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砂漠の果て(第6部「告白」)
第六部「告白」
―第20章―切り落とされた手首:サイダ 1959年11月
ムカールは、アルブラートの鞄を右手で持つと、狭く細長い階段をどんどん上がっていった。階段の両側には、フランス語の新聞記事や広告や映画のポスターなどがいっぱい貼ってあった。壁は薄汚れて、所々剥げ落ちていた。
2階に上がると、ムカールは踊り場のすぐ右手の部屋を開けた。窓際には木製の小さな机があり、中央に円形のテーブルがあった。壁際には古い真鍮のベッドが置かれてあった。縁取りにきれいな紋様が描かれた毛布は、ベッドの上でくしゃくしゃのままだった。
青年は、鞄を机の上に置いた。それから向かいの小部屋に行くと、白い清潔なタオルを持って来て、アルブラートに渡した。ムカールは自分でもタオルで顔や髪を拭きながら笑った。
「ひどい雨だったな。濡れたな、お互い」
アルブラートはびしょ濡れになっていたことを忘れていた。テーブルの椅子に座り、黙ってタオルで顔を拭いていると、青年はそばに寄り、アルブラートの濡れた髪を丁寧に拭いてやった。まだ昼だったが、外は雨で薄暗かった。
灯りのついた室内で、アルブラートは青年の顔をさっきよりもはっきりと見ることができた。青年は色白で、とても華やかな目鼻立ちをしていた。何よりも美しいのは、その黒曜石のような目だった。アルブラートには、その目が宝石のように輝いているように思われた。
こんなに母さんに似ている人がいるなんて―でも母さんよりもずっと威厳がある感じだ―この人の方が俺なんかより、ずっと「聖ヨハネ」に似ているんじゃないか......
「無口だな、アルブラートは。いつもそんなにおとなしいのか」
「いや......そういうわけじゃない」
「ああそうか。パレスチナの訛りでいったん追い出されたから、それを気にしているんだな。俺の前では自由に話していいんだ。お前をさっき放り出したヤツは、このホテルの支配人だ。あいつは人でなしだからな。いつも俺と喧嘩ばかりしている。それで俺はまったくのただ働きさ。でも金なんてなくたって、何とか生きていけるもんだな」
「あの......どうして俺がパレスチナ人なのに助けてくれたんだ?」
「言ったじゃないか。俺はパレスチナ人はちっとも構わないんだ。この街の奴らは皆パレスチナ人を嫌ったりしている。4年前にガザで難民ゲリラができてからだな。でも難民がみんなゲリラじゃない。俺は15の時、病院にいるパレスチナの人たちを世話したことがある。皆いい人ばかりだった。だからお前みたいに困っているパレスチナ人は、俺は放っておけないんだ」
ムカールが、このホテルの支配人と喧嘩が絶えないことを知って、アルブラートはこのホテルで演奏をして働いても、給料がもらえないのではないかと思った。
「あんたはさっきここで演奏をしていいと言ったけれど......支配人が俺を嫌っているじゃないか―とても無理だよ」
青年はそれを聞くと、笑いながら大丈夫だと言った。
「いいんだ。あの支配人は4年前このホテルに来たばかりなんだ。俺はこのホテルで9歳の時から働いているし、前の主人の息子代わりだったんだ。まあ支配人と料理人とじゃ格はまったく違うが、俺の方がここではアイツより経験が長いんだ。だからアルブラートのことは、俺が話をつけたから何の心配もいらない。ここは演奏するホールがあるのに、長い間楽師がいなかったんだ。お前が午前と午後に、合計6時間演奏したら、1日25ピアストル支払うように、俺が話をつけたんだ」
ムカールは昼食を下から運んでくると、部屋で一緒に食べようと言った。彼は左手を使わずに、慣れた手つきで食事を階下から運んできた。青年は陽気な性格で、おしゃべりな性質だった。ずっと料理人をしてきたというだけあって、彼の作る食事は最高においしかった。
アルブラートが食事をしていると、ムカールは微笑んで少年を見つめていた。アルブラートは、青年が自分の母によく似ていることに驚いていたが、それ以上に、彼の優しさや明るさにだんだん魅かれていった。
「アルブラートか......いい名前だな。でも『アルラート』って呼んでもいいだろう?」
アルブラートが別に構わないと言うと、彼はその方が呼びやすいからだと笑った。
「アルラートはまだ若いんだな。今いくつだい?」
「17歳。でももうすぐ18歳―1月生まれだから」
「俺は24歳だよ。7年も違うんだな。弟ができたみたいだな」
アルブラートは彼が自分にこんなにまで好意を持ってくれることが嬉しかった。キャンプでタウフィークの学校に通っていた頃は、友だちが数人いたが、3年前イスラエル軍がキャンプを狙い始めた時期から、自由に遊べなくなった。その友人たちも病死したり、占領後は行方が分からなくなった。
親しい同性の友人を久しく持たなかったアルブラートは、ムカールが友だちのようにも、兄のようにも思えた。思わず笑みがこぼれると、ムカールも微笑んで、彼を惚れ惚れとしたように眺めた。
「やっと笑ったな。アルラートは笑顔が似合ってるよ。いつまでもここにいてくれたらいいんだけどな。ずっとここにいてくれるかい?」
「うん―もちろんだよ。ずっとここにいて、働かせてもらえるのなら、ずっといるよ。それで―あの―働きながら、勉強ができるかな」
「勉強?何の勉強するんだい?」
「俺は本当は、ここに来たのは音楽院に入るためなんだ―しばらくシリアの病院にいたんだけれど、そこでベイルート音楽院の話を聞いて、それでレバノンにやって来たんだ......でもベイルートの手前で線路が爆破されて......それで、サイダに来たんだ。サイダの音楽院に入りたいんだ」
「ああ、あの音楽院か。そうか―学校に入るにも金がいるんだもんな。大丈夫だよ。働きながら勉強する人なんて、たくさんいるよ。お前が入学できたら、勉強もできるように、演奏の時間も調節してやるよ」
