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砂漠の果て(第8部「越境」)

第八部「越境」


―第26章―狙撃


The Crossing the Border ★


アルブラートは青年から「亡命」という言葉を実際に聞いて、自分が読んだ匿名の「亡命の詩」を思い出した。亡命したいとは思ったが、現実にその必要が迫るとは考えてもみなかった。

 カイロにまで逃げおおせても、自由に安全に暮らせる保障もなかった。だがムカールの言う通り、今はすべてザキリス医師にすがるより方法はなかった。

 彼は、自分の生まれた街への追想を捨てて、北アフリカに行くことに、漠然とした不安を覚えた。エジプトに行ってしまえば、もう二度とベツレヘムやレバノンの地を踏むことは不可能だと思った。

 自分が彷徨して来た18年の歳月の背後にある、様々な地には、怖れと苦悩と愛着があった。だがそれらをすべて捨てなければ、もう他に道はなかった。

 頭を抱え込んでいる彼に、ムカールは心配ないと言い聞かせた。

  「今すぐあの人に相談に行く。俺はアデルも連れて行くつもりだ。いつか何かあったら、アデルも俺について行くと約束したんだ」

 アルブラートの頭を、アイシャの姿がかすめた。彼は青年に、病院にアーシャという名の盲目の娘がいるが、会えるのは3日後だと告げた。

  「その娘が本当にアイシャだったら―俺はアイシャを捨てて亡命なんてできない......ムカールがアデルを捨てられないのと同じなんだ」

 二人は連れ立って、早速医師の部屋を訪れた。ムカールは英語を使うのが面倒になったらしく、いきなりアラビア語で話を切り出した。

  「先生にぜひお願いがあります。先生は、昨日の新聞をご覧になりましたか―治安部隊がパレスチナ難民をこの街から追放するという記事です」

 医師は、青年の真剣な眼差しに圧倒された。また、この青年の不思議なまでの美しさに改めて強い印象を受けた。医師には、彼がただの調理師だとは思えなかった。まるで王侯貴族のような気高さと威厳が、この深刻な表情のために、より一層浮き彫りにされていた。

私の気の迷いか......
 この青年は確かに「あの方」によく似ている......
 彼はまさに瓜二つではないか......


 ザキリスは、一瞬沸き起こった疑惑を振り払い、青年の話に冷静に対応しようとした。医師は、二人をソファーに腰掛けさせ、テーブルの上の新聞を手に取り、その第一面を読んだ。確かにムカールの言った通りのことが書かれてあった。

  「では―あなた方はお二人ともパレスチナ人ですか」

  「いいえ、私ではなく、この子がパレスチナ人です―私は無国籍です。治安部隊はパレスチナ難民と無国籍者を連行するんです。私は無国籍者のために、治安局のブラック・リストに載せられています―アルブラートも難民だというだけで、新聞に名前が載せられてしまいました」

  「アルブラート・アル・ハシム......これがあなたのお名前ですか」

 アルブラートは、黙ってうなずいた。

  「私は、あなたが、もしかしたらパレスチナ人ではないかと思っていました。だから、敢えてアラビア語を使わなかったのです。難民の人の中には、訛りで素性が分かるのを怖れて、アラビア語を使わない人もいます。皆、排他的な他のアラブ人から 『フェダーイーン』* と見なされるのを怖れています。でも、あなたは立派な演奏家です―こんな不当な扱いを受ける理由は何もありません」

 医師は、青年の方を見やると、決断したように言い切った。

  「あなたも無国籍だというだけで―アルブラートを匿っていたというだけで連行されるのは、まったく理不尽です。この上は、亡命するしか手段がありません。私はシリアやヨルダンから、難民の人々をカイロに亡命させたことが数回あります。今夜にでも、アレクサンドリアの知人に連絡を取ります。旅券は、今ベイルートのエジプト大使館に勤めている友人に頼んで、すぐにでも手配させます」

 ムカールは、自分たち以外に、娘二人を連れて行きたいと言った。医師は、それも快く引き受けてくれた。ムカールは、旅券は偽造とならないかと心配したが、医師は、アレクサンドリアの入国管理局長と知り合いだから問題はないと請け負った。早くて3日で旅券の準備ができるから、その間に身の回りを整理しておくようにと言った。


 *「フェダーイーン」:1953年8月エジプト大統領の呼び掛けで結成されたパレスチナ難民による攻撃部隊。後に「パレスチナ・ゲリラ」の意となる。

The Snipe★


医師に相談してから2日経った。アルブラートは、いつ治安部隊が踏み込んでくるか、不安でならなかった。せめて医師から言われた通りに、荷物をまとめておこうと思った。

 彼は、鞄の中に入れておく物は、必要なものだけにしようと考えた。財布を一番底に入れた。その上には、ガリラヤ湖畔で勉強したノートと辞書、残りはヨシュアからもらった聖書と、ムカールが好きだと言ったフランス語の詩集を置いた。

 財布の中には、昨年の10月からこのホテルで働き始めた給金と、演奏の合間に受け取ったチップとで、合計30000ピアストルほど貯まっていた。彼は、これらのお金は決して無駄に使うまいと思った。

 午後の休憩時間だった。明日にはザキリスの手配で、出航の準備が整うはずだった。アルブラートは、ヨシュアに挨拶をするため、地下に降りて行った。

 階段を降りる時、急に昔、母が呟いた言葉を思い出した。12歳の時だった。皆で、ユダ砂漠を越えている時だった。

あの時も母さんは言ってたな......
 「どうしてこうなるのか」と......「いつも逃げてばかりだ」と......
 母さんはいつも辛かったんだろうな......
 母さんに幸せな時はあったのかな......
 俺もいつも逃げてばかりだ......


