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砂漠の果て(第24部「陰謀」)

第二十四部「陰謀」


―第73章―血の絆―2:―メッセージ・リング


Inside the Church of the Saviour of Blood


アルブラートは、目に見えぬ強靭な鎖が全身を締め付けてくる苦しさを急に感じた。その鎖は、圧倒的な力で、彼に迫ってきた。それでも、彼は祖父と視線を合わせ、かすかに震える声で、ゆっくりと応じた。

 「.....アルブラートという名の人間は―たくさん.....この世にいます―バシール.....そんな名前だって―いくらでも.....」

 「―そうかな。偶然の一致にしても、奇妙過ぎないかね。君は、今は何歳だね?お父さんの名は―?」

 「今、僕は―21歳です.....父の名は.....父の名は―バシール.....」

 彼は、どう事実を否定しようにも、ローランを見ていると、不思議と事実を口にしてしまうのだった。周囲の、薄緑に白い小花をあしらった壁紙の模様と、壁にかけた金の額縁に納められたルネッサンス調の絵画が、一瞬、自分の周りをぐるりと回転した。

 「私は、娘夫婦と孫が行方不明になって、かれこれ20年間近く、彼らを探してきた。戦後、イスラエルが建国されて、パレスチナ人が非道な扱いを受け、土地を奪われ、住む家を破壊され、村を焼かれ、殺戮が始まった―私の妻のファイユーンは、パレスチナ人というだけで、私の留守中にイスラエル兵に殺されたんだ―ペルシャのテヘランを経て、アルメニアに逃亡しようとしていた矢先にね」

 ジャン・ニコラは、今では、ローランが何を言いたいのか、ローランとアルブラートの関係が何なのかが、はっきりと理解できた。そして、親友がなぜ自分の出生をちゃんと相手に伝えようとしないのかと訝った。恐らく、アルブラートには、ローランに言うことができない秘密があるのだろう―だがその秘密は、アルブラートは、多分、一生、自分には打ち明けないのだ―そんな悲痛な想いで、ジャンは、友人の沈黙を見守っていた。

 「ロマとして育ち、パレスチナ人を妻とした私は、父の故郷のエレヴァンで、アルメニア国籍を取ろうと思っていた―そして、そのエレヴァンへの旅に、娘夫婦と孫も同行させたかった。1945年の10月に、私は、ベイルートのホテルから、ベツレヘムの娘のアパートへ電話した。その時には、夫のバシールが出た。私は、テヘランに通ずる安全なルートがあると説得したが、彼は、『もうベツレヘム周辺はイスラエル兵に包囲されている』と言った。『自分たちだけで、夜こっそりとアパートを出て、死海近郊に辿り着いたら、また連絡する』―そして、二度と連絡は取れなくなったんだ。

 考えてもごらん、アルブラート。君は、『同じ名前の人は大勢いる』とさっき言ったね.....しかし、ベツレヘム出身の音楽家で、『バシール・アル・ハシム』という人物は、一人しかいないんだ。そして、その彼の息子が、『アルブラート』というんだよ―君は、どこで生まれたのか、教えてくれないかね」

 アルブラートは、父バシールが、ベツレヘムのアパートを脱出する間際の話を聞かされ、胸がつまりそうだった。彼の脳裏に、真っ白な雪に凍えながら、死海を臨むエィン・ゲディの廃屋に横たわる父の遺体を見つめていた5歳の時の辛い記憶がまざまざと蘇った。彼は、大きな黒い瞳に涙を湛えながら、尚もローランから眼をそらさずに答えた。

 「.....ベツレヘムです―父は―カーヌーンと.....ウードの.....
演奏家でした.....」

 ローランの緑色の瞳が、ハッとしたように輝き、そして、その瞳から絶対的な確信と安堵の表情が溢れ出すのを、アルブラートは見た。彼は、あれほど重荷に感じていた胸ポケットに、今では自然に手をやり、例の色褪せた銀の指輪を、無言でローランに差し出した。

 ローランは、息を呑んでその指輪を見つめた。彼は瞬時にして、この指輪の意味を悟った。

 「.....これは.....遺品だね―私の娘の.....マルカートの.....」

 ローランが、指輪を握り締めながら項垂れ、低く短い呻き声を出し、頬が濡れていくのを見た時、アルブラートは、激しい呵責の念に囚われた。

ああ.....!俺はどこまで残酷なんだ―母さんを血まみれにして命を奪い―その遺品を、今度はお祖父さんに見せるだなんて.....!まるで、『僕は母に何もしていません』と言わんばかりの行為じゃないか.....!お祖父さんは、アリ以外のたった一人の肉親なんだ―その人に誤魔化しを貫くのか.....俺自身をも欺くのか―本当のことを言わないと.....母さんの最期の真実を.....!

 彼は、祖父から思わず目を反らし、ジャン・ニコラを見た。ジャンの表情には、何らかの秘密を友人が苦しみながら抱いている、過去からその懊悩を引きずって生きていることへの深い同情が浮かんでいた。ジャンの眼差しは、過去に己の身内が凄惨な悲運に遭い、その苦痛な経験が人生の一部となっている者特有の孤独を語っていた。

 その時、アルブラートは、祖父に真実を言うべきではない、と気づいた。自分の辛い経験は、血を分けた肉親にこそ言うべきではない。自分の過ちは、自分自身が不遇にせよ犯したことであり、その絶望的な苦悩を、祖父に打ち明けても、何も解決しない―独りで過去に苦しむこと、その孤独な苦しみに耐えて生きることが、己の『罪』を真に購うこととなるのだ、と悟った。

今まで、俺は、ムカールやアイシャに、真実を告げて、『お前には罪はない』『あなたは悪くはない』と言われることで、内心、安心していただけなんだ―周囲に甘えて.....結局は、自分が可愛いだけなんだ―『罪はない』といっても、『命令されたから』といくら言い訳しても、母さんを殺した事実そのものが、既に『大罪』じゃないか―その罪を、誰にも言わず、黙って一生背負うこと.....それが、俺の真実の償いなんだ―


