Welcome to My Novel Jewel Box

Welcome to My Novel Jewel Box

砂漠の果て(第4部「解放」)

第四部「解放」


―第14章―ナザレの荒野:1958年冬


The Wilds of Nazareth


A Dead Girl★


アルブラートは、1958年の1月で16歳になった。だがベト・シェアンの捕虜収容所に依然として捕らわれたままだった。アーロンは、年が明けると強制労働が始まると言った。アルブラートには、何の労働なのか、全く知らされなかった。

 彼は、すっかりやつれ、痩せ細っていた。食事はいつも兵士が同じものを運んできた。相変わらず味の全く無いスープと、干からびたパンだった。それを朝の6時と晩の6時に与えられるだけだった。

 アルブラートは、ほとんど栄養失調になりかかっていたが、自分では気がつかなかった。それまで着ていた服は、ボロボロになってしまったので、アーロンが別のものを与えたが、それも擦り切れた、灰色の上着とズボンだけだった。

 凍えるように寒い、ある朝のことだった。深夜から降り始めた雪が、朝になっても止まなかった。時折、雪は風にあおられて、彼のいる独房の小さな窓から部屋の中まで吹きつけてきた。アーロンは彼の食事が済むと、こう言った。

  「これからトラックに乗れ。昼まで強制労働だ。それが済んだら、お前は大佐の部屋で演奏しろ。お前を他の収容所に移さないのは、演奏の仕事があるからだ」

このアーロンという奴には二つの顔がある......悪魔と人間の二つの顔が......俺は、大佐に殺されても、アーロンには殺されないかも知れない......

 アーロンは、裸足の少年に、後ろ手に手錠をかけると、雪の中をトラックまで歩かせた。アルブラートは、雪の凍てつく冷たさに、足が突き刺されるように痛んだが、数分すると、しびれと共に、何も感じなくなった。

 兵士は彼が独房を出る時は、いつもこめかみにピストルを突きつけている。だが彼は、もうピストルを怖ろしいとは思わなくなった。半年間の捕虜生活の中で、以前感じていたような不安や恐怖はもはや感じなくなってしまった。心までもが、無感動と無関心の檻に閉じ込められた囚人のようになってしまった。何も疑わず、ただ食事を与えられ、黙々と命令に従うだけだった。

 トラックの荷台には、16歳から20歳ほどまでの若者たちが、10人ばかり乗せられていた。皆同じように手錠に繋がれ、目に光も無く、蒼ざめた顔色をし、死んだように無言だった。トラックは、ベト・シェアンの郊外を1時間ほど走り続けた。辺り一面、何も無い雪に覆われた荒野だった。

 急にある場所で、トラックは止まった。アーロンと、彼より年上のシャイロンという兵士が、皆にトラックから降りろと命令した。アルブラートは裸足のまま、雪の荒野に降りた。そこで手錠は外されたが、逃げ出す者がいないように、兵士たちは皆に銃口を向けていた。

 「ここはナザレの近くだ。お前たちはスコップで地面に穴を掘れ。それからあのトラックの荷台から荷物を降ろして、それを穴に埋めろ」

 アルブラートが兵士の言う方を見ると、あらかじめ別のトラックが止めてあった。だが彼は、何の荷物なのかは、別にどうでも良かった。シャイロンが投げてよこしたスコップを、無造作に掴むと、無言で地面を掘り返し始めた。

 手がかじかんで、たちまち青黒くなったが、彼は、そんなことは構わなかった。ますます激しく雪が降り始め、少年の髪や額に冷たい石のかけらのように突き当たってきた。

 2時間も掘り続けると、深さ3メートルほどの穴が出来た。今度はトラックの荷台にある荷物を、仲間と二人で、次々と雪の上に投げ降ろした。荷物は白や黒の布で包まれてあった。

 アルブラートは、ただ黙々と荷物を乱暴に掴み、次々と投げ降ろし続けた。そうするうちに、荷物の布がずれ落ちた。彼は、中に包まれてあったものを見た―それは、まだ幼い男の子の遺体だった。死んでから数ヶ月経ったものらしく、ほとんど白骨化していた。

俺はこんなに小さな男の子の遺体を投げ降ろしていたのか......この子は俺と同じパレスチナ人じゃないか......
もしかしたら、同じキャンプの子だったのかも知れない......
殺されたのか―それとも飢え死にしたのか......


 吹きつのる雪の中で、アルブラートは祈るような気持ちで幼児の遺体を布に包みなおした。だが涙は出なかった。シャイロンが、綱を投げて、「荷物」をしっかり縛るよう命令した。アルブラートは、再び無感動になっていく自分を感じた。彼は、雪にすぐ埋もれそうになる綱を忌々しげにひったくると、「荷物」をありったけの力を込めて、きついほどに縛り上げた。

 トラックの荷台から、「荷物」をあらかた地面に降ろし終わると、今度はそれらをひとつひとつ、深い穴の中に放り投げるよう命令された。投げ込む途中で、時々、布がずれたり、めくれたりすると、遺体の手や腕、裸足、頭部が垣間見えた。

 それでも彼は、もうどうでも良かった。次々と、乱暴に遺体を放り落とし続けた。白骨化していない遺体は、衣服や顔立ちで、自分と同じパレスチナ人だと分かった。だが、アルブラートは完全に無関心だった。

これが強制労働か......こんなことをさせて、俺たちがビクつくのをあの悪魔めらは笑っているんだろう......ビクつくものか......!たかがこんな仕事......死体を埋めるだけじゃないか......!
俺の方で、あいつらを笑ってやる......こんなことは平気なんだ......
ただの「荷物」じゃないか?馬鹿馬鹿しい......!


