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さすらいの天才不良文学中年
軍隊の格言 信長 慶喜 利休 家康
ニュートンの予言 2060年、世界の終わり
「早ければ2060年に世界の終末が来る」
イギリスの物理学者ニュートン(1642~1727年)の予言が発見されたという(6月22日付産経新聞。同紙の出典はAP通信)。
ニュートンは、1700年初頭、旧約聖書を解読した上でこの予言を文書に残した。
ニュートンによれば、旧約聖書のダニエル書の暗号めいた表現から
「2060年の後に世界の終わりが来る」
としており、終末の日々には
「邪悪な国家の滅亡、全てのトラブルの解決」
を予言している。
これには、ピンと来ない人が多いと思う。
おいらも、山本七平氏の「日本人の人生観」(講談社学術文庫、昭和53年)を読んでいなければ、この意味が分からなかったはずだ。
山本氏によれば、西洋人と東洋人のものの考え方の差は、「終末思想」と「万物は流転、万世一系」の差にある。
これが死生観につながり、西洋人は「自分の死のほかにこの世の死(終末)を常に考え」、他方で、日本人は「自分の死しか考えない」人種なのである。
この「世の中に組み込まれた自分」を考えながら人生を過ごす西洋人と、方丈記のように「世の流れは自分とは関係のないところで進む」と考える日本人の差は、宗教観の差に由来する。
だから、西洋ではノストラムスの大予言などが流行るのである。もっとも、実際に日本でベストセラーになったのは、日本語で書かれた怪しげな本であったが。
この死生観にご興味があれば、山本七平氏の「日本人の人生観」の一読をお薦めする。キリスト教に詳しい山本氏だからこそ、日本人のことがよく分かったのであろう。
2060年、そんなに先のことではない。
石油の枯渇年数あと68年
石油の現在の埋蔵量は、37.6年分だそうだ。それに加えて、今後の採掘量が16.6年分、未発見資源が13.9年分だという。
合計すると、あと68年で石油は枯渇するのだそうだ(石油鉱業連盟。平成19年11月29日発表「平成17年末の世界の石油・天然ガス資源に関する評価」)。
ところが、おいらの敬愛するNさん(元上司)によれば、30年前から石油の埋蔵量はず~っと30年分なのだそうだ。
おいらはこれを聞いて不思議に思っていたのだが、この話しを聞いて膝を叩いた。恐らく、採掘を続けることによって、手持ち分をこれまでずっと30年分維持してきたからなのだろう。
しかし、それにしてもだ。あと68年というのは、あっという間の期間である。それに中国やインドなどの需要増は計り知れないはずである。そうであれば、石油はもうないと思ってエネルギー政策を考えなければいけない。
長い眼で見れば、原油が高いのも今のうちである。恐らく、石炭も同様で、なくなる前に一時は高くなったのだろう。
私見によれば、次のエネルギーはやはり水しかない。しかし、その水も地球温暖化でおかしくなっているという。そうだとすると、もはや逃げ道はないのか。
軍隊の格言――さて、あなたは
本日より、三日間、関ネットワークス発行「情報の缶詰(09年5月号)」所収の「軍隊の格言――さて、あなたは」を掲載します。
軍隊の格言――さて、あなたは(前編)
1.無能な働き者は銃殺にせよ
「無能な働き者は銃殺にせよ」とは少々穏やかではないが、この言葉はドイツの軍人ゼークト(Hans von Seeckt=ハンス・フォン・ゼークト、1866年4月22日生れ、1936年12月27日没)が提唱した組織論だと云われている。
因みに、この理論は「無能な働き者」だけに言及するのではなく、
「有能な怠け者は前線の指揮官にせよ。
有能な働き者は参謀にせよ。
無能な怠け者は伝令や下級兵士にせよ。
無能な働き者は銃殺にせよ」
とし、軍人を有能か無能か、働き者か怠け者か、の4分類マトリックスにしている。
このゼークトとは、第一次世界大戦で壊滅したドイツ陸軍を再建した有能な軍人であり、「戦争とは政治の破産である」などの名言を残している(著書に『一軍人の思想』『ドイツ国の基本的諸問題』『モルトケ』など)。
当時の状況を考えてみよう。敗戦国ドイツは、ヴェルサイユ条約によって兵力を10万人にまで削減された。当時のドイツにとって、縮小を余儀なくされた軍隊の再建をどうするかは、国の存亡を賭けた切実な問題であったのである。
2.ゼークトの組織論
ドイツ軍の構図は、部下と経費は少ないが、予算だけは大きな営業店を任されたようなどこかの会社と同じである。そこでゼークトは、少数精鋭理論によって軍の立て直しをしようと考えた。これもどこかの会社と同じパターンである。
彼は軍事理論家であり、陸軍にとって大切なことは、軍が政治的に中立でなければならないとした。これによって、兵士のいかなる政治的活動も許さず、陸軍がヒットラ-に忠誠を誓うことに対しても猛反発をしたという。プロフェッショナルに思想はいらないという発想は面白い。
ただし、ゼークトは後にヒットラーを支持し、中国に渡る。蒋介石の軍事顧問を務め、上海周辺に「ゼークトライン」という防御陣地を造ったことでも有名である(しかし、彼の死後、第2次上海事変で日本軍に破られる)(続く)。
軍隊の格言――さて、あなたは(中編)
さて、そのゼークトが提唱したとされるのが、軍人は次の4つに分類されるとした彼の組織論である(なお、厳密にはゼークトの説であるとの確証はなく、ゼークトの名声を利用したものだとか、孫子の兵法が元ネタだとか云われている)。
