子どもの頃のこと 0
全101件 (101件中 1-50件目)
1 番歌 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ 天智天皇 2 番歌 春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山 持統天皇 3 番歌 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂 4 番歌 田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ 山辺赤人 5 番歌 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸大夫 6 番歌 鵲の渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける 中納言家持 7 番歌 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも 安倍仲麿 8 番歌 わが庵は都の辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師 9 番歌 花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに 小野小町 10番歌 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関 蝉丸 11番歌 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船 参議篁 12番歌 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ 僧正遍昭 13番歌 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる 陽成院 14番歌 陸奥のしのぶもぢずりたれゆえに 乱れそめにしわれならなくに 河原左大臣 15番歌 君がため春の野に出でて若菜摘む わが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇 16番歌 立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む 中納言行平 17番歌 ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣 18番歌 住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ 藤原敏行朝臣 19番歌 難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや 伊勢 20番歌 わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王 21番歌 今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな 素性法師 22番歌 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ 文屋康秀 23番歌 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里 24番歌 このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに 菅家 25番歌 名にし負はば逢う坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな 三条右大臣 26番歌 小倉山峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ 貞信公 27番歌 みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ 中納言兼輔 28番歌 山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば 源宗于朝臣 29番歌 心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花 凡河内躬恒 30番歌 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし 壬生忠岑 31番歌 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪 坂上是則32番歌 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり 春道列樹 33番歌 ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則 34番歌 誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに 藤原興風 35番歌 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける 紀貫之 36番歌 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいずこに月宿るらむ 清原深養父 37番歌 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける 文屋朝康 38番歌 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな 右近 39番歌 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき 参議等 40番歌 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで 平兼盛 41番歌 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見 42番歌 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは 清原元輔 43番歌 逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり 権中納言敦忠 44番歌 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠 45番歌 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたずらになりぬべきかな 謙徳公 46番歌 由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな 曾禰好忠 47番歌 八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり 恵慶法師 48番歌 風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな 源重之 49番歌 御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣 50番歌 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝
2013/06/11
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51番歌 かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方朝臣 52番歌 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな 藤原道信朝臣 53番歌 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る 右大将道綱母 54番歌 忘れじのゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな 儀同三司母 55番歌 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ 大納言公任 56番歌 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな 和泉式部 57番歌 めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月影 紫式部 58番歌 有馬山猪名の篠原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 大弐三位 59番歌 やすらはで寝なましものをさ夜更けて かたぶくまでの月を見しかな 赤染衛門 60番歌 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立 小式部内侍 61番歌 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな 伊勢大輔 62番歌 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ 清少納言 63番歌 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな 左京大夫道雅 64番歌 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木 権中納言定頼 65番歌 恨みわび干さぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ 相模 66番歌 もろともにあはれと思え山桜 花よりほかに知る人もなし 前大僧正行尊 67番歌 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそをしけれ 周防内侍 68番歌 心にもあらで憂き夜に長らへば 恋しかるべき夜半の月かな 三条院 69番歌 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり 能因法師 70番歌 寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮れ 良暹法師 71番歌 夕されば門田の稲葉訪れて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く 大納言経信 72番歌 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊 73番歌 高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山のかすみ立たずもあらなむ 前権中納言匡房 74番歌 憂かりける人を初瀬の山おろしよ 激しかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣 75番歌 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり 藤原基俊 76番歌 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣 77番歌 