子どもの頃のこと 0
全83件 (83件中 1-50件目)
猪苗代湖の水利権は、東京電力が持っています。十六橋水門管理はかつて郡山の安積疎水が行っていたのが、水門開閉の電化に伴い東電へ委託され、その後戦時中に国と県が東電に水利権を与えたというのが歴史的経緯です。猪苗代湖は県民の宝、郡山市民と会津地方にも重要な役割を果しています。今後地産地消型の地域の自然エネルギーを推進するためにも、今回の原発事故を契機に、東電へ水利権の返上を求めるべきと思いますが、県の見解をうかがいます。 県議会報告( 2012年6月定例県議会一般質問・6/26 神山悦子県議)現在東京電力は県に対して流水占用使用量というのをだいたい4億8千万円払っております。それから猪苗代湖および裏磐梯の3つの湖の兼用工作物の維持管理費の負担、これも約4千万円県に払っているわけです。そういう収入も失われてしまいます。そういう中で猪苗代湖に係る水力発電事業について、東京電力がなんか問題があったというような話は聞いてございません。そういう中で、東京電力に猪苗代湖の水利権を返上させる、そういうことは今現在まったく考えておりません。 (内堀知事が答えず、企画調整部長が答える)
2024/05/19
コメント(0)
大リーグ開幕日にビックリするニュースが流れた。大谷翔平選手の通訳であった水原一平氏はギャンブル依存症である事を公言。日本円換算で6億8千万円もの多額の掛金借金を大谷翔平選手の口座から無断で振込したとの事でドジャースから解雇された。ギャンブルの泥沼に嵌ってしまったとのことだ。大谷翔平の相棒・水原一平氏がギャンブルに手を染めた理由 「世界一有名な通訳」が抱えていた“葛藤”とはドーパミンと云う脳内の快楽物質が繰り返し出ると事の善悪判断まで狂わしてしまうようです。負けた金を取り戻す為にまた更なるギャンブル。たまに勝てることが有るから始末に負えないと云うことか。その辺の事情をよく知った胴元から、これはイイカモかと罠を仕掛けられたのかもしれません。いずれにしても、過度のドーパミン依存はヤバイということです。マラソンだってランナーズハイというドーパミンによって、走ることにのめり込んでゆくことがあると聞く。人によってそれぞれ各自の好適ドーパミン競技に違いがあるのだろうか。あるいは多かれ少なかれやり続けてゆくとやがては快を覚えるゾーンに突入してゆくということなのか。いずれにしても快適な気分高揚な瞬間、忘れ難い快楽ZONEということであろう。そこに負の遺産、落とし穴があるから問題なのである。
2024/04/30
コメント(0)
春日八郎・おもいで館を訪問してみて、ふと記念館について考えた。春日八郎氏が亡くなったのは1991年(平成3年)67歳没。上記の 春日八郎おもいで記念館は1995年6月にオープンした。没後ほどなく4年後のことだ。そして今年、没後33年経ち、生誕100周年にあたる。氏と同世代の人は殆んどが旅立ち、子どもの頃聴いた私たちの世代もあと20年も経ったら移動するのも難儀な歳になる。それまで存続できるだけの魅力・求心力があるだろうか。演歌の大御所と云われた人でも世の移り変わりの中で人気を博した流行歌です。果たして古典として歌われ続けてゆくものだろうか。「別れの一本杉」のヒット曲を作曲した船村徹はこの曲で広く知られるようになり作曲家として世に出るいわゆる出世作となった。、船村 徹 1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日)84歳没。作曲家、歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した。船村徹氏は亡くなる2年前に、船村徹記念館を建てている。2015年4月27日には栃木県日光市今市にある「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」に併設して、「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」がオープンした。同館は、鉄筋コンクリート3階建て、延べ約2800平方メートル。1階「夢劇場」では、船村の生い立ちや活躍を、最新の映像技術で紹介する。2階には「王将」「みだれ髪」「兄弟船」など船村の代表作が聴けるメロディーボックスや、歌手らと船村とのエピソードを映像化したシアターを設置。3階はレコードジャケットや交流のあった著名人らの手形などを展示するスペース、入場者が自分の歌う姿をDVDに収録できる「歌道場」と名付けたカラオケルームなどが設けられている。船村徹・記念館栃木県日光市今市719番地−1 (わが家から約125km)所在施設: 道の駅 日光 日光街道ニコニコ本陣記念館と云えば全国に知られた有名所では宮沢賢治記念館があります宮沢 賢治 1896年〈明治29年〉8月27日 - 1933年〈昭和8年〉9月21日)は、日本の詩人、童話作家。今年は生誕128周年、没後91年。昭和57年(1982年)に、ゆかりの地、花巻市胡四王山に開館した宮沢賢治記念館。多彩なジャンルに及ぶ宮沢賢治の世界との出会いの施設です。スクリーン映像や関係資料を5分野に分類、解説と作品に至る創作過程、これまでの研究成果などを展示紹介します。イーハトーブの世界を宮沢賢治記念館でぜひ感じとってください。 宮沢賢治記念館が開館した1982年は、没後49年、生誕86年。どれだけ知名度が有り続けるか、歴史的な評価など加味されるか、そこに魅力が有るならば人は足を運ぶことになるでしょうね。観光名所ともなれば人の波は絶えないでしょうが、人々の記憶から忘れさられれば寂れてゆくのも世の常というものでしょう。今年2024年1月末に閉館した相田みつを美術館。千代田区丸の内、東京国際フォーラム内、新橋駅のすぐ前で一等地のわかりやすい場所でした。著書「にんげんだもの」他相田 みつを 1924年(大正13年)5月20日 - 1991年(平成3年)12月17日)67歳没。詩人、書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人、いのちの詩人と称された。没後5年の1996年に東京・銀座に相田みつを美術館が開館し、その後、東京国際フォーラムに移転した。没後33年で美術館をいったん閉館とした。近県における歌謡界の著名な大御所・作曲家、作詞家、歌手以下参照。古関裕而 1909年(明治42年)8月11日 - 1989年(平成元年)8月18日)80歳没、作曲家。福島市出身。古関裕而記念館は1998年(昭和63年11月)にオープン。没後9年後。丘 灯至夫 1917年(大正6年)2月8日 - 2009年(平成21年)11月24日) 92歳没、作詞家。郡山市出身。1993年、生誕地、福島県小野町に「丘灯至夫記念館」オープン。76歳の時。春日八郎 1924年(大正13年) 10月9日 - 1991年(平成3年) 10月22日)67歳没、演歌歌手。福島県河沼郡会津坂下町出身。春日八郎おもいで記念館は1995年6月にオープン。没後4年後。船村 徹 1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日)84歳没、作曲家、歌手。栃木県塩谷町(日光市の隣り)出身。船村徹・記念館は2015年4月にオープン。82歳の時。市川 昭介 1933年(昭和8年)1月4日 - 2006年(平成18年)9月26日)73歳没、作曲家。郡山市出身。猪俣 公章 1938年〈昭和13年〉4月11日 - 1993年〈平成5年〉6月10日)55歳没、作曲家・作詞家。福島県河沼郡会津坂下町出身。歌い続けられて名曲と云われる曲には作詞、作曲が無くして作品は生まれません。作詞家、作曲家は無から有を産みいだす創造者であるわけです。ちなみにこの時代は、web検索で記念館を捜すことができます。「○○県 記念館」で検索すればすぐ画面に出てきます。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ヨモギは草餅の材料になります。近年その薬効が見直されています。簡単なのは天ぷら。他にどんな食べ方があるか調べてみたいと思います。フキノトウは花の部分は捨てて茎を佃煮にします。
2024/04/07
コメント(0)
半田山に登山半田山 (標高863m)、半田銀山として江戸時代には大いに栄え、中腹の半田沼は多くの伝説に包まれ、歴史と伝説に彩られた半田山。この山は半田沼を起点に周回できるコースが人気だ。登り口からまもなく歩いていたら掲示板が目に入ったのです。半田山は標高863.1メートル(半田沼は標高419メートル)に位置し、福島市や国見町、宮城県白石市と接しています。桑折駅とは標高約760メートルの差があり気象条件も違い、温度は5度から7度違うこともあり、夏も涼しくすごしやすいです福島県中通り地方の北端、宮城県との県境近くに位置する。桑折町のシンボル的存在で、江戸時代に銀山として最盛期にあった山。残念ながら昭和26年には閉山している。2016/04/18 半田山登山 約8年前の山行です。篠塚藩(しのづかはん)は、上野邑楽郡篠塚村(現在の群馬県邑楽郡邑楽町)に存在した藩。居館は篠塚陣屋。延享4年(1747年)7月、陸奥桑折藩主であった松平忠恒が、陸奥伊達郡など1万2250石ほどの所領を上野国に移され、邑楽郡篠塚村に陣屋を構えたことから立藩した。表高は2万石である。翌年8月、忠恒は所領を碓氷郡などに移されたため、上里見藩として存続することとなり、篠塚藩は短期間で廃藩となった。陸奥桑折藩は、1700年(元禄13年) - 白河新田藩主、奥平忠尚が2万石で入封以後3代続き上野国篠塚藩へ転封。桑折藩(こおりはん)は、江戸時代の無城の藩の一つである。現在の福島県伊達郡桑折町に陣屋を置いた。藩主は奥平氏系の松平家(奥平松平家)で、徳川家康の女婿・奥平信昌の孫・松平忠弘の養子となった松平忠尚を藩祖とする。家格は帝鑑間詰譜代大名。有望な実子の無い忠弘に直系の孫忠雅が生まれたため、元禄元年(1688年)、養子の忠尚に新田分2万石(白河新田藩)が分与されたのが本藩の始まりである。その後、本家の福山転封に伴い、桑折の地に独自の陣屋(桑折陣屋)を置いて桑折藩としての統治を開始した。松平忠恒の代の延享4年(1747年)に上野篠塚に転封となり、桑折藩は廃藩となった。忠恒は短期間に篠塚・上里見・小幡と上野国内を転々とするが、最終的に小幡の地に落ち着いて明治維新まで続いた。その後、この地は幕府領となり、桑折には幕府の代官所が置かれた。転封(てんぽう)とは、豊臣秀吉・江戸幕府によって行われた大名の配置替えのこと。国替(くにがえ)・移封(いほう)ともいう。大名移動の際,家臣団は随伴するが,百姓は移動せず,兵農分離を促進させ,大名・家臣団の在地性が払拭された。江戸幕府は転封を改易とともに大名統制策の基本とし,家康・秀忠・家光の徳川初期3代の将軍の時代に盛んに行われた。この時代は外様大名を改易して無主となった地に徳川一門・譜代大名を配置するかたちが主で,当初は関東・東海地方を中心としたが,漸次全国に拡大され,寛永(1624年―1644年)ころには徳川氏を中心とする新しい領国体制が完成した。その後は転封は減少し,特定譜代藩による交換転封形式が主なものであった。転封の際,領地・城の受渡しには幕府上使が派遣され,城内諸道具の処置,支配帳簿・先納貢租の交換など細かい手続を必要とした。お殿様の人事移動きっと理不尽な人事移動と云う事も多々あったであろう。なにぶん人事移動を発動できる人事権ある人には逆らえないわけです。天からの命令に等しく従うしかない明確な上下関係であるわけです。※ 【改易】かいえき江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。御家取り潰しと改易って何が違うんですか?
