル・ウィルソン 原題「Backstabbing for Beginners」 2018年 デンマーク・カナダ・アメリカ合作 106分 2019・04・26・元町映画館no6追記2020・02・06「インチキなイラク侵攻」シリーズ第一弾「記者たち」・第二弾「バイス」・第四弾「リトル・バーズ」はそれぞれクリックしてみてね。ボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.28
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橋本光二郎 「小さな恋のうた」ハーバーランド・OS・シネマ 我が家に「マンガ」を届けてくれるヤサイクンはモンゴル800というバンドの大ファンです。ヤサイクンの乗っている自家用車に乗車すると、動き出して目的地に到着して下車するまで彼らの曲を聴き続けることになります。長い旅程の場合は、甲本ヒロトと忌野清志郎が追加されます。 ヤサイクン家のチビラたちは、モンパチとかヒロトの曲で、シマクマ君が知っている程度の曲はすべて素で歌えるようです。チビラたちが機嫌がいいときは、だから、車中が合唱隊状態になって、なかなか痛快です(笑)。 そのヤサイクンからフェイスブックでメッセージが届きました。 《「小さな恋のうた」上映中です。》「はあー?これ、どういうこと?」「行きなさいということちやう?」 ハイハイ、もちろん出かけましたよ。ハーバーランド・OS・シネマです。 それでどうだったかって? 「キングダム」を見た時も思いましたが、「ことば」ですね。引っかかってしまうのは。少年たちがしゃべる言葉が気に掛かるのです。現代の若者言葉でしゃべりますが、モチロン、映画が映画ですから沖縄方言、いや琉球語といいたいですが、それではありません。おそらく若い人気の俳優たちが起用されているのでしょうが、そこでしゃべるの言葉が響いてこないのです。日本語を母語としているぼくにとって、これが決定的でした。 まあ、年齢的ギャップもあるんでしょうね。でも、少年たちのやり取りだけではありません、出てくるセンコーや大人たちの、本質的にカスなセリフもことばのやり取りとしてリアリティーがありません。いわゆる学芸会状態ですね(笑)。ちょっと、がっかりでした(笑)。 沖縄を撮っているという監督の気負いも、空回りでしたね。どうして、方言をしゃべらせなかったんでしょう。「ことば」について軽視した芝居の演出が、映画の印象を決めてしまったと思います。 それでも最後まで見続けられたのは、モンパチの歌の力です。少年・少女たちのへたくそさカバーして余りあるモンパチでした。 エンドロールで、ようやくモンパチの地声が聞こえてきて、ホッとしました。若い人たちの熱演の空回りが、ちょっとかわいそうな映画でしたね。 帰宅して、夜の十時を回ったころ、ヤサイクンから電話がありました。「観に行ったらしいな。どうやった?」「あんたのとこのアーチャンママは何て言うてた?見たんやろ。」「キヨサクが太ってるって。」 「エーそこかいな。まあ、漁師のせがれで出てたけど。」 「おもろかったんか?」 「なんやねん、ファンやったら見に行けよ。最後の、モンパチが歌う恋のうたで、ホッとするから。声だけやけど。」 「あー、やっぱ、1800円やからな。」 「1800円かあ、ちょっと高いなあ。」「あっ、やっぱ、大阪で今度やるらしいドキュメンタリーにするわ。」「な、なんやねん!」 監督 橋本光二郎 脚本 平田研也 製作 村松秀信 間宮登良松 町田修一 キャスト 佐野勇斗 (真栄城亮多) 森永悠希 (池原航太郎) 山田杏奈 (譜久村舞) 眞栄田郷敦 (譜久村慎司 ) 鈴木仁 (新里大輝) 2019年 日本 123分 2019・06・10・OSシネマno4追記2020・02・23「大阪で今度やるらしい」のは山城竹識「MONGOL800 -message-」でした。感想はクリックしてみてください。ボタン押してネ!MONGOL800 / 800BEST -simple is the BEST!!-(通常盤/結成15周年記念) [CD]
2019.06.11
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橋本治「桃尻語訳 枕草子(上・中・下)」(河出文庫) 高校の古典の授業で「枕草子」をお読みになりましたね。教員の立場から申し上げますと、高校生の古典との出会いというのは「説話集」があって、「徒然草」とか「方丈記」、女もしてみんと偽った「土佐日記」、そこから「枕草子」とやってきます。 で、宮廷生活のものおもいを描く「枕草子」まで来ると、この国の文化の一つの核心に触れつつあると感じてほしいのですが、そんな時代の社会や制度について何も知らないし、知らないことに何の抵抗もない、もちろん、関心なんてはなからないという無知で無恥なのが高校生というものだというのは、今に始まったことではありませんね。 で、当然、眠くて退屈な時間が、向こうの方を通り過ぎてゆくということになります。マア、自分自身もそういう高校生だったから人のことは言えません。 教員も教員なんですね、品詞分解とかで押しまくり、果ては「助動詞活用ソング」などという意味不明の歌を歌わせる方までいて、ノンビリ寝てもいられない。 しかし、考えようによれば、このあたりで「なるほどそうか」と、興味が持てれば、この国の古典文学とか、古典文化の「面白さ」のほうにすすんでいける所にやってきているともいえるわけです。 優等生で頑張りたい人は図書館にある岩波書店の「古典文学大系」とか新潮社の「古典文学集成」とかを参考書になさるのがよろしいでしょうね。ただ、寝るのを趣味にしている高校生を起こすには、少々難しすぎるかもしれません。図書館の棚の前で寝てしまうかもしれません。 そこで案内するのが橋本治ですね。「桃尻語訳 枕草子(上・中・下)」(河出文庫)。今では文庫で読めますが、単行本の初版が1987年です。今から30年も前に出た本なのですが、今でも河出文庫ではロングセラーを続けているようですね。 要するに「枕草子」の現代語訳です。ただし、その訳語が80年代当時、その辺にいたかもしれない、10代後半の少女言葉。それが桃尻語訳と名づけられているのは橋本治のデビュー小説「桃尻娘」(講談社文庫)-最近(?)ポプラ社文庫から文庫版が復刊されているようです-の主人公、高校生榊原レナちゃんの、小説中のニックネームが桃尻娘です。彼女のしゃべり言葉で現代語訳されているというので、桃尻語訳というわけなんですね。マア、小説の方は、語り始めると長くなりそうなで、ともかくとして、こっちの方は例えばこんな感じです。 春って曙よ!段々白くなっていく山の上のほうが少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!夏は夜よね。月の頃はモチロン!闇夜もね・・・。蛍が一杯飛びかってるの。あと、ホントに一つか二つなんかが、ぼんやりポーッと光ってくのも素敵。雨なんか降るのも素敵ね。 書き写していて、笑ってしまいますが、お分かりですね。なんか真面目でないような感じがするでしょ。 この本が初めて出た当時、学者さんからは評判が好くなかったらしいですよ。お馬鹿な少女言葉の使用は、社会学的アプローチとして考えると、かなり高度な言語理解の上に成り立っていると思うのですが、それが古典文学を汚すかのように考えたのが、まじめな国文学者も方たちだったのかもしれませんね。 お読みになればお分かりいただけるかもしれませんが、実はこの訳文、イイカゲンそうに見えて文法的、語彙的にはキチンと抑えられていて、受験古文的な一対一対応にはどうかという面も、あるにはあるのですが、古典理解としてはかなり、いやおおいに信用できると思います。 なんといっても、このお気楽な訳文は、岩波の全集にはない「面白さ」を漂わせています。それがまず第一のおすすめポイントですね。 二つ目のポイントということですが、この本の素晴らしさは注釈・解説にあるというのがぼくの、ちょっと偉そうですが、評価ですね。例えば「殿上人」の解説はこういうふうです。 まァさ、宮中にね「清涼殿」ていうのがあるのよ。帝が普段いらっしゃるところでさ、いってみれば「御殿の中の御殿」よね。