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砂漠の果て(第5部「邂逅」)
第五部「邂逅」
―第17章―レバノンへの旅立ち:1959年夏
ガリラヤ湖のほとりには、2月になると雪が降った。アルブラートは、フランス語の教師に毎日来てもらい、熱心に勉強を続けていた。最初は朝の9時から11時までだったが、彼の熱心な要望で、午後の2時から4時までも授業を受けた。
フランス語の基本会話は1月の終わりにはマスターしてしまった。外は寒く、散歩ができなかったが、アルブラートにはそれが好都合だった。雪の中を歩くほどの体力はまだ回復していなかったし、雪を見ると、1年前の収容所を思い出すからだった。
だが、勉強熱心なあまりに、2月の中旬頃、熱を出してしまった。医師は疲れと風邪から来る熱だと言って、2週間ほど勉強を止めて安静にしているようにとたしなめた。マフムードは「勉強熱」だと言って笑った。アルブラートはおとなしく言われた通りに寝ていたが、早く勉強を再開したくてたまらなかった。
熱が下がると、再び勉強を始めた。だが医師の配慮で、午前中だけに留められた。教師のデュラックは、アルブラートが詩を好きなことを知り、ある日、英語の詩集を渡した。
「この詩をよく読んでごらん。意味が呑み込めたら、それをフランス語に訳して、ノートに書いてごらん。英語とフランス語を比較することで、よりフランス語の味わいが深まるものだよ」
アルブラートは、英語と聞くと、収容所での苦しい記憶が一瞬甦った。だが、これは勉強なのだと自分に言い聞かせた。そして、昔タウフィークに英語を教わっていた時の楽しい思い出を思い浮かべようとした。デュラックに言われた詩は、こう書かれてあった。
おお薔薇よ、お前は病んでいる!
吼え猛る嵐の中
夜中に飛ぶ目に見えない虫が
紅の悦びのお前の床を見出した
そしてその暗い秘められた愛は
お前の生命を滅ぼすのだ
(*)
彼は一瞬、狂おしいまでの愛と嵐の官能的なイメージに突き刺される心地がした。だが同時に、「薔薇」と「滅びる命」という言葉にゾッと寒気を感じた。
母さんは薔薇のようだった......でも薔薇は血の色をしている......どんなに美しい薔薇でもいつかは病んで萎れていく......誰でもその命はいつかは絶たれてしまう......
彼の脳裏を母の死のイメージがうっすらとかすめた。
馬鹿な......!母さんは「生きている」んだ......
デュラックは、彼の持つペンがかすかに震えているのに気がついた。
「どうかしたかね?また具合が悪いんじゃないかね?」
「いいえ―ちょっと......どう書いたらいいかと思って......」
デュラックは、いつもは聡明で頭の回転の速い少年が戸惑っている様子を不思議に思った。アルブラートは教師をそっと見上げたが、黙ってまた詩篇に目を落とした。
「これはイギリスのウィリアム・ブレイクの詩だ。君はこの詩にどんなイメージを感じたかね?そのイメージをフランス語に表現してごらん」
アルブラートはためらっていたが、感じたままに答えた。
「美と......愛の喜びと......破壊と......そして死です―」
「そうだね。なかなかうまくイメージをとらえているね。でも君の言う『破壊』というのは何の『破壊』を意味しているのかね?」
アルブラートは答えにくそうに黙っていたが、静かに言った。
「『破壊』は......『命の破壊』―『死』のことです......」
「そう。そうとも言えるね。だがここでいう『嵐』は『破壊』とも受け取れるが、『愛の激しい生命力』ともなるように、『破壊』とは何も『暴力による破壊』や『死』そのものを表わすわけではない。詩人の『精神の破壊』―すなわち『霊感の枯渇』ともなる。まあ詩の解釈はいろいろだ。大事なのは、詩を読んで、どんなイメージを心に湧き起こすかだね。それでは、君のイメージが壊れないように、この詩をフランス語に訳してごらん」
アルブラートは辞書を引きながら、その詩をフランス語に訳した。デュラックは、その出来栄えに少年の才気を強く感じた。彼は、アルブラートに訳した詩を音読させた。その発音が、ますます冴えわたり、洗練されてきたのに教師は感動した。
「君は実に語学の才能が優れているね。確かあの楽器も演奏していたんだろう?音楽に才ある者は、音に対する感受性が鋭く豊かだ。君のフランス語の上達の早さは、音楽の才能と深い関係があるんだよ。それで、フランス語に訳してみて、英語と比べて、君はどう感じる?」
アルブラートは、英語は明瞭で意味が露わ過ぎるが、フランス語に表現すると、全体の雰囲気が柔らかくなると感じた。
「英語では......『愛』や『嵐』が『死』に直接結びついて、硬い感じがしました。でもフランス語では言葉の響きが柔らかいので......同じ意味でも、不思議と『嵐』の暗さも『生命の滅亡』も恐怖感が消える感じです」
「なるほどね。どう感じるかは君の自由なんだよ。だが言葉の持つ力というのは、英語でもフランス語でもアラビア語でも同じだ。美しいものは美しいし、怖ろしいものは怖ろしい。しかし、君には驚かされるね、アルブラート。自分の感じた内容を、よくもこんなに短期間でフランス語で達者に表現して、話せるようになったものだ―君は実に優秀な生徒だよ」
その日の午後は、しばらく体を休めていた。外の雪景色は見たくないので、窓のカーテンを閉めてしまった。アルブラートは、教師のデュラックから言われた言葉を思い起こしていた。
「詩人の精神の破壊」......「霊感の枯渇」......
詩人も霊感を失うと何も書けない―精神が破壊されると創作の喜びも失ってしまう......きっと音楽も同じことなんだ......
彼は傍らのウードを眺めたが、すぐに目を反らした。手や指が自由に動くようになっても、まだ演奏にはためらいがあった。
音楽院に行きたいと自分から言い出したんじゃないか......それなのに弾きたい気持ちが萎えているなんて......こんなままじゃだめだ......いくらフランス語を勉強しても......
アルブラートは焦りを感じたが、やはりどうしてもウードを手に取る気になれなかった。仕方なく、演奏のことは考えず、詩集を読んで気を紛らわそうと思った。彼は、サイドテーブルに置いたブレイクの詩集を手に取り、少しベッドから身を起こし、パラパラと頁をめくってみた。すると突然、こんな詩篇が目に飛び込んできた。
幼児の悦びは美しいが
その解剖は怖ろしく、ぞっとさせ、致命的である!
その中にあなたは暗い絶望と
永遠に心に抱く憂鬱以外の
何も見出さないだろう!
(*)
彼の心に、いきなり1年ほど前のナザレの光景が鮮明に浮かび上がった。あの時、自分が何をしたかをはっきりと思い出した。自分と同じパレスチナ人の幼児の遺体―白骨と化した幼い男の子の遺体を黒い布に包み、乱暴に縄で縛り、深い穴に投げ込んだ―あの時の自分を思い出した。彼は詩集をテーブルの引き出しにしまい込むと、ベッドにもぐりこんだ。
ああ......!この詩はなんて嫌な詩なんだろう......!「解剖」―「暗い絶望」―「永遠の憂鬱」......まるで俺の行為が裁かれているようだ......こんなに救われない気持ちになるなんて―でも死んだあの子は―もっともっと救われないままで......暗い地の底にいるんだろうな......
アルブラートは再び身を起こし、じっと静かに考えていた。そうして、テーブルの上に置いたままだったノートを取ると、ペンをインクに浸した。彼は、あの幼子に対する気持ちを、詩として書き始めた。彼は、強く湧き起こる贖罪の心を綴ることで、幼子に許しを請い願い、また自分の行為も許されるようにと祈った。
緑の大地を踏みしめ走った足よ
オリーブの香りを吸い込んだ小さな胸よ
泉の水を注いだ柔らかなつぼみの手よ
ほがらかに笑みをたたえた花の唇
母のぬくもりに輝いたつぶらな瞳
この世が永遠に続くと信じた瞳
その瞳は今何を見るだろうか
神があの子を優しく見守る姿
あの子は今神を見ただろうか
あの子は今永遠の命に生きるだろうか......
(*)土屋繁子著『ブレイクの世界』より
アルブラートは、暖かな日差しを感じる4月になると、再びウードを弾いてみたいと思うようになった。ウードは、彼が眠っている間に、マフムードがいつも埃を払い、きれいに磨いていた。だが少年に気を遣い、彼がまた弾く気が起こるまでそっとしておこうと思い、その後は必ず布をかけていた。
フランス語の美しい響きや、小鳥のさえずり、ガリラヤ湖の湖水の光などを耳にし、目にするうちに、次第に彼は、心の中に膨らむ想いを演奏に託したいと感じ始めた。母への想いは、心の奥に封じ込めたままだったが、死んだ小さな男の子への贖罪の詩を書いた後、重たい門の扉がわずかに開かれ、光が差し込むように思われた。
あの子は神のもとで生きている......俺の罪も神の大きな手で許されて......遠い遠い空へとかき消されていったのかも知れない......
彼は、去年マフムードから渡されたまま聴かなかったウードのレコードを
プレイヤーにかけると、静かに針をおろした。レコードはゆっくりと回転し始めた。どこかのコンサート会場で録音したものらしく、人々の静かなざわめきが聞こえたかと思うと、ウードの独奏が始まった。それはアルブラートにとって身震いするほど懐かしい響きだった。
その旋律は、彼の孤独な気持ちを深めていった。途中でまるで希望に出会うような、心が高揚するメロディーに変わるが、再び孤独な魂が彷徨するかのような旋律を奏で続けた。彼はその孤独の世界に浸ることが心地良かった。その曲が終わると、レコードを止めた。今の演奏は、アルブラートに孤独の完成された美の啓示を与えた。
彼は、自分のウードを思わず手に取り、膝に乗せた―もはや、ウードに触れても、収容所の恐怖は湧いて来なかった。彼は自分の孤独そのものではなく、「孤独の美しさ」を演奏として表現しようと試みた。彼はウードに吸い込まれるように、弦をゆっくりと奏で始めた。
彼の指は自在に動き、弦をはじく力は昔以上に強く、鋭く、そして正確だった。彼は演奏に自分の魂を吹き込むことで、心が広々と自由に解放されていくのを感じた。彼は自ら想い描く「孤独」を、演奏により、完璧な独自の世界へと形成していった。その中には、死んだ小さな少年への哀悼の念が深く込められていた。また、広漠とした雪原の冷たさへの畏怖と、幼子を包み込む神の優しさのイメージとが描かれていった。
その曲を弾き終わると、アルブラートは不思議なまでに自分のすべてが満たされたように感じた。疲れはなかった。再び、同じ曲を奏でた。すると曲全体の色調が微妙に変化し、より繊細になり、研ぎ澄まされたものになった。彼はこの曲はこれで完成したと思った。
もう大丈夫だ......もう迷いがない―昔と同じように自由に弾けるんだ―
急に背後で拍手が沸き起こった。振り向くと、医師とマフムードとが微笑んで病室の入り口に立っていた。マフムードは彼のそばに歩み寄ると、その細い手を握り締めた。
「素晴らしい演奏だった......!ついにこの日が来たね―君が自由にウードを弾ける日が......!」
医師は、アルブラートの肩に手を置き、優しく語りかけた。
「1年前の冬、君は死の淵を彷徨っていた。ひどい熱で、その手や指も一時は動かなくなった。だが君は立ち直った。今では、君の心と体は完全に自由になった―アルブラート、君は君自身をすっかり取り戻したんだよ。もういつでも音楽院に入学できる。好きな勉強を思う存分やりなさい」
再び夏が訪れた。7月のある日、デュラック教師は、アルブラートにプレゼントがあると言って、にっこり笑った。
「君は今まで私が教えた中で、最高に優秀な生徒だった。それにここ3ヶ月の間、君の素晴らしい演奏を何回も聴かせてもらったからね。これは私の息子の外出着だが、君が着たらいい」
アルブラートは驚いた。それはまだ新しい黒の夏の外出着と靴だった。
「本当にいいんですか―これは先生の大事なものではありませんか?」
「だって音楽院にこれから行こうというのに、服がなくては困るだろう?君はもう17歳だから、ちょうどサイズが合うんじゃないかな。息子も17歳だったからね」
教師のこの言葉に、アルブラートはハッとした。彼は戸惑いながら、相手をじっと見つめた。
「これは―いただけません......だってこれは―」
「いいや、いいんだ。君に着てもらいたいとずっと思っていたんだ。あの子が内戦で死んだのは、もう5年も前だからね。君が私の息子のように思えるんだよ」
「内戦......?このシリアで内戦が......?」
「私の息子のアンリは、私と一緒にマルセイユからシリア高等音楽院に来た―もう10年も前のことだ。アンリはヴァイオリンを習っていたが、12歳の時、シリアでフランス古楽を勉強したいと言い出した。でも彼が17歳の時にダマスカスがイスラエルの爆撃を受けた。それでシリアと内戦になった―それに運悪く巻き込まれてしまったんだ」
彼は黙って服を見つめながらその話を聞いていたが、デュラックはもう昔の話だと言って笑い、ぜひ服を着てみてくれと頼んだ。少年がその服に着替えると、彼はほれぼれとその姿を眺めた。
「よく似合っているよ。それに君はアンリにどことなく似ている。あの子も黒髪に黒い目だったからね」
ベイルートまでの旅費と、音楽院の入学金は、デュラックが出してくれた。彼はアルブラートに、成績が優秀だと奨学金が与えられることを説明した。アルブラートにとって、靴を履くのも、きちんとした洋服を着るのも、お金を手にするのも、生まれて初めてのことだった。
1959年の7月20日、アルブラートはマフムードと医師たちに別れを告げると、デュラックとジープに乗り、ガリラヤ湖畔を出発した。彼はガリラヤ湖をいつまでも振り返って眺めていた。だが30分も走ると、湖は山の影になり、見えなくなった。ゴラン高原の古い道路を、ジープは走り続けた。アルブラートの荷物は、衣服やフランス語の辞書やノートなどを詰め込んだ茶色の鞄と、ウードだけだった。
途中2回ほど休憩を取りながら、さらに2時間ほど走ると、急に山々の合間から、ダマスカスの街や飛行場が下方に姿を見せた。教師は、ダマスカスの駅まで同行してくれた。列車に乗るのも、アルブラートには初めてのことだった。駅で切符を買うと、いよいよ教師とも別れなければならなかった。デュラックは、彼の手をしっかり握り締めると、肩を抱き寄せた。
「私は君に出会って幸せだったよ。君は稀に見る素晴らしい子だった。いつかまた君の噂を聞くだろうね―立派な演奏家になった君の名前をね。アルブラート、君も私のことを覚えていておくれ。ロベール・デュラックという私の名前を」
―第18章―盗難
アルブラートは、走り出した列車の窓から、プラットホームに佇むデュラックに手を振った。教師の姿は、どんどん遠ざかり、やがて小さな黒い点となり、とうとう見えなくなった。
ロベール......ロベール・デュラック先生......
先生のことはきっと一生忘れない......初めてフランス語を教えてくれた先生のことはずっと......
彼は、別れ際にデュラックから贈られた腕時計を鞄から取り出した。それはデュラックのものではなかった。アルブラートは、教師の話してくれた息子のアンリのものに違いないと思った。彼は、教わった通りに、腕時計をはめてみた。彼の細い手首には少し大きかったが、それでも、腕時計をはめるのも生まれて初めてのことだった。黒くつやのあるベルトと、金に縁取られた時計の文字盤を、彼はしばらく眺めていた。
今は午後の1時か―ガリラヤ湖を出てもう3時間もたつんだな......キャンプで暮らしていた時は、時間なんて確かめたことはなかった......第一、時計なんてなかったしな......
彼は昼食をとっていないことに気がついた。ちょうど通りかかった車内販売を呼び止めると、パスタとオレンジジュースを買い求めた。彼には、お金を出して、何かを買うことも、生まれて初めての経験だった。アルブラートの向かいの座席には、若い母親が赤ん坊をあやしながら座っていた。その側には、まだ3歳ほどの女の子が座っていた。彼は、何気なくその家族を見ていた。
家族で一緒に列車に乗るなんて羨ましいな......
俺には「家族」なんて呼べる人はいない―これからずっと一人で生きていくんだな......
向かいの女性は、アルブラートの視線に気がついて、にっこりした。アルブラートも微笑み返した。彼女は、彼が品の良い服を身につけ、雰囲気も穏やかで顔立ちも美しいのを見て、こんな少年は非常に珍しいと思った。
「あなたはどちらまでいらっしゃるの?」
「ベイルートです」
「ベイルートならあと2時間はかかるわね。私はこの子たちとバールベックの親戚の所に行くのよ。あなたはベイルートにお友だちがいらっしゃるの?」
「いえ......ベイルートの音楽院に行く途中です」
「じゃあ学生さんね。レバノンのご出身?」
「いえ僕は......」
彼はこの時、初めて気がついた。自分には「国」と呼べる場所がない―どこの国の人間でもないことに生まれて初めて気がついたのだった。
そうだった......パレスチナ人には国がない......「パレスチナ」という国は地球上どこを探しても存在しない......
どこにも国なんてないんだ......
アルブラートは急に寂寞とした気持ちになった。家族もなく、国もないという自分が小さな存在に思えた。すがる場所も、帰るべき家も国もなく、自分を待っていてくれる人もいない―何にも頼るすべのないこの気持ちは、彼には耐え難かった。
少年が言い淀んでいる様子に、その女性はちょっと不思議そうに黙っていた。すると急に傍らの女の子が立ち上がり、彼のウードに珍しそうに触ろうとした。列車の振動で、座席に立て掛けてあったウードがぐらりと傾いた。アルブラートは慌てて倒れ掛かったウードを押さえ、無言で幼女に首を振って見せた。その子は拒まれたことに驚いたのか、急に泣き出して母親にすがった。
「ジェンナ、だめよ。人の物を勝手に触ってはだめよ」
母親にたしなめられると、よけいに女の子は激しく泣いた。すると抱かれていた赤ん坊まで泣き出した。女性は、困ったように彼の方を見て笑って見せた。アルブラートは自分のことをこれ以上尋ねられずに済んだと思い、ホッとした。同時に、自分の出身や身の上を人に気軽に言えないことに何とも言いようのない苦しさを感じた。
列車は1時間ほどすると、ラヤークに停車した。子供たちも泣きやみ、疲れて眠り込んでいた女性は、アルブラートに目礼すると、慌てて列車を降りていった。もうレバノンに入っていた。数分すると、再び列車は走り出した。アルブラートはしばらく外の景色を眺めていた。広々とした草原や、高く連なる山脈や、村や遺跡などが近づいてきては、また遠ざかっていった。時計を見ると、もう午後の3時近かった。彼は少し疲れて、うとうとし始めた。
ふと目を覚ますと、列車はある駅で停車していた。ザハレだった。アルブラートは、駅に置いてあった路線図を確かめた。ザハレの次は、もうベイルートだった。ベイルートに着いたらとりあえず安いホテルを探さなければならない。明日は音楽院の場所をフロントで訊いて、行ってみよう―そんなことをあれこれ考えた。だが、ザハレに停車したまま、なかなか列車は動き出さなかった。
1時間ほど経った頃、乗客がざわめきながら、次々と列車から降り始めた。車掌がアルブラートの所に走って来て、慌てた様子で早く降りてくれと言った。
「もうこの列車はザハレ止まりです。この先には行きません。ベイルートの手前で、さきほど線路がイスラエル軍に爆破されました。今ベイルートは街中が厳戒態勢です。ベイルートに行くのは現在、大変危険な状態です」
アルブラートは驚いたが、仕方なく列車を降りた。
せっかくベイルートが目の前だったのに......
これからどうしたらいいんだろう......
駅に降りると、線路爆破のニュースで、大勢の人でごった返していた。皆混乱して、大声で叫んだり、ホームを走り抜けて駅から逃げ出そうとする人もいた。アルブラートは布に包んだウードと鞄をしっかり抱えながら、人混みの中を歩いた。出口がどこなのか、さっぱり分からなかった。
「この駅も爆破されるぞ!ザハレに爆弾を仕掛けたそうだ!」
誰かがこう叫ぶ声がした。女性の悲鳴や子供の泣き声や男たちの怒声が飛び交った。駅にいた人々は、完全にパニック状態となった。皆いっせいに出口の方へと走り出した。アルブラートも皆の向かう方へと走ろうとしたが、誰かに急に後ろから勢いよく押されて、ホームの壁に叩きつけられた。ウードは手から離さなかったが、鞄が落ちてしまった。すぐにそれを拾おうとしたが、鞄の上を逃げる人々が次々と踏みつけていった。
やっと鞄を拾い上げると、急いで出口の階段を駆け上がった。駅から少し離れた場所に、錆びたベンチがあったので、彼はそこに腰を降ろした。今のホームでの大混乱にもまれたためか、軽いめまいがした。鞄の埃を払うと、中身は大丈夫だったかと確かめた。途端に、彼はギョッとした。財布はあるのに、入っていたお金がすべて消えていた。
お金がない......!確かあと5000ピアストルはあったのに......!あの人混みで盗まれたんだ......!
もう夕方の6時近くになっていた。アルブラートは途方に暮れた。ベイルートに行くことは不可能になったばかりか、どこか泊まるにしても、お金がなくてはどうすることもできなかった。生まれて初めての一人旅で、いきなり知らない国に無一文で放り出されてしまったのだった。
......やっぱり「難民」はこうなるんだな......俺はずっと難民だったんだ―都会のことも街のことも何も分からないのは当たり前だ......でもあのお金はせっかくデュラック先生が―音楽院入学のために俺に用意してくれた大事なものだったのに......
アルブラートはだんだん薄暗くなる中、これからどうしたものかと考え込んでいた。どこかの家に行って、事情を話し、とにかく泊めてくれるよう頼むしかないと思った。それから何か仕事を見つけて、働くしかないと決心した。彼はベンチから立ち上がると、当てもなく歩き出した。駅の周辺は寂れていた。ほとんど民家らしきものもなかった。時折トラックが彼の横を通り過ぎた。
もう駅から歩き出して、1時間ほど経っていた。彼の前方から、農家の荷馬車が近づいて来た。アルブラートはその荷馬車とすれ違い、尚も歩いていたが、慌てて引き返し、その荷馬車を追いかけた。彼の足音に、荷馬車も速度を落とし、やがてゆっくりと止まった。荷馬車から、老人が降りて来た。アルブラートはやっと追いつき、その老人にいきなり話しかけた。
「あの......お願いがあるんです......!あの......一晩だけでいいんです......!どうか泊めてもらえませんか」
老人は、さっぱりした身なりと旅行鞄を持った少年を見て、すぐに事情が分かった様子だった。
「うちは農家だが、あんたが良ければ別にかまわんよ。一晩どころか、いつまでもいてもらっていい。でもあんたは旅の途中だったんじゃないかね?どこに行くつもりだったのかね?」
「......ベイルートに行く予定だったんです。でも線路が爆破されて......駅でお金を全部盗まれてしまって......」
「そいつは災難だったな。線路が爆破された話はラジオで聞いたよ。よくあることだ。まあうちは何も気兼ねはいらないんでね。家内と孫娘だけだ。腹が減っただろう。ちょうど夕食の用意ができてる頃だな。さあ早く馬車に乗ったらいい」
荷馬車は30分ほど走ると、大きな農園の前で止まった。もう辺りは真っ暗だったが、山間の谷間であることが雰囲気で分かった。近くに小川が流れているらしく、水車の回る音が聞こえて来た。アルブラートを連れて、老人は家の中へと案内した。老人が名前を呼ぶと、老婦人が奥から出てきた。
「お客さんだよ、ハダナ。線路の爆破でベイルートに行けなくなったらしい。夕食はできてるかね」
老婦人は、微笑みながらアルブラートを見つめて、こう言った。
「まあ大変でしたね......!あなたのようなまだお若い方が一人旅なんて。私の家は、困っている方は大歓迎ですよ。どうぞごゆっくり滞在なさって下さいな。お食事はあちらでご一緒にとりましょう。さあこちらへ」
アルブラートは、ハダナというこの老婦人が上品で優しいのに安心した。また、こんな山の中の農園に、こんなに礼儀正しい丁寧な言葉遣いの人がいることにも驚いた。
食卓に案内されると、まだ7歳ほどの女の子がおとなしく腰掛けていた。ハダナは、少女に優しく言い聞かせた。
「ライラ、お客さまですよ。お兄さまにご挨拶なさいね」
ライラは椅子から降りると、スカートの裾を指で軽くつまみ、片足を後ろに下げて、腰をかがめてお辞儀をした。それから、小さな手をアルブラートの方に差し出した。彼は、こんなに小さな子が、洋風の挨拶をすることに驚き、戸惑ったが、彼女の手を優しく握った。
「こんばんは......ライラ」
「初めまして、お兄さま。お名前は何ておっしゃるの?」
「あの......アルブラートと言うんだよ」
「きれいなお名前ね、アルブラートって。それにとてもきれいな人ね」
少女の言葉に、ハダナも微笑んでうなずいた。
「そうね。聖ヨハネのように立派で美しい方ね。きっと神様がお遣わしになられたのよ、ライラ」
アルブラートはこの二人が話している意味がよく分からなかった。「聖ヨハネ」という言葉も聞いたことがないと思った。食卓に着き、食事を取ろうとすると、老夫婦と少女はまず祈りを捧げた。その祈りの言葉も、彼には全く理解できない言葉だった。食事が始まると、食堂の正面の天井近くに、何か十文字の形をしたものが掲げてあった。アルブラートが不思議そうにそれを見ていると、老人がこう言った。
「私らはキリスト教徒でな。あんたは十字架は初めて見るんだろう」
アルブラートは黙ってうなずいた。
「この国にはキリスト教徒が多い。あんたはイスラム教徒だろうが」
こう言われても、アルブラートは答えられなかった。小さな時から特に、
イスラム教の教えを受けて育った覚えがなかった。タウフィークからキリスト教とイスラム教の話を教わったことはあった。それでも貧しいキャンプ暮らしの中で、コーランなど手に入らなかった。タウフィークは宗教による「神」の違いを教えたりはしなかった。宗教の違いで戦争が起きることをアルブラートは教えてもらってから、敢えて自分のことをイスラム教徒と考えたことはなかった。
「僕は......イスラム教徒というわけではありません」
「そうかね。変わった人もいるものだな。あんたには何の宗教もないのかね。それじゃ神も信じてはいないのかね」
「神は―神のことは信じています」
「何の神を信じているかね?キリストでもアラーでもない神かね」
彼はこう聞かれると、答えに詰まった。彼にとっての神は、偉大な存在であり、全能的な者であり、自分を救い、すべてを許してくれる神だった。だが初めて出会う人々の前で、それを説明することに衒いとためらいがあった。アルブラートが黙っていると、ハダナが声をかけた。
「ハッサン、そんなお話は止めてあげて。ごめんなさいね、アルブラート。あなたはお疲れでしょう」
食事が済むと、ハダナは彼を2階の寝室に案内した。ちょうど良い広さで、質素だが清潔な部屋だった。木製のベッドは艶のある立派なもので、美しい彫刻がほどこされてあった。寝室の壁にも十字架が掛けてあった。ハダナはキリスト像だと説明した。アルブラートが楽器を持っているのを見て、彼女はこう言った。
「あなたはウードを弾かれるのね。それじゃベイルートの音楽院に行かれる途中だったんでしょう?あの学校の学生さんなのね」
「いいえ―音楽院で学んだことはありません。初めて行くところだったんです。でも線路が爆破されて―お金も全部盗まれてしまったし......」
アルブラートはベッドに腰掛けると、少し考えていたが、ハダナに静かな口調で言った。
「本当にお金がなくてどうしようかと思っているんです―ずっと音楽院に入学したくて、勉強を続けてきたんですが......ここで何か仕事があれば、ぜひ僕にさせてもらえませんか。何でも頑張って働きますから」
「まあ、あなたのように立派な教育を受けた方に、農作業などさせられません。あなたは演奏をなさる方なんでしょう?その手で分かります。でも......そうね、ライラに読み書きを教えて頂いたり、何か私たちに演奏を聞かせて下さいな。そのお礼としてなら......失礼ですけれど、いくらか差し上げられるかも知れません」
アルブラートがその話を承諾すると、ハダナは微笑んで、寝室のドアをそっと閉めた。彼は寝る用意をすると、ベッドに入ったが、なかなか寝つかれなかった。
キリスト教徒の家か......こんな風にちゃんとした家で休むなんてことも、生まれて初めてだな......あの人には俺が立派な人に見えるのか―あの人は俺が演奏することが「手で分かる」と言っていたな......あの人も、もしかしたら音楽を知っているのかも知れない......
―第19章―ザハレの聖母子 1959年秋
翌朝起きてみると、アルブラートは、ハッサンの農園が非常に大きく、昨夜感じたよりも高々と連なる山脈に囲まれていることに驚いた。この家も、3つの棟が連なった立派なものだった。彼は朝食前に、白いシャツと黒のズボンに着替えて、階下に降りていった。もう8時を過ぎていた。ハダナは、ライラに彼を洗面所に案内させた。その時、彼は少女が足を引きずるように歩くことに気がついた。
洗面所は大理石で造られてあり、大きな鏡があった。水道の蛇口は金色だった。アルブラートが顔を洗うと、ライラが新しいタオルを手渡した。キャンプでは井戸で、病院では質素な洗面所でしか水を使ったことのないアルブラートには、この家が裕福であることがすぐ分かった。彼は大きな鏡に映る自分の顔を見て、気恥ずかしさを感じた。あまりにも立派な洗面所にいると、自分の肌の浅黒さが目立つ気がした。だが、ライラは彼をきれいだと誉めた。
「おばあさまの言ったとおりね。やっぱり聖ヨハネに似てるもの」
「ライラ、『ヨハネ』って誰のこと?」
「秘密よ。そのうち教えてあげる。アルブラートは今日から私に読み書きを教えてくれるんでしょ?おばあさまから聞いたの」
朝食後、ハダナは彼に、少しずつで良いから、ライラにアラビア語とフランス語の基本を教えて欲しいと頼んだ。その日から秋の終わりまで、彼はこの農園に滞在し、少女に読み書きを教えることになった。彼はハダナから、レバノンではフランス語も公用語なのだと聞いて、フランス語を勉強していて良かったと思った。ハッサンは、いつも農園の使用人たちに指示をするために、外に出ていた。
ライラに読み書きを教え出して1週間ほど経った頃、ハダナは彼の教え方が優しく、丁寧なことや、フランス語の発音が美しく正確なことに、非常に感心した様子だった。アルブラートがまだウードを弾いて聞かせていないことを思い出し、演奏を申し出ると、ふたりともぜひ聞きたいと言った。彼が数曲演奏すると、ハダナはすっかり感嘆して言った。
「まあアルブラート......あなたという方は何事にも優れた方なのね。それで音楽院に行ったことがないだなんて、信じられませんよ。あなたを見ていると、息子のことが思い出されますよ」
アルブラートはこの老婦人が音楽を知っているのではないかと思っていたが、それを聞いて、やはりそうかと思った。
「その息子さんは―ライラのお父さんに当たる人ですか」
「ええ。私の息子はサイダの音楽院で、カーヌーンの教授をしていました。でもこの娘を連れて、私の所に休暇で戻る途中、イスラエルとの内戦で銃弾を浴びて亡くなりましたよ。ライラの母親も重傷を負って、病院に運ばれる途中で亡くなりました。ライラだけが助かったんです......でも足に大怪我をしてね」
彼はシリアでも、レバノンでも、イスラエル軍が絶え間なく攻撃をすることを改めて知らされた。だがイスラエル軍に対する憎悪は以前のようには燃え上がらなかった。ただイスラエルを怖ろしいと思い、そして忘れてしまいたいと感じた。
「あの......サイダという街にも音楽院があるんですか?」
「ええ、ベイルート音楽院ほど大きい学校ではないけれど、高等部と大学と研究所があるんですよ。あなたは今から入学されるのなら、大学かしら。アルブラート、あなたは今何歳になられるのかしら」
「今は17です......1月に18になります。でもいきなり大学には......」
「大丈夫。あなたは語学もとても達者で、演奏の才能も優れてますからね。入学されるのなら、来年の秋からですね」
「......サイダはここから遠いんですか?」
「馬車で高原の道路まで行って、あとジープに乗れば1時間ほどで着きますよ。あなたはこの国の方ではないのね。どちらからいらしたの?」
アルブラートは再び出身を聞かれて、どう答えたものかと迷った。こんなに裕福な人々の前で、難民であることを打ち明けるのは、たまらなく恥ずかしかった。これからもずっとこんなことが度々あるだろうと思うと、音楽院に入学することさえ気が引けた。だが彼が黙っていると、急にライラが言った。
「だめよ、おばあさま。そんなこと秘密なのよ。アルブラートは神様がお遣わしになった聖ヨハネだって、おばあさまが言ったじゃない。アルブラートは不思議の国から来た私の王子様なのよ」
ハッサンの農園に滞在して1ヶ月ほど経った頃だった。アルブラートは午前中はいつも、食堂の隣の居間で、少女に読み書きを教えていた。ライラは彼が病院で勉強に使ったノートに興味を持って、見せてとせがんだ。ノートには、アラビア語や英語やフランス語の文章や詩がびっしり書き込まれてあった。ライラはそれを見て目を丸くした。
「まるで呪文みたい。アルブラートはやっぱり魔法の国から来たのね。だってアルブラートは魔法使いみたいにきれいだもの。それに私が知らない言葉をたくさんノートに書いてあるもの」
「ああ......これは英語だよ。イギリスという国の言葉だよ」
「じゃあアルブラートはイギリスから来た王子様なのね」
アルブラートが黙って困ったように微笑んでいると、ライラは急に「聖ヨハネ」を教えてあげると言い出した。少女は彼の手を引っ張って、ゆっくりと居間を抜け、ドアを開けた。ドアの外は細い路地になっており、その右手奥に、礼拝堂のような建物があった。中は冷んやりとしていた。礼拝堂の小部屋の奥には、カーヌーンが置かれていた。アルブラートがカーヌーンを見るのは2年ぶりだった。
「あれはお父さまのカーヌーンよ。でももう誰も弾かないの。アルブラートにだったら、あれをあげてもいいわ。今度おばあさまに頼んでみるわ」
ライラはそう言いながら、更に隣の部屋へと彼を引っ張っていった。そこは天井が高く、立派な金の祭壇のある荘厳な礼拝室だった。ライラは入り口の左手の壁を指差して、これが「聖ヨハネ」だと教えた。そこには油絵で描かれた美しい若者の肖像画が飾ってあった。
「ほらね、アルブラートにそっくりでしょう」
「まさか......僕はこんなにきれいでも何でもないよ」
「でもほんとによく似てるわ。『聖ヨハネ』はね、神様のお弟子なのよ。今度はあっちを見て。私とおばあさまはよくあそこでお祈りするのよ」
ライラは祭壇近くに彼を連れて行った。そこには若い母親が幼児を抱きしめ、こちらをじっと見つめている油絵が飾ってあった。アルブラートはそれを見た瞬間、マルカートの面影がまざまざと浮かんできた。その聖母子像の母親のまなざしは、優しく美しく、幼児を包み込むような愛情が深く込められていた。
彼は長い間、心の奥に閉じ込めていた母への想いが強く湧き起こるのを感じた。すると、母が死の間際に自分を見つめていたあのまなざしが鮮明に甦った。アルブラートはそばにあった長椅子に倒れ込むように座ると、顔を覆ってしまった。自分に銃口を向けられても、母は恐怖の色を浮かべてはいなかった―その母に向かって、自分は猟銃を3発も打ち込んで殺した―彼はあの聖母像から罪人だと責められている気がしてならなかった。
「まあ―居間にいないと思ったら、こちらにいらしたの......アルブラート......どうかなさったの―何か苦しんでらっしゃるのですか」
アルブラートは、ハダナの声に気がついて、彼女を見上げた。ハダナは彼が泣いていたことに驚いたが、静かにその隣に座り、少年を抱き寄せた。
「あなたが何を苦しんでおられるのか―私でよければどうかお話下さい」
アルブラートは、自分の身の上をもうこれ以上隠しているのが辛くなった。彼は、震えながら呟くようにハダナに打ち明けた。
「僕は......僕はパレスチナ人です......両親と3歳の時ベツレヘムから逃げ出してから......ずっと難民キャンプで育ちました―父はキャンプに行く前に病死しました......2年前の夏に―キャンプがイスラエル軍に占領されて―僕は捕虜収容所に半年間捕らえられていました......母と収容所で再会した後すぐに......母も......母も亡くなりました......」
ハダナは黙って静かに聴いていたが、アルブラートをじっと見つめると、再び彼を優しく抱き寄せた。
「あなたはまだ17歳なのに......そんなに苦しみの多い人生を.......
でも神様がきっと見守って下さいますよ―あなたには神に約束されたものが―素晴らしい才能がありますからね」
アルブラートは首を振った。彼は手を固く握り締め、一言一言苦しそうに語った。手が小刻みに震え、指先までが氷のように冷たかった。
「いいえ......神もきっと......僕を許したりはしません......きっと一生......僕は苦しみを背負うんです......だって僕は......」
「それ以上お話してはなりませんよ、アルブラート......!真っ青じゃありませんか......!大丈夫ですよ―何があったとしても神はあなたをお許し下さいますからね」
彼はハダナに促されて、寝室に戻ると、ベッドに横になった。ハダナはコーヒーを運んで来て、彼に飲ませると、何も考えないようにと言って部屋を出て行った。アルブラートの心臓はまだ激しく打っていた。
ハダナがあの時......制止してくれて良かった......
とてもあんな怖ろしいことを......人に話すなんて......やっぱりできない......
