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砂漠の果て(第25部「孤闘」)
第二十五部「孤闘」
―第76章 敵愾心―2―崩れた壁: part1
アルブラートの熱気に満ちた演奏には、昨日の入学式コンサートにはなかった、溢れるばかりの叙情性と深く力強い感情が込められていた。ローランは、ヴァイオリンでは表現し得ない深い感情を、アルブラートは全てピアノに託すのだ、と改めて感じ入った。
彼の演奏を聴いていると、ローランの知り得なかった、愛する孫の苦闘と孤独の軌跡を描く生育の歴史が直に伝わってくるようだった。
ラフマニノフの第2番、更にグリーグにしても同様の奇跡が起きた。アルブラートは全ての曲の暗譜に、ほんの15分から20分しか時間をかけなかった。そして、3日間で3つのピアノ協奏曲を艶やかに完璧に弾きこなして見せた。
1曲に4日はかかる、と当然の如く考えていたデュラックは驚嘆しつつも大いに満足した。
「かなり自己流だが、3曲とも叙情性、繊細さ、深みと躍動感、スピード感は完璧だな。後は管弦楽とどう合わせるか、だが―ジャン、君は全部指揮した曲ばかりだろう。明日から3日間ずつ、リハーサルをつけてやってくれ。オケとの呼吸を飲み込んだ演奏なら、オーディションにはより有利だからね」
ジャン・ニコラは、アルブラートがラフマニノフの第1番を弾いた2日前から、一言も感想を発しなかった。彼は、入学式後の初日から、ジュリアード音楽院の客員教授に、学内を案内し、また指揮の応用技術講義を受けていたため、帰宅が午後の8時過ぎだった。その時、いきなり彼の耳に聴いたこともないピアノの光玉の渦が流れ込んで来た。
その旋律が、アルブラートの奏でるものであることは、すぐには判らなかった。それほど、ジャンにとって、今回の友人の演奏は衝撃的だった。実際、アルブラートの演奏の姿は、今までとは全く異なり、激しく鋭く、またその表情は厳しかった。しかしジャンには、彼の艶やかな、時折金色に輝く褐色の肌に包まれた細長い手や指、品の良い顔立ち全体が、ピアノを抱きしめながら泣いているように見えた。
苦しいのか―アルベール―君の演奏は、まるで過去の苦渋の路、その軋むような轍(わだち)の重苦しい響きを訴えるかのような激しさがある―でも僕には、この先起こる忌まわしい事件を君が予知して苦しんでいるような気がして......
「どうしたんだ、ジャン。オケとのリハーサルはどうする?いつも多弁な君がこのところ、めっきり別人のように寡黙じゃないか」
デュラックは不思議そうにアルブラートを見やりつつ、同意を求めた。アルブラートはジャンの心中が推し量れず、出来映えが悪かったのだろうかと、やや自信を失いかけていた。
だがジャンはきっぱりと断言した。
「この三日間、僕はアルベールの演奏のあまりの気迫に圧倒されて、何も言うべき言葉が見つからなかった。暗譜の早さと演奏の完成度の高さは、今更言う間でもありません。それに、先生は自己流だと言われましたが、自己流なのではなく、独創性が漲る演奏だと僕は感じたんです」
「ああ、なるほど。私は言い損った気がしていたんだ。そう、独創性というのがぴったりなんだ」
ジャン・ニコラは鮮やかな青い目でデュラックを真剣な眼差しでじっと見つめながら、頷いた。
「彼が演奏した三曲すべてですが、躍動感、叙情性、深い悲哀感、驚異的なスピードによる曲想の表現力は、完璧を通り越しています。しかも音の美しさは、これまでのどんなピアニストも到達し得なかったレベルの輝きを放っています。これらをすべて、ほんの20分程度の暗譜でやりこなせる演奏家が世界にいますか―神技ですよ」
そう言いながら、ジャンはアルブラートに讃嘆の意を込めて見入った。アルブラートの憂いを帯びた黒い瞳に、感謝と喜びの表情が浮かぶのを見て、ジャンは、何と気品に満ちた、不思議な魅力に満ちた人なんだろうと、改めて感嘆せざるを得なかった。
ローランの言っていた通り、パレスチナ・アラブは古代ギリシャ・ローマ彫刻の持つ芳しい高貴さと威厳に溢れている―彼が幻の黄金の馬なら、そこらの英米人は太った驢馬じゃないか―こんなに魅力的な人が人間離れした優れた演奏をする......彼はどんな舞台でも成功する天賦の才と立派な容貌、この二つの要素を生まれながらに備えている―それなのに......
