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砂漠の果て(第15部「葛藤」)
第十五部「葛藤」
―第46章―ガザの難民
アイシャはしばらくアルブラートの左肩に頬をもたれかけていた。彼女は、昨夜味わった体を駆け巡る熱い火の陶酔感を思い出し、頭がぼうっとなった。再び彼の温かな眼差しを確かめるように、アルブラートの顔を見つめた。
「もう乙女じゃない」というアルブラートの言葉が、今度は彼女の胸の奥に静かに沈潜し、自分でもその言葉を頭の中で繰り返した。
そう......もう乙女なんかじゃない......
私はこれから一生この人の側にいて、彼を見守ることができる―私はアルブラートの妻となったのだもの......
アイシャはホッと溜息をついて、彼の首筋から肩にかけて、ゆっくりと接吻した。だが彼女は、その途端、小さな叫び声を上げた。彼の左肩に、ひどい切り傷の痕を見い出したからだった。
「......ムラート......この傷はどうしたの?」
アルブラートの脳裏に、四年前の捕虜収容所の記憶が突然鮮烈に甦った。アイシャと再会してから今まで、恋人同士であっても、生肌を見せることがなかった彼は、どう説明したらよいか困惑した。アイシャに収容所のことは言いたくなかった。
「......これは―小さい時、キャンプで友だちとふざけていて―転んで岩にぶつけたんだ......その時できた傷だよ」
そう言う彼の声は震えていた。だがアイシャは、すぐに彼の嘘を見抜き、なぜこんな傷ができたのかと再度尋ねた。
アイシャに真剣な調子で問われると、アルブラートは、もう言い訳はできないと思った。真っ直ぐな性格のアイシャに、ごまかしは通用しなかった。
アルブラートの瞳に、再び苦悩の色が濃く浮かび上がった。彼は肩の傷を服で覆い、彼女をじっと見入ると、苦しげに視線を反らし、途切れがちに低い声で打ち明けた。
「そうだ......アイシャの言う通りだよ......これは―ベト・シェアンの収容所で―15の夏に......そこの大佐からナイフで突き刺されたんだ......後ろ手に手錠をかけられて―凶器を持っていた罰だと言って......」
「......凶器......?」
「......母さんが......キャンプの占領の少し前に作ってくれた......
あのナイフだよ......あのナイフで―物凄い力で突き刺されたんだ......」
彼は、この傷痕のことをここ数年忘れていた。だが今、再びあの恐怖の瞬間を思い出した。彼には、その半年後に母を自ら銃殺したという罪の刻印が、この傷痕なのだと思わざるを得なかった。
「でも―もう過ぎたことなんだ......もうこんな話は止めにしよう」
アイシャはそれ切り何も訊こうとしなかった。彼女は下着の上に薄いローブを纏い、シャワーを浴びると、婚礼衣装のドレスにアイロンをかけ、身なりを整えた。ベッドのシーツを洗濯機に入れ、新しいシーツに取り替えた。
彼女はお化粧をし、頭飾をつけた。鏡で自分の姿を見ると、この婚礼衣装を贈ってくれたムカールのことが思い出され、涙が自然に溢れ出た。アイシャは慌ててお化粧をし直すと、リビングのテーブルに腰掛けた。
アルブラートは3日間、外出できないため、あらかじめ買っておいた食材を冷蔵庫で確かめると、コーヒーを入れ直し、パンとミルク、それにチーズとオレンジを食卓に並べていた。二人でゆっくりコーヒーを飲みながら、アルブラートは彼女の可憐な美しさに改めて心打たれた感がした。
だが、昨夜、ベッドに入った時、アイシャが自分の接吻を恐れ、押しのけるような仕草をしたことを思い出した。
「アイシャ......俺と結婚するのが夢だって言ってたね......
今は本当に幸せなの?」
「もちろんよ―なぜそんなこと訊くの?」
「昨夜......ベッドで俺から逃げるような―何かに怯えるような仕草をしただろ......俺は何も乱暴なことはしなかった―なぜあんなことをしたのかって思って......」
アイシャは、彼に抱かれた瞬間、イスラエル兵に乱暴された時のことを思い出したのだった。彼女は少し黙っていたが、思い切ったように打ち明けた。
「ムラート......私が壊滅したアルジュブラのキャンプから脱出できたのは......銃殺の間際に気絶したからなのよ―その私をイスラエル兵がどこかの小屋に運び込んだの―でも―私はそこで......その兵士に乱暴されたの......私の服を胸元から引き裂いて......無理やり抱かれたのよ―」
アイシャは話しながら、時折唇を噛み締めた。とてもアルブラートの顔をまともに見れなかった。
「......本当に怖ろしかった......でも―ポケットに―マルカートの作ってくれたナイフがあるのを思い出して......その男の心臓に思い切り突き刺したわ......私は......人を殺したのよ......でもそれでやっと、その小屋から逃げ出せたのよ―」
彼女はそこまで言うと、口をつぐんだ。
ムラートは......彼のお母さんが作ってくれたナイフで―私とは全く逆に―肩にひどい傷を受けたんだわ......
なんてひどい......お母さんのナイフでイスラエル兵にあんな傷を負わされるなんて......
