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昔女の子も、ひなまつりやろうかなっと。うちには女の子がいないので地元の会館で展示してみました。1枚目は取材風景。2枚目は全体像。
2017/03/09
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遅ればせながらあけましておめでとうございます<m(__)m>今年の初夢は、例年通り変な夢でした^^;台所でせっせと片づけものをしてると、来客を知らせるチャイムが鳴る。誰かな?と、何故か多少の不安を感じながら、覗いてみると主人と息子。安堵しながら開いて、ああ、ありがとう来てくれたのね、と喜ぶ私。どうも、ここではただの知り合いで主人でも息子でもないようだった。会話が始まるのだけれど、これが引っ越しの話。どうやら私は引っ越しをしようとしている。それも帰郷するようだ。懐かしい故郷に帰るのはいいのだけれど、家を建て替えちゃったから、懐かしさなんかあるのかしら?住んでいたからこその故郷の家じゃないかと思うの・・・。とか、ぐちぐち言いながら荷物整理をしていた。ああ、そうだ!タヌキが遊びに来るから餌やっていたら懐いちゃってね~~。連れて帰ろうかと思ってる。と、いうとそこにちゃんちゃんこを着たタヌキ登場。猫も連れて帰ろうとゲージに入れてるからそこに一緒に入れたらどう?と息子が言う。喧嘩しないかな?とゲージを開けたらスタスタと入っていく。どうやら二匹は仲良しみたいで、中にいる猫がここに餌あるよ~~って案内してる。それを、手でつまんで食べているタヌキを見て、「あれ?タヌキって手が使えたっけ???」と言った所で目が覚めた。この話を主人と、息子にしたら二人同時にそりゃタヌキはひじきだな!と言う。ひじきとは、うちで飼ってる4匹の猫のうちの次男で体重10,5キロという・・・・・・・黒猫君。写真は、親猫のカリンと次男のひじき。カリン3,8キロ、ひじき10,5キロ。小さく産んで大きく育てよって昔からいうけど、産まれたときから大きな子でした。
2017/01/05
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12月に入って見に来てくれる人達も増えています。会場全体の写真を撮ってみました。素焼きと陶器の人形達も出してみました。素焼きにはアクリル絵具で色を付けています。今回作り直した殻付きピーナッツを使った羊達。最初に作ったのは1997年くらいですが・・その時の物は恐怖の羊になってしまいました。そのエピソードは明日にでも書こうと思っています。
2016/12/05
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久々10年ぶりくらいに友人とクリスマス二人展をすることになった。過去作品がほとんどではあるが、クリスマスの飾りは毎年同じ物に少し新しいオーナメントを足して・・というような物なのだろうから、過去作品展示でもかまわないかなと始めた。もうしないかもしれないので、箱にしまいっぱなしの作品達にも出番ができて良かった。出してみると、ネズミに齧られたものや、巣にされたものやら、使い物にならないものもある。10年放置していたから、劣化も激しい。毛糸の編みぐるみなども虫食いがたくさん・・・。なんとか鑑賞に堪えそうな物を選んでの展示となった。ほとんどがこのブログのクリスマス作品の所にある物なのだが、今回新しく作り直したのは、ピーナッツに毛糸を巻いて作った羊たち。巻いた毛糸はネットで知り合った画家の虎さんから買ったエルサルバドルの毛糸。日本で売られているのと違って縦に巻いてある。11月23日~12月25日までとほぼひとつき間の展示。写真を撮って載せようと思うが、長い間ここを放置していたので勝手が変わっていて、どうやるのかわかるか不安・・・・・・・。過去写真は左側の Freepage List のクリスマス作品からご覧ください。右側のリストからはいけないようになっているようです^^;長い間放置していたので、どうしてそうなったかは、わかりません<m(__)m>
2016/11/23
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ここの所、うりさんとのブログ上でのやりとりや、自分の住まいの周囲の変化などを見るに方丈記の冒頭を思い出した。「ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」諳んじられるのはここまでだけど。鴨長明さんの言う通りだな。人も住まいも変わらないようで変わっていっている。うちの前の家の和菓子屋さんは、夫婦共に亡くなられ、息子さんは遠くに住んでおられるから壊して売却してしまわれた。その隣の長い間廃屋だった大きな家も取り壊された。景色は一変してしまった。また新たな家が建つんだろうけど、住む人も家も前のとは違う。似たような事が「方丈記」に書かれてたいたなぁと思いだしたのだ。続きをググってみた。「たましきの都のうちに棟を並べ、甍を争へる高き賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年 焼けて、今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、ニ三十人が中にわづかにひとりふた りなり。朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰が ためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、いはばあさがほの露の異ならず。或は露落ちて、花残れり。残るといへど も、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」感傷的になりそう^^;せっかくだから最後までもう一度読んでみようと思うけど、この後って火事や地震のことだったような・・。今の世の中と重なる部分も出てきそう。あら・・スマップ解散だって!
2016/08/14
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先月は3週間ほど入院していました^^;30分ほどの散歩から帰ってお風呂を溜めながらTVを見ていた。そろそろかな?と立ちあがったら、突然ひどく眩暈がした。え?これってなに?こんな眩暈は経験した事がないぞ・・以前にメニエールを少し患った事があるが、あれとは全然違う。天井が回るっていうのではない。自分の頭がグルグルと回ってるような感じというか、頭を固定出来ない感じというか、兎に角普通じゃない。これは、蜘蛛膜下出血とか脳梗塞とかそういう脳関係に違いないと思った。このまま倒れて意識が無くなって死ぬのかな。ああ、死ぬってこういう感じなのか・・・・・・・と思いながら、家人を呼んで救急車で病院に。唇が震えているのが自分でも解って上手くものも言えない。救急車の中では普段低い血圧も高くて160-110だとか。頻脈もとか言っているのが聞こえた。ああ、このまま死ぬんだろうなぁと思った。病院に着いて色々質問を受けて、点滴を受けながらCT検査。異常はないと言われる。三半規管じゃないかな?と・・。脳じゃなかったのか。まぁ、血圧も頻脈も眩暈にびっくりして上がっただけのようで、その後、入院中は血圧110-55とかで、いつもと同じに戻っていた。無事退院の日を迎える事ができたけれど、人生はいつ終わるかわからないと実感した。いつ終わるかわからないんだから、出来るだけやりたい事はやっておかないと!
2016/08/08
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猫なので座布団に載せてみたり・・。
2014/10/26
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レンタルビデオ屋さんに行くことになった。 途中の道に蓮根畑がたくさんある。 そろそろ蓮の花が咲いてるだろうなと楽しみにしていた。 思ったとおり、花も蕾もあった^^ しばし見とれる。 ほんとに綺麗な花だなぁ。 そういえば、お釈迦様はじめ仏様の像は蓮の台座に乗ってるけど どういう関係があるんだろう。 ちょっと調べてみる事にした。 「仏教の生まれたインドでは、 極楽浄土はハスの花の形をしているという思想があった 仏教と切り離せない花であり、極楽の花である。」 ああ、なるほど。 「釈迦(仏陀)は、生まれるとすぐに立って歩いたという 生まれたばかりの釈迦が歩きはじめると、 最初に地面に足を着いたところからハスが生まれ、 北に向って七歩歩んだその足跡のひとつひとつから、 大輪の蓮の花が咲いた。 そして、釈迦は、蓮の花に立ち、 「天上天下唯我独尊」と、 第一声をあげた・・・・・と伝えられている。 」 この逸話、私は学生の頃仏教学の授業時間に聞いた覚えがある。 でも、その時は空からはジャスミンの花が舞い散り、 とは聞いたけれど、蓮の花が咲きとは聞いていない気がする。 遠い昔の事で記憶の混濁があるのかもしれないけれど・・。 何故この話を覚えているかというと、この話をされる時、 キリスト教は何かというと奇蹟というらしいが 仏教にはそんなものありません! そして、その舌の根も乾かぬうちに、 お釈迦様は生まれてすぐ7歩歩まれて 7歩というのは六道輪廻を生まれてすぐに超えられたという事です。 その時空からはジャスミンの花が舞い散り・・(以下略) と、話されて おぃ・・それは奇蹟とは言わないのか・・ 生まれてすぐ立って歩けるはずないやろ・・ とか思ったから覚えているわけなんだけれども。 もし、あの時それは奇蹟じゃないんですか?と聞いたら 奇蹟ではなく事実です!とか、 見てきたような事を言われたのかもね? それはさておき 「ハスは仏教を象徴する植物で、仏像の台座や仏具にあしらわれた。 極楽浄土に往生すればハスの花から生まれ変わるといわれる。」 それで蓮の台座なのね。 あの綺麗な蓮の花から生まれ変わるのかー。 いいね^^ 帰りにスーパーによってお供えを買った。 蓮の花などをかたどった落雁。 仏壇に供えよう。 父よ、カリンよ。 早く生まれ変わっておいで。 あの美しい蓮の花から。
2010/07/19
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骨のくっつき具合を見てもらいに医者に行ってきた。 前回までは、殆どくっついていなかったので、 不安に思いながらレントゲンを撮る。 手術になったら大変だしなぁ。 ところが今回は一気に7割方はくっついていた。 良かった、良かった^^ ギプスが取れて、サポーターになった。 このサポーターが思っていたのとは全然違って、 しっかりした物だった。 両脇には硬い支えがある。 が、しかしこれが高い! 15910円だって~~。 最初は自費で払っておいてね、手続きしたら後で7割返金があります。 と、言われたけれど・・それなら最初から3割負担にしてよー。 しかも手続きは自分で社会保険事務所に行かなければならない。 もーーっ・・。 社会保険事務所では、書類にあれこれ怪我の状況など書き入れて 認定までに2,3週間掛かります、と言われ・・。 その後、銀行振り込みで~って、何日かかるねん! 8月いっぱいまでは、 このサポーターをしておかないといけないらしい。 もう挫かないでね~。そしたらこのまま治るから。 と医者に言われたけれど、 そりゃ私だってそうなりたくはないっ。 なんだか歩くのが怖くなったじゃないか・・。 忘れた頃にカクッとなりそうで怖い。
2010/07/14
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骨折した足首は順調に治っているのじゃないかと思う。 外の長い距離を歩くわけではないのだけれど、 松葉杖も徐々に不要になってきた。 が、膝や腰が痛い。 普段と違う歩き方をしている所為だろう。 シップを貼って長椅子に転がって読書をすることにした。 買ったまま未読になっていた 「アガサ・クリスティー自伝」を引っ張りだしてきた。 彼女の最初の記憶は三歳を迎えた誕生日らしい。 そういえば、私の人生最初の記憶も三歳頃だなぁ。 正確には二歳八ヶ月、弟の生まれた日だ。 父が私を背負って何度か往復して タライにお湯を張っていた。 背中からそれを見ているのが私の最初の記憶だ。 母は青い花模様の浴衣を着て布団に横たわっていた。 それだけでプツンと切れているのだが、 弟が生まれたというのはわかっていて、 その日の事は忘れる事なく今日に至っている。 いつだったか、私は小学生で弟はまだ未就学の頃。 どういう経緯でそうなったのかはもう定かではないのだけれど、 両親が私達姉弟は、拾ってきたのだと言い出した事があった。 多分なにか悪さをしたんだろうな。 私は大阪生まれなので、安治川のたもとで拾ってきたし、 弟は愛媛で生まれたので、 近くの肱川の橋の下で拾ってきたと言い出した。 良い子にしていないと、元の場所に捨てに行くと言われて 夜の事でもあり怖くて二人でおお泣きした。 で、ちょっと冷静になった頃、 私は弟が生まれた日を知っている事に気が付いた。 泣いている弟に、 あんたは心配する事はない、捨てられる事はないと思う。 私はあんたがこの家で母から生まれたのを知っている。 橋の下で拾ったというのは嘘だと言った。 弟はすぐに泣き止んで、 「ねーちゃん、ほんと?よかったー」 と、急に泣き止んでにこにこ顔になった。 まぁ、問題は私の方で、私は生まれた時の記憶はないから 私に関しては本当に拾われたのかもしれないというような事を言うと、 ああ、そしたら捨てられるかもしれんなー。 ボクはねーちゃんが覚えていてくれて良かったー。 と、上機嫌でおもちゃで遊び始めた。 くそっ。。 こいつ、自分が捨てられないと分かると態度豹変しやがって。。 教えてやるんじゃなかった。 あんなにおお泣きしてたくせに。 うーむ。 誰か覚えてる人探すにしても大阪だしな。 さて、どうしようか・・ と悩んだ日々まで思い出して 笑ったしまった。 弟の事が嘘ならば、私の事も嘘に違いないとは 思い至らなかったんだな。お馬鹿な私。 読みながら随所で、 ふと自分の幼い日の出来事が色々浮かんできて浸ってしまう。 こりゃ完読には時間がかかりそうだ。
2010/07/07