2024/03/20
コメント(0)
利根川新橋、大動脈に 埼玉県熊谷市-群馬間の設置本格化へ 両県が調査費計上、埼玉県熊谷市と群馬県を結ぶ、「利根川新橋(しんきょう)」の事業化構想が、具体的に動きだした。群馬県側が9月補正予算案に4300万円を計上、測量や地質を調査し、橋を架ける位置などの検討につなげると発表した。熊谷市と群馬県千代田町を結ぶ県営渡船の「赤岩渡船」。新橋はこの付近での建設を想定している。2023年10月3日https://www.tokyo-np.co.jp/article/281296赤岩の渡しは幕末、文久2年生まれの曾祖父さんが熊谷市中条から渡し舟に乗って群馬県篠塚に居を構えたので感慨もひとしおです。悲願の新橋が架かれば、渡し舟の役目は終えるでしょうね。桐生絹糸の積出として役目、明治政府国策第一号の安積野開拓では入植開拓民が赤岩の渡し舟を利用したであろう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆発酵食品 備忘録納豆麹 岩手準備するものは、水で戻した干し椎茸、その戻し汁と、醤油・みりん・酒で一煮立ちさせたもの。それから混ぜた納豆、そして麹ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー熟成酒粕 https://www.yururimaaruku.com/entry/sakekasu酒粕発酵調味料 冷蔵庫⭕️塩麹の作り方<材料>米麹.........300g食塩.........90g水............400ml <作り方>1.麹と塩をボウルや保存容器などに入れ、よく混ぜる。2.まず指定の量の半分の水を入れ、フタをしてそのまま1日置く。3.2日目に、残りの量の水を入れ、全体をよくかき混ぜる。4.そのまま1週間から10日程度常温で置く(夏場は5日程度)。全体がなじむよう、1日1回かき混ぜて空気を入れる。5.米粒がどろっとしてきて、指でつぶせるくらいに溶ければ発酵完了。味をちょっと見てみて、塩のしょっぱさの角が取れてまろやかになっていればOK。 ★完成後は冷蔵庫に入れ、3~4か月を目安に使い切る。★量が多い場合は完成後に小分けにして冷凍庫に保管し、使うときは自然解凍して使用を。少量で作りたいなら、米麹...100g、食塩...30g、水...135mlのように各材料の割合を同じにすれば OKです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー甘酒を作る際の一番のポイントは、最適な温度を維持し続けること。 60℃はデンプン分解酵素(アミラーゼ)が最大に効果を発揮する温度です。 <用意するもの>炊飯器温度計<材料>米麹..................150gうるち米、またはもち米...1.5合ぬるま湯............150cc <作り方>1.うるち米かもち米をやや多めの水(分量外)でやわらかめに炊く。(冷ごはんを使用しても OK)2.炊けたらかき混ぜて粗熱を取り、60℃くらいまで冷ます。3.よくほぐした米麹とぬるま湯を加えて、しっかり混ぜ合わせる。4.炊飯器を保温の状態にする(適温は55℃)。 5.30分~1時間おきにかき混ぜる。55~60℃を保つため、保温を切ったり入れたりを繰り返して温度を保つ。6~8時間したらできあがり。 ★できあがったら冷蔵庫で保存し、1週間以内に消費する。冷凍保存の場合は、約1か月保存可能。小分けにしておくと便利です。 【POINT】こまめに温度をチェックするのが難しい場合は、炊飯器のふたをせず、濡らした布巾などをかけた状態で保温し続けるといいですが、それでも温度が高くなりすぎる場合があるので、数時間おきにはかき混ぜましょう。 塩麹も甘酒も自分で作ると安心安全。簡単に作れるうえ、さまざまな調理に活用できますので、麹のパワーをいろんな味で楽しんでみてください。----------『麹親子の発酵はすごい! 』(ポプラ社)100年以上にわたって「麹」の研究を進め、世界中から企業や大学の研究者が頻繁に訪れる鹿児島県の「源麹研究所」。この研究所を経営する父(農学博士)と息子(医学博士)による共著。麹による人間の免疫力増強や健康維持をもたらす力から、廃棄物を家畜用の乾燥資料に転換する力など、麹が持つ計り知れない可能性を一冊に。塩麴、甘酒、麴水を使った簡単レシピも掲載。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 近年は次々に新たな栄養成分や、スーパーフードが登場していますが、日本には麹とそれを使った発酵食品という素晴らしい食材があります。海外の流行を取り入れる前に、まずは日本古来のスーパーフードである麹をぜひ食べてください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー塩麹は魔法の万能調味料ともいわれています。 「麹の塩漬けが発酵したもの」とも言えるし、「大豆を使わない味噌」とも言える本当に便利な調味料です。塩麹のよさは「大量の酵素が含まれていて、その酵素がタンパク質をやわらかくしたり、旨みを出す」ということ。 この「酵素」ですが、麹が大量の酵素を出すから、その結果やわらかくなったり美味しくなったりします。麹は30種以上もの酵素を持っていると言われていて、そんな食べ物はなかなかありません。 酵素は生の野菜や発酵食品に多く含まれているので、普通にそれらを食べるのもよいのですが、麹を摂ると労せずしてたくさん酵素が摂れるというわけです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー初めての米麹で甘酒づくりに挑戦です。 2020/11/14【 お粥に米麹を加えて保温発酵で甘酒づくり 】電気釜でお米1合に水4合の目盛でお粥をつくります。お粥の温度が60度以下に下がったら、米麹250gほど細かく砕いて投入電子釜の蓋をあけたまま、水に濡らしたフキンをかけて保温にして約8時間後には美味しい甘酒ができあがります。温度管理 : 米麹は60℃以下にしておかないと発酵停止してしまう。1時間おきに撹拌できたら、したほうがいい。
2023/10/04
コメント(0)
南アルプス市の名前を初めて知った。はて、どであろうかと調べてみたら、北岳も含まれる山梨県内にあることがわかった。名前からイメージされるものは良好でありますが、最初は何処にあるのか判らない。平成の大合併で全国で新しい市に名前が変わったところ。あるいは編入となって名前が出なくなってしまったところがあるわけです。何十年かけて構築された記憶がバラけてしまったのです。今更すぐに再構築するのはとてもとても無理な話です。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆#寝冷え が原因で風邪をひいた、念のためにと思って、昨日14日 #PCR検査、#抗原検査 を受けてみたら、陽性との結果を云われた。味覚障害などはないのでまさか陽性との判定が出るとは思わなかった。果たして検査は風邪ウィルスと新型コロナウィルスの判別ができるものなのか⁉︎コロナはただの風邪に過ぎないと云われる由縁か。コロナ陽性ということで、一日中、部屋に引き篭もりでした。食欲も湧かず、スイカ🍉を口にしたいと思ったが叶わずトホホ、、、
2022/08/15
コメント(0)
土器の破片が落ちていたのを見たのは小学5、6年の時だった。邑楽町篠塚八丁の県道の切り通しのある東側だった。また弟の友人は畑で土器の壺が出てきたのを割って遊んでいたと聞いたことがある。昭和38年位のことです。そのころは一般的に土器に対する認識が浅かった。何度か土器の破片を探しに足を運んだ記憶があります。縄文時代は利根川の堤防も無かったろうから水が来ない高台に生活していたわけですね。この時代、浸水ハザードマップがあるので照らし合わせることができるわけです。石器の中でも黒曜石を割って作られたものは、スパッと切れる。動物の解体などに使われたと推測される。約4万年前の後期旧石器時代早期から黒曜石の採掘が続けられた栃木県の高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。47年前だろうか、建設会社で現場監督をやっていたとき、国道50号バイパスの新設道路工事を担当。大型ダンプが山ズリを運びこみ、私はその計量をしていた。ダンプカーが煽りを上げて落ちてきた時に最後に転げ落ちてきた石が、アレレ、、、打製石器のように見えたのです。手に取ってみたがやはりそんな気がして持ち帰った。どこから運んできた山ズリか聞かなかったが、わが家の押し入れの中に仕舞い込んであるはず。今度探して見ることにしよう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆たのしみは 季節はずれの タラの芽も 美味しいことに 気がついたときタラの木の枝が伸びて隣家に及んでいるので伸びた枝をカットすることにした。なぁ〜にカットしても毎年毎年伸びてくる生命力があるわけです。春先だけでなく今の若芽だって天ぷらにしてもいいだろう。これからタラの芽の天ぷらをつくります。 #タラの芽 #今だっていいだろう #棒タラタラの芽の新芽を摘んで天ぷらに。ついでに丸茄子も天麩羅だ。と云うことで天ぷら蕎麦となりました。夏のタラの芽の新芽の天ぷらもいける香りありでした。#夏のタラの芽の天ぷら #タラの芽というより若葉かタラの芽は、旬の味として春一等の山菜の王様とか呼ばれていますが、なんも春一番だけでなくともタラの芽の香りはあるわけです。ならば伸び続ける先頭の新芽を夏のこの時期でも天ぷらにしてみようじゃないかと、やってみたら美味しいとわかったわけです。
2022/08/07
コメント(0)
