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砂漠の果て(第11部「予兆」)

第十一部「予兆」


―第34章―甦る過去

A Farewell★


翌朝、アルブラートは8時半頃に目を覚ましたが、いつもは彼よりも早起きのアイシャが、なかなか起きてこなかった。彼は彼女を起こさないように、静かに食堂に行くと、一人で二人分の朝食の用意をした。いつものように、パンとミルクと、オレンジとコーヒーだった。

 今日は日曜日だった。仕事は休んで、午後にはザキリスの病院に出かけ、ムカールの退院の手伝いをする予定だった。

 アルブラートは、昨夜の医師の話をぼんやりと思い出しながら、食事を口に運んだ。何とはなしに、青年に顔を合わせる自信がなかった。ただ、ムカールが余命いくばくもないことだけは、心から完全に閉め出していた。

彼が真実ギリシャ王の息子であったとしても―                         あの大公妃と王とは正式の婚姻を認められなかったんだから......
  今さら王位継承の話でもないだろうし......
  ムカールがあのアルメニア大公妃の息子と確定される証拠は......
  まだ完全ではない―
  それでも彼は母親かも知れない人と会うことになるんだろうか―



 ムカールは、病室で、一通の手紙を読んでいた。それは調理師時代の後輩だったファハドからの書簡だった。

親愛なるムカール

 先週、私たちの親しき友であり、偉大なるユダヤ人であったヨシュア・エゼキエルが急性肺炎で永眠しました。まだ67歳でした。ヨシュアは亡くなる間際まで、あなたのことを「極上の宝石」と呼び、あなたの健康を祈っていました。

 あなたも亡命し、ヨシュアも亡くなった今、もはやこのホテルでは、私とサラーフにとって昔なじみの親しい人はいなくなりました。私たち二人は今はサイダの別のホテルに勤めています。ムカール、あなたがいつまでも元気でいることを私たちは神に祈っています。

 ファハド・アル・アブディーン


 彼にとって、父とも祖父とも慕っていたヨシュアの死は衝撃だった。ヨシュアの突然の死によって、自分にも近々死が迫っている気がしてならなかった。それほど、今回の発熱の発作は今までにないほど苦しいものだった。
それでも、死を怖れる彼は、医師にどんな検査の結果を告げられても、何も訊くまいと心に決めていた。

もうすぐアデルに子供が産まれる......
  その子を見ることさえできたら―もういつ逝ってもいい......
  けれどもアルブラートのことは......?
  彼を今後どうしてやったらいいんだ......


 病室の戸をノックする音がした。彼は手紙をサイドテーブルの引き出しに入れた。ザキリスがやや緊張した面持ちで入って来た。彼は、医師の表情にただならぬものを感じ取り、やはり自分の疑念は正しいのだと直感した。

 ムカールは、それでも、いつものように何気ない風を装いながら、相手を見た。彼は、常に相手を、真っ向から、あけすけに、まじろぎもせず見つめるのが癖だった。その度に、黒い宝石のような眼差しが、よりいっそう輝いた。彼に見つめられた者は、その王者のような凛とした、高貴な知性溢れる面差しに必ず圧倒された。

 ザキリスは、彼のやややつれた面持ちを眺めながらも、この青年の、人を見つめる時の表情は、昔からよく知っている大公妃にやはり瓜二つだと感ぜざるを得なかった。

 医師は、彼に、今回の検査結果を報告した。

  「やはり今回の熱は、術後によくある後遺症です―ご心配なさったでしょうが、後はご自宅で1週間ほど、この抗熱剤を服用しながら、安静になさって下さい。それからは―また午前中だけで結構ですから、また仕事に来て頂けますか」

 ムカールは黙ってうなずき、アデルはどうしているかと尋ねた。

  「それが、今日あなたは退院なさるのに、アデルは入れ替わりに入院されたんですよ。胎児が逆子でね―でもこれは出産が間近である証拠でもあります。それだけ赤ちゃんが元気に動いているということですよ。多分―来週の月曜日あたりに産まれるかもしれません。逆子はすぐに治りますから」

 青年がいつもとはうって変わって、口数が少ないのを医師はやや気にかけながら、話を続けた。

  「今のあなたには、お子さんのご誕生が最大の喜びでしょう。どんな時にも子供の誕生は、人間を慰めてくれるものですよ―あなたにも無心な幼年時代というのがおありだったことでしょうね」

  「それは―あったかもしれませんが―私には孤児院の怖ろしい記憶しかありません」

  「そうですか―でもそれ以前の記憶というのは、本当にいっさい覚えておられないのですか」

 医師にそう言われて、ムカールは目を閉じて、何かを思い出そうとした。なかなか何も思い浮かんでこない様子だった。彼は再び目を開け、病室の白い天井と壁、白い窓枠を見つめた。途端に、ハッとしたように話を切り出した。

  「そういえば―確か5、6歳の頃、白い壁と高い天井に囲まれた部屋にいたことがあります。そこはまるでどこかの宮殿のように美しい部屋でした―私は誰かといつもその部屋にいて―窓から青い海を眺めていました―その人は......私の母だったような気がします」

 彼の声は、いつもよりも弱々しく、力がなかった。だが彼は尚も考えこんで、こう言った。

  「その女性が―私の母であったか......今となってはまったくはっきりしません―ただ、私はよくその人に尋ねました―『あれは地中海なの?』―と......その人は、あの海はエーゲ海だと答えていました......
私が覚えているのは―ここまでです」

