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砂漠の果て(第26部「暗雲」)
第二十六部「暗雲」
―79章― 身代わりの男
ジャン・二コラは、唾を飲み込み、冷静になろうと努めながら、アルブラートの様子を窺った。明らかに何かがおかしい、と彼は察した。
何か......彼は何かでずっと苦しんでいる―それを誰にも言わずにこらえている......それを、僕は訊いてはいけない―今、彼は、こらえる余りに、崖際の淵まで追い詰められて......それで、時々自分をこうして見失うんだろう......
ジャンは、静かに立ちあがり、何か鎮静薬のような物をアルブラートがいつか飲んでいなかっただろうかと、部屋の中を見回した。そうして見回しながらも、ジャン自身が心配と緊張感で眩暈を覚えた。彼は、ベッドの真向かいにある友人の机の上に目を凝らした。いつものように、きちんと整頓された書物とペンスタンド、インクが視界に入ったが、薬らしき物は見当たらなかった。
彼は、机の右手にある細い書棚を見た。そこに、アルブラートはよく使う楽譜やノートを入れていた。その楽譜の間に、青い背表紙の本があり、その本の上の仕切り板の隅に、服薬袋らしい小さな白い物が見えた。
ジャンは、書棚のガラス扉を開け、その白い袋を取ろうとした。その時、肘が青い本の角にぶつかった。
本はぶ厚いアルバム帳だったが、かなり重たく、ドサッと音を立てて絨毯の上に落ちた。その音で、アルブラートはハッと我に返った。ジャンはアルブラートが身動きした気配に気づき、本を拾いながら振り返った。
「ああ、ごめん―何か、気を落ち着ける薬でもと探していたもんだから......」 「......薬......?」
「うん、そこの白い袋じゃないか、と思って―違ったかな」
アルブラートは、まだぼんやりした表情で彼を見ていた。そして、言いにくそうに口元を少し歪めた。
「それは......アラビア語で書いてあるだろう。それは―もう、使っていないんだ―副作用がきつくって......」
彼は目が覚めたばかりのような、舌足らずの発音で、やっとこれだけを呟いた。ジャンは、まだ気分がはっきりしないらしい、と感じ、急いで落とした本を書棚に戻した。だが1枚の写真だけが、まだ紺色の絨毯の上に落ちていた。
その写真を拾い、何気なく裏返して映像を見たジャンは、一瞬息を呑んだ。その写真に写っているのは、まだ18ほどの若い娘だった。その美しさは、ジャンの心に真っ直ぐに斬り込んで来た。
娘は、色白で、長く黒い髪を垂らし、赤を基調とした民族衣装を身につけ、幸福そうに微笑んでいた。写真の下には、アラビア語で何か記されてあった。ジャンにはそれが理解できなかったが、この筆跡はアルブラートのもので、この娘の名前なのだろうと想像した。そして、この娘は、彼の死んだ妻なのだと理解した。
アルベールはまだ若く、誰でも彼を見たら、再婚相手は手に余るほどと思うだろう......でもこんな美しい娘が妻で、20歳にもならずに焼死したなら―他のどんな女性でも、彼の心は動かせないのも無理はないな......まして彼のような生真面目で純粋な人柄なら......
ジャンは、パレスチナ・アラブの民族衣装を初めて見ただけに、そうした姿の娘の珍しさ以上に、現実にあり得ぬほどの魅力に心を奪われた。こんな立派な伝統文化を受け継ぐ人々が、イスラエル軍からも、同胞の他のアラブ諸国からも「テロリスト」と蔑まれる現実が、彼にはいたたまれなかった。
今はこの写真は、妻を失って1年も経たないアルブラートの目に触れさせてはいけないとジャンは思い、そっとアルバムに挟み込んだ。その時、ドアが静かにノックされ、マリーがコーヒーを運んで来た。ジャンは、マリーを見ると、不思議とホッとした。彼女の慎ましい顔立ちと、温かな緑色の瞳は、彼を魅惑の心地から、平凡だが平和な部屋の明かりの中へと連れ戻した。
「もうお休みかと―失礼かと思いましたけれど―具合はいかがでしょうか」
マリーはそっと応接室のテーブルにコーヒーを置き、アルブラートの方へと声をかけた。アルブラートは、彼女を見ずに、首を少し応接室へと傾けた。
「子供たちは......?」
「お子様方は、もう寝てらっしゃいます。明日、モンソー公園に行きたいとおっしゃるのですけれど......」
アルブラートは、それには黙っていた。マリーは当惑し、そばに立っているジャンを見上げた。
「まだ疲れているんですよ。大丈夫、明日はアデールとアンリを連れて出かけて下さい」
彼女はホッとし、軽く会釈すると部屋を出て行った。ジャンは改めて、彼女の置かれた状況に複雑な想いを抱いた。
マリーは、一生ああやって、アルブラートの子供たちの世話をしていくだけなんだろうか......アデールたちは、マリーを母親と思い、なついている―おまけに、彼女はアルブラートを愛している......彼自身、彼女と再婚するつもりは一生ないというのに―あの人は、それで幸せなんだろうか......