 だがそう考える自分を、別の自分が見ていることにも気がついていた。

俺は奴らに完全に「飼われている」......そうだ、「飼い慣らされて」いるんだ―こんな俺を母さんが見たら―アイシャが知ったら何て思うだろう......狂ったとでも思うかな......母さんもアイシャもきっと泣くに違いないな......

 それでも、アルブラートは涙一つ流れなかった。ただ吹雪の中で、自分と同じパレスチナ人の子供や老人の遺体を、深い穴の中に投げ込むだけだった。

Remembrance of Bethlehem-Bait Lahm★


 彼らの作業は、ますます吹雪が激しくなったため、明日以降に持ち越された。「処理すべき荷物」は、トラックの側に山積みにされていた。アーロンは、毎日イスラエル中から、「荷物」が集まってくる、と言った。彼は再び手錠を掛けられ、トラックの荷台に乗せられた。

 独房に戻ると、手錠が外され、ドアに鍵が掛けられた。少年の凍てついた髪や衣服から、雪が次第に溶け出し、石の床に雫となって滴り落ちた。

 彼は自分でも、疲れているのか、疲れていないのか、全く分からなかった。たださっきの作業光景や、自分の行ったことなどをぼんやり思い出しながら、木のベッドにゴロリと横になった。ベッド脇には、彼のウードが立て掛けられてあった―だが、もはや楽器を見ても、アルブラートは何も感じなかった。

 ベッド横の石壁には、何か文字が刻み込まれていた。以前、ここに収容されていた者が書きつけたものらしかった。

私には何の罪もない
 人を殺めたこともない
 ただ彼女を愛しただけ
 ただ彼女を慈しんだだけなのに
 おお愛しの乙女よ
 麗しい無垢な天使よ
 おおサジュラナ
 私のサジュラナ
 今お前に会いたい......


 この収容所に入れられた15歳の秋、アルブラートはこの詩を読んで、アイシャのことを想い、深い感動に打たれた。毎晩、一人になると、月明かりでこの詩を読んでは、涙をこぼした。嗚咽をこらえながら、体を震わせて泣いた。だが今は、これを読んでも何も感じなかった。

これを書いた奴は死んだのかもしれない......くだらない、陳腐な詩だな......何が「会いたい」だ......ここから出れるわけがないのに......

 彼は、詩や音楽のことなど、もうどうでも良かった。それよりも、作業のことを考えていた。タウフィークの病死や、赤十字の医師たちの銃殺の時には、「死」に怖ろしい衝撃を受けた。感受性の強い少年にとって、「死」はとても耐え難いことだった。

 だが、今では「死」など平気だった。ただ食べて、作業をし、眠るのと同じようなものだと感じた。明日もまた、同胞の人々の遺体を、あの深い穴に投げ落とすのだと考えた。

人間は死ぬとああやって、ただの冷たい石のような物体になるんだ......生きている間は温かくても......でも魂は―?魂はどこに行くんだろう......いいや、魂なんかもうどうでもいいじゃないか!そんなもの、最初からあるわけがない―それより、もっとあのたくさんの死体を見てみたい―もう一度、あの氷の石のような感触を味わいたい......


 だが急に、アルブラートは、こんなことばかりを考えている自分に気がついた。すると、自己嫌悪の念が、じわじわと全身を這い回り始めた。

俺は本当に狂ってしまったのかも知れない......俺もあいつらと同じだ......ああ、この人間の皮を被った悪魔め......!


 しばらくすると、アーロンが鍵を開けて入って来た。兵士は、ライターをつけると、煙草を吸いながら、黙って少年を見つめていた。アルブラートは相手に構わず、壁の方を向いたまま、目を閉じてベッドに横たわっていた。

 「ここは寒いな。お前も寒いか」

 アーロンは彼に起きるように言った。彼は、無言で起き上がり、ベッドに腰掛けた。以前よりも痩せたために、より一層大きく見える黒い瞳で、彼は、兵士をじっと見据えた。アーロンは再びライターをつけると、少年の両手を掴み、ライターの火をかざした。

 「手が雪で凍えるだろう。こうすれば温まる」

 アルブラートは、この兵士の行為も、大佐の命令でやっているだけなのだと知っていた。ピアニストだったというアルバシェフは、少年に演奏を強要する。演奏のために、指を温めさせろと、アーロンに命令する。

 あの残忍なアルバシェフがピアニストであったことや、自分に手錠をかけたりピストルを突きつけるアーロンが、冷酷さと人間性を併せ持つことに、アルブラートは最初の頃、戸惑った。だが今では、そういったこともすべて、どうでもよくなってしまった。

 「お前は案外気が強いな。さっきの作業を平気でやっていた。最初は誰でも、あれには気が滅入る。16になったばかりのヒヨっ子は皆あれを怖ろしがる。お前みたいな奴は初めてだな。お前は名前は何と言うんだ」

 アルブラートは、吐き捨てるように答えた。

 「名前―?俺に名前なんてものはない」

 すると、アーロンはいかにも可笑しそうに笑った。少年は、この兵士が笑うのを初めて見た。アーロンは笑いながら、煙草を口にくわえ、少年の顔を見たが、煙草をふかすのを止め、また笑い出した。

 「冗談がうまいな。誰でも名前ぐらいあるだろう―教えろよ。お前は俺が大佐の命令で、名前を訊いていると思っているんだろう。でもこれは違う。俺の個人的な興味で訊いているんだ」

 アルブラートは抑揚の無い、素っ気ない調子で答えた。

 「アルブラート」

 アーロンは煙草をふかしながら、まだ笑っていたが、少年の名前を聞くと、笑うのを止めた。兵士は彼の隣に腰を降ろすと、足を組んだ。

 「『アルブラート』か。どこかで聞いた名前だな―下の名前は?」

 「アル・ハシム」

 「『アルブラート・アル・ハシム』か。ハシムなんてアラブ人に多い名前だな。俺のおふくろを殺したアラブ人は、アブドゥラ・アル・ハシムという名前だった。お前と同じ名前だな」