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1年以上ほったらかしな日記だったな。 まぁ、色々あって書く気も失せてはいたのだけれど・・。何はともあれ、只今足首骨折中。 5月30日母と散歩中に段差に気が付かず、 ちょいと挫いたと思いきや折れていた・・。 まぁ、結構痛くて、よく歩いて帰って来たなとは思う。 4週間目の今日はギプスが半分になると聞いていて いそいそと病院に出かけた。 そして、後2週間ギプスにしとこうか・・ との医師の診断にがっかりしていると、 横から主人が言う。 「今日からは半分にして貰えて、 お風呂に入れると楽しみにしてたんですがねー」 あら、、そうなの? じゃ半分にしておこうかねと先生。 長さが半分になるのかと思いきや、 半分に切ったこれまでしていたギプスの後ろ側だけをして 包帯をぐるぐると巻く。 お風呂に入るときは、これを外して自分で巻き変えてねと言われる。 ああ、なるほど・・ そういうことだったのね。 で、1ヶ月ほど経ったわけですが、 もうそろそろ、くっついているんですか?骨。 いやいや、2,3ヶ月はかかるよー。 えー・・そんなかかるんですか・・。 カルシュウムたくさん取れば早く治るとかあります? ううん、関係ないー。 あー、そうですか・・。 カルシュウムが足りないんじゃ?と言っていたそこのアナタ。 関係ないそうです。 やれやれ、折れるのはあっという間に折れるのに くっつくのは時間が掛かるんだな。 と、ぶつぶつ言いながら恐々入ったお風呂。 1ヶ月ぶりに入ったお風呂は気持ちいいー。 極楽、極楽。
2010/06/30
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当代カリンが彼の地に行って暫くした頃、 息子から電話があった。 なんかおかしな夢を見て 私に伝えなければと思ったとの事だった。 夢にカリン達が出てきたんだそうだ。 そしてみんな日本語をしゃべっていたと言う。 家に帰省していてふと横を通る猫を見ると、 毛の模様は似ているがカリンじゃないような? じっと見ていると やぁ、Tさん。 当代カリンさんの承諾を得て住んでいます。 これからも宜しくお願いしますね。 そう言っているのは初代カリンだった。 ああ、そうなのか。 と、二階からトントンと雉猫の二代目カリンが降りてきた。 お前も当代から許可貰ったの? ええ、勿論ですとも。 茶の間で雑談している私達夫婦の所にやってきて、 初代や二代目のカリンがいるんやけど・・・ なんか、当代の承諾は得ていると言ってたよ? 私の横に座っていた当代が言う。 ええ、承諾してますよ。 そのことはTさん、あなたにも言ってあるでしょう。 咎めるような目つきで当代が答える。 そうよ。 何でちゃんと聞いてないの? と、私達夫婦にも咎めるような目で見られて 目が覚めたそうだ。 なんとも奇妙な夢だったので電話したとの由。 そうか・・・ 初代も二代目も当代のカリンも みんな家にいるんだね。 見ることは出来ないけれど触る事も出来ないけれど みんな居るよ~って夢に出てきてくれたんだね。 私は最近夢を見ない。 見ているのかも知れないけれど覚えていない。 だからいくら私に傍にいるよーと夢で言っても 覚えてなくて時に涙してるから 若い息子の夢に出て伝えてくれたに違いない。 話を聞いてそんな都合の良い事を考えた。
2009/05/12
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今朝は変な夢を見て7時半に目が覚めた。野原にぽつんとひとり。なぜか秋の虫がたくさんいた。と、黒い虫が1匹かさかさと・・・なんでゴキブリが野原にいるのよ・・・・・。ここで目が覚めた。なんだか背中を虫が這ってる気がする・・。ぬめっとした虫が・・ああやだ・・変な夢の所為に違いない。顔でも洗おうと立ち上がって2,3歩歩くと素肌の背中を何かが這った。ぬめっと動いた。ぎょっとして、慌ててパジャマの裾を持って振った。下を見ても何かが落ちた気配はなかった。感触からして、足のあるものじゃなかった、あれは。ナメクジみたいなものが這った感じだったし、まだ背中にくっついているのかも??いや~~~!パジャマを脱ぎ捨てて裏を見たけど何もいない。黒っぽい色だから見えないのかもしれないと思ってブンブン振り回した。何も落ちた様子はない。三面鏡で背中を見たけれど何もいない。でも、何かぬめっとしたものが這った感触は残っているのだ。やだな。やっぱ夢の所為で何かがいたと思い込んでいるのかなぁ・・釈然としないまま、朝食準備をしていただく。お昼前まで、なにやかやしながら過ごしてメールチェックでもしようかとPCを立ち上げた。チェックしているうちに眠くなってきた。私は炬燵の上にPCを置いているので、パタンと転がってうとうとし始めた。と、何かが炬燵布団の横からシャシャシャと動いて上に乗った。寝ぼけまなこで見たら大きな15センチくらいのムカデだった。きゃ~~~っと叫んで起き上がって後ずさった。なんでムカデがいるのよーーー。うちにムカデがいる所なんか見た事はない。こいつが私の背中を這ってたのかっ!あのぬめっとした感触はこいつの背中だったに違いない。いや~~~~っ。首筋から入って、背中這いずり回ってたんだろうな。それであんな夢を見たんだ・・・。いや~~~~っ。どうしていいかわからず、事情を母に話してきてもらった。殺虫剤を片手に持って母がやってきて、私が噴射するから、あんた叩きなさいと言う。え、、恐い・・。もう、この根性なしがっ!じゃ、あんた噴射しなさい、私が叩くと母が炬燵布団を跳ね上げた。いた!くねくねシャラシャラとムカデが動き回る。きゃ~~~、いや~。騒ぎなさんな、騒いで何になる。口動かさなくていいから手を動かしなさい。ええい、この役立たずがっ!と、私から殺虫剤をもぎ取り母が噴射する。苦しがって動き回る上から尚も噴射。バンバンとハエタタキで何度も何度も叩き付ける。ただただ見ていた私・・・・・・・・・。あんた・・一人暮らしなんかできない子ね・・。良い年をしてムカデ1匹殺せないなんて。ほんとにもう・・。呆れられた。それから数時間、今でも背中を何かが這っている感触が消えない。ああ、やだ・・。今夜寝床に入るのもやだ・・。
2009/05/05
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昨日はちらほら雪が舞い風が強くて寒い1日だった。 うってかわって本日は日本晴れのぽかぽか陽気。 暖かな日差しの中、主人と少し遠出の買い物に出かけた。 毎度お馴染み古本屋廻りに、春物衣料少々、買い置きがきく食料品等だ。 昼食は馴染みの店でのざるそばで、ふと思いついて提案する。 帰りはちょいと遠回りになるけど海岸線の道を通らない? ああ、いいな と主人も賛成してくれた。 暫く走ると右手に瀬戸内海が広がってくる。 海はもう春色をしていた。 頭の中は宮城道雄の「春の海」のメロディで溢れる。 車を降りて浜に立つと磯の香りが鼻腔をくすぐる。 静かにゆっくりと打ち寄せる小さな波。 雲ひとつない空の青と海の青。 その狭間を白いカモメが一匹飛んでいた。 何とも時間を忘れる光景で、ぼーっと眺めていた。 蕪村の句がふと浮かぶ。 春の海ひねもすのたりのたりかな 海だけでなくきっと蕪村も、のたりと1日海を眺めて過ごしたに違いない。 私も、のたりと海を眺めてのたりと浜辺を歩いた。 堪能して今度は、道の左側の菜の花群生地へと向かう。 すると車が十数台止まっていた。 海と菜の花と陽気に誘われて行楽に来られた皆さんだった。 そういえば、ここはよく写真に撮られている。 高そうなカメラを提げた方が、 気に入るアングルを探して奮闘しておられた。 デジカメを持って来なかった私は遠慮がちにケイタイでパチリ。 たとえ持って来ていても、三脚を据えている方の前では 気が引けたに違いないけれども。 帰り際、数本の菜の花を手折って帰る。 父の仏前に供えようと思ったからだ。 父さん、寒い中彼の地に逝ってしまいましたね。 あれから2ヶ月、春はそこまで来てるようですよ。 菜の花がとても綺麗に咲いていました。 そちらでは、どんな花が咲くんでしょうね? 明後日には、お寺の和尚さんが初彼岸の法要に来てくれます。
2009/03/15
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父が亡くなりました。 暮の31日深夜に入院しましたが亡くなるとは思っていませんでした。 徐々に良くなってきてるねと母と話していましたし、 医師も危篤状態ではないような口ぶりでした。 突然の事で未だおろおろしています。 葬儀も終えてふた7日がこようとしている今でも 信じられない出来事です。 父との思い出など書いてみようと思いましたが 色々な思いが交錯して気持ちの余裕がありません。 今はただ冥福を祈るのみです。 私の父でいてくれてありがとう。 来世があるのならば、また親子でありたいね。
2009/01/21
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行ってきました入船山記念館、大和ミュージアム、てつのくじら館。 広島に渡るのは何年振りだろうねと 主人と指折り数えたら7年目だった。 主人の両親が生きている間は毎年2回は行っていたものだった。 生憎終日雨でフェリーから見る瀬戸内海の景色はいまひとつ。 主人は広島市内の生まれ育ちで私も3年ほど住んでいた。 同じ広島県の呉に上陸して色々な施設を巡っていると 語られている広島弁がなつかしい。 「大和のふるさと呉にきんさい」と看板の文字も広島弁だ。 まずは入船山記念館に。 ここには旧呉鎮守府司令長官官舎が残っており国重要文化財になっていた。 綺麗な洋風木造で見た目より中はずっと広い。 さすが海軍さんで窓ガラスの模様が桜に錨。 東郷平八郎さんが居たというこじんまりとした離れもあった。 案内のボランティアガイドさんの懐かしい広島弁を聞きながら40分ばかり見学。 話の上手なガイドさんで舞鶴との「肉じゃが」論争にも触れ笑わせていた。 お次は呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」に。 呉で建造された戦艦「大和」の10分の1スケールが展示されていた。 設計図面を見ながら私達二人の話は自然と亡き義父の事になる。 主人の父は三菱広島造船所に勤務していたのだった。 展示してある「大和」を写真に収めようとしたが どうしても全体が入らない。 全体が入らないまでも良いアングルが見つからない。 諦めていたが出口でふとポスターを見たら、とても良いアングルだった。 さすがプロ。取って返してそれをまねる事にした。 おや、零戦もあるではないか。 紫電改は愛媛県に展示されているので見たことがあるが零戦は初めてだ。 私は見ても違いが分からない。 主人が全然違うじゃないか。 一番分かり易い所だとお尻が丸いか尖っているかだと言う。 ふーん・・聞いても紫電改がどんなだったか細部まで思い出せるはずもない。 係員にこれは何処にあった零戦?と主人が聞いていた。 琵琶湖に沈んでいたものです。との返事。 ああ、わかった、京都嵐山美術館に展示してあったやつね。 見に行ったわ、綺麗にしたんだね。と、係員と話し込んでいた。 外に出ると大きな錨が見えた。 あれはオブジェ?それとも本物?大きいねー。 本物に決まってるだろと主人。 でも、大和のものにしてはちょっと小さめだと雨の中走って確認にいった。 戦艦「陸奥」のものだった。他にも砲身やスクリューなどがあった。 ちょっと聞いたら長々と説明してくれる主人。 そばに同じツアーの知人がいて聞き入っていた。 今回はバス2台である施設主催で80人程で来たのだが殆どが住まいは同じ市で顔見知りなのだ。 あのね、うちの主人はこういうの好きでオタクだから何でも聞いたらいいよ、と笑いながら知人に言う。 そうだったんだ!と色々な事を矢継ぎ早に聞き始めた。 ちょっと話に飽きてきていた私は上手い具合にバトンタッチできたので 土産物など見にいった。 最後はてつのくじら館の潜水艦「あきしお」 4年前まで動いていたそうだ。 陸上に置いてある潜水艦は初めてみたので普段見れなかった部分の大きさにびっくりした。 全長76メートル、深さ10.2メートル。 中は狭くてベッドも寝返り打つのも大変そうだった。 潜望鏡も見せて貰って海上を見る。 おーくっきりはっきり見えるもんだ。レンズがいいんだろうな。 一緒に入ったカップルの女性のほうが、 ○○ちゃーん、狭いよぅー、息苦しいよぅーとずっと言っていたが 彼氏は完全無視でその言葉に答えようともせず、あちこち興味深そうに見学していた。 少し離れた場所からも彼女の声は聞こえていて 主人が、なら外に出ていたらいいだろう・・とぼそっと言った。 それを言わないだけ彼氏は気を使っているということか。 なにはともあれ一日の研修旅行は終わった。 入船山ではガイドつき。 参加者殆どが顔見知りで話し相手にも事欠かない。 昼食や夕食のお弁当の手配も付いていて、 とても楽な日帰り旅行だった。
2008/10/07
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呉市の入船山記念館、大和ミュージアム、てつのくじら館の 見学に行ってきた。 8時半出発、21時半帰宅。 疲れた~。 しかし、潜水艦って沈んでる部分があんな大きいとは予想を越えた。 見学についてはまた今度書くことにして、 帰路のフェリーの中での出来事。 お茶を買おうと自販機に行くと先客あり。 お金を投入しながら何かブツブツ言っていた。 そして、返金ボタンを押しながらお先にどうぞと譲ってくれる。 何を買おうか迷っているのかなと素直にお先に購入させて貰った。 すると、 「あーあなたは買える人なんですね!」 と訳のわからない事を言う。 「え?どういう事ですか?」 「いえね、私は自販機に嫌われているようで買えないんですよ」 「何度お金を入れても返金されるのですよ」 見ててごらんなさいとその人が100円玉を入れると、 中で止まらず下に落ちてきた。 2,3度繰り返して私にその状況を見せて 「ね、嫌われているでしょう?」 「ああ、私も経験があります」 「何度入れても帰ってくるコインがあるみたいです」 「別の100円玉を入れると大丈夫だと思いますよ」 そう言って彼を見ると、 150円だけ持ってきた様子で財布を持っていない。 交換してあげようと私の財布から100円玉を出そうとすると、 「いえいえ、いいんです!またやってみますから」 と、またカラーンと下に落としている。 100円玉を取り出して手に持った私を見て、 「いえ、そういう事をしてもらっては」 「ほんとに大丈夫ですから」 また入れてカラーン・・・。 やけに遠慮深い人だなぁと 「交換しますけど?こっちでやってみられたら?」 「ああ。交換ですか!そうですね!」 「交換ですか~。お願いします」 と無事買うことができた。 あんなに固辞したのは 私が100円あげようとしてると思ったわけね・・・・・・。
2008/10/05
