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謹賀新年 トップページのパノラマ写真が、楽天の何らかの変更によって、崩れています。修正しようと思ったのですが、その元になる写真さえも、どこにアップされているのか、保存先が判らない状態。 呆れてしまい、そのままになっています。次のパノラマも、多少は撮影しているのですが、この無料ブログでは、何となく意欲が削がれてしまいます。 でも・・・まぁ・・・・・・少しはアップしてみようかな? と、数年を経て、今、思い直しています。 とりあえず、本年もよろしくお願いいたします。
2014年01月01日
しばらく留守にしていて、ふと思い出して帰ってきてみたら、とんでもない規定変更とやらが行われたらしくて、写真のパノラマが、全然パノラマじゃなくなっていた。 こんなふうに、楽天は利用者を無視し続けながら企業を拡大してきた。英語で考えていると、細部に神経が行き届かなくなって、こんな身勝手な変更を行うようになるのだろう。 だから、『e-バンク銀行』当時に加入した銀行口座が『楽天銀行』になってから、ほとんど利用しなくなってしまった。詐欺のようなローン支払いをさせられたり、詐欺のように自分の口座に貯金をしても、自分の口座からお金を引き出しても、利息では考えられないような高額手数料を搾取されるようになったので、利用しなくなったのだ。 多少の残金はあったはずだが、それも『口座維持手数料』?とやらでマイナス金額になり、『残高不足』の督促状が来るようになった。いっそのこと、こんな銀行は解約すればいいのだけれど、何となく・・・まだ口座を持ち続けている。 いずれにしても、楽天の企業体質は『顧客を大切にしない』と言うことは、良く理解できた。 このブログのサイトも、開設以来、何度規定変更で戸惑わされたことか。いずれは『有料化』などを持ち出されるのだろうが、それまでは、半分放置の状態で、トップ画像はこのままにしておこう。 楽天が気まぐれに仕様変更をするたびに、ブログの中身を大幅に作り直すのは、手間がかかりすぎる。手直しをしても、またすぐに仕様変更が行われて、元の木阿弥になってしまうに違いない。 こんなに見通しが甘い、その場しのぎの企業が、なぜこんなにものさばれるようになったのだろうか?『時流に乗る』と、こんなことも起こりうる。あまりにも高慢な姿勢が強まると、墜落するときに、手を差し伸べる人がいなくなる。 だけど、会長の存命中には、没落を見ることがないのだろう。ある意味で、恐ろしいことではある。
2013年08月20日
昨年は、パノラマを掲載できませんでした。今年こそ! を抱負にしたいと思います。 今年もよろしくお願いいたします。
2012年01月01日
新年おめでとうございます。 すっかり更新がおろそかになっておりますが、今年は数点のパノラマ写真を、アップする予定です。なかなか絵になる場所に出かける機会が無くて、撮影ができないのが残念です。 3D用のテスト用カメラも揃えたのですが、それも使えずにいます。 今年の目標を、目標のままに終わらせないように、楽しんでみたいと思います。これが『今年の目標』といえるかも知れません。
2011年01月03日
77778 2010-02-27 23:06:42 ネットで見つけた話題集さん 77777 2010-02-27 23:03:47 ***.yahoo.net 77776 2010-02-27 22:16:57 今どきの話題さん 放置したままのブログなのに、いつの間にかアクセス数だけが伸びて、昨日の夜に、『77777』アクセスカウントを超えていた。 別に、何かのプレゼントなどを考えていたわけでもなかったが、その祈念すべき数字の前後に、アクセスが集中した。ほんのちょっとだけ・・・・・。 そして皮肉なことに、祈念すべき『77777』番目は、なにやら業者さんの、自動巡回システムらしきものが、ゲットしていった。 別に、自動巡回でも何でも良いのだけれど、よりによってそんなところが、前後に急に訪ねて下さった楽天の仲間を押しのけて、ちょこんと入り込まなくても、良さそうなものを、と思った次第。 気まぐれな【目玉】のことだから、次回のことなどを考えても、『鬼が笑う』どころか、『臍で茶を沸かす』以上に、あてにならずに笑ってしまうところだが。 だがしかし、ちょっとだけ考えてみよう。楽天からの通知は、『100000』アクセスの時になるらしいが、もしも私が気づいたようであれば、楽天会員のアクセスとして記録された場合に限って、何らかのプレゼントをしてみようか、と思うのだ。『88888』番目の時にでも。 そんなに期待できるプレゼントにはならないと思うが、このブログの性格から考えて、『パノラマ写真のプリント』という具合になるのかも・・・? そして、何かの付録が付きそうな予感・・・。 とは言っても、それがいつのことになるかは、全くわからないことではあるが。
2010年02月28日
昨年の『謹賀新年』以来、更新もせずに、1年が過ぎました。 そして今年もまた、謹賀新年です。今年は、パノラマに限らず、何かの面白い写真を、アップしてみたいと思います。 どんな写真にするか、考慮中です。パノラマよりは、撮影が簡単で、アップがしやすくて、見るにはちょっとした根気と技術が必要・・・と、そんな写真になるかも知れません。 今年が景気上昇の年になりますように・・・。
2010年01月01日
昨年は、こちらのページを放置していた状態でしたが、今年はパノラマ素材を探して、更新したいと思っています。 本年も、どうぞよろしくお願いします。
2009年01月01日
こちらのHPは、すっかりご無沙汰しておりますが、少しずつ新たなパノラマを追加していきたいと思います。 今年も、よろしくお願いします。
2008年01月01日
鎌倉・鶴岡八幡宮のパノラマを、アップしました。きれいな画像で・・・と考えたのですが、画像分割と接続の面倒さを考えて、2枚でまとめました。 そのために、きれいさは改善されませんでした。正月の写真を今頃になって・・・という写真です。
2007年04月30日
正月に、鎌倉・鶴岡八幡宮を撮影しました。パノラマ加工が遅れているために、アップも遅れています。 作業は続行していますので、いずれアップします。楽天のアップ画像容量が変更になったので、少しだけきれいな映像にできるかもしれません。
2007年03月05日
謹賀新年 本年も、気まぐれな更新になりますが、どうぞよろしくお願いします。 歴史的な【好況の持続】が、実感を伴ったものになることを、期待したいと思います。自分たちで自分たちの報酬(給与)を決められる議員さんは、気楽で、無責任でいけません。 庶民にも、好景気とやらの味を、お裾分けしていただきたいものです。
2007年01月01日
パノラマ写真に掲載している【横浜港の風景】だが、マリンタワーと氷川丸といった、象徴的なものが、二つとも【経営難】を理由に、閉鎖されることになった。 今後は、どのようになるのだろうか。推移を見守って、変化があるようなら、改めて撮影をしたい。 次のパノラマは、どこを写そうかと、ずーーーーっと【思案中】。
2006年12月26日
このホームページは、放置したわけではありませんが、実際には【放置中】状態。 でも、新年おめでとうございます。 ほかに雑用が多くて、写真の追加、更新、および日記が、滞っています。ま、そのうちに何とかできるでしょう。 兎に角、除夜の鐘を聞き損なって、初日の出も見られなかったのは寂しいものですが、新年は、やって来ました。 新年、おめでとうございます。
2006年01月02日
ただいま日記を呆痴中。 暑さにうだって、日記どころではない。なんて思っている間にも、老化した脳味噌から、過去の記憶が脱落していく。 消えないうちに、書こうとは思うのだが、気力が伴わない。そんな大層な日記でもあるまいに、気力のせいにして・・・。 もしかしたら、本当に忙しくなるかも?そうなる前に、1回くらいは、アップしておきたいと希望中。 あ?“呆痴中”って、こんな熟語が、どこにある?“放置中”の間違いだけれど、私の頭は、暑さのせいで呆痴中。 ところで、“忙しくなる”なんて、希望的観測に過ぎないと予想中。
2005年08月03日
近日中に、書く予定です。題名は、『動く霧塊』になるかと・・・。
2005年07月01日
木々の緑も、まだ浅い。芽吹く勢いは感じられるものの、風には暖かさと冷たさが混じっている。そんな峠を越えると、盆地の中に小さな集落が肩を寄せ合って見えていた。青森空港に近い、山間の集落だっただろうか。農村らしいたたずまいは、郷愁を覚えさせて、手頃な大きさの建物は、どこかしら親しみを感じさせるものだった。 そんな集落の中に、鯉幟が翻っていた。盆地の中でも、風が吹き抜けているらしい。長い尻尾を地面に付けそうになると、また腹一杯に風を孕んで、空中に尾を持ち上げる。鯉幟を繋ぐロープの一端は、すらりと聳える一本の木に、結びつけられてあった。 その光景を見て、鯉幟の尻尾がくるりと空中に翻ったとたんに、遙かな昔の記憶が、懐かしい乾いた木の匂いを伴って、私の身体を包み込んだ。 視覚から聴覚が刺激されることが、あるのだろうか。私の鼻腔に広がったのは、青森県には存在しない種類の木の匂いだった。その匂いは、連想によるイメージが産み出した、匂いだったらしい。 懐かしい、乾いた木の匂い。それは、柿の木肌の匂いだった。子供の頃に育って親しんだ我が家は、小さく粗末な建物だった。その庭に続く畑には、一本の柿の木が聳えていた。いつも乾いた独特の匂いを、楽しませてくれたものだった。当時はその『匂い』に気づくことはなかったが、今になってその匂いが、懐かしく思い出される。記憶とは、そうしたものらしい。 端午の節句に近くなると、瑞々しい若葉をいっぱいに開かせた柿の木に、ロープが張られた。そのロープに、子供にとってはとてつもなく巨大な鯉幟が飾られて、いつも元気な泳ぎを見せてくれたのである。風の弱い日には、小さな私の手が届くほど、尻尾を地面近くまで下げてしまった。その尻尾を引っ張るのが、また一つの楽しみでもあった。 だが私の記憶の中には、青空と濡れたように光る柿の葉を背景に、ふっくらと腹に風を入れて元気に泳ぐ雄大な姿が、強く残っている。 生まれてから10年余を過ごした故郷は、その後数十年を経た今でも、私にとっては変わることのない故郷である。庭に聳えていた柿の木は、冒険心をくすぐって、母の目を盗んではよじ登った、思い出深いシンボルツリーでもある。 故郷を離れて数十年がたち、粗末な我が家は、取り壊されて痕跡もない。帰郷しても、懐かしさを思い出す建物は、そこにはない。だが柿の木は、まだそこに聳えている。私の成長を見守ってくれた柿の木に、鯉幟が翻ることはない。今では、その木に登る子供もいない、柿の実を穫って食べる子供もいない、という。私の目には、昔と変わらない痩せた木に見えるのだが、齢を重ねて、壮年期を迎えていることだろう。鯉幟をつなぎ止める負担から解放されて、のびのびとした印象を受けるのは、我があばら屋が消えたからだろうか。 のびのび感とは裏腹に、守るべき建物を失った物寂しさをも、柿の木が発散させているようだった。★ ★ ★ ★ ★ 建物の合間を探して、窮屈そうに尾をくねらせる鯉幟。ビルの合間で、意味不明の強風にあおられる鯉幟。都会の鯉幟は、広々とした土地で、自然の風を受けて翻る鯉幟とは、活き方が違って見える。やはり鯉幟は、日本風景の原点にあってこそ、『勢い』を感じさせるものだと思う。その鯉幟を揚げる家庭は、農村でも都会でも、少なくなっている。 少子化の影響だろうか。鯉幟を揚げるにも、若い力が必用である。老人が毎年鯉幟を揚げるのは、負担と危険を伴う。また都会には、雄大な鯉幟を揚げるスペースがない。これらの理由が複合されて、日本の風景から、鯉幟が姿を消しつつあるのだろう。 河川敷などに、数百もの鯉幟を下げる地域もあり、話題にはなるが、それとても鯉幟を揚げる家庭が少なくなった事への、反動的な行動のように思われる。壮大ではあっても、数百の鯉幟を並べるのは、日本本来の風景ではない。『原風景』を回復させることこそが、日本に活力を蘇らせることに繋がるはずである。★ ★ ★ ★ ★ 私が知っている鯉幟は、濡れたような柿の若葉色に、鮮やかに包まれていた。青森県で見る鯉幟は、桜の花の中で翻っている。鯉幟に刺激されて、故郷の柿の木肌の匂いを思い起こしてしまったが、季節感は全く違う。青森県を故郷に持つ人にとっては、私が今見ている『桜と鯉幟』が、記憶の中に刻まれる原風景なのだろう。 日本列島は、確かに南北に長い。北のはずれで鯉幟が泳ぐ光景の周囲には、まだ若葉の鮮やかさが見られない。枯れ枝色に包まれた山肌に、コブシの白い花が、残雪のように光っている。 宿では、菖蒲湯を用意していることだろう。路傍のヨモギは、白い葉を伸ばし始めている。畑の畦で、子供がヨモギを摘んでいる。 青森県などの地方で、鯉幟を旧暦に揚げるところが多いようです。旧暦なら、季節感が合うという感じもします。春を迎える喜びを、表現する行事でもあるようですから、鯉幟には新緑が適すのでしょう。 写真の鯉幟は、今年(2005年5月3日)に、川崎市の郊外で撮影したものです。貴重なほどの、元気な鯉幟でした。 ※ 文中にある『柿の木』は、こちらに書いた『掌説』にも登場させています。
2005年05月05日
函館から札幌に向かう急行列車は、思いがけない豪雪に、閉じこめられていた。自由客席は8割ほどが埋まっていたが、ほとんど話し声も聞こえない。車内放送も、しばらく沈黙を続けている。 車窓から見る荒野は、ただ白一色に埋められて、降りしきる雪のために、遠景のコントラストさえ、定かではない。窓枠にも、次第に雪が張り付いて、視野が狭められていく。 何かが見えるわけでもないのだから、視界を閉ざされても困るはずはないのだが、白い景色が見えなくなると思うだけで、圧迫される閉塞感で、車内が息苦しく感じられるようになる。 いつものことで、土地の乗客たちは、慣れきっているのだろうか。車内放送で、状況の説明がなされないことに、文句を漏らす人もいないようだ。と、車内放送が、元気なく、ボソボソと車両の中に漏れ始めた。「この列車は、積雪の影響で、2時間の遅れになっております。まもなく発車致しますが、先行する列車が遅れていますので、札幌への到着予定は、連絡があり次第にお知らせ致します。」こんな内容で、伝えられたのだが、列車に閉じこめられて困っているのは、車掌も同様のはずである。 連絡がどのように伝えられたのか解らないが、電話があるわけでもなく、道路から離れている列車に、車で事情を運んで来られるはずもない。だがしかし、兎に角、情報は伝えられたのである。 決して喜ばしい情報ではないが、列車が動かなくても、事態は動いた。それから数十分後に、突然のように、列車が動いた。 ゴトン・・・ゴトン・・・ゴトゴト・・・。 それまで囁くような話し声が、時折聞こえていた車内に、軽いため息が漏れた。ゆっくりとだが、仮にも『動いた』ということで、目的地に向かうめどが付いた明るさを、感じさせられたのである。 列車は、ゆっくりと何キロほど進んだのだろうか。 再び動きを止めて、静かになってしまった。車内は暖房が効いているが、窓際はどこからか隙間風が入るように、冷気が顔の片側をなでる。外の冷え込みは、厳しさを増しているのだろう。車内に閉じこめられてから、すでに3時間ほどが過ぎている。 人いきれで曇った窓をわずかに拭いて、隙間から外を覗いてみる。粉のように軽そうな雪が、上下を知らないように、自由に舞い飛んでいる。上からも、横からも、そして下からも、大小無数の雪が降っている。この様子では、列車の遅れは、さらに大きくなるだろう。 予約をしてあった札幌の宿には、多分予定時間には到着できないだろう。ふと、そんなことが、頭をよぎった。だが、携帯電話を持っている時代ではない。あきらめの気持ちで、うたた寝を決め込むことにした。向かい側の座席に座っている、土地のおばさんと思しき女性も、目を閉じて動かない。 私の『宿の予約』とは別の意味で、それぞれの人々に、苛立ちが膨らんでいることだろう。だが、自然が相手では、苛立っても仕方がない。豪雪慣れしているのか、平然と状況に対応する精神力には、感心させられた。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 長時間続く沈黙が、重苦しさを感じさせ始めたころに、2人の若者が、車両内の人々に向かって、語りかけた。「皆さん、退屈だと思いますので、これから私たちが、ギターを弾きます。音楽が嫌いな人がいればやめますので、遠慮無く言ってください。」 その声をきっかけにして、車内に話し声が戻った。話し声の中に、演奏に反対する声は、聞かれなかった。「下手な演奏で恥ずかしいんですが・・・。」と前置きをして、二人の若者は、ギターをつま弾き始めた。 私にはその演奏が、上手なのか下手なのか、解るわけではなかった。だが、耳障りに感じることがなかったことから、下手ではなかったのだろう。彼らの演奏は、音を抑えめにして、大きめのバックグラウンドミュージックといった雰囲気を、作り出してくれた。 私の前で目を閉じていた老境に近い女性も、目を開いていた。演奏には触れずに、その女性が私に話しかけてきた。「どこからおいでになりましたか?」「横浜からです。」「こんな雪で、驚いたでしょ。」「ええ、まあ・・・。」「今年、初めての大雪なんだけど、大変だねぇ。」「土地の皆さんは、列車が止まることにも慣れているんですか?」「よくあることだからね。まあ、慣れることはないけど、諦めてるから。」「諦めるしか、ないですよね。」「まだ、何時間かかるかわかんないから、これでも食べなさいよ。」 女性は、抱えていた袋から、ミカンを2つ取り出して、私にくれた。彼らの演奏と、女性からのミカンのプレゼントをきっかけに、しばらく、とりとめのない話が、続いた。 周囲からも、話し声が聞こえている。 雪に閉じこめられた空間に、若い二人の男性が、新鮮な空気を吹き込んでくれたようだった。車内放送があったのか、無かったのか、いつの間にか列車は、静かにゆっくりと走り始めていた。 空は夕暮れの暗い色に、なりかけていた。雪は、暗い色の中で、白さを際立たせている。車窓から漏れる明かりが、雪原に暖かい色を、投げかける。 遅くなりそうだが、札幌に到着はできそうだ。 二人の若者は、自分の座席に戻っていた。日本では、列車内で楽器演奏をしたり、歌を歌うことは珍しい。だが彼らの機転と好意を、乗客の誰もが素直に受け入れた。そして、和やかさを得ることができた。 豪雪という、このような状況がなければ、彼らも演奏を考えなかっただろうし、私もこんな体験はできなかった。 札幌見物の時間は大幅に失われたが、それにも増して、良い思い出を得ることができた。遅れるだろうと覚悟をしていた宿にも、夕食前には入ることができた。 豪雪列車の中で演奏をしてくれた若者たちは、今もどこかで、誰かを和ませているだろうか。
2004年12月30日