「じゃあ、明日にでもオケのメンバーと連絡を取れば......」
「いえ、クリスマスのオーディション候補者にオーケストラとの音合わせは許可されていません。もちろん、演奏者が決まれば、オケとの練習は必須ですが、候補者が2人いる場合は、オーディション前にオケとの音合わせは無いんです。2人とも、平等な条件のもとでオーディションを受ける訳ですから」
「君は、最初の候補者のオーディションに立ち会ったようだね」
「ええ、アンジェ・ジュール教授とピエール・デュシャン教授と共に審査をしました。はっきり言って、最初の候補者の演奏は、まったくのていたらくですよ。ずっとトップだったので、練習を怠っていたツケが回って来たんです。間延びしたタッチと、起伏の無い感情表現、何も特筆すべき点がない。あれじゃ、5歳の子供が弾く方がよっぽど上手い。それで、自分が選ばれると豪語していました。あの傲慢さには呆れました―まあ、ギュスターヴ教授の秘蔵っ子ですから仕方ないですね。彼が誰だか、お分かりでしょう」
アルブラートは、その候補者の名を忘れていたが、何故か顔は思い出せた。目の色の薄い、冷酷な表情をした青年だった。彼は、ふと記憶に蘇ったその男の名を、恐る恐る口にした。
「......ギレ......フランソワ・ギレ......?」
ジャン・ニコラは少し驚いたように、アルブラートを振り向いた。そして、残念そうに頷いた。
「そう。そうなんだ。彼が最初の候補者なんだ。あいつは、ギュスターヴ教授の影響を受けて、白人至上主義の思想の持ち主でね。実際、ギュスターヴ教授は、2年前まで、KKK、すなわちクー・クルックス・クランのメンバーだったらしい。音楽院の仕事が忙しくなったためにその団体を脱退したが、思想としては根付いている。演奏家がそんな危険思想の持ち主なのに、学長はあの教授のピアノ科学部長の地位を退けないんだ」
アルブラートは、「白人至上主義」と聞いて、何か胸騒ぎがした。
「何だい、そのKKK......って......」
「言わば公的に認可されてもいない秘密結社だよ。アメリカの南北戦争の頃に結成された、反黒人・反有色人種および反ユダヤ主義の組織らしい。まあ、あの教授は、教授と言う立場上、そうした思想を公言できないけれども、フランソワ・ギレには注意した方がいい。彼は、1年前、入学した頃には、まだ素直ないい学生だったんだ。寮で僕とルームメイトだったし、裕福な家庭の子息らしい真面目で才能も豊かな人間だったんだ。だから、僕は彼と親友であり得た―でも、1年生の後期から、ギュスターヴ教授がピアノ科学部長に就任した後、彼は全く違った男になってしまった。今じゃ僕は、彼とは交友関係は一切断っている―むしろ、あいつがアルベール、君に何か嫉妬めいた恨みを持つようになったら大変だと思っているんでね」
アルブラートは、この音楽院でも、自分を敵視する人間が少なくとも2人いることに、底知れない恐怖と虚しさを抱いた。すがる人は、ジャン・ニコラただ一人しかいないと思ったが、そのジャンでさえ、ギュスターヴ教授によって、自分のオーディションでは、「審査見習い」に格下げされている―いつしかジャンも、この音楽院からいなくなるのではないか......
彼の心から、オーディションに対する挑戦心や、ピアノを弾いている時の幸福感がすっかり消え失せ、その表情には焦燥感や不安が満ちた。それを見て、ジャンは、ついいろいろ話し過ぎて、アルブラートを怯えさせてしまった、と反省した。
「ああ、もう僕は駄目な男だなあ―珍しく3日間、口を閉ざしていたのに、またいつもの癖が出て喋り過ぎたよ!ごめん、気にしないでくれよ。君の演奏は、とにかくエベレストが雲隠れするほどの最高峰の絶品だから、オーディションは絶対大丈夫―僕の頭にはオケのリズムが全部入っているけれど、その旋律の中に、君の演奏は実に見事に収まっていたよ―呼吸も、タイミングも完全にね。ギレのことなんか、気にしなくっていいんだ。何があっても、僕が君を守る―そう誓って、研究科に残ったんだから」
アルブラートは、ジャンの自嘲する言葉に、急にムカールの「俺は馬鹿だな」との口癖を思い出し、不思議な懐かしい気持ちになった。彼はジャンに旧友と出会ったかのような眼差しを向け、少し嬉しそうに笑った。
「何だい―何かおかしいこと言ったかな」
「いや、亡くなった友人の口癖を思い出したんだ。いつも何かにつけて、『俺は馬鹿だ』を連発してたんだ―もう一度あの口癖を聞きたいと思っていたもんだから......君は彼に似ているな、と思って」
「へえ......どんな人だった?」
「アデールの父親でね。ホテルの調理人だった。背が高くて、親切な人だった。凄い熱血漢なところがあったっけ―僕より7歳も年上だったし、全体に君の静かな善良さより、情熱的な面が目立っていた―下町育ちで野性的な感じでね。そこが少し君とは違うけれど」
ザキリスはその話を黙って聞いていたが、ふとアルブラートと目が合い、納得したように頷いた。医師は明日の早朝の便でカイロに帰ると言い、ローランに別れの言葉を告げて、客室に引き上げたが、寝る前に、アルブラートを3階奥の自分の部屋に呼んだ。彼はアルブラートと二人だけになると、アラビア語を使った。
