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砂漠の果て(第2部「逃亡」)
第二部「逃亡」
―第6章―アジュルーン渓谷:1954年夏
アシュザフィーラ難民キャンプのあるベツレヘム近郊から、アジュルーンまでの道程は100キロもあった。途中、ユダ砂漠を越えて行かなければならなかった。もう夏の終わりだったが、皆すぐ喉の乾きに苦しんだ。
ヨルダンの首都アンマンでは、爆撃がその激烈さを増す一方だった。だから、アンマンの近くへの移動は危険極まりないことだった。アジュルーン渓谷の辺りは、まだイスラエル軍に狙われていない寂れた場所だった。そこにアルジュブラ難民キャンプがあった。
夜、ひっそりと移動するので、昼間は仮眠をとらねばならない。それでもいつ、空爆が始まるか分からない。大人たちの心情に敏感な子供たちは不安がったが、闇に紛れての移動には、冒険をしているようなスリルがあった。
国際赤十字の看護婦数名と若いイギリス人の医者一人が一緒だったが、赤十字団の動きをイスラエル軍に察知されると危ないために、ジープは使えなかった。それでも、彼らはキャンプの人々の健康を気遣って、医療品と食料品を積んだ荷車を、共に押していた。
大人たちは、サンダルや擦り切れた靴を履く者もいたが、子供たちは、ほとんど裸足だった。昼間は、砂漠の斜面に、人目のつかないような場所に皆休んだ。テントと荷物を荷車に積んでいたが、砂に絨毯を引いて、天幕の布の一部を頭から被って、眠るのだった。砂の色とよく似た天幕の布で、あまり目立たないだろうという考えからだった。
アイシャは、片時もアルブラートから離れなかった。イスラエル軍の爆撃がいつ始まるか―大人同士の話を耳にした彼女は、恐怖で昼間も休めない時があった。
「大丈夫だよ、アイシャ。テントの色で、砂漠と紛れて分からないよ」
「でも怖い...! 怖いの...」
アイシャは、少年にしがみついて震えていた。
「アイシャ。怖がることないよ」
「男の子は平気なのよ。私はそうじゃないもの」
結局、昼間、眠れなかった二人は、夜になると、タウフィークの押す荷車の荷物の間にもぐりこんで、眠るしかなかった。
何日歩き続けても、一向にアジュルーンに近づいていないように皆感じた。ユダ砂漠は広漠として、夏の終わりの暑さで、人々を苦しめた。だが砂漠は夜には気温が下がる。これも皆の悩みの種だった。
昼間は薄着をしていた方がいいが、夕方になると冬の始まりのように冷え込む。あまり衣服を持たない人々は、震えながら、天幕の布や薄い絨毯で、体を覆って、重い荷車を押した。
妊娠中の女性が2人、道中で出産をしたが、砂漠の厳しい酷暑と冷気のために、産後間もなく嬰児と共に死亡した。他にも、病を患っていた老人や、体力のない幼児が次々と命を落とした。
難民の人々は、彼らの亡骸を虚しく砂漠の中に埋葬するしかなかった。それが済むと、再び力なく、果てしない目的地を目指して足を進めた。
タウフィークやマルカートは、埋葬の場に子供たちをたち合わせないように気を配っていた。こうして、砂漠越えの途中で亡くなる者が後を絶たないために、250人ほどいた難民たちは、今では200人ほどに減っていた。
マルカートは、いつ自分もそうなるかと不安でたまらなかった。このユダ砂漠を延々と歩き続けることは、まるで死の行進のように思えた。
移転が始まって、ようやく3週間ほど過ぎた。アルブラートは、昼間眠れないアイシャを、荷車の中で、なだめすかして、ようやく寝かせた後、珍しく、荷車から降りて来た。
マルカートは、一人で荷車を押していたが、息子が側に来たのに気がついて、ほっとした。アルブラートは、来年の1月で13歳になる。8歳やそこらの年頃とは違って、随分背が伸びて、力もついてきた。彼女は、まだ少年である息子を頼もしく思うようになっていた。
「ごめん、母さん。ひとりでやらせて...もう、俺が一人で押すよ」
「お前、昼間眠れたの?」
「うん。ちょっとうとうとできたし...」
マルカートは、自分の被っている黒いヴェールを、息子の肩にかけてやった。とたんに、砂漠の冷気が彼女の体を貫いたが、息子が寒い目に遭うよりはましだと思った。
数分も経たないうちに、アルブラートは、汗をかいてきた。
「暑いね、こんなの押すと―ヴェールは母さんが被ってて」
「アイシャは昼間、なかなか寝ないわね」
「うん...爆撃のうわさを聞いてから。怖いって...でも爆撃なんて、こんなところまでやるかな...こんな...こんな砂漠の辺りまで......」
アルブラートは、息が切れて、少し立ち止まり、母親を見上げた。黒いヴェールを被ったマルカートは、夜明けの明かりの中で、すらりと細く、美しかった。少年は、いつになく、母の姿に見とれたように、彼女を見つめていた。
マルカートは、息子の黒く波打つ髪から額に流れる汗を、肩にかけていたショールで何度か拭ってやった。「辛いことね...」
少年は、母の言葉に黙っていた。
「お前をこんな辛い目に遭わせてばかりいて...なぜこうなるのかしら...いつも何かに脅えて、逃げるような生活ばかりね...お前が物心ついてから、ずうっと...まともな暮らしができないままだわ」
アルブラートは、黙って首をふると、再び荷車を押し始めた。何かしら、母の姿や声に甘い気持ちを覚えたまま、胸が熱くなるような感じだった。
......女の人って......きれいだな......アイシャも大人になったらきっと......