1月だというのに、土佐の海は明るくて、黒潮が匂っていた。ゆったりとうねる水面には、宝石の滴が迸り、ウィンドサーフィンの帆が、まぶしい陽光を柔らかく濾過していた。 そんな海岸線をドライブして、皿鉢料理もどきを食べて、次の目的地に向かった。目的地は、土佐の山間部にある、東津野村の渓谷である。日暮れまでに渓谷の写真を撮り終えて、宿を探し始めた。 地図を見ると、天狗高原の近くに、公共の宿がある。聳え立つ山容を覆うように、鉛色の雲が下り始めている。冬の日暮れは早いものだが、加速度がついたようにその暗さが押し寄せて、一気に“夜”に支配されてしまった。 山を這い登る車道は、急斜面に張り付く畑の中を、心細くうねっている。途中には、民家の明かりもほとんど見られない。さて、突然の利用だが、公営の宿は、私を受け入れてくれるだろうか。 幸いにも、どうにか宿は確保できた。周囲は暗闇に閉ざされ始めているが、夕食の時間には、まだ早い。そこで一旦、山頂まで車を進めてみることにした。 車のヘッドランプに照らされて、天狗高原名物の“カルスト台地”は、羊の群れを思わせる石灰石を、茫洋と浮かび上がらせた。山頂から天空を覆い尽くした夜の雲は、そのまま闇夜を連れてくるかと思われた。 だが自然の演出は、意外な光景を眼前に展開してくれた。西の空を覆っていた黒雲が、一瞬の隙を作って、細い茜色の陽光を投射してくれたのである。 カルスト台地がスポットライトに照らされたように、白い石灰岩がピンクに染まり、煌めく光が、大地を走って抜けた。 一瞬のドラマは、撮影のチャンスもくれずに、幕を下ろした。時間的にも、このあとの“ドラマの再演”は、期待できない。その輝く光景を胸にしまって、宿に戻った。 夕食をとって部屋に戻り、撮影ポイントの整理にとりかかった。外は風もなく、静まりかえっている。やがて、窓を固いものが叩き始めた。ガラスに顔を付けて暗がりを透かして見ると、漏れる光に流れて見えるものは、白い雪だった。 南国土佐で、雪を見るとは、思いもよらないことだった。だが、朝までには雨に変わるだろう。窓を打つ固い音は、外気温が下がりきっていないことを、伝えている。 床に潜り込む時間になると、四囲はいよいよ、静寂の世界に入っていた。窓を叩いていた固い音も、なりを潜めている。音のない世界で目を閉じていると、ふわりふわりと舞い積もる雪の音が、サッシ窓を通して忍び込んできた。「かさり、こそり」この音は、子供の頃に聞き慣れた、軽い粉雪が舞い積もる音・・・。 静寂地だからこそ聞こえる、積もる雪の音。その音を、南国で聞くとは、思いもよらないことだった。★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 高原の朝は、空気が凍るように冷たかった。窓から外を見ると、空は相変わらずの、重い鉛色だった。それに比べて、地上は眩しいほどの白い世界になっていた。雨に変わることなく、雪が降り続いたのだ。枯れ葉色の山が、白銀に塗り替えられている。 珍しい写真が撮れそうだ。そう思って宿のパンフレットを見ると、この天狗高原は、四国で数少ない、スキー場がある山だった。珍しい写真が撮れる、ということでもなさそうだ。 それよりも出発前に、タイヤチェーンを取り付けなければならない。面倒な作業が増えただけにしか、思えなかった。 ちりちりとタイヤチェーンの音を道路に吸い込ませて、昨夜見たカルスト台地に向かうと、雪を被った高原が、厳しい表情を見せていた。行き交う車など、1台もいない。エンジンキーを切ると、アルミヘッドが冷える音が、キシキシと囁く。 そのアルミヘッドの音を聞きながら、カルスト台地に三脚を据えた。空を覆う雲が厚すぎて、光が弱い。ストロボもセットして、とりあえず、シャッターを切った。 数本のフィルムを消費して、雪に包まれた高原を下った。下界の集落は、日溜まりの中で別世界の暖かさに包まれていた。一息ついたところで、次の立ち寄り先に、電話をかけておくことにした。 そこで、電話帳機能がついた時計が無いことに気づいた。雪のカルスト台地に、落としたようだ。そう思っても、また、あの高原に戻る気力は、無かった。 春になったら、誰かがあの時計を、拾ってくれるだろうか。私があの時計に出会うことは、無い。冬を越した時計は、すべてがリセットされて、持ち主の記憶も失っていることだろう。 その後も何度か四国を訪ねたが、あの天狗高原は、再訪していない。南国に降る雪を、今度は晴れた日に見てみたい。 次の日記は、12月中に書きたいと思っています。
2004年11月28日
こんなところに開いてみました。楽天広場は、すぐに画像の倉庫がいっぱいになってしまうので。 新しい場所なら、当分は大丈夫・・・だと思うので。
2004年11月15日
このHPに掲載してある【滝の写真】は、新たな別サイトに、専門分野としてまとめなおしましたので、近いうちに、ほとんどを消去する予定です。 その代わりに、思いつくままに、パノラマ写真を、専門に掲載してみようと思います。 日記の【旅は徒然、同行二人】は、気まぐれ更新ですので、このまま残します。少しずつ、旅専門のページに、移す予定でいますが。 いつの日にか、このHPは消去するかも知れませんが、消去前には、1ヶ月以上の余裕を持って、掲示するつもりです。 とりあえず、【滝の写真】に関してだけは、準備が完了しました。
2004年11月14日
頭上は、遙かな天空までを、広葉樹の紅葉が覆い尽くしている。かすかに梢をわたる風が、その紅葉を擦れ合わして、乾いた音を吹き下ろしてくる。足下には、重なる落ち葉に、柔らかな木漏れ日が跳ね返っていた。 青森県のとある山中で、何気なく辿り始めた、森の道だった。やや下り気味の坂道は、紅葉の色に優しく染まって、行き交う人もいない。ただ静寂の中でひとり、その先に何があるのか知りもせず、私はあてどもなく、歩を進めていた。 ゆっくりと歩を進めていくと、道の左右に巨大な藁人形が、掲げられていた。その意味は、何となく理解できたが、人里離れた山中で出会う等身大の藁人形は、一種異様な畏れを感じさせるものだった。なにやら信仰を想わせる様態だが、狭い道の左右から見下ろされる状況は、そこを通る人に、充分に畏怖を抱かせるものだった。 ただ私はそこで一層の興味を抱いて、藁人形ににらまれながら、間を通り抜けて、山道の先に歩を運んだ。 さらに5分も、歩いただろうか。森の中に、ぽっかりと開けた、日溜まりの空間が現れた。そこには、数戸のひなびた民家が、肩を寄せ合うように佇んでいた。藁人形の手入れ状態を見れば、そこに人が住んでいることは、予想ができた。 だが、集落には人の気配もなく、ただ静まりかえっている。姿を現して、正面から威嚇した姿は、件の2体の藁人形だけである。子供の姿はもちろん無く、犬や家畜の動く気配もない。静まった家屋の中から、家の数ほどの目が、侵入者の私に注がれているかのような、奇妙な感覚にとらわれた。 5~6戸の民家が集まっていながら、その中に人の気配が感じられないという経験は、初めてのことだった。 だがそれがまた、別の奇妙な錯覚を生じさせた。人の気配はないが、家屋そのものが、『生きている』という雰囲気を、醸し出し始めたのである。深い森にすっぽりと沈み込んで、日溜まりの中に身を寄せ合って、何事かを語り合う、世捨て人のような家々たち。今にも私を振り返って、家そのものが話しかけてくるような錯覚。 人々の息づかい、語らい、笑い、足音・・・。それらの一つひとつが、旅先での出会いに暖かい気持ちをもたらしてくれるものだが、この村では人々の代わりに、何も語ることのない民家が、暖かい日溜まりの『体温』を、私に分けてくれた。 落ち葉が舞う集落の空間を通り抜けて、さらにその先へと、歩を進めた。道は上り坂になって、曲がりくねって森の中に消えている。その曲がった道は紅葉の黄色に染まって、時折、吹雪のように、大小の木の葉を舞い散らせていた。 広場のように拡幅された道にさしかかると、こちらにも等身大の藁人形が、供えられていた。集落への入り口で出会った藁人形は、侵入者を威嚇するような雰囲気だったが、退出するときに出会った藁人形は、寺院の山門を守る仁王尊のように感じられた。村を去る人の無事を祈ってくれるような、優しい藁人形のように、感じられたのである。 あの集落に子供がいれば、その子供たちはいつも、出入り口の藁人形に守られて、過ごしている。村から出るときには、後ろ姿を見送ってくれる。家に帰るときには、優しく出迎えてくれる。巨大な藁人形が、生活に溶け込んでいることだろう。 あとで確認をしたことだが、あの藁人形は、『魔除け』であり、『村の守り神』でもあるという。村の中をただ1本だけ通る小径の、出入り口を藁人形が守ってくれている。いつでも安心して、家を空けて仕事に出かけられる。そのように、村人に頼りにされる存在だったのである。 私はその藁人形に親しみさえも覚えたが、畏怖と畏敬も、確かに感じた。余所者にとってはただの人形だが、効果は厳然と発揮しているようだ。 私を見送ってくれた藁人形の視線は、優しさだけではない強さを、私の背中に注いでいた。 東北地方の一部には、今も守り神としての人形が、集落の出入り口に奉られているらしい。あの集落は今もまだ、過疎化の波に洗い流されては、いないだろうか。数十年前に出会ったあの集落に、もう一度出会うことができるだろうか。 あれは秋の日の、夢幻の世界だった。
2004年10月12日
近いうちに日記を書いてみようか?なんて、思ってみたりする・・・・・
2004年09月09日
桜の名所を、何ヶ所か訪ねた。祭りの撮影とは、ひと味もふた味も違った雰囲気がある。 祭りの会場で、多くのカメラマンが集まるときには、どこもが殺伐とした雰囲気になる。決められた狭い場所、決められたコースを進む主人公を、他のカメラマンよりも少しでも良い場所で写したい。そんな心理が、他人を排除しようと言う行動に、結びつくようである。 和歌山県の某所に行ったときには、私は最良の撮影ポイントなど、微妙なことは解らないので、ほかのカメラマンよりは、かなり早い時間に場所の下見をして、土地のカメラマンから情報も戴き、とにかく適当な場所を確保した。 それから待つこと数時間。主人公の列が、麓から石段を上ってきた。どれがアマチュアで、どれがプロのカメラマンかは、混沌とした状況が生まれた。新聞社や地元テレビ局のスタッフは、腕章でそれとなく解るのだが、フリーとなると、皆目判別ができない。とにかく、一斉にシャッター音が、林の中で響き始めた。 そのときに、明らかに地元新聞社のカメラマンと解る人が、祭りの列に近寄った。誰もが、自分の撮影位置から動かなかったが、そのカメラマンは遅れて来たために、最良の場所が確保できずに、『職業カメラマン』としての“特権”を行使しようとしたのである。 そのとたんに、周辺のカメラマンから一斉に、怒声と罵声が、彼に浴びせられた。容赦なく、シャッター音よりも激しい攻撃に、彼はまた、アマチュアカメラマンたちの列の後方に戻らざるを得なかった。それまでのわずかな間に、何枚のシャッターを切れたものか、他人事ながら、気になったものである。 その後のカメラマンたちの興奮は、しばらく冷めやらなかったようである。交通整理の警察官がじゃまだと言っては、怒鳴りつける。会場整理の係員は、座らせてしまう。 幸いなことに私は、一つの場所を動かなかったので、罵声の洗礼を受けることがなかった。ただ、凄まじいばかりのカメラマン魂に、感動は覚えた。 そして、花の町である。祭りと全く雰囲気が違うのは、時間の制約が少ないからだろうか。また、花を写すカメラマンと、祭りをターゲットにするカメラマンとは、人種が違うのか。それほどのことはないだろうが、花は殺伐としがちな人の気持ちを、和らげてくれるのかもしれない。 姫路城は広いが、桜の撮影ポイントは、多くはない。同じポイントに、自然とカメラマンが吸い寄せられる。 そのような場所に、私も誘い込まれていた。しかし当然に、天守閣を花の間から覗くアングルは、非常に狭い。レンズを変えて表現を他者と違うものにするのだが、それでも『最高のアングル』は、数メートルの範囲に限定される。 私がその場所に行ったときには、一瞬、空白が生じていた。三脚を立てて、30分ほども、風の動きや、光の角度を見ていただろうか。数本のフィルムを使って、その場を離れるときになって、後方の人に気がついた。数人の人が、私がそこを離れる時を、静かに待っていたのである。 花を写すカメラマンは、静かな人が多いのだろうか。私が知る写真家は、結構激しい気性の持ち主だが。私が軽く会釈をしてそこを離れると、数人の人もまた、黙って会釈を返してくれた。 青森県の弘前城も、桜の名所である。日本有数の、と言っても間違いではない。ところがその弘前城に、桜の季節にあわせて、数年間も通いながら、いつも天候に恵まれず、まともな写真が撮れなかった。 そして通うこと数年。ようやくにして、天気にも恵まれて、花も八分咲きを迎えていた。撮影ポイントも、解っている。 勇躍、その場所に行き、絵はがき的にはなるが、橋と櫓が写せる場所に、三脚を構えた。ところが、それまでの年とは違った、思いがけない光景が待っていた。 桜の名所で天気に恵まれたのだから、当然と言えば当然なのだが、橋を渡る団体旅行客の列が、途絶えない。橋までの距離は、20メートルほどあるだろうか。とにかく我慢を続けて、人がまばらになる時を、待つことにした。 30分も待っただろうか。姫路城では撮影に費やした時間を、弘前城では待つために費やしたのである。しかしそれでも、人並みはとぎれない。 そうこうするうちに、二人連れのカメラマンが、橋を渡って外に向かってきた。橋の中程で、私を見つけた。彼らは、城内に向かうときにも、私を見ていたらしい。 彼らが、橋の上から声をかけてきた。「どこから来たのかねぇ。」「横浜からです。人が多いですねぇ。」「そりゃぁ、そうだぁ。弘前城だもの。まだ待つのかい?」「そのつもりです。そのうちに、人が途切れるときもあるでしょう。」「いつになっかなぁ。ちょっと待ってね。」そう言うと彼らは、橋の上で前後に別れた。そして橋の上で、両手を広げて、観光客たちに呼びかけた。「ちょっとでいいから、止まってけろ。あっこで、写真撮ってる人がいるから。」 その声で、人々の流れに、空白ができた。あっという間の行動だった。その状態を数十秒ほど続けてくれてから彼らは、「もう撮れたかねぇ。」と私に声をかけて、“通行止め”を解除した。そして何事もなかったように、橋を渡って外へ出て行った。「ありがとうございました。」私が声をかけたときには、二人は気にする風もなく、人混みに紛れていた。 もしも私が“花の町”に住むならば、訪問客にあのくらいのもてなしは、やってみたい。 気っ風のいい人は、どこにでもいるものである。だがあんな行動は、今の私にも、できるとは思えない。私はまだ、馬齢を重ねているらしい。
2004年05月30日
茫々と広がる海原を、右手の断崖から眺めながら、緩やかな坂道を、上っていた。行き交う車はほとんど無く、晴れ渡った空が、丘を覆っていた。 日本を想わせる茅葺き屋根の、重厚な農家が、蒼い牧草地の中に点在して、ほっと安らぎを覚えさせる地域だった。その情景は、フランスにいることを、ひととき、忘れさせてくれた。 緩やかな丘に向かって車を走らせていくと、左手に可愛らしい公園がある。ほとんど民家もないところにある公園で、行き交う車もいないのだから、そこで人に出会うとは、思いもよらなかった。 左手の断崖下には、わずかばかりの浜辺があり、小石が転がる水際には、静かに波が、打ち寄せていた。靄に霞む海原の彼方には、イギリスがあるはずだ。 波は、数十年も、数百年もそうしていたように、この日もただ、打っては返し、優しい白波を、小石の間に消し続けていた。高さが百メートルに及ぼうかと思われる、断崖下の浜辺から、波音がかすかに忍び寄ってくるようだった。 その浜辺は、百人か二百人ほども立ち並べば、埋め尽くされてしまいそうなほど、わずかばかりのスペースである。 ★ ★ ★ ★ ★ 小さい公園には、錆色の何かが、オブジェのように置かれている。近付くにつれて、その“錆色”のものの形が、明瞭になった。海峡を睨むように置かれた、小型の大砲と、小さいタンク(戦車)だった。 戦車が、こんなに小さいものだとは、それを見るまでは、想像もできなかった。何人の兵士が、この戦車を操って、戦ったのだろうか。どちらの軍隊に、どれほどの被害が出たのだろうか。この戦車の乗員の“今”は、どうしているのだろうか。 動かない、錆び付いた戦車は、今も何かを、必死に伝えようと・・・、訪れる人々に歴史を伝えようと、そこに佇んでいるように思われた。その土地の人々にとっては、古い過去であると同時に、まだ記憶が冷めやらぬ、肉親が戦った残滓が、いっぱいに詰め込まれた、遺物なのだろう。 ドーバー海峡を見下ろす、この断崖下の磯は、歴史に名を残す、苛烈な戦闘が繰り広げられた、ノルマンディ海岸だった。あまりにも静かな光景に、過ぎる時の残酷さを忘れさせられそうになるが、この磯辺と、今見ている公園に至る断崖には、数え切れないほど多くの兵士の血が、吸い込まれているのだ。 気づかれずに上陸すれば、他愛なくフランスの地を踏むことができそうな、何気ない浜辺なのだが、断崖上から銃弾を浴びせられては、抗うことは、困難を極めたことだろう。そのように思って、再び眼下の浜を見下ろしてみたが、あまりの静けさに、その往時は、どうしても私の脳裏で、結びつけることができなかった。 だが、その歴史は、間違いなくこの場所に、刻まれているのである。静けさが、のどけさが募るほどに、歴史の過酷さが、逆に“重さ”となって、四囲の空気を抑圧しているように、感じさせた。 錆び付いた戦車を、初秋の陽光が、労るように撫でていた。そこへ、バイクの青年が通りかかり、私が見ているタンクの横で、車から降りてきた。 互いに、言葉が通じないことは、一目で判ったはずである。挨拶さえも、ままならないはずである。その彼が、私に挨拶らしい言葉を、投げてきた。意味を理解できないままに、私も笑みで挨拶を返した。おぼつかないのは言うまでもないが、フランス語の挨拶ならば、私にも見当が付く。彼の言葉は、ドイツ語のようだった。 彼は、この小さい公園で、何を感じ取ったのだろうか。私を、日本人だと、認識したのだろうか。 不思議なものである。戦場ではなくなったこの地で、日本人の私と、ドイツ人の彼が、言葉の疎通がないままに、二人だけで、顔を見合わせている。その間には、イギリス人も、フランス人も介在していない。 その“時”は、10分もなかったのではないだろうか。彼は私に軽く手を挙げて、丘を下って走り去った。 私はその姿が見えなくなってから、反対の坂道を、南に下った。 激戦の歴史も、錆び付いた戦車が置かれる小さな公園に、名残をとどめるばかりになった。この土地の人々の意識は、錆びた戦車のように、錆び付いたのだろうか。いや、時間は遠くに去りながらも、彼らの意識は錆びていないだろう。 記憶を新たにするために、オブジェのように戦車が置かれているのである。日本人の意識とは違って、彼らフランス人の意識は、まだ戦争を、忌むべきものとして、しっかりと捉えて離さないものと思われる。 ★ ★ ★ ★ ★ 今、イラクでは、アメリカ政権による攻撃によって、混迷が続いている。国土のいたるところに、“錆びた戦車”として、記憶に残さなければならない傷跡が、深く刻まれているようである。ノルマンディの悲劇に、勝るとも劣らない後遺症が、イラクに残らないことを、祈りたい。 時は過ぎて、兵器能力が変質を遂げた。ノルマンディの記憶は、錆びた戦車に封じられたが、イラクの悲劇は、アメリカ軍による“放射能兵器”によって、何時までも“生きた記憶”となって、留められるのではないだろうか。 日本が、その記憶の残滓の接着剤に、ならなければいいがと、今にして想うのである。 いつの日にか、イラクの砂漠を刺す熱い太陽光の下に、錆びた戦車と、錆びた記憶が、封じ込められることになるのだろうか。そこで、現在のアメリカ軍の行為が、正当化されることは、あるのだろうか。 ノルマンディの磯に打ち寄せる、波の白さが、数十年も過ぎた今も、私の目に浮かぶ。そして、錆びた戦車の、もの悲しい姿も。