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最近ちょっと気になる言葉がある。 それは「ありがとうです」という言葉だ。 言われると、ちょっとむかっとする。 ありがとうに「です」はつかないだろう・・。 丁寧に言うとすれば「ありがとうございます」だろうに。 そう言うと、ある人が言うには、 「ありがとう」ではちょっと丁寧さが足りない気がして、 「ありがとうございます」では丁寧過ぎる気がする時に 「ありがとうです」とか「ありがとうでした」とか言うという。 ふーん・・。まぁ、私は今は受け入れがたい。 「全然大丈夫」というのも以前はものすごく気になっていた。 それが最近はそれほどでもなくなってきたので、 これもそのうち受け入れるようになるのかもしれない。 言葉も変化していくのだろうし。 「ありがとうです」や「全然大丈夫」はまだわかるが、 ネットで会話していて「plz」と言われた時は、 何を言っているのかわからなかった。 「please」だと教えられたが、「please」のどこに「z」があるんだ・・。 また「thx」は「Thanks」だそうだが、これもどこに「x」があるんだと思った。 「np」は「no Problem」だそうで、こうなると、もう全然わからない。 そういう会話をしていたら、 じゃ、これは分かる?と言われたのが「cu」 「see you 」なんだそうだ。 外国人も使ってるよーと言っていたが、 銅の元素記号としか思えない・・。
2008/10/04
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新聞広告で見た本が欲しいと思い電話注文する事にした。電話で住所を伝えながら、最初はこれに苦労した事を思い出した。私の住所には「卯」と「之」という文字が含まれるのだが、この部分を電話で伝えるのが大変だった。「卯」は干支の卯です。えーと、、えと?とか聞き返され、ええ、子、丑、寅、卯 の卯です、ウサギ年の卯です。それで伝わったと思っていたら、なんと着いた荷物は「兎」という文字になっていた。うーむ・・これじゃいかんな・・。しかし、卯の花の「う」とか、旧暦4月の卯月の「う」とかそう言ってもなかなか伝わらない事もある。干支が一番わかり易いと思ったんだがなぁ。色々考えているうちに、はたと思いついたのが卵。干支の「う」です。「卵」という字の中の点々2つとも無い字ね。そういうと、殆どの人が笑いながらあー、はいはいと元気な返事。これで決まりのようで苦労して説明する事はなくなった。「之」がまた困った。「これ」という漢字で、子連れ狼の萬屋錦之介の「の」ってもわからない事も多い。ましてや東千代之介の「の」と言っても、若い人は知らないだろう。よくお墓に書いてある○○家之墓の「の」とか言ってみる。曖昧に返事されて送られて来る荷物の殆どは「ノ」というカタカナになっていた。まぁ、これでも着く事は着くのでいいんだけれども、何かいい手はないか・・。そこで気がついたのが、ひらがなの「え」似てるじゃないかー。「これ」という漢字で○○家之墓の「の」ひらがなの「え」みたいな字ねと言うことにした。そのままひらがなで「え」と書いたな・・というのが着く事もあるがこれで解消。この2文字はやはりみんな伝えるのに苦労するようだ。あるとき役所で払い込みをしていたら、電話対応していた新人職員らしき人が住所説明をしていた。聞くともなしに聞いていたら、えーと、、「う」は、、、、「う」です・・「の」は、、、、「の」です・・思わず吹き出した。後ろに座っていた役付きらしき人「おい・・だれか替わってやれ・・」
2008/10/03
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父が落ち着いたので、母と夜の散歩を再開した。雨も上がってお天気も良くなったし、夜風が少し肌寒く気持ちが良い。あれこれ一日の出来事を話しながら、田んぼのあぜ道の方に折れようとすると、後ろから大きな声が飛んできた。こらー!そこの二人!ん?私たちの事?まさかね。懐中電灯も持たずにそんな暗い道を行くんじゃない!あら、私たちに言ってるようだ。こらー!ってあんた・・。振り返ると大きな懐中電灯を持ったおっさんが仁王立ちしている。私たちはかまわず歩を進めた。母が慣れてますから~と笑いながら答えていた。行くなと言っているのにっ!とまたも叫ぶ。余計なお世話だ・・と私がぼそっと言った。星も出てるし、真っ暗で道も見えないというわけじゃなし。尚もぶつぶつ言っていたおっさんが諦めて歩き出した頃、母が言う。あんた、余計なお世話だっての声小さかったね。聞こえるようには言わなかったんやね、とクスリと笑った。そりゃね。見たら、この肌寒いのにランニングに短パン。大きな懐中電灯振り回して元気よく歩いてるおっさんだったし。あれは、退職した体育教師とかじゃないのかな。こらー!そこの二人!って、だいの大人にいう言葉じゃないでしょ。失礼な。生徒怒りなれてたからじゃないの?そう思ったわけでね。そういう人に聞こえるように言ったら、ダッシュでここまで来そうじゃないの。こんこんといらぬ説教されたら、たまったもんじゃない。なので小さい声で聞こえないように言いましたっ。そう言うと母が笑いころげた。街灯のないあぜ道からは空の星がはっきり見える。北斗七星、カシオペア、北極星も天の川も。と、母があの大きい星は土星か?と言う。金星に決まっておろう。何処にわっかがあるんだ、どこに。土星があんだけ大きく見えたらわっかが見えるぞー。すいきんちかもくどってんかいめい習わなかったの?ほんとにもう・・何を言うやら・・そやろ?土星ではないんじゃないかとは思ったのよ、と母が言う。さっき橋の上ですれ違った親子がいたよね。子供があの星なに?と聞いたら、お父さんが土星かなぁ・・と言ってたんよ。違うんじゃないかと思ったけど、はっきりとはわからんかったら今聞いてみた。おまえ、教えてあげれば良かったのに。と母が言う。いや、私はその会話は聞いていない、少し離れていたし。例え聞こえてたとしても言わないと思う。さっきの懐中電灯のおっさんと同じで、それは余計なお世話というものだ。帰り道、土手脇では松虫がチンチロリンと良い声で鳴き、おしろい花の甘い香りがした。歩くには良い季節が来たなぁ。
2008/10/02
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玄関の呼び鈴が鳴ると私より早く猫がダッシュする事がある。 ああ、魚屋さんだなと思う。 何処で聞き分けるのやら・・。 週に3,4回軽トラックにその朝市場に出た魚を積んで 近隣の浜からやってくるのだ。 昔は一心太助のように天秤棒で担いで持ってきていたものだった。 お陰で猫も人間も新鮮な季節の魚にありつける。 さて、今日は何にしようかな。 蛸が2匹で400円。 ちょっと小さめだけど猫も主人も大好物なので買うことにする。 猫と取り合って食べることだろう。 ハゲが3匹で200円、煮付けにしたら美味しそう。 スーパーより安くて新鮮な地物が食べられるのは幸せなことだ。 早速下ごしらえに入るが、好物の蛸が匂うのか猫が付きまとう。 待って、待って・・蛸は塩もみして湯でないと・・ その間もずっと鳴きどうしだ。 ゆであがった蛸を水にさらして足を2/1本ほど切って猫にやる。 おまたせ~美味しい? はぐはぐと夢中になって顔を横に向けて噛みちぎっている。 あっという間にたいらげて追加要求。 あんたねぇ・・・もし野生の猫なら大変よ。 海辺に居たとして蛸なんて取れるの? 巻きつかれて逃げ出すんじゃないん? あー、思い出したくもないが、 先代が大きな青大将を加えて帰って来た事があったわ・・。 寝転んで本を読んでいたら横で変にくぐもった猫の声がした。 なにげなく見上げると大きな青大将を加えていたのだった。 戦利品を見せに来たんだろうけども、 目の前でそれを見て固まった。 いや~~~~~~っ! あの時はほんとうに恐かったなぁ・・あーやだ・・忘れよう。 ま、ということは、岩場にいる蛸くらいは取れるのかね? でも猫缶って、マグロやカツオあるけど猫に取れそうにはないよなぁ。 切り身で泳いでるわけじゃなし。 牛肉とか鶏肉もあるけど、鶏はいけるかもだけど牛は無理だろー。 猫って群れないし、たとえ数で狩っても牛は無理なような。 そうしてみると、野生では取れないもの食べてるのねぇ。 といいながら、はたと思いが自分に至った。 まて、もし私が野生の人間として(野生って・・) 一人で牛が狩れるんだろうか。 うーん、金づち持って、眉間の急所叩いたとして、いけるのか? 外れたら殺されるな。 私の力でいけるかどうかもわからないし却下。 竹やり作って刺すか? 1本じゃダメだろうし手負いの牛も恐ろしそうだ、却下。 木の上からボウガンかなぁ。 でも、狩れたとして牛一頭さばけるだろうか。 あほな事考えていたら電話が鳴った。 近所の奥さんからでなすびたくさん貰ったがいらない? という電話だった。 もちろん貰って今夜は揚げナスの煮びたしだ~。 蛸とはげの煮物に揚げナスの煮びたし。 これで決まり。
2008/10/01
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ご無沙汰を重ねている間にすっかり秋の気配。沿道には曼珠沙華の花盛り。色々な事があったけれどちょっと落ち着いてきたので日記を再開してみようかと思いたった。さて、2ヶ月間入院していた父も無事退院して1ヶ月余りが経った。車で2時間の遠い病院に転院となった為、週1~2回しか行くことは出来なかったが大変だった。往復すると5~6時間はどうしても掛かってしまう上猛暑の時期だったので帰宅するとぐったりしていた。入院中の父も行く度に小さく細くなってこの夏を乗り切れるかと思う程、暑さも堪えていた。父は元々半身不随ではあったが少しは歩けていた。それが体重も30Kくらいに落ちて体力も低下していた為病院ではずっと歩かせてもらえなかった。本人おおいに不満ではあったが余儀なくおむつ生活を強いられた。けれど、どうしても歩きたくてベッドの柵を引き抜いて怒られたり、懲りもせずまた抜いて近くに置いてあったポータブルトイレに座りに行ったりでとうとうある日訪ねた病室のベッドの柵は4つとも縛られていた・・。歩かせてくれてもいいのではないかと主治医に言ってみた。もし歩いて転げて骨折したらもう治りませんからと説明された。とても可哀想だと思ったけれどずっと付いていられるわけではないので、私たち家族はどうしてあげる事もできなかった。遠くの病院で見知った人もなく、話し相手もいない父はこのままではぼけるんじゃないだろうか。こんなに寝たきりにされたら退院しても歩けなくなるんじゃないだろうか。心配は尽きなかった。でもこの夏を乗り切れるかどうかと母も私も思っていたので安静にして歩かせない処置も甘んじて受け入れる他はなかった。この11月には88歳を迎える年齢でもある。息子君にも電話を掛けて見舞いに帰るようにと言った。生きてるうちに顔見せておきなさい。亡くなって葬式に帰ってもしょうがないよー。私は死んだ事がまだないからわからんけども、じいちゃんは自分の葬式しているのを見て、ああ、孫がきてるなぁと分かるとは思えない。生きてるうちに顔見せて喜ばせてあげて欲しいな。そう言うと見舞いに帰ってきた。私たちは入院当初はそれほど危惧していたのだった。それが見知らぬ土地の病院で死にたくはないとの思いが病を癒えさえ2ヶ月後には退院に漕ぎ着けた。退院時主治医は高齢でもあるし、他の病気が出てすぐまた入院になるんじゃないかと言った。余計なお世話だ。退院の目出度い日に言う言葉ではないだろう。さてさて、何はともあれ恋しい我が家に帰った父は、ぼけてはいなかったけれど、全く歩く事はできなかった。いくら体重が軽くなって30Kといえど歩けない父を支えるのはとても大変な事だった。介護認定を受けて、電動ベッドや肘掛のついたポータブルトイレ、車椅子などを借り受けた。これは退院前に手配しておいたのでちょっと楽だったが、寝たきりの介護というのは本当に大変だと身に染みた。前立腺ガンで手術をしている事もあって夜も2時間置きにトイレにいきたがり起こす。このままでは共倒れになるんじゃないかと思われた。地元の医者やケアマネージャーと相談の上、週1回自宅でのリハビリの出張サービスを受けることにした。週2回デイサービス施設でお風呂に入れて貰う事にもした。これは送り迎え付きで9時~16時くらいまで預かってくれる。日頃、殆どの世話をしている母にとっても良い時間ができた。同じような症状の皆さんとの交流もあり、家族以外の話し相手ができて父もとても喜んでいる。そうこうしているうちにひと月が経ち、自力でベッドから起きて柵を掴んで立ち上がれるようになった。肘掛のついたポータブルトイレにかろうじて座れるようになったのだ。ちゃんとできるか不安で見ていて欲しがるが、最初ほどは手が掛からなくなってきた。半身が付随な父にとってはこの肘掛のあるポータブルトイレは優れものだ。肘掛部分に掴まって座る事ができる。王様の椅子みたいにどっしりとして立派なポータブルトイレだなぁと私が言うと両親が笑った。以来このトイレは「王様の椅子」と呼ばれている・・・。今も一日の殆どをベッドの上で過ごしてはいるけれど、体重も34kに増えて無事11月の米寿の誕生日を迎えられそうだ。
2008/09/30
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町の花屋さんはカーネーションの鉢でいっぱい。今日は母の日だ。母の日のカーネーションで小学生の時の弟との会話を思い出した。あれは確か弟達の学年が校外学習かなにかで出かけていた日だった。デパートでの買い物時間が取ってあり、母の日が近かったのだと思うがカーネーションがあったらしい。そこで友達が白いカーネーションを見て綺麗だからこれをお母さんに買いたいと言ったそうだ。「ばかぁ、やめとけー」「うちのねーちゃんが言うとった」「白いカーネーションは、お母さんが居ない人が買うもんらしいぞ」「えー、そうなん?知らんかった」「母ちゃんに怒られるとこやった~」そういう会話が交わされたようで、ねーちゃんに聞いといて良かった、M君も怒られんしな。と帰ってきた弟は言っていた。そう言われれば確かに教えたんだろうけども、なぜ、白と赤に分けたんだろうと私は思った。同じ色でいいじゃないか。区別する必要があるんだろうか。まぁ、親になってみて思うことは、赤だろうが白だろうが息子が買ってくれた物を喜びこそすれ怒るはずもないが・・。長年そのままになっていたがその由来を検索してみた。アメリカ西バージニア州の教師ミス・ジャービスが母の2年後の命日に教会で、白いカーネションを配ったことが始まりだとか書いてあった。何故、白いカーネーションだったかというと、カーネションの白の花言葉が「亡き母をしのぶ」という意味がこめられていたからだそうだ。カーネション自体の花言葉は「母の愛情」ということで、赤が健在、白が「亡き母」ということになったとか。なるほど・・。白いカーネーションが先だったのか・・。でもみんながそれに習う事もあるまいに。白いカーネーションも清楚で綺麗だ。亡き母の象徴みたいに言われると飾りづらいような気がする。今は色んな色のカーネーションが店先に並んでいるし赤と白だけが象徴になってるわけじゃないのかもしれない。ということで、私は今年は母の好きそうな花にすることにした。カトレアの鉢を買って持っていった。母は事のほか喜んでテーブルに飾って言った。「来年も咲かせる事が出来たらいいんだけど」「生きてるかなぁ・・勿論私じゃなくてカトレアの事よ?」わかってます!