ジャンは、コーヒーをアルブラートのそばに運んで行った。アルブラートは、友人を黙って見つめ、コーヒーを一口飲むと、やっと自分を取り戻したようだった。
「ローラン......おじいさんは―もうスペインに帰ったかな」
「いや、ムッシュ・ローランはデュラック先生と一緒にベルギーに出かけたじゃないか。あさって戻るはずだけれど」
「うん―いや、うっかり忘れていたんだ。ローランがこの怪我を見なくて良かった。アンリは......」
「『アンリ』じゃなくていいよ、『アリ』で。僕の前では―」
ジャンにそう言われ、アルブラートは意外な表情をしたが、すぐに笑って、肩の力を抜いた。
「そうだな......君は僕のことが分かっているから......あの子は、アリは、この包帯を恐ろしがってひどく泣いたっけ。アリは、そういう気の弱い所が僕に似たんだ。でも、日を追うごとに、面立ちが母親に似て来る―まだあんなに小さいのに......」
先ほど見た民族衣装の娘の写真を、ジャンは思い浮かべた。そうだ、あの娘がアリを産んだのだ―
ジャンには、アルブラート親子が、自分とは遠くかけ離れた世界に住む人々に思われた。自分の知らない美しい言葉を話し、威厳に満ちた伝統を受け継ぎ、遥か天空の幻に包まれた城塞から舞い降りた人々なのだと感じ入った。
「僕はローランに憧れて―だから、ヴァイオリンの修行に来たつもりだったのに、ピアノまで始めてしまって......だから、アリには可哀想でね。あの子は、僕の弾いていたカーヌーンが好きなんだ。でも、カーヌーンは屋根裏に仕舞い込んだからな。それで、アリは、何か代わりにと弦楽器のヴァイオリンで遊びたがるんだ」
「でもアデールは違うだろう。ピアノが随分とお気に入りじゃないか」
「うん。それは僕には分からないよ。あの子の父親は、『音楽は好きだけど、音楽の才能なんてないし、全く分からない』と言っていた―でも、母方はアルメニア人で、父方は......ギリシャ人だったからな......何か、血筋でも引いているんだろう」
アルブラートはコーヒーをおいしそうに飲み干すと、深い溜息をついた。
「僕は、さっき君と話をしていたんだっけ......今日のオーディションのことで―でも途中で具合が悪くなって―心配かけたよ。ごめん」
「いや、いいんだ。僕は、せっかくの君の話を個人的な感情で遮ったんじゃないかと思ってね......申し訳ないことをしたよ」
「君は何も謝ることなんてないんだ。ただ、僕は......あんなに遠ざけていたギュスターヴ教授の本心が、僕のピアノですっかり変わったんじゃないかと―そのことを言いたかっただけなんだ。ピアノを始めてまだ半年と数ヶ月の僕の演奏で、あの人は全く違った心に生まれ変わった......天に届くほど高い、鉄のように頑丈な偏見の壁が崩れ落ちた......僕は、教授の目で分かったんだ、ジャン」
「目で分かった......?あの教授の目で......?」
「僕は、ピアノを弾き始める前は、あの人の変化に気がつかなかった。ただ、怪我の痛みを堪えてでも、できる限りの演奏を披露し、教授の挑戦に受けて立とうと思っていた。でも、今考えると、恥ずかしい限りだ......あの人は、僕に『もういい』と言ってくれた―『演奏は、もういい』と―その時の目の表情は、真実の優しさと悔恨に満ちていたんだ......それに気づかず―気づいても、信じようとせずに、僕はグリーグを弾いた。だから、この怪我の悪化は自業自得なんだよ」
ジャンは、アルブラートの言葉に嘘はないと感じた。彼自身、どうしてもギュスターヴを許せなかったが、アルブラートが恐れていた人物を心底許し、これまでの嫌悪が揺るぎない深い信頼に変化したことに、心を大きく動かされた。
「そんなに君はギュスターヴ教授のことを信じているのか......確かに、フランソワ・ギレの退学処分を下したのはあの教授自身だし―僕には、そこまで人の心が変わるだなんて、まるで前の大戦がいきなり連合軍の勝利で終結した時のように―信じられない、正直言って、ただ驚いているんだ......でも、つまりは、君のピアノが、人の心を入れ替えさせてしまうほど素晴らしいという証なんだ。そうだろう?」
「僕はそうは思っていない。それほどの演奏をしたわけでもない。だからこそ、不思議なんだ―ただ、教授の目は、僕を蔑んでも嘲ってもいなかった。真に僕という人間の存在を認めている。その気持ちが目に浮かんでいたんだ」
「いいや、アルブラート、君が体験した不思議さは、やっぱり君の立派な演奏が引き起こした奇跡なんだよ。君の才能は、人を感動させるだけでなく、人の心まで変えてしまう―薄汚れた岩の泥を洗い流し、大理石にまで変えるほどに......」
ジャンはややぎごちない微笑みを浮かべると、アルブラートの左手をしっかりと握りしめた。
「それじゃ、僕はジュール教授に電話しなきゃ。君の言葉を間違いなく伝えるよ。本当のところ、ギュスターヴ教授はあのオーディションの後、辞任を自ら申し出ていたんだ。それを今なら食い止められるだろうさ。ジュール教授は、明日朝早くレッスンを見る学生がいるから、まだ学院にいるだろう。あの先生は、ぼくら研究生の部屋を借りて、寝泊りすることがあるんでね」
ジャン・二コラの電話から数日後、アルブラートはギュスターヴ教授自筆の書簡を受け取った。
―親愛なるアルベール
私はこの学院に留まり、復職が許されました。これからは一人の人間として、音楽の道を学生と共に歩む姿勢を決して見失わないつもりでおります。これもすべて、神が、純粋な魂を宿す君という稀有な楽徒を遣わして下さったおかげと感謝しています。 1963年9月20日 L.M.ギュスターヴ
この手紙に、アルブラートは感動し、ジャンに何度もお礼を言った。
「本当に良かった......あの人は、真の人間性を取り戻してくれたんだ―もうこれで、僕に悪意や偏見を抱く人もなくなる。みんな君のおかげだよ、ジャン」