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院 78番歌 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚めぬ須磨の関守 源兼昌 79番歌 秋風にたなびく雲のたえ間より 漏れ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔 80番歌 ながからむ心も知らず黒髪の 乱れてけさはものをこそ思へ 待賢門院堀河 81番歌 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる 後徳大寺左大臣 82番歌 思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり 道因法師 83番歌 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成 84番歌 長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき 藤原清輔朝臣 85番歌 夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり 俊恵法師 86番歌 嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな 西行法師 87番歌 村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮 寂蓮法師 88番歌 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 身を尽くしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当 89番歌 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王 90番歌 見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず 殷富門院大輔 91番歌 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣 92番歌 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 二条院讃岐 93番歌 世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣 94番歌 み吉野の山の秋風さよ更けて ふるさと寒く衣打つなり 参議雅経 95番歌 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖 前大僧正慈円 96番歌 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり 入道前太政大臣 97番歌 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家 98番歌 風そよぐ楢の小川の夕暮は 御禊ぞ夏のしるしなりける 従二位家隆 99番歌 人も愛し人も恨めしあじきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は 後鳥羽院 100番歌 百敷や古き軒端のしのぶにも なほ余りある昔なりけり 順徳院
2013/06/11
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百人一首 100番歌 百敷や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり ももしきや ふるきのきはの しのふにも なほあまりある むかしなりけり 宮中の古い軒端から垂れ下がる忍ぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないものは、栄華を極めた昔のよき時代のことだねぇ~。 作者:順徳院(じゅんとくいん) 順徳天皇 1197~1242 在位1210~1221 第84代天皇。後鳥羽天皇の第3皇子。承久の乱で敗れて佐渡に配流され、その地で崩御。 今回の歌は小倉百人一首の100番目。撰者である藤原定家が仕えた後鳥羽院の息子、順徳院の歌です。 この歌は承久の乱が起こる前、順徳院が20歳の時に詠んだ歌です。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし、たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ ご存じ、平家物語の冒頭、平氏が没落していく様を表しております。平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。作者は、最古のものは吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)こと藤原行長なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述がある。平家物語の作者:藤原行長 (ふじわらの-ゆきなが) 鎌倉時代の官吏。 藤原行隆の子。関白九条兼実(かねざね)の家司(けいし)で,蔵人(くろうど),下野守(しもつけのかみ)をつとめる。漢詩文にすぐれ,元久2年(1205)の「元久詩歌合」の詩作者のひとり。従弟の葉室時長とともに,「平家物語」の作者とされる信濃前司(しなののぜんじ)行長に擬せられている。※
2013/06/10
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百人一首 99番歌 人も愛し 人も恨めし あじきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は ひともをし ひともうらめし あちきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは人をいとおしく思うこともあれば、いっぽうでは人を恨めしく思うこともある。思うにまかせず、この世を思うがゆえに、あれこれと思い悩むよこの私は。 作者:後鳥羽院(ごとばいん) 後鳥羽天皇 1180~1239 在位1183~1198 平安時代末期から鎌倉時代初期 第82代天皇。高倉天皇の第4皇子。諸芸、とくに歌道に優れ、和歌所を設置し、『新古今和歌集』を勅撰。承久の乱で敗れて隠岐に配流され、その地で崩御。 時代は変化しています。後鳥羽天皇は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての激動期に生きたがために、このような歌を遺されたのでしょう。「人も恨めし」の歌を詠んでから9年後に、後鳥羽院は貴族復権を掲げて北条義時に挑み(承久の変)はしたものの破れ、島根県の隠岐島へ流されました。 ※
2013/06/09
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百人一首 98番歌 風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける かせそく ならのをかはの ゆふくれは みそきそなつの しるしなりける風がそよそよと楢の葉に吹いて、ならの小川(上賀茂神社・御手洗川)の夕暮れは、すっかり秋めいているが、六月祓(みなづきばらえ)のみそぎの行事だけが夏のしるしなのだった。 作者:従二位家隆(じゅにいいえたか) 藤原家隆 (ふじわらのいえたか) 1158~1237 平安末期・鎌倉初期の歌人。藤原俊成に和歌を学び、定家とともに歌壇の中心人物となる。『新古今和歌集』撰者の一人。 平安時代は今と違い「旧暦」のこよみを使っていました。、月の動きをもとにした太陰暦です。「1カ月を30日、1年を360日です。 旧暦では1~3月を春、4~6月を夏、7~9月を秋、10~12月を冬」としていました。そして、現在のこよみは1年365日である太陽暦ですが、比べると1カ月ほど月日がずれています。この歌に出てくる6月30日の「六月祓(みなづきばらえ)」は、8月の初め頃に行われていました。 ※
2013/06/08
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百人一首を毎日一首づつ紹介しながら学んでいこうと始めて、あと3首残すのみとなりました。100日というと3ヶ月ちょいです。テレビドラマは3ヶ月をワンクールとしています。13週91日間ですね。季節も約3ヶ月です。短いようで長い、終わってみれば短いものです。24節気は1年間を24節気に区切っています。1節気は約2週間です。100日区切り。これ、なかなかいいかもしれません。100日間続けていると、響感共鳴するものが見えてきます。現れてきます。今回は95日目にして、百人一首 62番歌の清少納言の枕草子の解説を聞くことができました。たまに足を運ぶ朝風呂での会話です。花瓶に花を活けている姿を見たので、「ご自分で育てた花を持参されていつも活けてくださっているのですか。花があるとないとでは違いますもね」と言葉をかけましたら「このカスミソウは珍しいピンクの花なんですよ」と教えられました。遠目だったので色までははっきりしなかったのですが、確認しましたらピンク色の可憐なカスミソウでした。カスミソウは白ばっかりだと思っていましたら、ピンクのカスミソウもあるんですね。
2013/06/07
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百人一首 97番歌 来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつり こぬひとを まつほのうらの ゆふなきに やくやもしほの みもこかれつつ 待ってもやって来ない人を待ち続け、松帆の浦の夕凪のころに焼いている藻塩が焦げるように、私の身も来てはくれない人を想い、いつまでも恋こがれています。 作者:権中納言定家(ごんちゅなごんさだいえ) 藤原定家 (ふじわらのさだいえ[ていか]) 1162~1241 鎌倉初期の歌人。平安末期の大歌人藤原俊成の二男。父俊成の幽玄体を発展させ叙情的な作品を得意とし、有心体(うしんたい)を提唱し、新古今調の和歌を大成した。『新古今和歌集』の撰者の一人であり、後に単独で『新勅撰和歌集』を撰進。この『小倉百人一首』の撰者。歌論書『近代秀歌』『毎月抄』、日記『明月記』。歌人の寂蓮は従兄、太政大臣の西園寺公経は義弟にあたる。 この歌は万葉集の 「 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘人(あまおとめ)」の本歌取りの歌です。 海に入ってあわび貝などを採る海人娘人(あまおとめ)の少女が、いくら待ってもなかなか来てくれない、恋人を待ちわびて身を焦がす情景を歌にしているわけです。松帆の浦で夕なぎ時に焼いていた藻塩と重ねて歌に表現しています。 ※
2013/06/07