2008/05/11
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先日、母が叔母から茹でたタケノコを貰ったがいらないかと電話してきた。うちも冷凍庫にはあるが、まだ飽きるほどではない。貰ってもいいけど9日私の誕生日だし、いつものようにバラ寿司作ってくれるんでしょ?お寿司に入れる分は残しておいてね。そう言うと、あぁ・・そう言われればあんたの誕生日近いね。すっかり忘れていた様子。年だとぼやいていた。だいじょぶ、私も忘れっぽくなってるけど、自分の誕生日はまだ覚えていられるから催促するわ。そして昨日魚屋さんでエビを1キロ買って母に届けた。毎年一升のバラ寿司を作って親戚にも配ったりしてるようなので具の小エビくらい用意してもバチは当たらない。今日はケーキくらい買おうかと出かけて物色していたら可愛いプチケーキの詰め合わせがあった。6個入りだが、真ん中の2個にはカーネーションを模った花と、「お母さんありがとう」の文字入りチョコが乗っていた。そうだ、母の日も近いな。これにしよう。真ん中の2個は母に渡せば良い。父と1個づつ食べることだろう。主人の誕生日は私が手術した翌日で、なんの祝いもしなかった。だから残りの4個をふたりで食べる事にしよう。誕生日が来てもこの年になると、加算される年齢がちょと疎ましい。一休禅師の歌の、正月を誕生日に置き換えた気分。「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」まぁ、50を過ぎても両親が生きていて祝ってくれるのは嬉しい。この世に生み出してくれた事に感謝の日だ。ありがとう。
2008/05/09
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五月がやってきた、一年中で一番好きな月だ。散歩するにも楽しい季節。連休といっても、どこへ行くとてあてもない身。普段通り川岸や田畑の中そぞろ歩きを楽しむとしよう。色々な草木や花が心弾ませてくれることだろう。そうだ、今日は鎮守の森まで足を伸ばそう。帽子を被ってお茶持って、デジカメ持って、そうだ、お賽銭の小銭もいるな。さてさてお出かけ。近所の駐車場脇の小さなスペースでは牡丹の花が大輪の花を咲かせている。花が重た過ぎて折れそうだ、支柱がいるんじゃないのか。畑の中ではエンドウが花も実もつけている。持ち主がじっと佇んでいるので何をしているのかと声を掛けた。「いや~そろそろ実を取ろうかどうしようかと・・」お悩み中だったらしい。薔薇や牡丹、チューリップ、アヤメ、都忘れ、つつじ、他に名を知らぬ花々が咲き乱れた賑やかな畑もあった。家々に置かれたプランターには色とりどりのパンジーやケシの花。おや、家の奥の庭には藤棚から紫の花が垂れ下がっているな。鎮守の森に足を踏み入れるとウグイスが数匹鳴いていた。今日は良いお天気で歩いているうちに汗ばんで来た。大きな杉の木の並ぶ境内は涼しくてお茶を飲みながら一息入れて聞き入る。参拝をしておみくじを引いてみる。「大吉」の文字に顔がほころぶ。帰り道、橋から川を覗けば鴨の親子がなにやらお食事中の様子。川土手にはシロツメクサが群をなしている。子供の頃はよくこれで花冠を作ったものだ。ああ、五月は好い月。花の月。与謝野晶子さんの「五月の歌」が浮かぶ。去年の五月にやはりこの歌を思い出した。が、私はうろ覚えでしかなかった。うちにある与謝野さんの本には載っていないので紀伊国屋にいったが数冊ある本にもこの詩は載っていなかった。ネット検索で確認したら知っていたのはこの詩の一部分だった事が判明。全文を見たのは初めてだったのだ。全集が欲しいなー。機会があれば購入しよう。私と同じ五月九日生まれのネット友人にこの詩をプレゼント。 与謝野晶子 -五月の歌ー五月は好い月 花の月 芽の月 香の月 色の月ポプラ マロニエ プラタアヌ つつじ 芍薬 藤 蘇枋リラ チュウリップ 罌粟の月 女の服のかろがろと 薄くなる月 恋の月巻き冠に矢を背負ひ 葵をかざす京人が 馬競べする祭り月巴里の街の少女等が 花の祭りに美しい 貴な女王を選ぶ月わたしのことを云うならば シベリアを行き 独逸行き君を慕うてはるばると その巴里までついた月菖蒲の太刀の幟とで 去年うまれた四男目の アウギュストをば祝ふ月狭い書類の窓ごしに 明るい空と棕櫚の木が 馬来の島を想はせる 微風の月 青い月 プラチナ色の雲の月 蜜蜂の月 蝶の月蟻も蛾となり 金糸雀も卵を抱く生(うみ)の月何やら物に誘られる 官能の月 肉の月 ヴウヴレエ酒の 香料の 踊の 楽の 歌の月わたしを中に万物が 堅く抱きしめ 縺れ合ひ 呻き くちづけ 汗をかく太陽の月 青海の 森の 公園(バルク)の 噴水の 庭の 屋前(テラス)の 離亭(ちん)の月 やれ来た五月 麦藁で 細い薄手の硝杯から柘榴水をば吸うやうな あまい眩暈を投げに来た石榴水って、どんな味なんだろう。実は食べた事が何度もあるけれど、とてもすっぱい。検索したら中国語ばっかりで・・萎えた。
2008/05/02
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久々お風呂にゆっくりと入った。このひと月余りシャワーしか許されていなかったからだ。どうにも湯船に浸からないとお風呂に入った気がしない。だからイライラとした気分でシャワーを使っていたのだ。主人はシャワー大好きで湯船に浸かるには好きじゃない。なんでシャワーだけで満足できるのかその気持ちはわからないな。もう十数年前になると思うが大英博物館そばのホテルに宿泊した事がある。トイレの向こうのカーテンを開けて唖然とした。まるで洗濯機置き場のようなセメントで区切られた上にポツンと固定されたシャワーのみが設置してあった。湯量も温度も調節できないようだ。海水浴場のシャワーじゃあるまいし。やだやだ。五月初めの頃でロンドンはとても寒かった。ホテルの部屋の中さえ寒かった。厚手のコートを持参していなかったので、たまらず近くの洋品店に飛び込んで買ったのが赤いチェック柄のマントだった。今更だけど、帰国後の事を考えたら赤はちょっと失敗だったなぁ。ちょうど出会った銀髪のかなり高齢の方が真っ赤なオーバーコートを着ておられてそれがとっても似合っていたのだ。ああ、いいなぁ・・と、つい赤いチェック柄を選んでしまった。そのマントを部屋の中でも着ていたくらいだった。そんな寒い時にシャワーだけのお風呂なんて入れるはずがない。風邪引きそうだ。私は怯んでしまってその日はシャワーを使う事もしなかった。顔を洗って手足を拭いてその日は就寝したのだった。翌日はあちこちウロウロしたのでシャワーを使わないわけにもいかず思い切ってシャワーの栓を開いた。勢いよく飛び出る湯がバシバシと身体に当たって痛い。イタタタタ、出すぎやろ・・・固定されてて動かないので身をよじる。これがまぁ、どっちかというとぬるめの湯だったけれど痛いほどの勢いで湯に叩かれて身体がポカポカしてきたのだった。なるほど、これなら寒くないな。お陰で風邪は引かなかったけれどシャワーはやっぱり好きじゃない。ひと月振りにゆっくりと湯船に浸かりながらそんな事を思い出していた。やっとお風呂に入れたなぁ。いい気持ちだ。ババンババンバンバン そしてのぼせた・・・。
2008/05/01
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術後1ヶ月検診で婦人科に受診してきた。切り取った患部の検査結果もでているはず。結果は「良性腫瘍でした」との事。やれやれ一安心。バンザーイ!でもこの2年余り、腫瘍マーカーでずっと異常値が出ていたのがある。体内に腫瘍ができると、健康なときにはほとんど見られない特殊な物質が、その腫瘍により大量につくられ、血液中に出現してくるらしい。この物質を「腫瘍マーカー」と言うのだそうだ。私が異常値を示していたのはCA-19-9というものだった。正常値の2倍くらいあった。私の場合は皮様嚢腫と呼ばれるもので、その場合腫瘍マーカーのうち、CA19-9が高値を示すケースがしばしば認められるそうだ。それで経過見という事になっていたのだった。今回の患部検査では良性腫瘍だったけれども、手術して卵巣は両方切除してしまったので数値は正常になっているはずだから最後にもう一度腫瘍マーカー検査をしようと医師が言う。もう、婦人科には来なくても良いともおっしゃった。後は子宮のガン検査だけ1~1,5年に一度検査すれば良いし、それは婦人科でなくとも健康診断の折にやれば良いのだそうだ。で、腫瘍マーカーの結果は郵送するとの事だった。うーん。ということは、もし異常値が出たら?というか、検査する必要もないような気がした。2年間ずっと異常数値が出てたが経過見と放置してたんだし。これが異常値の場合というのを検索してみたら、膵臓がん、胆道がんで80~90%の高い陽性率を示すほか、胃がん、大腸がん、肝臓がんでは30~60%が基準値を超えます。と書いてあった。これは婦人科じゃないわな。しかし、これが異常値を示している事がわかったのは、しつこいようだが2年前の夏なんだよね・・。今回の卵巣嚢腫は良性だった。もし他の臓器がガンだったんだとしたら2年間放置してた事になるんだし、とっくに彼方にいってそうよねー。ずーっと痩せもしなかったしっ。2年放置しててなんともなかったんだし、もし異常値が出ても、この事で病院に行くのはよそう。あとは野となれ やまとなでしこ
2008/04/28
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散歩がてら自動車税の払い込みに市役所へ行こうとしていた。 歩いて往復20分もあれば行ける。 あまり長い時間まだ歩いちゃいけないらしいので リハビリに丁度いいかなという距離だ。 で、玄関を出るとお隣の理髪店の奥さんが 「ちょっとー筍いらない?」と声を掛けてくれた。 「あら・・お初だわ。うれしー」 茹でてないからと、米糠まで付けてくれた。 早速皮を剥いで茹でる事にした。 終って仕切りなおしで玄関を出ると、知り合いに声を掛けられた。 「ねー、筍いらない?もう茹でてあるのよ」 戴くことにする。 市役所とは反対方向に3分程歩いてお宅に伺って貰ってきた。 これで2本分の筍が我が家に。 冷蔵庫に入れて三度目のお出かけ。 すると、4軒先の電気屋の奥さんが 「ちょっと、ちょっと、筍あげるー今とったばかりだって!」 「ありがとー」 家に置きに行く。 惜しいなぁ・・最初のもう茹でちゃったんよねぇ・・ でも、早く茹でたほうがいいなと、そっちを優先した。 4度目のお出かけ。 実家の前を通りかかると、筍が4本ばかし転がっていた。 んげ・・・ 2本は剥いであるので途中だな・・ 茹でた後で連絡してくるつもりなんだろうな。 今、出会ってしまうと持たされる可能性は大きい。 市役所とうちの中間地点くらいに実家はある。 もう、引き返さないぞっ・・ そーーっと通り過ぎる事にした。 と、後ろから声がした・・ 「あら、ちょっとーー」 いや~~~。見つけないで~~。
2008/04/25
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さてさて、2週間の手術入院費用はいくらになるんだろう。ドキドキ。他の病棟で胆石手術をされた方のご家族が2週間で20万くらいと言っておられたのでそのくらいかな?と同室の患者Aさんと話していた。すると、その方が高額医療費の手続きをしてきてないの?と言う。それはなんぞや?Aさんは国保だそうだが、入院前に市役所に行って高額医療の手続きをしてきたそうだ。Aさんの場合月9万を超えた額については支払わなくていいそうだ。へーーっ・・そんな制度があるのか・・知らなんだ。ああ、知らなんだ、知らなんだ・・・。後日手続きをしても超過分が返還されるそうだが、事前に手続きをしておけば、最初から減額された額を支払えばいいのだそうだ。個室代金や食費には適用されないが保険が利くものは返還されるという。うちはサラリーマンの健保だけど、同じような制度があるんだろうか。さっそく主人に電話して事務員に聞いてもらうことにした。うちの健保にもその制度はあった!退院前なので事前に手続きというわけにはいかないけれど2,3ヶ月後になるらしいが保険適用範囲内の支払いが8万くらい越えたら返還されるそうだ。そうだったのかー。教えてくれたAさんに感謝。これは申請して手続きをしなければ返還されないものだったのだ。知らなければそのままになってしまう所だった。そうして退院時の支払いが20万弱だった。このうち保険適用部分の8万を超える額が返還されるんだ。聞いて良かったと喜んでいたが、はたと気付いた。返還は・・月単位だということだ。私の場合、入院は3月25日、退院は4月7日。2ヶ月にまたがっている。領収書をみると3月分は手術もしているので12万くらい。4月は6万くらいだ・・。これでは4月分はまるまる返ってこない。2ヶ月にまたがってさえいなければ、4月分として請求された額は全額返還されていたんだ。オゥ!ナンテコッタイ! オリーブどうりで、手術日を決める時に下旬が空いていたはずだ。私のように緊急手術でない場合は、手術予定が決められたのに。知らないばっかりに手術予定の少ない下旬を選んでしまった。2週間なら中旬を選んでもいけたはず。お馬鹿な事してしまった。みすみす6万弱返還を得られない。がっかり。そりゃ、しょうがないだろ。入院し慣れていたわけじゃないんだから、高額医療費を払った経験もない、返還制度も知らなかった。これまで健康だったから知らなかったんだ。教えて貰って3月分は返る金額もあるんだから良しとしよう。と主人が言う。まぁ・・ねぇ・・。でも勿体無かったなぁ・・。
2008/04/24