広い所でさ、ここに「殿上の間」っていうのがあるの。ここに上がるのを許されることを「昇殿」て言ってさ、それが許された人達のことを「殿上人」って言うのね。「殿上の間の人達」だから殿上人よ。これになれるのが、位が五位から上の人、そしてあと六位でも「蔵人」っていう官職についている人ならいいの。だから殿上人っていうのはエリートでさ、言ってみれば本物の貴族の証明ね。 そしてその次に来るのが「上(かん)達(だち)部(め)」。「上達部」って、見れば分かるでしょ?「上の人達」なのよ。殿上人は五位以上だけれども、その中で更に三位以上の位の人たちを上達部って言うのね。メンドクサイかもしれないけど、こんなもんどうせすぐに慣れますから、あたしは全然気にしません。なにしろ上達部は偉いんだから!三位以上の位の人たちがどういう官職についているかっていうとね、これがすごいの。関白ね、大臣ね。大納言、中納言、それから、多分これは「上院議員」とかっていうようなポストになるんじゃないかと思うんだけどね、参議―あ、あなたたちの「参議院」ってこっちから来てるんでしょ?以上の方達をひっくるめて「上達部」とお呼びするのよ。日本の貴族のことをさ、お公家さんとか公卿って言うでしょ?その公卿が実に上達部のことなんだなァ。貴族の中の貴族というか、エグゼクティブで上層部だから上達部なのよ。分かるでしょ?覚えといてね。 とまあ、こんな調子ですね。こういうことが、面白がって、いったん頭に入ってしまうと、文法とかも、さほど気に気にならなくなるはずなんだと思うのですが、どうして教員は文法に走るんでしょうね。 この本では、こういう口調の、柔らか解説が、身分や制度だけではなくて、当時の宮中での日常生活の描写に表れる、あらゆる事象に及んでいるんですね。服装、食事、調度、エトセトラ。 ただね、詳しすぎて、少々くどいんです。橋本治さんの性格なんでしょうね、きっと。調べ始めたらやめられない人っているでしょ。だから、真面目に読んでいるとくたびれる。そこが玉にキズかな。(S)発行日 2010/09/14追記2019・10・19 以前、高校生に向けて「案内」したもののリニューアルなんですが、こうして記事にしてみると誰に向かって書いているのかわからないですね。そこが、ちょっと困っているところです。 橋本治さんの「古典」ものには「案内」したいものが山ほどあります。でも、読みなおすのも、案外疲れるんですよね。追記2022・02・01 最近「失われた近代を求めて」(朝日選書)を読み直しています。二葉亭四迷にはじまる、この国の近代文学を論じた(?)評論ですが、言文一致を橋本治がどう考えていたかというあたりで、ここに案内している「桃尻語訳 枕草子(上・中・下)」が書かれた意図のようなものが、ボンヤリ浮かんできてとてもスリリングな読書になっています。 まあ、ぼく自身が高校生にこの本を紹介していたころの薄っぺらさに、ちょっと気付くところもあって、それはまた「失われた近代を求めて」の感想で触れるのでしょうが、実は松岡正剛が「日本文化の核心」(現代新書)で紀貫之の「土佐日記」から「枕草子」をはじめとする宮廷女性たちのかな日記に至る「仮名」表現の意味を論じているところがあって、それも相まってちょっとドキドキしていますが、今のところうまく言えないので、また今度という感じなのです(笑) それにしても「桃尻訳」は1988年、30代の終わりの橋本治の作品ですが、後の「源氏物語」、「平家物語」へのとば口にある仕事でもあるわけで、面白いですね。ボタン押してね!にほんブログ村桃尻語訳枕草子(上) (河出文庫) [ 橋本治 ]
2019.10.20
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保坂和志「自分という反―根拠」追悼総特集「橋本治」(文藝別冊・KAWADEムック) 今日は一月二十九日。作家の橋本治が亡くなって一年がたちました。今、ここで「案内」している「追悼特集『橋本治』」(KAWADEムック)の中に、作家の保坂和志が橋本治の死に際して「群像」という文芸誌に書いた「自分という反 ― 根拠」という追悼の文章が載っています。 その文章の冒頭で、彼はこんなことを書いています。 橋本治さんの通夜、告別式の会場のお寺は、なんといま私が住んでいる家から歩いていけるところにあった、私はグーグルの地図をプリントして歩いていった、私は橋本さんとは最近全然連絡とってなかった、昨年末、橋本さんが「草薙剣」で野間賞になったから会場で久しぶりに会えると思っていたが当日橋本さんは体調不良で出られなかった。「もうずうっと会ってなかったですね、―― 」「うん、一家を構えるとはそういうことじゃないの?お互い向く方向が違ってるのがはっきりするから、しばらくは会わなくなるものだよ。」 私は通夜の会場まで橋本さんと話しながら行った、でもその橋本さんの通夜に向かっているのだと意識すると、そのたびに脚の力が抜けかけた。通夜以前、野間賞で会えると思った時、私が思う橋本さんは昔の橋本さんで、今の橋本さんの写真を見たりして、この橋本さんと会うのかと意識したときも少し脚かどこかの力は抜けた。 あの頃の橋本治はすごかったのだ。 ぼくは、ここまで読んで、通夜の会場まで話しながら歩いている、橋本治と保坂和志の後ろ姿を思い浮かべながら、二人ともを「本」というか、それぞれの作品でしか知らなということに気付いて愕然とするのです。 ぼくが思い浮かべている、夕暮れの道を歩いて行く二人は、いったい誰なのでしょうね。これが保坂和志の文章だということだけは確信できるのですが、読んでいるぼくの足だか、背中だかの「力が抜けて」いくのを感じます。 保坂和志は「脚の力が抜けて」しまうのをこらえるようにして、あの頃の橋本治が書いた「革命的半ズボン主義宣言」(河出文庫)を引き合いに出し、その「すごさ」を語りつづけます。 橋本治は全共闘世代だったが全共闘は嫌いでひとりの闘いをはじめた、だから橋本治に揺さぶられた若者たちは一人の闘いをすることになった、‥‥‥ いや、そういうことじゃないか?橋本治は何かを語る、訴える、そうするときに、自分以外に根拠を持たないというすごいやり方を実行した。 自分を語るのではない、そこをカン違いしたらだめだ、橋本治は客観的に妥当なものを根拠とせず、自分なんていうまったく客観的でなく妥当性もないものを根拠にして、言い分を強引に押し通して見せた。 人が何か言うということはそういうことなんだと、誰にでも拠り所になりそうなものを拠り所にしてはいけないんだと、拠り所こそ自分で考え、自分のパフォーマンスでそれを拠り所たらしめろと、私は橋本治から教わった。 これが、保坂の結論であり、別れのことばですね。生涯「革命的半ズボン主義」者だった橋本治の仕事のすごさは、一見、互いに、似ても似つかない、「向く方向が違っている」保坂和志の作品群が生まれてくる拠り所を支えていたことに気付づかされたぼくは、ここでもう一度愕然としながらも、思わず膝を打って座り込んでしまうのでした。 「客観的な妥当性」をなんとなくな根拠にしながら、さまざまな作品を読みたがる、ぼく自身の「読み」というパフォーマンスを抉られる言葉だったのです。しかし、一方で、ぼくにとって、面白くてしようがないにもかかわらず、どうしても面白さの説明ができなかった、この二人の作品の「読み」の入り口を「案内」してくれているていかもしれない言葉でもあったのです。 本当は、所謂、命日に、橋本治の最後の文章をさがしていたのです。彼の命日は「モモンガ忌」というそうです。が、まあ、そのあたりは次回ということで。ボタン押してね!にほんブログ村
2020.01.31
