全379件 (379件中 1-50件目)
もういろんなところで指摘されているが、適当に変数をでっち上げて、不安を煽った数理モデルとそれに基づいた専門家会議の提言、および政府の決定について、検証と総括を求めたい。 感染の広がりの予測は、厳しい数字を上げておけば、外すことはない。 しかし、その結果、経済において殺される人々がいることをこの人たちは知らないのだろう。 ここでも何度も言ってきたことだが、政治は、あらゆることを勘案して、責任を持って決定するものであって、あとから言い訳するものではないし、ほお被りするものでもない。 支持率の瞬間風速しか見ていないバカな風見鶏と、つぎの知事選のためにコロナを引っ張りたいバカな都知事は、ほとんど殺人鬼と化している。 上に立つものが酷いと戦争で人が犬死にするのがよくわかる。 バカな奴の行う憲法改悪だけは勘弁してほしいね。 さて、この記事がよくまとまっている。 刮目してみよ。 https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020050400001.html?fbclid=IwAR0JPV_xYv4DhlsolDsAqRb9ZQBFIBoZaSoOOcgCu55uz43nYcqBfRB4QAI&page=1
2020.05.04
コメント(0)
1ヶ月ほど前に言いたいことはほとんど書いた。 今振り返って、結局予想が当たってた。 しかし時流の勢いが強く、「読めない」人たちに対して、多勢に無勢感が半端なくて、本当に諦め心地だった。 その間に、廃業した人々もたくさんいる。 補償も約束されずに、「自粛」を「強要」された人たちもいる。 本当に、おかしな事態だが、不安ウイルスに頭を犯された衆愚の民たちは気付かない。 自粛警察などという統合失調症予備軍が大量に現れているのも、社会に漠とした不安を政治屋たちが投げつけたからだ。 ■前から言ってるけど、もう普通に溢れている なんども指摘しているが、どうやったって集団免疫が一番確実だ。 スウェーデンがヨーロッパでは唯一の軸として集団免疫獲得を目指している国だ。 たしかに、現状の死者数は比較的に多い。 だが、このウイルスはあと10年は人類に影響を与えることを考えれば、長い目で見たときに、ヨーロッパ諸国で最も少ない死者数で終わらせたのはスウェーデンだということになる可能性は高い。 とにかく、目先のことしか見えない馬鹿は、政治には関わってはいけないと思うわけだ。 それはともかく、こちらも指摘してきたことだが、この神戸新聞の記事。 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202005/sp/0013317630.shtml 4月の上旬には神戸市に4万人の感染者がいたというもの(公式発表は260人)。 慶應大病院での検査でもわかっていたことだが、東京や大阪・兵庫には、もう感染(済)者が溢れているに決まっている。 3月の段階で東京には20万人くらいはいるだろうと推計していたのだが、いまは100万はいるだろう。 「自粛」で医療機関を守ることには意味があるが、政治はもっと頭を使えることがあったはずだ。 目的は一義には医療機関を守ることであって、感染者を増やさないことはその手段でしかない。 そもそも、いま感染しなくたっていずれするのだから。(■非常事態宣言なんてもってのほかだ■から言ってきたこと。) ■経済を早く回せ 数字の読めない不安ウイルス感染者はともかく、これだけ廃業、失業が増えつつあるなかで、今の都知事の施策は本当に頭が悪いとしか思えない。 冒頭挙げた記事じゃないが、次の選挙のために人を殺しているわけで、本当に「控えめに言って、クズ」だ。 衆愚政治では、自分たちに苦痛を与える独裁者が人気を集めるというのは本当なんだな。 バカの集まりの国や地方自治体では、もっとバカな政治家が権力を握るわけだ。愚かしい。 数字の根拠も示さないで数理分析をするキワモノ研究者が北大にはいるらしいが、政治が、あんな外さないように構えた分析、を鵜呑みにして判断して良いわけがない。 それで首を括る人が増えてるんだから、これは控えめにいって、大量殺人者だろう。 先日の専門家会議の会見直後から、なぜに緊急事態宣言を出す必要があったのか、という声が多く聞こえるようになった。 再生産数がそもそも低かったことを認めたんだから当然だ。 アホが1匹、学校を止め、バカが1匹、経済を殺した。 大阪の方はもっとひどいバカがいるらしいが、まあ、大阪だからな。 というわけで、この人の分析。 https://www.landerblue.co.jp/50000/ まあ、どうして日本の重症化率は低いのか、というのはここでも何度か見てきたが、その仮説はともかく、重要なのはファクトのほうだろう。 エビデンスとはこういうものであって、勝手に変数を与えて行う数理分析などではない! まあ、とにかく、日本だけがアジアでダメな政策を打った国だということは後世の歴史に刻まれて良いだろうと思う。 安倍や小池がバカなのだが、そして、そのリスクコミュニケーションの仕方が酷かったことがもちろん大きいのだが、それでも、そのバカを増長させたのは、やはりバカな国民であるという自覚を持っておきたい。
2020.05.04
コメント(0)
ハンナ・アーレントは近代の空気を嫌った。 彼女は、古代ギリシアにおいて、 action、work、labor の順であった価値体系が、近代においては転倒され、 labor、work、action の順になってしまったことを嘆いている。 laborは、生存と繁殖という動物的目的のための活動だ。 ギリシアでの活動的生活において最高位にあったactionは、複数の人々の交わりの中から生じる無目的な空間に根差しており、予測不可能性という自由を保持していた。 善くいきるための活動だった。 workは、目的を持った活動であり、世に作品を残そうとする活動である。 アーレントが嘆いたのは、近代人たちが、ただ生きることをひたすらに求めて、人間の人間たる所以を放棄したように見えたからだろう。 今回のコロナ狂想において、そうした考えと近いものを持った者も多いはずだ。 同じ考えの医師のノートを。 https://note.com/hiroyukimorita/n/nf86e44f3e4dc?fbclid=IwAR0dQ_752JZkzI91-RZZDQzCU8L6THkRGH8xApOz-oLhFfNWIZqR68iwk2g
2020.04.18
コメント(0)
全く違う時代の始まりになるのか、よくわからない。 もちろん準備ははじめている。 心の準備は常にしている。 変化は突然やってくる。 だが歴史を紐解けば、大きな逆転はそれほど起こらない。 ごく少数を除いて、貧乏人は貧乏人のままだし、大衆は大衆のままだ。 たぶん、おそらく、準備ができていない者には、何が起ころうと変わらないのだろう。 ふつうに考えれば、そうなるよな、という筋が、今回のコロナ狂想曲にはあるように思うのだが、目の前のことに感情が煽られて過敏に反応してしまう人たちには、たぶん死んでもわからないのだろう。 死んでも治らない病。 おそらく、これを恐れるか恐れないかに、生き方の違いがある。 まあ、とにかく、非常にバランスのとれた考えを東大の前田先生が提出している。 facebookで、シェア自由とのことだが、シェアの意味を字義通りとって、ここに掲載させて頂く。 ■■■ 【収束まで何年?親の覚悟】シェア、ご自由にどうぞ... 前田恵理子 4月12日8:09 【収束まで何年?親の覚悟】 シェア、ご自由にどうぞ! 先ほども投稿した通り、コロナの終息は10年仕事だと思っています。 〇ウイルスの病原性と収束に必要な期間 感染症の終息に必要な戦略は、ウイルスの感染力や病原性の高さによって異なります。病原性が高く致死率が高ければ、感染した宿主も亡くなってしまうので伝播力は高くなりません。弱毒の場合は、伝播力が強くてもただの風邪と同じですので社会的インパクトはありません(2009の新型インフルがこれ)。今回の新型コロナは、ご存知の通り潜伏期間が長く、重症化率が2割と程よく、無症状・軽症者による伝播力が強い、しかも重症者は医療を必須とする意味で、社会的コストがもっとも高いウイルスになります。このタイプのウイルスの制御に必要な条件は、日人口の7-8割が感染し集団免疫を獲得するか、ワクチンができ集団接種が進むの2つしかありません。特効薬も期待されますが、必ず耐性ができますし、重症者が死ななくなる程度の効果に留まる(それも大きいです)と思います。 〇集団免疫の獲得 100年前なら、こんなウイルスが流行っても、医療は当てにできず多くの患者さんが亡くなって数年で収束しました。しかし、人類、とくに先進国は高度医療という魔法の力を知ってしまったたために、「医療を崩壊させずにゆっくりじんわり集団免疫を獲得する」道を選ぶしか選択肢がなくなりました。これはある意味、医療を諦めて感染爆発を許容するより困難な道のりです。医療崩壊 させずに、日本人9000万人が感染するには、50年くらい時間がかかるのではないでしょうか。よって、収束に必要な条件は、ワクチンができて集団接種が進む、の1択になります。 〇ワクチンがみなさんの手元に届くまで 各国がしのぎをけずってワクチンの開発を進めています。この人類の情熱をもってすれば、2-3年の間に実用化するかもしれません。それでも驚異的な早さですが、私は2年程度でワクチン開発に成功できるだろうと、医学の力を信じています。 でも、ワクチンは健康は人に打つものですから、安全性の検証に長い時間がかかります。世界中に届けるための量産化にも1年以上かかるでしょう。3-4年後に、量産化が完成すれば御の字です。3-4年でも驚異的な速さです。 難題は「集団接種」です。感染対策のため、体育館に地域の人を百人単位で集めて接種を進めるわけにはいきません。しかも、接種は医師にしかできません。医師はすでに医療崩壊と闘っている状況です。その合間を縫って、コロナファイターではない医師が動員され、一日にほんの数人ずつ、気長に時間をかけて接種を進めるしかないでしょう。どうみても5年、10年仕事だと思っています。でも、地道に接種を進めれば、やっとコロナの終息が見えてきます。 〇社会が変わる このような状況ですので、5月6日で緊急事態宣言が解かれて仕事や学校がいつも通りになるか、というとそれはありません。少しでも、接触を許容すると、このウイルスはあっという間にぶり返しますから、年より及ぶ抑制生活を強いられることになります。多少集団免疫の獲得が進んでも、局所的な流行で自粛を繰り返す、不安定な生活が続くことになると予想します。 むしろ、10年の間に社会がすっかり変わると思います。職場はリモートワークが当たり前になり、オフィスに通う生活をする人は激減、一方第一次、第二次産業とケアワークは、海外依存できなくなるために仕事が増えるはずです。産業構造は40年前の日本にちかづうのではないでしょうか。 学校はホームスクーリングが基本になり、集団授業は過去のになるでしょう。 日本型の一斉入試は不可能になり、オンラインを通じたエッセイテストのような、欧米型AO入試をアレンジしたものが主流になると予想されます。この変化に対応できた学校や教育システムだけが生き残ることになるでしょう。息子も高校生になるころまではまともに学校がない生活を覚悟してますので、ノートPCを与えてクリエイティブに使えるように指導します。コロナ後の世界では、日本型の受験勉強より重要なことだと思います。 〇最大の問題 子供の教育では、一番の問題は、心の育ちと体力低下だと思います。感染リスクを封じながら、運動やソーシャルな学びの機会をいかに提供するか、親の知恵が試されます。 いずれにせよ、コロナ後はものすごい格差社会が待っていると思います。学んだものは誰にも奪われません。困難な幼少時代を強いられる子供たちに、心からのエールを送りたいと思います。
2020.04.16
コメント(0)
大衆の狂騒を眺めながら、哲学者ってただ単に、大衆が嫌いな人なのかもしれないと思ったりした。 別に驚くことも何もなく読んだわけだが、これが少数派であるとするなら、多数派とはどんな原理でものを考えているのだろうと不思議に思った。 この国もあと2週間もすれば、今度は経済への不満が吐き出されるようになると思うが、その新しい祝祭の前に、こういうあまりない事態に自分はどう振る舞ったのかを覚えておくのは大切かもしれない。 そんなわけで、おそらく無数に存在する同じような考えの人の一人。辻仁成が紹介している。 https://www.designstoriesinc.com/jinsei/daily-509/
2020.04.16
コメント(0)
ウイルスを恐れるのか、医療崩壊を恐れるのか、という議論をしてきた。 医療崩壊の怖さはよくわかる。 救えるべきが救えないという経験は、現場の人間にとって、相当なトラウマとなろう。 なぜなら、そこには生を選別ぜざるを得ない選択があり、その選択によって、積極的に誰かの命を捨てることになるからだ。 ではウイルスを恐れるとはどういうことか。 そのような観念的な言葉は実際のところ何を語っているのか。 ウイルスは偶然に現れ、偶然にわれわれの人生にかかわってくる。 それを恐れるというのは、いったいどういうことなのか。 そこにある「恐怖」はただの観念論でしかない。 勝手に観念を持ち、その観念に脅える生き方の方が俺には恐ろしい。 ただ生きている家畜の発想だからだ。 ■ウイルスを恐れるということ ウイルスが怖いのは、2割の人を重症化させるからだ。という言を聞いた。 どういうことだ? その人間は、医療崩壊よりウイルスが怖いという。 これが俺にはわからない。 だから、少しでもわかるように、エンパシーを働かせ、思考実験してみたい。 医療崩壊の危険はないと仮定して、ウイルスの怖さとはどういうものか。 1〜3%の人が死ぬということか。 それが怖いというのか。 理解したいが、俺にはわからない。 人は死ぬ。いろいろな死に方をする。 何パーセントの死に方なら怖くないのか。 0.1%未満なら怖くないのか。 あるいは99%以上ならどうか。 ウイルスが怖いとはどういうことか。 8割は軽症で終わる。 無症状も5割くらいいる。 大半にとって怖くないこのウイルスをどうやって怖がるのか。 1〜3%が死に至るから怖い、という言い方は、どこかで線引きをしているようで、本当に残念に思う。 0.01%程度の人がかかる難病に対して、そういうことを言う奴は、普段から心を痛めていただろうか? 単純に、割合が高いから怖いということなのだろう? それならば、ほとんど死ぬことのない若者には理解のできない恐怖だ。 ■怖さは理性的な行動を導くか 恐怖に苛まれている人間の行動は決して理性的ではない。 その極度の形態にいる人のいる場所は近代以降は精神病院だ。 では、恐怖は理性的行動を導かないのかといえばそんなことはない。 その恐怖を脱げ出せることを知っている人間には、むしろ理性的な行動を促進するものになる。 重要なことは、その恐怖の正体と可能性を知っていることだ。 ■感染率ないしは感染力 数字だけを見ていると、日本を除く他国の感染者数の増え方や致死率は同じようであることがわかる。 日本の検査数が恣意的なものであることを考えれば、日本も諸外国とそれほど変わらないものであろうと思う。 致死率は1%程度だろう。 そして、感染者数も、日本では既に10〜20万人はいるだろう。 そう思わない方がおかしい。 そして、その状況においてウイルスを恐れるというのはどういうこだろう。 ■人の致死率は100 % 死ぬのが怖いというのは何も言っていないに等しい。 人は必ず死ぬ。 死に方によって怖かったり怖くなかったりすると言うなら、その境界はなにか? まさか天寿とか言うか? ■死よりも怖いもの 冒頭に述べたように、自分が見捨てることで殺す命があるとすれば、それは倫理的には殺人に等しい。 そうした選択をしなければならなくなるもいうのは恐ろしいことだ。 それは生物的な死を超えた、倫理としての怖さだ。 人であるのに、人としてふさわしい選択ができないことの恐怖だ。 この意味で医療崩壊の恐怖を俺は理解できる。 そして、同時に、経済に首が回らなくなり、人に迷惑をかけることに耐えられなくなって死を選ぶという人の倫理的恐怖心を俺は理解できる。 だが、観念的に、ウイルスが怖いという言葉を吐く人間は、もはや人間とは呼べないのではないかと思える。 怖さとは、社会的に人間に与えられたものだ。 生物的な怖さを近代人は相当にコントロールしてきた。 ■やはりメンタルカウンセリング 長生きしたい人間が健康に気を使うのはわかる。 そういう人が身内にいれば、その人を守りたいという具体的な動機からウイルス対策するのもわかる。 そこにある恐怖とはどのようなものか。 身近な人に居なくなってほしくないのか、それとも自分のせいだと言われたくないのか。 大切なのは、自分の恐れていることを理解することだろう。 ふつうに頭を使える人間なら、その答えがウイルスということはあり得ない。 家畜の言葉を吐くことが俺には一番恐ろしい。
2020.04.12
コメント(0)

湘南内科皮ふ科クリニックの相川先生のものを拾ってきた。同じ意見の方がいるなと安心。要は、若者はリスクが低いのだから、リスクの高い方々にはステイホームしてもらいながら、若者にはしっかり経済を回してほしいということだ。■致死率がインフルエンザの10倍ってすごいこと?これに対して、インフルエンザの10倍の致死率なんだぞ、とわめいている人がいて驚いたのだが、普段インフルエンザに対して、コロナの1/10も注意してなかったろうが、と言いたくなる。インフルエンザ致死率0.1%新型コロナ致死率1%以前から指摘してきたことだが、インフルエンザの致死率を考えたこともなかったやつらが、それと比較して狂乱するのは本当にどうにかしてほしい。■見ているところの違い医療崩壊が起こったときの怖さは指摘してきたところだが、それを目の前でみた人間が、「羹に懲りてなますを吹く」のはまあ仕方ないが、それを他人に強要しようというのはかなりおかしなことだと気付くべきだ。たしかに、目の前で救えるはずの命が救えないのは衝撃だろうが、そいつはおそらく、会社の先行きが見えずに倒産させなければならない社長を見たことがないのだろう。借金に首が回らず自殺しようと考えている人間を見たことがないのだろう。こちらだって、相当な衝撃だ。■感染者は発見されても、軽症者ばかり問題は医療崩壊が起こることだというのはもちろん理解できる。だが、現在やっていることは、医療崩壊を防ぐために、多少の生命は犠牲にしてもいい、という本末転倒したものに見えてならない。政治は、そのどちらも防ぐバランスを追い求めなければならない。大衆は極端を好むが、だいたいにおいて、算数ができない。普段はまったく意見が合わないが、今回の件に関しては、この人とも意見を同じくする。http://agora-web.jp/archives/2045352.html?fbclid=IwAR1OaJgdukRay0H_7r8HjvYXxHBdaZ1RAkM_V38OQOfW-1UxLuA1pB8UL3Mhttp://agora-web.jp/archives/2045392.html?fbclid=IwAR1a9xhUUZ8EwRUXM-b9jYlj1HZj38YiGLs0l09J5tRhE_Kl44ygEJ-rpXwとにかく、抗体検査のサンプル調査でもなんでもしたらいいのだ。■自粛していればウィルスが無くなるという勘違い自粛していてもウィルスはなくならない。医学者のくせに、数理モデルに踊らされて、そんな常識的なことを忘れている人がいることに驚く。感染者数が仮に減少しても、新型コロナはかならず再燃する。それは、まともな医学者は認めている。(そのうえで、コントロールしやすくなるからいまは自粛してほしいと言っている。)人類はこのウィルスと今後も付き合っていかなければならないし、毎年、このウィルスのために肺炎で亡くなる人は続くんだ。その当たり前のことを受け入れられないメンタル疾患の方が問題だと思う。まあ、2週間もすれば、狂乱している人も飽きてくるだろう。そして、やっと落ち着いて現実を見られるようになるかもしれない。早くにメダパニ状態からなおってほしいと思う。
2020.04.11
コメント(0)
連絡をしてみた。 電話でもLINEでも。 電話、ツーツーって言ってる。 おい! コールセンターくらい用意しとけよ! LINE、報道でわかってることを自動応答するだけ。 何のための相談センターだよ! これが東京都標準の仕事。 やってるフリみたいの要らんのよ。 ちゃんと都民に寄り添えよ。 小池さんっぽいよな。 ■感染者数よりも 小池さんにはほんと困る。小池さんの記者会見は本当に衆愚民を騙すものでしかない。 感染者数を言うなら、そのうちの無症状者、軽症者、重症者の内訳を言え! 詐欺師のような語り口で語るな! 東京都、もっと真面目にやれ!
2020.04.10
コメント(0)
都と国の協議がようやく終わった。 都の幹部は、ほぼ満額回答だと喜んだということだが、精査してみれば、だいぶ骨抜きになっている。 (こういうところに、小池知事の人気取りの構えが見られて嫌になる。) 今回の決定では、小規模事業者までは補償はできないから、あとは自己責任でやってくれ、と言っているようで、おそらくいくらかの悲劇が待ち構えているだろうと思われる。 (そして、その時、この知事はどういう態度をとるだろうか。今までのように都合が悪いことにはほお被りをするのだろうか。) 小規模事業者にこそ、協力金が必要なわけで、1000平米を超える床面積の店舗を構えている会社であれば、むしろ政策融資でなんとかなる。 そのあたりの精査がなされていないところは、残念だ。 だが、まあ方針が出ないよりは出た方がいい。 ■感染予防をおさらいしよう 感染のパターンは主3つと言われている。 接触感染 飛沫感染 エアロゾル感染 この中で圧倒的なのは接触感染だと言われている。 そして、接触感染を防ぐ方法もはっきりしている。 こまめな手洗い・指先消毒 顔(目・鼻・口)を手で触らないこと この2つを守れば、接触感染は防げると言われている。 (だが、人は無意識に顔を触るものだ。) 飛沫感染はそれほど多くないと言われている。特に皆がマスクをしていればかなりの程度防げると言う。 (だが、食事中はこれの危険が大きくなる。酒を飲んだ場合はなおさらだ。) エアロゾル感染は、ほとんどの場合気にしなくていいが、3つの条件が揃った時に危険だと言われている。 それが、密閉・密集・密接だ。 三密だ。 言葉が独り歩きし、三密のどれか一つでも危険なことのように語られているが、政府からの説明では、この3つが揃うことが危険だとされている。 逆に言えば、 喚起がなされていること 人口密度が高くないこと (マスクなしに)向き合って話さないこと このどれかができていれば、グッとエアロゾル感染の可能性は下がるとされている。 何にせよ、接触感染が最も感染の可能性が高いということで、外出自粛が求められていると言える。 そして、三密という言葉で印象付けられたために不安になりやすいエアロゾル感染については、いまだはっきりしたエビデンスはないとされている。 ■何に脅えているのかわからずに脅えるな ほとんどカウンセリングの領域になってくるが、自分の人生を生きられない人の多くは、自分の不安の正体をつかめていない人だ。 何が怖いのだろう。 死ぬこと? 死ぬのは怖いかもしれない。 では、このウイルスで死ぬ確率はどれくらいだろう? 5割は無症状 そして8割は軽症 死ぬのは1〜2%(ほとんど高齢者) もちろん海外には若者の死亡例もあるが、割合でみれば極めて低い。 自動車事故で死ぬのが怖いからと、子供を勝手には家から出させないくらいの心配症の人もいるのだろうか。 とにかく、可能性は極めて低いが、それを防ぐためにできることは何か考えよう。 あるいは、老齢家族に感染すこと? たしかにそれも怖いかもしれない。 死に目に会えない可能性もある。 それは避けたいと思うかもしれない。 では、それを防ぐためにできることはなんだろう? 世間から非難されること? それも怖いかもしれない。 しかし、このウイルスは本当に抑え込めるだろうか? ■感染予防の無駄? 上に感染予防のことを書いたが、基本的なことを忘れてはいけない。 もっとも重要なことは、 われわれには免疫が無い ことだ。 つまり、ウイルスを取り込めば簡単に感染する。 結局、完全に家に閉じこもっていなければ、かなりの確率で感染する。 ニューヨークはロックダウンしてからすぐに、スーパーマーケットでの感染が広がった。 夜の店を避けたからといって、それで感染が防げるものではないのかもしれない。 つまり、 仮にロックダウンして、一時的に抑え込めたとしても、必ず再燃する。 早くに慣れて、このウイルスと付き合っていかなくてはいけないのかもしれない。 たぶん、大切なのは、心のケアの方なのだろうと思える。 ■みんな簡単にかかるし、もうかかっているかもしれない さらに言えることがある。 みんな簡単にかかるし、もうかかっているかもしれない。 これだ。 無症状者が半分だ。 高齢者だらけのダイヤモンド・プリンセス号でだって、無症状者が半分だった。 ■あっという間に広がるという救い もし世間から非難されるのが怖いなら、たぶん、もう安心だ。 あっという間に広がる。 誰か知り合いが罹っているなら、あなたの周りの何人かももちろん罹っている。 感染は乗数倍に広がる。 東京の感染者数は、舛添要一に言わせれば、公表の10倍はいるだろうということだが、おそらく、そんなものではないだろう。 ほとんどの人にとって、気付かない程度のものだ。 まあ、だから、行政にはしっかり抗体検査のサンプル調査を行なって、正しい施策を打ってほしいと言い続けているわけだ。 ■できることはなにか 結局、重要なことは、 自分が何を恐れているのかを知ること そして、そのためにどうすれば良いかをかんがえること。 そのうえで、政府から詳しく伝えられている「感染予防策」を講じること。 結局できることはそれしかない。 それ以上のことを求めても無駄だし、意味がない。 たとえ死期を宣告されたとしても、人間には善く生きられる可能性がある。 いや、われわれはみんな死を宣告された存在だ。 必ず、死ぬ。 だからこそ、どのように生きたいのかを考えないといけない。 もし不安に脅えているなら、それは自分の人生を考えたことがないからだ。 死ぬときは死ぬ。 失うときは失う。 でも、人生には希望がある。 できることがある。 不安に煽られた人生なんて、とてももったいないと思う。
2020.04.10
コメント(0)
■わからないから全部やれ、という愚かな言葉 生産性の低い会社をいくつも見てきたが、根本はどれも全く変わらない。 戦術がない。 戦術において最も重要なことは、その目的だ。 目的達成のために頭を使い、無駄を省いてそこへ迫っていく。 この発想があるかないかが、伸びる会社、潰れる会社の分水嶺となる。 つまりは、頭を使っているかどうか。 今回の新型コロナ騒動でも、未知のウイルスなんだからやれることは何でもやれ、という頭の悪い言葉を何度か聞いたが、神社にみんなで神頼みに行こうとかいう対策は聞かなかった。 当たり前だ。少しは頭を使っているのだから。 何でもやれ、といいつつ、ほんの少しは頭を使って判断しているわけだ。 言いたいことは、それならもっとちゃんと使えよ、ということに尽きる。 勝手に途中で諦めて、へんてこな決断主義に逃げるな、ということだ。 ■山中伸弥にはがっかりした この人のことは好きだ。 人として好感が持てる。 この人の著作もだいぶ読んだ。 しかし、著作を読んでいる時から、学者としてはそれほど優秀ではないと感じていた。 まあ、正直、ノーベル賞も運というか、助手のおかげというか。 それでも、人としては好きだ。 だが、今回の新型コロナに関しての発言は耳を疑うものばかりだった。 かれは元外科医であるが(しかも才能がなくやめた)、感染症は専門ではない(本人もそれは断っている)。 今回気になったのは、彼の発言が、政府の施策を後追いで肯定しているように聞こえることだ。 例のiPsへの国からの補助金が打ち切りになりかけたことと関係しているのではないかと勘繰りたくもなった。急に御用学者になったように思えた。 正直、がっかりした。 ■言論ねじれ現象 普段、政治の分野での発言は全く評価していない人だが、今回の騒動に関しては珍しく意見があったのがこの人のこれ。 http://agora-web.jp/archives/2045275.html?fbclid=IwAR3TjozzW11p120heZajLraP_jhQbJNW0EACNNt7T7oEXFmiV4ffvE9pozE 山中伸弥さんの言葉がすでにバイアスのかかったものであることを見事に証明している。 ■政府の筋 さて、何度も書いてきたが、オーバーシュートを抑えつつ、経済の崩壊をも避けることが求められるところだ。 新型コロナへの恐れの反応は二つあると述べてきた。 一つは、医療崩壊を避けたいという、いわば理性的なもの。 もう一つは、なんか怖い、という感情爆発系、とも呼べるものだ。 後者の危険は何度も書いてきたが、冒頭に述べたダメになる会社の特徴は、こうした感情に振り回されるところにある。 人間の集まりというのは、どの問題でも似通ったパターンに収斂されるのだなと感じ入る。 とにもかくにも、まともな方の恐れを確認しておこう。 正しい認識を持って、初めて正しく考えることができる。 https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20200409-00172039/ いつも言うように、これは医療関係者側からの意見であって、これの達成だけを考えた施策は正しい判断とは言えない。 しかし、医療関係者が何を恐れているのかを正しく掴むことが大切なのは言うまでもない。 兎にも角にも、 医者が言ってるし、知事も言ってるから、このウイルスはきっと怖いんだ、という無知蒙昧の民の反応は最も愚かなものだし、それを煽っている為政者の質の悪さも今一度指摘しておきたい。 ■どうあるべきか アイスランドの例がある。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200409-00010000-clc_teleg-eurp 感染者数の割合も死亡者数の割合も決して低いわけではない。(おそらく、実質の割合で考えれば、どの国も大差ないように思われる。) しかし、この国は、正しくこのウイルスの怖さを認識し、日常を過剰に壊すことなく、うまく振る舞っている。 データに基づき、国民に語りかけているところは台湾と同じだろう。 政策はこのようでなければならないと強く思う。 ■日本にできること 日本はいろいろな事情があって、PCR検査の実数がものすごく少ない。 だから、それを政策の基礎資料にすることもできないし、統計データとして活用することもできない。 それなのに、テレビはなぜか実体的な数字かのように「感染者数」を報道し、数字リテラシーを持たない人々の不安を煽っている。 (テレビ会社の人間の方も数学が不得意だったのばかりなのかもしれない。) 貧弱な基礎資料と、不安で無知な大衆。 こんなものに囲まれて出てくる政策なんて、過激なものでしかないだろう。 そして、冒頭に述べたダメな会社のように、頭を使わずに、下手くそな決断主義に陥る。 最悪だ。 いまやるべきことは、区市町村別に抗体検査をサンプル調査することだろう。 そうすれば統計的に、感染状況が理解できる。 そして、それでこそ、正しい施策が打てるというものだ。 そんな時間なんてないという頭の悪い奴は、おそらく、勉強できなかったんだろうなとわかる。 結局、一度立ち止まってデータを整理してから頭を使って戦術を立て、まじめに勤しむ奴が、成績も良かったはずだ。 (もちろん、亭主はそちらだった。)