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抜糸をしてからは、前にも増して暇になった。術後毎日傷口の消毒があるのかと思っていたが、消毒は抜糸後のシャワーの後の1回だけだった。数日おきの採血検査や看護婦さんが毎日検温や血圧検査で体調を調べてくれる他はこれといって特別な事もない。毎日読書に勤しみ、院内徘徊し、時にはおしゃべりをして入院患者同士の親睦を深める。中国青島から来ている娘さんに折角だから中国語を教えてもらう事にする。1~10までの数え方を聞いたり、同じ「あ」という発音にもアクセントの違いで意味が変わる事などを教わる。青島という所はどんな所なのかも聞いた。特産品は?麦との事。ビールを作っているらしい。あーー、チンタオビール・・見たことがあるわ!そうだ、そうだ、確かドイツの植民地になっていたはず・・。それでビールなんだよね?そう聞いたら、25歳の若い娘さんは何も知らなかった。3年間日本で働いたら青島に帰って結婚すると言っていた。今2年目だそうだ。しかし、度々入院を重ねているので雇用主から辞めてくれと言われたらしい。入院費も嵩むだろうし、辞めさせなくても・・ねぇ・・。仕事を世話した中国人の人が話にきていた。うまく話がつけばいいな。私のほうはこれといって治療が行われるわけでもない。経過観察だけなのだろう。傷口が癒えるのは日にち薬だろうし、もう退院してもいいのではないかと思えてきた。診察も抜糸後は、術後9日目に予定されているだけだ。これが4月5日の土曜日だから、退院は7日だそうだ。土日の退院は支払いの都合などもあり行われてないそうだ。ならば、3日か4日に診察してそのまま退院できないものか・・。担当医師を見つけたら聞いてみようと思っていたが手術が立て込んでいるらしく会う事ができず、がっかりした。4日の夕方に、もう7日退院になっちゃうなと思って意気消沈して本を読んでいたら、突然、頻脈になった。いつもの倍くらい脈が速くなり、顔が真っ赤になり息苦しい。じっと耐えていたがたまらず看護婦さんを呼んで告げた。熱も36.1度だし、血圧も高くなかった。暫くしたら脈は落ち着いてきた。が、寒気がした。看護婦さんが手も足も冷たいね・・と電気毛布を持ってきて、気分が悪くなったら呼んでと去っていった。2時間くらい寝ていたら気分も良くなった。なぜ、こんな事になったのか分からなかった。入院してからというもの、熟睡したことがなかったので寝不足だったのかなとか、卵巣取ったから、ホルモンの分泌が変わって更年期障害みたいな症状がでたんかな・・とか、色々考えたけども、原因はわからない。翌、5日は何事もなく過ごし、午前中傷口の診察を受けて7日退院ですと言われた。夕方が来ると、なんだかとってもいや~な気分になってきた。夕飯が運ばれてきたが、ひとくちも喉を通らない。主人に電話して、話に来ない?と言う。何かを察したのか、じゃ行くわとの返事。病室には居たくなかったので詰所横のエレベーター前の椅子に座り主人を待っていた。でも、話したからと言って気分が変わるかなぁ。これから土曜の夜と、日曜の夜を病院で過ごすのが堪らなく嫌だった。ぼーっと座っていると、看護婦さんが「夕飯は済んだの?」と聞く。「ああ、食べたくないのよね・・」「どうして?何かあったの?」「誰かに何か言われたの?」幼稚園児のような心配をされてしまった。「いやいや、そんな事はないよ」「ただね、これから先病院にいても土日は診察があるわけでもないし退院は7日に決まっているし。何もする事はないんだし」「ただ早く退院したいと思ったらご飯も食べれないの」そういうと、涙がぽろぽろとこぼれた。これには自分でもびっくりした。ああ、私は泣くほど家に帰りたかったんだ・・。看護婦さんが、「なんでもっと早く言わないの、ついさっきまで先生いたのに」「早く言えば、外泊許可でただろうに・・」う・・そうか!外泊と言う手があったか!「でも、もう先生帰られたのならそれもダメよね」「早く言えばよかった・・帰りたい・・」「主人も車でこっちに向かってるんだけどね・・」外泊は思いつかなかったので、それを聞いて帰れたかもしれないと思うと涙がまた流れた。看護婦さんは詰所に帰ったが、程なくして医師がきた。帰りがけに医局に寄っていたらしく、看護婦さんが先生に電話を掛けまくって見つけてくれたのだ。「おや、泣いてるじゃないですか。どうしました?」「誰かに何かいわれました?」と、やはり幼稚園児扱いされた。入院患者にいじめっ子はいないけどなぁ・・。皆良い人ばかりだった。「いえ・・ただのホームシックです・・」「本来なら土日でなければ退院できてたなぁと思うと、むしょうに帰りたくなったんです」すると、看護婦さんが「夕飯も食べないんですから、外泊させてあげてください」「土日家で過ごして、月曜に退院しにだけ来るということで」と言ってくれた。「それでもいいですよ、そうしますか?」これに飛びついた。「うわ、いいんですかっ、ありがとうございます」もう、嬉しくて嬉しくて、今泣いたカラスが・・状態。ぼけっと座っていた私に声を掛けてくれて、医師を探して交渉してくれた看護婦さん。彼女は術後に「ハサミが残っているんじゃ?」と冗談めかして言った時に医師に問い合わせて聞いて来た看護婦さんだった。あの時は少し恨んだけれど、確かに聞いてきてくれて安心した。ああ、この人は患者さんの身になって行動してくれる看護婦さんだったんだ。ありがとう。あなたが居てくれたお陰で私は土日外泊できる。ほんとにありがとう。もう、退院するようなもんだ。いそいそと着替えて主人の車を待つ。駐車場に入るまでの主人を見つけて車に乗り込む。「どしたん?」「土日外泊して月曜に退院手続きだけする事になった」「そういう事だったんか・・」「いや、あんたに電話した後で決まったの」「へ??」「帰りたいと泣いたら外泊させてくれた」泣いたのか・・・と彼は笑い転げた。「そりゃ子供には内緒にしておかないとなー」「いや別に、知られたって困らない」「もう、1分1秒も病院のカーテンに囲まれたベットで寝たくなかったんだもん」うきうきと帰宅すると、お腹も空いて玉子焼きとジャコ天を焼いて夕飯を食べた。まとわりつく猫の頭を撫でながら、家の空気満喫。土日は猫と共にぐっすり眠れて元気百倍。あっという間に月曜日がきた。病院ではあんなに一日が長かったのが嘘みたいだった。雨の中月曜日に退院に行って2週間の入院生活が終った。やったー!まだ傷も痛むし、自転車に乗る事も許されていない。お風呂もシャワーのみだけれども、我慢、我慢。もう二度と入院も手術もしないぞっ。
2008/04/22
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手術から2日目の朝はまた痛みが減っていた。ベッドから降りる時、立つ時、ベッドに這い上がる時はまだまだイタタタタではあったが慣れてきた。背中のチューブはまだ抜いて貰えないので、麻酔の入ったビンを持ちながら歩いていた。これが重くてちょっと厄介だったのだが、午後になると、背中のチューブ外しますと詰所からマイク連絡。やった!と、いそいそと病室をでて、ぽてぽてと歩いて処置室に向う。すると、医師と看護婦は病室に来る用意をしていた。「あら・・先生、患者さんの方が歩いてきてます・・」「おお、やったね!歩けてるんだね」この日は土曜日で私の担当医が当番ではなかったので、他の医師がチューブを外してくれるようだった。歩いているのを見て喜んで戴いた。ずるずるとチューブが身体から出されて、スッキリした。やっぱり身体に何か入っているというのは神経に触るものでずっと抜いて欲しいと思っていたのだ。変に肩が痛いとか胃の辺りが痛いとか思っていて、それがみんなこのチューブの所為のような気がしていた。抜いてもらって本当にスッキリとした。これで身体を縛っていた物は全て無くなった。やったね!これ幸いとエレベーターで1階に降りて外の空気を吸う。ああ、気持ちがいいなぁ。2日目からはベッドで読書に勤しみ、目が疲れると起き出して病棟内や、売店、外周りとどんどん歩く範囲を広げていった。3日目には階段も4階から1階に降りる事が出来るようになっていた。上るのはちょときつくて傷が痛んだので辞める事にした。階段を降りていたら看護婦さんに怒られた。「あのね・・まだ手術して3日目ですよ」「トイレ行くくらいか病棟内歩くくらいにしてください」「階段なんかもっての他です。表面は癒えてるように思っても中も切ってるんですからねっ」で、エレベーターを使う事にした。しかし、悪い事は出来ないみたいで、みんな私が各階をウロウロしてたりしてたのを見ていたようだ。お茶を配ってくれたり、シーツ交換をしてくれる人に言われた。「あんた元気にあちこち歩き回ってるってね、みんな言ってるわよ」「ありゃ・・見知った顔には出くわしてないと思ったけどなぁ」「あんたのその三つ編み赤リボン目立ってるもん」「もう1階ウロウロしてたとか、裏玄関先にいたとか聞くわよ」「その三つ編み赤リボントレードマークになってるもん」げ・・・・三つ編み赤リボンの所為で、声を掛けて来られた年配の入院患者に「お産はもうすまれたのですね?」と言われてしまった。いくらなんでもこの年でお産はないだろう・・・。「ええ、とっくの昔に、20年以上前ですね」「女学生みたいな髪型の所為でそうみえました?」と答えて、ふたりで大笑いをした。う、笑っちゃいけない・・傷が痛いって・・。そんなこんなで3日目も更けた頃、「ギョエ~、ンギャ~」と凄い叫びが聞こえてきた。「イタイ、イタイ、イタイ、もういや~~~~!」ああ、分娩室からの妊婦さんの声か。「もういや」って・・。まぁ、痛いよね。痛いのは良くわかる。私達がお産をした時代には声を出したら、「うるさい!声をだすな!」と産婦人科医にひっぱたかれたもんだ。声を出すほうが楽ならそれもいいんじゃないかと私は思う。暫くしたら元気な赤ちゃんの鳴き声が聞こえてきた。おめでとう!頑張ったね。4日目には個室が入用になったからと、大部屋へ。ところが、大部屋でも1人の夜を過ごす事となった。広い部屋で、5つのベッドが空いたままの部屋は怖い。ねずみに引かれそうなので、カーテンできっちり囲んで寝た。部屋の中は私1人で閑散としているが、産婦人科の夜は毎夜赤ちゃんの泣き声が聞こえているので、深夜でもシーンとはしていない。おお、元気に泣いているなと煩いとは思わないけれど、子守唄代わりにはならないもので、毎夜ぐっすり眠るという事はなかった。5日目は、大部屋満杯。初日に一緒に入院したお二人が抗がん剤を打ちに来られて、再び同じ部屋に、もうひとかた抗がん剤の人も来られた。中国の青島から働きにきている若い娘さんと、貧血が酷くて診察にきたら帰れずそのまま入院した方。わいわいと賑やかな一日だった。6日目には抜糸。この時初めて自分を傷をみたが、なんと最近はホッチキスのようなもので傷口を止めてあるのだ。へぇ・・こんなので止めるんだ・・。ぼこぼことしてて、12,3センチ切ってあったがまるで、小さなオムライスが乗ってるように腫れていた。そうしてシャワーが許された。なんだかちょっぴり怖かった。でも、洗髪もして爽快。あー、スッキリした。
2008/04/19
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手術の翌日は我慢できる痛みになっていたので午後になったら歩いてみますか?との担当医の言葉に飛びついた。歩けたら外してもらえる物がたくさんあるからだ。靴下を脱ぎたい。両足の固定を外して貰いたい。外して貰えたらもう「すみません、外れました・・」と迷惑を掛ける事もなくなる。これが一番嬉しい。膀胱に入っている管を抜いて貰いたい。どんだけすっとするだろう。気を良くした私は、主人にもう帰ってもいいんじゃ?と言った。歩くのを見てから帰ろうと思うんだが・・と殊勝な返事。この時には激痛は去って我慢できる痛みになっていた私も心が穏やかになっていた。きっと歩けると思うから大丈夫。猫にも餌をやらないといけないし、家でもゆっくり出来ないかもだけど長椅子にいるよりは良いと思うと帰した。午後になるのを楽しみにしていたら、身体を拭きに来てくれた看護婦さんが言う。「先生は、ああおっしゃいましたけど、無理ですよ・・」「起き上がるのさえ、大変なんですからね」「まだ手術してから24時間も経ってないんですから」「今日はベッドに起き上がる練習でいいと思いますよ」これを聞いて私は密かに歩けるだろうなと思った。と言うのも、主人を帰した後また足の固定が外れ、じわじわ起き上がって腹這いになって自分で直しにいったのだ。起き上がるとジーンと激痛が走ったけれど、数分間じっとそのままの姿勢で我慢していたら、やわらいでいったのだ。機械のスイッチ場所がわからなくて直せなかったけども・・。ああ、帰る前の主人にスイッチ場所聞いておけば良かった~。まぁ、そういう事があったので私は歩けるだろうと思っていた。お昼になって、食事が運ばれてきた。流動食と言うだけあって、重湯に、ポンジュース、ヤクルト、牛乳。手術前の6時の夕飯以来だから、42時間振りの食事かぁ。少し頭の方を高くしてくれて、ベッドにテーブルを置いてくれた。ベッド横の柵を掴んで身体を起こす。「あら・・起きた!」看護婦さんは横になったまま食べさせてくれるつもりだったらしい。「うん、起きて食べたいからね」と言いながらもジーンと来る痛みが去るのを待つ。食後暫くしてから、「起きれたから立ってみますか?」「支えますよ。無理だったら辞めましょうね」「その前に痛み止めの筋肉注射をしておきましょう」と看護婦さんがやってきた。ちょっとまった!私は痛み止めの注射で薬疹が出たことがある。その2種類の薬品名を伝えてあるはずだけどだいじょぶ?と問うと、確かめてくると詰め所に帰った。その間に起き上がり、ベッドに横座りして足を外にだす。ぐはっ、痛い。治まるのを待つ。点滴は手術前からずっと入れっぱなしなので、その棒を掴んで支えにして立った。ジーーンと下腹に激痛が走り座りたくなったが、姿勢を変えたらもっと痛くなるのは実証済みだから耐えた。暫く立ったままでいれば治まるはず!少しづつ激しい痛みが遠のいていった。そこへ看護婦さんが帰ってきた。「ひとりで立ってるし!」と驚いていた。痛み止めの注射は辞めようという事になったと伝えられた。「うん、もう立っちゃったし、痛みもだいじょぶよ」ぽてっ、ぽてっ、と歩いてみた。おお歩けた、歩けた。「歩けましたねぇ・・じゃ、膀胱の管取りましょうね」やった!「足固定してた機械も持ってかえりますね」ばんざ~い!「ポータブルトイレ持ってきますか?」「いや、歩けたからトイレ行きたくなったら行ってみる」「無理だったら言うから、その時はお願いします」その後、なんとかトイレまで歩いて行くことができた。少しでも痛くないように腰を屈めて、凄い格好で歩いていたけど・・。歩くのはまだいい、トイレで座ってまた立つのがのが一苦労だった。イタタタタと病室に戻って来る。そこからベッドに上がるのもイタタタタ。あー、一仕事終った・・という感じで横になる。夜には点滴も取れて、これで身体に付いているのは背中にささっている麻酔の細いチューブのみ。ああ、なんて開放された気分なんだ。昨日のあの身の置き所のない痛みに比べたら治ったようなもんだ。それは言い過ぎだけど、手枷足枷の取れた喜びでは大きかった。両手が空いた嬉しさで、息子君やら、知り合いにケイタイメールを送る。主人に電話をして歩けた事と手枷足枷が取れた事を報告。まぁ、良く考えてみたら、誰も居ないよりは居てくれて良かったと思うと言うと、そう思ってたから居たんだと言う。はいはい・・。ははは。そして持って行った本を出してきて、読み始めた。取り出してベッドに上がるまでが、イタタタタだったけど。人様には見せられないベッドに這い上がる仕草だなぁ。様子を見に来た看護婦さんが言う。「昨日手術した人にはみえないわね、もう本読んでるし」「えー、何もする事がないし・・気が紛れるし」あんなに怖かった手術は昨日の事なのにもう遠い出来事のように思えた。手枷足枷の激痛の不機嫌な昨日も忘れよう。痛みも今日はもう耐えられるし。これからは治る一方だ。良かった、良かった。
2008/04/17