 アルブラートは、いきなり叫んだ。

 「名前の話はもう止めろ!」


 アーロンは特に驚いた様子も見せなかった。ただ黙って煙草をふかしながら、いつもの無表情な青い目で、少年を眺めていた。アルブラートは憎々しげに相手を睨んでいた。アーロンは彼のその態度を見て、興味ありげに目を細め、煙草をくゆらせながら、ふふんと鼻先で笑った。

 「お前はずいぶん変わったな。最初の頃はおどおどしていた。今はまるっきり別人だな―捕虜のヒヨッ子で、俺を怒鳴った奴はお前が初めてだ。見かけによらず根性があるな。肝がすわっている。ひとつ褒美をやろうか」

 「褒美?何のことだ」
 「お前は名前のことで怒っただろう。だがそれで分かったことがひとつだけある。お前の母親のことだ。お前はおふくろに会いたいだろう」

 アルブラートは、急にマルカートのことを聞いて、ハッとした。しばらく忘れていた感情が胸に押し寄せた。母の美しい目や優しい声―温かなぬくもりを想い起こした。

母さん......!母さんが無事でいるのか......!

 「俺は大佐に、今日のお前の作業態度を報告した。そうしたら、大佐がお前の母親をエルサレムから連れてきてもいいと言った。確かお前と同じ名前の女が、ひとりだけいる。今その女はエルサレムの司令官の愛人だ。きっとお前の母親だろう」



―第15章―母の最期


The Freedom★


アーロンはそこまで言うと、立ち上がった。彼はアルブラートにウードを持たせ、ピストルを突きつけて、大佐の部屋に連れて行った。少年がいつものように、兵士に命令されて椅子に座ると、アルバシェフはギラギラ光る薄い色の目で彼を見やった。

 「墓掘りはいい気分だったか、小僧」

 アルブラートは無表情で相手の目を見た。もはや大佐の目が怖ろしいとは感じなかった。アルバシェフは、組んだ手に顎を乗せて少年を穴の開くほど眺め回した。それでも彼は目を反らさなかった。アルバシェフは薄ら笑いを浮かべると、凄味のある声でこう言った。

 「お前は死体が好きなようだな。お前は実に興味深い奴だ。俺はお前を見るのが面白い。お前の変化を見ていると退屈しない。死体を毎日見ていると人間は変わるんだ―演奏も変わる。あの作業は、言わば芸術だ。俺はお前に演奏のためのインスピレーションを与えているんだ」

 アルバシェフの言葉を聞いても、彼は何も感じなかった。ただ相手を嘲るような気持ちで、押し黙ったまま、大佐の目を見つめていた。

芸術と死体と何の関係があるんだ......死体と演奏に何の関係があるんだ......こいつは狂人なんだ―だからこんなことを言ってやがる......!

 「いつものやつを弾け。ベートーベンの『月光』だ」

 アルブラートは無言でウードを膝に乗せ、演奏を始めた。昨年の夏、この大佐の部屋で、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いた。レコードは古びており、音が歪んで聞こえた。だが、少年は西洋音楽を聴くのは生まれて初めてだった。

 オーケストラの音が大きな波となって、彼を呑み込んだ。少年は、どこか別の広大な世界にいざなわれる心地がし、不思議な感動に打たれた。その波のうねりの中から、ピアノの独奏が輝くように響き渡る―それはまさしく音の宝石だった。

 彼はその協奏曲の波に包まれていた―その間は自分が虜囚の身になったことは忘れることができた。だが、そのピアノの独奏者が、アルバシェフだと聞いた時、愕然とした。それ以来、チャイコフスキーのピアノ協奏曲は嫌でたまらなくなった。その次には、ベートーベンの『月光』を聴かされた。

 これはピアノの独奏曲だったが、初めて聴いた時には、全身が震えるほど感動した。重く、暗い闇の中に垣間姿を現す月―彼には、夜の闇が自分の辛い運命を暗示し、月の光がやがて訪れる希望のように思われた。

 ピアノの独奏曲のみなら、ウードでもその旋律を再現できると感じた。だが、やはりこの独奏者がアルバシェフであることを知り、たちまちこの曲が忌まわしくなった。

 しかしこれらの曲をレコードで何回も聴かされるうちに、嫌悪感さえも薄れていった。これは命令であり、ただ聴けばいいのだと思うにつれて、まったく何も感じなくなった。物心ついてから、音楽と共に生きてきたアルブラートは、この収容所で暮らすうちに、音楽などくだらないものだと思うようになってしまった。

こんな悪魔が音楽を聴くだなんて―馬鹿げている!こんな音楽こそが悪魔そのものじゃないか......いっそこの世に音楽などなくなってしまえばいい......!


 それでもなお、彼は『月光』を奏でていた。こんな境遇に囚われても、楽器を演奏する自分がおぞましかった。演奏の途中で、ウードを床に叩きつけて粉々にしてしまいたいという衝動に何度も駆られた。もはや彼の心の中には、音楽を愛し、命よりも大事にしてきたウードを慈しむ気持ちなどまったく無かった。ただ激しい怒りと憤りだけだった。

 彼の弦を奏でる指さばきは鋭く、激しかった。時折、弦がちぎれるかと思うほどのスピードだった。夜の闇は、ナザレの深い深い穴の闇だった。暗い空に煌々と輝く月の光は、自分が投げ落とした無数の遺体の冷たさだった。

 彼はこの光景の忌まわしさを、激しく弦をかき鳴らし続けることによって、すべて吐き捨てていた。だがアルバシェフにぶつけ続ける憎悪は、自分への忌まわしさとなって跳ね返ってくるだけだった。