  「ああ―だから、あなたは『誰かとどこかのお城にいる夢をよく見る』と、アルブラートにお話されたんですね」

  「アルブラート......?彼が先生にそんな話をしたんですか」
  「私の方から、あなたの幼年時代を彼に尋ねたんです―昨夜ね」

The Longing for the Mediterranean★


 青年は医師をまじまじと見つめ、やや不思議そうな表情で、微笑んだ。

  「私の義手のことでですか―先生が私にそのように興味を持たれるのは」

  「いいえ。単にそのことだけではありません。あなたの孤児院での事件が、ある人との生涯と深く関係していると思われるからです」

 ザキリスは落ち着いた口調でそう言うと、彼に1枚の写真を手渡した。ムカールは、その写真を見た瞬間、まるで鏡を見ているかのような錯覚に陥った。だが、もう一度よく見てみると、それはあの日記帳に貼ってあった女性の写真だと分かった。

  「オルガ・エレーナ......バシリエフスキー......?」

  「そう。そうです―あなたは私の書簡を整理しておられたので、多分ご存知かと思うのですが、この方は、もう20年もご子息を探しておられるのです―でも、この方のバシリエフスキーというお名前は、どうしてお分かりになりましたか」

  「アルブラートに渡した私の義父の日記帳に―グルジャーノフという名で、この方の若い時の写真が貼ってありました......それと、先生の書簡を見て、同一人物なのではと―そう思ったのです」

 ムカールは、日記帳の写真を見た時には、自分とは似ていないと思ったが、今度の写真の彼女はほぼ30代前後だった。彼はその写真を見ているうちに、懐かしいような、古い記憶が呼び覚まされるような複雑な気持ちにとらわれた。

 ザキリスは、そっと彼の様子を見守っていた。洞察力に優れたザキリスは、青年が明らかに動揺し、驚きを隠せないのを見て取った。ムカールは医師を真っ直ぐに見つめると、何かの謎を解き明かしたい時のような、ためらった口調で尋ねた。

  「この女性はいったいどんな方なんですか―何か私と関係がある方なんでしょうか」

  「この方は、今はアルメニア大公妃でいらっしゃいます。ですが、20歳で故ギリシャ王ゲオルギオス2世に嫁がれ、ご長男のアレクサンドル・グレシアス様をお産みになられました。王は1947年に亡くなられたので、その後、アルメニア大公とご再婚されたのです」

  「ゲオルギオス2世というと―あの有名な『亡命王』ですか......
2度に渡ってルーマニアや英国に亡命を余儀なくされたという―」

  「その通りです。よくご存知ですね―ムカール、あなたは博学な方ですね」
  「いえ......私はただ歴史や美術の本を読むのが好きなので―」

  「私はあなたと出逢って、まだ半年ほどですが、なぜかあなたを古くから知っているような気がするんです。昨年の夏、サイダのホテルで初めてあなたを見た時―私は、あなたが、この大公妃に瓜二つでおられるのに、非常に驚きました」

 ムカールは、黙って医師をじっと見つめていた。彼は、白い開襟シャツに、グレーのズボンを身につけていた。ベッドに体を起こしているうち、彼はやや呼吸が苦しくなって来た。ザキリスは、疲れさせないように、彼を横にならせた。

 医師は、王の長男が王子として承認されなかったことや、王の2度目の亡命の際に、アレクサンドルが王政反対派により、トルコのマラシュの修道院に誘拐されたことを話して聞かせた。また、やっと探し当てた修道院で、盗みを働いた9歳の少年が、左手首を切断され、マラシュの街中に捨てられたという事実を王が知った後、心臓発作で倒れたことも語った。

  「アレクサンドル様は1935年12月15日生まれです―ギリシャの国家警察は、その修道院長に、アレクサンドル様の6歳の時の写真を見せ、追い出した少年と同じ子かと詰問しました。院長はそうだと認めましたので、その場で逮捕されました―ですが、肝心のお子様は行方不明のままなのです」

 ムカールは、静かに医師の話を聴いていたが、落ち着いた調子で言った。

  「それじゃ......この私がゲオルギオス2世の長男である確率が高いと―そうなるんじゃありませんか」

  「そうです。あなたにお知らせしないままに、大変失礼かと思いましたが、あなたがあまりに大公妃に酷似しておられるので、私は、大公妃に、そのことをお話しました......もうお分かりかと思いますが、大公妃は、あなたを本当の息子ではないかと思われ、あなたに非常にお会いしたいと切望なさっておられるのです」

 ムカールは、深い溜息をついて、ザキリスから目を反らし、考えこんだ。

まさかそんな―俺が王の息子だなんて......
  そんなご立派な身分のわけがないじゃないか......
  それに時々こんなに息苦しくなる―壊疽がひどくなっているんだ......
  もう先は短いのに―今さら会ってもお互い辛いだけじゃないか......

 だが、長い間、孤児として生きて来た彼は、母親かも知れないという女性に会ってみたいという願望も強かった。彼は、息苦しさを極力抑えるようにしながら、医師に伝えた。

  「私が......そんな高貴な身分の血を引いた人間とは―とても思えませんが......その方が私にお会いしたいのであれば、私は拒んだりしません―ただ......お会いするのは―アデルの出産が終わってひと月ほど後にして頂けませんか―彼女はアルジェの平凡な生まれです。今の話は―彼女を怯えさせるだけです......私から、彼女の出産後、しばらくしてお話しするのではいけませんか」

 ザキリスは、彼の希望を全面的に受け入れ、また、そのように大公妃に伝えると約束した。青年は、しばらく無言でいたが、どうしても分からないことがあると言い出した。

  「なぜ―王の息子は王子として―正式に承認されないままだったのですか......?それに......正式な王子ではなくても、警備の厳しいはずの宮殿から―なぜ―王の息子がそうやすやすと......誘拐されてしまったのでしょうか」