群馬県には上毛カルタというものがあります。群馬県内の名所旧跡、歴史上の人物などがカルタとして読まれているのです。小学生は学校で、毎年この上毛カルタ大会があり、県大会まで開催されます。よって群馬県人は群馬県内の名所旧跡、県内輩出の偉人を知ることになります。郷土愛が自然に育まれることとなります。半世紀以上を経ても忘れません、誦じてでてくるわけです。例えば、こんな具合に、、、「あ」: 浅間のいたずら鬼の押し出し「い」: 伊香保温泉、日本の名湯「う」: 碓氷峠の関所後「え」: 縁起だるまの少林山「お」: 太田かなやま子育て呑龍ですから群馬県人は、上毛カルタを知らなかったら群馬県出身とみなされないかも。
2021/09/28
コメント(0)
昭和51年に郡山市に越してきた当時、郡山市の歴史はさしたるものは何もない町だと地元の方々は云っていた。あれから約半世紀が過ぎましたら、そのようなことを云う人は少なくなりました。何となれば発掘調査がなされて、古代の埋蔵文化物等が明らかになったのであります。埋蔵文化発掘調査費の手当は関西方面から徐々に東に及ぶので東北北海道方面は最終段階、後手に回ったということです。ですから社会科の教科書で学ぶようなこともなかったわけです。ところが地中埋蔵物の発掘がすすみ、縄文時代から連綿と人が住んでいたことが明らかになりました。郡山市駅から南南東5kmほどに大安場古墳が平成3年に発見されて、阿武隈川流域の最大級の古墳であり,また前方後方墳としては東北地方全体で最大となることがわかった。万葉集にもとりあげられている和歌「安積香山の歌」は郡山市の夏祭りの主役、さきの采女(春姫)が詠んだ歌と云われています。伝説として伝わっていたものが史実として遠く 滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から偶然発見されたのです。平成9年(1997)度実施の第22次調査で出土。平成19年(2007年)12月に歌木簡の研究のため、宮町遺跡出土の木簡を再調査してわかったということです。「安積山・・・」の万葉集の歌を万葉仮名に復元すると、 阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓 あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに高玉金山(たかたまきんざん)は、かつて福島県郡山市熱海町にあった金山である。戦国時代の1573年(武田信玄が亡くなる。室町幕府が亡ぶ。)に会津の領主、芦名盛興が開山した高玉金山。 その時、安全を祈願して祀られた黄金神社は高玉山頂にある。 開坑から400年。最盛期の昭和時代初期には日本三大金山の一つに数えられたということです。
2021/08/18
コメント(0)
安子島駅近くの友人宅に寄り磐梯熱海駅前の元湯に向かう道路を走行中に神社があったのに気づき立ち寄ってみました。花手水が飾られた手入れの行き届いた気持ちの良い神社でした。由緒由来によると、この地に900年以上前に祀られた神社なんですね。津島神社⁉️の掲示板が、、、どういうことだろうかと思ったが帰宅後に地図をチエックしてみたら約100mほど西にある神社のお知らせでした。近年、神社の手水舎や手水鉢に花が並べて浮いている美しい様を見かけるようになりました。本来、花手水(はなちょうず)とは、野外で水の代わりに草花につく露で手を清める行為のことを言いましたが、いつしか現在のように手水舎や手水鉢に花を浮かべてそれ自体を花手水と呼ぶようになったのは「柳谷観音」が発祥とあった。京都、柳谷観音のHPをみると数年前から始めたとあった。ならば10年以上前に白河市の古民家レストランで水鉢の中に花を浮かべた花手水を見た記憶がある。 生花仕様としての花手水が始まりだったのかも。安積五社 大鏑神社とあったので周辺に五社ある内の一社かなと思ったが、そうでもなさそうだ。検索してみたらFacebookやInstagramをやっているではないですか。地道にweb情報発信をやっている神社さんでした。ついでに日本全国には神社はどの位の数あるのかなと思ったら、神社の数はなんと、80,000社以上で全国にあるコンビニの数が、55,000店舗ほどなのでコンビニ数を圧倒的に超えているのだとか、驚きました。
2021/07/02
コメント(0)
【 昔はどこにでもあったが今は見かけなくなった景色、駄菓子屋 】かつて幼い頃、近所にあった駄菓子屋、今や懐かしい記憶の彼方の風景です。私の記憶の中のよく足を運んだ駄菓子屋さんも看板などなかった。たしか「田谷(たがや)さんち」と呼んでいた。ご主人が電気屋さんでテレビが置かれたのも近所では最初だったかもしれない。毎日のように兄弟でテレビを見に行った記憶がある。近所の遊び仲間も一緒に並んで正座して見たものです。砂糖、味噌、醤油なども置かれていた。即席ラーメンや、ラーメンを食べるのにつくる蓋付き丼をわが家が購入したにもこの店だった。今やその建物は取り壊されて跡形もありませんが記憶の残像として残っているのみです。(群馬県邑楽町篠塚下坪谷)駄菓子屋さんで今も現役、100年以上も続く看板のないその店が同じ邑楽町の藤川にあるとwebで知った。その店は「駄菓子屋界の重要文化財」とも評されるただ住まいを今に残していると云う。今度帰省した折に覗いてみようと思う。原商店:群馬県邑楽郡邑楽町藤川150-4 電話:0276-88-3602チェックしてみたら実家から約5km、車で9分ほどの距離だ。同じ邑楽町でも小学校の学区が違うと行くことがないのでまったく知らない。よく知った行動範囲は小学校の学区地域内位かもしれない。
2020/12/07
コメント(0)
ここは館林高校の入り口にある桜並木です。どの桜の木の幹には、青い防虫ネットが張り巡らされていたのだった。10日位のTVの全国ニュースでこの青い防虫ネットが張り巡らされた桜並木が画面に流れたのを見たのです。母校である館林高校のシンボル的な桜並木がなんとも危機的な状況にあることがわかりました。外来種のクビアカツヤムシが桜の幹に卵を産み付け、幹の中で成長するとのことです。ここだけでなくこの近隣の桜の幹に被害を及ぼしているそうだ。邑楽中学校の校庭の桜にも同じく青いネットが覆っておりました。クビアカツヤカミキリ被害対策の手引書がwebに掲載されていた。年々気温が高くなり亜熱帯地方のような環境になりつつあるので外来種も住みやすくなっているのだろうか。福島県にはまだ見られないが、だんだんと北に範囲を広げてくることが推察される。邑楽町の高源寺の桜の幹にも青い防虫ネットが巻かれておりました。滝桜の孫にあたる紅枝垂れ桜の苗木を寄付しようかと思って我が家の庭で育てておりますが、高源寺の境内には既に直径20㎝位に育った枝垂れ桜が植わっていた。その桜の幹にも青い防虫ネットが見てとれました。この近辺の桜は総じてクビアカツヤムシの被害に遭われているのかもしれないことを目の当たりにした。父母が眠る菩提寺である高源寺(邑楽町大字狸塚地内)の山門の両脇には狸の置物が鎮座しております。茂林寺系列の寺であり、地名「狸塚」の地でもあります。狸をよくみると左のタヌキは胸が膨らんでいる雌狸であろうか、そして右が雄狸。
2020/08/29
コメント(0)
須賀川市立博物館、開館50周年記念企画展に足を運ぶ。首藤保之助は明治時代生まれの小学校の先生、夏休みや冬休みに全国各地の遺跡に出かけ約5万点の土器や石器を集めて阿武隈考古館という博物館をつくりました。晩年その資料5万点を須賀川市に寄付して昭和45年に須賀川市立博物館ができたということです。展示会場入り口に「自由に撮影OK!」とあるではないですか。ということで携帯カメラで撮影でした。私が興味があったのは打製石斧と磨製石斧です。縄文時代(草創期は約1万6,000年前から晩期 2,800年前)に道具としてつくられて使われた石斧。確実にわれわれの先祖がつくって使われたものが残っているのを見ることができるわけです。鉄ができる前は石を割って道具をつくったことがわかります。旧石器時代の発見で知られる群馬県新田郡笠懸村の関東ローム層で黒曜石で作られた打製石器を見つけた相沢忠洋氏を思い出します。また、私が小学5年生くらいの頃だったろうか、邑楽町篠塚下坪谷八丁の県道の切土になっていた付近で土器の破片がたくさん出てきた。誰も歴史的な遺産だと思う人がいなかったので専門家の発掘に到るようなことにはなかった。子どもらの遊び場になっていた。
2020/07/26
コメント(0)
台風19号の襲来で、今まで見たことがなかったハザードマップを確認してみました。まず地元・郡山市のハザードマップにアクセスしようとしたら考えることは皆同じようでアクセス集中していたのかなかなか開けない状態になっていた(12日夜)ので諦めて、国土交通省のハザードマップに!こちらはすぐに見ることができた。時間があったので群馬の実家周辺のハザードマップを見てみたら、神社やお寺は水没から免れた高い場所に建立されていたのです。そして「成島」という地名があるのですが、関東平野の中に「島に成る」という名前が不思議だったのですが、ハザードマップを見たらみごとに島に成っていることがわかる。きっとかつて渡良瀬川や利根川が決壊して氾濫したときの景色から命名された地名であることを確信したのです。まだ堤防ができる以前はちょくちょく洪水が起こっていたのではないだろうか。堤防づくりの多くは世の中が落ち着いた江戸時代に築かれたものだと云われています。ショックなのは私の実家はハザードマップでは水没地域に染まっていた。2階に移動すれば大丈夫だろうが、水道施設のある場所などが洪水地域になったらしばらく復旧まで時間がかかるであろう。地球規模での温暖化と云う気象変化によって大型化する台風による洪水。その洪水の危機が起きるかもしれないとなったとき、生活圏の危機意識が今までとは変わるでしょうね。国土交通省のハザード・マップ
2019/10/15
コメント(0)