「......私―ムラートに抱かれて......あんなことを急に思い出すなんて―
自分でもどうかしてたわ......ごめんなさい、ムラート」
その話を黙って聞いていたアルブラートは、静かに言った。
「分かったよ......謝らなくっていいんだ。アイシャはイスラエル兵を殺した......でもそれは罪じゃないよ―乱暴されたんだから......正当防衛なんだ―何も悔やむ必要なんかない.......むしろ勇敢な行為さ......俺は―とうとうイスラエル兵を一人も殺せなかった......アイシャは本当に強いんだな」
アイシャは白く細い両手をぎゅっと握り締めると、彼を真っ直ぐに見た。
「私はイスラエルが憎いわ......!武器さえあれば、一人でも多くのイスラエル兵を殺してやりたい......!私たちを苦しめて―国を奪って―ムラートをさんざん罪の意識に陥れたんだもの......!ムラートだってそう思うでしょう?イスラエルは当然の報いを受けるべきなのよ......!」
「......いや......俺はそうは思わないよ、アイシャ」
「どうして?......イスラエルが憎くないの?」
「そりゃ憎いさ......イスラエルが滅亡してしまえばいいと思う―そのことを考え出したら、あらゆる手段を駆使して奴らを追い詰めて―追い詰めて―拷問にかけて殺すことばかり頭に浮かぶぐらいだ......でも、パレスチナ人は各地に離散してしまって―武器を手に入れたって、イスラエルの強大な軍事力にはとても足元にも及ばない......これが現状なんだ」
アルブラートは何かを言いたげなアイシャを見つめると、首を振った。
「だから俺たちにできることは、こうして小さな家庭を築いて―パレスチナ人だと分からないように、平穏に静かに暮らすことなんだと思う......
数人のパレスチナ人が、イスラエル相手に銃を向けたって、すぐに殺されるのが関の山だからさ―俺は―イスラエルのことなんか―二度と考えたくないよ」
アルブラートは、幼い頃からアイシャの芯の強さを知っていた。だが彼女が、イスラエルに対する叩きつけるような憎悪を激しく剥き出しにする姿に、今まで知らなかったアイシャの一面を見い出し、内心驚いていた。
小さい頃は爆撃の音に怯えて―俺にしがみついて震えていたこともあったのに......成長すると人は変わるもんだな......
だが彼にとっては、鋭利なまでに研ぎ澄まされた彼女の美しさと、まだ幼さを残す愛らしい瞳の影に、こうした激しい気性が潜んでいることが、かえってたまらなく魅力的だった。
アイシャは思いがけず、イスラエルへの憎悪を露わにしてしまったことが、アルブラートを深く傷つけているのだと気づき、黙り込んだ。
アルブラートはそんな彼女に微笑みかけた。
「せっかくの朝に、こんな話は止めよう。笑って暮らさなきゃ―何のために生きているのか分からなくなるよ。来週からまた仕事に出かけるけれど、その前にアイシャとどこか見物にでも行きたいね」
「見物......?どこか旅行にでも行くの?」
「二、三日ぐらいさ。ハネムーンだよ。エジプトに住んでいるのに、エル・アハラーム* も観たことがないなんてつまらないよ」
「ピラミッドを観に行くの?」
「それだけじゃないよ。久しぶりに砂漠の空気を吸いたいし―そうだ―ルクソールまで行ってみようか......ラムセスの駅から列車に乗ろう。ナイルをずっと眺めながらさ」
三日後の朝、旅行に出かけることを知らせに、二人はザキリスの邸を訪れたが、留守だった。アルブラートは短いメモをポストに入れると、タクシーを呼び、ラムセス中央駅に向かった。
アルブラートはアイシャと列車に乗ることが嬉しかった。昔、ダマスカスからレバノンに一人で列車に乗り、そこで家族連れを目にし、羨ましいと感じたからだった。あれはほんの二年前の秋、17歳の時だった。
これからはアイシャと一緒に暮らして―そのうち子供もできて......おまけに先生とザカートとも家族になれる......こうした幸せが一番なんだ......
アイシャは、目が見えるようになって初めて乗る列車にわくわくしていた。彼女は窓際に座り、次々と滑るように移り変わる景色に、まるでまだ子供のようにはしゃいでいた。アルブラートはそんな彼女を見て、思わず笑い出した。
「アイシャ、まだ小さい女の子みたいじゃないか。そんなに騒いでさ」
「いいじゃない。本当にナイル河がすぐそばに見えるわ......!ほら、あれがエル・アハラームね......!なぜあんなにきちんと三角形なのかしら?不思議じゃない?」
列車はギザで一旦停車した。遥か遠くにピラミッドの群れが見えていた。アルブラートもピラミッドを見るのは初めてだった。
列車は数分すると、再び動き出した。フルーカ* の白い帆が風をはらみながら、ゆっくりとナイルを滑って行くのが見えた。ルクソールに着いたのは、もう夜の7時だった。アルブラートはあらかじめ予約しておいたホテルに電話し、タクシーで直行した。
* エル・アハラーム:アラビア語で「ピラミッド」の意。
* フルーカ:ナイル河に浮かぶ帆船。
翌日、二人は有名なルクソール神殿を訪れた。アルブラートはラムセス2世の塔門に入ると、そこに巨大な柱が1本だけ建っているのを見つけた。その柱の頂は、ピラミッドの形をしていた。彼は、これが、ムカールの言っていた「オベリスク」なのだと知った。
アルブラートは、三ヶ月前、ムカールが退院の際、このルクソール神殿や、オベリスクの話を詳しく話してくれたことを忘れていなかった。彼は、その神殿から、遠大に拡がる砂漠を見渡した。アシュザフィーラ難民キャンプでは七年間暮らした。その時の砂漠の香りが、風に乗って漂ってきた。
砂漠は芳しく、まさに大自然の神秘だ......でも砂漠を旅するのは厳しく、苦しい......それでもムカールは砂漠にとても憧れていたな......ムカールの魂が、薔薇に詩を結びつけることで俺のそばにいることができるのなら、彼も今、俺と一緒に砂漠を見つめているのかも知れない......