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(5)」(集英社) 第5巻です。 表紙の人物は谷垣源次郎一等卒です。秋田のマタギの出身。日露戦争に従軍し、第七師団、鶴見中尉の部下だった男ですが、「不死身の杉元」を追跡する中で負傷し、アシリパちゃんの村で、おバーちゃんに看病してもらい、軍を捨ててしまいます。 第5巻は、ちょうど村の生活になじんできて、「マタギ」の暮らしに戻る谷垣のもとに、第七師団の追手がやってくる展開です。 谷垣の所持する武器がこれです。大日本帝国陸軍初の制式銃である村田銃ですね。第3巻、第4巻で登場した、網走監獄を脱獄した刺青の「悪夢の熊撃ち」二瓶鉄造が持っていた銃ですが連射できないところが特徴です。谷垣は、この巻ではまだ使っていません。 話が進むにしたがって、おバーちゃんに依頼され、主人公アシリパちゃんを護衛するという重要な役どころを担う登場人物です。 というわけで、今回の「今日の料理・アイヌ・北海道編」です。「北海道編」と追記しているのは、料理がだんだん「アイヌ」の民俗では説明しきれないものを含みはじめたからです。 「ニシン漬け」ですね。身欠きニシンとキャベツ、大根、ニンジンをこめ麹で発酵させた、発酵食品です。これなんかは,まあ、よくわかっているわけではありませんが「アイヌ」の食品とは言えないんじゃないかと思いますね。 今回も、カンドーの動物が登場しました。 「レプン・カムイ」、「沖にいる神」という意味だそうですが、「シャチ(鯱)」ですね。 「シャチ」の皮下脂肪を煎って油を作っていますね。さて、この油で作る料理といえば、揚げ物ですね。 「鯱の竜田揚げ」です。醤油で下味をつけて、粉をまぶして揚げています。うまいでしょうねえ。でも、これは食材以外は普通の料理ですね。漫画家さんが好きなものを描いている気がしますね。もう一つ、旨そうなものを揚げています。 「子持ち昆布の串揚げ」です。いいですねえ(笑)。 昆布にニシンが卵を産みつけたものが「子持ち昆布」ですね。魚卵付き生昆布を串揚げにしています。ちょっと食べてみたいですね。 これは海辺の幸のお料理でしたが、川の幸のお料理もあります。 これもカンドーの動物ですね。幻の巨大魚、イトウです。実際に2メートルを超えるイトウが捕獲された記録もあるらしいのですが、鮭の仲間のようです。「イワンオンネチェプカムイ」というそうです。 そのイトウに咥えられたアホの白石君は今や絶体絶命ですが、新たな登場人物、アシリパちゃんのおとーさんのお友達、キロランケに助けられて事なきを得ました。 アイヌの生活では「イトウ」は、その皮が「チェプウル(魚皮衣)」という服の生地に使われたり、靴や小刀の鞘、膠(にかわ)がわりの接着剤にまで使われるらしい。しかし、ここではお料理です。「あ刺身」でした。最近「トロ・サーモン」とか呼ばれてはやっているあのお刺身ののような感じでしょうか。。マンガでは「ヒンナ、ヒンナ」を連発して、やはり目玉を、しゃぶって食べています。茹でダコの味だそうです。 だんだん、お料理教室のネタが減ってきましたが、この先どうなるのでしょうね。では第6巻もお楽しみに。追記2020・03・01「ゴールデン・カムイ」(第1巻)・(第4巻)の感想はこちらからどうぞ。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.03.01
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ベランダだより 2020年8月25日「おくらの花が咲きました!」 ベランダの植木鉢に「オクラ」が植わっています。花が咲きました。ピンボケですが正面からだとこうです。 全景はこんな感じですが、葉っぱばっかり成長しているようです。 実は、これは一週間ほど前の写真です。本日、2020年8月26日現在ではこうなっています。 実にデカイ! オクラの実です。食べ時は過ぎていますが、どうするつもりなのでしょう。種でも取ろうというのでしょうか。なっている実は二つだけです。もう花は咲かないのでしょうか。 隣には「風船蔓」が、次々と実をつけては、枯れています。こちらは、毎年、種を取っているようです。 何となく、夏も、もう終わりそうですが、クーラーのない暮らしは、まだまだ「アツイ!」です。 2020年、夏の終わりのベランダでした。ボタン押してね!
2020.08.26
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鈴ノ木ユウ「コウノドリ 32 最終回」(講談社) 表紙で鴻鳥サクラくんが笑って、手を振っていますね。今回の「コウノドリ(32巻)」が最終巻だそうです。ザンネンですね。 ぼくはこのマンガに登場する若い医療従事者たちの、前向きな生き方が、まあ、もちろんマンガではあるのですが、いや、マンガであるからこそかもしれません、好きでした。 産婦人科のお医者さんのサクラくんや、四宮くん、そして、下屋カエさん。助産師さんの小松ルミ子さん。ああ、それから、救急医の加瀬さんもいいキャラでしたね。聖ペルソナ総合医療センター院長の存在も忘れられません。 彼らが、危機一髪の悪戦苦闘をなんとか乗り越えていくたびに、涙しながら読んでいる65歳を越えた徘徊老人というのも、ちょっと、大丈夫かという気もしますが、新しい命が生まれてくる現場をまじめに描き続けてきた鈴ノ木ユウさんに拍手したい気分ですね。 今回は最終回ということもあるのでしょうね、助産師の小松さんに「恋の季節」が巡ってきました。「おお、仕事をとるか、男をとるか。小松さん、どうするのでしょうね?」 と、引っぱられていると、なんと、主人公鴻鳥サクラくんの前に、彼を生んですぐにに亡くなったお母さんの面影を宿した女性が登場します。 サクラくんが育った「ママの家」のケイコママが、その女性を見かけて、サクラの母、幸子を思い出したところです。 女性はサクラくんが通うデンタルクリニックの歯科医片平ミユキさんです。 さあ、どうなるのか?と期待したのですが、シングル・マザーとして出産を決意した彼女は、急性白血病の妊婦としてサクラくんの患者さんになってしまうのでした。 場面は、ほとんど命懸けで赤ちゃんを産み終えた片平さんが、自らも生き抜きたいと泣き叫ぶところです。 ぼくですか?もちろん、泣きましたよ。そのために読んでいるのですから、トーゼンですね。(笑) 左のページは、別れた男性との間にできた、おなかの子どもを産むことについて、片平さんが苦しんだ時のシーンですね。「出産って、誰のものなんだろう・・・・」 これが、おそらく、鈴ノ木ユウさんが、このマンガを描き続けながら、考え続けてきたことでしょうね。簡単なようで、重い問いですね。 さて、大団円、小松さんの恋の行方はいかに?果たして、片平みゆきさんは助かるのか。助かったとして、サクラくんとなんとかなるのでしょうか?ああ、それよりも、なによりも、この病院の仲間たちはどうなるのでしょう。 まあ、そのあたりは、本書を読んでいただくしかありませんね。というわけで、これが裏表紙でした。オシマイ!ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.20
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ナショナル・シアター・ライヴ 2020 ノエル・カワード「プレゼント・ラフター」神戸アート・ヴィレッジ 久しぶりのナショナル・シアター・ライヴでした。ノエル・カワードという人の「プレゼント・ラフター」というお芝居でした。 「さあ、ここで笑って!」 とでもいう意味なのでしょうか。正真正銘の「喜劇」でしたね。 登場人物相互の愛憎関係といい、女優になりがっている女性の登場といい、脚本家志望の「狂気」の青年といい、まごう方なきの喜劇で、英語がわからないぼくでも笑えるつくりでした。 なのですが、最後の最後には、ちょっと物悲しいというか、ギャリー・エッセンダインという、真ん中に立ち続ける、最悪な男のありさまが他人ごとじゃないと、65歳を過ぎた老人に思わせるのですから大したものでした。 つくづく、英語ができたら、もっと面白いだろうなあ、と思うのはいつものことですが、俳優たちの「存在感」を揺らぎがない「空気」で見せつづける舞台は、やはりレベルが高いのでしょうね。 映画.com 写真はギャリーと離婚(?)しているにもかかわらず、「仕事のためよ」 とかなんとかいいながら、ちっとも出て行こうとしない別れた妻リズとの、にらみ合いですが、お芝居全部が、このにらみ合いの中で展開していたようです。これはこれで、かなり笑えるシーンなのですが、ホント、夫婦って何なんでしょうね。