だが、ジャンは、本当にこれで、アルブラートの身辺が何もかも安全になったとは思えなかった。彼はこの頃から寝つかれない日が多くなった。夜は何回も寝がえりを打ち、溜息をついては時計を見た。まだ灯りの消えない明け方のパリの街並みを眺めながら、いつも同じ言葉が頭の中を駆け巡った。
「......野獣を一匹、野放しにしてしまったからな......」
パリの街並は雪が散らつき、クリスマスの装飾が、この白い花の都を普段以上に光の輝きで華麗に彩っていた。サクレ・クール寺院においても、クリスマス・ミサの響きが厳かに流れていた。
だが寺院の裏には細い路地が入り込んでいた。所々、路上では若者が派手ななりの女としゃがみこみ、煙草を吸っていた。中には麻薬を吸っているカップルもいた。多くは、アフリカ系の者達であり、職にあぶれたアラブ人や黒人の若者達がたむろしていた。
「あんたみたいなボンボンが来る所じゃねえんだがなぁ。一体何の用があって来たんだ?」
50格好の、だらしなく髭を伸ばした、痩せた長身の男が路地の入り口を塞いでいた。
男は手入れの全くされてない薄汚れた金髪を長く伸ばし、肩の辺りで一本に結わえていた。この路地を仕切っている麻薬密売者ということは、その界隈に知られていた。
「俺は身分なんてどうでもよくなったんだ。だが金は少しは持っている。そら、これで文句ないだろう―ジェスタン」
ジェスタンと呼ばれた男は、その若者から札束をひったくるように受け取ると、にやりとし、口笛を吹いた。
「へへぇ、100フランか。願ってもねぇ―ありがてぇな。これなら、あんたの言う『音キチ』を紹介してやってもいいぜ」
ジェスタンは、煙草や麻薬の臭いがたちこめる、埃っぽい細い路地を猫背でさっさと歩き出すと、右の角を曲がり、崩れかかった3階建てのアパルトマンを顎でしゃくった。
「このてっぺんの屋根裏さあ。確か音楽院生崩れみてぇなアラブ人が1年位前から住んでんでさ。いっつもピアノを弾きやがって、うるせえったらねぇ。だから『音キチ』なんだ。陰気な奴さ。ヤクはやってねぇみたいだが―へへ、まあ素姓はあんたが聞きな」
ジェスタンは3階まで若者を連れていき、更に腐りかけた木造のはしごを登ると、奥まった屋根裏の青いペンキで塗られたドアを乱暴に開けた。中にいた住人は、それまで狂ったように弾いていたリストの交響曲をピタリと止めた。
「おい、おめぇに珍しくお客だ。どうもお金持ちのぼっちゃんらしいぜ。ご丁寧にお相手しな、へへへ」
ピアノを弾いていた青年は、明らかにアラブ人だと見て取れた。そして、その若者にとって驚きでもあり、狂おしいほど幸運だと感じたのは、その青年が、彼の「憎悪する男」によく似ていることだった。
青年は無言で身なりのいい客をうさん臭そうに眺めていたが、無愛想にまたピアノの前に腰を下ろすと、腹が立つように問いかけた。
「嫌みか嫌がらせでもしに来たのか。こんなスラム街にわざわざ立派ななりで―俺に何の用だ。音楽院の学生さんかい」
「いや―違う。ただ、相談したいことがあるんだ。あんたはきっと乗ると思う―俺の計画に賛成するならだ......そうしたら、報酬を今日、この場で即金で支払う。あんたの名は?」
「勝手に押し掛けて失敬な奴だな。お前がまず名乗れ」
「......ギィ・ユーヴェール」
青年はそれを聞いて、鼻先で小馬鹿にしたように笑った。
「何だか嘘臭いな。偽名だろう。まあ、いいか。俺はアハド・アル・ハシムってんだ」
「アル・ハシム......それはアラブ人に多い名前みたいだな。あんたはどこの出身なんだ?パレスチナ人か?」
アハドは、「パレスチナ人」と聞いて、即座に嫌な顔をした。
「お前はアラブがすべてパレスチナ人だと思ってるのか。とんでもない馬鹿だな。あんなゲリラ集団なんぞ地に堕ちちまえばいい!」
彼は『ユーヴェール』を睨むと、ピアノの上の煙草を1本取り出し、錆びた銀色のライターで火をつけ、白い煙を忌々しげに吐き出した。「あの男」に似てはいるが、品は劣り、柄も悪い―だが、こいつは使える―若者は、餌がこんなに簡単に手に入った喜びを抑え込み、澄ました顔で相手の病的とも思える悪口雑言を聞いていた。
「俺の親父はカイロ出身だった。2年前、俺はおふくろの影響でこの国に留学に来たんだ。おふくろはシリア系フランス人で、俺にピアノを教えてくれた。でもコンセルヴァトワールは俺がエジプト国籍という理由で、入学試験の受験さえ拒んだ―腸が煮えくり返るほど悔しかったが、すぐに帰国する気にもならなかった。パリの高名なレストランでピアノを弾いて、名声を得たかった。でも駄目だったな」
アハドは、『ユーヴェール』を穴の開くほど見つめた後、自分の腕を叩くと、自嘲する口調になった。
「あんたみたいな白人のぼっちゃんには理解できないさ。俺は、どこのレストランでもつまみ出された。この顔立ちと肌の色のせいで、俺はたちまち『野蛮人』扱いさ。食いぶちも無くなりかけた頃、あのカイロのシナゴーグ爆破事件が起きた―去年の12月―ちょうど今日だ......パレスチナのテロ連中は、俺の両親をあっと言う間にスークの中で焼き殺しちまった―それから、こんなボロアパートで俺は暮らしてるんだ」
「このスラム街で、ピアノを弾かせるレストランでもあるのか」
「ふん、レストランなんてあると思うのか?売春宿のオヤジが余興に弾いたら1日5フランやるって言いやがった。そこで売女が客とベタベタしてる広間で、毎日下らないシャンソンを弾くだけさ。売女ほど醜い生き物はないぜ。でもそんな卑しい店に出入りしてりゃ、ここらの住人は俺を『ピアノを弾くついでに女と遊んでる』と噂しやがる。俺が話すことは、これだけだ―後はお前だ。お前の用件を言いな」
『ユーヴェール』はじっと入り口に突っ立っていたため、何か座る椅子がないかと、改めてこの陰気で狭く、薄暗い屋根裏部屋を眺め回した。しかし、机も椅子も無かった。彼は、仕方なく窓際の薄汚れたベッドの隅に腰を下ろし、溜息をついた。