アルブラートは、ルクソール神殿の柱に触れ、自分を見下ろすラムセス王の巨大な坐像を見上げた。彼は、そのイメージが心の中で深まっていくのを待った。背後に広がる砂漠は、彼の自由な創造の空間だった。アルブラートはその砂漠をキャンバスに、気ままにさまざまな曲の旋律を胸に刻み込んだ。
アイシャは黒いヴェールで身を包み、神殿の前に立っていた。アルブラートは、彼女のシルエットが砂漠と神殿の中に美しく溶け込んでいる映像を、ひとつの神秘としてとらえていた。だがアイシャは、ヴェールが邪魔だと愚痴をこぼした。
「つまらないわ。せっかくきれいな服を着てきたのに―ねえ、こんなヴェールを脱いで、裸足で砂漠を走り回りたいのよ」
アルブラートはそう言うアイシャを、16になったばかりだから、まだまだ少女らしいのは当たり前だと思い、笑った。彼女が大人びた雰囲気を持つと同時に、まだ子供のような振る舞いをすることが、彼にはたまらなく愛しかった。
二人は、ルクソールや王家の谷などを見物した後、カイロに戻った。荷物はルクソールのホテルから自宅に送った。右膝が時々痛むアルブラートが、カイロに着いてから、身軽になって帰りたいと言ったからだった。二人は帰宅途中、スークに立ち寄り、少し買い物をして行った。
もう夕刻の6時を過ぎていた。二人がアパートに向かう途中、いつも通る銀行の裏手から、何か音楽が聞こえてきた。アルブラートは銀行の横筋へと入ってみた。そこにはシナゴーグ* がひっそりと建っていた。シナゴーグのそばを通ると、カーヌーンの音色がはっきりと聞こえて来た。
シナゴーグの裏は、公園になっていたが、所々荒れていた。公園を取り囲む家々も寂れていた。アルブラートは、以前ムカールと散歩をしていた時、カイロにスラム街が増えたと彼が言っていたことをふと思い出した。
カーヌーンは、公園の隅に張られたいくつかのテントの中から響いていた。アルブラートとアイシャは、難民キャンプの雰囲気が懐かしく、そっとそのテントに近づいた。
突然、ピストルの発砲音がした。アルブラートは足首に鋭い痛みを感じ、草地によろけ、うずくまった。
アイシャが驚いて、彼を助け起こそうとしていると、一人の男が近づいてきた。その男はファラーヒ*で、アルブラートに話しかけた。
「あんたたちはパレスチナ人か」
アルブラートが黙ってうなずくと、男は怪我は大丈夫かと言った。
「かすり傷か。撃ってすまなかった。靴音がしたから、警察かイスラエル人かと思ったんだ―我々は靴は履かないからな。あんたは靴も履いて、立派な身なりをしている。難民出身にしては、成功者の一人だな」
男は、バシャール・アル・サーレムと名乗り、このキャンプで教師をしていると語った。アイシャは、教師と聞いて、父のタウフィークを思い出し、バシャールをまじまじと見つめた。彼は、確かに教師らしく、知的な落ち着いた顔立ちをしていた。
「我々は三ヶ月前、ガザの難民キャンプを脱出して来た。急にイスラエル軍が攻撃し始めたからだ。そしてシナイ砂漠を2ヶ月かかって越えてきた―あの砂漠越えは苦しいものだった......最初は300人で脱出したが、皆次々と倒れてしまった。今では、この難民キャンプにはわずか30名ほどしかいない」
バシャールは、こう言うと、「ラシェル!」と誰かの名を呼んだ。急にカーヌーンの音がピタリと止んだ。バシャールのそばに、9歳ほどの男の子が近づいてきた。
「今カーヌーンを弾いていたのは、私の子だ。この子は病弱だが、来年にはアシュバル* に志願させる。あんたはイブン・ムハンマッドを知っているだろう」
アルブラートは、イブン・ムハンマッドの名を聞いて、2月の雨の日を思い出し、嫌な気分になった。
「知りません......そんな人は」
「そうかな。今じゃ彼は、我々パレスチナ人の英雄の一人だ。私は、このピストルは彼から譲ってもらった。このキャンプでは、砂漠越えで生き残った14歳以上の少年は、皆フェダーイーンとして彼の元で訓練を受けている。このことはカイロ警察には秘密だ。私も彼のグループに加わろうと思ったが、まだ息子のように幼い子供たちや女性が残っている。だから仕方なくキャンプの護衛役をしているわけだ」
* シナゴーグ (synagogue):ユダヤ教の礼拝のために設けた教会堂。
* ファラーヒ:パレスチナ地方の方言。
* アシュバル:6歳から13歳までのパレスチナ・ゲリラ戦闘員。
―第47章―脱獄者
バシャールは、アルブラートを自分のテントに案内した。テントの中は狭く、すすけた絨毯の上には食糧を入れる皮の袋にブリキの皿が数枚、奥には破れかかった毛布と、カーヌーンが置かれてあった。バシャールはまだ30歳にもなっていない様子だった。
彼は、アルブラートにメモを渡した。
「これがイブン・ムハンマッドの連絡先だ。彼はレバノンやアルジェから武器を密輸している。カイロ警察は、難民のゲリラ部隊は治安を悪化させるという理由で、ムハンマッドのメンバーを捕らえようと躍起になっているんだ。だが、ゲリラ部隊を訓練しているのは、エジプト軍部だ。彼らは、警察に極秘で、難民をゲリラ部隊に募って、砂漠地帯で訓練を行なっている。ムハンマッドは既に軍の幹部と通じているし、軍部の厚い信頼を得ている」
アルブラートは複雑な気持ちで、黙って教師を透き通った目で見つめた。彼は、無言で、渡されたメモをポケットにしまい込んだ。
「あんたは17歳か。もうフェダーイーンとして戦うべき年齢だな」
「......19です......でも戦うのは......」
「嫌か。迷っているのか―気は確かか。ひとりでも多くの若者が戦闘員になって、ゲリラ部隊を強大な軍隊にすべきだと思わないのか―まあ、私から無理強いは避けておくとしようか。しかしあんたも気が弱いな。もしその気になったら、そのムハンマッドに連絡をとるべきだ」
アルブラートは、自分が実際の年齢よりも若く見られることに、何か気恥ずかしさを感じた。バシャールの息子は、彼とアイシャを珍しそうに眺めていた。アルブラートは、男の子の細く小さな手を取った。
こんなにいたいけな―まだ幼い子が銃を構えて戦闘の訓練を受けるだなんて......いずれこの子も命を落とすんだろうな......