もうすっかり曙の光が東から皆を照らし始めていた。アルブラートは、ふと足元に緑色の草を見つけた。はっとして、荷車を止め、前方に走り出した。思った通り、もう砂漠の端まで来ている...!
タウフィークが、マルカートの側に走ってきた。
「もう大丈夫のようです...!砂漠を抜けました...ご覧なさい、もうオアシスに近づいてきている...井戸もすぐその先にあります」
キャンプの人々が移転するということで、一足先に、アジュルーンへと向かい、準備を進めていた赤十字団のメンバーが、井戸のそばにジープを何台か止めて、一行を待ち受けていた。
「お待ちしていました...! 大変だったでしょうが、これから先は楽です。この辺りは、現在の情報では、イスラエル軍の標的外です。具合の悪い方はジープにお乗り下さい。新しいキャンプにはもう、今日中に着きますから」
マルカートは安堵と疲労から、深い溜息をついて、荷車にもたれかかった。アルブラートが、井戸から水を汲んで来て、母親の側に戻ってきた。二人は、荒いブリキのカップに汲まれた水を、夢中で飲み干した。
「母さん、ジープに乗せてもらえば?」
「いいえ。ちょっと休めば大丈夫よ...具合の悪い人がきっとたくさんいるわ。その人たちが乗れなくなるもの」
アルブラートは背伸びして、朝日に輝くアジュルーン渓谷一帯を眺めやった。遠方は緑が生い茂っていて、あちらこちらに古代ローマ時代の遺跡が点在しているのがかすかに見える。
いいな......ああいう所でアイシャの歌声を聴いたら......カーヌーンはああいう場所でよく響いていい音が出るんだし......
アイシャを起こそうと、タウフィークの荷車の方へアルブラートは走り出そうとした。ところが、荷車の周りに赤十字の看護婦たちが集まっている。随行して来たイギリス人の医師もいた。彼らは担架を用意し、病人を荷車から移そうとしていた。―病人は、アイシャだった。
そばに、タウフィークが心配そうに付き添っていた。アイシャは担架に乗せられて、大きめのジープの後部座席に移された。
アルブラートは、急に心配になって、タウフィークのそばに駆け寄った。
「先生......アイシャがどうかしたの?病気なの?」
タウフィークは青ざめた表情で、少年をハッと驚いたように見つめた。
「いや......この砂漠の気温の変化に体がついていけなくってね...高熱を出したんだ。それに...お腹が痛くてたまらないと言うんでね」
「お腹が痛い?なんでだろ...井戸の水が合わなかったのかな」
「いいや、そうじゃないんだ。あの娘ももう6月で9歳になったしね。そういう年頃なのさ...父親ってのはダメだね。娘の体の変化に慌ててしまって...」
しばらく休んでいたマルカートが、彼らの側に来て、息子を呼んだ。
「何?母さん...アイシャはどうしたの?」
「お前が知らないのも無理ないわ。アイシャは実際の歳より、体の成熟が早かったのね。アイシャはね、今日から子供ではなくて娘になったのよ。お腹が痛いのはそのせいなの。2,3日でお腹の痛みも治まるわ、きっと」
「娘になったって...まだ子供じゃないか」
「そりゃそうだけど。体が大人に近づいたということなのよ。ムラート、今まで以上にアイシャの心と体を大事にしてあげなさい」
―第7章―思春期
アジュルーン渓谷は切り立った崖が多いが、空気や気候は穏やかで、アシュザフィーラのキャンプよりも過ごしやすかった。アルブラートら一行が到着した時、アルジュブラ難民キャンプは、渓谷の奥に既に50ほどのテントが張られていた。
病院は、まだ建築が間に合わず、ローマ時代の遺跡の中に急ごしらえしてあった。周りが石に囲まれて、病院の中に入ると、少し冷んやりとした。
アイシャが病棟に運び込まれて、4日ほど経ったある日、アルブラートは様子を伺いに彼女のもとを訪れた。遺跡の石柱を利用して、ベッドの周りに白いカーテンが掛けてあった。少年には、まるで貴族のお姫様のベッドのように思われた。
ベッドのそばについていた看護婦が、アルブラートを見ると、にっこり微笑んだ。その看護婦は、昔、エイン・ゲディからアルブラートと母親をジープに乗せてくれた人だった。「いらっしゃい。ずいぶん大きくなったわね。今、いくつになるの?」
彼女は、イギリス人だったが、アラビア語が上手だった。
「来年で13歳」
「そうなの。昔初めて会った時は、まだ5歳だったわね」
「あの...」
「サリー・マクガバンよ。サリーでいいわ」
「ねえ、サリー。アイシャは大丈夫?熱はもういいの?」
「ええ、もう普通よ」
「あの......お腹がすごく痛いのは......?」
「それももう治まったわ」
「あの......どうして痛くなったの?よく分からなくて......母さんは、もう子供じゃないからだとか、大人になったとか言うけれど」
「女の子はね、早い子は10歳前後になると、体が大人に近づくの。そうね......どう言ったらいいかしら。大人になったら、女の人は赤ちゃんを産むでしょう?その準備が、体の中で始まるのよ」
こう言われると、よけい混乱する気がした。なんでまだ9歳なのに......?
アイシャは、つい最近まで赤ちゃんだったじゃないか......