2020.04.10
コメント(0)
不安ウイルスが増殖している。 感染者は新型コロナ感染者の10000倍。 超強力なウイルス。 伝染し、人間としての精神を殺す。 このウイルスの方がずっと恐ろしい。 ■新型コロナなんて大して怖くない 世界の統計でみると、新型コロナの致死率は1%程度。 もちろん高齢者ほどリスクが高まる。 だが、経済活動を支える者たちにはそれほどのリスクはない。 日本の感染者数はまだまだ藪の中に隠れているから、実際の致死率はわからないが、今のところの致死率は2.4%という報道がなされている。 学力で言えば、上位2.3%というのは偏差値70以上の人間のこと。 だいたい、意味もわからず脅えている人間て、絶対にこの域に入ってはいない。 まあ、全く関係ないけど、お前は学力で偏差値70いかなかったように、この致死率にも入らないから大丈夫だよ、と言ってやりたい。 この国だけのデータをみれば、若年層にとってはほとんど脅威ではない。 ■なにを恐れているのか? 気付いたことがある。 今回の狂想曲で、慌てふためいている人々は、普段からいろんなことに不安を抱えている人々だということだ。 人生に満足していない人々だと言っていい。 かれらは、脳内に強力な不安ウイルスを抱えていて、精神をやられてしまっている。 ■国や自治体が危惧するもの 国や自治体が恐れているのは、医療崩壊だ。 医療の現場が回らなくなれば、助かるはずの命が助からなくなる。 病床も取られれば、人員も取られる。 武漢やイタリアでは、医療が滞り、放置される患者たちが現れた。 これは確かに怖い。 ■経済の崩壊の怖さ 呑気な主婦やサラリーマンは、経済を侮っている。 正常化バイアスというか、本当に金銭的に困ったことがないからわからないのだろう。 不況時の自殺者すうについての記事が転がっていた。 https://news.yahoo.co.jp/byline/nishidamasaki/20200405-00171481/ まあなんでもよかったのだが、不況は生産性の高い活力ある人材を殺す。 自殺に追い込まれる苦悩について想像できない者たちに何を言っても無駄だとは思うが、まじめに仕事をしてきた者ほど、命を落としやすい。 ■どちらが怖いか まずもって、ウイルスは多くの壮年にとって怖いものではない。 まさに風邪といえる。 ほとんどにとって、無症状か、軽い風邪か、こじらせた風邪、くらいで終わる。 (まあ風邪も拗らせれば肺炎になったりする。) だが、経済の崩壊は、生きていく力を奪う。 すべてではないが、確実に、特にまじめな人を殺す。 先の記事で人数を見てみるといい。 平気で5000人は増える。 ■ではなにができるか? ひとつの案は、ウイルスに注意しつつ、経済崩壊を防ぐための補償だろう。 欧米の多くの国はいち早くその両方を打ち出した。 わからないから、ロックダウンする。ただし、もちろん補償する。 このようなやり方だ。 ■日本流 日本は違う方法を選んだ。 風邪として割り切り、医療崩壊を防ぎつつ、緩やかに罹患者が増加するのを許容する方向だ。 だから、感染症対策の専門医を中心に早くから叫ばれていたのが、 軽い症状なら病院に行かないで ということだった。 病院には、高齢者も基礎疾患のある人もいるからだ。 さらには、そこが一番感染しやすい場所だからだ。 ■医療を守るには、新型コロナが大多数の人にとって「ただの風邪」だと割り切ること ただし、いつもの風邪と同じように、特効薬などないから、できることは栄養をとって安静にしていることぐらいしかないことを、徹底して伝えることが大切。 自分にはただの風邪、ただし他の人には危険なウイルス、という感覚が非常に重要だ。 指定感染症から外し、軽症者は自宅療養。重症化した人がすぐにアクセスできる医療リソースを確保できるように、仕組みを構築することが最も大切だろう。 ■数字に踊らされる人々 毎年のインフルエンザだって、毎日何百人ずつで感染していく。 感染者が10000人を超えました、なんてニュースも可能だ。 こういう報道にさらされて、意味もわからず怖くなる人々がいる。 その人々は、脳内にもっと危険なウイルスを飼っている。 オーウェルの『1984』の危険は、2020に現れている。 ヒトラーがもしこの時代のこの国にいたなら、当時のドイツより簡単に政権を取ったかもしれない。 そんな国になっている。 恐ろしいウイルスが蔓延しているものだ。
2020.04.09
コメント(0)
本当に目立ちたいだけの知事には辟易します。 まずはこの記事 https://gigazine.net/news/20200408-covid-19-actual-infection/?fbclid=IwAR3Oj9-pdAlWWppVHnd9SS4BwhYrqiH5iq8vrruIPS5vDgyiClNGg1s2hNk あまりにも自分のことしか考えない政治家に腹が立って、このブログを掘り起こしたのが一ヶ月ほど前。 その時すでに、もう蔓延しているだろうと予測しておいた。 当たり前だ。 免疫のないウイルスなんだから、あっという間に感染する。 なんで、そんな当たり前のことがわからない人たちがいるんだろう。 とにかく、もうすべての都道府県に、無症状感染者はいるんだよ。 ■芸能界の面白い動き 芸能界で感染者が増えている。 ああいう生活をする人たちなんだから、もちろん蔓延しているに決まっている。 しかし、レギュラーを多く持つ大物は、罹っていても知らないフリをするだろう。 番組に穴を開けるわけにはいかない。 これを日本人の生真面目さと呼ぶのも、集団圧力によって嘘をつかされていると呼ぶのも自由だ。 逆に、小物は、これが露出のチャンスになる。 なんとなく、誰だっけお前、なんか見たことあるけど、ってあたりが多いのがご愛嬌。 まあ、政治家も芸能人も、このウイルスをうまく利用しているだけなわけだ。 ■オリンピックパラリンピックが歪めた この国の特殊事情として、国民の生命なんかより大切なオリンピックパラリンピックってのがあったのが大きい。 延期が発表されるや、感染者の「発見」が急激に増えた。 面白いことだ。 調べてないんだからわからないに決まっている。 もう、地方の病院でも当たり前に蔓延しているかもしれない。 新型コロナと言われて、家族が死に目に会えないまま亡くなるのと、新型コロナであることがわからずに家族に囲まれて(感染させて)亡くなるのと、どっちが幸せなのか、もはやわからないところに来ている。 まあ、大したウイルスじゃない。 死ぬ人はいる。 肺炎では結構毎年死ぬ。 高齢者は死ぬ。 死に近いから高齢者と呼ぶ。 (寿命が200歳平均なら、100歳は高齢者ではない。) 自然のことわり。 ■非常事態宣言が発効した本日は、どう見ても不要不急の外出ばかりが目についた 長閑な日。 仕事が無くなった人もいるのだろう。 ビール片手に歩く人。 散歩するご老人。 いやー、暇っていいですね。 べつに、それを悪いと言っているわけではない。 エビデンスも何もない、詐欺師のような知事の語り方じゃ、こうなるのが関の山だと言いたいんだ。 不安を煽り、過敏に反応する一部の奴らがいて、その一方で長閑な一日を過ごす人々がいる。 合掌。 ■ウイルスとは付き合っていくものだ 自粛して、どうしたいんだ? ウイルスは無くならない。 というか、たぶんもう自粛している奴らの中に存在している。 これって喜劇だよな。 見えないものって、こんなに人を狂乱させるんだ。 まあ、早いとこサンプル調査して、数字が読める人には「見える」ようにした方がいい。 バカにはいつまで経っても「見えない」だろうが、政策決定者がそれじゃ困るだろ。 ウイルスを体内に飼いながら脅えている人々。 ああ、長閑な一日。
2020.04.08
コメント(0)
PCR検査はまだ受けたくても受けられないのだろうか? 受けたいという気持ちはさっぱりわからんが、とにかく、受けたくても受けられないという声はあった。 さて、東京都は感染判明者の属性を少しばかり公表している。 その中で面白いのが「区市町村別感染者数」だ。 ■世田谷1位港2位 まずは、4月5日18:30現在のデータを http://www.city.kita.tokyo.jp/hokenyobo/documents/153.pdf 世田谷が93人、港区67人、杉並区44人 これはなかなか興味深いデータだ。 夜に遊び歩く若者? なんかイメージと違う。 上位のこの3区は、高所得層の居住地だというのは、東京に住んでいなくてもわかるだろう。 どうして、このような順位になるのか? ■仮説ひとつめ まず思いつくのは、この区の住人が海外旅行などを楽しんでいそう、ということだろうか。 あるいは、その家の倅たちが夜遊びをしているのかもしれない。 いずれにしても、感染者認定を受けているのは、金持ちたちらしいということは確かだ。 ひとつめをまとめれば、金持ちが海外行ったり、夜遊びしたりして感染を広げているのかもしれない、ということ。 ■ダイヤモンド・プリンセスをもう一度 ところで、ダイヤモンド・プリンセス号での感染者は、712名、うち死亡者は11名だ。(3月30日現在) 致死率1.5% てなわけで、ちょっと、こんな時期だからこそ、ダイヤモンド・プリンセス号のことを思い出してみたい。 3711名が検査を受け、陽性反応があったのが、712名、そして、そのうち無症状者が333名。 もちろん、自然治癒者もいるだろうし、この数字で語るには他の検証が必要だが、まあそうしたことは無視して、ざっくり掴むために割合を求めれば、 船内感染率19% 陽性反応者の無症状率47% なんともはや。 半数近くが無症状。 ダイヤモンド・プリンセス号は、いまの東京23区の縮図に見える。 感染力は高い。 そして、見えない感染が多い。 おそらく東京には、ものすごい数の感染者がいるだろうな。 もはや、ただの風邪。 脅えるのがおかしいくらいになっているはずだ。 ■仮説ふたつめ そうだとすると、仮説ひとつめはあまり説得力を持たない気がしてくる。 というのも、感染力の強さから言って、世田谷の富裕層が罹りやすいことをやっているんだよ、なんてレベルでなく広まっているように思えるから。 つまり、どういうことか。 感染者は無数にいるのに、なぜか世田谷や港に住む人たちの方が、感染を発見しやすいという、政治的領域の話のように感じられる、ということだ。 つまりつまり、こういうこと。 PCR検査は、患者が希望してもなかなかできないと方や聞く。 しかし、サッカー協会の田嶋会長は、なぜかスッと検査して、サッと入院できたわけで、これはもはや政治力が関係しているとしか思えないわけだ。 というのも、医者の世界は、コネがほぼ全て。 有名な医者にかかっている人は、そのコネで、検査もできるし、入院先も用意してもらえる。 世田谷や港や杉並が上位に来るのは、実際の感染者数が多いからではなく、発見してもらえる可能性が高いからだと言えるだろう。 ■つまりは無数にいるんだよ こうした推理から導かれる結論はひとつしかないだろう。 もう東京は感染者で溢れている、ってこと。 もうあなたは罹っているかもしれないってこと。 なんなら免疫も持っているかもしれないってこと。 そもそもの厚労省の絵図通り、そんなに恐れる必要はなさそうだということ。 もちろん、仮説に過ぎないが、こんなもん、抗体検査をサンプル調査すればわかることなんだよ。 それもせずに、いきなり煽りに入った扇動政治家が東京のトップにはいて、うまいこと阿呆な大衆の心を掴み、恐怖を与えながら権力を手にしているわけだ。 こっちの方がずっと恐ろしいことだとわかるのは、それなりの大学で社会科学をしっかり学んだ層だけなんだろうな。
2020.04.08
コメント(0)
緊急事態宣言が出されることになり、いくつか予想通りの反応をみた。 急に不安に煽られて振る舞う人たちである。 結局、ものを知らない人たちは、「なんか怖くなる」。 そういう人たちが、何に脅えているのかもわからずに脅え、買い占めに走ったりする。 ■怖さがわからない はっきり言わせてもらうが、このウイルスの怖さがわからない。 飛行機が一回おちたりすると、怖いから飛行機に乗りたくないとかいうボーンヘッドが、時間が経つと忘れて平気な顔して乗る。 こういうのをバカと呼ぶんじゃないんですかね。 今回の騒動も同じ。 怖がるなら、この1ヶ月ずっと怖がっとけよ、バカ、と言いたくなるのが、今日急に出現して本当に辟易するわけだ。 ■感染しなきゃ終わらない。 ウイルスはロックダウンしてたってなくならない。 ロックダウンを解けばまた流行る。 結局、ワクチンで人工的に感染するか、自然に感染するかしなけりゃ、これは終わらない。 一年も巣篭もりできる体力がこの国にはあるのかね。 ■戦時国債 日本は第二次大戦中、多くの赤字国債を発行した。 それを日銀が引き受けた。 とても似たようなことが80年経って起こっているが、ともかく大切なのはその顛末だ。 結局、この大借金を国は自力では返せず、財産税によってほとんど強盗のように国民の財産を奪って返したわけだ。 国の金が無尽蔵にあると勘違いしている人たちって頭大丈夫なのかね。 ■致死率 このウイルスのこの国での致死率は絶対的に低いと思う。 インフルエンザに毛が生えたものでしかない。 毎年10万人は肺炎で亡くなっているのに、そういうことも知らない阿呆どもが、この新型ウイルスには慌てる。 ばかじゃねーの。 インフルエンザに対して平気でいるやつが慌てやがって、ばかじゃねーの。 ■数字がわからないから もちろん、上の致死率は予想でしかない。 当たり前だ。 この国はそれを判断するだけのデータを集めていない。 抗体検査でもなんでもサンプル調査をしろよ。 国民の権利を奪う所業をなすのに、データなしってどういうことだよ。 クオモやメルケルのように、エビデンスベースに率直に話して、国民の納得を得るなら良いが、この国の政治家ときたら、詐欺師と同じ話し方をする。 そしてそれに騙されるバカ国民がいる。 この国が一般人に対する詐欺大国である理由がよくわかったわ。 ともかく、大切な決定を、説得力あるデータを集めずになすバカな政治家と、それを普通に受け入れる封建時代の精神そのままの馬鹿な国民に驚き呆れる。 ■お前が出歩かなければいい 出歩く人間に文句を言うやつらは何を恐れているのか。 お前が出歩かなければそれでいいだろうに。 まさか医療のことを知りもせずに語るなよ。 医療崩壊を防ぐには、絶対、これを指定感染症から外すのが一番だ。 大したウイルスじゃねーよ。
2020.04.06
コメント(0)
民主政治の堕落形態である衆愚政治においては、どんなに馬鹿な大衆の発想も政治家は受け入れなければならない。 政治家にとっては、死ぬことよりも権力を手放すことの方が余程に恐ろしいことであるから。 そのようなわけで、非常事態宣言が出される方向だが、報道を見ていて気付くことは、「国民の行動への制約は今までとほとんど変わらない」ということの強調が付されていることである。 おそらく、これは政府からの報道機関への要請だと思われる。 そして、もちろんこれは緊急事態宣言に反対してきた業界への配慮だろう。 しかし、ポピュリズム政権は大変だ。 衆愚政治とは一歩間違えば、大変なことになるのだろうことが、今回の一件でよくわかった。 政府には各方面の専門家が多くいる。その一人にの足元にも及ばない大衆が、「早く緊急事態宣言を出せ」というわけで、これは悲劇を超えて喜劇と呼べる。 ■付随効果だけを期待した緊急事態宣言 緊急事態宣言にはいろんなニュアンスが可能だったはずだ。 しかし、今回は「今までとあまり変化がないこと」が強調されている。 そうなると、この緊急事態宣言の効果はどのようなものになるのか。 もちろん、医薬品や食料品の流通等に関して、知事は強力な権限を手に入れることになるし、個別名をあげて集合施設へ自粛を要請することができるから、小池さんにとっては、ドラマティックな見せ場を作れるものになっただろう。 だが、そうした国民の動きとはあまり関係の無いことに関しての効果と言えば、単純なる「引き締め効果」ということになる。 ■長期戦での「引き締め効果」は危険 非常事態宣言を求める大衆のなかには、早くに非常事態宣言を出した方がおさまるのも早い、という勘違いがあるが、このウイルスは無くならない。 (大衆の頭の悪さというのは、扇動政治家には利用しやすいが、こうした危機の時には本当に危険なものになり得る。) 長期的に行動を変容させていくことが大切であるが、行動分析学の知見を覗いてみても、こうした「引き締め」の後には、必ず強力な反動がくる。 このことに関しては、書いてきた通りだ。 大衆が不安に煽られて求める過激な策というのは、長期的に見れば、最も危険を孕んでいる。 おそらく官邸もそうしてことはわかっていただろう。 だが、政権の性質上どうしようもなかったと言える。 (これはこの政権が悪いのか、それとももっと構造的なこの国の問題なのか。) とにかく、前にも書いた通り、このウイルスとは共存することになる、と考えた方がいい。 ■読解力のある人たちがやるべきこと これも繰り返しになるが、不安に煽られて右往左往する感情の奴隷たる大衆とは違った、読解力を持ち理性的に行動できる人たちがやるべきことは、正しい習慣行動を率先垂範し、他に伝えていくことだろう。 正しい習慣行動を伝えている医師の記事を挙げて終わりにする。 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/209681
2020.04.06
コメント(0)
非常事態宣言を出せと東京都やその他の知事が首相に依頼する。 この裏には何があるのでしょうか。 実は、特措法に則り非常事態宣言が出されると、知事に強力な権限が付与されることになるのです。 そうすれば、小池さんは毎日家に閉じ込められた人々にテレビで語りかけることができるわけです。 最高の自己演出ということになるでしょう。 政治家というのは、これくらいに、いろんな危機を利用できるようでないとダメなのでしょう。 ■なぜ非常事態宣言? ここからは小池さんの思惑とは別に、非常事態宣言が要請される理由について考えてみたいと思います。 非常事態宣言が要請される一つの理由は、もちろん医療崩壊を防ぐためでしょう。 医師会からの要請はまさにそれこそが目的です。 少しでも集中治療室に送られる患者を減らし、医療がパンクするのを回避したいということでしょう。 これはもちろんわかります。 医療関係者側であれば、こうした訴えをするのは当然です。 しかし、では、医療関係者は、経済的影響についてどう考えているのでしょう? これについては以下の記事が取材しています。 (というか、内容全体がここで述べたいこととかぶるので、ぜひよく読んでください。) https://www.google.co.jp/amp/s/m.huffingtonpost.jp/amp/entry/satoru-ishido_jp_5e830d49c5b6d38d98a45c95/ 医療関係者は経済の影響には疎いわけです。 もちろん、それを見識が狭いと言っているわけではありません。 無論、医療関係者が医療の危機を訴えるのは当然のことです。 問題は、経済の観点からすれば、副作用が大きすぎることにあります。 薬事に関したことなら、副作用が正作用のメリットを覆すような選択は、医療関係者はしないはずです。 まあとにかく、医療関係者が非常事態宣言を求める理由は、医療崩壊を避けるためであるという目的が共有できれば、ここでは良いでしょう。 ■もう一つの理由? 経済の観点からは多大な疑義がありますが、医療関係者が非常事態宣言を求めるのには合理的な理由があることは認めます。 しかしながら、どう考えても、そうした合理性を持たない、いわば破れかぶれの、あるいは、破滅指向型の欲求もあるように思えます。 (その他に、大都市圏の知事や、新しい経済団体のプレゼンスを高めたいビジネスパーソンなど、いわば自己利益型の人たちがいますが、ここの議論では触れません。) どうも不安からか、非理性的に極端な策を求める声です。 簡単に言えば、よく考えもせずに(あるいは、考えるのが怖くて)、感情をコントロールできずに、どうなるか後先考えずに、なにか強い刺激を求める行動のように思えます。 不安になって理性的でない行動をとる人は殊の外多くいます。 ■これは怖いウイルスか? 最新の情報で、新型コロナウイルスの日本での致死率は2.3%とされています。 まあ、インフルエンザの0.1%と比べれば高い。 ですが、この致死率では若者が死を自分のことと感じることはないでしょう。 しかし、それよりも、この2.3%という数字は相当にあやしいものです。 日本でのPCR検査結果はとても統計の基礎資料とできるものではないからです。 毎日、〇〇人が感染した、という報道がなされていますが、そもそも、事実を伝えていない報道です。 (報道機関には、本当にがっかりします。) その人数が感染したわけではなく、検査した結果、感染者を「発見」しただけなわけです。 そもそも、PCR検査は患者側が希望するだけでは受けられません。行政側がするかどうかの判断をしています。(この前提には、感染者はまだ追えているという建前があります。) つまり、行政側が(適当に)選んで、その中から、何人か(精度のあまり高くない)PCR検査で陽性反応が出ましたよ、ということに過ぎません。 感染が広がっている、というのは確かですが、もはやその前提がおかしくなっているのです。 行政は、見えてない感染者はいないかのような振る舞いをしていますが、そんなはずがないことくらい、誰でもわかるでしょう。 もうすでに罹っていたり、あるいは自然治癒して免疫を獲得していたりしているのに、不安になっている人だっているはずです。 もし仮に、実際の感染者が、発表の10倍いるなら、致死率は0.2%になります。 もし発表の20倍いるなら、致死率は0.1%です。 もし発表の400倍いるなら、致死率は0.005%です。 これについてはさらに検証しますが、とにかく、統計の基礎資料にならないようなもので語っていてもダメだし、それで政治判断するなんてもっての他だと言いたいわけです。 やるべきはサンプル調査です。 東京23区でランダムなサンプル調査でもしてみればいいのです。 そうすれば、実数がわかるでしょう。 ■すごい感染力 このウイルスが強力な感染力を持っている可能性はかなり高いと思います。 早くは屋形船での宴会での広がり、あるいはダイヤモンド・プリンセス号での広まり、最近では、海外の政治家や有名人たちに広まっているのを考えると(また、免疫を持っていないのだから当然ですが)、このウイルスには強力な感染力があると考えられると思います。 だから怖い? いや、逆なのです。 日本は欧米よりも早くから感染が広まり出した国です。 おそらく、無症状のウイルスキャリアを考えれば、政府の発表する程度の人数であるとは思えません。 もはや無数にいると考える方が正しくないでしょうか。 東京の満員電車を知らないのでしょうか? 感染力がもしインフルエンザより強いなら、あっという間に広がったはずだと考える方が、ずっと現実的です。 だとすれば、このウイルスの致死率はかなり低い。 たしかに、それでも基礎疾患をお持ちの方や、高齢者はお亡くなりになる場合がある。 しかし、インフルエンザを恐れる程度に恐れておけば良いのではないでしょうか。 ■どのように医療リソースを守るか 破れかぶれで破滅指向型の不安には答えたつもひですが、もちろん医療関係者による合理的な不安にはまだ答えていないことは承知しています。 医療リソース(特に集中治療室)がパンクするのを防ぐにはどうしたらよいか。 これには、このウイルスを指定感染症から外すのが一番だと思います。 いまは、感染者ということになると(こういう言い方をするのは、PCR検査では偽陰性に加え、偽陽性の可能性もあるからですが)、基本的に入院措置となります。 これが医療リソースを奪っているわけです。 大したウイルスではないと考え、重症者だけを受け入れる体制にするべきです。 (最近の政府の方針はこの方向になりつつあります。) データが揃ってきたわけです。 回復者もいっぱいいる。 わが国ではそれほど恐ろしいウイルスではないのです。 意味もわからず怖がる人を安心させることができれば、重症者に医療リソースを回すことは可能でしょう。 ■なぜ日本はまだ蔓延していないのか? 日本での死者数や感染者数については、諸外国は信じていません。 先ほども述べましたが、とても統計資料と呼べるようなデータではないからです。 では実態は隠されているのか? たしかに、オリンピックパラリンピック延期発表以後に感染者の「発見」数が急上昇したことは先日お伝えした通りです。 しかし、それでも全般によく抑えているように見えます。 それは日本の行政や医療が優秀だからですか? もちろんそれもあるでしょう。 しかし、本当のところは、無症状者、軽症者が多いということなのではないでしょうか。 だから、蔓延していないのではなく、むしろ見えない感染者が都市圏では蔓延しているのだと見る方が正しいように思います。 ではなぜ日本の重症化率は低そうなのか。 これにはいくつかエビデンスの揃っていない「説」がありました。 一つは、以前に紹介したBCG接種との相関関係です。 もう一つは、文化の違いです。欧米と違い、わが国は靴を脱ぎます。 欧米諸国は靴のまま家に上がる。 衛生観念の違いが文化としてあるように思います。 これらは仮説に過ぎませんが、兎にも角にも、海外の状況から勝手に脅えて過激な施策を望むくらいなら、しっかりこの国でサンプルデータをとって、政治判断をするべきだと言いたいのです。 ■ロックダウンしてもウイルスはなくならない ロックダウンのような過激な策が出てくると、一番強力なものを考えずに欲しがる、不安に駆られた大衆が現れることは知っています。 そして、それを利用して権限を強めようとする政治家が現れることも知っています。 どちらも政治学の教科書的な知識です。 大切なことは、このロックダウンの落とし所でしょう。 何を求めてやるのか? ロックダウンすれば、経済がひどいことになります。 あなたも失業するかもしれない。 これは諸外国の事例を見ればわかるでしょう。 そして、ロックダウンしたところで、ウイルスは死に絶えたりしないのです。 かならず第二波、第三波とやってくる。 これまでの人類とウイルスの関係のように、結局、いろんなことをやっても、結果は集団免疫しかないのかもしれない。 あるいは、もちろんワクチン開発には期待したい。 しかし、それまでどれくらいかかるでしょうか。 現在、一番早い時期を期待する報道でも、一年はかかります。 それだけロックダウンすることを想定しますか。 東京の経済が冷えれば、他の県の経済が持つなんてことはありえません。 かならず、日本国民のほとんどが大きな損失を与えられることになり、そこから残念ながら首を括る人も現れるでしょう。これは単純に統計の話です。 ■似ている話(蛇足) このウイルスを全滅させることは相当難しいでしょう。 今後人類はこれと共存していかなくてはならないだろうと思います。 福岡伸一さんは、ウイルスは進化を促進するものだと、正の側面を捉えています。 ウイルスは高度で複雑な生命体が出現してから現れたもので、かつ、もともとはその体内にあったものが出て行ったものだという。 これはどういうことか? 高度で複雑な生命体は、遺伝子を親から垂直的に受け取ります。 そうすると、進化のチャンスが減ってしまう。 この時、ウイルスはわれわれの遺伝子を水平につないでくれるものだと言うのです。 つまり、ウイルスはわれわれが進化していく上で大切なものだというわけです。 ちょっと横道にそれましたが、つまり、われわれはウイルスと共存していかなければならないし、そういうものなんだと言いたいのです。 そんなウイルスを絶滅させたい人たちがいる。 ちょっと考えれば無理でも、とにかくウイルスに勝ちたい人たちがいる。 これって、10〜20年前くらいの北朝鮮に対して強硬な態度をとる人たちに似ています。 北朝鮮を潰すなんてちょっと考えれば無理だとわかります。 でも、彼らはちょっとも考えない。 その時の感情に振り回されて、一番過激な策を主張する。 嫌な隣人とうまく共存していくというのが、多かれ少なかれ政治なわけですが、そういう理性を使ってじっくり考えるという発想が持てない人たちなわけです。 このウイルス狂想曲も、結局は、そういう人たちが騒いでいるんだろうな、と思う今日この頃です。 蛇足。