病弱だというのに......
「ラシェル......さっきの演奏は見事だったよ―でも君は、来年になったらお父さんの言う通り、本当にアシュバルになって戦うのかい?カーヌーンはもう弾かないの?」
「カーヌーンなんて、ただの気晴らしだよ。僕は早くアシュバルとしてゲリラ部隊に参加したい。そうしたら、銃をイブン・ムハンマッドからもらえるんだ。パレスチナ人にとって、武器は神の贈り物だよ―僕が戦闘で死んでも、父さんは泣かない。聖戦の英雄だと称えてくれるんだもの」
アルブラートは、それ以上何も彼らに言う言葉が見つからなかった。バシャールは、彼に、どうやって生計を立てているのかと尋ねた。
「......オペラ座広場の近くのレストランで、演奏をして働いているんです―カーヌーンやウードを弾いて......」
「なるほどね。あんたは芸術家ってわけか。だから戦いたくない―でも昔から、革命に身を投じる芸術家は後を絶たない。ペンや絵筆や楽器を捨てて、だ。あんたもそのうち、ゲリラ部隊に賛同する日が来るだろうさ」
アルブラートは黙って、スークで買った食糧の一部をバシャールに渡すと、重苦しい気持ちで、彼らのテントを出た。
アイシャは、彼には語らなかったが、心の中で、今の教師の言葉に感嘆していた。
私が男だったらいいのに......
そうしたら、武器を手にして、イスラエル打倒のために戦えるのに......
アルブラートは、今やパレスチナ難民のほとんどが、ゲリラ部隊に志願し、本気でイスラエルを倒し、自分たちの国を造ろうとしているのだと改めて思い知らされた。
だが彼は、難民たちが何の力も持たない頃から、イスラエルの攻撃を受け、キャンプを占領され、自分も捕虜として囚われの身になったことを考えると、とても難民のゲリラ部隊が結集し、イスラエルを壊滅させることはできないと思った。
「......あんな話は嫌だな―ゲリラ部隊だなんて......またイスラエルの報復を受けて、大勢の死者がでるだけなんだ......武器を集めてゲリラ活動を続ける限り、パレスチナ人はアラブ社会の嫌われ者になるんだ―だから俺もフェダーイーンだと思われて、サイダで右足を撃たれたんだ......俺はもうバシャールのテントには二度と行かないよ―分かるだろう、アイシャ」
アイシャは戸惑ったように彼を見ると、小さくうなずいた。
私ったらどうかしている......
イスラエルから苦しめられたパレスチナ人すべてが、武器を持って戦えば、問題が解決するだなんて―そんな単純なわけにいかないのに......
二人は公園を抜け、シナゴーグの所まで戻った。シナゴーグの右手から、スークの賑わいが聞こえて来た。アイシャは、急いでそちらに歩いて行くと、嬉しそうに戻って来た。
「ねえ、いつもみたいに銀行の先まで行かなくても、すごい近道が分かったわよ。銀行の右筋から入って、シナゴーグの前を左に歩けば、もうスークの入り口よ。今度から買い物に行く時は、そうしましょうよ。ムラートは足が痛むもの。近道が絶対いいわ」
アルブラートは、シナゴーグのそばを通るのは危険だと言ったが、彼女はあまり気に留めていない様子だった。そんなアイシャに彼は懸命に説明した。
「なぜ危険か分かるかい......パレスチナ・ゲリラがシナゴーグを標的に、祈祷に集まる多数のユダヤ人を殺傷する可能性だってあるんだ、アイシャ」
二人は、アパートにいったん戻った。ルクソールから自宅に送った荷物は、明日の午後届く予定だった。アイシャはヴェールを脱ぐと、晴れ晴れとした表情になった。
「まるで重たい荷物を肩から下ろしたみたいよ。ほら見て。ムラートの買ってくれたこの大好きな晴れ着を着ていったのに、残念だったわ。あんなヴェールをつけていると、何だかカラスになった気分よ」
アルブラートは、そう言うアイシャを見て、少し明るい気持ちになった。彼は、ポケットに入れたバシャールのメモを屑かごに捨てると、これからザキリスの家に行こうと彼女に促した。
もう夜の8時を回っていた。医師夫妻は、二人を温かく出迎えた。ザキリスは、嬉しそうに、今夜は泊まっていくようにと勧めた。
四人は、リビングで一緒に遅い夕食をとった。アルブラートは夫妻に、旅行の記念に、ルクソール神殿の金のレプリカを贈った。
ザカート夫人は微笑んで、そのレプリカを手に取った。
「本当に、エジプト人でありながら、私はルクソール神殿に行ったこともないんですよ。近いからいつでも行けるって思ってね。可笑しいでしょ?ねえ、ウィル、あなたもルクソールには行ってないわね」
「そうだね。私はいつも病院の仕事やらで―でもロンドンには行っただろう、ハネムーンなら」
「ロンドンはあなたのお母様の故郷ですからね。結婚のご挨拶がてらに行ったのよ。私は英語が下手で、緊張してしまって、とてもハネムーンどころじゃなかったわ」
このように談笑する夫妻を見ていると、アルブラートは先ほどのバシャールとの嫌な会話を忘れることができた。ザカートはふくよかで、目の優しい、典型的なエジプト女性だった。ザキリスは笑いながら、アルブラートに話しかけた。
「君たちが旅行に出かける前に知らせなくて、悪かったね。私たちは、アテネに行っていたんだよ。君とアイシャの国籍取得と、養子縁組の手続きの関係でね。でもそれも、すっかり終わった―数日後に、書類が送られてくる。アルブラート、アイシャ......今日から君たちは私たちの正式な息子と娘になったんだ」
アルブラートとアイシャは立ち上がって、医師のそばに行った。夫妻は、二人を代わる代わる抱きしめた。ザカートは思わず涙ぐんだ。
「まあ、こんなに華奢で愛らしい娘が私にできるなんて―こんなに賢く美しい人が私の息子ですって......信じられないくらい嬉しいわ」
アルブラートは、医師が親しみをこめた話し方をしてくれるのが嬉しかった。彼は幸福感を胸の奥で噛み締めた。
ザキリスは、アルブラートを抱きしめながら、その細い体の温かみを愛しく思った。同時に、この若者が抱いている不幸な過去をも、全身で受け止め、支えていかねばならないと改めて強く感じた。
ムカールが私に託してくれた、アルブラートの怖ろしい過去は、トラウマとなって常に彼の心の底に潜んでいる......