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百人一首 96番歌 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり はなさそふ あらしのにはの ゆきならて ふりゆくものは わかみなりけり 花をさそって散らす嵐の吹く庭は、雪のような桜吹雪が舞っているが、本当に老いて古りゆくものは、雪ではなくわが身である私自身なんだよなぁ~。 作者:入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん) 藤原公経(ふじわらのきんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつね)とも呼ばれます。1171~1244 鎌倉前期の公卿・歌人。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。承久の乱に際して鎌倉幕府に内通し、乱後は幕府権力を背景に内大臣、太政大臣に昇進。京都北山に壮麗な西園寺(鹿苑寺[金閣寺]の前身)を建立するなど、藤原氏全盛期に匹敵する奢侈を極めた。 春は花、とりわけ桜は花見を代表する花です。そして桜の花の下に眠りたいとも例えられる花です。明治以降、ソメイヨシノが桜を代表する桜ですが、それ以前は、山桜などの桜が多かったのだろう。吉野の千本桜の桜の種類は何だろう。一度この目で見たい桜の名所の一つです。散るゆく桜と詠まずに、雪にたとえて「ふりゆくもの」としたところが妙なる世界ですね。作者の藤原公経は61歳で出家して、京都市北山に西園寺を建て住んだとされています。西園寺は、のちに足利義満が譲り受け別荘として使われました。かの知られた金閣寺です。 ※
2013/06/06
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百人一首 95番歌 おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に すみ染の袖 おほけなく うきよのたみに おほふかな わかたつそまに すみそめのそて 身の程をわきまえずしたいと考えるのは、このつらい世の中で生きている人々に覆いをかけて救ってあげたいのだ。私が比叡山に住みはじめて私の墨染めの袖をもって 作者:前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん) 慈円 1155~1225 平安末期・鎌倉初期の僧・歌人・学者。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。良経の叔父。13歳で出家、37歳で天台宗の座主(比叡山延暦寺の僧侶の最高職)となる。第62世、第65世、第69世、第71世天台座主。日本初の歴史論集『愚管抄』を書く。 比叡山に住んで、開祖最澄の意志を継ぎ、この荒れてつらい世の中の民を仏法で包み込み救済し、安心な世の中にするのだ。それが私の使命であろう。 この歌の舞台になったのは最澄が開いた比叡山延暦寺(天台宗)。若い僧であった慈円が、伝教大師(最澄)の歌を本歌とし、自らの使命感と理想を詠んだ一首。慈円の生きた時代は、栄華を極めた藤原氏が段々に弱まり、貴族が衰退して新興勢力の武士の時代へと移り変わる時代でした。1192年には鎌倉幕府が開かれる激動の時代でした。 慈円は後の1220年に日本で初めて歴史を論じた史論集「愚管抄」を書き上げています。 ※
2013/06/05
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百人一首 94番歌 み吉野の 山の秋風 さよ更けて ふるさと寒く 衣打つなり みよしのの やまのあきかせ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり 吉野の山々にも秋風が吹きわたり、夜もふけ、古都は寒々しくもあり、夜なべ仕事の衣を打つ音が聞こえてくるのです。 作者:参議雅経(さんぎまさつね) 藤原雅経 (ふじわらのまさつね) 1170~1221 平安時代末期から鎌倉時代前期の公家・歌人。鎌倉幕府の第4代征夷大将軍であった藤原頼経の子。蹴鞠に優れ、蹴鞠の元祖である飛鳥井流の祖となる。後鳥羽院に気に入られ、『新古今和歌集』の撰者の一人。 古今集の「み吉野の 山の白雪つもるらし ふるさと寒くなりまさるなり」の本歌取りにもなっています。本歌取りと云えば優雅に聞こえますね。けっしてパクリとは言いません。歌のリメイクを歌をつくる技術として評価したのでしょうね。 百人一首にはかつて古代の都の離宮があって栄えていた吉野の里(奈良県吉野郡吉野町)がよく登場します。吉野の里が今は古び、晩秋の夜には里の家で砧を打つ音だけが聞こえている、といった内容です。 ※
2013/06/04
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百人一首 93番歌 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも よのなかは つねにもかもな なきさこく あまのおふねの つなてかなしも 世の中はおだやかであってほしいものだなぁ。渚を漕ぐ漁師の小舟の引き綱を見ていると、なぜか切なくいとおしく思う。 作者:鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん) 源実朝 (みなもとのさねとも) 1192~1219 鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。兄頼家の死後、将軍となったが、実権は北条家にあった。右大臣就任の拝賀式が行われた鶴岡八幡宮で、兄、頼家の子公暁に暗殺された。これにより源氏将軍は断絶した。百人一首の撰者・藤原定家に和歌の指導を受ける一方で、万葉調の要素を取り入れた独自の和歌を完成させた。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集『金槐和歌集』がある。 わずか12歳で征夷大将軍に就くが、28歳の若さで暗殺された。柿本人麻呂と並び称される天才肌の歌人といわれている。※
2013/06/03
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百人一首 92番歌 わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし わかそては しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし 私の袖は、干潮の時にも海に隠れて見えない沖の石のように、人は知らないだろうが、涙に濡れて乾く間もない。 作者: 二条院讃岐(にじょういんのさぬき) 生没年不詳:1141~1217年 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。はじめ二条天皇に仕えた後、藤原重頼と結婚。その後、後鳥羽天皇の中宮任子に仕えた。晩年は出家しました。 この和歌は「石に寄する恋」という題目で詠まれた「題詠」の歌です。 今回の歌は和泉式部の「 わが袖は 水の下なる石なれや 人に知られで かわく間もなし 」を「本歌取り」した歌と言われています。並べて比べてみましょうか。わが袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし 二条院讃岐 わが袖は 水の下なる石なれや 人に知られで かわく間もなし 和泉式部※
2013/06/02
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百人一首 90番歌 見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず みせはやな をしまのあまの そてたにも ぬれにそぬれし いろはかはらす 血の涙を流して、その私の涙を拭いた袖をあなたにお見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえ、波をかぶり濡れに濡れたにもかかわらず、色は変わらないのですよ。 作者:殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) (1130年頃 -1200年頃)。平安末期の歌人。女房三十六歌仙の一人。藤原信成の娘。後白河天皇の第1皇女殷富門院亮子内親王に仕えた。1192年に殷富門院に従って出家し、尼となっています。 この歌は「本歌取り」の歌です。源重之(百人一首48番)が詠んだ 「 松島や 雄島の磯にあさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか 」本歌取りは、和歌の技法のひとつで、昔の有名な歌の一部を引用してアレンジして歌を作るものです。 本歌取りは、百人一首の撰者、藤原定家の時代に流行ったものです。 本歌である重之の歌は「松島の雄島の漁師の袖くらいだろう、私の袖のように濡れているのは」と辛い恋の涙を詠っています。殷富門院大輔は、「私の袖を見せたいもの。涙も枯れ血の涙が流れ、袖の色が変わってしまったのです。松島の雄島の漁師の袖はこうはならなかったでしょう」と重之に返した歌でした。 重之と時代を超えて恋問答を展開したわけです。 ※
2013/05/31
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百人一首 89番歌玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする たまのをよ たえなはたえね なからへは しのふることの よはりもそする 我が命よ、絶えるならば、絶えてしまえ。このまま生きながらえれば、(恋心を表さないように)堪え忍ぶ心が弱ってしまうと困るから。 作者:式子内親王(しょくしないしんのう) 1149年~1201 平安末期・鎌倉初期の歌人。後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院をつとめた後に出家。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。 この歌は新古今集の詠題に、「忍ぶ恋」という題で詠まれた歌です。百人一首を代表する忍ぶ恋歌と言えるでしょう。「死んでもかまわないから、忍ぶ恋を世間に知られたくない」と歌に詠んだということは、忍ぶ恋を世間に公表したようなものですね。約40年前に、♪死んでもお前を离しはしないそんな男の・・・森進一が歌った「女のためいき」のインパクトと相通ずるものがあるように思う。みかたを変えれば、百人一首の忍ぶ恋歌は、演歌の源流でもあったと言えるのかもしれません。 ※
2013/05/30
