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冬だというのに日射の強い昼間に、こんな歳だというのに初めてのデートに臨むときのような不安と期待で、ぼくはベランダに置かれたポリバケツで育てられた大根を抜いたわけだ。その大根は、近くの畑に植わっているものよりもぐっと細くて、しかし、その分下方向に長く伸びて、おそらくポリバケツの底に到達して、それでもさらに成長してきゅっと曲がってポリバケツの底を這っているのではないかと思っていたわけだ。
実際は人参のような形と大きさの大根で、軽い失望とともあれ収穫できたという喜びにぼくは浸った。
大根を引き抜いた跡が直径5センチくらいの穴になった。穴の周囲に土が少し盛り上がった。水分のない土は黄土色に固まり、穴が崩れるのを防いでいる。
ぼくはその穴の中に指を入れられない、怖くて。大根を抜いたばかりだし、マンションの5階のベランダだというのにぼくはその穴の底に蛇が潜んでいるような気がしてならない。その完全な闇にふさわしい蛇がとぐろを巻いているのにちがいないのだ。
それは真っ黒な蛇で、闇と同化している。ためらいの感情を決して持たない冷徹な蛇で、ただひたすら僕が指を入れるのを待っている。それもこれから何年も何年も。
でも、ぼくは少し安心している。その蛇は完全な闇から出てくることはないと確信しているからだ。僕がその中に指を入れない限りぼくは安全なのだ。
しかし、逆に、ひとたびその中に指を入れれば、間違いなく僕の指が喰いちぎられてしまうという不安が募ってくる。不安が積み重なれば恐怖になる。そういうわけで、この穴が絶えず僕の心の片隅にあった。
晴れた日曜日のこと。ポリバケツには、大根を抜いたときのままで穴があり、こんなに太陽が照らしているというのに完全な闇がある。この闇の中に潜む蛇は獲物を待っている。この今も獲物を待っていると思うと、その中に指を入れる勇気はないけれども、何かをしてやりたくなる。
ふと、明日からまた会社という憂鬱をあげようと思った。
ぼくは嘔吐した。ぼくのその暗い感情を吐いた。それはぼわっと僕の口から出ると見事にその穴に流れ込んだ。それは闇の中で待ち構えていた蛇に洪水のように押し寄せたにちがいない。それでも、その蛇はかっと大きな顎を開いて、ぼくの憂鬱をぱくりと飲み込んだような気がした。
それ以来だ。人間関係に悩まされて会社を辞めたいと考えていたぼくに少しずつ変化が出てきたのは。苦しさが和らいできたような気がする。毎週、週末になるとその週の不愉快だった感情をこの穴の中に吐くのだ。すると闇の中で蛇はそれを丸呑みにする。
その度に蛇を少しずつ大きくなっていく。そのうち、その穴のあるポリバケツより蛇が大きくなるかもしれない。しかし、その穴の中には無限の闇があり、巨大となった蛇すらもその大きさには到底及ばないはずだ。