 演奏が終わると、アルバシェフはしばらく無言だった。深い沈黙の中で、アルブラートは息を切らし、激しい心臓の鼓動を感じていた。額から汗を流しながらも、憎しみをこめた目で、アルバシェフを見ていた。

 「なかなかやるな。お前の腕前は確かなものだ。俺はこんなに迫力のある『月光』を聴いたことはなかった。お前のテクニックは一流だな。お前は芸術の本質を掴んでいる。俺のさっき言った意味が分かったようだな―芸術と死は表裏一体だということが」

 アルバシェフにそう言われても、アルブラートは相手の言葉の意味を理解しようとも思わなかった。

 「やはり俺の勘は当たっていたな。お前は墓穴と死体に霊感を感じた。お前の芸術のレベルが一段と冴えた。最初の頃の演奏は実に退屈だったが、今はまったく違う。このまま、ただのウード弾きで終わらすのは惜しいほどだ。明日からもお前は死体にインスピレーションを味わうだろう―実に楽しみだな」

墓掘りと死体と芸術......あの怖ろしく深い穴に無数に投げ落とされた死体......そこから何が現れるというんだ......
ただ永遠の死の沈黙―白骨と腐臭......それが俺の演奏だ―死神の演奏なんだ......


 アルバシェフは椅子に背を反らせて座っていたが、ふかしていた葉巻を灰皿でもみ消すと、今度はグラスにワインを注いだ。それを飲むと、少年をギラギラ光る目でじっと見た。彼にとって、その目はまさしく狂った人間の目だった。 

 「ところでアーロンから母親の話を聞いたか。エルサレムの司令官は最高の女を一人だけ愛人にする。小僧、明日だ。明日その女をここに連れてくる。お前の目で、その女が本当にお前の母親かどうか確かめてみろ」



 翌日の朝も、吹雪は止まなかった。アルブラートは再びナザレに連れて行かれた。一晩中降り続いた雪が、山積みにされた無数の遺体をすっかり覆い尽くしていた。まずスコップで、硬く固まった雪を掘り返さなければならなかった。そうして昨日と同じように、布に包まれた遺体を、延々と深い穴の底に投げ降ろし続けた。

 昨日とは違い、まだ死んで間もない少女や、若い女性の死に顔までもが、投げ込む瞬間に布の間から見えた。彼は、ぼんやりとアイシャのことを考えた。アイシャも、もしかしたら、こんな姿にとうに変わり果てたかも知れない―だが不思議と何の感情も沸き起こって来なかった。

 昼過ぎに、ベト・シェアンに連れ戻された。独房に閉じ込められると、彼はベッドに横になった。空腹と疲れから、急に眠気に襲われた。だが、少しうとうとしたかと思うと、アーロンが独房にいきなり入って来た。アーロンは、「例の女」が来ていると言って、アルブラートにウードを持たせ、ピストルを突きつけると、大佐の部屋に連れて行った。

 少年は、椅子に座らせられると、兵士に「前を見ろ」と命令された。アルブラートは疲れた顔で、言われた方を眺めた。彼は突然、驚愕した―半年前に別れた母が、そこにいたのだった。

ああ......!母さん......!本当に母さんじゃないか......!

 マルカートは、アルバシェフの座っている隣に立ち尽くしていた。彼女は金糸の刺繍がほどこされている、黒く立派なドレスを着ていた。白い真珠のイヤリングとネックレスを身につけていた。輝く黒髪は、きれいに手入れされ、腰の辺りまで長く伸ばしてあった。目が覚めるほどの美しさは、以前とまったく変わらなかった。

 だが彼女は、息子のやつれ果てた、蒼ざめた痛ましい風貌に、ショックを隠しきれない様子だった。すっかりすさんだ別人のようなアルブラートの表情に、この半年間、息子の身に何が起きたのかを瞬時にしてすべて理解したマルカートは、目に涙を浮かべた。

 母と息子は、無言で見つめ合っていた。アルバシェフは、ふたりを見比べると、ぶっきらぼうな口調で言った。

 「なるほど―よく似ているな。特に目がそっくりだ。おい女。このガキはお前の息子か」マルカートは、震えながらうなずいた。

 「おい小僧。この女はこれまでで最高の『逸品』だ。だから司令官の目にすぐ留まった。最高の服を与えられて、最高に大事にされた。だがここに来たということは、もうこれは用済みということだ―この意味が分かるか」

 アルバシェフは立ち上がり、マルカートの両手首を乱暴に掴んで後ろに回すと、いきなり手錠を掛けた。そして壁に掛けてあった猟銃を取ると、アルブラートの方に歩いてきた。彼にウードを床に置くよう命令すると、その猟銃を少年に持たせた。銃はずしりと重たかった。アルブラートは、ゾクッとした。

 「これからお前に極上の楽しみを与えてやる。お前は、自分でこの女を殺せ。分かったな」

 これを聞いたアルブラートは、稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。

「殺す」......俺が母さんを「殺す」......?