「あんたは、留学してきたぐらいなら、生まれはそう悪くはないんだな。金があれば故郷に帰りたいんだろう。そして、コンセルヴァトワールにもし入学できていたら、名声を得て、親の資産が無くなっても、ピアニストとして一財産稼げた―あれだけのリストが弾ければ、きっとそうなってただろうな」
アハドは煙草を吹かすのを止め、しげしげと相手を眺めた。その目には、小さな驚きと深い確信が浮かんでいた。
「ふぅん......リストが分かるのか。それなら、お前は音楽院生なんだな、やっぱり。追い出されでもしたのか―何かやらかしたんだな。あんな名門校は、結構裏で醜い争いがあるらしいからな。で、俺に何の用なんだ、一体」
「......実は、今年、新入生としてピアノ科ヴァイオリン科両首席で合格したのは、あんたが地獄に付き堕としたいほど憎んでいるパレスチナ人なんだ。あの音楽院は偏見を捨て、白人以外の学生も受け入れるようになったんだ」
―80章―疑惑の闇
Alleyway / ahisgett
「......何だって......パレスチナ人が―」
「だから、俺はあんたにそいつを消す計画を手伝ってもらいたいんだ。俺もそいつにはいろいろ恨みがある―今日、そいつは音楽院のクリスマス・コンサートで華々しく恒例の演奏会を開いている。本当は、俺が主役を務める筈だった―」
「畜生!腹が立つな―パレスチナの野郎が音楽院の首席だと―ふざけやがって......!でもそいつを『消す』ってのは―殺すのか」
「いや、殺すんじゃない―『殺す』のは、パレ・ド・ジュスティス(パリ裁判所)さ―『極刑』の判決が即刻降りるような犯罪をそいつがやらかしたように仕掛ける―そのために、そいつにそっくりなあんたが必要なんだ―あんたは、ただ人前でピアノを弾くだけだ。後は、俺がうまくやる―そして、俺が渡した金で、あんたはカイロに帰れば、それで万事オーケーなわけさ」
1964年1月5日、ジャン・二コラは最寄りのモンソー駅からメトロに乗った。ヴィクトル・ユゴー駅で降り、ベネズエラ広場に面した高級アパルトマンに、アンジェ・ジュール教授は住んでいた。エレベーターで10階のボタンを押すと、白く艶のあるドアが閉まり、彼の体は浮くように上階へと運ばれた。
軽やかなベルの音と共に、10階でエレベーターは止まると、ドアが開き、質の良いベージュの絨毯が敷き詰められた廊下に出た。その廊下のバルコニーからは、観光バスや乗用車の行き交う、賑やかな凱旋門がいつもの晴れやかな姿で佇むのが見えた。ジャンは、叔母に引き取られ、パリに住むようになった10歳の頃、あの凱旋門に登り、パリ市中を見回したことを思い出した。
あの時は、このパリを、華やかで活気ある、自由に生きることのできる魅力的な都と思い、凱旋門に登った自分がフランスの王になった気分で、有頂天だった。だが今は、この街が怖ろしかった。ジャンにとって、そしてアルブラートにとって、魔物が潜む街に思えてならなかった。
ジュール教授は、ジャンをにこやかに迎え入れた。ジャンは、礼儀正しく新年の挨拶を述べたが、彼をよく知る教授は、ジャンが沈んだ様子であることにすぐ気づいた。
「何があったんだ?いつもの君らしくない。こうして新年の挨拶にわざわざ来るなんていうのも、珍しいな。毎年、カードのやり取りで充分だったじゃないか。さては......国際コンクールについに出る気になったのか、それともまた失恋の話かな?」
教授は、自ら入れたコーヒーを、お気に入りの中国製の白いカップに注ぐと、大理石のテーブルにトレイに乗せて運び、ジャンに勧めた。
「チャイコフスキーコンクールに君はまた出るべきだよ。再来年あるだろう。アルベールも一緒にね。二人して1位に選出されるかも知れない。君は謙虚過ぎて、欲のないのが欠点と言えば欠点だからね。年齢からも、これまでのコンクール歴からも、プロとしてデヴューすることを、そろそろもう考えてもいいんじゃないかね」
「先生、僕はもはやコンクールなんて考えられないんです......今、僕には直面している大きな問題があって―ピアノはいつでもできるとお思いでしょう。しかしそれは命が保障されている平和な状態で可能なんです」
コーヒーも飲まずに、思い詰めた表情で、いきなり堰を切るように訴え始めたジャンに、ジュールは驚き、しばらく口を閉ざした。
「......君の直面している問題―命に関わる問題というのは......」
「フランソワ・ギレのことです。アルベールへのあまりの暴力沙汰に、僕は『退学は間違いなしだから、早く荷物をまとめて出て行ってくれ』と、オーディションの日に言いました。そして、実際、ギュスターヴ教授が、ギレに退学処分を下しました。ギレはそれで、大人しく引き下がるような人間じゃないんです。アルベールを殴ったり蹴ったりしたのも、人種的偏見があったからなんです」
「人種的偏見か......それではギレは、アルベールが『ギリシャ系フランス人』ではないということを、どこかで知ったと―彼が、本当はパレスチナ人だと知っていた、ということなんだな」
ジャンは、ぎくりとして、ジュールをじっと見つめた。
「......先生は、アルベールがパレスチナ人だと―ご存じだったんですか」
「もちろんだよ。ミシェル・デュトワ教授も最初から知っている。アルベールが昨年8月に不合格になった際、教授会を開いたのは君も覚えているだろう。その時、デュラック教授が『自分はアルジェの出身だ』と出生を明かし、アルベールの身元から皆の注意を反らして自分に偏見の矢を故意に突き刺さるよう仕向けた。その後、ロビーに出たミシェルと私に、彼は頼んだんだ。『アルベールは本当はパレスチナ人だが、そのことで周囲から偏見の目で見られることが心配だから、何かあっても、決して彼の実の身元が分からないよう、守ってやって欲しい』と......」
「それでは、僕がコンクールやプロデヴューを目指さず、研究生として残った意図もご存じだったんですね」