 ヨシュアは、もうすべてを知っていた。老人は、アルブラートを見ると切なそうに顔を歪めた。青い目に涙をたたえながら、力なく立ち上がった。

  「もうお別れなんだね......明日はもういないんだね......」

 アルブラートは胸がいっぱいになり、何も言えなかった。彼は、ヨシュアのそばの椅子に座ると、しばらく黙っていた。

  「わしはお前さんとムカールがいることが慰めだったんだ―でも二人が自由になれるのなら......幸せになれることを祈っているよ」

 ヨシュアはそう言いながら、1冊のノートをアルブラートに渡した。

  「これを記念にあげるよ......これは、前のご主人の日記帳だ。旦那は亡くなる前に、ムカールに渡してくれと、このわしに頼んだんだ。あの子が20歳になったら渡してくれと......でもムカールは、昔のことを思い出すから嫌だと受け取らなかったんだ。せめてアルブラートが持っていておくれ」

 アルブラートはノートを受け取ると、立ち上がってヨシュアの手を握った。彼は、素朴で優しいこの老人が、ムカールを宝物のように愛していることを改めて深く悟った。

  「僕が―僕のために―ヨシュアからムカールを取り上げることになってしまって......何てお詫びを言ったらいいのか分かりません―でもいろいろお世話になったことは―決して忘れません」

 ヨシュアは明日の晩に、普段使っていない小さな裏口の鍵を渡すと約束した。いよいよという時に、その裏口を開けないと、支配人に感づかれるからだった。

 アルブラートは、部屋に戻り、日記帳を開いてみた。全体に分厚く、表紙は茶色にすっかり変色していた。青いインクで、細かな字がびっしりと書かれてあった。彼はその筆跡を、どこかで見たように感じた。表紙の裏と、ノートの1枚目には、やはり茶色に変色した古い写真が貼ってあった。

 1枚目の写真は、まだ10歳ほどの非常に美しい少年の横顔だった。写真の下には、「1945年 ベイルート」と書かれてあった。もう1枚の写真は、15歳ほどの少年を正面から撮ったものだった。やはりその下に、青いインクで、「1950年 ムハバイール 15歳」と丁寧な文字で記されてあった。

 アルブラートは、2枚目の写真で、やっとこれらがムカールの昔の写真だと気がついた。15歳のムカールは、もう既に現在のような気高い優美さを漂わせていた。9歳で左手首を失ったという壮絶な痛手を負うことで、逆に神のような威厳が与えられたのかと思うほど、その写真は壮麗な輝きに溢れていた。

 彼は、ページをめくり、日記の最初の文章を読んでみた。

―1944年12月26日 昨日マラシュで男の子を助けた。髪が伸び放題でひどい格好だ。左の手首がない。急いでベイルートの病院に運んだ。どうかあの子の手術が成功しますように。

  ―1945年1月10日 あれから2週間だ。手術は成功した。あの子の命は助かった。医者が髪を切ってくれた。何ともきれいで愛くるしい子だ。私が近づくと怯える。トルコ語しか話さない。ただ「恐い」としか言わない。名前もない。歳はいくつだろう。

  ―1945年4月7日 賢い子だ。ほんの2ヶ月でアラビア語を覚えた。ヨシュアはまだ9歳ほどだと言う。類い稀な美しい子だ。死んだ息子の生まれ変わりに思える。ムハバイールには立派な教育を受けさせたい。


 アルブラートは、少しページを飛ばして読んでみた。

―1948年11月20日 あの子をこれ以上調理場で働かせたくない。もうすぐ13歳だ。神学校に入れてやりたい。でも学校は絶対に嫌だと言う。修道院を思い出すから嫌だと言う。

  ―1949年2月13日 ムハバイールが高熱で倒れた。怖れていた通りだ。すぐに入院させた。10歳の時の義手はもう体に合わない。調理場で細菌に感染した。壊疽を起こした。明日手術だ。

  ―1950年12月25日 今日はあの子の15歳の誕生日だ。ひどい雪だ。昔は雪を恐がったが、今は平気だと喜んでいる。陽気で明るい子だ。フランス語はもう完璧になった。ムハバイールの連れて来たジョルジュはあの子の弟にしよう。


 アルブラートは、ムカールが話していた「ジョルジュ」の名にハッとした。日記帳の終わりの方を読むと、ホテルがイスラエル軍に空爆されたことや、建物が破損し、莫大な借金を抱えたことが記されてあった。

―1953年3月14日 もうヨシュアしか頼れない。あの子ももう17だ。また手術が必要だろう。商工会議所長のザイード・アル・アクバルがこのホテルを買い取ることになった。あの男のもとでムハバイールを働かせたくない。

 日記はこれで終わっていた。アルブラートは日記帳を閉じようとしたが、最後のページの左側に、古い新聞記事のスクラップが貼られてあるのに気がついた。

 それは、黒髪を高く結い上げた若い女性の古い写真だった。その写真の隅に、ホテルの主人の筆跡で、「オルガ・エレーナ・グルジャーノフ 1928年18歳」と書かれてあった。その女性は、ムカールにそっくりだった。

The Old Pictures★


 アルブラートは、なぜこの写真が貼られてあるのか不思議に思った。また、こんなにムカールに似ている女性がいるのかと驚いた。彼は、その女性の神秘的な美貌に引き込まれて、しばらく写真を眺めていたが、急に時間のことを思い出して、日記帳を閉じた。

 彼は、日記帳を鞄の中に入れると、机の上の時計を見た。2時45分だった。治安局の記事を読んだ2日前から、演奏のために1階のホールに行くことが、怖ろしくてならなかった。人前に姿をさらさずに、ずっとこの部屋に鍵をかけてこもっていたかった。

 だが、いつも通りに仕事をしないと、かえって怪しまれる危険もあった。アルブラートは、午後のこれからの演奏が無事に済んだら、明日はウードだけを演奏しようと思った。明日の夜の出航に備えて、カーヌーンは今夜中に部屋に運んでおくつもりだった。