 ローランは、涙で濡れた顔を上げ、蒼褪めながら震える若者を哀しそうに、愛しそうに見つめた。彼は、銀の指輪を傍のテーブルに静かに置くと、かすかに微笑みながら、アルブラートに向かって両腕を広げた。

 「よく―よく生きていてくれたね.....私のアルブラート.....」

 アルブラートは、何も知らずに、自分の無事を心から喜ぶ祖父の姿を、真正面から見ることが耐え難かった。だが今や、その耐え難い苦しみをも、己に対する鞭とし、今後はその痛みをも、魂の奥底まで貫かせ、祖父と対峙せねばならなかった。しかし、そうした苦悩と同時に、ようやく祖父と会えた感動をこらえきれなくなった彼は、座っていた青い椅子から立ち上がると、ローランに歩み寄った。老いた演奏家は、最愛の孫を力一杯抱きしめ、繰り返しつぶやいた。

 「私の孫だ.....私の可愛い孫だ.....やっと会えた.....やっと.....」

 アルブラートは、祖父を抱き寄せながら、涙を流した。

 「僕は、ずっと.....お祖父さんの名が、『アルベルト・ローラン』だと聞かされていました.....僕は、お祖父さんに会って、同じようにヴァイオリニストになりたくて―ヨーロッパに来たんです.....」



ローランは、涙を拭って、いつまでもアルブラートの顔を感慨深そうに見入っていた。

 「『ムラート』―だったかな.....そう、『ムラート』.....
マルカートとバシールは、そうお前を呼んで、可愛がっていた―私も、赤ん坊のお前を何回も抱いたんだよ.....こうして見ると、目がマルカートにそっくりだ―お前の母さんは、私の誇りだった―私は『怪人』と呼ばれるのにぴったりだが、私の娘は評判の美人でね.....よく私のバイオリンに合わせて踊っていたよ」

 アルブラートは、こうして祖父から、母の話が出ることも覚悟していた。このような話も、聞くこと自体が拷問だったが、彼はそれを敢えて忍ばねばならないと思った。彼は妙な痛みが背中を走り、やや顔を歪めたが、幸いなことに、ローランの口からは、母に関する話題はもう出てこなかった。

 ローランは、自分の孫がこうして無事に、立派に成長していたことは、ノートルダム大聖堂への欠かさぬ祈りのおかげだと、神に感謝していた。だが彼は同時に、イスラエルのパレスチナ人たちへの残虐な「掃討作戦」や、数々の難民キャンプが無残に壊滅していった事件を知り抜いていた。孫の口から父バシールの話も出ないことから、両親の話題を避けようとしていた。

 しかし、アルブラートが持っていたマルカートの指輪が気になった。ローランは、しばらく目を閉じて、気持ちを平常に保とうと努めた。やがて、彼は再び指輪を手に取ると、アルブラートに手渡しながら、静かな口調でこう言った。

 「この指輪は―『メッセージ・リング』だ―お前の母さんの結婚指輪だった......だが、お前はこの指輪を、『他者』から譲り受けた―その『他者』とは、多分―いや、きっと......『冥界よりの使者』なのではないかね」

 アルブラートは、なぜそんなことが祖父に分かるのかと驚いた。

 「......そうです。これは―2年前に亡くなった、僕の友人が―先日、僕の部屋に現われて......『お前の母さんからこれを預かっている』と言って、ベッドサイドに置いていったものです」

 ジャン・ニコラは、自分が引っ越して来た日、アザゼルが「ムカールっていうお客様が、すぅって消えちゃった」と言っていたことを思い出した。

 「私の育ったロマの社会では、亡くなった人は、よく生前に身につけていた物を、『使者』に手渡して、遺族にメッセージを伝えてもらいたいと要求するのだと信じられていた。だから、私は、この指輪は、そうした類の物だと直感したんだ。何か―メッセージを、お母さんに書いて、指輪に結びつけておやり、アルブラート」

アルブラートは、入学式のコンサートが9月10日であり、あと5日しかないことを考えると、その間に母にメッセージを書いて、亡くなった母が本当に自分の部屋に現わるとしたら、とてもコンサートどころではなくなってしまうのではないか、と悩んだ。

 「僕が―何かメッセージを書いて......この指輪にそれを結びつけると、いつでも母さんが僕の所に来ることができるようになる―亡くなった友人は、そう言っていました......とても信じられないことですが......僕は、母を―心から愛しています―でも―現実にそんなことが起きるのは......」

 「......恐ろしい―かね?......亡くなった友人と既に話すという経験をしていても......?」

 アルブラートは、母の死の真相を、自分独りで背負うことを宿命にしたにも関わらず、これ以上、母の話をすることが耐えられなくなった。彼は、祖父から離れ、元の青い椅子に座りこむと、全身をがたがたと震わせながら、顔を覆い、涙声で苦しげに訴えた。

 「......恐ろしいんです......!母さんと会うのは―苦しい―苦しいんです......!会いたい―でも、怖ろし過ぎて―会いたくないんです......!」

 ジャンは、親友の極度に慄く姿に、度肝を抜かれた。今や、アルブラートが何かしら抱え込んでいる「苦しい秘密」こそ、彼の母の死に関することなのだということは明白だった。

 「もう―もう、いいでしょう、ムッシュー・ローラン―彼があんなに苦しむのを、僕は見ていられません......誰でも触れられたくない過去があります―その傷を更に切り開くような話題は、もう止めて下さいませんか。アルブラートは、入学式のコンサートを5日後に控えています......彼には、これからの生活が大事なんです―希望と幸福に満ちた生活が―」