「そうだ。君ひとりで、アルベールを守るには、あまりにも彼への風当たりは強すぎる。彼は、あの外見で、一目でアラブ人だと誰にでも分かるからね。だから、私とミシェルとがいつもアルベールについて、ピアノとヴァイオリンを指導することになったんだ。主にギュスターヴ教授からの批判や偏見による暴言を、彼が受けないようにと思っていたんだが......ギュスターヴは知っての通り、改心したわけだから、一安心していたんだよ。君の言うように、退学になったギレのことまで頭が回らなかったな―」
ジャンは、一息つこうとコーヒーカップに手を伸ばしたが、それもやめ、視線をジュールに向けた。ジャン・二コラの柔らかな青い瞳は、深い不安の鈍い光で覆われていた。
「それで、ギレが......何をするか分からないんです。ただ、これだけは明白です。彼は、自分を恥じて反省などしない。そんな暇があったら、アルベールをかばった僕や、クリスマス・コンサートの主役を奪われたという理由でアルベールを、何らかの手段で『消そう』とするでしょう......だから、ギレを退学処分にしたのは、大変な間違いだったのではないかと―今更悔やんでも仕方のないことですが、どうしたらいいか分からなくなって......夜が眠れないんです」
ジュールは、コーヒーを一口すすり、眉間に皺を寄せていたが、首を振った。
「いや、まさか......『消そう』だなんてことまでは―君は疲れているんだ、睡眠不足で......いつものように礼拝に行っておいで。クリスマス休暇は来週で終わるし、あまりあれこれ思い詰めない方がいい。アルベールのためにもね」
翌日、アルブラートは22歳の誕生日を迎えた。デュラックは8日にはまたブリュッセルに戻らなければならないから、その2日前に最愛の教え子の誕生日を祝うことができて良かったと言い、アルブラートに新しいネクタイをプレゼントした。ジャンは、昨日礼拝の帰りに買った日記帳を贈った。白と黒のツートンカラーでデザインされた日記帳を、なかなか洒落ているとアルブラートは思った。
「誕生日に贈り物なんて......生まれて初めてかな。何だか照れ臭い気がするけれど―本当にありがとうございます、先生。ジャンのセンスはやっぱり垢ぬけしているよ。僕なんかにこんな立派な日記帳はもったいないくらいだ」
「いや、君だからそういうのが似合うんだ。僕は日記なんて3日坊主だからさ、僕の分まで書いてくれよ。君は筆まめだし......」
「じゃ、ジャンのいいところを毎日書くよ、頑張って書くから」
「それは難しい作業じゃないかな―僕の美点を探すのは、海岸の砂を掴むより大変だから」
二人はこう言いながら笑った。ジャンは笑いながら、昨日ジュールに言われたように、心配事を友人に悟られないようにと焦っていた。
マリーがケーキを運んで来た時、アルブラートは、さっきまでいた子供たち二人がいないことに気がついた。
「マリー、アデールたちは......?」
「まあ、お子様たちは、ケーキを楽しみにこちらにいらしたのに......私が少し目を離すと、この頃はアデール様は、お父さまのお部屋に遊びに行ってしまうんです。お父さまのお部屋でピアノを弾きたいとおっしゃって―申し訳ございません」
マリーが2階に上がろうとするのを、アルブラートは止めて、自分で連れてくると言った。2階に上がる階段は、ギレに暴行を受けた後、半月ほど辛くてたまらなかったが、病院で治療を続けたおかげで、今では膝はだいぶ痛まなくなっていた。
自分の部屋に入ると、思った通り、アザゼルが自分のピアノの前に座り、ショパンの練習曲を懸命に弾いていた。あと2カ月と1週間で3歳になるアザゼルは、金髪がやや茶褐色に変わってきたため、雰囲気や顔立ちがますますムカールに似て来たなと彼は思った。
実際、彼女は性格もムカールに似ていた。明るく、ほがらかで、勝気で気まぐれだった。自分の好きなピアノが気になると、勝手に2階に上がり、夢中になってしまう。そんなアザゼルを、アルブラートは微笑ましく眺めた。
アリは、絨毯に大人しくお座りし、何かをじっと眺めていた。彼は、息子のそばに近寄り、ギョッとした。アリが手にしていたのは、アイシャが亡くなる1か月ほど前、パレスチナの民族衣装を着たのを彼自身が写した写真だった。
アリは、父親に気づき、問いかけるような口調で、こう言った。
「パーパ、これ、ウンム(ママ)、ウンム......ウンム、ここ。ここなの?」
アイシャが死んだのは、アリがまだ5カ月半の時だったのに......なぜ、アラビア語とアイシャの顔を覚えているんだ―?
「アンリ、さっきから『ウンム』ばかり言うの。『ウンム』って、なあに?お父さま」
「......さあ......お父さまも分からないな......アンリ、その人はお前の―ママンだよ。『アイシャ』という名前の......お前のママンだよ」
「アーイ、シャ。『ママン』、ちがう。アーイ、シャ、これ、『ウンム』なの」
アザゼルは興味を持って、その写真をアリの手から取ろうとしたが、アリは途端に寝室まで走りだし、ベッドの影に隠れ、写真を必死に守りながら泣き叫んだ。
「アデール、いや!パーパ、いや!『ママン』、いや!ウンム、ウンム、ここなの!」
「あの人、アデールのお母さまなの?アイシャっていうの?」
「......そう、そうなんだ......あの人は、アデールとアンリのね......」
アルブラートは、自分の言葉にさまざまな嘘が混じることが辛かった。幼い子供たちに、嘘偽りを教えなければいけないことが苦しかった。
アリには、アラビア語を教えられない......自分がアラブ人だと、パレスチナ人だということを教えられない......アザゼルには、母親の名を『アデル』ではなく『アイシャ』だと言わねばならない......アデルの写真を見せずにアイシャの写真を見せて、母親だと覚えさせねばならない―俺の現実は―嘘の塊だな......