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百人一首 88番歌 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ 身を尽くしてや 恋ひわたるべき なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるへき 難波の入り江に生えている芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、(難波の遊女は)たった一夜の仮寝ために、身を尽くして(旅人を)生涯恋し続けなければならないのでしょうか。 作者:皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう) 生没年不詳。平安末期の歌人。源俊隆の娘。崇徳天皇の皇后、皇嘉門院聖子に仕えた。皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう:生没年不詳)は、平安時代末期の女流歌人。父は源俊隆。崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子(摂政藤原忠通の娘)に仕えた。皇嘉門院聖子が忠通の子で兼実の姉であることから、1175年(安元元年)の『右大臣兼実家歌合』や1178年(治承2年)の『右大臣家百首』など、兼実に関係する歌の場に歌を残している。1182年(養和元年)皇嘉門院聖子が没したときにはすでに出家していた。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。 この歌は旅先での一夜の契りを交わした男とのことが忘れられないという歌です。 難波の入り江に生える芦のひと節のように短くはかない逢瀬だったのに、忘れられない思い出になった男への恋心を歌にしたものです。忘れられないの♪あの人が好きよ。「恋の季節」 ピンキーとキラーズ が歌った歌謡曲ですが時代が変わっても同じですね。12世紀の頃は、難波潟のあたりには遊女が多くいたようです。この歌はその遊女の立場に自分を置いて女のはかない恋心を歌ったようですね。一夜限りの「ゆきずりの恋」を歌に残しているわけです。今の時代でいえば瀬戸内寂聴さんはあたりだろうか。小説家であり、私小説として事の成り行きを書き記しているのだろうか。不倫は文化ですと言った俳優がいますが、不倫は文学ですと言いきれるのは小説家ですね。 ※
2013/05/29
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百人一首 87番歌 村雨の 露もまだ干ぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮 むらさめの つゆもまたひぬ まきのはに きりたちのほる あきのゆふくれ にわか雨が通り過ぎていった後の露もまだ乾いていない真木の葉に、霧が立ちのぼる秋の夕暮れ景色です。 作者:寂蓮法師(じゃくれんほうし) 平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長(ふじわらのさだなが) 1139~1202 藤原俊成の甥。はじめ俊成の養子であったが、俊成に実子定家がうまれたため、出家。『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待たず翌1202年(建仁2年)没した。 この歌は、にわか雨が降った秋の夕暮れの霧が立ちのぼる幻想的な景色を詠んだ一首です。 ※
2013/05/28
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百人一首 86番歌 嘆けとて 月やはものを 思はする かこちがほなる わが涙かな なけけとて つきやはものを おもはする かこちかほなる わかなみたかな 嘆けといって私に月が物思いをさせるのだろうか? いや、そうではないでしょう。にもかかわらず、まるで月のせいのように、こぼれる私の涙です。 作者: 西行法師(さいぎょうほうし) 西行。俗名は、佐藤義清(さとうのりきよ) 1118~1190 平安後期の歌人。北面の武士として鳥羽院に仕えた後に23歳の時に家庭と職を捨てて出家。京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ西行と号しました。日本各地を行脚しながら歌を詠み漂泊の歌人として知られます。新古今集には最多の94首が入撰。家集『山家集』。また彼の一生は「西行物語」に詳しく語られています。 月と花を好んで歌に詠み、恋歌が多いことで知られた 西行法師です。漂泊の歌人だけあって自由闊達な心で詠んだ歌が多く、現代人にも相通ずるものが感じられます。よく知られた歌に願わくば 花の下にて春死なむ その如月の望月(もちづき)のころ 時代が変わってもたいへん人気のある大歌人です。 「月前の恋」という題を与えられ詠んだ歌でした。月を眺めていると、やおら自然に涙が流れる。恋の悩みであるのに、まるで月が嘆けと言っているようです。月のせいにして、やおら流れる涙です。 昔から、月は物思いにふけらせ、悲しみにくれさせてしまう何かがあるようです。日本ではお月見という行事がある一方で、月を見ることは忌むべきことだとの考え方もありました。 西行は諸国を旅した人ですが、陸奥を旅した時に詠んだ歌に あはれいかに 草葉の露の こぼるらん 秋風立ちぬ 宮城野の原宮城野の原は、宮城県仙台市の仙台駅の東側にあたります。宮城野の原に行くのには奥羽街道を歩いて北に向かったことだろう。ということは我が家の近所を歩いたことが想定されます。こうしてみると俄然、西行法師も身近に感じますね。それからこの時代には旅籠と呼ばれる宿はあったのでしょうね。弁当は何を持参したのだろうか。水筒は竹筒を利用したのだろうかなど想像したらきりがないですね。それにしても当時の人は健脚だったのですね。 ※今日5月27日は百人一首の日、藤原定家が100首選定した日です。藤原定家の撰による「小倉百人一首」がまとまったのが、文暦2年 (1235年)の5月27日。ということで『百人一首の日 』と言うようです。1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まであり、柿本人麻呂、山部赤人、阿倍仲麻呂、小野小町、在原業平、紀貫之、紫式部、清少納言、西行法師らが名を連ねています。百首の歌のうち、恋の歌が43首、次いで秋の歌が17首、合わせて60首を占めます。編集者である藤原定家の好みで選ばれたわけですから定家の好みがよく現れていると言ってよいでしょう。但し、この時、藤原定家は74歳だったとのこと。百人一首は、鎌倉時代に編集されましたが、当時、人々にはまったく知られなかったそうです。14世紀の後半(室町時代の中期)になって、連歌師・宗祗(そうぎ)によって研究・紹介されて、歌よみの間でようやく読まれるようになったとのことです。藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。 男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 春の歌 6首 夏の歌 4首 秋の歌16首 冬の歌 6首 旅の歌 4首 月の歌13首 桜の歌 5首 梅の歌 1首 心変りの歌10首 恋の歌43首・片思いの歌 14首 ・情熱恋の歌 10首・忍ぶ恋の歌 9首・その他 10首 男歌人 79人 女歌人 21人
2013/05/27
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百人一首 85番歌 夜もすがら もの思ふころは 明けやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり よもすから ものおもふころは あけやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり (愛しいあなたを想い)夜通し、物思いにふけっているこの頃は、夜がなかなか明けないので、(あなただけではなく)寝室の隙間さえもがつれなくしているように感じるものだ。 作者:俊恵法師(しゅんえほうし) 俊恵 1113~没年不明 平安後期の歌人。源俊頼の子。経信の孫。東大寺の僧であったが、経歴の詳細は不明。「方丈記」の鴨長明の歌の師。僧坊の歌林苑で歌会を開催。平安後期歌壇の中心人物の一人。 俊恵法師の歌では思い悩むあまりに、恋の悩みが原因で不眠症になってしまったようです。御殿で見かけたあの人は、私の気持ちを知ってか知らずか、いっこうに優しくしてくれない。つれなく冷たいあの人、いったい私のこの想いはどうしたらいいものだろうかと歌っている。1000年もたち時代は変わっても、人の気持ちはさほど変わらないのだと教えられますね。 ※
2013/05/26
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百人一首 84番歌 長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき なからへは またこのころや しのはれむ うしとみしよそ いまはこひしき この先、もっと長く生きていれば、つらいと感じている今のことも懐かしく思い出されるのであろうか。つらいと思っていた昔の日々も、今では恋しく思い出されるのだから。 作者:藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん) 藤原清輔 1104~1177 平安後期の歌人・歌学者。顕輔の子。藤原俊成とならぶ平安後期歌壇の双璧。二条天皇の勅命により『続詞花集』を撰進したものの、天皇崩御により勅撰集とはならず。歌論書『奥義抄』『袋草紙』、家集『清輔朝臣集』などを著した。 この歌にはモデルがあると言われています。原典は中国の詩人・白楽天の詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」の「老色日上面 歓情日去心 今既不如昔 後当不如今」 この歌の諦めにも近い感覚は、実父との争いで疲れ切った心境を表していますね。選者の藤原定家がこの歌を選んだのは藤原清輔のおかれた環境をよくわかっていたからとも推察されます。藤原清輔は40代を過ぎてからは二条院に深く信頼されて、重用されました。歌に歌った通りに辛酸をなめた時代を懐かしく思い出せる日がきたということになったのでしょう。 ※
2013/05/25
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百人一首 83番歌 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかそなくなる 世の中なんて、どうにもならないものだ。思いつめて分け入った山の奥でさえ、鹿も悲しげに鳴いているように聞こえてくる。 作者: 皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり) 藤原俊成(ふじわらのとしなり) 1114~1204 平安末期・鎌倉初期の歌人・歌学者。百人一首の撰者、藤原定家の父。西行法師と並ぶ、平安末期最大の歌人です。後白河法皇の院宣により『千載集』を撰進。歌論書『古来風体抄』、家集『長秋詠藻』などを著し、幽玄の歌風を確立した。平安期の古今調から鎌倉期の新古今調への転換期において、歌壇の第一人者として指導的な立場にあった。 この歌は27歳の時に詠んだ「述懐百首」の中で鹿をテーマにしたものとあります。 この歌が詠まれたころは、西行法師をはじめ、藤原俊成と同年代の友人たちが次々と出家していました。藤原俊成も悩み、悩んでもどこへ行こうと悩みはつきない、というこの歌を詠んだと推察されます。 ※
2013/05/24
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百人一首 82番歌 思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり おもひわひ さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみたなりけり 作者:道因法師(どういんほうし) 藤原敦頼 (ふじわらのあつより)1090~1182年。平安後期の歌人。80歳を過ぎてから出家しました。晩年は比叡山に住みましたが、歌道に志が深く、たいへん執着していた。七、八十歳の老年になってまでも「私にどうぞ秀歌を詠ませてください」と祈るために、歌神として信仰されていた大坂の住吉大社までわざわざ徒歩で、毎月参詣していたという。実際の歌会のときも、とくに講師の席の近くに座って、歌の講評をひと言も聞き漏らすまいとするような態度で耳を傾けていた。うまくいかない恋に思い悩んでも、それでも命はあるものなのに、つらさに耐えきれずに流れ落ちてくるのは涙でありました。この歌は百人一首の堪える恋を歌った代表的なものといわれています。一方、生きてきた「命」と、堪えてきた心の象徴である「涙」とを対比させたこの歌は、恋を歌っているようにみえて長生きしてきた人生を述懐する、深い歌だといえるかもしれません。 ※