The Cliff★


 ザキリスは、少し話しにくそうに言い淀んでいたが、やがてきっぱりと説明した。

  「王は亡命先の英国で、1933年、18歳だった留学中のグルジャーノフ嬢と出逢われました。お妃のルーマニア王女エリザベス様にお子様はお生まれにならず、1935年7月に離婚されました。その後、オルガ様がご懐妊されていることが分かりましたので、同年王制が復活後、王は、正式に王妃にお迎えになるおつもりでした―しかし......」

 ムカールは、やや呼吸の苦しさが治まった様子で、黙って医師の話を聴いていた。

  「グルジャーノフ家は、ロシアのロマノフ王朝と血縁関係にあるホルシュタイン・ゴットルプ家の遠戚にあたる、アルメニアでは名門の一族なのです。ですが、遠い昔、16世紀頃に、トルコ人の方が一人嫁がれたというだけで......オルガ様はトルコ系アルメニア人と、ギリシャ国民の非難を浴びせられました―王は残念にお思いでしたが、こういう経緯があったのです」

  「......ギリシャ人がオスマン・トルコに虐殺される事件を描いた絵を見たことがあります―ギリシャ人は今でもトルコ人を憎んでいるんでしょうか」

  「それはドラクロワの『キオス島の虐殺』という作品ですね―憎んでいる―とは言い切れませんが......オーストリア人が今でもトルコに抱いているような、同様の複雑な感情はあると思います」

皮肉なものだな......
  その大公妃はトルコ人の血を継ぐためにギリシャ王妃になれず......
  その息子かもしれない俺は―アルメニア人の血を引くために―               トルコの孤児院で虐待されたということか......


  「また、なぜ警備の厳戒な宮殿から、王のご子息が誘拐されたかについては―私は、よく知らないのです。きっと、王の亡命の混乱に紛れて、犯人は、オルガ様を騙したのかも知れません」

  「騙した......?それは―どうやって......」

  「多分、警備兵か何かを装って―『ご子息を先に安全な場所にお連れしましょう』とでも偽って、お子様をまんまと馬車に乗せてしまったのかもしれません―そういう噂が、当時流れたこともありましたのでね」

 ザキリスは、この話は今日はこれくらいにしておきましょうと言うと、彼の右肩にペニシリンの注射をし、部屋を出て行った。

 ムカールは、この医師の話を聴いて、大筋納得がいったが、やはりどうしても、自分が王の息子のアレクサンドルであるとは信じ難かった。しかし、もし本当にそうなら、孤児院での悲惨な事件に遭うことはなかったかも知れないと思った。

いや......違う......その王の息子は―
  アレクサンドルであったために誘拐されて......
  トルコの孤児院で手首を切断されたんじゃないか......!                     じゃあその王の息子というのは―結局は―俺なのか......!

  人の宿命なんて分からないもんだな......
  身分なんて関係ないんだ―俺は―
  ギリシャ王の息子になんて生まれてこなきゃ良かったんだ......
  そうすれば―こんな苦しい壊疽に蝕まれずに済んだのに......

 午後の2時過ぎに、アルブラートが彼の病室を訪れた。彼は、空の鞄と、買い物の包みを手に抱えていた。

 ムカールは、彼を見ると、ゆっくりベッドに起き上がったが、少年のくたびれたような、憔悴した顔に、アルブラートもまた、自分の病気の進行を既に知っているのではないかと感づいた。

 アルブラートは、青年の顔を直視できずにいたが、やがて、おずおずと視線をムカールの方に向けた。彼は、青年が、すっかりやつれた様子であるのに驚き、不安げな表情になった。だが、黙って、ベッド脇に荷物を置くと、来客用の椅子に腰掛け、鞄から、コーラを取り出し、ムカールに差し出した。

 少年は、自分でもコーラを取り出すと、少しだけ飲み、口をつぐんでいた。ムカールは、彼に短く礼を言うと、受け取ったコーラを飲んだ。

  「ぬるいな、このコーラ。おまけにまずい。カイロのコーラってのは、本当に飲めたもんじゃないよな」

 アルブラートはそれでも、返事をしなかった。

  「お前は本当に無口だな―アルラート。そんなにお前っておとなしかったかな」
  「......俺は昔から無口だよ―話下手なんだ―あまり笑ったこともないし......小さい時から」

  「そうかな。お前は前は、そんなに無口じゃなかったよ。でもいいよ。俺は、お前のそういうところが好きなんだ―俺と違って、慎重で物静かで、考え深いからな。俺はお前を一番最初に見た時から、お前はそういう子じゃないかって、すぐに分かったんだ―すぐにお前のことが気に入ったんだ」

 彼は微笑みながらこう言うと、いつものように少年を真っ直ぐに見つめた。アルブラートは彼の輝く黒い瞳に、人なつっこさと、王者の品格を同時に見い出した。彼は、いつも、青年の、卓越した魅力に惹き込まれると共に、自分は薄汚れた痩せた羊なのだとの劣等感が沸き起こり、気が挫けそうになるのだった。


―第35章―誕生:1961年3月


The Childbirth★


 ムカールは、彼の持って来た包みを見て、何を買ったのかと尋ねた。

  「ああ―これはアイシャの外出用のヴェールだよ......もう目の手術をして1ヶ月近いし―俺の仕事先に連れて行ってやりたいんだ。そこでアイシャは歌を歌うんだ。オーナーも彼女の歌を聴きたいって言うし......」

  「ああそうか―アラブ人は不便だな。娘も15を過ぎたら、どんなにきれいな服を着ていても、外出の時は真っ黒いヴェールで顔まで隠すもんな」

  「アイシャは嫌がっているけれど―仕方ないんだ。でも―変だな―俺たちはアラブ人でも、別にイスラム教徒ってわけじゃない。俺はキャンプ育ちだから、特にコーランを教わったわけじゃない......でも女はヴェールをつけていないと、異教徒だと非難されるから......」