ムカールは、昼食が終わると3時まで休憩時間だから、その間に一度サイダ音楽院を見に行こうと言った。彼はその前に、鍵番のヨシュアを紹介してやると言って、アルブラートを地下に連れて行った。
「ヨシュアはユダヤ人だけど、いい人だ。ユダヤ人にもいい人はいっぱいいるから、心配するな。俺の爺さん代わりの人なんだ」
アルブラートはユダヤ人に会うのは嫌だと思ったが、その老人はムカールの言った通りの穏やかな優しい人だった。青年が地下1階の小部屋を開けると、何か本を読んでいたヨシュアは、にこにこしながら、少年を迎えた。ヨシュアの青い目は、温かな表情を浮かべていた。
「また弟ができたのかい、ムカール?えらく立派な可愛い子じゃないか」 「そうだよ。明日からうちの楽師さんだよ。おまけに勉強が好きな子なんだ。これから音楽院を見せに行こうと思ってさ」
ヨシュアは微笑んで、アルブラートと握手をし、少年の手をポンポンと優しく叩いた。その手は皺が深く刻まれていたが、温かかった。
「お前さんは勉強が好きかい。いいことだ。このムカールは学校嫌いでな。頭はいいんだが、わしの話なんぞ聞こうともしないんだ」
ムカールは裏口から表通りに出ると、ホテルの看板を指差した。雨が上がっていたため、文字がさっきよりもよく見えた。青い看板には白いペンキで「ロテル・ラ・マルヴェーラ」と書かれてあった。彼は右手にはめてある腕時計を見た。
「もう1時半か。タクシーじゃなくて馬車にするか。安くつくからな」
彼はアルブラートを先に馬車に乗せた。よく見ると、青年は白い長袖のシャツを右腕だけ捲り上げていた。彼は黒のサスペンダー付のズボンの上に、白く長い料理用のエプロンをつけていた。また紺色の靴下に、古びた茶色の靴を履いていたが、その靴も所々擦り切れていた。
馬車は15分ほど街の中を走った。アルブラートは、左右に建ち並ぶホテルや銀行や商店やアパートなどが珍しく、夢中で見回していた。そんな彼を見て、ムカールは笑った。
「アルラート、都会がそんなに珍しいのか。今までキャンプと病院だったんだもんな。いつか海も見せてやるよ」
「海?海なんて見たことないよ......湖ぐらいしか。何の海?」
「そりゃ地中海に決まっているじゃないか」
アルブラートは、そう言えばベイルートも海沿いにあったことを思い出した。彼は想像の中でしか、海を知らなかった。彼はムカールといると、新鮮で自由な幸福感で満たされた。
彼は農園で、ハダナに母の死を打ち明けた後、母がもうこの世にいないことを自ら認めることができるようになっていた。だが、母の死因に関しては、再び心の奥底に封印してしまい、決して考えまいとしていた。ムカールが自分の母によく似ていることも、彼には苦痛ではなかった。むしろ青年の伸び伸びとした陽気な性格に魅力を感じた。
馬車は、間もなくサイダ音楽院の前で止まった。ムカールはヨシュアからもらった5ピアストルを払った。アルブラートは音楽院の荘厳な外観に圧倒された。ムカールは、これはパリのノートルダムを真似たゴシック様式だと説明した。アルブラートは「ゴシック様式」と言われても分からなかった。
「ヨーロッパ中世の建物のデザインだよ。ヨシュアが持っている本で知ったんだ。何か学校に訊きたいことがあればお前が行けよ。俺はこんな格好だから」
アルブラートは自分の訛りで、学校からも断れるのではとためらった。ちょっと考えた後、フランス語で尋ねてみようと思った。彼は開いている門から、広い構内に入って行った。門のすぐ右手に案内所があったので、思い切って入学したいことを告げた。案内係は、左手の建物の1階に行くよう教えた。
彼は急いでその建物に走ると、中に入った。ドアの右側に「入学課」と書かれた部屋があった。アルブラートはノックをすると、静かに部屋に入った。部屋の中には大きな書棚が並んであり、いろんな本や書類でいっぱいだった。10人ほどの人が忙しそうにタイプを叩いたり、電話で話していた。彼はドキドキしながら、近づいてきた女性に尋ねてみた。
「あの......ここに入学するにはどうしたらいいんですか」
「入学は来年の秋です。その前に入学試験が夏に実施されます。試験を受ける前に、入学願書を受け取りに来て下さい。願書の締め切りは6月末です」
彼は、大学に入学するのにいくらかかるのかと尋ねた。その女性は、ほぼ8000ピアストルはかかると答えた。彼は、ハダナから1万ピアストル受け取っていて助かったと思った。
彼が音楽院の門に走って戻ると、ムカールが何か分かったかと聞いた。アルブラートが入学試験のことや入学金のことを話すと、彼は驚いた。
「えらい大金だな。学校って所はそんなに金を取るのか」
アルブラートは、ここに来る前にザハレの農園でフランス語を教えた謝礼に、1万ピアストルを受け取ったことを話した。ムカールはびっくりしていたが、それは入学のために大事に取っておけばいいと笑った。
「アルラートは優秀なんだな。フランス語もうまいじゃないか。フランス語はどうして覚えたんだい?」
「シリアの病院にいる時に......去年の12月から今年の7月まで、フランス人の先生に来てもらって教わったんだ」
「ふーん、病院か。じゃあまだ退院して日が浅いな。何の病気で?」
彼は肺炎と熱病だと言ったが、なぜ病気になったかは言いたくなかった。ムカールも別にそれ以上訊かなかった。もう午後の2時半だった。青年は通りかかった辻馬車を呼び止めると、急いで少年と乗り込んだ。ホテルに着いたのは、3時少し前だった。
ムカールはホテルの裏口に走って行った。二人が中に入ると、支配人が鞭を持って目の前に立っていた。ムカールは慌てて少年の前に立ちはだかった。
「今何時だと思ってるんだ?お前の仕事は3時からだ。相変わらず時間を守らない奴だな。いつも遊んでばかりいやがって―しかもこんな得体の知れない奴を勝手に雇いやがって」
