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中央アーケード街の賑わいとは違い、そこから2区画ほど離れた通りはやけに閑散としている。古びた灰色の雑居ビルばかりが乱立し、せめぎあい、ひしめき合っていた。その一角にあるビルの2階に「貸しスタジオDo」はあった。今はこぢんまりとしたビルだが、以前は音楽関係のイベント企画会社が所有していたもので、外観が華やかに彩られていたことを物語るペイントの跡がそこここに残っている。当時は新人ミュージシャンの育成を目的とした音楽教室やレコーディングスタジオなど、充実した最新設備があったらしいが、ある大物アーティストの招致に相次いで失敗し、ここ数年で落ちぶれて設備の大半を手放していた。今では貸しスタジオやダンス教室、講演会場として使用されている。 空美たちがいつもバンド練習に使用しているスタジオは10帖ほどの部屋だ。パールのドラムセット、マーシャルのギターアンプ、ローランドのキーボード、ヤマハのPAにマイクと練習に持ち込むことの出来ない楽器や機材が揃っていた。 メンバーの芙美香の兄がこのスタジオのスタッフで、スタジオの予約に空きがある時は、時間厳守ながら安く貸してくれていた。「休憩しようよ」 ドラムの加奈がスティックを3度叩いて皆にアピールした。他のメンバー全員が同時に頷いた。芙美香は「ふぅ」と息を吐きながら愛用のフェンダー・ストラトキャスターを肩から下ろしてアンプに立てかける。千晶はマイクをペットボトルに持ち替えると、ぐいっとひと飲みした。空美はテーブルとパイプ椅子を壁際から部屋の中央に運んで設置する。準備が整うと練習とはまた違った女子高生らしい楽しい時間の始まりだった。各々が持ち寄ったジュースやスナック菓子がまたたく間にテーブルの上に集まった。「ソラ、さっきの何だったの?」と、千晶が切り出した。空美は今頃聞き返すのかと千晶に対してちょっと膨れっ面をしてみせた。それから「あのね‥‥」と、楽器店を出てから千晶に会うまでの出来事をオーバーな身振り手振りを交えて話した。「えーっ」「うそーっ」と聞いている方も少々オーバーなリアクションが入る。 「これ‥‥」と空美はテーブルの上に例の鍵を置いて見せた。3人はそれを興味津々に覗き込んだ。しかし誰一人として手にとって見ようとしない。 「なーんだ。その人を一緒に探してあげたのに」と言う千晶に対して、空美は「早く言ってよ」と再び膨れっ面をしてみせる。 「これさぁ‥‥コインロッカーの鍵じゃない?」と芙美香がぽつりと言った。 「あーっ、そうだよ!絶対そう」と加奈が大声で相槌を打つ。 そうだ。どこか見覚えのある鍵に思えていたのは、空美自身が以前利用したことがあるコインロッカーの鍵だからだ。しかし、コインロッカーの鍵なら番号を書いたり刻んだりしてあるプレートが付いているはずだ。それがない。 ──さっきの場所に落ちているのかな?空美が考えを巡らせているうちに、他の3人の話題は、縁結びのロッカーだの呪いのロッカーだのという都市伝説といわれる噂話にまで飛躍していた。いつしか彼女もその話に加わり、スタジオの中は暫し十代の女の子たちの笑い声で満たされ、楽器の音ひとつしない時が過ぎていった。これまでの小説【ワンコインロッカー】は、コチラで読んでいただけます。
2007.03.17
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例の物のせいで、背中を地面から引き離すことができない。どうにもすぐには起きあがれそうになかった。 気が付くと、目の前で一人の中年男が壁にもたれかかっていた。どうやら、路地に面した階段を駆け下りてきたその男とぶつかってしまったようだ。彼もすぐに空美に気づき、何が起きたのか理解できたようだった。 「大丈夫?」と空美の背後で声がした。振り返ると、中年の女性が赤提灯の店から顔を覗かせていた。空美の悲鳴を聞きつけたのであろう。 再び男に目を向けると、目の前に居たはずの中年の男は、こちらに背を向け歩きだしていた。どこかぶつけたのか、少し足を引きずっているように見えた。 