 いつもの服に着替えて、ホールに行くと、彼はまず客席の中に医師の姿を探した。ザキリスは、客席の中央に座っていた。アルブラートは、医師の姿を見ると、緊張感がやや和らいだ。今では、この人にすべてを頼るしかなかった。彼は、とにかく演奏に集中しようとした。すると、ついさっき見た異国の女性の面影がイメージとなって膨らんできた。

 何とか午後の仕事も無事に済んだが、明日の夜までの不安が、大きな緊張となって、尚も彼を襲った。ムカールは、夕食の後、自分の部屋にやって来て、荷物の整理もだいぶ済んだと言った。彼は、旅行用鞄をヨシュアから譲ってもらっていた。

 ムカールは、自分の机を眺めて、好きな歴史の本と思想書の2冊だけを鞄に入れた。置時計は、アルブラートの目覚まし代わりだから、明日の昼には鞄に入れようと言った。

  「俺はこれはずっと大事にして来たんだ。前の主人の形見だからな」

 形見と聞いて、アルブラートは、ヨシュアから譲られた日記帳を彼に見せた。ムカールは特に嫌がらずに、そのノートを手に取り、自分の昔の写真を眺めていた。だが日記の内容は、やっぱり昔のことを思い出して嫌だと言い、読もうとしなかった。

 アルブラートは、ためらいがちに、裏表紙の女性の写真のことを話した。ムカールは、日記帳をひっくり返して、その写真を見た。彼は複雑な表情で、古い写真の中の女性を見つめていたが、何でもないように言った。

  「ロシア人の名前じゃないか。モハメダウィが気に入って新聞から切り取ったんだろう。謎の美女がお好みだったのかも知れないな」

  「冗談言うなよ。何だかその人はムカールに似ているじゃないか」

  「お前こそ冗談言ってるじゃないか。俺がこんな絶世の美女に似てるわけないだろう。これはただのモハメダウィの趣味だよ」

 ムカールは、アルブラートに日記帳を返すと、お前が持っとけと言った。少年が、沈んだ顔をし、体を硬くしているのを見て、ムカールは彼の緊張感をすぐに察した。

  「お前―怖いか。でも明日の晩までの我慢だ。きっとうまく行くから」
  「でも眠れそうにない―今日の仕事だって怖かったんだ」

 ムカールは、地下の調理場からワインとグラスを持ってきた。彼は、アルブラートに、心配ないと言いながら、ワインを飲ませた。

  「今夜はぐっすり寝ないと、明日疲れるぞ。明日の昼食後に、お前はアイシャって娘を病院から連れて来なきゃいけないだろう」

 アルブラートは不安と緊張の疲れから、ワインを飲むと、すぐに眠ってしまった。彼はその晩、雨の中を、誰かが自分を追いかけてくる夢を見た。必死で逃げていく先に、アイシャがいた。彼女は行方不明になった当時の12歳のままだった。アイシャに手を伸ばそうとした途端、目覚ましのベルで目が覚めた。

 彼は、ついに最後の日の朝が来たと思った。壁に貼ったカレンダーを見た。1960年7月29日だった。外は、土砂降りの雨だった。鞄のそばには、昨夜部屋に運び込んだカーヌーンが、布に丁寧に包まれて置いてあった。アルブラートは、祈るような気持ちで、カーヌーンを見つめた。

 部屋の隅にある洗面台で顔を洗うと、自分の顔を鏡で見た。不安のためか、顔色が悪く、やつれて見えた。それでも、今日はアイシャに会えるかもしれないと思うと、希望が心をかすめた。彼は、着替えて部屋を出ると、洗濯籠を抱えたアデルとすれ違った。

 アデルはすれ違いざまに、彼をちらりと見たが、すぐに目を伏せ、廊下の端の部屋に早足で歩いて行った。アルブラートは地下の調理場に降りて行った。ムカールは、彼をじっと見ると、無言で朝食をテーブルに出した。

 アルブラートは、食べながらも、何の味もしなかった。今からまたサロンに行くことを考えると、再び不安と恐怖で、喉が渇いて来た。もう8時半だった。彼が朝食を終え、黙って立ち上がると、ムカールがそばに寄り、食器を片付けながら、低い声でささやいた。

  「落ち着け。仕事のことだけ考えろ」

 彼は、1階のサロンに上がる階段が、死刑台に上がる階段のように思えた。いつものように舞台に立ったが、客席が自分の目の前で回転しているような気がした。深呼吸をして、客席に目を凝らすと、医師がいつもの所に座って、彼を見守っていた。

 アルブラートは医師の姿を見ると、緊迫感が少し薄らいだ。だが椅子に座り、そばに立て掛けてあったウードを手にしようとした途端、鋭い銃声がサロンに鳴り響いた。

 アルブラートは、一瞬、何が起きたのか分からなかった。だが右足が急に激痛で疼き出した。

 彼は、膝を押さえながら、椅子から床に転げ落ちた。椅子がガタンと大きな音を立てて倒れた。ウードも床に転がり、鈍い音を立てた。サロンにいた客が、いっせいにどよめき始めた。