「まだ3時になっていないじゃないか。俺はいつも時間を守っている。この子は楽師なんだ。音楽院を見せに行っていただけだ」
「お前って奴はまったく口が減らない奴だな―おい、左手を出せ」
ムカールは平気な顔をして、左腕のシャツを捲り上げて、支配人に差し出した。支配人は彼の手首を目掛けて鞭を振り下ろした。ムカールは声も立てずに、歯を食い縛ったまま、打たれた手首を右手で押さえた。
「仕事に取りかかるのは15分前ってのが普通なんだ。また俺に逆らってみろ―もっと痛い目にあわせてやる。この無国籍の犬め!」
支配人は捨て台詞を吐いて、ロビーに行ってしまった。アルブラートは支配人のムカールへの仕打ちに驚いた。慌てて青年の左手を見ると、打たれた所から腕にかけて青く腫れていた。だがその左手は冷たく、白く、硬かった―アルブラートは、青年の左手が義手であることに初めて気がついた。ムカールは真っ青な顔で、必死で痛みをこらえていた。
「いいんだ......いつものことだから......それよりヨシュアに......
いつもの薬を.....ここに持って来るように言ってくれないか」
アルブラートは急いで地下に降りて、ヨシュアに今のことを伝えると、老人は途端に心配そうに顔をしかめた。だが慣れた様子で、水と薬を手にすると、青年の所に歩いていった。ムカールはその場に座り込んで、辛そうに手首を押さえていた。ヨシュアは彼に薬を飲ませると、溜息をついた。
「またかね......あのザイードは残酷な男だ。もう薬を病院からもらうにしても、半年分ほどのお金しかない。お前の手術はもう無理なんだよ、ムカール。これ以上鞭で打たれたら......壊疽がまた起こる。お前にもしものことがあったら、前のご主人に申し訳がたたんよ。頼むから、ザイードの前ではおとなしくしておくれ」
ムカールは10分ほどすると、もう大丈夫だと言って、調理場へと走って行った。ヨシュアはアルブラートを自分の部屋に呼ぶと、こう言った。
「ムカールは前のご主人のモハメダウィが拾って来た子でな。わしがまだ50の頃だ―モハメダウィの旦那とトルコに仕事に行った帰りだった......マラシュの街で倒れていたあの子を見つけたんだ。あの子はまだ9つぐらいだったな......左手が誰かに切り落とされていたんだ......旦那はあの子をベイルートの病院に運んで、手術を受けさせた。それからあの子はずっと義手をつけてきた......孤児院にいたらしいんでな、名前もなかった。あんまり可愛かったんで、旦那が息子代わりにして、名前をつけたんだ」
―第21章―秘密の扉:サイダ 1960年3月
アルブラートはその話を黙って聞いていた。彼は、収容所から救出された後に出会った人々のことを思い浮かべた。色々な人がいたが、ほとんどはイスラエル軍に家族を奪われた人々だった。
デュラック先生はシリアで息子のアンリを失って......ライラはこのサイダで両親を失って......でも先生もハダナも裕福な人たちだった......でもムカールは違うんだな......親の顔も知らず、名前もなかったのか......
彼は、自分の17年間を考えてみた。幼い頃はベツレヘムのアパートに両親と住んでいたことや、父のバシールがベツレヘムの音楽院を卒業したことを母から聞いた。
それからは難民として生きてきたが、キャンプではいつも母がそばにいて、アイシャやタウフィークもいた。貧しく辛い思いをして来たが、ガリラヤ湖の病院でも、ザハレの農園でも、優しく親切な人々に大切にしてもらった。それに比べると、ムカールの現在の境遇は自分以上に辛いのではないかと感じた。
アルブラートがじっと考え込んでいる様子を、ヨシュアは見つめていた。
「今の話に驚いたかね。お前さんがあの子の義手に驚いただろうと思って話しただけだ。わしが話したことは内緒にしていておくれよ。あの子に怒られるからな」
彼は黙って、ヨシュアを見た。老人は微笑んで彼に言った。
「アルブラートだったかな、お前さんは。生まれはどこだね」
「あの......ベツレヘムです」
「そうか、ベツレヘムか。わしもそうだよ。わしの母親はシリア人でな―だから完全なユダヤ人じゃないんだ。お前さんと話すとベツレヘムを思い出すよ。お父さんやお母さんはどうしたんだね」
彼が両親はもう亡くなったと言うと、ヨシュアは、ああそうかとうなずいた。老人は、狭い部屋の隅に置かれた小机から本を1冊取り出して、アルブラートに渡した。机の上にはいろんな本が何冊も積まれていた。
「お前さんは勉強が好きなんだろう。よかったらこの本をあげるよ。ムカールはこの本が嫌いでな......自分の好きな本なら読みたがるんだが、あの子は気まぐれでな。だが賢い子なんだ。ムカールは『無国籍』だとののしられて、内心辛いんだ―だからお前さんと仲良くしたいんだろうな」
アルブラートは階段を上がり、2階のムカールの部屋に戻った。ムカールの机は木製だが、艶のあるきれいなものだった。彼は農園のベッドを思い出した。老人の言った通り、青年は本が好きらしく、机の上にフランス語の雑誌や歴史の本などが乱雑に積み重なっていた。
彼はそれらの本を整頓し、机の上にきちんと並べ直した。机の埃を払うと、椅子に座って、ヨシュアから渡された本を読み出した。それは英語で書かれた聖書だった。アルブラートは聖書を珍しく思い、適当にページをめくってみた。すると、こんな文章が目に入った。
―アブラハムは妻サライと共にハランに着いた。父テラはハランで死んだ。その時、アブラハムに神の声がのぞみ、こう言われた。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記)*―
彼はこの文章を読むと、自分の辿って来た17年間の人生が言い表されているように思えた。さらに読み進むと、アブラハムの苦難に満ちた放浪の物語が記されてあった。
「わたしが示す地」......神の示す地......
