日記はこれから書かれるところです。

日記はこれから書かれるところです。

2006.02.06
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第二章は全体として大変おもしろい。示唆深いことが鏤められている。この章は、熟読するに値しそうだ。もし、すべての章が、これだけ示唆深く続くのだとすると、この書物は、俺にとって一生の友となるように思われる。もしこの章だけなら一章の友だけど。


■第二章

社会の機能としての教育

【要約】


その成員の中のある一人の活動の営みに堅く結びつけられている仲間たちの活動全体から成る。それは、ある個人が何らかの連帯的活動に関与つまり参加する程度に応じて、その共同活動を駆り立てている目的を自分のものとし、その方法や対象を熟知するようになり、必要な技術を獲得し、その情緒的気風に浸るようになるのである。

子どもたちが、だんだんといろいろな集団に属して行き、それらの集団の活動を分担するようになるにつれて、意識的にそうしようとしないでも、いっそう深く根本的な教育的性向形成がなされるようになる。しかしながら、社会がいっそう複雑になるにつれて、未成熟者の能力の養成に特に気をつけるような特別の社会的環境を設置することの必要性が明らかになる。この特別な環境の比較的に重要な三つの機能を列挙すれば、それによって発達させることが望まれている性向の諸要素を単純化し、順序づけること、現存する社会的慣習を純化し、理想化すること、子どもたちを放任しておいたら、おそらくその影響を受けるであろうような環境よりも、いっそう広く、いっそうよく均衡のとれた環境を作り出すことである。



以前、俺も書いたが、ある観念の他者に伝達するには言葉だけでは行えず、具体的イメージが必要になる。言い方を変えれば、共有する<世界>があるから、言葉という記号で、自分の思っていることが相手に伝わる。これをデューイは「環境」と呼ぶ。

デューイの主張は、俗説に毒された人間たちにとって、解毒的で素敵なものである。

「訓練」と違い、「教育」は「環境」によって為されるので、「成人たちが未成熟者の受ける教育の種類を意識的に統制する唯一の方法は、未成熟者がその中で行動し、それゆえ、そこで考えたり、感じたりするところの、環境を統制することによる」と言うわけだ。そして、そこに学校の意義と注意点を見出すわけだ。

デューイは「環境からの無意識的な影響」(つまり「教育」効果)が最も顕著に現れる方面を次の3点(あるいは4点)指摘する。
1.言語の習慣
2.行儀作法
3.よい趣味と美的鑑賞眼
4.上3点を混ぜ合わせたものとしての価値基準

俺にとっては2が特に注目に値する。少し、デューイの説明を引こう。

周知のように、お手本は訓戒にまさる。よい行儀作法は、いわゆるよい育ちから生ずる。いやむしろ、よい育ちそのものである。そして、育ちは、知識を伝えることによってではなく、平素の刺激に対する反応としての、平素の行動によって獲得される。意識的な矯正や教授が際限なく行われているにもかかわらず、結局は、周囲の雰囲気や気風が行儀作法を形成する主要な力なのである。そして、行儀作法は小さな道徳にすぎない。しかも、大きな道徳においても、意識的な教授は、子どもの社会的環境を構成する人々の一般的な「平素の言行」と調和する程度においてだけその有効性を期待しうるにすぎないのである。

「道徳教育」の大切さを認めるに俺はやぶさかでないが、「道徳」の顔をしてない人間が「道徳」を語ることに対して腹が立っていた。デューイによれば、そもそも、そのような人間たちが意識的に「道徳」を教授しようとしても無駄だというわけで、まずはお前の行いを直してから言おうね。ってわけだ。

今の政治家が「道徳」を語るおかしさよ。

(「道徳教育」に関しては、高橋哲哉『教育と国家』がおもしろい。『靖国問題』よりも好著だと思われる。)

さて、レベルの低い奴らのことに紙幅とタンパク質を費やしても仕方が無いから、真面目に行こう。

明治における社会科学概念の翻訳において、「市民性」は「行儀良さ」と訳されたということを思えば、現代民主主義にはやはりこの「教育」が必要なのは間違いないようだ。
民主主義のエートスというものに俺がこだわる理由もここにあるわけだ。そして、エートスというのは、上の4のことなのだろうと思う。

エートスとは、語源的に「住み習わし」なわけで。

とにかく、「教育」というものを社会的機能として捉えるというのは、至極正当なことであると俺は思うわけだ。


さて、今し方、「道徳教育」を認めるにやぶさかでないと述べた。だが、この語は、伝統や文化なるものとどう関わるのであろうか。デューイはこう答える。

社会は、いっそう開化して行くにつれて、現存する業績の全体を伝達し保存することではなくて、よりよい未来の社会に寄与するようなものだけを伝達し保存する責任がある、ということを悟るのである。

また、「道徳教育」を国家と安易に結びつけたがる奴らもいるけれども、デューイが次のように指摘することの方が、われわれの経験にあっているように思える。

「社会〔ソサイエティ〕」とか「共同体〔コミュニティ〕」というような語は誤解をまねきやすい。というのは、それらの語は、その一語に対応して一つの単一の事物が存在すると思わせがちだからである。しかし実際には、一つの近代社会は、多少緩く結びつけられた多数の社会なのである。

ここが、全うなコミュニタリアンと、おかしな自称コミュニタリアン(あるいは国家主義者)を分かつところなのかもしれない。


■一章の纏め?

さて、ここは蛇足だが、二章の最初に、一章の纏めが書いてあるのだが、一章の【要約】よりも要旨を捉えている。

われわれがこれまでに明らかにしてきたのは、共同社会〔コミュニティ〕すなわち社会集団が、絶え間ない自己更新を通して自己を維持するということ、そして、この自己更新は、その集団の未成熟な成員が教育を通して成長することによって、行われるということであった。無意図的あるいは計画的なさまざまな作用によって、社会は、まだその仲間入りをさせられていない、外見的にはよそ者のようにみえる人間を、その社会自身の資産や理想の健全な担い手につくり変えるのである。それゆえ、教育は、はぐくみ fostering 、やしない nurturing 、つちかい cultivating の過程である。これらの語はみな、教育が成長の諸条件に対する配慮という意味を含むことを示している。

教育という概念に、養育を含ませているところがすごい。

今回はさらっと理解したつもりで通り過ごしたが、デューイにおける「訓練」と「教育」の違いについてもいつかしっかりと考察したいところだな。





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Last updated  2006.02.06 23:56:39
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