2020.04.06
コメント(0)
志村けんさんの死で、国民が自粛するようになって、日本は救われた、と将来言いたいなんて書いているのを見て、鼻血が出そうになった。 志村さんは、自粛とはまるっきり逆の行動をとっていた。 このこととの整合性をどうつけるのだろう。 好きな人間なら何をやっても良く解釈しちゃうということなのか? 結局、自分の言いたいことがあって、みんなにウケる人がいて、だからその人のことを利用している、ということなのだろう。 これこそ志村さんの尊厳を踏みにじっているのではないか。 カント翁は、 他者を手段として扱うな と宣った。 上にみたような物言いは、控えめに言っても、 志村さんの人格否定だ。 ■ニーチェは大衆を嫌った 大衆は自分の価値観で動くことがない。 周りの喧騒に反応して右往左往するだけだ。 権威に弱い。 自分の生き方を貫けないなら、その生命には価値がないという発想など、もちろん毛頭ない。 ただ生きる人たち。 家畜たち。 会社にいるのが社畜なら、 職も持たずに家にいてテレビやネットの情報に踊らされているのが家畜。 一周回って本来の意味に辿り着いた文字。 ■医者は経済のことを知らない 医療従事者が現況を最悪一歩見なすというのは、もちろん、理解できる。 だが、経済を冷やしてどれだけの人が死ぬかという統計のことはもちろん知らない(と言っているという記事をみつけた)。 不安になったときに、過激な策を打ってしまう人間は滅ぶ。 考え続けない人間は滅ぶ。 振り込むのを恐れて考え続けるのが怖くなって、思わずリーチをしてしまう麻雀素人はものすごく弱い。 大切なのは安易な策に飛びつかないことだ。 現実をしっかり分析すること。 経済が止まったときに何が起こるのかを見ること。 経済と生命が根源的に繋がっていることを知ること。 そして政治はその効用の総和が最大化するように振る舞うこと。 医者が医者側の事情を訴えるのはもちろん重要なことだが、政治はより広い情報から判断しなければならない。 素人談義とは一線を隠さなければならない。 不安を煽って視聴率を稼ごうとするテレビのコメンテーターこそ、自宅で謹慎しておくべきなのだ。 ■志村さんは大衆ではない 一緒にするな。 お前と一緒にするな。 志村さんは、最期まで生き方を貫いた。 最期まで自分らしく夜の街を遊び歩いた。 それで死ぬならそれでいいのだろう。 なぜなら、大衆と違って、彼は生きたから。 ただ生きる家畜とは違うんだ。 志村さんのおかげでみんなが自粛した、なんて言葉は、志村さんが最も望まない言葉だろう。 ああ、家畜どもよ。
2020.04.02
コメント(0)
若者死亡例相次ぐというニュースを見た。 その若者たるや、感染がわが国より後に広がり出した欧米の国々の事例である。 それをもとに不安を煽るというのは、結論ありきにデータをみている証拠だろう。 一体彼らはどんな結論を思い描いているのか。 家から出ずにテレビに不安を煽られている主婦や老人から視聴率を稼ごうとしているだけにしか思えない。 ■BCGとの相関関係 ジョンズホプキンス大学のデータがある。 https://www.researchgate.net/figure/Map-displaying-BCG-vaccination-policy-by-country-A-The-country-currently-has-universal_fig2_50892386 オレンジの国々はBCGが義務とされている国。 紫はかつて義務で現在は義務ではない国。 赤は一度も義務だったことのない国。 これは驚く。 イタリアは赤。 スペイン、イギリス、フランス等は紫だ。 中国や韓国、台湾など、収束に向かっていると考えられている国はオレンジ。 そしてもちろん日本もオレンジ。 ちなみに、アメリカが赤であることは注目に値する。 今後、最も気をつけるべきは間違いなくアメリカだろう。 オーストラリアでもう臨床試験に入っていたり、各国でデータを集めている。 現状では、最も相関の高そうな話だ。 ■欧米の若者死亡例を引き合いに出すな BCGが本当に新型コロナに効くかどうかを云々したいのではない。 欧米の方が後から感染が拡大し出しているのに、そこの例を逆輸入して不安を煽るようなことはやめろ、と言いたいのだ。 武漢の例は参考にする。 そして、その事例と違う事象が現れれば、その差異を検討する。 このようにして、確かな知見を集めていくべきなのに、時間的順序を違えてまでも、強引に何かを言う所業は、もはや新興宗教のものだろう。 ■いいか、不安だけは煽るな 何度も書いてきたことだが、医療リソースをパンクさせない現実的な方法は、病院を感染から守ることだ。 不安を煽れば、軽症者が病院にウィルスを撒き散らしに行ってしまう。 このウィルスは、少なくとも現状では、東アジアの若者には脅威ではない。 その若者たちが焦って病院にノンアポで訪れるのが一番怖い。 ■若者に経済活動をさせろ 基礎疾患持ちや高齢者こそ、外出を控えるべきだろう。もちろん自己判断で。 ロックダウンすべきは、まずは病院だ。 そして、本当に必要人が病院を訪れるための「入口」を急いで整えるべきだ。 そのうえで、若者には今まで通りの経済活動をさせるべきだ。 わが国のデータだけを見れば、やはり若年層の重篤化率は極めて低い。 他国のデータで煽られる必要はない。 ■数字で見ると マイケル・レヴィットが東アジアのデータをもとに数理的に分析している。 https://www.gizmodo.jp/2020/03/the-end-of-pandemic.html?utm_source=smartnews&utm_medium=ios&utm_campaign=smartnews&fbclid=IwAR0Cyx1FRhhIrLLxChmXKLzAKcWpT4B686zX5RGW6Vhcwk9JQ7BPvH5azkM まあ、今からこの話に修正を加えるなら、 「東アジアの人たちには」意外と免疫があるということだろう。 東アジア諸国が早くに回復して、欧米を助けるというのが正しい筋のような気がする。 有名人の死や、統計を無視したパーセントで言ったら1にも満たないような例をみて、慌てるのだけはやめてほしい。
2020.04.01
コメント(0)
新型コロナ狂想曲の第一部におけるクライマックスとも呼べるような出来事が起こりました。テレビや新聞、そして政治家は、自分たちの利益に直結しない若者を悪者に仕立て上げることで、実利を稼ぎにいっています。しかし、本当に若者だけがそうした行動をとっているわけではないことくらい、少し事実を覗けばわかるはずです。志村さんはその代表だと言えます。しかし、勘違いしないで欲しいのは、志村さんの行動が愚かだったと言っているわけではありません。むしろ、その逆です。テレビや新聞や政治家に煽られて右往左往する人々と違って、彼は彼の人生を生きたわけです。人生を全うしたわけです。■狂想曲について文章を読んで情報を分析したりすることができない人たちは、権威が出してくる情報を断片的に受け取って行動します。そして、多くの場合、断片的に受け取った情報は、不安を生みます。不安とは、よくわからないことに与えられる名前だからです。不安に煽られた行動は、もちろん理性的ではありません。不安を煽った主体が、物資は十分にあると言ったところで、そんな言葉が届くはずもないのです。イタリアはEUで最も早く中国からの飛行機を止めました。その結果はどうだったか。そうした過激な措置は、国民の不安を煽るのに十分でした。ちょっと具合の悪い者たちが病院に行き、そこで基礎疾患のある人々にウィルスを贈ったわけです。ものを知らない人々の行動というのはそういうものです。■不安を利用する悪しきものたちテレビや新聞は若者を悪者にします。テレビを見るのも新聞を読むのも高齢者だからです。誰かを攻撃するとき、人は自分が攻撃されない側にいられると錯覚します。あいつが悪いと言っている時、自分は悪くないということになると錯覚できます。それで、高齢者はそうした番組を見る。そうした記事を読む。情けないことです。そして、政治家は不安を利用する。若者のせいにしていれば、政治の無策を批判されずに済むからです。またもう一つ利点があります。普段政治に興味がない人々も、不安を煽る言葉には振り向きます。悪名は無名に勝る、というのは政治家世界の格言ですが、今日も口だけの政治家たちが目立つためだけの行動をとっています。その結果は上に見た通りです。大衆の非理性的な行動を惹起するだけです。■落としどころは?感染拡大は防げません。そんなことはちょっと考えればわかります。できることは、感染のペースを緩やかにするだけです。そしてその目的は、医療崩壊を起こさないようにすることです。自粛していれば収まるものでもありません。まさかスーパーマーケットでは感染しないとでも思っているのでしょうか。もっと正しい情報を伝えなくてはいけません。(前回書いた通りです。)■傲慢な人間たちある人が書かれていました。地球にとっては人間こそが悪性ウィルスで、新型コロナはその特効薬なのかもしれない、と。深く感ずるものがあります。本当に自己中心的な大衆たち。■ただ生きる人たちソクラテスは、ただ生きるのではなく善く生きることが大切だと説いた、というのは教科書的知識です。今回の狂想曲が教えてくれるのは、現代における、ただ生きる人たちの多さです。これは本当にウィルス並みの繁殖力です。彼らは何を恐れているのでしょう。人は死ぬんです。必ず死ぬんです。志村さんが無念だった?志村さんはあなたとは違います。■善く生きた人志村さんは、やりたいことやれることを全部やった人生だったのではないでしょうか。そして最後まで生き方を変えなかった。命のために生き方を変えるなんて彼の最も嫌ったことでしょう。なぜなら彼は善く生きていたから。自分の人生を全うしたと言えるでしょう。■改めて自粛に反対する感染拡大を防ぐ行動をとることにはなんの異論もありません。しかしそれは断片的に情報を得て、不安に煽られることとは別のことです。二週間が瀬戸際と言われて、みな自粛した。よく考えれば、それで収まるはずもないのに、二週間を過ぎたあたりで、気を緩めたのは誰だったか。大切なことは過敏に反応することではなく、日々、基本的なことを継続することでしょう。飲食業で生きている人もいれば、観光業で生きている人もいる。そして、人は必ず死ぬ。ウィルスは必ず現れる。■政府が最も言うべきこと上に見たように、自粛の目的は医療崩壊を防ぐことです。それならば、最も言うべきことは、ちょっと体調が悪いくらいですぐに病院に行くなよ、ということでしょう。ほとんどの人は軽症で終わるんです。でも不安を煽れば、非理性的な行動をとる人が出てきます。これは統計の話です。何人かは必ずいきなり病院を訪ねるわけです。そこには、基礎疾患のある人々がいます。政府がPCR検査の保険適用を決めて何が起きたか。その日に検査してください、という人々がノンアポで各地の病院を訪れたのです。自分のやっている行動の意味がわからないのです。そういう層は必ずいるのです。不安を煽ってはいけません。自分の名前を売りたいだけの政治家は間接的に殺人に手を貸しているのです。■志村けんさん彼の死が、彼が決して望まないであろうメッセージに変換されることがありませんように。
2020.03.30
コメント(0)
新型コロナウィルスのパンデミックが宣言されました。 これは医療リソースの不足している途上国を守るためには絶対に必要なことですから、これ自体はもちろん正しい施策です。 しかしながら、政治的発言には副作用が伴います。 下手な混乱を引き起こすことになれば、ひどいことが起こるでしょう。 スペイン風邪からおよそ100年。 人類は少しは賢くなったのでしょうか。 台湾のような成功例もありますが、失敗した先進国とこれから失敗するであろう先進国を横目に眺めながら、すこしでも歴史的教訓を得ておきたいと思います。 ■コロナ疲れ・コロナ飽きする極東の国 二週間が瀬戸際、という掛け声の元、この国ではお祭り騒ぎが起こりました。 新春トイレットペーパー祭りや、マスク狂想曲です。 そして、それに疲れたのか、もう自粛ムードも薄れています。 もちろん、以前書いたように、亭主は過度の自粛にはそもそも反対です。 経済活動を止めてやるようなことではないと思っています。 しかし、あれだけ不安に怯えていた人々が、なんだか自然に不安から解放されている様をみると、喧嘩していたのに、その原因を究明することもなく、時間が経ったからという理由だけで仲直りして、それを再び繰り返し、その都度、そのことを蒸し返している愚かな人々を見ているようで嫌になります。 彼らは感情の奴隷なのでしょう。 とにもかくにも、コロナに飽きている人々がいるということです。 ■オーバーシュートの危機 当然のことですが、今回の件は、二週間経ったからと言って、危機が去るような性質のものではありません。 むしろ、少しずつ市中感染が疑われる例が出てきた今こそ、オーバーシュートの可能性が高まっています。 個人ができる最低限のことが続けられていれば、感染者数の上昇をゆるやかに抑えられると亭主は思っていますが、ここにコロナ疲れやコロナ飽きが出てきて、反動的な解放感が勝れば、オーバーシュートにつながり、一気に医療機関が麻痺する危険があると思うのです。 ■日本の死者数の少なさは厚労省の絵図通り 以前にも指摘した通り、厚労省の作戦はうまくいっています。 無闇に不安を煽ることなく、クラスターを把握しながら、ゆるやかな感染者数上昇を許容し、かつ、軽症者には自宅で治してもらって、医療リソースを守るというものです。 どこに感染者が出た、とか、死者が出た、などという愚かな報道が煽ってくれているなかで、どのように過ごすべきかを適切に伝え、過度に怖がらないように舵取りしたのは成功と言えるでしょう。 それは、先駆けて失敗したイタリアの例を見ればわかります。 イタリアは新型コロナの脅威が情報なく伝わったため、貧弱な医療機関に感染者が殺到しました。 その結果、死ぬはずもない健康な者たちが、病院にウィルスを撒き散らし、罹れば重篤になる人々の命を奪ったのです。 イタリアでは、病院こそクラスターとなり、基礎疾患のある人々の生命を危機にさらしたわけです。 これは他のヨーロッパ諸国でも、これから起こる危険のあることです。 そして、もちろんこの極東の国でもです。 ■後まで尾を引く安倍首相の間違い 厚労省や専門家会議は、学校の休校を自治体に判断するよう促していました。 そもそもその地域独自の事情を分析したうえで休校を決定する権限は自治体にあるのですから当然です。 しかし、後手後手対応を批判されたサワヤカナアベシンゾウ氏は、密室で一人の首相補佐官と相談しただけで、専門家の意見も聞かずに、リーダーシップを発揮しているフリを見せるためだけに、奪われる必要のない「教育を受ける権利」を、簡単に取り上げたのです。 この決定に対しては、政府内でも批判があるという報道がありますが、当然のことでしょう。 自分のメンツのためだけに、国民の権利を奪うというのは、いつの時代の為政者の発想なのかと驚きます。 彼の出身大学の政治学科では、近代政治の基礎教養を教えていないのでしょうか。 この決定の仕方の最大の問題は、そうしたエビデンスなき政治的意思決定が続けば、場当たり的な判断が決断主義のもとに許容されてしまうようになる、という民主主義最大の危険性に尽きます。 わからないことだから、エビデンスのあることなんてできないという、頭の悪い反論を見ましたが、専門家会議は多くの情報を分析して、今から振り返っても適切なオプションを用意できていました。 そうした専門家の意見も聞かずに、「政治的判断」などという言葉を使った愚か者は、必ずやこの国の災禍となるでしょう。 というか、すでにその災いはこの国に降り注ぎつつあります。 先に述べたコロナ疲れです。 多くの人は一生懸命に努力できる期間は限られているのです。 何かを不安に駆られて無理に行えば、必ずその反動が来ます。 サワヤカナアベシンゾウ氏が、意味もなく煽ったおかげで、店頭からいろいろなものが消えましたが、そうした不安を掻き立てる行動は、必ず気の緩みを誘発します。 厚労省の絵図通りに、ゆるやかに馴染んでいく作戦は、この一気の反動のおかげで、いま失敗の危機にさらされているのです。 ■リスクコミュニケーションの不足という最大の政治的失敗 台湾はなぜ抑え込みに成功しているのでしょうか。 様々な施策の成功が寄与していることは間違いありませんが、その根本にあるのは、政治的リーダーシップです。 徹底した情報公開とリスクコミュニケーションによって、国民の政府に対する信頼を獲得していることがとても大きい。 政治家が正しい情報を発信し、国民が不安から動くことを防いでいる。 このことが一番です。 もちろん今後台湾でも感染者は増えるでしょうが、医療リソースが適切に配分される可能性はどの国よりも高いと思われます。 さて、それに対して、この国の政治家は、このウィルスの不安を煽ったり、他国への憎悪につなげたりすることで、政局に利用しているように思います。 検事長の定年延長問題や、サクラのホテルでの飲食費の問題、森友学園の公文書改ざんの問題など、普通に考えれば、政権が倒れるような重病をいくつも抱えながら、ウィルスとその先の経済不安に国民の目が行っていることをいいことに、今日も国会でテキトーな答弁を繰り返しています。 新型コロナウィルスは大したことがないと思っている一番の人は、学校の一斉休校なとという悪手を打ったその張本人なのだから洒落にもなりません。 とにかく、不安を煽られた人々の反動は、オーバーシュートを引き起こす起爆剤となるでしょう。 正しい情報を理解したわけではなく、こうしたことに煽られて、自粛自粛の大合唱をしたような人々は、わかっていないのだから当然ですが、オーバーシュートが起きたときに、医療機関に殺到し、イタリアの二の舞を演じるのでしょう。 愚かな政府は愚かな人々に支えられているのだと、アリストテレス以来の政治理論を振り返りながら、嘆ずるだけです。 ■文章を読める人がすべきこと 世の中には、文章を読み、様々な情報を獲得・分析しながら、常識的見解を打ち立てていける人たちがいます。 かたや、そうした小難しい情報にはそもそも触れもせず、その時の感情のままに動く人々もいます。 後者の危険は述べた通りです。 では、前者たる人たちは何をできるのか。 もちろん、正しい情報の伝達と、率先垂範でしょう。 ・接触感染を防ぐために、こまめに手を石鹸であらうこと。手指消毒をすること。 ・飛沫感染を広げないようにマスクをすること。 ・エアロゾル感染を防ぐように、適切な換気を行うこと。 ・清掃をすること。消毒をすること。 ・体調不良の時は家で休むこと。本当にひどい場合は相談窓口に電話のうえ指示に従うこと。 ・こうしたことを周囲につたえること。 何度も繰り返していることですが、すでにウィルスキャリアはたくさんいるでしょう。 問題は、そうした人々が軽症にも関わらずに、一般医療機関を受診することです。 オーバーシュートがおこって、情報リテラシーの低い人々が医療機関に殺到すれば、助かるはずの生命を危険にさらすことになります。 わかっていてやれば、これは倫理的には殺人と呼べる類のことでしょう。 文章を読める人たちが、周囲の一人にでも正しい情報を伝えれば、疫学的には大きな差が生じます。
2020.03.24
コメント(0)
弁天娘女男白浪じゃありませんが、 知らざあ言って聞かせやしょう と始めたくもなります。 この国の狂想曲についてです。 ■肺炎は死因の第四位 2016年の肺炎での死亡者は、男性65,636人、女性53,664人。 わが国の死因の第四位です。 聖隷浜松病院のデータがネット上に転がっていました。 2014年の「肺炎入院患者の死亡率」は、8.9%です。 入院した方のうち(若年者も含まれます)、1割弱はお亡くなりになっています。 中国での新型コロナで肺炎に罹った80歳以上の致死率が20%超だという報道がありますが、初動において医療リソースが不足したことや、日本の医療との差を勘案すれば、「普通の肺炎」と今回の肺炎がそれほど大きな違いを持っているとは思えません。 まず、新型コロナに罹る人(発症者)がいる。 そのうえで肺炎を発症する人がいる。 そして、そのうち80歳以上だと20%くらい亡くなった。(武漢では。) こういうことなわけですが、数字が読めない人は、新型コロナに罹患した80歳以上の2割が亡くなると思ってしまう。 (こういう誤解させるような書き方をするのは、朝日と産経です。) わが国では毎年80歳以上の1.12%が肺炎で亡くなっています。 毎年、80歳以上では1日あたり200人の方が治療に入っているということです。 肺炎はこれだけ身近です。 新型コロナは危険では無いと言うつもりはありませんが、何人目の感染者が出た、などという報道を見ると、この国の報道記者の矜恃のなさ(あるいは頭の悪さ?)を思わざるを得ません。 ■ライブハウスやスポーツジムって ライブハウスで感染が広がったと。 スポーツジムで感染が広がったと。 はあ。 東京の朝夕は、満員電車が走っています。 声を出さなきゃ感染しない? インフルエンザよりもずっと感染力は低い? 換気をすれば大丈夫? どういう信仰心でしょう。 山をも動かす信仰心とはこのことでしょう。 感染経路がわかった(っぽい)ものしか詳しく報道しないので、読者や視聴者に誤解を与えるわけです。 そしてそのうちリテラシーの低い人々が、そいつらを隔離しろ、みたいなことを言うわけです。 ■混乱を与える政府とWHO事務局長 さわやかなアベシンゾウくんが混乱を助長しているのは論を俟ちません。前回書きました。 彼が何かやるたびに、市中からトイレットペーパーが消えたりします。 不安を煽るのがオハコの政治家ですから、今回も得意技炸裂だったわけです。 しかし、国民は、飛んで来なさそうな北朝鮮のミサイルについての不安煽りには余裕を持って受け止めていましたが、マスクやトイレットペーパーが手に入らないとなると、この不安煽りをあまり気に入らなかったようです。笑えます。 もう一人困った人が、WHO事務局長テドロスさんです。 この人はアフリカ初の国際機関事務局長ということで、発展途上国では人気があります。 そして、この人の発言も、インフラが整っていない国に対してのメッセージとしては、理解できなくもないところはあります。 しかし、どう考えても、言っていることが一貫していないし、祖国エチオピアへの中国マネーを期待した言動をするしで、混乱を増長させたことは間違いありません。 ただ、わが国として気をつけなければならないのは、テドロスさんは困った人ですが、WHOの報告自体は役立つということです。 ここで、WHO全体を否定する人は、完全なる大衆マインドです。 やはり、素人の安直な発想よりも、専門家の報告は役に立ちます。(WHOは感染症についてのデータは持っています。政策をアドバイスするような能力は持っていないということです。) ■WHOの武漢報告 WHOの武漢についての聞き取り調査報告は役立ちます。 19歳未満の罹患率はわずか2.4%です。 そして重篤化はほとんどない。 それだけでなく、「驚くべきことに、子どもから大人にウイルスが伝染したという話は誰からも聞かなかった」と報告されています。 もちろんサンプル調査ですが、統計は役立ちます。 子どもはほとんど罹らない。 (もちろん探せば見つかりますが、割合を考えられない人は、政策議論に加わってはいけません。) 専門家はもちろん知っている情報です。 さわやかなアベシンゾウくんは、もちろんこんな情報は知らないままに、学校に一斉休校要請を出しました。 彼は「教育を受ける権利」という国民の憲法上の権利を軽んじている政治家です。 このことの恐ろしさは、政治学的素養が無いとわからないかもしれませんが、政治が間違った歴史によって鍛え上げられてきたのが立憲主義(すなわち憲法)ですから、これがわからない政治家というのは、歴史的な暴政をする重要な条件の一つを持っていることを意味します。 (そして、素養のある国民は、このような政治家をトップに据えようとはしません。) とにかく、エビデンスの無い施策で、簡単に国民の権利を奪ったわけです。 ■もう、一巡してる もう東京じゃ、免疫獲得してる人たちがたくさんいると考えるのが統計リテラシーというものではないかと思います。 そして、当然のことながら、無症状キャリアもたくさんいる。 毎日電車に乗っている。 東京都の発表では、最近の感染者の多くは、海外渡航歴が無い方々になってきています。 そして、40代だと症状も無い。 (おそらく、発症者の「濃厚接触者」として検査を受けた方でしょう。) 免疫獲得しちゃってる人もいる一方で、罹りたくないと怯えてる人もいる。 こういう状況です。なかなかコミカルです。 ■PCR検査の脆弱さ 検査、検査と騒ぐ人たちがいて驚いたのですが、彼らは検査してどうするつもりだったのでしょうか。 陽性と出たらどうするつもりだったのでしょう。 陰性と出たらどうするつもりだったのでしょう。 陰性なら安心する、とか言うのでしょうか。 そのために、国に2万円弱の費用を払わせようというのでしょうか。 さらに残念な事実があります。 PCR検査の精度はかなり低いというのが、専門家の見解です。 偽陰性は3割以上に上るとされています。 つまり、罹患者の10人に3人は間違って陰性と出るのです。 偽陽性も1割くらいと言われています。 つまり、罹っていないのに、10人に1人は罹っていることにされてしまう。 厚労省はこれをわかっているから、無闇に検査しせたくないのです。 だって、陽性なのに間違って陰性と出た人たちが、大腕を振ってウイルスを撒き散らすようになりますからね。 まあしかし、検査したい人って、本当に何を求めてるんでしょう。 これってもはや心理分析の領域だと思います。 なにか世の中に不満がある人たちなんじゃないかと思えてなりません。 ■早くに回せ ワクチン開発に期待する人たちがいます。 まあ、期待してもいい。 でも、そんなもんですかね、これ。 風邪のワクチン作りが難しいことはひとまず措いても、それほどのものかということは、先ほどの統計で見た通りです。 ふつうにみんなで罹患して、免疫を獲得する方が早いと思いませんかね。 生物としてのヒトの免疫システムはなかなかだと思います。 老人には大変なんだと言う人がいるのは知ってますし、そのことは否定しませんが、ヒトの致死率って100%ですよ。 いつかは死ぬんです。 80超えるまで生きて、自分の人生に満足できてなくて、死ぬ覚悟ができていない人は、いくつになっても満足いく死に方はできないんじゃないですかね。(まあ、これは完全に個人的思想ですから、押し付けるつもりはありませんが。) ■経済危機の怖さ 怖いのはパンデミックよりもインフォデミックだという議論を見ました。 今回の件については大きく首肯します。 ドラッグストアの店員が、怖いのはコロナより人だった、という笑えない記事を見ました。 マスク一枚買えないことで不安になる。 もはや、マスクは現代のお札やお守りなのでしょう。 時代は進んでも、人の不安の本質は変わらないようです。 スペイン風邪の時は、神頼みに走って、電車でぎゅうぎゅう詰めになって、風邪に効くという神社へみんなで参拝したと。 そして、風邪が拡散したと。 これは喜劇ですか。 目先の緊急事態で動く人は成功しない、というのは、成功哲学の格律のようなものでした。 成功者は長い目で見て、「緊急でないが重要なこと」に目を向ける。 成功しない者たちは、「緊急なこと」に行動を支配される。 こんな風邪のことが重要ですか。 経済の方がずっと重要でしょう。 観光業、飲食業、スクール業と、国の余力を示す指標となる業態を殺しにかかった政策が行われています。 さらに、近年この分野に貸し出しているのがもちろん銀行です。 銀行が一つでも倒れたら、この国どうなると思いますか。 今回のウィルスで騒ぐ人たちは、経済の怖さをわかってなさすぎだと思います。 まあ、統計リテラシーや、ちょっとした読解リテラシーや、大切なものを大切にする力があるかないかが、生の質を決めるとは思いますが、動物的反射行動しかとらない大衆はいるわけで、そこにこそ、政治家の存在理由があると思うのですが、蓋を開けてみたら、危機ばかり言う癖に、危機対応は悪夢の民主党政権以下というリーダーを抱えた国に生きている弁天小僧菊之助たぁ、俺がことだ、とこう叫びたくもなるわけです。
2020.03.09
コメント(0)