アルブラートは、おずおずとカーテンを開けた。
「アイシャ...気分はどう?」
アイシャは、横になって、自分の髪をいじっていたが、少年の声を聞いた途端、毛布を頭まで被ってしまった。「いや!来ないで!」
あまりのきっぱりした拒絶にアルブラートは驚いた。「何でさ」
「いいから、帰って!私を見ないで!すぐ帰って!」
ウードの新しい曲を聞かせたかったのに......アルブラートは、カーテンをそっと元通りにすると、がっかりして病院を出た。そのまま歩いて、やや高みにある廃墟の方に登って行った。そこからは、テント村が一面に見下ろせる。見晴らしのいい、最近見つけたお気に入りの場所だった。
さっき聞いた看護婦の説明や、アイシャの態度に、心の中がもやもやしていた。ウードの弦をそっと奏でながら、不思議な気持ちに包まれていた。
それでも、何となく、10歳の頃に、年上の少年バルージュから聞いたことを思い出していた。
......そう言えばバルージュは言ってたっけ...ベツレヘムとか大きい街にはモスクがあって、女の人は入ってはダメなんだって.......女は血で穢れる日があるからだって―それと赤ちゃんを産む準備と何か関係があるのかな......
彼はそう友人から聞いても、女性を「穢れている」とは思わなかった。むしろ、女性というのは、何か不思議で崇高な存在に感じたのだった。アイシャがその準備が整ってきているのか......
アルブラートは、アイシャのくっきりとした容貌や、美しい歌声を想いながら、幻想に浸っていた。それは、18歳ほどになったアイシャだった。素晴らしい美人になったアイシャ。
その幻の中で、アイシャは彼にとって完全な神秘となっていた。そうしてアイシャが赤ん坊を抱いている姿が浮かんできた。その嬰児は、アルブラートの息子だった。
うっとりとしながら、アルブラートは、そのイメージが消えないうちに、ウードで静かに新しい曲を弾き始めた。その響きを、病棟のベッドの中で、アイシャが聴いていた。お守りにと、いつも肌身離さず持っている、8歳の頃のアルブラートの写真を、彼女は枕の下から取り出した。見えないけれども、いつも一緒にいたアルブラートの顔形が分かるような気がいつもするのだった。
......ムラートに会いたい。今度会ったら謝らなくちゃ......でも変ね。何だか私...私じゃなくなった気がする......
―第8章―恋人たち:1955年
アルジュブラ難民キャンプに着いて、1週間が経った。もう9月中旬だった。夏の暑さもなくなり、涼しい風が吹いていた。アルブラートは自分のテントの中で、母と荷物を整理していた。他のキャンプから移ってきた難民で、昔イェリコで絨毯屋をしていたハズクから、古くなった絨毯を譲ってもらったので、親子はそれを地面に敷いていた。地味だが、暖かく、しっかりした絨毯だった。楽器はテントの右奥に置いていた。
少ない荷物を、テントの隅々にあらかた置いてしまうと、アルブラートは積み重ねた毛布に寄りかかって、英語の本を読み始めた。アシュザフィーラのキャンプにいた10歳の頃、タウフィークが教科書として与えてくれた詩と短い物語の本だった。何回も読んだので、もう覚えてしまったが、飽きないので、時々読むのだった。
タウフィークはその本は、赤十字の看護婦から譲ってもらった。子供向けなので、ちょうど良かった。彼はこの本を、早速アラビア語に翻訳して、そうして、やっとアラビア語の教則本ができた。その本も、アルブラートは気に入って、英語の本と時折読み比べたりした。
「珍しいわね。本をそんなに熱心に読んだりして」
マルカートが、洗濯物をたたみながら声をかけた。
「先生から聞いたわよ。英語がとても上手になったって。みんなの中ではお前が一番ですって。良かったじゃないの」
本に夢中になっていたアルブラートは、母を見て、黙ってうなずいた。
「英語が昔は苦手だって言ってたじゃないの。勉強を嫌がってたわね。だからお前は勉強嫌いだと思ってたわ。その代わり楽器を弾いているのが好きだから、仕方のないことと思ってたのよ」
「うん......でも10歳くらいから、本を読むのが面白くなったんだ」
「いいわね。母さんは、学校に行ったことなんてないから羨ましいわ。英語どころか、アラビア語の読み書きもダメなの。お前に教わりたいほどよ」
「なんで母さん、学校に行かなかったの」
「母さんのお父さんはジプシーとアルメニア人の混血だったのよ。お母さんはパレスチナの人だったけれど......小さい時からずっと、馬車でヨーロッパを転々としたわ。それでも、母さんは6歳の時にはベツレヘムに住みついて、そこで大きくなったのよ。でも勉強なんてしなかったわ。いつも踊ってばかりいたの」
「ふうん......そんな話初めて聞いたよ。母さん、踊りが好きだったのか......お祖父さんもパレスチナ人かと思っていたけれど......何て名前?」
「アルベルト・ローランといって、ヴァイオリンの名手だったのよ」
「アルベルト・ローラン......外国風の名前だね。でも母さん、ヨーロッパを旅してたなんていいな。なんで馬車の旅を止めてしまったの?」
「そうね...前の大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人やロマニー...ジプシーのことね...そういう人たちを迫害し始めたのよ。ヨーロッパ中のユダヤ人やロマニーやアラブ人を捕まえて、強制収容所に入れて、大勢の人を殺し出したのよ。それで、トルコからベツレヘムに逃げてきたの」
「変だね」
「何が?」