 「そうだね―ジャン・ニコラ。私は一つのことに夢中になると、他のことをつい忘れてしまうんだ。済まなかったね、アルブラート......私は、お前にこうして会えたことだけを最大の幸福にすべきだった。お前のコンサートは、楽しみにしているんだよ。今日のリハーサルも素晴らしい腕前だった―お前のヴァイオリンの音色は、ちょうど私の父のアダムに似ている。鋭い感受性と正確な技法、そしてダイナミックで非常に深みのある抒情的なあの音色はね」

 アルブラートは、いつかムカールの歴史書で読んだ、曾祖父「アダム・カーレィン」の名を、急に聞いて、震えが止まり、我に返った。彼は、深く息を吐き出し、やや猫背の姿勢で、疲れたように、長い両腕を膝の前で軽く組んだ。

 「お前は、ほんの半年で、音楽院の首席となるほどの腕前だ。ヴァイオリンは、私の血もあるだろうが、私の演奏は、まだ全く未熟の域を出ていない。いつも自分で、どうしてもっといい音色が出ないのかと悔やんでいる。だが、お前は、私の憧れだった、アダムの音色そのものなんだ―これが隔世遺伝というものかね、ジャン・ニコラ」



 「さあ、僕にはよく分かりません。あなたの演奏は、ヨーロッパ中のヴァイオリニストの見事なお手本であり、最高級のものではありませんか。そのあなたが、アルブラートを、『自分以上の才能だ』と絶賛されるのなら―僕にもそんな遺伝があったら、どんなに良かったかと思いますよ」

 「アルブラートの、BBC 発売のウードとカーヌーン演奏を、一度聴く価値は大いにある。アラブ音楽は、ほとんどが即興でね。彼は、アラブの伝統を、若々しい彼独自のインスピレーションでヴァリエーション豊かに塗り替え、全く異なった新たな伝統を創出している。あれだけアラブの弦楽器に触れていれば、ヴァイオリンなど、ほんの数ヶ月でマスターするのは容易いことだ。おまけに、私の祖父のアブラハム・アスラン・カーレィンはね、ピアノの奇才だった。19世紀の中頃、エレバンの社交界で、ピアニストのアブラハムと言えば、あちらこちらのサロンで非常な評判だったんだ。アルブラートは、私の祖父の血まで、しっかり継承しているわけなんだよ」

 ジャンは驚きと羨望の眼差しでアルブラートを眺めた。ローランは、自分のヴァイオリンを孫に差し出した。

 「これで、何か―弾いてくれないかね。お前の好きな曲でも何でもいい」

 アルブラートは、疲労感が極限に達していた。だが、祖父のストラディヴァリウスは、長年弾き込まれた熱意と温かみがあった。彼は、それを構えたが、ホテルの隣室が気になった。ローランは、この部屋は特別に防音加工をしてあると言って、彼の演奏を聴きたがっていた。

 アルブラートは、昼間訊いたばかりの、ローランの「シベリウス ヴァイオリン協奏曲」の第一楽章を奏で始めた。彼にとって、祖父のヴァイオリンは、初めて手に取るものとは感じられなかった。非常に扱いやすく、まるで自分が何年間も引いてきた愛器のように思われた。

 演奏は、ほんの16分ほどだった。だが、その演奏の響きに、ローランもジャン・ニコラも圧倒された。

 「どうだね、ジャン・ニコラ。我々の奏法と比較して―アルブラートの演奏は―音源に広大な振幅を感じさせ、しかもその音色は人の心を揺さぶるほどの豊かさだ。彼は正確な技法を通り越して―聴く者に激しい情熱と大きな哀愁を与えてくれる。これこそ、まさに理想の音色だ。違うかね、ジャン」

 ジャンは、しばらく声も出ないほどだったが、やっとローランの言葉に頷いた。

 「ええ―確かにそうです......僕は、このシベリウスは、楽譜の正確さと精密さの再現が、最上の音色を産み出すのだと解釈していました。でも、アルブラートの演奏を聴くと、その解釈だけでは補い得ない非常に深いものを感じます」

「そう、それだよ。その深いもの―ジャン、君は、音楽の本来の目的は何だと思うかね?」

 「それは―『感動』です。人に感動を与え得る演奏が出来ることが、僕の最終目的なんです」

 「私もそうだ。音楽的知識の豊富な聴衆は、演奏者の技法や精密度にまず注目する。そうすると、その曲全体から受ける感動は、彼らには最終的な要素、言ってみれば、煙草の燃えかすのように残るだけなんだ。私も君も、そういう点で、まだ未熟と言える。だが、アルブラートは、まず聴衆に新鮮でスケールの大きな感動を与えることができる―そういう意味で、私は、彼の才能は、曾祖父のアダムと同じだと感じていたんだ」

 アルブラートは、黙って二人の話をおとなしく聴いていた。その時、ルームサービスのベルが鳴った。ジャンは、室内のインターフォンを取り、コーヒーのお代わりを3人分頼んだ。だが、3人とも、最初に運ばれていたコーヒーには手も触れていなかった。喉の渇いたアルブラートは、冷え切ったコーヒーを飲み干した。

 「アルブラート......お前は、このシベリウスは、初めて弾くのかね?」

 「......ええ―いえ、最初の出だしを、ジャンの演奏で聴いたことがあります、ほんの数日前に―それと、お祖父さんの今日の演奏で覚えました」

 「アルベール―アルブラートが、聴いた曲をすぐに覚えてしまうことは、僕も知っていました。これも、彼の驚嘆すべき才能です、ムッシュ・ローラン」

 「それで、お前は、曲を弾きながら、何か絵画的な―一種の風景的なイメージを膨らませて、それを曲に再現しようとしている。だから、私たちはお前の演奏に感動できるんだ。お前は、演奏の際に、まず何を目的とするかね?感動を表現することかな?」

 アルブラートは、首を横に振った。

 「では、正確な演奏技法かね?」

 アルブラートは、それにも首を振った。彼は、ためらいながら、下を向いて、唇を噛み締めていた。やや伸びた黒い艶やかな癖毛が、彼の額を覆った。

 「......僕は、何の目的もなく、ただ弾いているんです―ただ、過去のすべてを振り払おうと、演奏するだけです―演奏している間は、過去の苦しみから逃れられる......だから演奏する......実に単純で、下らないことと思われるでしょう―でも、僕の正直な気持ちは、これしかないんです」