 客席の中から、ひとりの男がピストルを構えたまま、彼の所に歩いて来た。その男は、治安部隊の者だと名乗った。アルブラートは震えながら、相手を見上げた。

  「アルブラート・アル・ハシム。すぐに連行する。ついて来い」

 だがアルブラートは足の激痛のために、立ち上がれなかった。彼は足を押さえて、うずくまっていたが、男は彼の手を乱暴に掴んで、無理やり舞台から引きずり降ろそうとした。

 その時、客席から医師が飛び出してきた。彼は、男の手を少年からもぎ取るように振り払うと、アルブラートを抱きしめて叫んだ。

  「人違いだ!この子は私の息子のアレクサンドルだ!」




―第27章―ザファル中央病院


The Reunion★


治安部隊の男は、緑色の制服の胸ポケットにピストルを納めると、医師を疑わしげに見やった。

  「この少年があなたの息子だと?証拠はどこにある?」

  「この私自身が証拠だ!親子の証明など必要はない!この子はギリシャから私と来たばかりだ―アラブ人ではない!」

 隊員は、医師の激しいが、力強い口調に、多少ひるんだ様子だった。だが尚も続けて、こう言った。

  「この少年がパレスチナ人であると、我々はこのホテルの支配人から通告を受けた。この難民を匿っている調理師がいるとのことだ」

  「そんな通告はでたらめだ!私は外科医をしている―早く息子を手当てしないと手遅れになるんだ―お引取り願いたい!」

 隊員は、明日また取り調べに来ると言い残して、その場を去って行った。アルブラートは、撃たれた右膝を苦しそうに手で押さえていた。あまりの痛みに、もはや目を開けられなかった。彼の手は血まみれになり、膝を押さえた指の間から、血がほとばしるように流れ続けていた。

 医師は、一目で重傷であることが分かった。アルブラートの息は急速に弱まり、やがて失神してしまった。今の騒ぎに駆けつけたファハドに、ザキリスは、早くムカールを呼んでくれと頼んだ。

 ムカールは、1階の銃声を聞いた途端、すぐに地下から上のサロンに駆け上がろうとしたが、ファハドに治安部隊に捕まると差し止められた。彼はヨシュアの部屋に逃げ込み、鍵を掛けて息を潜めていた。

 ファハドは地下に駆け降り、ムカールの名を呼びながら、ヨシュアの部屋のドアを必死で叩いた。すぐにドアが開き、青年が顔を覗かせた。

  「もう治安部隊は出て行った―それよりアルブラートが撃たれて気絶したんだ......!今そばに医者がついてる―ムカールに来てくれって」

 その言葉を聞くやいなや、ムカールは矢のように1階に駆け上がった。

 医師は、何か事件が起きた時のために、サロンに来る時は、いつも医療用具を詰め込んだ鞄を持って来ていた。ムカールが駆けつけた時には、ザキリスは包帯で少年の膝上を縛り、止血処置を済ませていた。

 ムカールは、何回もアルブラートの名を呼び、肩を揺さぶったが、医師にショック症状を起こしているからと制止された。

  「膝を撃たれたんです―骨が潰れているかも知れません―とにかく私とあなたとで、静かに運んで、どこかに寝かせてやらないと―すぐに銃弾を摘出しますから」

 ふたりは、ファハドの手を借りて、ぐったりしているアルブラートをヨシュアの部屋に運んだ。老人は、少年の手や膝が鮮血に染まっているのを見て、息を呑んだ。ジョルジュが内戦で死んだ時が思い出されたが、何も言わずに、涙ぐんだ。

神も無慈悲なお方だ......
 どうしていつもこんなに若い子たちが残酷な目に遭うのか......
 わしはどうしていつも血まみれの子供たちを見なけりゃならんのか......          ムカールの時も......ジョルジュの時も......
 今度はアルブラートまで......


 ムカールから亡命の話を聞いていたファハドは、アデルを探しに上の階に走って行った。朝の10時過ぎだった。いつもこの時間は、彼女は2階の洗濯場にいた。ファハドはアデルを見つけると、息を切らして口早に言った。

  「アデル―アルブラートが撃たれて、今からヨシュアの部屋で手術をするんだ。外科医の先生が、清潔なシーツとタオルをたくさん持って来いって言うんだ。あと清潔なたらいが2個要るんだ―何とか午前中に手術を終わらせないと、今夜の出航は無理になっちまうよ」

 アデルは驚きを隠せない表情になったが、手早く言われた物を用意すると、階下に運んで行った。ヨシュアの部屋に入ると、血のこもった臭いが彼女の鼻をついた。アデルは、アルブラートの寝ているベッドに素早くシーツを敷いたが、怪我人の、砕かれた血まみれの弾痕を見た途端、気分が悪くなった。

 彼女は顔を覆って、ヨシュアの座っている椅子のそばにしゃがみこんだ。ムカールはアデルを見ると、急に病院にいるというアイシャのことを思い出した。彼は、部屋にいたファハドの肩を掴んだ。

  「ファハド、出来ることなら何でも手術の手伝いをしておいてくれ―俺は今から、街外れの病院に行って看護婦を連れてくる。その娘が、もしかしたらアルブラートの幼なじみかも知れないんだ」

 彼はこれだけのことを言うと、部屋を飛び出して行った。外はまだ激しく雨が降っていた。裏口を出ると、隣のホテルの裏口や、向かいの商店の影に、まだ治安部隊が数人いるのに気がついた。

俺は顔を知られているんだ......
 でも今捕まったらおしまいだ......絶対に捕まるもんか......!


 彼は、急いで裏口から左の角を曲がった。そこは狭い路地で、人影もなくひっそりとしていた。内戦やイスラエル軍の爆撃で、無残に崩れ落ちたモスクが歩道の右側に瓦礫の山になっていた。青年は、豪雨の中を、着の身着のままで、飛ぶように走り出した。

The Backdoor of  the Hotel★


 雨はいよいよ激しく降りつのって来た。ムカールは、走りながら、これは好都合だと考えた。ひどい雨のために、前方が霧がかかったように、真っ白だった。自分の姿も人目につかないだろうと思った。

 時折、歩道に散らばった瓦礫につまずきそうになりながらも、全速力で走り続けた。その狭い路地を抜けると、右に折れた。崩れかかった石段があった。

この石段を上がった左手に教会があった......
 それを左に曲がるとあの病院に続く道になっているはずだ.....