「来月の下旬に、ザカートと子供たちを連れて来るよ。それまでに、君がクリスマス・コンサートの練習に無事励むことができるようになっていることを祈っている―どんな時でも、心正しい者が成功することを信じなさい」
アルブラートは、様々な想いが交錯したのか、目に涙を溜めて、義父を静かに見つめた。彼は、思い惑っていたが、上着のポケットから錆びた銀の指輪を取り出し、医師に渡した。
「この指輪は―」
「......亡くなった母が、生前にいつも身につけていた結婚指輪です」 「......なぜそれを―君が今、持っているんだ?」
アルブラートは震える声で、怖ろしいことを打ち明けるように、ザキリスから目を反らした。彼の頬は、涙で濡れ、その頬に部屋の照明が反射して光っていた。
「......この指輪は、入学式での演奏リハーサルの数日前......夜に、僕の部屋にムカールが現れて......その―『お前の母さんから指輪を預かっている。何かメッセージを書いて、指輪に結び付けておけば、お前の所に、母さんがいつでも訪ねに来れるようになる』―そう.......そう言って、僕に渡したんです......でも、僕は―母に会うのが怖ろしい―だから、ザキリス先生に預かって頂きたくて―」
ザキリスは、亡者が現世の者に何か物を送り届けるということが、にわかに信じ難かった。それが真実だとしても、なぜこの指輪を、ムカールはアルブラートに託したのかと訝った。
母親の遺品は、アルブラートにとって、心の深い傷を抉るようなものではないか―賢明なあのムカールが旧友を苦しめる筈がないのに―冥界に行くと、同じ住人であるアルブラートの母に同情し、彼女の心情の方を尊重したくなるのだろうか―
それにしても一体、冥界というものが存在するのだろうか―彼は錆び付き、銀が剥げかかった指輪に見入りながら逡巡した。アルブラートは不安そうに手を握り締めた。
「先生......どうかお願いです。こんなことを依頼するできるのは先生しか......」
「分かってっているよ。これは私が大事に預かっておくから......君の抱える苦しみを、少しでも軽減することに、私が貢献できたら、といつも考えているんだ。ところで君は、ムカールと時々......話をするのかね?」
「このパリに来て―2,3回、彼が僕の寝室に現れました......パリに行く前、アレクサンドリアに滞在している時に、現れたのが最初です」
ザキリスは、アルブラートが「ムカールの言葉に導かれてアイシャに会いにサハラに行った」ことを思い出した。
「そうだったね―君がサハラに行ったのもムカールの出現がきっかけで......あれは、もう今年の1月だったから、忘れていたよ。普通、そんな体験は誰もがするわけではない。超越した何らかの能力の持ち主なら、そんな体験は、そう稀でもないらしいね」
「超越した―特殊な能力―?それは僕の音楽に関する能力を指しておられるのですか?それなら、僕より遙かに優れた先達が数多くいるのに―」
「いや、私の母方の祖父が、エジンバラに住んでいたが、祖父は何というのかな、そうした冥界の研究に熱心でね。まあ、特殊能力というのは超自然的エネルギーを自ら引き寄せてしまう、繊細な感受性の強い能力なのだ、とよく話していたのでね―君がムカールと未だに交信できるのは、やはり君に豊かな優れた芸術性が備わっているからなんだろうね......でも指輪のことはもう忘れて、たった三日でマスターしたピアノ協奏曲の仕上げに専念しなさい。正直言って、あの暗譜の早さと、曲の再現力の見事さには心底感服したよ......」
ザキリスはそう言うと、息子のアンドリュー・アジールとニコラス・アハディの写真をアルブラートに渡した。
「将来、きっとこの子たちは兄さんの君の感化を受けて、立派な芸術家か学者の道に進むと私は信じているんだ」
ザキリスは、この頃から、アルブラートに対するより具体的な印象を、散文的に日記に書き記すようになっていた。それは、彼がレバノンのホテルでアラブ音楽演奏家として舞台に立っていた時から、時折続けてきた習慣だった。もちろん、今後はより一層、ムカールと彼の不思議で宿命的な因果関係も織りまぜるべき要素だった。
アルブラートはそれから2週間、音楽院の授業から帰宅後は、ほとんど一時も休まず、オーディションの課題曲を熱心に練習し続けた。時折、練習の手を休めては、彼の演奏を大人しく聴いている二人の幼子とソファに座って遊び相手になってやった。アリは喜び、おもちゃのヴァイオリンを弾きならし、歓声を上げたが、アザゼルは退屈そうにした。
「お父さま、ピアノひいて。遊んじゃだめよ」
彼女がじれったそうにそう言うので、アルブラートは仕方なくピアノの前に座ろうとするが、そうなると、今度はアリが不満そうにぐずるので、しばしば大騒ぎになった。そういう時、ジャン・ニコラがうまくアリの相手をするのだった。忙しい日々が過ぎ、ついにオーディションの日を迎えた。
アルブラートは、1階の吹き抜けのホールから、婉曲した階段を上り、2階の踊り場で足を止めた。階段の手摺にもたれかかり、オーディションの前に、ジャンの研究室に寄って、少し話をしていこうかとためらった。
いや、話といっても何もないんだ......
家で毎日のように彼とは話し合っているじゃないか―何だろう―ただ、ジャンの顔を演奏の前に見ておきたいだけなのかな―やっぱりギュスターヴ教授......あの教授が嫌だから......