それはどこにあるんだろう......アブラハムは神に祝福されたのに、どこでも寄留者扱いをされて当てのない旅を続ける......まるで俺みたいだ......
結局は落ち着く「土地」がないために―「国」がないために......
彼はムカールが聖書を嫌うわけが分かる気がした。孤児で無国籍なのはムカールも同じなのだと思った。それでも青年が、なぜあんなに陽気に振舞えるのか不思議だった。
アルブラートは聖書を閉じると、机の上に置いたままだった鞄の中に入れた。その時、その本から紙切れが滑り落ちた。拾ってみると、それは古い新聞記事のスクラップだった。そのスクラップの端に、誰かがペンで書きつけてあった。
汝 さ迷いたまうな おおゲオルギオスよ 輝けるギリシャの王よ 汝の息子はここにいる
新聞記事は英語で、「ナチス侵攻 ゲオルギオス2世英国へ亡命」という見出しだった。日付は1941年4月23日だった。アルブラートは、12歳の秋にアルジュブラ難民キャンプで、母からナチス・ドイツの話を聞いたことを思い出した。彼は漠然と、ナチスがギリシャにも攻め込んだのかと思い、そのスクラップを聖書の中に挟み込んだ。
彼は机の脇に置いていたウードとカーヌーンの包みを解くと、弦を調律した。今朝歩道に転んだり、雨に濡れたりしたが、楽器の調子は狂っていなかった。彼は鞄から清潔な布を取り出すと、楽器を丁寧に磨いた。少し弾いてみようと思ったが、あの支配人に聞こえたらムカールに迷惑がかかるのではないかと考え、部屋で弾くのは止めた。元通りに布をかけると、彼はムカールのベッドに寝転んだ。
ムカール・アル・モハメダウィ......9歳までムカールは名前がなかったのか......トルコにいたんならトルコ人かも知れないな......義手で料理を作るだなんて大変だろうな......それに壊疽が起こるとかヨシュアは言ってたっけ......確か病院でもそういう人がいたな......あれはひどくなると、手や足を切断しなけりゃならないんだ......もう手術もできないし、薬も足りないって言ってたな......お金がないからか......ムカールはこれからどうなるんだろう......
「おい、起きろよ。アルラート、夕食持って来たぞ」
アルブラートは青年の声で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたことに気がついた。目をこすると、エプロン姿のムカールがベッドの前に立っていた。ムカールは左手首に包帯を巻いていた。夕食はテーブルの上に運ばれてあった。
「お前こんな格好で寝ると風邪引くぞ。もう夜の8時半だ。腹減っただろう。俺は調理場でもう食ったからいいんだ」
アルブラートは食卓につき、食事を始めたが、彼の包帯が気になった。ムカールは向かいに座ると、しばらく黙って、少年を見ていた。青年は今度はあまり微笑んだりはしなかった。
アルブラートは食事の手を止めて、彼をじっと見つめた。ムカールの顔色はまだ少し青白かった。その黒曜石のような黒い瞳には、翳ったような表情が浮かんでいた。だがアルブラートは、その深刻そうな雰囲気で、彼の鋭利な美しさがより際立つように感じた。
「お前は俺の顔ばっかりよく見るな。何か俺の顔についているのか」
「いや......何でもない。それより今日はごめんよ。音楽院に連れて行ってもらったせいで......手がまだ痛むんだろう?」
「気にするなよ。俺は同情されるのは大嫌いだ。ヨシュアがお前に何か話したんだろう―怒らないから、隠さないで言えよ」
彼は困ったように黙っていたが、正直に老人から聞いた話をそのまま話した。ムカールはヨシュアのことを、年寄りだから昔の話をしたがるなどと言った。それより夕食が冷めると言って、少し笑って見せた。アルブラートは彼が笑顔を見せたので、安心した。ムカールは今夜は向かいの小部屋で休むと言って、食事の済んだ食器を階下に運んで行った。
向かいの小部屋はドアが開け放してあった。アルブラートが覗いて見ると、そこはベッドのそばの籠の中に、たたんだタオルやシーツを積み重ねただけの部屋だった。彼はそのベッドに腰を降ろすと、自分がムカールの部屋で休むのが申し訳ないと思った。ムカールは戻ってきて、少年が小部屋にいるのを見て、もう寝ろと言った。
「俺はまだ調理場で後片付けがあるんだ。朝は5時半に起きて6時から仕事なんだ。アルラートは9時から1階のホールで12時まで演奏の仕事だ。7時に起こしてやるから。けっこうきれいなホールなんだ。お前も気に入るよ」
「ムカール。あの......子供の頃を何か覚えている?」
「子供の頃?ああ......何か少しは覚えているよ」
「どんなことを?」
「そうだな―昔は確かトルコの孤児院にいたな。その前はどこかお城みたいな所にいたような気がするな。俺は案外王子様かも知れないな―まあこれは冗談だけどな」
(*)山形孝夫著『聖書の起源』より
アルブラートが「ロテル・ラ・マルヴェーラ」に来てから4ヶ月経った。1960年の3月になった。彼はもう18歳だった。金曜日の休日以外は、毎日朝の9時から12時まで1階のサロンで演奏をした。午前中はウードを弾いた。昼食をとった後、4時から7時まではカーヌーンの演奏だった。日給の25ピアストルは、いつもムカールが夕食後に直接彼に渡してくれた。