■プロはリーダーになれない 多くのプロフェッショナルを見てきた。 プロとして一流なのは、リソースを集中投下している人だと思う。 いろんなことができる人はプロではないが、だからと言って、そういう人がプロに劣っているわけでもない。 このクラスの、メガネをかけてて、八重歯のある男子の中では、一番カッコいい、のように、分野を絞れば一番になれるというただそれだけのことだ。 では、そのような分野を絞ったプロは何の役に立つのか。 当たり前だが、その分野のことのみに役立つ。 逆に言えば、広い責任を持つべきところにはそのような人間は据えられてはならない。間違いなく役に立たない。 プロであることは、リーダーであることの邪魔になる。 ■COVID-19への対応について 政治が科学の邪魔をしている。 これは民主主義の初めから問題にされていたことだ。 そう、衆愚政治、ポピュリズムのことだ。 我が国の当初の対策は悪いものではなかった。 おかしくなったのは水際対策を言い出した頃からだ。 ダイヤモンド・プリンセスは、感染源を培養した。 なぜそんなことになったのか、政治家が政治の責任を放棄し、大衆の不安に付き合ったからだ。 報道が過熱した頃(なぜかアメリカのインフルエンザ猛威については報道が少なかった)、すでにウイルス媒体としてのキャリアは、正確には捕捉できないレベルで広まっていたと思う。(この根拠については後述。) それなのに、統計数値が読めず、教科書を読めないレベルの大衆たちは、封じ込めを期待した。 (そのような人たちの中にイタリアを称賛するひとがいたことは注目に値する。イタリアは唯一WHOの推奨策を講じずに、欧州の中で逸早く中国からの航空便を止めたが、結果として欧州先進国のなかでは最もひどいことになっていることに留意しなければならない。) 各国の専門家はそれほど悪いことをしていない。 当たり前だ。 愚かな不安に駆られた大衆より、一人の専門家の意見の方がずっといい。 そして、政治家の仕事は、そのことをよく理解したうえで、大衆に真実を語りかけることだ。 大衆は存在する。 それは前提だ。 残念なのは、政治家のなかには大衆扇動のプロがいるということだ。(そして、先に語ったように、このプロは他のことはできない。) この国はダイヤモンド・プリンセスで誤り、その失敗をまたもや繰り返した。 全国一律の休校要請だ。 ■エビデンスゼロの恐怖 国会中継を見て理解できる国語力のある人なら、国会中継を見て驚いたはずだ。 この国の首相の思い切った施策がノーエビデンスだということに嫌でも気付く。 専門家たちの議論していなかった結論が、官邸の少数の話し合いで打ち出される。 そして、彼らは決して感染症対策のプロではない。 恐ろしいことだ。 では、なんのプロか。 支持率対策のプロであり、大衆扇動のプロだ。 意味のないことを「大胆に」言う。 そもそも科学的思考を持っていない大衆は、その大胆な態度に騙される。 策もイマイチだが、やり方がこれ以上無いほどに愚劣極まっている。 休校案は各自治体によって、現場の状況を見ながら決められるはずだった。 それが己の指導力を誇示したいだけの理由で、一律に行うという結果になった。 しかも、恐ろしいことに、その施策の科学的根拠は何もない。(狙いが違うところにあるから当然なのだが。) しかし、せっかくなので、この施策の「可能性」に付き合ってみよう。 ■封じ込めは可能か そもそも、この施策の狙いや成功の定義も示さずに実施している時点で、心配になるのだが、学校の臨時休校の可能性が無いとは思わないので、どんなことができるのかを考えよう。 この施策に比較的好意的な専門家たちは、封じ込めの可能性を言っている。 そして、それができる根拠として、実は飛沫感染が多くはなさそうであり、接触感染がメインだろうという推測を挙げている。 ではなぜ、そのような推測が成り立つかと言えば、公共交通機関での感染が思ったより少ないらしいことと、わかっている感染者の多くが、どうも接触感染によると推理されるからだ。 例えばスポーツクラブで同時間にいなかった人が感染していることから、接触感染の危険性の高さを推測している。 さて、では、この推理は成功しているだろうか? ・飛沫感染があればもっと感染源の辿れない患者がいるはずだ ・感染源の辿れる患者のほとんどは接触感染らしい どうもこの二つの事実(これさえ推測だが)から、飛沫感染は少なく、メインは接触感染だ、という結論を導いている。 そして、だから、接触感染に注意して、ふつうに生活していれば大丈夫。封じ込める。 ということになるらしい。 これはおかしな推論だ。 ふつうに考えれば、症状の出ていないキャリアが多くいる、と考える方がふつうだろう。 この施策に首を傾げる専門家たちは、この施策の意味のなさを強調する。 「一旦」子どもを感染から守ることにはほとんど意味がないと。 ■真の狙い いや、おそらく施策に好意的な専門家たちも、本当はそんなことは思っていないのだろう。 彼らは医療関係者であるから、各病院の混乱がどれだけ危険なことなのかを知っているのだろう。 だから敢えて、「飛沫感染は少ないらしい」と嘘をついているのだと思う。 飛沫感染が公共交通機関で多くありそうだ、なんて述べれば、次の日には病院は膨れ上がって機能麻痺に陥るだろうから。 だから、少しでも広がる速さを抑えて、大衆が「慣れてくる」までの時間稼ぎとして、この施策とも言えない施策を、消極的に支持しているのだろう。 ■そもそもの筋 厚労省関係者の言に耳を傾ければ、この新型コロナウィルスは、インフルエンザに毛が生えたものとの認識であるように思う。 広がるのは仕方がない。経済に打撃を与えてまで防ごうとするレベルではない、という認識だったろう。 (死ぬかもしれないことを大袈裟に訴える人たちがいるが、それなら車にも乗れないし、いや車の存在だって無くせという極論と変わらないことに気づいた方がいい。) 結局、これが収まるのは、スペイン風邪の時と同じで、多くの人に免疫ができた時だ、という考えだった。 そして、もちろん、これは大勢が罹患することを前提にしている。 この筋の何がわるいのか。 ■大衆の不安とポピュリスト しかし大衆は知らないものに対しては驚くほど過敏に反応する。 船の中に閉じ込めろ。 中国からの飛行機を禁じろ。 この失敗はすでに、わが国とイタリアで結果となっている。 ■少人数が社会実験をすれば、その皺寄せは弱者にいく 全国一律休校の狙いはなにか? もし、それがはっきりとあるのなら、ポエムのような原稿を記者会見で朗読するのではなく、はっきりと明示し、その結果に責任を持つ態度を取り、さらにその皺寄せが向かう先への支援策を同時に発表するべきだったはずだ。 しかし、狙いは大胆さを誇示することだけだったからタチが悪い。 しかも、やりやすいことをやっただけだ。 なぜはじめに武漢で騒がれた時に、何の施策も打たなかったのか。 それはもちろん、各業界からロビー活動があるからに他ならない。 そして、それらのバランスを考え、先の理由で、敢えて放置していた。 しかし大衆は騒ぐ。 この時に、現実に責任を持つということを、この国の今の首相は絶対にしない。 理屈での説明は得意とするところではない。 意味のわからない未来を語ることが、大衆には効くことをよく知っている。 そこで、ロビー活動がないところ、そう学校が対象になる。 日教組は政権側の支持層ではないから、これができる。 そしてその決定の裏で、生活に困窮する人たちがいる。 しかし余裕のある大衆は、その命に関わるほど困窮する層に冷淡に振る舞う。 (ただし、今回、政府の決定に異を唱えた立派な自治体トップがいたことはよかった。) ■そもそもの筋に戻るべき 封じ込めは不可能だろう。 飛沫感染が少ないというのも嘘だ。 キャリアはもうたくさんいる。 これらの事実を認めたうえで、どうするのか考えるべきだ。 コロナウィルスは毎年結構新型だ。 生物としての人はまあまあ対応している。 封じ込めが不可能であるならば、ゆっくり免疫を広げていくのがベストだろう。 仮に封じ込めの可能性があるとしても、社会のその他の場所の打撃はもっと大きくなる。 毎年何千人と死んでいる交通事故を理由に車をなくすという選択肢を採れると訴える人だけが、政府の施策を支持したらいい。 ふつうの統計を読む力と、読解力があれば、今回の全国一律の休校要請のやり方が、相当におかしいことに気づくと思う。
2020.03.01
コメント(0)
恩師の告別式に参列した。いまはまだ気持ちを上手に表現できない。友人が弔辞を読んだ。彼は恩師の一番弟子と言ってよいと思う。彼らしい口調で、深い敬愛の情が語られ、多くの涙を誘った。彼は終始落涙していた。弔辞を書きながら涙が止まらないと読んだ彼が、恐らく、自身の胸痛をこらえながら、私を思い出し、連絡をくれたことを思うと、有難い気持ちでいっぱいになる。ある見方をすれば部外者である私に、恩師と最後のお別れをする機会をつくってくれた。ほんの1年か2年だったが、恩師の元で、彼と私とで過ごした時間は濃密だったと思う。私の直接の(と言うのだろうか)恩師は、海外にいて参列することがかなわなかった。私の直接の恩師も、故人を敬愛していたことを思うと、私ごときが参列できたことを申し訳なく思ってしまう。普段接する機会のあった彼らとは恐らく違って、私には恩師の満面の笑みしか思い出せない。(いや、彼らもあの満面の笑みしか思い出せないのではないかとも思ってしまう。)■私は村に残らなかった。恩師は村の中心にいた。村を出て1度だけ、恩師と友人と3人で食事をした。大方村に残ると思われていた私のことを恩師は気に留めていてくださっていたようで、当時の私の仕事内容に耳を傾けてくださった。本当にあたたかい人だった。■直接の恩師とは毎年お会いしている。友人とはたまに思い出したように飲む。中を繋いでくれる存在(妹分)がある。■恩師のお仕事を振り返ると、私の今の年齢くらいから、大変お忙しくなっていたことがわかる。直接の恩師もそうだった。友人も、この時代にあって、立派な社会的地位を手に入れている。■告別式には当然のことながら錚々たる面々が揃っていた。同時に、記憶とは大きく変わっていた。■「ニューシネマパラダイス」だった。私はアルフレードの葬儀に参列するトトだった。考えてみれば当たり前だ。■ニューシネマパラダイスは、不思議な映画だ。■■この記事を書いている私に一通の依頼が舞い込んできた。こういう偶然に恵まれてきた人生だ。天に召された恩師が、お前もそろそろそういう役を引き受けろと言われてるのだと勘違いしたくもなるようなタイミングだ。■人に恵まれている人生だと思う。■恩師とはずいぶんお会いしていなかった。それなのに、恩師のいない人生は、何か違う。■恩師は、自由にやったらいい、一生懸命やったらいいと、あの満面の笑みで、この私の人生も応援してくれているように思う。もう遠に私のことなど忘れてしまっていただろうけれど、私はそう思う。私ごときが告別式に参列していいのかと少し自問した。先生は私のことを覚えてはおられないだろうと思った。でも、私には、あの満面の笑みが、私を応援してくださっているように思えてならない。■アルフレードは、たしか、トトに、俺や村のことは忘れろと言った。■友人にとっての恩師は掛け替えのないものだっただろう。その思い出は神聖すぎて私には近寄れない。でも(と言わせてほしい)私にとって、恩師は、アルフレードだった。これはまた、私にとって、間違いのないことなのだ。■私にはまだ「ニューシネマパラダイス」を論じることはできない。
2017.03.21
コメント(0)
アメリカ大統領選が終わると、至る所で、自分は唯一トランプが勝つことを予想していた、といった声が聞こえた。思うに、民主主義にとって最もやってはいけないことは、選挙の結果予想なのではなかろうか。なぜならば、それは主権者たる自身を棚上げした振る舞いだからだ。そうした輩は、政治的コミットメントを投げ捨て、まったくの他人事として選挙にかかわる。グロテスクだ。アメリカ大統領選は、我が国の選挙ではないというのはもちろんのことだ。が、他国民であっても、選挙の予想などという愚劣な行為は避けるべきである。そうした行為は、その当該国国民への冒涜である。民主主義は主体的諸個人の自由なる熟議によって、つねに予測不可能性たる自由を保持しているところに根源的強さがある。予測可能性を求めるならば、君らが偏執的に好いておられる独裁国家へでも行ったらよろしい。さて、時に、ヒラリーの票がトランプの票を200万票以上上回っているというニュースが流れた。これに、偉そうにトランプに「逆張り」していた諸先輩方は何とお答えになるのだろう。けっこうなご高説を付けてトランプが勝つ「理由」を述べられていた方のほとんどは、制度論的な議論よりも、トランプの方が人気があるんだ、と言っているように見えた。彼らもまた、自分の見えるところ(全体のほんの一部)を見て、語っていたわけで、ヒラリー勝利を信じて疑わなかった人々と、まったく選ぶところがない。まあ、もっとひどいので、ただのギャンブル的大穴狙いの「予想」もあって、本当に閉口してしまった。とにもかくにも、選挙の予想ということが、自身の主権者としての立ち位置の放棄であり、歴史に対する冒とくであり、近代人としての尊厳の棄損なのである。そして、そのような「有権者」が現れたとき、民主主義はサバよりも速く生き腐れるだろう。おお、衆愚の民たちよ!
2016.11.29
コメント(0)
この間、必要あって、いろいろ調べていたら、頭の悪い経済学者のウェブサイトに行き当たった。以前から、頭が悪いと思っていた池田信夫だ。まあ、池田が言ってることはひとつひとつ論理のつながりが弱いし、経済学者にはありがちの、たぶん歴史的視野から持論ののっかっているパラダイムを相対化するってことができていないからだろうが、言ってることのほとんどに説得力を感じない。(このことに関しては、気が向いたら書くかもしれないが、そこまで池田に興味がない。)ところで、なんで、池田信夫の名を挙げたかと言えば、たまたま行き当たったところの池田の議論はどうでもよかったんだが、その主題のところについてちょっと書いとこうと思ったからだ。つまり、池田はただのダシなんだな。■会社は誰のものか池田や、現代の社会構造を全く疑う目を持たない知的体力の無い人間たちは、会社は株主のものだという。おそらく、多岐に渡って議論でき、そのすべてで、上の意見を否定できると俺は考えるのだが、なによりもまず考えなければならないのは、会社なるものが成長するということだろう。今回は、面倒臭いので、ここだけに軽く触れる。所有権論からの、上の意見批判に関しては、所有権の立つパラダイムについての批判と、所有権の適用対象に関する運用実体に関しての批判があるが、これは誰かに任す。今回は、単純で素朴な議論をしようと思う。■資本って?会社は株主のものだと考える多くの者が、無意識のうちに大企業を想定していることは想像に難くない。ここも細かい議論があるが、捨てる。だが、資本ということを考えるとき、会社において重要なのは、そのスタートだ。資本がある。会社ができる。そして、うまくいけば、それは成長する。資本を出した人間がいる。会社を立てた人間がいる。これをこの会社の持ち主だと呼びたくなる。これもわからなくはない。だが、ある会社の企業価値が1,000倍になったとき、それはその出資者の力だろうか? 中小企業を観察すれば、その成長は出資者(多くは社長)の力で大きくなったとは言い切れないことなどすぐにわかる。言うまでもないことだが、従業員の頑張りなくして、会社は成長しない。成長に貢献した従業員たちも、株がなければ、その所有権に与れないというのは、なかなか奇妙なことではあるまいか。■社長の器論社長の器論というのがある。いわく、企業は社長の能力以上は大きくならない、というものだ。もちろん、これは中小企業を指してなされる議論だ。社長は、会社を自分のものだと思っているから、すべてに関わりたがる。そして、それゆえに、社長の能力を超えては会社は大きくならない、と。まあ、これも観察すればわかると思うが、大企業にまでなる中小企業の社長と、中小企業で終わる中小企業の社長は、一目で違いがわかる。いや、長年中小企業の社長をやっている人間と、大企業の社長とを見比べてみればわかる。(もし後者に会えればだが)えばりたがる「万年中小企業」の社長と、しっかり成長する企業の謙虚な社長。自民党は、前者に支えられているから、経済政策がおかしいことになる。■けつろんまとまらんかったが、とにかく、池田みたいな阿呆は、会社が株主のものでなければ、法律がおかしいことになる、って言うが、法律がおかしいということで何が悪いんだ?こういうところに、基礎法学や歴史学的知見の無い人間の、適当さが出てしまうんだよな。また、従業員は企業の効率化を拒否するとまで言い切る阿呆さは、現実知らずと言わざるをえない。多くの中小企業(税務申告で約8割が赤字決算を提出する)の「非効率」は、完全に経営者のせいだと俺は観察していて思う。どうしてそんな風に、学者なのに直感だけで語れるのかね。まあ、池田の阿呆は置いといて、現実社会が捨てたもんじゃないなって思えるところは、会社は(ある程度)従業員のものだって考えているマネジメントを持つ会社しかちゃんと育っていかないってことを、見られるところだろう。もちろん、例外はけっこうあるだろうが、俺の知る限り、一代で一部まで上場させちゃうような社長は、会社は従業員のものでもあるって考えているんだよね。
2012.11.05
コメント(0)
文芸春秋を読んだ。おもしろかった。石原慎太郎、亀井静香、野中弘務の鼎談で、歴代でのどの内閣が最強だったかについて語っている。大変興味深いことに、亀井と野中は、村山富市を激賞しているのだ。村山内閣の閣僚だった2人は、村山のリーダーシップを具体例を挙げて論じている。閣僚すべてが村山富市を信頼していたと言う。石原は否定しようと躍起になるが、2人は動じず、評価を繰り返す。さすがに文春として、村山を「最強内閣」にはできないだろうから、話としては、石原の強く推す佐藤内閣がクローズアップされるが、とにかく、世間での評価というのは当てにならないのだと思われた。ジミー・カーターの外交手腕も、30年近く経ってから再評価されたが、政治家の評価というのは、30年経たなければわからないのだろう。そして逆に言えば、それだけ、現代民主主義というものが、憶測と偏見に塗れたものだということだろう。歴史小説好きのおじさんが、偉そうに、歴史上の人物を、上から目線で、評価するのに似ているのかもしれない。人は、自分の理解できたことだけを語る。もちろん、それは世界の大きさの何万分の一にもなるものではない。
2011.10.04
コメント(5)
(1)のつづきレイモンド・チャンドラーの文章スタイルはヘミングウェイのそれとも違うし、ハメットのそれとも違っている。ヘミングウェイが「前提的にあるもの」とし、ハメットが「とくになくともかまわないもの」とし自我の存在場所に、チャンドラーは「仮説」という新たな概念を持ち込んだのだ。それがまさに小説家としてのチャンドラーの創造的な部分であり、オリジナルな部分である。村上は、こうした文学手法をチャンドラー一人の功績にするつもりはない。その水源として、ヘミングウェイやハメットを挙げている。そして、重要なのは、それらの作家が、「近代文学」の核心に位置し、最後には桎梏となって現れる「自我」に対して意識的な距離をとっていたという事実である。チャンドラーはなぜそのような手法をとったのか? 目的はただひとつ、彼自身の語るべきフィクションを、より自発的で、よりカラフルで、より説得力のある物語として立ち上がらせるためである。この現実の世界においては、それがたとえどのような世界であれ、フィリップ・マーロウというような人物は実在し得ない。…〔略〕…もしマーロウをよりリアルな自我を持つよりリアルな人物――たとえばヘミングウェイの小説におけるニックのような存在――として、小説の中に持ち込まなくてはならなかったとしたら、チャンドラーの小説は今あるような自在な存在感を、おそらく獲得していなかったはずだ。「この現実の世界においては、それがどのような世界であれ」というくだりは、村上の良い読者であれば、どこかで聞いてはいないだろうか?とにかく、その手法は、小説をより「リアル」にするためのものである。我々は文学に、それ以上の何を望むというのだ?そのような彼のやり方はいわゆる「本格小説=純文学」の世界に何かしらの影響を与えただろうか? 間違いなく与えたはずだ。個人的なことを言わせていただけるなら、少なくとも僕はずいぶん影響を受けた。彼に差し出された皿を前にして、「そうか、なるほど、こういう風な書き方もありなんだ」と思わず膝を打たされた。…〔略〕…その新しさを言葉で的確に表現することはとてもむずかしいのだが、その陸影のほのかな接近を身のうちに自然に感じるのはそれほどむずかしいことではない。なぜなら書き手の無意識的な雄弁性をもっとも鋭く理解するのは、いうまでもなく、読み手の無意識的な理解力であるからだ。そして、私見では、この『ロング・グッバイ』の翻訳によって、村上は、それをさらに意識化=深化させたのだ。チャンドラーは僕にとって最初から大事な意味を持つ作家であったし、その重みは今でも変わらない。小説というものを書き始めるにあたって、僕はチャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ。技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった(なにしろ彼は名にしおう名文家だから、学ぶべきことは実に数多くある)。しかし僕が彼から学んだ本当に大事なことは、むしろ目に見えない部分である。緻密な仮説ディテイルの注意深い集積を通して、世界の実相にまっすぐに切り込んでいくという、そのストイックなまでの前衛性である。その切り込みのひとつひとつの素早い挙動と、道筋の無意識的な確かさである。重ねて言うが、この「あとがき」は、非常に重要な文学論であるので、ぜひ全文読んでほしいものだが、このいくらかの引用からだけでも、『1Q84』の構造を読み解くヒントにならないだろうか。そして、さらに、他の作家に比べて、なぜ村上春樹はおもしろいのか(ここでおもしろさは、売上部数において測っていることにする)、という問いへの回答のヒントにならないだろうか。ともかく、やっと『1Q84』へ書評を書くための準備が整ったわけである。ちなみに、「技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった」というところを村上は(当然ながら)深く語りたがらないが、今回の『1Q84』において利用されていることを一つだけ指摘しておけば、キャラクターによる「要約的振り返り」とでも言えるような手法である。フィリップ・マーロウは、しばしば、事件のことを振り返り、要約するのであるが、それは新たな事実=場面を立ち上がらせ、次の展開に生きるように工夫されている。『1Q84』では、ご存じのように、複数の選ばれたキャラクターたちが、その作業を行っている。そこには、要約とともに推理が付きものであり、読者の疑問を整理し(あるいは誘導し)、そして新たな要素が(比較的自然に)加わっていく。それが強力に物語の展開を支えているといってよいだろう。最後に、全く異なる分野――政治学――の書物から引用したいと思う。ホッブズが『リヴァイアサン』で「神」を「正義」におきかえたとき、かれは「正義」が政治学にとって神学における「神」に相当すると主張したのではないのか。ホッブズによって用いられている存在論的証明は、『リヴァイアサン』の読者を説得するためのレトリックである以前に、まずは正義の実在に対するホッブズ自身の信仰告白であり、さらにいえば、政治学者としてのかれの自己規定の行為であったと考えられなければならない。政治学者であるかぎり、たんなる秩序でなく正義にかなった秩序が、それも「たんに観念として」だけ存在するのではなくまさしく「現実存在」することを、みずからの発話行為によって例示しなければならないのである。中金聡『政治の生理学』(勁草書房、2000年)からの引用。もちろん村上をホッブズに匹敵すると言うつもりはないが、いくつかの単語を置き換えれば、文学における村上の実践もまた、この引用文のような性格を持っていると言えないだろうか。これを村上批判者たちへの、小生なりの今のところの回答としたいと思う。
2010.04.25
コメント(0)
実は『1Q84(BOOK3)』の書評を書こうとPCに向かっていたのだが、書評のための予備的問題としての文体論の部分が思いの他膨らんでしまったので、独立して先に記すことにした。以前、「村上春樹と文体論」で書いたことの問題が、『1Q84(BOOK3)』の書評を書くために引用した文章のなかで、実は解決されていることに気付いたことも、本稿を独立させた重要な理由のひとつである。その文章とは、村上訳によるレイモンド・チャンドラー『ロング・グッバイ』の「訳者あとがき」である。(小生は、その文章を、「村上春樹と文体論」を書いた1ヶ月後に読んでいたのだが、その関連性に最近まで気づいていなかった。『ロング・グッバイ』自体が面白すぎたということもあるだろう。)というわけで、付け足しの部分を終えて、本論に入ろう。(ところで、4/25付の朝日新聞で斎藤環が『1Q84(BOOK3)』の書評を書いているが、それに対する応答も多少意識して記すつもりだ。)■『1Q84』へ影響した作品?2007年3月に、村上訳の『ロング・グッバイ』が刊行された。時期的にみても、この翻訳が『1Q84』に影響を与えた可能性は否定できない。その「訳者あとがき」で、村上は『1Q84』読解のヒントを示してくれている。この「あとがき」は、村上の文学論の断片を示してくれるもので、村上ファン(アンチファン含む)は一読するべきである。そして、その「文学論」はなかなか重厚であり、細かく引用するのには馴染まないのだが、全文を引用する紙幅はないので、誤解を恐れつつ(笑)、いくつか引用しよう。(もちろん、本当は全文を読んでほしい、そしてその際には『ロング・グッバイ』本文を先に読むべきだ。)最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなのがありなのか、と。〔下線部、原典では傍点:以下同様〕おそらく、この「普通でなさ」の正体を丹念に翻訳する中で見定めたことこそが、斎藤環が驚いた「村上の文体の“復活”」に寄与しているのだろうと思われる。こんなのがありなのか、と驚いた若き村上の直感が、表層的な「文体」ではなく、近代文学の存立のあり方と関わっている<文体>に向けられていたことは間違いない。斎藤は、“復活”の理由を「身体性」に求めるのであるが、では、どうすればその「身体性」が手に入るのか、という問いに対しては、(もちろん)答えていない。だが、村上にならって、我々もチャンドラーの文体の秘密へと思考を進めれば、そこには、確実に「近代文学」への「距離のパトス」とも呼ぶべき、深い方法論が存在していることに気づくはずだ。ジョイス・キャロル・オーツのこの表現〔引用者注:「自意識を抜きにした雄弁」〕は、チャンドラーの文体の魅力(のある側面)を的確に表している。多くの小説家は意図的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる「近代文学」の基本的な成り立ち方である。我々は人間の自我の作動状況がどのように有効に文学的に表象されているか――具体的にであれ抽象的にであれ――によって、その文学作品の価値を決定しようとする傾向を持っている。しかしチャンドラーはそうではない。文章的にはきわめて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。村上の「近代文学」論とも言える重要な箇所である。そして、そう言われてみれば、村上を好まない人々が、今や袋小路に迷い込んでいる「私小説」なるものが好きな人たちと見事に一致することに気づいてしまう。そして、そういう人は、袋小路に迷い込んでいることに気づいていないか、あるいは、その打破の仕方において村上に異議があるか、のどちらかであろう。(しかし、後者だとして、彼らは何を提示してくれるのだろう?)自我をまったく反映しない個人的所見や対応などどこにもない(はずだ)。そしてその所見にはもちろんひとつの一貫性がある。にもかかわらず、フィリップ・マーロウ〔引用者注:『ロング・グッバイ』の主人公〕はそのような自分の所見や対応の具象的なあり方に正確に綿密に固執することによって、またその一貫性を様式的なまでに美しく維持することによって、むしろ自我の実相をどこかべつの場所に巧妙に隠匿しているのではあるまいかという疑いを、我々は、あくまで漠然とではあるが、しかし避けがたく抱いてしまうことになる。何故なら一貫性というものは、自我のあくまで一機能に過ぎないわけなのだから。村上は、この引用箇所の前において、『ロング・グッバイ』で描かれているものは、主人公「フィリップ・マーロウの目で切り取られていく世界の光景」だと述べている。『ロング・グッバイ』における論理の一貫性(と我々が感じるもの)は、「自我」に担保されるではなく、世界=場面に担保されている、ということなのだろう。そうして考えると、『1Q84』が正確にそうした性格を持った小説であることに、我々は気づくのではなかろうか。それほどの深い逆説性は、生身の人間にはなかなか見いだしがたいものだ。そしてそのような逆説性についてより深く考えていくと、フィリップ・マーロウという存在は、生身の人間というよりはむしろ純粋仮説として、あるいは純粋仮説の受け皿として、設定されているのではあるまいかという結論に――少なくとも僕はということだが――行き着かざるを得なくなってくる。そしてそういう見方をとった方が、チャンドラーの小説をめぐるいろんなものごとがより理解しやすくなってくるのだ。そう、そして(そのような読み方をする読者なら、ということだが)、『1Q84』についても、いろんなものごとがより理解しやすくなってくる、と言ってよいのではなかろうか。とりあえず結論を急いで、とても簡単な言い方をするなら、フィリップ・マーロウという存在を確立し、自我意識というくびきに代わる有効な「仮説システム」を雄弁に立ち上げることによって、チャンドラーは近代文学のおちいりがちな袋小路を脱するためのルートを、ミステリというサブ・ジャンルの中で個人的に発見し、その普遍的な可能性を世界に提示することに成功した、ということになるのかもしれない。このキャラクターの確立こそ、斎藤が「身体性」と呼ぶものと関係している。すなわち、自我意識の「狭さ」を超えて存在する「現実」は、「深い逆説性」を含みこんだ「仮説としての身体」においてのみ表現可能なのである。(そして、BOOK1,2の書評において、小生が『キャラクターズ』について言及したことも、ここに関係している。)ここにおける「近代文学のおちいりがちな袋小路」とは、まさに、「作家の自我意識の限界」のことであり、ある個人作家の目を通して見られるものしか(可能性としても)作品に表現し切れない、ということである。卑小な例だが、歴史物語の主人公たちが、いいように作家のレベルにまで矮小されてしまう、といった事態は、この典型的なものと言えよう。つづく
2010.04.25
コメント(0)