空美が立ち上がろうともがいていると、また「大丈夫なの?」とさっきの女性が声を掛けてきた。「大丈夫です。ぶつかっただけだから」と言うと、安心したのか中年女性は店の中に消えた。と同時に男の姿も路地から消えていた。 何とか立ち上がれる体勢をつくり、屈んだ状態からお尻を持ち上げようとした時、目の前に何か落ちているのに気づいた。 夕方の狭い路地の薄暗闇の中に見つけた物は、──鍵? 拾ってみると、確かに鍵のようだ。よくある部屋の鍵ほど大きくはない。どこか見覚えのある鍵に思えた。 ──さっきの人が落としたの? ふと中年の男が下りてきた階段に目をやった。その昇り口には「泰江商会」とゆう粗末な小さな看板が掛けてあった。階段の上は明かりも点いておらず真っ暗闇だ。 その闇をじっと見ていると、何か得体の知れない物が潜んでいそうな気がして、空美は一瞬背筋に寒気すら覚えた。 ──そうだ、あの人を追いかけないと 空美は奮起して立ち上がると、尻の土埃を払いつつ駆けだした。 路地を抜けると、比較的広い通りに出る。首を何度も左右に振って見渡してみたが、見通せる範囲にさっきの中年男らしい姿はなかった。 空美は見当をつけて通りを右へと走り出した。この方向は中央アーケード街へとつきあたる。 背中に担いだベースが、ゆさゆさと揺れる度に更に加重をかけてくる。うまくバランスを保って走れなかった。ケース中ではガチャガチャと何かが音を立てていた。「ソラ!」 突然、自分を呼ぶ声が通り過ぎた。 立ち止まって振り返ると、そこにはバンド仲間の千晶がきょとんとした顔で立っていた。白いコンビニ袋を携えている。「どうしたの?どこ行くの?」「あ、あのさぁ」 空美は探している男がこっちに来なかったかと尋ねようとした。しかし考えてみると、自分でもさほど男の姿形を憶えているわけではなかった。 ──グレーのスーツに黒か紺のシャツ、黒い革靴、短めの髪型で‥‥やはり、これといった特徴はない。それでも一応、千晶に告げてみた。だが、千晶も「分からない」と応えるしかなかった。「その人がどうかしたの?」と不審そうに尋ねるので、空美が数分前の出来事を分かり易く説明しようとすると、「それより練習は?」「もう時間だよ」と、矢継ぎ早に問いかけられて応える機会を与えてくれない。終いには、空美の腕をグイッと掴むと「時間ないよ。練習、練習」と元の場所まで引き戻されてしまった。 結局、男の捜索はあっけなく終了した。そして空美の手元には謎の鍵が残った。辺りは薄らぼんやりとした闇が支配し始め、街灯には既に明かりが点っていた。しかし、その光を地面に投げかけるほどではなかった。
2007.01.14
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2 背中のベースギターの重さには慣れてきたが、電車の揺れが加わると話は別だ。両手でしっかり吊革を握っていても、電車が揺れる度に、加算された遠心力に見事に翻弄されてしまう。まるで腕の筋力トレーニングのために電車に乗っているようだと彼女は思っていた。それでもギターケースを床に下ろす気にはなれなかった。 以前、ギターケースは背から下ろして床に立て、転ばぬようにしっかりと抱えていた。普通は誰もがそうするだろう。しかし、電車が大きく揺れる度に、それは彼女の腕をすり抜け、何度も床に転がり他の乗客のひんしゅくを買った。ある時は、座っていたおばさんの膝にぶつけ、もの凄い形相で睨まれたこともあった。さらに、一度床に下ろすと電車を降りる時に結構もたついてしまい、乗り込んでくる客と鉢合わせするということが幾度となくあった。 愛用のフェンダー・プレシジョンベースは、身長155cmの女の子の身にはズッシリと重くデカい。最近は、軽量化されたものやミディアムスケール、ショートスケールとゆう女性向きなモデルもあるのだが、「ロックをやるなら」とあえてこのスタンダードタイプのベースを選んだ。そうゆう負けん気の強さが彼女にはあった。 やがて電車が駅に着き、乗客が一斉にホームに吐き出された。彼女はその流れに飲み込まれると、水の中に引きずりこまれたかのように見えなくなってしまった。 