演出 マシュー・ウォーカス作 ノエル・カワードキャストアンドリュー・スコットインディラ・バルマエンゾ・シレンティキティ・アーチャーソフィー・トンプソン2019年・180分・イギリス原題:National Theatre Live「Present Laughter」2020・11・16神戸アート・ヴィレッジ追記2020・11・26 これで、神戸アートビレッジでのナショナルシアター2020のプログラムは終了なのですが、「真夏の夜の夢」を見損ねたが、返す返すも残念でした。プログラムの日程を度忘れしていて、一週間も気付かなかったことにショックを受けています。 物忘れがひどくなっていて、ちょっとヤバいんじゃないか、不安になっています。追記2023・04・26 神戸アートヴィレッジ・センターが 、ナショナルシアター・ライブに限らず、所謂、映画上映をやらなくなって2年たちました。月に何度か通っていたこともあって映画の上映を支えていた方と顔見知りになり、少しお話もするようになっていたのですが、最後の会話は転勤、配置換えのお話でした。お元気でいらっしゃるのでしょうか。 センターの活動方針の変更は採算が理由だったのでしょうが、採算を理由にすると文化は滅びますね。 ときどき、前を通ることがありますが、センターの中に人影を見かけることはありません。儲からないところは潰せばいいという印象を市民に与える文化行政の街に住んでいることをさみしく思う市民のいることを忘れないでいただきたいですね。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.26
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エリア・スレイマン「天国にちがいない」シネリーブル神戸 1月の終わりごろ、予告編を見て、なんか不思議な映画だなと思いました。しばらくすると友達がブログでほめていましたが、どんな映画なのかジメージが湧きません。これは見るしかないなという気分でやって来ました。 2月になって、はや、もう、10日を過ぎたのですが、久しぶりのシネリーブルです。非常事態宣言は続いていますが、商店街の人出はむしろ増えているようです。映画はエリア・スレイマンというパレスチナの監督の「天国に違いない」です。上のチラシで帽子をかぶって、肘をついている男が彼でした。 キリスト教の立派な装束をつけた神父がなにやら神をたたえる言葉を口にしながら、十字架を担いだ従僕と、おおぜいの信者(?)を引き連れて、何やら仰々しく廊下を歩いてきます。扉の前に立ちノックしながら「扉よひらけ」と唱えます。扉は開きません。ノックと呪文のような言葉を、何度か繰り返しますが、開かないうえに中から「神なんか信じない」という言葉が返ってきます。 神父は怒りに満ちた世俗の顔に戻って、装束の帽子を脱ぎ捨て、「扉」の部屋の反対側の裏口(?)に回り、ドアを蹴破り中にいた人物を殴りつける音がして、先ほどの扉がしずしずと開きます。 儀式は何事もなかったように続くのですが、ここで、画面が変わってベランダに立っている主人公が映し出されます。 まあ、こうして映画は始まりました。「さっきの神父の話は何だったんだ?」と思っていると、ここからも不思議なシーンが続きます。 主人公がベランダに立つと住居の庭に無断で入ってきてレモンの実を盗む(?)、いや、収穫か(?)、男がレモンの木によじ登っています。男はベランダから見ている主人公に向かって「ドアはノックしたよ、返事がないから仕方なく入ったんだ」 とか、なんとか、いいながら、こんどは勝手に剪定をはじめます。こういう中々過激な「隣人」をはじめ、変な「隣人たち」が、いろいろ登場します。通りには戦車が走ったり、警棒(?)を持って群がって走ってくる男たちがいたり。 場面がパリに変わって、ファッションショーに出てくる女性たちが繰り返し映し出されますが、ここで、ようやく、主人公が映画監督であり、パリには「映画」の売り込みにやってきていることがわかる交渉のシーンが映ります。(もっとも、ぼくの記憶違いで、これはニューヨークでの出来事だったかもしれません。)「あなたの映画はパレスチナらしくない」 そういって断られた主人公は、次にニューヨークに登場します。 この街の市民たちは、なぜか、銃で武装しています。車のトランクから手動のロケット弾を取り出している人もいます。 公園では天使が警官に追いかけられて、羽根を棄てて消えてしまいました。いやはや、どういう街なのでしょうね、ここは。 主人公はニューヨークでも売り込みに失敗したようで、飛行機に乗って、変な「隣人たち」が住む街に帰ってきます。 土砂降りの中、自宅の塀の前で、「止まらないんだ」とずぶぬれで立ち小便を続ける「隣人」に傘を差しかけたりしながら、ようやく、自宅にたどり着きます。 朝起きてベランダに立つと、出発する前に鉢植えから庭に植え替えておいたレモンの若木が実をつけていて、例の「隣人」が、勝手に水をやっています。 ディスコというのでしょうか、若い人たちが音楽に合わせて踊っているホールのような、酒場のようなところの片隅のカウンターでお酒(?)を飲んでいる主人公が写って、映画は終わりました。 ここで、不思議なことが起こりました。ここまで、「不思議さ」の中をさまよっていたぼくの目に涙が滲んできたのです。これは、どうしたことでしょう。 ぼくにとって、この映画の不思議さは、「天国にちがいない」という題名の謎が全く解けなかったことがすべてといってもいいのですが、主人公の映画監督がほとんど喋らないうえに、ただ直立して見ているだけの人という所にも不思議は宿っています。 この直立感にはチャップリンとかがやどっている印象もありましたが、言葉、台詞についていえば、主人公がセリフを喋るのは一度だけでした。それもたった二言です。 パリだったかニューヨークだったかで、タクシーに乗った時の会話です。「どこの国から来たんだ」「ナザレ」「ナザレは国じゃないだろ」「パレスチナ」 このシーンのこのセリフは、ぼくに対して、この映画のパレスチナらしい! 輪郭を焼き付けたのですが、さて、「天国」は天使が消えたニューヨークだったのでしょうか、立小便がとまらない「隣人」がいる「この町」だったのでしょうか。 最後の最後に、胸に迫ってきたものは、一体何だったのでしょう。最後まで、不思議が残る映画でした。 それはそうと、シネリーブルのサービスでポスターをもらいました。これですが、なかなかうれしいプレゼントでした。監督 エリア・スレイマン製作 エドアール・ウェイル ロリーヌ・ペラッシ エリア・スレイマン タナシス・カラタノス マーティン・ハンペル セルジュ・ノエル脚本 エリア・スレイマン撮影 ソフィアン・エル・ファニ編集 ベロニク・ランジュキャスト エリア・スレイマン タリク・コプティ アリ・スリマン ガエル・ガルシア・ベルナル2019年・102分・G・フランス・カタール・ドイツ・カナダ・トルコ・パレスチナ合作原題「It Must Be Heaven」2021・02・12シネリーブル神戸no80
2021.02.16
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「西郷川のさくら?」 徘徊日記 2021年2月27日 灘区岩屋あたり 灘区の西郷川といってすぐにおわかりでしょうか? 阪神電車の岩屋駅と西灘駅の間を南北に流れている川ですが、摩耶山から流れてきて途中、王子公園の東を下る小さな川です。 こんな感じですが、今の季節に限らず、そんなに水量のある川とは思えません。王子公園のあたりでは「緑の桜」がもうすぐみられますが、ご覧のようにまだまだ花の季節ではありません。 ところが、阪神電車の南の「岩屋公園」のこの辺りの川端では、2月だというのに桜が満開でした。 「河津桜」という種類だと思うのですが、この辺りには「アーモンド」も植わっているようです。ぼくには見分けがつかないので、間違いかもしれません。 何はともあれ、写真を撮っている時は、今年初めて「桜の花」を見て「おおっ!これは、これは!」 と夢中ですからどうしようもありませんね。 住所は確認しましたが、花の種類は未確認でした。住所のわかる電柱の標識を撮るのは、徘徊の癖になっているのですが、花の名前とかにはまだまだ無頓着です。 それにしても、垂水区の住人が、なんでこんなところを歩いているのでしょうね(笑)。ボタン押してね!