「だってユダヤ人は捕まって、強制収容所で殺されたりしたんだろ。アラブ人も同じ目に遭ったんだろ。それなのに、今度はユダヤ人は俺たちのいた所に国を造ってしまって、アラブ人を迫害したり殺したりしてる... なんで暴力振るうのかな...戦争や爆撃までして―狂ってるよ」
マルカートは何とも言いようがなかった。息子の言うとおりのことを、いつも感じていたからだった。それでも、こんな話を息子とできるようになったことが、不思議と嬉しかった。
ふと、物音がしたので、二人がテントの入り口を見ると、アイシャが父親に連れられて、黙ってアルブラートの方を見ていた。
「ムラート。ちょっといい...?」
アルブラートは嬉しくなって、ウードを手にとり、立ち上がった。
「アイシャ、もう大丈夫なの?」
いつものように、アイシャのそばに行くと、彼女の手を握って、自分の頬や髪に触れさせた。アイシャを安心させるためだった。アイシャは、そっと彼の手を振りほどいて、うつむいたが、また手を少年の方に差し伸べた。
アルブラートは彼女の白い、細い手をしっかり握り締めると、テントの外に出た。アイシャは黒地に白の花柄のやや長いワンピースを着ていた。髪は編んでおらず、腰まで伸ばしたままだった。
アルブラートは、お気に入りの廃墟の丘に彼女を連れて行った。もう夕方近く、沈みかかった夕日が少女を照らしていた。彼は、アイシャを見て、何となく急に大人っぽくなったように感じた。周りの大人が言っていたようにもう、子供ではなく、本当に娘らしくなったように見えた。
「ムラート......あの時はごめんなさい」
「えっ?......ああ、病院の時のこと?」
「私ね......気分が悪かったの、少し......それでひどいこと言ってしまって......本当はムラートにずっとそばにいて欲しかったの」
「別に気にしてなんかいないよ。それより元気になって良かった」
「私......私は自分ではわからないんだけど......聞いてもいい?」
「いいよ。何?」
「私って......変に見えない?私、違ったでしょう、前と」
「違ってなんかいないよ......きれいだよ、とても」
アイシャは頬をパッと赤くした。
「きれい?......きれいなの?私」
「うん、本当に。前からきれいだったけれど......今はもっと美人になった。アイシャがあの病院のベッドに寝ている時なんか......お姫様みたいだったよ」
「私ね......ムラートにそう言われるのが一番嬉しいの。こういうのっておかしい?笑ったりしないでね」
「笑うわけないじゃないか。小さい時から兄弟みたいにずっと一緒だったんだから。そばにいつもいる俺が言うのは当たり前だよ」
「そういうのとちょっと違う。ムラートをお兄さんだなんて思ったことないの......もっと違う気持ちなの」
「そうかな―分からないや。どんな気持ちなの?」
会話はそこで途切れてしまった。アイシャは何か言い足りないといった表情だった。彼女は、アルブラートの手をぎゅっと握り締めたが、すぐに手を乱暴に離すと、急に立ち上がった。アイシャはひとりで自分のテントに帰ろうと走り出したが、すぐに廃墟の壁にぶつかって、草の上に転んでしまった。
「アイシャ...!危ないよ、一人で走ったりしたら」
少年は、倒れている彼女に走り寄って、抱き起こそうとした。アイシャはそれでも、彼を振り払おうともがいた。
「どうしたの...? 怒っているの?何か悪いこと言ったのなら謝るよ」
アイシャは、顔を覆って、すすり泣いていた。アルブラートは驚いて、彼女の額や頬に乱れかかった長い黒髪を払いのけて、アイシャを見ようとしたが、アイシャは泣きながら、両手で顔を覆い隠してしまった。
「嘘なんでしょう?私をからかわないで」
「......からかったりしてないよ。どうしてそんなこと言うの?」
「私は自分の姿も、ムラートの顔も見えないんだもの......きれいだなんて嘘言わないで......!」
アルブラートは、こう言われると、どう彼女に接すればいいのか、分からなくなってしまった。アイシャは、ほんの短期間で変わってしまった、と感じた。話をするにも難しい。以前のように、何でも話せなくなってしまったのか......そう思うと、再び残念な、寂しい気持ちにとらわれた。それでも、目の見えないアイシャを、このまま放っておけず、彼女の気持ちが鎮まるのを待つしかなかった。
この時以来、アルブラートは、アイシャと以前のようにはいかなくなった。いつもアイシャは、ぴったりと彼にくっついて離れなかったのに、アイシャの方が彼とあまり話そうとしなくなってしまった。
気まずい、複雑な気持ちのまま、その年もまた冬が訪れた。だがここでの冬はそう寒くもなく、ひどい病気に罹る者も出なかった。雪もほんの数日、散らついた程度で、皆ほっとして春を待った。再び、病院や学校の設備も整って来たのは、翌年1955年の3月頃だった。
アジュルーン渓谷は緑が多く、岩山に囲まれた谷間には美しい古代遺跡が豊富だった。アシュザフィーラから移って来た人々は、それでも、何か物足りない気持ちでいた。
もう半年もの間、アイシャの歌声を聞かない。アルブラートの演奏を聴いていない。13歳になったアルブラートは、迷ったように、時折アイシャのテントを訪れた。タウフィークは変わらず、温かく迎えてくれる。それでもアイシャはテントの奥にいつも引っ込んで、顔を見せなかった。
「アイシャ。ムラートが来たよ。どうしたんだい」
「いいの。また今度」
「先生―アイシャは怒っているのかな」
「別に。喧嘩でもしたのかね」
「あの......去年の9月頃に、アイシャが退院した頃なんだけれど......