2004年02月29日
楽天広場では、容量不足で写真のアップ枚数が不足しましたので、【滝】以外の【日本の旅、そして世界へ】 は、【新館】に移転 しました。 新館では、今後も旅の写真を追加していきますので、これからも、よろしくお願いします。
2004年01月16日
気まぐれに、港を訪れていた。岸壁には、海外移住者をデッキに溢れさせた貨客船が、出航を待っていた。港の動きが、あわただしかった。★ ★ ★ ★ ★ 父は仕事で、海外に出ると、数年間は家を空けた。その間の我が家は、ほとんど母子家庭のような状態になる。父は帰宅すると、次の出航まで、半年ほどは、自宅でくつろぐ。父の帰国が近づくと、母子ともに、気持ちがそわそわと、落ち着かなくなっているのがわかった。 心待ちにしているのとは、少し違う。待ち遠しさの中に、よそよそしい雰囲気が、紛れ込んでいるのである。それでいながら、何かしら愛おしい。微妙な心地がした。 父の留守中には、母子だけで食卓を囲んだが、そのテーブルには、必ず毎日、父の食事も揃えられた。母よりも大きい茶碗に、母よりも多めに盛られた料理が、いつも湯気を立てていた。 その『陰膳』を、あとで母が食べたのか、子供たちも戴いたのか、今は記憶にない。だがその陰膳は、父の旅立ちの日から、帰宅の日まで欠かすことなく続けられた。★ ★ ★ ★ ★ 巨大な貨客船は、汽笛を何度も吹き鳴らして、銅鑼の音を岸壁に響かせながら、ゆるゆると、岸を離れ始めた。 船のデッキと、見送る人が並ぶ岸との間に、テープが伸びていた。船の上から、岸で見送る人をめがけて、紙テープが投げられる。そのテープを拾おうと、縁戚らしい人が、走る。うまく手にして、安堵する人の顔が見える。 テープを手にした人たちの表情は、まさに悲喜こもごもである。旅立つ人の環境が、心が、手にしたテープに乗り移って、鏡に映されたように、見えている。 船から渡された色とりどりのテープは、一見華やかで、喜びに満ちているように見える。織りなす絨毯のように、緩みながら伸びたテープは、船が遠ざかるとともに、一本、また一本と、切れ始めた。人々の思いを、名残を断ち切るかのように、切れて海に溶けていく。 感傷ではないが、感傷的でもある。岸壁で、船上で、涙を見せる人たちが、多い。今生の別れになる人たちも、テープに想いを乗せて、別れを惜しんでいたのである。 切れたテープの端を握りしめて、離れていく船を、言葉もなく見送る人がいる。流れる涙を拭くこともせずに、黙って、いつまでも立ちつくしている。★ ★ ★ ★ ★ 母に、「どうして、お父さんを見送りに行かないの?」と、幼心に尋ねたことがある。「船は嫌いだから。」母は、それだけを答えてくれた。 なぜ、船乗りの妻が、船を嫌うのか。見送りをしないのか、幼い頃は疑問に思っていた。だが、今、岸を離れる船を見て、体全体を包むように、その理由がわかった。 母は、「船は遅いから。」とも言った。 船は、遅い。 テープを伸ばして、そのテープが切れるまでの時間を、少しでも長引かせようと、腕を一杯に伸ばす。その人々の心を想うと、父の船出を見送らない母の気持ちが、よく解った。 船の別れは、残酷すぎるのである。生木をゆるゆると裂くように、心を少しずつ引き裂いて行く。今のように、気軽に渡航できる時代ではなかった。海外事情など、行ってみなければ解らない時代だったのだ。飛行機で、簡単に往復できるなら、船を使いたくはないだろう。 母が港に父を見送ったのは、私が知る限りでは、2度しかなかった。そして、気まぐれに訪ねた港で、出航風景に出会った私もまた、海外渡航船の見送り風景が、好きではなくなった。 港には、テープをたなびかせた、華やかな出航ポスターが飾られているが、あの写真が『華やか』なだけではないことを、知ってしまったからである。ポスターに写っている人々の顔を見て、その中から自然に、哀しみの顔を拾い上げてしまうようになった。★ ★ ★ ★ ★ 港で出航風景を見送ってから、北の国に向けて、車を走らせた。 母の『陰膳』は、父に対してだけ、供えられたものだったのだろうか。私は自分の旅の間のことは、尋ねたことがない。帰宅すれば、陰膳を見ることはない。 父は、母が無事を祈りながら、毎日供えていた『陰膳』を知っていたのだろうか。気むずかしい夫の帰りを、無事を願いながら待つ妻の気持ちが、今、解りかけている。
2003年11月03日
6万年ぶりで、赤い星・火星が、大接近している。まだ見ていないが、月に並んで、輝いて見えるそうだ。是非とも、お目にかかりたい。 星が話題になる今、北国の星空を思い出した。 街路灯の薄明かりが、深い木立の中に差し込んでいるのだろうか。時折寝ぼけたようなセミの声が、『ジジ、ジ・・・』と聞こえてくる。 私は、夏の名残が、ふわりと暖かい風を流す、平泉にいた。宿も決めずに中尊寺をのんびりと眺めているうちに、日暮れたときには、宿を探すタイミングを失していた。無理に宿を探す必要はない。藤原氏の栄華を枕にして、中尊寺の駐車場を借用して、一夜の宿にすることにしよう。 源頼朝に攻められた藤原泰衡は、3代に亘って栄華を誇った平泉を、総て灰にして、滅亡の道を選んだ。鎌倉軍が押し寄せた時には、まばゆいばかりの、京に並ぶほどの都は、跡形もなく消失していた。貴重な戦利品を、頼朝が破壊させたはずがない。栄華の欠片さえも渡すものかという、藤原氏の意地が、総てを『夢幻の彼方』へと、持ち去ってしまったのである。 その中でわずかに残された遺跡が、覆い堂に安置された金色堂である。鈍い黄金色に全体を包まれた建物は、隅々まで緻密な装飾が施されていたが、意外にも落ち着いた華麗さを感じさせてくれた。 金色堂に登る木陰の石段は、若い源義経も、何度か上り下りしたのだろうか。眼下に見える北上川の岸辺も、陸奥の武士らが、縦横に駆け巡っていたことだろう。何気ない田園が広がるだけだが、その地には、士たちの思いが、幾星霜を経て、今なお染みているように感じられた。 平泉で武術を完成させた義経は、平泉を駆け巡り、若き晩年には、兄・頼朝の追捕を受けて、静かに時の流れに身を任せていたらしい。藤原氏の兄弟たちが、鎌倉服従派と徹底抗戦派に分裂した状況下では、いかに義経と雖も、ただ様子を見守るほかに、為す術はなかったと思われる。 やがて義経は、中尊寺にほど近い高館の屋敷で、わずかな従者とともに、最期を迎えることになる。藤原泰衡(やすひら)軍は、どこから屋敷に向かい、どのように館を押し包んだのだろうか。 中尊寺周辺も、義経追討軍が、歩を進めたことだろう。 義経に味方する秀衡の長子・国衡は、鎌倉軍を迎え撃つために、義経からは遠ざけられていた。泰衡は、ようやく築き上げた栄華を守るために、わずかな可能性に望みを託して、策略を巡らせたようである。義経に味方する一族は他にもいたが、多勢に無勢で、泰衡軍に討ち取られてしまった。 親族が相討つ源氏の血が、奥州藤原氏に乗り移ったかのように、肉親が敵味方に分かれて、勢力を弱めたのであった。これこそが、頼朝が画す戦略そのものであったかもしれない。 奥州平泉軍と鎌倉軍との戦闘は、福島と宮城の県境付近の『国見峠』が、最大の激戦地だったのではないだろうか。その防衛線を破られた奥州軍は、敗戦を覚悟して、痕跡を残さないほどに、壮大な伽藍などを破壊して、火を放った。 平泉・金色堂が焼失を免れたのは、奇跡に近い。藤原氏が祀られている聖跡であるために、破壊することに、躊躇いがあったのだろうか。 数十万を数えたはずの、奥州武士たちは、どこに消えたのだろうか。 わずかに残された遺跡・金色堂を訪ねると、これら人々の『夢の痕』が、凝縮されているような想いに、包まれる。拡散された遺跡ではないだけに、多くの武士たちの遺恨が、無念が、喜びが、総てここに呼び寄せられているように、感じられるのである。 その聖地で、夜を迎えていた。木々に囲まれた駐車場から見える星は、強い光を放っていた。 800年近い昔と、変わることなく瞬いている。義経は、泰衡は、多くの武士たちは、あの星を見上げたことがあるのだろうか。 悠久の時を経て、今、私は彼らと同じ地で、同じ星を見上げている。 深く暗い森の奥で、フクロウが「ホウ・・・ホウ・・・」と、鳴き始めていた。
2003年09月08日
下界は暑く、湿度が高かった。 どこまでも続く山並みの、深い森に包まれた木曽路も、風が熱気を緑陰にまで、運んでいた。平地を見ることがない田園地帯を過ぎて、『命』と刻まれた石碑の群れを見ながら、御嶽山山上を目指した。のどかな山村の間を縫って、曲がりくねった道が登る。その左右には、神道の地を示す石柱が、現れては過ぎ、過ぎたと思えば、また現れる。 墓石を見慣れていても、神道による墓石の群れを見ることは、今までになかった。霊気を感じることはなくても、印象を強める、独特の光景だった。御嶽山が、信仰の山であることを、改めて認識させる参詣道である。 道路が高度を上げるにつれて、下界の熱気が急速に遠のいていくのが、感じられた。気温は、何度くらい下がったのだろうか。肌に纏わるような湿気も、どんどん離れていく。さらりと乾いた空気が、心地良い。 何合目まで登ったところだろうか。広い斜面に休息地が現れて、茶店なども見られた。木陰には、バス停もある。山頂を目指す人たちが、ここで英気を養って、再び霊地に向かって歩を進めたのだろう。夏なのに、平日のためか、人影はまばらだった。喘ぐように登ってくれた車に、しばしの休息を与えて、さらに頂上を目指した。 頂上へ登る最終ポイントには、少し狭めの駐車場があった。途中の景色を楽しみながら登ってきたために、山頂にうっすらとかかる雲には、茜が射し始めていた。初めて訪ねた場所で、山頂を目指して歩き始めるには、時間が遅い。天気は明日も晴れるだろう。 吸い込まれるような青空が、赤紫から群青色に変わり、濃紺から黒へと、移ろっていく。最終バスが下って行ってからは、駐車場に登ってくる車もいない。木々の囁きだけが、さわさわと周囲を包んでいた。 下界を見下ろすと、漆黒の闇に沈んだ森の中に、人家の光が心細く揺らめいている。遠くからも眩く見える都会の光渦は、どこに行ったのか。山入端が空に溶け込んだ頃に、星のきらめきが強さを増していた。夏の夜に、壮大な星の海を見なくなって久しい。無意識に見上げていた天の川さえも、都会に住むようになってからは、ほとんど見ることができなくなっていた。 緑に、黄色に、オレンジに、そして赤く、青く・・・。色とりどりに瞬く星を眺めていると、時が過ぎるのを忘れてしまう。車窓の隙間から忍び込む冷気は、下界の熱波が嘘のような別世界だ。 数年ぶりに味わう星空は、いつまで見ても見飽きさせないと思ったものだが、さすがに2時間も見続けると、その数を数えることも、飽きさせる。時間はまだ夜の9時だった。朝までの時間は長い。 ラジオのスイッチを入れると、そこには『音の星空』が広がっていた。聞いたことがないほどの、方言の洪水が、車内に渦巻いた。北は秋田、岩手、そして日本海の石川、関東首都圏、京阪神から四国まで、チューニングを取ることができないほど、日本各地のラジオ放送が、洪水のように迸り出たのである。 夜空に無数の穴を穿つきらめきと、車内を飛び交う無数の言葉たち。経験したことがない、『神の世界』に迷い込んだ気分で、ラジオのダイヤルをゆっくりと回しながら、眠りについた。 意識の中のどこかで、声の渦の中に、母の声が紛れているような、その声を探し求めているような、不思議な錯覚も味わっていた。 ★ ★ ★ ★ ★ 朝、下界は霧に沈んでいたが、水色の空が次第に青みを深めて、快晴に向かっていることを、予感させた。 涼しいうちに、そして多くの参拝者が訪れる前に、山頂を見ておこう。 ゆっくりと、ノンビリと山頂を散策して、何もない荒れ地の斜面を散策して、下山し始めたのは、また、夕暮れ近くになっていた。御嶽の、何がよかったのだろうか。どこに惹かれたのだろうか? 山頂風景も、今は記憶に残っていないのに、なぜか1日、24時間も、木曽御嶽の山頂付近に、とどまっていたのである。 下山しようとクルマを走らせていると、登山中に見かけた、中腹の茶店に差し掛かった。店のシャッターは、ほぼ降り掛けていて、残された隙間から、店内の光が漏れ出ていた。その光に照らされて、長い人の影が揺れた。青さの残る空に、昼の明かりが、名残を留めていた。 長く伸びた人影は、バス停を行きつ戻りつしていた。 と、私のクルマに向かって、手を差し上げながら、足早に進んできた。そして、遠慮がちに窓を叩いた。窓を開けた私に、その男性が、声を掛けた。60歳を過ぎたように見える人だった。「上の駐車場で、バスを見かけなかったでしょうか。」「いいえ、もう車は残っていませんでしたよ。」「ここの店の人にも、最終バスが出た後だと言われたんですが、乗り遅れたようなんですよ。」「これから、下るんですか?」「ええ。宿の予約も取ってあるもので、何とか下りたいと思います。」「店の人が、下りるときにでも車に同乗させてくれそうですか?」「ここの店は、夜も下に行かないそうなんです。家内が一緒なんですが、歩いて下りると、どのくらいの時間がかかるでしょうか。2時間もあれば、と思うんですが。」「2時間では、無理でしょう。奥さんもご一緒では、難しいですね。」 少し離れたところで、遠慮がちに様子を窺っている奥さんは、ご主人とそれほど年齢が違うようには、見えない。下山途中で、暗闇に包まれることだろう。「私のクルマでよければ、いかがですか? 道具を片づけますから。」 後部座席には、カメラや三脚などが、所狭しと転がっていた。「いや、歩いている途中で、土地の車でも見つけたら、同乗させてもらうつもりでしたから。」「私も下りるところですから、宿までお送りしますよ。」 男性の表情に、安堵の色が浮かんだ。「本当に良いんですか? 有り難うございます。今、家内にも話してきますから、待って戴けますか?」「急ぎませんから、大丈夫ですよ。」 奥さんも、『救われた』といった表情で、車に乗り込んだ。「宿は、どちらですか?」「木曽福島に、予約してあります。今夜は、食べ損なうかと思って、覚悟していたのですが、本当に助かります。」「いいえ。ほとんど一本道ですから、私も寄り道になるわけでもないし、どうぞお気になさらないで下さい。」「すっかり時間を間違えていましたもので、助かりました。」 奥さんも、言葉少なに、礼を述べてくれた。気取りはないが、落ち着いて上品なご夫婦だった。「あなたも、木曽福島にお泊まりですか?」 男性が、私に尋ねた。「いいえ。塩尻に近い方です。」「そうですか。私たちの宿に近ければ、今夜は是非、お礼をしたかったのですがねぇ。」「そうですよ。お礼をしなければ、私たちの気持ちが済みませんからねぇ。」 ご夫婦で、謝意を伝えてくる。「本当に良いんですよ。旅は道連れといいますし、『神様の世界』で、何かのご縁があったということでしょうから。」 いくつかの集落を通り抜けて、木曽福島の明かりが見えた頃に、後部座席でご夫婦の小さな話し声と、なにやら出し入れする音が、かすかに聞こえていた。「宿は、どのあたりになりますか?」「そこの角を曲がった路地から、入ります。そこで止めていただけば、後は歩けますから。」「そうですか。何とか7時半前に着いてよかったですよ。」「お陰様で、宿の夕食にも、間に合いそうです。」「足元が暗くなっていますから、お気をつけて。」「あの・・・。」「はい? 忘れ物はありませんね。」「お礼というのは失礼なんですが、見ず知らずのかたに、突然お願いして宿まで送って戴きましたのは、本当に有り難かったです。家内とも話して、ほんの気持ちだけですが、これを・・・。」 ティッシュペーパーに包んだものを、申し訳なさそうに、私に握らせようとした。「途中でもお話ししましたように、“旅は道連れ”という気持ちでお乗せしたんですから、どうぞ気になさらないで下さい。」「でも、家内もそうしたほうがいいと言いますから。」「お気持ちだけ戴きましょう。お孫さんに、そのぶんで、おみやげを買ってあげて下さい。」 何度かの押し問答の末に、その謝礼は、ご夫婦に引き取って戴くことができた。 その包みの中身は・・・?そんなことを考えたのは、後年のことだった。その時には、老境を迎えようとするご夫婦が、霊山に仲睦まじく旅する、その姿を見ただけで、謝礼を受け取る気持ちは失せていたのである。 感傷的だったのかも知れない。『自分の老親が、夫婦で旅をしていたら・・・。あんなふうに仲睦まじく旅をしていたら・・・。』と、自分の親に、その姿を映し替えて見ていたのである。旅行中に、自分の親が困っていたら、きっと誰かが援助の手を差し伸べてくれることだろう。私はその見知らぬ『善意の人』に礼を述べることはできない。代わりにできることは、私が見知らぬ人に、手を差し伸べることだけである。 御嶽山で、車内に満ちたラジオの声から、母の声を探し出すことは、できなかった。老親が、二人で旅に出ることは、ない。 母は8ヶ月ほど前に、戻ることのないところへ、急に旅立ってしまった。父はその後の入院生活から、ようやく戻ってきたばかりだった。二人が揃って旅に出ることは、絶対にない。 あのご夫婦は、あの後も仲良く、旅を続けたことだろう。神の世界ですれ違った、人世の一コマだった。瞬間の時だったような気がする。
2003年08月08日
tombow2のバナーがありませんでしたので、取り急ぎ、今ごろになって、作ってみました。
2003年06月20日