それが時折、何らかの原因で正面に引き起こされて、彼を苦しめる......
その悪夢の連鎖を断ち切ることは難しい―それでも、その過去の苦しい記憶を徐々に小さくすることはできるかもしれない......こうして彼の家族として温かく労わることで......
アイシャとの旅行から帰って1週間後のことだった。砂漠から市街に吹き込むハムシーン* が例年よりも長引き、激しくなった。アイシャは、この熱風と、砂嵐にまいってしまい、喉の調子が悪くなった。アルブラートは仕方なく、一人でレストランに仕事にでかけた。
旅行後、彼がレストランで演奏をするのは、ほぼ2ヶ月ぶりだった。オーナーのジャハルは、アルブラートの曲目が新たに増え、演奏の技術も今まで以上に冴え渡っていることに感心した。彼のウードとカーヌーンの音色は、広々としたホールに、アラビア砂漠や、ルクソール神殿の輝きと壮大さを煌きながら響かせた。
演奏を7時に終え、彼がレストランの玄関から出ようとしている時だった。彼は、いきなり見知らぬ男性から英語で話しかけられた。
「あなたのお名前はアルブラート・アル・ハシムですね―ちょっとお話したいことがあります。正面玄関では目立ちますから、失礼ですが、裏口から出て頂きたい。車を用意してあります」
アルブラートはなぜ裏口なのか、不審に思ったが、その男の言う通り、車の助手席に乗った。男は運転しながら、急にアラビア語で話し始めた。
「あなたのことはよく知っています。私もあなたのレコードを買いましたからね―ところで、あなたはパレスチナ人という噂がありますが、本当ですか」
アルブラートは、相手がアラビア語で話している時に、英語を使うのは不自然だと思われると感じ、仕方なくアラビア語で返答した。
「......そうです......でもあなたは僕に何の用事があって―この車はどこに行くんですか」
「カイロ警察の留置所です。私は警察の者です。表立たないように、私服でこちらに来ました」
アルブラートは留置所と聞いて、突然怖ろしくなった。心臓が激しく高鳴り、額から冷たい汗が次々と噴き出した。警官は、信号でいったん車を停止すると、彼を安心させるように、穏やかな口調で説明した。
「私はあなたがパレスチナ人だから、逮捕しに来たというわけではありません。我々が取り締まり、警戒するパレスチナ人は、ゲリラ・グループに所属しているという確証のある者だけです。私が今日来たのは、ある脱獄犯が、あなたに会って話をしたいと申し出たからです―あなたとじかに会えば、自分の罪も軽くなると、その囚人は主張しているんです」
* ハムシーン:3月から5月にかけてカイロの街に吹き込む砂漠からの熱風。
信号の色が変わり、再び車を運転しながら、警官は言った。
「その囚人の名は、アシュケロン・カペルシュタインと言います。元イスラエル兵でした。三年前、シリア軍に捕えられ、その後ヨルダンからこのカイロに護送されました―およそ1年前、留置所を脱獄しようとしましたが、失敗したというわけです。あなたはその男をご存知ですか」
「アシュケロン・カペルシュタイン」......?元イスラエル兵......三年前......もしかしたら―あいつか......アーロン......そうだ―アーロンに違いない......あいつは何を言いたいんだ......?俺がやった「あのこと」を警官の前でぶちまけようと企んでいるのか......
「......僕はそんな男は知りません......知らない囚人と会う必要もないと思います」
「そうですか―でも、カペルシュタインはあなたのことをよく知っていると言うんです。パレスチナ人で、ウードの名手だとね。あなたはご存知ないらしいが、向こうはあなたに関する情報を得ている。イスラエル人に会いたくないお気持ちは分かりますが、カペルシュタインの刑期を確定する重要な参考人にあなたは充分なり得ます。面会時間は20分ほどですから、ぜひ会って頂きたい」
車は15分ほど走ると、大きな建物の前で停車した。吹き荒れる熱風と立ち上る砂煙の中で、アルブラートは、街灯に照らされたその黒みがかった建物を見上げた。
彼は、警官に促されて、建物の中に入った。中は薄暗く、壁も廊下も灰色で、薄汚れていた。彼は、留置所の中だと思うと、嫌でたまらず、一刻も早く外に出たかった。しばらく歩き、右に曲がった所で、警官はある部屋のドアを開けた。
「そこの椅子に座って、ちょっとお待ち下さい」
椅子の前には細長いテーブルがあり、テーブルには、等間隔で小さな穴のあけられた擦りガラスがはめ込まれてあった。そのガラスの中央に、相手の顔が見られるほどの穴がくりぬかれてあった。ガラスの向こうには別の椅子が置かれていた。また、その背後には別のドアがあった。
数分すると、先ほどの警官がアルブラートのそばに戻って来た。
「今、カペルシュタインが来ます」
アルブラートはとても正面を向いていることができず、視線を自分の膝の上に落としていた。まもなく、正面のドアが開く音がして、誰かが入ってきた。
「あの男がカペルシュタインです。よくご覧下さい」
アルブラートは額や背中がじっとりと汗ばみ、その汗で寒気がしていた。だが、恐る恐る相手の方に目をやった。看守に付き添われたその男はまだ若く、片目が潰れており、手錠をかけられていた。だがその白っぽい金髪と青い目で、アルブラートにはすぐにアーロンであると分かった。
警官は、アルブラートに、この囚人を知っているかと再度尋ねた。アルブラートは、アーロンから目を反らした。