安積開拓発祥の地と云われる郡山市開成館を訪問その開成館を見学後に目にとまったのがこの「安積開拓入植者住宅(旧小山家)」です。明治15年(1882)に四国、松山から牛庭原(現・安積町牛庭地区)に移住した「愛媛松山開墾」15戸の内の一戸で当時の開拓者の代表的な住宅の形を今に残すものだとのことです。なぜ着眼したかというと私が幼いころ住んでいた借家とほぼ同じサイズなのです。左右反転した間取りで屋根は寄棟藁屋根でなく切妻十能瓦でした。東京オリンピックのあった1964年まで間借りしていた間取りサイズが、82年前のものとほぼ同じであり私の育った家の方がやや粗末な建屋に思えた。わが家は家族5人で生活していました。この開拓入植者住宅(旧小山家)には囲炉裏がなく、炊事場も屋外だったといわれ、それが色濃く残っている。また井戸と厠もありませんでしたが私には子どものころの暮らしから、だいたいの予測がつきます。安積町牛庭地区は現在のわが家から近いので牛庭を散策してみたいと考えます。また関西方面から郡山まで来るのに気になったのは船で利根川を遡り群馬から栃木に入ったと解説を耳にしました。となると当時のルートを考えると赤岩の渡しで舟を降りて赤岩から足利へのルートだとすると育った群馬の実家のほど近いところを通過してきた可能性があります。小学5・6年のころ社会で安積開拓にふれましたが故郷・篠塚を通過して開拓民が郡山に入植したとなれば、なんとも機縁を感じるものです。
2019/10/01
コメント(0)
私の住む郡山の歴史から40年ほど前は、宿場町として歴史の中で特に誇れるものはないと云われていた。ところが今は、縄文・弥生遺構も多くあり東北最大の古墳もこの地にあったことが発見された。マンモスの歯までも発見されて古代にはマンモスが闊歩していたのがわかった。地面の下に隠れていた古代の遺構も掘り起こす専門家が掘り起こす予算がついてこそ初めて発掘が始められるわけです。国の予算は東北地方は後まわしになったので、掘り出される遺構が少ないので東北地方は未開の地と思われていたのが実態でした。大安場古墳は、郡山市田村町大善寺大安場に前方後方墳が1基、円墳が4基ある。このうち1号墳の前方後方墳と2号墳の円墳が国史跡に指定(2000年9月6日指定)されている。1号墳は全長が約83メートルあり、4世紀後半(いまから約1,600年前)につくられた。前方後方墳としては、東北地方で最も大きいもの。2号墳は、直径が約15メートルあり、5世紀後半(いまから約1,500年前)につくられた。
2019/09/21
コメント(0)
ふるさとの名物・名所を検索してみましたら、実家から約1km範囲内で知らなかった名所を見つけました。子どもの頃の行動順路でなかったこともあり、親などからもその話を聞いたことがなかった。関心もなければその存在を知らなかったわけです。まずシラカシの巨木です。そして南朝の武将細谷右馬助秀国の墓所である五位堂。シラカシの全国各地の巨木まず。武将細谷右馬助秀国とはどんな人物であったのだろうか。細谷右馬助秀国は泉福寺を建てたとあったので検索してみたら、火事で燃えてしまったとの記述があった。その火事を現場で箪笥など運び出すさまを見物していたことを思い出した。民家だと思っていたがあれが泉福寺だったのか。53年前の記憶です。1966年(昭和41年)2月11日(金)泉福寺は焼失しましたが神社は難をのがれ寺跡には現在の集会所が建設され古来変りなく坪谷、水立、大黒中の人々のふれ合いの場となり伝統的文化と信仰が受け継がれています。その泉福寺と稲荷神社は細谷館から見て鬼門の方角に細谷右馬助秀国が1348年(正平3年)に籠宮山観音院泉福寺を建立して戦乱に散った一族家人の冥福を祈ったとあります。五位堂のシラカシについて南朝の武将細谷右馬助秀国の墓所が五位堂です。この墓所を覆うシラカシの巨木は、樹高18.5m、幹は4本に分かれ、幹周りはそれぞれ2.6m、1.6m、0.6m、0.9m、枝張り東西16.5m、南北18.1m、根回り6.6mです。境内には千一体仏が安置され、子授け仏として信仰を集めてきました。現在でも、木製の小さな仏像を借り受け、子宝に恵まれると返す習わしがあります。南朝の武将・細谷右馬助秀国とは1347年(正平2年・室町時代に入りまもなく、672年前)、新田義貞一族の武将細谷右馬助秀国はこの地に居住するにあたり丹後国与謝郡府中にある籠神社(伊勢神宮・豊受大神の本宮)から分霊を祭って鎮守として群馬県邑楽町篠塚に細谷館(ほそややかた)を築城した城主。1773年(江戸時代の安永2年)正月に京都から伏見稲荷を泉福寺へ勧請して農民生活の守護神と仰ぎにぎやかな祭礼が行なわれて来ました。明治維新の神佛分離令によって稲荷神社は泉福寺から離れて西隣の籠宮神社に移され社屋は青年集会所となりました。1938年(昭和13年)に現在の社殿を新築して社号を稲荷神社とし奥殿に籠宮大明神と稲荷大明神を安置奉祭したとありますが、近在の人は皆、稲荷神社と呼んでいました。 ----------------------------------細谷館の他にその北に「篠塚館」があった。大字篠塚の、県道152号線沿い「馬場」という地名の所に篠塚館があった。この付近には『太平記』でよく知られた豪傑篠塚伊賀守重広の供養塔や案内板が立てられているのだが、篠塚屋敷は、この篠塚伊賀守の居城であったと云われる。 篠塚館の所在地は、 群馬県邑楽郡邑楽町篠塚馬場2796 現在新井氏宅が元弘の頃(1331-33)篠塚伊賀守重弘の館跡と云われている。方70m程の二重堀の塁であったらしいが、今はその堀跡も辿る事が困難と言う。西部に毘沙門堂があり、西南外に八幡社が見られる。重弘の墓は大信寺にある。県道を挟んで東側には「陣屋」という地名が広がっていて、江戸時代中期に松平忠恒(まつだいら ただつね)の陣屋がおかれていた場所であるという。松平 忠恒は、享保5年(1720年)、桑折藩第2代藩主松平忠暁の次男として生まれる。陸奥桑折藩の第3代藩主、のち上野篠塚藩、上野上里見藩を経て上野小幡藩の初代藩主。忠尚系奥平松平家3代。
2019/09/14
コメント(0)
静御前堂・供養祭毎年3月28日は、静御前の供養祭がおこなわれています。今年も詩吟の会で静御前の吟を12名で吟じてきました。静御前は約800年前に亡くなり全国各地に終焉の地といわれている所があります。当地郡山市にも静御前ゆかりの地名が残り毎年供養祭を開催されています。外気温8℃ですが西風が吹き屋外は肌寒い中、ふるまわれた甘酒を飲みながら出番を待ちました。終わりには紅白の餅まきがおこなわれ2ヶゲットです。昨年と同じく手を挙げた手の平に飛び込んで来た丸餅が1ヶありました(^_-)-☆静御前堂の裏には円墳の古墳があります。古墳の上に生えていた木が今年は根元から伐採され無くなっていました。郡山市田村町細田にある光照寺の念仏堂(明和9年(1772)建立)が建立された12年後の1784年(天明4年)に再建された静御前堂です。共に釘が1本も使われていない建物です。静御前堂の再建するにあたって交流があったとみるのが妥当かもしれません。静御前堂・例大祭に詩吟の奉吟を仲間12名で参加。終えてからいただいた弁当です。昨年参加した静御前例大祭2018
2019/03/28
コメント(0)
143段の石段を上るとそこには3間四方の念仏堂がありました。明和9年(1772)建立、完成まで31年かけたということです。247年前です。時の将軍は徳川家治 (10代目)でした。江戸神田の彫工による30頭の龍・象・獅子など彫刻が細部にまで施されていて彩色が色落ちているが創建当時はさぞ美しかったことが偲ばれます。光照寺の念仏堂(郡山市指定重要文化財)光照寺(こうしょうじ)は、福島県郡山市田村町細田に所在する天台宗の寺院。正式には阿弥陀山 安養院 光照寺(福島県郡山市田村町細田字宿65)
2019/03/08
コメント(0)
「郡山の池と川の歴史地理」を学ぶ 元福島大学特任教授 高橋康彦先生郡山市内を流れる阿武隈川のかつての姿はアマゾン川のように蛇行した流れだった。地図右側の黒い流れが河川改修された現在のもの、水色に塗った部分が過去に流れた部分です。我が家のすぐ近く50m位近くまでかつて流れていたことを知った。阿武隈川の名前の隈は歌舞伎の化粧、隈どりのように曲がりくねっていることに由来しているのだとか。(写真は先生に許可をいただき撮影する)今回の西日本豪雨の件もありますので過去の地形を頭に入れて、どこに逃げればいいかをチェックしておく必要があります。岡山県真備町の洪水で被災された方が「全国どこでも今後、起こり得るかも」と云っていた。明治41年測量、昭和6年部分修正の5万分の1「郡山」の地図には河川改修前の阿武隈川が埋め立てられずに残った姿を見て取れます。米国のスタンフォード大学がwebで明治43年の日本各地の5万分の1の地形図を無料で公開されているものです。国土地理院と日本帝国陸軍で製作ですね。
2018/07/14
コメント(1)
法事で龍泉院(群馬県大泉町)に!東門がこの町で現存する一番古い木造建築物であるとweb検索で知り対面を楽しみに出かけました。開山は天文3年(1534年)本堂は2度火災に遭ってますが東門は約400年前の骨組みが今に歴史を伝える。母親の叔母がこの寺に嫁いでいるので親戚筋にあたります。
2018/04/28
コメント(0)
静御前堂例大祭 奉納吟詠 に招集があり初参加する。郡山の静御前伝説を今に伝える静御前堂例大祭です。静御前の命日の3月28日にあわせて郡山市静町の静御前堂にて行われます。大人の奉納吟詠に比べ、子供(小学3年生)は昔語り。昔語りはリレー語りで静御前のことがよくわかります。はたして吟詠はどこまで伝わるのか考えてしまいました。静御前は22歳の若さでこの世を去った人だったことを知る郡山に伝わる「静御前伝説」は、平安時代、源義経の恋人であった静は義経を追って奥州平泉に向かう途中、郡山にて義経の死を知り落胆し、22歳の若さで美女池に身を投じたという悲恋の伝え。例大祭は里人がそれを哀れみ御堂を建て、霊を祀ったとの伝説に由来するものです。静御前堂は1784年(234年前)に再建されたもので、釘を1本も使われていない建築物です。イベントの最後は紅白丸餅の餅播きでした。運よく挙げた手のひらめがけて飛び込んできました。1ヶだけですがおみやげになりました。(^_-)-☆境内の桜の蕾も膨らみ始めました。気温も20℃を超え半袖の子供も見られました。例年は肌寒い気候が多いという。会場では甘酒が無料で振る舞われていました。