彼は2階に上がると、そのまま正面の長い廊下を見た。廊下の突き当たりの、右手にある部屋がオーディション会場だった。左側の廊下には、研究生の部屋が並んでいた。このまま左に曲がって、すぐ手前の部屋がジャンの研究室だった。オーディションまであと15分ほど時間があった。やはりジャンに会っていこうと、彼が左へと足を向けた時だった。すぐ背後の階段を上ってくる足音に気がついた。
彼は振り向いて、その者を見た。そしてその相手の顔に浮かんだ嘲笑に満ちた表情に寒気を覚えると同時に、相手が一方的に彼をなじる口調で話し出した。
「お前は一体何のためにここにいるんだ?まさか本当にオーディションを受けるつもりなのか?アラブ人の中でも最低の種族のくせに」
アルブラートは、フランソワ・ギレとこうして顔を合わせるのは初めてだった。そして、内心、ギレという人物を恐れていた。ギレなら、自分に必ず敵意を剥き出すだろうと感じていたが、実際にその言葉を聞くと、逆に憤りに似た感情が不思議と湧き起こってきたのだった。
―77章 敵愾心―2―崩れた壁: part2
「アラブ人でも低級な種族?」
「パレスチナ人だよ。テロリストの野蛮人が、音楽院でウロチョロするなよ。目障りなんだって言ってるんだよ」
アルブラートは、全身の血が逆流するのを覚えた。このギレを殴り飛ばし、ナイフで心臓を切り裂いたら、さぞ爽快だろう―だが怒りを押さえ、この場をやり過ごさなければ己に不利だと判断した。
「僕はパレスチナ人なんかじゃない。ギリシャ系フランス人だ」
「だがデュラックの従兄弟だそうじゃないか。あの教授はアルジェの娼婦との混血だってな。おまけにお前の母方の叔父はギリシャ人ときちゃ、アラブの血は免れない。非文明人のケダモノのくせに、澄ましかえったお前の顔を見るとイライラするんだよ」
ギレは、こう言いながら、アルブラートを肩でこづき回し、研究生室の並ぶ廊下とは反対側の隅へと追いやった。そこには開き戸が開け放たれ、窓もやや開いていた。
アルブラートは相手にならない馬鹿だと悟り、こんな者を恐れていたことが情けなくなった。
「あんたの話に僕は興味ないんだ。そこを通してくれないか」
ギレはさっと身をかわしたが、その途端、アルブラートの右足首に自分の靴を引っかけた。彼の体は宙に浮いたが、次の瞬間、右膝と右手首が骨の曲がるような、鈍い不快な音を立てた。彼は床に激しく叩きつけられるようにして転んだのだ、と気がついた。ギレは彼の右靴をすぐさま、ひったくって脱がすと、開いた窓から遠くへ放り投げた。
アルブラートが慌てて体を捻り、半身を起こそうとすると、急に左頬に激痛が走り、口の中に血の味がいっぱいに広がった。ギレが右足の靴先で、彼の顔を蹴り上げたのだった。
「靴を......返せよ」
「ふん、パレスチナ難民が靴なんておかしいぜ。一生裸足でいろよ」
ギレはその言葉が終わるや否や、またしてもアルブラートを足蹴にしようと右足を振り上げた。アルブラートはその瞬間を逃さず、左手で相手の足首を素早く掴んだ。バランスを崩したギレは、その場にドサッと尻餅をついた。
「何をしているんだ、そこで!」
ジャン・ニコラが駆けつけ、アルブラートの傍に立っていた。
「ギレ、君は何ということをしたんだ!音楽院という場で下級生に暴力を振るうなんて!」
「僕じゃない、こいつが僕を転ばしたんだ」
「馬鹿言うな!アルベールの頬の傷を見れば分かる。これは君の靴先で蹴った痕じゃないか。それに僕は、君がアルベールに脚を振り上げる瞬間を見たんだ。廊下が騒がしいから、変だと思って部屋のドアを開けた途端にねー君が転んだのは自業自得じゃないか。アルベールはただ自己防衛しただけだ。それに―」
ジャンは、アルブラートの靴の片方が無いのに気づくと、ギレを睨みつけ、窓から中庭を見降ろした。校舎から8m程離れた菩提樹の根元で、黒い靴の片方を二人の女子学生が拾い上げ、不思議そうに顔を見合わせたり、くすくすと笑っていた。
「何だって彼の靴をあんな所に投げ飛ばすんだ?これじゃオーディションに出られない。妨害目的か?」
ギレはジャンを憎々しげに見つめていたが、やがてその目は嘲りと軽蔑の色を剥きだしにした。
「いい加減に優等生づらは止めろよ、えっ?このガス室の死に損ないめ!」
ジャンはその言葉に蒼白となり、息が詰まった。
「『ガス室の......死に損ない』だって......?よくもそんな冒涜的なことを―まともな人間の言うことじゃない。悪魔だ......君は悪魔に魂を売ったわけだな」
「何とでも言えよ。僕の父は伯爵家の資産をナチスから没収されたが、その代わり、フランス中に隠れているユダヤ人の名士達のリストを通報する役目を請け負った。だが後で母がドイツ出身で、バイエルン家の血筋と知って、ナチスも、父のスパイ活動が成功した暁には、没収した資産をそっくり返すと約束した。けれど、折悪しくドイツは敗戦、父はナチスの諜報ということで処刑されたよ。だからユダヤ人さえいなければ、父は死ぬことも無かったのにと思うとね―僕はナチスを失脚させたユダヤ人やアラブが憎いんだ」