―第74章―クリスマス・コンサート


A Grandpiano


その晩は、3人の間には、これ以上会話は弾まなかった。ただ、運ばれてきた熱いコーヒーをゆっくり飲むと、ローランは、自分のストラディバリウスをアルブラートに譲ると言い出した。彼は驚いて断った。だが、祖父は微笑んだ。「私には、もう一台、スペイン王立音楽協会から譲られたものがあるから、一向に構わないんだ」

 もう時刻は夜の8時半だった。ジャン・ニコラは、ローランに、「アルブラートの入学式の後、ぜひデュラック先生の邸宅にお越し下さい」と熱心に誘った。決断の速いローランは、それなら今夜でこのホテルを引き払うと言って、若い演奏家たちの下宿先へと逗留することに決めてしまった。

 家では、まだ子供たちがマリーと風船で遊びながら、起きていた。アルブラートが、遠慮深そうに、マリーに新しい客を紹介すると、マリーは驚きのあまり、黙ってローランとアルブラートを見比べた。

 「......まあ―!あの有名なローラン氏がおいでになるだなんて、どうしましょう―私、もう何のおもてなしの用意もできておりませんし......それに―何て素晴らしい偶然でしょう―アルベール様とムッシュ・ローランがお身内でおられるだなんて......!」

 ローランは、慌てて頭を振った。「いや、どうもこんな晩にお邪魔しまして―私のことは、どうかお構いなく、マドモワゼル。それに、私とアルベールが身内同士であることは、どうかご内密に願いますよ。明日には、デュラック教授がベルギーからご帰国とのことですし、私も教授と会うのも久しぶりでね―ごく簡単な、ご家族でのくつろぎが私の求めるところですので、お気遣いなくお願いしますよ」

 マリーは、それでも、台所に急いで引っこんで、何かしらオードブルをこさえている様子だった。ピアノの周りで風船遊びに熱中していたアリを、アルブラートは優しく抱き上げると、なだめるように言葉をかけた。

 「坊や、こんな遅くまでおっきしていたのかい。アデールと早くお休み」

 だが、二人の幼い子供たちは、新客に目を奪われていた。

 「おっきい。おっきい。だあれ、お父様」

 アザゼルは、金髪を両耳のところで三つ編みにし、赤いベルベットのリボンで輪にして止めてあった。そのリボンに合うように、赤いベルベットの洒落たワンピースを着て、胸元の白いレース模様が愛らしかった。

 だいぶ歩けるようになっていたアリは、青い靴を白い靴下の上に履き、白いベビー用シャツの上に、紺色のつなぎのズボンを着せられていた。アリは、ローランを恐れるように、父親にしがみついていたが、姉の声で、恐る恐る背の高い老紳士に、黒く愛らしい視線をやった。

 ローランは、思いがけなく出会えた、可愛らしい幼児二人に目を細めて、にっこりほほ笑んだ。「天使のように美しい―この子たちは、お前の子供たちなのかね」

 アルブラートは、躊躇いながら、祖父に説明した。

 「その―僕が抱いている......アンリが、僕の実子です。お祖父さんの実のひ孫です―こちらのアデールは......僕の亡き友人の娘で―複雑な事情があって、一緒に育てることにしたんです」

 「そうか―この愛らしい坊やが、私のひ孫なのか......アンリ、お祖父ちゃんだよ、怖がることはないよ......『お祖父ちゃん』と呼べるかな、まだ難しいだろうね、よしよし」

 ローランがアリを抱きとると、不思議なことに、アリは特に抵抗はしなかった。ただ、この珍客がいったい誰なのか、探っているような表情をしていた。それが余計に可愛らしいと、ローランは笑った。アリは、小さなピンク色の唇をそっと動かして、何かを言おうとしていた。

 「......グラン......グラン・ペ...ペル......(じいちゃま)」

 そのたどたどしい発音を聞いた時、アルブラートは思わず笑顔で拍手していた。ローランは嬉しそうに大笑いをした。

 ローランはアリを抱いたまま、そばに寄って来たアザゼルと一緒にソファに座りこんだ。アザゼルは、小さな金髪の頭を老人の膝に乗せ、上目づかいに相手を見上げた。ローランは、まるで人形のようだと、彼女の頬を撫ぜた。

 「この娘の眼は―まるで黒い宝石だね。黒曜石、というのかね。お前の眼に似ているが、この娘の方が鋭利な美しさが優っている。しかしお前の養女といっても、まるで本当の親子に見えるね」

 「この子の父親は、アルメニア人だったので―偶然―それで、僕とその友人とはよく似ていると言われていました」

 アザゼルは、自分が話題にされている、と分かったらしく、ローランを見上げながら、眠たそうに眼をこすった。

 「あのね、あのねぇ、アデールはね......お姫様なの」

 舌足らずにそう言いながら、彼女は寝入ってしまった。



 その晩、子供たちはマリーに連れられて、子供部屋に寝かしつけられた。ローランは、その後、ワインと軽食を用意するマリーを眺めながら、まだ若いのに、ベビーシッターの仕事では勿体ないと呟いた。

 「マドモワゼル、あなたは上流階級のご出身なのでしょう。お若いのに、青春を他人の子育てと家事に追われるなんて―それでお幸せですか」

 マリーはいきなりそう言われて、戸惑っていた。彼女は長く伸ばした美しい金髪を、後ろに1本の三つ編みにしていた。

 「いいえ、上流階級だなんて―父は、一応男爵の爵位はありますけれど、大した資産も持ちませんので......役所勤めですが、それも下級職ですから。戦争でモントルイユの土地も農園も、屋敷も全部焼かれてしまって―元が田舎者ですもの、こんな都会に出ても大したこともできません。昔は貴族だと言っても、今は働く方は大勢ですから、私もこうしてお勤めしているだけです」