<1>有能な怠け者
有能な怠け者は、前線の指揮官、司令官に向いている。この理由には2つある。
1つは、怠け者のために、部下の力を遺憾なく発揮させることが出来るからである。もう1つは、どうすれば自分と部隊が楽に勝利出来るかを考えて指揮を執るからである。
<2>有能な働き者
有能な働き者は、参謀に向いている。
勝つための作戦を熱心に考えるためである。勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方が良いからである。
また、作戦が失敗したときの手も含めた、あらゆる準備を行うからでもある。
<3>無能な怠け者
無能な怠け者は、伝令や下級兵士に向いている。云われたことをそのまま伝えるからである。
<4>無能な働き者
無能な働き者は、銃殺にするしかない。理由は働き者ではあるが無能であるため、間違いに気付かないまま実行してしまうからである。このため、更なる間違いを引き起こし、被害を拡大してしまうのである。
このゼークト理論は今でも各国の軍隊で通用していると云われる。いや、経済活動を戦争と考える企業にも当てはまると考えられている。
さて、こうしてみると、気の毒なのは、<4>の無能な働き者である。<3>の無能な怠け者が伝令という重要な仕事を任せられるのに対し、銃殺では割りが合わない。
しかし、一歩間違えば戦争で負けるかも知れないとう局面で、同じ無能な部下が二人いたとしたら、どうであろうか。
何もしない怠け者の方が被害は拡大しないという考えには、一理ある。さりとて、その無能な怠け者と座して死を待つことも出来ぬだろう。だが、無能な働き者と共に被害を拡大するという犬死だけはしたくない。
さて、あなたならどうする?(続く)
軍隊の格言――さて、あなたは(後編)
3.無能な怠け者
ところで、このゼークト理論で興味深いのは、<3>の無能な怠け者である。
実は、ゼークトは無能な怠け者を伝令や下級兵士にせよと一方で云いながら、同時に無能な怠け者こそ総司令官に向いていると説いているのである。理由は、無能な怠け者は自ら考えて動こうとせず、参謀や上官の命令どおりに動くからである。
確かに某国の軍人の最近の言動をみると、無能な怠け者が司令官に就いていることが良く分かる。いや、経財界でも同じである。ボトムアップ型である日本的経営トップには無能な怠け者が多い(ようだ)。
何故なら、それでも充分に職責が務まるからである。参謀の云うとおりに会社を動かしていればよいからである。そうか、だから、経営陣にはこの手のタイプが多いのか、とおいらは思わず膝を叩いたのだが…。
さて、現在でもこのゼークト理論が通用しているとしたら、あなたは一体どのタイプになるのだろうか。因みにおいらは、4つ目の無能な働き者だけにはなりたくないなぁ。
なお、かの異才である佐藤優氏によれば、日本の官僚には次の4通りがあるそうだ。
<1>能力があり、意欲もある。
<2>能力があるが、意欲がない。
<3>能力がないが、意欲がある。
<4>能力もなく、意欲もない。
お~、この官僚の分類方法は怖い。しかも、<3>の「能力がないが、意欲がある」役人というのは、この世で一番怖い。本人の知らぬ間に権力を振り回すからである。こうなると、もはやこれは現代の怪談である(この項終り)。
使えなかった部下
先日も述べたが、再び仕事が入り、多忙となっている。
現在のタスクフォース(仕事仲間)は優秀なメンバーの集まりなので、仕事をするにあたって問題はない。
しかし、ときどき現役時代のことを思い出し、使えなかった部下の顔が浮かんでくることがある。
おいおい、それはお前が無能な上司だからだったのではないかという指摘が聞こえてくるのだが、まぁ、ちょっとだけ聞いてつかあさい。
それは、「云われたことが出来ない部下」と「云われたことしかやらない部下」であった。
ある意味、これは難儀である。特に云われたことしかやろうとしない部下には手を焼いた。
名将野村克也監督ならこういうときどう云うのだろう。
「育てるしかない」
そうか。それでもやはり、人は育てなければならないのだ。
アジアから国連事務総長
来年から現在の国連事務総長であるコフィー・アナン氏(ガーナ)が韓国の潘基文外交通商大臣(62歳)に変わる。
アジアで二人目の事務総長だというので、歴代事務総長を調べてみた。
初代 トリグブ・リー(ノルウエー)1946~1952
2代 ダグ・ハマーショルド(スエーデン)1953~1961
3代 ウ・タント(ビルマ)1961~1971
4代 クルト・ワルトハイム(オーストリア)1972~1981
5代 ハビエル・デクエヤル(ペルー)1982~1991
6代 ブトロス・ガリ(エジプト)1992~1996
7代 コフィー・アナン(ガーナ)1997~2006
8代 潘基文(韓国)2007~
いずれも知られた、馴染みのある名前である。この中で、ウ・タント事務総長がアジア出身であったとは驚いた。また、個人的なことだが、おいらがニューヨーク駐在のとき住んでいたアパートは、ダグ・ハマーショルド氏を記念して造られたアパートで、国連ビルのすぐ近くであった(ダグ・ハマーショルド氏は航空機事故で死亡)。