「君の考えは、根本的に僕らのものとは軌道がずれている。僕に接近したのは、ユダヤ人への復讐のためだったのか―」
「いいや、最初は何もそんなことは考えちゃいなかった。ただ、去年の3月、ピアノ科進級試験で僕が君を負かしてトップになっただろう。あの後、ギュスターヴ教授に呼ばれて、KKKのことを知ったのさ。あれこそは、この世を均一な人種で統一し、世界平和を実現させる唯一の思想だと、僕は深く感銘したね」
「君の話はもういい。それよりも、互いに研鑽しあうべき友人に暴力を振るった君の罪は重い。君はもう20歳だろう。本来ならパリ警察に、脅迫暴力容疑及び名誉毀損罪で訴えるところだが、この音楽院でそんな醜聞はごめんだからね―教授達に話して、放校処分にさせてもらう。君はもう、こことは縁のない人間だ」
「よくもそんな勝手なことを―教授でもないくせに―このままで済むと思うな!」
ジャンは、ギレの殴りかかった手を何事もないかのように掴むと、冷静に言い放った。
「いつから君の手は、人を殴る手に変貌したんだ?これじゃもうピアノどころじゃないな。さっさと荷物をまとめて出て行ってもらう」
ギレが1階に降り、校舎を飛び出し、寄宿舎へと走り去るのを見送りながら、ジャンは右手で額を抑え、左手で苦しそうに胸を押さえていた。乱れた呼吸を何とか整えている様子だったが、すぐにアルブラートの方へと向き直った。
「もう3時半か―オーディションを20分過ぎてしまったか。君、大丈夫?今日のことは、僕からアンジェ・ジュール教授に説明するよ。僕の研究室に来れるかい?」
「でも、オーディションは......今日受けないと駄目になってしまうんじゃないかな―さっき転んで、右手をひねったみたいなんだ。こういう怪我は、すぐなら平気だけど、日が経つと痛みがひどくなるものだから......」
「いや、演奏より怪我を治す方が先決だよ。それに、オーディションがもし、もう受けられなくなっても何も悔む必要はないんだ。君にはこれからまだ十分、活躍の場が設けられているんだから」
ジャンはそう言うと、彼の手をとりながら、研究室に誘導した。アルブラートは先ほど床に打ちつけた右膝の奇妙な痛みが疼くのが気になった。ジャンは、研究室に寝泊りする時のために用意しておいた代わりの靴を彼に与えると、窓際の机の上にある電話の受話器を取り、4回ほどダイヤルを回し、「内線をお願いします。アンジェ・ジュール教授の研究室を―先生ですか。実は今日のオーディションですが...」と話し始めた。
彼の説明は実に手際良く整理されたものだった。アルブラートは、「内線」という言葉の意味も知らず、都会生活に関しては、ジャンに比べると自分は全くの田舎者だと実感せざるを得なかった。
ジャンは、ジュール教授との通話をふと止め、受話器をそっと机の上に置くと、アルブラートを振り返った。
「君、今日少しでも弾けるかい?ジュール教授は、ギュスターヴ教授がそう望んでいると言われたんだ」
アルブラートは、ギレから蹴られたために切れた頬の内側の出血を止めようと、ハンカチで氷を包み、口元を押さえていた。だがまだハンカチが血で真っ赤に染まるほど、傷は深かった。
「まさか......まだこんなに血が出て......無理だよ.....」
ジャンはため息をつき、何とも言えないといった、複雑な顔つきをした。明らかに彼は躊躇いと動揺を隠せない様子だった。
「その...出血が止まるまで待つ、とギュスターヴ教授は答えたそうなんだ―ジュール教授から僕の報告を受けて......何も君が怪我をしている時に、故意に君を苦境に立たせるつもりではない、ただ怪我が悪化する前に、ほんの3日で弾きこなせるようになった君の腕前をこの目で確かめたい―そう切願したそうなんだ」
「......切願?......ギュスターヴ教授が?」
「そうさ」
「嫌味なしに?」
「そう、嫌味なしに。おまけに、ギレを退学処分にするそうだ」
アルブラートは、ギュスターヴ教授が自ら、自分の愛弟子を退学にしたとの話に、何かが教授の中で変わったのだと感じたが、人の頑固な偏見そのものまでが大きく変化し取り除かれるとは、到底信じ難かった。彼は、口元に充てたハンカチが頬の傷により真っ赤に染まるのを見ているうちに気分が悪くなった。
ジャンは、ジュール教授に、出血の具合と本人の意向を再度確認できたら、またお知らせする旨を伝えると、電話を切った。
ジャンは、机の左の簡易冷蔵庫から新しい氷を用意し、部屋の右隅のクローゼットから洗濯したてのタオルを数枚取り出すと、一枚ずつに氷の塊をくるみ、それらを再び冷凍庫に仕舞い込んだ。
「ちょっと、冷蔵庫脇の洗面台で口をゆすいでみたら?」
アルブラートは自分の口から止めどなく、水に混じった血が洗面台に吐き出されるのを見て、妙な気持ちが湧き起こった。
この血は俺の悪行の報いか......神よ、私の全ての血を流し、絶命に至らし給え.....!