2018/03/28
コメント(0)
安積国造神社に安積発祥の石碑が建っていました。5世紀から6世紀にかけて大和朝廷が阿尺国造をこの地を統治するのに任命したそうです。この「阿尺」が「安積」の地名の由来とされているようです。この石碑は柱状列石の六角柱の自然石を使っています。どこから採石してきたのだろうか気になった。
2017/09/27
コメント(0)
青面金剛石造(しょうめんこんごうせきぞう)・庚申の本尊私の実家のそばに現存する歴史的な遺物です。実家の敷地から東南方角に隣接地にある「庚申さま」と呼ばれる庚申塔です。物心ついたときからその場所にあったのですが、いつごろ建てられたものなのかわかりませんでした。気になっていたので帰省した折り、朝の散歩で左右に彫られた文字があることが認識できましたが曇っていて読み取ることができませんでした。午後再度足を運びましたら太陽が顔を出していた関係で石に彫られた文字が陰影で読みとれました。右側に「 上野国 邑楽郡篠塚村」 左側に「 延宝5年」(1677) の文字を確認できました。こどものころの推察でもせいぜい100年位前かなと思ったらなんと340年も前に建立でした。延宝(えんぽう、正字体:延寳)は、1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱吉(第5代将軍) 340年前に建てられたものとわかりました。現在も年に数回しめ縄を飾って供養されているとのことを隣接する80歳になる方がでてきてくれて教えてくれた。話してみれば母のことをよく知る人でした。道端にある歴史的な遺産といえるでしょう。昨今は一箇所にまとめられたりしていますが、この庚申さまは、ずっと同じ場所に建っている歴史遺産です。といいましても道路拡張で少し北側に移動されています。昔は盛り土の上に置かれてあったとのことです。現在はコンクリート基礎になっていますが私が子供のころは、コンクリート基礎はありませんでした。昭和30年代、道路拡張前は砂利道で現在の3分の1位の道幅でした。現在は太陽光を浴びていますが当時はうっそうとした林に囲まれていました。今回、文字が確認できましたので340年前に建てられたことがわかりました。下にも文字があったのですが、判読が難しかったのですが、web画像検索しましたら、どうやら、その場所に書かれた文字は造立者名が連名に彫られてあります。もしや私の先祖の名前が彫られているのかもしれません。場所は 邑楽町大字篠塚字水立(大字狸塚字十三軒の境)◆この庚申さまの存在からわかったこと篠塚村の文字を初めて見た。1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、篠塚村、狸塚村(むじなづかむら)、赤堀村が合併して邑楽郡長柄村が成立ですから篠塚村は長く続いた訳です。篠塚は篠塚藩と呼ばれた時期があった。2万石だったそうです。340年以上前からの古い道であったこと。◆課題この材料の石はどこから産出した石であろうか。-------------------------------------------------------------------庚申山と呼ばれる山が足尾山地にあります。高校時代に何度か登っています。渡良瀬川の西岸に連なる足尾山地の一峰で、奇岩怪石が多く、鋸11峰が連なっています。日光山開山の祖、勝道上人によって開かれ、古くから信仰登山の山として知られる。猿田彦神社(庚申神社)があり庚申講の本山。登山道口に国民宿舎かじか荘があり、シーズンにはここを拠点としてハイキング、登山、観光を楽しむ人も多い。-------------------------------------------------------------------庚申講とは起源は中国の道教であるとされている。人間の体内には三匹の尸(し)、 または彭(ほう)=虫が潜んでおり、庚申(かのえさる)の夜、人が眠っている間に抜け出して天帝の もとに上り、その人の罪や過失を告げて命を奪わせるという。眠らなければ三匹の虫が 抜け出せない、ということでその夜は眠らずに身をつつしんで過ごさねばならないとする。そのための禁忌を道教で守庚申といった。日本に伝わって変化し、徹夜とつつしみの行事は残ったが三尸虫の伝承はなくなり、行事にともなう 会食・談笑のほうに重点が移っていった。道教の守庚申は日本では「庚申さま」という信仰対象を 祀って礼拝する形となり、その行事が交歓の機会ともなった。「庚申さま」の本体も青面金剛菩薩、阿弥陀仏、観世音菩薩、大日如来、地蔵菩薩、不動明王、 帝釈天、猿田彦、道祖神など様々である。これらの神仏は現世利益をもたらすとされており、道教の 天帝とは全くことなった、福の神の性格を持っている。 小学館百科事典より
2017/08/13
コメント(0)
たのしみは あぶくま川の いにしえに どんな歴史が 尋ね知るときみよた橋を渡るときに、あぶくま川の河床が洗濯板模様で白く見えるのが気になっていた。自分の足でその場に立ってみたいと思ったのです。流れの浸食で筋模様ができたののだろうか確認してみたいと思ったわけです。あぶくま川を昔の人は比較的簡単に渡ったであろうことが推察できました。雪解け水も終わり、田に水を入れるようになるとあぶくま川本流の水量が少なくなります。洗濯板のような河床岩盤が 現れています。渇水期の今だからこそ川底が歩けるかもとウォーキング用ストック持参で現地調査を試みました。渡りこそはしませんでしたが、この位なら往来できたろうことが推察できました。釣り人もいましたが清流とは呼べない川の流れですね。場所は現在、みよた橋のかかっている場所です。ここに橋が掛けられたのもわかるような気がしました。江戸時代、松尾芭蕉は奥の細道で須賀川方面から郡山に入るときにあぶくま川を舟で渡ったように記憶しています。あぶくま川に橋が架けられたのはいつ頃なのか気になりますね。御代田に橋が架けられたのかいつなのか調べてみることにします。
2017/05/06
コメント(0)
この土器は4000〜5000年前(縄文中期)のものだそうです。口径約20cm、高さ約30cmほどです。発掘されたことにより郡山市には太古の昔からの歴史ある街であることがわかるようになりました。はたして、どんな人がこれをつくったのだろうか。平安時代、東北が蝦夷と呼ばれていた。アイヌ先住民族であったかどうかは定かでありませんが、この文様は4000年以上も前から使用されていたことをこの土器から知ることができました。
2017/02/03
コメント(0)
子どものころよく遊んだ道ですが半世紀以上経過しますと、まったく同じ景色というわけにはまいりません。農地改修で一枚の田圃の面積が大きくなりました。大型機械で効率よく耕すことができるようにと集積されたわけです。用水堀も倍になったでしょうか。道路も舗装されて車も走れるような幅になっておりました。お墓のある位置だけは昔のまんまです。奥の方には高圧線のタワーがそびえていますが鞍掛工業団地への電気の供給用と思われます。もうちょっと空気が冷えてきれいになると遠くに浅間山を見ることができるはずです。100年もたつとここには知った人もすべて居なくなってしまうわけです。もちろん私も含めてですが、世の中はそうして巡ってゆくわけです。この時代を生きる、長くても100年余りの寿命を生きるわけです。ならば遊戯三昧でありたいものですが、健康体であることが基本です。そしてほどほどのマネーですね。月の内、半分の15日位は働く心がけでありたいものです。あるいは遊びながら働く、働くことが遊びみたいな心境で居られる場をつくることですね。写真は、群馬県邑楽郡邑楽町篠塚下坪谷地内です。
2016/12/01
コメント(0)
秋祭りを知らせる幟旗が集落の入口に立っていました。左の道が旧道、右が新道です。古い道は曲がりくねっていることを最近、気づきました。車の走っていない時代は真っ直ぐな道は少ないのです。それにしましても神々しい奉納幟旗です!幟旗の文字「神霊満乾坤」。 神霊、乾坤に満ちる(しんれい、けんこんにみちる)と読むのだろうか、神霊が天地に満ち満ちて居るという意味のようです。この集落は、このような言霊の幟旗を奉納する人々が住む集落ということです。この文面、はたして誰が選んだのだろうか!この奉納幟旗が立っていた近所の同年代の方にこの幟旗のことについて尋ねてみました。神霊満乾坤(しんれい まんがんぢ)と読んでいました。書いた人は中田町田母神の田母神さんだということも教えてもらえました。以前の旗が古くなったので書き換えたとのことで、それ以前も同じ文面の幟旗が立っていたということですから相当前からこの文面であったようです。
2016/11/02
コメント(0)
にわか狛犬マニアに!流鏑馬の行われた古殿八幡神社に鎮座する狛犬が素晴らしい。この狛犬から当地方に卓越した石工がいた証がうかがえます。私が生まれる20年前に奉納された狛犬でした。#古殿八幡神社 #小林和平作 #狛犬 #流鏑馬従来のイメージを超えた自由奔放な狛犬です。この狛犬を奉納すると決めた人、受け入れを決めた神社側。従来の常識をのりこえるまでの流れの中にどのような流れがあったのか興味が湧きますね!圧倒的な心を揺さぶる作風を前にして阿吽の呼吸があったかもしれません(^_-)-☆この狛犬は84年前の昭和7年に作られた狛犬です。石工、小林和平が51歳のときに彫られたもので、彼の傑作ベスト3と云われていることがweb検索でわかりました。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小林和平作品を見に行くツアーは13ヶ所もあります! 小林和平、狛犬ツアーをしていた人をwebに発見。 小林和平の作品、和平の師匠である寅吉の作品が置かれている場所 寅吉&和平の作品ガイドマップタイミングが重なり孫から修学旅行の沖縄みやげと一緒にシーサーのイラストが届く!沖縄では屋根の上に狛犬シーサーが鎮座するということになるわけですね。