しかし、突然ひょっこりと波間に浮かび上がったブイのように、あの黒いギターケースが彼女の居場所を教えてくれた。 そしてそれは、ゆらりゆらりと波に揉まれつつ出口へと流されて行った。 大都市の夕暮れ、午後5時半頃。中央アーケード街から少し路地に入った楽器店に三沢空美の姿があった。バンド仲間との待ち合わせは午後6時、いつもの貸しスタジオだった。まだ少し時間に余裕があると思い、ひとり馴染みの店内を冷やかしていた。 彼女はベース用ピックを2枚購入していた。 空美ベーシストでありながら、指では弦を弾かない。何度練習しても、何度指にマメをこさえても、彼女の小さな指では非力すぎてパワーのある音を出せなかったのだ。それで仕方なくピックに頼っていた。 ベース用のピックというものは、ギター用のピックと比べて、大きくて厚くて不恰好だ。 ある日、何気なく白いピックに数色の油性マーカーでイタズラ書きをしてみた。これが彼女のマイブームを呼び起こした。そのピックのなんと可愛く思えたことか。それから、ピックを購入するたびに、絵を描いてみたりビーズやラメを貼ってみたりした。楽しくて仕方なかった。そして遂には、まるでネイルアートのようなカラーリングを施すほどになっていた。 今日は、可愛いギターストラップでもないかと物色していた。もちろん、カラーリングや装飾などをしてオリジナルデザインを楽しむつもりだった。 気づくと、いつの間にか待ち合わせの時間5分前になっていた。仕方なく店を出る。 彼女はアーケード街とは反対の方向に歩き出すと、そこから更に狭い路地へと入って行った。そこを抜ければ、目指す貸しスタジオは目と鼻の先にある。 その狭い路地は「T横丁」と呼ばれる飲屋街だった。そろそろ眠っていた店たちが目覚め始める時間だ。もう暫くすると高校生がウロウロするような場所ではなくなる。 足早に通り抜けようとしたその時、いきなりドンと何かにぶつかり、彼女は「きゃっ」と小さな悲鳴をあげて尻餅をついた。
2006.07.11
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立人のアパートは、駅の正面口である西口から構内を突っ切り裏口にあたる東口に抜けると、そこから歩いて十五分くらいの所にあった。 S駅の裏側は、再開発により駅裏とは呼べないほど街がきれいに機能的に整理された。そして、オフィスビルや高層マンションが次々と建ち並びはじめていた。 しかし、立人が住むアパートの周辺数区画はそれから取り残され、全く違った様相を呈していた。その辺りは、人通りの少ない細い通りに昔ながらの商店が並び、古い家屋がひしめき合っている。 駅から歩いて十五分という好条件な場所に建つアパートだが、部屋代は意外と安い。大家が昔堅気な人だと言えば聞こえはいいが、ボロアパートだと言われればそれまでだ。 立人の部屋は二階の一番端だった。いつもは、足取り重く一歩一歩登る階段も、今日に限っては少し軽く感じていた。 ──これも彼女のおかげだろうか 鍵を開けて中にはいるといつも通り狭い玄関でつまずきかける。暗い中、やっとの思いでスニーカーを脱ぐと手探りで明かりのスイッチ見つけた。 六畳一間のアパートに明かりを灯すと、カーテンの無い部屋から闇夜に一気に光が漏れ出した。 部屋の中は、パイプベッドとオーディオとテーブルが置かれているだけでほぼいっぱいだ。部屋の隅には、音楽雑誌やら何やらが積み重なっている。以外にもきれいなテーブルの上には、ノートパソコンだけが鎮座していた。 ──喉が渇いたな‥‥。いつもより喉を酷使したためか? それともいつもとは違うプレッシャーを感じたせいなのか? 台所の床に直接置いてある正方形の小型冷蔵庫の中を覗きこんでみるが何もなかった。 ──コンビニにでも寄ってくればよかったな。そう思いながらポケットの中をまさぐってみた。出てきたのは数枚の千円札と空美がくれた100円玉だけだった。小銭はそれだけだ。 ──いや‥‥あのお金がある! ふと、空美の言葉を思い出した。 彼女の言うとおりなら、ギターケースの中にあの中年の男が投げ入れたコインがあるはずだ。 ──500円玉なら今日はビールが飲める! 