だが出血は、口をすすぐうちに、やや止まって来た。ジャンはホッとし、冷凍庫の凍ったタオルを彼に渡した。
「手首も冷やしておこうか?こうやってサポーターで固定しておけば......少しひねったんだろ?しばらくそこのソファーで横になって休んでいて。僕は、君の片方の靴を拾いに行って来る。ああ、それと、アルベール、今日は課題曲全てじゃなくてもいいらしいんだ。現代曲をその場で暗譜して弾くことと、あと手に負担がかからない程度に、1曲ほどでいいそうだ。これもギュスターヴ教授の依頼らしい」
アルブラートは、ギュスターヴの真意が計りかね、一体どこまでが本気で、どこからが自分をからかっているのか、全く理解できなかった。ただ、オーディションの時間は怪我のためにきっちりと決まった時間から始まらない、体を休めてからで良いとの教授の指示は、自分をこれまで人種的に差別していた同じ人物の言葉とは信じ難かった。
改めて、ジャンの研究室を見渡すと、こじんまりとしたホテルの一室のように、ベッドやソファーや洗面台、簡易冷蔵庫やクローゼットまであるのに驚いた。ジャンはすぐに戻ってきて、靴はさっきと同じ菩提樹の下に置かれていた、と言った。彼は、友人の靴を放り投げたギレの行為に憤っていた。
「ギレは家柄は良いのに、どこでどう間違ってあんな子供じみた暴力を君に振るったのか、理解に苦しむよ―音楽をやっている人間が、すべて音楽という絆で心が共鳴し合うのが、この音楽院の意義であるのに......君に対する暴言もあったんだろう」
アルブラートは「パレスチナ人は最低の種族」「一生裸足でいろ」と言われたことを思い返したが、過去にさんざん卑しめられてきたためか、もう侮辱を受けることなど、どうでもよい、寧ろ暴言を吐く輩が精神性が低級なのだ―そう思い、首を振った。
俺が言われたことより、ジャンへの侮辱がもっと酷い......彼は、いつガス室で殺されるかと怯えて過ごした少年時代があるのに......人の心の痛みをあそこまで嘲ることが、普通の人間にできることか......!
彼は、同時に、ギレの性格は、ジャンの言うような「子供じみた」ものではなく、人を恨み出したらとことん復讐をするタイプなのだと察し、それが自分やジャンの将来にどんな悪意の刃を剥き出すのかと思うと、この音楽院で学ぶことさえ怖くなった。
それでも、今、オーディションを受けなければ、あれこれと世話を焼いてくれるジャンにも、ジュール教授にも申し訳ない、と落ち着いて考えた。彼が、演奏できそうだと告げると、ジャンは顔をパッと輝かせた。
「良かった......!じゃ、早速ジュール教授に電話するよ」
アルブラートは、研究室からオーディション会場に行くまでのほんの数分が、右膝が異様に痛み、苦しかった。立ち止まっては、壁によりかかり、荒い息を吐いているのを、ジャンは心配したが、彼は、「あまり調子が悪くなれば、すぐにカイロの義父に来てもらう」と首を振り、相手を安心させようとした。
会場に着いた時、そこに待っていた3人の教授たちは、ジャンに肩を抱きかかえられたアルブラートの汗だくで蒼白な顔色に一様に驚いた。両眼だけが際立って光り、それは闇に潜む野生の獣を思わせた。彼をよく知り、日頃から指導しているジュール教授さえ、相手が誰だか一瞬判断がつかなかった。ルイ・ギュスターヴだけは、アルブラートを見て、「アラブ人そのものじゃないか」と感じ取った。デュラックに共通するものが、この時のアルブラートには見て取れたからだった。
しかし、それは以前のような侮蔑的な感情からではなかった。彼は、ギレの暴力行為に驚き呆れ、自分の極端な偏見思想が教え子に深い悪影響を与えたことを恥じた。現在の役職を退こうとまでは思わなかったが、周囲の人間がそう望んでいるに違いない―
この思いは、ジャンから内線で暴力事件を知ったジュールが会場に駆けつけ、彼に批判を突きつけた時から頭を離れなかった。
「ルイ、君の偏見が今までアルベールを苦しめた。今度は君の思想を受け継いだギレが、偏見という言葉の暴力を、肉体を痛めつける暴力として実行したんだ。これが君の言う『美しき思想の環』の実現というわけか?」
ジュールからこのように責められたのは、ギュスターヴにとって初めてだった。その傲慢で押しの強い性格に文句を言う者は誰もいなかった。彼は自分は正しいのだと信じ、このアカデミーを牛耳るなど容易いとジュールに笑ったことさえあった。
その時は黙っていたジュールがこうして怒りを露わにし、自分の責任を追及しているのだ。彼は観念した。
「分かった。ギレの過ちは私の過ちだ。フランソワ・ギレを退学処分にする。そしてアルベール・ザキリスをオーディションに......いや、呼ぶまでもないだろうな。あれだけのテクニックに巧けた学生は他にいない。ただ、私は今日を逃したら、彼の演奏は聞けなくなる気が......」
―78章― 贖罪の光
彼は、ジュールとジャン・ニコラの同席を望んだ。ジュールには、ギュスターヴが何を恐れているのか、手に取るように分かったが、それ以上は何も言わなかった。
「顔色がひどく悪い...そこのピアノの椅子にすぐ座りなさい。膝が痛むのかね?」
「昔怪我したところを、さっき転んで余計に悪くなった様子なんです」
ニコラは友人をやっと椅子に座らせると、ジュールに早口で説明した。
「昔の怪我...というと、アテネの内戦でか何かかね?それとも交通事故?」
ギュスターヴは何気なく訊いたつもりだったが、当のアルブラートには苦しい質問だった。
彼は、椅子に座り込み、額を左手で押さえ、うなだれていたが、息を切らしながら、相手を見ないように呟いた。
「...それは、あなたには関係のないことです...でも、『狙撃された』 とでも言えば、あなたを喜ばす答えになるかもしれません...だって、僕はどこの世界にも属さない異端者だから...これでご満足頂けましたか...」
ジャン・ニコラは仰天し、慌てて友人の言葉を否定した。「何を言っているんだ?なぜ君が異端なんだ?君は―君のお義父さんはギリシャ人じゃないか―君の本当のお父さんはフランス人で、お母さんはギリシャ人だろう?」