  「じゃあ、アルラートは変わり者扱いされるのか。アラブ人だとイスラム教を信じないといけないのかな―まあ俺も別に何の宗教も信じていないし......だいたい俺は―レバノンで育ったにしろ、アラブ人じゃないもんな」

 アルブラートはそれを聞くと、ハッとしたように、一瞬青年を見つめたが、すぐに視線を自分の履いている黒い靴に落とし、困ったようにいつまでも靴と床を眺めていた。

  「お前はアラブ人だってすぐ分かるよ。でもお前は―レバノンで初めて俺に会った時、どう感じたんだ?俺には―何もアラブ人らしさがないだろう―むしろギリシャ人かアルメニア人の混血だと思ったんじゃないのか?ヨシュアはいつも俺のことをそう言っていたんだ」

  「......いや―最初にムカールを見た時は―何もそんな考えは浮かばなかったよ―ただ普通のレバノンのアラブ人だと......それに......
ムカールは俺の死んだ母さんによく似ていたんだ―むしろそのことに驚いたんだ」

  「俺がお前の母さんに......?初耳だな。なんでそのことを今まで言わなかったんだ」

  「だって俺は―母さんのことを......誰にも言いたくなかったからなんだ―ほんの一言でも言うと―辛くなる......怖ろしくなる―だから―」

 青年は、再び、アルブラートの苦悩について考えこまざるを得なかったが、そのことは後で話そうと思った。それより先に、今朝、医師から聴いた話を持ち出した。

  「ドクターが今朝―俺の出生の秘密を明かすような話をしてくれたよ。でもお前は、昨夜、同じような話をすっかり聴いたんだろう。俺が亡くなったギリシャ王の息子じゃないかとか......アルメニア大公妃が俺の母親じゃないかとか......」

 アルブラートは黙ってうなずいた。そして、口ごもるように言った。

  「先生の話は......ほとんど間違いのないことだと思う―先生は、ムカールがあの女性にそっくりだということと、マラシュでの事件のことで、確実性が高いと確信していた―でも、その女性にムカールは会うのかい」

  「まあ......会ってみるよ。会ってどうなるわけでもないけれど―それだけ身分の高い人が、こんな俺に会いたいって言っているんだ。それを断るなんてとてもできないだろう―でも、もしかしたら―他人の空似かも知れないんだ」

 ムカールのこの言葉に、アルブラートは急に涙ぐみ、羨むような口調になった。彼のその様子に、ムカールは驚いた。

  「他人の空似だなんて......そんなこと言うなよ―!ムカールは、もしかしたら、本当にギリシャ王の息子のアレクサンドルかもしれないんじゃないか......普通の人間なら、とても足元にも及ばない最高の身分じゃないか―おまけに死んだと思っていた母親が生きていて......その人の身分も高貴なものじゃないか―俺はあんたが羨ましいよ―本当の母さんに会えるんだから......」

 青年は、不用意なことを言ったと反省した。それと同時に、アルブラートの、亡くなった母親に対する思慕が危険なまでに深く、彼の身に起こったことが、常に彼の傷つきやすい魂を切り裂き、果てしない拷問にかけているのだと感じた。

彼は純粋で―
  まったく汚れのない幼な子のような魂を持っている......
  まるで繊細なレースで完成されたヴェネチアン・グラスのように―

  そしてそのグラスが粉々に砕けて......
  いつも彼の心の奥深くに残酷なまでに突き刺さっている......
  この破片をきれいに取り除いてやるには―
  いったいどうしたらいいのか―


 彼は、大公妃が自分の本当の母親である確証はまったくないのだ、と言おうと思ったが、止めておいた。彼自身は、「他人の空似」「何かの間違いではないのか」と感じていたが、大公妃の写真をアルブラートも見た以上、あれだけ似ている人間どうしが「親子のはずがない」とは言い切れなかった。

  「俺はいつも馬鹿だな......いつも不用意なことばかり言って、お前を怒らせたり、傷つけたりしている―でも......俺だって信じられないことばかりなんだ―あまり急な話で......ただ、身分の高さが人の幸福を約束するものでもないだろう?―このことにはお前は反対じゃないだろう?」

 アルブラートは涙ぐんだ目で、青年を見た。ムカールには、その黒く大きな瞳が、これから生き生きと走り出そうとしている若鹿のように可愛いらしく思えた。

  「人は愛する人と一緒に、平和に暮らすのが一番の幸福なんだ......
身分が高くても、安全で豊かな生活が保証されるとは限らない―現に亡命ばかり強いられたギリシャ王がそうだった......身分が高いと、窮屈な檻に閉じ込められたも同じさ、きっと―」

 アルブラートは彼の話を聞くうちに、感情的になった自分が恥ずかしくなった。自分は時折怒ったり、泣いたりするが、それに対して、青年は決して叱ったり、責めたことはなかった。

ムカールの言っていることは本当だ......
  なんで俺はムカールが大公妃に会うことに憤ったりしたんだろう―               ずっと親の顔も知らなかった彼が―やっと母親に会えるのを―                なぜ心から祝福してあげようとしなかったんだろう......

  その大公妃だって真実彼の母親だという確証はないことぐらい......
  俺だって分かっているはずなのに......