階下にいたマリーは、アリの激しい泣き声にうろたえ、気を揉むようにジャンを見たが、すぐに2階へと駆け上がろうとした。ジャンは慌ててマリーの手を掴んだ。
「僕が行きます。アンリは、例のヴァイオリンで遊びたくて泣いているんでしょう」
「でも、あんな泣き方は......お怪我でもなさったのでは......もしそうなら、私が目を離したためです。私に責任がございますから」
「大丈夫、ジャンに任せなさい、マリー。君は誕生日のご馳走の準備でも大変なのに、働き過ぎだよ。家事も育児も、何もかも一人でやりおおせる人はいないんだから」
デュラックは彼女の肩を叩き、テーブルの椅子に腰を下ろすようにと言った。
アリの好きなおもちゃのヴァイオリンは、居間のグランドピアノの側に転がっていた。ジャンはそれを持つと、2階へと上がって行った。
部屋に入ると、アリはしゃくりあげながら、父親のベッドの足元に座り込んでいた。アルブラートは、アザゼルを抱いて、ソファーに腰掛けていたが、黙ってジャンを見上げた。彼は悄然とし、疲れ果てた顔をしていた。
「何があったんだ?アンリは何を泣いて......」
「椅子に登って、そこのアルバムを取ろうとして、落としたらしいんだ」
「あのね、アンリ、お母さまのお写真、返してくれないの」
アザゼルは無邪気に口を尖らせてみせると、幼い弟を指差し、笑って見せた。その様子は、まるで若い母親が幼子に手を焼いて、困ったように微笑む姿のようだった。ジャンは、まだ3歳になるかならないかという女の子が、大人の女性のように目配せをするのに驚いた。彼は、その「写真」は、自分が以前見つけた民族衣装の娘の写真ではないかと思い、躊躇いながらアルブラートに尋ねた。
「......『お母さまのお写真』って......?」
アルブラートは、ジャンを見ずに、アザゼルを膝から下ろすと、彼女に言い聞かせた。
「ピアノを弾いててごらん。お父さまが、あのお写真をアンリから返してもらうから」
ジャンが彼の寝室の書棚を見ると、机の椅子が寄せられており、ガラス扉が開いたままだった。絨毯には、彼が昨年の9月、アルブラートの薬を探していた時に落とした青い表紙のアルバムが、頁を開いた状態でひっくり返っていた。
「アンリ、ジャンがヴァイオリンを持ってきたよ。パーパとジャンに弾いて見せて。そのお写真は......パーパが大事にしまっておこうね」
アリは、ジャンが渡すヴァイオリンに目をパッと輝かせた。そして、父親に、少し名残惜しそうに写真を渡しながら、「約束して」という表情で呟いた。
「パーパ、これ、ウンム......これ、アーイシャ、ね。パーパ」
子供たちがピアノやヴァイオリンで賑やかに遊び出すと、アルブラートは深い溜息をついた。彼は、アイシャの写真をじっと見つめたが、すぐに白い開襟シャツの胸ポケットにしまいこんだ。
「助かった......君がおもちゃのヴァイオリンを持って来てくれて......
でも、なんであの写真だけをアリは見つけたのかな―僕は、ここに住むようになって一度もアルバムを見たことはなかったのに......」
「あの......去年のオーディションの後、この部屋で、君が気分を悪くしただろう。それで、僕は、何か薬がないかと、あの書棚を開けたんだ。薬を取ろうとした時、肘があのアルバムの角に当たって、それでアルバムを落としてね......すぐに元の場所に戻そうとしたら、さっきの写真が絨毯に落ちていて―どの頁に貼ってあったのか分からないものだから、表紙を開いて挟んでおいたんだ。いい加減なことをして悪かったよ」
アルブラートは、ジャンを黙って見ていたが、首を振ると、くたびれたように再び息を吐いた。彼はアザゼルの弾くピアノから少し離れた長椅子に座りこむと、顔を両手で覆い、しばらく考え込んでいたが、すぐに額にかかる髪をかき上げ、ジャンを見つめた。
「赤ん坊って、不思議なんだな」
「赤ん坊って......アンリのこと?不思議って―何が?」
「アイシャが......あの子の母親が亡くなったのは、あの子がまだ生後5カ月の時だったんだ―それから、あの子は僕のカイロの義母に世話されて、1歳半の現在に至るまではマリーに育ててもらっている―もうパリに来て1年近いから、あの子はフランス語ばかりを耳にして、片言を話すようになっている。僕は、あの子にはフランス語で話しかけている......それなのに、あの子は母親の写真を見て、これは『ママン』ではない、『ウンム』だと主張するんだ。母親の顔も記憶にないはずなのに......」
「その......『ウンム』って......?」
「アラビア語だよ。『お母さん』という―僕は、子供たちがいつどこでアラブだと差別されるか分からない、特に僕のアラビア語はパレスチナ方言だから、あの子たちがその言葉を話すようになると、いつ誰かに『テロリスト』と差別されるかと不安なんだ―自分の受けた苦しみを、あの子たちに味わってほしくない。あの子たちを傷つけたくない―だから、アラビア語は一切避けていたのに、なぜあんな赤ん坊のあの子が『ウンム』なんて覚えているんだろう......?」
ジャン・二コラは、自分にはアルブラートのような、子供を育てた経験がないことから、何とも言いようがなく、答えが見い出せなかった。彼は、少し考えてから、控えめな口調で口を切った。
「その......赤ん坊の能力や記憶については、何かで読んだことがあるんだ......3歳ぐらいまでの幼児には、生まれてきた時の記憶さえあるとか、胎内にいた時の両親の声が聞こえていたとか......そういうことは、有り得ないと誰でも思うだろう。でも、いろいろ研究した結果、分かったらしいんだ―アンリの場合も、そうなんじゃないかな......今は、残っている生後半年頃の記憶も、大きくなるにつれて、多分、薄れていくんじゃないか―だから、気にすることないと思うけれど―」
アルブラートは、昨年の1月10日に、サハラに行き、青い男ル・ラフに蜃気楼を案内されたことを考えていた。あの時、赤い服を着たアイシャが自分に接近し、『私の心はアリの中に生き続ける』と語ったことを時折忘れがちだったことを反省していた。