2013/05/23
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百人一首 81番歌 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる ほとときす なきつるかたを なかむれは たたありあけの つきそのこれる 作者:後徳大寺左大臣 (ごとくだいじのさだいじん) 藤原実定(ふじわらのさねさだ) 1139~1191 平安後期の公卿・歌人。右大臣公能(きんよし)の子。定家の従兄弟。漢詩・今様・管弦などに優れていた。 ほととぎすが鳴いている方に目をやると、そこにはもうほととぎすの姿はなく、ただ有明の月が残っているだけであった。 「暁聞郭公(ほととぎすをあかつきにきく)」という題で呼ばれた歌です。 平安の貴族は、夏のはじめに飛来するホトトギスを、夏の訪れを象徴する鳥として春を知らせるウグイスと同じように捉えていたようです。ホトトギスの季節がくると第一声である初音を聴くのは非常に典雅な遊びだったようです。山鳥の中で朝一番に鳴くといわれるホトトギスの声を聞こうと、徹夜して待つこともあったようです。 ※
2013/05/22
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百人一首 80番歌ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ なかからむ こころもしらす くろかみの みたれてけさは ものをこそおもへ 作者:待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ) 生没年不詳。平安後期の歌人。女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人。源顕仲の娘。待賢門院に仕えた。 あなたが末長く心変わりしないといわれますが本心をはかりかねます。お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心も乱れ、もの思いにふけるばかりです。 この歌の出典は崇徳院の命で作られた「久安百首」にあるものです。久安百首は、テーマごとに歌を詠み、合計で百首にするというものでした。この歌は、男が届けてきた後朝(きぬぎぬ)の歌に対する返歌です。平安時代は男性が女性の家に行き一晩を明かすという慣習がありました。「後朝」というのは男女が一晩を明かした翌朝で、後朝の歌とは男が帰った後で女の許へ、歌を詠んで贈るという雅な慣習です。その歌に対して女性から返ってきたのがこの一首というわけでした。今の世であれば、別れたあとで携帯メールでやりとりをするようなものでしょうか。しかしその内容ですが歌を詠める教養と余裕が持てるだろうか。思うに平安貴族は、雅な教養を身に着けて生きていたのですね。 ※
2013/05/21
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百人一首 79番歌 秋風に たなびく雲の たえ間より 漏れ出づる月の 影のさやけさ あきかせに たなひくくもの たえまより もれいつるつきの かけのさやけさ 作者:左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ) 藤原顕輔 1090~1155 平安後期の歌人。清輔の父。崇徳院の院宣による勅撰集『詞花和歌集』の撰者。 秋風のためにたなびいている雲の切れ間から、洩れてくる月の光の何と美しいことか。この歌は久安6年に崇徳院に捧げられた百首歌「久安百首」で披露されたものだそうです。百人一首の77番歌の崇徳院の歌も久安百首からの引用です。「月の影のさやけさ」がポイント。名月を眺める観月会では、月の美しさを競って詠んだものでしょう。夜は当時、電気がないわけですから夜の明かりといえば月明かりが夜空に輝くくらいだったでしょう。テレビもラジオもないわけですから月を眺めて歌を詠むことくらいだったのだろうか。とはいえ、万葉集に当地、郡山に住む采女が詠んだ歌、「 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに 」万葉集に残る歌が伝えられた。京よりはるか離れた郡山でも歌を詠む教養のあった人たちがいた証拠が残っていたのがいいですね。人間の脳細胞や感性はにわかに進化したとは思えない。確かに電気や車など道具は進歩したであろうが目の機能、耳の機能、感受性機能は、そんなに変化があったとは思えない。万葉集、安積山の歌は、原文は漢字だけ書かれていたわけです。 原文:阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己ー呂乎和可於母波奈久尓訓読:あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思わなくに木簡に書かれた1300年前の文字は、一音に一漢字を当てて書かれていました。歌を詠むのが教養であった日本の文化現代にシンガーソングライターがいますが、日本には1300年前に歌を詠んで楽しんでいた人たちがいたのです。 ※
2013/05/20
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百人一首 78番歌 淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守 あはちしま かよふちとりの なくこゑに いくよねさめぬ すまのせきもり 作者:源兼昌(みなもとのかねまさ) 平安時代中期から後期にかけての歌人・官人。宇多源氏の系統で、美濃介・源俊輔の子。子に昌快、前斎院尾張がいる。官位は従五位下・皇后宮少進。淡路島との間を飛び交う千鳥の鳴き声に、幾夜目を覚ましたことであろう、須磨の関守は。荒涼とした須磨で、海の向こうの淡路島から千鳥が渡ってくる。千鳥の鳴き声に、須磨の関守は眠りをじゃまされ目覚めてしまう、ラジオやネットがない時代です。夜中に独りであることを実感したでしょう。※
2013/05/19
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百人一首 77番歌瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ せをはやみ いわにせかるる たきかはの われてもすゑに あはむとそおもふ 作者:崇徳院(すとくいん) 崇徳天皇 1119~1164 在位1123~1142 第75代天皇。名は顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第1皇子。5才で天皇の位を譲り受けたものの、22才の時、鳥羽上皇の命で異母弟の近衛天皇に譲位。近衛天皇崩御の後に即位した同母弟の後白河天皇と、どちらの皇子を立てるかで対立して保元の乱となり、争い敗れて讃岐に配流され、同地で崩御。 滝川の川瀬の流れが速いので、岩にせき止められる急流が、2又に分かれるが、また再び合流するように、愛しいあの人と今は別れていても、いつかは必ずや再会できるであろうと思ふ。この歌は、崇徳院が1150年に藤原俊成(定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。「別れてもまた必ず逢おう」という気持ちが込められた、燃える情熱と、決意が込められた歌です。 崇徳院は保元の乱に破れて讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流されそこで一生を終えたということです。※
2013/05/18
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百人一首 76番歌わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波 わたのはら こきいててみれは ひさかたの くもゐにまかふ おきつしらなみ 作者:法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん) 藤原忠通 (ふじわらのただみち) 1097~1164 平安後期の公卿・歌人。摂政関白藤原忠実の長男。慈円の父。藤原氏の氏長者として摂政・関白・太政大臣となる。一度は氏長者の地位を弟頼長に奪われたが、保元の乱で頼長を倒して回復した。書にも優れ、法性寺流を開いた。晩年には出家して、「法性寺殿」と呼ばれました。 大海原に漕ぎ出して見渡すと、雲かと見まちがうぐらい沖に白波が立っていた。詞書きには「海上の遠望」という題で、崇徳天皇の御前で詠んだ歌であることが示されています。 大海原に舟で漕ぎ出していくと、水平線のかなたにある青い空に白い雲が浮かんでいる。さらに真っ青な海原には、風が強く白波が立ち、雲とかと思うような白波が立っていた。 ※
2013/05/17
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百人一首 75番歌契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり ちきりおきし させもかつゆを いのちにて あはれことしの あきもいぬめり 作者: 藤原基俊(ふじわらのもととし) 1060~1142 平安後期の歌人。藤原氏の主流である名家、藤原道長の曾孫で右大臣俊家の子。万葉集の次点(訓点)をつけた一人。藤原定家の父俊成に古今伝授を行った。保守派歌壇の代表的人物で、革新派の74番歌、源俊頼と対立。人望がなかったため、学識・家柄の割に官位は上がらず、従五位上左衛門佐にとどまり、1138年に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。 お約束くださいましたお言葉を、よもぎの葉に浮かんだ恵みの露のように、ありがたい言葉を期待しておりましたのに、なんともまあ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。この歌の作者の藤原基俊の息子は、奈良の興福寺のお坊さん光覚でした。興福寺では10月10日~16日まで維摩経を教える維摩講が行われます。この講師に光覚を推薦、前の太政大臣・藤原忠通に再三頼んでいました。 再三の親の頼みに藤原忠通は、「私に任せなさい」と答えたと言われます。古今集にある清水観音の歌に 「なほ頼め しめぢが原の さしも草 われ世の中に あらむ限りは」(私を頼りなさい。しめじが原のヨモギのように思い悩んだとしても)というものがあり、「大丈夫だ、私に任せておけ」との意味ですが、その年も息子・光覚は講師に選ばれませんでした。 だからその恨みをこめ、作者は「約束したのに、ああ、今年の秋も過ぎていくのか」と嘆いてみたのです。ただ言葉だけで頼んだとは思われません。贈り物である賄賂が少なかったのだろうか、とはいえ歌に詠んでまで公表したのだろうか。あるいは私信としてやりとりしたのが記録として残っていたのだろうか。※
2013/05/16