 アルブラートは青年から目を反らし、口をつぐんでいたが、やがて思い切ったように言った。

  「ムカールはいつも自分のことを馬鹿だと言うけれど―馬鹿なのは俺の方なんだ......あんたはいつも穏やかで冷静で―俺よりずっと大人なんだ―俺はいつもすぐに怒ったり泣いたりして......要するにガキなんだ......
ごめんよ」

 彼はやっとこれだけのことを言うと、黙って、持って来た鞄にムカールの荷物を詰め込み始めた。ムカールは少年の様子を、ベッドに起き上がったまま見つめていたが、息苦しいと言って、再び横になった。

 アルブラートは驚いて、医師を呼ぼうとしたが、ムカールは制止した。

  「高熱が出た後だからこうなるんだとドクターが言っていたんだ......
しばらく休めば大丈夫だよ」

 ムカールは数分ほど目を閉じて、苦しそうに呼吸をしていたが、やっと治まったらしく、目を開けて、アルブラートを真っ直ぐに見つめた。

この子があんなに怖ろしい経験を俺に話したのは―                          もしかしたら俺が、彼の母親に似ていたからなのかも知れない......
  だからこそ―あんなに苦しい告白をせざるを得なくなったんだろう― 

             俺が―自分の母親に見えて―
  俺にしかあの話をする人はいないと思ったのかもしれないな......

 彼は、自分の憶測が正しいとすると、少年は、きっと他の誰かには、あの経験を打ち明けることは、多分不可能なのではないかと怖れた。

それでも彼は俺が死んだら―どうなるんだ......
  やっぱり誰かがアルラートの心を支えてやっていく必要があるんだ―            そうでないと、彼は―こんなに才能豊かな彼は......
  いつかは自滅の途を辿ってしまう......


 彼は、アルブラートの将来を危惧したが、アイシャとの結婚が彼を救うひとつの手がかりになるかもしれないとも思った。ムカールは元気のない声で話しかけた。

  「お前は......19歳になったんだったな......結婚が早いな」

 アルブラートは少し顔を赤らめたが、ちらりと青年を見ると、自分の靴に目を落として、こう言った。

  「昔、キャンプの長老のファイザルがよくこんなことを言っていたんだ―『愛する乙女を 若者よ 早くその弓で射落とせよ 甘い果実の蜜を取れ 白い花園には迷路がある だがその前に神の許しを得るが良い』―」

 ムカールはその言葉を聞いて、わずかに微笑んだ。

  「19歳は早いけれど......別に悪いことじゃないな―それにきちんと挙式を済ませるんだろう......偉いな」

  「ムカールも子供が生まれたら、アデルと挙式すればいいじゃないか」

 ムカールは笑って、ちょっと考えこんだ。

  「そうだな......でも順序が逆さまだな―結婚式を挙げてから子供ができるのが普通なのに......でもあのホテルで働きながら挙式なんて不可能だったし―だからといって、俺はアデルをいいかげんに相手にしたんじゃないんだ。本当に愛しているんだ......でも困るのはアデルだな―こんなに体が弱ってしまって―式なんて挙げられないな」

  「そんな......最近病気したばかりだから、そう感じるんだよ―しばらく家で静養するんだろう。アイシャの料理を毎日、3階まで運ぶよ。ムカールは寝ていればいいんだ」

 アルブラートはそう言いながら、サイドテーブルの引き出しを開けた。そこにはファハドからの手紙が入っていた。彼は、ヨシュアが亡くなったという知らせに驚いた。ムカールは、その手紙はもう読むのが辛いと言って、少年に託した。

  「ヨシュアはつい最近―1月に返事が来たんだ。その時は元気だったんだ......こんなにあっけなく死んでしまうなんて......人間なんてはかないな―でもヨシュアは死んじまって良かったのかもしれないな......」

  「なぜそんなことを言うんだ......死んで良かったなんて―」                 「俺についての嫌な知らせを、ヨシュアは聞かずに済むからさ」

  「嫌な知らせ―?何だい、嫌な知らせって......」

 ムカールは一瞬黙ったが、笑って、何でもないと言った。アルブラートは、彼が、もしかしたら自分の死期が迫っていることを直感しているのではないかと内心震え上がった。しかし、敢えてそのことは考えまいとし、彼が死ぬはずがないと思い込もうとした。

 荷物を整理し終えると、二人は部屋を出たが、ムカールはアデルが逆子で入院しているから、彼女の部屋に寄って行くと言った。

  「もうすぐ生まれるのか......名前はもう決めた―?」
  「ああ―うん......イシュメールかアザゼルかな」

 彼は、女の子だったらいいと言った。

  「『幸福』の意味のアセルと『カモシカ』の意味のガゼルを一緒にしたんだ。女の子はきれいで可愛いから―そういう子が欲しいな」

 病室を出て、右に曲がると、両面が大きな窓に囲まれた広い廊下に出た。そこは病院の5階で、見晴らしが良かった。左側には、オペラ座を中心とした新市街が広がり、遥か遠方にナイル川が夕暮れの光を帯びながら煌いていた。

 右側は、以前散歩に出かけた旧市街がよく見えた。ムカールは廊下の手擦りに右腕をよりかからせ、目を輝かせながら、しばらくその景色に魅入っていたが、すぐ後ろに立つアルブラートを急に振り返り、微笑みかけた。

 その大輪の花のような華やかな眼差し、いつになく生き生きと紅潮した大理石のような白い肌、顔全体の、深みを帯びた情感的な表情とよく調和する形の良い口元―それらを見て、アルブラートは、以前は自分の母親を連想させた彼の容貌に、彼そのものの格調の高い、無限の美しさを見る思いだった。

The Twilight Sight of the Old Cairo★


  「ごらん、アルラート」

 ムカールは旧市街を指差した。

  「こうやって見ると、あの旧市街も夕日に映えてきれいじゃないか。あのシタデル(城塞)の尖塔も本当に惚れ惚れするな―あのモスクの中庭の時計塔に、パリから贈られた時計がはめ込まれているそうだね」