時折、スコールのように、雨が地面を叩く峠に、登っていた。車で登られる峠なので、苦労があったわけではない。だが、峠の展望台で、三脚にカメラを据えて、傘をさして晴れ間を待つ、その辛抱には、いささか嫌気がさした。晴れ間が見えれば、景色はドラマチックな表情を、見せてくれるはずだった。それを、辛抱強く待っていた。 遙かな足下には、十和田湖が、静かな姿を見せている。 湖の中心部から、湖岸の船着き場に向かって、純白の遊覧船が、航跡を引いている。 鉛色の湖面に、一面に覆い尽くされた雲の切れ間から、白い光が、スポットライトのように走った。その白光が、遊覧船を、主役の座に引き出すように、浮かび上がらせた。湖水の色が、光の部分だけ、深い碧色に変化している。 その時に突然、巨大な虹が、湖面から立ち上がった。夢の中にいるように、鮮やかな色のハーモニーが、暗い空に向かって、伸び上がっていく。 純白の小船は、その巨大な虹の中心にいた。遊覧船の乗客たちは、今外に出れば、掌から立ち上る虹を、見ることができるだろう。夢にも思わなかったはずの、“虹を掴む”ことが、今、できるはずなのである。 カメラで覗いた小船のデッキには、人影が見えなかった。雨の中を進んでいた船のデッキに、出てみようという乗客は、いなかったのかも知れない。船が虹の中心を進んでいることに気づいたのは、私だけだったのだろうか。 ふと、数年前の体験が、思い出された。 その時には、私が虹の中にいた。小雨が降る高原に、車を走らせていた。その時に、ボンネットからオレンジ色の柱が、立ち上っていることに気づいたのである。それが何なのか・・・。急には理解できなかった。 車を路肩に寄せて停めた。確かにオレンジ色の光柱は、私のクルマから、空に向かって伸びている。周囲を見回すと、私の周囲全体で、色とりどりの光が渦巻くように、太い柱になって空に向かって伸びている。光柱は、天空でひとつにまとまり、虹になっていた。 手を差しのばしても、掌に虹を掴まえることは、できなかった。だが確かに、私は虹の中にいた。 虹の中に入ってしまうと、右に紫、中心にオレンジ、左に青と言うように、光が分離されて見える。自分から見て、虹が上空で左右のどちらにカーブするのかによって、この色の順序は、違うらしい。 あれは、夢の中にいたのだろうか。この思い出は、25年以上も過ぎた今も、強烈なイメージとして、意識に焼き付いている。 十和田湖遊覧船が虹の中を滑る映像は、3分ごとにフィルムを取り替えて撮影しなければならなかった、往時のシングル8で、写してある。今もそのフィルムには、虹色が記録されているだろうか。 映写機をしまい込んだままで、8㎜フィルムも、部屋のどこかで忘れ去られている。探し出しても、古い映写機は動いてくれるのだろうか。 父が病院で危篤に陥ったときに見た、巨大な虹の記憶もまた、鮮明に残っている。老齢で心臓病を患っていた父は、明日をも知れない状態で、夢うつつの狭間を、行きつ戻りつしていた。 病院からは、その日、『今日が峠でしょう』と、言い渡されていた。私は強烈に鮮やかな虹を見て、父が還ることを祈った。 そして父は、奇跡的に還ってきた。だが、以前の生気は面影を失っていた。それから2年、父は生を長らえた。だがあの虹の日に、父の魂は、先に逝った母の元に迎えられて、行ってしまったようだった。 私たちは、その時から2年の間、抜け殻になった父を、介護した。 それでもいい。虹は、人の魂を運ぶ“梯”。 虹の中に入ると、身体が浮き上がるような、嬉しさがこみ上げる。虹は魂を連れて行くだけではなく、虹に運ばれた沢山の優しい魂がやって来て、人を包み込んでくれることも、あるらしい。 あれは、1度だけの体験だった。
2003年06月11日
世界文化遺産の存在などは、全く知らなかった頃のことである。それ自体が、まだ存在していなかったのかも知れない。 ただそれでも、日本の原風景が、時間の移ろいから忘れ去られたように今も残されている秘境があるという、その夢の世界の存在については、折に触れて、学生時代から繰り返して、記憶の中に擦り込まれていた。 その秘境とは、岐阜県の北の果て、合掌造りの里・白川郷だった。 その記憶の奥に畳まれていた、秘境を訪れる日は、富山県を訪ねていたある時の、ふとした気まぐれから、実現することになった。 今でこそ高速道路が、この白川郷まで延びて、気軽に訪ねられるようになっている。だがこの時にはまだ、国道でさえも、荘川の深い流れに沿って、くねり、ひとつ間違えばその深淵に飲み込まれそうな、非常な難所を通り抜けなければ、この村に入ることは、できなかったのである。 その秘境に踏み入ってみようという思いは、よほどの時間と体力のゆとりがなければ、思ってみることもできないものだった。 そしてその時には、早めに目的の仕事を終えて、時間の余裕ができたのだった。富山からの帰りコースは、岐阜県高山市を抜けてもどこを通っても、遠いことには違いがなかった。それならば、白川郷の中を通り抜けてやろう、ということにしたのである。 これも、若さとひとり旅という、気楽さがあればこそ、できたことだった。 このときのドライブコースは、こともあろうに、『人喰い谷』と名付けられた、とんでもない山の、断崖ルートだった。この谷の、身体が自然に山側に傾きそうな、険しいルートを、小さいクルマを走らせて、山深い白川郷に踏み入ったのは、草いきれが子供の頃を思い出させる、初夏の頃だった。 合掌の里・白川郷は、水田にその独特の姿を映して、緑鮮やかに、初めて訪れた私の目を、楽しませてくれた。建物の姿が、合掌する手の形に似ていることから、『合掌造り』といわれている。農家の構造は、この里から外界に出ることが困難な、そして幕府直轄の歴史を持ち、養蚕で生活を支えた大家族の住まいにふさわしい、重量感溢れる、歴史を刻みつけたものだった。 観光的に脚光を浴びてはいたが、あまりにも険しい環境にあるために、観光客の姿は、決して多くはなかった。 そのチラホラと見える観光客に混じって、私も『合掌の里』(現在の合掌造り民家園)を訪ねてみた。合掌の里は、周辺各集落から、廃屋になった建物などを集めて、観光施設として整備を始めた、貴重な資料の村でもある。 そこは、建築資料保存を目的として作られた施設だが、建物内部を存分に見て回れる上に、いろりの部屋や土間で、心ゆくまで休むことができる、回帰のエリアでもあった。池の畔を彩る白い花、すいーっと滑るシオカラトンボ。。。 時の過ぎるのも忘れて、何時間、その建物の中で過ごしただろうか。だが、幾日も、この場所で時を過ごすことはできない。昼を回った頃に、荻町もひと通り歩いて、富山県側にある相倉(あいのくら)合掌村も、訪ねておくことに決めた。 相倉合掌集落は、白川郷の荻町集落よりも、スケールは小さいが、さらに素朴な歴史を感じさせる、生活感が溢れる村落だった。そして何と、私はこちらもまた、いや、こちらのほうが・・・気に入ってしまったのだった。 しかし宿の手配もないままに、初夏の日は傾きかけている。まさに後ろ髪を引かれる思いで、この集落を後にして、一枚の地図を頼りに、岐阜市へと向かった。 再び訪ねる日があることを願いながら。 あのときから、何度、白川郷を訪ねただろうか。ひと通り、四季を変えて、訪ねてはいた。だがその合掌造りの民宿には、まだ泊まったことがなかった。是非、泊まってみたいと思っていたのだが、なぜか機会を失していたのである。 そしてある日。これまたほんの思いつきで、白川郷に泊まってみようという気が沸き起こったのを幸いに、昼過ぎに、明善寺に近い民宿の看板を掲げた家の玄関を、開いてみた。「ご免下さい。」「はい、いらっしゃい。」「突然で申し訳ありませんが、今夜は部屋が空いているでしょうか?」「ええ、大丈夫ですよ。ちょうど他にもお泊まりのかたがいますから。一緒に囲炉裏で食事もできますから、是非どうぞ。」「そうですか。有り難うございます。車は、停める場所がありますか?」「庭の隅にでも停めて下さい。この先(狭い道)は、山に行くだけで行き止まりですから、構いませんよ。」「車で一通り回ってみてから、夕方に、また来ますから、よろしくお願いします。」「お気をつけて、行ってらっしゃい。」 これで、初めて泊まる合掌造りの民宿は、気持ちよく予約ができた。観光地でありながら、駆け引きの素振りも見せずに、飛び込み客を受け入れてくれる村人の、心の純粋さに、清々しい気分を味わわされて、集落内を、車で巡った。 集落内は、徒歩のほうが便利なほどなのだが、城跡まで登ってみたくて、車を利用したのである。 秋の夕暮れは、暗くなるのが早くて、宿に帰ると、間もなく外は闇に沈んでしまった。同宿者がいると言われていたので、呼ばれるままに、囲炉裏の部屋に向かった。 そこには、同宿の先客が、静かに座っていた。細身の後ろ姿から、若い女性だということが解った。まだ若かった私にとっては、見知らぬ若い女性と、向き合って2人で食事をするなどという経験はない。はて、何かの会話ができるのだろうか? 戸惑いながら自分の席に座ったのだが、ここでも、宿の人の心遣いを見せられることになった。 食事が終わるまで、宿の人も同席してくれて、それとなく、場つなぎの話を、してくれたのである。合掌造りの歴史や、私たちがどこから来たのか、等々を、話しかけて下さったように思う。心遣いは有り難かったが、私には、その時の話の内容が、思い出せない。 そして、同宿した女性の出身地や、名前も、今は全く思い出せない。ただ漠然と、(若さ故か)きれいな女性だったことは、記憶に留まっているのである。ひとり旅の若い女性が、こんな秘境の民宿に・・・? という印象はあったが、詮索する気も起きなかった。 その夜の部屋は、宿の家族が住む部屋を隔てるように、私たちを分けて、あてがわれたようだった。 そして翌朝もまた、同宿者は私とその女性だけなのだから、当然のように、向き合って朝食をとるようになった。 その時には、夕食をともにした気安さがあったのだろうか。どちらからともなく、「今日の予定は?」などと、訪ねるようになっていた。私の予定は、以前に訪ねたことがある相倉集落を、訪ねてみることにしていた。 彼女はバスを利用する予定なので、途中の菅沼合掌集落までで引き返すことにしている、ということだった。 食事を終えると、宿の人に、バスの時刻を尋ねている。「まだバスの時間までには、一時間以上ありますね。それに乗って行っても、帰りのバスがないから、戻るのは三時過ぎになるでしょうかねぇ。」「それじゃ、そこだけしか見られませんね・・・。」 そんな会話を交わしている。「お客さんは、どちらに行かれるんですか?」 いきなり、話の矛先が、私に向けられた。「私は、その先の相倉まで、行く予定なのですが。」「そこから富山に、行かれるのですか?」「いいえ。戻ってきて、高山に抜けようと思っているんですが。」「それじゃ、もしも構わなければ、こちらのお嬢さんを乗せて、途中の菅沼で、下ろしてあげてもらえないでしょうか?」「構いませんよ。」 ということに、急遽決まってしまったのである。旅は道連れ・・・。(当時の)私とほぼ同じ年齢の、女性とのドライブなど、まさに、願ってもないことであった。「本当にいいんですか? 予定を変えることになりませんか?」 女性は、自分が同乗することで、余計な負担を与えるのではないかと、気遣ったようだった。「同じ方向なんですから、構いませんよ。バスと違って、車なら、菅沼が予想と違ったら、そのまま相倉まで行ってきても、充分に余裕があるはずですから。」 お節介だが、彼女の気分が変わったら、是非とも相倉集落も、見せてあげたいという気分になっていた。「荷物を持ってきますから、済みませんが、待って下さい。」「またここに戻るんでしょう?」「ええ。三時半のバスに乗れれば、帰りの列車に間に合うんです。」「それなら、民宿で荷物を預かって貰えばいいんじゃありませんか? いいですよね?」「どうぞ、構いませんよ。身軽にして、行ってらっしゃい。」 山奥の道を、案内するのである。私としては、バスに間に合う時間に、間違いなく彼女を連れて帰るという保証を、彼女にも、宿の人にも確約するために、彼女の荷物を、宿に残させたのだった。 物騒な事件も多いときだったからこそ、ひとり旅の女性を預かる責任を、宿の人にも示したのである。 そのようないきさつで出発した思いがけないドライブだったが、途中の菅沼集落を、道路から見下ろした彼女は、私の予想通りの反応を示した。「バスで来たら、ここを見るだけで今日は、お終いだったんですよね。」「やはり、そう思いますか? 一日かけて見るには、(集落が)小さいでしょう?」「ええ。時間を持て余しますね。」「ついでですから、どうですか? 相倉集落まで、行ってみませんか?」「遠いんじゃありませんか?」「すぐそこというほどじゃありませんが、見物しても、充分に荻町まで帰れますよ。」「お願いしても、いいですか?」「ひとりでも二人でも、変わりませんから、こちらこそ、よろしければどうぞ。」「じゃあ、遠慮なく。」 相倉集落は、菅沼集落と違って、小さくまとまってはいても、資料館なども見られて、見応えは充分にある。生活感の濃さは、観光地として隅々まで気を配っている荻町とは、これまたひと味もふた味も、違った親しみやすい雰囲気を持っているのである。 村の入口では、日の光をすべて吸い込んだように、コスモスの花が、ピンクに輝いて咲いていた。 帰路に、彼女に感想を尋ねてみた。「どうでしたか? 相倉合掌集落は?」「私は、あんな所にも、合掌村があることを、知りませんでした。」「岐阜県じゃありませんからね。あまり宣伝もしていませんし・・・。」(当時は、相倉集落は、ほとんど宣伝をしていなかった)「本当に、有り難うございました。荻町には申し訳ないんですけど、生活感があって、本物の合掌村が、まだあるという感じですね。」 お世辞ではなく、本心から気に入ってくれた様子が、伝わってきた。無事に彼女を民宿に送り届けて、私は御母衣ダムを越えて、高山市へと向かった。 この時には、また途中で気まぐれ心が頭をもたげて、高山へは向かわずに、下呂温泉へ向かうコースに、車を向けていた。 彼女はあれから、また一通り、荻町を歩いてみると言っていた。昼過ぎに白川郷に帰り着いたので、バスの時間まで、充分な余裕ができたから、ということだった。 数十年も過ぎた今でも、なぜか、会話のあらましは、よみがえる。ただ、彼女の顔は、朧に包まれたように、思い出すことができない。 そして今思い起こせば、彼女の言葉には、地方の訛が感じられなかった。 東京の女性だったのだろうか。
2003年05月07日
四国の高松から、山を越えて徳島県に入り、高知まで行こうというのが、数日間の予定だった。 それからの予定は、ない。行ってみて、その時の状況によって、足摺から宇和島に回り込むか、海岸線を辿って徳島に入り、そのまま四国の外周を走って、松山に向かうか。 高松で栗林公園を歩き、源平古戦場の屋島に上ってから、山越えルートを選んだ頃には、そろそろ夕暮れの空が、赤紫に染まり始めていた。 宿の予約どころか、泊まる場所も決めていない旅であるのは、いつものこと。まだ地図が見える、残光の車内で、アトラスを広げてみた。これから向かうルートを辿ってみると、山間に小さな温泉地が、記されている。 かなり近いようで、30分もかけずに、行けそうである。国道から少し外れるが、ほとんど車両の通行が気にならない田舎道のことである。夜間でも、車の音に悩まされる心配は、全くないだろう。 その温泉は、確か・・・塩江温泉といったかと、記憶している。まだメモも取っていない頃のことで、朧な記憶でしかない。 数軒の温泉宿が、南斜面の田園に向かって、点在していた。山の端は、次第に暗くなりかけた空に、溶け込もうとしている。 取りあえず飛び込んだ宿は、いつも経験する本州の温泉地のように、もったいを付けた対応も、慇懃に断ることもなかった。拍子抜けするほど簡単に、空いている部屋に通してくれたのである。 部屋の窓を開けると、湿度のある夕闇が、目前にジワリと沈んで、広がっていた。6月の夕風が、心地よく部屋に忍び入る。田園の下の方に延びる車道を、時折仕事帰りの車のエンジン音が、さぁーっと走り抜ける。 その車音も、夕食が済む頃になると、ほとんど聞こえなくなっていた。山と一緒になった闇の重さに、押しつぶされるかのように、低く地面を這っていたタイヤの音が、さらに押さえ込まれて、宿の周囲を、しんとした暗闇が包み込んだ。 こんな暗闇を味わうのは、何年ぶりのことだろうか。 そんなことを偲んでいるうちに、暗闇のあちらこちらで、澄んだ管楽器のような音色が、響き始めた。初めは恐る恐る、四囲の様子を窺いながら・・・。 そして何事もないことを確かめ合うと、そこここで、笛で鈴の音を奏でるように、美しい音色を、響かせ始めた。 その合唱は、止むことなく、うねるように続いた。暗闇に音色のさざ波が立ち上がって見えるような、不思議な体験だった。『平氏の落ち武者が、都を偲んで笛を奏でて泣いている』と説明されれば、そのまま信じてしまいそうな、見事な演奏ぶりだった。 この見事な“演奏者”には、以前にもどこかで遭っていた。しかし、これほどのオーケストラを組んではいなかった。気まぐれな旅の奏者に、出逢っていたようなものだったのだ。偶然に飛び込んだ宿で、無料サービスの、大オーケストラの演奏を、堪能させていただいたのである。 暗闇の奏者の正体は、ほぼ見当がついていたが、蛇足であろうとも、宿の人に確かめずには、いられなかった。「今聞こえているこの声は、何でしょう?」「カジカ(蛙)ですよ。いつも聞いているので、何も感じなかったんですが、珍しいですか?」「こんなに見事な声だとは、知りませんでしたから、驚きました。」「ホタルの頃も素晴らしいですから、ぜひおいで下さいね。」 思った通りに声の主は、カジカ(蛙)だったのである。 朝になると、カジカの声はどこからも聞こえてこなかった。まるで一夜の夢のように。田のうたかたに、溶け込んでしまったように。 明るい畦の小径は、土地の人の声が、遠くのどかに、聞こえるだけだった。人の話し声さえも、遠くに聞こえる。音を吸い込む田圃の苗たち。 その苗に沿って、暗闇に放りあげられたカジカの声が、何と澄んで大きいものだったことか。 今度来るときには、またこの温泉に、泊まることにしよう。そう決めて出発したのだが、その後数年間は、その温泉の近くを通ることがなかった。 その時から10年も、過ぎた頃だっただろうか。同じ季節にまた、その地を通りかかる機会に恵まれた。泊まる予定がなかったので、車のエンジンを止めて、しばらく窓を開けて闇を見ていた。 だがなぜか、カジカの合唱は、『コロリ』とも聞こえなかったのである。 あれは、夢の世界の、戯れの音色だったのだろうか。それとも、平氏の滅んだ魂が、カジカに身をやつして、宿を包んでいたのだろうか。 あれからほぼ30年。あの透明な囁きは、あの宿で今も、聞くことができるのだろうか。 鳴き声は、こちらをクリックして、お聞き下さい。 IEで聞こえるようになっています。
2003年03月29日
