日記はこれから書かれるところです。

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2005.10.30
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法はどこで生まれるのか。

これは現代民主主義=立憲主義を考えるうえで、つまりは、自由(われわれの自由とこの国の自由)を考えるうえで、大切な問題であろうと思う。

「日本は法治国家」だという、よくある誤解を語り出しの鍵としようか。


■日本は法治国家ではない

ネタとしてとって置こうと思っていたのに、前回先走って書いてしまったが、分かっていながらわざと確信犯的に言っていたのか、本当に知らずに言っていたのか、中曽根康弘という人は「日本は法治国家だ」ということをかつて述べた。

本気だとすると、とんでもない誤解なのだが、もしかすると「(国民)放置国家」(あるいは「放恥」?)と言っていたのかもしれない(であれば、言行一致の見事な政治家だが)。
いずれにせよ、巷にもこの誤解は溢れているように思う


■法治国家

形式的法治国家とは、法律で決めさえすれば何でもできるという考えだと言ってしまって差し支えないだろうと思う。後で少し書くが、俺はこの形態よりは権力者の「恣意の政治」の方がマシなんじゃないかとすら考えている。

「法治」とはつまり「法律を用いた統治」なのであり、権力側が「統治」するという考えが濃く、民主主義の大前提「主権者は国民」を壊す可能性があるわけだ。

たまに「でも、国民の代表者が法律を作るんでしょ」なんていう純粋無垢でナイーブな意見も聞くんだが、形式的法治主義を見事に体現してくれたのが、絶大なる支持を得たヒトラー君だったわけだね。


■じゃ、なんなのよ

「○○は△△じゃない」と言ったとき、「じゃ、なんなのよ」っていう受け答えがあるけど、これはおかしい(個人的に好きなやりとりではあるんだけど)。まあ、これは長くなるからいいか。暇なときに書こう。

実は、ドイツの「法治国家」も、戦後反省から「違憲審査制」を採り入れ、実質的には変わらなくなってきたのだが、われわれの立憲主義はふつう「法の支配」として位置づけられる。

「法の支配」は、字のごとく「法が支配する」わけで、権力者は支配される側に入るわけだ。憲法の名宛人は国家だと以前も書いたが、形式的法治主義と法の支配では、理念において大きく異なる。


■メンタリティ?

法が支配している、というよりも、なんか「お上」が法律作っていろいろやってるって思ってる人が多いんじゃなかろうか。
そうすると、自然、「お上、しっかりやってくださいよ」って考え方になる。これは、法律作るなら、ちゃんとしたの作ってね、っていう気持ちに近いかな。

確かに、この要素も必要だろうと思う。
なんか、衆院で与党が2/3とったから何でもできるっていう意見があるけれど、人間の世界はそんなに単純じゃない。
現に、参考人や野党の追及で「共謀罪」はひとまず法案提出が見送られたわけで、少数だって力を持ちうるのが本来の議会のあり方なわけだ(だから、何度も書いてるけど、俺は多党制の方がいいと思っている)。

だけど、そうしたお上に倫理を求めるやり方は、小泉みたいなポピュリストが出てくるとうまくいかなくなる。現に「郵政」で、もっと審議が必要だからと、NOを言っていた自民党議員たちは、離党させられているわけだ。
これは言論による説得ではなく、れっきとした物理力=暴力であるわけで、民主主義の危険状態といえる。

そこで行政府の歯止めが聞かなくなったときのことを想定していないという点で、「法治国家」という考え方は危うい。


■法の支配の運動

では、「法の支配」はなぜ良いのかといえば、行政とは独立した司法が「憲法(立憲主義)に照らして」判断するという機会を踏むからだ。

つまり、立法府(国会)でできた文言が、われわれの実際の生活を脅かしたとき、その実際の生活においてその法が正しいのかどうかを判断するということを大前提に考えられている理念であるわけだ。

もう少し言えば、人は間違うということを前提にしている理念であるといえる。どんなに注意したって、理論と実際は違うと言われるように、それが誰かの生活を脅かす可能性はあるわけだ。良かれと思ってやったことが、逆に酷い事態を起こすことがあるわけだ。

国民の生活を酷い目にあわせる法律をつくる国会を、民主主義政府というのは難しいでしょ(この点、自民党改憲案の95条削除は驚くべき歴史的アホさだ)。


■無垢な良心が人を傷つけるときが怖い

さっき、少し触れたことだが、俺は統治形態をマシな順に並べれば、

法の支配>明白なる独裁>法治主義

だと思っている。
前に「 続・回り道雑談(1) 」にも書かれていたが、表現の自由が制限されているということが明らかな国の方が、この国のように国民を騙す政府よりもずっとマシだと考える。


■法とは

さて、やっと「法はどこで生まれるのか」に迫ってきたが、最後の準備として、法とは何かを考えておこうと思う。

英語では、法は「law」で権利は「right」だが、ドイツ語では「Recht」、フランス語では「Droit」が、「法」と「権利」の両方の意味を持つ。

つまり、法=権利という概念ができているわけだ。

歴史的に、法というものがどのように出来てきたのか、示唆しているように思えないだろうか。
主観的法である「権利」と、客観的法である「法」の鬩ぎ合いの中でできてきたと考えられないだろうか。

つまり、法を作っているのは、国会ではなく、まさに人類の営為なんだと俺は考えたい。これは、「文言」として国会が作った法律を「どのように理解するか」という行為もまた、法を生む行為であるわけだ。


■法はどこで生まれるのか

それゆえ、俺は民主主義には、絶対に「独立した司法」が必要だと考えている。法はこの場所にあって、主観的なものから客観的なものに変わる。

そういう理解で読むと、憲法12条は「われわれの法をつくる歴史への参加」という風に読めて、俺は大好きなのだが、クソ中曽根は、これにも手を加えやがった。あの禿げ。


ともかく、最後にまた引用しときましょうかね。


すべての法の陰には人間の、もしあなたが注意深く読めば、その血が行間に流れていることがわかる人間の物語が隠されています。
条文が条文を生むのではありません。人間の生活が条文を生むのです。問題の核心は-政治と歴史の問題、つまり法の問題の核心は-誰の経験がどの法のもととなっているかにあります。――キャサリン・マッキノン








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Last updated  2005.10.31 19:03:44
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