5年前に『人はなぜ怒るのか』というテーマで書きました。
http://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/200801240000/
その結論に、補足が必要であると解ったので、再考します。
あのとき僕は、「自分の思っているように事が運ばなかった時」に"怒る"と書いています。
でもそれは、"怒る"というより"ストレスを感じる"というほうが正しい状況です。
"イラッとする"とか"ムカッとする"とか"カチンと来る"は"怒る"の前段階で、人が怒るためにはもっと他の条件が加わります。
人が"怒る"にいたるは、心情的側面、信念が関わります。
つまり人は、「自分の"正義"に叛く事態に直面した時に、"怒る"」のです。
自分は正しい状態・行動・考えであるにも関わらず、相手がそれに反する態度を見せた時、自己の"正義感"が相手を非難する感情を呼び、それが"怒り"という反応になるのです。
自分が間違っているとわかっている場合は、相手の対応に怒りは感じません。
正しいか間違っているか考えもしなかったことにも、反応は起きません。
しかし、よく考えてみたら、自分のほうにも"理"があったと判明した時、突然怒りが沸きあがったりします。
そして、「 盗人 にも三分の理」と言うように、どんな場面にも多少の"理"は存在するので、相手が自分の意に染まぬ行動をした場合、多かれ少なかれ"怒り"の感情は生まれます。
前回の例で言えば、「前の車が、何の意思表示もないまま急停車した」時は、自分は正しく運転しているにもかかわらず、前の車が勝手に急停車して危険な状況を作ったのは、明らかに自分の"正義"に反する行動です。
だから"怒る"のです。
レジが遅くてイライラして腹がたつのは、店側はそれなりに人員をそろえたり、レジ係のスキルを磨くなどして、客を待たせないようにするべきだという、自分の"正義"に反する状況であるから"怒る"のです。
高校生が自転車で横に並んで通行を妨害したら、自転車は一列になって迷惑をかけるべきでないという"正義"が"怒り"を呼び起こすのです。
そして隣の国民が、自国の反日教育に染まった考えから発する"正義"に照らし、それに反することを日本がしたと感じた時、バカの一つ覚えのごとく"怒る"のです。
世界には、「国の数だけ正義がある」ということを考えたこともないような、国家に洗脳された国民が、ローカルな"正義"にとらわれて今日も怒っています。
もともと"怒り"の感情は、敵に遭遇した時に脳内に「アドレナリン」というホルモンが発生し、交感神経を興奮させ、緊急的に相手を攻撃したり、威嚇して防御したりする反応なのです。
動物なら自分に危害を加えるか、過去に攻撃を受けた経験がある場合のみに反応するものですが、人間は脳が発達しすぎたため、想像で敵を作ってしまいます。
その「敵か否か」の判断に使われるのが"正義"です。
「自分は正しいのに・・・」と思うから"怒り"が沸く。
しかし、「自分は正しいのに・・・」という思いは、実際のところ"エゴ"でしかないのです。
正義=エゴ・利己心
なのです。
この法則を見つけてから、僕は自分の中に"怒り"の感情が芽ばえると、「"正義"を振りかざす"エゴイスト"になってるぞ」と自分を戒めることにしています。
すると、恥ずかしくなって"怒り"は収まります。
「"正義"を振りかざす恥ずかしさ」というものを、世界中の人が認めれば、この世の争いはずいぶん減ると思うのですが。
そもそも"正義"なるものは、宇宙規模で見ればちっちゃいちっちゃい地球の、そのまたちっぽけな人間だけが信じる基準なのです。
今年の話題となったものに、TVドラマ『半沢直樹』があります。
「やられたらやりかえす。倍返しだ!」と、敵に対して復讐するのですが、基準となるのが個人的"正義"です。
基本は「水戸黄門」的「勧善懲悪」にのっとり、正義の銀行マンが、悪の上司をやっつける話といえます。
なんでこれがこんなに話題となり、視聴率の記録を立てるまでになったのか不思議でなりません。
世の中それほど"不正"に憤っているのでしょうか。
歴史的にも、世界的にも、現在の日本社会は、比較的"公正"が保たれているほうだと思うのですが(中国や韓国の裏状況を垣間見れば、日本に生まれてよかったと思います)。
もちろん僕も、すべてに納得しているわけではなく、原発行政を初めとする「政・財・官・報癒着」には眉をしかめていますし、冤罪を初めとする司法の未熟も不満です。
あくまで差別のひどい国と比べて、自由のなかった時代に比べてということですが。
しかし、半沢直樹に喝采を贈るのは単純すぎると思っていました。
時代劇なら、寓話ですからかまわないのですが。
同じ堺雅人主演のドラマ『リーガルハイ』は僕のお気に入りで、こちらは"正義"も"公正"も関係ない、どんな汚い手を使っても勝つことが至上目的という、主人公は半沢とは真逆の人物です。
発言がとても正直で、人間的であり、こちらの方がよっぽど好感が持てます。
上っ面だけの"正義"ほど危険なものはないからです。
"正義"を捨てれば"怒り"が消えるのなら、さっさと捨ててしまうほうがいい。
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老アルボッムレ・スマナサーラ( http://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/201008080000/ )の言葉を借りれば「怒りは猛毒」なのです。
健康を害し、人生を破壊します。
長老は「正しい怒り」は存在しないと言います。
《怒りを放っておくと、我々一人ひとりの命にかかわります。
怒りをコントロールしなければ、だれ一人として幸福になれないのです。
正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりません。
では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。
正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。》
《自分が正しいという考え方は、非合理的で、非真実で、嘘で、あり得ないことなのだ。
このあり得ないことを頭で徹底的に信じている自分ほど大バカ者は世の中にいない。》
《怒る人だけが不幸になるのであれば「勝手に不幸になればいい」、その人が死ぬだけであれば「勝手にしねばいい」と言えますが、そういうわけにはいきません。
怒る人々は、まわりのみんなに限りなく迷惑をかけています。
人間は幸福を味わいたくて必死なのに、そういう人々がみんなの幸福を一瞬にして奪ってしまうのです。
幸せの大泥棒です。》
そして世界では、"正義"にとらわれた"怒り"によって、今も社会が壊され、人が殺されています。
そうならないために"怒り"を納め、"正義"という観念から抜け出さなければなりません。
「のぞみはもうありません」 河合隼雄 2014年04月10日
やなせたかし 2013年10月25日
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