立人は慌ててギターケースを開けると、中身も出さずに手探りで中を確かめ始めた。 ──あった! それはギターの尻に敷かれていたあたりから容易に発見できた。だが、手にとって見るとかなり違和感がある。自分の知っている500円玉の感覚と違う。 大きさはちょうど500円玉と同じくらいなのだが、表面がまるで溶けたように凹凸が無くなっていた。本当に500円玉なのか判別できないのだ。 裏返してみると何かくっついていた。 アルミ製の薄く丸いプレートがチューインガムのようなもので貼り付けてあった。 そこには数字が刻みこまれていた。「0083」そう読めた。 そのプレートの端には小さな穴が開いていた。それが何を意味するのか、立人は容易に推理できた。 ──これは何かの鍵に付いていたプレートだ。つまり0083番の鍵がチェーンか紐で繋がれていた。そう、コインロッカーの鍵のような‥‥ 喉の渇きも忘れ、彼はそのプレートが付いたコインを不思議そうに見つめた。 翌早朝、S駅一階の北側階段下にあるコインロッカーの前で、男の死体が発見された。
2006.04.23
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どうやら信号待ちしているあの女の子に追いついてしまったようだ。 すぐ横に並んで立ち止まってみたが、ぜんぜん気づく様子がなかった。「やあ!」と声をかけると、一瞬怯えたような顔で彼を見た。その反応に彼も戸惑って「あ‥‥お、俺んち、駅の向こうだからさ」と慌てて言い訳めいた言葉を発してしまった。「私、電車だから。駅まで一緒ですね」 彼女の顔が一瞬にして笑顔に変わった。 歩行者信号が青に変わり、駅へと向かう流れが一斉に急ぎ出す。その流れには乗らず、二人なりの速さで肩を並べて歩いて行く。「あの、名前聞いていいですか?」「俺は立人。‥‥たつと」 聞き難いかと思って二度言ってみた。「タツト?‥‥タットって呼んでいい?」 彼女はさらに無邪気に微笑んだ。 ──もう呼び捨てかよ。最近の女子高生は適応力が早いなぁ。と彼は苦笑した。「あたし空美。ソラでいいよ」 その屈託ない明るさが、立人をすぐに彼女の会話のペースに引き込んた。「俺があそこで七十年代のロックを演るのはマスターベーションみたいなものなんだ」「へぇ、オナニーなの?」 彼女は照れもせずに言ってのける。 駅までの道行き、そんな二人の会話が続いた。 芦原立人は二十三歳。グラフィック系のデザイン専門学校卒で現在はフリーター。学生時代から仲間とハードロックのバンドを組んでいた。卒業しても暫くは皆フリーターをしながら活動を続けていたが、次々と定職に着き始めると一人また一人とバンドを抜けていった。そして、最後に立人一人だけが残った。 空美は、そんな話に、途中「へぇ」「そうなんだぁ」と相づちを打つだけで、ほとんど聞き役にまわっていた。 立人が空美のことをほとんど聞けないうちに、二人は目的地であるS駅に辿り着いてしまった。 日中ほどではないが、さすがに都市部のJR駅は夜でも喧騒としていた。 立人は空美を改札口で見送ろうと思っていた。だが、彼女は立人の方に向き直ると「あたしコインロッカーにいろいろ入れてるから‥‥ここで」とペコリと頭を下げ、コインロッカーがあるらしい方向に小走りで去ってしまった。 彼は暫しその場に立ちすくみ、取り残されたように彼女が消えていった方向をぼうっとした顔で見ていた。 ──それじゃ、またね。ぐらいは言いたかったな「まぁ、いいや」と呟くと、踵を返し自宅に向かって歩き出した。
2006.04.19
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黒地に白く英字がプリントしてあるTシャツにブラックジーンズの上下、それに下ろし立てのような真っ白いスニーカー。色が違う程度で彼の様相とそう変わりがない。身長は150センチを少し超える程度で、かなり小柄である。茶髪でピアスをしているが、どう見ても高校生くらいにしか見えない。 気になっていた背中の黒い荷物は、どうやらギターケースのようだった。しかも、少し大きめで、どうやらエレキベース用のようである。「それベースでしょ? バンドやってるの?」 