「......四年前の夏に......僕は―イスラエルのベト・シェアン捕虜収容所に捕らえられました―その収容所で......看守をしていた兵士です......」
警官は、納得したようにうなずいた。
「この囚人の罪状は、収容されていた34名の15歳以下のパレスチナ人少年たちを放置し、餓死させた上に、各地から捕えられ、集められた16歳以上のパレスチナ人たちを『強制労働』という名目で、ナザレに墓穴を掘らせ、そこに虐殺された多数のパレスチナ人の遺体を埋めるよう強制させたこと、さらにある一人のパレスチナ人少年に、銃を持たせ、母親を殺すよう命令したということです」
アルブラートはその話を聞くうちに、だんだん息が詰まり、心臓がキリキリと音を立ててきしみ始めた。だが、アーロンは今の警官の話を否定した。
「俺は確かに囚人たちをナザレに連れて行った―そこで穴を掘らせ、遺体を埋めさせた。でもそれは俺の意思じゃない。すべて軍部の命令に従っただけだ―それ以外は全く事実と違う。俺が看守としてつくように大佐から命令されたのは、このハシムだけだ―他の囚人の世話は、他に15人いた看守の仕事だった。ハシムの母親を殺すように命令したのは、大佐だ―俺じゃない」
「この男の言ったことは事実ですか―命令されて、母親を殺したという少年は、あなただったんですか」
アルブラートは話をするのが苦しかった。三年前の地獄が再び目の前に立ち現れ、彼の頭を恐怖と混乱で満たした。彼は、テーブルに肘をつくと、力なく顔を覆い、震えながらうなずいた。
「あなたはその『大佐』という男をご存知ですか―シリア軍がその収容所を爆撃した時、他の兵士は皆銃撃戦で死亡していたそうです。捕えられた年配のイスラエル人は、収容していたパレスチナ人少年が、銃で母親を殺したと言っていましたが、その数日後、重傷のため獄死しました」
アルブラートは、苦しげに肩で息をしていた。もう何も聞きたくなかった。もう何も話したくなかった。それでも、やっとの思いで、押し殺した声で返答した。
「......収容所には......確かに―『大佐』と呼ばれる男がいました......
アルバシェフ......戦前はワルシャワで......ピアニストだったという―その男が......僕に......母を殺せと―命令しました......」
「分かりました。カペルシュタインの話とつじつまが合いますね―カペルシュタイン、他に何か話すことは?」
アーロンは、顔を覆ったまま、自分を見ようとしないアルブラートに向かって、落ち着いた口調で話した。昔の冷淡な雰囲気はもうなかった。
「―お前はこの三年間、母親を殺害してしまったことで、苦しんで来たんだろう。俺は、収容所ではお前にピストルをつきつけたり、冷酷なことを言ったりした。だが兵士として徴収され、軍部の命令に従ううちに、誰でも粗暴になる。俺はお前を虐待したりはしなかった―食事を与え、傷の手当もしてやった―あれが本当の俺だ......好きであんな仕事をしたわけじゃない―今は、俺を兵士に徴収したイスラエルが憎いぐらいだ」
―第48章―息子アリ
アルブラートは、黙って話を聞いていたが、やはりアーロンの顔を見ようとはしなかった。
「俺は、シリア軍の爆撃で、右目を失った。シリア軍に捕えられて、ナザレに連れて行かれたんだ―お前たちに掘らせた墓穴を、今度は俺が掘り起こすよう命令された―数え切れないほどの遺体が出てきたな......お前の母親の遺体は、服装ですぐに分かった......腹に赤ん坊の遺体も一緒だった......俺は、彼女の耳に残っていたイヤリングを取って、看守に預けた......いつかお前にもし会うことがあれば、遺品として返してやりたかったんだ」
アルブラートは耳を疑った。唾を何回も呑み込んだが、口の中がすぐにからからに乾いた。呼吸が苦しくなり、全身が激しく震え出した。
何......何だって......赤ん坊......
赤ん坊の―遺体......?......赤ん坊が......母さんに......?
彼は、激しい震えで何も言えなかった。悪寒と吐き気が込み上げてきた。いきなりテーブルを拳で叩きつけると、わななきながらアーロンに憎悪のこもった眼差しを向けた。だがすぐに、テーブルに顔を突っ伏してしまった。警官は、アルブラートの様子を見て、すぐに面会を打ち切った。
その後、アルブラートは警官に支えられるようにして、車に乗った。警官は、彼に自宅はどこかと尋ねたが、返事はなかった。紙のように蒼ざめ、目を見開き、耳を塞いだまま、唇を震わせながら、首を振り続ける彼の姿に、狂気にも似た異様さを感じた警官は、オペラ座近くに病院があったことを思い出した。
1961年7月2日のことだった。
アルブラートは、ザキリスの病院で、点滴を受けながら、その後三日間、昏睡状態が続いた。運び込まれた時、血圧の低下と呼吸困難、心拍数の異常な増加、また錯乱状態で、医師の顔を見ても、何も言えず、震えながら首を振る様子を見て、ザキリスは、彼が完全なパニック障害に陥っていると判断した。
ザキリスは、警官に詳しく事情を聞いて、愕然とした。彼は、眠り続けるアルブラートを見つめながら、痛ましい思いが沸き起こった。
この子にとって、収容所での事件は、思い出すだけでも危険なんだ―過去の怖ろしい記憶を覚醒させないよう、周囲の者が充分見守っていかねばならないというのに......収容所で看守をしていた男と引き合わせられるとは......