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手術が終って病室に帰り着いたが、まだ麻酔が効いていて傷はあまり痛くはなかった。心配して電話を掛けてきていた息子君に手術が終って元気だとメールを打った。それを見ていた看護婦がなんて元気なんだ!メールを打つ余裕があるのかと笑った。ま、麻酔が解けてからの痛みを思うと、この時にメールしといて良かった。そうして両足になにやら取り付けている。これは膝から下の両足を固定して、空気を入れて締め付けて緩めるという繰り返しを行うようだ。サポーターのような靴下と同じ効果のようで、静脈血栓症を起こさない為の予防処置のようだった。これも歩けるまでは外して貰えない。酸素マスクに、点滴、膀胱には尿を出す為の管、両足固定。とっても不自由で動くに動けない・・・。暇だったので、母の言っていた「カニミソ」っていうのは何なの?と主人に問う。それは、術後執刀医からの説明時に取り出した卵巣の中身を見せられた時の感想であった。皮様卵巣嚢腫というのは、髪の毛やら歯牙、皮脂、脂肪など各種臓器を模した内容が認められるもので、その一部が「カニミソ」に良く似ていたらしいのだ。なるほど・・母の説明には主語が抜けていて何を言ってるのかサッパリわからなかったんだな。そのうち、麻酔が切れてとっても痛くなってきた。開腹した傷よりも腰や右下腹が痛い。身の置き所がないくらい痛い。ごそごそと体位を変えると、余計に痛いがじっとしては居られない。すると、両足を固定している器具が外れてしまって、何度も何度も付け替えて貰う事になる。主人や看護婦に頼んで外れる度にやって貰っていた。主人はぶつぶつと文句を言う。切ったんだから痛いのは当たり前、じっとしてろと言う。じっとしては居られない痛さなんだからしょうがないだろう・・。度々看護婦を呼ぶのも気の毒だ。側にいるのだからそのくらい機嫌よくしてくれても良さそうなもんだ。遠慮しながら頼む病人の気持ちを考えて欲しい。なのにお腹がすいたと近くのスーパーに買出しに行って、むしゃむしゃと弁当やら惣菜を食べ、挙句食べ過ぎたと文句タラタラ。運動してくると出て行く。何の為の居残りなんだ!看護する気はないのか・・。イライラとしていると、担当医がやってきて「気分はどうですか?」と尋ねる。「痛いだけです・・」と言うと、「背中の管から痛み止め入れることができるんですよ」「看護婦がやってませんか?」「ありゃ、一度もいれてないですな」と、痛み止めを注入して出て行った。よく見ると、背中から入っている管の先に点滴くらいの大きさのビンのような物が付いていて、それが私の肩の辺りに置いてあった。痛み止めの注射を打つよりは確かに便利ではある。これは確かに痛みは減るが、それは開腹した所が主で、腰や右下腹の痛みにはさほど効いていないと思った。それに30分くらい効いているだけだ。「この右下腹が凄く痛いのはなんでだろ?」「手術した時にハサミとか残っていたりして」と、主人がけらけらと笑う。そういう事を言うんじゃない!看護婦が様子を見に来て、容態を聞いた時に、つい、「右下腹が一番痛いんだけど、ハサミ残ってるとかないよね?」「ま、冗談だけど・・」と言うと、看護婦の顔色を変えて出て行った・・。暫くして戻ってきた看護婦が「今執刀医に聞いてきました」「器具はちゃんと数えていて、数は合ってました。ガーゼ1枚残っていません、確認済みです」「との事です、痛いのはそのあたりに切り取った患部があるからじゃないかとも言っておられました」と言う。「ううう、何も聞いて来なくても・・冗談なのにー」「でも、多少なりとも疑い持ってるから、そういう言葉がでたんでしょ?」「確認したほうが安心でしょうに」まぁ・・看護婦さん、あんたは正しい。すると、主人が言う。「わがままな事言う奴ですみませんねー」あんたが言うな!大体最初にハサミ云々言ったのは誰だ!あんただろうに・・・。その後も腰や右下腹、開腹部分の痛みは続き、悶々とした夜を過ごした。痛み止めを朝までに3回くらい看護婦さんが痛がっているので入れてくれた。30分寝られるだけですぐ痛くなって、痛さが倍増する気がして、私から入れてくれと頼む事はなかった。1時間に1回入れても良い事になってるそうだけど、明日の朝になれば、きっと楽になる時間薬だと思って、耐えていたのだった。けれど、あまりの痛さに耐えかねて動くものだから、足を締め付けた器具は度々外れる。大きないびきをかいて寝ている主人を起こすと、しぶしぶと乱雑に直す。「もーーー寝てるのに!看護婦呼べ!やってもらえ」と、そのうち起きもしなくなった。何の為に泊まってるの?私は痛みで殆ど眠れないし、この仕打ちに情けない思いで一杯だった。ずっと時計を眺めていたが、遅々として進まなかった。朝になればきっともっと楽になるはず。それだけを念じて眠れない長い長い夜を過ごした。そのうちにやっと夜が明けて、午前8時頃になると、身の置き所が無かった痛みは耐えられる痛みになってきた。それでも一番痛い場所はやはり右下腹だった。その頃になると目覚めた主人が朝ご飯を買出しに行き、食べながらご機嫌な声で言う。「お前も今日の昼には重湯が飲めるそうだ。楽しみやろ」やかましい!それより何より痛みが我慢できるのが幸い。あんた、看病に向かない人間だと思うわ。これが反対なら、どんだけ怒り狂うだろうと思ったしね。なんで病人が遠慮して頼まないといけないのか・・頼んでも、看護婦呼べ!じゃねぇ・・・もし、あんたが入院したら同じ仕打ちしてあげるわ~。朝になり酸素マスクが外されて、痛みもましになったものだから、ここぞとばかりに言った。眠かったんだし、しょうがないだろう。俺は仕事で疲れてたんだ・・。そう言っていたが、反省したのかその後はちょっと優しくなった。何かとろうか?して欲しいことは?足に付いてる機械みようか?とか言い始めた。もう遅い!一番痛くて苦しかった時にその言葉聞きたかったわ!やがて、主治医がやってきて、殆ど痛み止めの麻酔が減ってないのを見て、午後には歩いてみますか?と言った。
2008/04/16
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さて、いよいよ手術当日。 午後からの手術と聞かされてはいたけれど、 朝から色々な準備をされた。 前の晩には下剤を2錠渡され、こんなの2錠も飲んだら 下痢するに決まってると、1錠しか飲まなかった。 正解だったと思う。 朝からぶっとい浣腸までされたのだ。 そして手術後は寝たまま動けないからと、 サポーターのような靴下を履かされた。 なんでも、エコノミー症候群のような事になっちゃいけないから、 その予防なんだそうだ。 これが足が締め付けらるようで、あまり良い感じではなかった。 歩けるようになるまで履いておくそうだ。 そこへ、主人と母がやって来た。 「いよいよ手術だねー、気分はどう?」 そんなもんいいわけないに決まっておろう。 「お弁当持ってきたけど、あんたは絶食だよね?」 当たり前でしょ・・。その事は伝えてあったはず。 「うん、だから2人分にしといたわ」 「ここで食べるのも、あんたが嫌よね?」 いや、手術日と翌日昼までは絶食と決まってるし、 ここで食べてもいいけど? 「そうよなー。ガキじゃあるまいし、自分が食べられないからって 怒らないよなー。お母さんここで食べましょー」 と主人が言う。 そうして、能天気にお弁当を広げて、 匂いを撒き散らしてふたりは食事を始めた。 このエビは美味しいー、そりゃ冷凍じゃないもんとか 賑やかに笑顔で弁当を満喫していた。 あのね・・手術前の緊張もあって 絶食と言われてなくても食べたくはない。 ここで食べてもいいよと言ったのは言った。 でもね、私はふたりに気を使って言ったのよ? 思いやりってあんたら知ってる? 能天気にワイワイと花見気分で食べやがって。 緊張感と不安の中にいる私にはふたりの態度は とっても腹が立つわよ。 でも、それを口に出せばその場が気まずくなるだろう。 いいわ、騒いでなさい。 いつかあんたらが手術する事があれば、同じ事してあげるから。 私は心の中で爪を研ぎながらふたりの能天気さを呪った。 そうして点滴やら手術着に着替えなどが始まり、 ふたりは追い出された。 筋肉注射もされたが、これがどうやら鎮静剤効果があったようだ。 手術室に入る前にストレッチャーに乗せられたりの記憶が曖昧だ。 あ、手術室に入ったなーというのは覚えているけれど。 頭の上の大きなライトが見えた。 と、これから麻酔をします。 その前に背中から細い管いれますねー。 足を抱えてくださーい。 痛いですかー? これが左腰や左わき腹がとても痛くてたまらない。 痛いと訴えると、あら?痛い?と言う。 ちょっと奥まで差し込んだかなぁ。 短くしたからもう痛くないでしょ? 確かに痛くはなくなった。 でも、手術前の麻酔の合併症やらの文書がちょっとよぎった。 失敗したんじゃないだろね? この時の思いが結構後まで残っていて この背中から入れた管は痛み止めが常時入ってると言われても 気持ちが悪くて早く外して欲しかった。 その後すぐに、 「麻酔の注射をします」 「これは凄く痛いですが、すぐ意識なくなりますからねー」 と言われた。 凄く痛いって・・、どんな痛さ?と身構えていたら 痛いも何もわからないうちに意識は飛んでいた。 気が付いたら真っ暗闇の中で私を呼ぶ声がした。 「はい」と返事をしようと思うのだが、全く声がでない。 どうしよう・・目の前は闇だし、声もでない。 もしかしたら、麻酔の副作用で耳が聞こえない?目も見えてない? うわ~~ん、「はい、はい、はい」 ダメだ・・声が出ないのか、聞こえていないのか・・ ふと冷静になった。 呼ぶ声が聞こえてるんだから、耳は聞こえているじゃない! じゃ、声が出ないんだ。 あー、自分では呼吸できないから気管にチューブ入れると書いてあった。 そう思えば、なにやら口一杯に入ってる。 声がでるわけがない。声が出ないの解ってて呼ばないでっ。 とか叫んでいたら、チューブ抜きますねーと聞こえた。 ずるずると何かが引き出されて、声がでた。 目も開いて視界がひらけた。なんだ・・目瞑ってたのか? 「あーやっと声が出た」と周りをみると3時15分だった。 「手術前に見たとき2時だから1時間ちょっとかかったのか」 え、なに?と看護婦さんが問う。 「あのね、チューブ入ったまま呼ばれても声でないわ」 「チューブ抜いて貰ってやっと声がでたわ、 1時間ちょいとかかったのね手術」 と言うと、 「あら・・珍しい、完全に覚醒してるわねー」 どうも、意識がハッキリして完全に自分の言ってる事を 覚えているのは4,5時間後からのことが多いらしい。 手術室を出ると、医師から取り出した卵巣を見せられて 説明を受けたらしい主人と母がいた。 母はしきりと「あのね、カニミソだったわ、カニミソ」 と言っていた。 「わかる?カニミソそっくり」 何を言うやら・・そんな説明でわかるわけがないだろ・・。 めんどくさいから、「ああ、そう、ふーん」と言っておいた。 それで満足したらしい母は帰って行った。 そうして病室に帰ると、個室に引越ししていた。 長椅子が部屋に有り主人が泊まりこむ事になった。 兎に角無事手術が終り目覚めた事に感謝。
2008/04/15
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さて、入院初日。手術説明があるから必ず主人を連れて来いとの事だった。外来で待っていると、病棟から看護婦が迎えにきた。3人の入院患者がいるようだった。呼ばれて行こうとすると、主人が来ない。ふとみると、長椅子で眠りこけていた。緊張感がなさ過ぎ・・他人事だと思ってるからだろうけどどこでも眠れるやつだな。病棟の詰め所に1人づつ呼ばれて看護婦に色々な事を聞かれる。アレルギーの有り無しや嗜好までも。担当医師説明に呼ばれないなーと思っていると、緊急手術が入ったので暫く待ってくれと言われた。どうも帝王切開らしくカイザーという言葉が飛び交っていた。産婦人科の病棟は産科があるから華やかで賑やかという感じだ。「おめでとう」の言葉や笑い声が普通に聞かれるというのも産婦人科病棟ならではの事だろう。待っている間、ガラス越しに新生児室を見た。5,6人の新生児が小さな手を握り締めて泣いたり眠ったりしていた。可愛くて思わず顔が緩む。「可愛いよー見て見て」と主人に言うと、「生まれたてなんて可愛くもなんともない」と見にも来ない。もう、なんて奴だ。そうこうしていると、担当医師に呼ばれた。手術説明が始った。聞いていると、どんどん手術するのが嫌になってきた。手術説明というか・・・手術に伴う合併症として腸管、膀胱、尿管の損傷や出血、感染があるとか、術後合併症として尿管損傷、腸管麻痺、静脈血栓、等々が起こることがあるとか、そういう事が書いてある「開腹手術についての説明及び同意書」に家族と本人が署名押印するって事だった。要するに失敗することや合併症が出ることがあるから後で訴えられないように同意書を取っておくという事かな。同意書を読んだり聞いたりしていると、どんどん不安になった。「で、これまでにそういう例はあったんですか?」と聞いてみた。「いや、これまで私が行った手術ではないです。」それだけ聞けば充分だと思った。説明を受ければ受けるほど怖くなるだけだし。そういえば、知り合いが脳動脈瘤の手術をした時に入院同意書に「表玄関から帰れない事もあるので・・・」という項があったらしくとても怖い思いをしながらサインしたと言っていた。確かにこういう同意書にサインするのは怖い。ズーンと何かが圧し掛かるようないや~な気分になった。「もう手術すると決めたんだから、何も考えなくていいじゃないか」と、主人が繰り返し言ったけれど、どうにも嫌な気分は消えなかった。その後、担当の看護婦さんが病室にやってきて「手術療法」というプリントを持ってきて、入院から退院までの毎日の治療の流れを説明して置いていった。翌日は麻酔科の医師と看護婦がやってきた。「麻酔に関する説明同意書」を持って、またこわ~い説明を受けた。全身麻酔って、怖いもんなんだと同意書を読んで思った。「自分では呼吸が出来なくなる為、人口呼吸をおこなう必要が有りそのために気管の中にチューブをいれます」と書いてあってびっくり。へー、自分では呼吸できなくなるのか・・怖っ。また局所麻酔もするようで脊骨の間から脊髄をおおっている硬膜の周囲にチューブを入れて、手術後も残して麻酔薬を入れて痛みを抑えるという事だった。これらの合併症がまた怖い事がいっぱい書いてあった。10万人に1人は麻酔が原因で死亡するそうだ。比率に関係なく本人にとっては0か1だからどんな合併症もありうるわけでどんどん、どんどん、怖さも増す。あー、聞くんじゃなかった。手術すると決めたんだから盲判押しておけば良かった。やだやだ・・辞めたい、帰りたい。手術日までの二日間は大部屋で不安の中過ごしたのだが一緒に入院した他の2人も同じ部屋だった。このおふたりは、どちらも抗がん剤治療で1泊2日で来られたようだった。それが毎週の事で、何回か続くそうだ。3度目の再発で抗がん剤を打ちに来られている方と、腹水がお腹の中に溜まって臨月くらいの大きさになって、抗がん剤を打ちながら腹水を抜いた方、どちらも大変な思いをされていた。それでも、とても明るい方達で自分達も大変なのに笑って色々な話をして手術前で緊張してる私を和ませてくれた。翌日の帰り際に「頑張ってねー、来週また来るからね、また話そうね~」と、おふたりとも抗がん剤を打ってだるいだろうに励ましてくれた。ありがたいことだ。夜になって、明日は手術だと思うとなかなか寝付けないだろうと、看護婦さんが暖かいお湯を持ってきて足湯させてくれた。色々な気遣いが身に染みたが、あまり眠る事はできなかった。
2008/04/14