国連事務総長がどうやって選ばれるか知らなかったので、これも調べてみた。事務総長は、国連憲章により、安全保障理事会の推薦を受けて総会によって任命される。任期は5年で、どの事務総長も2期10年でその職を退いている。世界の各地域から大陸ごとに持ち回りで選出され、安全保障理事会常任理事国や主要国首脳会議に参加している「大国」からは選出されない。以上の慣例から、日本人の事務総長の選出は事実上ない。
こうしてみると、歴代総長は欧州大陸3人、アフリカ大陸2人、アメリカ大陸1人、アジア大陸2人とうまくばらけている。今回はアジア大陸に順番が回って来たのだ。
潘基文氏には、頑張って貰いたいが、この事務総長の権限が如何にも危うい。事務総長には、予算や人事権がないのだ。これらは総会の専権事項とされている。少なくとも予算上の権限拡大くらいは認めても良いと思うのだが、この提案も途上国の反対によって今春、決議が否決された。
安全保障理事会の決定への影響力も限られている。これでは、事務総長ではなく、書記長か秘書室長だ。事務総長Secretary Generalの訳を変える必要がある。
しかし、一番の問題は、超大国アメリカとの関係だろう。アメリカがイラク攻撃を仕掛けたとき、アナン事務総長は何も出来なかった。事務総長として言わなければならないときは、言うべきなのである。しかし、アメリカに嫌われた事務総長は何も出来ない。問題の本質は、そこにある。だから、この問題は難しい。
日本の分割統治
日本が大東亜戦争をしたことはおろか、連合国に負けたことを知らない人間が増えているらしい。因みに大東亜戦争と呼ぶことは久しく禁止され、太平洋戦争と呼ばなければならなかったことも知らない人が多い。
大東亜を名乗ると、東アジアの盟主を主張した日本の大義を是認することになるという、GHQの無茶苦茶な言い分である。
しかし、日本が分割統治されていた可能性があったことを知る人はさらに少ない。
北海道と東北はソ連に、関東・中部・北陸(福井を除く)は米国に、中国地方と九州は英国に、四国は中国(中華民国)が占領し、東京23区と近畿・福井は米国と中国の共同管理になる予定があったのである(米国国立公文書館所蔵の分割案による)。
歴史にifは付き物だが、もし、そうなっていたら、現在の日本とは大幅に変わっていたことは想像に難くない。
おいらは広島出身なので、広島がどうなっていたかを想像すると、アジアの英国領として、香港の先例が挙げられるだろう。
これに従えば、広島の公用語は当然英語になっていたはずである。街並みも英国調の洋館が増えていただろうが、仁義なき戦いにも出て来た広島焼け跡闇市をベースに、市の中心部は香港風の雑踏な街並みになっていたことも予想される。
英国領は九州・中国であり、恐らくその首都は福岡で、広島は第二の都市であろう。しかし、東洋工業を背景に、自動車王国としての広島が首都になっていた可能性もある。英国領なので、野球は発達せず、サッカー王国になっている。西鉄ライオンズと広島カープはその名を歴史に留めていない。
北海道と東北はソ連管理下であるから、共産主義が導入され、言葉はロシア語が強制されていたかもね。日本酒は淘汰され、ウオッカが幅をきかせている。大相撲の歴代横綱は北海道出身者が多いが、皆、ロシアの格闘技サンボで名を馳せているはずだ。
関東・中部・北陸はアメリカナイズされて、勿論使用言葉は米語、ヤンキー一色となっている。事実上の51番目の米国州として栄えており、活力は相当なものになっている。道路はクルマの右側通行で、酒はバーボン、国技は野球である。
東京23区と近畿・福井は米国と中国の共同管理だが、中国は台湾同様、事実上資本主義を認め、関東・中部・北陸同様アメリカナイズを許している。ここも51番目の米国州である。ま、今も米国の属国と変わりがないと言う人も多いから、そう考えるとこの地域だけは今と同じかも知れない。
四国は、中国単独の管理下であるから、共産主義を導入しているか、台湾同様好き勝手にさせているかもしれない。台湾同様の施策をとっていれば、第二の台湾になっている可能性が高い。公用語は北京語で、プロ野球は四国だけで開催している。
まことに新年から阿呆なことを夢想するというのは、面白い。
日本は島国である
日本は島国である。
島国であるということは、二つの意味を持つ。
一つは、東西南北の海を守らなければならないということである。と同時に、この四囲の海は、最強の外堀でもある。
古くは、蒙古襲来(13世紀)、南蛮人の渡来(16世紀)、西洋列強艦隊の侵略(19世紀)からわが国を守ったのは、海という防塁である。
しかし、二つ目の意味は、全方向で敵と戦わなければならないということである。
先の大戦でも、東はアメリカと戦い、南はアメリカ、英国、オランダと戦い、西は中国と戦い、最後は、北をソ連と闘う羽目になったのである。これでは、勝てる戦争も負けてしまう。
それが、戦後、日米同盟を結ぶことによって、東と南の海は心配しなくてもよくなった。日本は北と西の海もアメリカと協力しながら、四方を防塁とすることができた訳である。
さて、日本が四方を海に囲まれているという状況は、今後も変わることはない。他方で、日本が自ら孤立化し、独力で四方を守るというのも、非現実的である。
そうだとすれば、外交という手段を使って、どこかと手を組まない限り、日本が四方を守りきることは難しい。
現在の状況を考えれば、東と南の海を守るには、「そこを縄張りとしているアメリカと手を組むしかない」という結論になるのだが、やっぱり、それしかないのかなぁ。
本日と明日はお休み
本日と明日は休日につき、お休みです。