アイシャに言ったんだ。とてもきれいだって......そうしたら泣いてしまってさ。嘘つくなって......本当のことを言っただけなのに」
タウフィークは優しく微笑んだ。
「ああ、それはアイシャから聞いたよ。すごく嬉しかったって言って、有頂天になってたね。女の子は分からないね。泣いたり喜んだり」
「アイシャが喜んでいたの?泣いた後に?......不思議だね......でも最近はずっと歌ったりもしないね。だから俺つまらなくって......」
「最近はね、点字を勉強しているんだよ、ずっと」
「どうして点字を?」
「ムラートのように自由に英語の本を読んだりしたいからって言ってね。
そうだな......去年の9月の終わり頃に、急にあの娘から言い出したんだ」
―第9章―襲撃の足音:1956年
キャンプの人々は、国連難民本部や国際赤十字のメンバーの助けを借りながら、少しずつ、自分たちの生活を整えることに懸命だった。だから、外部で何が起こっているか、ほとんど知らずにいた。
もちろん国連難民機関から派遣されたNGO の人々に、現在の情勢を訊けば、教えてくれたかも知れない―少なくとも、タウフィークや他の男たちはそう思っていた。けれども、敢えて訊くまい―そう心に決めていた。
訊いてしまうと、途端に不安がつのる。その不安は、育ち盛りの子供たちに敏感に伝わる。わざわざ子供たちや、日々の生活に追われる母親たちを不安がらせることはない、と思っていたのだった。
しかし、実際はパレスチナを巡って、イスラエルとアラブ諸国の関係は、ますます悪化する一方だった。皆がアシュザフィーラ難民キャンプを脱出し、アジュルーン渓谷に向かっていた1954年、国連カイロ大学のパレスチナ人学生の組織である「パレスチナ学生連合」のメンバーを中心にパレスチナ開放を目的とした「ファタハ」が結成された。
アルブラートが13歳、アイシャが10歳を迎えた1955年には、エジプト・アラブ共和国のナセル大統領の呼びかけで、初めてパレスチナ難民のゲリラ部隊が結成された。
翌年、1956年には、第二次中東戦争が起こった。この戦争では、イスラエル軍がエジプトに侵攻し、スエズ運河の領有権を巡って争いが起きた。
イスラエルのアラブに対する敵対心は、これら一連の事件や戦争で、ますます大きく膨れ上がった。アラブを潰すには、まず難民のゲリラ部隊を壊滅させることだと考えたイスラエル軍は、1956年の初め頃から、パレスチナ難民キャンプを襲うようになった。
これは何の前触れもなかった。まずNGO のメンバーが、難民キャンプに支援物資を送り届けるためのルートをすべて遮断し、メンバーを一人残らず捕虜にした。そうして拷問にかけ、難民キャンプの所在地を「自白」させる。
難民キャンプの多くは主にヨルダン国境から少し離れた、レバノンに近い北部に集中しているという情報を掴んだイスラエル軍は、虱潰しにキャンプを襲撃し始めた。
1956年の夏には、200ほどあった難民キャンプは、ほんの半分に激減していた。たいていは、老若男女構わず虐殺するというのが、イスラエル軍の手口だった。そうやって消え去ったテント村には、犠牲者の遺体が放置されたままだった。もしくは、16歳以上から50代ほどの若者や男たちを捕虜にして連れ去り、イスラエルの農地を造るために、砂漠地帯に送り込んだ。
若い女たちは、決まって夜、いきなりイスラエル軍のジープに乗せられ、どこかに連れ去られて行方不明となった。老人や子供たちは、その場で射殺されることが多かった。
1956年の秋には、もはやタウフィークはその怖ろしい情報を皆に秘密にしておくことは出来なかった。他のキャンプから移転してきた者のラジオで、つぶさにイスラエル軍の動きを知ることになったからだった。この襲撃が始まって以来、パレスチナ難民の犠牲者は1800人以上と報道されていた。
......もう安全な場所はどこにもない......もう終わりなのか......
もうすぐ15歳になるアルブラート、11歳になった娘アイシャを見るにつけて、絶望感がいや増すばかりだった。
アルジュブラ難民キャンプに移って当初の1年間は、時折ヨルダンの方から爆撃の音がしたが、緑の多い岩山の渓谷地帯で、学校も再建し、生活は以前よりも順調だと感じていた。だがNGO のメンバーが捕虜となり、支援物資が滞り始めた56年の春頃から、皆生活が苦しいと感じ始めた。病気になる者も多くなって来た。その日の食事にも事欠くようになった。
タウフィークは、しっかりしなければと思いながらも、どうも体調がおかしいと感じ始めた。アイシャはまだ33歳の父親の様子が変だということは、敏感に察知していた。
9歳の頃に始めた点字の学習は、もうマスターして、10歳の春からは、父親の教える教室に通い始めた。そんな時は、アルブラートが連れて行った。この頃には、ふたりは再び元通りに仲良くなっていた。
ふたりは古代遺跡の中をよく散歩した。アルブラートはアイシャの手を引いて、新しいお気に入りの場所に連れて行った。そこは辺り一面緑に囲まれた所で、ローマ時代の門があり、そのそばには階段が続いていた。
アルブラートは、アイシャの手をしっかり握って、階段を登ったが、アイシャは、慣れたように、楽に階段を駆け上がるのだった。階段の上は小高い丘になっており、そこには素晴らしく整った石柱が回廊を造っていた。どうも宮殿の跡らしかった。
「アイシャ。何か歌って見せてごらんよ」
アイシャはもう11歳をとうに越して、以前よりも背が高くなっていた。いつもは、白地に黒の格子縞の長いヴェールを被っていたが、丘の上に行くとヴェールを外すのだった。彼女はきらきら輝く長い黒髪を、いつも腰の辺りまで伸ばしていた。マルカートに「それ以上伸ばすと手入れが大変よ」と言われて切ってもらうのだった。
この頃は、物資が不足していたので、アイシャはいつも同じ服だった。9歳の頃着ていた、黒地に白い大きな花柄模様のワンピースに、タウフィークが被っているカフィーヤという布の一部を切り取って、マルカートが長めのフリルとして継ぎ合わせたものを着ていた。
「ムラートがウードを弾いて見せて。そうしたら歌えるわ」
アルブラートは、緑に囲まれた遺跡の光景から、しばらくイメージを創り出そうと黙っていたが、急にスピードの速い曲を奏で始めた。ギターやリュートにも似たウードの弦の響きは、煌くように周囲の緑の中に溶け込んだ。
すると、アイシャが目を閉じて、張りのある声で歌い出した。
私はどうしたらいいの おお お父さま
私の恋人があの木陰にいるの 私を抱きしめてくれる愛しい人が
私はどうしたらいいの おお お父さま
あの人をご覧になって
私の愛しい人を 私の美しい人を......