2021.03.09
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ガース・ジェニングス「SING シング」パルシネマ 普段はあまり見ないタイプの映画なのですが、パルシネマのプログラムに誘われてやって来ました。ガース・ジェニングス監督の「SING シング」です。 キャラクターがすべて動物で作られていて、つぶれかけのホールの支配人のコアラのバスター君が起死回生の「素人のど自慢大会」を企画して、そこに集まる「のど自慢たち」が繰り広げる「歌合戦」アニメ映画でした。まあ、ありきたりなストリーなわけですが、これが見ていて、実に楽しい。 声優さんたちのメンバーを見ると、実物が顔出しで出演すると、一体どうなるのだろうという感じのメンバーで、スクリーンから聞こえてくる歌声は、いわゆる洋楽についてほとんど知らないぼくのような客でも、何曲かは知っているうえに、メンバーの実力通り、実に上手なのです。 ぼくのように80年代以前しか知らない人間でも楽しいわけですから、ここ十年くらいの音楽を聴いている人は間違いなく楽しいのではないでしょうか。 ただ、キャラクターの作り方を見ていて、最近話題になっている「ルッキズム」というのでしょうか、それぞれの動物が、見かけ上、人間をその動物に例えるのであれば、ある特定の差別的含意を強調することになることによって「笑い」をつくりだしているきらいがないでもないところには、ちょっと引っ掛かりました。 義眼が転げ出てしまうカメレオンの事務員、ミスク・ローリーさんといい、大勢の子育てをしながら、踊れる歌手になりたいブタのロジータさんといい、ゴリラのジョニーといい、これを人間でやれば事件でしょうね。 ぼくは、それぞれのキャラクターが、ストーリーの展開において「肯定的」に扱われている点で、楽しめましたが、どうなのでしょうね。続編ができるそうなのですが、そのあたりはどうなるのか、ちょっと気にかかりますね。監督 ガース・ジェニングス脚本 ガース・ジェニングス編集 グレゴリー・パーラー音楽 ジョビィ・タルボットエグゼクティブ音楽プロデューサー ハービー・メイソン・Jr.音楽監修 ジョジョ・ビリャヌエバエンディングソング スティービー・ワンダー アリアナ・グランデキャストマシュー・マコノヒー(バスター・ムーン:コアラ)リース・ウィザースプーン(ロジータ:ブタ)セス・マクファーレン(マイク:ネズミ)スカーレット・ヨハンソン(アッシュ:ヤマアラシ)ジョン・C・ライリー(エディ:ヒツジ)タロン・エガートン(ジョニー:ゴリラ)トリー・ケリー(ミーナ:ゾウ)ニック・クロール(グンター:ブタ)ジェニファー・ソーンダース(ナナ・ヌードルマン:ヒツジ・大歌手)ガース・ジェニングス(ミス・クローリー:カメレオン)2016年・108分・G・アメリカ原題「Sing」2021・03・16‐no24パルシネマno35
2021.03.22
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マルクス・H・ローゼンミュラー「キーパー ある兵士の奇跡」パルシネマ ナチスの空挺部隊の兵士トラウトマンがイギリスの捕虜収容所に収容されて暮らしています。捕虜同士のタバコをかけたシュート合戦から「サッカー映画」が始まります。その賭けの場に登場する天才キーパーがトラウトマンです。映画の題は「キーパー ある兵士の奇跡」でした。 やがて、「鉄十字勲章」で称えられた「ドイツ第三帝国」の英雄が、あのマンチェスター・シティの伝説のゴールキーパーになり、「イギリス」サッカー界の英雄になるという、史実らしいですが、驚くべき話です。 映画は「スポーツ」が作り出す伝説の作品化といっていいのですが、第二次大戦末期から戦後という時代的、社会的背景の中で、ほとんど成就の見通しのない「ドイツ兵捕虜・トラウトマン」と「イギリス女性・マーガレット」の「愛」の物語が、この映画の、もう一つのストーリーです。 マア、いってしまえば、そういうお話なわけですが、これが、なかなか、見ごたえがあったんです。 主人公トラウトマンが、敗戦後、帰国を拒否し、イギリスに残り続ける理由は「サッカー」への情熱と「マーガレット」への愛でした。 敵国イギリスに残り、マーガレットと結婚し、といった二人の関係が、トラウトマンのサッカーでの伝説的プレーと重ねて描かれますが、必ずしも、実生活の上で、トラウトマンとマーガレットが幸せな結末を迎えたわけではなさそうだと描くところが「映画」の「人間ドラマ」・「伝記ドラマ」としてのリアルなのでしょうね。 しかし、ぼくが見ごたえを感じたのは、そういうストーリーではありませんでした。ある、ほんのしばらく映し出された、短いシーンに心を動かされたのでした。 トラウトマンとマーガレットが初めて親しく出会う場面にそのシーンはありました。「どうして、サッカーが好きなの?」「君は、どうしてダンスが好きなの?」「うーん、体から重さが抜けて、宙に浮かんでしまえるからよ。」「僕がサッカーが好きな理由もそれだよ。」 トラウトマンとマーガレットが、本気で愛し始めるシーンですが、この後、トラウトマンを演じるデビッド・クロスがサッカーボールを魔法のように操って、まあ、リフティングの一種だと思いますが、「ダンス」のよう踊る、そうです、踊るとしか言いようのない、なめらかで美しい、本当に「宙に浮かんでいる」かに見える、夢のようなシーンが映し出されます。それは求愛のシーンですね。 そして、実際の試合シーンで、もう一度、彼がボールを持って踊るシーンが、今度は、トラウトマンがマーガレットの愛を得た喜びの表現として映し出されました。 すばらしいと思いましたね。「スポーツ映画」としても、「恋愛映画」としても、この表現は抜きんでているのではないでしょうか。以前、砂漠の真ん中で、青年兵士が銃をささげて踊る「運命は踊る」という映画にも感動した覚えがありますが、勝るとも劣らないシーンだったと思いました。拍手!監督 マルクス・H・ローゼンミュラー製作 ロバート・マルチニャック クリス・カーリング スティーブ・ミルン脚本 マルクス・H・ローゼンミュラー ニコラス・J・スコフィールド撮影 ダニエル・ゴットシャルク衣装 アンケ・ビンクラー編集 アレクサンダー・バーナー音楽 ゲルト・バウマンキャストデビッド・クロス(バート・トラウトマン)フレイア・メーバー(マーガレット・フライアー)ジョン・ヘンショウ(ジャック・フライアー)ハリー・メリング(スマイス軍曹)デイブ・ジョーンズ(ロバーツ)マイケル・ソーチャマイケル・ソーチャ2018年・119分・G・イギリス・ドイツ合作原題「The Keeper」2021・06・01‐no51パルシネマno38
2021.06.19
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ジム・ジャームッシュ「ナイト・オン・ザ・プラネット」シネ・リーブル神戸 シネ・リーブルのジャームッシュ特集です。6本目に見たのが「ナイト・オン・ザ・プラネット」でした。もともとの題名は「Night on Earth」です。ボクはアースの方がいいかなと思いました。 今回の特集で、最後に見た映画ですが、結果的振り返ってみると「トリを取る」にふさわしい傑作でした。出てくる役者さんを知っているわけでもないし、とりわけ声高な主張があるわけでもありません。さしたる事件も起こらないし、ドキドキするサスペンスやラブストーリーがあるわけでもありません。にもかかわらず、「まあ、よくぞここまで、好みのド真ん中にボールが来るものだ!」 と感嘆しました。 ロサンゼルス、NY、パリ、ローマ、ヘルシンキの5つの都市を舞台に、タクシーの車内で展開される、運転手と客との巡り合いをオムニバス形式で描いています。地球という同じ星の同じ夜空のもと、それぞれ違ったストーリーが繰り広げられていくという構成です。ただ、それだけのことです。 突如、話は変わりますが、谷川俊太郎の詩に「朝のリレー」という、CMで有名になった作品があります。書きあぐねている感想の代わりに、ちょっと、この映画をあの詩でモジってみようと思います。まあ、笑っていただければ嬉しいのですが。「夜のリレー」ロサンゼルスの少女が修理工の夢を見ているとき、ニューヨークの移民の老人はピエロだった思い出に遊んでいるパリのやさ男が盲目の女と連れ添っているとき、イタリア女たらしが神父の死に立ち会い、ヘルシンキの運転手は飲んだくれに手を焼いているこの地球でいつもどこかで夜が闇に沈んでいるぼくらは闇をリレーするのだ経度から経度へとそうしていわば交換で地球を守る眠りの最中、ふと耳をすますとどこか遠くでタクシーの警笛が鳴ってるそれはあなたが眠りこけている闇を誰かがしっかりと受けとめている証拠なのだ夜はやがて明けようとしている こんなふうに遊ぶのはジャームッシュにも谷川俊太郎にも失礼かとは思うのですが、でも、まあ、二人の間につながるものを感じるのです。