さて、27日夜の国連総会で日本と支那とが尖閣諸島について激しいやりとりをしました。
その内容については触れませんが、おいらの高校時代からの友人T君(支那滞在歴あり)が「支那人と付き合うときには、注意しろ」と忠告してくれたことを思い出します。
支那人は平気で大嘘(おおうそ=ただの嘘ではない)をつくから、気を付けろというのです。
むべなるかな。
今月号の月刊誌「WILL」は支那と韓国の特集ですが、支那のことを嘘つきとして、「約束を守らない」国と紹介しています。
条約を結んでもその内容を履行しないというのです。
恥ずかしい国じゃのぅ。友達になどなりたくない。
それでは、皆様よろしゅうに。
平成24年9月29日(土)
謎の不良中年 柚木惇 記す
信長の危機管理能力(前篇)
本日から3日間、関ネットワークス「2013年4月号『情報の缶詰』」に掲載された「信長の危機管理能力」を転載します。
信長の危機管理能力(前篇)
天正10年(1582年)6月2日未明、織田信長は明智光秀による本能寺の変によって没する。享年49歳であった。
だが、一つ、気になる点がある。
それは、何故、あの日、信長はわずかの手勢だけで本能寺に泊まったかである。
当時は下剋上の時代だ。寝返り、謀反、暗殺など何でもありである。寝首をかかれると困るので、武将は普段、城郭に住み、外出するときは馬廻りという護衛に囲まれるなど、二重、三重のリスク管理をしていたのである。
実際、信長の危機管理振りは徹底していたにもかかわらず、あの日だけは「さあ、攻めてください」とでも云っているようなものだったのである。
そこで、今月号はこの信長の死の謎に迫ってみたい。
1.当時の情勢
信長は武田軍を破り、事実上の天下統一を成し遂げた。本能寺の変の直前であった。それまで天下を狙える位置にいた最も優勢な武将は武田信玄であった。その武田信玄が没しても、勝頼率いる武田勢は天下無敵であった。天正3年に信長と家康の連合軍が長篠の戦で武田勢を破ってはいるが、実質的には信長にとって防衛戦であり、まだ信長の地位は安泰とは云えなかった。
7年後に勝頼を滅ぼして初めて信長は天下統一を実感し、自分の配下を地方の拠点に配置したのである。
それはどこかの損保と同じように、地区本部制の導入であった。
北陸本部長が柴田勝家、中国本部長が豊臣秀吉、静岡本部長が徳川家康、関東本部長が滝川一益、そしてお膝元の近畿本部長が明智光秀だったのである。
このように全国をほぼ手中に収め、腹心の配下を前線に送り込んだ信長にとって、もはや怖いものはなかった。安芸、長州の覇者である毛利対策も秀吉が援軍を要請していたが、秀吉が攻めているので心配はいらなかった。
これが危機を招いた第一の油断である。
しかも、京都には嫡男の信忠を二条城に配置している。さらに、市内には信長の旗本衆を分宿させている。つまり、京都の街は信長の管理下にあるのも同然であったのである。
こういう状況になれば、信長ならずも近習、小姓だけで泊まろうと考えても不思議ではない。つまりは、覇者になったという驕りが信長の身を滅ぼしたのである(この項続く)。
信長の危機管理能力(中篇)
2.無能な配下
次に、地区本部制を敷いたので、優秀な部下は皆、地方に配置していたことである。畢竟、信長の周りには無能な配下ばかりとなったのである。イエスマンばかりと考えても良いが、地区本部長も皆、イエスマンである(ノーと云えば、信長に殺される)。
直接の理由は、現場を知る人間を身の回りに置かなかったことである。
今風に云えば、出張に当たり秘書室長のみを随行させ、営業本部長を同行させなかったことが第二の油断である。危機管理を知る者を身近に置かなかった付けが回って来たのである。
3.推理
<1>少人数でも良いと考えた理由
しかし、以上のような理由があったにせよ、猜疑心が強く、合理的に物を考えた信長である。少人数で良しとした理由が他にもあったと考えるのが自然である。
その答えが、信長自らが火を放ち、隠れたとされていることから、本能寺に抜け穴があったのではないかとする説である。
つまり、信長は有事の際にはそこから脱出すれば良いという危機管理を考えていたのである。そう思えば、護衛は少人数でも差し支えない。
小泉元首相が読んでベストセラーになった「信長の棺」はそう云う説を採っている(ただし、その穴は別の理由によってふさがれていたというストーリーになっている)。
<2>信長は光秀軍を自分の警護にあたらせた
冷静に考えれば、如何に光秀とはいえ、1万3千名の大軍を率いて本能寺を急襲するには様々な無理があっただろうと推測される。
しかし、信長自らが光秀軍を自分の警護のために呼んだと考えれば、腹にストンと落ちる。また、信長が誰かを(例えば、家康を)攻撃させるために光秀を本能寺に結集させたのだとしたら、それも理解できる話しである。
ところが、信長に呼ばれた光秀はそれを絶好のチャンスとして謀反を起こしたのである。
その根拠として、スペインのアビラ・ヒロンが記した「日本王国記」によると、明智が自分を包囲したと知らされた信長は、口に指をあてて「余は自ら死を招いた」と云ったとされる(この項続く)。
信長の危機管理能力(後篇)
4.光秀単独犯か黒幕に秀吉がいたのか
さて、ミステリーの基本は、事件が起こって誰が一番得をしたかである。
このルールに従えば、最も得をしたのが天下を取った秀吉である。光秀と秀吉の出自はお互いに不明である。太閤記などに書いてあることは皆、後世の創り事である。