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百人一首を1日1首づつ考察してみようと思って始めたものです。きっかけは。たまたまカーラジオから聞こえてきた百人一首同好会の話からでした。百人一首 74番歌憂かりける人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はけしかれとは いのらぬものを 作者: 源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん) 源俊頼 1055~1129 平安後期の歌人。71番歌の大納言経信(つねのぶ)の三男。俊恵の父。白河法皇の院宣による勅撰集『金葉和歌集』の撰者。斬新な表現や技巧を凝らした作風で歌壇の革新的存在となり、保守派を代表する藤原基俊と対立した。だが藤原定家は絶賛。後世まで大きな影響を与えた。私の愛に応えてくれず、私を想ってくれるようにと初瀬の観音様に祈ったのに。初瀬の山おろしよ、お前のように、「より冷淡になれ」とは祈らなかったのになぁ~と嘆いたりぼやいたりでした。この歌は「千載集」の詞書によると、藤原定家の祖父、藤原俊忠の屋敷にて「祈れども逢わざる恋」という題で詠まれた内の一首です。恋仲になりたいと願うが思いが叶わないので、大和国の初瀬の長谷寺に祈ったものの、叶わないどころかますます冷たくなるばかり。「初瀬の山から吹き下ろす山おろしみたいに、より厳しくなれなどと祈らなかったのに!」と嘆き節の歌になってしまいました。平安時代には、観音様信仰が広まり、観音様は、等しく救いの手をさしのべると信じられておりました。大和国(奈良県櫻井市)の長谷寺と、京都の清水寺は霊験あらたかな名刹として知られておりました。※
2013/05/15
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百人一首 73番歌高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山のかすみ 立たずもあらなむ たかさこの をのへのさくら さきにけり とやまのかすみ たたすもあらなむ 作者:権中納言匡房 (ごんちゅうなごんまさふさ) 大江匡房(おおえのまさふさ) 1041~1111 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。平安時代を代表する学識者で菅原道真と比較されました。後三条天皇に登用され、摂関家にはばかることなく政治改革を推進した。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。遠くの山の峰の頂の桜が美しく咲いた。美しい桜がかすんでしまわないように、人里近い山の霞よ、立たないでほしい。詞書(ことばがき)によると、この歌は、内大臣・藤原師通の家で花の宴が営まれた時に、「遙かに山桜を望む」という題が与えられて詠んだ歌だという記録が残っています。 技巧を凝らさずに、実直に素直に美しい遠景の桜を詠んでいますね。 ※藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。 男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 春の歌 6首 夏の歌 4首 秋の歌16首 冬の歌 6首 旅の歌 4首 月の歌13首 桜の歌 5首 梅の歌 1首 心変りの歌10首 恋の歌43首・片思いの歌 14首 ・情熱恋の歌 10首・忍ぶ恋の歌 9首・その他 10首 男歌人 79人 女歌人 21人
2013/05/14
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百人一首 72番歌音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ おとにきく たかしのはまの あたなみは かけしやそての ぬれもこそすれ 作者:祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい) 生没年不詳。平安後期の歌人。11世紀後半。平経方(たいらのつねかた)の娘で紀伊守・藤原重経の妹か。母親は後朱雀天皇の第一皇女・祐子内親王に仕えた小弁(こべん)で、紀伊自らも祐子内親王家に仕えました。噂に名高い高師の浜に立つ波は、ひっかけないように気をつけましょう。袖を濡らすと困ちゃうから。 (噂に名高い浮気性のあなたの言葉になんか耳を傾けませんよ。袖にされ涙で濡らすことになるのは嫌だもん)詞書では、この歌は1102年に催された「堀川院艶書合(けそうぶみあわせ)」で詠まれたと記録にあります。「艶書合」というのは、貴族たちが恋の歌を女性に贈り、それを受けた女性が返歌をするという趣向の歌会です。 70歳の紀伊に贈られた歌は29歳の藤原俊忠の歌だったのです。 「人知れぬ 思いありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ」(私は人知れずあなたを思っています。荒磯(ありそ)の浦風に波が寄せるように、夜にあなたに話したいのですが) これに答えたのが、紀伊の歌でした。 29歳の藤原俊忠が70歳の紀伊に恋歌を贈るというのは俊忠は人並み外れた大年増好みだったということではないでしょう。歌遊びの世界であったのだと思われます。紀伊の若かりしころの心に火を灯そうとしたのか、紀伊の粋な返歌に参加者も盛り上がったかもしれません。いなせな歌で場を盛りあげることができるのも才があってできること。平安の時代にも粋ないなせな人たちがいたのですね。※
2013/05/13
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百人一首 71番歌夕されば 門田の稲葉 訪れて 蘆のまろ屋に 秋風ぞ吹く ゆうされは かとたのいなは おとつれて あしのまろやに あきかせそふく 作者:大納言経信(だいなごんつねのぶ) 源 経信(みなもとのつねのぶ) 1016~1097 平安後期の公卿・歌人。民部卿・源道方(みちかた)の息子。俊頼の父。三船(詩・歌・管弦)が得意だった。官位は正二位・大納言。夕方になると、家の門前の田の稲の葉が音を立てて、蘆葺きの山荘に秋風が吹きわたってきました。この歌は大納言経信が所有する山荘に貴族らが招かれた折りに時におこなわれた歌会で披露されたものです。あらかじめ「田家の秋風」というテーマがあり、それにのっとって歌が詠み競われたわけです。稲穂がゆれる光景は瑞穂の国に住むわれわれにとっては実にほっとする豊かな景色ですね。平安時代も現代も共通する景色でしょう。※
2013/05/12
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百人一首 70番歌 寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮れ さひしさに やとをたちいてて なかむれは いつくもおなし あきのゆふくれ 作者:良暹法師(りょうぜんほうし) 良暹。平安中期の歌人。比叡山(天台宗)の僧で祇園別当。その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれている。康平年間(1058年 - 1065年)に65歳ぐらいで没したともいわれている。あまりのさびしさに家から出てあたりをながめると、どこも同じで寂しい秋の夕暮れだった。年老いて仲間が大勢いた比叡山から里に降りて独り庵に住むと、当時テレビ、ラジオがあるわけでなし、あまりの淋しさに表に出てみたのだろう。夕餉の飯を炊くかまどの煙はたなびいていなかったのだろうか。自分の心情が見える景色さえも寂しく感じたのであろう。結びの言葉の「秋の夕暮れ」は新古今和歌集(藤原定家が編者)の時代には、一種の流りになっていたそうです。新古今集の美学であった幽玄の世界、叙情的な景色を表す言葉だったのでしょう。ここには淋しさをも、枯れゆく寂寥感を美しいとする日本独特の美学としてきた原点があります。 ※藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。 男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 春の歌 6首 夏の歌 4首 秋の歌16首 冬の歌 6首 旅の歌 4首 月の歌13首 桜の歌 5首 梅の歌 1首 心変りの歌10首 恋の歌43首・片思いの歌 14首 ・情熱恋の歌 10首・忍ぶ恋の歌 9首・その他 10首 男歌人 79人 女歌人 21人
2013/05/11
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百人一首 69番歌 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり あらしふく みむろのやまの もみちはは たつたのかはの にしきなりけり 作者:能因法師(のういんほうし) 橘永やす(たちばなのながやす) 988~? 平安中期の歌人。肥後守橘元(もとやす)の息子。橘諸兄の後裔。藤原長能に和歌を学ぶ。文章生となった後に出家。26歳の時に出家します。摂津国古曾部(大阪府高槻市)で生まれ、東北や中国地方、四国など各地の歌枕を旅して歩いた漂泊の歌人でもあります。 嵐が吹いて三室山の紅葉は、竜田川の水面に落ちて、川面を錦織りなす流れにしたのだった。 もともとこの歌は、1049(永承4)年の11月に後冷泉天皇が開いた内裏歌合せの中で、藤原祐家の「散りまがふ 嵐の山のもみぢ葉は ふもとの里の秋にざりける」という歌と競って勝った歌です。山と川を錦織りなすゴージャスな紅葉で彩るまことに華やかな歌で勝利したようです。能因法師は文章生、今で言う国立大学で学問を研究する学者であったわけですが、何を思ったのか26歳ので出家、諸国を歌を詠みながら旅する漂泊の歌人となりました。※■小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。 蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。 定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。 小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。 成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。 後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
2013/05/10
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百人一首 68番歌 心にも あらで憂き夜に 長らへば 恋しかるべき 夜半の月かな こころにも あらてうきよに なからへは こひしかるへき よはのつきかな 作者:三条院(さんじょういん) 三条天皇。976~1017 在位1011~1016 第67代天皇。冷泉天皇の第二皇子。多病と藤原道長の専横により、後一条天皇に譲位。享年42。 心ならずも、はかなくもありつらいこの世に生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出すにちがいない、この夜更けの月を。 後拾遺集の詞書によると、この歌は三条天皇が眼病で失明寸前、藤原道長によって皇位を奪われた前年に詠まれた歌ということです。病気とストレスで生きていることの辛さ理不尽を詠んだ歌です。三条院は「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」と歌うほど絶大な権力を誇った藤原道長に、目を患ったことを理由されて退位を迫られてた。道長は先帝一条天皇と自分の娘との間にできた子供を次の天皇に即位させて、摂政として政治権力を握りたかったわけです。三条院は退位を決意して、その時に詠まれた歌ということです。※