9歳の頃とは一段と声に艶がかかり、繊細さの加わった歌い方だった。それでも、どこか遥か彼方の高みから舞い降りてくる美しさに変わりはなかった。アルブラートは彼女の歌が終わると、そのメロディーに合った旋律で、ウードを今度は静かに、ゆっくりとかき鳴らした。
再びアイシャが同じ歌を繰り返した。
私はどうしたらいいの おお お父さま
私の恋人があの木陰にいるの 私を抱きしめてくれる愛しい人が......
「それは確か『ハルジャ』の詩集に出てくるのとよく似ているね」
『ハルジャ』というのは、13世紀カスティーリャ(スペイン)で流行したアラブ・アンダルシア民謡を集めた詩集だった。昨年、10歳の秋にタウフィークからアイシャも英語の点字教科書を受け取った。点字を若い頃習得していた父親は、娘のために、アラビア語と英語の点字本を作ってやった。
アイシャは、その薄い教科書の中でも、『ハルジャ』の詩篇が気に入って、何度も繰り返し読んだ。そばで、父親が娘の手をとって、点字をなぞらせながら、アラビア語と英語の発音も教えてやった。
ただひとつの詩だけは、アイシャは「アルブラートに教えてもらいたい」と言って、父の教えを拒んでいた。アイシャは、スカートのポケットから、その詩が載った頁だけを切り取ったものを、取り出した。その頁にはこんな詩が書かれてあった。
あなたが占い師なら私に教えて
ほんとに起こる素敵なことを
どうぞ教えて
いつここへやってくるのか 私の恋人イスハクが......
どうぞ教えて 妹たちよ この不幸にどうやって耐えたらいいの
恋人なしに私は生きてはいけない
彼を探しに飛んで行きたい......
この詩を読みながら、アルブラートは胸が熱くなるのを覚えた。黄昏の淡い金色の光を受けた詩篇は、アイシャの心そのもののように感じた。山上から吹く秋の初めの涼しい風を受けながらも、頬が火照るのだった。
少年は、アイシャの細い手を静かに取り、詩篇の点字をゆっくりとなぞらせ始めた。それと同時に、低い呟くような声で、アラビア語の発音を聞かせてやった。アイシャは英語も聞きたいと言うので、アルブラートは考えながら、その詩を英語に訳して、聞かせるのだった。
アルブラートの吐息が時折、頬にかかるのを感じたアイシャは、彼の方を大きな瞳で見上げた。そうして、いきなり彼の胸に顔を埋めて、細い長い腕で、彼をそっと抱きしめた。
少年の手から、詩篇の紙がはらりと落ちた。少女の胸の鼓動が、彼にじかに伝わり、体を熱くした。彼もまたアイシャをぐっと抱きしめて、少女の額にそっと接吻した。
その時、ヨルダン東方から、爆撃音がドーンと響いてきた。それでも二人はかえって強く抱きしめあい、離れなかった。
......俺はアイシャが好きだ......アイシャを愛しているんだ......
アイシャがいつしか震えているのに気づいたアルブラートは、彼女の頬に口づけしながら、静かにささやいた。
「どうしたの......アイシャ」
「......父さんのこと......考えると怖いの」
「なぜ―?」
「私の母さんは、私が赤ん坊の時、イスラエル兵に銃撃されて死んだの。ラムラの街を逃げる時、転んだために......私には父さんしかいないの。でもこの頃は、父さんは...具合が悪くて...声も息も苦しそうになる時が多いわ。父さんが死んでしまったら私は一人ぼっち......そう考えると怖いの」
「そんな...先生は疲れているんだよ。それに何かあっても、俺はアイシャのそばを離れないよ」
―第10章―死のキャンプ:1957年
それからほんの数日後だった。まだ朝早く、キャンプの中に激しい銃声が1、2度響いた。アルブラートはギョッとして跳ね起きた。マルカートの方を見ると、母も目を覚まし、不安げな表情で息子を見つめていた。
外に飛び出そうとする息子を、マルカートはいつになく厳しい口調で制止した。「だめよ、ムラート!出たら死ぬわ!」
アルブラートは毛布の中にもぐりこんで、体を硬くしていた。手や唇が小刻みに震えている。
―今のは......?誰かが撃たれた音だ......まさか―!......まさか本当にイスラエル軍が......? イスラエル兵がこのキャンプを発見したんだろうか......?