実は二人は若いときからの知り合いで、光秀と秀吉に密約があったとしてもおかしくはない。実際、秀吉の中国からの大返しは出来過ぎである。また、秀吉が行った光秀の首実験も不可解なことばかりである。光秀はその後も生きており、75歳まで生存していたという墓まである。
だが、史実を丹念に集めた解釈では、秀吉陰謀説を始めとする各種黒幕説は一蹴される。
光秀の母親を信長が殺したとか、信長が光秀の国替えをしたとか、光秀が家康の供応に失敗したとか、武田を滅ぼした後で光秀が「骨折りをした」と部下に云ったら信長から足蹴にされたなどは全て創り事である。
結局、信長殺しの首謀は光秀であり、単独犯とされるのが行き着く答えである。
おいらは思うのである。信長が死ななければ、一地区本部長であった光秀に社長の目はない。信長は長男信忠を後継者に決めていた。
ところが、偶然、社長の座を射止めるチャンスが光秀の前に現れたのである。
そうであれば、戦国の武将である。本能的に社長になろうとしたとしても不思議ではない。信長が危機管理さえしていれば、そうはならなかっただけの話しである。
だが、その光秀も自身の危機管理能力はゼロであった。後先を考えておらず、三日天下に終わる。危機管理、今更ながら大切なものだと思わざるを得ない(この項終わり)。
徳川慶喜はどこの企業にもいる保身しか考えない役員と同じか(前篇)
徳川第15代将軍慶喜については、評価が極端に分かれている。優秀説と無能説である。
国営放送大河ドラマの主人公にまでなった人物である。幕末における幕府最後の切り札でもある。だから、無能な将軍であったはずはないと思いたいのだが、不可解なことが多い人物であったようだ。
過日、おいらは伊藤潤(「山田風太郎賞」受賞作家)の慶喜に関する記事「敗者列伝(産経新聞15年12月24日、16年1月7日)」を読み、この人は本当に情けない人だと思ったので書く。
結論から述べれば、どこの企業にもいる保身しか考えない役員と同じのようである。
さて、慶喜を述べるためには、まず、幕末をおさえておく必要がある。
幕末をおさえておくポイントの1つ目は、「攘夷か開国か」である。当時の庶民感覚での常識は攘夷である。そりゃそうだろう、外国が攻めてくれば守るのが当然である。
しかし、当時の徳川幕府は外国の力を知っており、戦争をすれば日本が負けることを熟知していた。幕末は海外からの情報が入る時代になっていたのである。
だから、時の政権は攘夷などありえず、開国路線が既定であった。
ところが、先ほど述べたように世間の感覚は違う。実際、長州は下関砲撃事件を起こし、薩摩は薩英戦争で攘夷を行ったが、双方とも惨敗する。彼らも日本は力をつけるしかないと開国派に転ずるのである。
2つ目のポイントは、「尊王かどうか」である。
つまり、朝廷をどうするかである。幕府は、海外との交渉期限引き延ばしの理由に、朝廷の意向を確認する必要があると「嘘も方便」を使った。
しかし、これが裏目に出た。徳川三百年が続いた理由の一つに朝廷から政治の実権をはく奪していたことがあるが、この不文律が「嘘も方便」という蟻の一穴により破られてしまったのである。
朝廷は幕府にとっても討幕派にとっても「玉(ぎょく)」となり、朝廷を味方にした方が天下を取ることになった。あまつさえ、その朝廷自身が政治に目覚め、自らの意思で動き始めたのである。
そこで、幕府は公武合体策として孝明帝の妹、和宮を将軍家茂に降嫁させたのだが、その代償として攘夷の実行を約束させられたのである。
そういう時代に家茂が病死し(一説には毒殺)、慶喜に将軍職の座が転がり込もうとするのである(この項続く)。
徳川慶喜はどこの企業にもいる保身しか考えない役員と同じか(中篇)
しかし、慶喜は政治の表舞台に突然出てきたわけではない。
彼は水戸藩主、徳川斉昭の七男で御三卿の一橋家を相続し、一橋慶喜となっていた。
慶喜は13代将軍家定の後継に浮上するが、井伊直弼は家茂を次期14代将軍とし、慶喜の話しは立ち消えとなった。だが、井伊直弼が暗殺されることにより、慶喜は将軍後見職という政治の表舞台に出ることになったのである。
しかし、評判はよくなかった。頭は確かに切れるのだが、今後の世の中をどうするかという大局観がなく、徳川のことしか考えることができない。
このため、文久3年(1863年)の参預会議(中川宮、島津、伊達、春嶽が出席する政策決定会議)では公武合体の容認を考えていた薩摩の島津と慶喜が対立する。
席上、泥酔した慶喜は同席した全員を罵倒し、参預会議を潰してしまうのである。
これにより、徳川と共存することを模索していた薩摩藩は倒幕一辺倒となるのだから、慶喜のしたことは幕府にとって真逆の結果となった。
しかも、慶喜は状況が変わると、その場しのぎで説をころころと変えるのである。目先のことしか考えない無能な管理職の典型で、朝廷、幕閣、薩摩藩などから変節漢とバカにされるようになる。
慶応2年(1866年)、慶喜と幕府の政治生命は、長州征討(第2次)での圧敗によってほとんど消えようとする。
慶喜がそれでももったのは「困ったときの勝頼み(神頼みのシャレ)」といわれ、慶喜は長州藩との敗戦処理を勝海舟に命じたからである。
勝は現地に赴き、命がけで停戦をまとめた。勝の幅広い交友関係と人望によって乗り切ったのである。