2016/10/10
コメント(0)
まもなく田植えの準備が始まります。雲が低く立ち込めて、こういう風景いいですね!山が萌葱色に染まるのは、これから2週間位でしょうか!立派な神社がありました。菅船神社(すがふねじんじゃ)郡山市逢瀬町河内字堂内39鳥居の額に「正一位菅船大明神」とあり、真っすぐに石段が上に伸びていました。社のほうから太鼓を鳴らす音が響いてきましたが、小雨が降る夕暮れ時です。うっそうとした木々に囲まれた階段に登ろうという気もおこらずまたの機会としました。
2016/04/27
コメント(0)
目の前2mほどの至近距離を疾走する馬上から矢を放ち的を狙うわけですから迫力があります。この伝統の神事「流鏑馬」、1194年当時の将軍、源頼朝公より社領地を与えられたのを記念して始まったと伝えられているわけですから約800年前の鎌倉時代から続く伝統行事です。福島県古殿町の古殿八幡神社にて毎年10月第2日曜に開催流鏑馬(やぶさめ)の馬場は直線距離約250m、的は3ヶ所あります。古殿町は人口約5,500人。阿武隈山系の山あいにある素朴な町です。ここ古殿の流鏑馬を見るのは約40年ぶりの2回目でした。目の前を疾走する馬を撮ったのは初めてでした。ipad撮影でしたのでシャッター速度の調整はできませんので上手く撮るのは難しい。動画で撮って、その動画のポイントをWシャッターで押さえればうまくきれいに撮れただろうか。今回は動画で撮影するのをすっかり忘れていました。昨日は、馬と戯れてきました。人に良く慣れた馬です。藁を子供が手渡しで与えるのを口にします。最初のうちはなかなか手をだすのに躊躇しましたが顔をなでられてもおとなしくしているので、まねて手で触れてみました。心なしか親近感がわくものですね。走ると馬は身体中に汗をかくんですね。
2015/10/11
コメント(0)
この石碑は舘林市上三林にある雷電神社境内に鎮座する庚申塔です。正面右側に宝暦11年と彫ってあるのが確認できました。宝暦11年は江戸時代西暦1761年、今からさかのぼること254年前です。宝暦(ほうれき)は、寛延の後、明和の前。1751年から1763年までの13年間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は第9代徳川家重、第10代徳川家治。館林市上三林町の雷電神社です。雷電神社 参道は桜が八部咲きでした(2015.3.30)今から68年前(昭和22年)の航空写真を見つけました。私が生まれたのは画面右の集落です。当時は三野谷村上三林です。右端には埋め立てられる前の羽沼があり、左下には近藤沼があります。 (写真は昭和22年米軍撮影空中写真)
2015/04/01
コメント(0)
私の実家のそばに現存する歴史的な遺物です。実家の敷地から東南方角に隣接地にある「庚申さま」と呼ばれる庚申塔です。物心ついたときからその場所にあったのですが、いつごろ建てられたものなのかわかりませんでした。気になっていたので帰省した折り、朝の散歩で左右に彫られた文字があることが認識できましたが曇っていて読み取ることができませんでした。午後再度足を運びましたら太陽が顔を出していた関係で石に彫られた文字が陰影で読みとれました。右側に「 上野国 邑楽郡篠塚村」 左側に「 延宝5年」(1677) の文字を確認できました。 延宝(えんぽう、正字体:延寳)は、1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、綱吉(第5代将軍) 337年前に建てられたものとわかりました。現在も年に数回しめ縄を飾って供養されているとのことを隣接する80歳になる方がでてきてくれて教えてくれた。話してみれば母のことをよく知る人でした。道端にある歴史的な遺産といえるでしょう。昨今は一箇所にまとめられたりしていますが、この庚申さまは、ずっと同じ場所に建っている歴史遺産です。といいましても道路拡張で少し北側に移動されています。昔は盛り土の上に置かれてあったとのことです。現在はコンクリート基礎になっていますが私が子供のころは、コンクリート基礎はありませんでした。今回、文字が確認できましたので337年前に建てられたことがわかりました。下にも文字があったのですが、判読が難しかったのですが、web画像検索しましたら、どうやら、その場所に書かれた文字は造立者名が連名に彫られてあります。もしや私の先祖の名前が彫られているのかもしれません。場所は 邑楽町大字篠塚字水立(大字狸塚字十三軒の境) -------------------------------------------------------------------庚申山と呼ばれる山が足尾山地にあります。高校時代に何度か登っています。渡良瀬川の西岸に連なる足尾山地の一峰で、奇岩怪石が多く、鋸11峰が連なっています。日光山開山の祖、勝道上人によって開かれ、古くから信仰登山の山として知られる。猿田彦神社(庚申神社)があり庚申講の本山。登山道口に国民宿舎かじか荘があり、シーズンにはここを拠点としてハイキング、登山、観光を楽しむ人も多い。 -------------------------------------------------------------------庚申講とは起源は中国の道教であるとされている。人間の体内には三匹の尸(し)、 または彭(ほう)=虫が潜んでおり、庚申(かのえさる)の夜、人が眠っている間に抜け出して天帝の もとに上り、その人の罪や過失を告げて命を奪わせるという。眠らなければ三匹の虫が 抜け出せない、ということでその夜は眠らずに身をつつしんで過ごさねばならないとする。そのための禁忌を道教で守庚申といった。日本に伝わって変化し、徹夜とつつしみの行事は残ったが三尸虫の伝承はなくなり、行事にともなう 会食・談笑のほうに重点が移っていった。道教の守庚申は日本では「庚申さま」という信仰対象を 祀って礼拝する形となり、その行事が交歓の機会ともなった。「庚申さま」の本体も青面金剛菩薩、阿弥陀仏、観世音菩薩、大日如来、地蔵菩薩、不動明王、 帝釈天、猿田彦、道祖神など様々である。これらの神仏は現世利益をもたらすとされており、道教の 天帝とは全くことなった、福の神の性格を持っている。 小学館百科事典より
2015/03/31
コメント(0)
小学校を卒業したのは東京オリンピックの翌3月、昭和40年(1965)ですから、ちょうど50年前になります。校庭内に当時を思いだすようなものがないかチェックしようと思いましたが叶いませんでした。最近は校庭に足を踏み入れることができません。フェンスごしに撮影でした。桜が咲いて春ですね。 いっきに温かくなり暑いですね。 長柄小学校
2015/03/30
コメント(0)
東北地方で最大の古墳(長さ83m)が郡山市内にあります。その「大安場古墳が造られた時代」講演があったので参加してきました。私が郡山市に住み始めたのは昭和51年でした。そのころは郡山市は明治以降に発展した街で歴史らしい歴史のない街だと聞かられました。この大安場古墳は平成3年に発見されたということです。万葉集の「安積山」の歌木簡の発見出土も平成9年でした。ようするに未発見であったわけです。ということで、まだまだこれからも未発見の史実が出てくる可能性があるわけですね。歴史は埋もれているということです。歴史というものは、発掘された史実がないと解らないということです。歴史への関心度合いと発掘予算が揃わないと歴史は埋もれたままというわけです。私の生まれ故郷では鞍掛山周辺などに土器破片がいっぱい落ちていました。畑から土器が出てきたと云う話も小学生のころ聞きました。まだ関心がうすかったので聞き流してしまいましたが、あれらも古墳発見や遺跡発見につながるものだったのかもしれません。こんなに大きな古墳を造っても、いつしか忘れられてしまうのでしょうか。子孫がいれば語り継がれることでしょう。想像するに一族総てのものが滅ぼされた。そしてその子孫も死に絶えてしまったということなのでしょうかこの大安場古墳は古墳時代前期後半、今から約1600年前築造と云われています。郡山市で古いと云えば、安積国造神社があります。成務天皇5年(135年)、比止禰命が初代安積国造に任ぜられて安積国を建国し、神社を創建して和久産巣日神と天湯津彦命禰命を祀ったのが起源とされるとあります。大安場古墳の築造は400年ごろということですから、安積国造神社起源から265年後の築造となります。古墳は小高い丘の上にあります。大安場史跡公園ガイダンス施設を古墳の上から眺める。遠くには那須連山が望めます。今回はここで講演会「大安場古墳が造られた時代」があったので昨年につづいて2度目の訪問でした。歴史というものは発掘されないとないものとみなされているということですね。この古墳発見を含めて阿武隈山地の裾野に広がる小高い丘には古墳がそこかしこにあることを知りました。川には魚がのぼってきたでしょうから住む場所としても条件が整っていたのでしょう。この古墳が発見されたのは1991年(平成3年)春。「中世城館の堀らしきものがある」との話を聞きつけて、雑木が繁茂した山林に調査に入ったのが、郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団の柳沼賢治さんだという。「頂上部分は平面が四角のようだし、あの形はどう見ても古墳と立木にメジャーを縛り付け、端から端までを計測したら52メートル。両すそまでの距離を加えると70メートルは超え、足が震えたということです。福島県中通り地方で古墳時代前期の大型古墳が見つかったのは唯一。郡山市周辺に大型古墳はなかったというのが定説になりかかっていただけに、大安場古墳の発見は意義のあるものだったという。大安場史跡公園福島県郡山市田村町大善寺字大安場160番地