彼は共通の話題が見つかって、やっと積極的に口を開いた。「やっぱわかります? 練習の帰りなんです」「高校生?」「はい。T学院です」 T学院は、地元では有名なミッション・スクールである。案の定、女子高生だった。 彼は、なぜか再び顔が紅潮してくるのを覚えたが、それを悟られまいと、会話をしながらそそくさと帰り支度を始めた。「あの、これ」 彼女は右手で何かを差し出した。白い小さな手のひらに乗っているのは100円玉だった。「さっきの人がギターケースの中にコイン投げ入れていたので、私も」 あの中年男のことだろうか。コインを投げ入れていたなんて気付かなかった。 ギターケースの中を探してみようと思ったが、ギターやコードをやっと押し込んだ後だった。荷物を少なくしようとギター以外にもいろいろ詰め込んでいた。 結局、一度開けかけたケースを諦めて再び閉じてしまった。「少し大きかったから500円玉だと思います」 彼は振り返り、彼女の手から100円玉を受け取ると「ありがたく貰っておくよ」と、中年男の投げ入れたコインのほうには興味は無いんだとばかりに笑ってみせた。 彼女も笑顔で応えると「じゃあまた来ます!」と言ってS駅の方向に去って行った。 遠ざかる彼女の背には、彼女より大きく思えてしまうあの黒いギターケースが背負われ、揺れていた。 その後ろ姿が、彼には微笑ましく、可愛らしく感じた。 キズをシール貼りでごまかし、シールだらけになってしまったギターケースを右肩に担ぎ、友達から拝借しているローランドの電池式小型アンプを左手に持つと彼の帰り支度はできあがりだ。 彼も彼女と同じS駅の方に向かって歩き出す。 道の途中、彼と同様のストリートミュージシャンが2組ほど閑散としたアーケード街の一角を賑やかしていた。彼らは生ギターを手にして、ゆずやミスチルの曲を歌っている。時には、オリジナルの曲なのか聞き憶えのない歌を歌っていた。 彼と彼らとの違い。それは、彼らは何より歌が上手かった。 彼は、ジャンルが違えば自分には関係ない事さとばかりに興味のない振りをした。 ──拍手には「サンキュー!」って応えなくちゃロックじゃないよなぁ、と歌の反省より、そんな体裁の事ばかり考えながら歩いていた。めげない男であった。 ふと気づくと、前方の交差点で“あの”黒い大きなギターケースが彼を待ち構えていた。
2006.04.06
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夜十時を過ぎて人通りはまばらになったが、決して途絶えることがない大都市の中心繁華街。「中央アーケード街」と呼ばれるアーケード型のモールであった。 もちろん、買い物客などいるはずもなく、赤ら顔の人たちが徐々に増えてくる時間だった。人が通り過ぎる度に、微かにアルコールの臭いも漂い始めていた。 歌い始めてどれくらい経つのだろう。喉も痛みだし、声もかすれてきた。もう何曲演(や)ったのかも分からなくなっていたが、いつも演っている曲はほとんど終えているはずだった。 ──そろそろ潮時かな 彼はピックを口にくわえると、エレキギターをアコースティックギターのように指で弾き始めた。 今日の演目に予定していなかったレッド・ツェッペリンの「天国への階段」であった。 美しくももの悲しげなアルペジオが静かに流れ出す。 だが、それはすぐに後悔へと変わった。最後の曲は「ロックンロール」にでもしておけば良かったと思った。しらけながらも盛り上げて、ハードロックを自身で満喫できればそれで良かったのだ。 「天国への階段」は序盤がしんみりしすぎるし、イントロ部分も長すぎる。この曲は、ギターの聴かせどころが目立つ曲だった。 ──でも、どうせ誰も聴いていないし、と断念した。 時々、通り過ぎる酔っぱらいの昂揚した声や、笑い声にかき消されそうになりながらも、美しいアルペジオに彼は暫し悦に浸っていた。 ふと気づくと、目の前に一人の女の子が立っていた。思いもしなかった今日初めての客だった。 いや、もう一人、女の子の斜め後方に中年の男も立っていた。 二人を意識した途端に緊張した。ギターのミスタッチには心配は無いが、歌う声が震えはじめたのが判った。