 アルブラートはそう言われても、なぜパリとこのカイロが関係あるのか、さっぱり分からなかった。

  「なぜパリがカイロに時計を贈ったんだい?」

  「今から130年くらい前のエジプト総督だったムハンマド・アリが、当時のフランスの国王ルイ・フィリップに、ルクソール神殿にあったオベリスクの移築を許可したからだよ。その時のお礼の時計だそうだ―どんな時計か、いっぺん見てみたいな」

 アルブラートは、「オベリスク」という言葉に、何かしら不思議で神秘なものを感じた。

  「何?その 『オベリスク』って」

  「3メートルぐらいの台座に、細長い尖塔みたいなものがそそり立っているんだ。一番上は、『ピラミディオン』 っていう、ピラミッドの形を模したものが乗っているんだ。世界で一番有名なのは、そのパリが譲り受けたコンコルド広場のオベリスクだよ」

 アルブラートは、「パリ」という言葉の響きに憧れた。このアフリカ大陸の北に、地中海を経て、遥かその先に「パリ」があるとは信じられない気がした。彼は、「パリ」と聞くと、煌びやかな豪壮な建物の連なる、大都会を連想した。とても自分には手の届かない世界だと感じた。

 ムカールは、少年を見つめながら、急に予言者めいたことを言った。

  「アルラートはいつかパリに行くな。ずっとパリに住んで、演奏家として名を成すんだ―10年以内に必ずそうなる。俺の予感は当たるんだ」

  「まさか。なんで俺がパリに行くんだよ。そんな―アラブ人もいない国に行くのは不安だし......俺はこのままカイロに住むのがいいよ」

  「まあ、俺の言うことを信じておけば間違いないって。それに、コーラはパリの方が絶対冷えててうまいぞ」

 彼の言葉に、アルブラートは思わず笑った。それを見て、ムカールも満足そうににっこりした。

  「やっぱりお前は笑った方がいいよ。お前の笑顔は最高に魅力的だな―アルラートは絶対パリに行くよ。お前はフランス語が達者だし、パリにもアラブ人は多いから、大丈夫だよ」

 アルブラートは、この時ムカールと交わした会話を、彼の死後何十年経っても忘れなかった。

 アルブラートは彼の予言通り、パリに行き、演奏家になり、そこにずっと住んだ。

 青年の教えてくれたコンコルド広場にも何回か足を運んだ。彼は、ムカールの死後、ルクソール神殿に行き、初めてオベリスクを見た。だが、パリのオベリスクを見た時、その規模は圧倒的に大きく感ぜられた。オベリスクから受けた霊感をもとに、いくつか作曲もした。

 そのオベリスクは、最初は息子のアリと一緒に見た。しかし、時が経つと共に、そのアリもいなくなり、いつしかたった一人でオベリスクを見るようになった。彼は、なぜ自分のそばに息子も誰もいなくなったのか、どう考えても分からなくなる時があった。

 1961年3月8日、ムカールが退院した日の晩のことだった。アルブラートは約束通り、アイシャの作った料理を、彼の3階の自宅まで運んだ。部屋の片隅は、もうベビーベッドや、赤ん坊の肌着や服がきちんとたたまれて用意されてあった。アデルは慌てて入院したらしく、台所や服などは散らかったままだった。

 ムカールはベッドに寝ていたが、テーブルにつくと、夕食を取り始めた。その間、アルブラートは台所の食器を片付け、散乱した服をたたんでクローゼットの中にしまうと、部屋の隅々まで掃除機をかけてきれいにした。

 少年のきれい好きと家事の手際の良さに感心しながら、ムカールはアイシャの料理を食べていた。アイシャはなかなか料理が上手だと彼は思った。

アイシャはアルラートと幼なじみで―
  まるで本当の兄と妹のように、アルラートの母親の世話を受けて
  育ったんだな......そのアイシャに彼が母親の死に際の様子を実際―
  話すことができるだろうか......アイシャは恐ろしさに震え上がって―             泣き崩れるんじゃないか―

 ムカールは、掃除の済んだアルブラートをそばに呼んだ。少年は、彼の隣に腰掛けた。

  「アルラート......お前は去年、俺に―お前の母さんがどうして亡くなったのかを打ち明けてくれたな」

 青年にいきなりこう言われて、アルブラートの表情は、みるみる強張っていった。ムカールは軽く首を振ると、右手で彼の左手を優しく握った。

  「俺はお前に 『俺の言葉を忘れるな』と言った......でもお前は何も答えなかったな―もちろん、あんな苦しい告白の後に、すぐに応答ができるはずがない......俺は―最近の雨の日、お前がゲリラの自殺にショックを受けている時にも、お前に俺の考えを言い聞かせて、『俺の言葉を忘れるな』と言った―でも俺はあんな言葉は傲慢だったんじゃないかと時々思うんだ―アルラート、お前の本音をできたら教えてくれないか」

 アルブラートは何回も唾を呑み込みながら、何かを言おうとした。彼の唇は震え、顔は蒼ざめていた。彼は、青年の手をそっと振りほどくと、今度は自分から相手の手を握り締め、やがて首を横に振った。

  「......ムカールの言葉は......ムカールの言葉は―すべて正しいんだ......あんたは傲慢でも何でもない......そうだ―ムカールの言葉は俺の心の支えになったんだ―何も返事をしない俺が悪かったんだ......」

  「そうか......でも、お前が返事ができなかったことは何も悪くないよ―それで―お前はこれから先、俺の言葉だけで―やっていけるか」

 アルブラートは目を閉じると、肩を震わせながら、青年の言葉を思い起こし、心に刻み込もうとした。彼は、自ら罪業を背負っているかのような意識を、ムカールが生きていることで、取り除くことができるように思われた。彼は、目を見開き、ムカールを真っ直ぐに見つめると、無言でうなずいた。