ホールは古い建物を改装した立派なものだった。舞台の床や壁は、艶のある木で造られていた。ムカールは「レバノン杉」で出来ていると教えた。舞台の両袖には古代ローマ風の彫刻がほどこされた大理石の柱が立っていた。その柱を、ビロード製の真紅のカーテンが飾っていた。サロンには30人ほどの宿泊客が座れるように、やはり木製のテーブルに、金縁に赤いビロードでできた貴族風の椅子が用意されてあった。
演奏を始めたばかりの頃は、お客はほんの数名だったが、アルブラートの演奏が評判になると、たちまちサロンの客席は全部埋まってしまった。ムカールは時々サロンにお客の注文を取りに来たり、食事を運んで来たりしていた。彼は、アルブラートの演奏をゆっくり聴けないのを残念がった。
「アルラートの腕前は一流だな。音楽院なんか一発で合格するよ。アルラートのおかげで客の質が良くなったよ。前は怪しげな奴でも泊めていたんだ。そのうちこのホテルの格も上がるかもな」
ムカールは嬉しそうに言っていた。アルブラートは、自分の食事を地下の調理場から2階に運んでくるムカールに気を遣い、彼と調理場で食事をとるようになっていた。それ以上に、ムカールと少しでも一緒にいたかったためでもあった。青年は、左手首に包帯をしていない日もあった。だが、日を追うごとに、包帯をしている日が増え、今では毎日包帯をしていた。
アルブラートに給金を手渡す時は、いつも彼は疲れた顔をしていた。少年が具合を尋ねると、かえって怒ったような口調になり、同情するなと言うだけだった。アルブラートはある日、心配になって、ヨシュアに相談した。
「あの子は今じゃ毎日、ザイードに鞭で手首を打たれとるんだ。わしがあの支配人には絶対逆らうなと言ったんだ―去年の10月の終わりに、もう泣いて頼んだんだ......それからムカールはザイードには一切逆らわなくなったんだ。それなのに、あの男は、あの子のおとなしくなった態度が気に食わんと言って―よけいに鞭をふるうようになったんだ」
ヨシュアはそう言いながら、涙声になった。アルブラートは、自分が支配人の意に反して雇われたせいではないかと心配でたまらなくなった。
「病院に行ったら......病院に行くこともできないんですか」
「病院ならこの間、休憩時間にわしがザイードに内緒で連れて行ったよ。そうしたら、また壊疽になりかかっていると言われた......もう放っておいたら、壊疽がどんどん進行すると医者が言うんだ......」
「手術も本当にもうだめなんですか―義手を取り替えることも......?」
「もうそんなお金はないんだよ。わしは前の旦那が亡くなる前に、遺言として100万ピアストル預かってな......あの子が17の時に3回目の手術を受けさせた。今の義手はその時のままだ。それから、あの子が壊疽になりかかる度に、まだ残っていた10万ピアストルでわしは病院に行ってな、抗生剤を買って飲ませていたんだ。でも抗生剤は1週間分で5000ピアストルもかかるんでな......とうとうこの間、診察代と薬代で、すっかり無一文だ」
アルブラートは、ムカールが自分に毎日渡す25ピアストルは、どうやって工面しているのかと老人に尋ねた。ヨシュアは言うのが辛そうに、しばらく黙っていたが、口ごもりながら説明した。
「それは......お前さんには言いたくなかったが......あの給金はな、支配人がムカールに直接手渡すんだ......だがあの子は給金を受け取る時に、必ずザイードの鞭で手首を打たれとるんだ―あの男はな、ムカールに、お前さんを雇った代償をこれで払えだなどと、勝手な理屈を押しつけるんだよ」
このヨシュアの言葉にアルブラートは衝撃を受けた。もうこのホテルに留まっていてはいけないと思った。だが、自分が関係する以前から、支配人に虐待されているムカールを見捨てることはできなかった。
彼は、午後4時から始めなければいけない演奏の前に、ムカールの部屋に戻った。青年は3時からずっと調理場にいるため、この間の1時間だけは、自分ひとりで過ごす時間だった。
彼は、鞄の底に大事にしまっておいた財布を取り出した。中には農園で受け取った1万ピアストルが入っていた。アルブラートは机の椅子に腰掛けると、そのお金をじっと見つめながら、考え込んだ。音楽院入学への強い憧れが何度も何度も込み上げて来た。
彼は拳を握り締め、目をつぶって、尚も椅子に座っていたが、やおら立ち上がると、その財布を掴んだ。彼は階段を駆け降りると、ヨシュアの部屋のドアをいきなり開けた。老人は、彼が思いつめた表情でいるのに驚いた様子だった。
「どうしたね―もうすぐ演奏の時間じゃないのかね」
「このお金を―このお金を全部、ムカールの薬代に使って下さい......!全部で1万ピアストルあります......!」
ヨシュアはびっくりして、少年をまじまじと見つめた。
「1万ピアストルも......お前さん、このお金はどうしたんだね」
「ここに来る前、ザハレの農園でフランス語を教えた謝礼なんです―僕が音楽院に入学できるようにと―でも、ムカールが少しでも助かるのなら、もう構わないんです......!どうか受け取って下さい......!」