 彼は、教会に続く石段を駆け登った。だが、激しい豪雨のために、石段は、すっかりもろくなっていた。ムカールは、崩れた石段に足を取られて、登り切らないうちに、土砂の中に叩きつけられた。

 彼は、左手首に鋭い痛みを感じた。だが構わずに、その石段を這うように登り切った。尚も走ると、雨の中に、教会の影がぼんやりと見えて来た。その教会に面した、廃墟と化したビルがあった。彼は、そのビルに人影を見た。その瞬間、ピストルの音がした。

 ムカールは素早く、教会の中に逃げ込んだ。左のこめかみに手をやると、何か温かいものが頬を伝って来た。血だった。

ピストルの弾がかすったのか......
 治安部隊が外出する者を手当たり次第に狙っているのか......


 彼は、息を潜めながら、教会の入り口から外を伺った。まだ治安部隊はビルの陰にいるのかも知れなかった。だが、ますます激しくなった雨のために、視界全体がすっかり白く曇っていた。

 ムカールは教会の回廊を走り、裏手から左に曲がった。そこからは、猫1匹がやっと通れるほどの、非常に狭い路地になっていた。

 その路地を這うようにして歩いていくと、左側が今のビルの裏側であることに気がついた。その路地をやっと通り抜けると、ザファル中央病院に続く階段が見えて来た。

 彼は、その階段を駆け上がろうとしたが、階段の手前の濁流に足をすくわれ、前のめりに転んだ。両腕がすっかり泥水の中につかった。彼は歩道に流れる雨水で、その泥を洗い流したが、再び左手首が激しく痛んだ。

 ムカールはそれにも構わずに、濁流を飛び越え、階段を急いで駆け登り、病院の中に入った。病院の中は、治安部隊に誤射された怪我人が数名、治療を待っていた。

 彼は、受付にいた看護婦に問いかけた。

  「この病院に―アイシャという娘はいますか―15歳で目の不自由な―看護婦の見習いをしているという娘です」

 看護婦は、預かっていたメモを取り出して、青年を見た。

  「3日前、同じことを尋ねに来た人がいましたが―アルブラートという人です。でも、あなたではありませんでした」

  「私はアルブラートの友人です。彼がアイシャという娘を探しているんです―同じパレスチナ人で、幼なじみの18歳の少年です」

 看護婦は、急いで奥の方に入って行った。数分すると、その看護婦に付き添われた背の高い少女が黒いワンピースにエプロン姿で、こちらに歩いてきた。

 その少女は、少年のようにくっきりとした顔立ちをしていた。色白で、黒い瞳が大きく、愛らしかった。手足がすらりとし、雰囲気がアルブラートによく似ていた。ムカールには、その娘がアルブラートの妹のように見えた。

 少女は、青年の手前で立ち止まると、不安げに彼を見上げた。彼女は、背の高い、知らない青年であることをすぐさま感じ取り、やや怖れたように後ずさった。側の看護婦は、少女の手を取って、ムカールの右手や頬に触れさせた。途端に、少女は驚いたように言った。

  「血が頬に流れているわ......それにこの人、熱があるわ」

 ムカールは、手首が疼くのをこらえながら、右手で少女の細い手をそっと握った。

  「この血は何でもないんだ......今ここに来る途中で、治安部隊に狙われただけなんだ......それより、あんたはアルブラートという子を知っているんじゃないのか」

 少女は大きくうなずき、彼を見上げた。

  「アルブラートは同じキャンプで育った女の子を探していたんだ......
アイシャ・エル・カマームという名前の15歳になる子で―歌がとても素晴らしいと言っているんだ......あんたが、そのアイシャじゃないのか」

 少女は黙ってうなずいたが、思い描いていた夢が現実になったことに、驚いた様子だった。彼女は、とても信じられないといった表情を浮かべながら、呟いた。

  「......私はずっとアルブラートは死んだと思っていたの......でも無事でいるのね」

 ムカールは、アイシャの手を取って、窓際のベンチに腰掛けた。

  「アルブラートは今朝、治安部隊に狙撃されて―今、右足を手術しているんだ―あんたの助けが要るんだ......手術がうまく済んだら、俺とアルブラートはカイロに亡命する。アルブラートは、あんたを連れて行きたいと言っているんだ」

The Ibn Zahal Central Hospital★


 アイシャはその話を聞くと、驚きと不安の入り混じった眼差しで、じっと青年を見つめた。彼女は気持ちが混乱していた。

  「なぜ足を撃たれたの......?なぜ亡命するの......?」

  「3日前から、この街の治安部隊がパレスチナ人を追放することになったんだ......パレスチナ人をゲリラと見なす奴が多いんだ......アルブラートは俺のホテルで、ウードを演奏して働いていたんだ―でも追放される前に治安局に連行されそうになって―それでいきなり演奏中に足を撃たれたんだ」

 ムカールは、自分でも、熱が高くなってきたのを感じたが、懸命に事情を説明した。

  「......それでアルブラートを匿っていた俺も、このままじゃ連行されるんだ―たまたま知り合ったカイロの外科医が助けてくれて......
亡命を勧めてくれたんだ―これ以上この街に住むことは不可能だから......
アルブラートは、アイシャと一緒でなければ亡命できないと言うんだ」

 アイシャは、すぐに立ち上がると、自分で受付の看護婦の方へと歩いていった。彼女は、ささやくような声で、看護婦に頼んだ。

  「ジュヌヴィエーヴに来てもらって!」

 間もなく、彼女のそばに、20歳ほどの女性がやって来た。アイシャは、小声で手短に今聞いた事情を伝えているらしかった。ジュヌヴィエーヴは、少女の身の回りを世話しているらしく、すぐに彼女の手を引っ張って、奥の方へと一緒に走って行った。