それは、うまくは言えませんが、人間という「宇宙人」に対する「愛」のようなものですね。 映画はジャームッシュの詩的な感性がのびのびと炸裂していて、世界を独特の感覚(やさしさ(?))でつつんで見せた傑作だと思いました。拍手!監督 ジム・ジャームッシュ製作 ジム・ジャームッシュ製作総指揮 ジム・スターク脚本 ジム・ジャームッシュ撮影 フレデリック・エルムス編集 ジェイ・ラビノウィッツ音楽 トム・ウェイツキャストロサンゼルス編ウィノナ・ライダー(コ―キー運転手)ジーナ・ローランズ(ヴィクトリア・スネリング客)ニューヨーク編ジャンカルロ・エスポジート(ヨー・ヨー客)アーミン・ミューラー=スタール(ヘルムート・グロッケンバーガー運転手)ロージー・ペレス(アンジェラ客の義妹)パリ編イザック・ド・バンコレ(運転手)ベアトリス・ダル(盲目の女性)ローマ編ロベルト・ベニーニ(ジーノ:運転手)パオロ・ボナチェリ(神父)ヘルシンキ編マッティ・ペロンパー(ミカ)カリ・バーナネン(客)サカリ・クオスマネン(客)トミ・サルメラ(アキ)1991年・128分・アメリカ・日本公開1992年原題「Night on Earth」シネ・リーブル神戸no112追記2021・08・26谷川俊太郎の「朝のリレー」はこんな詩です。「朝のリレー」 カムチャッカの若者が きりんの夢を見ているとき メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウインクする この地球で いつもどこかで朝がはじまっている ぼくらは朝をリレーするのだ 経度から経度へと そうしていわば交換で地球を守る 眠る前のひととき耳をすますと どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ(谷川俊太郎「谷川俊太郎詩集 続」思潮社) もちろん、谷川俊太郎の詩の良さについては言うまでもありません。お叱りを受けるのを覚悟して「戯画」化しましたが、原詩の価値を貶める意図は毛頭ないことを言い添えておきます。
2021.08.26
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シルバン・ショメ「ベルヴィル・ランデブー」元町映画館 元町映画館のモギリ嬢のオススメで見ました。びっくりしました。なんなんですかこれは! と、まあ、そういう印象で、最後まで飽きさせません。 なんというか、赤塚不二夫のキャラクターに「シェ―!」の「イヤミ」というおじさんがいましたが、あんな感じでした。 繰り広げられるシーンが超絶していて、悔しいことに、フィルムの随所に隠されているというか、おおっぴらに見せびらかされているにちがいないのですが、それがわからない。 「おフランス」方面に詳しい方や、「趣味のよろしい」方なら、手をたたいてお喜びになるであろう、「音楽」、「ダンス」、「セリフ」、「小道具」、「舞台」(だいたい、ベルヴィルってどこですか?)なのでしょうが、わからないのに。スゴイやん、これ! それだけはわかる歯がゆさ!極東の田舎者を実感する悔しさ!わかっていただけるでしょうか。 まあ、ぼくのような「もの知らず」でも、フレッド・アステア、ド・ゴール、グレン・グールドぐらいには気がつけてうれしかったのですが、わかる人には宝の山のようなアニメだと思いました。 もっとも、話の筋立ては、そういう要素とは別に、実にうまくできていますし、シーンの作り方の工夫も、とても面白く楽しめるアニメーションで、必ずしも「大人向け」だとは思いませんでした。 キャラクターや風景、船や電車のデフォルメの仕方も、チョーが付く面白さですし、まあ、なんといっても冷蔵庫のベースに掃除機の管楽器、新聞紙のパーカッションで三つ子のバーさんが歌いだしたところに、主人公のオバーチャンが「何だ、これは?」のドラムス(?)で参加する演奏なんて、超絶シーンでした。 それにしても、まだまだいっぱい楽しい映画っていうのはあるんでしょうね。いやほんと!で、最後にもう一度叫びますね。「で、ベルヴィルってどこやねんオバーチャン!」「・・・・・」「ええー、もう、この世にはおってやないんですか?これ、みんな、思い出のフィルム?」 というわけで、今回は、特にワンちゃんのブルーノに拍手!拍手!監督 シルバン・ショメ脚本 シルバン・ショメ絵コンテ シルバン・ショメグラフィックデザイン シルバン・ショメ音楽 ブノワ・シャレストキャスト(声)ジャン=クロード・ドンダ(ナレーション)ミシェル・ロバン(孫のシャンピオン)モニカ・ビエガス(おばあちゃん)2002年・80分・G・フランス・ベルギー・カナダ合作原題「Les triplettes de Belleville」配給:チャイルド・フィルム日本初公開:2004年12月18日・元町映画館no86
2021.09.14
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トマス・ビンターベア「アナザーラウンド」シネ・リーブル神戸 デンマークの高校の先生が「お酒で元気になる」という、なんというか、訳の分からないモチベーション活性法を試すという映画でした。デンマーク映画で原題の「Druk」も英題の「アナザーラウンド」という題も「もう一杯いかが」とかいう意味だそうですが、「まあ、やめておいた方がいいんじゃないですか」という気分で見終えました。 40代に差し掛かって、仕事の(いや、プライベートも?)元気を失った、まあ、生徒に(家族にも?)さじを投げられた高校の先生という設定が、何ともリアルで、身につまされる作品でした。 が、活性法として出てくるのが「お酒」というところに、ちょっとついていけないものを感じましたが、飲酒に対する文化ギャップなのでしょうかね。 そういうわけで、主人公で歴史の先生であるマーティン(マッツ・ミケルセン)をはじめとする、さえない中年男4人が血中アルコール濃度を測りながら、どう考えても危ない実験に挑むわけで、見ている、元教員の老人はハラハラすること限りなしでした。 もっとも、映画はコメディ仕立てとはいうものの、いわゆる「危機」に遭遇する「人生の時」を、結構、シリアスに描いていて、まあ、今となっては過去のことなのですが「40代ってそうだったかなあ。」などと、さほどの自覚もなく振り返りながらも、笑うに笑えない映画でした。 誰でもがそうなのか、そこはわかりませんが、この映画に登場するさえない中年教員の時代を、それはいってしまえば年齢とともに失われていく何かに気づく時代だったと思うのですが、それをどうやってやり過ごしたのか、そこから20数年の日々を、どんなモチベーションで過ごしてきたのか、そんなことを考えさせられる作品でした。 最後に、去っていった妻アニカ(マリア・ボネビー)からの復活メールで救われたマーティンの美しいダンス姿で幕を閉じたのですが、酔ったまま海に出て帰ってこなかった、体育の先生だったトミー(トマス・ボー・ラーセン)の方にこそリアルを感じたのは、見ているぼくの年齢のせいでしょうか。 この作品で面白かったのは、デンマークの高校の教室や教員室の様子、テストのやり方でした。どう見ても、日本の学校よりもまともでしたね。とても羨ましく思いました。 さて、映画トータルについてです。どこかにコメディとあったのですが、案外、生真面目に作られている印象の映画でまじめに見ました(笑)。ただ、ギョッとするというか、ハテナ?というか、なんでもいいのですが、ドキッ!というインパクトがもう少しあればなあという作品でした。ちょっと残念でしたね。監督 トマス・ビンターベア脚本 トマス・ビンターベア トビアス・リンホルム撮影 シュトゥルラ・ブラント・グロブレン美術 サビーネ・ビズ衣装 エレン・レンス マノン・ラスムッセンキャストマッツ・ミケルセン(マーティン)トマス・ボー・ラーセン(トミー)マグナス・ミラン(ニコライ)ラース・ランゼ(ピーター)マリア・ボネビー(アニカ)ヘリーヌ・ラインゴー・ノイマンスーセ・ウォルド2020年・115分・PG12・デンマーク原題「Druk」2021・09・13‐no85シネ・リーブル神戸no116
2021.09.16
