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October 5, 2005
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カテゴリ: 日常生活
この3日間、深夜まで残業があったので、日記が書けませんでした。

そこで、10/8日(土)のこの時間に、過去の日記を書いています。

最近、テレビのニュースで、インドネシアのバリ島での自爆テロがよく報道されています。

インドネシア政府の治安当局者の発表によれば、犯人は、イスラム原理主義の武装テロ組織のようです。

インドネシアは、97年のアジア通貨危機によって、長年に亘って大統領を務めてきたスハルト氏が失脚し、それ以降、いろいろな勢力間での対立が続いています。それは、スハルト氏の政治が、各勢力間での勢力均衡による政情安定を目指すものであり、彼が国内諸勢力の利害調整機能を担ってきたからです。

このように書くと、スハルト氏が善政を敷いたように聞こえますが、そうした利害調整ができたのは、彼のもとに、公正・不公正を問わず、莫大な資金が集まったためであり、それを各勢力にバランスよく配分することができたためなのです。海外援助、インドネシアの成長を期待した海外からの投資や借款(海外からの融資)、国内外からの企業からのリベート、国営石油会社プルタミナを通じた油田やガス田の開発資金・・・それらがスハルト氏のもとに流れ込んでいたのです。

ところが、アジア通貨危機がこの構造に強制的な終止符を打ちました。

アジア通貨危機とは、97年に、タイの通貨バーツ、韓国の通貨ウォン、インドネシアの通貨ルピアが、外国通貨、主としてドルに対して暴落し、その結果として、これらの諸国の企業が抱えていた外貨建ての債務が、現地通貨建てでみて、天文学的な数字に膨らんでしまい、多数の企業や金融機関の倒産が相次ぎ、輸入物資の価格も大幅に上昇し、深刻な経済危機が発生した、というものです。

通貨危機の結果、インドネシアに流れ込んでいた外国資金の奔流は枯れることになりました。外国企業とともに進めていた合弁事業は中断したり、あるいは中止されたりして、多数の失業者が発生したうえ、輸入物資の価格上昇は国民生活を直撃しました。

首都ジャカルタを中心に暴動が発生し、スハルト政権が倒れました。その過程で、全国に政情不安が波及し、そうした中で、これまで固く封印されてきた、宗教対立という「禁断の扉」が開かれてしまったのです。

インドネシアは、宗教が複雑に入り組んでいます。最大勢力はイスラム教ですが、植民地時代に広まったキリスト教や、イスラム教伝来以前からのヒンズー教も、一定の勢力を保持しています。

それぞれの信徒は、お互いの違いを認識しつつも、文字通り隣り合わせで生活し、平和に暮らしてきたのです。

しかし、近年、過激なイスラム原理主義思想が、貧しい階層の若者を中心に広がり始めていました。いつの時代でも、どこの世界でも、若者は、現状には不満足であり、その不満を巧妙に宗教に向けさせた者がいたのです。

それだけではなく、インドネシアでは、国軍出身のスハルト氏が失脚し、民主政治を求める勢力が急速に力をつける中で、国軍・警察の勢力が相対的に低下することになりました。また、インドネシアは多民族国家であり、東端のアチェ州、西端の西イリアンジャヤ州などで独立を求める動きが強まりました。

こうした動きに国軍・警察は非常に強い危機感を抱いていました。

事実関係は、未だに明らかにされていませんが、外国報道機関の取材によると、ある日、突然、イスラム教徒がキリスト教徒を襲い始めたようです。今まで平和に暮らしてきた隣人が、突然、銃やナタで武装して襲いかかってきたのです。その背景には、イスラム社会に、「外国勢力に支援されたキリスト教徒が、イスラム教徒を襲って地域から追い出し、独立しようとしている」という、根拠のない流言が広まったことがあります。

そして、武装した人々は、国軍や警察の管轄する港湾や道路を、何の制止も受けずに通行して、キリスト教徒を襲撃したのです。一部の暴徒は、国軍や警察の車両に乗っていた、という、証言があります。

国土が騒乱状態になる中で、国軍・警察の治安維持能力に期待が集まり、地位の低下には歯止めがかかりました。

一方で、イスラム教徒とキリスト教徒の対立は、北部のマルク州を中心に激化し、両派の対立で多くの人々が亡くなりました。

そして、犠牲になった人々の家族や子供たちは、相手への憎悪を心に深く刻みつけて生きることになりました。

今回のテロ事件を計画した組織は、キリスト教徒との抗争で親を失った若者たちをリクルートして成長した、と言われています。

今、世界では、イスラム原理主義が急速に広まっています。

その背景にあるのは、グローバル化の潮流に、相対的に出遅れてしまった中東諸国で、ますます国内で勢力を伸ばす欧米企業に対する不満が高まっている、ということがあります。また、中東諸国内でも、所得格差が拡大傾向にあり、相対的に貧しい階層の人々が不満を強めている、という国内問題があります。そして、これら中東諸国では、出生率が高く、若者が多いのです。必然的に、職業に就けず、社会の現状に不満を抱く若者を、大量に抱えるようになります。