眼下には、遙かな対岸の本州に向かって、壮大な瀬戸大橋が桁を連ねていた。 以前に来たときには、小さな島々がかすかに霞んで、青い海に浮かんでいたのだ。今はその海に、人の力を注ぎ込んだ、巨大な建造物が、足を踏ん張っている。小さな島々は、そのガリバーの足の置き場にされている。 瀬戸大橋は、ひとつずつの小島よりも、遙かに大きい存在だった。その大橋の全景を眺めるために、私は四国の坂出市から、近くの高台を目指して、クルマを走らせたのである。その高台は、どこがいいのか、見当がついていたわけではない。 地図を見ながら、適当な山に伸びる道路を、辿ってみただけなのである。 そのひとつの候補に、手頃と思われる城山(きやま)を選んだ。決して海抜が高い山ではない。だが道路は、瀬戸内海側を這い登っている。どこかには、展望の優れたポイントがあると、見当を付けたのである。 道は、低い山にしては、必死に登るように、短い間隔で急カーブが連続した。斜面の険しさを物語るような、ヘアピンカーブもあった。だが観光ポイントではないのだろうか。対向して下ってくる車には、ほとんど出逢うことがなかった。 山頂には、何かの施設があるのだろうか。朝まだ早い時間なので、観光車両が少ないのだろうか。果たして、瀬戸内海は見えるのだろうか。途中の道路沿いからは、瀬戸大橋が見えるポイントは、多くはなかった。 ただ新緑の薫りだけが、意外な山深さを感じさせるように、車内に流れ込んできた。 いろいろな杞憂を感じながら登った城山山頂には、コンクリート製の展望台とベンチ、テーブルが、ぽつんと置かれていた。 その展望台には、誰もいない。ただ静まりかえった山頂を、爽やかな緑風だけが、吹き抜けていた。眼下には、瀬戸大橋が煙っている。池沼群や重なり合う山並みが、遮るもの無く、見晴らせる・・・はずだったのである。だが下界を這う靄が、その景観を、ベールの中に包み込んでいた。 瀬戸大橋の雄大さは、岡山県・鷲羽山側から間近に、仰ぎ見て、見下ろして、朝夕に、矯めつ眇めつ(ためつすがめつ)して、写真を撮ってきた。 その橋を今度は、四国側から撮影してみよう、と思っていたのである。靄がかかっていても、晴れれば翌日には、写真が撮れるだろう。人が来ることも少ない、絶好の展望所があることを、確かめられただけでも、収穫があった。 ★ ★ ★ 一通りの下見が済んだところで、朝食前であることを思い出した。まだ10時前。もう10時前。幸いなことに、1軒の食堂が、山頂にあり、開店の準備を始めていた。 そこに声を掛けた。「もう店は、やっていますか? 食べられますか?」「お早うございます。お客さん、朝を食べていないのですか?」「ええ、今着いたところですので。」「どちらから、いらっしゃいました?」「横浜からですよ。」「東京の近くの?」「まあ、近いと言えば近いですね。」 四国から横浜と東京を見れば、それは近いに違いない。比較の問題なのだから。「下の方は、まだどこも、お店が開いていなかったでしょう。」「私が通ったときは、9時前でしたからね。」「お店は開いていますから、どうぞ、お好きな席に座っていて下さい。」「有り難う。ところで、ちょっと質問をしたいのですが、いいですか。」「はい。何でしょう。」「この辺は、どっちから朝日が昇ってきますか?」「あの・・・。朝日でしたら、西から昇ってきます。」 彼女は、間違いなく東の山並みを指さして、『西からです』と断言したのである。一瞬呆気にとられたが、次にはすぐに、笑いがこみ上げてきた。 少しからかってみたくなって、さらに念を押してみた。「ここでは、西から昇るのですか?」「ええ。西からです。」 何と、再び断言したではないか。「あのぅ。朝日なんですけど・・・。」 私のほうが、恐れ入ってしまった。香川の朝日は、西から昇るのか?「あ・・・。朝日・・・。こっちです! 東です。」「ああ、よかった。日本で始めて、西から朝日が昇るところを見つけてしまったかと思って、驚いてしまったところですよ。」「ご免なさい。東京からのお客さんなんて、初めて見たものですから、緊張しちゃって。」「緊張したんですか。ここもやはり、朝日は東から昇るんですねぇ。」「まぁ・・・。うどんができましたから、どうぞ。」 東京じゃなくて、横浜からだと言っているのだが、若いその女性は、私をすっかり、東京からの珍しいお客さんだと、思いこんだらしい。私は、パンダのような存在だったらしい。『横浜では、格落ちなのか?』 そんなことを思いながら、讃岐うどんを味わった。特別な趣向を凝らしているわけではないが、本場の讃岐うどんの味が、空きっ腹に滲みわたった。 西から朝日が昇る食堂の讃岐うどんは、確かな味で、美味だった。 明日もまた、多分この城山に登るだろう。朝日に染まる瀬戸内海を写すために。明日もまた、陽は昇るはずである。好天が続いていた。 東京から来たお客さんを初めて見たというだけで、東も西も解らなくなるほど、喜び、混乱する人がいる店。そんなうぶな店が、大橋が3本も架かってしまった今でも、残されているのだろうか。 あの女性は、私を見たことで、免疫ができただろうか。太陽は、東から昇っているだろうか。 何気ない出会いと会話が、旅を楽しいものにしてくれる。
2003年03月09日
中国・桂林省から、広州へ向かっている頃だっただろうか。長時間揺られた列車に飽いて、何気なく車窓を流れ行く景色へ、目を移していた。 列車は次の駅に近づいているらしく、速度を落とし始めた。それにつれて、山畑ばかりだった風景にも、人の営みが濃く感じられるように、なっていた。まばらな人家が密集し始めて、都会らしい面もちを、整え始めたのである。 列車が駅に近づくほどに、通訳の青年が、どことなく落ち着かなくなり始めたようだった。その理由は、私たちが乗る列車が、駅に滑り込んだときに、解った。 その駅には、対向する貨物列車が停車していた。どこに向かうのか、どれほどの荷物を積んでいるのか、普通ならば解る由もない。だがその時には、説明を受けるまでもなく、列車の行き先が予測できた。 貨車には、装甲車や高射砲、速射砲らしいきものが、大量に積み込まれていたのである。その時は、中国とベトナムの関係が険悪になっていた時期で、中国政府が、“ベトナム制裁”を明言していたときでもあった。 私たちが日本を発つときにも、国際ニュースは、その話題で持ちきりだった。『中国がベトナムを攻撃すれば、戦争が長期化するだろう。アメリカの二の舞になる畏れがある。』といった論調が、日本国内の大勢を占めていた。その最中で派兵の光景を、目の当たりにしたのである。 その時に出逢った、戦闘車両や火器類を満載した貨車の様子からは、それがベトナムに向かうものであろうことは、容易に想像できた。 通訳君も、それを私たち観光客に見られることを、多少は警戒したものと思われる。彼にとっては、事実は事実であるが、それを写真にでも撮られることが、“困ったこと”なのである。私たちの行動を、上部機関に報告しているだろうということは、それ以前から感じられていた。彼の仕事は、通訳であると同時に、私たち旅行者の監視役であり、行動の報告義務も、負わされていたのである。 彼らがその役割を持つことは、日本を出る前に、旅行社の添乗員から、詳しく説明を受けていた。 だが彼は、2週間以上に亘る中国旅行中に、私たちに不快感を与えることが、1度もなかった。それどころか、“日本の戦跡を訪ねたい”、“温泉に行きたい”、“中越国境の友誼関に行きたい”といった無理難題にも、根気よく応えようと、折衝を重ねてくれたのである。『政治的な問題には、触れないように』という添乗員の警告があったが、彼はそのような難問にも、真摯に応えてくれたと思う。 私たちの多くがカメラを持っていたが、彼への気遣いもあって、空港や港などには、レンズを向けないようにしていた。彼も、それは感じ取ってくれていたのだろう。 また、町中の光景でも、写されたくない場所では、レンズを向けると、ファインダーの中には、必ず彼の姿があった。数日間もその状態が続けば、お互いに写してはいけないところ、写されたくない国内事情というものは、阿吽のうちに、心得るようになる。彼のほうでも、私たちが興味を持ちそうな対象は、あらかじめ解るようになったのだろう。気心が知れてくると、そのようにして彼がファインダーに姿を見せる機会も、少なくなり始めた。 彼も私たちが、悪意を持って対象にレンズを向けることがないことを、認め始めたということでもあった。 ☆ ☆ ☆ ☆ その数日前に、国内便(ソ連製を改良したような、B727によく似た旅客機だった)の窓から空港を見たときに、その空港を取り巻くように、数十機の複葉機が並べられているのを、見下ろしたことがあった。 日本ではほとんど目にすることができない機種が、まだ現存して、活用されていたのである。どうにかして撮影したかったが、わずかに開けた窓のブラインドを、撮影のためにさらに引き上げたら、それ以降の通訳君との信頼関係は、築くことができなかったことだろう。 ☆ ☆ ☆ ☆ そのような経緯があったので、このときに彼を個室に呼んで、ベトナム侵攻についての、中国側の意見を聞くことができたのである。 彼の話によれば、「ベトナムがあまりにも自分勝手な行動をするので、中国が少しお仕置きをするのです。ベトナムを滅ぼそうとか、奥地まで攻め込もうと言うことではありません。期間を決めていますから、その間だけお仕置きをしたら、間違いなく引き上げます。大きな戦争になる心配はありません。」ということだった。 今では、その中越国境紛争が、どのような理由によって起きたのか、記憶が定かではない。しかし彼の言葉は、中国の考え方として、その時の私を、十分に納得させるものだったのである。「日本では、中国があれほどの軍隊を奥地まで派遣してしまったら、簡単に引き上げることができない。だから紛争が長期化するだろう。というのが、日本の軍事評論家たちの意見であり、政府を含めた共通の認識である。」 このように伝えると、彼は、「中国は、引き上げると発表しているのですから、どんなことがあっても、その時までには引き上げます。心配はありません。」と答えるのである。 帰国するまでは、納得しながらも、『彼が中国政府の意思を反映する存在だから、そのように言い逃れているのだろう』という気持ちも、頭の中を、大きく占領していた。 その杞憂は、帰国して間もなく、現実のこととして払拭されたのである。日本のニュースは、まだ“中国が引き上げ時を誤ったのではないか”と、報道していたのだが、通訳の彼が私たちに話した、まさにその期日通りに、中国軍は総ての兵力を、ベトナム領から撤退させたのである。 まだ若かった、私ごときが中国の若者から得られた情報でさえ、日本のニュースよりも、正鵠を得ていたのである。日本の報道機関は、そしてそれよりも日本の外務省は、一体何の情報収集をしていたのだろうか。 あの当時から、今もまだ、日本外交の心許なさは、そのまま続いているように思われる。 私が出逢った列車は、兵器と兵員を満載して、ベトナム国境に向かっていた。日本の在外大使館は、情報収集という意味において、常時戦場に、身を置いているはずである。日本大使館だけが、竜宮城の中にあるのではない。 私が出逢った列車に乗せられていた若者たちは、誰もが、表情を失っていた。通訳君が見せた笑顔は、その誰も持っていなかった。隣りに座っている仲間とも、言葉を交わしている様子も、窺えなかった。 私たちが彼らを見ても、彼らから向けられる視線はなかった。うつろな目は、ただ虚空に向けられているようだった。何を想うのか、焦点の定まらない目は、戦場に赴く彼らの気持ちを、何も語る必要がないほどに、私に強く語りかけてきた。 彼らが行く戦場は、泥沼化するものでもなく、戦死の危険性も普通では考えられないほどに、低いものだったはずである。それでも戦場に“絶対”はない。徴兵されたのだろうが、彼ら兵士には、国家の“ひとつの駒”として働く以外に、選択の余地はない。 戦場に行くということは、人の心を、あれほどまでに圧殺することなのである。 中国国民にとってのベトナムは、日本人が考えるベトナムとは違った意味がある。彼ら中越人民は、“兄弟意識”を共有しているらしいのである。“同胞が戦う”というむなしさを感じるからこその、彼らの無表情だったのかも知れない。 あの紛争では、相互に犠牲者が少なかった。 あの無表情で戦場に向かった若者たちは、無事に帰国できただろうか。1兵卒に過ぎない彼らが、高級官僚に昇る可能性はあるのだろうか。戦争のむなしさを知る若者が、指導者になる国が、これからの世界平和を、担ってくれるのではないだろうか。
2003年02月22日
知床連山の雪は消えていたが、宇登呂(うとろ)の風は、まだ冷たかった。高台からは、漁港に出入りする漁船の姿が、絵のように見えている。 この小さい集落を尋ねる途中で立ち寄った芽室(めむろ)でも、まだ野生のスズランが咲いているくらいで、本格的な花の季節には、間があるようだった。 札幌の、花に埋もれたきらびやかさとは別世界の、観光とは無縁の表情が、そこには漂っていた。 足元を確かめながら、ゆっくりと、港町に降りた。漁港は、深い底まで見通せる澄んだ碧水が、キラキラと陽光を跳ね返していた。まだ冷たそうな、硬い輝きだったが、その中にも、温み始めた柔らかなうねりは、感じられた。波音が、ピチピチと、岩壁を叩いている。 船着き場から水中を透かしてみると、小さい魚影が、そこここに見える。その種類は知らない。 時に、白く鱗光を放って、反転するものがいる。 釣り心が疼いたが、天候を考えると、糸を垂れるのは惜しい。撮影にもってこいの日和なのに、ここで時間を浪費しては、後悔することになりかねない。明日の天気は、知れたものではない。 カメラと三脚を肩に、フィルムはポケットにねじ込んで、集落のあちこちへ、そしてまた港を見下ろす岩山へと、歩き回った。 この集落を訪ねるのは、何度目だろうか。今回は、前年の夏に続いて、また訪ねたのである。 夏の知床は、若者たちが押し寄せて、町の人と話をする隙もない。だが今回は、まだ観光客も、わずか数人に過ぎない。 土産店も、準備をやる気がなさそうに、所在なげだった。 昼時になっても、食堂にも活気が生まれない。虫の羽音さえも、物憂げに聞こえる。そんな港町の、土産店を兼ねたある食堂に入って、ストーブの傍に席を占めた。「いらっしゃい。お客さん、今来ても、花は咲いてないし、見るものもないでしょう?」「ええ。去年も来ましたから、今年は静かな知床を見たいと思って。」「どちらからおいでになりました? 東京からですか?」「横浜からですが、東京からでも、あまり変わらないかも知れませんね。」「東京って、ビルがたくさんあって、凄い都会なんでしょう?」「でもうちは横浜の外れですから、そんなに大きいビルもないんですよ。」「テレビで見ても、ビックリするようなビルがどこまでも続いてて、凄いなあ! って、驚いてるんですよ。」「まだ。行ったことはないんですか?」「子どもが東京に、修学旅行で行ったことがあるんで、話は聞いたことがあるんですがねぇ。 お祖母ちゃんなんか、この知床からだって出たことがないんですよ。」「奥さんは、札幌は? 東京も、札幌と似たようなものですよ。」「札幌も、行ってみたいと思ってんだけど・・・。旭川までなら、行ったこと、あるんですよ。札幌は、もっと大きいんだって、聞いてんだけど、そんなに大きいですか?」「旭川も、大きいですけどねぇ・・・。」 北海道が広いのか・・・。日本にいながら、まだ北海道の、それも知床の周辺から、離れたことがない人がいる。 この自然が、今の生活が、人世の総てだった人がいた。そして今も、それを総てとして、生活をしている人がいる。叶えようと思えば叶えられる“夢”を、胸に秘めたままで、今を生きている人がいる。 それも人世。そこで不足を感じなければ、それも幸せな人生に違いない。閉塞された世界の中でも、外界を“夢”としてしか捉えなければ、夢は夢のままで終わる。この知床の地は、閉塞されてはいない。この奥さんも、夢を叶えようと思えば、何時でも出られる。東京にも行けるだろう。 昨年この宇登呂を訪ねたときには、この店先に、可愛らしいヒグマの子が、鎖に繋がれて、無邪気に遊んでいた。その子熊に会いたくて、今年もまた、ここを訪ねた。何もない季節の知床を訪ねたのには、そのような意味もあったのである。 その子熊の姿が、今日は見えない。「昨年の夏に来たときに、可愛いヒグマがいましたね?」「ああ、あの子ね。まだ子どもだから、じゃれて可愛かったでしょ?」「ここで生まれたんですか?」「そうじゃないんですよ。猟師さんが撃ったヒグマが母熊で、傍に子どもがいたものですから、可哀想だと言うことで、うちで飼っていたんです。」「今は、動物園にでも?」「食べちゃったんですよ。」「え? 何が? 何を?」「人に慣れすぎて、うちの旦那にじゃれついたんですよ。その時に、ズボンに爪を引っかけて、破いちゃったんです。それで旦那が怒っちゃって、『食っちゃえ』って言うことになって・・・。済みませんねぇ。」「野生の熊ですから、大きくなると、手におえなくなるでしょうからねぇ。」「まあねぇ。お客様に怪我でもさせたら、大変ですから。」 昨年は、あんなにも愛らしかった子熊だが、大きくなってからのことを考えれば、そのまま飼い続けることはできないと、判断されたのだろう。それとも、夏の間だけ客寄せに利用して、オフシーズンには“鍋”にして暖まるつもりだったものか。 いずれにしても、厳しい大自然の中で生きている、人と自然との生業の、ひとこまに過ぎないことなのだろう。 美味しかったか? とは、聞き損なってしまった。 その夜は、漁り火さえも遠くに小さく光る、宇登呂漁港の外れの民宿に、宿を求めた。「去年の夏は、泊まるところを探すのも大変でしたよ。今は空いてて、いいですね。」「この季節が、一番いいでしょ? 夏の間は、どこの民宿も、稼ぎ時ですから。一杯に詰め込んでしまうんですよ。」「去年は、3段ベッドの相部屋でしたよ。」「2ヶ月半で、1年分を稼ごうって言うんだから、そうなりますね。」「そんなに稼げるんですか?」「2000万円以上は、稼ぐでしょうね。アキアジ(鮭)の漁業権を持っている家では、そんなに頑張らないんだけど、漁業権を持たない家は、民宿だけが頼りだからねぇ。」 この民宿が、夏にはどのような対応をしているのかは、知らない。だが、オフシーズンの宿は、夏のような殺気だった雰囲気が無く、くつろいだ気分で、泊まることができた。 あの漁業権の話は、今も健在なのだろうか。そして、あの時の奥さんは、札幌見物をしただろうか。またどこかに、鎖に繋がれて無邪気に遊んでいる子熊は、いるのだろうか。 北海道は、広い。
2003年01月31日