国民主権というものに少しでも息吹を吹き込もうとすれば、二つのレベルでの「仕掛け」が必要となる。どのように国民のdeliberative(討議的・熟慮的)な声を集めるか、がひとつ。そして、どのように議論の枠組みの決定権を国民のものとするか、がひとつである(以前の記事参照)。この二点のどちらにしても、現在のこの国の制度は及第点に達していない。この点を検討する前に、ひとつの意見に反論しておきたい。■政治家の役割多くの政治家(どこかの国では嘘つきの代名詞)という人たちが、「政治家の役割は国民の生活と安全を守ることだ」と言っておられる(とくになんとか政経塾出身の人に多い)。いつから政治家はそんなに偉くなったのだろう、という疑問は扨措こう。おそらく、そうした意見は、社長業のアナロジーから出ているものと思われる。「社長は社員の生活を守らなければならない」というあれだ。しかし、この言には、大変な危険がある。ひとつは、社長業とは本質的に違う点があること。もうひとつは、社長業にも内在する脆弱性の問題があることである。社長業との本質的な違いというのは、だれの利益を守るのか、という点にある。「会社は誰のものか」という議論は、いまだ議論百出の大問題であるが、どの「答え」を採用しようとも、会社は本質的に特殊利益を代表するものである。つまり、その代表は部分の代表であり、ルソーが言うところの特殊意志に基づくものであることは言うまでもない。私はそのこと自体を否定したいわけではない。特殊な部分の代表であるということを逃れることなどできないと考えてさえいる。問題は、そうした「特殊な考え」を、「国民の」という全体を包括する言で述べて憚らない厚顔無恥さに対して向けられている。すなわち、人間は、あくまで、その身体を通じて、<部分>しか見ることができない。ゆえに、彼が守ろうとする「国民」の利益は、一部の利益であって、そのことに自覚的でない政治家(現在の与党に多くいらっしゃるように感じる)は、すでにドンキホーテ的な誤りを犯していると思う。政治は本来的に全体の利益を求めるものでありながら、そこに参加する一人一人はその全体利益を認識することはできないのだ、という大前提を、政治への参加者は持たなくてはならないという当然のことを、今一度確認しておきたい。そうでなければ、民主党の代議士たちは実務の大変さをわかっていない、と陰で揶揄される状況は変わらないだろう。■ドグマしか持たない我々さて、社長業にも内在する問題点についても記しておきたい。会社の倒産しやすい規模、ということをあるアメリカのコンサルタントが調べたことがある。年間売上が10億円~1000億円の規模の会社が倒産しやすいという。昨今のような不況の状況においてはうまく当てはまらないところもあるだろうが、どうしてそうであるのか、という分析については、現時点でも学ぶべきところはあると思える。すなわち、売上規模が上がるということは、必然的に、組織の分化が必要となることを意味し、さらには、意思決定に更なるコストが掛かるということを意味する。つまり、その規模以前であれば、社長なりが、すべてを理解し把握し決定する、ということが可能であったものが、規模の拡大によって、社長の個人技では追いつかない、という状況が生じたということである。言ってみれば、個人の力では手に負えない、ところまで規模が大きくなっているということだ。仮に、先のアナロジーに乗っかって、国家を企業から類推して考えれば、とてもじゃないが、偉大なる個人がひとりで全体を把握できるようなものではない。もし、それを行おうとすれば、暴力的な単純化を免れえず、細部に目を瞑り、地方に目を瞑り、弱者に目を瞑る、という結果になるのは目に見えている。すなわち、頭の悪い人間が政治をやろうとするときの常套手法として、現実の難しさに対して目を瞑り、自分の頭のレベルに合わせて現実を見るということがよく起こるわけだ(2006年の段階で、竹中平蔵という三文学者が、日本に貧困は無い、などとのたまわれていたのは、この良い例だろう)。つまり、言いたいことは、人間は可謬性を持った存在であり、そのことへの反省が、現代の政治制度を発達させてきたわけで、そのことを知らない人間が政治に加わろうとすれば、根本的で悲劇的な誤りを犯すことになるだろう、という当たり前の予測だ。■小沢一郎的なもの=旧田中派的なものさて、しかし、そうした現実の問題への対処が難しいことを逆手にとって、これを完全に無視し、政治の目的を確信犯的に読み替えているのが、自民党旧田中派であり、その継承者、小沢一郎だ。彼らは、政治を全体の利益などという難しい問題とはそもそも考えていない。政治は、単純に「ねずみ講」だと考えている人たちだ。すなわち、権力を握ったものが、多くの分け前に与れる、という考えに他ならない。だからこそ彼らは、熟慮を伴った議論よりも、なあなあに仲良くなりながら、相手の信頼を得ることを目指す。誰かが挨拶に来れば目下の者であろうと寄っていって手を握り、会合があれば決して上座には座らず、利害対立がありそうな人間にはへりくだった態度で接する。これは少なくとも、近代議会が予定している政治ではない。ただのねずみ講だ。経済発展しているときは問題ないだろう。誰に対しても「配当」が回る。票を入れてくれれば、どこかでお返しがくる。このような状況の政治において、選挙へ行くのが国民の義務だ、などとのたまう方々には、本当に呆れてしまうのだが、それは措こう。しかし、経済主導で市場が拡大しない時代においては、政治が、投資先をしっかりと判断しないといけない。集中と選択をしないといけない。今までの全方位戦略は通用しない。何に投資するのか、何を大切にするのか、政治的にトランスパレンシーを高め、皆が熟慮・議論できる状況をつくらないといけない。政権を持っていれば何とかなる、という考えは、あのアスホール太郎くんの考えと同じじゃないか。しかし、まあ、民主党なんかで国会議員になった人たちは、国のことなんかより、自分の名前を売りたい、ただの立身出世イデオロギーに捕らえられたおバカさんたちだろうから、わからんかもしれんな。■というわけで最初の問題に戻るが、はっきりいって、民主党の一年生議員さんたちは、次の選挙に備えた活動をされていて、政治家としての活動をしているわけではないわけだ。これってどうなんでしょ?普通の疑問として、選挙活動するために歳費を払うってことに国民として納得できますか?政治の仕事をするから、歳費を払うんでしょ?それなのに、民主党の多くの方々は、旧田中派的な論理で、政治の仕事よりも、保身のためのことをやっておられる。無駄減らしをしたいなら、まずやるべきことは、そうした「無駄」を省くことではないでしょうか?勉強の期間が必要だとかおっしゃるんですか?2000年と2003年に学力世界一で注目され、ノキアをはじめとして、いわゆる国際競争力を保持しているフィンランドは、そうした国力を築くにあたって、30代の首相と20代の教育相が活躍しましたよ。勉強の期間ってなんですかね? 先輩の言うことを聞かせるようにする期間なんでしょうか?少なくとも、そうした一年生議員の方々が「勉強」している期間には、たいした活動はされていないわけですね。そうであれば、なんだ国会って、そんなに議員いらないじゃん、という当然の結論になるだろうと思います。というわけで、私としては、まず議員定数を削減することを求めたい。しかし、それで少数意見から削ろうとしたのが自民党という政党であったわけで、そこは選挙制度改革を同時にやってもらいたいわけです。衆議院⇒全国区比例代表制(定員200)全国区名簿投票制(定員100)参議院⇒都道府県代表各2(定員94)これについてはまた書きますが、政治にお金が掛かるというのは、いろいろ各地でお金を使っているからであって、政党交付金なんて払っちゃうような政党政治なんだから、政策中心で行けばいいのよ。比例代表制をメインにすれば、お金なんてかからんし、ちゃんと政権交代もするから大丈夫でしょ。名簿投票制ってのは、何位かまで当選してほしい順に名前を書いて、死票を生み出しにくくする制度。少数意見の汲み取りね。国会を議論の場に戻すためには、福袋的マニフェスト選挙よりも、それぞれ国民が自分が大切とする価値観で選ぶ多党制の方が良いだろうと思う。参議院は、いらない機関に成り下がる前に、地域代表にしてしまえばいい。主に、地域の平等化や特色化について議論しあう機関でいいじゃないの。まあ、とにかく、無駄を減らそうって言ってた党の代議士センセたちが、自分が無駄にならないように振舞ってくださいねってことです。
2009.11.10
コメント(0)
この国においても、ベーシックインカム議論が広がりを見せ始めているように感じている。大変に素晴らしいことだと思う。今後のさらなる議論の深化と、実現を期待したい。ベーシックインカムに対して、まるで逆のものとして、自助や努力といった言葉を挙げる輩がいるが、そうした輩は、おそらくこの世の中が公正な機会均等を保っていると信じ込みたいのだろう。だが、もちろんそうではないことは、いろいろなデータが示してくれている。自分が恵まれた側にいる人間は、今のルールが素晴らしいと思いこみたい。自分は努力していて、努力していない人間が落ちぶれているのだと思い込みたい。しかし、たとえば、子どもを高校に通わすのだって大変な家庭は多くある。国立大学の一部がいくら学費を免除したところで、そのレベルにまで達するのが大変なのである。そうした人たちを尻目に、自分は努力しているとのたまえる人たちの頭脳の方を私は疑ってしまう。すなわち、ベーシックインカムがあって、はじめて自助や努力が競われる社会になれる、という現実がある。本当のところ、反対者こそ、努力の競争社会になるのが怖い者たちなのだろう。そうした者たちの態度は、全く基本に忠実な意味において、保守的態度といえる。■さてこの記事は書きかけて埃をかぶっていたものを適当な形のままに公開するものである。つまり、たいした内容になっていない。というわけで、ベーシックインカムについて、もっと深い議論を紹介しないといけないと思われた。正直なところ、紹介する先の記事と、私の記事との整合性はよくわからない。ただし、紹介先の記事の議論の射程が大変に遠くまで――資本主義の脱構築まで――届くものであることから、深いところで繋がっているのか、あるいは、私の考えが資本主義的なものに毒されたものだと教えてくれるものなのか。この辺は、まあ、そのうちわかるだろうと思う。http://bijp.net/transcript/article/27しかし、これを読むと、クリフォード・ヒュー・ダグラスという人物に興味が湧きますな。
2009.10.05
コメント(2)
三日経ってしまったが、今回も選挙についての覚書を記す。もし私が人間の進歩を信じる人間であれば今回の選挙を通過点として評価するであろうし、もし私が人間の進歩を信じない人間であれば今回の選挙を茶番劇の繰り返しだと評価するだろう。そして一番の問題は、私がそのどちら側に立つべきかわからないということであろうか。とにかく、政権交代が起こった、のである。■自民に入れた人々もちろん、今回の結果を私が手放しで喜べないからといって、それは、「お上の言うことは聞けよ」などとのたまはれるような頭の固い「保守」の方々とは違った観点であることは言うまでもない。今回も自民に入れた人々はそういう人だろう。先生の言うことなんだから聞けよ、とか、社長の言うことなんだから聞けよ、と同構造の発想において、日本政府の言うことなんだから聞けよ、といった発想が彼らにはあって、彼らは、それに堂々と異を唱える人間を憎む。その裏には、「お上には間違っていてほしくない」という気持ちがあり、それがグロテスクに転じて、「お上が間違っているはずがない」という信念に変わっている方々であるわけだ。民主党が、官僚と一体の自公政府に対して、嘘つき呼ばわりするものだから、彼らは、民主を憎んだ。いろんなことを言っていようが、動機は単純なものなのである。そして、今度は民主政権ができるわけだが、そのときに民主に摺り寄れる人間なら、そういう「保守」は象徴的意味において「親米保守」なのであり、民主に摺り寄れず、時流に乗り遅れれば、そういう「保守」は象徴的意味において「反米保守」となるのである。自民を応援していた首長たちが、民主が勝った途端、右往左往する、といった事態は、この国の政治家には、「親米保守」の方が多いことを意味しているわけだ。まあ、それくらいの柔軟性が政治家には必要なのだろう。「反米保守」的な人間は、行き場がなくなって、「国のプライド」をネットの世界で叫ぶのが関の山というわけでね。結局、彼らは認められない自分のプライドを「国」なるものに託しているわけだが。■民主に入れた人々さて、問題は、多数派を占める側である「親米保守」の方なのである。今回、民主に票を投じた人々の中にも、この「親米保守」は多くいらっしゃる。というか、ほとんどがそうなのではないか。ここでは、まず、その系譜を追ってみたい。以前も書いたが、自民党という党は、無思想党であり、この国の戦後の無思想性に最もふさわしい党であった。むずかしいことは議論せず、「まぁまぁ、うまくやりましょう」と、「利権」でもってつながっていた党であるわけで、経済の拡大期には、それをただ調整し、うまく再分配するという役割だけがあった機関だ。多くの利益代表が集まり、利権を分捕っていく。そして、おもしろいことに、官僚の役割というのは、そうした利益代表の自民党議員たちの調整にあったのであって、自分たちの生活保全という小市民主義と相俟って、美しい癒着構造を呈していたわけだ。それがうまくいかなくなったときに「構造改革」が叫ばれたのであるが、利権分配だけの無思想党が、そんなことをできるはずがなかったことは言うまでもあるまい。小泉は、それを「国民代表」というウルトラファッショな形でやろうとしたが、それは自民党のレゾンデートルを破壊するものであり、自民党を変質させてしまったわけだ。もちろんその意味においては、政治経済情勢が変化した現在において、何らかの構造改革が必要であることは間違いないが、小泉がやったのは、それをネオリベラリズム政策と結びつけて、「経済のためにいったん政治を停止する」というあってはならない方法であったわけで、ただの弱肉強食社会を生んだに過ぎない。本当は政治の構造改革が必要であったのに、愚かな経済構造改革をやった。民主に入れた多くの人は、それにNOを出したと、自分では考えているのかもしれない。荒唐無稽にも「自民にお灸を据える」論が跋扈する所以だ。「民主にできるか不安だが」という枕詞を並べる人々は、もう、自民にだってできない構造になってしまっていることがわかっていない。かつての自民党は、歴史的に役割を終えてしまっているのだ。お灸を据えようと据えまいと、この機能不全はどうしようもない。お灸を据えても、自民の学校の成績は決して上がらないのだ。そして、もちろん、民主だって同じだ。民主に入れた人々は、民主の無思想性に期待しているのだろうが、そうした無思想ではやっていけない時代が来ている。■ズレ小沢の手法は、本人の理想はともかく、旧自民=無思想的方法であった。もう戻ってくるはずのない昔を懐かしむ人々は、期待とともに、民主に政権を託した。その期待は、応えられることはないだろう。しかし、民主の本流には、輝かしい理想も無くはない。民主党の本流(と呼んでもよいのだろうか?)が行おうとしているのは、問題解決よりも、トランスパレンシーを高め、国民の政治へのコミットメントを高めるための施策だ。今までの官僚主義が、国民が知らないでも良い(と彼らが考える)ことは隠し、自分たちで良いように考えてきたのとは異なる価値観を、民主党は持ち込もうとしている。すなわち、良い政治を政治家がするのではなく、国民に政治を見えるようにし、国民が判断できるだけの材料を提供しようというものだ。そうした思想が垣間見られるところに、私は一縷の期待を民主に対して持っている。だが、民主党の政治家の多くは、そうした理想よりも、自民党的に自分の身を案じている人々であるし、何よりも、国民の期待とのズレが大変気になる。国民が復古を期待したとき、民主が、どのような振る舞いをするのか、半信半疑で私は見る。■真の構造改革現代の閉塞感は、下手をすると、社会の紐帯を破壊し、グロテスクな形での変革を呼び込む危険を持っている。政治にいま構造改革が必要だと思うが、それは、よい政治家を選べばよい、などといったものではなく、より民主的な変革でなければならないはずだ。つまりは、良いとか悪い、正しいとか間違っているを超えて、国民が自身で選ぶ、という契機の導入に違いない。それは、国民投票の乱発ではなく、正しい情報開示のもと、政党が争点を明確にし、国民が判断するという手順となっていなければならないだろう。そうした構造改革の成否が何にかかっているかといえば、国民が無思想性と決別するということに尽きる。「保守」との決別である。それができるかどうかが、今後の政治の課題だろうと思う。そして、それは見たくない現実を見て、最善ではなくても考えて議論して結論を出すというものであるだろう。どっちに賛成ですか?の国民投票や世論調査とは別次元のものでなければならない。簡単な選択を他人事的に行う方が楽だし、票も集まるし、視聴率も取れる。そういう時代だ。それを超えられるかどうかが課題だろう。大変難しいし、これはもしかすると代議制民主主義からは取り去ることのできないアポリアなのかもしれないが、ひとまず、私はそちらの希望を持ってみたいと思う。
2009.09.01
コメント(2)
自民党の失敗だと思える出来事がいくつかあった。それらは同構造の中に関連していて、自民党の終わりを感じた。■小冊子先日、うちのポストに小冊子が入っていた。「民主党にだまされるな」という題で、裏には自民党のマークが入っていた。もちろん、私などが、そのような冊子を配布すれば、公職選挙法違反の疑いが濃厚ということになろうが、わざわざ「これは政治活動として認められたもの」という趣旨の但し書きまで付けている。その内容が、「労働組合との関係」「日教組との関係」「日本人の尊厳の喪失」といった三つからなっていて、センセーショナルに書かれている。(この小冊子については「妄言集積地」というブログがよく書いている。他の記事もおもしろい。)私は内容に関することよりも、自民党の選挙対策のお粗末さの方が心配になった。守りに入るとこんなに弱く脆くなるものなのだ。可哀想になった。■どうして自民はおかしくなっているのか民主党の日の丸切り貼りへの攻撃もそうなのだが、あそこまで言い過ぎると、選挙上、逆効果だ。理由については、どうして自民党がこういったことに頼りたくなるのかを考えた方が話がはやい。大勢が民主有利となっていることは誰もがわかっている。そのときに不利な側が頼りたくなるのが、それでも自分を応援してくれる層だ。勝てないとわかっているのに、その票を固めたくなる。この国の人々の大半は、自民と民主に違いなんて見ていないし、実際、二者に大した違いなんて無い。支持基盤なんて政権を取ったら変わるし、考え方のバラバラさだって、自民は民主に負けていない。そんなことくらい、【ふつうの人たち】は皆知っている。そのうえで、政権をいったん変えた方が良いと思っているだけだ。そのような状況であるのに、可哀想な自民党はそれが見えていないものだから、民主への攻撃材料を探す。そこで発見されるのが、人口割合から言えばごく少数の「保守」的な人々の言葉だ。彼らは、「労働組合」や「日教組」が嫌いで、さらに「日本人の尊厳」なるものの捉え方が大変偏った人たちであるわけで、この時流にもかかわらず、自民を支持する。自民党としては、ありがたい存在だ。しかし、彼らの主張を取り入れれば取り入れるほど、【ふつうの人たち】はしらけてしまう。言っている内容への賛否はともかく、【ふつうの人たち】は誰も自分の子どもが街宣車に乗るようになることなんて望んでいないわけでね。近くにいる(大変「端っこ」の)人間しか、近くに残っていない状況で、自民党は、そういう人たちの声を聞いてしまっている。負けが決まった。よくもわるくも、自民党は無思想であったわけであって、利権だけがそれを結びつけてきたにすぎない。それを忘れると、この無思想な【ふつうの人たち】の国で勝てるわけがない。■ところでここからはいつものごとくいくが、日本人の尊厳なんて、簡単に言うが、どのような政策を採れば国際的に尊敬されるのかを考えていないんじゃないかと「保守」の頭の悪さを思った。自分たちは間違っていない、正義だ、という発想は、いかにもブッシュ=アメリカ的発想と近似しているが、それで、アメリカの尊厳が保たれたであろうか?日本人の尊厳という人間は、誰の評価をあてにしているのだろうか?まさか、自分たちで、ごく少数のサークル内で、傷を舐めあうためだけに主張してるの?たぶん、外の世界に出て行ってことが無い人なのだろう。私の経験から考えるに、そういう主張に走る人は、「俺はもっとすごいのに」という気持ちを持っている人だ。つまり、自分の所属する組織で、自分が思うほど評価されていない人間に多い。彼らは、いつまでもその考えに固執するだけで、実効的に評価を得るような行動を起こさないので、変わることができない。可哀想な人たちだ。自民党が、そうした考えに寄ったのだとすれば、可哀想な引力が働いたというにふさわしい。自民党は終わったのだろう。
2009.08.25
コメント(4)
原爆投下を正当化するという行為がどういう意味を持つのか、ひとつだけ指摘しておきたい。この問題は、被爆国においても、決して吟味を必要としない問題ではない。というのも、ついこの前にも、原爆投下を「しょうがなかった」と肯定した人間が政治家にいる国なのだから(この方)。というわけで、この記事。〔引用開始〕6割超が「原爆投下は正当」=根強い肯定意見-米世論調査8月5日7時13分配信 時事通信 【ワシントン時事】米キニピアック大学(コネティカット州)の世論調査研究所が行った調査で、64年前の広島と長崎への原爆投下について、米国人の61%が「投下は正しかった」と考えていることが4日、分かった。投下を支持しない人は22%にとどまった。 オバマ大統領は「核なき世界」の実現を訴えているが、米国では依然、原爆投下を肯定する意見が根強いことが浮き彫りになった。 調査は7月27日から今月3日にかけて、全米で約2400人を対象に実施された。男性の72%が投下を支持したのに対し、女性は51%。年齢層別では、18~34歳は半数が「正しかった」と回答し、「間違っていた」は32%だったものの、55歳以上では投下支持が73%に上った。 政党支持者別では、共和党支持者の74%が投下を評価、民主党支持者では49%だった。 〔引用終わり〕■しょうがない?「しょうがない」という言葉は、たいていの場合、よく考えなかった過去における自分の、中途半端な肯定でしかない。あのときはああするしかなかった、と、自分が下した決定を、「しかたがなかった」という観点から、弁証しようとする。もちろん、いいところが、罪状を軽くしようとする動機に過ぎないわけで、実は疚しさを感じているからこそ、行われる人間の行動だろう。「核兵器は使用してはいけないが、あれはしょうがなかった」などという馬鹿丸出しの言葉が成立してしまう背景には、そうした事情があるわけだ(それをこの国の人間が言ってしまうことについては後述する)。他人から責められるときに、主に起こる行為であるわけで、子どもっぽさ全開のものであることは、改めて指摘するまでもないだろう。■成長のない人たちしかし、もちろん、こうした行動をとるのは、「保守」であるに違いない。自分が責められていると感じると、言い訳せずにはいられない人たちだ。こうした「いいわけ」は、何の役に立つのだろうか?その場しのぎにはなるかもしれないが、それ以上のものにはならない。そして、損なことといえば、一番に指摘したいのは、次なる賢い行動に結びつかなくなる、ということだ。人間は、確かに、常にその場で完璧な判断をできるものではない。それは認める。だが、それを「しょうがなかった」としてしまっては、その後も同じような判断しかできないだろう。ほかに方法はなかったか、と考えることが、次なる賢い行動に結びつく。そこには反省が絶対的に必要である。自分に自信がある者たちは、過去の最善でなかった決定を、「失敗」として認められる。自信が無いからこそ、「いいわけ」してしまう。結局「保守」とはそういう人間なのだ。確かに、法律的には赦されることかもしれない。だが、自信のある者たち、学びのある者たちは、常に良心から反省を促されるものなのだ。■結局「保守」なのだアメリカという国は、大変に傲慢な人たちが多く住む土地であり、さらに、大変に自信の無い人たち(つまりは田舎者たち)が多く住む土地なのだろうとわかるのだが、もちろん、この批判はこの国にも向けられなくてはならないだろう。この国の「保守」のなかには、「いいわけ」してしまう理由を、若者が自信を持てなくなる、などとまったく論理的でないことに求めてしまう人間がいる。本当は悪いことなんかしてないんだ、と、やった側が言うのだとしたら、それはちょっと精神的な病を疑われても仕方がないんじゃないだろうか。自信が無い「保守」たち。力の強いアメリカの太鼓持ちをする久間は、自分の小ささをわかっているという意味では、一貫している。この点、私は、実は「親米保守」の行動の方が「反米保守」よりも一貫していると思っている。彼らの行動原理は、国家なんてものを考えているのではなく、自分さえ良ければいいわけだ。決してほめられた人間性ではないが。いずれにせよ、過去の肯定の裏には、ちっぽけなプライドと自信の無さがある。わが麗しき麻生首相が「保守」を連発するようになったのは、勝てなくても自分で解散したいというちっぽけなプライドを持っている人間としては当然のことなのだ。「保守」同士、傷を舐めあいましょう、と。自信の無い人々が選ぶ、自信の無い政治家。ちっぽけなプライドを持った選挙民が選ぶ、ちっぽけなプライドを持った代議士センセイ。結局、政治をおかしくしてくれるのは「保守」なのだ。そして、ファシズムを導いてくれるのも「保守」なのだ。
2009.08.06
コメント(0)

