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芥川賞作家、中山義秀を読む『厚物咲』(2023/07/13完了)半年も経過するとその内容をほとんど覚えていない。鑑賞菊の菊の品種が厚物咲であり主人公が鑑賞菊を育てる事が趣味であったこと位。読んでいる時、その物語に浸っていられるわけです。読書というものはそれでもいい。記憶と言うものはインパクトが感じられないと薄れてゆくものだ。インパクトがあれば刷り込まれたものは記憶に残る。これを忘れると云います。老齢化しますと記憶脳の装置が劣化をきたすのでしょうか。記憶にございませんとなるわけです。という訳で、もはや記憶の棚卸しをする必要はないのかも、忘れるものは忘れて忘却の彼方もまた良しとする。いわゆる断捨離ですね。今年は思いきって断捨離の年にしよう。捨てる事を多くするのです。捨てないから物は溢れることになるわけです。まずはまもなく始まる連休を断捨離スタートとしよう。
2024/04/22
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福島県ゆかりの芥川賞受賞作品、中山義秀の「厚物咲」を読み終えた後に掲載の「歴史」榊山潤著が気になったのでパラパラめくっていたら一気に読み終える。負けた側の二本松藩士からみた悲惨な戊辰戦争記です。戊辰戦争に関する歴史小説と云えば、2021/12/31に亡くなった星亮一氏が思い浮かびます。氏の著作は亡くなった直後に追悼読書として2冊だけ読みましたが戊辰戦争記は読んでおりません。今回の榊山潤著「歴史」をキッカケに星亮一氏の書いた戊辰戦争記を読んでみたいと想います。かように、ちょっとしたキッカケで連鎖が次々に起こる場合があります。ちょっとした行動が次なる連鎖を生むわけです。ちょっとした行動が次々と連鎖を生むことがあるわけです。行動してみてわかることです。『 会津落城 』戊辰戦争最大の悲劇 星亮一著 (2022/02/06)郡山市在住の歴史作家と知られた星亮一氏が2021年の大晦日に亡くなったことを知り、追悼読書2冊目です。1冊目の時は馴染めずに読みづらいなぁとも思いましたが2冊目ともなると文体にも慣れ読み易く感じられるようになりました。#戊辰戦争 #会津落城 #星亮一「会津落城」星亮一著、戊辰戦争もの読んでいたのを書込みハッシュタグで知る。1年以上経過ですっかり忘れていました。いやはやなんとも情けない。今一度読んでみましょうか。 #会津落城 #会津戊辰戦争 #戊辰戦争戊辰戦争とは戊辰戦争、慶応4年 / 明治元年〈1868年〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国が戦った日本の近代史最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 日付: 1868年1月27日 – 1869年6月27日戦死3556人、負傷3804人: 戦死4707人、負傷1518人◆戊辰戦争が起こった理由は何ですか?戊辰戦争が起こった原因は,大政奉還(たいせいほうかん)の後に権力を奪われた旧幕府軍の,新政府に対する反発です。 幕府側は,朝廷を中心とする新政権に徳川家も参加することを前提として大政奉還を行いました。しかし大政奉還の後,新政府は王政復古(おうせいふっこ)の大号令を発し,天皇中心の政治に戻すことを宣言しました。そして旧幕府(徳川家)の影響力を排除しようとして,徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に対して役職を辞任することを命じ,領地も返上するよう求めました。これに対して強く反発した旧幕府軍が京都近くの鳥羽・伏見で新政府軍と武力衝突して,戊辰戦争が始まりました。新政府軍は鳥羽・伏見の戦いに勝利し,続いて江戸に攻め進みました。そして江戸を占領し,さらに東北地方へと攻め進み,最後は北海道の函館(はこだて)での戦いに勝利して,旧幕府軍を降伏させました。◆戊辰戦争 誰が始めた?1868年1月、大政奉還後の徳川慶喜への処遇に不満の旧幕府軍が新政府軍と京都で衝突。 「鳥羽・伏見の戦い」に始まる戊辰戦争は1年半に及んだ。旧幕府軍の最高指揮官、徳川慶喜が大阪城を抜け、軍艦で江戸に向かったことで、旧幕府軍は総崩れとなった。新政府軍が江戸城に迫ると、13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の正室篤姫(あつひめ)(天璋院(てんしょういん))は、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の正室和宮(かずのみや)(静寛院(せいかんいん))と協力して、徳川家の存続を働きかける。新政府軍による江戸城総攻撃は、勝海舟と西郷隆盛との話合いにより中止となり、江戸城は「無血開城」となる。上野寛永寺に謹慎する徳川慶喜を守る「彰義隊」が結成され、上野戦争が起きたが、新政府軍の大村益次郎などにより一日で鎮められた。会津藩を討とうとする新政府軍に対抗して、東北諸藩は奥羽列藩同盟を結び、新政府軍と戦うことになる。中立を唱えていた長岡藩も奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦った。会津若松城(鶴ヶ城)の煙を落城と見た会津藩の少年藩士白虎隊は、自害してしまう。