 「でも、この家には才能に恵まれた、若い青年が二人もいる。あなたも恋をしなければ、生きてる甲斐もあったもんじゃないでしょう、ねえ」

 彼女はアルブラートへの想いがかっと熱く蘇ったが、それを抑え、代わりにジャン・ニコラを見た。だが、ジャンの存在も、若い彼女にとっては、とても手の届かない、栄光に包まれたものに思え、彼に視線を送ったことさえ、恥ずかしくてたまらなくなった。

 ワインに酔ったらしいローランを、11時頃になるとマリーは2階の客室に案内し、青年たちに慌ててお休みなさいと言うと、自分の部屋に引き下がってしまった。アルブラートは、自分の部屋で、今日あった出来事を、机の前に座りながら想い起していた。その時、ジャンが部屋をノックし、入って来た。

 ジャンは、すぐそばのベッドサイドの椅子に腰掛け、少し黙っていたが、溜息をついて、いつものように微笑んだ。

 「君には驚かされることばかりだな......君は、あのローランの孫であるだけじゃなく、ローランのアルメニアの家系が持つ、あらゆる音楽的才能を見事に受け継いでいるんだから―アラブ音楽だけでも、BBC から認められるほどなのにね」

 アルブラートは、そんなことはどうでもいいと言うかのように、首を振った。

 「遺伝なんて―受け継いでいても......僕自身がそれを正当な形で表現していなければ、家系を穢しているのと同じだ」

「何だい、その『正当な形』って?君は今まで半年間のパリでの生活で、与えられた天賦の才を存分に発揮して、それこそ『正当な形』で表現しているじゃないか」

 アルブラートは、何かを言おうとしたが、口ごもるようにして止めた。ジャンは、それを、「『例の秘密』が口まで出かかっている」と受け止めた。

 彼は、友人に、手を出してごらんと言った。アルブラートは、不思議そうに、両手をジャンの方へと差し出した。ジャンは、彼の褐色がかった、彫刻で形作られたような、細く形の整った両手を、自分の両手で包み込むように握り締めた。

この細い両手から、このしなやかな指先から、あのような美しく、人の心を揺さぶる音楽が迸り出る―この指が、例え1年後、「あのこと」が起きて、ひどく傷つけられて駄目になっても―いいや、必ず彼の手は、この指は―見事に蘇る......そう信じるんだ、信じるんだ......!

 アルブラートは、ジャンの両手の温かみを感ずるうちに、口まで出かかっていた過去の苦しい秘密が、不思議と解きほぐされ、心が癒されていった。彼は、自然と涙がこぼれたが、ジャンの前では何も恥じることはない、と思った。

 「ジャン、今日は―君のおかげで......僕は助かったんだ―そして、今もこうして救われている―君の祈りのおかげで......」

 「―助かった―?何も僕はしていないよ」

 「いや、してくれたんだ―祖父が......母に手紙を書けと言って......僕が苦しんでいる時に、助け舟を出してくれた......今だって、そうだろ―僕の苦しみを癒そうと祈っている......僕にはわかるよ」

 ジャンは、目に感動を湛えて、友人を見た。

 「君が何かで苦しんでいるのは、僕にはすぐ分かるんだ。それを僕は助けてあげたい―ただそれだけさ。亡くなった叔母が、僕が過去の恐怖で眠れない時、やっぱりこうして僕の両手を包み込んでくれたんだ。人の温かみって―いいだろう?人はそれだけで、また生きようと思うようになるから―それで、君が人に言いたいけれども、言えないことがある苦しさ―そういったものから、少しでも解放されたら、僕はそれだけでいいんだ」

 アルブラートは、ジャンの洞察力の確かさに驚くと共に、自分の苦しみを一切聞き出そうとしない彼の姿勢に、ムカールとは全く異なる新鮮さを感じた。

ムカールは、俺の苦悩をとことん吐き出させて、そしてそれを全面的に受け入れることで、俺を必死に救おうとしていたんだ―死の間際まで、俺を心配して......あの激しい愛情に比べて、ジャンは......
正反対の受け止め方をする人なんだ―決して、俺の苦しみを語らせない―自然な状態にさせておく―普通だったら、何が泣くほどの悩みなのか、あれこれと聞きたくなるだろう......大事な友人なら尚更に―でも、それを敢えて聞かない―聞くより、聞かない方が、忍耐がいるんじゃないのか......



 彼は、ムカールの性質が「動」なら、ジャンは「静」であると思った。ジャンのような友人への愛情の在り方があることに、彼は感謝すると同時に、ジャンのそうした他者への愛情を支えるのは、何らかの信仰によるものより、生来の気質や、少年時代の強制収容所での凄惨な経験により培われたものではないのか、と思った。また、彼は、自分を取り巻く人々のことをこうして考えると、ほとんどの人に心配や迷惑をかけていることが情けなくも思えた。

 「......君は、そうやって、冷静に僕の心を見守ってくれるけれども、僕は君にも、マリーにも、申し訳ないことをしているわけだから......」

 ジャンは、妙な気持ちになり、穏やかな青い瞳で、アルブラートをじっと見た。「......君が、なぜ僕とマリーに申し訳ないなんて思うんだろう?」

 「だって―そうじゃないか。君は、マリーの話し方や物腰で、あの人が貴族の令嬢だってことぐらい、分かってたんだろうし、それに彼女が好きなんだろう?マリーも君に恋をしている―それなのに、僕の子供たちのために、あの人は自由に恋愛ができない。僕の子供たちの母親代わりだから―だからって、僕は彼女と結婚しようなんて全然思っていないんだからね。マリーも君も、中途半端な立場じゃないか」