 5分もたたずに、2人は小さな鞄を持って、青年の所に戻って来た。ジュヌヴィエーヴは、彼に大振りのタオルを差し出した。彼の服からは、まだ雨の雫が滴り落ちていた。ムカールは、タオルで髪や顔を拭き、上着やズボンの雫や泥をはたき落としたが、途端に寒気に襲われた。

 ジュヌヴィエーヴは、心配そうに青年を見やった。

  「大丈夫ですか―具合がとても悪そうなのに―」

 彼は、慌てて彼女の言葉を制止した。ジュヌヴィエーヴは、話は全部分かったと言い、彼に黒いコートと傘を渡した。アイシャは、彼女から鞄と白いコートを受け取ると、青年に向かって、決心したように言った。

  「私もカイロに行くわ。さようなら、ジュヌヴィエーヴ」

 ジュヌヴィエーヴは、アイシャを抱きしめて、額に接吻すると、名残り惜しそうに少女を見つめた。だが、早く行くようにと促して、病院の入り口にアイシャを連れて行った。雨は小降りになっていたが、時折雷鳴が轟いていた。

 ムカールはコートを頭から被ると、右手でアイシャの手を取った。そうして、二人はアルブラートのいるホテルへと向かった。

 彼は、手首が痛むために傘をさせなかった。彼はアイシャに傘を渡した。

  「俺は左手が義手で......傘を持ちにくいんだ。アイシャにあげるよ」

 だがアイシャも、右手を青年に握ってもらっているため、片方の手で鞄と傘を持てなかった。彼女は、傘はもういいと言って、病院の階段の下に置いた。

 アイシャは、青年の大きな手に握られて階段を降りる時、3年前までいつも彼女の手を握って離さなかった、アルブラートの温かな手のぬくもりを思い出した。キャンプが占領される直前、テントの中で、アルブラートが自作の英語の詩を静かな声で読んでくれたことを思い出した。

 あの後、シリアの病院で、パレスチナ人の少年や青年たちは、どこか遠くに連れ去られたのだということを聞いていた彼女は、もうアルブラートには二度と会えまいと思っていた。そのアルブラートが、なぜ今、自分と同じレバノンのサイダにいるのか、不思議でならなかった。

 アイシャは、さまざまな疑問が頭の中を駆け巡ったが、ただ黙って、彼女の手をしっかりと握り、急ぎ足でホテルに向かう青年には、質問するのをためらっていた。

 ムカールは、熱で目の前が霞んで見えた。何とかホテルに辿り着けば、すぐに手首を消毒し、薬を飲めばいいと思った。アルブラートが命と引き換えにしても惜しくないほど愛しているアイシャを連れている今、絶対に途中で倒れてはならないと必死だった。

 二人は、廃墟のビルの裏手にさしかかった。ムカールは、狭い路地だから注意するようにと言った。アイシャは、その声の調子で、青年がひどい熱に苦しんでいることをすぐに察した。やっと聖マリア教会の所まで来ると、彼は限界を感じた。

  「......大急ぎで来たもんだから......ちょっとここで休もう」

 彼はそう言って、教会の回廊の入り口に腰を降ろした。自分でも、今までにない高熱だと思ったが、これで死ぬわけではないと自ら言い聞かせた。しかし、内心、壊疽がさらに進行しているのは間違いないと感じた。

 アイシャは、青年の吐息が荒く、自分の手を握る手が燃えるように熱いのを心配したが、黙って彼のそばに腰掛けた。そこで、どうしても聞きたいことだけを、そっと尋ねてみた。

  「アルブラートは今は一人......お母さんは......?」

 ムカールは、アイシャを静かに見やった。少女は薔薇色の頬をし、長い黒髪を無造作に腰まで伸ばしていた。黒い大きな瞳には、アルブラートのように孤独で恥らいを秘めた表情を浮かべていた。

  「......アルブラートの母さんは......2年前の冬に亡くなった......ナザレで......」



―第28章―再会


Reunion★


アイシャはそれを聞くと、しばらく雷の轟く方向を見つめていたが、急に顔を覆った。彼女にとって、マルカートは、幼い時から母親代わりのような存在だった。また、母親を失ったアルブラートの心情を想い、彼の苦悶を自分のもののように感じた。

 アイシャは、何か怖ろしいことが原因だったのではないかと、ほとんど直覚的に悟った。アルブラートに会っても、マルカートの死因には決して触れまいと思った。

 ムカールは、高熱のために、雷鳴さえほとんど聞こえなかったが、ぐずぐずしていられないと思い、少女の手を握ると、立ち上がるように促した。二人は教会の回廊をつき抜け、入り口のドアを開けた。ムカールは、向かいのビルに治安部隊がいないことを確かめると、左に折れた。

 しばらく急ぎ足で歩くと、彼は、猛烈なめまいと頭痛に襲われた。今では、必ずアイシャをアルブラートに会わせるという一念だけで、体を動かしているようなものだった。

 目の前に、先ほどよじ登った崩れた石段があった。石段に気をつけるようにとアイシャに言うだけでも、息が切れて苦しかった。二人は滑らないように、一歩一歩石段を降りた。そこを何とか降り切ると、左手がモスクの瓦礫の山だった。

 青年は、彼女に一言でも声をかけるのが苦しくなり、ただ黙って手を握って、歩道をゆっくりと歩いた。アイシャは、道の両脇が非常に狭く、所々に瓦礫が転がっているのを感じ、うまくよけながら歩いて行った。

 ムカールは、道の右手に、自分のホテルの正面玄関が見えて来たのに気づいた。彼は息苦しさと異様な不安感が迫って来るのを感じ、今にも倒れそうだった。自分の足音が、異常に響き渡る気がし、耳鳴りがした。だが、やっとの思いで、裏口に続く角を右に曲がり、ホテルに辿り着いた。