会津藩もついに降伏。新政府軍の箱館(函館)総攻撃に、旧幕府軍は海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)や新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)らが五稜郭(ごりょうかく)を本拠に戦うが敗れ、戊辰戦争(ぼしんせんそう)は終結。◆ 戊辰戦争が開戦するキッカケと主な出来事 ーーーーーーーーーーーーー第7回芥川賞の選考会議のおり中山義秀の「厚物咲」を強く推したのは同じ高校の先輩であった久米正雄であったとある。また古くから交友のあった横光利一も。選考する人の意見で決まるわけですかこれら親しい人の推薦があったからこその芥川賞であったことを知る。
2023/07/18
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本を読むにもコツがある。関心があったから購入したヨーガ関連の分厚い本、永年積読になっていたわけです。気がつけば25年経っていましたが、気になってふと手にとってみたら、付箋紙が挟まっていたページは読みたいところ。あとがきから読んで、序文を読んで、講演録をまとめた本を翻訳してされたものとわかりました。口語体で書かれてあり、どこからでも読める、読み易い本であることもわかりました。424ページもある厚い本ですが今なら読める。図書館から借りての追悼読書を思い立ち、星亮一氏の会津本を2冊読み終えた後でした。1冊目の時は、慣れない文体だと感じたのですが、2冊読み終えたら文体にも慣れて抵抗なく読めるようになっていました。目が活字慣れしてきたようです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆https://e-seihou.co.jp › cuprumfiber銅繊維(カプロンファイバー®) – 株式会社セイホウ(栃木県足利市)カプロンファイバー®とは. 超極細・高純度の銅線を、独自の技術でカバーリングすることで、本来伸びないはずの金属である銅線に伸縮性を持たせることに成功。
2022/03/08
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『 会津落城 』戊辰戦争最大の悲劇 星亮一著郡山市在住の歴史作家と知られた星亮一氏が昨年の大晦日に亡くなったことを知り、追悼読書2冊目です。1冊目の時は馴染めずに読みづらいなぁとも思ったが2冊目ともなると文体にも慣れ読み易く感じられるようになりました。戊辰戦争が郡山でも会津藩の兵士から火を放たれて如法寺周辺軒並み焦土となった。白河城に応援にきた仙台藩の兵が鉄砲など捨てて逃げたその銃兵器を手に入れた子前百姓が郡山商人宅の蔵破りをしたことも知った。マタギを兵隊に採用したり農民を米や兵器の運搬に駆り出したりと一般人も戦争には無縁では居られなかったことがわかります。ちなみに日本国内で最後の内戦は、西南戦争、または西南の役。1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のものと云われている。生きているのは『今ここ』そこから未来のだから、『過去は生ゴミ』と喝破された方もおりますが、今ここが在るのは過去があったからこそという考えもあります。過去を精査して書物にまとめる人もあるわけです。未来は最終的には必ずの『死』が誰にも待っているわけです。その死ぬ日までが自分の生命の時間です。その生命の時間をどう生きたらいいのかは、程度の差はあれ自分の好きに自由に選べるわけです。どう思うか、どう考えるか、どう文字にするかは、各人各様自由ではありますが、どのように成文化するかの影響が大きいわけです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日のランチは、とろろ蕎麦へぎそば乾麺を茹でる。とろろ芋を擦りおろす。すこぶる喉越しのいい蕎麦とあいなりました。これに天ぷらでも有れば上々なのですが❣️※ 本日、気にとまったことや言葉から。以下■ フライパンで簡単!我が家のパエリア(スペイン料理)■ ウクライナ周辺にロシアが軍隊を進行させている。NATOへの加盟を阻止したいロシア。
2022/02/06
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昨年大晦日に86歳の生涯を終えた星 亮一さんの追悼読書です。氏の書かれた本を一冊も読んでいなかったことに気づき読み始めたわけです。星 亮一著、「 幕末の会津藩、運命を決めた上洛 」文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として、尊皇攘夷派の排除を行った。京都守護職として王城の護衛に当たった会津藩が、なぜ朝敵として殲滅されたのか。落城後も会津降人とさげすまれ、下北半島で挙藩流罪の暮らしに追いやられたのはなぜか。明治維新史は、まだそれらを完全に解き明かしてはいない。鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。この鳥羽伏見の戦いを正面から見つめた『会津藩大砲隊戊辰戦記』という史料がある。大正3年(1914)に旧隊員の藤沢正啓が活字にしたものである。