 「猟銃は初めてか。こう持って構えるんだ。引き金はここだ」

 アルバシェフは、彼の後ろに回り、猟銃を無理やり構えさせた。少年は、首を激しく振り、全身をわなわな震わせていたが、床にくず折れると、顔を覆って大声で叫んだ。

 「嫌だ!嫌だ!嫌だ!」

 久しく泣いたことのなかったアルブラートの目から、涙がほとばしり出た。アルバシェフは、少年を怖ろしい力で引きずり起こすと、彼の頭を血が出るほど殴りつけた。そうして再び、猟銃を構えさせた。大佐は、少年の痩せ細った震える指を、無理やり引き金に当てさせた。

 「またもとの臆病風が出てきたか。獲物をしっかり見て撃つんだ。引き金にうんと力を込めて撃て」

 アルブラートの指を、アルバシェフのがっしりした指が押さえ込んだ。少年は、涙でぐしょ濡れになった顔で、母を見た。マルカートの目から、涙が頬を伝って流れ落ちていた。だが彼女は、息子をしっかり見据えると、かすかにうなずいた。

 アルバシェフの指にぐっと力が込められた。その瞬間、大きな銃撃音が室内に響き渡った。マルカートは声もなく、どさりと倒れた。彼女の立っていた背後の壁に、血痕が飛び散った。大佐は、彼女のそばに近寄った。彼女はまだ完全に死んではいなかった―ただ、目と唇をかすかに開けていた。その唇が小刻みに震えているのを見ると、大佐は再び大股で少年の所にやって来た。

 「まだ生きている。だがもう虫の息だ。おい、今度はお前が一人でやれ。心臓をしっかり狙って撃て」

 アルバシェフは、震えながら必死で首を振るアルブラートに猟銃を持たせると、母の側にずかずかと少年を引っ張っていった。アルブラートが母を見ると、彼女のかすかに開いた目は、息子をじっと見つめていた。その目には祈るような表情が浮かんでいた。だがそれは、尚も息子を深く愛するまなざしだった。

 「お前は死体を見たいだろう―最高の美しい死体が出来上がる」

 大佐は少年の肩を掴むと、地獄の底から響くような声でこう言った。アルブラートは絶望の淵に立っていたが、この言葉を聞くと、再び無感動に急に襲われた。彼は、いきなりアルバシェフの手を乱暴に振りはらった。そうして猟銃をしっかり構え、母の心臓に狙いを定めると、力を振り絞って、続けざまに3発撃ち込んだ。

 凄まじい銃声だった。マルカートの体は一瞬ばねのように跳ね返ったが、ついにこと切れたらしく、微動だにしなくなった。

やっと死んだか......やっと殺すことができたのか......

 アルブラートは、無言で母の遺体を見下ろしていた。

 半年前まで、いつもそばにいた母―幼い時、いつも優しく抱きしめてくれた母―自分の演奏をいつも微笑んで見守ってくれていた母―その思い出が、走馬灯のように彼の頭にぼんやりと浮かんだが、それはすぐに現実にかき消された。ただ、彼の目の前にあるのは、氷のように冷たい、最高に美しい死体だった。


The Relief of Greek Mythology★


 翌朝、尚も続く吹雪の中を、アルブラートはナザレに連れて行かれた。トラックの荷台には、黒い布で包まれたマルカートの亡骸が積み込まれた。共に荷台に乗せられていた、他の若者たちは、怖ろしげにそちらを見やったが、相変わらず、皆押し黙っていた。アルブラートは無表情でその黒い布を見つめていた。

 ナザレに2日前掘った深い穴には、さらに雪が降り積り、凍っていた。それを再び掘り起こすと、アルブラートは運んできた母の遺体を、ひとりで荷台から雪の上に投げ落とした―まるで他人のように。そうして、それをただの「荷物」のひとつのように、自ら穴の中に放り込んだ。亡骸は、穴の深みの中に吸い込まれるように落ちて行き、他の遺体の上にガサッと嫌な音を立てて積み重なった。

 それが済むと、囚徒たちは、またいつものように、他の遺体を次々と穴に投げ込み続けた。穴が完全に埋まってしまうと、その上に雪をかけて固めた。2日前に掘った穴は、こうして完全に雪の荒野の中に埋もれ、跡形も無くなった―まるで始めから何も無かったかのように。その後は、再び昼過ぎまで、別の箇所に穴を掘る作業が続いた。

 アルブラートは独房に連れ戻されると、ベッドに仰向けに寝転んだ。一つ作業が済んだ―そう思い、目を閉じた。すると、まだ幼い5歳の時のことが浮かんできた。エイン・ゲディで父のバシールが死んだ。あの時も雪だった。

あの時......母さんは泣かなかった.......父さんの体に雪をかけていた......確か俺が言ったんだ―「お墓を作ってあげよう」と......俺がひどく泣くのを、母さんは抱きしめてくれた......母さんは木の枝を雪の墓の上に立てていたっけな......

 幼い頃の記憶を辿っていることで、彼は何か自分が「許される」ような思いがした。自分の行為はすべて許され、誰からも咎められないと感じた。父と母が自分を永遠に愛し、見守っているように感ぜられた。だが、突然、ベッド脇の壁に刻まれた詩の一節を思い出した。

私には何の罪もない
 人を殺めたこともない
 ただ彼女を愛しただけ
 ただ彼女を慈しんだだけなのに......


 ほんの2日前は、この詩をくだらないと侮蔑した。だが今度は、この詩が自分を侮蔑し、自分の「罪」を糾弾しているように思えた。

こいつは「人を殺めたこと」がなかった......
でも俺は母さんを殺した......本当の殺人を犯した―この罪は一生消えない―たとえ誰にも話さなくても―俺の手は一生血まみれのままなんだ......