老人はアルブラートの善意に深く感じ入った。彼は少年から財布を受け取ると、アルブラートの手をしっかり握り締め、その細い肩を静かに抱き寄せた。ヨシュアの体の温もりに、彼は思わず老人を抱きしめた。
「アルブラート......お前さんはなんて優しい子なんだろう―わしはお前さんと初めて会った時、すぐに分かったよ......立派で気高い心の子だと......神がお遣わしなった天使だと......」
ヨシュアはこのお金は、ムカールに内緒にしてあげようと言ってくれた。
「ムカールは陽気だが、子供の時から気位が高くてな―まるで貴族のような威厳と誇りがあるんだ......だから心の捻じ曲がったザイードは、それを妬むのかも知れんな」
―第22章―海の城
アルブラートの演奏への評判は、ますます上がっていった。サロンの客の中にも、彼にチップをはずむ者が多くなった。多い時は、1日の演奏で100 ピアストルも受け取ることがあった。彼はそのチップはムカールに内緒で貯めていた。彼は音楽院に入ることは、もういつでも良いと考えていた。それよりも、働いたお金でムカールの薬を少しでも多く買えるようにしたいと思っていた。
彼がヨシュアに1万ピアストルを差し出してから、1週間後のことだった。アルブラートはいつものように、調理場で、ムカールと夕食を済ませた。青年は朝はほがらかだが、夕食の時は口数が少なかった。彼が黙って調理場を出て行こうとするのを見て、アルブラートは後について行った。
「なんだ、アルラート。お前はこっちに来るな。部屋に戻ってな」 「いや、今日はそんなわけに行かない。俺も支配人に話があるんだ」 「馬鹿だな、お前は。お前が支配人と話をする必要なんてないよ」
ムカールは疲れた口調でこう言ったが、アルブラートがついて来るのをそれ以上止めなかった。支配人の部屋に二人が入ると、ザイードは少年が来たのに意外そうな顔をしたが、すぐに無視して、ムカールを睨みつけた。
「ふん、またこいつの給金か。そらよ、受け取っとけ」
ザイードはテーブルの上に25ピアストル銅貨を放り投げた。床に転がった銅貨を青年が拾い、エプロンのポケットに入れると、支配人は鞭を取り出し、彼の側に近寄った。ムカールは緊張した表情で、後ずさりした。
ザイードが鞭を振り上げようとした瞬間、アルブラートは支配人を突き飛ばした。支配人はその勢いで尻餅をついた。アルブラートは床に放り出された鞭を素早く掴むと、いっぺんで圧し折った。そしてその鞭を床に叩き付けると、足で何度も踏みつけ、粉々にしてしまった。
ムカールも支配人もあっけに取られていた。ほんの数秒の出来事だった。ザイードは立ち上がると、少年の腕を掴んだが、アルブラートは男の手を片方の手で力いっぱい殴りつけると、腕を振りほどいた。
「畜生―このゲリラのガキめ......!今にその腕を叩き潰してやる!」
支配人が呻きながら脅すと、アルブラートは大声で怒鳴った。
「馬鹿野郎!なんでムカールを鞭で打つんだ!お前は人間のクズだ!」
彼は床に散らばる鞭のかけらを忌々しげに蹴り上げると、ムカールの右手を掴み、部屋の外に走り出て、ドアを乱暴に閉めた。ムカールが、もういいから手を離せと言うと、彼は一瞬、青年を見上げたが、すぐに調理場へと走って行ってしまった。ムカールは、いつもは穏やかで物静かなアルブラートが、こんなに憤ったのを初めて見た。
ムカールが調理場に戻ると、少年はテーブルに突っ伏して、拳を振り上げながら何回もテーブルを激しく叩いていた。
「......畜生!畜生!......あのけだものめ!鬼め!悪魔め......!」
「アルラート!この馬鹿―おい、止めろ」
ムカールが彼の手を慌てて掴むと、アルブラートは涙と汗で濡れた顔を上げた。彼の髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。ムカールが手を離すと、彼は息を切らしながら手を下ろし、青年から目を反らした。ムカールは彼の頭に手をやった。アルブラートは黙りこくっていた。
「馬鹿だな、お前は―テーブルを叩いたりして―演奏ができなくなるぞ。もっと手を大事にしろよ」
ムカールは少年の側に腰掛けると、しばらく黙っていた。
「さっきは―助かったよ。でも驚いたな......お前は怒るとものすごいんだな......まったく別人みたいになるんだな。でも俺を助けようと思ってやったことだよな......本当にありがたかったよ」
「俺は本当はああなんだ......あんたが思っているような人間じゃない。自分でも―自分でも......何をしでかすか分からなくなるんだ」
「お前、自分を責めてるのか―お前はちっとも悪くないよ。でもお前の言ってる意味がよく分からないな......何か以前にもあんなに怒ったことでもあるのか。俺に何か秘密にしていることでもあるのか」
アルブラートは、「秘密」という言葉を聞いてギクッとした。
秘密......そうだ.....「あのこと」は誰にも秘密なんだ......でももしかしたら、俺は......ムカールにいつかは言ってしまうかも知れない......