 ムカールはヨシュアの部屋のドアをいきなり開けた。彼は、連れて来たアイシャを、ヨシュアの所まで引っ張って行くと、途切れ途切れに呟いた。

  「アイシャ......アルブラートは......そこのベッドに寝ているから」

 それだけ言うと、彼は椅子に座っていたヨシュアにもたれかかるように膝をつき、床に倒れてしまった。ヨシュアはムカールの真っ青な顔で、すぐにまた熱を出したことが分かった。老人は、彼の髪が雨に濡れ、服に泥がこびりついているのを見ると、悔やむように声を震わせた。

  「なんて無鉄砲なことを......なんでこんな無茶をするんだ......この子は昔からこうだったんだ......我が強くて手に負えんよ―アデル、例の薬を飲ませるから水を頼むよ」

 アデルは倒れている青年の上にかがみ、その蒼ざめた白い額と右手とが、火のように熱いのを感じ取り、何か怖ろしいものから飛びのくように後ずさった。

 彼女は、唇を震わせながら、ヨシュアを見たが、急いで水とタオルを取りに部屋を飛び出して行った。

 ヨシュアはそばにアイシャがいるのにも気がつかずに、一刻も早くムカールの手首を消毒しようと、慌てて彼の左袖を捲り上げた。彼の左腕は、二の腕まで壊疽が進み、真っ黒な皮膚にすっかり覆われていた―皮膚の下には、毒素による水泡がおびただしく拡がっていた。

 それを見た途端、ヨシュアは目の前が真っ暗になったように慄いた。ついに最も怖れていた事態が近づいていることを悟ったからだった。老人は、雨に濡れた袖を、そっと元通りにすると、消毒剤を手に取った。だが、手がこわばったように動かなかった。

 アイシャは消毒剤の臭いで、その場の状況をすぐに察した。

  「私が消毒するわ―ピンセットと脱脂綿を渡して」

 少女の声で、ヨシュアはやっと、自分のすぐ脇にアイシャがいることに気がついた。少女の雰囲気が、どことなくアルブラートに似ているのを見て取ったヨシュアは、この娘がアルブラートが一緒に亡命したいと言っていた娘だと思った。

 アイシャは床に倒れている青年のそばに膝をつくと、彼が自分で義手だと言っていた左手をまさぐった。その仕草で、ヨシュアは、彼女が盲目であることに初めて気がついた。ヨシュアは急いで彼女の手を取り、青年の左手に触らせた。

 その感触で、アイシャは何もかも心得たように、受け取った消毒液に脱脂綿を浸すと、青年の左手首を手早く消毒した。彼女は、脱脂綿を数回取り替えてもらいながら、徹底的に赤黒い義手の継ぎ目を洗浄した。そして、ヨシュアから包帯を受け取ると、手馴れた様子で、素早く巻いてしまった。

 部屋に戻ったアデルは、ヨシュアから薬を受け取った。彼女は、その薬を、青年のかすかに開いた乾いた唇に乗せると、自らグラスの水を口に含み、彼に接吻しながら、水を押し込むように流し入れた。

 彼女の唇の感触に、ムカールはハッと気がつき、ヨシュアとアデルを交互に見渡した。そしてアイシャをじっと見つめると、弱々しい口調で言った。

  「俺のことはもういいんだ......アデル......アイシャを早くアルブラートのそばに......俺はやっとアイシャを見つけたんだ」

 アデルはそう言われて、自分のそばにいるアイシャにやっと気がついたように、驚いた様子で彼女を見やった。だがすぐに少女の手を握ると、狭い部屋を横切り、アルブラートの寝ているベッドの前にアイシャを立たせた。

 狙撃から、もう2時間近く経過していた。医師は、少年の患部から銃弾を摘出し、砕けた骨の破片を取り除こうとしていたが、少女がそばに来たのに気がついて、彼女をちらりと見た。ザキリスは、すぐにこの少女が看護婦をしているアイシャだと分かり、急いで指示した。

  「そこにあるマスクと手袋をつけて―いや、その前に髪を結んで、エプロンをつけて。枕元のたらいを持って、私の右側に立って下さい。骨の破片をたらいに置いていきますから」

 アイシャは手早く用意を整えると、医師の隣に立った。むせかえるような血の臭いも、胸が悪くなるような骨を砕く音も、アイシャには平気だった。手術用具一式のトレイが、ベッド脇に置かれた椅子の上に置いてあるのに気がついたが、彼女は、手の感触で、どれがメスで、縫合針かがすぐに分かった。

 彼女は、手術を手伝いながらも、一刻も早く手術が終わり、アルブラートの体に触れたいと願った。

 ようやく昼過ぎに手術が終わった。傷口を縫合した彼の膝に添え木を当てる時、アイシャは3年ぶりにアルブラートの足に触れることができた。彼女の心に、懐かしさが込み上げて来た。彼の足は、幼い昔、テントで一緒に眠った時に、彼女の裸足を温めてくれた足だった。

 添え木にギブスを巻き終えると、彼女は手袋を取り、医師に両手を消毒してもらった。そうして、アイシャは3年ぶりに素手で、アルブラートの手を握り締めた。彼女は、彼の胸に静かに顔をうずめた。別れてから3年間、一時も忘れたことがなかった、温かな胸の懐かしいぬくもりと、穏やかな心臓の鼓動をアイシャは感じた。

 アイシャは、愛おしそうに彼の髪に触れた。彼の真っ直ぐな額に、閉じた目元に手を当て、そっと撫ぜた。彼の頬を、両手で静かに包み込んだ。いつもアルブラートは、彼女を安心させるために、小さい時から、アイシャの手を優しく取って、自分の頬に触れさせていた。アイシャは、その懐かしい感触を深く味わった。

ムラートが本当にここにいる......
 ムラートが本当に生きて、今私の前にいるんだわ......