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2年前の夏、卵巣嚢腫が見つかった。皮様卵巣嚢腫というものらしく、大きさは右5.8センチ左4.0センチだった。その時点では手術するかしないかの判断は私任せだったので、ガンになる確率は1%という事もあり定期検査で済ませていた。そうして、そのままずるずる毎回「手術しますか?」の問いに「経過見という事で・・・」と答えてきたのだ。それが3ヶ月前の超音波検査時に自分で見てもちょと大きくなってきてるな・・と思った。1,2ミリの違いは検査時にどうしてもありますよ、と先生は言われた。ただ、年齢が加わるに連れてガンになる可能性は高くなるそうだ。測ってみると6.4センチと4.8センチになってるし・・。初見の時から比べたら1,2ミリの違いじゃないしなぁ。ちょっと不安になってきた。手術しますか?との問いに、したほうがいいと思いますか?と返すと先生は、じっと考えて「もしも私の家族なら手術した方が良いと言います」と答えられた。うーむ・・・では次回の検診までに答えを出しますと帰ってきた。主人や母や主治医の内科医とも相談してみた。ネットで検索したりもいた。すると腹腔鏡手術なるものもあるというのが解った。これなら数箇所5ミリくらいの穴を開けて取り出すらしい。なんだか楽そうに思えて手術してもいいかなと思えてきた。3月初旬の検診には手術する旨を伝えた。「卵巣は両方切除するとして、子宮も取ります?」と、医師が問う。「え?・・子宮も切除するほど悪いんですか?」「いや、ついでだから」「・・え?え?え?・・ついでって・・」「その場合、この先子宮ガンにだけはなりませんよ」「いや・・そういう問題じゃないような・・」「そりゃ、もう子供を産む事はないですけども・・」「じゃ卵巣だけにしときますか?」「そうしてください。何も悪くないとこまで取らなくても・・」「はい、はい」なんだかなぁ。この先生色々切除するの好きなのかなぁ。やな感じだ。健康な部分まで取ろうとしないでよ。この時はそう思った。3月25日入院、27日手術とすぐに日程が決まった。腹腔鏡でも可能ですか?と問うと可能だと言われ、そうする事にした。けれど、私の卵巣嚢腫は大きいので腹腔鏡手術だと取り出すときに中身がお腹の中にこぼれますと言われた。えーっと、それって・・大丈夫なんだろか・・。その後色々経験者に聞いたり調べたりしたら、なんだかとっても腹腔鏡の手術は怖くなってきた。や、やっぱ・・開腹手術にしてくださいと手術前検査の折に願い出た。自分で手術すると決めたものの、入院までの3週間はやっぱり辞めようかなぁ・・でも、このまま大きくなってガンになるかもと心配するのもなぁ・・色々薬のアレルギー持ってるしなぁ・・麻酔が合わないとかあるかもだし・・等々、色んな事が考えられてとってもやな気分だった。ぐずぐずと入院準備を進めた。下着は新調するとして、パジャマでいいのか?お腹切るんだし。バスタオルにテイッシュに洗面道具、着替えと。薬呑もいるんかい。退屈だろし文庫本も10冊ほど持っていくかー。・・・バック1個には入りきらないしっ。ぶつぶつだらだらイライラと過ごした入院準備期間だった。
2008/04/13
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所用で宇和島市に行った帰り道。 海抜200m辺りの国道から海を眺めた。 天気は良いし春らしい海だなぁと主人が言う。 ほんとにね。 車を止めて車外に出て遥か向こうの海を眺めながら伸びをする。 道沿いには満開の菜の花が柑橘類の成った茂みと混在している。 赤い蕾を付けた木は杏だろうか? と話ながら歩いていると ぽかぽか陽気に堪らなくなって上着を脱ぐ。 風が気持ち良く肌にまとわる。 ああ、春が来た、春が来た。 キラキラと海が光る。 春の海が光る。 飽きず眺めていると 宮城道雄の「春の海」の曲がハープとフルートで頭の中で流れる。 たまたまランパルのレコードを持っていて良く聞いていたので 琴と尺八ではなくハープとフルートなのだ。 蕪村の俳句もあったなぁ。 「春の海ひねもすのたりのたりかな」 確かにのたくってる海だ。 トンネルから出てきた普通列車がカタコトと走った。 なんとものどかな風景じゃないか。 暫し2人でのたくった。 うちに帰ってテレビを付けると今日は中学校の卒業式だったらしく 「15の春」と題したニュースが流れていた。 女生徒の泣き顔がアップになる。 自分の時はどうだったろう? 遠い昔の記憶を弄っても中学の時の卒業場面は出てこない。 息子君の時は大変な思いをしたな。 父兄代表でお礼の言葉を述べてくれと言われて焦った。 辞退すると代わりを見つけてくれない限り辞退させないとの返答。 そらあんまりだ・・。 あちらこちら卒業生の親の情報を集めて、 挨拶好きな人を探し回ってやっと交替できたのだった。 あ、これは息子君の小学校の卒業式の出来事だった。 ははははは。 やだやだ・・記憶も混濁してくるお年頃。 15歳の頃のことなんてなーんにも思い出しません。 「不来方のお城の草に寝転びて 空にすわれし15の心」by啄木
2008/03/17
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私と母は夜の散歩に懐中電灯は持って行かない。 街灯もない田んぼのあぜ道に差し掛かると 月あかりや星あかりが頼りとなる。 立ち止まり空を見上げて季節で移ろう星座を愛でる。 夜間飛行の明りの点滅を見る。 時には流れ星を見、人工衛星の光を見る。 気持ちが安らぐ。 しかし、 使わなくても懐中電灯は持って行かきゃという出来事に遭遇した。 川土手の一本道に差し掛かった時倒れてる人がいたのだ。 動く気配もない。 遠目に見つけて胸がざわついた。 「ね、人が倒れてるよね」 と言うと母には人に見えないらしく、 「いや、なんか風に飛ばされたシートみたいなもんじゃない?」 と、のほほんと言う。 人が倒れてると解る私はこわごわ近づいていった。 最近は道で寝ているヨッパライはとんと見ないがヨッパライかな? 声掛けて暴れられても困るしなぁ。 でも、この季節に酔って寝てるとしたら危ないしな。 逡巡しながらじわじわと近づいていった。 目を凝らすとスポーツウェアに反射タスキをしている。 ヨッパライではないな・・。 反射タスキをしたヨッパライなんかいるわけがないもの。 こりゃ散歩途中で気分が悪くなって倒れたに違いない。 川土手からは人家も遠いし、まいったなぁ。 私はケイタイを忘れた事をとても悔やんだ。 救急車やパトカーを呼ぶにしても時間が掛かる。 その上動かないんだし、意識もないかもしれない。 呼んだ後にも散々事情を聞かれるに違いない。 こりゃ今日の散歩はおいそれと家には帰れないな・・・。 頭の中で色々なことが廻る。 乗用車も時々通る道だし轢き逃げかもしれない。 母を見張りに残して家まで走って消防署に電話しよう。 そう決心した時、 「よっぱらい?」 とのんびりした母の声がした。 やっと人だと確認できたらしい。 「どうされましたぁー?だいじょぶですかぁ~?」 と大きな声で私の後ろに隠れて言う。 よっぱらいだったら我先に逃げようと言う魂胆だなっ! その声で、倒れこんでる人の足が動いて高くあがる。 「マラソン練習で走ってて、疲れたから寝てるんですよ~」 「ありがとーー」 と、元気な声が帰ってきた。 街灯もない川土手で寝るなっ! 心配したじゃないかっ。 と、心の中で叫んだ。
2008/03/03
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地元の野菜や魚を売っている新鮮市場に買い物に行った。 新玉ねぎやキャベツ・人参など買いこんで、 ふと目に付いたサツマイモも一袋。 小振りだけどおいしそー。 おやつにしようと早速帰って蒸かしてみた。 ほっこりと仕上がって満足。 で、皮を剥いて一口食べてみたが変な味がする・・。 吐き出してしまった。 腐ってる味じゃないんだけども、サツマイモとは程遠い味。 口に残る味をよくよく考えてみたら なんとジャガイモだった。 サツマイモと思って食べたから受け付けなかったんだなぁ。 ジャガイモ蒸してしまったのか・・。 変な顔していたんだろう、「どうした?」と主人が問う。 「いや~これ、ジャガイモだったわ・・」 皮が赤くてサツマイモにしか見えなかったけれど こんな色したジャガイモがあったんだ。 そう思ってみたら形は確かにジャガイモだけどもね。 「へー。それジャガイモなんか?」 「うん、そうみたいよ」 「サツマイモと思って食べたから異様な味に感じられたわ」 「潰してポテトサラダにでもするかね」 と、立ち上がろうとすると 「いや、蒸したジャガイモにバター付けて塩振って食べるの好きやけど」 と言うわけで全部主人のおやつになった。 品種改良なんだろか? にしても ジャガイモをこんな色にする必要があるのか・・・。
2008/02/27
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読み飛ばしていた推理本は内容を殆ど忘れているのが判明したので主人の助言に従う事にして読み返している。どれも全く内容に覚えがなくて楽しめているけど気分は微妙。「あーこれ読んだ」ってのが10冊超えても出てこない。そう主人に言うと覚えてないってのは、覚えなくても良い事だから覚えていないんだと思えと主人は言う。大事な事は忘れないようにしないといけないんだから、どうでもいい事は脳が忘れようとするんだ。取捨選択しないと何でも覚えていたら脳が持たないだろー。まぁ、どう解釈しても覚えてないものは覚えていないんだからそういう事にしとくか。という事で、今日は「光る指」というのを読んでいたら途中で数ページ後ろに厚みを感じた。ん?栞か?と繰ってみたらなんと千円札が栞がわりに折って挟んであった。あらら・・・夏目漱石さんの千円札だ。何年前に挟んだんだろ。野口英世さんに代わったのって何時だっけ?勿体無いなぁ。この本をもう一度読まなければ、ずっと挟んだままだったんだなぁ。と、千円札を伸ばしながら思う。馬鹿な事してるよね私。読んでる途中で電話か来客でもあったのかな。栞を探してる暇がなくてつい挟んだんだろうけどそれにしても、挟んで忘れるって事は当時から健忘症だったわけで・・。そら本の内容も忘れてても無理はない。はーーっ。他にもやってる可能性はあるよね。うちにある本全部振ってみようかな・・。
2008/02/23
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遠出した際、古本屋に立ち寄った。出迎えの待ち時間が長かったので退屈凌ぎに本でも買って読もうと思ったのだった。海外ミステリー本を1冊購入した。ここの所海外ミステリー本の購入は控えていたのだが・・。薬屋をしていた頃は店番をしながらミステリー本を読むのが常だった。私は読んだミステリー本が気に入ると同じ作家の本を次々と買う。けれど同じ本を2回買う回数が増えてきた。最初のうちは題を見れば読んだかどうかすぐ解っていた。そのうち、題だけでは解らなくなってきてこれはなかったような?と、パラパラと捲って数行読んで「あ、読んでる」と解るから買わない状態になった。それが、数行読んでこれは読んでいないと思い購入して家に帰って読み始めると「うわ・・読んでる・・」と結末や犯人が浮かぶ本が出始めたのだ。どうして本屋で拾い読みした時読んでないと思ったんだろう。ばかな私。本屋で吟味する時に落ち着いて読んでないからかな。落ち着いて少し長く立ち読みしなくちゃ。それでも重なりが数冊に及んだ。「メグレ罠を張る」などは3冊も買っていた・・。そこで本の整理をして同じ推理作家の本は同じ棚に置くようにした。アガサ・クリスティやエラリー・クィーンなどは巻末の刊行されている本を調べてももう読む本は無くなっていた。そして購入を続けていたある日の事。その頃買っていたのはS・E・ガードナーの本だった。これは読んでいない!と確信して買った本があった。家で読み始めても全く覚えがない。よしよしと読み進み最後まで読んだ。そして本棚に納めようとした時に同じ本を発見したのだ。物凄くショックだった。うそ・・・・ありえない・・だって最後まで読んで全く気がつかないなんて・・こんな事があっていいのか。ここまで記憶力が落ちてるなんてありえない。あまりのショックで食事も喉を通らないくらいだった。その事を主人に話すと、「そら喜べばいいじゃないか」と言う。「なにそれ・・」彼が言うには、最後まで面白く読めたのならもう買わなくて良いじゃないか。家にたくさんある推理小説を読み返しても面白く読めるってことだ。お金の節約にもなるし、もう読む本がなくなったと嘆いていた作家の本も読めばいい。覚えていないなら何度でもまた楽しめる。うっ・・あんた絶対ストレスなんか感じない人よね・・。まぁ、そう言われて買うのを辞めていた。主人の言うようにもう1回クリスティでも読んでみるかな。絶対覚えてる本の方が多いと思うけどっ。と思いつつ、今回は出先という事も有り全く読んだ事がない作家のミステリー本を買ったのだが久々のミステリー本は楽しめた。今回買った本をミステリー本用の本棚に入れながらあれ以来ショックで見ていない60冊を越えるガードナーの本を眺めた。あらら・・・2冊買った本があることあること・・「そそっかしい子猫」は1匹いればたくさんだ。「奇妙な花嫁」や「夢遊病者の姪」も1人で結構。そしてあのショックをもたらした「恋におちた叔母」も2冊。叔母さんそんなに何度も恋に落ちないでよ・・・。
2008/02/06
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俳句の初心者教室に通い始めて1年半が経った。月1回の句会ではあるが少しづつ慣れてきた。俳句用語の基礎知識とか初心者の心得等読んでいると始めた頃よりは理解できるようになったなと思う。毎日数句作ればいいのだろうけれど生来の怠け者なのでそれはできていない。句会が近づくと慌てて考え始めるという体たらくだ。一昨日の句会の兼題は「福寿草」「初湯」「雑煮」だった。見たもの感じた事を言葉を飾らないで控えめに書くというのはわかるのだけれどなかなか句にならない。例えば雑煮で感じた事は、もう30年近く前に買った漆塗りの椀は塗りが剥げている箇所があった。子供は正月には帰省していなくて主人と二人きりの雑煮を食べた。あっという間に子供は大人になり生活も別になってしまった。それを俳句にしようと思うがうまくいかない。塗りも剥げ二人になりぬ雑煮椀なんだかなぁ・・。椀が擬人化されて二人になったようにとれそうだし・・。福寿草は南天と共に正月の床の間に飾る。「難を転じて福となす」という縁起物なのだそうだ。日が遮られると花がしぼむ。床の間に朝日が当たって綺麗に開いていてそれを見て、なんかめでたいなと句を作ろうと思った。これがどうにも句にならない。福寿草咲きてめでたき朝日かなこうなってしまった・・・。句会の折に誰かの句で床の間に朝日の届く福寿草というのを目にして、これだ!これこれ・・こういう句が作りたかったんだ。ああ、こうすれば良かったのかぁ・・。後で講師の句だと解ってさすがに年季が違うなと感心した。句会の最後に毎回みんなで提出した句の中で講師が五句選んで翌月小冊にしたのを配っていただく。十二月の作品を見てみると、私のは日向ぼこゆるりと流るる雲ひとつ大欠伸している媼日向ぼこ風呂吹きや七難隠し呉る白さ冬の蝶季節外れの花を訪ふ足元をよろよろ翔ちし冬の蝶となっていた。あっはっは結構手が入ってるなぁ。そのままなのは最初の一句だけのような。媼 は 老女 だったはず七難隠し呉る白さ は 七難隠す白さかな だった。ああ、切れ字が重なっていたんだ。花を訪ふ は 花と共 だった。う・・翔ちしって読めないし・・しょう、とぶ、かける・・・・なんだろ・・落ちるか?うーん・・・手が入らないようにがんばろっ!