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スザンナ・ニッキャレッリ「ミス・マルクス」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていて「インターナショナル」が、ちょっとロック調な編曲で聞こえてきて「おっ、インターや」とか思ってやってきました。 この歌はフランス語では「L'Internationale」というそうですが、パリ・コミューンあたりで歌われ始めた歌だそうです。今年2021年の夏に見たのですが、スペイン市民戦争を舞台にした「ジョゼップ 戦場の画家」というアニメの中で「ワルシャワ労働歌」という歌が歌われていて、まあ、懐かしさの余りだと思いますが、思わず涙したのですが、二匹目のどじょうを狙ってやってきたというわけです。 カール・マルクス、この名前を聞いてワクワクするなんて言う人は、まあ、研究者ならいざ知らず、いくら若くても還暦ゴールを切った人ばかりだろうと思いますが、その中でも若いほうだと自賛しながら、結構ワクワクしてやってきました。「マルクスの娘かあ!?あんまり幸せな人生だった気はしないなあ」そういう関心もありました。 スザンナ・ニッキャレッリというイタリアの女性の監督の作品でした。映画の構成の骨として、ショパンのようなクラッシク音楽、インターナショナルのような労働歌、ダウンタウンボーイズが歌うロックミュージックの三通りの音楽を使っているところが独特でしたが、展開がパターン化してしまったという感じがしました。 問題の「インターナショナル」は、映画のなかでは伴奏なしで素朴に歌われていて、印象的ではあるのですがインパクトに欠けるきらいがあったと思いました。 映画は、例えば子供たちに重労働を課す、19世紀の「原」資本主義の社会に異議を唱える社会主義者「ミス・マルクス」の不幸を現代的なフェミニズムの観点から描いているところが新しいと思いました。 もっとも、彼女の周囲の「男性」たち、父マルクスから、夫エイブリングに至るまで、全員、立つ瀬なしというか、まあ、時代の人たちなのですが、そのことが、かえって1970年代の女性解放運動がすでに指摘していた問題が、何一つ解決していない「現代」を浮き彫りにしている印象でした。 ホント、どうなっているのでしょうね。 社会主義者として生きることを運命づけられているかに見える「ミス・マルクス」の孤独を美しく、気高く演じたロモーラ・ガライに拍手!でした。監督 スザンナ・ニッキャレッリ脚本 スザンナ・ニッキャレッリ撮影 クリステル・フォルニエ美術 アレッサンドロ・バンヌッチ イゴール・ガブリエル衣装 マッシモ・カンティーニ・パリーニ音楽 ガット・チリエージャ・コントロ・イル・グランデ・フレッド ダウンタウン・ボーイズキャストロモーラ・ガライ(エリノア・マルクス:マルクスの三女)パトリック・ケネディ(エドワード・エイヴリング:夫)ジョン・ゴードン・シンクレア(フリードリヒ・エンゲルス)フェリシティ・モンタギュー(ヘレーネ・デムート:マルクス家の家政婦)2020年・107分・PG12・イタリア・ベルギー合作原題「Miss Marx」2021・10・15‐no95 シネ・リーブル神戸no123
2021.10.19
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チャールズ・ウォルターズ「イースター・パレード」シネ・リーブル神戸 「愛しのミュージカル映画たち」の第2弾はチャールズ・ウォルターズ監督の「イースター・パレード」でした。フレッド・アステアとジュディ・ガーランドです。 フレッド・アステアといえば「ザッツ・エンタテインメント That's Entertainment!」(1974)で初めて見たことは憶えています。 で、たしか、同じころの「タワーリング・インフェルノ」で、妙に記憶に残る詐欺師のじいさんだったような気がしますが、この人が歌って踊っている作品を1本まるまる映画館で見た記憶はありません。歌って踊っている姿をスクリーンで見るのは、今日が初めてでした。 「ザッツ・エンタテインメント That's Entertainment!」が封切られた当時、小林信彦や和田誠がアメリカ映画ネタのコラムで、ハリウッドのミュージカル映画とかを話題にしていたのを読んで、頭の中で想像はしていましたが、初めてスクリーンで見て納得しました。滑るように動くタップダンスの軽快さはスクリーンで見ないと体感できませんね。 女性と踊るシーンももちろんですが、映画が始まって早々のシーンですが、おもちゃ屋の店内で縫いぐるみのウサギを巡って少年と掛け合うシーンには、まあ、そういうふうに作られているとは思うのですが、いきなり鷲づかみされた気分で、目と耳はくぎ付けでした。「イヤーぁ、スゴイなあ、スゴイなあ。」 で、お相手はジュディ・ガーランドでした。ジュディ・ガーランドといえば「オズの魔法使い」というパターンが定番で、ぼくもそうですが、先日のマリリン・モンローもそうでしたが、今となってみれば、彼女も若すぎる、あんまり幸せでない最後を迎えた人という記憶が先に浮かんでしまいます。でも、映画では違いました。 スクリーンの彼女は溌溂として若々しくて、歌もダンスも堪能させてくれるのですが、演技の表情がまっすぐな印象ですばらしいですね。 最後の劇中ショーの町の風来坊二人組の演技なんて、「ブロードウェイだろうが、なんだろうが、そりゃあ、ウケるわな」とブロードウェイなんて知りませんが、納得でした。 見終えて、ただ一つ、引っかかったことをいえば、ハンナ・ブラウンを演じたジュディ・ガーランドはどう見ても20代の田舎からやって来た娘ですが、彼女が恋する師匠でもあり相方でもあるドン・ヒューズ(フレッド・アステア)は、どう若く見ても50代なのですね。密かに、いや、告白もしますが、横恋慕するジョニー(ピーター・ローフォード)は20代のハンサムボーイです。 「フレッド・アステアのダンスの凄みはともかく、ここでハンナがこのおっさんにほれるかな?」 恋に年の差をいうのは野暮とはいうものの、ちょっと、そう感じてしまいました。 で、帰ってきて調べてみると、この作品は1948年の封切りですが、ジーン・ケリー、「雨に歌えば」のあの人ですね、が主役で始められたらしいのですが、彼が骨折かなんかしてしまったために。急遽アステアが代役で出たんだそうです。アステアは1899年生まれで、このとき50歳ですが、ジーン・ケリーは1912年生まれ、今でいうならアラフォーですね。恋の相手としてはこの年の差は大きいですね。 ジーン・ケリーとジュディ・ガーランドの「イースター・パレード」、想像すると、これまたワクワクしますね。 調べたついでに気づいたのですが、「ザッツ・エンタテインメント」で、今思い出す女性のスターはライザ・ミネリですが、彼女はジュディ・ガーランドの娘さんなのですね。いやはや、アメリカのエンターテインメントの世界はスゴイですね。 まあ、それにしてもジュディ・ガーランドとフレッド・アステアには拍手!拍手!でした。 ところで、この企画は、それぞれの回の先着??名に絵葉書が配られていて、最初の写真はその絵はがきです。古いポスターの絵柄のようですが、ちょっと嬉しいので、ブログの写真で使いたいと思います。(笑)監督 チャールズ・ウォルターズ製作 アーサー・フリード脚本 シドニー・シェルダン音楽 アーヴィング・バーリン音楽監督 ジョニー・グリーン撮影監督 ハリー・ストラドリング編集 アルバート・アクスト美術 セドリック・ギボンズ、ジャック・マーティン・スミス装置:エドウィン・B・ウィリス衣裳:アイリーン、ヴァレス録音:ダグラス・シアラーキャストジュディ・ガーランド(ハンナ・ブラウン)フレッド・アステア(ドン・ヒューズ)ピーター・ローフォード(ジョナサン・ハロウ3世 通称ジョニー)アン・ミラー(ナディーン・ヘイル)ジュールス・マンシン(フランソワ)1948年・103分・G・アメリカ原題「Easter Parade」配給:東京テアトル日本初公開 1950年2月14日2022・03・01-no25・シネ・リーブル神戸no138
2022.03.01