粉雪が、横殴りに吹きすさぶ、津軽海峡に面した狭い道を、竜飛岬に向かって走っていた。正月3日のことだった。 出発した青森市から、粉雪は降り続いていた。五所川原市の田園地帯では、このままクルマごと別世界に吸い込まれるのではないかと思うほどに、眼前が、白い朧の風景に溶け込んでいた。 その朧の世界は、海沿いを走るようになると、いよいよ夢の中を彷徨う光景に、切り替わり始めた。蟹田の高台からかすかに望める海峡は、鉛にうっすらと碧を流したような色を見せて、ゆったりとうねっている。 降りしきる雪は、その海面に絶えることなく溶けて、さらに降り続けている。 色彩を失った雪道を辿るドライブは、やがて断崖に押しつぶされそうな、小さい集落に差し掛かった。源義経伝説が残る、三厩(みんまや)集落である。平泉から落ち延びた義経は、この地から、蝦夷を目指して旅立ったという。それは、いつのことだったのだろうか。このように降りしきる雪の中を、わずかばかりの主従で、津軽海峡の荒海に、船を進ませたのだろうか。 それが伝説に過ぎないとは心得ていても、寂れた漁師村は、ひとときを夢幻の世界へと、誘ってくれる。 秘境と言っても過言ではない、ひなびた漁村は、雪と共に遙かな昔に、意識を運んでくれた。義経主従が、苫屋から、ついっと顔を覗かせても不思議はない。時の流れが止まったような世界が、そこに見られた気がしたのである。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 袰月(ほろつき)集落の路面は、舗装面が見えていながら、よく整備されたスケートリンクのように、見事に凍結していた。私の車は、その道を、恐る恐る進んでいた。方向変換も、思うに任せない状態で。 ゆっくりと進む前方には、材木を満載した大型トラックが、ゆるゆると走っていた。街の中で、そのトラックが停止した。知人を見つけて、今日の出来事を、話し始めたらしい。 私がそのトラックの脇をすり抜けるには、道が狭すぎた。クルマを停止させるしか、仕方がない。だが、私のクルマは、ブレーキを踏んだ状態で、トラックのお尻を目がけて、滑っていく。 止まらない。 たちまちのうちに、私のクルマは、トラックのお尻に挨拶をしてしまった。降りてフロントを見ると、大きめのえくぼができている。だがトラックの運転手は、窓を開けて、談笑に余念がない。 私は、先を急ぎたい。 それよりも、怪我人がいないにしても、交通事故である。すぐにクルマを降りて、件の運転手に、お詫びをした。「済みません。ちょっとクルマが滑って、そちらの後部にぶつかったんですが。」「そうかい? わ(私)は、わがんねがったな。こっちはトラックだがら、傷も付くめ。どれ・・・。」 彼は、確認のために、降りてきた。「な? 傷もねべ? あんだのクルマのほうが、被害が大っきんじゃねが?」「まあ、ぶつかったのはこっちですから。」「いやいや、わ(わたし)が道の真ん中で、車を停めてで、悪がった。こっがら先は、凍ってる場所が多いがら、チェーンを付けたほが良いよ。」「そうですか。有り難うございます。早速、チェーンを付けていきます。」 恐れ入ったことに、トラックは塗装にさえ、傷もなかった。私のクルマは、嬉しそうなえくぼが、深々と付いたというのに。 彼は、私がチェーンを付け終わるまで、知人との会話に、花を咲かせてくれていた。私を先に行かせてくれる、配慮だったかも知れない。 その集落を過ぎると、さらに小さい漁村が、険しい断崖にへばりつくように、現れた。その集落は、一年中、全く太陽の日射しを浴びることがない集落だという。 吹雪の中では、陽光の恩恵は、あってもなくても同じだが、太陽の日射しを味わったことがない集落というのは、想像もできなかった。何の因果か、そこにも人の生活はある。小さい入り江の便利さを、日射しの恩恵よりも優先させた結果だったのだろう。 この集落で生まれて、この集落で遊んで育つ人もいる。それが不幸せというのは、他の世界を知っているからなのだろうか。ここに住む人たちは、特に不自由は感じないのだろうか。逃げ出したい衝動に、駆られることがあるのだろうか。 そんなことを思いながら、竜飛の岬に到着した。灯台は、広い岬の台地上にある。雪は、まだ降り続いている。その雪は、風に吹かれて、積もることさえできない。 クルマから外に降り立ったとたんに、強烈な寒風に全身を包み込まれた。充分な防寒着は用意していたが、顔は寒風に叩かれるままであった。冷気は、顎を、まず凍らせた。 青森の言葉が、津軽の言葉が、なぜこれほどに省略されているのか。その原因が、この寒風で理解できた。顎が自由に動かなくなって、余計な言葉が省略されてしまうのである。自然に、口も重くなる。 台地から足下に目をやると、集落が雪の切れ間に見えていた。正月というのに、国道を歩く人影も、見られない。国道は、集落の先から、階段になって灯台がある台地に向かって上る。間近な海上に、最涯の地を守るように、帯島が浮かんでいる。 集落の中に、チラリと赤い色が見えた。目を凝らすと、強風に千切れそうにはためく、国旗だった。 誰も表に出ない村。寒さにしばれる村。その村にも、正月は来ている。人の姿が見えず、禅僧のように佇む灯台と、雪を乗せた屋根が並ぶだけの集落。 そこに見つけた日の丸は、その一つの赤い色に、村人の気持ちを凝縮させているようで、私の気持ちを温めてくれた。 今までも、そしてこれからも陽が当たることがない集落でも、家庭では、暖かい正月を迎えたことだろう。 風は相変わらず吹きすさんでいるが、いつしか雪は止んでいた。鉛色の海峡にも弱い日射しが差し込んで、対岸には下北半島が、遠く、重く横たわっていた。※ この5年後に、青函トンネルが完成した。今では、強風を活用した風力発電が、竜飛岬観光の目玉になっているという。 あの時の静けさは、今も残されているのだろうか。工事の人たちが去って、今はまた、静かな村に戻ったのだろうか。※ 帯島は、島に帯を掛けたように、ふたつに割ったような姿から、このように名付けられている。 あの岬を、しばらく訪ねていない・・・。
2003年01月15日
雪国の大晦日だというのに、山頂は薄雪が、張り付いているだけだった。 私は、その山頂にいた。山頂とは言っても、ドライブウェイが通じていて、それほど高いわけではない。彼方には男鹿(おが)半島が見渡せて、足下には干拓地・八郎潟が広がっている。 この山は、寒風山(かんぷうざん)という。その名にふさわしく、吹きすさぶ北風は、雪が積もることを許さないほどに、強烈なものだった。そして雪雲も、空を覆い尽くしていた。 しかし、この風こそが、秋田の冬、東北日本海の冬を演出するために、選ばれたような存在なのである。この風があるから、そして長い冬があるから、春が、輝く春が嬉しいのである。 このような大晦日に、この北国に一人、私はクルマを走らせて来た。その目的は、男鹿半島にあった。 このときも、例によって宿の予約をしていなかった。だが撮影の都合があって、宿は確保しておきたい。男鹿半島には、公共の宿泊施設が、2ヶ所ほどある(当時)ことを、確認していた。 大晦日に催される行事があるので、場合によっては、宿が見つからないかも知れない。しかし1ヶ所の国民宿舎は、温泉地から離れている。何とかなるだろうと、見当を付けていた。 男鹿半島の名所を巡る前に、その国民宿舎を訪ねてみた。朝のことである。予約なしでも、部屋が空いていれば、午前中の予約で、部屋を確保できる規則になっていた。「お早うございます。今日は、泊まれますか? ナマハゲの取材で来たのですが、どうでしょう?」「何人ですか?」「一人ですが・・・。」「一人ではちょっと・・・。」 宿の受付が、口ごもる。「部屋は、空いているんですね?」「ああ、空いてんだげど、一人ではなぁ。」 どことなく、口調もぞんざいになり始めている。「ここは、国民宿舎ですよね? 一人では泊めないんですか?」 当方の口調も、心なし、強くなる。気持ちの中では、宿が見つからなければ、車の中で夜明かしかと、覚悟をし始めていた。このようなことを想定して、零下20度くらいまでなら、外でも寝られるような装備だけは、準備していたのである。「実は、今日はお客さんが一人もいないんです。済みません。」 私は客のうちには、数えられないのか? と思いながらも、宿の都合も考えてしまった。つまり、一人の客のために、数人の従業員を確保して、館内の暖房や照明も整えるとなると、“経営”としては、成り立たなくなるだろう。 その時には、そう考えて引き下がったのだが、大晦日の冬の夜に、宿もなく放り出された旅行者は、途方にくれることになるだろう。宿側では、それを、全く考慮しなかった。“国民宿舎”という存在理由を、放棄してしまった訳である。 いずれにしても、国民宿舎には、泊まれないことになった。急いで温泉街に戻って、宿を確保する事にした。 だが温泉街の旅館やホテルは、流石に空室はほとんどなかった。温泉街を中心にして、ナマハゲの行事が繰り広げられる。団体客の予約で、どこの宿も満室だった。そこで、宿泊案内所に行って、宿を紹介してもらうことにした。「小さい宿ですが、いいですか?」 どうにか、空いている宿を見つけてくれたようだ。「助かります。」 訪ねた宿は、確かに大きくはなかった。だが、家庭的な温かさを感じさせる、飾り気のなさが、好ましかった。「国民宿舎で、断られましてね。」「うちも、本当は予約でいっぱいだったんですよ。」「いや、あちらでは、『お客さんが一人もいないから』と、断られたんです。」「あらぁ・・・それはビックリ。」「助かりましたよ。今夜は、よろしくお願いします。」「はい、はい。夕方まで、観光してらっしゃい。」 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 宿の夕食は、男鹿半島名物のハタハタ(ブリコ)、しょっつる鍋(塩汁)も楽しませてくれて、安価なのに、不足を感じさせないものだった。 ハタハタに関する知識は持っていたが、宿のかたが、改めて説明をして下さった。「昔は、ハタハタは貴重品で、領主の許可がなければ、食べられなかった。それでもどうにかして食べたいので、『ハタハタではなくて、ブリの子ども(ブリッコ)だから食べても良い』ということにして、食卓に乗せた。そこから、“ブリッコ”の名前が付いた。」というのが、概略である。 ついでに加えれば、冬の雷が鳴るころに捕れる魚なので、“カミナリウオ”の別名もある。漢字では、魚偏に雷の旁を組み合わせる。 -- そのブリコだが、卵の食感は、世界の珍味と言われる“キャビア”にも似て、しかもキャビアよりも美味しいというのが、私の印象である。--「港も見てきましたが、だいぶブリコの水揚げがありましたね。」「昔は随分獲れたんですが、あれでも漁獲量が減って、困っているんですよ。間もなく、禁漁になると思いますから、当分は宿でも、お客様に出せなくなると思います。少しだけでも、確保したいのですがねぇ。」「あれでも少ないんですか。私が食べられたのは、運が良かったんでしょうね。」「そういうことにならないと、良いんですが。」-- この数年後から、ハタハタは禁漁になり、保護されることになった。その効果があって、近年にまた、漁業が再開された。今年は、久しぶりの豊漁だったそうである。-- ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夜になって、ナマハゲが出る時間になった。山奥の神社から降りてきたナマハゲが、ホテルを回って、宿泊客に見せて歩くはずだった。宿のかたに、念のために、ナマハゲが来る時間を確認した。 ところが、この宿には、来ないのだという。「大きいホテルには来てくれるんですが、うちみたいな小さいところには、来てくれないんです。」と言う。 宿のかたが大きいホテルへ電話をかけて、見られるように手配をして下さった。 お陰様で、ナマハゲが来る前に、そのホテルで待ち構えて、撮影ができた。ナマハゲの後を追いかけて、民家にまでお邪魔をして、深夜まで撮影を続けることができたのである。 これもひとえに、偶然お世話になることができた、親切な旅館のお陰である。それと同時に、『一人では泊められない』と、不思議な理由で断ってくれた、国民宿舎のお陰でもある。 別に信仰心が篤いわけではないが、このような成り行きこそが、“同行二人”の顕れなのではないだろうか。大晦日の、雪国の夜が、寒さを感じさせなかった。 身体は冷え切ったが・・・。 大晦日の、忘れ得ない、ひとつの思い出である。
2002年12月30日
一面の海が、どこまでも、どこまでも白く染まっていた。 平滑な氷の海が広がっているものだと思っていたのだが、現実に目の前でその氷の原野を眺めると、非常に多種多様。変化に富んだ氷の集合体であることが、初めて実感を伴って、目に飛び込んできたのである。 札幌の宿で、流氷の知らせを受けたのは、2月の半ばだった。 その時にはまだ流氷は、オホーツクの沿岸から、遙かな沖合に顔を見せただけだった。その氷の大群がいつ接岸するのかは、現地の人にも解らないという。まだ数十キロの沖合にいるものが、一夜にして接岸することも、珍しくはないという。 兎に角、北極海から遙々と海流に乗って漂う流氷が、オホーツクの沿岸近くまで、押し寄せてきていることは間違いがない。 急遽、札幌滞在を切り上げて、紋別を目指すことにした。荷物は、10キロ強のカメラ一式と、やや大型の三脚が1本。それを肩に掛けて、急行列車に乗り込んだ。急行とは名ばかりの列車は、降りしきる雪の中で、立ち往生をしながら、時々思い出したように走り、そしてまた止まった。 いつ目的地に着けるのか、当てのない旅になってしまった。同行の乗客は皆、列車の遅れに馴れているものか、一様に黙っている。時々押し殺したような話し声が聞こえてくるが、物音が雪に吸い込まれてしまったかのように、その声が、すぅーっと静けさの中に溶け込んで行く。 待ちくたびれて、いつの間にか眠っていたらしい。慌てても、列車が走ってくれなければ、流氷の海にたどり着くことはできないのである。 ぷぅうぁあ~ん 軽い警笛音が機関車のほうから聞こえてきて、“ゴトン・・・”と、列車が動き始めた。車窓から見える景色は、まだ降り止まない雪と、枝に凍り付いた綿帽子ばかりである。その景色を見ていると、向かいに座っていた年輩の女性から、そっとミカンが差し出された。「ひとつ、どうですか。退屈でしょ?」「ええ、いつ着くのか解りませんねぇ。」「こんなものですよ。2時間遅れてっから。あんちゃんは、どっからおいでなさったかね?」「横浜から来たのですが、流氷が来そうだと聞いて、見たくなったんです。」「横浜からじゃ、こんだ雪は珍しいでしょ。汽車が遅れんのは、いつものことだから、落ち着いて構えたらいいわ。」「仕方がないですからね。流氷が見られれば、それでいいんです。」「流氷かい? 今年はもう来るんだって?」「ええ、近くまで来ているそうです。接岸しているといいんですが。」「難しいかも知れねえねぇ。流氷は、接岸したって聞いてから行っても、一晩でまた沖まで離れてっことがあっからねぇ。」「そんなに、着いたり離れたりするのが、早いんですか・・・。」「ああ、紋別から知床まで歩いてった人があるそうだけど、岸から氷が離れてしまって、大騒ぎになったこともあるかんねぇ。」「うっかり、上に乗られませんね。」「それはもう、用心したほうがいいなぁ。氷には隙間があって、そこから落ちたら、助からねえから・・・。」「解りました、気を付けます。有り難うございます。」 そんな話をしながら、またうたた寝をしているうちに、どうにか列車は、網走にたどり着いた。 冬の網走は、人通りも寂しくて、開いている店も、夕暮れ時にしては、活気が感じられない。兎に角、宿を尋ねることにした。札幌出発前に予約をしていたのだが、駅から近いということが解っているだけで、方角も分からない。 駅前で宿への道を尋ねながら、凍てついた道を歩いて、宿に着いた。宿は、灯りも少なくて、寒々とした館内が、いよいよ寒そうに感じられた。安い宿を探したので、こんなものだろうと諦めて、網走の一夜を、『刑務所ならこんなものか?』という感覚で楽しんだ。 打ち放しのコンクリート壁が、高い天井の裸電球に照らされて、無機質に光っている。その壁を伝って、小さい風呂に入り、取りあえず体を温めてから、布団に潜り込んだ。 翌朝は、素晴らしくまぶしい晴天だった。宿で確認したところでは、昨夜のうちに流氷は、接岸しているという。 絶好の流氷撮影日和である。落ち着かない気分で朝食を済ませて、また列車に飛び乗った。今度は、普通列車である。 列車から降りた“小清水原生花園”は、一面の雪原の中に、小さいハマナスの赤い実を、隠していた。陽光に輝く、萎み加減の赤い実が、白一色の中で、可愛らしいアクセントになっている。 時々吹きすさぶ風が、積もった雪を地吹雪に変えて、巻き上げている。 そのハマナスが残る雪原の小高い丘を越えると、一気に流氷の海が、眼前に広がった。右手遙かに腕を伸ばした知床半島まで、確かに白い世界が繋がっている。 その流氷をめがけて、歩道らしい小径を、駆け下りた。 今、私の足元から、オホーツクを埋め尽くして、流氷の大平原が広がっている。時には巨大な、そして時には小さい流氷が、押し合いながら、岸に乗り上げようと、ひしめいているのである。 その流氷に、そっと足を踏み出してみた。足元は、意外にしっかり感のある巨大な氷の固まりが、連続している。 その氷たちが、波の音さえ消してしまったオホーツクの海で、静かに泣いていた。 ギィーー! キシキシ・・・ ギシキシ・・・ 耳を澄ますと、微妙な音をさせて泣く・・・。こんな音で流氷の海が泣いていることを、その時に初めて知った。さらには、平原のように見えながら、大小の氷たちがひしめき合っていることも。またその氷たちの間には、暗い碧の海が透けて見える場所が、いくらでもあることも、初めて知った。 暗い海が覗ける透き通った氷は、どれほどの厚味があるのだろう。乗っても、割れる畏れはないのだろうか。 氷たちの泣き声は、無謀にその上を渡ろうとする人間への、警告のようにも思われた。 この足元の、白い大平原の下に・・・、暗い碧の冷たい海の中に、命が育まれているのである。 風の音、氷がきしむ音が聞こえるだけの、静寂の世界。その内側には、別の世界が広がっているのだ。私のほかには、見渡す限り・・・誰もいない。だがこの足下には、無数の命が生きているのである。 流氷の海は、不思議な感慨を、私に与えてくれた。
2002年12月11日
パリの空港でレンタカーを借りて、出発した。 前回は馴れないこともあって、自分が向かう方向さえも、地図を確かめてもなお、不安があった。だが今度は、フロントでもらった簡単な地図を見ただけで、一応はオランダ方面の見当がついていた。 高速道路にも、スッと乗り入れた。 そこまではよかったが、高速道路をぐるりと回ると、さて、方向感覚が、またもや怪しくなってしまった。何故こうも、方向感覚が狂うのだろう。 日本国内ならば、太陽を見るだけで、どこでも間違いなく走れる自信があった。それなのに、ヨーロッパでは、南北の感覚は狂わないのに、東西の感覚だけが、逆になる。 東西が逆になるということを意識し始めると、それを修正しようという意識が働いて、いよいよ混乱に拍車をかけてしまう。 これは、私だけの感覚の狂いなのだろうか。どうも、日本とちょうど逆の地域にいることが、感覚の狂いを生じさせる原因になっているようだ。 不思議なことだが、日本が存在する方向を、自分の中で東側に置いてみることで、どうにか方向感覚が戻ってきたのである。日本とは反対側に位置するヨーロッパなのだから、そこから見る日本は、東であると同時に、西であっても不思議ではない。 このときに日本を東側に置いたのは、今にして思えば、世界地図による教育の結果であるように思われる。日本の西側、アジア大陸を越えたところに、ヨーロッパが存在していた。そんな教育が、身に染み込んでいたのである。 この感覚の狂いはまた、ヨーロッパから見た日本は、東にもあるが西側にもあるという、微妙な位置関係にあったためだと思われる。意識の中では『日本は東』なのだが、身体が察知する現実の感覚は、東西のどちらにも日本があるということなのである。 そんな迷いは、3日も走れば解消される。そうなれば、簡略地図を見ながらでも、走ることができる。日本の『地図と道路標示の関係』と違って、ヨーロッパの道路は、非常に合理的に表示されている。 地図の表示と、道路の行き先表示とが、見事に一致しているのでだ。途中で、表示が変わることはない。目的地まで、一貫して、同じ表示が続けられているのである。 目的地名さえ覚えておけば、迷うことはない。 そのようにして走っていたある時に、車を停めて撮影していた私に話しかけてきた、ご夫婦がいた。 ドイツ人のようだと、見当を付けた。フランス語でもなく、イタリア語、スペイン語のどれとも違う。もちろん、英語とも違う。アクセントの固さから、ドイツ語らしいと、見当を付けたのである。 しかし、何の用事だろうか。 彼らは、私に広げた地図を見てくれという。どうやら、道に迷っているらしい。日本から来て、地図を頼りにドライブする私に道を尋ねるとは、よほど彼らも困り果てたのだろう。ボンネットの上に広げられた地図を見て、まず現在地を、彼らに示した。そしてようやく聞き取れた、彼らの目的地を探してやって、次は道路の説明である。 彼らはドイツ語で、私はたどたどしいフランス語で、わからない道を教えて、それを聞き取ってもらうのである。思い返せば、何とも不思議な情景である。 苦労の末に、どうにか彼らに、道を教えることができた。 嬉しそうに笑って握手を求めてきた彼だったが、私には何を言っているのか、理解することができなかった。当然出てくると思われる『ダンケ シェン』という言葉も、含まれていなかった。あの言葉は、戦争映画で覚えた特殊な言葉だったのかもしない。しかし私も、彼の手を、強く握り返した。 彼らはヨーロッパ人である。東西の方向感覚はあるだろう。私に道を尋ねて、本当によかったのだろうか。 私が西も東もわからずに、ヨーロッパを走り回っても、不思議なことではない。ヨーロッパにも、西も東もわからずに走る人が存在したのだから。 ヨーロッパ旅行中に、その後も、何度か道を尋ねられた。私の中では、その頃には方向感覚が、固定され始めていた。 またヨーロッパに行ったときには、同じように方向感覚の迷いが生じるのだろうか。