このとき勝は、事前に慶喜から「諸侯会議の開催」という一札をとっていたのだが、その約束は慶喜に反故にされる。慶喜というのはそういう男なのである。勝の長州藩に対するメンツは丸つぶれとなり、長州も倒幕となる。
一旦約束したことを守らない指導者で最近思い出すのは菅直人元首相だが、そういう人物の周りには誰も近寄らなくなる(この項続く)。
徳川慶喜はどこの企業にもいる保身しか考えない役員と同じか(後篇その1)
徳川幕府は沈みゆく舟となり、その最中に家茂が亡くなる。
当時は慶喜のほかに第15代将軍となる人材がいないので、すぐに将軍職を受ければいいのだが、慶喜はこれを固辞するのである。
本来なら幕府の一大事であり、政治の空白は避けたいところだが、慶喜はぐずぐずと将軍職就任を断り続け(ただし、徳川宗家は直ぐに相続した)、4か月の将軍不在の後にこれを受けるのである。
この理由ははっきりとしていない。だが、一説によると、恩を売った形で将軍になることで幕府の中での地位を有利にする狙いがあったという。
しかし、徳川という船はその間も沈み続けていたのだから徳川幕府と日本国の将来を考えると、直ちにトップを引き受けるべきであった。
このときも慶喜は自分のことしか考えなかったのである。将軍職を受けた方が得か損か、である。結局、もったいをつけて受けることが得だと思ったのである。徳川という船はその間も沈み続けていたのだから質が悪い。
極めつけは、大政奉還後の鳥羽伏見の戦いで江戸へ突然逃げ帰ったことである。
鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力が十分にあり、勝利の可能性があったにもかかわらず、慶喜は指揮する兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と厳命しながら、自らは陣中に伴った側近や妾などを船に乗せて江戸へ退却したのである。
これは例えて云えば、韓国で起きたセウォル号沈没事故の船長と同じである。こういう前代未聞のことを慶喜は平気でするのである。
では、なぜ慶喜は勝利の可能性が十分あったにも関わらず、敵前逃亡をしたのであろうか。
これについては、玉(朝廷)を薩摩に取られた時点で徳川幕府の大義名分がなくなった(徳川幕府と慶喜の政治生命が終焉)と考えた説や、薩摩を討つ覚悟はあったとしても、薩摩を討つことは朝廷を討つことと同じで慶喜にはそこまでの覚悟がなかったとする説もある。
いずれにしても、慶喜は頭が良すぎたためにこの戦いがどうなるかが瞬時に読めるのである。また、自分がどう処遇されていくのかも即座に理解するのである。頭の良い人の弊害である。しかも、慶喜は自分だけ助かればそれでよいという思考回路である。
可哀想なのは慶喜の周りにいた人たちじゃのぅ(この項続く)。
徳川慶喜はどこの企業にもいる保身しか考えない役員と同じか(後篇その2)
江戸へ戻った後、新政府軍が東征を開始したときの慶喜も同様であった。
当時の幕府にはまだ東洋一の海軍があり、海軍と陸軍とで新政府軍を挟み撃ちにすれば勝ち戦になる公算が大であった(小栗忠順などによる作戦)。
にもかかわらず、慶喜は早々と白旗を上げ、このときも勝海舟に事態収拾を丸投げし、自分は上野の寛永寺に籠って謹慎するのである。
ここでも自分さえ助かればそれでよいとしたのだが、当時の政治情勢から考えれば、勝った方に玉(朝廷)はつくのである。だから、慶喜の判断は罪深い。
これらのことで云えることは、慶喜と云う男は根っからの利己主義者であり、何か決断しないといけないときには常に保身しか考えないということである。
これは、つまり自分のためになるかどうかが判断基準であって、為政者として必要な大局観や自己犠牲という概念が欠如しており、天下国家という観点に立つことができないのである。
企業でもこういう輩が出世していることが多い。おいらのいた会社でもこの手のタイプはいたよなぁ。面従腹背でヒラメ(上しか見ない)の部下が上司にごまをすり、上司はイエスマンの方が楽なのでそういう人物ばかりを引き上げる。
挙句の果ては、トップの周りにはそういう人物だらけとなり、気が付いたときには企業は倒産である。
しかも、慶喜は明治以降の何不自由ない隠居生活において、徳川家のために死んでいった者たちへの供養を一切しなかったのである。私費で碑を建てることもなく、維新で犠牲になっていった多くの者への追悼もしなかったのである。
慶喜が第二の人生でしたことは、趣味に没頭したことと取材や講演会を頼まれても成功は全て自分の手柄、失敗は部下の責任として良い訳しかせず、自己弁護に終始し、自分の名声と名誉を守ることに徹したことである。
結局、慶喜はどこの企業にもいる保身しか考えない役員と同じだったと考えるしかない。
将軍にしては珍しい人である。いやはや、ここまでスゴイのかよ~、慶喜さん(この項終り)。
利休はなぜ切腹させられたか(前篇)
本日より三日間は、関ネットワークス情報の缶詰8月号に掲載した「利休はなぜ切腹させられたか」をお送りします。
利休はなぜ切腹させられたか
大河ドラマ「真田丸」が面白い。時代劇なのに、台詞回しや展開は現代劇仕立てである。三谷幸喜の面目躍如であるが、史実を丹念に洗っているところも評価されている。
しかし、利休が何故切腹させられたのかが、今一つはっきりしない。今回は、利休の切腹の謎に迫る。
1.実は政商だった
千利休(大永2年(1522年)~天正19年(1591年)、享年70)は、戦国時代から安土桃山時代に生きた茶人であり、わび茶の完成者として知られている。