 アルブラートは、何か重い岩が頭にのしかかり、自分を怖ろしい力で抑え込んでいるような気がした。だが鍵を開ける音がし、いつものようにアーロンが入ってくると、再び現実に戻った。彼はゆっくりと体を起こし、ベッドに座ったが、相手の方は見ようとしなかった。

 「手を貸しな」

 アーロンがライターに火をつけ、彼の手を掴んだが、アルブラートは荒々しく相手の手を振りほどいた。アーロンは黙って、彼の隣に座り込むと、その火で煙草をふかし始めた。

 「手が青黒いままじゃ、演奏はできないな。お前は演奏しないのか」 

 アルブラートは何も答えなかった。

 「演奏しろというのは命令だ。命令に従わないとお前は殺される」

 「......殺せばいい......」

 アルブラートは低い声で呟いた。アーロンは煙草をふかしながら、少年の方を無言で見つめていた。

 「バカ言うな。捕虜なんて『生かさず殺さず』だ。『飼い殺し』だ。お前は母親が死んだからヤケになっているんだろう」

 兵士はそう言うと、煙草を床に投げ、再びライターに火をつけた。そうして、少年の手首を乱暴に掴むと、その火を彼の手にかざして温めた。アルブラートは今度は抵抗しなかった。

 「お前の母親はすごい美人だったな。だがお前も最高に気が荒い奴だな。何も3発も撃ち込む必要はなかったんだ。やっぱりお前はアラブ人だな。獰猛で残酷で野蛮な血が流れている。母親が死んでも泣きもしない」

 アーロンにこう言われても、その声はどこか遠くからこだましてくるようにしか聞こえなかった。大佐の部屋に連れて行かれても、どこを歩いているのか分からなかった。足は雪で凍った石の床を踏みしめてはおらず、宙を歩いているように感じた。

 大佐の部屋に入ると、正面の壁には昨日の血痕がおびただしくこびり付いたままだった。それを見ても、アルブラートは何も感じなかった。ただ壁の模様のように思われるだけだった。演奏をいつものように始めても、それを弾くのは自分ではないと思った。ただ指を、機械じかけの人形のように動かしているだけだった。

 大佐が何かを言ったようだったが、もはや何も聞こえてこなかった。彼は再び独房に連れ戻されたが、その後のことは覚えていなかった。晩の食事も手をつけずに、ベッドに横たわり、すぐに眠ってしまった。それは苦痛に満ちた眠りだった―体が燃えるように熱く、息苦しい。その中で、亡くなった母が自分を祈るような表情で静かに見つめていた。

ああ......母さん......そんな目で見ないでくれ......もう俺を愛さないでくれ......

 その夢の中で、何か銃声のような音が響いてきた。それは途切れることなく続いていた。建物が爆音で崩れ落ちる音や、大勢の人間が走り回る音がしたかと思うと、再び銃声が響いた。そうして、誰かが独房の鍵を銃で壊し、自分のそばに駆け寄る気配を感じた。彼はこんな声を聞いた―

 「まだ生きている!まだこの子は生きている!」

 その声の主が、自分をがっしりと抱きかかえて、外に連れ出すのを感じた。アルブラートは全身が火照るように熱かったが、戸外の寒さに目を覚ました。うっすらと目を開けると、誰か知らない黒い目の青年が、自分を心配そうに見つめていた。

 その青年は、外に停めてあったジープの後部座席に少年をそっと寝かせ、暖かい毛布を3枚ほどかけた。アルブラートは、熱で苦しく、何も話すことができなかった。

 「これはひどい熱だ―早く病院へ!」

 その言葉は、アラビア語だった。青年は、走り出したジープの中で、少年の額に冷たいタオルをあてがい、しっかりした口調でこう言った。

 「私たちはシリア・アラブ連合の解放軍だ。捕虜にされている難民の人々を助けに来た。この収容所はもう私たちが破壊してなくなった―ただ君一人だけが助かった。君はもう捕虜なんかじゃない―完全に自由の身なんだ」



―第16章―救出:シリア ガリラヤ湖 1959年春


The Ancient Ruined Shrine★


A Portrait of Syrian Combatant★


アルブラートは、この青年の言葉を聞きながらも、もう目を開けているのが苦しくなり、再び目を閉じた。ただ、今の言葉が頭の中にかすかに残った。

完全な自由......もう捕虜じゃない......

 アルブラートはそれから1年間、シリアのガリラヤ湖畔に建てられた連合軍病院で看護を受けた。救出された直後は、高熱にうなされ、全く声が出ず、物音もほとんど聞こえない状態だった。ただ、時折診察に訪れる医師や看護士たちの言葉が、途切れ途切れに聞こえた。

 「ひどい目に......飢餓......栄養失調......肺炎......熱病......助かるかどうか......」

 実際、彼は何度も危篤状態に陥った。いったん、ダマスカスの市立第1病院に運ばれ、そこで集中治療を受けた。彼の高熱はなかなか治まらず、医師たちは後遺症を危ぶんだ。解放軍の青年は、アルブラートのウードを大事に持ち出していたが、医師団はあの少年が弾くものらしいと察すると、心を痛めた。

 「ひどい高熱が続くと、万一の場合には、耳が不自由になったり、半身不随を引き起こしたりする。そうすると、腕や指が麻痺し、自由に動かなくなる恐れがある。あの子は、もう楽器は弾けないかも知れない―可哀想だが」

 だが、医師たちの必死の治療で、彼の高熱は徐々に治まり、1ヶ月ほど経つと、意識も徐々にはっきりとしてきた。だが、なかなか声が出ず、話をすることができなかった。医師たちは、彼の年齢や名前など、簡単な質問を試みた。アルブラートは、何を訊かれても、ただ黙って首を振った。

 「君は私たちの言うことがはっきり聞こえるんだね?それではここに名前と年齢を書いてごらん」

 アルブラートはうなずいて、ペンを手に取ったが、思うように手が動かなかった。何度もペンを落としながら、それでも懸命に書こうとした。やっと書くことのできた文字を見て、ようやく医師たちは、少年の名と年齢を理解した。

 高熱が下がり、意識もあるが、ただ話すことができず、手がうまく動かない―少年に、身体的な後遺症が特に残っていないことを確かめると、医師たちは、残りは心の問題だと判断した。

 「戦争や人の死などを見たりすると、心に深い傷跡が残るものだ―相当あの収容所でひどい扱いを受けたか―それとも死ぬほどの恐怖を味わったか―大人でさえおかしくなってしまうものだ。ましてやあの子はまだ16歳なのだからな」

 アルブラートはその後、ガリラヤ湖畔の病院に戻り、ゆっくりと保養することを勧められた。病室の南に面したベッドで休んでいると、湖の静かなさざ波や、猟師たちの漕ぐ舟の音が聞こえて来た。窓を開けると、湖のほとりに咲き始めた花々の芳しい香りが、暖かくゆるやかな風に乗って漂ってきた。彼は、何ヶ月かぶりに、季節というものを感じた。

もう春になっていたのか......