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ビンセント・ミネリ「若草のころ」シネ・リーブル神戸 「愛しのミュージカル映画たち」の最終回はジュディ・ガーランドでした。前にも言ったことですが、1970年代に映画を見始めたころ、アメリカ映画だけではなくて日本映画の喜劇とかの、ぼくにとっての案内人は小林信彦でした。 その頃のぼくは淀川長治とか双葉十三郎といった人たちのすごさがわからなくて、ちょっと理屈っぽい小林信彦に惹かれていたのでしょうね。 まあ、今となってはどの方もすごいなあと思うのですが、問題は、その当時、本のなかで話題になるちょっと古めの映画を見ることができないことでした。マルクス兄弟やバスター・キートンといわれても、まあ、困ったはずなのですが、そこは、それ、「読んでわかったつもり」という得意の思い込みで、理屈だけはくわえこんでいたのですが、今になって、ホントおバカだったことだと思うのですが、まあ、後の祭りです。 まあ、そういう女優さんの一人がジュディ・ガーランドでした。今回の企画の中で二度目の登場です。最初に登場したのは「イースター・パレード」でしたが、彼女よりもフレッド・アステアの足技に目を奪われた気がしましたが、今回はジュディ・ガーランドの映画でした。 映画はビンセント・ミネリ監督の「若草のころ」です。 オルコットという人の「若草物語」という4人姉妹の小説がありますが、よく似た趣向の物語でした。もっとも、この映画の原作は「若草物語」ではありません。「5135 Kensington 」という短編小説集の中の一つ、「Meet Me in St. Louis, Louis」という小説の映画化で、著者のサリー・ベンソンという人は、この映画の三女アグネスなのだそうです。 まあ、それにしても、20世紀前半のアメリカのホーム・ドラマには共通する型があったんじゃないでしょうか。既視感のある家族のお話でした。 1903年のセントルイスという町が舞台で、「Meet Me in St. Louis, Louis」という、映画の題名にもなっていますが、1904年のセントルイス万博のテーマソングような歌が、映画でもテーマソングでした。 ほかにも、たくさんの名曲が歌われるのですが、中には「茶色の小瓶」とか「埴生の宿」とか、ぼくでも知っている歌がダンス・ミュージックとして使われていて、ちょっとご機嫌でした。 「ああ、この子面白いなあ。」 そう思ったのが四女のトゥーティ(マーガレット・オブライエン)の演技でしたが、1945年のアカデミー賞の「子役賞」だったそうです。今でも、そういう賞はあるのですかね。 次女のエスター(ジュディ・ガーランド)が高校生ぐらい、四女のトゥーティ(マーガレット・オブライエン)が小学校に上がる前の少女という設定ですが、二人の明るさがさく裂するホーム・ドラマでした。 見終えて気づいたのですが、1944年の映画なのですね。太平洋戦争の最中の作品ですが、「余裕シャクシャクのアメリカ」を感じました。日本では1951年に公開されたようですが、その時、この作品を見た日本人がどう感じたのか、ちょっと興味を惹かれます。 ついでにいえば、この作品はジュディ・ガーランドとビンセント・ミネリを結び付け、あの、ライザ・ミネリ誕生の出発点というか、お膳立てというかの映画らしいですね。この映画で出会った監督と女優が結婚しなければ、ライザ・ミネリは生まれなかったわけですから、それはそれですごい映画ですね。 まあ、何はともあれマーガレット・オブライエン(トゥーティ・スミス 四女)に拍手!でした。それに尽きます! 「愛しのミュージカル映画たち」全6作完走しました。はじめは「お勉強」のつもりで見始めたのですが、ほとんどハズレなしの楽しさで、「もっと!もっと!」という気分で、楽しみの世界が広がりました。歌とかよく分からないのですが、ちょっと古いミュージカルの世界から最近の作品まで、今や興味津々です。こういう企画は、ホント、ありがたいですね。監督 ビンセント・ミネリ製作 アーサー・フリード原作 サリー・ベンソン脚本 アービング・ブレッチャー フレッド・F・フィンクルホフ撮影 ジョージ・J・フォルシー音楽 ジョージ・ストールキャストルシル・ブレマー(ローズ・スミス 長女)ジュディ・ガーランド(エスター・スミス 次女)ジョーン・キャロル(アグネス・スミス 三女)マーガレット・オブライエン(トゥーティ・スミス 四女)ヘンリー・H・ダニエルズ・ジュニア(スミス・ジュニア 長男 通称ロン)メアリー・アスター(アンナ・スミス 母)レオン・エイムズ(アロンゾ・スミス 父)ハリー・ダヴェンポート(祖父)マージョリー・メイン(ケイティ メイド)トム・ドレイク(ジョン・トゥルーイット 隣家の青年)ジューン・ロックハート(ルシル・バラッド ロンの恋人)ヒュー・マーロウ(ダーリー大佐)チル・ウィルス(ミスター・ニーリー氷売りの男)1944年・113分・G・アメリカ原題「Meet Me in St. Louis」配給:東京テアトル日本初公開 1951年3月6日2022・03・10-no33・シネ・リーブル神戸no143
2022.03.13
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タル・ベーラ「ファミリー・ネスト」元町映画館 「タル・ベーラ前夜」という企画の二本目でした。1977年の作品で、タル・ベーラ監督のデビュー作だそうです。題名は「ファミリー・ネスト」です。 街角を歩いている女性が電車に乗り、やがて仕事場らしきところにやってきて、白い上着を着て働き始めます。ソーセージを作っている作業場のようです。彼女は夫が徴兵(?)で従軍のあいだ、その実家に幼い娘とともに夫の両親と暮らしているイレン(ラーツ・イレン)という女性です。 映画はイレン、娘、義父(クン・ガーボル)、義母(クン・ガーボルネー)、軍務から帰ってきた夫ラツィ(ホルバート・ラースロー)、そして夫の弟という、同じアパートに住んでいる「家族」の物語でした。 この映画が撮られた当時のハンガリーの首都、ブダペストの住宅難を反映した作品だというチラシの解説がありましたが、ウサギ小屋と揶揄された1960年代から1980年代の日本の住宅事情だって、似たり寄ったりで、その狭い住居の暮らしの様子に違和感はありませんでした。 しかし、映画の始まりのころに映し出される夕食のシーンをみながら、だんだん息苦しいほどの、違和感が広がっていきました。 その日、イレンが連れ帰ってきた職場の同僚である女性が座り、そこに任務を解かれて帰宅した夫が登場する、というシーンです。そこでは普通(?)予想される一家団欒の温かさはかけらも描写されません。延々と続く義父の「暴言」にはじまり、家族たち相互の歯に衣着せぬ発言のあからさまさ、それに加えて次のシーンでは、女性を送って外に出た夫と弟による、妻の友人である初対面の女性に対する異様な暴行シーン。それに続くのがその暴力をふるった男と振るわれた女のなれ合い様子。その後、深夜に帰宅した夫が妻のベッドに入っていくという、チグハグでなにが起こっているのか理解できないようなシーンが次々と映し出されていきます。「いったい、これは、なんなんだ?」 そうつぶやくしかない出来事の連鎖でした。それぞれの人間に、異様な反道徳性が割り振られている印象です。この後も、見ていて理解しきれないことが続くのですが、結果的に「ファミリー」という、本来、一番平和的な社会の単位が、単位個々の心中に充満する憎悪や猜疑心によって、実はすでに壊れているという印象が画面を覆っていきます。 別にそこから「殺人事件の謎を解く」といったようなミステリアスな出来事が起きたりするわけではありません。ただ、何とも言えない息苦しさがあらゆるシーンに漂い、やがて映画は終わりました。 タル・ベーラという映像作家の「人間の実相に対する悪意」 とでもいうべき疑い、不信が、かなり率直に映像化された作品だと思いました。 シマクマ君は「サタン・タンゴ」という長大な作品のわからなさをなんとかしたくて、今回の特集を見始めましたが、「ダムネーション」といい、この「ファミリー・ネスト」といい闇は深まるばかりです。見ていて、どんどん気が重くなっていくのです。 人間の中にある「悪意」や「反道徳性」の芽をデフォルメし、クローズアップすればこのフィルムのようになることに異論はありません。しかし、ほとんどホラー化したその世界を見てどうすればいいのでしょう。 ほんとど最後の頃のシーンですが、義父が酒場で女性を口説くシーンがあります。そのシーンなどは、ホラーを通り越して喜劇的です。しかい、なんだか気が重くて笑う気になりませんでした。 若き日のタル・ベーラの習作というべき作品だと思いますが、ある種、異様な徹底性が記憶に残りました。そこが、タル・ベーラなのかもしれません。 というわけで、「とことん」まで描こうとするタル・ベーラ監督に拍手!なのですが、この年になってみる映画ではないのかもしれないとも思いました。それにしても、やっぱり、疲れました(笑)。監督 タル・ベーラ脚本 タル・ベーラ撮影 パプ・フェレンツ編集 コルニシュ・アンナ音楽 スレーニ・サボルチ トルチュバイ・ラースロー モーリツ・ミハーイキャストラーツ・イレン(イレン)ホルバート・ラースロー(ラツィ)クン・ガーボル(ラツィの父)クン・ガーボルネー(ラツィの母)1977年・105分・モノクロ・ハンガリー原題「Csaladi tuzfeszek」2022・03・09-no32・元町映画館(no113) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.03.14
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