さすらいの天才不良文学中年

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年寄りは二種類(マルタイの女)

年寄りは二種類(マルタイの女)

 年末に衛星放送で久し振りに伊丹十三脚本監督の「マルタイの女」(1997年)を見た。


志功


 おいらの好きな俳優S氏がチョイ役で出ているので覚えているはずだったが、すっかり内容を忘れていて(老人力がついたのである)、初めて見る映画のように面白く拝見した。

 その中で、宮本信子演じるヒロインの(不倫の)相手役である津川雅彦が悪役どもを拳銃で撃ち殺すシーンが出てくる。

 津川は某宗教団体に脅されている。その脅しの相手に対して、映画のワンシーンのように引出しから拳銃を取り出す。

 ここで、津川が問答無用と三下(さんした)を射殺しながら喋る。この台詞が秀逸である。

「お前達は馬鹿だから、知らないだろうが、年寄りには2種類あるんだ。

何時までも生きていたい年寄りと

何時死んでもいいと思っている年寄りだ」

 カタルシスである。伊丹十三は映画を知っている。

 津川はそう言いながら、二人目の三下の眉間に銃弾を撃ち込み、

「世の中には馬鹿が多い。お陰で拳銃も簡単に手に入るようになったし、人生気持ち良く幕が引ける」

 と言いながら、相手を威嚇し、追い詰める。追い詰められた残りの三人は何が何だか分からないまま後ずさりするが、後ろはない。

 津川は、

「まだ、ひょっとして助かると思ってるな。人生は実に中途半端だ。そう、道端のドブのようなところで」

と喋ったところで、相手のボス格を射殺し、

「突然、終わるもんだよ」

と言いながら、最後は自分もこめかみに銃口をあてて自殺するのである。

 これはこの映画の中で最高のシーンではないか。

 伊丹十三(享年64)はこの台詞が撮りたくて映画を創ったのだと思う。「マルタイの女」は監督の遺作である。

 伊丹十三自身は、何時死んでもいいと思っている年寄りだったのだ。だから、人生を中途半端に終わらせたくなかったのだ。

 ところで、氏の不幸な最後(飛降自殺)の真相については、諸説がある。

 調べてみると、謀殺説(自殺に見せかけた他殺)も未だに根強く、十分説得力を持つ。伊丹監督は次作に医療性廃棄物(産廃)などの裏事情を書こうとしていたために、その筋に消されたというものである。また、自殺の原因と云われるスキャンダル(女性問題)も、実は罠に嵌められたという噂である。実際、遺書の一部は未だに公開されていない。しかし、他方で、アルコール摂取過多による事故死の可能性もあると云われている。氏の最期は、まっことミステリー仕立てである。

 ただ、一つ云えることは、酒飲みは何時死ぬか分からないということである。

 しかし、だからと云って「何時死んでもいい」と思うことは難しい。


とんでもない

 難しい言葉である。

 今の日本語の感覚では「とんでもない」と云うと、失礼な口のきき方だと思われてしまいそうである。


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 だが、小津安二郎の東京物語(昭和28年)を観ると、そうではないことが分かる。

 笠智衆が息子の嫁である原節子に語りかける場面である。

父「やっぱりあんたはええ人じゃよ、正直で」

娘「とんでもない」

 この台詞が絶妙なのである。昭和の良き時代である。昭和はえがったのぅ。

 光陰矢のごとし。今の日本では昭和の言葉は絶滅しているのである。

 じゃ、どう云えば良いのだろう。

「とんでもありません」

「とんでもございません」

 両方とも間違った云い方だとして顰蹙を買うのだから難しい。そう云ったと伝説の残る、山本富士子さんが気の毒である。

 では、正解は、

「とんでもないです」

「とんでもないことです」

「とんでもないことでございます」。

 とされている。

 しかし、こんな言葉遣いの方がよほどおかしい。だから、普通は

「恐れ入ります」

 で逃げるしかないというのである。

 昭和は遠くなりにけりか。

「とんでもない」

 原節子の上品な云い方を復権させるしかなかろう。




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