 ジャンは、笑いながら額に手を当て、照れ隠しのように、金髪を乱暴に掻き揚げた。

 「いや、まさか......その、君は―誤解している―そりゃ、まあ、僕はマリーみたいな女性は素敵だと思ってはいるさ。でも、恋愛的な感情じゃないんだ―僕は、19の頃に付き合っていた音楽院の彼女にも、つい3年前に恋していた女性にもふられっ放しなんだ―僕は音楽の話ばかりで、面白味のない男だって言われて......それに、マリーは君ばかり見ている。でも君はマリーを愛していない。だから―こんな話は、何も成立しないし、君が僕に悪いなんて思う必要もないわけだ......もう勘弁してくれよ」

 ジャンは、大人しいアルブラートが恋愛問題などの話をすることを意外に思った。「マリー・アヌーク・デュ・ガブリエル」と、彼女の本名を考えるだけで、彼はマリーへの愛しさが募り、顔が火照りそうだったが、この家への新参者である自分は、彼女のことをあれこれ考えない方が無難なのだと言い聞かせ、努めて冷静さを振る舞った。彼は、話題を変えようと試みた。

 「ええと......ああ、そうだ。君は、入学後は、首席合格者だから、早速、10月には、クリスマス・コンサートの演奏者としてのオーディションがあるんだった。ヴァイオリン専攻だけなら、それ一つでいいんだけれども、君はピアノも首席で副専攻だろう―今年は、ヴァイオリンの候補者はもう君に決定しているんだ。でも......」

 「―ピアノが決まっていないんだろう」

 「そう、そうなんだ。一人、候補者がいるんだが、その人物より君がどう優れているか、そのオーディションがあるんだ。僕は、そんな選考は必要ない、君の方がその候補者より100倍も上なんだと思っているけれど、教授陣の決定だから、仕方ないかな―まあ、君が選ばれる、と僕は信じているから、心配しないでいいよ」

 アルブラートは、ピアノと聞くと、どうしても、あの嫌なルイ・ギュスターヴ教授を連想してしまうのだったが、他にもピアノの教授は大勢だろうと、その時はあまり気に留めずにおいた。それよりも、アイシャの喪に服すべきクリスマスの日に、自分が舞台で演奏することの方が、辛く思われた。だが、そんなことは、親切なジャン・ニコラに言うべきではない、と自ら戒めた。


 翌日の午後、1週間ぶりにデュラックがベルギーより戻った。そして9月9日には、ザキリスがカイロから訪れた。二人とも、アルブラートの入学式コンサートに大きな期待を抱いていたが、それ以上に、彼が、有名なアルベルト・ローランの孫であることが、彼らの大きな驚きだった。もちろん、アルブラートの立場を考えて、両者が身内同士であることは、口外しないと二人は請け合った。

 「アルベールは、『ヴァイオリニストのアルベルト・ローランという祖父がいるから、ヨーロッパに行きたい』と言っていましたが、それがまさか、本当にクラシック界で名高いローラン氏とは知りませんでした」

 ザキリスがこう言うと、ローランは、孫が無事に演奏家の登竜門をくぐれたのは、貴方のおかげだと丁寧に礼を述べた。

 「貴方が、孫にレバノンで出会い、カイロに亡命させ、足の手術もして下さった上に、職場も提供し、そして養子縁組をして下さった―行く場も失い、彷徨っていたあの子に、パリに行けるまで手を差し伸べて下さった。私は20年間、孫を探しておりましたが、その間に貴方のような方に出会うとは、あの子も幸せ者です」

 ザキリスは、「20年間、身内の行方を探していた」との話が、亡くなったムカールとその幽閉された母親オルガ、この親子のケースと同じであり、しかも両者共にアルメニア人の家系が背後にあることを、不思議な偶然に思った。

しかも、ムカールが不運というべきか、ギリシャ王の直系であるために、その娘アザゼルを引き取ったアルブラートが、『アルベール』と名を変えて、アザゼルの幸福を保護しなければいけなくなったのだから......いや、彼が名を変えたのは、別の意味でも理由があったんだが―

 ザキリスがそう考えていると、ローランは、パイプを静かにふかしつつ、デュラックにも礼を言った。

 「しかし、プロフェスール(教授)、あなたが孫を最初に外の社会へと送り出してくれなければ、今の彼は無かったわけですからね。あなたがシリアであの子にフランス語を教え、またこのパリでクラシックを教えるとは―奇遇です。孫は良い方たちに回り逢えて、私からなんとお礼を申し上げたらよいのか、わかりません」

 「本当に、私の方こそ、なぜこんなに語学にも音楽にも秀でた少年がいるのかと不思議でした。それが、あなたがお祖父様でおられたからなんですから―当然過ぎるほどです。ただ、10年ほど前からパレスチナ人がゲリラ化したことは、彼にとって、不幸なことです。この家でも、学校でも、名前をフランス名にしたのは、そのためですし、小さな子供たちのためでもあるわけです」

なるほど―彼が改名したのは「パレスチナ人であるための危険性を回避する」という、もう一つの目的だけしか、今はローラン氏に言うことはできないか......ギリシャ王政反対派の秘密組織からアザゼルを守るため―こんな話は複雑すぎるし、氏はパリには10月までしかいないのだから―



―第75章―敵愾心―1―挑戦


Old Violins


アルブラートは、食卓で賑わう三人の会話を複雑な心境で、黙って聞いていたが、話が途切れた所で、席を立ち、改まった口調でこう言った。

 「―僕が、祖父と出会えたのは、デュラック先生と、義父、そして、友人のジャン・ニコラ―すべての方達のおかげです。皆さんに改めて感謝したい気持ちで一杯です......それに、僕が安心して学業に取り組めるのは、僕の子供たちを育てて下さるマリーのおかげです。マドモワゼル・ガブリエル、僕はいつも、あなたに深い恩を感じているんです―普段は何も申し上げなくて、申し訳ありません」

 彼は、黒い瞳に感謝の念を込めて、じっとマリーを見た。マリーは運んで来たコーヒーを、危うくこぼしそうになった。彼女の頬がさっと赤くなり、碧色の眼が輝くのを見て、ジャンは小さくため息をついた。