「もういい。ジャン、もういい―彼がどこの国の人間かなんて私は尋ねていない。私は、ただ彼に、ここでピアノを弾いて欲しい。それだけなんだ―」
ギュスターヴは、決まり悪そうにアルブラートに話しかけた。
「その前に―今日のギレの暴行を、私は君に詫びたい...本当に申し訳ないと思っている...でも、君は、こんな私の言葉を―決して信じたりはしないだろうね」
アルブラートは、膝の苦しさを押さえ、教授の方を見上げた。ギュスターヴは、ほんの1ヶ月前ほどの冷酷な表情を浮かべてはいなかった。
彼は、人が頑固に信奉していた思想をこんなにあっさりと捨てること、善良な心情に変わることに、寧ろ感慨深いものさえ感じたが、ニコラの「思想は信条として根付いている」との言葉を思い出し、相手を信用しまいとした。
それに、ギュスターヴには、捕虜収容所司令官アルバシェフと似通った雰囲気があった。アルブラートは、そのことを思うと、苦しさに息が詰まりそうになり、押し黙って目を反らした。
ギュスターヴは、彼に、ジュネ・マティス教授の現代曲『森の妖精 変奏曲1番』を渡した。それは、20頁に渡る作品だったが、彼はパラパラと頁をめくり、5分後にはギュスターヴに戻した。
アルブラートは早速演奏を始めた。それは、変調の多い難曲だったが、彼には「どこかアラブ音楽と似た所がある」と思われた。
森の入り口は不思議な空気に満たされている。そこを奥深く進んでいくと、小妖精たちが自分を迎え、自由自在に飛び回る―そして作者は眠りに落ちるが、再びあてどもなく森の奥へと軽やかに進む。最後に待っていたのは、眩しいほどの光に輝く山の頂上―こも神秘な霧が辺り一面を白く多い、作者は目眩を覚え、永遠の夢をさ迷い続ける―
ほんの5分ほどの演奏だったが、誰もがその所見の速さと曲の再現の正確さ、奥深さと表現力に驚いた。
「やはり彼には度肝を抜くね―私はこういった現代曲は好きではなかったんだが、彼が弾くと何とも味わい深い珠玉の名曲になるんだね」
ジュールはそう言って、心から温かい拍手を送った。アルブラートは右手首を強く捻ったためか、もう他の演奏はできないように感じていた。だが、生来の気丈さが頭をもたげ、絶対にギュスターヴの前では負けを見せたくないという気持ちに駆られていた。
ジャン・ニコラは友人が手首を押さえていることに心配を隠せなかった。彼は、ギュスターヴではなく、ジュール教授に懇願した。
「想像していた通り、本当に、今のは素晴らしい出来映えでした。でも、先生、彼は右手首を痛めています。これ以上、今日演奏をしたら、症状が悪化してしまいます―お願いですから、今日はもうおしまいにして頂けませんか」
「君の心配は分かる。でもそれはギュスターヴ教授に裁断してもらわなければ......どうしますか、教授?」
ギュスターヴは、ジュールの決意を迫るような言い方に圧倒され、もうお手上げだといったように首を振った。
「いやいや、もう、私はアルベールの演奏を要望しない。右手首は大事だ。今日、演奏を望んだのは、状況から考えると大変浅はかなことだった......君にはつらい思いをさせた」
だが、アルブラートは唇を噛みしめ、ギュスターヴを見据えた。
「もう1曲、とのご要望だったはずです......グリーグを弾ける所まで弾きます」
その時のギュスターヴの眼には、真実の贖罪の光が宿っていた。アルブラートは、その光を見た途端、何か大きな壁が崩れるのを感じた。
「本当に、なんてひどいお怪我でしょう......なぜ、そんなご無理をなさったのですか―こんなに手首が赤黒く腫れて―」
マリーはアルブラートの右手を心底心配し、自分の身内を介護するように、気を揉みながらあらん限りの手当てを施した。
「デュラック先生がご在宅でなくて、よろしゅうございました。でも、明後日にはブリュッセルからお帰りですし、この包帯を見たらさぞかし驚かれるでしょうね......明日にでも市立病院にニコラ様とおいでになって、ご診察を受けて下さい。こんなお怪我では、半月は演奏はお休みして頂くことになるかも知れませんから......」
アルブラートは、あの後、グリーグピアノ協奏曲第一楽章まで弾いてみせた。その手腕は鮮やかで、細やかで迅速な旋律は、古の宮殿の天井を彩るガラスのシャンデリアの連なりを思わせた。打撲し激しく捻った手首が奏でているとは、とても思えなかった。
しかし、それも第一楽章までだった。彼は第二楽章に移ろうとしたが、右手全体に激痛が走り、もはや指を動かす場合ではなかった。彼は悔しかったが、ギュスターヴとの賭に勝った気持ちで、一言いいおいた。
「これ以上、弾けません」
彼が慣れない左手で夕食を食べ終えて、自室に静かに横になっていると、ジャンが部屋をノックして入ってきた。
アルブラートは友人がベッド脇の椅子に座るのを見たが、ジャンは何も言わなかった。
「......もうこれで4年目になるんだな」
ジャンはアルブラートの呟きに不思議そうに首を傾けた。「―4年目......?」
「こうして、屋根のあるまともな家で生活することが......でも僕は、随分経った気がする―それ以前の、16歳までの生活は、もっと遠い過去になってしまったし......正直、あんなのは人間の生活とは呼べなかった。ずっとテントや病院暮らしで......だから、今の自分の生活は、いろんな人たちのおかげなんだ―そう思って......」
ジャンは、アルブラートが「16までの生活はテント暮らしで、人間の生活とは呼べなかった」と言うのを聞くのが辛かった。彼自身、ユダヤ人としてアウシュビッツで地獄の苦しみを嫌と言うほど舐めたが、それは7歳までの幼少時代であり、8歳以降は叔母に引き取られて、ごく普通の生活をずっと送ってきたのだった。
―彼の16年間の無惨な苦悩は、すべて僕と同じ民族―ユダヤ人、イスラエル人が生み出した恐るべき傷跡なんだ......僕はイスラエルに関係ないと言っても、ユダヤ人であることには変わりない―アルブラートに、こんな時、何と言えばいいのか......