「君の言う通りなのかもしれない―そういった赤ん坊の特殊能力のためなのかもしれない......でも、アイシャの魂は、『アリの心に生き続ける』とサハラで僕に語ったんだ......そのことは、パリに来て忙しく暮らすうちに思い出さなくなって―こんなことを信じる僕は、やっぱり変人かな」
「変人?君がそうなら僕もそうだ。現に、昔収容所で亡くなった友人とこのパリの街角で話をしたからね。愛しい人や慕っていた友人の死を悼んで、その幻影を見るのは......特にそう変わったことでもないさ。それよりせっかくの誕生日パーティじゃないか。あれこれ考えずに、下に戻ろう。マリーがケーキを準備したのに、困惑しているんだ」
子供たちは「ケーキ」と聞いて、部屋のドアを開け、一目散に階下に降りて行った。アルブラートは、台所の入口に置いてあった新聞を何気なく眺めた。第一面の下段の小見出しが彼を一瞬引きつけた。そこには、「パレスチナ人組織化なるか―第一回アラブ首脳会議開催に向けて」とあった。
―81章―ロザリアの鍵
Former West Midlands Fire Service Headquarters building - gated entrance / ell brown
5年前―サイダに着いた秋頃か、確か「ファタハ」というパレスチナ人のゲリラ組織ができたと聞いたな―あのファタハは機関誌などを発行して、穏便な活動を行っているかのように思われたけれど、結局は武力闘争を目指してパレスチナ人の若者たちをアルジェリアや中国にまで送り込んで訓練したんだ......
でも今度は「アハマッド・シュケイリを中心にPLO―パレスチナ解放機構を設立」だって......? エジプト大統領ナセルのお墨付きのパレスチナ人―サウジの元国連代表のインテリか―アラブ各国はパレスチナ人を難民扱いしてゲリラ化させて、厄介者扱いしていたのに、またパレスチナ人を担ぎ上げて何をさせるつもりなんだ?ガリラヤ湖水から分岐水道を引いて、ネゲブ砂漠に入植するイスラエルの計画失脚に失敗しておいて―「パレスチナ人に市民権を与えるためのPLO」だと......なんの、またイスラエルの猛攻撃を受けてみんな木端微塵にされるがオチなんだ!
アルブラートは、忘れようとしていたアラブ社会のこうした動向に突き動かされ、哀切と憤懣やるかたない気持ちになり、自分がパレスチナ人であることに再び嫌悪を抱いた。彼はこの記事を見なかったことにしようと、新聞を忌々しげに裏返した。その激しい音に、台所にワイングラスを取りに来たマリーがビクッとし、入口で立ち止まった。
そこには彼女が初めて感ずる緊迫した空気があった。マリーは目の前のアルブラートを見て、この緊迫しながらも苦しく、哀しげな雰囲気は、初めてではない、と思い直した。
この人はジャンとよく朗らかにしてらっしゃるけれど、何か人に言えない苦しみがある......ここにいらした時からそうだった...よくお薬の発作や何か過去の出来事に苛まされて―本当はいつもそうなんだわ......この人の心の底は―
彼女は、彼の手元の新聞に気づき、普段は穏やかなこの人が手荒い音を立てたのは、その中の記事が原因なのだと察した。アルブラートは無言で彼女の目を見つめていた。その黒い瞳の深刻な眼差しに、彼女も口をつぐんだままだったが、彼は深呼吸すると、気まずそうにその場を離れた。だがすぐに振り向いて、ややぶっきらぼうにこう言った。
「水を一杯下さい。いや、やっぱりワインでいいです」
「あの―その新聞は昨日ので......今日のをお持ちしましょうか」
「新聞......僕は新聞は―当分、読みませんから」
彼は、なぜあんな記事が目に入ってしまったのかと忌まわしい気持ちが拭い切れなかったが、食卓では子供たちが取り分けた小皿のケーキに大はしゃぎだった。
もう一度、大きく深呼吸すると、アルブラートは自分の席についた。マリーがワイングラスを3人分、静かに運んで来て、テーブルにそっと置いた。その時、彼は、マリーに苛立った口調で「新聞は要らない」と言ったことを申し訳なく思った。マリーがワインをめいめいのグラスに注ごうとすると、彼はそれを押し留めた。
「お疲れでしょうから、僕が注ぎます。ご馳走を用意して下さって、その上あれこれ給仕して頂くのは、申し訳なくて―それより、ジャンの隣に席が空いてますから、お座り下さい。どうかご一緒にお食事して下さい」
「なぜ僕の隣を指定するんだ?君の隣でもいいじゃないか」
「なぜって、僕の隣は左右とも子供たちじゃないか。何そう遠慮してるんだ?その方がいいだろう―君だってさ」
「それじゃまるで僕が......君は澄ました顔でそんなこと言って、彼女に失礼じゃないか。彼女はね、君を―」
ジャンがこう言いかけたのを、アルブラートは笑って制止させた。二人の言動は、子供たちの喧騒にかき消されてしまった。マリーは顔を赤らめながら、まだ片づけごとがあると言って、アルブラートの提案を断り、台所に引っ込んだ。
それから数日間、アルブラートは新学期のために時折ピアノの練習をしたが、途中で手を止め、ぼんやりと考えにふけることが多くなった。彼はどうもピアノを弾く気になれなくなり、ヴァイオリンを弾こうともしたが、妙に落ち着かず、何もする気が起きなくなった。
彼の心に、「アラブ」や「パレスチナ」という言葉が浮かんでは消えた。また、シャツの胸ポケットに入れたままのアイシャの写真が忘れられなかった。彼は、時々まとわりつくアリを抱き上げる度に、1年前のアレクサンドリアでのアイシャの葬儀が思い出され、徐々にアリの愛くるしい笑顔を見ることが、再び辛くなってきた。
今ではアリは、不思議と「ウンム」という片言を言わなくなっていた。しかし、日を追うごとに顔立ちが怖ろしいほどアイシャに似通ってきた。今や彼にとって、アリを見ることは、アイシャを見ることと同じだった。彼の心には、ジャンの言葉で一旦断ち切られたサハラでの幻影が広がっていた。
これは、アイシャがもう、アリの心に納まりきれなくなって、俺に強く訴えているのかもしれない......「私はアリ自身であっても、そうじゃない―私の心は、私だけのもの」と......