 「ムッシュー・ザキリス、こちらのジャン・ニコラは、明日はアルベールの後、ムソルグスキーの『禿山の一夜』を演奏するんです。彼はデュトワ教授の助手で、将来は助教授ですよ。彼は、アルベールの置かれた状況をよく把握してますので、音楽院でも彼の立場を助けてくれます」

 ローランがこう言うと、ザキリスは微笑んでジャンを見た。

 「彼のことは、入学試験の時から知っていました。こんな人柄の良い友人に恵まれて、私も良かったと安心です―アルベールがパリでうまくやっていけるか、非常に心配してましたが、入学前からこんなに優れた親友に出会えるとはね」

 翌日、1963年9月10日、午前10時より、入学式は、首席合格者のヴァイオリン演奏により始まった。アルブラートは、自分を支える人々への感謝の気持ちを曲に込めながら、祖父から譲られたストラディヴァリウスで演奏した。特に緊張感は無かった。それを指揮するジャン・ニコラは、親友の晴れの舞台を成功させようと、それしか考えていなかった。

 デュラック、ザキリスとローランは、マリーと子供たちと共に、客席で二人の姿を見守っていた。やがて、演奏が終わると、聴衆は、飽き足らない様子で、いつまでも拍手喝采を止めなかった。ローランは、隣にいたデュラックに、予想通りの出来栄えだったと笑みを湛えたが、デュラックは、やや訝しげに首を傾げた。

 「あの艶を帯びた抒情的で、震えるような深みのある音色―そして、以前にも増したスピード感の緩急の的確な度合―それは、あなたのおっしゃる通り、非常に優れている。だが、何だか物足りない―いや、物足りないではなくて、そうですね......何か、こう、感情を抑制しているような風にも見えたのですが―私の一人合点でしょうか」

 「―いや、それは私も感じましたよ。5日前に、ロワイヤルホテルで孫と再会し、私はあのヴァイオリンで、彼に一曲演奏をと言いました。あの子は、シベリウスの第一楽章を見事に弾きこなしたのです。それで、私は『演奏する時は何を目的とするか』と訊いてみました―ところが、彼は『何も目的がない、ただ過去の苦しみを忘れるために弾くのだ』と言いました......

 あの子が過去にどんな苦しみがあるのか、それは本人しか知らないことです。プロフェスール、あなたもシリアの病院で16歳のあの子と初めて出会ったのでしょう。彼が病院に入る前、どんな苦しみがあったのか―それを、我々は知らないし、今後も、知らない方が良いのですよ」

 二人の会話を聴いていたザキリスは、続いて始まったジャン・ニコラのピアノ演奏を聴きながら、アルブラートはあの青年には「過去の秘密」を話しただろうか、と考えた。

もうあの「秘密」を知っている者は私だけだ―アルブラートが、このパリで、あの事を誰にも打ち明けず、ただ独りで「秘密」を抱えて生きていくことなど、できるのだろうか......?そんな状態が続いたら、クラシックの演奏は、ただ「過去の苦悩」から逃れる手段に過ぎなくなり、演奏自体も駄目になるのでは―現に、プロの演奏家が「何か感情を抑え込んで弾いている」と批評しているではないか―?

 ジャンの演奏は、いつものように全く落ち度がなく、模範的ともいうべきものだったが、以前よりも深い感情が滑らかに響き渡り、全体にスピーディで躍動的な光に満ちていた。

 そんなジャンの姿を見て、ザキリスは、「この好青年は、まだ何も知らない」と直感した。彼は、アルブラートがせっかく新生活のまた新たな好スタートを切った時に、ジャンにもアルブラートにも、過去のことなど話題にするまい、と考え直した。

 入学式は、その後、アルブラートが新入生代表の挨拶を述べた後、新入生一人一人に小さな金のメダルが贈られ、学長の祝辞で締め括られた。客席に戻ってきたジャンに、デュラックは賞賛の言葉を与えた。

 「ジャン、君の演奏は非の打ちどころが元々なかったが、また随分と音色に潤いとスピードが溢れるようになったね。これでモスクワのコンクールを蹴るとは惜しい―またグランプリ間違いなしなんだがね」

 「いいえ、僕はまだ未熟ですよ。アルベールの影響が少し出てきたぐらいのもので―それに、僕はこの音楽院で、アルベールの学生生活がつまずかないよう、守る役目があるんです。コンクールに出て、グランプリなどうっかり受賞したら大変ですよ。音楽院で腰を落ち着ける間も無くなってしまいますから」


 しばらくすると、アルブラートがやっと戻って来た。彼は、手に新しい楽譜や教則本をどっさり抱え込んでいた。それで、右足が痛むと辛そうに言った。

 「明日から早速、講義やら実技レッスンがあるし―おまけに、クリスマス・コンサートのオーディションは、今年は例年より早くて、9月の24日にあるそうなんだ」

 アルブラートがこう言うと、ジャンは不思議そうに問い返した。

 「オーディションが、入学式の2週間後に?クリスマスの3か月前から?それは変だな―今年の課題曲は何だって?」

 「『ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番・2番』と『グリーグ ピアノ協奏曲』―合計3曲なんだ。3曲もあるから早めたのかも知れない......でもあと2週間で、オーディションに受かるほど練習できるのかな―」

 彼は、オーディションが10月から、とジャンから聞いていたから、その前に、右足を近くの外科で診察してもらおうと思ったが、それもできない、と心配していた。ジャンは、オーディションに加わる教授の名をアルブラートに訊いた。すると、彼は浮かない顔で、こう答えた。

 「ルイ・ギュスターヴ、ジュネ・マティス......この二人の先生だけなんだそうだ」

 デュラックは、その名前を聞いて、困ったことになった、と難しそうな顔をした。「ジュネ・マティス―というのは、確か8月の最初に新しく赴任した助教授だ―どうも印象が悪くてね、傲慢で我が強く、大した音楽的技量もない。ただ、現代音楽に関する著作が数点あるが、どれも確固とした持論がなく曖昧で、クラシックに対する理解が浅い。それでも、ギュスターヴ教授の推薦で助教授になったらしい男だ」