しかし、史実を調べてみれば、その実態は堺の大商人であり、同時に秀吉の側近でもあった。
この頃の大友宗麟の書状に「内々の儀は宗易、公の儀は宰相存じ候」とあり、秀吉の私的な窓口は利休、公的な窓口は秀吉の弟である宰相の秀長が承るとある。つまり、秀吉がナンバー1で、ナンバー2が秀吉の弟、利休はその秀長についでナンバー3であった。
今で云えば、経団連会長が内閣副総理をやっているようなものであり、また、アメリカではよくあることだが、軍需産業の会長が大統領補佐になっているようなものである。だから、利休が政商だと云われても仕方がない。
2.茶道の果たした役割
ではなぜ利休は秀吉に接近したのか。これには信長と茶との関係を理解しないと分からない。当時は京を中心に茶の湯が流行り、経済力を有する商人達、特に堺衆の中で茶が流行っていた。
信長は尾張時代、京都から来た公家が織田信長の守役平手政秀の茶室に驚いたというくらい茶の湯に親しむ環境にあったのである。
その信長が茶器に価値を見出したのは永禄11年に上洛した際、松永久秀や今井宗久に名物の茶器を献上されたのがきっかけだとされる。
信長はこのとき茶器の価値に着目し、また、天下統一後に与える土地には限界があり、その代替として茶器を利用するシステムを考えるようになる(この項続く)。
利休はなぜ切腹させられたか(中篇)
2.茶道の果たした役割(続き)
その完成形が「御茶湯御政道」である。
これは家臣が自由に茶の湯を開く事を禁じ、家臣に対する論功行賞として許可を与えた者のみに茶の湯を開けるようにしたことをいう(茶湯許可制)。
その結果、家臣には茶器、茶湯開き許可をもらうことが一国一城をもらうことと同等、あるいはそれ以上という価値観を植え付けることに成功したのである。
それを示すエピソードとして有名なのが滝川一益の例である。彼は武田攻めの結果、関東官領職と上野一国、信濃の二郡を褒美にもらったが、本当はなすび(茶器)をもらいたかったのである。
その本人は、官位ももらって一国一城の主になったにもかかわらず、関東に飛ばされたと落胆している。
また、茶会を開く権利を与えられることは最高の名誉であり、それは織田家の重鎮の証ともなったのである。だから、茶会を開くことを許された秀吉はそのことを思い出しては涙して喜んでいたという。
3.秀吉の筆頭茶頭
その信長が堺を直轄地としたときに利休は茶頭となり、本能寺の変後は秀吉の筆頭茶頭に就任する。
秀吉も信長の御茶湯御政道を踏襲したため、利休の地位は不動のものとなる。戦国期の茶の湯はピークを迎え、多くの戦国大名はこぞって利休の弟子となるのである。
4.安土桃山文化=「華の美」の終焉
ここで、信長の目指した茶の湯をおさらいすると、唐、高麗や南蛮の輸入品などを「華の美」として愛でる、ピカピカの美である。
西洋がルネッサンスの時代に、東洋の島国では豪華絢爛な安土桃山文化が誕生していたのである。他方で、利休の美は一切の無駄を排した「わびの美」である。
漫画「へうげもの」では、利休は「華の美」の世を「わびの美」にするため、利害関係の一致する秀吉と手を組み本能寺の変を引き起こし、信長と「華の美」の世を終わらせている。
秀吉の天下の下で「わびの美」は隆盛を極め、利休は宿願を成就させたかのように見えたが、天下人という「箔」を求める秀吉はいつしか信長の「華の美」を再現しようとする(この項続く)。
利休はなぜ切腹させられたか(後篇)
5.突然の切腹
天正19年、利休は秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられた上、切腹させられる。「へうげもの」ではこういうストーリー展開となり、「わびの美」は終焉を迎えることになるが、あながち的を外れているとは思えない。
だが、人が死んでいるのである。美の解釈だけで暗殺や切腹とは穏やかではない。
おいらは思うのである。やはり、人を殺す理由はカネか権力闘争である。交易を独占しようとした秀吉に対し、利休が堺の権益を守ろうとしたために秀吉から疎まれたと考えると理解しやすい。
そのとき、秀長が亡くなり、豊臣政権内の不安定さから来た政治闘争に巻き込まれ、邪魔者は消せとなった可能性が高い。
しかも、権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心とが相容れなくなったと考えると腹にストンと落ちる。
秀吉が一番恐れたのは、「芸術はときとして権力に勝つ」ということを知ったからである。
ナンバー2が亡くなって、ナンバー3の利休と秀吉の器量を比べたら、芸術に素養のない秀吉が恐れをなしたことは容易に想像がつく。
実際、利休の人柄を探るエピソードとして、福島正則の話しがある。彼は細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ、利休の茶会に参加した。
茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していたという。
利休、人物だったのである。ナンバー2はいつの世も消される運命にある(この項終り)。
小心者の家康(前篇)
本日より三日間は、関ネットワークス情報の缶詰9月号に掲載した「小心者の家康」をお送りします。
小心者の家康
文学座出身の内野聖陽演じる家康像が面白い。