 ふと枕元を見ると、ウードがきれいに磨かれて、サイドテーブルに立て掛けてあった。それを見ると、急に収容所での忌まわしい記憶が甦ったが、アルブラートは目をぎゅっとつぶり、その記憶をもみ消そうとした。それよりも、2年前の、アルジュブラ渓谷でアイシャの歌を聴き、演奏をしたことを頭に浮かべようとした。まだ手や指が自由に動かないことを考えると、ウードを弾くことはもうないかも知れない、とも考えた。

それならそれでもういいんだ......
ウードを弾くときっと辛いことを思い出してしまう......もうウードを弾くことはあきらめた方がいいんだ......


 だが時折、どうしてもウードを弾きたくてたまらなくなる時があった。

自由にこの指が動きさえしたら......!なぜこうなってしまったんだろう?熱のせいなんだろうか......ああ、自由にウードを弾いてみたい......!きれいな音楽に触れてみたい......


 ある日、アルブラートは、看護士のマフムードに身振りでこのことを伝えた。マフムードは、22歳ほどの青年で、優しく親切だった。彼は、少年の希望をすぐに受け入れてくれた。彼は、数日すると、新品の小型のレコードプレイヤーを少年の枕元に運んできた。そのプレイヤーは収容所で見た黒く錆びたものとは違って、つやつやとした木製だった。それを見て、アルブラートはほっとした。マフムードは、フランス製だと言って笑った。

 「君はウードが好きだったね。でもカーヌーンのレコードもあるんだ。カーヌーンの方を、先に聴いてみたいかい?」

 アルブラートはうなずいた。マフムードは、レコードに針をそっと下ろした。すると、長い間聴いていなかった、カーヌーンの美しい響きが魔法のように流れ始めた。金色の細い細い糸が、煌きながら、静かに空から舞い降りてくる。少年は、目を閉じて、その懐かしい旋律に聴き入った。

まるで父さんが弾いてくれているようだ......


 このカーヌーンの音色は、アルブラートの、収容所での凍りつくような恐怖を徐々に溶かして行き、真に自由に心を解放していった。彼は、目を閉じながら、気づかないうちに、ベッドの上で指を自在に動かしていた。そのなめらかな動きに、マフムードは驚いた。

 曲が終わると、彼はレコードを止めて、少年の手を優しくとると、やや興奮した口調でこう言った。

 「アルブラート......!指が動くじゃないか!君はカーヌーンも弾いていたのかい?」

 マフムードにこう言われて、彼は驚き、思わず呟いた。

 「指が動いた......?本当に?」

 それは、少年が入院して、初めて口にした言葉だった。マフムードは感激して、アルブラートの肩を抱き寄せた。

 「君はもう声が出るじゃないか......話もできるじゃないか!もう君の心は立ち直ってきたんだ―アルブラート......!」



 マフムードがあんまり喜ぶので、アルブラートは少し気恥ずかしかったが、相手の笑顔を見ていると心が和み、にっこりと微笑んだ。同時に、長い間笑うこともなかったと思い、涙がうっすらと浮かんだ。マフムードは、少年が初めて笑顔を見せたことにも、感動と喜びを隠せなかった。

 「君の笑顔は最高に素敵だね、アルブラート......!笑うだけでも大きな進歩だ!今日、君は指が動いて、声が出て、笑うことができたんだ!今日は記念すべき日だ!」

 アルブラートは、もう二度と無理だと思っていた声が出たことも、嬉しかった。アラビア語が再び自由に話せることにも、大きな開放感を味わった。
捕虜となっていた半年間は、英語以外の言葉を禁じられていた。

自分の国の言葉を自由に話せることがこんなに嬉しいなんて......キャンプにいた頃は気がつかなかった......

 それでも、アルブラートは、実際にスプーンやペンを持って、自由に動かせることはまだできなかった。何かを持って、動かそうとすると、すぐにへとへとに疲れてしまう。マフムードは、肺炎と熱病が治ったばかりだから、まだ無理だろうと言った。彼は、少年に食事を食べさせ、毎日少しずつ、物を持たせる練習をさせてくれた。

 アルブラートにとって、1日3回、おいしい食事を取ることができるのは、ほとんど生まれて初めてだった。

母さんだって、こんなにおいしい食事は食べたことがなかったかも知れない......

 温かく、優しい人々に囲まれ、大事に看護されている今の自分の生活に、彼は感謝すると同時に、この苦痛のない生活が、辛い過去をすべて押し流し、覆い隠してくれるような気がした。だが安定した心で食事を取ると、必ず母の面影が浮かんできた。なぜ母が今ここにいないのか―彼はそのことを敢えて考えまいとした。目をつぶり、母は生きていると必死で思い込もうとした。

 アルブラートが、ようやく自力で食事をし、ペンで字を書けるようになったのは、その年の夏だった。まだ歩くことは無理だと医師から言われていた。彼は、美しいガリラヤ湖を眺め、カーヌーンのレコードを聴きながら一日を過ごした。

 夏の半ばになると、マフムードがくれたノートに、アルブラートは再び詩を書くことを始めた。長い詩は疲れるために、ほんの数行書き留めるだけだったが、ノートにペンで自由に字を書くことも、生まれて初めての経験だった。詩を書くことは、彼にとって、大きな慰めだった。

太陽の光に煌く湖
 木立を滑りゆく白い霧
 アネモネが花咲き香るところ
 そこに黒い瞳の少女がいる
 金貨の飾りを額に輝かせ
 恋人の訪れを待っている......