 そして、ジャン・ニコラに、こう依頼した。

 「これまでのクリスマス・コンサートでは、ピアノ曲は1曲だけだった。新入生にいきなり3曲も、しかも2週間でマスターしろというのは無謀すぎるし、ギュスターヴ氏は何を考えているのか判らないね。ジャン、デュトワ教授に事の推移を確かめて、君がオーディションの審査に参加できるよう、要請してくれないか」

 ジャンは、すぐにデュトワ教授の研究室に走って行った。彼が帰るまで、皆はデュラック邸に引き上げ、ジャンの報告を待つことにした。ザキリスは、アルブラートの右足を心配していた。

 「明日、学校の後、私と市立病院の外科に行って、レントゲンを撮ってみよう。無理をしなければ、このままで大丈夫かも知れない。もし何らかの手術となれば、その時は私が立ち会うし、学校も休学すればいい。今まで、急激に悪化していない様子だから、多分、手術とまではいかないだろうからね」

 1時間半ほどして、午後の3時頃、やっとジャンが帰宅した。彼は内心、憤っていたが、アルブラートを心配させまいと、落ち着いて話をした。

 「オーディションには、僕が審査に加わることになりましたが、教授ではないので、『審査の見習い』としてその場にいるということと、何も意見を言わないという条件付きです。それで、なぜクリスマスにピアノ曲を3曲なのか―これは、アルベールが稀に見る才能の持ち主であることを、音楽院側として披露すべきだ、とのギュスターヴ教授の発案によるものだそうです」

 デュラックは、やはりルイ・ギュスターヴが陰で糸を引いているのだと思い、今この場にギュスターヴがいたら、殴り飛ばしたいとまで悔しがったが、その憎悪はアルブラートのために、言葉にも表情にも表わさなかった。 

何ということだ―いかにも、あの男が考えそうなことだ―!これまで、最上級生として、入学希望者たちの審査を教授連と担ってきたジャンを、「審査見習い」として扱うだなんて―!おまけに、音楽院の規律を無視して、アルブラートに3曲も課題を押し付け......要は、彼を失脚させようという魂胆か!どうせ、「候補者」というのも、ルイ、お前の愛弟子たる差別主義者のフランソワ・ギレなんだろうが!

 「そうか......では、それに従うしかないな。私はもう部外者なのだし―2週間でピアノ協奏曲3曲ということは、1曲に4,5日練習期間を持たせれば、アルベールなら大丈夫だろう。レコードを聴けば、曲の全体像は彼は掴めるし、譜読みは30分もあれば充分だし、初見でもかなりの部分までカバーできる。安心しなさい、アルベール」

 翌日、アルブラートは午前中で講義が終わった後、ザキリスと市立病院に行った。レントゲンの結果、医師は「軟骨がやや擦り減っている」と述べた。

 「まだ若いから、ステロイド薬の服用でいいでしょう。ただ、30分以上じっと立っていたり、歩き回ったりしないように。走ることは論外です。しかし、なぜ軟骨が擦り減ることになったんでしょうね?手術は成功しているのに―こんなケースは、幼い時、著しい栄養失調に罹った場合、発症するのですが」

 ザキリスは、とっさに言い訳をした。「ご存知の通り、ギリシャでは政治的内乱が絶えないでしょう。私は10歳のこの子を連れて、キプロスへと逃亡しましたが、半年ほど食事もろくに得られない生活を強いられましてね。挙句の果てに、3年前、反乱軍の銃撃で、右膝を損傷したのです。それで妻の実家のあるアレクサンドリアで、私が急遽手術をしたものですから」

 診察後、薬が処方される間、ザキリスはアルブラートに、息子たちの写真を見せた。「こっちの青い服がアンドリュー、こちらの黄色の服がニコラスだよ。少し顔がはっきりしてきただろう。それでもあまりにも二人とも同じ顔なんでね、時々間違える。だから、各々青と黄色の腕輪までつけているんだ」

 アルブラートは、赤ん坊たちの国籍を尋ねた。ザキリスは、母親がエジプト人だから、エジプト系ギリシャ人だと説明した。その話を聞いて、アルブラートは羨ましく思った。

この子たちの将来は安泰している―誰にも嘘をつかずに、誤魔化さずに生きていける―生まれつき、医師を父として、経済的にも安定して......誰からも逃げたり、憎まれることもない......

 彼は、義父を微笑みながら見つめ、皮肉な調子で呟くように言った。「先生も、医者に嘘をつくのが随分うまくなりましたね」

 「嘘をつくのがうまい?そんなことは上手にならない方が幸せなんだ。君の幸せを守るために、言い訳をしたまででね。君が不幸とは言いたくないが、素性は不安に満ちているだろう?せめて、君の立場が偽りなく人前で堂々と言える日が来ることを祈るばかりだよ」

 アルブラートは、ザキリスと帰宅し、お茶を飲んで一息つくと、早速、デュラックの部屋で、『ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番・2番』と『グリーグ ピアノ協奏曲』のレコードを聴いた。そして、再度、ラフマニノフの第1番を聴くと、楽譜を開いて、暗譜にかかった。デュラックも、その場に居合わせたローランも、暗譜は1時間はかかるだろうと予測したが、アルブラートは20分で楽譜を閉じてしまった。

 「もう覚えたのかね?」ローランが訊くと、アルブラートは少し笑って、頭を指差した。「もし心配なら、僕の頭をつついて下さい。全曲入ってますよ」

 そして、彼は驚くほど滑らかに、素早く鍵盤を隅から隅まで叩き、まるで鍵盤など存在しないかのように、崖から迸り落ち流れる滝の如く、その曲を演奏した。彼がピアノに向かう姿には、何かしら平常とは異なる勢いと鬼気迫るような緊張感が漲っていた。

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