イスラム教は、貧困救済を教義の一部としており、組織として、貧困者の生活支援などを積極的におこなっています。とくに、イスラム原理主義という、「昔のような正しい教義に立ち戻り、みんなで助け合って生活しよう」という考え方の人々は、貧困救済に積極的です。そうした考え方が、失業者の多い若年層の強い支持を得るには、さして時間がかかりませんでした。

また、失業しても生活していけるような、石油収入で国民全体が豊かな国でも、将来に期待を持てない若者が、イスラム原理主義に魅力を感じるようになっていきました。

いくら豊かであっても、ヒトは、仕事を持たずに暮らすことには、苦しみを感じるのです。

しかし、イスラム原理主義を主張する人々の中には、「異教徒の根絶」など、イスラム教の教義を誤って解釈して、欧米社会やキリスト教徒、ヒンズー教徒を攻撃する人々がいるのもまた事実です。

そして、そうした過激な考え方に惹かれる若者もまた増えてきています。

そして、そうした若者を集めて訓練を施したり、資金を与えたりして、活動させている人々がいます。



わが国の狂言に、「宗論」という演目があります。私の好きな演目のひとつです。

甲斐の国(山梨県)の身延山久遠寺に参詣に行った、都の法華宗(日蓮宗)の僧が、帰途、街道で一休みをしているとき、一人の僧と出会い、知り合いになります。やがて話しているうちに、信濃の国(長野県)の善光寺に参詣に行った帰りの、都の浄土宗の僧だとわかり、二人はびっくりします。法華宗と浄土宗は犬猿の仲だったのです。

法華僧は、異なる宗派の者と一緒に旅はできないと言って、道を変えようとしますが、浄土僧は、しつこくついて回り、自分の持っている「宗祖伝来の数珠」で、法華僧の頭を撫でまわりたりして、意地悪をします。もともと気の強くて一本気な法華僧は、身が汚れた、と言って大騒ぎした挙げ句、全力で走って逃げようとしますが、浄土僧も同じように走り、狭い街道で、二人は押し合いへし合いをします。やがて、一軒の宿を見つけた法華僧は、そこに逃げ込んで、ようやく一息つきますが、追ってきた浄土僧に発見されてしまいます。

同じ部屋にしてくれるな、と、宿の主に法華僧は頼みますが、あいにく、宿は満室で、結局、二人は相部屋になります。

やがて、お互いの宗派の自慢から、宗教論争が始まります。論争に負けたほうが、勝ったほうの宗派に宗旨替えするというものですので、お互いに必死に論争しますが、なぜか、このお坊さんたちは、末端の、あまり不勉強なお坊さんだったようで、自分たちの教義を珍妙に解釈してみせるので、勝負はつきません。やがて、二人とも疲れて寝てしまいます。

早朝、一足早く目が覚めた浄土僧は、またまた、寝ている法華僧の耳元で、大声で浄土宗の念仏(南無阿弥陀仏)を唱えて、法華僧をびっくりさせます。法華僧も負けじと題目(南無妙法蓮華経)を唱えて、狭い部屋の中で、押し合いへし合いしながらの読経が続きます。

やがて、浄土僧は、立ち上がって、法華僧の周りを踊りながら念仏を唱えて回ります。この「踊り念仏」に、法華僧も「踊り題目」で対抗し、二人は、「なもうだ」、「れんげきょう」と交互に強く唱えているうちに、早口になっていき、やがて、お互いに、念仏と題目を取り違えて唱えてしまいます。

「しまった!」と言わんばかりに、扇で顔を隠す、二人。

しかし、しばらくして、扇を下ろしたとき、その表情は晴れやかです。

二人はともどもに舞を舞い、「弥陀も法華も隔てはあらじ」(浄土宗も日蓮宗も同じ釈迦の教えじゃないか。違いなんてないじゃないか)と謡います。

二人は、宗派の違いで、いがみ合うことの不毛さを悟ったのです。

宗教というものは、人々の幸せを目指す、ということが目的であるはずです。

その「幸せの目指し方」の方法論の違いが、宗教や宗派の違いであるはずです。

方法論の違いに固執して、本来の目的を忘れて、いがみ合うことの無意味さを、この狂言は示しているのです。

この演目をイスラム原理主義の人たちが見たら、どのように思うのでしょうか?






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最終更新日  October 8, 2005 08:39:13 PM
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