 ムカールは、少し安心したように溜息をついたが、内心、アルブラートの魂は、自分の言葉だけでは決して救われてはいないと感じていた。

 その日から4日後、アデルは女の子を出産した。1961年3月12日の朝だった。ムカールはかねて考えていたように、赤ん坊にアザゼルと名づけた。アルブラートは、このアザゼルが、18年後、彼の新たな苦しみの源になるとは、その時は想像だにしなかった。


―第36章―金時計―1


The Golden Watch


 アザゼルは、ムカールによく似た黒曜石のような瞳をしていた。生後2週間も経つと、茶色がかった髪に、ところどころ金髪が混ざり始めた。アデルはなぜ金髪があるのかと不思議がったが、ムカールは何も言わなかった。ただ、ザキリスの話したことがほぼ真実なのだろうと、赤ん坊を見ながら考えた。

俺にはギリシャやトルコの血が流れているからだな―
この子の金髪はきっとその遺伝から来たんだ......


 彼は、ほんの半月前、死の予感を感じた時、「生まれてきた子の顔さえ見れたらいつ逝ってもいい」と考えた自分をあざけった。アデルは、日に日に愛らしさを増す娘にうっとりしていたが、彼は、こんな可愛い子を遺して死んでしまうかもしれない自分を呪うばかりだった。

 もう4月の初旬だった。アザゼルは、蒸し暑い晩は、よく子猫のような泣き声をあげては乳を欲しがった。そんな時は、アデルは部屋の窓を開け、バルコニーに出て、赤ん坊をあやしていた。

 下の階で寝ているアルブラートにも、時折赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。アザゼルの泣き声は、弱く、か細かった。彼は、時折、その声に目を覚ますことがあったが、昼間の仕事の疲れで、すぐに寝入ってしまった。

 ただ、その泣き声が、彼の夢の中に入ってくることがあった。彼は、どこかのアパートの一室に寝ていた。すると、ドアが開き、亡くなった父と母が部屋に入ってきた。二人は、赤ん坊を抱いていた。それは、アルブラート自身だった。

 アルブラートは起き上がって、両親に声をかけたが、二人とも彼には気がつかない。ただ、母がちらりとこちらを向いた。彼女はほんの数秒だけ、彼を見つめて微笑んだが、すぐに抱いている赤子をあやし始めた。

父のバシールが急に「時間がない。もう行こう」と言った。二人は、鞄にまとめた手荷物と楽器を携えて、部屋を出て行った。

 アルブラートは、急いで起き上がり、必死で両親を呼びながら、部屋のドアを開け、走り出した。ドアの外は、一面の砂漠で、雪が激しく降っていた。遠くから、父の声がかすかに聞こえて来た。

 「この子の将来が楽しみだね―きっと一流の音楽家になる」

 アルブラートは走り続けたが、足が痛み、その場に倒れてしまった。

父さん......母さん......!俺はここにいるんだ......どこに行くんだ―父さん......母さん......!

 両親の姿は既に吹雪にかき消されてしまい、どこにも見当たらなかった。アルブラートは仕方なく、さっきのアパートに戻ろうと立ち上がった。すると、すぐ背後にドアがあった。そのドアは木製だが、取っ手は真鍮で、立派な造りだった。彼がドアを開けると、もうそこは先ほどの室内だった。

 彼は、このアパートはベツレヘムのアパートであると思った。部屋には立派な家具が置かれてあり、居間を抜けると、広い吹き抜けのようなホールに出た。アルブラートは、ここは父の演奏サロンだと思いながら、次の部屋に行こうとした。だがそこは長い廊下だった。廊下を右に曲がると、赤ん坊の泣き声がさかんに聞こえて来た。

 その部屋はドアが特別に高く、重たかった。彼はそっとドアを開けた。大振りのベッドに、ついさっき母が抱いていた赤ん坊―アルブラート自身がいた。彼は赤子に触れようとしたが、なぜか赤子の発する眩しい光のために、抱くことも叶わなかった。

 彼はベッドのそばの椅子に腰掛けた。この赤ん坊と待っていれば、父と母がまた戻ってくるだろうと考えたのである。だが、不思議なことに、赤ん坊は、ほんの数秒で、ぐんぐん成長し、今現在の19歳の彼自身に戻っていった。

 その時、彼の顔に冷たい吹雪が開いた窓から吹き込んできた。その冷たさに、彼はハッとし、夢からさめた。いつの間にか、窓が風で開き、雨が振り込んで来ていたのだった。3階からは、相変わらず、アザゼルの子猫のような泣き声が聞こえてきた。


 アルブラートは急いで窓を閉めた。もう朝の6時だった。7時には目覚ましが鳴り、9時の仕事に間に合うよう、8時半までには家を出なければならなかった。だが、彼は今見た夢のことが気になり、もう眠れなかった。

 彼は昨夜の仕事の疲れがまだ残っている気がしたが、眠気覚ましにコーヒーを入れると、テーブルに腰掛け、ゆっくりとすすった。母と死別して以来、夢の中ではっきりと彼女の姿を見るのは、これが初めてだった。

夢の中の母さんはまだ20歳にもなっていなかった―俺を産んだのは18の時だったから......だから成長した今の俺を他人のように見つめたんだな......