辺りがシーンと静まり返り、キャンプの人々は日の昇る頃に、ようやくテントから出てきた。途端に、キャンプの入り口から悲鳴と泣き声が上がった。皆がその方向に走った。難民の子供がひとり、キャンプの入り口付近の遺跡のそばで、血まみれで倒れていた。
赤十字の医師が、少年の脈をとり、首を横に振った。
とうとう最初の犠牲者が出たのだった―殺された子は、まだ7歳だった。朝早く、井戸の水を飲もうとテントの外に出た所を、突然潜伏していたイスラエル兵に狙われたらしい。
「ジャイール! ジャイール......!」
母親は狂ったように、我が子の体に突っ伏して泣き崩れた。その光景を、タウフィークが呆然と見つめていた。アルブラートもその場に駆けつけて、息を呑んだ。タウフィークは赤十字の医師に押し殺した声でささやいた。
「ドクター......イスラエル兵が潜伏しているんです......もうこのキャンプは包囲されているのでは......」
「いいや―包囲の様子はまだない。様子を伺いに兵士がこのキャンプに昨夜忍び込んだだけだろうが―しかし、アルジュブラは、もう標的にされているようだな......」
タウフィークは、胸を苦しそうに押さえながら、一瞬目を閉じたが、走っていもいないのに、息を切らしながら、医師と話を続けた。
「......お願いです、ドクター......ぜひ無線で連絡を......国連部隊に援軍を要請して―そうしないと......我々はもう壊滅寸前でしょう」
「もちろんすぐに連絡を取ろう。だが援軍の到着はすぐという訳にはいかないだろう。きっとこのキャンプへのルートは、イスラエル軍に遮断されているだろうから......だがあなたは―この頃どうも様子が変だな」
「いいえ......いえ、少し......息苦しくなるんです。それだけです」
「心臓かも知れん―だが困ったな。この頃の支援物資不足で、医療品までもうほとんど手に入らないんだ」
アルブラートは、医師とタウフィークの側で黙りこくって話を聴いていた。
このアルジュブラにイスラエル兵が潜伏している―?
国連部隊が援軍を出動させる―でもこの難民キャンプに来る前に、ルートがイスラエルによって遮断されている......じゃあここのキャンプも、もう他のと同じように終わりなのか―皆殺されてしまう......?
タウフィークがあんまり苦しそうに胸を押さえて、その場にうずくまってしまったので、アルブラートは慌てて彼のそばに駆け寄った。
「先生...! 先生! しっかりして......! 心臓が悪いの?」
タウフィークは、少年の呼びかけにも、しばらく答えられなかった。心臓が締め付けられるように痛く、苦しい。声が出なかった。もう涼しい秋の終わりであるのに、気がつくと汗で髪や額がぐっしょり濡れているほどだった。
彼は、いつもの発作が異様にひどくなったのを感じて、自分の命もそう長くはない、と直感した。それでも何とか痛みが治まると、そばにいるアルブラートの心配そうな顔をやっと見やった。
「先生......ここにいても仕方ないよ。アイシャの所に戻ろう」医師が少年に英語で話しかけた。「私が手を貸そう―君、手伝ってくれ」
医師は、アルブラートと一緒にタウフィークを立たせると、両側から支えるようにして、テントに戻らせた。タウフィークのテントは、キャンプの入り口から右手に20メートルほどの所だった。神殿跡の岩場の中に、天幕を張り、アイシャと暮らしていた。
音に敏感なアイシャは、キャンプの入り口で何が起こったか、もう分かっていた。銃声と悲鳴―女の泣き声と人々の騒ぎが、彼女の恐怖を増大させていた。父がテントを留守にするのには慣れていたが、この時ばかりは、一人でいるのが怖ろしくてたまらなかった。
アルブラートは、彼女のテントにようやく辿り着くと、急いで声をかけた。
「アイシャ...! お父さんが戻ってきたよ」
タウフィークは、娘を心配させたくないために、今の発作のことを、医師にも少年にも黙っているようにと頼んでいた。だが、アイシャは雰囲気で、父親に何か怖ろしいことが迫ってきていると感じ取っていた。
「アイシャ―怖かっただろう...父さんの側においで」
アイシャは、震えながらテントの奥で、毛布に包まっていたが、アルブラートと父親の声で、ようやく起き上がった。アルブラートが彼女の手をとって、タウフィークの寝ているそばに座らせた。少女は、父親に抱きついたが、心臓の音がひどく乱れていることや、息遣いが荒いことに気がついた。
「父さん......苦しいのね」
「いいや。何でもないよ。さっきの音には驚いただろう。でも何の心配もいらないんだ......それよりアイシャ...そばにしばらくいておくれ」
タウフィークは、娘の美しい黒髪を撫ぜながら、彼女のあどけなさの残る白く愛らしい顔をじっと見つめた。
この子は目が見えないんだ...母親の顔も知らない...母親は、ユルナは、この子が赤ん坊の時に殺されたからな...それでもこの子は、父親の俺の顔さえ見えないんだ...いや自分の顔さえも見ることができない―たったひとりの親友のムラートさえも見ることができないんだ......この娘を遺して俺は死ぬのか......