その看守から、母親殺害の話を再び聞かされ、警官からその事実を確認されるとは......封じられていた心の傷を無理やり切り裂かれるようなものだ......恐怖の対象となるその看守と接し、再度過去の怖ろしい場面を露わにされる―それだけでも、あらゆる負の感情が噴き出すのだ......
自己否定と罪悪感―自殺願望―恐怖と憎悪と現実感の喪失―そして錯乱......最悪の場合は狂気......そして死に至る場合もある......
酷いことだ......その看守が、この子が自ら殺害し、葬った母親の遺体を掘り返した話をするとは......その母親から胎児の遺体が見つかったなどと告げるとは......ムカールからそこまで聞いてはいなかったが―捕えられた母親も、敵から陵辱を受けていたのだろうな......
ザキリスは、アルブラートを正式な養子として迎え入れ、皆で喜びを分かち合ったことが、ほんの1週間前であることが嘘のように思えた。あの時は、アルブラートは幸福感で満ち足りていた。彼の笑顔が、ザキリスには最高の宝物のように思えた。
この子はなぜこんなに苦しまなければならないんだ......類い稀な音楽的才能と優れた知性に恵まれているというのに......
命に危険が差し迫るほどの恐怖が、なぜ無実で純粋なこの子を襲い、幸福を奪うことになってしまうのか......
医師は、アルブラートの苦痛に満ちた過去を、一人で受け止め、支えてやっていたムカールの姿を思い浮かべた。
これほどのトラウマは、もはや言葉による励ましや慰め、苦しみを共有することだけでは決して癒すことは不可能だ―医学的な治療と心理療法が今後不可欠となる......その両面的な要素を、すべてあの青年は兼ね備えていたわけなのか......だから、アルブラートは―彼の死を恐れ、否定し続けていたんだな......
ザキリスは、改めて、ムカールの死を惜しんだ。アルブラートが唯一、過去の苦悩を告白した青年―あの青年には、どんな人をもその足元に跪かせ、苦しみや恐怖を洗い流し、無限の希望と生の喜悦を人々に与えるが如き神性が備わっていた―その存在そのものが、神秘であり、奇跡であった。
あれほど見事な神の如き美と、優れた人間的魅力に溢れた人に私は出逢ったことがなかった......彼と偶然サイダで出逢って、もうすぐ1年か―もう10年も経ったように思えるな......
アルブラートの心には、今でもあの青年が存在しているに違いない......
アルブラートは昏睡状態の中、ムカールの幻影を見ていた。ムカールは、静かな表情で、彼のそばに佇み、語りかけてきた。
「アルラート......また悩んでいるのか―苦しんでいるのか......俺の手紙を読んだだろう―俺はお前のそばにずっといるよ―だから安心していいんだ......俺はアルメニアからも、ニコシアからも―いつでもお前を見守っているから......」
7月6日の朝になった。ザキリスが病室に様子を診に来た。アルブラートはじっと横たわったまま、涙を流していた。彼の血圧や心拍が正常に戻っているのを確かめると、医師は静かにそばの椅子に腰を下ろした。
「やっと落ち着いたか......これ以上昏睡状態が続いたら、危ないところだったんだよ―アルブラート、私が誰だか分かるかね」
アルブラートは、頬を濡らしながら、医師を見つめ、うなずいた。
「......先生......涙が......涙が止まらないんです......」
「いいんだよ。涙が出るのは―精神的苦痛を受けた後、その苦痛を押し流そうとする心の正常な反応だから......君に何があったか私は知っている―でも君はもう、何も思い出そうとしないほうがいい」
だがアルブラートは、おぼろげながら、自分が警察の留置所に行ったこと、そこでアーロンに会ったこと、彼の話した内容を覚えていた。
先生は「何があったか知っている」......
警察から事情を訊いたんだ......先生も―もう―俺の過去を知ってしまったのか......
そう思っても、不思議と彼の体は震えなかった。心にあるのは、ただ深い哀しみと無力感だけだった。母の遺体―そして掘り起こされた胎児の遺体―遺品のイヤリング―このことを考えても、それらは深い穴の底を、曇った擦りガラスを通して眺めている―何かが麻痺したような感覚でしかなかった。
ザキリスは、彼に、今点滴しているのは安定剤と栄養剤だと教えた。眠くなったら、ぐっすり休養するようにと言い、部屋を出ようとした。だがアルブラートは、医師を呼び止めた。
「先生......僕は......僕は......母を猟銃で―殺したんです......
最初は敵の命令で......でも―その後―今度は僕が......自分で引き金を引いて殺した......3発も続けて......なぜそんなことをしてしまったのか......
僕は自分で自分が分からないんです......」
ザキリスは、再び椅子に腰掛けると、アルブラートの手を優しく握った。
「君がそのことで、どんなに罪の意識に苦しんでいるか―私には想像も及ばない......でも、君は―捕虜収容所で、ひどい生活を強いられた......