まずは、この記事。〔引用開始〕親の収入高いほど子供は高学力、でも…8月4日21時46分配信 読売新聞 親の所得が高いと子供の成績は良いが、低所得でも親の心がけ次第で学力向上につながる――。昨年度の全国学力テストの結果を、文部科学省の委託を受けたお茶の水女子大の耳塚寛明教授らが分析した結果、そんな傾向が出ていることが4日、明らかになった。 全国学力テストの結果と親の所得の関連を追った調査は初めて。絵本の読み聞かせなども成績向上に効果があり、耳塚教授は「経済格差が招く学力格差を緩和するカギになる」と話している。 調査は、全国学力テストに参加した小6のうち、5政令市から100校、計約8000人を抽出し、親と教師を対象に学習環境などを調べた。 世帯収入と平均正答率(国語と算数)の関係を見ると、高所得ほど正答率も高い傾向がみられ、最も平均正答率が高かったのは、1200万円以上1500万円未満の世帯。200万円未満の世帯と比べると平均正答率に20ポイントの開きがあった。 親が心がけていることについて調べたところ、高学力層の子供の親は、「小さい頃から絵本の読み聞かせをした」「博物館や美術館に連れて行く」「ニュースや新聞記事について子供と話す」といった回答が多かった。このうち、「本の読み聞かせ」や「ニュースを話題にする」は、親の所得に関係なく学力向上に一定の効果がみられたという。 調査では、学校での取り組みも調べた。家庭環境にかかわらず、児童にあいさつを徹底したり、教員研修を積極的に行ったりしている20校では、学力向上に一定の効果がみられた。 〔引用終わり〕■読売記者のアホさはどうでもいいが見出しにわざわざ「でも…」などと付けたり、「低所得でも親の心がけ次第で学力向上につながる」などと、くだらないことを書くのは、いかにも読売記者のアホさなのだが、そこは気にせず、グラフを見れば、きれいな正比例関係になっていることがわかる。収入以外のことも影響を与えると言ってみたところで、この統計結果は覆せない。耳塚なるセンセイの意見も、本当に学者か? と驚いてしまった。この状況を直すのに、「読み聞かせ」等の個別的対処を優先することに意味があるんですか? これは政策論として解決しなければ意味がないと思うのだが(後述するが、このへんてこな「解決策」では、学力格差の責任を家庭に押し付ける結果にしかならないだろう)。こういうデータを持ち出すと、そうは言っても違う人もいる、などという本当に頭の悪いことを言う人間がいるものだが、統計と例外的個別事象を織り交ぜて話すことの意味の無さがわかっていない人間は、そもそも議論に参加する資格がないと言ってもいいと思う。データというものは、そういう個別的特徴を捨象して、正しい因果関係というものに迫る道具であるはずだ。今回、はっきりしたのは、やはり経済格差が学力格差と強力な相関関係があるという事実である。それを、(家庭or本人の)努力次第でどうにでもなる、などと寝言を言ったところで、何の解決にもなっていないことに気づかないのだろうか。努力が環境に関係なく報われると考えるやつこそ頭の悪い人間だと言える(例えばこいつ)。■「高収入=高学歴家庭」で育った者たちの「限界」各政党はマニフェストなるマーケティングチラシにおいて、教育の無償化や給付を訴えるわけだが、そうした考えは、上の耳塚センセイ同様、やはり「まともな家」で育った人間の考えることの限界を示してくれている。収入が低いから教育にお金が回らず、その結果成績が低いのだ、という短絡した発想が基底にあり、だから、教育にかかる費用を減らそうという考えなのだろう。いかにもまともな家に育った人間の発想だ。生活保護家庭がひしめくような地域を見たことがないのだろう。行ってみれば、そんな施策では状況を改善できないことに気づくだろう(このことについても後述する)。愚かな政党人たちは、欧米に視察に行くよりも、そういう地域に視察に行け。というわけで、愚かな選挙対策よりも、われわれは本当の問題に迫ろう。■本当の問題この記事。同じ読売だが、ややまとも。〔引用開始〕マニフェスト点検「教育」…負担軽減へ巨費投入8月5日6時9分配信 読売新聞 教育が国力を左右すると言われる。 自民、民主党とも政権公約(マニフェスト)で大胆な施策を打ち出した。高校授業料無償化、給付型奨学金の創設……学力向上と貧富による教育格差の解消を同時に目指すものだ。中高等教育の現場にかつてない巨費が投じられようとしている。 ◆現金給付「議論が必要」◆ 「授業料無償化では何の解決にもならない」。関東の地方都市にある県立高の男性教諭は嘆く。 緑に囲まれた校舎。廊下を歩くと、空き教室が目立つ。生徒減でいくつかの学校が統廃合されたが、それでも定員割れは続き、使用教室は全体の約半分。受験者は毎年ほぼ全員が合格する。男性教諭が受け持つ学級では、三十数人のうち、3分の1が父母のどちらかしかいない。家計が厳しいため、月額9900円の授業料が滞りがちという。 この高校では、授業料の滞納が数か月続くと、事務職員が生徒の自宅まで徴収に出向く。しかし、まともに支払う保護者はまれだ。訪問で滞納を子供に知られ、「メンツがつぶれた」と逆切れする親も。 親が生活保護を受給すれば、授業料が減免される制度がある。この高校はある親に対し、市と歩調を合わせ、生活保護の手続きを勧めたが、突然、連絡が取れなくなり、生徒も学校を辞めた。男性教諭は「親がきちんとしていればいいが、直接お金を渡すのはどうか。遊興費に使われるケースもあるのでは」と話す。 文部科学省の調査によると、昨年度の授業料滞納者は全国で計1万7312人で、前年度より約1800人増えた。不況の影響が大きいと見られる。 自民党は低所得者への授業料援助について、支払い方をマニフェストに明記していない。民主党は貧富の別なく、すべての保護者に直接支給するという。小中学校のように国や自治体が経費を負担して授業料を取らない方法もあるが、民主党では「高校は義務教育ではなく本来有償。国の支援で無償になることをわかってほしいから」(同党政調会担当者)と説明する。 一方、高校授業料の無償化は、多くの保護者に好意的に受け止められている。県立高校の1年生男子を持つ地方公務員は「年12万円の負担軽減は大きい。子供には国立大に行くように言ってきたが、蓄えが増えれば私立でもいい」。トップレベルの学力を誇る都立高に2年生女子を通わせる会社員も「もし支給されたら、塾代に充てる」と言い切る。 こうした使い方にも微妙な問題がある。文科省の有識者会議「児童生徒の修学支援に関する検討会議」座長の小川正人・放送大教授(教育行政)は「本来なら学校に対し、無償化する費用を出すのが筋。何に使ってもよい現金給付だと『授業料』という支出名目が形骸(けいがい)化する恐れがある。遊びに使われない対策はもとより、個人給付が国の財政支出のあり方として適切か、議論する必要がある」と指摘している。(社会部 梅村雅裕、加納昭彦)〔引用終わり〕おそらく、記事冒頭の「関東の地方都市にある県立高」というのはレベルの高くない学校であろう。「3分の1が父母のどちらかしかいない。家計が厳しいため、月額9900円の授業料が滞りがち」というわけで、経済=学力格差の下層の代表例だ。そして、この問題の肝は、「親がきちんとしていればいいが…」という点に尽きる。収入格差と学力格差は因果関係があるだけで、別に、収入格差が「原因」で学力格差が「結果」というわけではない。どちらも、他の重要な事柄を原因とする「双子の結果」でしかない。そうした状況に対して、まともな家庭に対してだけ効果を発揮する給付をしたところで何の解決にもならないことは言うまでもない。もちろん票がほしいだけの二大政党に「本物の政治」を求めてもしょうがないのかもしれないが、あまりにも頭が悪すぎるだろう。■日本の下層社会母子家庭で母親が外に男をつくり、家に帰ってこない。子どもは放って置かれる。そんな家庭が存在する。そのような家庭に、「まともな人たち」の考えた施策はどれほどの効果を持つのだろうか?「読み聞かせ」ってなんなんだろうか?そういうことに興味を持てる親であれば、給付なんか関係なく、子どもは勉強に向かう。お金は、単に、家計を助けるだけにしかならない。「塾代に充てる」などというのもただの買い言葉で、そもそも「塾代を家計からひねりださなければ」と考えていた家庭だから、そういう発言をするだけだ。結局、こうした議論は、行き着くところ、家庭の教育環境にすべて責任を負わせ、酷い家庭に生まれたらしょうがない、というくらいの結論にしか至らないじゃないか。こういう構造的問題を解決する方法を考えてくれないのであれば、政治家を歳費で養う意味がないのだよ。■近代国家と社会個人をとりまく環境における様々な偶然的不平等。そうした不平等を是正しようという試みや、あるいはそれに対する政治的無施策の不正義をしっかりと認識するところに、近代の個人主義的思想が打ち立てられていたはずだ。もし自分がそういう環境に育っていたら、という他者への想像力が、近代人を野蛮人と区別してくれるところだ。もし、そうした家庭に生まれてしまっていたら、われわれに何ができただろうか。高等教育の無償化や給付では解決につながらない。おそらく、初等教育において、なんらかのテコ入れが行われなければならないはずだ。日本の公教育予算は決して高いレベルにないのだ。そして、そうしたことを考えれば、結局、どのような経済政策を採るか、という論点と切り離せないわけで、二大アホ政党の新自由主義的施策では、解決まで至らないだろう。選挙目当ての「票買い」。そうしたことを喜ぶ衆愚の民。経済格差の拡大の危険は、また後日に改めて記すつもりだが、頭の悪い政治家が政治を行う代償は、いずれ確実にやってくるだろう。
2009.08.05
コメント(0)
議論というものを考えるとき、二種の賛否を考えなければならないだろう。議論内容に関する賛否と、そうした議論がなされることの政治性に対する賛否である。議論が政治的である、というのは、あることを議論するにあたっては、誰かがそれを問題として提示する権力を持っているということを意味している。議論をすること自体が、操作された結果である可能性があることは、今一度指摘しておく必要があるだろう。■金融知識の教育なんてものがあった以前、野村證券がCMをうちまくって、金融知識の教育についての大宣伝を行っていた。そこで野村證券は、お金の教育に賛成も反対も大切です、といったことを言っていたわけだが、もちろん、議論すること自体が、彼らの望む金融社会への入り口であることを知っていたからこそ、そうしたことに積極的に打って出たわけだ。そうした議論を公のものとして関心を高めること自体がひとつの目的を持ったものであり、その裏には、金融資本主義を推し進めようとする、当時の政府の考えがあったことは間違いない(これは当時、そうした機関の人間と頻繁に話す機会があったからはっきりと言える)。思ったよりも早く、金融の破綻があったから、大きな打撃を受けずに済んだが、あのまま行っていたら、さらに悲劇的な結果が起こっていたことは間違いないだろう。■議論には時宜が大切正しい議論とは、本当にそれをするべきタイミングにおいてするべきものである。特に議論が決定力を持つ場合、一般論は何の役にも立たない。議論は常に具体物と関係しているものであって、一般論で語れば、知らないうちに、自らの権利を脅かされてしまう危険がある。だからこそ、ひとつの事柄に意見を述べることと、その意見を述べる行為が引き起こす影響とは、峻別して考えなければならない。特にこの列島の、マイクを向けられると何かを語らなければならないと考えている人たちに警鐘を鳴らしておきたいし、世論調査を無意味に乱発するマスコミを非難しておきたい。そうであれば、議論を正当なものとするためには、どうしていまこの議論をしなければならないのか、という問題設定の妥当性が検証される必要がある。この点に考えの及んでいない「議論」というものは、排泄物と同等のものでしかない。■成人年齢の引き下げについてそんなことを考えたのは、この記事を読んだからだ。(丁寧にも、「識者の意見は、……賛否が分かれた」などとまとめてあるが、それはこの記者が上のような問題意識を一片も持ち合わせていないからだろう。)〔引用開始〕<成人は18歳>「まだ子供、絶対反対」「大人を自覚、賛成」--識者ら7月29日23時24分配信 毎日新聞 法制審議会が成人年齢を「18歳に引き下げるのが適当」としたことについて、若者の生活習慣や文化に詳しい識者の意見は、「自立が促される」「機運が高まっていない」と賛否が分かれた。当の若者たちの反応も「早く選挙に参加したい」「大人の自覚生まれる」「関心がない」とさまざまだ。 立教大教授で精神科医の香山リカさんは、成人年齢引き下げに賛成だ。「今の20歳が成熟しているかといえば決してそうでない。大学で学生を見ていると、20歳になっても学生であるために成年になったことを自覚しづらいようだ」と指摘した上で、「18歳に引き下げられると、高校を卒業すれば大人として扱われる、という分かりやすい線引きができ、本人の自立も促される」と語る。 一方、反貧困ネットワーク副代表でフリーターやニートなど若者の実態に詳しい作家の雨宮処凛(かりん)さんは「若者の間で、成人年齢を18歳まで引き下げてほしいという運動が高まっているわけではなく『上から目線』の議論。子供の結婚年齢など全世代にかかわる問題にもかかわらず、大人からも『引き下げて』という運動は広がっていない」と疑問を投げかける。「国民不在で議論が進んでおり、違和感がある。今後議論するにあたり、国民要望がどこにあるかをまず重視すべきだ」と述べた。 「夜回り先生」で知られる元高校教諭の水谷修さんは「今回は民法改正で成人年齢を引き下げようとしているが、民法だけにとどまらず『成人だから年金を18歳から払え』『払えないなら親が払え』という議論になる恐れが高く、絶対に反対だ」と批判する。さらに、少年法の対象年齢も20歳未満から18歳未満に引き下げようという議論につながりかねないと指摘。「親から見れば19歳まではまだ子供。今回の議論は拙速すぎる。もっと時間をかけてやるべきだ」と指摘する。〔引用終わり〕■賛否?読んでおわかりになったと思うが、議論内容の賛否が分かれているとは決して言い切れない。否定側は、間違いなく、議論の前提を問題としている。一般論として議論内容に賛否を表明することと、議論していること自体に賛否を向けることとは、しっかりと分けなければならないだろう。世論調査もしかり、投票もしかり、である。そうした種の調査自体がひとつの政治活動であることをよく認識し、適切な距離をとるべきものだと思う。それが、民主的成熟度の高まった国民が取る態度ではないかと思う。
2009.07.31
コメント(0)
まずはこの記事。〔引用開始〕自民公約、10年で所得世界一2009年7月29日(水)19時46分配信 共同通信自民党の衆院選政権公約最終案の全容が29日、判明した。10年度後半には年率2%の経済成長を実現し、10年以内に1人当たり国民所得を世界トップに引き上げることを目指すと明記。景気回復を果たすことにより5年を待たずに国と地方の基礎的財政収支の赤字を対国内総生産比で半減させる方針を示した。少子高齢化対策として「今後3年間で幼稚園・保育園を通じた幼児教育の無償化」も盛り込んだ。〔引用おわり〕■気を引くキャッチコピーを目指して選挙前になると、たくさんばら撒くのが昔のやり方だったが、それが難しい時代に入ると、「言い方」が問題になってくる。自民が一生懸命獲得したい票は、日本が世界一になることを喜ぶナイーブな人たちの票のようだ。しかし、そういうナイーブな人たちは、ただの事大主義なので、すでに勝ちそうな民主に票を投じるんじゃないかと思うが。■所得って誰の?兎に角、一人あたりの所得というのは、もちろん平均値のことだ。このところの自民党の政策をみれば、この国民所得の上昇が、一部の限られた人たちの所得を上げるだけのものであることは間違いない。決してナイーブな人たちの財布が潤うわけではない。というより、もっと生活は苦しくなるだろう。■所得増大、物価もっと増大当然のことながら、ただの財源論や、新自由主義的な構造改革なるものをやっていく限りは、国民一人当たりの所得なるものが上がったとしたって、物価は確実にもっと増大する。貧困の問題も解決できなければ、地方格差の問題も拡がりをみせるだけだろう。■落ちぶれても一流世界一っていうと嬉しい人たちには困ってしまうんだが、政府が国民に提示してくるものは、二つあって、そのどちらを選ぶかをしっかり考えないと、2・26の二の舞が起こらないかと心配になる。政府は、まず国民生活の安定を提示しようとするわけだが、もちろん、視野が狭く能力の低い世襲議員たちには、ちょっと難問過ぎる。そこで彼らが頼るのが、「民族的自尊心」を優しく囁くことだ。「落ちぶれても一流」。一流であるという、あるいは、一流の国に属しているというプライドが、今の苦しい生活を耐えさせる。と考えているようだ。少なくとも、ナイーブな人たちの票が取れると考えているのかもしれない。その可能性はある。しかし、歴史的にみても、それは長くは続かないだろう。国民を我慢させて、その結果、その公約が失敗したら、大きな反動が来る。危険な賭けだ。■政治にはメンタルな強さが必要政治は、危険な賭けという思考停止ではできない。考え続ける知的体力とメンタルの強さが必要だ。リーチをかけてあとは運任せ、というのは、強い麻雀の打ち方ではない。リーチをかけるには、かけるだけの理由が必要である。世襲議員にも能力が高い人間がいるだと?そういうことを言うこと自体が、近代の政治制度のことをわかっていない、政治的認識力の低さによるのだよ。なによりも、私は、彼らにメンタルの弱さがあることを危惧する。ここ何代かの総理を見たってわかるじゃないか。
2009.07.30
コメント(0)
思い切って「国民の程度」と題しようかと思ったが、とりあえずそれはやめて、まずは、この記事。〔引用開始〕「国民の程度」低い? 細田幹事長発言、直後に謝罪2009/07/24 23:34 【共同通信】 自民党の細田博之幹事長は24日、報道各社のインタビューで、麻生太郎首相の言動や党内の混乱を取り上げたマスコミ報道に関連し「(首相が見送った)役員人事だろうが、閣僚人事だろうが、どうでもいいことだが、その方がみんな面白いんだから。国民の程度かもしれない」などと述べ、怒りをあらわにした。 内閣・政党支持率の低迷にいら立ちを爆発させたようだが、国民の政治意識は低いと指摘したとも受け取れるだけに、終了後に「誤解を招く表現だった。謝罪します」と述べ、発言を撤回した。 インタビューで細田氏は、経済指標の悪化に触れ「これだけ落ち込みがある割に、何とか支えている。経済界は評価している」と指摘した上で「国民に伝わらない。(首相は)字が読めないらしいですねなんて楽しんじゃってる。ぶれたらしいなんて。大したことはないんだよ」と強調。さらに「日本国の程度を表している。それは程度なんだ。国民の程度かもしれない」と述べた。 報道各社の世論調査についても「麻生さんをどう思いますか、鳩山由紀夫民主党代表とどっちがいいですかって、もういいかげんにしてくれっていう感じなんだけどね、本当は。それ聞いて何か意味ありますか」と不満をぶつけた。〔引用終わり〕■程度の低い国民考え方は大きく違うが、細田の怒りは正論だと思う。結局、この国の国民はマスコミが面白く作り上げる「争点」をひたすら印象的に消化し、わかってもいない頭脳で「わかったような意見」を吐く。やってきたことよりも、言葉遣いが支持率を変化させているといった不満は当然な気もしてしまう。政治家は言葉が命なんだ、といった、誰が言い出したのかわからないフレーズで、そういうことを正当化しようとする頭のわるいコメンテーターのことはさておき、いったい国民は何を見て支持政党を決めているのだろうか。小泉の手法に騙された国民だからこそ、私は国民の方を疑ってしまう。■寄生してきた自民党でもね、それでもやっぱり、私は細田の言っていることを可笑しく思ってしまう。だって、自民党の支持者なんて、政策を見る人たちなんかじゃなく、ひたすら直感に頼って自民党の「代議士先生」に票を投じてきた方々じゃないか。いや、利益を誘導してもらえるから自民党を支持するという人たちもいるし、それはまだいいと思うのだけど、多くの方々は、意味もわからず、自民党の「代議士先生」が発する自尊心を保ってくれる言葉に乗っかってきただけだ。だから、細田が今さら、国民は何も見ていないと言ったところで、そういう政治をやって、そういう風に国民を飼いならしてきたのは、まさに自民党でしょ、とわざわざ指摘してあげたくなってしまう。小沢が、そういう手法で、民主の票を集め始めたものだから、以前は自らが受けていた批判を、民主に対してせざるを得ないのだろう。細田の国民批判は(訂正したってそうなんです)、正論だが、自民党にとっては痛し痒しのものでしかない。■衆愚もちろん、政権交代をしてみるべきだとは思う。しかし、この国の国民はそこから何も学ばないのではないかと危惧してしまう。本当に政治の変革が必要だとすれば、それは、国民においてであるのではなかろうか。衆愚の誹りを免れない状況にある気がしてならない。本当に生活が苦しくなったときに、「頼りになりそう」な人に一気に票が流れることを私は恐れる。それはまさに現代におけるヒトラーであって、そうした人を再び人類が選ばないようにするには、少しくらい国民がその危険を悟っていることが必要だろう。マッカーサーが帰米するときに、涙を浮かべて感謝の気持ちを表し見送った国民たち。ちょっと前まで鬼畜と呼んだ人間に対して、そうした態度をとれた人たち。そんな感じだから、政治家のせいだけにできないんだよな。■蛇足ところで、平沼ってアメリカに対してどういう態度を採るのか、今朝テレビで見かけて、気になった。世間の評価はいざ知らず、ああいうのこそ、本当のポピュリストというのだと思ったよ。
2009.07.25
コメント(0)
まずはこの記事。〔引用始め〕経済財政白書 格差拡大「非正規雇用の増加が主因」7月24日11時8分配信 産経新聞林芳正経済財政担当相は24日の閣議に、平成21年度の年次経済財政報告(経済財政白書)を提出した。白書は非正規労働者の増加によって「賃金、家計所得の格差の拡大傾向が続いている」と指摘し、格差の拡大傾向を明確に認めた。白書はその原因を「非正規労働者の増加」としており、高齢者だけでなく、若年層にも効率的に所得を再分配する制度が必要と結論づけている。 白書を作成した内閣府は、所得格差を示す代表的な指標である「ジニ係数」を分析した。その結果、雇用者のジニ係数は昭和62年以降は一貫して上昇。直近のデータがある平成19年も高水準で推移していた。 さらに白書は昨秋以降の世界的な景気後退に伴い「『派遣切り』などの形で雇用調整が行われた」と非正規労働者の雇い止め問題を指摘。実際に5月の完全失業率は5・2%と急速に悪化しており、内閣府は「仮に20~21年のジニ係数を推計すれば格差はかなり拡大しているだろう」(幹部)と失業者の増加が格差の拡大を加速させることに懸念を示している。 こうした状況を受け、格差拡大の要因についても「非正規雇用の増加が主因」と言い切った。1~3月の非正規労働者は全雇用者の3分の1を占めている現状を踏まえ、「正規と非正規との間には生涯所得で約2.5倍の格差がある」とのデータをあげ所得格差を問題視している。 さらに、非正規雇用が増加した背景として初めて、高齢化以外に「労働法制の改正」を原因にあげた。麻生政権はこれまで「小泉構造改革」で生じた“ほころび”の修復を掲げてきたが、白書の表現ぶりは「行き過ぎた規制緩和が格差拡大を助長した側面もある」と暗に認めた形だ。 来月の衆院選では自民、民主両党とも「格差の固定化」を防ぐため、低所得者に配慮した「給付付き税額控除」などの施策をマニフェスト(政権公約)に盛り込む方針で、今回の白書は格差をめぐる議論の根拠にもなりそうだ。 一方、白書は今回の景気後退について「過去にない『速さ』『深さ』で、『長さ』も過去の平均に達した可能性がある」と指摘。「(2007年までの)米国の景気拡大はバブルの要素を含み、わが国の収支改善も制約される」として日本の景気がピーク時の水準に戻ることは難しいとの見方を示した。その上で個人消費を中心とする内需と輸出など外需の「双発エンジン」で回復する姿が望ましいと結論づけている。〔引用終わり:下線引用者〕■竹中は内需主導の経済回復だと言いおったサブプライムローンを考え出した脳内金融工学者に負けないいきおいで、このひどい「小泉改革」を主導した竹中平蔵は、以前ある番組でひどい勘違い発言をしていた。他の出演者からの「対外依存の経済回復」という指摘に対して、「改革後は内需が拡大したからだったんですよ」と言い切った。勘違い甚だしい。経済回復は、内需の拡大ではなく、完全なるコストの削減によっていただけだったはずだ。それを可能にしたのは、「労働法制の改正」、すなわち、派遣業の製造業への適用であり、産業革命以来、悲劇を繰り返しつつ人類が積み重ねてきた叡智の否定でしかなかった。たいしたイノベーションもなく、新産業も大きく展開していなかった時代に、経済が回復したのだとすれば、それは間違いなく、弱者を切り捨て、産業の脆弱性を増大させたこととの引き換えによっただけであることは言うまでもない。この国が蓄え続けたインビジブルアセット(見えない資産)を切り崩した結果であって、あらたな需要が生み出されたためではない。そうした「経営側」の「リスクヘッジ」が可能になって、はじめてやつが言うところの「国際競争力」が手に入る。やつの言う経済回復なんてものは、搾取すればいいだけのことだ。学者じゃなくても思いつく。ただし、言うまでもないことだが、決してやってはいけないことだった。人間の尊厳の観点からも、そして、真に強い経済という観点からも。学者というからには、もうすこし頭を使ってほしかったものだ。小泉と竹中という日本近代政治史上最高のお馬鹿コンビがやってくれたことは、先代が築いた財産を食いつぶすという愚かな二代目の所業以外の何物でもなかった。それだけの資産を食い潰して、たいした変化を与えられなかったいま、状況はさらに酷くなっていることは言うまでもない。民主党が失敗したあとに、反動的な動きが起こることだけは警戒しておかなければなるまい。
2009.07.24
コメント(2)
■「みんなが言っている」と「うちはうち」小さいころ、それはおかしいよみんなに聞いてごらんなどといって、大人に会話を打ち切られた経験は、この国にいれば、多くの人に共有されていることだろう。そして、それを言った当人が、別の場面では、他人は他人うちはうちなどと言うのも、きっと経験済みだろう。このような人は、みんなが正しいという命題と、みんなの意見はうちには関係ないという命題、のふたつを、まったく矛盾無く使ってのけていることにおかしさを感じていない。詐欺師か、それに気づけるだけの脳みそを有していないのどちらかなのだろう。もちろん、これら二つの言い方は、単に、自分の意見を押し通すためのレトリックに過ぎない。結局、自分の意見があって、相手がそれに納得顔をしないときに、恣意的に持ち出す方便にすぎない。自分の意見を押し通そうとしていることにさえ気づいていないのであれば、そうしたやり方に罪悪感や羞恥心を感じる必要がないわけで、頭が悪いというのは幸せなことだなあと感じ入ってしまう。■こどもの逆襲しかし、次のこともまた、大変な頻度でお目にかかれることだろう。こどもの「みんな持ってるから買って」である。もちろん、これに対して、大人は「うちはうち」理論を持ち出すのだが、つぶさに観察するに、意外と、こどものこの攻勢は成功を収めやすいように思う。一度は、「うちはうち」で断られても、結局、「でも、みんな持ってる」が勝利を収めたという経験はないだろうか。こうして考えると、やはり、この国では「みんな」が強いわけだ。■本論さて、ここからが本論である。まずは、この記事。〔引用開始〕内閣支持最低、16.3%=民主支持初のトップ-時事世論調査(7月16日15時4分配信)時事通信社が9~12日に実施した7月の世論調査によると、麻生内閣の支持率は前月比7.8ポイント減の16.3%と急落、昨年9月の政権発足以来最低となった。不支持率は同7.6ポイント増の64.2%。政党支持率も、民主党が1998年の結党以来初めて自民党を逆転した。東京都議選など地方選での同党連敗で示された麻生太郎首相への逆風が裏付けられた形だ。 内閣支持率が2割を切ったのは、3月以来。首相が自民党役員人事をいったん検討しながら断念し、指導力不足を露呈したことなどが、下落につながったとみられる。 政党支持率は民主が18.6%(同3.1ポイント増)で、自民は15.1%(同3.3ポイント減)。以下は公明4.6%、共産1.7%、社民1.3%、国民新0.2%。支持政党なしは55.7%だった。 「首相にふさわしい政治家」は、鳩山由紀夫民主党代表が34.3%(同0.3ポイント減)で、麻生首相の15.1%(同8.8ポイント減)を大きく引き離した。次期衆院選比例代表の投票先も民主が37.4%(同3.5ポイント増)となったのに対し、自民は19.5%(同5.3ポイント減)に落ち込み、差がさらに広がった。〔引用終わり〕■頭がこんがらがったそれぞれ政策を掲げている政党への支持って、短期間にこんなに変わってよいものかね。結局、だれかが一生懸命マニフェスト選挙を訴えたって、政策選挙を訴えたって、この国の衆愚の民たちは、変な印象でしか選んでいないってことなんじゃないか?あの人は信用できそう、とか、あの人は頼りない、とか、もう、みんなで詐欺にあってくれって感じだよね。でも、もっと恐ろしいのは、それが、結局、勝ち馬に乗る結果になってるってことなんだよね。都議選で、「みんな」が民主党を選んだから、民主党。以前は、「みんな」が自民党を選んでたから自民党支持だったけど、みたいな脳みそがすでに何かの排泄物でできているような思考をどうしてできるんだろう?結果的に、そういう思考を疑われるようなことを恥ずかしいとは思わないのかね。一度信任したら、最後まで責任を持てよ、とまで言う気はないんだけど、言葉が軽すぎるでしょ。この国に充満する本当に重い精神病なんだと思うんだよな。
2009.07.16
コメント(0)
東京都議会議員選挙の結果が出たので、今回も覚書程度に記す。■予想されたこととはいえ残念な結果今回の結果は、やっぱりな、という気持ちとともに、大変残念だった。それは、自公が負けたからでは、もちろん、ない。生前の筑紫哲也が言っていたが、この国にはもともと判官びいきという言葉があって、そういう気質をみな持っていたのに、最近はみな勝ち馬に乗ろうとする。そのような時世を憂う、という気持ちが大きい。弱くなった自民に入れろと言っているのではない、勝ちそうになったから民主に入れるのは、結局、郵政で意味もわからず、自民に入れたのと同じじゃないかという気がする。何でも民営化の流れで、ひどい生活環境が作り出されたが、同じ轍を踏まないかと心配になる。■国政だってさ今回の都議選において、国政状況を理由に挙げた方々いらっしゃって、卒倒しそうになった。もちろん、民主政の成熟度は民度によるわけで、サイコロ振って投票先を決めたって、宗教の教祖が言う人に入れたって、簡単に否定できるものではない。ただ、テレビから垂れ流される排泄物的情報からイメージをつくりあげて、意味もわからず投票するのだとしたら、サイコロや宗教的投票と何ら変わらんのじゃないかと思ってしまう。結局その程度の都民レベルなのだと思ってしまう。全員とは言わないが、民主に入れた人間の多くは、幸福実現党に入れた人たちと変わらんのじゃないか?■石原の責任転嫁石原の新銀行東京なる身内機関は、都民一人あたり3000円の追加投資を行った。石原の長男が、今の債権者が困るみたいなことを馬鹿面で言っていたが、ちょっと調べれば、たいした条件の融資でないことはわかるし、経営を立て直そうとしたら、他の銀行と条件はあまり変えず、他の部分での力を伸ばすしかないことくらい明らかだ。すなわち、今の状況でうまくいくはずがない。一部の良識的な投票者たちは、新銀行東京へのNoをはっきりと投票用紙に乗せたはずなのに、当の厚顔無恥の都知事は、それを内閣のせいにすりかえることができる結果となった。■わからないと言えない田舎者当然のことながら、残念な気持ちは、民主がひとり支持を集めたことによる。どこかが一つというのが現代民主主義の観点からすれば大変気持ち悪い。確率論的に言っても、それぞれの主体がそれぞれ理由を考えたときに、このような結果になることは大変可能性の低いことだ。であれば、結論は簡単で、都民があのアメリカという国と同じように、政治的判断力を持っていないで、イメージだけで投票するという愚を犯しているということなのだろう。よくわからないことを、わかった振りして投票しているということだろう。各メディアの白痴化的世論調査という世論操作がこれに拍車をかけている。田舎者だらけだ。東京は田舎者の集まりだ。■ちっぽけなヒロイズムもう少し、政党というものを疑う視点が共有されてもいいんじゃないかと思う。すくなくとも、批判精神が必要な若者には、それがあっていいんじゃないだろうか。もちろん、無駄になる。白票も、多くの場合無党派への投票も、無駄になる。だが、こうした「無駄」が、制度の土俵を敢えて避ける行動が、制度を鍛え変えてきたのではなかったか?それができなくなったとき、制度疲労に耐えられなくなった組織は、大きな反動とともに滅びたんじゃなかったか?自分の票が無駄になるということを受け入れられる、ちっぽけなヒロイズム、この無駄死にが制度に息吹を与えているというちっぽけなヒロイズムが、本当に成熟した民主国の国民にふさわしいように思う。■蛇足ところで、自民が必死だ。しかし、メディアの垂れ流す情報に身を沈めているウンコマンたちにはわからないのだろうが、自民がもうダメだというのは、15年前から言われていたことだ。小泉がまったく意表を突く手で、自民を復活させたかに見えたが、実は、それが自民崩壊を助長した。いま、麻生をどうしたところで、もうダメなのだよ。お前はもう死んでいるのだよ。と誰も言わないのはなぜだろう。自民はもうダメ。民主もおそらくダメだろう。俺はそのあと、ワイマール共和制の二の舞にならないことだけを祈っている。あるいは、明治維新前夜のようにならないことだけを祈っている。
2009.07.13
コメント(0)