「アイシャ...お前は今いくつだったかな」
「6月のお誕生日が過ぎたから、もう11歳よ」
「11歳か...来年はもう12歳だね...本当に大きくなった。それに母さんによく似てきたね...とっても美人になった」
「父さん、死なないで。死んじゃいやよ。私ひとりぼっちになるもの」
「お前はひとりじゃないよ...ムラートがいるじゃないか。父さんに何かあってもムラートがお前を守ってくれるから......」
タウフィークは16歳の頃、心臓がやや弱いと医者から診断されたことがあった。それでも人並みに生活はしていけると言われていた。彼の夢は立派な教師になることだった。
だが、アイシャが生まれて2年と経たないうちに、ラムラの街でもパレスチナ人の迫害がひどくなった。妻のユルナとアイシャを連れて、銃撃戦の嵐の中を走って逃げる最中、ユルナが撃たれた。彼女を助ける暇もなく、後ろを振り返らずにアイシャを抱いて走り続けた。やっと街の外れの、壊れたモスクの中に逃げ込んだ時、急に心臓が締めつけられるように苦しくなった。
あの時が最初の発作だった。それでも若かったためか、発作はほんの数秒で治まった。しかし、難民となってキャンプ生活を始め、現在のアジュルーン渓谷に着いて半年経った頃から、2ヶ月に1度ほどの間隔で、発作が起きるようになった。
キャンプ暮らしの厳しさと、目の不自由な娘を絶えず心配することから、いつしか病状が悪化していたのかも知れなかった。このアルジュブラでの最初の襲撃事件の後、1956年の11月には3人の子供と2人の大人が再び銃殺された。
......もう完全にこのキャンプは狙われている......占領されるのも時間の問題かも知れない......銃殺が先か―それとも発作が先か......
タウフィークは発作で倒れて以来、もう教壇には立てなかった。年が明けて1957年になった。アルブラートは1月6日で15歳を迎えた。銃撃が起こるのはたいてい、決まって夜明け頃なので、午後を少し過ぎた頃にはいつもタウフィークを見舞いに訪れた。マルカートは息子がテントを出るのを心配して、時々一緒に彼のテントにやって来るようになった。
「ムラート......すまないが、ちょっとアイシャを連れて外に行ってくれないかな。アイシャはもうずっと外に出てないから......テントのそばの岩陰にでも......あまり遠くは危ないからね」
アイシャはアルブラートに手を引かれて、おずおずと立ち上がったが、心配そうに父親の方を振り返った。アルブラートも戸惑っていたが、タウフィークが手で外を指し示すので、仕方なく外に出た。
マルカートは黙って、タウフィークのそばに静かに座っていた。
「もうこれで...4人も子供たちが犠牲になりました...最初のジャイールはまだ文字を習い始めたばかりだった。昨年暮れにはライラレィとファイザ...
それにカィヤームまで...それを思うと辛くてね......」
タウフィークは彼女をじっと見つめた。こんなに間近に彼女を見たことはなかった。大きく華やかな黒い瞳が、大輪のバラのように美しい。それに他の女性にはない凛とした威厳が備わっている。こんな女性に出会ったことはない、と彼は思った。
......古代パルミュラ王国の女王ゼノビアを見ているかのようだ......
「先生はあんまりお考えになることが多いのです...ご病気にさわります...亡くなった子供たちは、本当に可哀想でしたわ......あなたは特に子供好きでいらっしゃいますから.....」
「私は子供を教えることが好きでね......ムラートには特に驚きましたよ。あの子は語学の才能があるし...一流の音楽家になる資質がもう現れてきましたね」
マルカートはそれを聞いて、寂しそうに微笑んだ。こうやって病床のタウフィークのそばで、息子の将来のことを聞くと、10年前、バシールの亡くなる直前の時を思い出した。彼女はタウフィークの手を静かに握った。
「もうあまりお話にならない方が...」
「いえ―今は少しいいんです。あなたにここにいて欲しいんです...あなたにはいろいろと娘のお世話をしてもらって......お礼が言いたかった」
「アイシャは本当にきれいな子ですもの。それに歌が素晴らしくて...」
「...私は歌のことは全然駄目でね...私は学生の頃、喫茶店で出会った女性に恋をしたんです......彼女はシリアの音楽院の学生で......声楽を習っていましたから―アイシャは......母親に似たんでしょう......」
タウフィークはだんだん息苦しくなってきた。マルカートの顔が時折霞んできた。マルカートはハッとして、彼の手を握り締め、頬を彼の手に押し当てた。バシールの死に際にはなぜかこぼれなかった涙が、彼女の目から溢れ出た。こんなに...こんなにこの人を慕っていたなんて......!
「先生......先生―どうかしっかりなさって―お願いです......!」
だがタウフィークはもう話ができなかった。弱々しい息が、今にも途切れそうだった。マルカートは急に立ち上がり、テントの外に走り出すと、岩場のそばで中の様子を伺っていた子供たちを呼んだ。タウフィークは息も絶え絶えに娘の名を呼んだ。
「......アイシャ......」
「父さん...! だめよ、死なないで......! 父さん!」
アルブラートは必死で声をかけ続けた。
「先生!しっかりして!先生―」
彼は、ギクッとして、タウフィークの胸に耳を押し当てた。その瞬間、戦慄が少年の体を貫いた。
先生が死んだ―死んでしまった―死......?これが死なのか......?
アイシャは父親にすがりついていたが、突然、雷に打たれたように体を起こし、父の顔を震える両手で包み込んだ。タウフィークの頬は氷のように冷たかった。少女は、布を引き裂くような悲鳴を上げたかと思うと、タウフィークの遺体に身を投げて、泣き出した。1957年3月末のことだった。
マルカートも、大粒の涙をこぼしながら、呆然としている息子を抱きしめて泣いていた。タウフィークが亡くなって、二人は初めて気がついた。どんなにこの人を心の支えにしていたことか―と。
●Back to the Top of Part 2
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