2002年11月25日
今から30年ほども、昔のことになろうか。(秋田県)田沢湖畔を回り込んで、駒ヶ岳が見える高原にたどり着いたときには、夕暮れの気配が漂い始める頃になっていた。まだ夏の名残の風が、心地よく吹き抜けている。ススキの穂が、夕焼け雲の色を映したように、うっすらと赤く染まって波打っている。 その高原の遙か彼方で、駒ヶ岳(秋田駒)が噴煙を上げている。つい先日、突然噴火を始めたのだ。 噴煙に混じって、時折大きく赤い溶岩が噴き上げられる。周囲で見ていた人々から、そのたびに大きな喚声が上がる。人家から離れた山奥の火山だから、こんな悠長な見物ができる。ジュースや弁当売りなどが出てきても不思議ではないほどの、人の群れになっていた。 夕闇がたれ込める頃になると、噴石の色は、いよいよ赤味を鮮明にさせて、夜空に跳ね上げられ始めた。その大きさが大きいほど、見物人の喚声も大きくなる。 その噴石は、絶え間なく吹き上げられるわけではなかった。5分ほど吹き上げられると、しばらくは休憩に入るのである。その休憩中は、人々の雑談に花が咲き始める。先ほどの噴石の大きさについて、どこまで上がったか、どこまで飛んだかといった、他愛もないものだが、興奮に引き込まれそうな、熱気が漂っていた。 次の噴火までの時間を、誰からともなく囁き始めるようになった。何度も見ているうちに、規則的に噴石を吹き上げることに、誰もが気づいたのである。 山頂まで直線で3キロ以上は、離れていただろうか。駒ヶ岳は、見物していた私達の耳を、『クゥォオーー!』っという息吹で引きつけた。その音が聞こえると、間もなく噴火が始まるのである。 噴火見物は、翌朝まで続いた。山が朝日を浴びると、噴石が黒く見えるようになる。花火見物に似たようなもので、黒い噴石や噴煙などは、見ていてもつまらないと言うことなのだろう。人々は、思い思いに山を下りた。 地球の息吹。それは地球が生きていることの証だろう。周期的に繰り返す息吹は、地球の呼吸。地球は15分から20分に1回というサイクルで、呼吸を繰り返している。 温泉地の間歇泉なども、同じようなサイクルで熱湯を吹き上げているはずである。 生きている地球。私達はその地球の身体を借りて、“束の間の生”を楽しませてもらっている。 15分に1度の息吹。私達の生命も、そのサイクルの中で営まれているのだろうか。
2002年11月03日
運河に沿った細い直線道路は、どこまで続いているのだろうか。行く先が狭まり、その先を見ることはできなかった。 運河の脇には、巨大な風車が立ち並んでいる。 先が消えるような歩道の遙か彼方に、ぽつりと黒い影が浮き上がった。ゆっくりと影が近づいてくる。2人の男性だった。ほかには、見回す限り、人影もない。空の雲が白い。 緑の土手と澄んだ流れ。動きを止めた風車の群れ。 風がゆったりと、その日の雲の流れのようにゆっくりと、川の流れのようにゆったりと、時を刻んでいるようだった。 人影は私に近づき、やがて脇を通り過ぎていった。 こんなに素晴らしい時間、こんなに素晴らしい風景の中を歩いているのに、その2人はそれが何の感動も呼び起こさないかのように、互いの顔を見合わせて、仕事の話でもしているように、歩み去った。 また、人一人の影も見えない時間が戻ってきた。彼らもまた、この風景の素材の、ひとかけらに過ぎなかったのだ。彼らにとっては、この雄大な風景が、生活に溶け込んだありきたりのものでしかないのだろう。 ここオランダのキンデルダイクは、地図で見ると名を知られた観光地のはずなのだが、レンタカーで訪ねてみると、本当にここなのかどうかと、疑いを持ってしまうような、さりげない佇まいである。 小さな地名表示があっただけで、看板もなければ、土産店もない。風車の絵はがきを買いたくても、見渡す限り、店の1軒もない。そして、訪れる観光バスも観光客の群れもいない。看板も見られない。ついに休憩施設も見つけられなかった。 日本の観光地をイメージに持っていると、そのまま知らずに通り過ぎてしまうだろう。『風光の保存とは、このようにしなければならない』という見本である。 日本は自然が豊かだといわれるが、その豊かな自然の中に、山の中腹にまで、大きな看板が掲げられている。雄大な自然の中に、スピーカーから音量をいっぱいに上げられた無意味な音がたれ流されている。 本当に人間の手を離れた自然の風光というものを、日本人は考えたことがあるのだろうか。 オランダの風車群は、人工物の結晶である。運河もまた、そして歩道もまた、人工物ではある。 だがそこに異質な色や看板を持ち込まないことで、自然の色、自然の風を、自然のままに見せることができている。 自然との闘いで得られた国土を、大切にしている心意気が感じられた。 多くの道路は、運河や水路の土手よりも低い場所を走っている。車を停めて土手に登らなければ、風車群を見ることなく、この名所を通過していたことだろう。 巨大な風車が小さく見えるほど雄大な風景は、ほかに何がなくても、見飽きることがなかった。風車のそばで草を食む羊が、米粒を4つに割ったよりも小さく見える。 広い風景の中で、電線も電柱の1本もない空が、白い雲がゆったりと流れる空が、高かった。 どこまでも、高い空だった。
2002年10月26日
木漏れ日が優しく、足元に積もった落ち葉を暖めている。その落ち葉を踏んで、私は日光の林の中を歩いていた。目指す滝は、その林の先にあるはずだった。 ただ黙々と、足元を見つめて歩く。 梢に残された枯葉は、冷たい風に吹かれて、今にもちぎれそうにカラカラと音を立ててしがみついている。いつもなら喧しい野鳥の声さえも、聞こえない。深まった秋から逃げるように、暖かい地方に渡っていったのだろうか。 踏みしめていた足元の枯葉から、たっぷりと吸い込んだ太陽の匂いが、立ち上ってきた。 この匂いは、どこかで嗅いだ匂い。そう・・・子供の頃に、両親と林の中を歩いたときの、懐かしい匂いだ。いつの間にか、私のそばには、いるはずのない両親がいた。一緒に枯葉を踏みしめている。カサカサと、乾いた音を立てて、カラカラと、風に吹かれる音を立てて。 滝を目指しながら、ツイッと林の奥に目を走らせる。子供の頃の思い出は、枯葉の下から小さい顔を見せている、キノコを探すことから始まっていた。無意識に、キノコを求めていたのである。 始めての場所で、食べられるキノコが簡単に見つかるはずがない。両親が私の耳元で、「ふふ・・・」と笑ったように感じた。日溜まりにさしかかっていて、ほの暖かい風が、耳元をそっと吹き抜けたのだった。 人の思い出は、どこかで意外なことが引き金になって、くるくると涌き出るものらしい。 枯葉の香りと乾いた風邪の音が、両親を、私のこの旅にも連れてきてくれた。帰宅したら、一緒に歩いた山道の話をしてあげよう。きっと、久しく暮らした故郷の野山に、想いを馳せてくれることだろう。 枯葉に呼び寄せられた私のタイムスリップは、滝の音で現実に引き戻された。 寂光の滝が、林の奥で、優しい姿を見せていた。この滝は、日光48滝の1つに数えられる、名瀑である。
2002年10月12日
高速道路を西へひた走り、近江商人発祥の里へ着いたのは、朝露で草が重く頭を垂れている時間だった。途中で仮眠を取りながらクルマを走らせてきたのだが、頭はまだ重い。 眠気覚ましにまず、安土城の東にある“観音正寺”を訪ねてみることにした。 地図上でも長い階段が続いて、観音正寺山の中腹に位置する寺である。朝飯前のひと運動には、手頃だろうと判断したのだ。 地図には、階段のほかに寺へ登る道はない。 麓の、まだ無人の駐車場にクルマを置いて、深く樹木が繁った参道を登り始めた。石段は、初めは端正に、やがて崩れたような野積みの状態が、切れ切れに続くようになった。 山中をくねりながら、折れながらどこまでも続く道は、その果てを知らないようにも思えた。朝飯前に、と思って始めた軽い運動は、とんでもなく重労働になり始めていた。ポケットの中を探り、わずかに残っていたチョコレートを口で溶かしながら、さらに登り続けた。 途中で引き返したくなるほどの、長い石段を登っている途中で、石段の数を数えていなかったことに気づいた。これほどの石段を、どれほどの人が力を注いで、築いたのだろうか。 カメラは肩に重い。だがお寺にたどり着けば、自動販売機ぐらいはあるだろう。お寺までの距離を示す道標は、距離が短くなったかと思うと、またもとに戻ったりする。 次の角を曲がれば、お寺の尖塔が覗いているのではないだろうか。ここで引き返したら、次の角でお寺に着いたはずなのに、その直前で戻ってしまうことにはならないだろうか。『次の角まで、次の角を曲がったら・・・』という思いを繰り返しているうちに、ようやく巨大な寺の甍が、樹木の陰からその姿を現した。 こんなにも深い山の中なのに、巨大な伽藍を、堂々と構えている。 整備された参道ではあったが、巨大伽藍を維持できるほどの参拝者が、あの石段を今でも登ってくるとは、とても考えられない。 大きな山門をくぐり抜けて、静まり返った境内に、歩を入れた。 そこには、作業用やお寺所有のものを含めて、数台の車が停められていた。山内案内図が、そこにあった。 すぐそばに、駐車スペースがある。 私がクルマを置いてきたあの駐車場は、正門をくぐる、古来からの参道入口だったのだ。お寺の駐車場は、その石段を避けるように、山の東側を大きく迂回して、本堂伽藍のすぐわきに設けられていたらしい。 クルマで簡単に上れた山寺だが、飲料自動販売機の存在は、期待が持てた。 ところがなぜか、自動販売機の電源は切られていた。早朝だったためだろうか。工事中だったのか。 ほとんど飲まず食わずで、帰りの石段を下ることになったのである。せめて膝が笑わないように、ゆっくりと下ることに決めた。 今度は石段の数を数えながら。 石段の数は、1200段近くもあった。途中で崩れかけたり、石段かどうかの判別がつかない箇所もあり、正確な段数を数え切れなかったのだが、1200段以上は、確実にあったのである。 その石段は、そのどれもが中央がすり減って、深い窪みになっていた。限りない数の人々が、山中のお寺を目指した歴史が、ここに刻まれているのである。 今でこそ、ほとんどの参拝者がクルマで一足飛びに本堂を目指すのだろうが、往時は総ての人が、この道を譲り合い、助け合いながら、往復したのである。 これから先には、この石段が人々の足で磨り減らされることはないのだろうか。 50年、100年・・・それ以上の昔に刻まれた人々の思いが、ここに閉じこめられたように、残される。野鳥のさえずりに混じって、静かな山道に、石段から滲み出した人々の思いが、溢れ始めたように感じられた。 その感慨を破るように、ハイカーらしい服装の人が、石段を登ってきた。「お早うございます。早いですね。お寺までは、あとどれくらいでしょうか。 」「あと15分か20分くらいでしょう。お気をつけて。」「ほら、もう少しだって。頑張ろう。」 初めて出逢った人が、気軽に挨拶を交わしていく。 その昔も、このように挨拶を交わしながら、歩いたことだろう。クルマで訪ねては味わえない爽やかさを、古い石段の参道で頂戴した。 この人の足跡も、今この石段にかすかに、そして確かに刻まれたに違いない。 そしてきっと、私の足跡も。
2002年10月04日
乗鞍から木曽に向かって、夕暮れの山道を、ゆっくりと走っていた。 クルマは、檜が茂って昼でも暗そうな山道に、軽いエンジン音を吸い込ませて走り続ける。林の奥は、夕闇が重い幕を下げたように、暗さを増している。対向車も、ほとんど見かけることがない、山の道である。 スラロームの道、ヘアピンカーブの道。カーブが連続するその山道を、マイペースでリズミカルに運転するのは、楽しい。どこまでも、街路灯も人家の灯りもない山道が続き、対向車の有無はヘッドランプの明かりを頼りにすれば、間違いなく解る。路肩や倒木にさえ注意すれば、昼の道よりもずっと安全に走られる。 林の奥でチラリと動く陰は、野生動物だろう。クルマの前に飛び出して、ヘッドランプの光を目に溜めて、きらりと跳ね返す貂(てん)らしい小動物もいる。暗すぎて写真撮影はできないが、野生動物たちに出会えるのも、山岳夜間ドライブの楽しみの一つである。 いよいよ暗さを増した林の中に、どこからともなく弱い光が射し込んでいる。ヘッドランプの光とも違う。 光のもとをたどりながら、ふと梢の切れ目を見上げると、そこには月明かりにも負けないほどの、金星が光っていた。 宵の明星というには、遅い時間だった。新月なのか、月の姿は見えない。それが一層、明星の輝きを強めて見せた。金星がそれほど大きくて、それほど強い光を放つものだとは、そのときまで知らなかった。 子供の頃には、ごく普通に天の川が見られる環境で育ったのに、金星の輝きに、意識を向けた記憶はない。 周囲の星の輝きまでを奪ってしまった金星は、私のクルマを追うように、横から後ろにまわり、前に出て、まとわりつくように動いている。 一人で見るには惜しいような素晴らしい輝きが、私とクルマを包んでくれている。 林が切れた場所に車を停めて、ライトを消して外に出てみた。やはり、月は見えない。町の灯りも届かない山の中である。 その山深い路上にほんのりと、自分の影が落ちている。確かに、星明かりが見せてくれた影のようだった。 クルマの屋根でも、金星の光がまぶしく跳ね返っている。木曾街道に出るまで、明星との二人旅は続いた。 あの輝きは、地球に金星が、最も接近した年だった。今はもう、金星はいつもの輝きに戻っている。
2002年09月23日
海外の一人旅は、目的地の空港に着いたときから、緊張感に包まれる。 目的地が、日本以上の先進国である西欧諸国でも、その状態は大同小異である。私の場合は、空港到着とともにレンタカーの借り出し交渉を始めるから、なおさらのこと緊張感が高まる。 料金交渉から車種選定、排気量の選択など、盛りだくさんの手続きを、言葉も解らない場所で始めるのである。 そのときのパリのAVIS(アビス=エイビス=レンタカー会社)窓口のかたは、全く言葉が通じない私の出現に、少なからずとまどったことだろう。英語も通じない、フランス語はもちろんダメ、それでレンタカーを借りて走ろうというのだから、今思い出せば、彼らにとって、普通の客ではない。 そんな状態で、なぜ私が一人旅に踏み出したのかといえば、理由は簡単明瞭。ヨーロッパに行ってみたいということと、相手がヨーロッパだから、ということだけでしかなかった。 相手は先進諸国の人々である。当方が相手のテリトリーに踏み込まなければ、トラブルは起きないと判断したのだ。そして私が予想したように、訪ねた国では、どこの人たちも、大変親切に接してくれた。私が電話ボックスの前でとまどっていると、強面のオジサン(ドイツ人)が寄ってきて、国際電話のかけ方を教えてくれて、ダイヤルまでしてくれたこともある。 彼は、料金を払おうとしても、小銭だからと、それを受け取ることもしなかった。 こんな経験ばかりをした私の旅は、もしかしたら例外的な出来事だったのかも知れない。誰もが、柔和な表情で、私に接してくれた。 レンタカーカウンターの担当者は、若い女性だった。 意味を理解できない私に向かって、一所懸命に説明をしてくれている。私は、聞いても解らない。書類の中で断片的に解る単語を拾い読みして、適当な場所にサインを済ませた。 彼女は、書類の手続きが終わると、安心したように、私に微笑みかけた。そしてまた、何かを話しかける。これもまた解らない。 と、突然彼女が顔をグンと近づけてきた。 まるで、私の顔に、彼女の額が触るほどに。そして、自分の目を指さして、身振り手振りを始めた。 私は、そのスマートな女性と、大きく澄んだ綺麗な目に、見とれているばかりだった。レンタカーを返すときにも、彼女がカウンターにいるのだろうか。 そんなことを考えていたように思う。 ようやく、彼女が話している意味が、理解できた。『あなたは、この車でどこを見て歩くのか?』と言っていたのだ。「フランス、あちらこちら。スイス、ジュネーブ。そのほかいっぱい。」とだけ答えると、彼女は安心したように、私の手を握った。「元気で、行ってらっしゃい!」 日本では、経験できない出来事があって、ヨーロッパドライブが始まったのである。 1週間のドライブを終えて、車を返したときには、彼女の姿が見られなかった。少し名残惜しい思いをしながら、空港からバスで、パリの中心に向かった。これから、宿を探さなければならない。 安い宿を見つけて、1週間ほど泊まれるように話をまとめてから、市街地に出かけてみた。 公園でも美術館でも、日本人らしい東洋人が、群れて歩いていた。そこで初めて、今まで柔和な表情を見せてくれた西洋人と、日本人との決定的な違いに気づいたのである。 東洋人の中でも、中国系や韓国系の人々もいる。それらの人々の中でも日本人が際だって、遠方からでもそれと解るのである。これでは遠方にいる犯罪者までを、誘い寄せるようなものではないか? 私の楽しみの一つに、遠くから歩いてくる東洋人が、日本人かどうかを当ててみる、ということが加わった。これは、面白いように的中した。 日本人の特徴は、歩いているときの姿に、力がないのである。緊張感がないと言い換えてもいい。“隙だらけ”というのも、こんな状態であろうか。 その姿が近づいてくると、目の力がこれまた特別に、柔らかい。安堵感を覚えるほどに、柔らかい。だがその目の力は、裏返せば、“何を盗られても気づかない”といった、犯罪者の心理を引き寄せるに違いない。 日本人旅行者に盗難被害が多いのは、単に経済的な理由で狙われるばかりではなく、こんなところにも、原因があるのではないだろうか。 私が犯罪者なら、きっと日本人を狙うだろう。 それで私が一度も盗難に遭わなかった理由が、解ったような気がしたものである。日本人にしては、裕福に見えない旅姿であったことと、目が細くて“目の力”が確認できなかったのだろう。 日本は平和な国である。目に力を込めなくても、生きていける。今の私も、弛んだ目をしていることだろう。