都議選、行きます。まだ決めていない方々のために少しだけ(頑張って中立的にしたつもり)。決めていないというのは、迷っているか、情報が少ないからであるわけで、何も考えずにココに入れようなんて決めている人たちより民主的だと思う。そんな民主的な人たちが投票を棄権しないでほしいと思う、今日7月12日。【候補者一覧および候補者所信】http://www.senkyo.janjan.jp/election/2009/13/00008783.html【白票だって立派な意思表示だと、ちょっと読んで考えた高校生の感想文】http://www.senkyo.janjan.jp/senkyo_news/0907/0907020169/1.php【争点】●新銀行東京⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%8A%80%E8%A1%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC●築地移転問題⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%B0%E5%B8%82%E5%A0%B4●オリンピック⇒これには賛否両論あるし、私も意見はあるのだけれど、こんなものを政治家を選ぶ争点にするのは望ましくないだろう。●教育・医療等の生活環境⇒東京なんだから良いはずだとか悪いはずだとかをやめて、自分の生活実感から考えるべき。全体への福祉充実型が良いのか、利益誘導型(経済重視)が良いのか。●国政への影響⇒国政は国政でやれば良いと思われる。もうすぐ衆院選は来るわけですし。「勝敗ライン」なる判断は勝手にやってくれって考えるべきではないか。【蛇足的一言】政党政治というものに大きな意義があることは認める。ただ、組織票を計算して、それにどれくらい浮動票を上乗せできるか、という戦いをしているのを、「さもしい」気がする私は、政党を避けて、死票になるのも悪いことじゃないと思っている。自分の投票した候補が負けて悔しい、というのは、選挙をギャンブルと勘違いしているからで、政治をギャンブルに任せてたら大変でしょう。ちゃんとしたことをやってもらおうと思うなら、それなりに考えて選ばないといけないと思う。それでもいいのがいないなら、どうせ高々一票なわけだから、非政党候補とか、白票とかで「無駄」にするのだって大切だろうと思う。無駄にできる人たちが増えて、そういう大人な人たちが増えて、政治ははじめて自分たちのところに帰ってくるというパラドックスがあるように思う。白票を入れる自分を、そんな時間を、楽しいと思える、そんなちっぽけなヒロイズムが、求められているのかもしれない、と思う。ただ、もし良い候補を自分なりの観点で選べれば、それはそれで、すばらしいことだと思う。冒頭の候補者一覧を見たら選べるかもしれない。
2009.07.11
コメント(0)
おわかりのこととは思うが、私は村上春樹に好意的だ。一時期、すこしつまらない作品シリーズが連発されていると感じたことも無かったわけではないのだが、紆余曲折のうえ至ったのであろう現在の村上春樹を総体として評価している。■村上の作品は文体が無いのか多くの村上批判者たちの言に、村上の文体にはコンテクストや風土がないといったものがある。柄谷行人や松浦寿輝などの批判がこれにあたる。おそらく、蓮見重彦なども同様の見解なのだろう。コンテクストが文学性の用件であるのかどうかはさておき、村上は私にとっては夏目漱石と類似した作家だと思える。第一に、「先進国」の「最先端」の「文学」の影響を専ら受けていること。第二に、「伝統」との断絶があること。第三に、「伝統」を知らないわけではなく意識的に決別していること(同時に「先進国」の「文学」からも意識的に決別しているようにも思える)。第四に、大衆に受けていること。村上の文体をとやかく言う人間は、ヴォネガットを読んだことがないだけなのではないかと私は疑う。彼の文体は初期ヴォネガットによく似ているし、初期のフィッツジェラルドの雰囲気にそっくりだ。村上の文体をとやかく言うためには、それが村上固有のものである必要があろうが、残念ながらそうはいかない。そしてさらに重要なことに、これは夏目漱石がイギリス文学から多大な影響を受け、独自の文体を「作った」ことと類似していることだろう。『猫伝』についてはさておき、漱石の重要な作品は、それまでのこの列島における文体からすれば、大きくかけ離れたものであることは今さら指摘するまでもない。もちろん、しかし、漱石が「伝統」を知らなかったわけではない。彼の漢詩の才能については周知のことである。では、村上はどうか。「日本文学」を知らないのか。村上がプリンストン大学で、「第三の新人」を講じたことも周知のはずである。村上も漱石も「伝統」を知らないわけではなく、意識してそれとは異なる方向を目指していると考えるべきではないか。以上のことで、村上を批判する人たちを反批判できたなどとは私も思ってはいない。ただ、村上を批判する人間の中に、漱石を評価する人間が多いのはどうしてだろうか、と思ってしまうのである。そして、村上に対する批判は、そのまま漱石には当たらないのか、と思ってしまうのである。いうまでもなく、漱石に文体があるならば、村上にも文体があることになる。私はこの対偶命題を真と捉えたいのである。大変に軽い、申し訳ない言い方なのだが、漱石が画期となった「伝統」があり、村上が画期となった「伝統」がある。「伝統」に寄生するものたちが、あたらしい「伝統」にある種の嫉妬心を抱いているように思えてならない。■村上の作品はマンガか村上の作品をマンガとの類似として捉える見解も多く見られる。これはどの要素が似ているのかについての論じ方は様々であるため、一概には肯定も否定もできないが、マンガと似ているというからには、多種多様に存在するマンガに共通する要素があるという立ち位置に立っているのだろう。では、マンガとは何か?…わからない。申し訳ないが、わからない。マンガは多種多様すぎる。小説と呼ばれるものたちの多様性と同じくらい多種多様だ。それをひとくくりにマンガというジャンルで呼べるほど、私は蛮勇をふるえない。いや、まちがっていた。要素なんて考えるから悪いのだろう。機能としてのマンガに注目しようか。マンガとは、視覚情報を加えた情報伝達ツールである。と言ってはダメか。そこから無理やり、マンガというものの要素を搾り出せば、「読みやすい」ということになろうか。その意味において、村上の作品がマンガと類似性を持つのだとすれば、村上がヴォネガットを真似た理由と一致するわけで、確かに当たっている。これは何も言っていないに等しい。だが、私は意外にこのポイントは重要ではないかと思う。グーテンベルク以後の近代において、情報伝達のコストは圧倒的に文字で行うのが安くなった。世界の距離を一気に縮めたのは間違いない。そこでの重要なポイントは、発信のコストが安くなったことに尽きる。受信者の方は、聞くよりも読む方が理解に要するコストが高くなっただろう。だが、発信者のコストは圧倒的に安くなったため、この世に大きな変革をもたらした。そして、教育に「読めるようになる」ことが加えられたのも、それに応じたことであることは言うまでもないだろう。この観点から、マンガを考えたらどうか。マンガは、文字と比して、圧倒的に読み手のコストが安い。だが、圧倒的に発信側のコストは高くなってしまう。20世紀は、そのコストバランスからくる総コストが、いまだ文字に敵わなかった時代だと言えよう。だが、21世紀の情報環境においては、もしかすると、マンガの逆転があるかもしれない。会議資料や、政府のプレゼンテーション、あるいは、学者の論文において、「わかりやすさ」が最重視され、マンガが文字に取って代わるかもしれない。〔まとめるとこう〕 受け取りのコスト 発信のコスト 伝達のコスト 総コスト口頭情報 ○ ○ × △文字情報 △ △ ◎ ○視覚情報 ◎ ×→○? ×→○? △→◎?それが良いことなのかどうかは、はっきり言ってわからないのだが、この観点は、文字情報なるものが、近代という一時代的遺物である可能性をあぶり出してくれはしまいか。もし、そうであれば、村上の作品のマンガとの類似性――わかりやすい(理解できるかどうかはともかく)――が、新たな時代の門を叩いている可能性は否定できないように思う。■マンガところで、私はマンガも読むのだが、マンガに文学性が無いとはとても思えない。もちろん、文学性があるものも無いものもあるというのが正しい。それは、小説と呼ばれるものたちとて同じことだろう。そのうえで、現在において、小説にマンガが勝っている点を挙げれば、「日常性」ということに尽きるように思う。マンガの方が、圧倒的にアクチュアリティを持っているし、リアリティを持っているように思える。残念ながら、小説にはマンガに敵うだけの「日常性」がない。大きな問題関心を持った小説はたまにあるが、あれだけ多く出版されていながら、この「日常性」を扱っているものは少なく、秀作と呼べるものになると皆無に等しい(時代物の中に現代のアクチュアリティを持ち込んだものはあるが)。現代に生きる「個人の生活」を描く小説に出会えないのは悲しいことだ。マンガにはそれがある。そして、その点において、村上は少しだけ見込みがある。■風土ふたたびテクスト論の観点を持ち込めば、村上のテクストはある種のコンテクストの結節点に位置しているわけで、その由来を「風土」なるものに求めるべきだと考えるのは、ただの思い込みに過ぎないのではないかとも思える。というのも、村上は多くの作品から影響を受け、土地を超えたある種の<風土>に根ざしている作品を書き上げていることは間違いないように思えるからだ。村上の批判者たちは、村上の小説を好んで読む人間たちが、まるで詐欺にあっているかのように言うが、そこにはもう少し深い理由があると私には思える。以前から幾度か指摘してきたように、村上は、この時代の作家の中でも、最もはっきりと小説家(それに文句があるなら、物語作家)としての役割を自覚している。そして、そうした高踏な文章を書く批判者たちよりも、読み手の「生」に変化を与えることを達成してきた。多くのファンをつくってきた。全員がファンになるわけではないが、はっきりとファンを宣言する人間は間違いなく多い。結局のところ、村上の文章には「風土」は無いのかもしれないが、現代人が十分に共感できるだけの<風土>があるのだと思える。■デモスとしてのわれわれ近代という時代に生きるわれわれは、建前上、デモス=市民として、近代コンスティテューションのもと生活している。それは、「風土」に根ざしたエトノスとしてではなく、デモス的個人として社会契約に参加している。参加するがゆえに国民なのだと言うこともできよう。そうであれば、村上の「風土」無き「文体」は、前近代的批判者たちの批判を超えて、真に<近代>的な作品だと言えなくはないだろうか。デモスとしてのわれわれのエートス=倫理=<風土>に最も適したものだとは言えないだろうか。残念なことながら、こうした近代の前提は、おそらく、いつまでも古いエトノスから挑戦されつづけるだろう。だが、そこにこそ、今なお夏目漱石が読まれている理由があるし、村上春樹がこれからも読まれ続けるだろう理由があるように私には思える。
2009.07.09
コメント(0)
一時期、「戦後の民主主義教育」を批判したい人たちが(結構な人がそのなかで育っているのにもかかわらず/からこそ)、「手をつないで一緒にゴールをきらせる運動会」をその象徴として槍玉にあげていた。私はそうした運動会の実践を見たことがないのだが、それを戦後民主主義教育の象徴と捉えるのは、勝手に誤解して、批判するという、よくある「保守」的態度に他なるまいと思う。■「保守」について思い出したもうだいぶ書いていないことなので忘れかけていたが、私が「保守」と呼ぶ場合、基本的には次の要素を含んだ態度のことをいうのだった。1.直感的に判断する。2.自分の直感に対する反省的吟味がない。3.違和感を最大の敵とする。4.どうして違和感を感じるかまでは考えない。5.ラベルを貼ってわかった気になる。たとえば、「運動会の徒競走で順位をつけない」ことに違和感を感じ、そんなことをしている(らしい)「教育」に対して、直感的に「おかしい」と感じ、その理由がよくわからないから、「戦後民主主義」というラベルを貼ることで、精神的安定を手に入れようとする。もちろん、精神的安定を手に入れる必要があるのは、自分の知らないことが起こっていることに対する田舎者的危機感がそれを命じるからに他ならない。だから論理演繹的に、6.田舎者である。も付け足そう。ちなみに、蛇足も蛇足だが、この「保守」は、別に政治的志向を表した表現ではない。誤解させるようで申し訳ない用語法なのだが、この「保守」層は、なぜか保守的政党を支持しやすく、自分たちを保守と名乗る。それじゃ、あまりにちゃんとした保守がかわいそうだからということで、私が「保守」と表記しているわけで、べつにこれら二者はぴったりとは重ならない。いわゆる左翼政党支持者にもこの「保守」はたくさんいる。政治的に左翼だ右翼だ言うことの不毛さは実はここにあって、自分がどういう意味で左翼か右翼かわかっていない人間が、適当なことを名乗るものだから、困ってしまうというわけだ。いずれにしても、「保守」は権威に弱い。権威に対して適当な距離を取れないために、もう少し言えば、権威との付き合い方を教育されていないために、そうしたことが可能な家庭で育っていないために、権威に対してアンビバレントな感情を抱く。何らかの権威を愛し、その対照となっている権威を憎む。それがひっくり返ることは多々あって、転向なんていう面白いことばが存在する空間を形成してくれている。すべては、教育が足りていないことによる。権威とうまく付き合えないことによる。■違和感の原因はいずれにしても、どうして「手をつないで一緒にゴールをきらせる」ことが悪いことなのだろうか?一応断っておけば、私もこれに違和感を感じている。だからこそ、しっかりと考えないといけない。実態のよくわからない「戦後民主主義教育」のせいにしてもしょうがない。おそらく、そもそもの話、この国は運動会は軍隊を作る道具だったのではないかと思う。狙いが、子どもたちを競わせてなるべく卓越した成果を求めさせることにあるのだから、そうした前提を否定するような修正については、違和感を覚えるのだろう。前提と違っているじゃんか、と。そして、そうした修正をしたい側は、子どもたちが国家の道具になることを危惧しているのかもしれない。もしそうであるならば、戦前、軍隊になるべく競争をさせられていた者たちが、戦後、企業の戦士となって戦わせられていたことを思えば、むしろ遅いぐらいの修正にも思える。そして、同時に、そうした本当の意味での戦後的価値観(企業戦士優位の世の中)が崩れてきたからこそ、そうした変化についていけなくなった人々が時代的雰囲気に違和感を覚え、その(こちらはまさしく)象徴的事柄である「非競争運動会」に憎悪を感じるのだろう。昔は良かったなあ、と。私も含めて。■修正ズレそうであれば、理由がないわけじゃなさそうな修正なのだが、やはり、この修正には問題があるように私には思える。「手をつないで一緒にゴールをきらせる運動会」に対して、運動が得意な子どもたちから、自己表現の場を奪うな、といった批判があるらしい。繰り返すが、私はそんな運動会見たことないから、そんな批判が実際にあるのかも本当は知らない。いかにもありそうなところが怪しくさえある批判だ。ともかく、そうした批判に対して、運動会を実践する側はどのように答えるのだろうか。足の遅い友だちのことを思いやろうよ、とでも言うのだろうか。ぼく負けてもいいから思いっきり走りたい、と足の遅い子が言ったらどうするのだろうか。そんな優劣ばかりを競う社会にしないためにやっているんだ、と言うのだろうか。しかし、軍隊や企業で戦うのが当然という価値観を子どもたちに与えるのと、競わないほうが良いという価値観を子どもたちに与えるのは、同じくらい間違っているんじゃないかと思う。戦前=戦後の社会に、軍隊か企業戦士しかいなかった(どちらも男性中心主義社会)のに対して、彼らが、理想とする社会は、労働者しかいないのだろうか?ブルジョア的社会に対する反発から、競争を象徴的に嫌悪し、非競争を愛する、という態度は、どこまでいっても「保守」でしかない。そこに修正のズレがあるように思えてならない。■しっかり修正はっきり言って、運動会のそもそもの機能を批判するのだとしたら、どうして運動会自体を止めないのかと私は思ってしまう。もちろん、そうしたことが、先ほどの逆批判(ぼくたちの自己表現の場を奪うな)から逃れられていないことはわかっている。だから、私は、運動会なるものを、もっと個人的な競技にすれば良いのにと思う。出たいやつが出ればいい。好きなようにやればいい。勝ちにこだわるやつがいてもいいし、こだわらないやつがいてもいい。敗者がいるから勝者がいる社会はやはりどこかおかしい。無理やり敗者を土俵に上げて相撲をとろうとするジャイアニズムよりも、そこで卓越を競いたい者たちが競うのを皆でみるショーパーソンシップの方がずっと強い日本を作ってくれると思うが。そういえば、私が小学生のとき、何日もかけて運動会の予行練習をさせられたものだ。誰のための運動会なのだろうか。それを主導するのは「サヨク」な人だったのもおもしろい。運動会の予行練習に力を入れるっていうのは、どうしてもヒトラーがベルリンオリンピックの予行に力を入れたこととダブっちゃうんだよね。
2009.07.03
コメント(0)
ただの引用。イザ!「21歳の「ハローワーク」東大生も「雇用に不安」」より。■■■引用開始東京・臨海副都心にある国内最大のイベント会場、東京ビッグサイトに昨秋、数千人の「21歳」たちが集まった。人材会社が主催する来春卒業予定の大学3年生向け就職合同セミナー。数百社のブースで埋め尽くされた広大なフロアに紺色のリクルートスーツ姿の学生がすし詰め状態となる異様な熱気に、東京国際大学経済学部3年の嶋正男さん(21)=仮名=は、ただただ圧倒されていた。「ショックでした。すごく気軽な気持ちで、携帯だけ持っていればいいやとノートもペンも持たず、埼玉から手ぶらで1時間半かけて来た。どのブースでも同い年の学生が熱心にメモを取って質問していた。完全に出遅れましたね」 車が好きで、学生生活の一番の思い出は洗車のアルバイト。授業には出たものの、「経済のケの字も分からない」という。セミナーでも有名企業を一通り回ったが、全く興味が持てなかった。帰り際に自動車部品メーカーのブースが目に入り、何となくひかれた。 以降、トヨタ自動車、デンソーなど車関係の大手企業を回っている。第一志望は「やっぱりホンダかな。やるとしたら営業」と話すが、企業研究をしたかと尋ねると「何それ?という感じ」。ホンダの創業者である本田宗一郎氏も「知らない」と言う。 「でも、周りの友達に比べると自分は目標が定まっているほうだと思う。2030年ですか? 僕は41歳…。家庭を持って小さな家に住んで、年収は500万円くらいもあれば十分かな。車は今はデミオだけど、クーペに乗っていたいですね」 ■全入“1期生” 嶋さんら来春の就職を目指す21歳たちは「大学全入時代」の“一期生”とされる。嶋さんも指定校推薦で、勉強はほとんどせず大学へ進んだ。ただ、社会に入るのは厳しい。昨秋からの急速な景気悪化で、内定を取り消された今春の卒業予定者は高校、大学を含め少なくとも約1200人。現在、就職活動中の学生をめぐっては「就職氷河期の再来」も予想されている。 ビッグサイトではさまざまな「21歳」たちが交錯していた。早稲田大学商学部3年、家野敬士さんは31歳。一度大学を除籍し、好きな音楽で食べていこうと友人とCD制作会社を作っていたためだ。そこそこの稼ぎもあったが、将来への不安を否定できず昨年9月に復学した。職を求める21歳の群れに交じって、家野さんは「スーツを着られる幸せ」を感じたという。 また、「高校時代からホリエモンに憧れていた」という中央大学法学部3年、藤田祐司さん(21)=仮名=は将来の独立起業を目指して証券会社を希望していたが、最近では「だいぶ焦ってる。起業どころじゃない。派遣村のニュースも、以前なら何とも思わなかったと思うけど、食い入るように見てしまった」。 興味深いデータがある。東京大学が平成18(2006)年に公表した「学生生活実態調査」。東大生に将来自分がニートかフリーターになる可能性を聞いたところ、そう思うと答えた東大生が28%もいたのだ。さらに、そうした立場を「本人の責任」と考える学生が46%だったのに対し、「社会の責任」と答えた学生も35%いた。 担当した東大大学院経済学研究科の森建資教授(60)は「いま同じ質問をしたら、さらに高まるのではないか。雇用だけでなく年金も含め若い世代が割を食っているという感覚は今の若者に強い。東大生も例外でなく、ブランドだけでレールに乗っていけると思っている学生はほとんどいないと思う」 ■「ゆとり」で二極化 「あなたの2030年を想像してみてください」。ビッグサイトで出会った21歳たちに尋ねたが、楽観的な嶋さんを除けば明確な答えは返ってこなかった。代わって東大の森教授は、いわゆる一流大生たちの今後について「社会や職場の危機に直面したとき、パニックになりはしないか」と懸念し、こう指摘する。 「受験の点数と社会人としての適応力は全く別もの。社会が不安定になればなるほどその傾向は強まる。かつて大学生はそこに気づいていたからこそ、自分で問題を見つけて取り組む知的好奇心を持っていたが、今そうした若者は少ない。必然的に東大の地位も下がっていくと思う」 とはいえ、将来への不安は、嶋さんのような難易度が低い大学の学生のほうが、より強いのではないか。千葉市にある敬愛大学の「キャリアセンター」でセンター長を務める高田茂さん(57)の答えは意外だった。「残念ながらほとんどありません。うちのような大学は大半が推薦入学で、これまでの人生も無風、無競争できてしまった。学力だけでなく、社会に対する意識からして学生は二極化している」 高田さんは、大手商社社員からキャンパスの「就活請負人」に転身、すでに敬愛大が2校目だ。「彼らはゆとり教育の一期生でもあるが、ゆとりで生まれた時間に何をしたかといえばバイトにゲーム、携帯いじりくらい。そうした生活が、就活でもボディーブローのように効いている」と指摘し“教え子たち”に向けてこんなエールを送った。 「キャリアセンターと就職課の違いはキャリア教育を施す点。つまり『生きていくためにはどうするか』を教えるということです。うちの学生が有名大生に勉強で勝てることは絶対にない。ただ、社会に出て、同じ営業という仕事でなら勝負できる可能性はある。こんな時代だからこそ、学生には20年後の逆転を目指してもらいたいのです」(引用終わり)■■■これをただの自己責任論として読んでは意味がない。もっと早い段階での「教育」について考えるきっかけになればと思う。東大生の一部は「雇用に不安」を抱えることが「可能」であるわけで、それを「偉い」と考えるのは、「情けない」と感じるのと同じくらい間違っている。大切なのは、彼らは不安を感じることが可能であるが、それは彼ら個人個人の性質に帰するものではなく、やはり、彼らを育てた「教育」環境によるということだ。この格差こそ、考えなければならない(ここで言っている格差が経済格差だなどと勝手に呑み込まないでほしい。さらに、私は不安を感じられない東大生は、不安を感じられない「格の落ちる」大学の学生と全く同質だと思っているわけで、学歴格差でもない。「受験マシーン」として育てられた東大生がいるならさらに不幸だろう)。結局、教育は、社会の理念と合致していなければならないわけで、どのような初等=義務教育を備えるかを、われわれはもう少しまともに議論しなければならないのだろう。点数主義がいけないと言っているわけでもないし、教育の悪平等を非難したいわけでもない。ただ、ある層には与えられて、ある層には与えられないものが、今の教育制度では埋められていない可能性があることは考えておかなければならないだろうと思う。今回は、ただのきっかけ。(ちなみに引用文中小見出しの「ゆとり」は故意に誤解をねらったものにしか思えない。)
2009.06.28
コメント(0)
前回、『1Q84』について、いわば読後の覚書としていろいろと適当に書いたが、今回は敢えてこちらの関心に合わせた読解を記したい。■物語からの自由この作品は、現実と物語の関係を描いたものだと前回指摘した。そして、桎梏としての家族の物語や宗教の物語が、人々に救いや癒しだけでなく、抑圧をも与えることまで指摘した。この作品は、こうした抑圧としての物語からわれわれは自由になれることを描いている。その意味で、ひとつの「現代における啓蒙書」となっている。青豆や天吾は、ある種の物語(家族の物語)を拒否した存在なのである。■物語の喪失、リトルピープル、「自由からの逃走」さて、しかし、われわれは物語から自由になれるが、物語はそもそもわれわれに必要なものであった。そうした物語から自由になった者たち、あるいは、物語を奪われた者たちはどうなるのだろうか。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、教会の権威や身分制社会を奪われ自由を与えられた人々は、大きな権威を求めて一気にファシズムに走ったと指摘した。ここに「リトル・ピープル的現象」を見ることができるかもしれない。■物語への自由しかし、この作品は、私たちが物語を選べる存在だと主張しているようだ。現実をどのような物語で解釈するかを選べる存在だと主張しているようだ。偶然があたえてくれる物語。他者との出会い。それが生きる力となることを伝えてくれる。このリアルな現実に物語を見出すことこそ人間の条件なのかもしれない。積極的な意味においても、消極的な意味においても。■ふかえりと天吾がセックスした意味は以上のように考えれば、ふかえりが「お祓い」として天吾とセックスをした意味が理解される。天吾が父親に会いに行ったとき、その寓話として「猫の国」の話が出てきた。猫は村上にとって自由の象徴なのだろう。その寓話のなかで主人公が見えなくなるというところが大変に示唆的だ。すなわち、それは天吾が家族の物語から自由になったことを意味する(猫の国に行くことと、自分の出自の秘密を知ることはパラレルだ)。そして同時に、天吾が見えない存在になったことも象徴されている。すなわち、自分を自分として支えるだけの物語(家族の物語)がなくなったのである。そうしたとき、ファシズムに走った大衆のように、この小さき人間は、大きな物語に回収されやすくなってしまう。「お祓い」が必要な理由はそこにある。そして、その「お祓い」は、自分の原風景を見せるものだった。天吾は、ふかえりとの「結合」のなかにあって、自分の本当に求めているものがわかった。人間は、他者とのつながりによって、自分が見えるとでも言っているかのように。ふかえりは、その意味において「パシヴァ」なのである。■自分の物語を探し育む天吾は、自分の個の物語に気づく。個の物語は多くの者にとって自分では気づきにくいものなのかもしれない。大切なのは、その弱き萌芽を自分の中で大切に育てることだろう。天吾はそれを選んだ。ところで、それが二人の関係(天吾とふかえりの)から生じたというのは興味深い。個の物語は弱いが故に、親密な場所で育てなければいけないと言っているようだ。■物語の複数性ただし、そうした個の物語もまた他者を傷つける可能性があることを知らなければなるまい。私たちは、自分の物語が絶対だと主張してはならないのだろう。そこに物語が並立し、さまざまな救いが存在する可能性が生じる。また、他者の物語が、自分の物語を作り育てる手助けをしてくれる。自分の物語は、他者なしには発見できないものだと教えてくれる。私たちの現実は、複数の物語が共存し、そうした物語の重なりのうちに見出せるものなのかもしれない。われわれの現実に対する物語の可能性とは、われわれの存在の根源に関係したものなのだと思う。そこに絶対の救いがあるかはわからないが、たまに癒しはあるのだろうと思う。あるいは、そう信じたい。■■■参考■■■まったく異なった角度からの『1Q84』評。「ひとつの読み方」の方が読みやすいか。こぶた新聞「村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)」「村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)――ひとつの読み方」
2009.06.12
コメント(2)