アルブラートは、邪気のない澄んだ眼でジャンの顔をじっと見つめた。彼は、ジャンの悩みに気づき、静かに語りかけた。
「......僕は、君がユダヤ人だということを意識して、『酷い17年間だった』と言った訳じゃない―でも、そんな言葉は善良な君を傷つけたんだ......謝るよ」
ジャンは涙ぐみながら、首を振った。アルブラートはそんな彼をじっと見入っていたが、やがて天井を見ながら、溜息をついた。
「本当に......皆同じ人間なのに、ある者の偏狭な考え一つで、互いを異なった存在と見下したり差別したり、虐待したりすることになるなんて......もっとも太古の昔から、こうした分け隔ては人間社会に根付いてきたんだ―でも、僕は今日......そうした偏見が見事に取り払われる事実を体験できた―それだけでも、このパリに来て良かったのかも知れない......」
「偏見が取り払われる事実を体験しただって......それは、今日のオーディションでのことを言っているのかい―僕はそんなことは気がつかなかった―君の、その右手が心配で......ジュール教授に、電話の時点で断っておけば良かったと、そればかり悔やまれて―」
ジャン・ニコラは本当にとんでもないことになってしまったと言わんばかりに、鮮やかな青い瞳に涙を溜め、両手首を拳に固めつつ震わせながら、自分の膝を時折叩いた。
「―君がそんなに自分を責める必要はないんだ―あれは、僕が『受ける』と了解したんだから、僕に責任があるわけじゃないか。それより、怪我のことより、僕は大事な発見をしたんだ。ギュスターヴ教授のことで―」
ジャンは、思いがけない嵐の突風に遭遇したかのごとく、顔を上げた。
「ギュスターヴ教授......? あの教授に何の発見があるんだ?君を偏見で苦しめ、生徒を使って―間接的に君を虐待し続けた、癌の悪玉のような存在じゃないか!」
「......それは最初は―そうだった。僕はあの教授を心底憎んでいたし、恐ろしかった......僕の―僕の人生を狂わせた―ある人物によく似ていたんでね......その男もピアニストだった......」
アルブラートは「その男」の話が不意に口に出てしまったことに気づき、急に喉が締め付けられ、呼吸が乱れた。手の先が痺れ、感覚が無くなってしまう不安が心に広がった。徐々に目の前に吹雪の吹き荒れる荒野が広がり、ジャンの姿が白くぼやけていった。
ここはナザレだ......背後にベト・シェアンの収容所が見える―なんて薄汚い陰鬱な建物なんだろう......でも、一番薄汚く陰惨な色をしているのは、俺のこの心そのものじゃないか......!
ジャンは、友人の顔色が急速に悪くなるのに驚き、彼の名を何度も読んだが、アルブラートの目は視点が合わず、どこか遠くを見つめていた。
こんなことになってしまって......どこで人生が狂ったのか......あの男がそこにいる、ほら、あの狂った目で命令している―「殺せ」と......「今度は自分で殺せ」と......いや、あれは命令じゃなくあいつの単なる願望だ―それを命令と思い込んで―実行した俺が悪いんだ......でも一体、誰を「殺した」んだ?思い出せない......この罪の意識は何だ―罪の意識があるのに、俺はここで、ピアノを弾くだの、ヴァイオリンを練習するだの......それどころじゃないのに、何を遊んでいるんだ......?
アルブラートは拳を硬く硬く握りしめ、膝に腕を突っ張らせてその手を置いていたが、全身の緊張感で肩がかすかに震えていた。
今日は......何があったんだっけ......確か、誰かの前でピアノを弾いて―酷い怪我をしたのに、ピアノを弾いていた......そして、嫌いだった人間が俺に『申し訳ない』と詫びていた―あの人は、真の贖罪の念を抱いて俺に詫びていたんだ―でも、俺はその人からあんなに詫びてもらう資格がない......俺自身が過去に「殺した」人がいる......その時から俺の心は死んでいるのに......俺は、亡くなった「その人」に真実の贖罪を実行しただろうか......
●Back to the Top of Part 25
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