The Chamber of Joshua★


 ムカールは熱が少し治まって来た様子だったが、まだだるそうに、老人のそばの床に横になっていた。ザキリスは一息つくと、汗を拭い、今度は青年の方を心配そうに見やった。

 医師は、彼のそばにひざまずくと、ゆっくりと左袖をたくし上げた。しばらく無言のまま、彼の左腕をじっと見つめていたが、何も言わずに、袖をそっと元通りにした。

  「今はお話しても大丈夫ですか―気分は少しはよろしいですか」

 彼が黙ってうなずくと、医師はアルブラートの右足のことだと言った。

  「銃弾は摘出しましたが、膝の骨が一部、壊滅的に破損していて......それを今、削って取り除いたのです。隣接する骨と、神経も繋ぎましたが、関節の骨を一部失ったので......ギブスが取れても、多分もとのようには歩けません。右足を引きずるでしょう......
一生......」

 ムカールはそれを聞くと、辛そうに目をつぶったが、力のない低い声で、独り言のように呟いた。

  「それでも―それでも命は助かったんだ......それだけでも......」

 ザキリスは、立ち上がり、手術着を外して椅子にかけると、再び青年のそばに腰を降ろした。医師は、彼のそばにいるヨシュアとアデルに、出航の手配はもう整っていると告げた。

  「今夜の最終便です。夜の11時にアレキサンドリア行きの船が出ます。アルブラートは麻酔からもうすぐ覚めます。港まで、知人が車で送って行ってくれます。あの子は、アレキサンドリアに着くあさっての朝には、何とか杖で立ち上がって歩けるでしょう。でも問題なのはムカールです」

 医師は、ムカールの方に向き直ると、真剣な口調でこう言った。

  「あなたはもう壊疽が左腕全体に広がっています......このままでは、3日以内に―必ず命を落とします。だからカイロに着いたら、すぐに―すぐに左腕を肩から切断しなければいけません。酷なようですが......あなたが助かる方法は、もうそれしかありません」

 ムカールは何かに頭を殴られたような気がした。

 突然、死の危険が迫っていることを知り、彼は心がかき乱された。自分の体がバラバラに崩れ、何もかも消えていくような虚しさと恐怖を感じた。アデルは医師の話を聞いて、すすり泣き始めたが、彼女の泣き声も彼には煩わしかった。

 ザキリスは、青年が救いを求めるような目で、じっと自分を見つめている姿に痛ましさを覚えた。彼の苦悶を敏感に察した医師は、ムカールの右手をしっかり握りしめ、落ち着くように言い聞かせた。

  「大丈夫です―私が、必ずあなたを助けます―私は、あなたを死なせたりは絶対にしません。私を信じて、気をしっかり持って下さい」

 ムカールは、医師の言葉にすがるような思いで、気を取り直そうとした。だが手術を受けても、その後の生活に大きな不安があった。

片腕になって......
 それから何をすればいいんだ......?手術をしても......
 その先はもう長くないかも知れないんじゃないのか......


 しかし、彼は敢えて将来のことを考えまいとした。そして、以前、アルブラートに誓った自分の言葉を思い出した。

俺はアルラートに約束したんだ......どんなことがあっても守ってやると......このまま死んだら、俺は馬鹿の大嘘つきだな......あの子の苦しい秘密を知ってるのは俺だけなんだ......
俺はあの子のために生きていないと絶対に駄目なんだ......


 彼は、ようやく体を起こすと、しばらく黙っていたが、医師を真っ直ぐに見据えると、落ち着いた口調ではっきりと言った。

  「分かりました。手術を受けます。すべて先生にお任せします」

 ムカールは、医師の助けを借りて立ち上がると、ヨシュアの部屋を仕切るカーテンの中に入って行った。そこは、洗面台と小さな椅子が置いてある狭い空間だった。彼は、アデルに清潔な服を持って来させた。服を新しく着替えると、彼は、少年の寝ているベッドの方に歩いて行った。

 アイシャは青年が近寄った気配を感じたが、アルブラートの手をしっかり握って離さなかった。少年が麻酔から覚め、目を開けると、ムカールは医師を呼んだ。

 医師は少年の脈や血圧を測り、熱がないのを確かめると、もう大丈夫だと言った。アルブラートは徐々に意識がはっきりして来た。彼は、自分を見降ろしている青年に気づいた。また、誰かが自分の手を握っているのを感じたが、その手は看護婦だろうと思った。

  「アルラート。まだ分からないのか―アイシャがここにいるんだ」

 アルブラートは自分をじっと見つめる美しい少女の顔に気がついた。最初は誰だか分からなかった。白い肌、大きな黒い瞳、しっとりとした黒く長い睫毛、薔薇色の頬―理知的な整った形を描く眉。真っ直ぐな額からは、艶のある黒髪が波打ちながら、長く伸びていた。

  「ムラート......私を忘れたの......?」

 彼は「ムラート」という懐かしい呼び名に、急に思い出したように、少女を驚きの眼差しで見つめた。

  「アイシャ......本当にアイシャなのか......」

 彼はアイシャを自分の胸に抱き寄せた。少女の長い黒髪からは、ほのかに石鹸の香りがした。その香りは、アルブラートには懐かしいオリーブの花の香りだった。彼は、彼女の細い体の温かみと、心臓の鼓動を感じ取った。アイシャがここに生きていることは、彼にはまさに奇跡だった。

 彼は、彼女の髪の艶やかな感触を、何回も撫ぜながら確かめた。そうして、彼女の頬に優しく触れながら、改めてアイシャの顔にじっと見入った。

 アイシャの面影は、虜囚の身となった後も、幾度となく浮かび、彼は彼女の姿を偲んでは泣いた。解放された後も、いつも心の中に彼女がいたが、もはや生きてはいまいと思い、考えることさえ諦めていた。

アイシャがこんなに美しくなって......
 無事で目の前にいるなんて......まるで夢みたいだ......



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