2015/03/16
コメント(0)
myメモリアルモニュメントである邑楽中学校の校章です。ふるさと母校の校章と48年ぶりに対峙!それは校舎東側の壁面にありました。中二の三学期にデザインして応募して採用された校章デザインです。私のデザインが採用されることを担任教師から朝の朝礼で知らされましたが、私としては不服があったので心良しというわけではなかったのです。当事者への了解もなく、どなたが手を加えたのかの説明もなく事後報告だったのですが、歳月がわだかまりを緩和したということになるでしょうか。担任教諭からの説明は、周囲の3つは松の葉のデザインにチェンジされたと説明を受けたわけです。先日、邑楽中学校のHP校章の説明には、私の提出した説明趣意書と同じものであった。担任の説明した松葉のデザインに変更ではなくペン先のデザインを変えたということになるわけです。それにしてもなぜペン先が松葉にという説明になったのだろう。50年近く前のこと、近藤先生も覚えていないかもしれませんね。
2015/01/26
コメント(0)
サツキが美しいと聞いて霞ヶ城公園に足を運びました。もみじの新緑の中をゆく森林浴は最高ですね。藤の花も綺麗です。花の美しさは今がいいと聞いたらその時がタイミングですが、サツキはこれから1週間位がベストかと思われます^_−☆
2014/05/16
コメント(0)
郡山市には、静御前終焉の地、伝説があります。静御前を祭ったお堂が市内静町にあります。お堂のある静町の由来も静御前にちなんだものだろうと考えられます。静御前堂の前で「義経桜」と「しずか桜」にカメラを向けていましたら視界に、ひときわ背丈の高い桜の木のてっぺんのピンク色が目に飛びこんできました。いままで気づきませんでした。さっそく足を運んでみるとこの近辺の市街地では、私の知っている桜では1番太いのではないかと思うほどの桜の大木でした。郡山の市街地は大火が度々起こり、大木が残っていないと聞いたことがあります。これより太い桜の大木を知っている方がございましたら、ぜひお知らせくださいませ。 さいはら桜と表示板にありました。さいはら桜は樹齢350年のエドヒガンザクラで、高さ約18.5m。静御前の乳母さいはらの霊を慰める目的で植樹されたと伝わる。さいはら桜の存在を知ってもらおうと郡山市大槻東地区の地域おこし団体「ふるさとつくり隊」が掲示板をつくり建ってありました。16日ごろ満開を迎えるらしいとのことです。さいはら桜は、静御前堂 ( 郡山市静町37 )の北側、民家を1軒挟みますが約50mほどの駐車場広場にございます。
2014/04/14
コメント(1)
台風18号が午後2時ごろ郡山市のすぐ東を北東に向けてぬけていきました。その約3時間後くらいに阿武隈川の流れを確認に出かけてきました。濁流ではありましたが、まだまだ余裕がありましたが、1時間ほどして帰るときにチェックしてみましたら、川の水かさが増えていることがわかりました。1時間で約50cm位、水かさが増していたのです。河川敷に建ててあった看板が最初見たときに比べて水に沈んでいたので推測できました。その時点では堤防まで約5m位の余裕がありました。このまま1時間に50cmのペースで水量がアップしたら10時間で定量となってしまうなぁ~。台風通過の翌日に水が出ることもあるので、雨がやんだとしても多少の心配がありました。翌17日朝、再度阿武隈川に行きましたら、川から離れた午後6時時点から約50cm位水があがったのが最高だったようです。たのしみは いつもと違う 散歩道 歴史の小道 目にとめたとき阿武隈川と笹原川の合流地域を散策していましたら、芭蕉小道なる石碑を発見しました。まだ比較的新しく設置されたものです。石碑には芭蕉が奥の細道を歩いて320年ということで往時をしのんで建てたというものでした。私は旧国道を歩いて来たと思い込んでいたのですが、曽良の旅日記の記述から「しんばし」を渡ったようです。守山 より善兵へ馬ニテ郡山(二本松領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。この石碑から気が付いたのですが、奥の細道は旧国道だとばっかり思っていましたが、奥の細道の「しんばし」を渡ったということは、奥の細道は今の旧国道ではなかったということです。曽良日記により320年前より 守山 金屋 日出山 の地名はあったことがわかります。また旧暦の1689年(元禄2年)4月24日は新暦ですと1689年6月11日になります。 旧暦を新暦に変換 するツールがネット上にあります。便利ですね。 白河の関を越えると、歌いながら田植えをするという、実に趣きのある光景が目にとまった。これは、旅に出て最初の風流な味わいであることよ。風流の初やおくの田植うた須賀川到着の夜、等躬宅で催された芭蕉、等躬、曽良による三吟歌仙の発句。元禄二年刊、等躬編「葱摺(俳諧葱摺)」にも、本句を挟む句文が記載されている。 陸奥の名所名所心に思ひこめて、先関屋の跡なつかしきままに、旧道(ふるみち)にかかりて、今の白河も越えぬ。やがて岩瀬の郡(須賀川は市制以前、岩瀬郡の内)に至りて、乍単斎等躬子の芳扉を扣(たたく)。彼陽関(中国の関門。ここでは白河の関のこと)を出て、故人(旧友)に逢なるべし。 風流の初や奥の田植歌(「葱摺」)この「風流の初や奥の田植歌」の句碑は白河の関にも建っているのを見たことがあります。しんばし歩道橋 小学校のすぐ西隣なので、歩道橋です。この歩道橋の西に車の通れる橋もかかっております。現在では、橋の向こうには東北新幹線の高架橋がかかっています。 ◆奥の細道の現代語訳サイトはないものか検索してみましたらありました。 こちら「奥の細道文学館」をご覧になってみてください。
2013/09/16
コメント(0)
たしかこのあたりに湧き水で知られた場所があったはずと思い出して探してみました。子和清水の動画はこちらです。子和清水菅谷不動尊 建立記古老の言い伝えによると江戸時代以前より銘泉として名高く長い年月にわたりコンコンと湧き出て止まず水質も非常に良い。古来眼病を治するに薬効ありと伝承されこの霊水で眼を洗い 奥の不動明王に平愉を祈願し大願成就の際は不動様に剣を奉納したものである。高橋家の先祖が萱谷不動明王を勧請して楓の根に安置された爾来ここは子和清水が通称である。今般 近在の有志が集い環境整備を施して新たに不動明王を建立し心ある祈願者の常楽我浄に供するものである。平成元年七月二日 有志場所:福島県郡山市西田町丹伊田地内こわしみず(湧水)郡山市の水とふれあう名所10選:西田町丹伊田の湧水。※強清水の話題
2013/06/12
コメント(2)
「観音寺の枝垂れ桜」も風情があるよ。見てきたかい?の声に反応しての訪問でした。観音寺川の桜堤防からちょっと外れているので前回寄らなかったのです。はずれているといってもほんのちょっとだけですが、駐車場から離れていると徒歩で歩いていくのは余裕がないとパスしてしまいがちになりますね。訪問したのは5月8日(水)ですから明日で1週間近くなります。早いですね。デジタル写真は撮影枚数が多いと、その日のうちに整理しておかないとあっというまに溜まってしまいます。観音寺 耶麻郡猪苗代町川桁
2013/05/14
コメント(0)
市内では3.11の東日本大地震で建物にひびが入り、危険な建物となり取り壊されているビルが多いのです。左側は今、取り壊し中の郡山中央公民館、右側は郡山公会堂です。郡山公会堂は大正13年9月の郡山市の市制施行を記念し建築され、平成14年国の登録有形文化財に登録された建物です。この郡山中央公民館が壊されますと郡山公会堂の南側が臨める景観が現れます。郡山中央公民館の再建計画がどうなっているのか知りませんが、郡山公会堂の全容が現れる景観を楽しみにしていました。(平成25年2月16日撮影)インドでは古来よりシバ神が最高神として人々にあがめられています。なぜならばシバ神は破壊の神、破壊が起こる事によって新たなる創造が始まるという事になるわけです。隣接した郡山中央公民館の取り壊しが進み、全容が現れた郡山公会堂です。昨日(平成25年3月6日)の撮影です。この建物の景観を考えてみると取り壊した跡地は広場か公園にしたほうがロマンがあっていいなぁ~と思うですが、、、。かつて私が勝手に選んだ「郡山遺産ベスト30」なるものがあります。検索していましたら興味あるblogの書き込みを発見しましたので紹介しておきます。◆郡山市にある世界遺産
2013/03/07
コメント(0)
地域に存在する古くからあるものと云えば、山や川の自然の景色でしょう。人の手による歴史や伝統を伝えるものの代表に神社仏閣があります。そんな地域を代表する歴史ある存在のひとつに田村神社があります。田村神社 所在地:福島県郡山市田村町山中字本郷135 鳥居の右側に「仙道三十三観音、第一番札所」の石柱が立っていたのが目にとまりました。そもそも仙道って何?そしてここを1番とする三十三観音があるわけです。仙道三十三観音 田村神社(郡山市)所在地:福島県郡山市田村町山中字本郷135 主祭神:坂上田村麻呂(758~811年) 創建:大同年間(806年から810年までの期間を指す) 例祭:旧暦6月13日、6月14日、11月3日 田村神社が創建された大同年間とは平安時代が始まってまもなくであります。804 最澄と空海が唐に渡る。 805 最澄(伝教大師)が唐より帰り、天台宗を伝える。 比叡山に延暦寺を建てる。 806 空海(弘法大師)が唐より帰り、真言宗を伝える。 高野山に金剛峰寺を建てる。 平安時代:延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから、源頼朝による鎌倉政権樹立(1192 年)までの約400年間を指す。※日本仏教史