そして、なんとなく頬の紅潮を覚え、少し俯き加減の演奏になってしまった。 よく確認できないが、女の子は何やら黒い大きな物を背負っているようだ。 彼女は、彼の演奏を見つめながら、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。だが、背負った物を下ろす様子はない。 緊張しながらも曲はギターのソロ部分を無事に終え、最後のサビに入る。──あともう少し しかし、下手なヴォーカルをここで見事に露呈してしまった。高い声が全く出せない。無理に絞り出そうとすると声が変に裏返ってしまうのだ。最後は、まるでもがき苦しむような異様なヴォーカルとなって終演した。 それでも、それを待ちかまえていたのは目の前の女の子の拍手と笑顔だった。 いつの間にか男の姿はなかったが、彼にはたった一人の拍手で十分だった。「ど、どうも‥‥ありがとう」 顔が火を噴いたように熱くなった。多分真っ赤になっているはずだ。ここで初めてもらった拍手の嬉しさと恥ずかしさが一度に沸き上がってくる。「ツエッペリン好きなんですか?」「う、うん。七十年代ものは‥‥」訳の分からない返答だ。「いつもここでやってるの知ってて、今日こそは見ていこうと思って」 彼は気さくに話しかけてくる女の子の返答にどぎまぎしつつ、ようやく彼女を直視できるようになった。
2006.03.25
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人間というものは、闇の中に身を置くと、こうも過去の出来事が次々と浮かんでくるものなのかと思った。 それは前方の闇に蠢く二つの影を認識しているだけにすぎない視覚的刺激の単純さ故なのであろうか。それとも夢を見ることや臨終の際に過去の出来事が走馬燈のように浮かぶということと何か関わりがあるのだろうか。 通りに点在する街灯の明かりの輪から外れた闇の塊。その中に自動販売機の光りだけがぼーっと浮かび上がっていた。 闇の続きとも自動販売機の影とも区別つかない辺りに“奴ら”は明らかに潜んでいる。 男は自身も闇と同化させながらそれを見据えていた。 1 今時レッド・ツェッペリンやディープ・パープルは流行らないと彼自身も分かっていた。しかし、自分を音楽に目覚めさせてくれた70年代ハードロックを演(や)る事が、彼には自慰的行為に斉しく止められないものだった。 彼のがなり立てたるようなヴォーカルは、眼前を行き交う人々の好奇心を損なわせるのに十分なものだった。誰もが一度は視線を向けるが、すぐに顔を背けてしまう。俄に失笑する声もあった。「関わりたくない」そんな素振りさえみせる者もいた。 Tシャツと、破れたジーンズの上下に、汚れた白いスニーカー。茶色に染めた髪はやや長めだが、長すぎもせず、ツンと立たせてもいないので、ハードロックをやる感じにはあまり見えない。痩せていて、どことなく幼さが残る雰囲気も、ハードロック向きではないかも知れない。 愛用のギブソン・レスポールは傷だらけで、骨董的価値があるのでは?と疑われるほど、うす汚れていた。二年前に、アルバイトを重ねてやっとの思いで手に入れた中古品だった。 思えば、それから一日たりともそれを手にしなかった日はない。 ジミー・ペイジやリッチー・ブラックモアのギターソロをしゃにむにコピーして、左手の指には何度もマメができては消えていった。 ジミー・ペイジのように、くわえタバコでギターを弾くスタイルにも憧れた。だが、それだけは何度やっても噎せてしまって駄目だった。格好の良さだけはコピーできなかったのだ。ただ、彼のギターテクニックだけは満更でもないレベルとなっていった。 そのギターと繋がった小さなアンプが一生懸命うなりをあげ、彼と一緒にリフを唄い周辺に反響させていた。 その懸命のパフォーマンスでも彼を取り囲む輪が出来るでもなく、人々の流れはその通りの一部を蛇行していた。 ただ、ネオンに紛れて存在感のなくなった月だけが、アーケードの切れ間から彼を見つめていた。
2006.03.19
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