「さっきお前は俺を助けてくれた―心から感謝するよ。お前に秘密なんてないよな......助けてくれたお礼に、俺の秘密を話そうか。俺のこの手首の秘密を」
ムカールは立ち上がって、調理場に置いてあったグラスにウィスキーを注いだ。彼はそれを少年の側に置くと、一口飲んだ。
「手首が痛いとウィスキーがいるんだ。酒を飲むと痛みを忘れるからな。医者には薬が効かなくなるから止めろと言われているんだ......でもほんの少しの薬に高い金を払わせといて、医者って奴も勝手だよな。だから酒を飲むのも俺の勝手なんだ」
彼は、アルブラートに左手の包帯を解いて、袖をめくって見せた。義手から上は、皮膚が肘のあたりまでどす黒く変色していた。アルブラートは彼の壊疽が、こんなにひどくなっているのを見て、気が遠くなりそうだった。ムカールは袖を元通りにすると、またウィスキーを喉に流し込んだ。
「俺は子供の時―物心ついた時には、トルコの修道院にいた。修道院は孤児院でもあったんだ。そこの院長は、俺を嫌って、しょっちゅう殴ってばかりいた。なんでそんな目に遭うのか、俺にはちっとも分からなかったけれど......院長は、俺のおふくろがアルメニア人だとののしっていた。あんまり虐待されるから、俺は孤児院を逃げ出そうと思って......確か9歳の時に、院長の部屋に忍び込んで、10クルシュ盗み出したんだ―それを見つかってしまって......それで院長に、斧で左手首を切断されたんだ」
アルメニア人と聞いて、アルブラートは母の話を思い出した。母にはアルメニア人とジプシーの血が流れていた。だから青年と母は似ているのかも知れないと思った。ムカールはウィスキーで痛みが楽になったらしく、落ち着いた様子で話を続けた。
「俺はその後、地下室に一晩閉じ込められて......その後のことは覚えてない。きっと気絶したんだろう―気がついたら、ラタキア* の病院にいた。モハメダウィが俺を拾ってくれたんだ......アルラート、『ホロコースト』というのを聞いたことがあるか」
「......『ホロコースト』?いや―知らない」
「前の大戦中にナチス・ドイツが大勢のユダヤ人やアラブ人を捕まえて、ポーランドの強制収容所に放り込んで、何百万人も虐殺した事件のことだ。でもユダヤ人のホロコーストだけが、史上最初の民族大虐殺じゃない......今から50年ほど前にオスマン・トルコがアルメニア人を大量虐殺した。俺はおふくろがアルメニア人だと聞いて―ヨシュアから本をもらって、歴史を調べたんだ」
* ラタキア:シリア最北部の都市。
アルブラートは、12歳の秋に、母がナチスの話をしたことを再び思い出した。母にそっくりなムカールから、偶然にもナチスのことを聞くと、まるで6年前に戻ったような気がした。
「俺は本当は、自分の年がはっきりしないんだ。でも孤児院から放り出されたのは確か9歳だったから―きっと1935年生まれだ。トルコではアルメニア人を虐殺した過去があるから、それで多分......おふくろは殺されたのかも知れないな......親父はどこの人間だったのかも分からない。でもトルコ人じゃないことを、俺は願っているんだ」
「その......『ホロコースト』という言葉は知らなかったけれど......
ナチス・ドイツがユダヤ人やアラブ人やジプシーを迫害した話は―12歳の時―母さんから聞いたよ......俺のお祖父さんは、アルメニア人とジプシーの混血だったんだ......」
「じゃあ、アルラートも俺と同じだな。アルメニア人の血が流れているんだな......すごい偶然だな。お前の母さんはどうしてるんだい?」 「......母さんは......母さんは......2年前死んだよ」
「ああ......そうか......聞いたりして悪かったよ―俺も馬鹿だな」
ムカールは腕時計を見た。もう夜の9時半だった。彼が調理場の片付けに取りかかろうとすると、アルブラートが皿洗いを手伝うと言い出した。青年が、手が荒れるから演奏に差し障ると断ったが、彼は譲らなかった。
「これくらい平気なんだ。ずっとキャンプで育ったんだから―それでずっとウードを弾いてきたんだから。それよりムカールが少しでも疲れない方がいいんだ。これは同情なんかじゃない―俺はムカールが大事なんだ。今俺に一番大事なのはムカールなんだ」
青年はこれを聞いて微笑んだ。ムカールは少年の髪を撫ぜると、黙ってアルブラートをじっと見つめた。ムカールの目は本当に黒曜石のように美しかった。その目は宝石のような微妙な輝きをはなっていた。ヨシュアの言った通りに、彼にはまるで貴族のような気品と威厳が備わっていた。
「お前は頑固で負けず嫌いだな―お前には負けたよ。アルラートは本当に優しいんだな......俺はお前といると何だか幸せな気分になるよ......
こんな気持ちは生まれて初めてだな」
アルブラートが皿洗いをし、食器を磨いて、調理鍋などを片付けるのに30分もかからなかった。ムカールはその間、椅子に座ってその様子を眺めていた。彼は少年の仕事の速さに驚いて、自分はいつも1時間はかかると笑った。二人は地下から2階の部屋に戻った。ムカールは、おかげで体調がいいから、明日の休日は海を一緒に見に行こうと言った。
「港のそばに、海の中に向かって造られた古い城があるんだ。あそこに行くといつも不思議な感じがする......アルラートの演奏をゆっくり聴いたことがないから、一度聴いてみたいな。その海の城の上で弾いてくれよ」
アルブラートは喜んで、ウードとカーヌーンを持って行って演奏すると約束した。寝る前に、彼はムカールの側に来ると、他に調理人や従業員はいないのかと尋ねた。
「調理人は俺の他にサラーフとファハドがいる。でもまだ見習いさ。それに二人とも、仕事は朝の9時から6時までなんだ。客室の掃除や洗濯は、全部アデルがやっている。以前は俺がそれもやってた」
「アデル?」
「もう8年も前かな、アルジェから来た娘さ。真面目でよく働く娘なんだ。お前よりちょっと年上かな―今19だったかな。明日会わせてやろうか」
翌日はよく晴れていた。アルブラートは起きると、窓を開けた。3月初旬の澄んだ空気が気持ち良かった。どこからか、海の香りが漂って来た。遥か遠方に、太陽の光に煌く海がかすかに見えた。彼は、幼い頃、両親と暮らした死海のそばを思い出した。それはもう14年も昔のことだった。
死海は嫌だな......父さんがあのそばで死んだから......でも今度は本物の大きな海が見れるんだ......