review1のつづき■どこから来たのかわからないわれわれ村上の作品でずっと言われてきたことがある。それは、主人公に家族が「いない」ということである。今回、この問いにも村上は答えたように思う(さらに言えば、この兆候は短編集『神の子どもたちはみな踊る』から窺い知れた;ところで上のエルサレム賞受賞講演において、村上が自らの父親について語ったことは衝撃的であった)。しかし、その問題について語る前に指摘しておかなければならないことがある。それは、村上にとって「家族」の問題は軽いが故に語られてこなかったわけではなく、この作品の言い方にあえて絡めて言うならば、「あまりにも中心にありすぎて」語られてこなかったのだろうと思える。それほど、小さからぬ問題だったと思える(あるいは、この問いもまた、村上への重荷として圧し掛かっていたのかもしれない)。主人公の二人(この二者は質的に重大な違いがある)は、双方とも「家族」について重大な問題を提起しているのだが、まずは、本当の主人公というべき天吾について書き始めよう。天吾は父子家庭に育ち、父親を実の父親ではないと疑っている。最終的に本人はそのことを確信するのであるが、実のところははっきりとはわからない。あるいは、それが本当だとしても、ここにおける主題「自分はどこから来たのか」に対する回答は冷徹なまでに与えられないこととなる。つまりは、「自分とは何者か」という問いを「自分はどこから来たのか」という問いに回収することができないようにつくられているのである。ある種の人々は、「自分とは何者か」という問いに対して「出自」を持ち出してわかった気になっている。だが、村上が注意深く指摘しているように(私には読めるのだが)、それはひとつの「物語」でしかない。自分が日本人であるといったところで、誰々の子であるといったところで、それは私の何を表しているのだろうか?自分が不安になったときにこそ、われわれは違う選択肢を探らねばならないのではなかろうか。家族は多くの場合、「肯定軸」にもなるが、「桎梏」にもなることを忘れてはならないだろう。天吾が家族不在であることは、この物語における重要なプロットである。■この時代の救いかたや、ヒロインである青豆は、「証人会」という宗教(モデルは明らかだろう)を信仰する両親に育てられ、「桎梏」としての「家族」が色濃く影響している存在だ。彼女はその信仰を10歳のときに捨てるのであるが、そこまでの習慣のようなものはもちろん深く刻まれている。そう、それは<運命>のように。誰が自分の性格を選べただろうか。誰が自分の出自を選べただろうか。それが満足のいくものであればまだよいだろう。だが、それが自分を傷つけるものであればどうだろうか。偶然が<運命>をつくってしまっている。そこに既存の「物語」はどれほど役に立つのだろう(そして、その「物語」が他者を傷つけないという保障はどこにあるのだろうか)。そのような根源的問題を持ちながら、彼女は愛に生きることにする。もっと性格にいうなら、「愛という物語」に賭ける。それもやはり偶然に彼女にもたらされたものだ。だが、彼女がそれを選んだ。大切なのはそこだ。■愛と暴力物語は人を傷つける。また桎梏である。だが、それを害悪だということはできない。大切なことは、その物語が、いかなる「手続き」を経たものかということだろう。人は物語に苦しめられるが、物語がなくては生きていけない。しかし、物語は人を傷つける。その矛盾を解消するものは何か。アウフヘーベンするものは何か。それは、やはり愛と呼ばれるものかもしれない。もちろん、愛の物語もまた、人を傷つける。控え目に見積もっても愛は暴力的だ。それから逃れるために別の空気さなぎをつくることもできる。しかし、大切なことは、傷つき傷つけられるわれわれが、そのことをしっかりと弁えたうえで、勇気をもって他者へ架橋することではなかろうか。それを愛と呼んでもよいだろうか。暴力はなくならない。それは愛と表裏一体だからだ。だが、救いがないわけではない。われわれはある種の愛を否定できる。これが大切だ。否定の選択肢がないところには、肯定の選択肢もないのだ。■どのように物語るかこそが現実だこの作品のもっとも大きな主題は、現実をどのように見るのか=どのように物語るのか、ということをわれわれは選べるという主張なのだろうと思う。どんなに否定したくても、人間に普遍的価値や普遍的事実などない。どのように物語を紡ぐか、という選択肢が残されているだけだ。青豆は、「愛の物語」を選んだ。そして、それに呼応するように天吾も物語を紡ぐ決断をした。『空気さなぎ』と同じように、この作品もまた、象徴的に終わっている。最後に、一か所だけ引用することを赦してもらおう。「物語は彼女がその通路の扉を開けようとするところで象徴的に終わっている。その扉の奥で何が起こるのか、そこまでは書かれていない。たぶんそれはまだ起こっていないことなのだろう」この作品は、読んでいる者によって引き継がれなければならないのだ。■小説の書き方私の読了後メモは以上で終わりだが、この作品は、村上が小説の書き方を教えてくれているようにも読める。小説の書き方の本にも多く目を通したことがあるが、ずっとプラクティカルなアドヴァイスになっているように思う。それは読んでみてのお楽しみだが、ひとつだけ指摘しておけば、村上は事実の提示する順番がうまいのだ。裁判において、自分が有利になるような証拠の出し方をする検察のように。書かれていないことは、存在していないことだと知っている。村上春樹の作品を読んでいると、アラン・パーカーの『エンゼル・ハート』を思い出す。っていって、気持ちをわかってくれる人はどれくらいいるんだろうか。(了)■■■関連■■■「物語からの自由、物語への自由、物語の複数性――『1Q84』書評」「リベラル・デモクラシーのための最良の教科書」「偶然と機会の音楽」「宗教の政治性」「Communicability(1)」「Communicability(2)」「伊勢崎賢治「インド論批判の巻」(1)」「伊勢崎賢治「インド論批判の巻」(2)」「村上春樹・宮沢賢治・アリジャン」「個的にあまりに必然」
2009.06.05
コメント(0)
『1Q84』を読んだ。実を言うと、ここ数年、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が気になっていて、もう一度読まなければならないと考えていたのだが、いろいろな事情があって、それが完遂されていなかった。そんな折に現れたのがこの作品だった。だから敢えて間違ったことからいえば、この本はかの本の書き直しである。これは間違いではあるが、間違いというものは常に一片の真理を含んでしまっているものなのだ。しかし、書評家でない私は、まとまった作品としての書評を提示することはできない。いいところが感想文である。ただ、もはや小学生でない私は、感想とあらすじをごちゃ混ぜにしたりはしないだろうと思う。だから、これは薬にもならないが、とりあえずのところ毒にもならない文章となろう。ではなぜそんな時間の無駄のようなことをするのか(しかも読み手にとっても)。その答えを私は説明できない。『1Q84』を読めばわかるといえばよかろうか。いずれにしても、人に読んでほしい作品だということを主張する人間がここにもひとりいる、というくらいの事実にはなるだろう。■高次方程式村上春樹の長編を読むのは(あくまでもひとつの読み方ではあるが)、高次方程式を解くのに似ている。そしてその作品群は時間を追うごとにその次数を高めてきたともいえる。ある種の変数に対応する可能性のある実数群があって、それらは場面(コンテクスト)とともに変移し、一般的な頭脳では全体的に把握することはまずできない。それができるなら、ベルクソンがいったような意味で狂気の域にいることになる。しかし、もしかすると村上自身が書くうえでもそうであるのかもしれないが、われわれには、村上の作品を読んできたという強みがある。それゆえ、なかば直観的に見抜いた「書かれようとされていること」を少しは日常言語に翻訳できるかもしれない。もちろん、それで「わかった」ことには全くならないのだが、そうした言葉の積み重ねこそが、実は文学なのではないかと思う。村上自身も「理解とは誤解の総体」であるようなことを述べていたはずだ。いずれにしても、村上はわれわれが普通には理解できない何かを、小説において描き出そうとしている。言い換えれば、彼は小説にしかできないことをやろうとしている。■『キャラクターズ』の編集者は誰だったのだろうかつて、やはり新潮社から、東浩紀と桜坂洋による『キャラクターズ』という失敗作があった(失敗とは別の意味における成功であるのは間違いないが)。私見では、桜坂が東の暗黙に想定していたプロットに気づけずに、いや、自身の創作家としての直感を信じることができずに自滅した(もちろん、はじめからそうした構想を言明できていなかった東も同罪である)。やはり、小説には構想力が必要とされる。思いがあれば伝わるというのは嘘だ。思いがあるからこそ、伝え方を磨かなくてはならない。その意味においても、ここまで来た村上(ノーベル賞候補!)が、これまでの作品群のプロットを意識的にすべて組み込むような形で、あるいは原点回帰として、この作品を書いたことの意味は大きい。『キャラクターズ』で問題にしていたことの少なくともひとつは、語り語られる主体であるキャラクターと、それを書く人間との関係性(ポジション)であった。あるいは、作品と作家の<領域>性に関する問題だった。徹底的に俗的なプロットとそれを批評する目を同じ器に入れてしまおうという試みであった。その問いは、文学とは何か、文学の可能性とは何か、文学に何ができるのか、という問いに等しい。もっとはっきり言えば、現実と物語にはいかなる関係があるのか、という問いであったし、現実には救いがあるのかという問いでもあった。『キャラクターズ』は失敗したが(そして別の意味で成功したが)、村上はこの作品で、見事にこれらの問いに答えたと思う。彼は、忌野清志郎が「僕は音楽を信じているんです」と言ったのとまったく同じ意味において、「僕は小説を信じているんです」と堂々と答えた。■マトリョーシカさて、書評なんてできるわけがないしする気もない私は、気づいたことを漫然と指摘するだけになるだろうとは思うが、まずは『キャラクターズ』で取り上げた問題から語りだそうか。『1Q84』は、入れ子構造を意識したつくりとなっている。すなわち、小説の書き手のことが書かれた小説である。もう少し突っ込んでいえば、物語る者を記した物語である(文体も意識してそうされている。地の文=ナレーションと一人称の文=キャラクターの考えがうまく織り合わされている箇所が散見されるはずだ)。「物語」(=物語内の物語)が「現実」(=物語内の現実)に対していかに力をもっているのかを記しつつ、同時にその<物語>(=現実の物語『1Q84』)が<現実>(=われわれの生きている現実)に働きかけることを狙ったものだ。今回、この作品が初日で70万部ほど売れたのは、作者と編集元による作戦だが(敢えて内容について前もって宣伝せず、読者たちの期待を煽った)、それはこれを売ろうとしてのことではなく、むしろ、この作品内の「物語(『空気さなぎ』)」との類似性を演出したかったからに他なるまい(ジワジワ売る方法だって十分考えられたが、それでは意味がなかったのだ)。この意味において、彼らはマクルーハンテーゼ「メディアはメッセージである」をさらに拡張したのだといえよう。■リトルピープルと小市民この作品にはリトルピ-プルが出てくる。そして、ありがたいことに、作品内でその存在についてある程度解釈までしてくれている。いわく、ジョージ・オーウェル『1984』の「ビッグブラザー」に対応するものだと。ビッグブラザーとリトルピープル。これはどのような関係を持っているのだろうか。つまり、対応するとして、それはどのような軸で対応しているのだろうか(いうまでもないことだが、対立するということは、同じ軸をもってこそ可能であり、その意味で、イコールの関係でもあるはずだ)。私見では、この両者の存在によって語られる悲劇は同じなのだが、それを導く機制に対する眼差しの違いとして捉えることができるだろう。ビッグプラザーは独裁的につくりだされる監視社会を象徴するが、リトルピープルは小市民の欲望として監視社会がつくりだされる事実を強調した象徴だといえるだろう。村上は、多くの作品で嫌悪感とともにこの小市民的なるものについて語っている(たとえば、『沈黙』や『スプートニクの恋人』を見よ)。■空気さなぎと物語この作品のなかに出てくる空気さなぎは、空気中から糸を紡ぐことによってつくられる。それはいったい何を意味するのだろうか。この訊き方に問題があるのであれば、われわれはこれにどのような意味を見出すことができるだろうか(What is the meaning of 'kuhkisanagi'?ではなく、What is a meaning of 'kuhkisanagi'?だ)。私の解釈はこうだ。この存在がそのまま他者を傷つけてしまう「現実」において、われわれは身を守るための「物語」を紡ぐ。たとえば、傷ついたときに。たとえば、大切な人を失ったときに。あるいは、そうした傷を二度と受けないように。「物語」は人を守る。しかし同時に、「物語」は閉じ込める。意思を殺す。「物語」は救いであるし、呪いである。そして、われわれは「物語」の負の側面を無視できない<現実>に生きてしまっている。さらに、そうした時代に量産される<物語>たちが、まったくそうした<現実>に答えようとしていない実際がある。物語が救いにならず、むしろ呪いとなってしまっている時代に生きている。村上自身は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』において、そうした現実に対する「答え」を出し切れずにいたように思う。あるいは、『ダンス・ダンス・ダンス』においても。『羊をめぐる冒険』で素朴に提示された問題は、いつの間にか大きくなり、村上に重荷として圧し掛かっていたように私には思える。今回、村上はその問題にひとつの回答を出した。それをすっきりと語る術を今私は持たない。『1Q84』を読んでもらうしかない。ただ、それがどのようなものであるかだけは語ることができるだろう。それは、まるで、信仰告白に似ている。あるいは、希望に。■壁と組織『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同様に(というか、そのプロット導入として?)、今回も「壁」が、ささやかながら、象徴的に用いられている。この壁については、村上がエルサレム賞受賞時に行ったスピーチをみれば、その象徴するところがわかるだろう(参照)。壁は、(ある意味としては)システムのことだ。さらに、そのシステムは、小市民的な欲求である「物語」として生み出される。つづく
2009.06.05
コメント(0)
立憲主義というのは、非常に困った制度である。何が困るかと言うと、立憲主義の哲学的基礎の、「哲学的」という部分が、もはや万人の共感を得にくい時代に入ってきてしまっているということなのだ。立憲主義というものは、民主主義と、本質的に緊張を孕んだ関係にある、とよく言われる。一般的な理解における民主的決定なるものは、多数派の意思が表現されたものだが、それに対し、リベラルな価値(つまり権利)を基礎とする立憲主義は、ときにそうした多数派の決め事にNOを言うからだ。もし民主的なものに最高の価値を置くのであれば、そうした決定を縛るような「憲法」なるものは、むしろ邪魔な存在でしかないだろう。そもそもどうしてわれわれは「憲法」なるものを戴くのか。この問題に対しては、いくらか可能な解答がある。(1)「憲法」は民主制とは別の哲学的原理である。(立憲主義優位の独立理論)(2)「憲法」は民主制を効率的に運用するための、手続き的な決め事である。(民主主義優位の独立理論)(3)「憲法」は民主制を立憲主義的で真に民主的なものにするための、哲学的な決め事である。(立憲主義優位の調和理論)(4)「憲法」は民主制の結果、必然的に現れる決め事である。(民主主義優位の調和理論)例えば、「社会契約」を「立憲主義」の基礎に据える議論は、(1)や(3)にわれわれを導く。(1)の場合、現代における立憲主義と民主主義の「結婚」状況は「偶然」であることになり、(3)の場合、民主制は、立憲主義的価値(例えば自由・平等)を達成させるための道具ということになる。■「社会契約」という困難ところで、この「社会契約」の想定には、やはり、なにがしかの「啓蒙」思想が含まれている可能性は否めないだろう。というのも、哲学的基礎を必要とするこの議論は、万人による同意を理論の中に先取りし、「よく考えれば、誰でもこの議論の正しさはわかるはずだ」という想定に立つか、あるいは、他の原理に頼って、他の誰かが賛成しようがしまいが、「これが正しいのだ」と強弁するしかない(しかしこの場合どのような権威によって制度化するのか?)。例えば、現代の“ソフィスト”とも呼ぶべきR・ローティは、こうした「基礎づけ主義」に強烈な論難を加える。セルビアにおいてレイプや殺戮をする者たちには自分たちが人権を侵しているという意識がないことを例証し、そうした人権の哲学的正当化は時代遅れであり、哲学的基礎づけよりも、感情教育の方が意味があると述べる。あるいは、20世紀最大の知の巨人とも呼ぶべきJ・ロールズは、自身の「公正としての正義論」の基礎を、当初の概念装置としての「原初状態」から、合衆国における憲法実践=文化の方に求めるという転換をする。(基礎的概念からの演繹的立論ではなく、「反省的均衡」によって実践のうちに最適解に至ろうとする戦略を採ったといえるが、もちろん、「普遍性」という観点からは、論の切れ味が鈍ったといえる。)いずれにせよ、ここでの問題は、「憲法」の「普遍性」が疑われている事実による。現代において「憲法」を語るにあたっては、ここを出発点にしなければならない。■共和国への愛?さて、それならば、われわれには(2)という選択肢もあり得る。立憲主義よりも、民主主義(あるいは共和主義)の方に価値を認めて、その十全な達成のために、「憲法」を「用いる」というものだ(この立場には、長谷部恭男の「公私区分論」や松井茂記の「プロセス的憲法観」が含まれると思われる。かつてこの両者がしばしば対照されて論じられていたのは、こうして考えると、興味深い)。国家という権力秩序を「構成する」ものとして「憲法=コンスティテューション(構成)」を捉える立場だともいえる。これは特殊近代的な立ち位置であり、自然法的なものをもとにした中世立憲主義とは違いを認めるべきものであるように思う。さて、この共和主義的ともいえる立場は強力であるが、問題は「誰がそれを求めたのか」という実に素朴なことに尽きる。この立場は、具体的な生活を考えたとき、例えば、身体障害者や孤独な独居老人が存在する状況において、何を価値とすべきかという規範的問いを回避してしまう危険を孕んでいる(この言説に僕がある現代的な価値判断を忍び込ませていることは率直に認めよう)。個人の生活や自律よりも、制度としての秩序が重要であるという方向へも行きかねないこの立場を、正統なものとして捉えるためには、やはり、何らかの「基礎づけ」が必要なはずである。そこで問題となるのは、「民主主義は民主主義によっては正当化できない」という論難に対して、何を正当性の根拠にするかだろう。ここで「個人の尊厳」などを持ち出すなら、そもそもこの立場の前提と矛盾をきたしてしまう。■動態的概念としての立憲民主主義とはいえ、逆に「立憲主義は立憲主義によっては正当化できない」という論難もまた同様の意味をもつのは言うまでもない。以上の立場に共通するのは、何らかの原理主義である。では、われわれにはどのような戦略が残されているか。最後の(4)がまだある。しかし、この命題が曖昧な謂いであることは間違いない。そしてこの立場は、一つの信仰告白のようでもある。もしかすると、自力で「憲法」を持つに至ったいくつかの国は、たまたま(偶然)、そこに辿り着いただけかもしれない。後世の歴史家が、それを普遍的なものとして読み取っただけかもしれない。しかし、この立場に立つ者たちは、われわれ(人類)は、紆余曲折を経ながらも、そうしたところに到達するはずだと信じているかのようだ。最終的には、人間を信じていると言ってもよいかもしれない。もし、この立場に立つのであれば、「立憲主義=民主主義」とは、動態的なものである。恐らく、他の選択肢(1)(2)(3)を行ったり来たりしながら前進していくものだろう。(1)(2)(3)で用いられていた「哲学的基礎づけ」は、(4)においては、ただ一つの相対的言説として語られることになるだろう。I・バーリンが引用する言葉「自己の確信の正当性の相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」という態度である。もちろん、正直に認めれば、これもある種の哲学的基礎を持つ立ち位置ではあるが、他よりも少しだけ見込みがありそうに思える。■テクストの重要性批判さて、そうした理解に立つとき、テクストとしての憲法というものが、ひとつの議題になりえる。可謬性のある人間として、われわれができることは、時には妥協であり、選択である。「完全」なものは、こうした動態的憲法においてはあり得ないし、そもそも(われわれがすでに諦めた)権威や哲学なしには、それは制定すらされないだろう。そうしたとき、われわれができることは何か。これには二つの方途があるように思える。一つは、そうした議論を常にもち、妥協や選択を続けることであろう。憲法政治を「deliberative(熟慮・討議)」の方向へと向かわせ、動態的な活力を与えることである。いま一つは、憲法に生活を読み込むことであろう。「(構成的)解釈」という行為によって、憲法に動態的な活力を与えることである。これはテクストを重要な要素としながらも、絶対なものとは考えない立場である。例えば、イギリスは成文憲法をもたないが立憲主義国であるだろう。また、R・ドゥウォーキンの言うように、(正しい)権利は、修正1条だけからでも構成できるという可能性は十分考えられよう。恐らく、憲法に関する重要問題は、テクストの外(動態的憲法に活力を与える動力の側)にあるように思われる。■憲法の想像力何よりも、憲法が良ければ、いろいろと解決するという考えが危険なように思う。もちろん、悪い憲法が、民主主義に対する大変な足枷になるのは間違いない。だが、その基本をクリアし、この稿の冒頭の問題を前提とできる憲法であるなら、かなり見込みがあると思える。僕としては、奥平康弘が述べるように「物語としての憲法」への「想像力」を働かせて、「生かし続ける」立場に立ちたい。
2008.01.10
コメント(14)
某所で「議論は「競技」である」という記事を見つけた。ここでの「競技」とはもちろん「アゴーン」のことであろう。ハンナ・アーレントによれば、アゴーンとは、「生への関心」とは非連続の関係にある「世界への関心」と関わりのあるものだ。つまり、自分自身の「生」=「個的な利益」よりも、「世界における自身の<現れ>」=「存在のリアリティ」を重要視する態度に関係する。勝敗よりも、大切な何かへの関心と言えるだろうか。これは「ただ生きること」と「善く生きること」という、アリストテレス以来の区分にも近いだろう。■善く生きることさて、その「競技」の一例として、優れたものを見つけた。マラソン、である。いや、村上春樹が語るところのマラソン、である。村上は語る。自分がこのような深い疲弊の中にあって、それを全面的に引き受けた上で、しかもこうして着実に走り続けていられるという事実がそこにあり、僕としては、それを超えて世界に望むべきことなど何ひとつなかった。(『走ることについて語るときに僕の語ること』p.154)生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。(同書p.230)効率があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。(同書p.231)人はなぜ走るのだろうか。あるいは、人はなぜ生きるのだろうか。村上は走るなかで、あるいは、書くなかで(この両者は村上においてパラレルだ)、「善く」生きようとしているように思えてくる。これは、リベラル・デモクラシーのエートスであるような気がする。この書は、リベラル・デモクラシーを生きる者のための、最良の教科書だろうと思う。最後に、この本の中でもっとも素晴らしい言葉を引こう。それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。
2007.12.20
コメント(0)
(1)のつづき■しんらつな反対論さて、選評の抜粋を足がかりにするという、「とんでも」なやり方であることは重々承知しつつ、さらに続ける。選評の抜粋上わかる限り、唯一でありながら、絶対的な反対者が石原だ。しかし、石原の反対は、宮本が述べるような質のものではない、というのが俺の意見だ。いろいろな反対意見を述べようとも、石原の評価は、単純に好悪に由来している(もちろん、好悪がレベルの低い判断基準だと述べるつもりなど毛頭ない)。そして、その好悪に文学的ではない何かのスタンスがおのずと出ていると俺は考えている。石原は、ある箇所で、文学の絶対要件のひとつとして「カタルシス」を挙げている。ここにひとつの、文学的ではない、彼の何かのスタンスがあるのだが、それは後述する。ここでは、再度、石原の選評の「抜粋」を見よう。以前の、絶滅に瀕している鳥「トキ」について書いた作品にも一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられたが、今回の作品も世間を騒がした忌まわしい事件との時間的相関性を外しても、物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない。さて、「トキ」について書いた作品というのは、言うまでもなく『ニッポニア・ニッポン』のことだ。石原は、「一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられ」るというのだが、これはおそらく誤りだ。『ニッポニア・ニッポン』に関しても論じる用意が無くはないのだが、この書に関しては、文庫版「解説(と名打っていないが)」で斎藤環が卓越した読解をしているので、ひとまずそちらに譲りたい。この斎藤の「読み」に関しては、全体を引く必要があるものだと思うが、ここでは無理なので、少しだけ引くことにする。■斎藤環の読み(象徴を妄想化する形式主義のほうへ)いまや阿部が信ずるのは形式であり、論理だけである。ある形式を論理的に徹底するところから、導き出されるいびつな「妄想」。複数の妄想が関係を結びあい、妄想の複雑系が繁茂しはじめる。このとき阿部はあきらかに、妄想のひとつの本質を独自に看破している。そう、ほんらい妄想とは、論理的徹底性の産物なのだ。臨床的にもパラノイアが治りにくいのは、彼がわれわれ以上に、厳密に論理的な考え方をするためだ。さらに、もう一箇所。…〔前略〕…そう、本作こそは、「天皇萌え」の可能性を示唆した最初の作品でもあったのだ。…〔中略〕…ここでトキ=天皇という「究極の象徴」同士の交配は、むしろ象徴なるもののいかがわしさを露呈させるためのテクニック以外の何物でもない。かつては禁忌の圧力のもと、壮大なる文学的幻想の源泉たりえた「天皇=父」殺しの身振りは、もはや「ひきこもり」青年の妄想という矮小化をこうむって、象徴そのものの衰弱へと向かう。本作が、クイーンの名曲『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞とともに閉じられていることを思い起こそう。夢とも現実ともつかない虚構空間で、殺人をおかした死刑囚が母親に呼びかける決別の歌。まさに、このうえなく通俗でベタな終わり。象徴殺しに失敗した少年は、みずからはぐくみ育てた妄想からも解放され、あっけなく「象徴そのものの不在」に気付くことになるだろう。そう、象徴は殺すこともできないし、殺すにも値しない。なぜなら象徴は、端的に「存在しない」のだから。斎藤の「読み」は、(ラカン研究者らしく)最後に興味深い結論を示唆して終わるのだが、今回は、とりあえず、石原のあてずっぽうな批判に応答するための箇所を引いた。石原は、もしかすると、阿部が「トキ=天皇」という記号を用いたことを「マーケティング」と呼んだのかもしれないが、おそらく、この作品を毛嫌いする本当のところは、そうした表層上の問題以上に、阿部が「象徴」を「存在しない」ものだと「暴いた」事実にあるように思われる。というのも、石原が文学の絶対要件とする「カタルシス」は、象徴的世界での象徴的な問題解決手段でしかないからだ。阿部のやったことは、石原が無意識に感じ取っている通り、「(石原が考える)文学」そのものの「廃棄」という行為に等しい。そして、それを批評しようとするならば、「文学」を超えた視線を必要とする(つまり、内部の問題ではなく、それ自身の存在意義を問われる問題である場合、われわれは参照項を外部に必要とするだろう)。すなわち、いや、とりあえず、これを「政治」と呼ぶことにしておこう。石原は、文学者(「文学」に内在する者)としてではなく、選考者の中でひとり「政治家」として振舞っている。彼は、文学者としてのスタンスが存在できない問題に関して、政治的な好悪(preference)を文学的世界へと忍ばせているわけだ。<(石原が考えるのとは違った)文学>というものが、もしその枠を常に変化させ続けるものであるとすれば、石原の「政治」から規定される「文学」は、常に<文学>作品によってその存在意義を問われ、ゆえに、石原はその都度、「好悪」によってそれを判定せざるを得なくなるだろうことは必然的結果なのだ。とにかく、阿部の題材選びは、石原的な「必然性」は持っていなくとも、周到に計算され<文学>的論理性を持った<必然性>を湛えていることが、斎藤の記述から読み取れよう。村上が以上のことを捉えて、「小説にしかできないことに作者が挑戦している」と言ったとしたならば、おそらくそれは正しい。■なぜ、ロリコンか本当は、しっかり調べてから書こうと思っていたことだが、『グランド・フィナーレ』において、主人公が「ロリコン」であることにも、私見では、必然性がある。ここでは仮説的にのみ、記しておく。ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』のロリータ(ドロレス・ヘイズ)は12歳である。12歳という年齢は、『グランド・フィナーレ』の主人公が主に性愛対象とする子どもたちの年齢にぴったりと対応している。そして、この年齢は世阿弥『花伝書』にあらわれる「時分の花」としての年齢と同じだ。言うまでもなく、「時分の花」は年齢とともにあらわれる「花」であり、それは「真の花」ではないわけだ。『花伝書』はいろんな読み方のできる書物だが、ある部分において教育書であることはもちろん間違いない。つまり、「真の花」になるための書ということもできる。そう、「目的」があるわけだ。さて、この花伝書的世界において、この「目的」がなくなったならば、どうなるだろうか。そう、つまり、「グランド・フィナーレな世界」となったならば、どうなるだろうか。そう、もはや、「花」と呼べるものは、「時分の花」しか存在しないのである。それゆえ、その世界を生きる主人公沢見は、ロリコンでしかあり得ないという結論に至らないだろうか。もはや、正しいロリコンかどうか、正しいペドフィリアかどうか、などということは問題にならないのである。これは阿部の論理的必然性の然らしめるものであるように思えてならない。
2007.11.30
コメント(0)
全379件 (379件中 1-50件目)