2008/01/31
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ここ4日天気が愚図ついているので家で本の整理などしていた。 ちょっと気分を変えようとお気に入りの傘を差して 近くの神社まで散歩してきた。 王子神社という神社で 地元では「おうじん様」と呼ばれ親しまれている。 家に帰ると母から電話があり野菜を取りにおいでと言う。 「何処に出かけてたの?何度か電話したけど」 「ちょっとおうじん様まで散歩してたわ」 おうじん様と口にした途端頭の中で いわゆる「ん音便」で・・という言葉が響いた。 もう10年くらい前になるだろうか? 1泊バス旅行に参加して 岡山の竹久夢二の生家などを訪れた事があった。 その帰り道、峠に差し掛かった所で 「さくらん峠ですねー」と前の席に座ってるAさんが言った。 バスの中で退屈していた私は、その言葉で思いついて 隣の席に座っている友人相手に与太話を始めた。 ね、例えばある殺人事件があったとして 犯人はこの桜並木の中のあまり花を咲かせなくなった 桜の木の根元に死体を埋めるの。 その養分を吸った木はその年まだ開花時期でもないのに 狂い咲きして満開の花を咲かせて評判になり、 人々は競ってその木を見に来るの。 犯人は死体を埋めたのがばれるんじゃないかと気がきじゃない。 毎日早く桜が散ってくれないかと見に来るのね。 ある日見物客が連れてきた犬が吼えて 懸命に桜の根元を掘り始め、死体の一部が・・。 それを見た犯人は錯乱状態になり 「あはははははは・・・」と笑いながら次第におかしくなっていく。 で、それ以来ここは 「さくらん峠」と呼ばれるようになりました。 とかいうのはどうだろね? と、友人ものってきて 犬も飼い主も死体を発見して錯乱状態になったというのはどう? 前の席のAさんが笑いながら 「なに面白い話してるのー」と言った。 あら・・聞こえてた? 小さな声で話してたつもりなんだけどなぁ・・ するとその隣の席のおばさんが大きな声で 「さくらん峠はその錯乱じゃありませんっ!」 「いわゆる、ん音便でっ、桜峠が・・」 と、とうとうと「ん音便」の説明を始めた。 「音便というのは、音が変化するんですっ」 はいはい・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・ バスの中は静かになり おばさんの声だけが響く。 わかってます・・。 暇だったのでちょいと与太話作っただけです。 心の中でつぶやいた。
2008/01/22
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史談会の新春放談会に出かけた。講演の演題は「伊達宗紀の海防策」伊達宗紀は宇和島藩七代目藩主だ。前置きとして幕府の対外政策について語られた。松平定信の対外政策からだった。松平定信から思い浮かぶのは「寛政の改革」のみ・・。続いて天保年間の対外政策、老中水野忠邦の名前が出る。あー「天保の改革ー水野忠邦」って覚えたなぁ。もう1つ改革あったよね?江戸時代の3大改革って覚えたような?なんだっけ?ああ、吉宗の享保の改革だ!演題の海防策とは関係なく思考は中学生の頃かな?試験の為に覚えた3大改革に。でも、どの改革も名前だけで内容は全く覚えていない。名前だけ覚えてて何になるんだ私。これじゃなんの役にも立ちませんな。講演は伊達宗紀の海防策へと続いた。この藩主はお母さんの身分が低かったので幼少の頃から苦労したのだとか。藩主になったのが33歳の時だったらしい。なんと100歳まで生きた長寿の人だった。ともあれ宗紀の海防構想は多岐に渡って提言されていた。火薬の開発や砲術導入、異国船防備体制。この影響が八代藩主の宗城に継がれていって高野長英や村田蔵六を招いての軍政改革になっていくのかな。司馬遼太郎さんの「花神」が読みたくなったなぁ。その後昼食を共にしながら出た話題が郷土史家、西園寺源透さんの著書の中の「山本勘助は伊豫の人なり」という記述。甲陽軍艦には三州牛窪の人とあるが信じるに足りないとか絶世の傑物にはあらざるなりとか伊豫の人というのが勘助の出所の口碑にあるとか色々面白い事が書かれていた。昨年大河ドラマで山本勘助が取り上げられていた事もあって話題になった。山本勘助が伊豫の人??いやぁ・・信じるに足りないね・・だいたい山本勘助自体架空の人物というのが通説だし信憑性はないだろう・・・と、皆さん言っておられた。でも私はこういう怪しい話は大好きだ。タイムマシンがあるわけじゃないから事の真相はわからない事が多い。もしあって、この目でつぶさに見る事が出来たなら書き換えられる歴史もさぞ多かろう。勘助さんも実在して伊豫の人だったりしてね?(笑)
2008/01/19
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最近笑い転げるほど笑った事がないなと思った。 声を出して笑う事も少ないような気がする。 主人などはテレビでお笑い番組を見て笑っているけれど 私はというと面白いと思う事はあるけれど 顔と心で笑ってるくらいかな。 声に出して笑うほどじゃない。 涙もろくはなってて漫画読んでも泣けるから 感情が鈍くなってるわけでもないようだ。 と、下校途中の中学生の女の子達が 大きな声で話しながら弾けるように笑っている。 あぁ・・そういえば中学生の頃友達3人と登校しながら みんなで笑っていた事があった。 すると、通りがかったおばさんがいて 「毎日が面白い年頃よね、あんた達」 「あんた達の年齢は箸が転げてもおかしくて笑うよね」 「今が一番楽しい時期なんだから楽しみなさいよー」 そう言った。 いくらなんでも箸が転げたくらいじゃ笑わんよねー。 あのおばさん大げさよねー。 そう言いながらころころと笑っていた私達。 学校について 「試してみようか?」 「箸はないけど鉛筆転がしてみよかと思う」 そう言うと2人も乗ってきた。 「笑えるはずがないよね」 「じゃ、いくよー」 机の上に鉛筆をコロコロと転がした。 じっと見つめる3人。 次の瞬間大爆笑してしまったのだ。 何が可笑しいのかわからないのだけれど 何故か可笑しくて堪らなかった。 つぼに入ってしまったのか、 私達は数回転がして、お腹がよじれるほど笑った。 今思えば箸が転がっても可笑しい時期って ほんとにあったんだなぁ。 で、日記書く手を止めて ボールペンをキーボードの横で転がしてみた。 全く笑えない。 笑えないが・・・ 白い物体が弾丸のように飛んできてキーボードの上に乗り ボールペンにじゃれてくわえていった。 ・・・・・・・・・・・ 意外な展開にちょっと笑った。 あのね・・ あんたね・・13歳と言えば 人間だと70~80歳と獣医さんが言ってたわよ。 猫は年齢に関係なく遊ぶのね・・。 私は物が転がったくらいじゃ 笑えないお年頃みたいよ。
2008/01/17
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エジプトと聞くとなぜか胸が高鳴る。一度は行ってみたい国だ。この眼でピラミッドとかみてみたいもんだ。まぁ、それは叶わぬ夢かもなのでエジプト展と聞くとやはり胸がざわざわとしていかなくちゃ!という気持ちになるのだ。これまでにイギリスの大英博物館でも見たし広島美術館で開催してたのも見にいった。愛媛の県美術館で開催中の「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」テレビでも宣伝されていて吉村先生も何度も出演されていた。会期は12月1日からでずっと主人といつ行こうかね?と楽しみにしていたのだ。で、やっと行ってきました。エジプト展。会場は大勢の人でなかなか進まない。若い頃主人とよく京都美術館に行ったが人気の展覧会は混雑が酷くて「立ち止まらないでください」とマイクで叫ばれていてゆっくり見る事なんかできなかったものだ。あの混雑に比べたらましよね・・。ヒエログリフってなんであんなに惹かれるんだろ。牛頭の像がいいなー。心臓の形ってちゃんとしてるよねー。などなど・・主人と話しながら行列に並んでゆっくりじっくり鑑賞。どの展示品もガラスの前で見る事ができた。今回の展示品は木棺や青いマスクも良かったけれど小物がたくさんあったのが個人的には満足した。ツタンカーメンとその王妃の指輪が対で展示されていた。はるか昔、この装身具を身に付けていた二人は何を見、何を考えていたのだろう。3000年以上経って人々の目に晒されるなんて思ってもいないだろうな。そういえば、吉村先生がテレビでその2つの指輪に掛けられた保険金が一番高くて30億と言っておられた。もしも競売に掛けられたら倍の60億にはなるんだそうだ。3000年以上も前のもので歴史的な価値は計り知れないけれどもし60億持っていても個人で所有したいとは思わないなぁ。ま、絶対そんな途方もないお金目にする事も持つ事も一生ないだろけどもっ。出口への順路が常設展を通るようになっていた。概ね満足したね。と主人と話しながらスタスタと出口に向う。ん?二人の歩みが目の端に入った絵画で止まった。そこにはセザンヌの絵があった。こんな所に(失礼)セザンヌの絵が!じっくり鑑賞。ぐるっと部屋を見渡せば、もう1枚目に留まる絵があった。あれは私の好きなコローじゃ?近づけばやっぱりコローの絵だった。目の端に入っただけで立ち止まらせるなんてセザンヌもコローも凄い画家だな。見れてラッキー。ちょっと得した気分。
2008/01/15
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湯船に浸かって暖まったなぁー と、思っているとドアが少しずつ開いて 冷たい空気が入って来る。 ん?? じっと見てると猫のカリンが 頭突きをして少しづつ開けている。 あんた・・ 普段は炬燵に入るのも人に開けさせるくせに・・ やろうと思えば色々できるんじゃないのっ! 風呂場に入ってきて湯船を見上げて鳴く。 はいはい 水ね・・ 蛇口から汲んだばかりの新鮮な水がご所望なのだ。 専用の子供用の可愛い洗面器に汲んでやる。 こうやってアンタの言う事なんでもわかるから 甘やかしてるのねーと言われるのよ・・。 ま、猫かわいがりって言葉もあるくらいだしね。 猫の寿命は短いんだし 甘やかしてどこが悪い! と思わない事もないのよ。 私が何か言うたびに「にゃっ、にゃっ」 と返事が返ってくる。 言葉が通じているのかいないのか 猫語と人間語で風呂場で語りあってる私達。 ひとしきり話して?身体を洗い始めると 湯が掛かるのがの苦手な彼女はさっと出て行く。 風呂の外のマットに座って 私が出るのを待っているのだ。 風呂から上がって着替えを済ませて 出て行こうとすると 入れ違いに風呂場に入っていく。 あら、水飲み足りなかったの? と・・・ 水を飲んでる音は聞こえるのだけれど 水入れを置いた方向からではない。 風呂場を覗いて見たら なんと、 掛け湯をして少しタイルの上に残った湯を舐めている。 ・・・・あんた・・ そんなもん舐めなくても・・ 綺麗な水があるじゃないの・・ あ、もしかして私が浸かった湯 良いダシでてた? 通りがかった主人がそれを見聞きして 腹抱えて笑った。
2008/01/10
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主人と散歩しながら初詣をした神社には ナルシストな藤の他にちょっと可哀想な銀杏の木もあった。 楠の横に生えている銀杏の木なのだけれど ころころと転がり落ちたギンナンは不運にも 楠のすぐそばで止まったようだ。 それも楠の地面に出ている根の間なのだ。 うまく根付いたのは良いけれど 近すぎる。 スクスクと育つに従って楠の根の間に挟まっていくというわけだ。 なんと不運な銀杏の木なんだろ・・・ 間が悪すぎたね・・・・ 楠にとっても迷惑な事だったに違いない。 そそり立つ2本の木は楠が根で銀杏を締め付けている。 水泳種目のシンクロのように水面下では いや・・地下では お互い忙しく根を動かしているんだろうか? 地面の下での根の攻防はどうなっているんだろ。 地上では銀杏の分が悪すぎる。 これ以上大きくなれないように思う。 指輪物語に出てくる木のように 動けたらいいのにな。 この写真を見た京都の友人が こんなに大きくなる前になんとかしようと思わなかったのかな 宮司さん・・・と言っていたが ほんとにね! しかし、かくいう私は年に何度も行く神社なのに この楠と銀杏の木の関係に気が付いたのは 今年が初めてなのだ・・・・。 宮司さんも大きくなるまで気が付かなかったのかも知れない。 改築した小学校にあった大きな銀杏の木を 切らないで運動をして移植した事があったのだけれど 百万円以上掛かったと聞いたように思う。 今更移植するのも大変な事だろう。 根付くかどうかもわからないし。 なんとか共存できることを願うのみだ。
2008/01/09
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以前神社の境内で見かけた大きな藤の木があった。 その藤はグルグルと他の木を締め付けていて 締め付けられた木はというと 息も絶え絶えという感じだった。 私の撮ったその藤の巻きついた写真を見た主人は 「わっ・・首絞められてるな・・この木・・」 「もうだめなんじゃないかなぁ」 と言っていた。 年頭に主人と散歩してその神社を訪れた。 ふと藤の事を思い出して案内した。 「わー巻きつかれた木はもうだめだなぁ・・」 と2人で見ていたのだが よーく見たら、 なんと巻きつかれている木も藤だった・・ 「あら?これ元は同じ藤なんじゃないの?」 「そうだな・・」 なんてナルシストな藤なんだろう。 自分で自分に絡み付いて しっかりと抱きしめているのだ。 しかも元の幹が枯れるほどしっかりと。 ここまで自分を愛せたら本望なのかもしれない。 藤の花言葉を調べてみたら 「恋に酔う」 ・・・・・・・・・・・なんてぴったりな花言葉。 でも、酔い過ぎですよ・・・・。
2008/01/08
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七草がゆを食べながら そういえば今年の初夢ってなんだった? と主人に問うと 「んなもん見てないな 」と、連れない返事。 私はと言うと 変な夢だったなー どういう経緯かは忘れたけれど なんだか数字を1つ選んでいて 何にしようか悩んでいたら 天の声。 「12にしなさい」 はいはいと12を選んでいる夢だった。 何のために選んだのか全くわからない。 たったこれだけの夢だった。 うーーん 数字をひとつだけ選ぶ事ってあるんだろうか。 せめて5個とか6個選ぶ夢であってほしかったなー。 ロト5とか6とかってのはあるから そうそう都合の良い夢なんかみないか・・。 しかし、1個の数字選ぶってなんだろ? なんだか半端な数字だし12って 素因数分解して 2×2×3 か。 関係する数字は 2、3、4、6、12になるのかなぁ 素因数分解して何の意味があるんだか・・・・ ばっかじゃないの?私。 ま、12って数字を覚えておこう。
2008/01/07
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