アルブラートが着替えてムカールの部屋に行くと、彼はもう外出の用意をしていた。彼のそばには、髪の長い娘が洗濯籠を抱えて立っていた。アルブラートは久しぶりに若い娘を見て、ハッとした。急にアイシャのことが心に浮かんだ。アイシャは無事でいれば、今年は15になるはずだった。だがその娘はアイシャには似ていなかった。背が高く、生き生きとした褐色の肌をしていたが、無愛想だった。
「アデル。楽師のアルブラートだ。挨拶しろよ」
「よろしく、アルブラート。あなたの仕事は楽でいいわね。おまけにお給料も出るんでしょ。ムカールはどんなに働いてもお給料がもらえないのに」 「よけいなこと言うな、アデル」
アルブラートはムカールと馬車に乗った。彼は初めて会ったアデルから、仕事や給金のことを言われて複雑な気持ちだった。だが朝早くから、青年の部屋にあの娘がいたことや、互いの親しげな雰囲気から、二人は深い関係なのではないかと感じ取った。そうだとしても、華やかで神々しいムカールとあのアデルとでは、全く不釣合いだと思った。
馬車は20分ほど街の中を走った。途中で音楽院のそばを通った。アルブラートは学校から慌てて目を反らした。ムカールは一瞬不思議に思ったが、敢えて何も尋ねなかった。馬車から降りると、アルブラートは自分の給金から10ピアストル支払った。
港町を2、3分歩くと、急に目の前に紺碧の海が広がっていた。地中海だった。海は果てしなく大きく、水平線も遥か彼方にうっすらと見えるほどだった。カモメや海鳥が鳴き、空を飛び交っていた。彼は地中海の風を受けながら、生まれて初めて見る大海の威容に圧倒された。
ムカールは彼の肩を叩いて、あれが海の城だと指差した。昨夜教えてもらった通りに、港から海の中へと中世風の城塞が続いていた。二人は城に続く石段を降り、跳ね橋を歩いて行った。城門のそばまで行くと、一緒に腰を降ろした。ムカールは、以前お城にいたような気がするというのは、この古城のことだと言った。
「時々夢に見るんだよ―どこかの城の中に誰かといる夢を。でもこの海の城があるから、そんな夢を見るんだな、きっと。アルラート、この海の北はギリシャだ。水平線の向こうはイタリアがある。南はエジプトだ。いつか二人でどこかに行って見たいな」
難民キャンプと砂漠と病院しか知らなかったアルブラートの胸の中に、まだ見たことのない国々への憧れが大きく膨らんだ。水平線に浮かぶ船の影を眺めていると、本当にムカールとどこか遠くの国へ行けるような気がした。
エジプト......ギリシャ......イタリア......ヨーロッパ......母さんが馬車で旅をしていたヨーロッパに行ってみたい......
ムカールと一緒にどこかに―そこで本当に自由に生きてみたい......
今ではムカールは、アルブラートにとって、かけがえのない存在だった。ムカールのためになら、自分の命を捧げてもいいと思った。
彼はカーヌーンを膝に乗せると、地中海の紺碧の光を旋律に託し始めた。朝の太陽に輝く銀色の無数の弦は、アルブラートの魔法の指で、徐々に茫洋とした海の姿を浮かび上がらせていった。その旋律の中に、煌く太陽と、地平線を滑り行く船とが描かれていった。
彼はそのイメージを何回も繰り返した。そうするうちに、今度はまだ見たことのないヨーロッパへの憧憬が塗り込められてきた。その憧憬はにわかに大きくなり、弦を奏でる速度が強まった。だがそのイメージは、ゆっくりと地中海の中へと蜃気楼のように消えていった。
アルブラートはもう一度、今の曲を繰り返した。その旋律の頂点に、ムカールの黒曜石の瞳を思い描き、宝石の光を留め置いた。不思議で物哀しく、美しい曲だった。アルブラートはこうしてひとつの曲を完成させた。
静かに聴いていたムカールは、すっかり感心した様子だった。
「やっぱりアルラートはすごい才能なんだな―何か天性のものがあるんだな。あんなホテルで演奏するのは本当にもったいないよ......きっと今に一流の音楽家になって大成功するんじゃないか。俺には何もないな―ただの料理人だからな......お前と俺とじゃ、天と地ほどの違いだな」
アルブラートは驚いて、ムカールには何もそんなに自分を卑下するところはないと懸命に言い張った。青年は笑って、もういいと言った。彼は何だか疲れたから、今日はもう帰ろうと言い出した。ホテルに戻ると、ムカールはすぐにベッドに横になってしまった。アデルは別の部屋にいるらしく、どこにも見当たらなかった。アルブラートは心配して、彼の額に触った―その額は、燃えるように熱かった。
●Back to the Top of Part 6
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