2002年09月14日
ナショナルロード(国道)を走って、ルクセンブルグに入った。他のヨーロッパ各国と比べると、国の色彩が、かなり素っ気ない。 ヨーロッパは、国ごとに、特徴のある色彩、建物の形、国の雰囲気を持っている。陸続きで、何も気にせずに隣国に入れてしまうことから、自分の国家を、強く主張する必要性があったのだろう。 たとえばスイスは、ヨーロッパらしい雰囲気はあるが、意外にも目立たない落ち着いた雰囲気で、国全体が包まれている。外敵への刺激を避けるために、自然に身に付いた色彩であろうか。 そのスイスが警察組織と軍隊組織の肩代わりをしている小国のリヒテンシュタインは、経済を観光に頼る国でありながら、スイスよりもわずかに華やかさがある程度で、華麗さをかなり抑えた雰囲気の国だった。スイスに対する遠慮とも考えられる色彩である。 それに対して、オーストリアに入ると、どことなく華やいだムードになる。 ただ、日本人に好まれそうな雰囲気を持っている、というだけのことなのかも知れないが。よく写真で見るチロルのペンション風の建物が、いたるところで見られるのである。かなり旅情をかき立てる建物だが、日本の似たようなペンションとは、決定的な違いがある。 日本の場合には、それぞれの建物が自分勝手に色彩を主張しているが、諸外国では、オーストリアに限らず、国、そして街全体のバランスを考えた色彩が施されているのである。 華やかでありながら、落ち着いた心地よさを感じさせるのは、真似から発生した色彩ではなく、国民の主張から生まれた本物の色だからであろう。 それらの、それぞれに特徴ある国々の色彩を見て入ったルクセンブルグは、いわばセメント色、コンクリート色が濃く漂っている印象があった。全体に、工業国の印象である。実際に、工場も多い。 ルクセンブルグに入るときに、突然、驚くような出迎えを受けた。 国道の中央分離帯の上に、警官らしき一人の男性が仁王立ちになり、ショットガンを構えていたのである。その銃口は、通りかかるクルマの運転者一人ひとりに、向けられている。1台ずつのクルマに、照準を合わせながら、運転者を確認しているのである。 他の国では、経験しなかった出来事であった。 事件でもあったのだろうか。言葉が解らない私は、確かめる手段がなかった。だが、走り抜ける自分を追うように、銃口が動くのは、気分の良いものではない。 国の色彩を楽しんでいた気持ちは、一気に引き締められた。 銃を水平に構えて、それを人に向けるなどということは、日本の警察官では、まず考えられないことである。日本の平和ボケを、こんなところで思い知らされる気がした。 ヨーロッパという先進国だから、ここで発砲されることはなかった。 だが、どこかの国でそのまま射殺されたとしたら、日本政府は、国民を守るという立場から、どのような行動を起こしてくれるだろうか? そう、改めて考えなおすと、全く期待できないだろうということが見えたのである。日本政府は、海外で殺された日本人のためになど、動くことはないだろう。動いたとしても、それは期待できる結果は得られないだろう。 自分は、何のために国のために税金を払っていたのか、誰のための“国”なのか。海外に出て、危険を肌で感じたときに、『国家の意味』を確認してしまった。 日本の国は、ただ税金を取るためにしか、存在していない。自分にとっての国とは、家族がいる場所であり、友人が住んでいる場所でしかないのである。そこに、政府があろうが、公務員がいようが、全く意味を持ってはいなかった。 国を守りたいという意識は、どのようなときに生まれるものだろうか。よその国の人たちのように、『自分の国を守る』という意識を、どこまで持てるだろうか。 私は、日本という国を守りたいという気持ちは、海外旅行の時に失ってしまった。ただ、家族がいる国だから、守りたい。日本とは、それだけの意識しか持てない、悲しい国であることを、ルクセンブルクの警官が、認識させてくれたのである。 今もまだ日本は、私には、期待を持たせてくれない。
2002年09月05日
徳島県の池田町方面から、急峻な大峡谷の祖谷渓(いやだに)に入り、平家落人の里を目指していた。 狭く曲がりくねった道は、数百メートルの断崖の上を、心細く山奥へと伸びている。乗用車でさえも、谷底を覗き込むと目が眩むほどなのだから、バスの後部から見下ろしたら、身体が谷の上にはみ出して、そのスリルは一際だろう。 対向車とのすれ違いに気を遣いながら、先の見えないカーブを、くるりくるりと回り込んで進む。 谷は、右側の車窓に、どこまでも続く。 落人集落と言われる祖谷山側から下ってきたら、車は谷側ですれ違わなければならない。初めて走るのにこの断崖絶壁では、谷側で、緊張を続けられただろうか。 そんなことを考えながら、谷に向かって立つ小さい“小便小僧の像”を見て、やがて西祖谷山村に着いた。 ここには、あの有名な“かずら橋”がある。確かに、詩に詠われるように、『風もないのにゆらゆらと・・・』揺れているようである。今はもう、何代目の橋になるのか判らない。 だが粗々しく編み上げられた、自然の風合いの葛(かずら)からは、まだ平氏の生活の痕跡が、色濃く伝わってくるように思われた。 ひっそりと隠れ住んだ平氏たちの手の温もりが、時を超えて、葛の中に息づいているように、深い暖かさが感じられた。 さらに山奥の東祖谷山村(ひがしいややまそん)には、“平家の赤旗”を所有するという阿佐家住宅が残っている。今もまだ、由緒正しい落人の末裔が、普通に生活をなさっているのである。 訪ねた住居は、日溜まりの斜面の中で、ひっそりと静まり返っていた。茅葺きの住居だが、大変によく手入れされていて、上品にまとまった佇まいを見せている。 写真を撮って、なぜか音を立てるのも憚られるように、そっとその場を離れた。 それほどに、静まり返っていたのである。平家滅亡から700余年の眠りの中にいるかのように。 日が暮れないうちに、目的地の高知市まで辿り着けるだろうか。 山は、あまりにも深い。地図で見るとすぐ近くに見える高知は、実際に走り始めると、考えていた以上に遠かった。まだ高速道路のない頃のことである。 渓流に沿って伸びる国道は、聳え立つ巨大な山塊に向かって、潜り込むように入っていく。『この先に道はない。どこまで続くのだろうか?』と不安を覚えるような道が、その山懐にたどり着くと、そこで突然に山裾をくるりと回り込む。 そしてまた、次の山裾に向かって消える道が始まるのである。 そのような繰り返しを何度も続けているうちに、空は急速に明るさを失っていた。深い山間の夕暮れは、闇の訪れが早い。かすかに見えていた、暗紫色の空に描かれていた稜線も、いつしか空の黒い色に溶け込んでしまった。 どこまでが山で、どこからが空なのか、その区別も付かない闇に、道路も飲み込まれてしまった。行き交う車も、ほとんどない。闇の中に、車のヘッドランプが弱々しく光を投げて、先を急がせる。 目が闇に馴れてくると、見上げた空には、無数の星が瞬き始めていた。夕暮れの残光に取って代わるように、星が輝きを増していたのである。星の明かりが、山の稜線を、頭上高くに見せてくれていた。 そして見上げた遙か頭上に、星とは違った瞬きが、遠く近くに認められることに、気づかされた。先ほどまで星かと思っていた天空の輝きには、民家の灯火が混じっていたのである。 日中に見ても、その険しい生活環境に驚かされたものだが、星空に溶け込む民家の明かりを見ると、その山岳の険しさを、改めて思い知らされた。 闇夜の農村は、現実の世界から遊離して、星になって夜空に浮かんでいるように見えた。 その灯りの下には、人たちの営みがある。だがなぜか、小さく見えるその光を眺めているうちに、哀しみがこみ上げてきた。 ここも、住む人にとっては“都”なのだろうか。
2002年08月27日
いつもなら、盛岡から青森までは、国道4号線を走っていく。秋の田園風景も、のどかで風情がある。だが180キロも延々と続く道は、退屈するほど遠い。市街地を走る道は、混雑することはあっても、楽しめることはない。 それでも、いつもなら、そんな走り慣れた道を行く。 だが、あまりにも秋が深い。秋の色を逃すことが、惜しい。そう思って、盛岡からのルートを、八幡平越えのほうに変更してみた。 ところが、松尾村に入ったとたんに、早くも後悔の気持ちが押し寄せてきた。まだいくらも走っていないのに、馴れない道は、早くも“遠い”という印象で、車ごと私を包んでしまったのである。 だが引き返したくはない。 そのまま山越えを、強行することにした。例によって、宿を決めてあるわけではない。気の向くままに車を走らせて、手頃な宿が見つかれば、利用するのである。 10月中旬の秋の山は、昼でも風が乾いて涼しかった。夜になれば、相当冷え込むことだろう。防寒具は、いつもスリーシーズン用のシュラフ1枚を積んでいる。車内なら、その1枚だけで、冷気を凌げるはずである。 そう決めつけて、改めて気持ちを奮い立たせて、カーブが続く山岳道路を、這い上り始めた。途中には、廃墟になった鉱山があるくらいで、見るべきものはない。高度を上げるに連れて、立ち枯れた白木が目立ち始める。残っている針葉樹たちも、サルオガセの衣を纏い、冬の厳しさを待ちかまえているようにも見える。 11月下旬までは、あと1ヶ月と少し。その頃には、風が雪を運んできて、この道は通れなくなっていることだろう。 山頂を巻くように通り抜けて道を下っていくと、次々と秘湯が姿を見せる。ようやく人の匂いに触れるようで、安心感に包まれる。だがまもなく、その温泉宿も、姿を見せなくなる。 完全に広葉樹林の中の、林のトンネルを走るだけの道になる。 ところが、この広葉樹林の道が、息をのむほどの、黄葉の世界だった。ブナやクルミが多いのだろうか。どこまで走っても、何時間走っても、紅葉のトンネルを抜け出せないほどの、見事な黄色の世界が続いた。 その空も見えないほどの林の中を、3時間以上も走っただろうか。夕暮れとともに、暗さが増し始めていた。だが日没後も道路を照らすような黄葉が、自分から光を発するような不思議さで、暗さを感じさせない。これほどの紅葉があるだろうか。 目の奥が、黄色に染まったような気持ちだった。 ぽつんと、林の奥に、明かりが見えた。人家の明かりが見えるということは、紅葉の明るさに紛らわされていたが、着実に夜が迫っているということだった。 その明かりの主は、小さい1軒の宿だった。泊まれるかどうかを確認するには、程良い時間になっている。 宿は、こんな山奥から飛びだしてきた不審人物さえも、気軽に迎え入れてくれた。簡単に泊まれることになったのである。 案内された部屋が、変な色に見えた。部屋全体が黄色に見える。ふと思いついて、自分のカメラバッグを見直してみる。やはり黄色に見える。 そんなはずはない。 目を閉じてみた。 瞼が黄色い。目を閉じると、全身から黄色のエッセンスが飛びだして、部屋を染めているように思われた。 風呂から出て、食事を始めても、目の奥に、皮膚の内側深くにまで染み込んだ、紅葉の黄色が滲み出てくる。 不思議な感覚だった。 天地左右のどこまでも、黄色一色に包まれた道を、走り続けたことはなかった。いずれまた、あの道を走ってみたい。あの感覚を、再び味わってみたい。そう思いながら、そのチャンスを作り損ねている。 あの日の強烈な印象は、30年を経た今も、鮮やかに残っている。
2002年08月18日
宿の窓際まで伸びた枝先で、小鳥の美しいさえずりが続いている。教会の鐘の音が、遠くから、近くから、思い思いに伝わってくる。 昨夜は、一度は訪ねてみたいと思っていたフランスのル・マンに、宿を求めたのだった。テレビで見るあの、喧噪の街、自動車レースで賑わう街とは、全く違った静かな佇まいが、意外な印象だった。周囲を広い農園地帯に囲まれた、小さな田舎町だったのである。 小鳥の声を目覚ましがわりにして、心地よい朝を迎えることができた。 何気なく窓から通りを見下ろしていると、向かい側のパン屋さんに駆け込む、宿の奥さんの姿が見えた。彼女はやがて、バケットいっぱいのパンを手にして、宿に戻ってきた。 あのパンが、今朝の食卓に上るのだろう。何気なくそんなことを考えながら、朝の食堂に向かった。 食堂には、バケットに盛りつけられたパンと、小さいバター、小さいジャムが、用意されていた。 私の他には、家族連れが一組と、会社員らしい人が1人だけ、小さい食堂に座っていた。その人たちは、食事が済んだ所らしく、まもなく部屋に引き上げた。 1人だけ残った私に、「コーヒーにしますか? それとも紅茶?」と、奥さんが訪ねてきた。「コーヒーをお願いします。」と頼みながら、「暖かくて美味しいパンですね。」と褒めてあげた。 宿で作ったパンでもないのに、急に奥さんの表情が、にこやかで親しげなものに変わった。握手までを、求めてきた。「この街では、ル・マン・グランプリが開かれるのでしょう? コースはどこですか?」と訪ねると、得意そうに、「このホテルの前の道を真っ直ぐに突き当たりまで行って、そこから左にまがって・・・。」と丁寧に教えてくれた。 私が泊まったホテルの前が、偶然にもル・マンレースのコースだったのである。少し荒れ気味の路面を見ていると、そこであの過酷なレースが行われるとは、思えなかった。一般道路を利用したレースであることは知っていたが、もう少し別な場所に、しっかりとしたコースがあるものと思っていた。 レースがない時期は、ただただ静かだった。 ホテルを出発してから、奥さんに教えていただいたばかりのコースを、ゆっくりと車を走らせてみた。他には走る車もほとんどなく、のんびりと景色を楽しみながら走らせても、邪魔にはならない。道路脇の並木も、なかなかの風情である。 そうして走らせているうちに、ふと、ル・マンレースのコースが解らなくなった。左に、右に・・・と教えられたとおりに走ってきたはずなのに。 そこで話の内容をもう一度思い返してみた。そうだ。たしか、レース専用のコースがあるようなことも言っていた。そのコースは閉ざされているのだろう。そこで、コースが解らなくなったのだ。 私のつたないフランス語の理解力では、総てを聞き取って覚えることができなかった。だから、本当にレースコースの一部が“専用コース”なのかどうかの自信はない。だが、そのように解釈して、自分なりにルマンレースと同じコースの一部を走ったことの、満足感を味わうことができた。 ルマンまで来て、町並みだけを見て帰ったのでは、きっと後悔したに違いない。郊外の花畑は、広々として見事なものだった。 ルマングランプリのコースを走ることができたのも、あのパンのお陰である。確かにフランスパンにしては柔らかくて、暖かくて美味しかったが、それを褒めるきっかけになったのは、部屋の窓から、偶然にパンを買いに行った奥さんを、見たからである。 日本のパンに比べて、特別な味がするわけではない。だがあの味は、あのふぅわりと軽く暖かい味は、ル・マンの直線道路とともに、今も意識の中に残っている。
2002年08月12日
暮れも押し迫り、あと数日で元日を迎えるというその日、ときどきみぞれが舞う、能登半島の海を見ていた。 小雨に混ざった雪が、日本海を重い鉛色に染めている。無数の田圃が階段状になって、かすかに見える海面に溶けるように、入り込んでいる。 冬の千枚田は、訪ねる観光客の姿もなく、ただ、雪と吹きすさぶ風に晒されていた。 写真を写そうにも、枯れた色の田に、降り注ぐ氷雨では、どうにもならない。モノトーンの景色をただ訳もなく眺めている私の横を、通学の学生たちが通り過ぎていく。 朝からいつまでも、鬱々とした枯れ田を見ていても仕方がない。輪島の朝市に、目標を変えることにした。 朝市は、近在の人たちで、それなりに賑わっていた。正月の支度をするために、朝市でめぼしいものを、物色しているのである。 ずらりと並んだテントや屋台を覗きながら、人々の朝の会話を聞くともなしに聞きながら、楽しいひとときを過ごした。商売よりも世間話に花が咲く店、宿から繰り出した観光客らしい人たちに人気のある店など、特徴があって面白い。 何度か朝市街を往復するうちに、小さな屋台が気になった。小さい藁靴や、可愛らしい蓑笠、木を荒く削ったアクセサリーなどが、狭い屋台に、わずかばかり並べられている。観光客がそう多い時期ではない。正月を迎える人たちは、生活の役にも立たないアクセサリーなどには、目もくれようとしない。 所在なげにぽつんと座っているのは、70歳を過ぎたと思われる女性である。 私は、その店に前で立ち止まった。藁靴を手に取ってみる。蓑笠を、眺めてみる。藁靴は、土産品にしては朴訥な味わいがあった。特にその藁靴を土産にしたかったわけではない。 無我の境地にあるようなお年寄りの姿に惹かれて、1つだけ買うことにしたのである。「これは、いくらですか?」 尋ねた私に、驚いたように、その女性は顔を上げた。何のために店を出していたのか。売れることなど、期待していなかったという、意外そうな表情である。「800円です。」「こちらの蓑笠は?」「そちらは700円です。」「この藁靴を戴こうかな。」「えっ! 買うてくださるんかね?」「ええ、これが気に入りましたから。しっかりと、良くできていますねぇ。」「そう思って下さるかね。本当に買うて下さるんかね?」 何度も、信じられないといった表情で、『買ってくれるのか』と繰り返す。無表情だった顔が、暮れの寒さを吹き飛ばすように、嬉しそうに輝いている。「買って帰って、大切に飾っておきますよ。」「嬉しいなぁ。本当ですかね。本当に買うて・・・。お客さんは、どこからおいでになったんですか?」「はい、横浜から来たんです。」「この藁靴は、私が造りましたんですよ。横浜に飾って貰えるんですか。そんな遠くに・・・。」 その店から離れるときも、その女性はいつまでも、嬉しそうに私を見送ってくれた。 今朝の朝市で、私は唯一の客だったのだろうか。あの800円が、自分の小遣いになったのだろうか。孫に、何かの土産を買ってやるのだろうか。 あいにくの寒空だったが、1人のお年寄りとの触れあいが、私の気持ちの奥底まで、暖かく満たしてくれた。 藁靴1つが売れたことで、あれほどの喜びを顕わしてくれる人が、他の観光地にいるだろうか。 お陰様で、私も嬉しい正月を迎えられそうだ。あのお婆さんも、きっと嬉しい正月を迎えられることだろう。
2002年08月04日
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