いいかね、人間という者は、飢餓に近い状態になると、意識が朦朧とし、自分の意思をコントロールできなくなる......君はちょうどその状態だった―君は偶発的に不幸な目に遭ってしまっただけなんだ―でも、それ以上は考えては駄目だ。実際―今回の件で、君は精神的ショックのために、脳や心臓が危険な状態に陥ったんだからね」
医師は、アルブラートの気を紛らわそうと、音楽の話を持ち出した。
「あさってには退院できそうだな―また君の演奏を聴きに行くよ。一度、ブズーキの演奏もステージで披露してみたらいい。アイシャは、来週の月曜から、三日間、オペラ座でアリアを歌うそうだ。彼女は半年間、オペラ座との出演契約をもう済ませているんだよ」
アルブラートは、午後になって見舞いに来たアイシャを見て、数ヶ月会っていなかったような懐かしい気持ちになった。アイシャは、容態の落ち着いた彼を見ると、ホッとし、嬉しそうに微笑んだ。
今回の事件や、ムカールが生前、ザキリスにアルブラートの過去を話し、彼の心を支えるよう依頼したことなどを、アイシャは医師から聞いてすべて知っていた。だがそのことには一切触れないようにと彼女は医師から言われていた。
8月になると、アルブラートの心からは、7月の事件の影は徐々に薄れていった。彼はブズーキの旋律を録音し、それに合わせてカーヌーンやウードを舞台で演奏した。それによって、今まで以上に彼の演奏には魅力が増し、同時に彼自身の曲の着想の幅が限りなく広がった。
彼のもとには、イギリスやアメリカのレコード会社からの契約が次々と舞い込んだ。アルブラートは、アメリカがイスラエルを支援していることから、アメリカの会社と契約を結ぶのをためらった。慎重に選んだ結果、彼はBBC とボストンのレコード会社2社と契約を結んだ。
アイシャは1ヶ月に2回ずつ、オペラ座で主演を務めた。背が高く、化粧映えのする彼女は20歳ほどに見え、誰もがその美しさと、聴く度に飽きることのない素晴らしく伸びる輝くような歌声に圧倒された。
二人の仕事は順調に進んでいた。収入も、ほぼ1年前の夏、カイロに来た頃に比べると、5倍以上になった。11月の始め頃、ザキリスは、二人に、もう少し広い家に転居することを勧めた。アルブラートは、今のままでいいと断ったが、医師は少し躊躇しながら説明した。
「それが―ムカールのいたアパートに、別の人が入ることになってね。彼が遺したままの家具がいろいろあるだろう。それを君たちに引き取ってもらえないかと思ってね。それに......君たちにも小さな家族が増えることになるからね」
「小さな家族......?......じゃあ、アイシャに......?」
「そうだ、良かったじゃないか。来年の7月初めに産まれる予定だよ―アイシャにはしばらくオペラ歌手は休業してもらわないとね。子供の名前を考えておきなさい、アルブラート」
翌年、1962年の春を迎えた頃、アルブラートは医師の邸宅からほぼ近い、オペラ座に隣接した家に移り住んだ。古びた家屋だったのを改装し、二階にはムカールの愛用していた机やステレオなどを置いた。彼は書棚を買い、そこにムカールの愛読書だった詩集や美術書、歴史書などを並べた。
アルブラートはもう20歳だった。ムカールは、生きていれば27歳になっているはずだった。
ムカールのアパートにほぼ半年ぶりに足を踏み入れた昨年の11月、彼は、ムカールが亡くなる1週間前に挙式を皆で祝った部屋が、すっかり埃に覆われ、黴臭くなっているのが虚しく、哀しかった。アデルがアザゼルをあやしていたソファーやベビーベッドは、湿気で変色し、使い物にならなかった。だがムカールの机やステレオだけは、不思議と艶を帯びたまま遺されていた。
オペラ座近くの新居に転居した後、アルブラートは、時折二階に上がり、ムカールの机で彼の好きだったポール・エリュアールの詩を読んだ。そして静かな時間の中で、青年がこの机で詩を書き写した時の心に想いを馳せた。
欲望もない不在の上に 裸の孤独の上に
死の足どりの上に ぼくは書く おまえの名を.....
「欲望のない不在」―「裸の孤独」―「死の足どり」―これらは皆、人生を白紙にした状態だ......彼は病魔に苦しむ現実をゼロにして、新たな自由な人生を歩みたかった―だからこの詩を愛したのかもしれない......
アイシャの出産は、あと3ヶ月後だった。二人は、子供の名を、男の子だったら「アリ」、女の子だったら「ラミーヤ」にしようと決めていた。膨らんだお腹を愛しそうに撫で、子守唄を静かに歌うアイシャを見ていると、アルブラートは、時折、1歳になっているアザゼルのことを思い出した。
1962年7月5日、アルブラートの子供は無事に産声を上げた。男の子だった。ギリシャ国籍を贈ってくれた医師に感謝を敬意を込めて、彼は息子の名を「アリ・イドリース」と名づけた。
アリは、3ヶ月を過ぎると、よく笑い声を上げるようになり、手足を活発に動かした。アイシャに似て、色が白く、黒い瞳は、アイシャにも、アルブラートにもよく似ていた。アルブラートは、アリをこよなく愛した。
彼は、自分の苦渋に満ちたこれまでの20年の人生を、今度はこの子が幸福な色に染め変え、受け継いでいくのだと感じた。また、親の血が子へと伝わり、新たな生命の輝く輪を形成していく人間の生の軌跡こそ、神の人間への大いなる恩寵であると思わずにはいられなかった。
その年の12月には、アリは生後5ヶ月を迎えた。アルブラートは、息子に聴かせるために、家での演奏用に、エジプト製のウードとカーヌーンを買い求めた。彼がそばでそれらを奏でると、アリは嬉しそうに、ベビーベッドの上で寝返りをうち、興味深そうに、楽器を眺め、大人しく若い父親の演奏を聴いている様子だった。
「きっとこの子もムラートに似て、素晴らしい演奏家になるわ」
アイシャは嬉しそうに、よくそう言った。アルブラートはその言葉に、自分が生まれた時も、まだ小さな赤ん坊の時も、両親はそのようなことを言ったのだろうと考えた。
彼が演奏の手を止め、自分を見上げる小さな息子を微笑んで見つめると、アリはきょとんとして、不満そうに泣き出した。アルブラートは幼い批評家が満足するまで、じっくりと何回も演奏しなければならなかった。
やっと大人しくなると、彼はアリを抱き上げ、頬ずりをし、小さな額にキスをし、黒い巻き毛を何度も撫でた。アリはいつも楽器に触ろうとうずうずしていた。アルブラートがウードの弦を触らせると、アリは喜んで弦をかき鳴らし、歓声をあげた。
「アリ、お前もこういうのが弾きたいのか。お前がもう少し大きくなったら教えてあげるよ―父さんと一緒に弾こう」
●Back to the Top of Part 15
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