『秀吉と利休』

【秀吉は何故 利休に切腹を命じたのか…。】


千利休は天正19年(1591)2月28日に自刃70歳の生涯を終えました。
利休が生きた時代「安土・桃山時代」は大変自己主張が強く正論であった時代といえるでしょう
織田信長、豊臣秀吉、など最高権力者がいる、一方では高山右近や、大名でありながら、焼物をつくった
古田織部(織部焼はあまりにも名がよく知られていますね)など個性がないと成り立たないくらい
人間が人間らしく生きることの出来た時代でした。
この時代に生きた芸術家でもあった
茶道の大成者である「千利休」がなぜ?・・・・

天正10年の頃利休は戦国大名の頂点に君臨していた織田信長の茶頭として召し抱えられており貿易のためポルトガルからきた商人と、堺の豪商たちとともに鉄砲などの南蛮物資の会見場にもその姿をみせていました。
この年信長は明智光秀の反乱により、本能寺で自決します。
数年後、秀吉は信長の後継者となり、千 利休は秀吉の茶頭となりました。
茶の湯を通じて戦国の武将たちのこころを魅了した利休に「公儀のことは弟・秀長に、内々のことは利休に・・・」
と秀吉に云わしめるほどの関係となりました。
秀吉は武力だけではなく、利休の存在を利用して権勢を全国に拡大していきました。
相思相愛の関係を持ち続けた「利休」と「秀吉」
密月はそう長くはありませんでした。
二人の歯車は次第にかみ合わなくなっていったのです。
”ある数々の出来事”が二人の溝を深めていったのでした。

時の権力者”秀吉”の寵愛を受けた”利休”は茶の湯をもっとも深く、より完成度の高いものへと発展させていきました。
現存する、利休が構築した唯一の茶室「待庵」
すべての無駄をそぎ落とした、”わずか2畳の究極の茶室”は”わび”の極地といえます。
かたや関白となった秀吉の依頼によって金白を使って贅(ぜい)の限りを尽くした”黄金の茶室”をも作りました。
ここに壮大な芸術家「利休の世界」が開花します。
こうした利休の侘茶の思想のもとに長次郎の楽茶碗は造られ、利休は特に”黒の楽茶碗”に魅せられました。
しかし、秀吉は黒茶碗を嫌ったといいます。
2人の対照的ともいえる”美”への意識・・・
そのころ「石田三成」が頭角をあらわし、利休の存在を煩わしく思っていた、彼の元にある情報が届きます。
利休がふともらした「唐御陣(朝鮮出兵)が明智討ちのようにいけばでしょうが」の”一言”でした。

*老いの現れ始めた”秀吉最後の野望”にたいしての批判・・・

*大徳寺の山門におかれた「利休の木像」の件

*茶道具「売僧(まいす)高く売りつける」の件

秀吉が罪としたこれらの表向きの理由は、果たして・・・?
  利休に対する疑念がわく秀吉の心の中はいかなるものだったのか、ついに訪れた「利休と秀吉」の破局の時
権力者「秀吉」の命令により「利休切腹」
戦国の明日をも知れない武将達に”たましいの安らぎ”を茶の湯でもってあたえた利休は”謝罪の言葉”を期待したであろう秀吉に対して”死”を選びました。

利休は動じることなく、凛として権力に立ち向かったのです。             


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