鳥羽・伏見の戦いが終えてから46年後に上辞されたものです。会津藩は1868、慶応4年/明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。今年は、会津戦争が終わってから154年目になります。私の知る戊辰戦争は趣味の詩吟で白虎隊。母成峠の戦い。旧滝沢本陣(会津若松市)では、弾痕跡や刀キズが確認できるのには驚きました、現地を3年前に見てきました。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆釜揚げうどん by 丸亀製麺釜揚げうどん半額アプリ−150円、よって¥260でランチです。この金額でランチできるのはホットモットか、おにぎりたけや位かも。それにしても寒い冬には、あったかいうどん、いいね‼️ br>※ 本日、気にとまったことや言葉から。以下 ROOM楽天 ROOMは楽天市場のショッピングSNSです。 お気に入りの商品を投稿することで、他の人とつながり、お互いに思わぬ魅力的な商品に出会うことができますとある。
2022/02/03
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図書館で新潮文庫「山椒魚」井伏鱒二著を借りてきた。短編だとは記憶していたが開いて確認したら、なんとたったの11ページの作品なので驚いた。一瞬11ページの全文字数を数えてみようかと頭をよぎった。こんなにも短かったのか。山椒魚は国語の教科書にも掲載された作品なのだ。大正8年作で井伏鱒二氏21歳の処女作であり代表作。そのへんの経緯を調べてみると「山椒魚」は井伏鱒二が最初に発表した作品(その時は「幽閉」の題名)であるとともに、その作家生活のほとんどの期間にあたる60年あまりの長きにわたり改筆が続けられた稀有な作品であることがわかった。最初は画家希望だった井伏氏だけにのちに完成した絵に加筆するかのように自分の書いた小説も改筆を厭わなかったのかも知れません。それだけ本人にとっても愛着があり妥協が許されなかったのかも。歳と共に心境も変わりますしね。この時代だからweb検索で調べれば、すぐ知ることがあるわけです。 残念ながらどんなふうに変わっていったのかまでは解りませんが、加筆の変化を見ることができたなら面白いのにと思われます。
2021/05/17
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一昨日「伝える力」の講話を聞いたせいか、書店を通過しようと歩くと「話し方、伝え方」なる書物が目に飛び込んでくる。手描きのPOPがあると余計に惹き付けられるものがある。「YES」が隠されていたのを誰かが、めくって剥がれたのが下に落ちていた。隠してあると、めくってみたくなるのが心理でしょうね。何らかの「 」をもらったりするのも話し方次第‼️さてこの「 」にはどんな文字が隠されていたでしょうか⁉️よろしかったら推測してみてください。11日22時頃、発表します。今さら「話し方・伝え方」なんてと思われる方もあるかもしれませんが、生きている間は対人関係、対人コミュニケーションは欠かせないものであることは自明の理でありましょう。言葉は方向指示器です。どう言葉を駆使するかで伝え方、伝わり方が変わります。生活する中、仕事する中で、話し方・伝え方は日々繰り返される基本中の基本。にもかかわらず体系的に学校では教えてくれない。「話し方教室」でこの本のタイトルを掲げたら集客できそうですね。
2021/02/10
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【読後感】さだまさしさんの書かかれた本は読みやすい。歳が同じなので時代背景が一緒なので親近感があるわけです。今回の表題「やばい老人になろう・やんちゃでちょうどいい」どんな、やばい老人なのかちょっと気になったわけです。やばい老人とは、著者がお世話になった方、実際にお会いした方、作家や作曲家の方々です。触れあってみてああなりたいと思える老人力の卓越した方々だった。やばいとは、すごいという尊敬が含まれている言葉としての選択だった。本来は、 やばいとは、あぶない・不都合な状況が予想されるさまを云ったが、ここでは肯定的な使用法「びっくり」・「おもしろい」・「楽しい」・「感動している状態」などの意味合いでの用い方であるようだ。読後再読した まえがきに、尊敬を超えてその存在に思わず身震いしてしまう「やばい老人力」で圧倒的な生き様を伝えられたらと思うとあった。エピソードとして記憶に残ったのは、山椒魚で知られる作家・井伏鱒二さんにお会いして、井伏鱒二さんに井伏鱒二全集の中の山椒魚の最後の十数行を自ら削ってしまったことで文壇に大議論を巻き起こしたその省いたのは何故なのか!?を訊ね、山椒魚が外に出られないのはかわいそうだからとの文壇人が聞けないことを引き出して思い出に残る面会となったとあった。私は井伏鱒二氏は明治の人だと思い込んでいたが、明治31年~平成5年まで95才の長命だったのです。晩年遭遇することがあったと知った。やばい老人の条件が3つ挙げられていた。その1「知識が豊富」、その2「どんな痛みも共有してくれる」、その3「何か一つスゴイものを持っている」
2020/07/24
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