 書き終えると、ひどく疲れて、ベッドに横になるが、疲れがとれると、自分の書いた詩をまた眺めた。彼の心の中に、アイシャへの想いが、泉のせせらぎのように静かに湧き起こってきた。

アイシャはどうなったんだろう......
キャンプが焼き払われて―あんな混乱の中で......目の見えない独りぼっちのアイシャが、いったい無事でいるなんて......そんなことあり得るんだろうか......


 そう考えると、「アルジュブラ難民キャンプでの犠牲者や行方不明者は200人以上らしい」と医師たちが小声で最近話していたことを思い出し、気持ちが乱れた。アルブラートは彼女の愛らしい瞳や、きらきらと光る黒髪や、美しい歌声―抱きしめた時の細い体のぬくもりを想った。詩のノートを閉じ、枕の下に押し込むと、毛布を被って横になった。涙がこぼれて止まなかった。

きっとアイシャはもう死んだんだ......あんなにアイシャを愛していたのに......

Aysha in 1959★


 翌日、マフムードは、外出許可がおりたと言って、病室に車椅子を運んできた。いつも彼を見ると笑顔になる少年が、沈んだ表情でいるのに彼fは気がついた。

そう言えば、アルブラートのことは名前と年齢しか知らないんだったな......家族や友だちの話も聞いたことがない―難民キャンプで育って、あんな捕虜収容所に捕らえられていたんだ......この子は天涯孤独なのかも知れないな......

 マフムードはそう思い、少年の身の上は何も聞こうとしなかった。それよりも、車椅子に乗せて、湖畔を散歩させれば、気分転換になるだろうと考えた。

 アルブラートは、救出された時はひどく痩せ細り、顔色も死人のように蒼ざめていたが、この半年間の看護で、健康を徐々に取り戻していた。顔色も血色が良くなり、黒髪にもつやが出てきた。母親譲りの華やかで美しい黒い瞳にも光が戻った。だがいつも孤独な翳りがその瞳に宿っていた。

 マフムードに車椅子に乗せてもらい、後ろから押してもらいながら、湖畔をゆっくり散歩していると、夏の日差しをまぶしいほど感じた。アルブラートは、久しぶりに夏のさわやかな空気を胸に吸い込んだ。だが、突然、キャンプが占領された去年の夏を思い出した。彼は目をつぶって、あの怖ろしい記憶をかき消そうとした。

 その時、湖畔から聞き慣れない言葉が聞こえて来た。声のする方を見ると、看護婦たちが3人ほどで、何かお喋りをしては笑っていた。彼女たちの話す言葉はまったく意味が分からなかったが、その言葉の響きは、アルブラートにはまるで美しい音楽のように思われた。

 「フランス語が珍しい?アルブラート」

 マフムードは車椅子を押すのを止めて、少年に声をかけた。アルブラートは、彼の方を振り向いて見上げたが、再び看護婦たちの言葉に聴き入った。

 「あれは......フランス語なんですか」

 「彼女たちはフランス人だからね。シリアにはフランス人が多いんだよ」

 「どうしてフランス人がそんなに?」

 「以前、シリアはフランスの委任統治領だったんだ。それに、今はイスラエルの爆撃で無くなってしまったけれど、昔ダマスカスの街にシリア高等音楽院があったんだ。アラブの伝統音楽だけではなくて、ラテン語の賛美歌や、フランスやイタリア中世の楽曲を研究する所だった。それで、フランスから数多くの音楽教授がシリアに招かれたんだ」

 アルブラートは、音楽院に進み、将来正式に音楽を勉強したらどうかと13歳の時、タウフィークに勧められたことを思い出した。彼は、音楽院に入り、徹底的に勉強をしたいという気持ちに再び駆られた。

 「シリアには―他に音楽院はあるんですか」

 「残念だけど、もうないんだ。アルブラート、君は音楽院で勉強したいんだろう?」アルブラートは強くうなずいて、目を輝かせた。  

 「ぜひ―出来ることなら......!勉強がしたいんです......!」

 マフムードは、こんなに夢中に、熱心に話をする少年に驚いた。何かを夢中で勉強することで、少年の心に尚も残る深い傷は癒されるのではないかと思った。

 「音楽院なら―そうだ、レバノンの音楽院がある。ベイルートの音楽院は一流だよ。あの街は中東のパリだからね。音楽院で勉強するなら、英語とフランス語は知っておいた方がいいだろうね。アルブラート、英語はどこかで習った?」

 「......キャンプで......キャンプに英語の先生がいて、7歳から14歳まで習いました―だから英語はできます」

 「じゃあ、もう少し元気になったら、ここでフランス語の勉強を始めたらいいね。近くの教会にフランス人の先生がいるから、早速頼んでおくよ」

 アルブラートは、秋の終わり頃には、車椅子を離れて、少しずつ散歩ができるようになった。彼の体調がだいぶ良くなったのを見て、医師がもう勉強しても大丈夫だろうと笑った。その年の12月になると、病室にフランス人の教師が訪れた。

 少年の非常な熱意は教師を驚かせた。最初の1ヶ月で、基本文法と単語はたちまち覚えてしまった。1959年の1月になり、アルブラートは17歳を迎えた。フランス語の勉強は、彼にとって新鮮な喜びだった。新しい言語の習得と、音楽院への夢に希望を抱くことで、彼は過去の苦しみから遠ざかろうとしていた。


●Back to the Top of Part 4




© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: