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読みは「まさきえき」。九州旅客鉄道(JR九州)肥薩線の駅。駅の構造は島式ホーム1面2線で、無人駅。瓦葺で木造の駅舎がある。肥薩線の険しい山線の区間にあり、電車が駅に一旦停車した後で引き返し、駅の上の方にある線路に折り返す逆Z字型のスイッチバックが設けられている。1911年(明治44年)に開業し宮崎県で最初にできた駅で、100年以上の歴史を持つ。また、肥薩線では宮崎県内唯一の駅となっている。真幸という名称が「真の幸せに通じる」ものとして入場券が人気で、駅の構内には幸せの鐘や絵馬掛けも設置されている。駅舎。瓦葺で木造の駅舎で、1911年(明治44年)開業当時からそのままの姿で残っている。真幸駅の看板。駅舎内部。開業当時そのままの空気が漂う。壁には過去の真幸駅や電車の写真が掛けられており、木で作った小さな机やベンチが置かれ、駅ノートも設置されていた。駅名標。ホーム。2020年(令和2年)に発生した九州豪雨によって肥薩線は不通となっており、電車がやってくる気配は全くなかった。幸せの鐘。電車やお客様の安全と幸福を祈り乗務員が鳴らしていたもので、今はちょっと幸せなら1回、もっと幸せを願うなら2回、いっぱい幸せなら3回鳴らすと良いそうな。山津波記念石。1972年(昭和47年)にこの一帯で大規模な土石流(山津波)が発生しており、この岩はその当時流れ出たものを現地で記念石として保存したもの。重さは約8t。スイッチバック。写真だと分かりづらいが、ここに電車が一旦停車した後で少し引き返し、勾配を上って上の方にある線路に折り返すようになっている。こうしたスイッチバックが残っている駅は珍しいそうで、これを見に駅にやってくる鉄道ファンもいるんだとか。ホームから見た駅舎。切符回収箱。駅舎の隣に無造作に置かれていた日用品。自由に持ち帰ってくださいとのこと。絵馬掛け。駅の看板猫のみいちゃん。地元住民の方が世話をしてるようだ。触ろうとしてみたが、臆病で逃げてしまった。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.11.12
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江戸時代に知覧麓一帯に造られた武家屋敷群。7つの庭園が国の名勝に指定され、美しい日本の歴史的風土100選、日本の道100選にそれぞれ選定されている。江戸時代に薩摩藩は領地を外地と呼ばれる102の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、武士団を集結させることなく分散して統治させた。知覧もその一つ。当初知覧は島津家の分家である佐多氏が治めており、佐多氏は薩摩藩の中でも重要な役割を果たした実績から、知覧の私領地化と島津姓の使用が許された。現在残る武家屋敷群は18代島津久峰の時代に造られたものではないかと言われている。久峰が参勤交代に伴い江戸から戻る道中で触れた京の文化を持ち帰ったと言われ、また知覧が琉球貿易の拠点だったことから、石敢當や石垣など琉球の影響を受けたと思われる建築も見られる。年間を通して様々なイベントも行われており、2月から3月にかけておひなさまめぐり、7月から8月には南九州市各地に風鈴が設置されるふうりんの小径、11月中旬には約8000個の竹灯籠や紙灯籠が武家屋敷庭園一帯に灯りを灯すちらん灯彩路が行われている。武家屋敷の入園料は大人530円、小人(小・中学生)320円(団体割引有)。城山橋。麓川に掛かる橋で、この橋の上流に矢櫃橋という眼鏡橋がある。ここを渡った先に武家屋敷群がある。森重堅庭園。7つの庭園の中では唯一の池泉式庭園(他は全て枯山水式庭園)となっている。1741年(寛保元年)から1744年(寛保4年)の作庭と言われている。曲線を描いた池に奇岩を用いて山や半島を表現し、対岸の方には洞窟を表現した穴の開いた石を配して水の流れを象徴している。武家屋敷通り。石垣とイヌマキの生け垣が続き、武家屋敷が建ち並ぶ様子から知覧は「薩摩の小京都」とも呼ばれている。旧高城家住宅。明治時代以前に建てられた武家住宅。知覧型二ッ屋と呼ばれる知覧独特の民家の建築様式となっている。佐多直忠庭園。1741年(寛保元年)から1744年(寛保4年)の作庭と言われている。母ヶ岳を借景とし、庭には石で組まれた築山を設けている。中心には高さ3.5mの立石が見え、下部には枯滝の石組を配しまるで水墨画のようになっている。佐多民子庭園。宝暦年間の作庭と言われている。北西隅に石塔を置き、カエデ、マツ、イヌマキを植栽し、庭石を配している。庭石は麓川の上流から運んだ凝灰岩質のもので、巨岩であったため石目に沿って割り、牛馬で運びやすくしたもの。佐多美舟庭園。1751年(寛延4年)の作庭と言われ、知覧の庭園の中では最も豪華で広い庭園とされている。枯滝を造り、築山の上部に石灯籠、平地となっているところには巨岩で石組を設けている。知覧型二ッ家。市指定文化財に指定されている。前述の旧高城家住宅でも採用されていた知覧の民家の建築様式で、2つの玄関があり、「おもて」「なかえ」と呼ばれる2つの屋根の間を小棟で繋げているのが特徴。石敢當。魔除けとなる石碑のことで、中国で発祥したもので日本では沖縄県でよく見られる。かつて知覧では琉球との貿易が盛んであり、江戸時代に琉球の文化が持ち込まれこの地に伝わったと言われている。平山亮一庭園。1781年(天明元年)の作庭と言われている。石組一つない大刈込み一式の庭園で、イヌマキで遠山を表現し、前面のサツキの大刈込みがまるで築山のようになっている。5~6月にサツキの花が咲き、刈込の一面がピンクの花で染まる。太刀洗。刀や槍に付着した血を洗うためのもので、この一帯が武家屋敷群であることを象徴するものとなっている。平山克己庭園。明和年間の作庭と言われている。母ヶ岳を借景とした庭園で、隅の方には水墨画のような枯滝石組を設け、築山のようになっているイヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっている。西郷恵一郎庭園。江戸時代末期の作庭と言われている。隅に枯滝の石組を配して高い峯とし、その峯の周辺の刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。5~6月にサツキの花が咲き、普段とは違った美しい景色を作り出す。清流溝。知覧を流れる麓川の疎水。水車が回っており、鯉も泳いでいる。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.11.11
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○あかうし丼あかうし丼、味噌汁、漬物阿蘇の大地で育ったあか牛を贅沢に使ったあかうし丼。肉の焼き加減はミディアム。もやしの入った味噌汁。高森町にある阿蘇の郷土料理をはじめとした豊富なメニューが揃う食事処。阿蘇で育った和牛のあか牛を用いたあかうし丼、ステーキ、ハンバーグや馬刺し、高菜めしなどの郷土料理が食べられる。今回いただいたあかうし丼はあか牛の希少部位を贅沢に使っており、肉の焼き加減はミディアムで油の乗り加減も程よくジューシー、歯ごたえも良く肉の旨みがたっぷりと味わえた。一緒に付いていた味噌汁はなんだか懐かしい味がした。乗馬クラブ ブルーグラスが併設している。初心者でも安心して乗馬体験を楽しむことができ、阿蘇山を遠景に望みながら乗馬を楽しめる外乗もできる。宿泊施設もあり、乗馬とセットのプランもあり。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.11.08
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南阿蘇村湧水群の一つ。平成の名水百選に選定されている。湧水量は毎分1t。県道177号線のそばにある水源で水源地の周辺は整備されており、主に野菜などの農産物の洗浄に利用されている。町民の憩いの場となっており、水源近くには東屋が建てられている。川地後水源の全景。県道177号線沿いにあり、地面の少し凹んだ場所、石段を下ったところにある。水源は整備され数ヵ所の洗い場があり、いつも清潔に保たれている。洗い場。湧水量は少量であるが、水源の底からは絶え間なく気泡が浮かび上がっており、水が底から湧き続けているのが分かる。休憩所の東屋。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.11.06
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南阿蘇村湧水群の一つ。平成の名水百選、くまもと名水100選に選定されている。湧水量は毎分約5t(日量約7200t)。phは7.2。正教寺の近くにあり、参拝者の御手洗所として親しまれている。飲料水の他に、町民の方々が洗濯や野菜の洗浄などの生活用水として用いている。水源地には洗い場があり、町民の方々によって定期的に清掃活動が行われ清潔に保たれている。夏になるとホタルが飛んでおり、くまもとホタルの里百選にも選定されている。湧沢津水源にもあった甲斐有雄の道しるべ。「右 むろ町 左 ひさいし やべ」と記されている。正教寺。浄土真宗本願寺派の寺院。1607年(慶長11年)に法西という僧侶が建立したと伝えられる。正教寺のある場所から少し下った場所に寺坂水源がある。寺の前の坂を下った場所にあるから寺坂水源と名付けられたんだとか。なんとも安易。寺坂水源。南阿蘇鉄道が通っている高架橋のすぐ真下に水源があるという珍しい光景。高森駅~立野駅を走るトロッコ列車もここを通過するため、写真撮影に来る人もいるそう。湧水池。湧水池の隅の方に砂地があり、そこから水が勢いよく湧いているのが見える。たまに池底から気泡が浮かび、まるでサイダーのよう。砂地で見えた魚群。水源から続く水路。水路から枝分かれしたところに洗い場がある。洗い場にはかつて屋根があったようだが、今は無くなっている。写真の右の方にある置かれている木箱は芋車といい、中に芋を入れて洗い場に設置して水車のようにくるくる回し、水の力を利用して芋の皮を剥くというもの。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.11.05
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南阿蘇村湧水群の一つ。平成の名水百選、くまもと名水100選に選定されている。湧水量は毎分約5t、phは7。清泉が地中から突き上がるように出ていて、湧き出る水の柔らかさは村内一と言われている。水は現在でもいくつかの民家に給水されており、飲料水、生活用水として用いられ、周辺の10町歩(約10万㎡)の水田を潤している。周辺は整備され広いスペースが確保されており水汲みが容易にできるようになっている他、休憩所もあり。広々とした田畑が広がり、ビニールハウスや住宅がぽつぽつと建っている場所に、突如として湧沢津水源は姿を現す。周辺は綺麗に整備されていて、大型車も停められるほどの広いスペースがある。甲斐有雄の道しるべ。「右 ぎをん やべ 左 しんまち千二百六十」と記されている。今から100年以上前に甲斐有雄という石工だった人物が、旅人が道に迷って行き倒れないようにと石材に文字を彫って作った道しるべ。南阿蘇村だけでなく、大分県や宮崎県の山間部や田舎道にも同じものが合計で約1800基設置されている。水汲み場。南阿蘇村湧水群の水源地では共通していることだが、蛇口はなく水面から直接水をすくって汲むようになっている。木に柄杓が掛けられているので、それを使って水汲み。こんこんと湧き出る清らかな湧水。休憩所。東屋が立っている。休憩所の前にある洗い場と思わしき場所。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.11.04
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小国町の福運三社巡りの中の2つで、大きなケヤキの根元から湧き出る湧水と、醍醐天皇の孫である小松女院にまつわる伝えが残る小さな泉。けやき水源は小国両神社の近くにある、樹齢1000年以上と言われるケヤキの木の根元にある水源地。水は古くから枯れることなく湧き続け、何百年にもわたり人々の生活を支えてきたという。水源には水神様が祀られており、かつてここにお参りをした商家が富くじで一番くじを当てたという逸話から、福運を招くスポットとして注目されている。鏡ヶ池は小国両神社の西隣にある湧水池。平安時代の中期に醍醐天皇の孫娘にあたる小松女院が、身分違いの恋で都から豊後国(現大分県)に左遷された恋人の清原正高の行方を追う途中に立ち寄ったと言われている。小松女院は祠の下に清らかな泉が湧いているのを見つけ、正高との再会を祈り己の姿を映し出す鏡を身代わりとして神仏に捧げ、同行していた11人の侍女らと共に1人1枚ずつ、累計12枚の鏡を池に投じたという。その後村人たちはこの池を「鏡ヶ池」と呼ぶようになったそう。けやき水源の全景。けやき水源のケヤキの木。幹囲は7.5m、樹高は18.5m、推定樹齢は1000年。杖立川沿いの木の中でも特に存在感を放っており、根は水面スレスレまで出ている。水源池。池底からは砂を巻き上げながら絶え間なく水が湧いているのが見える。訪れた時は魚群も見えた。時折鯉が泳いでいることもあるそう。昔ながらのレトロな手押しポンプ。試しに押してみたが水は出なかった。昔はここで野菜を洗ったり、スイカを冷やしたり、町民たちの憩いの場になっていたそう。水神様。富くじにまつわる逸話が伝えられているスポットの一つで、小国郷の商家だった橋本順左衛門が毎朝けやき水源の水神様に自然の恵みを感謝し、小国両神社に祈願し、後述の恵比寿様にその日の商いを報告するという三社参りを毎日欠かさず行っていたところ、けやき水源に小舟が入る夢を見てこれを吉兆だと感じ、富くじを引いたところ見事に一番くじを引き当てた。その話を聞いた郷内の城尾村一郎右衛門も参拝を1年続けた結果、4回も一番くじを引き当てたことから、けやき水源は福運を招く場所だと信じられるようになった。その後も福運の話が絶えずに今日まで続いているという。けやき水源から歩いて3分の場所に、鏡ヶ池がある。鏡ヶ池。清らかな小さな泉で水神様が祀られており、ここに醍醐天皇の孫娘である小松女院とその侍女たちが、小松女院と離れ離れになった清原正高との再会を祈り、鏡を投げ入れたと伝えられている。砂の中に鏡(現在水に沈んでいるのはレプリカだそう)が見え隠れしているが、全て見えると災害が起こると伝えられている。今では恋する女性が池に小銭を投げ入れ、恋人との再会を祈ってるんだとか。藤棚があり、ベンチやテーブルも置いてある。鏡ヶ池の碑。恵比寿様。富くじにまつわるスポットの一つ。富くじで一番くじを当てた橋本順左衛門が、毎朝けやき水源の水神様、小国両神社に参拝した後、夕刻にこの恵比須様に商いの報告をしていたという。なお、一番くじを当てた橋本順左衛門と城尾村一郎右衛門は、恩返しとして手に入れた財で町の道を石畳にしたり、寺社に寄進したり、橋を掛け直したり、水害防止の堤防を築くなど、財を独り占めすることなく社会に貢献したという。石畳になった道は「富くじの道」と呼ばれ、今も一部が現存している。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.10.30
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小国町の福運三社巡りの一つで、小国郷を開拓した神を祀る神社。「宮原両神社」と称されることもある。宮原祇園社獅子舞は小国町指定無形民俗文化財、中神楽は南小国町指定無形民俗文化財にそれぞれ登録されている。主祭神は高橋大神(タカハシオオカミ)、火宮大神(ヒノミヤオオカミ)。配祀神に雨宮媛命(アマミヤヒメノミコト)、御妃神二座、御親族の神十六座を祀る。後述の富くじにまつわる逸話から、千両・万両の神様と呼ばれる。社記によると太古の昔、高橋神、火宮神の兄弟神は阿蘇大神こと健磐龍命(タケイワタツノミコト)より小国郷開拓の命を受け、農耕を起こし民に衣食住を与え、殖産興業などの知識を教えたという。郷土を築き上げた多大な功績を敬仰し、仁徳天皇の御代に高橋大神を祀り、反正天皇の御代に火宮大神を祀ったことで両神社の社名が始まったと伝えられる。平安時代、鎌倉時代に社殿が建立されるが、兵乱によって焼失。1689年(元禄2年)に本殿が再建される。1913年(大正2年)に本殿を解体移築し、楼門、拝殿を新築した。1991年(平成3年)に発生した台風19号により境内の杉の木が倒木し、楼門、本殿、社務所が破損・大破。1997年(平成9年)に再建され現在に至る。江戸時代に小国郷でも行われていた、富くじにまつわる逸話が残る。小国郷の商家だった橋本順左衛門が、毎朝けやき水源の水神様に自然の恵みを感謝し、小国両神社に商売繁盛を祈願し、夕刻には鏡ヶ池に祀られている恵比寿様にその日の商いを報告するという、いわゆる"三社参り"を日課にしていた。ある日、順左衛門はけやき水源に小舟が入っていくという不思議な夢を見てこれを吉兆だと感じ、富札を買ったところ見事に一番くじを引き当てた。その話を聞いた郷内の城尾村一郎右衛門は、1年以上も水神様、小国両神社、恵比須様に参拝を続け、見事に4回にもわたって一番くじを当てた。これらの逸話から小国両神社、けやき水源、鏡ヶ池は福運を招くと信じられ、現在も参拝した人から様々な福運の話が上がっているそう。毎年10月14日に御本祭高橋大神祭と献幣式、10月15日に御本祭火宮大神祭、10月16日から18日に御神幸祭、10月19日に御遷座祭が行われている。西参道の石鳥居。扁額には両神社と記されている。右手に社号碑がある。征清神徳記念碑。慰霊碑。手水舎。楼門。1953年(大正2年)に宮山を切り開き本殿を解体移築する際に新築された。1991年(平成3年)に発生した台風19号により境内の杉の木が倒木し、一度倒壊したが、1997年(平成9年)に再建された。額には小国宮と記されている。狛犬。高橋宮御神木。御神木に両手で触り、その触った手で自身の頭部から足の方までさすると力が得られるんだとか。拝殿。1953年(大正2年)に宮山を切り開き本殿を解体移築する際に新築されたもの。前面と左右の軒下に奉納された大きな絵馬が掛けられている。本殿。拝殿背後の少し高い位置にある。正面から見て左の方に高橋宮、右の方に火宮と記された扁額が掛かっている。屋根は台風19号の被害によって一度大破しており、1997年(平成9年)に再建されている。本殿の前には杉の巨樹が2本立っており、2社の境内社が向かい合うように鎮座している(どちらも何社かは不明)。拝殿と本殿。社務所。三神杉。楼門の正面左手にある3本に分かれた杉の巨樹。それぞれの木に高橋大神、雨宮大神、火宮大神の神霊が鎮まっている。拝殿・本殿のある場所から東の方に、杉の木に囲まれた境内社がある。天神社、多賀社。天神社の御祭神は菅原道真公で、学業成就の御神徳がある。多賀社の御祭神は伊弉諾尊(イザナミノミコト)で、開運、商売繁盛、厄除、縁結びの御神徳がある。銭洗い御神水。てぼ(籠)にお金を入れ、御神水をてぼの中にあるお金にかけて清めた後、願い紐に5円玉や50円玉を通して財布に入れる。清めたお金は使うことによって廻り廻って自身に運が巡ってくると言われている。祇園社(廣峰神社)。御祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、無病息災、疫病退散の御神徳がある。7月23日から25日に小国町指定無形民俗文化財に登録されている宮原祇園社獅子舞が行われている。奉納された干支の像。丑、寅、卯、申、亥の像があり、それぞれの像を触るといろんな御利益が得られると言われている。正面鳥居のすぐ横にある、御神木のイチョウの木。根元に綿貫の隠れ岩があり、両手で触ると力が得られるんだとか。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.10.29
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2024.10.18
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○湯の花御膳天ぷら、マグロの刺身、冷奴、茶碗蒸し、小鉢、吸い物、ご飯、漬物脇田温泉湯乃禅の里にある食事処。名物の地鶏釜飯や各種定食、手作りの豆腐などの一品料理もあり。今回いただいた湯の花御膳は人気ナンバー1のメニューで、ボリューム満点の一品。手作りの豆腐とサクッと揚がった天ぷらが美味しかった。脇田の水を使った蕎麦を食べられる手打ちそば処「禅」、地鶏料理が食べられる地鶏炭火焼「ぽっぽしゃん」も隣接している。露天風呂の入浴料金が最大で500円安くなるお食事セットもあり。湯乃禅の里入り口。露天風呂湯乃禅の里。男湯女湯それぞれで違った種類の露天風呂が合わせて9種類ある。サウナもあり。単純温泉で、皮膚病、傷、神経痛、胃腸病に効く。少しカルキの匂いがするのが気になるところであるが。湯上り後の休憩所もあり。竹原古墳。国指定史跡に指定されている古墳を復元したもの。実際の古墳は6世紀後半頃に造られたもので奥壁に壁画が描かれており、石室内からは武器、馬具、装飾品などが出土していることから、かつてこの地を支配していた豪族の墓だと推測されている。脇田温泉。犬鳴峠の麓、犬鳴川沿いにある温泉街。奈良時代から存在しており、歌人の大伴旅人が入浴した記録も残っている。温泉の泉質はアルカリ性単純温泉で、美肌の湯として親しまれている。俳句の道と呼ばれる道沿いには、宮若全国俳句大会の入選作品を記した句碑が連なり、犬鳴川は夏になると川遊びのスポットとして賑わう。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.10.14
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豊後水道の防衛を目的に設けられた豊予要塞の一部で、大型のカノン砲が設置されていた要塞跡。豊後水道の守備要塞として1927年(昭和2年)に構築が開始され、それから4年の歳月をかけて完成された。1933年(昭和8年)に山頂にカノン砲が2門設置され、これらは巡洋艦「伊吹」の後部主砲に搭載されていた。しかし1942年(昭和17年)に行われた演習中に、実弾4発の試射をしていた際に最後の1発が砲身の中で暴発。カノン砲は大破し死者16人、負傷者28人を出す大惨事となった。太平洋戦争の終戦後に軍事要塞の役目を終えた後も遺構は残され、砲台があった場所にはドームが建てられており、地下弾薬庫や冷却水槽などの跡も見られる。カノン砲が設置されていた場所にはドームの他に螺旋階段が設けられており、近年ではフォトジェニックなスポットとして注目され、MVやおおいた麦焼酎二階堂のCMにも採用されたことがある。観覧料は大人200円、小・中学生100円。忠魂之碑。暴発事故の直後に生き残った兵士たちによって建立されたもので、裏側には亡くなった16人の兵士の名前が刻まれている。前の方には当時の実弾が置かれている。平和の塔。太平洋戦争で亡くなった旧鶴見町の町民465名の名前が刻まれている。2000年(平成12年)に巻き網船が豊後水道で巻き揚げたプロペラ。戦闘機のものだが断定は難しく、調査の結果、大日本帝国海軍が設計・開発した二式大型飛行艇のものである可能性が高いという。このプロペラがある場所の隣に、地下弾薬庫跡に続く通路が伸びている。地下弾薬庫跡。奥行きのある部屋で中はひんやりとしていて、かなり湿気ていた。砲台跡登り口。ここから山頂近くの砲台跡まで。かつては砲弾の上げ場として使われていたところで、172段もの階段が続いている。現在は小型のスロープカーが設置されており、それに乗って砲台跡まで行けるようになっている。小型スロープカー「伊吹」。この地にあったカノン砲を搭載していた巡洋艦から名前を取っている。係員の人に操作を教わり、自分で操作して昇降する。通路。脂油庫。太平洋戦争当時の写真が壁に掛けられている。主動力室。壁や天井には電気系統やパイプの跡が見られる。諸管溝、通路。壁には太平洋戦争当時の写真や、豊予要塞・丹賀砲台の歴史について記したパネルが掛けられている。水圧畜力機室、上部冷却水槽。水槽は青色にライトアップされていた。砲側弾火薬庫(廻廊)。砲塔井。かつてカノン砲が設置されていた場所。砲塔井の直径は10m、深さは12.8m、厚さ2m以上のコンクリートの壁に囲まれている。巡洋艦「伊吹」にも搭載されていたカノン砲は45口径30cm砲で、射界210°、最大射程距離は30,000m(有効26,000m)。1942年(昭和17年)に行われた演習での暴発事故によって16人の死者を出し、カノン砲も大破した。今も残る壁のえぐれや焼け跡から、当時の惨状が見て取れる。現在は天井にドームが設けられ、中心には螺旋階段も設けられている。近年ではフォトジェニックなスポットとして注目され、写真撮影に訪れる人もいる。砲塔井天井のドーム。砲塔井を雨や風から守る目的で造られた。山頂から見た景色。豊後水道と佐伯湾が一望でき、大島や元の間海峡も見える。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.10.07
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撮影地:福岡県宮若市 『犬鳴川河川公園』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.29
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大分県佐伯市 『鶴御埼①』の続き。砲台跡へ続く道。駐車場のすぐ近くにある。砲台跡。鶴御埼の断崖に設けられた砲台の跡。岩壁に大きな穴を掘り、中には天井をコンクリートで補強したものも見られる。砲台を守るために前面もコンクリートで塞ぐ予定だったとのことだが、未完成に終わったらしい。奥には砲台同士を繋ぐ通路になる予定だったとされる小部屋が見える。古びた神社。鶴御埼灯台。九州最東端の地である鶴御埼の海抜150mの場所に位置する灯台。1981年(昭和56年)に初点灯され、日本の灯台の中では比較的新しい。白色のコンクリート造りで、高さは14.5m、海面からの高さは197m、光度は410000cd、光達距離は約43km。小島や岩礁が多く存在し、潮流が速く、夏季には濃霧が発生する豊後水道において、船の誘導や位置確認の目標として役立っている。旧海軍望楼跡。鶴御埼が軍事要塞だった頃に、豊後水道の海上監視や艦船との通信、天気の観測に使われていたコンクリート造りの建物。鶴御埼展望台。白色の展望台で、幸せの鐘と双眼鏡が設置されている。九州の最東端、非常に視界が開けた場所にあり、広々とした海と空が一望できる。豊後水道、日向灘が良く見え、天気が良いと愛媛県まで見える。弾薬貯蔵庫跡。水場跡。兵舎跡。鶴御埼が軍事要塞だった頃に使われていたと思われる兵舎の跡。鶴御埼で見られる軍事遺構の中では最も広大なもので、かつて鶴御埼でどれほどの兵隊が駐屯していたかがうかがえる。門柱や塀、建物の基礎が残っている。九州最東端の地へ。少し急な石段を下っていく。休憩所。石垣が立派だが、昔からあるものだろうか?九州最東端の地に到着。九州最東端鶴御埼と書かれた柱が立っている。目先には果てしなく海が広がり、潮風が心地良い。そして…奥にいるアレは何だ?最東端の地に立っている謎のキャラクター。ワカメをモチーフにしたキャラクターか?と最初は思ったが、調べてみたところ「さいとうたん」という鶴御埼のゆるキャラなんだそうな。キャラクターの形状も、鶴御埼の地形をモチーフにしたもののようだ。人気の少ない最東端の地で、異様な存在感を放っている。最東端の地から一望した景色。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.23
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読みは「つるみさき」もしくは「つるみざき」。鶴見半島の先端にある岬で、九州最東端の地。日豊海岸国定公園の一部。東経132度5分、北緯32度55分の場所に位置する。岬は鶴御埼自然公園として整備されており、季節ごとに椿、ツツジ、ノジギク、デイゴなどの花々が咲く。九州で最初に日が昇る場所としても有名で、元旦になると多くの人が初日の出を見ようと訪れる。道中には丹賀砲台園地、灯台博物館、展望ブリッジなどいくつかの見どころがあり、岬には鶴御埼灯台や展望台がある。また、明治から昭和の時代にかけて使われていた砲台跡や兵舎跡など、軍事要塞の遺構も随所で見られる。1894年(明治27年)に日清戦争が勃発したことをきっかけに岬には海軍望楼が設けられ、1926年(大正15年)には豊後水道の入り口に位置することから、豊予要塞の一部として一帯が要塞化された。1931年(昭和6年)に丹賀浦に丹賀砲台が完成。1942年(昭和17年)に鶴見崎第一砲台が設置された一方、丹賀砲台は演習中に砲弾が暴発し大破、多くの死者と負傷者を出した。太平洋戦争の終戦に伴い、軍事要塞としての役割を終えた。佐伯市観光案内所にて九州最東端到達証明書が発行されている。料金は200円(最東端へ行ったと分かる写真などが必要)。元の間海峡段々展望所。鶴御埼北側の元の間海峡では、潮の変わり目に上げ潮と下げ潮がぶつかり合う様子が展望所から見れるようになっている。海峡の先に見える島は大島。パノラマ展望台(展望ブリッジ)入り口。展望ブリッジまでは500mほど山道を登っていく必要がある。パノラマ展望台がある場所の周辺にも、軍事施設の遺構が見られる。この遺構は便所と台所と兵舎だろうか?パノラマ展望台に到着。ちなみにここでいくつか見られるコンクリート造りの円形の台は、西部軍情報隊跡で、豊後水道を通る敵艦隊の方位や距離を測定し、その情報を丹賀砲台に連絡する役割をもっていたそう。パノラマ展望台。標高279mの山の山頂に建てられた、360°の大パノラマを眺望できる展望台。1991年(平成3年)に完成したもので、高さは5.4m、長さは54mもある。展望台から見た、広々とした豊後水道の景色。天気が良いと四国地方が見え、より天候に恵まれていると豊後水道上にある水ノ子島灯台が見える。訪れた時は天気は良かったものの、奥の方がぼんやりとしていて少し残念だった。展望台から見下ろした九州最東端の地、鶴御埼灯台。大分県佐伯市 『鶴御埼②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.22
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多久市の岸川集落に鎮座する神社と、その境内にあるスダジイの巨樹。御祭神は熊野権現(伊弉諾尊(イザナギノミコト))。熊野権現とは熊野三山に祀られている神のことで、イザナギ・イザナミ・スサノオの三神を指すことが多いが、当社にはイザナギのみが祀られている模様。創建の年月は不明だが、創建には豊臣秀吉の逸話があるそう(詳細は不明)。かつては高所に鎮座していたが、参詣が面倒であるために現在の地に遷座した。熊野大権現のスダジイは熊野大権現社の御神木で、樹齢200年のスダジイの巨樹。佐賀の名木・古木に登録されている。石鳥居。のどかな岸川集落の住宅地に唐突と建っている。ここから真っすぐ進んでいくと、左手の丘の上に拝殿が見えてくる。手水。湧き水を使っているようで、水は綺麗に澄んでいた。手水のある場所から更に歩いて行くと左手に石段があり、上ってすぐの場所に拝殿が建っている。拝殿。木造で瓦葺の入母屋造。拝殿の裏にある石祠(本殿)。手前の両脇には杉の木が根を張っており、天高く伸びている。石祠の手前に立っている、灯籠を担いだ2体の鬼の像。天燈鬼に似ているが、何故阿吽の一対になっているのか、寺院に祀られる像のはずなのに何故神社に建立されているのかと謎が多い。拝殿のある場所から更に左の方へ進んでいくと、熊野大権現のスダジイまで伸びている細い石段がある。「熊野大権現のスダジイ」熊野大権現社の御神木。樹高は19m、幹周りは約12m、根回りは20m。推定樹齢200年。あまり知られていない巨樹ではあるが、スダジイの木としては全国で4番目のの大きさを誇る。根回りが非常に大きく、幹が5股ほどに分かれ複数の木を束ねたような形になっているのが特徴。スダジイの前にある石碑。すっかり風化が進み何と書いてあるのかも読めそうにない。幹。真ん中の幹は生育状態があまり良くないようで、中に大きな空洞ができてしまっている。補強しないと折れてしまいそうだ。根。こちらにもどんどん空洞ができていっており、倒れまいと必死に地面に根を張っている様子は生命の強さを感じ取れた。下から見上げて見たスダジイ。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.19
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江里山の棚田の近くにある、小城市を流れる一級河川である祇園川の上流部に懸かる滝。落差は90m。数段の流れを持ち、上段の滝は滝壺があり、下段の滝は長い傾斜のある岩肌を滑るようにして水が流れ落ちる。駐車スペースから滝まで川沿いに遊歩道が伸びており、上段の滝まで行けるようになっている。周辺は500mにも渡る渓谷地域で、地元では「お滝さん」と呼ばれ親しまれている。七曜の滝の入り口。この標識から先は車両進入禁止となっているので、近くのスペースに車を停めて歩いて滝まで向かう。道中に建っている観音堂。最近建てられたもののようだ。観音堂のすぐ横に滝までの道が伸びているので、そこから滝を目指して歩く。滝へ到着。休憩所。下段の滝。何段もある傾斜を、さらさらと心地良い音を鳴らしながら滑るようにして水が流れ落ちる。落差は上段の滝と合わせて90mと高めだが、傾斜が長く続くせいか一目ではそう感じにくい。上へと上がっていくとその高さが実感できるかもしれない。下段の滝の流れ。上から見た下段の滝。上段の滝。滝壺があり下段の滝と比べ落差が低く、急斜面の岩肌を流れ落ちる。滝にはモミジの木がかかっており、秋になると紅葉が綺麗なようだ。上段の滝の滝壺。水深は浅く、水は澄みわたっていた。上段の滝の流れ。滝を見守る観音像。滝の近くで発見した建物の跡。滝に向かう道中に観音堂があったが、かつてはここに建っていたのだろうか?江里山の棚田。彼岸花の名所として有名で、9月下旬になると真っ赤な彼岸花が棚田を綺麗に彩る。夏の中旬に訪れたときは一面が緑に染まっており、稲穂の実りは黄金色に変わっていこうとしていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.18
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2024.09.17
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○カツ丼スペシャルカツ丼、海老天うどん、サラダ、漬物ご飯を埋め尽くすほどの大きなとんかつが載ったカツ丼。これまた大きな海老天が載った海老天うどん。国道386号線・三隅川沿いにあるうどん店。大きなごぼう天が載った名物のジャンボごぼ肉うどんや、釜揚げうどん、板そばなど様々なうどん・蕎麦メニューが揃い、丼ものや定食メニューも豊富。金比羅うどんの名前は、先代社長がうどん職人を志してうどんの本場である香川県丸亀で修行し、金比羅うどんの命名をいただいたとのこと。今回いただいたカツ丼スペシャルは海老天うどんとカツ丼がセットになった、金比羅うどんの定番メニュー。うどんは機械に頼らず全て手打ちで作っているとのことで、コシがあって美味しく、出汁もこだわりの素材と日田の地下水を用い、あっさりとした味わいが特徴的だった。カツ丼は熱々で大きなとんかつが載っていて、とじた卵との相性が抜群だった。ボリューム満点であっという間にお腹いっぱいになり、価格も良心的だった。国道386号線を走っていると目に留まる、大きな店の看板。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.14
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福岡県福岡市 『能古島①』の続き。のこのしまアイランドパーク。能古島の北部に広がる、広さ約150000㎡の自然公園。1969年(昭和44年)に創業者である久保田耕作が、働き続けた人々は自然を求めるだろうと考え、福岡の都心に近い能古島に開園した。春は桜や菜の花、夏はアジサイやひまわり、秋はコスモス、冬はスイセンなど四季の花が咲く花の名所として有名。園内には食事処やバーベキューサイト、アスレチックやミニ動物園などもあり。入園料は大人1500円、子供(小・中学生)800円、幼児(3歳以上)500円(団体割引有)。アイランドパークの花畑。季節によって様々な種類の花が咲いている。訪れた時はサルビア、ブーゲンビリア、ケイトウなどが咲いていた。六地蔵さま。人間の持つ様々な悩みや苦しみを救うお地蔵様。民話「かさじぞう」でもよく知られている。思ひ出通り。姪浜にあった町屋を移築しており、レトロな雰囲気が漂う。食事処や喫茶店、駄菓子屋、土産屋などが並ぶ。陶芸・楽焼が体験できるスポットもあり。レストラン&BBQ「防人」。海と花畑が一望できる場所にある。地魚あぶり丼やカレーライスなどのランチメニューや、手作りのデザート、凍らせた能古島産のいよかんをサイダーで割ったいよかんクラッシュなど豊富なメニューが揃う。手ぶらで炭火バーベキューが楽しめるバーベキューサイトもあり。アスレチック。すぐ近くの木にはブランコが架けられている。西島伊三雄記念碑。福岡市出身のグラフィックデザイナーで、福岡市地下鉄のシンボルマーク、博多座のシンボルマーク、うまかっちゃんのパッケージなど福岡県にまつわるもののデザインを多く担当し、福岡市文化特別栄誉賞を受賞した西島伊三雄氏の記念碑。烽火台。日本書紀に「天智三年、対馬、筑紫国等に防人と烽火を置く」とあり、能古島は万葉集によって防人が存在していたことが明らかとなっている。この烽火台は防人が置かれていた時代に、敵の襲来や遣使船が来た際に煙を上げて大宰府に合図を送るために使われていたと言われており、壱岐島や宇久島の烽火台を参考にして復元したもの。パノラマ花壇。園内の北部、博多湾や志賀島、海の中道が見渡せる場所にある広大な花畑。春は菜の花、秋はコスモスが一面いっぱいに咲き、まるで花の絨毯のようになる。夏に訪れた時は花が植えられておらず、コスモスを植えるため土の耕しが行われていた。野外のバーベキューサイト。宿泊施設「Villa防人」。パノラマ花壇の近くにある、戸建てタイプのコテージに宿泊できる。建物はいずれも2階建てでテラス付き、内装は和風と洋風両方を取り入れたデザインとなっており、露天ジャグジー付きのコテージもあり。ミニ動物園。やぎの家、うさぎ園、ポニー小屋がある。動物たちには餌やりができるようになっている。運動場近くにあったひまわり畑。アイランドパークのひまわりを持ち帰りできるひまわり摘み取りイベントが行われていた。アイランドパークの創業者である久保田耕作氏が乗っていた、自家用のオート三輪。南の花畑。訪れたときは沢山のひまわりが花を咲かせていた。4つの畑があり、それぞれ10日ほど時期をずらして植えているんだとか。春はリビングストンデイジー、秋は遅咲コスモスが咲いているそう。のこのこボール。アイランドパークのオリジナルスポーツで、ゲートボールとゴルフを足して2で割ったようなもの。9コースを回って記録を競い合う。料金は9ホール500円、18ホール800円。牧の神神社。アイランドパークのすぐそばにある牧の神公園に祀られている祠。1799年(寛政11年)に再建された。也良崎万葉歌碑。"沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ(訳)"と記されている。能古島の北端にある也良崎は、防人が置かれていたことが判明している全国唯一の場所。この歌は山上憶良の作と言われており、船出して帰らぬ人となった夫を恋い慕う妻子の悲しみを詠んだもの。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.13
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読みは「のこのしま」。博多湾の中央に浮かぶ島(有人島)。面積は3.95㎢、周囲は12km。人口は約640人。ひょうたん形の島で、山地形で平地が少なく最高標高は190m。福岡市営渡船の姪浜旅客待合所からフェリーで約10分で行けるようになっている。福岡市から手軽に行けるリゾート島として知られる。北部には花の名所として有名な「のこのしまアイランドパーク」があり春は菜の花、夏はアジサイやひまわり、秋はコスモスと、一年を通して様々な花が園内を綺麗に彩る。能古島キャンプ村・海水浴場もあり、食事処やレストラン、カフェも点在する。島の歴史にまつわるスポットもあり、多くの見どころがある。渡船所からアイランドパークまではバスが運行しており、レンタサイクルもあり。古くから存在が知られていた島で、平安時代の731年(天平3年)に書かれた史料においても「能護嶋」の名前で登場している。筑前国続風土記においては神功皇后が三韓征伐から帰還した際に、島に神霊を残し留めて降伏を祈ったことから「残の島」と呼んだという記述がある。奈良時代には島に防人が置かれ、万葉集にも詠われている。中世には外国勢力の上陸があったことが記録に残っており、1281年(弘安4年)の弘安の役では元寇が上陸している。江戸時代には福岡藩(黒田藩)の鹿の狩場となり、残島浦として筑前五ヶ浦廻船の拠点の一つとなり栄えた。1941年(昭和16年)に福岡市と合併した時に、現在の「能古島」の名になった。姪浜旅客待合所。ここからフェリーに乗って能古島に。能古島の他に志賀島、玄海島行きの便もある。待合所の近くからも、目視で能古島が見える。真ん中の島が能古島で、左奥に見えるのが玄海島、右に見えるのが志賀島。フェリーに乗って能古島へ。所要時間は片道で約10分。能古島へ到着。渡船所近くの漁港。永福寺。曹洞宗の寺院。古くは博多区にある承天寺の末寺で、神宮寺と呼ばれていた。創建の年月は不明だが、1602年(慶長7年)の検地帳に載っていることからそれ以前に創建されたと考えられている。明治維新後の神仏分離によって近くにあった養油軒と合併し、寺号を現在の永福寺に改称した。境内には、多々羅義雄の歌碑や二八観音などがある。地元出身の洋画家である多々羅義雄氏の歌碑。"産砂は 伊筑紫くに 能古ヶ島 夕陽の灘をば 何と拝まむ"と記されている。二八観音。1946年(昭和21年)に海上で能古渡船が転覆し遭難、その時船に乗っていた28人が犠牲となった。この観音像はその犠牲者の霊を弔うために建立されたもので、28人の犠牲者に因んで二八観音と名付けられた。能古渡船転覆遭難事故の慰霊碑。能古焼古窯跡。能古博物館の近くにある。1764年(明和元年)から1788年(天明8年)にかけて、当地で有田焼・高取焼系の陶磁器を作るために使われていた窯。本体の長さは22m、最大幅5.28m。焚口部と焼成部7室の合計8室構造の連房式登窯。江戸時代中期に使われ、有田焼系と高取焼系の陶器を焼いた窯は非常に珍しいといい、この窯跡は市で唯一残された古窯跡で、保存状態も非常に良いものとなっている。能許万葉歌碑。"風吹けば 沖つ白波 恐みと 能許の泊まりに あまた夜そ寝る(訳)"と記されている。能許(のこ)という地名が文献に初めて出た歌で、遣新羅使が能許の泊で風待ちをしている時の光景を詠んだもの。能古博物館。能古島の歴史・民俗資料や儒学の筑前亀井学資料、能古島出身の画家である多々羅義雄の作品が展示されている。金、土、日曜日と祝日のみ開館(5月と10月は全日開館)。入館料は大人400円、高校生以下は無料。白鬚神社。御祭神は住吉大神(スミヨシノオオカミ)、神功皇后、志賀明神など。能古島の産土神として崇敬されている。神功皇后が島に住吉の神霊を残し留めたことから「残の島」と呼んだという伝えがあり、その神霊を留めたのが白鬚神社だと言われている。境内には1689年(元禄2年)に寄進された石鳥居や、若者が力試しをした力石などが見られる。毎年10月9日に行われるおくんち行事は、市の無形文化財に指定されている。壇一雄歌碑。能古島は直木賞を受賞した小説家の壇一雄が晩年を過ごした場所としても知られている。旧宅跡には歌碑が建てられており"つくづくと 櫨の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の 有りと云はなく"と妻であった律子の死を悼んで詠んだ歌が刻まれている。北浦城跡。島の東端にある城跡で、藤原純友の家臣である伊賀寿太郎もしくは山上憶良が築城したと伝えられる。平安時代の築城と考えられており、幅4.8m、深さ4.5m、長さ23mの堀が確認されているそうだが、遺構の見学はできないようになっている。能古島展望台。島の中央、山頂195mの場所にある展望台で、福岡市の街や玄界灘に浮かぶ島々を一望できる。福岡県福岡市 『能古島②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.12
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○能古冷やしうどんさっぱりと冷えた能古冷やしうどんのどごしのよい麺。能古島渡船所の目の前にある食事処。刺身や煮魚といった活魚料理、能古うどんがいただける。能古うどんは博多湾の中央に浮かぶ能古島発祥のうどんで、細い麺と強いコシが特徴的。今回は冷やしでいただいたが、麺は細くも弾力があってのどごしもよく、さっぱりと冷えていて夏にぴったりの一品だった。みなとやは渡船所のすぐ目の前、わずか1分足らずの場所にある。能古うどんは土産品としても販売されている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.11
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金田政宗の旅の記録のトータルアクセス数が、200000を突破しました。いつも見て下さってありがとうございます。8月お盆の長野旅行は天候に恵まれ、素晴らしい景色が沢山見れて、美味しいものもたくさん食べれて良い旅となったが、総額10万円以上の大散財…9月以降しばらく遠出は控えたい。紅葉の時季まで我慢。ブログもストックが溜まり過ぎてほとんど書ききれていないし、どんどん書いていかねば。旅の記録はこれからもまだまだ充実させていく。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.09
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撮影地:佐賀県東松浦郡玄海町 玄海町いこいの広場 玄海町花火大会↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.04
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阿蘇と九重の間の森の中にある水源地。熊本名水百選に選定されている。湧水量は毎分30t、水温は一定して13.5℃、pHは7。池山水源と共に産山村を代表する水源地の一つ。約5万年前の九重火山群の火砕流が阿蘇の火山噴出物を覆い、その時に溜まった火山灰や軽石が豊富な水を貯める地層となり、その染み込んだ水が湧水となって湧き出ている。産山川の水源地の一つで、川の流れは最終的に大野川へと合流する。湧水池は原生林に囲まれ静かな雰囲気となっており、秋は紅葉の隠れた名所となっている。水汲み場あり。駐車場から湧水池まで遊歩道が伸びており、約10分ほど歩いていく必要がある。駐車場近くの広場。休憩所やトイレもあり。水汲み場。産山川の清流。川辺は緑が生い茂り、水は川底が見えるほど清らか。水思碑。産山区水道事業の記念碑。遊歩道を歩いて山吹水源まで。所要時間は片道10分ほど。途中で分岐点があるので、案内表示に従って進んでいく。遊歩道の途中にあった、2つの流れの合流地点。歩いて10分、山吹水源に到着。山吹水源の全体像。辺りはありのままの原生林に囲まれている。広さは同じ産山村にある池山水源とほぼ同じくらい。水深は浅い部分が多く、湧水池の中心には祠が建った陸繋ぎの小島がある。リフレクション。山吹水源の天井の景色を、波風立たない湧水池の水面が鏡のように写し出している。四季折々で写る景色が変わり、秋になると紅葉したカエデが綺麗に写る。澄みわたる湧水。池の上に立っている石柱。水神様だろうか?水流でゆらゆらと揺れる水草。池の中心に浮かぶ小島にある祠。池底の砂地を吹き上げながら、水が湧き出ている様子。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.03
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熊本県から大分県まで流れる玉来川の水源の一つである、木々に囲まれた水源地。名水百選に選定されている。湧水量は毎分30t、水温は年間を通して13.5℃。久住連山の伏流水が毎日豊富に湧き出ている。玉来川の源流となっている水源地の一つで、湧水は玉来川を経て大野川へと流れ込み、最終的には別府湾へ注いでいく。地元の人々からは古くから生活用水や灌漑用水として用いられ、1985年(昭和60年)からは飲料水としても用いられている。水汲み場もあり。湧水池の周辺は樹齢200年以上の木々に囲まれ、池には水神様が祀られており、神秘的な雰囲気が漂う。祀られている水神様の一つは1976年(昭和51年)に池の底から掘り出されたもので、約200年前の大水害で流出したものだと言われている。毎年8月5日を祭日とし、御祭りが続けられている。毎年6月中旬にはホタルが見れる。また、夏の一定期間中は夜間にライトアップがされている。玉来川源流の碑。カフェスタンドフォーシーズン。池山水源入り口にあるカフェ。湧水で淹れたコーヒーをいただける。藤棚。足水ができるようになっている。水は1分間も浸かっていられないほど冷たい!全国名水百選、熊本県名水百選の碑。橋を渡った先に湧水池がある。玉来川と池山水源の湧水の合流地。石橋の下には小滝があり、水の透明度は非常に高く澄みわたっている。川の水深が深いところは水がエメラルドグリーンに輝いて見えた。石橋。周辺にはモミジの木があり、秋になると周辺の紅葉が美しくなる。湧水池から玉来川の合流地まで続く小川。湧水池。辺りは木々に囲まれ静かな雰囲気で、木の隙間からこぼれた日は澄みわたる湧水を通じ池底まで照らしていた。池の底には水草が生え、まるで山肌のように生い茂っていた。祠に祀られている水神様。水神様が祀られている場所のそばから、水がこんこんと湧き出ている。池に寄りかかる木のそばからは、池底の砂地を吹き上げながら水が湧いている様子が見えた。池の中心に祀られている水神様。水汲み場。水汲みは基本的に無料だが、維持費のお願いがされている。絶え間なく大量の水が湧いており、訪れた人の中にはポリタンクを数十個持参し汲んでいた人もいた。水汲み場の目の前にはうぶやまの水の工場がある。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.09.02
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読みは「かみしきみくまのざじんじゃ」。高森町の四大熊野座神社の一つで月形山の麓に鎮座し、地元からは「権現さん」と呼ばれ親しまれ、近年に入って参道の神秘的な雰囲気が話題となった神社。御祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、石君大将軍。農耕、金運の神として霊験あらたかで、縁結び、商売繁盛の御利益もある。石君大将軍は阿蘇大明神こと健磐龍命(タケイワタツノミコト)の荒魂。石君大将軍の兜の中に2柱の神が現れ、その2柱の神は熊野大明神とされ、紀州国の熊野より伊邪那岐命と伊邪那美命を移して奉斎したのが始まりだと言われている。阿蘇南郷地区の総鎮守として社殿が建立されるが、天正年間に兵火により焼失。1722年(享保7年)に現在の社殿が建立される。1897年(明治30年)に鳥居が建立され、1979年(昭和54年)に社殿が改修され現在に至る。一の鳥居から社殿までの参道には220段余りの石段が続いており、その両脇には約100基もの石灯籠が連なっている。木々に囲まれた参道、苔生した石段と石灯籠は非常に神秘的な雰囲気で、まるで別世界のような景色であることからSNSを中心に大きな反響を呼び、雑誌やテレビでも紹介され話題となる。「夏目友人帳」の原作者として知られる緑川ゆき氏のアニメ映画「蛍火の杜へ」の舞台のモデルとなったことでも知られ、国内のみならず海外からも連日多くの観光客が訪れる人気スポットとなっている。一の鳥居。一の鳥居の両脇にある、年季の入った変わった姿の狛犬。まるで異世界の入り口であることを示唆しているようだ…参道入り口の狛犬。参道入り口の賽銭箱。社殿まで行けそうにない場合はここでの参拝も可。参道の途中にある手水鉢。参道。社殿までは220段にも及ぶ石段が続き、両脇には苔生した約100基の石灯籠が連なっている。神秘的な雰囲気に包まれ、参道を進むごとにまるで異世界に迷い込んだかのような錯覚にとらわれる。晴れた日は参道に木漏れ日が差し込み、早朝や雨の日に霧が森を包み込むと更に神秘的な景色となる。ちなみに、石灯籠は1864年(元治元年)と1867(慶応3年)に1対1基が奉納され、1968年(昭和43年)以降に地元企業の後藤食品が毎年寄進したものだという。後述の穿戸磐を鬼八法師が蹴破った際に飛んだとされる岩。参道の途中の左手にある。二の鳥居。当社で最も有名なフォトスポットで、アニメ映画「蛍火の杜」の一枚絵のモデルとなった景観。参道の終点間近になる場所で、最も神秘的な雰囲気が漂う。前述の通り天候や訪れる時間によって見える景色は変わるが、共通して緑色の苔が生している夏の時期が最も綺麗に見える。また冬の雪化粧も美しい。二の鳥居をくぐれば社殿まであと少し。拝殿。月形山の麓に鎮座する欅造の社殿。1722年(享保7年)に建立され、1979年(昭和54年)に改修されたもの。参道とは対照的に日が当たる場所に建てられており、日光が差し込むと輝いて見えた。拝殿の額。本殿。拝殿のすぐ裏側にある。拝殿前の狛犬。後藤戢頌徳碑。当社とゆかりのある食品会社、後藤食品の創業者である後藤戢氏の頌徳碑。社殿の左手に、穿戸磐まで続く道が伸びている。穿戸磐。健磐龍命の従者である鬼八法師が自らの行いで健磐龍命を激怒させてしまい猛追され、逃げようとするもこの岩壁に阻まれ、その際に鬼八法師が蹴破ってできたと言われる巨大な風穴。大きさは縦横どちらも10m以上。伝えの内容から、困難な目標でも必ず達成できる象徴として、合格・必勝の御利益があると言われている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.31
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○だいこんや定食煮しめ、ミニだんご汁、野菜の天ぷら、高菜ご飯、サラダ、小鉢、漬物、ぜんざいサクッと揚がった自家製野菜の天ぷら。看板メニューの一つ、だんご汁。たっぷり野菜の煮しめ。セルフサービスとなっている手作りの漬物。こだわりの自家製野菜を用いた農家料理が食べられる食事処。改築した築140年以上の古民家でゆったりと食事が楽しめる。メニューは小麦粉や米粉を使っただんご汁やそば・うどんを中心に、熊本県のブランド牛、赤牛の石焼ステーキもあり。今回いただいただいこんや定食は、店長自らが自家農園で栽培した野菜をふんだんに使った料理を中心とした定食。米や茶葉まで自家製で、農家直営の減農薬野菜を贅沢に使っている。阿蘇五岳の近く、ゆったりとした雰囲気の中、素朴な味付けの郷土料理を楽しめた。古民家を改築した店内。当時の柱や梁はそのままで、昔ながらの雰囲気がそのまま残っている。古い農工機なども、店のオブジェとして飾られている。お土産コーナー。醤油、味噌、ケチャップなどの加工品に加えて、店長自らが育てた野菜の直売がされていることもある。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.30
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清水寺の境内にある湧水地。日本名水百選に選定されている。湧出量は1日700tで、年間を通して水量は安定している。水温は17℃、pHは7.8。1249年(建長元年)に常陸国(現茨城県)の僧である日用比丘という僧がこの地に立ち寄り、木々の中に清らかな水が湧き出ているのを発見したのが始まりと言われている。以来地域の人々から霊水として崇められ、現在では飲料水や生活用水、灌漑用水としても用いられている。清水寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦牟尼沸。前述の日用比丘が清水湧水を発見した後この地に滞留することを決意し、村人と交流し僧の徳に感じた村人は物資や労力を喜捨し寺院を建立。清水寺と呼んだのが起源となっている。天正年間の兵火によって一時は衰退したものの、1668年(寛文8年)に久留米藩によって復興され、梅林寺二世澤雲和尚が高弟の休岳和尚を入山させ再興を図った。最近では境内にある地蔵の頭に生した苔がまるでリーゼントの髪型のように見え、リーゼント地蔵と呼ばれ話題になったことがある。山門の前にある湧水の小滝。清水寺の山門。年季の入った木造の門。周辺はモミジの木があり、秋は紅葉が美しい。日本名水百選清水湧水の碑。湧水池を見守る不動明王像。水汲み場。水汲みそのものは無料だが、整備料として100円の寄付がお願いされている。湧水池。木陰がかかり、池の水深は一定して浅い。澄みわたる湧水。清らかな湧水の中を、魚が泳いでいた。清水寺。境内は木々に包まれており、静寂な雰囲気が漂う。石垣や石畳は苔が生し、伽藍は年季を感じさせ、寺院の長い歴史を伝えている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.19
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大分県津久見市 『保戸島①』の続き。景行天皇腰掛石。景行天皇がこの島に立ち寄られ、腰掛けられた岩と伝えられる。この周辺は埋立地で以前はここまで潮が来ており、この石も元々は巨大な岩だったという。法照寺。浄土真宗西本願寺派の寺院。1597年(慶長2年)に僧の宗蓮が建立した(諸説あり)。1854年(安政元年)に再建。太平洋戦争にてグラマン機の機銃掃射を受け、柱に弾の跡が残っている。海徳寺。浄土宗知恩院の末寺。1605年(慶長10年)に佐伯藩初代藩主の毛利高政の命により建立。保戸島空襲の時の遺骨で作られた骨地蔵が祀られている。御大師様井戸。海徳寺の境内にある井戸。岩清水が湧き出ており、水質も良いことから水道が普及するまでは島民の飲料水としても使われていた。墓地と町並み。県道612号線。とても車が通れそうにない狭い道だが、れっきとした県道。道の端にはちゃんと県道612号の表示もある。車は通らない代わりに、リヤカーや自転車が走っている。保戸島郵便局。島内でただ一つの郵便局。御虎御前様。曽我物語の登場人物として知られる虎御前が、諸国慰霊の最中に遺体となって島に漂着し、保戸島の某氏が丁重に弔ったという。虎御前伝説は各地で伝えられているが、保戸島においては厄病除けの祭神とされている。保戸島小学校・中学校。戦没学徒慰霊碑。1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦間際に、アメリカ軍のグラマン機が島に爆弾を投下し、保戸島国民学校(現保戸島小学校)に直撃。児童125名、教員2名の命が奪われ多数の重軽傷者を出した。その当時の悲劇を忘れないようにと建立された慰霊碑で、犠牲となった児童と教員の名が刻まれている。島の南端の港とカモンバイ(岩礁)。夏になると港で泳いで遊ぶ人もいるそう。カモンバイにはマツバキクの群落がある。島の南端にある観音堂。亀の甲に立っている中ノ島観音様が安置されている。島の南端からは四浦半島がすぐ目前に見える。保戸島漁村センター。マグロ漁港の拠点となる場所。漁業通信速報が貼り出されており、各船の活動が一目で分かるようになっている。乗船時間ギリギリだったが、フェリーに乗って帰路についた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.18
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四浦半島沖の豊後水道に浮かぶ島(有人島)。保戸島集落は未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選定されている。面積は0.86㎢で、周囲は4km。人口は約600人。島は平地が少なく大部分が山で構成されており、最高標高は179m(遠見山)。津久見港からフェリーで約25分で行けるようになっている。マグロ漁業の島として古くから知られており、1890年(明治23年)頃にマグロ漁が始まり、それから大正・昭和と大いに賑わい、一時は漁船167隻、漁業従事者1000人以上を抱えていた。当時と比べ漁業の規模は縮小したが、現在もマグロ遠洋漁業の基地となっている。かつては保戸島村として独立した自治体だった。前述の通り平地が少なく、海岸沿いの斜面にコンクリート造りの家が建ち並んでおり、その風景が地中海の街並みを連想させることから「日本のナポリ」と呼ばれることもある。また、島内には多くの野良猫が生息しており、猫島に分類されることもある。島の名前の由来はこの島を訪れた景行天皇が海底の美しい海藻に気付き「最勝海藻(ほつめ)を取れ」と言われ、その"ほつめ"という呼びが転訛し"ほと"となり、それが保戸島の名前に残ったと伝えられる。島内には景行天皇が腰掛けられたという石が残っている。フェリーに乗って保戸島へ。島の至る所に置かれているリヤカー。島には車が走れる道路が少なく、代わりに自転車やリヤカーが活躍する。どちらも軽車両に含まれるので車と言えば車だが。埋立地の住宅群。アパートのような3階建ての住宅が建っているが、色の違う家は全て別の家。石鎚神社。御祭神は石土毘古神(イワツチヒコノオオカミ)で、波切不動明王も祀る。海上安全を祈願して勧請され建立された。島の北端にある石鎚山の頂上に鎮座する。石鎚山の頂上から見た景色。北側の港が見える。島で生活する野良猫たち。あまり人に慣れていないのか、近づくと逃げてしまう猫が多い。島民の迷惑になるので無断で餌やりをしてはいけない。高台から見た海沿いの住宅群。加茂神社。御祭神は別雷命(ワケイカズチノミコト)。小高い山の上に鎮座する。1553年(天文4年)の創建で、島の鎮守神として京都府の上加茂神社より別雷命を勧請し祀ったのが始まり。毎年3月、7月、12月に祭事が行われ、7月の祭りが大祭となっている。大祭では神楽が奉納され、獅子や神輿が島内を巡幸し、神輿は最終的に海へと入っていく。出店や花火もあり、島外からも多くの見物客が訪れ大いに賑わう。海沿いの住宅群。島内には平地が少ないため、海沿いの傾斜に3・4階建てのコンクリート造りの住宅がひしめくようにして建っている。その風景は地中海の街並みを彷彿させ、イタリアのナポリと似た景色であることから「日本のナポリ」と呼ばれるようになった。路地。島の生活道で、人が2人並んで歩ける程度の狭い道が敷き詰められた住宅の隙間にできている。路地に入って少し歩けば分岐があり、さらに歩くとまた分岐…どちらに進めば目的地にたどり着けるか?まるで迷路を歩いているかのよう。大分県津久見市 『保戸島②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.17
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○ひゅうが丼ひゅうが丼、吸い物、漬物たっぷりマグロが載ったひゅうが丼。津久見のマグロ料理が食べられる海鮮料理店。名物のまぐろステーキをはじめ、保戸島の名物であるひゅうが丼や海鮮丼、新鮮な魚の刺身などが食べられる。今回いただいたひゅうが丼は、おおいたグルメグランプリで2年連続で金賞を受賞した津久見の名物料理。明治時代からマグロ漁が行われている保戸島の漁師が、漁の合間に手早く栄養のあるものを食べられるようにと考案したもの。マグロの赤身を醤油や砂糖や卵黄などを入れた特製のゴマだれに漬け、それを温かいご飯の上に載せた料理。言うならば海鮮スタミナ丼といったところ。地域によっては「りゅうきゅう丼」「あつめし」と呼ばれることもある。タレが赤身の本来の味を邪魔しない程度に絶妙に染み込んでいて、ご飯との相性が抜群。スタミナもたっぷりで、午後の旅の糧になった。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.14
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明日から3泊4日で、長野県へ旅行へ行く。同県に渡るのは5年振り。初日は安曇野へ行き、2・3日目は天候によって上高地もしくは奈良井宿へ行く。上高地は人生で何度でも行きたい場所の一つで、久しぶりにあの梓川と穂高連峰の美しい景色が見れるとなると楽しみでたまらない。ただ、少し天候が悪そうなのが気がかりだが…当日晴れることを祈るしかない。最終日は名古屋まで下り、初めて愛知県を観光しようと考えている。旅の記録に一つ新しい都道府県が増えそう。お盆の時期は新幹線が全席指定席になったが、予約は難なく取れた。宿は3日とも違う宿を取り、いずれも大浴場付き。3日目は浅間温泉の温泉ホテルに泊まる。今年の夏は良い旅行になりそうだ。最近は九州・関東で地震が立て続けに起こり、南海トラフ地震の発生もほのめかされているが…大丈夫だろう。多分…例によって旅先の写真はXに投稿します。X(旧Twitter)→金田政宗Xそういや報告し忘れていたが、デジタルカメラを買い替えた。Canon PowerShot SX70 HS。長らく使っていた中古で買ったPowerShotをアップグレード。ズーム性能に優れ、高画質で光学65倍、プログレッシブファインズームで130倍のズームが可能。様々な撮影モードがあり、4K動画も撮れる優れモノ。これからの新しい旅の友。よろしく。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.10
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○洞門パティオのビュッフェビュッフェで選んだおかず、カレーライス、味噌汁ビュッフェで選んだおかず。空芯菜の炒め物、そばサラダ、特製からあげ、ゴボウのかき揚げ、野菜サラダ、こんにゃくの煮物、ペペロンチーノ、冷やしトマト、金時豆の煮豆。追加で取ったおかず。ちぢみ、酢鶏、大分県産天草で作ったところてん、そうめん。地元で採れた食材を使った野菜料理中心の、種類豊富なビュッフェ。手作りのデザートもあり。食後のデザートのプリン。耶馬渓橋のすぐ近くにあるビュッフェレストラン。耶馬渓で作られた新鮮野菜を使った、体にやさしい惣菜料理を中心とした数十種類の日替わりメニューを安価でいただける。別料金でドリンクバーもあり、その中のオリジナル野菜ジュースも評判。店は木造の建物で広々としていて、温かい雰囲気の中、美味しい手作りの料理をお腹いっぱいになるまでいただいた。物産館も併設している。地元で採れた新鮮な野菜だけでなく、手作りの梅干し、こんにゃく、蜂蜜などの加工品や、耶馬渓からししいたけ、柚子胡椒ドレッシングなどの特産品もあり。すぐ近くにある耶馬渓橋。これまで数多の水害に見舞われながらも、橋は崩れることなく原型を保っているが、以前の豪雨災害で欄干を半分近く失っており、訪れたときは全面通行止めになっていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.08
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山国川の支流である津民川に懸かる滝。落差は7m。落差は高くないが水量豊富で、岩壁に囲まれた大きな滝壺を持つ。滝壺までは整備された道がなく、川沿いに転がった石を渡っていく必要がある。上流に津民川河川プールがあるが、2024年(令和6年)現在は閉鎖されている。落合の滝への下り口。ここから滝の下流にある淵まで降りられる。滝の下流の淵。流れは緩やかで水も綺麗。ここなら夏は水遊びができそう。淵の方から上流の方に目線を向けると、落合の滝が落ちているのが見える。滝壺まで行くには川沿いに転がっている石を渡る必要がある。くれぐれも足元には注意したい。増水している場合は危険なので行かない方がいい。なんとか滝壺まで到着。滝の全景。落差はそこまでないが、広い滝壺に向かって勢いよく水が流れ落ちている。滝には日光が当たり、滝壺は岩に囲まれ木陰が包み込み、演出感を感じさせるものとなっている。水が流れ落ちていく様子。滝壺。滝水が力強く滝壺を叩き続けてているため、水面には常に波が立っている。滝壺から流れ落ちる、ゆるい傾斜を持った小滝。滝の上流にある津民川河川プール。2024年(令和6年)現在は閉鎖されている。川中に津民川の清流を利用したプールが設けれているが、2023年(令和5年)の豪雨災害で崩壊しており、修復工事が進められている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.06
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福岡県福岡市 『筥崎宮①』の続き。絵馬殿。写真には写っていないが周辺にはハトが沢山おり、餌やりができるようになっている。中には手に乗ってくる個体もいる。亀山上皇尊像奉安殿。第九十代天皇に即位された亀山上皇(亀山天皇)の木彫ご尊像を安置する。博多区の東公園にある亀山上皇の銅像の原型となったもので、博多出身の彫刻家である山崎朝雲によって造られ、1902年(明治35年)に完成した。総高は612.4cmで、明治時代の木彫像としては最大級の大きさを誇る。筥松。当宮の御神木。応神天皇が筑紫国宇美の里(現粕屋郡宇美町)にてお生まれになられた際、御胞衣(へその緒や胎盤)を筥に納めて白砂青松の浄地に埋め、標となる松を植えたことから筥松と名付けられた。筥松のある崎ということで「筥崎」の名が起こったと言われている。楼門。国指定重要文化財に指定されている。1594年(文禄3年)に筑前領主の小早川隆景が建立したもの。三間一戸の入母屋造。「敵國降伏」の扁額が掲げられていることから伏敵門とも呼ばれている。両翼から拝殿と本殿を囲むようにして回廊が伸びている。本殿と拝殿も同様に国指定重要文化財に指定されている。921年(延喜21年)に藤原真材が神殿を造営し、何度か焼失と再建を繰り返した後、現存するものは1546年(天文15年)に大内義隆が建立した。本殿は46坪、九間社流造の檜皮葺で漆塗。拝殿は切妻造の檜皮葺。本殿と拝殿はどちらも神前結婚や祈願の時以外は入れず、また写真撮影は禁止されている。敵國降伏の扁額。亀山上皇が奉納した醍醐天皇の御宸筆とされており、それを楼門が建立された際に謹写拡大したもの。敵國降伏という字だけ見ると、武力で敵を殲滅させるといった物騒・挑発的な意味で捉えられるが、実際の意味はそうでなく、徳の力をもって導き、敵が自ら靡き、降伏するという我が国のあり方を説いている(所謂"王道")。西参道の鳥居。東末社。商売繁昌の神・田畑の守り神を祀る稲荷社、海上交通の守り神を祀る住𠮷殿、子育ての神を祀る乙子宮、不老長寿・健康の神を祀る武内社、手足の守り神を祀る池島殿の5社。西末社。火除の守り神を祀る民潤社、旅行安全の神を祀る厳島殿、八幡様の親神・家族の守り神を祀る仲哀殿、芸能文化の守り神を祀る若宮殿、海と空の守り神を祀る龍王社の5社。東末社と同じくどの神様が祀られているのかははっきりとしていない。あじさいの花手水。筥崎宮あじさい苑。平成の御大典を記念して造られた神苑。1700坪の敷地に、社殿を借景にブルーダイヤモンド、ピンクダイヤモンド、墨田の花火、ロイヤルブルーなどの約100品種、3500株のアジサイの花が咲く。6月のみ開苑されており、入苑料は300円。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.02
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読みは「はこざきぐう」。必勝祈願の神社として知られ、大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡宮と共に日本三大八幡宮の一つに数えられている。別称は「筥崎八幡宮」。「箱崎宮」と記されることもある。本殿、拝殿、楼門、一之鳥居が国指定重要文化財に指定されている。主祭神は応神天皇で、配祀神に神功皇后、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を祀る。勝運の神、厄除の神として崇敬されている。創建については諸説あるが、社伝によれば921年(延喜21年)に建立されたと伝えられている。921年(延喜21年)に八幡大神より御神託があり、玄界灘に面して神殿が建立され、醍醐天皇の神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜されたとされる。923年(延長元年)に現在の地に遷座した。創建後は祈りの場として広く崇敬され、また海外との交流の門戸としての役割も果たした。元寇の折には神風が吹き、元軍に大損害を与え奇跡的な勝利を収めたことから勝運、厄除の神として崇敬されるようになり、足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉などの武将が参詣し、御神徳を仰いだことから繁盛していく。江戸時代には黒田藩(福岡藩)の歴代藩主からも篤く崇敬された。現在では全国より崇敬を集め、必勝祈願の神社として栄えている。境内には「筥崎宮あじさい苑」があり、6月になるとあじさいまつりが開催され、苑内に咲く約100品種、3500株のアジサイを観賞できる。また、表参道には「筥崎宮神苑花庭園」があり、こちらは春は桜やシャクヤク、6月はアジサイとユリの花々が咲く本格的な回遊式日本庭園となっている。毎月の1日と15日(1月1日、9月15日除く)に月次祭が行われ、春季と秋季に社日祭(お潮井取り)が行われている。1月に玉取祭(玉せせり)、5月にさつき大祭、7月に七夕祭と夏越祭、9月に放生会、12月に御降誕祭となまこ餅つきなど、年間を通して多くの神事・祭事が行われている。中でも9月の放生会は博多三大祭りの一つに数えられ、万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りを感謝する祭りで1000年以上にわたり行われており、祭りの期間中は参道に多くの露店が立ち並び大いに賑わう。2年に一度、福岡市無形民俗文化財に指定されている御神幸が行われている。お潮井浜(箱崎浜)。春季と秋季に社日祭が行われている場所。社日祭とは五穀豊穣・除災招福・家内安全を祈る祭事で、お潮井汲みと称してお潮井浜の砂を頂いて自宅に持ち帰る。福岡県神社庁の敷地内にあり、社日祭の日以外は立ち入り禁止となっている。高燈籠。表参道の入り口にある、高さ6mの石造りの燈籠。元々は箱崎浦の漁師たちの帰船の目印として造られたもので、最初の燈籠は1817年(文化14年)に完成。1882年(明治15年)に現地に移され、上部が石造りになった。現在の燈籠は1968年(昭和43年)に改築されたもの。かつてはこの隣に大鳥居があったが、2018年(平成30年)に撤去されている。石碑群。安武仙涙の歌碑。筥松川柳会の創立者で、1972年(昭和47年)に福岡市文学賞を受賞した安武仙涙氏の喜寿を記念して建立された。明石元二郎顕彰碑。明治期の軍人、男爵で日露戦争時に単身で欧州に赴いて活躍し、その後は第7代台湾総督として経済発展の礎を築くも病没した、明石元二郎大将の顕彰碑。筥崎宮神苑花庭園。豊臣秀吉が当宮にて大茶会を開いて400年、さらに地下鉄箱崎宮前駅の開通を記念して1987年(昭和62年)に開園した。回遊式日本庭園となっており、春は桜やシャクヤク、6月はアジサイとユリ、冬には牡丹の花が咲く。入園料は季節により異なる。二之鳥居。参集殿。当宮での結婚式の案内受付がされている。一之鳥居。国指定重要文化財に指定されている。1609年(慶長14年)に福岡藩初代藩主の黒田長政が建立したもの。柱は3段に積み上げて1本の柱としており、笠木と島木両方の先端が反り、貫と笠木が同じ長さであるなど変わった特徴をもつことから、筥崎鳥居とも呼ばれる。社号碑。手水舎。銭洗御神水。金銭を御神水で清めて福寿開運を念じる。持ち帰った金銭を使うことで世の中を巡り福を授かると言われている。お潮井砂。先述のお潮井浜で汲まれ、厄除開運の祈願がされた真砂。この真砂をてぼ(籠)に入れて玄関に備え、外出の時に身に振りかけて災厄から逃れることを祈る。湧出石。古事によればこれに触れると運が湧き出ると言われており、1672年(寛文12年)の筥崎宮縁起絵巻にもその存在が描かれている。また、国に一大事がある時に地上に姿を現すとの言い伝えがある(今姿を現しているということは国が一大事だということなのだろうか…?)。社務所、授与所、ご祈願受付所。御札、御守り、縁起物などの授与品があり、御朱印や御祈願の受付もここで行われる。唐船塔。当宮に仕えた唐人の祖慶官人と日本人妻、その子供たちの家族の悲劇を描いた謡曲「唐船」にちなんだ供養塔。手前にある一対の石は祖慶官人と妻が別れるときに腰かけて名残を惜しんだといわれるもので、夫婦石と呼ばれている。大楠。幹回11.4m、樹高15m、樹齢800年のクスノキの巨樹。幹には大きな空洞ができている。さざれ石。国歌「君が代」にも詠まれているさざれ石。元寇歌曲碑。蒙古軍船碇石。県指定重要文化財に指定されている。蒙古軍(元軍)の船の碇として使われていたと伝えられる、長さ2m、推定重量250kgの石。1940年(昭和15年)に博多港中央波止場近くの海中から引揚げられた6本の碇石の中の一本で、石質は凝灰岩。筥崎宮清明殿。当宮での結婚披露宴の会場となる建物。挙式会場となる本殿、儀式殿から徒歩1分の距離にある。儀式殿。昭和初期に建立され、正面に御神座を設け筥崎宮の大神様を祀り、婚礼を執り行っている。福岡県福岡市 『筥崎宮②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.08.01
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撮影地:福岡県北九州市戸畑区役所周辺 戸畑祇園大山笠↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.31
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撮影地:福岡県柳川市 『三柱神社』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.28
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撮影地:福岡県みやま市矢部川瀬高橋上流付近 みやま納涼花火大会 The FINAL↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.27
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記事はこちら→大分県日田市 『楓葉の滝』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.21
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記事はこちら→宮崎県延岡市 『行縢の滝』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.19
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読みは「うどのたき」。杵築市南部を流れる松尾川に懸かる滝。落差は12m。段差のある黒い岩肌を枝分かれするように水が流れていくのが特徴。白竜が潜むという伝説が残り、秘境感のある滝となっている。遊歩道があり滝の近くまでいけるようになっているが、長年にわたって放置され悪路となっており、さらに一部が崖崩れになっているので危険。かつては下流に松尾川河川プールがあり、夏は納涼地として多くの人が訪れていたが、2020年(令和3年)3月をもって閉鎖している。目印となっている白竜伝説 名瀑羽門の滝と書かれた立て看板。駐車場。休憩スペースもあり。川の方へ下りる階段。滝まで伸びている遊歩道。長期にわたって放置されているようで、荒廃が進み一部は崖崩れが起きており危険。近くまで見に行くのは自己責任で。滝の全景。足元に注意しつつなんとか撮影。周辺は滝を特徴付けるようなものがないが、秘境感溢れる雰囲気の中、静かに流れ落ちている様が美しい。水が黒い段状の岩に当たり、枝分かれしながら流れ落ちていく様子。松尾川河川プール跡。2020年(令和3年)に閉鎖してからずっと放置されているようで、雑草が生い茂り廃墟と化してしまっている。ウォータースライダーがあり、奥にもう一つ小さなプールがあるらしい。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.15
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○瓦そばと岩国寿司瓦そば、岩国寿司四角い形に盛った酢飯の上に山菜、レンコン、錦糸卵、でんぶを乗せた岩国寿司。熱した大きな瓦の上に盛った瓦そば。ダシにもみじおろしを入れてレモンを搾り、海苔・肉・錦糸卵を入れ、麺をダシにつけていただく。錦帯橋を渡った先にある、瓦そばが食べられる食事処。瓦そばは山口県を代表する郷土料理で、熱々に熱した大きな瓦の上に茶そばを乗せ、錦糸卵や肉などを盛りつけたもの。西南戦争の時に薩摩軍の兵士たちが野戦の合間に瓦を使って肉や野菜を焼いて食べたという話を元に、川棚温泉で考案された料理だといわれている。茶そばは上の部分ほどもっちりとしていて、下の部分は熱した瓦でカリッと焼きあがっている。岩国寿司は岩国領初代領主の吉川広家が合戦に備えて作らせた保存食で、それがやがて町民へと広がったものだと伝えられている。ちらし寿司を四角い形に切り抜いたようなもので、「角ずし」と呼ばれることもある。今回いただいたものは一層だけの作りだが、本格的なものだと食材を酢飯の上に載せて何層も重ね、サンドイッチ状にしたものとなっている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.13
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読みは「きっこうじんじゃ」。岩国藩主、吉川氏歴代の神霊を祀る神社。本殿、拝殿、幣殿、神門、鳥居は国指定重要文化財に指定されている。御祭神は吉川元春、吉川經義、吉川友兼、吉川經基、吉川興經、吉川元長、吉川廣家、吉川經幹、吉川廣嘉。いずれも岩国藩主だった吉川氏歴代の神霊。岩国藩主の祖先である吉川元春が、天文年間に祠を建て祖霊を奉祀したことが始まり。後に岩国藩主吉川氏の先祖を祀る三社を統合し、1884年(明治17年)に御土居跡に建立され現在に至る。現在の社殿は1728年(享保13年)に白山神社の境内に造営され、1885年(明治18年)に現在の場所に移築された。春は桜やツツジ、初夏にはアジサイ、秋には紅葉が周辺を彩る。かつては社殿の左手に天然記念物にも指定されていたエンジュの巨樹があったが、幹の空洞化によって大部分が伐採されてしまっている。参道入り口の石橋。外堀。鯉と亀が泳いでいて、鴨もおり、時々白鳥がいることもある。一の鳥居。くぐったすぐ先の両脇に玉乗りの狛犬がある。田中穂積先生胸像。元日本海軍の軍人で作曲家の田中穂積の胸像と同氏の代表曲「美しき天然」の歌碑。1954年(昭和29年)に田中穂積顕彰会が設立され、彼の名誉を後世に伝えるために建立された。周辺では美しき天然がずっと流れ続けている。二の鳥居。国指定重要文化財に指定されている。この鳥居から神門、拝殿、本殿と一直線に繋がる構造になっている。神門。国指定重要文化財に指定されている。檜皮葺の四脚門で、冠木の中央には吉川家の家紋がある。拝殿。国指定重要文化財に指定されている。1728年(享保13年)に建立されたもの。入母屋造で、背面に幣殿が張り出している。神門、拝殿、幣殿、本殿が同時期の建築で揃っているのは大変貴重であるという。本殿。国指定重要文化財に指定されている。1728年(享保13年)に建立されたもの。横からの写真しか撮れなかったので全体像が見えないが、三間社流造で正面に軒唐破風と千鳥破風が付く構造となっている。吉香公園の古桜。吉香公園には明治時代に植えられた古い桜が数多く残っている。この桜は明治時代に植えられた百年桜と呼ばれる桜の一本であると言われている。褒忠社。吉香神社の末社。岩国領初代領主の吉川広家が竜門寺境内に節臣廟を建立し、死節の家臣を祀り回向所としていたが、廃藩後にそれを神社に改めたもの。吉香公園のエンジュ。かつては高さ約25m、幹の周囲は3.3m、樹齢は約130年。公園のシンボル的な存在で天然記念物にも指定されていたが、幹の空洞化によって2018年(平成30年)に指定解除され、安全を考慮して大部分が伐採されてしまった。池と藤棚。東の鳥居。御土居跡。吉川広家がこの地へ移封され、岩国領初代領主となったときに建立した、日常の居館である御土居の跡。現在は公園化されている。1615年(元和元年)に江戸幕府から一国一城令が出され、山上に築城された岩国城は廃城・破却されることとなり、以後はこの御土居が岩国領・岩国藩の陣屋となり廃藩まで利用された。当時の建造物はほとんど現存していないものの、外堀や石垣など一部が残っている。錦雲閣。吉香神社の南隅にある矢倉に似せて造られた絵馬堂。元々この場所には三階建ての矢倉があり、1885年(明治18年)に御土居跡が公園化されたときにこの絵馬堂が建立された。旧吉川家岩国事務所。県指定文化財に指定されている。岩国藩主の吉川家が1889年(明治22年)頃に建設した邸宅。近代日本の代表的建築家の1人である堀口捨己が設計したもので、同氏の現存する初期の作品として貴重なものとなっている。旧吉川邸厩門。岩国藩13代藩主で、明治維新後に岩国藩知事も務めた吉川経健の邸宅にあった長屋門。1892年(明治25年)に建立されたものだといわれている。邸宅は岡山県にある後楽園に移築され、鶴鳴館と呼ばれている。吉川広家公像。岩国領初代領主、吉川広家の像。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.12
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岩国領(岩国藩)初代領主の吉川広家が、横山の山頂に築いた城(山城)。別名は「横山城」。日本100名城に選定されている。1600年(慶長5年)に毛利輝元が関ヶ原の戦いに敗れ萩城に移封となり、同時に毛利家存続に力を入れていた吉川広家がこの地に移封された。1601年(慶長6年)に広家が岩国領領主に赴任すると岩国城の築城が開始され、麓に御土居を、横山山頂に横山城を築き、1608年(慶長13年)に竣工した。周囲を流れる錦川を天然の外堀とし、横山城は本丸を中心として、南西に二ノ丸、北東に北ノ丸、西に水ノ手郭の4つの区画で構成されていた。ところが竣工からわずか7年後の1615年(元和元年)に江戸幕府から一国一城令が出され、横山城は廃城となる。以後は麓の御土居が岩国領・岩国藩の陣屋となった。1885年(明治18年)に御土居跡が吉香公園として整備され、1962年(昭和37年)に天守構造図という絵図を元に鉄筋コンクリート構造の復元天守が山頂に再建された。山頂の岩国城までは岩国城ロープウェーで繋がっており、登山で行くことも可。天守内には刀、甲冑や錦帯橋の模型などが展示されており、最上階からは城下町が一望できるようになっている。入場料は大人270円、小学生120円(団体割引有)。錦帯橋、岩国城、岩国城ロープウェー3つのセット券もあり、料金は大人970円、小学生460円(団体割引有)。岩国城ロープウェー。白山比咩神社の隣から標高約200mの山頂まで伸びている。所要時間は片道3分程度。ロープウェー山頂駅に到着。ここから岩国城まで約10分ほど歩いていく。山頂駅前の広場中央に立っているからくり時計。20分おきに時計のからくりと共に、童謡、鵜飼音頭、美しき天然の音楽が流れる。大釣井。1608年(慶長13年)の築城の際に造られた大きな井戸。水の手とも呼ばれ、城の水を確保する重要な役割を果たしていた。また、非常時には武器や弾薬を収納し、敵に攻め入られた時の脱出口も備えていたと言われている。旧天守台。1994年(平成6年)に天守台を発掘調査した結果、往時の姿がよく残っており、1996年(平成8年)に築城当時の技術を用いて復元した天守台。石は護館神から切り出されたものを使っており、石垣の積み方は自然の石をそのまま積み上げる野面積みとなっている。空堀跡。敵の侵入を防ぐ目的で掘られた大きな堀。幅は約19.6m、深さ約10m、長さ58.2mで、日本最大の箱堀構造となっている。江戸時代は平城が多い中で山城を築城し、さらにその山中に堀を造るのは全国的に見ても珍しい例だという。北ノ丸跡。本丸の北東に位置し、東櫓と北櫓が建てられていた。北側には御土居の保護のために残された築城時の石積が見られる。歴史との出会いの道。道沿いに見える石垣は築城当時のもの。大手門。二ノ丸広場。本丸の南に位置する。現在は公園化されている。岩国城天守。元々の天守は1608年(慶長13年)に吉川広家によって本丸北隅に築かれ、南蛮造り(唐造)で三層四階に物見を置く様式だった。しかし7年後の1615年(元和元年)に江戸幕府から出された一国一城令によって破却となる。現在の復元天守は1962年(昭和37年)に錦帯橋からの景観を考え、旧天守台から南へ50mの場所へ移し、古図面を元に再建したもの。天守内に展示されている刀や甲冑、錦帯橋の模型。天守の最上階から見た景色。眼下には城下町に吉香公園、錦帯橋も見える。奥の方には岩国錦帯橋空港(岩国航空基地)も見え、天気が良いと瀬戸内海の島々や宮島も見える。櫓跡。竪堀。城に対して垂直方向に設けた堀。上から見て左の方には登り石垣が積まれている。護館神。1603年(慶長8年)から始まった岩国城築城の際にこの周辺にあった石灰岩を切り出して、現場まで運び石垣を造ったと言われる。天明年間に入ると藩内で飢饉や災害が相次いだため、1783年(天明3年)に社殿が建立され、城山を鎮めるための護館神が祀られた。錦帯橋とそこから見える岩国城天守。一部期間中はどちらもライトアップがされ、その幻想的な景色は日本夜景遺産にも認定されている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.11
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撮影地:福岡県太宰府市 『太宰府天満宮』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.10
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撮影地:福岡県太宰府市 『太宰府天満宮』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.07
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○ワサビ丼ワサビ丼、刺身こんにゃく、山菜の小鉢、味噌汁寂地川の清らかな水で育ったわさびを使ったワサビ丼。寂地峡にある食事処。名水百選に選定されている寂地の名水で育った野菜や、名水でダシをとったうどん、名水で淹れたコーヒーなどが楽しめる。今回いただいたワサビ丼は、店主さんが寂地の水で育てた天然のわさびを使った丼もので、菩提樹の人気メニュー。ご飯の上にすりおろしたわさびとわさび漬けが載っており、その上に醤油をかけ、卵かけごはんのような要領でいただく。わさびなので相当辛いと思いきや、辛みはマイルドでむしろほんのりと甘さを感じるほど。匂いこそわさびそのものだが、辛いものが苦手でも大丈夫。さっと箸が進み、ついおかわりしたくなる一品だった。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.05
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山口県岩国市 『寂地峡①』の続き。竜頭の滝を目指してまだまだ上へ登っていく。上へと登っていくたび、どんどん澄みわたっていく寂地川の清流。竜門の滝。落差は18m、段のある岩を勢いよく水が流れ落ちる。手前に大きな岩があるので全体像を見れないのが惜しいが、轟音や少し見える大きな滝壺から相当なスケールであることがうかがえる。竜頭の滝。落差は14m。薬研のような形をしたV字に凹んだ岩の真ん中を、滝壺に向かって豪快に水が流れ落ちている。五竜の滝の中で最も上流にある滝。5つの滝の中でも一番全体像がはっきりと見える滝で、深く大きな滝壺の水は底が見えるほど澄みわたっている。竜頭の滝から木馬トンネルまでの極端に狭い一本道。木馬トンネル。ケヤキ、ブナ、スギなどの木材を運搬する目的で掘られた手掘りのトンネル。完成まで10ヶ月かかったという。拝み堂。木馬トンネルを出て右手、少し上ったところにある拝み堂跡。かつて観音様が竜ヶ岳の頂上にあり、参拝が困難であったため、ここにお堂を設けていたという。現在は石造仏が安置されている。木馬トンネルを出たら、あとは山道をひたすら下っていく。宇佐八幡宮。御祭神は明記されていない(八幡宮だから応神天皇、神功皇后、仲哀天皇だろうか?)。1108年(天仁元年)に豊前国(現福岡県東部、大分県北部)の宇佐八幡宮の御分霊を勧請し鎮座したのが始まり。1312年(正和元年)に現在の地に奉遷し、その際に宇佐の地名を賜っている。古くは大内氏や毛利氏からも篤い崇敬を受けていたという。南蛮鉄燈籠。県指定有形文化財に指定されている。室町時代の初期に藤原朝臣安信によって作られたもの。災害によって土中に埋もれていたため一部が失われているが、鉄燈籠としては県内で最古のものと言われている。宇佐八幡宮の大スギ。八幡宮の周辺に自生しているスギの巨樹群。その中でも参道の左手に見えるスギの巨樹は樹高約60m、周囲7.5m、樹齢900年と言われ、県内で最大の大きさを誇る。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.04
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山口県の高峰、寂地山を水源とする寂地川の流域にある峡谷。峡谷を流れ落ちる五竜の滝は日本の滝百選、寂地川は名水百選にそれぞれ選定されている。宇佐川の上流3.5kmの犬戻峡と、その支流で約1kmの竜ヶ岳を総称して寂地峡と呼ぶ。三段峡や匹見峡と共に、西中国山地国定公園を代表する渓谷の一つに数えられる。峡谷にはカタクリが自生しており、スギやブナの原生林が広がっている。名水が流れる寂地川には大小様々な滝や淵が連なり、川の周辺には奇岩が多く見られる。犬戻峡にはいくつもの滝が続き、その中でも竜尾の滝、竜門の滝、白竜の滝、登竜の滝、竜頭の滝の5つの滝は総称して五竜の滝と呼ばれ、大きな見どころとなっている。夏は避暑地として、秋は紅葉の名所として有名。かつてこの山に大蛇が棲んでおり、暴れると山と谷が揺るぎ、吐く息は農作物を全滅させこの地に住む人々を困らせていたという。そこにある時、寂仙坊という老僧が現れ法力によって大蛇を退治し、安芸国(現広島県)に追い払ったという伝説がある。この伝説から、寂地山という名前が付いたと言われている。峡谷には遊歩道が整備され、散策ルートも複数ある。一部の道がかなり狭いので注意。峡谷の駐車場付近には売店・観光案内所や食事処がある他、キャンプ場も整備されている。寂地峡観光案内所。駐車場のすぐそばにある。寂地峡やその周辺の観光スポットの案内、食品や飲み物、キャンプ用品の販売もされている。食事処の菩提樹。寂地峡の名水で育った野菜の料理や名水でダシをとったうどんが食べられる。中でも天然のわさびを用いたワサビ丼が人気メニューとなっている。寂地峡キャンプ場のキャンプサイト。家族連れの観光客がアウトドア・キャンプを楽しんでいた。寂地川沿いのテントサイト。他にも4人まで泊まれるコテージもあり。寂地川の清流。名水百選に選定されている。水は綺麗に澄みわたっていて、清流にはアマゴやイワナが生息している。竜尾の滝。落差は20mで、2段の流れを持つ。五竜の滝と呼ばれる寂地峡の5つの滝の中で最も下流にあり、最も落差が高い滝。峡谷の中では一番手軽に見れる滝で、広くて大きな滝壺を持ち、夏場は子供が水遊びできるようになっている。竜尾の滝の近くにある延齢の水。名水百選、日本の滝百選の碑と竜尾の滝。竜尾の滝のすぐそばに五竜の滝を巡るルート(Bコース)があり、ここから竜頭の滝を目指して歩いていく。登竜の滝。落差は8m、2段の流れを持つ。五竜の滝の中では最も落差が低い滝。滝の落ちた先には深く大きな大乗淵があり、木漏れ日が差し込むと水がエメラルドグリーンに輝いて見える。白竜の滝。落差は10m、苔の生した急傾斜の岩肌を滑るようにして水が流れ落ちる。五竜の滝のちょうど中間地点にある滝。川の水が岩を削ってできた大きな滝壺(甌穴)を持ち、ちょうど日が差し込む場所に滝があるため、寂地川の澄みわたる清流と相まって滝壺がまるで宝石のようにきらきらと輝いて見えた。山口県岩国市 『寂地峡②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.07.03
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