 アルブラートは、ほとんど覚えていない父の姿と声を、夢の中で見聞きできたことに、何かしら嬉しさを感じた。それだけに、母の声ももう一度、聞くことができなかったのが虚しかった。だが、母の姿や声を聞くことに、急に怖れを覚えた。彼は飲みかけのコーヒーを押しやったまま、テーブルに突っ伏した。

馬鹿......!母さんの姿を夢で見て、嬉しいもんか......!声だって聞きたくない―母さんはナザレの地中で......白骨化しているんじゃないか―!俺は、母さんのことを二度と考えたくない―なぜあんな夢を見るんだ......あんな苦しい夢を......!

 やがて7時のベルが鳴った。だが彼はその音にも気がつかなかった。やがてアイシャが起きてきた。彼女はネグリジェのまま、目をこすった。顔を洗いに洗面所に向かおうとし、テーブルにアルブラートが顔を突っ伏しているのを見て、驚いた。彼女は彼がかすかに体を震わせているのに気づき、そっと向かいの椅子に座り、悲痛な気持ちで恋人を見つめた。

 「ムラート......もう7時過ぎよ。一晩中、起きていたの......?」

 アルブラートは落ち窪んだ目で、顔を上げた。その顔は蒼ざめていた。

 「いや......夢を見て―起きてしまったんだ。6時から―」

 アイシャはどんな夢かは尋ねなかった。階上から、またアザゼルの泣き声が聞こえてきた。「大丈夫なの......?午前中休んだらどう......?」
アルブラートは頭を振って、休むわけにいかないと言った。

 アイシャは黙って顔を洗い、服を着替えた。その服は、目の手術が成功したお祝いに、アルブラートが買ってくれた鮮やかな紅い生地のドレスだった。彼女は、この服をことのほか気に入っていた。だが、今はこの服を着るのが切なかった。

せっかく目が見えるようになったのに―私はムラートが幸せそうに、楽しそうに笑っているのを見たことがほとんどないんだわ......ムラートの笑顔は最高に美しいのに―

 だが、アイシャが化粧を済ませると、アルブラートは目が覚めたように、彼女を惚れ惚れと見つめ、にっこりと笑った。アイシャは、彼の笑顔を見て、ほっとし、大きな幸福感に包まれた。

 アイシャは、彼と朝食を済ませ、8時を過ぎると、黒いヴェールに身を包んだ。彼女は、最初は違和感があったが、アルブラートは新しい宝物を見つけたように、彼女の美しさを褒め称えた。

 「アイシャ。そうやって目にお化粧すると、そのスタイルは最高に決まっているよ。何か曲が浮かんできたよ。女性がヴェールを着て似合うのは、アラブ人だけじゃないか。誇りに思うべきだよ」

 アイシャは、愛する若者から賞賛されると、ヴェールも悪くないと思うようになった。二人は、ムカールが退院した翌日から、アルブラートの勤めるレストランで働くようになった。レストランのオーナーは、アイシャの愛らしい容姿にまず驚いた。

 アイシャは、早速、数曲、アラブの伝統曲やシリアで覚えた賛美歌を歌ってみせた。彼女の声は、レストランの舞台ホールに朗々と響き渡り、その豊かで繊細な歌声は、その場で聴いていた客たちを魅了した。

 アイシャは「天使の声の持ち主」と絶賛され、アルブラートとの共演は、カイロの人々の間でたちまち大評判となり、ラジオでも演奏が流れるほどになったのだった。


 その頃、ムカールの診察を定期的に続けていたザキリスは、彼の左肺が既にほぼ9割壊死状態になっているにも関わらず、青年が顔色も良く、熱や呼吸
困難などの発作を起こすことなく、元のように元気に過ごしていることに、奇跡を喜ぶ心地と、いつどうなるか分からないという危惧感を同時に抱いた。

 医師の予感が当たっていれば、青年はいつ敗血症のショックで吐血し、危篤となるかがほぼ分かっていた。彼は、ムカールが6月を迎えることなく息をひきとるだろうと確信していた。それだけに、青年の現在の小康状態は、まったく神の恩寵としか思えなかった。

彼が今元気でいられるのは、精神的なもののおかげなのかもしれない―あの可愛いアザゼルが生まれた―わが子の誕生を喜ぶ気持ちが彼に何らかの生命力を与えているのかもしれない―

 医師の机の上には木製の時計が置かれていた。彼は、その時計の金色の針が、一刻も休まず時を刻むのが怖ろしく思えた。

 ザキリスは、机の引き出しから銀の十字架を取り出した。彼は、その十字架を握り締め、キリスト像にじっと見入った。だが、いつしかその手は汗ばみ、震えだした。彼は、十字架を力いっぱい握り締めつつ、頭を垂れた。

あの青年はもう1ヶ月前の入院の際、己の死を予感していたのではないか......!そう―そうに違いない......その彼に私は嘘をついたんだ―だが、私から彼に死の宣告はできない―それは処刑の宣告と同じなんだ......

 それでも、本人が今後、発作を起こし、死の直前の苦痛に喘いでいる時にも真実を告げずにおられるだろうか―?それもまた無言のうちに処刑を執行するようなものではないか......アデルも―何も知らないままでいきなり彼が危篤に陥る......そして目の前で死んでいく......そんなことは彼女にもあまりにも残酷すぎる―私はどうしたらいいのか―どうしたら......!


 ザキリスは、ムカールが死を怖れる反面、理知的で冷静且つ闊達な面を併せ持つことを考えた。彼は、ふと、あの青年なら、もしかしたら自分の死期について真実を訊こうとするのではないかと思った。彼は、再び十字架を見つめながら考えた。

彼自身は多分、私に尋ねてくるに違いない......そうしたら真実を告げねばならない......あの青年は―神を信じるだろうか?神は人間の死に奇跡をもたらすことはなさらない......しかし、心の苦しみは救って下さる......死の間際の人間の苦悩を......おお神よ......!どうか彼の魂をお救い下さい......!



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