誕生日から4日目、1月10日の夕方に、彼はジャンに、音楽院の練習室を開けてほしいと頼んだ。
「新学期は明日からなのに、何の用事があるんだ?こんな寒い夕方にわざわざ―」
「......僕は、急にカーヌーンを弾きたくなってね。でも家では弾けない、アリがいるから―可哀想だけれど、母親のことをまた言われるとたまらないんだ。だから―」
ジャンは、アルブラートのカーヌーンを聴きたいと思ったが、その日は礼拝の用事があった。「それなら、これが裏口の鍵で、こっちが3階の練習室の鍵だよ。練習室は、まだ休みだから一番小さい3-c の教室しか空いてないけれどね。僕は6時からサクレ・クール寺院隣の教会に行くんだ。今日は珍しくピアノの演奏会もあるというから」
Burghley House Gates / Duncan~
「へえ......演奏会って、君が?」
「いや、僕は観客だよ。よく知らないけれど、地元のピアニストらしい。ちょっとした慈善コンサートなんだ。そういう集会がよくあってね」
ジャンは、最近ジプシーの子供たちが音楽院周辺にいるから、鍵を盗られないようにと注意し、礼拝の時にいつも着る白いコートを羽織ると、先に外出した。アルブラートは、紺のタートルネックのセーターに、黒革のジャンパーを着て、音楽院に出かけた。
彼は以前、ジャンに案内してもらった、休校時の裏口に回ると、鍵をズボンのポケットから取り出した。鍵を差し込み、やや重い扉を音を立てて開けた。扉は黒く、格子の間に凝った彫刻が施されてあった。敷地内に入り、扉を閉め、鍵を掛けた時、扉の向こうにまだ10歳ほどの少女がいるのに気づいた。少女は顔が埃で薄汚れ、黒髪もくしゃくしゃで不潔だった。だが彼は、この少女をどこかで見たことがある、と感じた。
その少女は物欲しげな目つきで彼を見ていたが、にこっと微笑むと、どこかへ走り去った。アルブラートは妙な懐かしさを覚えながら、ジャンパーの襟を立てて校舎に向かった。久しぶりに抱えるカーヌーンが少し重かった。広い構内には、警備員もおらず、森閑としていた。練習棟の入口上の時計は、午後4時50分だった。
彼は、音楽院にもう自分を敵視する者がいなくなったにも関わらず、いつも人目を気にする癖があった。襟を立てて歩くのも、自分の顔をあまりさらけ出したくない自意識の表れだった。この癖に気づくと、彼は溜息をつき、襟を平らに撫でつけた。ジャンの教えてくれた3階の練習室を開けると、中は外からの夕焼けの灯りがカーテン越しに射し込むだけで、薄暗かった。
窓のそばにグランドピアノがあり、そこから3mほど下がった場所に、やや長めの机と椅子が2つあるだけの小さな部屋だった。多分、ピアノ奏者の演奏を、教授などが座って聴くのだろう。アルブラートは、その机にカーヌーンを置き、くるんでいた布をそっと取り除いた。中から、レバノンで、農園のハダナに贈られた黒く光る懐かしいカーヌーンが姿を現した。
彼は、椅子に腰かけ、丁寧に楽器をクロスで磨くと、弦を一本ずつ調整した。だがすぐに奏でずに、しばらくその美しい姿を眺めていた。アルブラートにとって、このカーヌーンにはさまざまな想いが込められていた。彼は、デュラックから贈られたネクタイが「初めての誕生日プレゼント」と思ったが、カイロで19歳を迎えた際に、ムカールからラジオを贈られたことを急に思いだし、なぜ忘れていたのだろうと悔やんだ。
このカーヌーンでサイダ名物の海の城へと行き、ムカールに曲を聴かせたこと、カイロでアイシャと暮らし、レストランで彼女の歌に合わせて弦を弾いたこと―すべてが否定すべきではない、大切な思い出なのだと彼は改めて気づき、かつてこの楽器の音色を愛した二人がもういないことを考えると、体が急に熱くなり、涙がこぼれそうになった。
「パレスチナ」や「アラブ」である以前に、俺はこの世にひとりしかいない存在じゃないか......それを否定したって何もならない―苦しみも、憎しみも、悲しみも、すべてこの楽器には無関係じゃないか―ムカールも、アイシャも、アリも、アザゼルも、俺と同じ.....みんな大事な大事な存在なんだ―それを忘れて、この楽器から目をそむけていたなんて......
●Back to the Top of Part 26
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