それから数日間、ハダナは彼の様子をそっと見守っていた。彼が落ち着きを取り戻した頃、彼女はぜひカーヌーンを弾いて聞かせて欲しいと頼んだ。ハダナは礼拝堂からカーヌーンを運び出し、居間のテーブルの上に乗せた。そのカーヌーンは父のものよりも、ずっと立派な材質で作られており、美しい彫刻で飾られていた。
彼は、そのカーヌーンを見ていると、自然と演奏したい衝動に突き動かされた。目を閉じると、アジュルーン渓谷の鮮やかな緑や遺跡が浮かんできた―その中にお下げをほどいて、つやつやと輝く黒髪を長く垂らして微笑むアイシャの姿があった。アルブラートはアイシャの魂に呼びかけるように、カーヌーンを静かにかき鳴らし始めた。
その演奏の中で、アイシャは遺跡の中を自由に歩いていた。アイシャは天に届くような美しい声で歌っていた。アイシャは天使となって彼のそばに佇んでいた。彼はアイシャを抱きしめていた。そのぬくもりが、彼の指を温め、弦を繊細に、自在にかき鳴らし続けた。彼の旋律は、アイシャと完全にひとつになり、アイシャの心と魂を美しく彩っていった。
演奏が終わると、ハダナは涙ぐんで賛嘆した。
「やっぱりあなたは私の思った通りの方でした―このカーヌーンはとても難度が高くて、どんなに勉強をした方でも、なかなか弾きこなせないものなんです。このカーヌーンをこんなに美しく演奏された方は、あなたが初めてですよ......息子でも、こんなに立派に演奏したことはありませんでした」
ハダナはぜひこのカーヌーンを差し上げたいとアルブラートに言った。アルブラートは驚いて断ったが、ハダナはその方が息子の魂が慰められると言った。彼は感謝して、ハダナからそのカーヌーンを譲り受けた。10月になると、彼はサイダの街に行く用意を始めた。ハダナとライラは残念がったが、アルブラートは、寒くなる前にサイダに行き、演奏する場所を見つけて働きたかった。
農園を離れる日の朝、ハダナは彼に防寒用の黒いコートと、これまでのお礼だと言って、1万ピアストルを差し出した。ハダナは、これだけあれば音楽院入学に不足はないと言った。ハッサンは、今度こそ盗まれないようにと笑い、彼を馬車に乗せた。
彼を乗せた馬車は、高原の道路に向かって走り出した。道路では、ハッサンの知人のジープが彼を待っていた。アルブラートはハッサンに丁寧にお礼を言うと、握手をして別れた。ジープは道路を1時間ほど走り続けた。途中で左に曲がると、間もなく教会やアパートなどが見えてきた。もうサイダの街だった。ジープの運転手は、ホテル街で車を止めた。こうしてアルブラートはサイダに着いた。1959年の10月半ばだった。
サイダは、アルブラートにとって、生まれて初めての都会だった。ホテルの看板は、すべてアラビア語とフランス語で書かれてあった。ホテルの格や料金は、表示されてある星の数で判断するのだとハッサンは言っていた。やっと三つ星ホテルを見つけると、彼はフロントの受付に宿泊を申し出た。だが受付係は、途端に顔色を変えて、駄目だと断った。
「なぜ駄目なんですか?2泊でいいんです。お金もちゃんとあります」
「このホテルはパレスチナ人なんかを泊める場所はないんでね」
アルブラートは驚いて、なぜパレスチナ人では駄目なのかと訊いた。だが受付係は駄目なものは駄目だと言って、犬を追い払うような仕草をした。彼はショックを受けたが、仕方なく別のホテルを探した。今度は二つ星ホテルだった。さっきのホテルよりも、だいぶ古びて、看板に書かれた文字も薄汚れて消えかかっていた。彼は恐る恐るフロントに入ると、宿泊を申し出た。だがここでも断られた。
「お前さんはパレスチナ人だろう?訛りですぐに分かる。パレスチナ人はゲリラばかりだ。レバノンに難民がこれ以上増えたら、またイスラエルの爆撃がひどくなる―さっさと出て行きな!」
その男は彼の手を乱暴に掴み、ホテルの裏口に引っ張っていくと、勢いよく通りに放り出した。アルブラートははずみで、歩道に転んだ。彼は、鞄と楽器を拾い上げると、悄然として歩道の隅に座り込んだ。都会では、パレスチナ人がゲリラ同然に見なされる―このことを初めて知った彼は、悔しく虚しかった。
雨が降り出したが、アルブラートはいつまでも歩道に座り込んでいた。音楽院もパレスチナ人は駄目だと言われるかも知れないと思った。それでも、この足で音楽院を尋ねてみようと思い立った。
彼は激しい雨の中をホテルの裏口から歩き出した。だが誰かが雨の中を走ってくる音がした。振り向くと、背の高い青年が彼を見下ろしていた。青年は、彼の手をいきなり握ると、ホテルの別の裏口に彼を引っ張っていった。アルブラートを中に入れると、青年は息を切らしながら言った。
「心配しなくてもいい―俺がお前を泊めてやる―俺はここの料理番だ。俺はパレスチナ人はちっとも構わないんだ。お前、何て名前なんだ?」
アルブラートは、急に自分を助けてくれたこの青年を、驚いて見つめていたが、名前を訊かれて、慌てて答えた。
「あの........アルブラート」
「俺はムカールと言うんだ。お前、楽器を弾けるのか、アルブラート?」
彼がうなずくと、ムカールはにっこり笑った。よく見るとこの青年が、母によく似た華やかな顔立ちであることに、彼はますます驚いた。
「決まりだな。このホテルで演奏をして働けばいい。お前、演奏して働く場所を探していたんだろう?俺の部屋を貸してやるから、今夜はそこに泊まりゃいい」
●Back to the Top of Part 5
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