2013/05/09
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百人一首 67番歌 もろともに あはれと思え 山桜 花よりほかに 知る人もなし もろともに あはれとおもへ やまさくら はなよりほかに しるひともなし 作者:前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん) 1055~1135 平安後期の僧、歌人。父は参議源基平。天台座主、大僧正。山桜よ、私がお前を見て愛しく思うように思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ。この山奥には私にはお前以外に知人はいないのだから。この歌は「金葉集」の詞書によると、大峰(現在の奈良県吉野郡の大峰山)で修行中に山桜が目に留まり詠んだ歌だそうです。厳しい修行中に目のとまった山桜に行尊の心はほのぼのとしたものを感じたのだろう。つい、桜に語りかけてしまったのだろう。「一緒にともども愛しいと感じておくれ、山桜。お前の他に私の心をくんでくれるものはここにはいないのだから」と寂寥感をわかちあっています。すがすがしい歌ですが、それは毎日の厳しい修行の中で行尊が感じえたことだったのかもしれません。※
2013/05/08
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百人一首 66番歌 もろともに あはれと思え 山桜 花よりほかに 知る人もなし もろともに あはれとおもへ やまさくら はなよりほかに しるひともなし 作者:前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん) 1055~1135 平安後期の僧、歌人。父は参議源基平。天台座主、大僧正。山桜よ、私がお前を見て愛しく思うように思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ。この山奥には私にはお前以外に知人はいないのだから。おそらくこの季節に詠まれた歌であろう。いまちょうど山桜が咲いているだろう。この歌は「金葉集」の詞書によると、大峰(現在の奈良県吉野郡の大峰山)で修行中に山桜が目に留まり詠んだ歌だそうです。厳しい修行中に目のとまった山桜に、行尊の心はほのぼのとしたものを感じたのだろう。つい、桜に語りかけてしまったのだろう。「一緒にともども愛しいと感じておくれ、山桜。お前の他に私の心をくんでくれるものはここにはいないのだから」と寂寥感をわかちあっています。すがすがしい歌ですが、それは毎日の厳しい修行の中で行尊が感じえたことだったのかもしれません。※
2013/05/07
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百人一首 65番歌 恨みわび 干さぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ うらみわひ ほさぬそてたに あるものを こひにくちなむ なこそをしけれ 作者:相模(さがみ) 生没年不詳:998年(長徳4年)頃 - 1061年(康平4年)以降か 平安中期の歌人。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 相模守大江公資(きんより)の妻。公資と離婚後、多数の男性と関係を持って評判となった。 恨みぬいて、ついには恨む気力すらなくなり、涙に濡れた袖が乾くひまもありません。そんな涙で朽ちそうな袖さえ惜しいのに、さらにこの恋の浮名で悪い噂を立てられて朽ちてしまうであろう私の評判がなおさら惜しいのです。百人一首の撰者・藤原定家は相模の恋歌が好きで、定家撰の歌集には彼女の歌が多く採用されています。相模守の大江公資の妻となり任国相模へ夫と一緒に行ったので、相模と呼ばれるようになりました。歌論集「八雲御抄」では赤染衛門、紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。しかし実生活では悩みが多く、大江公資と別れた後、権中納言藤原定頼や源資道と恋愛しましたが上手くいきませんでした。一条天皇の第一皇女、脩子内親王の女房となり、歌人としての評価を固めました。※
2013/05/06
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百人一首 64番歌 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 あさほらけ うちのかはきり たえたえに あらはれわたる せせのあしろき 作者:権中納言定頼 ( ごんちゅうなごんさだより ) 藤原定頼(ふじわらのさだより) 995~1045 平安中期の公家・歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原公任の長男。書や管弦が上手い趣味人で容姿端麗で社交的な反面、小式部内侍をからかった時に即興の歌で言い負かされてそそくさと逃げ帰るなど軽率なところがあった。 朝がほのぼのと明けるころ、宇治川の川面に立ちこめていた川霧がところどころだんだん晴れていって、その合間から現れてきた川瀬に打ち込まれた網代木よ。百人一首は恋の歌が多い中に選ばれた宇治川の景色を詠んだ抒情詩のような歌です。※
2013/05/05
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百人一首 63番歌 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな いまはたた おもひたえなむ とはかりを ひとつてならて いふよしもかな 作者:左京大夫道雅(さきょうのだいぶまちまさ) 藤原道雅(ふじわらのみちまさ)993~1054 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原伊周の長男。一条天皇皇后定子の甥にあたる。関白道隆・儀同三司母の孫。父伊周の失脚に加え、当子内親王との密通事件などの悪行によって、家柄に比べて職位ともに低くとどまった。 今となっては、恋愛を禁じられて監視されているいるあなたへの想いをあきらめてしまおうということだけを、人づてにではなく直接逢ってお話しする方法があればいいのだが。この歌は実話で、この歌の作者・藤原道雅と三条院の皇女・当子(とうし)内親王との秘密の恋のエピソードが残されています。後拾遺集の詞書には「伊勢の斎宮(さいぐう/いつきのみや)わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守り女(め)など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、詠み侍りける」とあります。 時の三条院(三条天皇)の皇女・当子は伊勢神宮の斎宮の任を終えて、都に戻りました。その当子の元へ藤原道雅がひそかに通うようになります。皇女・当子は15歳ほど、藤原道雅は24歳くらいでした。やがてその噂は父・三条院の耳に届き、院は激怒。当子に見張りの女房を付けて、道雅と逢わせないようにしました。そこで恋愛を禁じられ悲しんだ道雅が詠んだ歌がこれです。 ※
2013/05/04
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百人一首 62番歌 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあふさかの せきはゆるさし 作者:清少納言(せいしょうなごん) 清少納言(せいしょうなごん、康保3年頃(966年頃) - 万寿2年頃(1025年頃)は、平安中期の作家・歌人。百人一首36番の清原深養父(きよはらのふかやぶ)のひ孫。42番の清原元輔の娘。学者の家に生まれ、子供の頃から天才ぶりを発揮した。橘則光(たちばなののりみつ)との離婚後、一条天皇の皇后定子(ていし)に仕えました。随筆「枕草子」の作者。平安時代を代表する女流文学者。 夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、中国の函谷関(かんこくかん)の故事ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。ある夜、清少納言のもとへおとずれた大納言・藤原行成(ゆきなり)は、しばらく話をしていましたが、「宮中に物忌みがあるから」との理由を云って早々とお帰りになりました。翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の手紙をよこした行成に、清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」と答えています。※後拾遺集の詞書及び枕草子(第136段『頭の弁の、職にまゐり給ひて…』)によると、清少納言と深夜まで語り合った藤原行成が、翌日に行われる宮中の物忌みを理由に、男女の関係を持つことなく帰ってしまった。翌朝、行成は「鳥の声にせかされて帰った」と手紙にしたためてきたので、清少納言は、「鳥とは、函谷関の鶏、即ち、嘘の言い訳でしょうと言い返した。これに対し、行成は、函谷関ではなく、逢坂の関、即ち、あなたとは男と女の関係ですよと反論した。そこで、清少納言は、この歌によって、自分に逢うことは決して許さないという意思を表し、行成をやりこめたわけです。ところが、その後に、行成は、又やりかえした。逢坂の関は、誰でも簡単に通れる関ではないか、つまり、清少納言は、どんな男でも相手にしているではないかという内容の歌を詠んだ。和歌でもって恋心のやりとりすることもあれば、ひょんなことからこのような中傷合戦になってしまうこともあったようです。
2013/05/03
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百人一首 61番歌 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな いにしへの ならのみやこの やへさくら けふここのへに にほひぬるかな 作者:伊勢大輔(いせのたいふ) 永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃? 平安時代中期の女流歌人。伊勢の祭主大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘。能宣の孫。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中宮彰子に仕えた。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 昔の奈良の都の八重桜が(献上されてきて)、今日、京都の宮中に一層美しく咲きほこっていることですよ。『百人一首』にも採られて有名な「いにしへの」の歌は、奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、紫式部が勤める予定のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院をはじめとする人々の賞賛を受けたものである.※