2013/01/02
コメント(0)
福島県の中央部を南から北に流れる川があります。源流は栃木県境に近いところから宮城県に至り太平洋に流れ出ます。写真は中流域、郡山市と本宮市の境界付近です。岩の岸辺に、なにやら細工がありました。3×4cmほどの長四角に掘った穴が並んでいるのです。なんのために、どうつかったのだろうか。いつごろ掘られたものなのだろうか。どなたか、わかる人おりますでしょうか。
2012/12/12
コメント(0)
11月30日あぶくま山系の山あいを北から南に車を運転中、道路サイトに高さ4~5mあろうかとという人形に、、、驚かされて車を停めて携帯写真に収めました。二本松市東和のあばれ山車に乗せられた人形であろう。針道のあばれ山車諏訪神社ゆかりの祭りなんですね。その諏訪神社は今から約1300年前、長野の諏訪神社からの分社なんですね。昔の人はずいぶん遠くまで歩いたものです 約1300年前、長野県の諏訪神社を分社したわけですが、web経路検索しますと最短歩行距離は365kmです。現在高速道路経由で460km、5時間32分です。当時、はたして東北弁がうまく通じたのだろうか。諏訪神社は神道系の神社です。諏訪市の諏訪神社は御柱祭で知られていますが、東和の諏訪神社は、あばれ山車です。
2012/12/02
コメント(0)
2012/7/29 現地には蓮の花が咲いておりました。初代の征夷大将軍と云えば坂上田村麻呂、その坂上田村麻呂の生誕の地と云われるのが郡山市田村町にあります。 ※「坂上田村麻呂」の生母を祭った谷地神社
2012/11/17
コメント(0)
江戸時代、柳橋地区は幕府の直轄地であったために、 他領に比べ領主の介入も年貢の取立ても、比較的おだやかであったため、芸能が自由に行われ、菅布禰神社の祭りに村人が芝居や歌などを楽しんでいたことが歌舞伎の始まりになったといわれています。 1980年(昭和55年)『柳橋歌舞伎保存会』が発足して、歌舞伎上演が復活。毎年11月23日、柳橋地区内の郡山市農村生活中核施設「黒石荘」の中にある舞台で披露 されてきました。 1983年(昭和58年)3月、郡山市指定重要無形文化財に指定されました。柳橋歌舞伎の衣装です。約200年ほど前に作られたものだそうです。今から200年前だと1812年は文化9年。将軍は第11代、徳川家斉。町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化というこの衣装、現在の貨幣価値でいうと製作費は1着○千万円位だということです。郡山市重要文化財に指定されているそうですが現在もこの衣装、現役がそうです。商工会主催の「第6回ビジネスフェア夢商い」in ビッグパレット郡山
2012/10/20
コメント(0)
地域で歴史的に古いものといえば何が思い浮かぶでしょうか。さしずめ神社仏閣などはかなり古くから存在するものかと思われます。「日本で一番古い神社は?」検索してみました。大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県桜井市にある神社である。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。自分の住む町の歴史も少し調べてみようかと思います。この地域で古くからあったものは、はたしてどこの何であろうか、調べてみるのもいいかもしれません。郡山でまず最初に神社で思い浮かぶのは安積国造神社創建は、第13代成務天皇(131~190年 弥生時代)の御代。勅命により、比止禰命(ひとねのみこと)が安積国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、当時未開の地であったこの地を開き、治めましたとあります。現在の拝殿は文化7年(1810年)に再建されたそうですから202年前になります。郡山の市街地において唯一の、江戸の木造建築だそうです。ちなみに江戸時代は1603年~1868年(265年15代将軍)如法寺 福島県郡山市堂前町4−24 真言宗豊山派の寺院郡山の有力者、虎丸長者が都に上り、平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷、大同2年(807年)に観音堂を建立して笹久根上人を招いて開眼供養を行ったのが始まりと伝えられる。境内には数多くの古碑があり、鎌倉時代の刻銘のある石造笠塔婆、板石塔婆は、重要文化財に指定されている。※大同2年(807年):平安時代(794年-1185年/1192年頃)郡山市でも縄文土器の出土があるわけですから弥生時代に創建されたと云われる安積国造神社よりも前に人が住んでいたわけです。そういえば大安場古墳群もありましたね。大安場古墳群(おおやすばこふんぐん)は、福島県郡山市田村町にある古墳時代前期後半頃の築造と推定される前方後方墳1基、円墳4基からなる古墳群。1号墳は東北地方最大の前方後方墳で、国の史跡に指定されている。年代は日本史年表を参照ください。郡山市は歴史のない新しい街だと昭和51年に越してきたころは云われていましたが、その後の発掘調査等で古墳時代から続く古い歴史のあった街であったことが近年わかってきました。そこが歴史のあるなしは、どうやら調査発掘がすすんでいるかどうかの差であると思われます。
2012/10/19
コメント(0)
郡山駅です。郡山市の夏まつりである「うねめまつり」のPR提灯が鈴なりになっております。8月2日(木)、3日(金)、4日(土)と今年も恒例の郡山市の夏を彩る「うねめまつり」が開催されます。4年前の2008年に万葉集に掲載される「安積山」の歌が歌木簡として、万葉集に収めれた歌の中で初めて土の中にうずもれていた木簡が出土したのです。この歌を詠んだがうねめまつりの主役の采女(うねめ)だったのです。ですから伝説と事実が一致したわけです。この采女まつりを提唱したのが故、今泉正顕さんだったと云われていますが、亡くなる前の年に、発見があり、この史実を目の当たりにしてさぞや胸躍ったことだろうと思われます。歌木簡の出土も奇跡的なことが重なって発見され、うねめ伝説が証明された形になったわけですからきっと感慨もひとしおだったかと思われます。約1300年前の伝説が、地中から証拠の品が出てきたというからビックリでした。伝説が約1300年間、伝わってきたことです。これって郷土の誇りではないでしょうか。どういうふうに伝説は今日まで伝わってきたのだろう。古文書とか残っていたのでしょうか。またひとつ探求してみたい課題がでてきました。うねめまつりの起こりを探ってみなくてはなりません。現代の「安積山」の歌を詠むでみるのも酔狂かもしれません。安積山 見える景色 変わらねど 原発被害 そこかしこなり第48回「郡山うねめまつり」の公式HP昨年は東日本大震災後の祭りということで郷土の出身のタレント西田敏行さんもかけ、ディズニーランドのキャラクターもスペシャルパレードがくりひろげられてかつてない華やかさがありました。今年もサプライズがあるのか、例年の祭り規模となるのか、ふたをあけてみないとわかりません。
2012/07/25
コメント(0)
世界遺産が観光地のステータスをアップさせるのなら、各県各市で○○遺産をつくってみたらいかがだろう。というわけで私の独断で選んだ「郡山遺産30」をとりあえず並べてみることにします。思いつくままに、埋めてまいります。最初は30ヶ所すぐに埋められるかなと思いましたが、終わってみればなんなく30ヶ所が埋まりました。まだ載せきらないところがあるということになります。1.安積国造神社 (135年)比止禰命が初代安積国造に任ぜられて安積国建国2.開成館3.開成山大神宮4.開成山公園5.高柴デコ屋敷6.柳橋歌舞伎<郡山市指定重要無形民俗文化財> 2008年7.田村神社8.麓山の滝9.郡山合同庁舎10.公会堂11.安積山(額取山)12.安積山公園13.バラ園(開成山公園内)14.うねめ祭り15.郡山布引・風の高原16.銚子ヶ滝17.ごれいびつ峠の山つつじ18.鹿島神社・ペグマタイト岩脈19.磐梯熱海温泉20.母成グリーンライン21.湖南のあかはら(ウグイ)22.郡山の鯉23.安積歴史博物館24.富岡の唐傘行灯花火(からかさあんどんはなび) 10月の第2日曜日開催25.高玉金山26.大安場古墳 古墳時代前期(4世紀後半)全長約83メートルの古墳27.郡山市立美術館28.坂上田村麻呂生誕の地 初代征夷大将軍を名乗った田村麻呂29.丸守発電所 1921年(大正10年)に建設30.ビッグアイ(地上24階、地下1階建て、高さが約133mの福島県内では最も高いビル)又の機会に、31~50まで追加するかもしれません。私が郡山市に住み始めたのは1976年(昭和51年)からでした。そのころは郡山市は歴史と云う面では特筆することはなく明治初めの安積開拓事業から発展した街だと云われておりましたが、平成に入ってから万葉集の安積山の歌木簡が出てきたり、古墳の発見があり、中世の街の発掘があって、古くから人の営みのあったところであり歴史がないどころか、調べてなかったので判らなかっただけだということがわかったわけです。連綿と伝えられてきて今日がある史跡(安積国造神社など)うずもれていて発掘によって世に出たもの(大安場古墳・安積山の歌木簡など)ということは、まだまだうずもれている歴史の真実があるかもしれないということです。比較的に成文化されたものが残っているのは寺や神社かと思われます。江戸時代までは寺が学校から役場までの機能をもって住民の過去帳も保管していたわけですから。寺と神社を調べてみると地域の全体像がわかるかもしれません。これを思いついたとき、外から郡山市の観光地を調べる場合、おそらく検索「郡山市観光協会」を調べるのではないかと推察します。たのしみは 我が街遺産 あれやこれ 新発見に 気がついたとき
2012/07/22
コメント(0)
全83件 (83件中 1-50件目)