従来の大河ドラマや映画での家康は狸親父や狡猾なイメージなどがあったが、こうも小心者の家康を演じてくれると、少しは家康の味方をしてやらなくてはと思うほど見惚れてしまうのである。
1.増上寺に埋葬された徳川将軍
芝の増上寺は、上野寛永寺とともに徳川家の菩提所である。
増上寺には徳川家の霊廟が今も残っており、墓所には6人の将軍(家康を含まず)と10人の正室、側室が火葬せずにそのまま埋葬されている。
その増上寺が昭和33年に改修されたときに将軍家の墓も学術調査がなされ、遺体の検分が行われた。
その結果、埋葬された遺体は経年によって筋肉や内臓はほとんど消失していたが、骨格と髪は残っており、顔型の復元や身体計測が行われた。
一方、三河の大樹寺(岡崎市。大樹とは唐では将軍の意味)も徳川家と松平家の菩提所であり、位牌が祀られている。
特筆すべきは、この位牌の大きさであり、身長と同じ高さに造られているとされてきた。増上寺の調査の結果、この位牌の高さは歴代将軍の身長と同じで間違いないと判明したのである。
位牌によれば、家康の身長は159cmであり、当時の日本人の平均身長の157cm並みであったことが分かる。
2.反面教師に習う
家康は幼少期の6歳から青年期の19歳になるまで、今川と織田の人質となっている。
家康は生涯爪噛みの癖が治らなかったが、その原因は、感受性の強い少年期に人質が殺されるのを見て自分も同じ目に会うのだとの不安定な精神から来たものであろう。
家康が用心深い性格になったのもこの長い人質生活のためである。
食べ物は必ず火を通し、生ものは決して食べなかった(毒殺も恐れた)。寝所の床下には梁をめぐらし、真下から刺客が刀を突きさすことができないように工夫もした(この項続く)。
小心者の家康(中篇)
2.反面教師に習う(続き)
また、美食家の今川義元を反面教師とした。
義元は肥満体で上洛する際、体重が重すぎて馬に乗れず、輿にかつがれて移動する有様であった。
桶狭間の信長による急襲の際も肥満で動けず、すぐに首を掻かれている。
このため、玄米や大豆、味噌などを中心と粗食を常とした。また、医学知識にはうるさく、精力剤としても有名な八味地黄丸を自分で調合した。60を過ぎた家康が3人の子を儲けたのはこのおかげかもしれない。
秀吉の女狂いは有名で晩年、腎虚になって豊臣家を滅ぼしたのを見て、女色に溺れてはならないと戒めた。
家康は門外不出の秘本「医心方」を入手し、少女のような娘と同衾し「接して漏らさず」を実践したのである。
なお、秀吉が面食いで公家など高貴な女性を漁色するのに対し、家康は子供を産んだことのある後家(妊娠は大丈夫と考えた)や骨盤の大きい下女に手を出したりした。
3.梅毒
その家康も梅毒に罹患していた。
当時、梅毒は「唐瘡」「琉球瘡」と呼ばれ、鉄砲やタバコより先に日本に伝来していた。抗生物質などの治療薬がないこの時代、伝染は猛威を振るい、5人に1人は梅毒などの性病に罹っていたとされている。
家康の他にも名軍師黒田官兵衛や熊本の加藤清正などもこの病にかかっていた。家康の側近、本多正信も罹患しており、最後には鼻が取れている。
ところが、医療オタクの家康は自ら梅毒の治療をし、完治したものと思われる。
その方法とは何と灸であった。家康は巨大な灸を自らに据え、熱さにもだえ苦しみながらも、熱に弱いスピロヘータを退治している。ほんまかいなと思うのだが、そういう見解も発表されている(この項続く)。
小心者の家康(後篇)
4.長生きの秘訣
家康が長生きした理由は簡単である。
生きる目的がはっきりしていたからである。過酷な戦国を乗り切り、天下を獲るためには長生きが最善の方法と知っていたのである。
東京都知事になれなかったドクター中松氏が石原慎太郎氏や黒川紀章氏と戦ったとき、「彼らの方が先に死ぬ。私は長生きするので最後には私が勝つ」と云ったが、その本人が病魔に倒れては洒落にならない。
また、「徳川実記」によれば、家康は幼少より武術を好み、69歳でも川泳ぎをするなど体を動かすことが大好きであった。
最も好んだのが軍務訓練ともなる鷹狩(現代のゴルフに匹敵)で、70歳を過ぎても朝早くから馬に乗って山野を駆け巡るから快食、快便、快眠となり、夜早く寝るようになるから女色を避けるようになった。
こうしてみると、長生きの秘訣は、人生に目的を持つこと、粗食、適度な運動、女色を避けるということであろうか。
5.特別付録 秀吉、信長の死因
家康(享年75歳)の死因は胃がんと考えられている。
では、秀吉(享年62歳)の死因は何であろうか。
晩年、急に痩せた(失禁もあった)ことから、大腸がんなどが疑われる。しかし、加齢による認知症も発症しており、栄養の偏りによる脚気、腎不全、女好きの過淫が祟った腎虚や脳梅毒なども考えられる。
この中で一番やっかいなのが脚気である。脚気は明治になっても不治の病であり、帝国陸軍がやっと脚気の原因に気付くのは大正になってからであった。美食家の秀吉が脚気であった可能性は高い。
信長(享年48歳)は本能寺で自刃しているが、持病に高血圧があり、塩辛いものばかり食べていたから本能寺の変がなくてもあと3年程度で高血圧症によって死亡していたという説もある。
秀吉も信長も、自分の健康管理に関してのリスク管理能力はゼロであった。それに対し、小心者の家康は用心深く、万事慎重なことからリスク管理能力にたけ、天下を奪うことができたのである(この項終り)。
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