2013/05/02
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百人一首 60番歌 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立 おほえやま いくののみちの とほけれは またふみもみす あまのはしたて 作者:小式部内侍(こしきぶのないし) 長保元年(999年)頃 - 万寿2年(1025年)は平安時代の女流歌人。掌侍。女房三十六歌仙の一人。橘道貞と和泉式部の娘。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。年少の頃から歌の才能を現したが、20代で早世。大江山を山越えして生野を通って行く道は遠すぎて、まだ天の橋立に行ったこともなければ、母からの手紙も見ていません。 小式部内侍は和泉式部の娘。天才的な歌をつくるので母の和泉式部の代作だろうと思われていた。ある歌会のおりに藤原定頼が、今日は母親がいないが大丈夫なのかと言われたのでこの歌を即興で詠んだわけです。これで小式部内侍の代作疑惑が晴れたということです。「天の橋立」は、日本三景のひとつに数えられる名勝です。※
2013/05/01
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百人一首 59番歌 やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな やすらはで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな 作者:赤染衛門(あかぞめえもん)天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人。大隅守・赤染時用(あかぞめときもち)の娘。実父は、母の前夫平兼盛か。大江匡衡(まさひら)の妻。匡房の曾祖母。中宮彰子に仕えた。『栄花物語』の作者という説も。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。 はじめからいらっしゃらないことがわかっていたならば、ちゅうちょせずに寝てしまったでしょうに。いつくるのかとお待ちするうちに夜も更けてしまい、月が西に傾くまで見てしまいましたよ。この時代は携帯電話なんて便利なものはない時代ですから、すぐに連絡はとれないわけです。ただひたすらに待つだけであります。ですからこんな歌ができるわけです。※
2013/04/30
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百人一首 58番歌有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする ありまやま ゐなのささはら かぜふけば いでそよひとを わすれやはする 作者:大弐三位(だいにのさんみ)藤原賢子(ふじわらのかたこ) 長保元年(999年)頃 -永保2年(1082年)頃)は、平安中期の女流歌人。女房三十六歌仙の一人。藤原宣孝と紫式部の娘。大宰大弐高階成章の妻。後冷泉天皇の乳母。 有馬山、猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てる。あなたは、私が心変わりしたのではと気がかりだとおっしゃいますが、どうして私があなたのことを忘れたりするものですか。詞書には「離れ離れなる男の「おぼつかなく」など言ひたりけるに詠める」とあり、しばらく音沙汰なかった男から「あなたが心変わりしていないかと思って」と手紙を送りつけてきたので、「白々しくも、よく言えたものですねぇ」ととって返した歌というわけです「有馬山」と「猪名」はともに歌枕。「有馬山」は兵庫県六甲山脈の一つです。「猪名」は兵庫県南東部にある猪名川の両岸に広がる平原で一面の笹原でおうわれていたようです。※
2013/04/29
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百人一首 57番歌 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よはのつきかな 作者:紫式部(むらさきしきぶ)970年代~1010年代 平安中期の女性作家、歌人。屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。『源氏物語』、『紫式部日記』の作者。幼少期から文学的才覚を現し、一条天皇の中宮彰子に仕え、その傍ら『源氏物語』五十四帖や「紫式部日記」を執筆した。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。ほんとうに久しぶりにお逢いできたのに、雲隠れしてしまった夜中の月のように、あっというまにあわただしく帰ってしまわれましたね。「新古今集」には、幼友達と久しぶりに逢ったのだが、ほんのわずかの時間しかとれず、月と競うように帰ってしまったと詠んだ。積もる話をあれこれとしたかったのでしょうね。紫式部は20代の半ばに、父であった藤原為時が越前の国(福井県)に赴任したので、地方で暮らしました。しかし1年ほどで都に戻っています。現代と違って越前は都から遠く離れた地域であったでしょう。田舎暮らしから帰っての再会だったのでは時間が短くも感じたでしょうね。才女の誉れ高い逸話として幼い頃、紫式部の兄が読んでいた「史記」(中国の歴史書)をそばで聞いていてたちまち覚えてしまい、兄の間違いまでも指摘してしまったほどだと伝えられています。※
2013/04/28
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百人一首 56番歌 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな 作者:和泉式部(いずみしきぶ) 生没年不詳。平安中期の歌人。越前守・大江雅致(まさむね)の娘。和泉守橘道貞の妻。小式部内侍の母。『和泉式部日記』の作者。不貞により離縁され、父からも勘当された後、藤原保昌と再婚したが、不遇のうちに生涯を終えたとされる。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 私の命は、もうそんなに長くはないでしょう。あの世への思い出に、今もう一度だけあなたにお会いして抱いてもらいたいものです。和泉式部は恋愛遍歴が多く、平安日記文学の代表である「和泉式部日記」に、多くの男性との恋愛を描いた。道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛された。敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。全国各地に伝承が残り、わが福島県にも石川郡石川町に、、、 この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13歳でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。※
2013/04/27
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百人一首 55番歌 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なほきこえけれ 作者:大納言公任(だいなごんきんとう) 藤原公任(ふじわらのきんとう) 966~1041 平安中期の歌人。藤原定頼の父。諸芸に優れ、『和漢朗詠集』、『拾遺抄』、『三十六人撰』を撰し、歌論書『新撰髄脳』、『和歌九品』、有職故実書『北山抄』、家集『公任集』などを著す。 滝の流れる音は聞こえなくなってからずいぶんたったが、その滝の評判だけは世間に流れて、今でも語り継がれているねぇ。評判は、語り伝えられてこそですね。現代のweb時代は瞬時に多くの人に情報が流れますが、果たして語り継がれるものが残るのだろうか。情報は消耗品になってしまったのか。この時代に語り継がれるものはを考えてみたい。多くの人が足を運ぶ福島市の花見山。写真家の秋山氏が桃源郷と例えた花の名所をつくりあげた。現代の花咲爺さん。1959年(昭和34年)4月、土地の所有者である阿部一郎氏が「花見山公園」と命名し、善意により無料開放を始めた。web時代だからこそ足を運ぶリアル体感が、、、情報はアクションへの入口ということですね。※
2013/04/26
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百人一首 54番歌忘れじの ゆく末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな わすれじの ゆくすゑまでは かたければ けふをかぎりの いのちともがな 作者:儀同三司母(ぎどうさんしのはは) 高階 貴子(たかしなの きし / たかこ、生年不詳 - 長徳2年(996年)10月没)は平安時代の女流歌人。女房三十六歌仙に数えられる。通称は高内侍(こうのないし)、または儀同三司母(ぎどうさんしのはは)。前者は女官名、後者は息子藤原伊周の官名(儀同三司)による。「忘れはしないよ」とおっしゃられても、ず~っと変わずにいることは難しいでしょう。「今が盛りゆえに今日を限りの命であってほしいもの」と私は思う。※
2013/04/25
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百人一首 53番歌嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る なげきつつ ひとりねるよの あくるまは いかにひさしき ものとかはしる 作者:右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは) 藤原道綱母 (ふじわらのみちつなのはは) ?~995 実名不明。平安中期の歌人。藤原倫寧の娘。藤原兼家の8人の妻の一人となり一子道綱を儲けた。『蜻蛉日記』の作者。 あなたが来てくださらない一人寝の夜明けまでの間は、どれほど長いものか想像できますでしょうか。想像できないでしょう。平安時代は男が女のもとに通う通い婚でした。女が年をとって男が通って来なくなれば、生活費もままならないということになります。ですから孤独は、生活そのものが切実なものになるとの解説も目に触れましたが、子供がいれば親の面倒をみてくれたのではないだろうか。藤原道綱母とあるわけですから、藤原道綱も検索してみましたら、右大将にまで出世したわけですからおそらく生活の心配などはなかったであろう。家系図を交え、夫の不倫を綴った苦悩の暴露本である藤原道綱母の「蜻蛉日記」からその心情と、現代の結婚観を比較する!「蜻蛉日記」は目にしたことはありませんでしたが、夫の不倫を綴った暴露本だったとは知りませんでした。現代社会ですと写真週刊誌のフォーカスや週刊誌が大衆に読まれるのと同じようなものであったろうか、時代は変わってもそのへんのことは変わらないということですね。百人一首の歌の内容をほんとんど知らずに一首づつ見てきましたら恋の歌が多いし、その内容たるや若い高校生大学生の百人一首の競技カルタをやっている方たちは、こういう歌に若くから接して深く学んでいたら、、、、雅な想像性豊かな教養が身に付くものだろうか。※
2013/04/24
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